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「土佐神社」の版間の差分

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{{神社
{{神社
|名称 = 土佐神社
|名称 = 土佐神社
|画像 = [[画像:Tosa-jinja02s3872.jpg|250px]]<br/>拝殿(重要文化財)
|画像 = [[File:Tosa-jinja02s3872.jpg|300px]]<br />拝殿(国の[[重要文化財]]
|所在地 = [[高知県]][[高知市]]一宮しなね2丁目16-1
|所在地 = [[高知県]][[高知市]]一宮しなね2丁目16-1
|ISO = JP-39
|位置 = {{ウィキ座標2段度分秒|33|35|33|N|133|34|37|E|region:JP-39_type:landmark|display=inline,title}}
|緯度度 = 33|緯度分 = 35|緯度秒 = 33.44
|祭神 = [[アヂスキタカヒコネ|味鋤高彦根神]]<br/>[[一言主|一言主神]]
|経度度 =133|経度分 = 34|経度秒 = 37.25
|社格 = [[式内社]](大)<br/>[[土佐国]][[一宮]]<br/>旧[[国幣中社]]<br/>[[別表神社]]
|祭神 = [[アヂスキタカヒコネ|味鋤高彦根神]]<br />[[一言主|一言主神]]
|創建 = (伝)[[雄略天皇]]年間
|神体 =
|社格 = [[式内社]](大)<br />[[土佐国]][[一宮]]<br />旧[[国幣中社]]<br />[[別表神社]]
|創建 = (伝)第21代[[雄略天皇]]4年<!--[[Wikipedia:表記ガイド#年月日・時間]]に基づき、西暦表記は記載しない。以下同様。-->
|本殿 = [[入母屋造]]
|本殿 = [[入母屋造]]
|別名 = しなねさま(志奈禰様)
|別名 = 高賀茂大明神
|札所等 =
|札所等 =
|例祭 = [[8月25日]](志禰祭)
|例祭 = [[8月25日]]([[#禰祭|志那禰祭]]
|神事 = 射初祭・斎籠祭
|神事 = 斎籠祭([[3月11日]]-[[3月13日|13日]])
|地図 = Japan Kochi
}}
}}
{{座標一覧}}
{{右|
[[File:Tosa jinja Shinkomon.JPG|thumb|none|200px|楼門(神光門)]]
[[File:Tosa-jinja torii.JPG|thumb|220px|right|{{Center|鳥居}}{{Small|扁額の「土佐一ノ宮」は[[近衛文麿]]の筆。}}]]
'''土佐神社'''(とさじんじゃ)は、[[高知県]][[高知市]]一宮(いっく)しなねにある[[神社]]。[[式内社]](大社)、[[土佐国]][[一宮]]。[[近代社格制度|旧社格]]は[[国幣中社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。
[[画像:Tosa-jinja29s3872.jpg|thumb|none|200px|楼門と社殿を結ぶ表参道]]

[[画像:Tosa-jinja27s3872.jpg|thumb|none|200px|絵馬殿(左)、鼓楼(右)]]
== 概要 ==
[[画像:Tosa-jinja18s3872.jpg|thumb|none|200px|事代主神社、西御前社、大国主神社]]
[[高知市]]北東部、[[南国市]]へと通じる大坂越えの西麓に鎮座する{{Sfn|土佐神社(平凡社)|1983年}}。古くは『[[日本書紀]]』や『土佐国風土記』([[逸文]])に記述が見え、古代から中世・近世を通じて[[土佐国]]の総鎮守として崇敬された、高知県を代表する古社である。
}}

'''土佐神社'''(とさじんじゃ)は、[[高知県]][[高知市]]にある[[神社]]。[[式内社]](大社)、[[土佐国]][[一宮]]。[[近代社格制度|旧社格]]は[[国幣中社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。
代々の領主は土佐神社に対して崇敬が篤く、現在の主要社殿は[[戦国大名]]の[[長宗我部元親]]による造営、楼門(神光門)・鼓楼は[[土佐藩]]第2代藩主の[[山内忠義]]による造営で、いずれも国の[[重要文化財]]に指定されている。そのほか、祭事としては土佐三大祭<ref group="注" name="土佐三大祭"/>の1つとして知られる[[例祭]]「[[#志那禰祭|志那禰祭]](しなねまつり)」が古代から続き、神宝としては[[鰐口]]・[[能面]]・[[銅鏡]]等を今に伝えている。

== 社名 ==
現在の社名「土佐神社」は明治の改称によるもので、それ以前の史料では次のように表記される{{Sfn|都佐坐神社(式内社)|1987年}}。
* '''土左大神''' - 『[[日本書紀]]』<ref group="原" name="天武天皇4年">『日本書紀』天武天皇4年(675年)3月丙午(2日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref><ref group="原" name="朱鳥元年">『日本書紀』朱鳥元年(686年)8月辛巳(13日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>、『土佐国風土記』逸文<ref group="原" name="土左大神之子">『雅事問答』所収の『土佐国風土記』逸文「土左大神之子」(1944年発見の逸文)。</ref>。
* '''土左高賀茂大社''' - 『土佐国風土記』逸文<ref group="原" name="土左高賀茂大社">『釈日本紀』巻12「一言主神」所収または巻15「土左大神以神刀一口進于天皇」所収の『土佐国風土記』逸文「土左高賀茂大社」({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>。
* '''都佐坐神''' - 『[[日本三代実録]]』<ref group="原" name="貞観元年">『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>
* '''都佐坐神社''' - 『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]<ref group="原" name="神名帳">『延喜式』神名帳 土佐国土佐郡条。</ref>。
* '''高賀茂神''' - 『[[長寛勘文]]』。

[[中世]]・[[近世]]には一般に「'''高賀茂大明神'''」と称されており、一部には「一宮大明神」とする史料も見られる{{Sfn|都佐坐神社(式内社)|1987年}}。この「一宮」は土佐神社が土佐国の[[一宮]]であったことに由来するもので、土佐神社周辺の地名にも使用されるが、当地では「いっく」と読まれる。


明治以前の旧称は'''土佐高賀茂大社'''・'''高賀茂明神'''。現在は別して「しなねさま(志禰様)」とも呼ばれる。
[[明治]]4年([[1871年]])、[[国幣中社]]に列するに際して社名を「'''土佐社'''」と改称して現在に至っている{{Sfn|都佐坐神社(式内社)|1987年}}。地元では「しなねさま(志禰様)」とも称さている。


== 祭神 ==
== 祭神 ==
祭神は次の2柱<ref name="由緒書">神社由緒書。</ref>。
現在の祭神は以下の2柱。古くは単に「土佐大神」と称していた。
* [[アヂスキタカヒコネ|味鋤高彦根神]]
* '''[[アヂスキタカヒコネ|味鋤高彦根神]]''' (あじすきたかひこねのかみ)
*: 『[[古事記]]』では神名を「阿遅鉏高日子根神」、『[[日本書紀]]』では「味耜高彦根神」とする。特に『古事記』では[[大国主|大国主命]]と[[タキリビメ|多紀理毘賣命]]の間の子とし、別称を「迦毛大御神(かものおおみかみ)」とする{{Sfn|都佐坐神社(式内社)|1987年}}。
* [[一言主|一言主神]]
* '''[[一言主|一言主神]]''' (ひとことぬしのかみ)
*: 『古事記』では神名を「葛城之一言主大神」、『日本書紀』では「一事主神」とする。両書においていずれも[[雄略天皇]]段に登場する。『古事記』では、悪事・善事も一言で言い放つ[[託宣]]の神とするが、系譜は不詳。
*: 実際には、一言主神は大和葛城地方(現・[[奈良県]][[御所市]]周辺)において[[巫|巫覡]]を事とした集団を表す神といわれ、[[事代主|事代主命]]と同神とする説もある{{Sfn|土佐神社(平凡社)|1983年}}。なお『[[先代旧事本紀]]』では、[[スサノオ|素戔烏尊]]の子とする{{Sfn|都佐坐神社(式内社)|1987年}}。


[[中世]]における祭神の[[本地仏]]は[[阿弥陀如来]]{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=564-567}}。後述のように、祭神として味鋤高彦根説・一言主説が古くから存在するが、現在は上記のように両説を採り2神を祭神としている。
祭神は両神とも古来より[[賀茂氏]]により祀られていた神であり、賀茂氏の同族が土佐国造に任ぜられたことから当地で祀られることになったものとみられている。


=== 祭神について ===
社伝では、祭神は古くは高鴨神と呼ばれており、元は[[大和国|大和]]の[[大和葛城山|葛城山]]に坐していた。その後[[雄略天皇]]の怒りに触れて土佐に流され、はじめは[[幡多郡]]の賀茂社、そののち土佐神社へ移ったとされる。この際、[[鳴無神社]]([[須崎市]]浦ノ内) から宮を定めるためにつぶて石を投げたとされ、これが現在の土佐神社内に伝わるつぶて石の由来としている。
{{Double image stack|right|Takakamo-jinja Honden.jpg|Katusragi-hitokotonushi-jinja haiden1.jpg|220|{{Center|[[高鴨神社]](上)と[[葛城一言主神社]](下)}}{{Small|いずれも[[奈良県]][[御所市]]。それぞれ大和葛城地方にて[[アヂスキタカヒコネ|味鋤高彦根神]]、[[一言主|一言主神]]を祀る神社。}}}}
土佐神社の祭神は、古くは『[[日本書紀]]』[[天武天皇]]4年([[675年]])条<ref group="原" name="天武天皇4年"/>や[[朱鳥]]元年([[686年]])条<ref group="原" name="朱鳥元年"/>で「土左大神」と記載される{{Sfn|土佐神社(平凡社)|1983年}}。この土左大神には、在地豪族の[[都佐国造]](土佐国造)が祭祀にあたったと考えられている{{Sfn|土佐神社(平凡社)|1983年}}。


