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2016年6月8日 (水) 03:31時点における版
仲田龍 | |
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プロフィール | |
リングネーム | 仲田龍 |
本名 | 仲田龍 |
身長 | 168cm |
体重 | 84kg |
誕生日 | 1962年3月14日 |
死亡日 | 2014年2月15日(51歳没) |
出身地 | 東京都板橋区 |
所属 | プロレスリング・ノア |
デビュー | 1980年4月2日 |
仲田 龍(なかた りゅう、1962年3月14日 - 2014年2月15日)は、日本のプロレスリング・ノア所属・リングアナウンサー。元ジャイアント馬場専属秘書。東京都板橋区出身。愛称は「龍さん」。
2007年までは渉外部長であったが、2008年から統括部長のポストに移っている(渉外部長の後任は西永秀一)。
本人の方針は「身の丈に合った事をやらないと、人は付いてこない」。座右の銘は「地道が一番、コツコツやるのが一番」。
2014年2月15日、心筋梗塞により死去した。51歳没。
経歴
中学2年の時から高校卒業まで、全日本プロレスのリング設営のアルバイトを行う。高校卒業と同時に全日本の子会社であるジャンボ鶴田社長のファミリー企業に就職し(後に全日本本社に移籍)、1980年4月2日の木更津倉形スポーツ会館・百田光雄vs大仁田厚でリングアナデビュー。原軍治の後釜をと期待された。この若手時代、仲田に遅れて三沢光晴が新人選手として入団。最初は仲田が三沢を「喋らない奴だな」、三沢は仲田を「嫌な奴だな」と思い、双方あまりイメージは良くなかったという。だが、越中詩郎、冬木弘道、仲田、三沢のグループが「仲良し4人組」として、合宿で一緒に飲んだり、みんなで海に遊びに行ったりする仲になり、次第に打ち解けていった。
若手時代、ファンだった松田聖子のコンサートを見に行った際、スモークやカクテルライト、レーザー光線を使った華やかな演出を見て「これをうちでも出来ないだろうか」と会社に企画書を提出。あっさり却下されている(『NOAHを創った男 -三沢光晴の参謀-』より)。
また、ジャイアント馬場の秘書を1988年より長らく務め、仲田が秘書に就任した3年後から馬場の私生活での運転手となった和田京平と共に「助さん格さんコンビ」としても活躍。病状を公表しておらず、亡くなった時にも全日の人間には誰一人知らされなかった馬場の死だが、身内以外では唯一、和田と共に馬場を看取り、馬場が余命幾許もないと告知されたときには近所の神社でお百度を踏んだという(『人生は3つ数えてちょうどいい』より)。 和田が「龍は馬場さん命の男」と語る通り、大変馬場のことを尊敬しているとされる。引退興行や追悼番組では、号泣しながら「赤コーナー、300ポンド、ジャイアント馬場」とコールを行なった。現在でもニューヨークを訪れると、馬場が見たであろう風景や歩いたであろう道を見たくて、車で移動せずに一人で歩くと言う[要出典]。
三沢とは気心の知れた仲で、全日離脱後は三沢と共に新団体設立に尽力し(詳細は三沢光晴項目参照)、ノアを立ち上げ。ノアでは数々の新企画を提案した。
週刊プロレス増刊三沢光晴追悼号のインタビューにて、2008年末でリングアナウンサーとしての契約を終了、事実上引退をしていたことが本人の口から語られた。三沢が生存していた場合、ほぼ1年かその前後を目処に引退する予定であり、彼の引退試合のアナウンスをやりたいという本人の希望により、東京での興業に限り特別にリングアナとしての活動を続けていた。本人は最期の場にいられなかったことを非常に後悔している。
三沢死去後の新体制では相談役となったが、2009年暮れに社長の田上明からの要請によりゼネラルマネージャに就任した。しかし、暴力団関係者との交際が明らかになったため、2012年3月23日に仲田の後に相談役となっていた永源遥とともに一般社員への降格が発表された[1]。
2014年2月15日、心筋梗塞のため死去した[2]。関係者によると12日から連絡が取れなくなり家族が捜索願を出していたが、15日に愛知県内の高速道路サービスエリア内駐車場の車の中で死亡しているのが発見されたという[3]。
渉外部長としての働き
2005年11月、「今、元WWEの選手達が新日本プロレスに上がってますけど、ファンの方が望むなら、現役のWWE選手がノアに上がれるように働きかけてみます」と、壮大なスケールのプランがあることを明らかにした。確かに全日本時代からジョニー・エース(現WWE副社長)とは旧知の間柄ではあるが年月が経った現在においても何の続報も無いため実現は限りなく低いと思われる。ただし、WWEからは選手へのオファーはあり、2008年森嶋猛と潮崎豪がWWEのダーク・マッチに参戦している。
「若手選手育成を目的としたノア別ブランドでの定期開催(プロレスリング・セム)」の実現や、「ジュニア選手のみの大会」「日本人のみで回るツアー(シリーズ)」「アメリカに現地法人を置く等の本格的な海外進出」といった新しいプランも温めている。
「プロレスラーがプロレスラーでいられなくなった際、ちゃんと食べていけるように引退後のことを考えておけよ」とレスラーに話すのが口癖。その一環として秋山準が2005年より会社を立ち上げミネラルウォーターの販売をしている。
第二回ディファカップの話をZERO1-MAXから持ちかけられた際「全面協力しますよ」と日本テレビに話を持って行き、共催という形になったほか、2006年2月に行われた健介officeの自主興行で小橋建太の出場を打診された際にも協力。全日本の木原文人リングアナ(仲田の元後輩)が体調不良で前日、急遽出られないと決まった際には、北斗晶から前日の夜に代役を打診されたが、快くリングアナを務めている。その他、王道プロレスを看板に掲げていたキングスロードが、その看板との狭間で窮地に追い込まれていた際には、協力を約束。同団体の興行に三沢他4選手を派遣した。
ZERO1-MAXを運営するファースト・オン・ステージ社長である中村祥之は、「ボクは龍さんの外部の弟子」と発言していた。中村は何かイベントを開催する際、まず仲田に話を持って行き、相談することが多く、ゼロワンにノアと絶縁関係にある大森隆男が所属していた時期も会社同士としては友好関係は続いていた。このことがグローバル・レスリング連盟発足への足がかりとなったが、現在GPWAは機能しておらず、ZERO1-MAXとも表立った交流は見られていない。
関連書籍
- 「NOAHを創った男 -三沢光晴の参謀-」仲田龍・本多誠共著(ベースボール・マガジン社、ISBN 458310040X)
出典
- ^ 弊社役員と反社会的勢力との交際と今後の反社会的勢力排除に関する取組みについて プロレスリング・ノア 2012年3月23日閲覧
- ^ 訃報 プロレスリング・ノア 2014年2月18日閲覧
- ^ ノア元リングアナ 仲田龍氏が死去、51歳…団体旗揚げに尽力 スポーツニッポン 2014年2月19日