「ジミー・マカロック」の版間の差分
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2016年10月17日 (月) 13:56時点における版
ジミー・マカロック | |
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基本情報 | |
生誕 | 1953年6月4日 |
死没 | 1979年9月27日 (26歳没) |
ジャンル | ロック, ハードロック |
職業 | 音楽家, 作曲家 |
担当楽器 | ボーカル, ギター, ベース |
活動期間 | 1967-1979 |
共同作業者 | ワン・イン・ア・ミリオン, ウイングス, サンダークラップ・ニューマン, ストーン・ザ・クロウズ, スモール・フェイセズ, The Dukes, Blue |
ジェームズ「ジミー」マカロック(James 'Jimmy' McCulloch、1953年6月4日 - 1979年9月27日)は、スコットランドのグラスゴー出身のミュージシャンである。1974年から1977年までポール・マッカートニーのウイングスのリード・ギターを務めたことで最も知られている。それ以前、マカロックはグラスゴーのサイケデリック・バンド、「ワン・イン・ア・ミリオン」、「サンダークラップ・ニューマン」、「ストーン・ザ・クロウズ」のメンバーとして活動した[1]。彼はまた多くのミュージシャンのアルバムに参加し、ジョン・エントウィッスルの『ウィッスル・ライム』(1972年)ではピーター・フランプトンと共に「"Apron Strings"」「"I Feel Better"」でリードギターを演奏した。マカロックはまた、ロジャー・ダルトリーの『One of the Boys』にも参加した。彼はザ・フーのメンバーやサンダークラップ・ニューマンのメンバーと大変親しかった。シャドウズのハンク・マーヴィンは11歳の彼をバックアップした。彼の兄弟、ジャック・マカロックはドラム奏者である。
生い立ちと経歴
マカロックはスコットランドのダンバートンに生まれ、クライドバンクとカンバーノールドで成長した。ジャンゴ・ラインハルトに刺激を受け、11歳のときにギターを弾き始めた。その年に「The Jaygers」というサイケデリック・バンドを結成し、バンドは後に「ワン・イン・ア・ミリオン」と改名した。ワン・イン・ア・ミリオンはザ・フーの1967年ツアー時にサポートを務め、その年にシングル「"Fredereek Hernando"/"No Smokes"」をリリースした。2009年にリリースされたコンピレーション『Double Sight』ではこれらの曲と、バンドによるその他の曲を聞くことができる。
1967年4月、マカロックはロンドンのアレクサンドラ・パレスで開催された 14-Hour Technicolour Dream のイベントで「Utterly Incredible」、「Too Long Ago to Remember」、「Sometimes Shouting at People」と言ったバンドのリードギターを務めた[2]。その年、彼はワン・イン・ア・ミリオンのギタリストとしてアッパー・カットやその他のロンドン市内の会場におけるライブでギターを演奏した。
マカロックがその名を知られるようになったのは1969年、ザ・フーのピート・タウンゼントの友人であるアンディ「サンダークラップ」ニューマン(ピアノ)、作曲家のジョン「スピーディ」キーン(ボーカル、ドラム)と共にバンド、サンダークラップ・ニューマンを結成したときであった。バンドはその年、タウンゼントのプロデュースによるシングル「サムシング・イン・ジ・エアー」で7月に英国チャートで1位を獲得した。このヒットでマカロックは「英国1位獲得曲で演奏した最年少のギタリスト」となった。サンダークラップ・ニューマンはアルバム『Hollywood Dream』を発表したが、シングルの英国1位に続くような成功は得られなかった。バンドは1971年1月から4月中旬までイングランド、スコットランド、オランダ、スカンジナビアでツアーを行い、数週間後に解散した。