710年代から720年代の成立になる『土佐国風土記』の[[逸文]](他書に引用された断片文)では、
高鴨神がどの神にあたるかは不明で、『[[続日本紀]]』では一言主神のこととして上記の社伝同様のことが記されている。しかし一言主神は『[[古事記]]』では雄略天皇から崇められる存在として記されていることから矛盾するため、代わって同じ賀茂氏によって祀られていた味鋤高彦根尊を祭神とする説が出たとみられる。『土佐国風土記』の逸文では「祭神は一言主尊であるが、一説には味鋤高彦根尊とも」と記されている。現在は両神を祭神とする。
{{Quotation|土左の郡。郡家の西のかた去(ゆ)くこと四里に'''土左の高賀茂の大社'''(おほやしろ)あり。その神の名(みな)を'''一言主の尊'''(みこと)とせり。その祖(みおや)は詳かにあらず。一説(あるつたへ)に曰はく、大穴六道の尊(おほあなむちのみこと)の子、'''味鉏高彦根の尊'''なりといふ。|『[[釈日本紀]]』所収『土佐国風土記』逸文「土左高賀茂大社」<ref group="原" name="土左高賀茂大社"/><ref>書き下し文は『新編日本古典文学全集 5 風土記』小学館、1997年、p. 513による。</ref>}}
とあり、この頃には人格神として一言主説・味鋤高彦根説が存在した{{Sfn|土佐神社(平凡社)|1983年}}。この一言主・味鋤高彦根とも、大和葛城地方(現・[[奈良県]][[御所市]]周辺)で[[賀茂氏]]が奉斎した神々とされる{{Sfn|土佐神社(平凡社)|1983年}}。なお『土佐国風土記』の別の逸文<ref group="原" name="土左大神之子"/>では、土左大神には[[御子神]]として「天河命(あまのかわのみこと)」が、さらに天河命の娘神として「浄川媛命(きよかわひめのみこと)」があるとしている<ref name="風土記"/>。これら天河命・浄川媛命については、[[式内社]]の[[葛木男神社]]・葛木咩神社(現在は葛木男神社に合祀)に比定する説がある<ref name="風土記"/>{{Sfn|高知県の歴史(山川)|2001年|pp=47-48}}。

下って『[[続日本紀]]』[[天平宝字]]8年([[764年]])記事<ref group="原" name="続日本紀">『続日本紀』天平宝字8年(764年)11月庚子(7日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>では、大和葛城山で[[雄略天皇]](第21代)と出会った「高鴨神」が、天皇と猟を争ったがために土佐に流されたものの、[[賀茂氏]]の先祖神であったことにより天平宝字8年に[[大和国]][[葛上郡]]の本処に戻し祀られたと見える{{Sfn|土佐神社(平凡社)|1983年}}。『[[釈日本紀]]』<ref group="原" name="釈日本紀"/>([[鎌倉時代]]末期成立)では、葛城山で雄略天皇と出会ったのは「一言主神」とし、一言主は土佐に流されて土佐高賀茂大社(土佐神社)に祀られ、天平宝字8年にその神霊を葛城に戻し復祠を建てるにあたり、神霊の[[荒魂・和魂|和魂]]は土佐に留め祀ったとしている{{Sfn|土佐神社(平凡社)|1983年}}。以来、土佐神社祭神に関して一言主説、味鋤高彦根説、一言主・味鋤高彦根同一神説などが展開されている{{Sfn|都佐坐神社(式内社)|1987年}}。

上記の雄略天皇と一言主(一事主)の説話は『[[古事記]]』<ref group="原">『古事記』雄略天皇記。</ref>([[712年]]成立)や『[[日本書紀]]』<ref group="原">『日本書紀』雄略天皇4年2月条。</ref>([[720年]]成立)にもあるが、両書では土佐配流の部分が記されていない{{Sfn|土佐神社(平凡社)|1983年}}。この事実から近年の研究においては、記紀の説話が原初的なもので、『続日本紀』『釈日本紀』の土佐配流部分が後世の付加と考えられている{{Sfn|土佐神社(平凡社)|1983年}}{{Sfn|土佐神社(角川)|1986年}}{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=564-567}}。そして、この記述変化の間に大和葛城地方の豪族の[[賀茂氏]]が土佐に勢力を及ぼし、都佐国造の祀る土左大神に賀茂氏の祖先神を合祭するにあたり、土左大神の鎮座譚に雄略天皇の葛城説話を組み込んだと解されている{{Sfn|土佐神社(平凡社)|1983年}}{{Sfn|土佐神社(角川)|1986年}}{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=564-567}}。その際に配流の伝承が一言主・高鴨神ともにあったため、土左大神に合祭した神として一言主・味鋤高彦根(高鴨神の人格神)の異説が生じたと指摘される{{Sfn|土佐神社(角川)|1986年}}。また、『[[先代旧事本紀]]』<ref group="原">『先代旧事本紀』「国造本紀」都佐国造条。</ref>に見える都佐国造祖の小立足尼が賀茂氏の系譜に連なると見られることから、原始祭祀を担っていた都佐国造自体にも賀茂氏の進出受け入れの素地があったとする指摘もある{{Sfn|土佐神社(平凡社)|1983年}}{{Sfn|土佐神社(角川)|1986年}}{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=564-567}}。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 創建 ===
上記の伝承から、社伝では雄略天皇の時代の創建としている。実際の創建年代は不詳であるが、境内に「つぶて石」と呼ばれる自然石があり、古代にはこれを[[磐座]]として祭祀が行われていたものとみられている。
[[File:Tennō Yūryaku.jpg|thumb|250px|right|{{Center|[[雄略天皇]]と[[大和葛城山|葛城山]]の大猪}}]]
『[[釈日本紀]]』<ref group="原" name="釈日本紀">『釈日本紀』巻12「一言主神」。</ref>([[鎌倉時代]]末期成立)によると、[[雄略天皇]](第21代)4年2月に天皇が大和[[大和葛城山|葛城山]]にて狩りをしている最中、天皇は一言主神と出会ったが、その不遜な言動により一言主神を土佐に流した。一言主神は、土佐において初め「賀茂之地」に祀られ、のち土佐高賀茂大社(土佐神社)に遷祀された。その後[[天平宝字]]8年([[764年]])、[[賀茂氏]]の奏言により大和国の「葛城山東下高宮岡上」に移されたが、その[[荒魂・和魂|和魂]]はなお土佐国に留まり祀られている、という{{Sfn|土佐神社(平凡社)|1983年}}{{Sfn|土佐神社(角川)|1986年}}{{Sfn|都佐坐神社(式内社)|1987年}}。土佐神社側では、この記事をもって雄略天皇4年が神社の創建と伝える{{Sfn|都佐坐神社(式内社)|1987年}}。初めに鎮座した「賀茂之地」の比定地には、西方の[[賀茂神社 (黒潮町)|賀茂神社]]([[幡多郡]][[黒潮町]]入野、式内社)、賀茂神社([[須崎市]]多ノ郷)、[[鳴無神社]]([[須崎市]]浦ノ内)など諸説があるが明らかでない{{Sfn|土佐神社(神々)|1984年}}。


前述(「[[#祭神|祭神]]」節)のように、実際には在地豪族の[[都佐国造]](領域は高知県中部・東部)が原始的な祭祀を行い、その後賀茂氏が進出してその祭祀を掌握したものと考えられている{{Sfn|土佐神社(平凡社)|1983年}}。この都佐国造の本拠地には諸説があるが、『土佐国風土記』逸文<ref group="原" name="土左高賀茂大社"/>で土左高賀茂大社の東4里(約2キロメートル)に[[土佐郡]]の郡家([[郡衙]])があると見えることから、国造の役所を踏襲してこの郡家が設けられたとして、一宮周辺に比定する説が有力視される{{Sfn|土佐国(平凡社)|1983年}}{{Sfn|高知県の歴史(山川)|2001年|pp=47-48}}<ref group="注">都佐国造の本拠地の比定地には、土佐神社周辺とする説のほか、小立足尼の「小立」を「尾立(ひじ)」と見て[[鏡川]]流域とする説、地検帳に見える「カクソ村」を「国造」の転訛として高知市中須賀町付近とする説がある {{Harv|土佐神社(平凡社)|1983年}}。</ref>。一宮周辺では多くの[[古墳]]が分布するが、ほぼ全てが[[古墳時代]]後期([[6世紀]]-[[7世紀]]代)の築造で[[波多国造]]の領域(高知県西部)の前期・中期古墳よりも形成時期が遅いため、考古学的には[[ヤマト王権]]の勢力は西の幡多地域から進展したといわれる<ref>「地誌編 宿毛市 > 沿革」『角川日本地名大辞典 39 高知県』 角川書店、1986年。</ref>。
『[[延喜式神名帳]]』では「土佐国[[土佐郡]] 都佐坐神社」と記載され、土佐国では唯一の大社に列している。


なお境内には東北に「礫石(つぶていし)」が祀られており、古くはこれを[[磐座]]として祭祀が行われたとする説がある{{Sfn|土佐神社(角川)|1986年}}。また土佐神社付近にも、古墳時代後期の古墳2基があったことが知られる{{Sfn|一宮古墳群(平凡社)|1983年}}。
[[天慶]]3年([[935年]])[[海賊]]平定を祈願し霊験を現したとして、最高位となる[[正一位]]の[[神階]]を受け土佐国一宮・土佐国総鎮守として崇敬を受けた。


=== 概史 ===
[[永禄]]6年([[1563年]])兵火により社殿を焼失した。その後、[[元亀]]2年([[1571年]])[[長宗我部元親]]が四国平定を祈願して社殿を再建した。[[江戸時代]]の藩主[[山内氏]]も当社を保護し、[[土佐藩]]の[[祈願所]]とした。
==== 飛鳥時代から平安時代 ====
史実として[[六国史|国史]]に土佐神社の記載が見えるのは『[[日本書紀]]』[[天武天皇]]4年([[675年]])条<ref group="原" name="天武天皇4年"/>で、「土左大神」が天皇に神刀1口を献上している{{Sfn|都佐坐神社(式内社)|1987年}}。これは[[レガリア]](首長の政治的権力の象徴品)の献上を表し、奉斎氏族の朝廷への服属を意味するとされる{{Sfn|高知県の歴史(山川)|2001年|p=35}}。また同書[[朱鳥]]元年([[686年]])条<ref group="原" name="朱鳥元年"/>によると、朝廷から秦忌寸石勝が派遣されて土左大神に奉幣のことがあった{{Sfn|都佐坐神社(式内社)|1987年}}。


