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2016年7月27日 (水) 07:27時点における版
須藤 五郎(すどう ごろう、1897年9月14日 - 1988年11月18日)は、日本の音楽家、政治家。元日本共産党参議院議員(4期)。筆名は鳥羽英夫。
来歴
三重県鳥羽市出身。旧制東京音楽学校(東京藝術大学音楽学部の前身)を卒業後、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)で教鞭を執るかたわら、1922年からは宝塚歌劇団の作曲家、指揮者に就任。1928年に発生した三・一五事件で日本共産党中央委員会が壊滅する中、地下活動を続ける党に対し資金援助を行ったため、1930年2月に検挙され投獄される。留置場で作曲した「しぐれに寄する抒情」は後に三浦環により愛誦された。1935年にドイツに渡りゲオルク・シューマンに師事[1]。1938年から1939年にかけてドイツ、ポーランド、イタリアの各都市で行われた宝塚歌劇団第1回ヨーロッパ公演では指揮を担当する楽長となる[2]。
戦後は宝塚労働組合を結成し、委員長となる(副委員長は春日野八千代・天津乙女)が不当解雇の憂き目に遭う。1948年に共産党に入党、1949年11月に大阪で結成された「関西勤労者音楽協議会」(関西労音)の初代会長となる。1950年6月4日の第2回参議院議員通常選挙で全国区から出馬し初当選。以後1959年、65年、71年の各参院選において、初当選時と同じく全国区から立候補し当選を果たす。この間党内では国会対策委員長や名誉中央委員なども歴任した。また、芸術家としての立場から、同僚の瀬長亀次郎、古堅実吉両衆院議員らとともに、国立劇場おきなわ(沖縄県浦添市で2004年1月開場)設立に尽力したことでも知られる。
1988年11月18日、急性呼吸不全のため、大阪府堺市の同仁会耳原総合病院で死去。91歳。
主な作品
宝塚歌劇団
映画
その他
参考文献
- 『君泣くやおなじ心に 宝塚・労音・わが道』須藤五郎(民衆社、1988年11月刊)
- 「新訂 政治家人名事典 明治-昭和」(日外アソシエーツ、2003年)
- 『水晶の夜、タカラヅカ』岩淵達治(青土社、2004年11月刊)
脚註
- ^ 細川周平・片山杜秀 監修『日本の作曲家 近現代音楽人名事典』日外アソシエーツ、2008年、375頁。ISBN 978-4-8169-2119-3。
- ^ 『夢を描いて華やかに 宝塚歌劇80年史』宝塚歌劇団、1994年、371頁。ISBN 978-4-924333-11-6。