1971年10月、マカロックはジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズのイギリスおよびドイツにおけるライヴでギターを担当した。10月31日、自身のバンド「ベント・フレーム」がロンドンでステージデビューを果たす。バンドは間もなく「ジミー・マカロック・バンド」と改名し、1972年2月に「Leslie West's Mountain」のサポートとしてイギリスおよびスコットランドでツアーを行った。その時までに彼はセッション・ミュージシャンとしてクラウス・フォアマン、ハリー・ニルソン、スティーブ・エリス、ジョン・エントウィッスルといったミュージシャンとのセッションに参加している。ました。
1972年5月、ストーン・ザ・クロウズのギタリスト、レス・ハーヴェイがステージ上の事故で感電死したため、マカロックは6月にハーヴェイの代わりとして加入する。マカロックはアルバム『Ontinuous Performance』完成のため「"Sunset Cowboy"」「"Good Time Girl"」でギターを演奏した。ストーン・ザ・クロウズは1973年6月に解散した。
1973年、マカロックはジョン・キーンのアルバム『Previous Convictions』でギターを演奏した。また、ブルーに加わってギターを演奏したり、ブライアン・ジョゼフ・フリエルのデビューアルバムで「ザ・ファントム」の仮名でギターを演奏している。
1974年8月、マカロックはポール・マッカートニーのウイングスに加入する。マカロック加入後初めて発表された曲はシングル「ジュニアズ・ファーム」(1974年)である。
マカロックは『ヴィーナス・アンド・マース』の反ドラッグソング「メディシン・ジャー」を作曲し、『スピード・オブ・サウンド』でも「ワイノ・ジュンコ」を作曲した。どちらの曲も彼がリードボーカルを担当している。元ストーン・ザ・クロウズのドラマー、コリン・アレンが両方の曲の歌詞を担当した。
ウイングスでの活動と並行してマカロックは兄弟のジャック(ドラムス)、デイヴ・クラーク(ベース、キーボード、ボーカル)と共に「ホワイト・ライン」を結成した。ホワイト・ラインは数回のギグを行い、シングル「"Call My Name"/"Too Many Miles"」をリリースした。13曲入りのアルバム『White Line - Complete』は1994年にクラークのレーベル、マウス・レコードからリリースされた[3]。ホワイト・ラインはまた、1976年11月27日にイギリスのテレビ番組「Supersonic」に出演している。マカロックはこの他にも、「The Khyber Trifles」と共に2曲を録音(未発表)、ロンドンやグラスゴーでのライヴにも参加した。1977年にはロイ・ハーパーの『Bullinamingvase』やリッチ・マーティンの『Bleached』などに参加している。
1977年9月にマカロックはウイングスを脱退、再結成したスモール・フェイセズに加入し、同月に行われたイギリスでのツアーに参加した。アルバム『78イン・ザ・シェイド』(1978年)でギターを演奏している。1978年初めにマカロックはブライアン・ロバートソン、ジミー・ベイン、ケニー・ジョーンズと共に「ワイルド・ホーセズ」を結成したが、その春には脱退した。79年には「ザ・デュークス」に参加した。彼の最後の曲は「"Heartbreaker"」であり、アルバム『The Dukes』(1979年)に収録されている。
メロディックで強くブルースで影響を受けたギタリストであったマカロックは、通常ギブソン・SGとギブソン・レスポールを演奏した。マッカートニーがピアノやアコースティック・ギターを演奏する場合、彼はベースを演奏した。
死
1979年9月27日、ロンドン西部にあるメイダヴェイル(Maida Vale)の自宅で死亡した。死因はヘロインの過剰摂取による心臓発作である。26歳だった[4]。
参照
- ^ “"Jimmy McCulloch" by Miguel Terol”. The Musicians' Olympus (11 November 1997). 18 December 2007時点のオリジナルよりアーカイブ。29 April 2008閲覧。
- ^ Article: Bell: Performance puzzling...and a plastic past, by Ian McDonald. New Musical Express, issue dated 25 November 1972.
- ^ Mouserecords.kastoffkinks.co.uk
- ^ Paul McCartney: A Life By Peter Ames Carlin. Simon & Schuster. p.248