『[[新抄格勅符抄]]』<ref group="原">『新抄格勅符抄』10(神事諸家封戸)大同元年(806年)牒({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>では、[[天平神護]]元年・2年([[764年]]・[[765年]])に「高鴨神」に加えられた[[神封]]53戸のうち土佐国に20戸と記載が見え、土佐神社との関連が指摘される{{Sfn|都佐坐神社(式内社)|1987年}}。
[[明治]]4年([[1871年]])、それまで「土佐高賀茂大社(高賀茂明神)」と称していたのを「土佐神社」に改称し、国幣中社に列格した。

[[貞観 (日本)|貞観]]元年([[859年]])<ref group="原" name="貞観元年"/>には、「都佐坐神」の[[神階]]が従五位下から従五位上に昇叙されている{{Sfn|都佐坐神社(式内社)|1987年}}。『[[長寛勘文]]』によると、[[承平 (日本)|承平]]5年([[935年]])の海賊平定祈願に功があったとして[[天慶]]3年([[940年]])に全国13社に昇叙のことがあったが、その中で土佐の「高賀茂神」は正一位の極位に叙せられている{{Sfn|都佐坐神社(式内社)|1987年}}。

[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])成立の『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]<ref group="原" name="神名帳"/>では[[土佐国]][[土佐郡]]に「都佐坐神社 大」と記載され、[[式内大社]]に列している{{Sfn|都佐坐神社(式内社)|1987年}}。土佐国においては唯一の大社になる{{Sfn|都佐坐神社(式内社)|1987年}}。『[[和名抄]]』に見える地名のうちでは、現鎮座地は土佐郡土佐郷に比定される{{Sfn|土佐郷(平凡社)|1983年}}。また同書に見える土佐郡神戸郷(比定地諸説)は、土佐神社の封戸に関連する郷名とされる{{Sfn|神戸郷(平凡社)|1983年}}。

==== 鎌倉時代から江戸時代 ====
『[[百錬抄]]』[[元仁]]元年([[1224年]])条<ref group="原">『百錬抄』元仁元年(1224年)10月6日条。</ref>では、大風([[台風]])によって「土佐国一宮」の神殿以下が一宇も残さずに顛倒したと見える(再建は不明){{Sfn|土佐神社(平凡社)|1983年}}。[[中世]]以降、土佐神社は土佐国において[[一宮]]の地位にあったとされるが、それはこの記事を初見とする{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=564-567}}。

{{Double image aside|right|Tyousokabe Mototika.jpg|100|Yamanouchi Tadayoshi.JPG|140|{{Center|[[長宗我部元親]]像(左)・[[山内忠義]]像(右)}}{{Small|元親は現在の本殿・幣殿・拝殿を、忠義([[土佐藩]]第2代藩主)は現在の鼓楼・楼門を造営。}}}}
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には、[[永正]]6年([[1509年]])頃(諸説あり)の[[本山氏]]による[[長宗我部氏]]の[[岡豊城]]侵攻で一宮村が焼かれ、土佐神社社殿も延焼により本殿以外ほとんどを焼失したという{{Sfn|土佐神社(角川)|1986年}}。これを受けて[[長宗我部元親]]は[[永禄]]10年([[1567年]])から社殿再建に着手し、[[元亀]]2年([[1571年]])に現在の本殿・幣殿・拝殿が完成した{{Sfn|土佐神社(角川)|1986年}}。その再建工事の諸役には、高知平野の家臣が上下問わず課されている{{Sfn|土佐神社(平凡社)|1983年}}。また『長宗我部地検帳』によると、この頃の社領は一宮村を始めとして薊野・杓田・布師田・鴨部・石立・万々・朝倉・大高坂の各村に分布した{{Sfn|土佐神社(角川)|1986年}}。

[[江戸時代]]に[[土佐藩]]を治めた[[土佐山内氏|山内氏]]も土佐神社を崇敬し、第2代藩主[[山内忠義]]によって[[寛永]]8年([[1631年]])に楼門が、[[慶安]]2年([[1649年]])に鼓楼が造営されて現在に残っている{{Sfn|土佐神社(角川)|1986年}}。また山内氏は、長宗我部氏が[[土佐国分寺]]で始めた千部経修行を土佐神社において再興し、毎年10月6日から12日にこれを行なっていた{{Sfn|土佐神社(角川)|1986年}}。江戸時代の社領としては、一宮村で7石8斗8升、薊野村で79石などと見える{{Sfn|土佐神社(平凡社)|1983年}}。

==== 明治以降 ====
[[明治]]4年([[1871年]])、社名を「土佐神社」と改称し、[[近代社格制度]]において[[国幣中社]]に列した{{Sfn|都佐坐神社(式内社)|1987年}}。戦後は[[神社本庁]]の[[別表神社]]に列している。

=== 神階 ===
* [[六国史]]時代における[[神階]]奉叙の記録{{Sfn|神道・神社史料集成}}
** [[貞観 (日本)|貞観]]元年([[859年]])1月27日、従五位下から従五位上 (『[[日本三代実録]]』)<ref group="原" name="貞観元年"/> - 表記は「都佐坐神」。
* 六国史以後
** [[天慶]]3年([[940年]])2月1日、正一位 (『[[長寛勘文]]』) - 表記は「高賀茂神(土佐と注記)」。

=== 神職 ===
[[File:Zenrakuji01s3872.jpg|thumb|180px|right|{{Center|[[善楽寺]]}}]]
『長宗我部地検帳』では、神職として執行・執当・主頭・礼夫・神主・太夫・惣佾・一和尚などの記載が見える{{Sfn|土佐神社(角川)|1986年}}。

[[近世]]の神職は、『皆山集』によると執行・神主・一和尚・忌部3人・宮仕4人・社人の計25人であった{{Sfn|土佐神社(角川)|1986年}}。また、[[別当寺]]は[[善楽寺]]([[四国八十八箇所]]第30番[[札所]])と神宮寺であった{{Sfn|土佐神社(角川)|1986年}}。そのうち善楽寺は明治元年([[1868年]])に一時廃寺となり、本尊の[[阿弥陀如来]]像(土佐神社の[[本地仏]])を[[安楽寺 (高知市)|安楽寺]](高知市洞ヶ島)に、[[不動明王]]像を[[土佐国分寺|国分寺]]に移座した{{Sfn|善楽寺(角川)|1986年}}。善楽寺は[[昭和]]5年([[1930年]])に復興し、不動明王像は善楽寺に戻されたが、阿弥陀如来像(鎌倉時代作、国の重要文化財)はなお安楽寺に所在している{{Sfn|善楽寺(角川)|1986年}}。


== 境内 ==
== 境内 ==
* 殿
=== 殿 ===
[[File:Tosa-jinja honden.JPG‎|thumb|200px|right|{{Center|本殿(国の重要文化財)}}{{Small|前面に幣殿が接続。}}]]
* 幣殿及び拝殿(合わせて1棟)
[[File:Tosa-jinja haiden-1.JPG‎|thumb|200px|right|{{Center|拝殿(国の重要文化財)}}{{Small|拝殿(高屋根部分)からは左右に翼殿、前面に拝の出が接続する。}}]]
: 本殿、幣殿、拝殿は元亀2年([[1570年]])の長宗我部元親による再建。幣殿と拝殿を合して十字型に造る「入蜻蛉」と称される独特の様式である。
現在の主要社殿は、[[室町時代]]後期、[[戦国大名]][[長宗我部元親]]による造営。旧社殿が[[本山氏]]による[[岡豊城]]侵攻の兵火で焼失したため、四国平定を祈念して[[永禄]]11年([[1567年]])に再建に着手、[[元亀]]2年([[1571年]])に完成したものとされる。主要社殿は本殿・幣殿・拝殿から成り、本殿前に建つ幣殿と拝殿は平面「十」字形を成す。これらは本殿を頭とした[[トンボ]](蜻蛉)が飛び込む形を表す「'''入蜻蛉'''(いりとんぼ)」形式といわれ、戦からの凱旋報告を意味するとされる土佐神社独特なものである。本殿(1棟)と幣殿・拝殿(合わせて1棟)は、いずれも国の[[重要文化財]]に指定されている。なお[[若宮八幡宮 (高知市)|若宮八幡宮]](高知市長浜)では、出陣に際しての戦勝祈願を意味する「出蜻蛉」形式の社殿が、同じく元親によって造営されている。各社殿の詳細は次の通り<ref name="本殿"/><ref name="幣殿及び拝殿"/><ref name="高知県 本殿・幣殿及び拝殿">[http://www.kochinet.ed.jp/bunkazai/details/110-1/110-1-02.htm 土佐神社本殿・幣殿及び拝殿](高知県ホームページ)。</ref><ref name="高知市 本殿、幣殿及び拝殿">[http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/90/cas-state-1100200.html 土佐神社本殿、幣殿及び拝殿](高知市ホームページ)。</ref>{{Sfn|土佐神社(平凡社)|1983年}}。
:; 本殿
:: 桁行五間・梁間四間、一重で、前面中央三間に向拝一間を付す。屋根は[[入母屋造]]で柿葺。外面は全体に極彩色で彩られ随所に彫刻が施されており、本殿内部は内陣・外陣に分かれている。全体的に寺院の本堂に近い造りになる。
:; 幣殿
:: 本殿前に建つ。桁行二間・梁間一間、一重。素木造で、屋根は切妻造で柿葺。
:; 拝殿
:: 幣殿前に接続する。中央の高屋根部分は桁行一間・梁間一間、一重。高屋根部分の前面に桁行六間・梁間一間の「拝の出」を設け、高屋根の左右には桁行四間・梁間二間の翼殿を付す。素木造の簡素な造りで、屋根はいずれも切妻造で柿葺。


