ヴァルター・ヴェーファー
ヴァルター・ヴェーファー(Walther Wever、1887年11月11日 - 1936年6月3日)は、ドイツの陸軍軍人、空軍軍人。ドイツ空軍(ルフトヴァッフェ)草創期の中心人物の一人で、第二次世界大戦前に空軍参謀総長を務めたが、事故死した。最終階級はドイツ国防軍空軍中将。
来歴
[編集]現ポーランド領のポーゼン州ヴィルヘルムスオルトに生まれる。祖父はプロイセン王国最高検察官を務めたカール・ゲオルク・ヴェーファー、父はベルリン植民銀行頭取を務めたアルノルト・ヴェーファーである。アビトゥーア合格後、士官学校に入る。第一次世界大戦中は柔軟防御を考案し、日増しに強まる連合軍の圧力から戦線をよく守った。そのため1917年にパウル・フォン・ヒンデンブルク元帥率いる陸軍最高司令部作戦部に転属となった。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位を決断した際はその傍近くにあり、流血を避けるためオランダへの亡命を皇帝に勧めた一人であった。またヴァイマル共和政で民主的に選出された権力者に皇帝同様に仕えるべきだと賛成した最初の士官の一人でもあった。
1919年、ヒンデンブルクの命により元参謀次長エーリッヒ・ルーデンドルフの回顧録を筆記した。ついで第I軍管区参謀部に転属となったが、そこでカップ一揆に遭遇した。さらにバイエルン人以外では初めて第7師団参謀となり、ミュンヘン一揆にも遭遇した。ついで兵務局に復帰し、1931年から陸軍教育部長を務めた。
1933年9月1日、新設のドイツ航空省に出向し、航空統帥局長に就任した。1935年3月の徴兵制復活に伴い、公にドイツ空軍参謀総長に就任した。初代参謀総長として、ジュリオ・ドゥーエの思想に基づいた戦略・戦術航空戦理論を発展させ、近代的空軍建設に必要な技術的前提を定めた。空軍の戦略的運用目的を充たすため、急降下爆撃機や戦闘爆撃機、小型爆撃機のほかにウラル爆撃機計画と名付けた四発爆撃機を開発させた。しかしヒトラー政権が近い将来に戦争を計画していると気付くや、大型爆撃機開発を停止させた。死の数週間前のことだった。
また1935年にはヴェルナー・フォン・ブロンベルク国防相とともに国防省陸軍大学の開設を実現し、選抜された士官たちに1年間戦略や戦争経済、政治を学ばせた。ヴェーファーが事故死し、ブロンベルクが罷免されると、この業務はヘルマン・ゲーリングの指揮下に置かれた。
1936年6月3日、自ら操縦桿を握っていたHe 70がドレスデン近郊の飛行場で離陸直後に墜落し、ヴェーファーは死亡した。いくつか不審な点があったものの、事故によるものか何者かの仕業による墜落だったのかはこんにちまで明らかにされていない。
顕彰
[編集]1936年6月6日、ゴータの航空戦闘団に「ヴェーファー将軍」の通称が付され、またミュンヘンの兵舎に「ヴェーファー将軍兵舎」の名称が、またポツダム、ライネ、ハイルブロンに建設されたトーチカにヴェーファーの名が冠された。一部のトーチカやヴェーファーの名が冠された通りは現在も残っている。
家族
[編集]ヴェーファーの2人の息子は共に空軍士官として第二次世界大戦に従軍し、戦闘機パイロットだった次男ヴァルターは1945年4月に騎士鉄十字章を受章したが、敗戦直前に戦死した。