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* 神庫
File:Tosa-jinja10s3872.jpg|幣殿(右奥)と拝殿左翼殿(手前)
* 神饌所
File:Tosa-jinja25s3872.jpg‎|拝殿内部
* 輪抜祓所
File:Tosa-jinja08s3872.jpg|拝の出
* 社務所
</gallery>
* 斎館

* 鼓楼 - 慶安2年([[1649年]])建立、[[山内忠義]]の寄進
[[File:Tosa-jinja03s3872.jpg|thumb|180px|right|{{Center|鼓楼(国の重要文化財)}}]]
* 放生池
拝殿南東に立つ'''鼓楼'''は、[[江戸時代]]前期の[[慶安]]2年([[1649年]])、[[土佐藩]]第2代藩主[[山内忠義]]による造営。二重で、屋根は入母屋造で柿葺。初層は「袴腰」と呼ばれる形式で、黒色の板を張り、中央に出入り口を設ける。上層は桁行三間・梁間二間で、彫刻・柱が彩色で彩られており、内部には時を知らせるための太鼓を吊るす。国の重要文化財に指定されている<ref name="鼓楼"/><ref>[http://www.kochinet.ed.jp/bunkazai/details/110-1/110-1-03.htm 土佐神社鼓楼](高知県ホームページ)。</ref><ref>[http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/90/cas-state-1100300.html 土佐神社鼓楼](高知市ホームページ)。</ref>。
* 御手洗池

* つぶて石
[[File:Tosa-jinja roumon.JPG|thumb|180px|right|{{Center|楼門(国の重要文化財)}}]]
* 手水舎
境内入り口に立つ'''楼門'''は「神光門」とも称され、江戸時代前期の[[寛永]]8年([[1631年]])、鼓楼同様に山内忠義による造営である。桁行三間、梁間二間の楼門(2階建て門で、初層・上層間に軒の出を造らないものをいう)で、屋根は入母屋造で銅板葺。初層は三間一戸(柱間三間で、中央の一間を通路とする意)で、左右間に随身を祀る。上層は初層に比して建ちが低く、勾欄を付した廻縁がめぐらされている。全体的に素木で、ほとんど装飾を付さない[[和様]]建築になる。国の重要文化財に指定されている<ref name="楼門"/><ref>[http://www.kochinet.ed.jp/bunkazai/details/110-1/110-1-04.htm 土佐神社楼門](高知県ホームページ)。</ref><ref>[http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/90/cas-state-1100400.html 土佐神社楼門](高知市ホームページ)。</ref>。
* 楼門(神光門) - 寛永8年([[1631年]])建立、山内忠義の寄進

境内には、そのほか神饌所・神庫・社務所等の社殿がある。


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画像:Tosa-jinja25s3872.jpg‎|拝殿内部
File:Tosa-jinja14s3200.jpg‎|神庫
画像:Tosa-jinja15s3872.jpg‎|本殿
File:Tosa-jinja12s3872.jpg‎|神饌所
File:Tosa-jinja04s3200.jpg|絵馬殿
画像:Tosa-jinja13s3872.jpg‎|神庫
画像:Tosa-jinja12s3872.jpg‎|神饌
File:Tosa-jinja24s3872.jpg|社務
</gallery>
画像:Tosa-jinja01s3872.jpg|鳥居

画像:Tosa jinja Tsubuteishi.JPG|つぶて石
=== 旧跡 ===
[[File:Tosa-jinja Tsubute-ishi.JPG|thumb|200px|right|{{Center|礫石}}{{Small|土左大神は、この石を投げて鎮座地を選定したと伝える。}}]]
* 礫石(つぶていし)
*: 境内東北方にある畳2畳程の自然石。土左大神が鎮座地を定めるにあたり投げた石と伝える<ref name="由緒書"/>。古くはこの礫石を[[磐座]]として祭祀が行われたとする説がある{{Sfn|土佐神社(角川)|1986年}}。
* 禊岩(みそぎいわ)
*: 境内東方の神苑にある岩。かつて[[禊]]の斎場であった境内西方のしなね川に所在したが、境内に移し祀られている<ref name="由緒書"/>。
* 御手洗池(みたらしいけ)
*: 境内北西方にある池。かつて雨乞神事が行われたと伝える。
* 斎籠岩(いごもりいわ)
*: 境内北西方約300メートルの山中に所在する大岩。かつてはこの岩にて斎籠祭を行なったと伝える。

また土佐神社付近には、「一宮古墳群」と称される[[古墳]]2基が存在した{{Sfn|一宮古墳群(平凡社)|1983年}}。いずれも[[横穴式石室]]を有する[[古墳時代]]後期の古墳で、東側山麓の東天神に1号墳、西約100メートルの大塚に2号墳があった(いずれも消滅){{Sfn|一宮古墳群(平凡社)|1983年}}。そのうち2号墳は[[明治]]20年([[1887年]])に破壊され、石室の天井石5枚のうち1枚は土佐神社楼門前の橋に、3枚は鳥付川に架けた太古橋に、1枚は楼門前の社号標に転用された{{Sfn|一宮古墳群(平凡社)|1983年}}。これらから類推される元の石室は、現在県下最大の[[小蓮古墳]]([[南国市]]岡豊町小蓮)石室に匹敵する規模であったと見られている{{Sfn|一宮古墳群(平凡社)|1983年}}。

<gallery>
File:Tosa-jinja22s3872.jpg|禊岩
File:Tosa-jinja21s3872.jpg|大杉<br />{{Small|本殿後方に位置。}}
File:Tosa-jinja sandou.JPG|参道
File:Tosa-jinja shagouhyou.JPG|社号標<br />{{Small|一宮古墳群2号墳の天井石。}}
</gallery>
</gallery>


== 摂末社 ==
== 摂末社 ==
現在の摂末社は、摂社3社・末社3社の計6社{{Sfn|都佐坐神社(式内社)|1987年}}。
; 境内社

* 事代主神社
=== 摂社 ===
[[File:Tosa-jinja sessha.JPG|thumb|200px|right|{{Center|摂社の3社}}{{Small|(左から)事代主神社・西御前社・大国主神社。}}]]
* 西御前社
* 西御前社
** 祭神:未詳
** 祭日:[[3月28日]]・[[12月20日]]<ref name="説明板">境内説明板。</ref>
* 大国主神社
* 大国主神社
** 祭神:[[大国主|大国主命]]
* 瀧宮
** 祭日:[[3月1日]]・[[12月1日]]<ref name="説明板"/>
* 神明宮
* 巌島神社
* 事代主神社
** 祭神:[[事代主|事代主命]]
** 祭日:3月1日・12月1日<ref name="説明板"/>


=== 末社 ===
; 離宮
* 厳島神社 - 祭神:[[イチキシマヒメ|市寸嶋姫命]]・[[タキリビメ|多紀理比賣命]]・[[タギツヒメ|多岐都比賣命]]、祭日:[[11月3日]]<ref name="説明板"/>。
* 高知市吸江204''({{ウィキ座標|33|32|47.1|N|133|34|18.8|E|scale:10000|位置}})''
* 神明宮 - 祭神:[[天照大神|天照皇大御神]]・[[トヨウケビメ|豊受大御神]]、祭日:[[2月17日]]・10月<ref name="説明板"/>。古くは[[伊勢神宮]]遥拝所であった<ref name="説明板"/>。
* 瀧宮 - 祭神:未詳、祭日:[[6月28日]]・[[10月28日]]<ref name="説明板"/>。


以上のほか、鳥居横には秋葉神社の小祠が鎮座する。
; [[御旅所]]

* 高知市一宮中町2丁目7−18''({{ウィキ座標|33|34|53.4|N|133|34|28.2|E|scale:10000|位置}})''
<gallery>
: 古くは祭事に鳴無神社まで神輿が渡御していたが、のちに土佐神社離宮までと短縮化され、さらに現在では御旅所までに短縮化した、という経緯がある。
File:Tosa-jinja Itsukushima-sha.JPG|厳島神社
File:Tosa-jinja Shinmei-sha.JPG|神明宮
File:Tosa-jinja Takimiya.JPG|瀧宮
</gallery>

== 関係地 ==
{{座標一覧}}
[[File:Otonashi jinja 10.JPG|thumb|200px|right|{{Center|[[鳴無神社]]([[須崎市]]浦ノ内東分)}}]]
; [[鳴無神社]]
:* 所在地:[[須崎市]]浦ノ内東分({{ウィキ座標|33|24|51.25|N|133|22|7.91|E|region:JP-39_type:landmark|位置|name=鳴無神社}})
:* 祭神:一言主命(味鋤高彦根命と同一視)、配神に[[シナツヒコ|級長津彦命]]・級長津姫命(いずれも風神)
:* 社格:旧[[郷社]]
: 「おとなしじんじゃ」。浦ノ内湾の最奥部に鎮座する。伝説では、土佐に流されて浦ノ内湾に漂着した一言主命を奉斎したのが鳴無神社で、ここから祀り変える地を選ぶために投げて落ちた大石が土佐神社境内の礫石であるとする。[[天平宝字]]3年([[759年]])に始まるという土佐神社の志那禰祭において、古くは土佐神社の御座船と船遊びがあったというが、のちに土佐神社からの渡御は土佐神社離宮(小一宮)までに改められたという。祭神は土佐神社と同神とし、現在も土佐神社と同じ8月25日に「志那弥祭」として船遊び神事を行なっている<ref>「鳴無神社」『[[府県郷社明治神社誌料]]』 明治神社誌料編纂所編、明治神社誌料編纂所、1912年([http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088313/484 『明治神社誌料 府県郷社 下』](近代デジタルライブラリーより)484コマ参照)。</ref>{{Sfn|鳴無神社(平凡社)|1983年}}{{Sfn|鳴無神社(神々)|1984年}}。

; 土佐神社離宮
:* 所在地:高知市吸江({{ウィキ座標|33|32|59.19|N|133|34|9.38|E|region:JP-39_type:landmark|位置|name=土佐神社離宮(小一宮)}})
: 「小一宮」とも称される。[[五台山 (高知市)|五台山]]の北麓に鎮座する。かつての志那禰祭において、土佐神社からの神幸があった[[御旅所]](神輿の仮鎮座地、行宮)跡である。元々は鳴無神社への神幸であったが、海難や山犬に襲われるなどがあったため、この小一宮を建ててここまでの神幸に改めたという。この小一宮までの海上渡御は、[[明治]]に一本松御旅所が建てられるまで続いた{{Sfn|土佐神社(神々)|1984年}}{{Sfn|都佐坐神社(式内社)|1987年}}。

; 土佐神社御旅所
:* 所在地:高知市一宮中町({{ウィキ座標|33|34|53.42|N|133|34|28.17|E|region:JP-39_type:landmark|位置|name=土佐神社御旅所(一本松御旅所)}})
: 「一本松御旅所」とも。土佐神社一の鳥居付近に所在。現在の志那禰祭において、神輿が神幸する御旅所である。古くは小一宮までの海路の神幸であったが、[[明治]]13年([[1880年]])に当地に御旅所を建てて徒歩の神幸となった。現在も御旅所祭では、鳴無神社に向かって神楽が奉納されている<ref>土佐神社御旅所の現地説明板。</ref>。

; [[葛木男神社]]
:* 所在地:高知市布師田({{ウィキ座標|33|35|17.61|N|133|36|5.73|E|region:JP-39_type:landmark|位置|name=葛木男神社(土左大神の御子神か)}})
:* 祭神:[[タカミムスビ|高皇産霊神]]・葛木男大神([[葛城襲津彦|葛城襲津彦命]])・葛木咩大神(葛城襲津彦妃命)
:* 社格:式内社「葛木男神社」、式内社「葛木咩神社」(合祀)、旧郷社
: 「かつらきおじんじゃ」。[[昭和]]47年([[1972年]])に葛木咩神社を合祀した。
: 『土佐国風土記』逸文<ref group="原" name="土左高賀茂大社"/>には土左高賀茂大社の東4里(約2キロメートル)に土佐郡の郡家([[郡衙]])があったというが、その郡家の所在地をこの葛木男神社付近に比定する説がある{{Sfn|葛木男神社(式内社)|1987年}}。また同風土記の別の逸文<ref group="原" name="土左大神之子"/>では、土佐郡家内には土左大神の子([[御子神]])の'''天河命'''(あまのかわのみこと)を祀る社が、郡家南の道には天河命の娘神の'''浄川媛命'''(きよかわひめのみこと)を祀る社があると見え<ref name="風土記">『新編日本古典文学全集 5 風土記』小学館、1997年、pp. 513-514。</ref>、一説にこれら天河命・浄川媛命は葛木男神・葛木咩神に比定される<ref name="風土記"/>{{Sfn|高知県の歴史(山川)|2001年|pp=47-48}}。

<gallery>
File:Tosa-jinja rikyu.JPG|土佐神社離宮(小一宮)(高知市吸江)
File:Tosa-jinja otabisho & ichino-torii.JPG|一本松御旅所と一の鳥居(高知市一宮中町)
File:Katsurakio-jinja haiden.JPG|[[葛木男神社]](高知市布師田)
</gallery>


== 祭事 ==
== 祭事 ==
=== 年間祭事 ===
* '''志奈禰祭'''(しなねさい)
社記によると、江戸時代初頭まで土佐神社の祭事は年間75度あったというが、その後は27度となったという{{Sfn|土佐神社(平凡社)|1983年}}。現在の主要祭事は次の通り<ref name="由緒書"/>。
: [[8月25日]]の[[例祭]]。「志奈禰」の語は、[[新嘗祭]]の「にいなめ」の転じたものという説、新稲(しいね)の転じたものという説、風の神「[[シナツヒコ|志那都比古神]]」に関するという説など諸説ある。
* 歳旦祭 ([[1月1日]])
* 射初祭(いぞめさい) (1月第3日曜)
* 斎籠祭(いごもりさい) ([[3月11日]]-[[3月13日|13日]])
*: 忌部3人のうち1人が本殿内陣に籠もって祈念し、その間に本殿周囲で種々の神事を行う。この間は一般の参拝は禁じている。かつては境内北西方の「斎籠岩」にて行なったという<ref name="由緒書"/>。
* 大祓式(夏越の祓) ([[6月30日]])
* '''志那禰祭'''(しなね祭) ([[8月24日]]・[[8月25日|25日]])
* 秋祭 ([[10月8日]])
* 新嘗祭 ([[11月23日]])
* 大祓式 ([[12月31日]])

=== 志那禰祭 ===
'''志那禰祭'''(しなねまつり)は、[[8月24日]]・[[8月25日|25日]]に行われる[[例祭]](最も重要な祭)で、「土佐三大祭」の1つに数えられる<ref group="注" name="土佐三大祭">「土佐三大祭」は、土佐神社の志那禰祭(8月24日・25日)、秋葉神社([[吾川郡]][[仁淀川町]])の秋葉祭り(2月11日)、[[久礼八幡宮]]([[高岡郡]][[中土佐町]])の久礼八幡宮大祭(旧暦8月14日-15日)の3祭。</ref>。古くは[[7月3日 (旧暦)|旧暦7月3日]]に行われていた<ref name="由緒書"/>{{Sfn|都佐坐神社(式内社)|1987年}}。

「しなね」の語源は、風神の「[[シナツヒコ]](級長津彦神/志那都比古神)」に基づくとする説、新稲祭([[新嘗祭]])の「新稲」の転訛とする説など諸説がある。志那禰祭は[[天平宝字]]3年([[759年]])に始まるといい、別名を「御船遊び」といって古代には[[鳴無神社]](須崎市浦ノ内東分)まで御座船で海上神幸を行なったとされる。この海上神幸の存在から、土佐神社が古くは水上交通を掌握していたとする説もある{{Sfn|高知県の歴史(山川)|2001年|pp=47-48}}。しかし海難や赤木山(現・[[青龍寺 (土佐市)|青龍寺]])の山犬に襲われることがあったので、[[五台山 (高知市)|五台山]]北麓に[[御旅所]](現・土佐神社離宮:小一宮)を建ててそこまでの船渡御と変わったという。その渡御も、[[明治]]13年([[1880年]])に建てられた現在の一本松御旅所までの徒歩神幸と改まり、現在に至っている{{Sfn|土佐神社(神々)|1984年}}{{Sfn|都佐坐神社(式内社)|1987年}}。

今日の祭礼は、8月24日早朝の忌火祭で鑽火を篝松明に移すに始まり、夜に宵宮祭を行う。この松明の火については、参詣者が持ち帰ると落雷から免れるという信仰(火雷信仰)がある。翌25日には午前にしなね祭を行い、午後3時頃からは神幸祭として、神輿を始め宮司・権禰宜・神馬・氏子総代・楽人らの行列が御旅所まで渡る。この神幸では鯰尾鉾(太郎鉾)を始めとする青銅鉾12振が加わり、また昔の名残で昼でも松明を焚き、犬吠えを行う。御旅所では祭礼や神饌献上を行い、終わると本殿に還御し還御祭を行なって祭りを終える<ref name="由緒書"/>{{Sfn|土佐神社(平凡社)|1983年}}{{Sfn|土佐神社(神々)|1984年}}{{Sfn|土佐神社(角川)|1986年}}{{Sfn|都佐坐神社(式内社)|1987年}}。


== 文化財 ==
== 文化財 ==
; 重要文化財(国指定)
=== 重要文化財(国指定) ===
* 本殿(附 本殿棟札12枚)(建造物) - 明治37年8月29日指定<ref name="本殿">{{国指定文化財等データベース|102|3414|土佐神社本殿、幣殿及び拝殿(うち本殿)}}</ref>。
* 本殿
* 幣殿及び拝殿 1棟(建造物) - 明治37年8月29日指定<ref name="幣殿及び拝殿">{{国指定文化財等データベース|102|3415|土佐神社本殿、幣殿及び拝殿(うち幣殿及び拝殿)}}</ref>。
* 幣殿及び拝殿(合わせて1棟)
* 鼓楼(建造物) - 昭和9年1月30日指定<ref name="鼓楼">{{国指定文化財等データベース|102|3416|土佐神社鼓楼}}</ref>。
* 鼓楼
* 楼門(建造物) - 昭和57年2月16日指定<ref name="楼門">{{国指定文化財等データベース|102|3417|土佐神社楼門}}</ref>。
* 楼門(神光門)

=== 高知市指定文化財 ===
* 有形文化財
** 土佐神社の鰐口
**: [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[天文 (元号)|天文]]21年([[1552年]])作の[[鰐口]]。面径41.7センチメートル。土佐国で作られた鰐口の初見になる。昭和42年2月3日指定<ref>[http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/90/cas-city-3100400.html 土佐神社の鰐口](高知市ホームページ)。</ref>。
** 土佐神社の能面
**: 能面38面・狂言面5面・不詳面8面の計51面。長宗我部氏からの寄進と見られ、その作製年代は[[安土桃山時代]]以前とされる。昭和42年2月3日指定<ref>[http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/90/cas-city-3100500.html 土佐神社の能面](高知市ホームページ)。</ref>。
** 土佐神社の銅鏡
**: 土佐神社に伝わる45面の[[銅鏡]]のうちの42面。中国[[宋 (王朝)|宋]]時代作の湖州鏡2面と、平安時代から江戸時代後期にかけての作の和鏡40面に大別され、さらに和鏡は懐中鏡2面・八稜鏡2面・方鏡3面・円鏡33面に分類される。昭和42年2月3日指定<ref>[http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/90/cas-city-3100600.html 土佐神社の銅鏡](高知市ホームページ)。</ref>。


=== その他 ===
; 高知市指定有形文化財
* 鯰尾鉾
* 土佐神社の鰐口
*: 奈良時代末から平安時代初期頃の作と推定される青銅製の鉾。宝物の1つであるが、文化財指定は受けていない。志那禰祭での神幸行列に加わる青銅鉾12振のうち最も重要な鉾で、「太郎鉾」とも称される{{Sfn|土佐神社(平凡社)|1983年}}{{Sfn|都佐坐神社(式内社)|1987年}}。
* 土佐神社の能面
* 土佐神社の銅鏡


== 現地情報 ==
== 現地情報 ==
; 所在地
'''所在地'''
* 高知市一宮しなね2丁目16-1
* [[高知県]][[高知市]]一宮しなね2丁目16-1


; 交通アクセス
'''交通アクセス'''
* 鉄道:[[四国旅客鉄道]](JR四国)[[土讃線]] [[土佐一宮駅]] (徒歩約15分)
''鉄道''
* 最寄駅:[[四国旅客鉄道|JR四国]][[土讃線]] [[土佐一宮駅]]徒歩約15分)
* バス:[[高知駅]](JR[[土讃線]])から、バスで「一宮神社前」バス停下車乗車時間約15分、下車後徒歩すぐ


''バス''
'''周辺'''
* [[善楽寺]] - [[四国八十八箇所]]第30番札所。
* [[高知駅]](JR[[土讃線]])から、バスで「一宮神社前」下車 (乗車時間約15分、徒歩すぐ)


== 脚注 ==
; 周辺
{{脚注ヘルプ}}
* [[善楽寺]] - [[四国八十八箇所]]第三十番札所。当社に隣接
'''注釈'''
{{reflist|group="注"}}

'''原典'''
{{reflist|group="原"}}

'''出典'''
{{reflist|2}}

== 参考文献・サイト ==
<!--記事執筆に使用した文献-->
'''土佐神社出版物・現地説明板'''
* 神社由緒書
* 境内説明板

'''書籍'''
* 百科事典
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1983|chapter=|title=[[日本歴史地名大系]] 40 高知県の地名|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582490404|ref={{Harvid|土佐神社(平凡社)|1983年}}}}
*** {{Wikicite|reference=「土佐国」|ref={{Harvid|土佐国(平凡社)|1983年}}}}、{{Wikicite|reference=「土佐郷」|ref={{Harvid|土佐郷(平凡社)|1983年}}}}、{{Wikicite|reference=「神戸郷」|ref={{Harvid|神戸郷(平凡社)|1983年}}}}、{{Wikicite|reference=「土佐神社」|ref={{Harvid|土佐神社(平凡社)|1983年}}}}、{{Wikicite|reference=「善楽寺」|ref={{Harvid|善楽寺(平凡社)|1983年}}}}、{{Wikicite|reference=「一宮古墳群」|ref={{Harvid|一宮古墳群(平凡社)|1983年}}}}、{{Wikicite|reference=「鳴無神社」|ref={{Harvid|鳴無神社(平凡社)|1983年}}}}。
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* その他書籍
** {{Cite book|和書|editor=[[谷川健一]]編|author=|year=1984|chapter=|title=日本の神々 -神社と聖地- 2 山陽・四国|publisher=[[白水社]]|isbn=4560022127|ref=}}
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** {{Cite book|和書|editor=式内社研究会編|author=|chapter=|year=1987|title=式内社調査報告 第9巻|publisher=[[皇學館大学]]出版部|page=|isbn=|ref=}}
*** {{Wikicite|reference=[[山本大]]「都佐坐神社」|ref={{Harvid|都佐坐神社(式内社)|1987年}}}}、{{Wikicite|reference=山本大「葛木男神社」|ref={{Harvid|葛木男神社(式内社)|1987年}}}}、{{Wikicite|reference=山本大「葛木咩神社」|ref={{Harvid|葛木咩神社(式内社)|1987年}}}}。
** {{Cite book|和書|editor=中世諸国一宮制研究会編|author=|year=2000|chapter=|title=中世諸国一宮制の基礎的研究|publisher=岩田書院|isbn=978-4872941708|ref={{Harvid|中世諸国一宮制|2000年}}}}
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2001|chapter=|title=高知県の歴史|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634323902|ref={{Harvid|高知県の歴史(山川)|2001年}}}}

'''サイト'''
* {{Cite web|url=http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/570101.html|author=|title=都佐坐神社(土佐国土左郡)|work=|publisher=國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」|date=|accessdate=2015-1-18|ref={{Harvid|神道・神社史料集成}}}}


== 関連図書 ==
== 関連図書 ==
<!--記事執筆に使用していない文献-->
* 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、42頁
* 『[[古事類苑]] 神祇部95』 神宮司庁編、土佐神社項。
* 白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』[[東京堂出版]]、1979年、249頁
** [http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1873551/713 『古事類苑 第9冊』](近代デジタルライブラリーより)713-719コマ参照。
* 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、42頁。
* 白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』[[東京堂出版]]、1979年、249頁。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[都佐国造]]
* [[葛城一言主神社]] ([[奈良県]][[御所市]]) - 祭神:一言主神
* [[鳴無神社]] ([[須崎市]]浦ノ内)
* [[若宮八幡宮 (高知市)|若宮八幡宮]] (高知市長浜) - 長宗我部元親により出蜻蛉の社殿が築かれた。これは出陣時に参詣するためで、土佐神社の入蜻蛉(凱旋報告時)と対をなすものである。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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* [http://www.tosajinja.i-tosa.com 土佐神社](公式サイト)
* [http://www.tosajinja.i-tosa.com 土佐神社](公式サイト)
* [http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/570101.html 都佐坐神社](國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)
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[[Category:高知県の神社]]
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2015年2月15日 (日) 22:40時点における版

土佐神社

拝殿(国の重要文化財
所在地 高知県高知市一宮しなね2丁目16-1
位置 北緯33度35分33.44秒 東経133度34分37.25秒 / 北緯33.5926222度 東経133.5770139度 / 33.5926222; 133.5770139 (土佐神社)座標: 北緯33度35分33.44秒 東経133度34分37.25秒 / 北緯33.5926222度 東経133.5770139度 / 33.5926222; 133.5770139 (土佐神社)
主祭神 味鋤高彦根神
一言主神
社格 式内社(大)
土佐国一宮
国幣中社
別表神社
創建 (伝)第21代雄略天皇4年
本殿の様式 入母屋造
別名 高賀茂大明神
例祭 8月25日志那禰祭
主な神事 斎籠祭(3月11日-13日
地図
土佐神社の位置(高知県内)
土佐神社
土佐神社
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鳥居
扁額の「土佐一ノ宮」は近衛文麿の筆。

土佐神社(とさじんじゃ)は、高知県高知市一宮(いっく)しなねにある神社式内社(大社)、土佐国一宮旧社格国幣中社で、現在は神社本庁別表神社

概要

高知市北東部、南国市へと通じる大坂越えの西麓に鎮座する[1]。古くは『日本書紀』や『土佐国風土記』(逸文)に記述が見え、古代から中世・近世を通じて土佐国の総鎮守として崇敬された、高知県を代表する古社である。

代々の領主は土佐神社に対して崇敬が篤く、現在の主要社殿は戦国大名長宗我部元親による造営、楼門(神光門)・鼓楼は土佐藩第2代藩主の山内忠義による造営で、いずれも国の重要文化財に指定されている。そのほか、祭事としては土佐三大祭[注 1]の1つとして知られる例祭志那禰祭(しなねまつり)」が古代から続き、神宝としては鰐口能面銅鏡等を今に伝えている。

社名

現在の社名「土佐神社」は明治の改称によるもので、それ以前の史料では次のように表記される[2]

中世近世には一般に「高賀茂大明神」と称されており、一部には「一宮大明神」とする史料も見られる[2]。この「一宮」は土佐神社が土佐国の一宮であったことに由来するもので、土佐神社周辺の地名にも使用されるが、当地では「いっく」と読まれる。

明治4年(1871年)、国幣中社に列するに際して社名を「土佐神社」と改称して現在に至っている[2]。地元では「しなねさま(志那禰様)」とも称されている。

祭神

祭神は次の2柱[3]

  • 味鋤高彦根神 (あじすきたかひこねのかみ)
    古事記』では神名を「阿遅鉏高日子根神」、『日本書紀』では「味耜高彦根神」とする。特に『古事記』では大国主命多紀理毘賣命の間の子とし、別称を「迦毛大御神(かものおおみかみ)」とする[2]
  • 一言主神 (ひとことぬしのかみ)
    『古事記』では神名を「葛城之一言主大神」、『日本書紀』では「一事主神」とする。両書においていずれも雄略天皇段に登場する。『古事記』では、悪事・善事も一言で言い放つ託宣の神とするが、系譜は不詳。
    実際には、一言主神は大和葛城地方(現・奈良県御所市周辺)において巫覡を事とした集団を表す神といわれ、事代主命と同神とする説もある[1]。なお『先代旧事本紀』では、素戔烏尊の子とする[2]

中世における祭神の本地仏阿弥陀如来[4]。後述のように、祭神として味鋤高彦根説・一言主説が古くから存在するが、現在は上記のように両説を採り2神を祭神としている。

祭神について

 
いずれも奈良県御所市。それぞれ大和葛城地方にて味鋤高彦根神一言主神を祀る神社。

土佐神社の祭神は、古くは『日本書紀天武天皇4年(675年)条[原 1]朱鳥元年(686年)条[原 2]で「土左大神」と記載される[1]。この土左大神には、在地豪族の都佐国造(土佐国造)が祭祀にあたったと考えられている[1]

710年代から720年代の成立になる『土佐国風土記』の逸文(他書に引用された断片文)では、

土左の郡。郡家の西のかた去(ゆ)くこと四里に土左の高賀茂の大社(おほやしろ)あり。その神の名(みな)を一言主の尊(みこと)とせり。その祖(みおや)は詳かにあらず。一説(あるつたへ)に曰はく、大穴六道の尊(おほあなむちのみこと)の子、味鉏高彦根の尊なりといふ。 — 『釈日本紀』所収『土佐国風土記』逸文「土左高賀茂大社」[原 4][5]

とあり、この頃には人格神として一言主説・味鋤高彦根説が存在した[1]。この一言主・味鋤高彦根とも、大和葛城地方(現・奈良県御所市周辺)で賀茂氏が奉斎した神々とされる[1]。なお『土佐国風土記』の別の逸文[原 3]では、土左大神には御子神として「天河命(あまのかわのみこと)」が、さらに天河命の娘神として「浄川媛命(きよかわひめのみこと)」があるとしている[6]。これら天河命・浄川媛命については、式内社葛木男神社・葛木咩神社(現在は葛木男神社に合祀)に比定する説がある[6][7]

下って『続日本紀天平宝字8年(764年)記事[原 7]では、大和葛城山で雄略天皇(第21代)と出会った「高鴨神」が、天皇と猟を争ったがために土佐に流されたものの、賀茂氏の先祖神であったことにより天平宝字8年に大和国葛上郡の本処に戻し祀られたと見える[1]。『釈日本紀[原 8]鎌倉時代末期成立)では、葛城山で雄略天皇と出会ったのは「一言主神」とし、一言主は土佐に流されて土佐高賀茂大社(土佐神社)に祀られ、天平宝字8年にその神霊を葛城に戻し復祠を建てるにあたり、神霊の和魂は土佐に留め祀ったとしている[1]。以来、土佐神社祭神に関して一言主説、味鋤高彦根説、一言主・味鋤高彦根同一神説などが展開されている[2]

上記の雄略天皇と一言主(一事主)の説話は『古事記[原 9]712年成立)や『日本書紀[原 10]720年成立)にもあるが、両書では土佐配流の部分が記されていない[1]。この事実から近年の研究においては、記紀の説話が原初的なもので、『続日本紀』『釈日本紀』の土佐配流部分が後世の付加と考えられている[1][8][4]。そして、この記述変化の間に大和葛城地方の豪族の賀茂氏が土佐に勢力を及ぼし、都佐国造の祀る土左大神に賀茂氏の祖先神を合祭するにあたり、土左大神の鎮座譚に雄略天皇の葛城説話を組み込んだと解されている[1][8][4]。その際に配流の伝承が一言主・高鴨神ともにあったため、土左大神に合祭した神として一言主・味鋤高彦根(高鴨神の人格神)の異説が生じたと指摘される[8]。また、『先代旧事本紀[原 11]に見える都佐国造祖の小立足尼が賀茂氏の系譜に連なると見られることから、原始祭祀を担っていた都佐国造自体にも賀茂氏の進出受け入れの素地があったとする指摘もある[1][8][4]

歴史

創建

釈日本紀[原 8]鎌倉時代末期成立)によると、雄略天皇(第21代)4年2月に天皇が大和葛城山にて狩りをしている最中、天皇は一言主神と出会ったが、その不遜な言動により一言主神を土佐に流した。一言主神は、土佐において初め「賀茂之地」に祀られ、のち土佐高賀茂大社(土佐神社)に遷祀された。その後天平宝字8年(764年)、賀茂氏の奏言により大和国の「葛城山東下高宮岡上」に移されたが、その和魂はなお土佐国に留まり祀られている、という[1][8][2]。土佐神社側では、この記事をもって雄略天皇4年が神社の創建と伝える[2]。初めに鎮座した「賀茂之地」の比定地には、西方の賀茂神社幡多郡黒潮町入野、式内社)、賀茂神社(須崎市多ノ郷)、鳴無神社須崎市浦ノ内)など諸説があるが明らかでない[9]

前述(「祭神」節)のように、実際には在地豪族の都佐国造(領域は高知県中部・東部)が原始的な祭祀を行い、その後賀茂氏が進出してその祭祀を掌握したものと考えられている[1]。この都佐国造の本拠地には諸説があるが、『土佐国風土記』逸文[原 4]で土左高賀茂大社の東4里(約2キロメートル)に土佐郡の郡家(郡衙)があると見えることから、国造の役所を踏襲してこの郡家が設けられたとして、一宮周辺に比定する説が有力視される[10][7][注 2]。一宮周辺では多くの古墳が分布するが、ほぼ全てが古墳時代後期(6世紀-7世紀代)の築造で波多国造の領域(高知県西部)の前期・中期古墳よりも形成時期が遅いため、考古学的にはヤマト王権の勢力は西の幡多地域から進展したといわれる[11]

なお境内には東北に「礫石(つぶていし)」が祀られており、古くはこれを磐座として祭祀が行われたとする説がある[8]。また土佐神社付近にも、古墳時代後期の古墳2基があったことが知られる[12]

概史

飛鳥時代から平安時代

史実として国史に土佐神社の記載が見えるのは『日本書紀天武天皇4年(675年)条[原 1]で、「土左大神」が天皇に神刀1口を献上している[2]。これはレガリア(首長の政治的権力の象徴品)の献上を表し、奉斎氏族の朝廷への服属を意味するとされる[13]。また同書朱鳥元年(686年)条[原 2]によると、朝廷から秦忌寸石勝が派遣されて土左大神に奉幣のことがあった[2]

新抄格勅符抄[原 12]では、天平神護元年・2年(764年765年)に「高鴨神」に加えられた神封53戸のうち土佐国に20戸と記載が見え、土佐神社との関連が指摘される[2]

貞観元年(859年[原 5]には、「都佐坐神」の神階が従五位下から従五位上に昇叙されている[2]。『長寛勘文』によると、承平5年(935年)の海賊平定祈願に功があったとして天慶3年(940年)に全国13社に昇叙のことがあったが、その中で土佐の「高賀茂神」は正一位の極位に叙せられている[2]

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳[原 6]では土佐国土佐郡に「都佐坐神社 大」と記載され、式内大社に列している[2]。土佐国においては唯一の大社になる[2]。『和名抄』に見える地名のうちでは、現鎮座地は土佐郡土佐郷に比定される[14]。また同書に見える土佐郡神戸郷(比定地諸説)は、土佐神社の封戸に関連する郷名とされる[15]

鎌倉時代から江戸時代

百錬抄元仁元年(1224年)条[原 13]では、大風(台風)によって「土佐国一宮」の神殿以下が一宇も残さずに顛倒したと見える(再建は不明)[1]中世以降、土佐神社は土佐国において一宮の地位にあったとされるが、それはこの記事を初見とする[4]

長宗我部元親像(左)・山内忠義像(右) 元親は現在の本殿・幣殿・拝殿を、忠義(土佐藩第2代藩主)は現在の鼓楼・楼門を造営。 長宗我部元親像(左)・山内忠義像(右) 元親は現在の本殿・幣殿・拝殿を、忠義(土佐藩第2代藩主)は現在の鼓楼・楼門を造営。
長宗我部元親像(左)・山内忠義像(右)
元親は現在の本殿・幣殿・拝殿を、忠義(土佐藩第2代藩主)は現在の鼓楼・楼門を造営。

戦国時代には、永正6年(1509年)頃(諸説あり)の本山氏による長宗我部氏岡豊城侵攻で一宮村が焼かれ、土佐神社社殿も延焼により本殿以外ほとんどを焼失したという[8]。これを受けて長宗我部元親永禄10年(1567年)から社殿再建に着手し、元亀2年(1571年)に現在の本殿・幣殿・拝殿が完成した[8]。その再建工事の諸役には、高知平野の家臣が上下問わず課されている[1]。また『長宗我部地検帳』によると、この頃の社領は一宮村を始めとして薊野・杓田・布師田・鴨部・石立・万々・朝倉・大高坂の各村に分布した[8]

江戸時代土佐藩を治めた山内氏も土佐神社を崇敬し、第2代藩主山内忠義によって寛永8年(1631年)に楼門が、慶安2年(1649年)に鼓楼が造営されて現在に残っている[8]。また山内氏は、長宗我部氏が土佐国分寺で始めた千部経修行を土佐神社において再興し、毎年10月6日から12日にこれを行なっていた[8]。江戸時代の社領としては、一宮村で7石8斗8升、薊野村で79石などと見える[1]

明治以降

明治4年(1871年)、社名を「土佐神社」と改称し、近代社格制度において国幣中社に列した[2]。戦後は神社本庁別表神社に列している。

神階

神職

『長宗我部地検帳』では、神職として執行・執当・主頭・礼夫・神主・太夫・惣佾・一和尚などの記載が見える[8]

近世の神職は、『皆山集』によると執行・神主・一和尚・忌部3人・宮仕4人・社人の計25人であった[8]。また、別当寺善楽寺四国八十八箇所第30番札所)と神宮寺であった[8]。そのうち善楽寺は明治元年(1868年)に一時廃寺となり、本尊の阿弥陀如来像(土佐神社の本地仏)を安楽寺(高知市洞ヶ島)に、不動明王像を国分寺に移座した[17]。善楽寺は昭和5年(1930年)に復興し、不動明王像は善楽寺に戻されたが、阿弥陀如来像(鎌倉時代作、国の重要文化財)はなお安楽寺に所在している[17]

境内

社殿

本殿(国の重要文化財)
前面に幣殿が接続。
拝殿(国の重要文化財)
拝殿(高屋根部分)からは左右に翼殿、前面に拝の出が接続する。

現在の主要社殿は、室町時代後期、戦国大名長宗我部元親による造営。旧社殿が本山氏による岡豊城侵攻の兵火で焼失したため、四国平定を祈念して永禄11年(1567年)に再建に着手、元亀2年(1571年)に完成したものとされる。主要社殿は本殿・幣殿・拝殿から成り、本殿前に建つ幣殿と拝殿は平面「十」字形を成す。これらは本殿を頭としたトンボ(蜻蛉)が飛び込む形を表す「入蜻蛉(いりとんぼ)」形式といわれ、戦からの凱旋報告を意味するとされる土佐神社独特なものである。本殿(1棟)と幣殿・拝殿(合わせて1棟)は、いずれも国の重要文化財に指定されている。なお若宮八幡宮(高知市長浜)では、出陣に際しての戦勝祈願を意味する「出蜻蛉」形式の社殿が、同じく元親によって造営されている。各社殿の詳細は次の通り[18][19][20][21][1]

本殿
桁行五間・梁間四間、一重で、前面中央三間に向拝一間を付す。屋根は入母屋造で柿葺。外面は全体に極彩色で彩られ随所に彫刻が施されており、本殿内部は内陣・外陣に分かれている。全体的に寺院の本堂に近い造りになる。
幣殿
本殿前に建つ。桁行二間・梁間一間、一重。素木造で、屋根は切妻造で柿葺。
拝殿
幣殿前に接続する。中央の高屋根部分は桁行一間・梁間一間、一重。高屋根部分の前面に桁行六間・梁間一間の「拝の出」を設け、高屋根の左右には桁行四間・梁間二間の翼殿を付す。素木造の簡素な造りで、屋根はいずれも切妻造で柿葺。
鼓楼(国の重要文化財)

拝殿南東に立つ鼓楼は、江戸時代前期の慶安2年(1649年)、土佐藩第2代藩主山内忠義による造営。二重で、屋根は入母屋造で柿葺。初層は「袴腰」と呼ばれる形式で、黒色の板を張り、中央に出入り口を設ける。上層は桁行三間・梁間二間で、彫刻・柱が彩色で彩られており、内部には時を知らせるための太鼓を吊るす。国の重要文化財に指定されている[22][23][24]

楼門(国の重要文化財)

境内入り口に立つ楼門は「神光門」とも称され、江戸時代前期の寛永8年(1631年)、鼓楼同様に山内忠義による造営である。桁行三間、梁間二間の楼門(2階建て門で、初層・上層間に軒の出を造らないものをいう)で、屋根は入母屋造で銅板葺。初層は三間一戸(柱間三間で、中央の一間を通路とする意)で、左右間に随身を祀る。上層は初層に比して建ちが低く、勾欄を付した廻縁がめぐらされている。全体的に素木で、ほとんど装飾を付さない和様建築になる。国の重要文化財に指定されている[25][26][27]

境内には、そのほか神饌所・神庫・社務所等の社殿がある。

旧跡

礫石
土左大神は、この石を投げて鎮座地を選定したと伝える。
  • 礫石(つぶていし)
    境内東北方にある畳2畳程の自然石。土左大神が鎮座地を定めるにあたり投げた石と伝える[3]。古くはこの礫石を磐座として祭祀が行われたとする説がある[8]
  • 禊岩(みそぎいわ)
    境内東方の神苑にある岩。かつての斎場であった境内西方のしなね川に所在したが、境内に移し祀られている[3]
  • 御手洗池(みたらしいけ)
    境内北西方にある池。かつて雨乞神事が行われたと伝える。
  • 斎籠岩(いごもりいわ)
    境内北西方約300メートルの山中に所在する大岩。かつてはこの岩にて斎籠祭を行なったと伝える。

また土佐神社付近には、「一宮古墳群」と称される古墳2基が存在した[12]。いずれも横穴式石室を有する古墳時代後期の古墳で、東側山麓の東天神に1号墳、西約100メートルの大塚に2号墳があった(いずれも消滅)[12]。そのうち2号墳は明治20年(1887年)に破壊され、石室の天井石5枚のうち1枚は土佐神社楼門前の橋に、3枚は鳥付川に架けた太古橋に、1枚は楼門前の社号標に転用された[12]。これらから類推される元の石室は、現在県下最大の小蓮古墳南国市岡豊町小蓮)石室に匹敵する規模であったと見られている[12]

摂末社

現在の摂末社は、摂社3社・末社3社の計6社[2]

摂社

摂社の3社
(左から)事代主神社・西御前社・大国主神社。

末社

以上のほか、鳥居横には秋葉神社の小祠が鎮座する。

関係地

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鳴無神社須崎市浦ノ内東分)
鳴無神社
「おとなしじんじゃ」。浦ノ内湾の最奥部に鎮座する。伝説では、土佐に流されて浦ノ内湾に漂着した一言主命を奉斎したのが鳴無神社で、ここから祀り変える地を選ぶために投げて落ちた大石が土佐神社境内の礫石であるとする。天平宝字3年(759年)に始まるという土佐神社の志那禰祭において、古くは土佐神社の御座船と船遊びがあったというが、のちに土佐神社からの渡御は土佐神社離宮(小一宮)までに改められたという。祭神は土佐神社と同神とし、現在も土佐神社と同じ8月25日に「志那弥祭」として船遊び神事を行なっている[29][30][31]
土佐神社離宮
「小一宮」とも称される。五台山の北麓に鎮座する。かつての志那禰祭において、土佐神社からの神幸があった御旅所(神輿の仮鎮座地、行宮)跡である。元々は鳴無神社への神幸であったが、海難や山犬に襲われるなどがあったため、この小一宮を建ててここまでの神幸に改めたという。この小一宮までの海上渡御は、明治に一本松御旅所が建てられるまで続いた[9][2]
土佐神社御旅所
「一本松御旅所」とも。土佐神社一の鳥居付近に所在。現在の志那禰祭において、神輿が神幸する御旅所である。古くは小一宮までの海路の神幸であったが、明治13年(1880年)に当地に御旅所を建てて徒歩の神幸となった。現在も御旅所祭では、鳴無神社に向かって神楽が奉納されている[32]
葛木男神社
「かつらきおじんじゃ」。昭和47年(1972年)に葛木咩神社を合祀した。
『土佐国風土記』逸文[原 4]には土左高賀茂大社の東4里(約2キロメートル)に土佐郡の郡家(郡衙)があったというが、その郡家の所在地をこの葛木男神社付近に比定する説がある[33]。また同風土記の別の逸文[原 3]では、土佐郡家内には土左大神の子(御子神)の天河命(あまのかわのみこと)を祀る社が、郡家南の道には天河命の娘神の浄川媛命(きよかわひめのみこと)を祀る社があると見え[6]、一説にこれら天河命・浄川媛命は葛木男神・葛木咩神に比定される[6][7]

祭事

年間祭事

社記によると、江戸時代初頭まで土佐神社の祭事は年間75度あったというが、その後は27度となったという[1]。現在の主要祭事は次の通り[3]

  • 歳旦祭 (1月1日
  • 射初祭(いぞめさい) (1月第3日曜)
  • 斎籠祭(いごもりさい) (3月11日-13日
    忌部3人のうち1人が本殿内陣に籠もって祈念し、その間に本殿周囲で種々の神事を行う。この間は一般の参拝は禁じている。かつては境内北西方の「斎籠岩」にて行なったという[3]
  • 大祓式(夏越の祓) (6月30日
  • 志那禰祭(しなね祭) (8月24日25日
  • 秋祭 (10月8日
  • 新嘗祭 (11月23日
  • 大祓式 (12月31日

志那禰祭

志那禰祭(しなねまつり)は、8月24日25日に行われる例祭(最も重要な祭)で、「土佐三大祭」の1つに数えられる[注 1]。古くは旧暦7月3日に行われていた[3][2]

「しなね」の語源は、風神の「シナツヒコ(級長津彦神/志那都比古神)」に基づくとする説、新稲祭(新嘗祭)の「新稲」の転訛とする説など諸説がある。志那禰祭は天平宝字3年(759年)に始まるといい、別名を「御船遊び」といって古代には鳴無神社(須崎市浦ノ内東分)まで御座船で海上神幸を行なったとされる。この海上神幸の存在から、土佐神社が古くは水上交通を掌握していたとする説もある[7]。しかし海難や赤木山(現・青龍寺)の山犬に襲われることがあったので、五台山北麓に御旅所(現・土佐神社離宮:小一宮)を建ててそこまでの船渡御と変わったという。その渡御も、明治13年(1880年)に建てられた現在の一本松御旅所までの徒歩神幸と改まり、現在に至っている[9][2]

今日の祭礼は、8月24日早朝の忌火祭で鑽火を篝松明に移すに始まり、夜に宵宮祭を行う。この松明の火については、参詣者が持ち帰ると落雷から免れるという信仰(火雷信仰)がある。翌25日には午前にしなね祭を行い、午後3時頃からは神幸祭として、神輿を始め宮司・権禰宜・神馬・氏子総代・楽人らの行列が御旅所まで渡る。この神幸では鯰尾鉾(太郎鉾)を始めとする青銅鉾12振が加わり、また昔の名残で昼でも松明を焚き、犬吠えを行う。御旅所では祭礼や神饌献上を行い、終わると本殿に還御し還御祭を行なって祭りを終える[3][1][9][8][2]

文化財

重要文化財(国指定)

  • 本殿(附 本殿棟札12枚)(建造物) - 明治37年8月29日指定[18]
  • 幣殿及び拝殿 1棟(建造物) - 明治37年8月29日指定[19]
  • 鼓楼(建造物) - 昭和9年1月30日指定[22]
  • 楼門(建造物) - 昭和57年2月16日指定[25]

高知市指定文化財

  • 有形文化財
    • 土佐神社の鰐口
      戦国時代天文21年(1552年)作の鰐口。面径41.7センチメートル。土佐国で作られた鰐口の初見になる。昭和42年2月3日指定[34]
    • 土佐神社の能面
      能面38面・狂言面5面・不詳面8面の計51面。長宗我部氏からの寄進と見られ、その作製年代は安土桃山時代以前とされる。昭和42年2月3日指定[35]
    • 土佐神社の銅鏡
      土佐神社に伝わる45面の銅鏡のうちの42面。中国時代作の湖州鏡2面と、平安時代から江戸時代後期にかけての作の和鏡40面に大別され、さらに和鏡は懐中鏡2面・八稜鏡2面・方鏡3面・円鏡33面に分類される。昭和42年2月3日指定[36]

その他

  • 鯰尾鉾
    奈良時代末から平安時代初期頃の作と推定される青銅製の鉾。宝物の1つであるが、文化財指定は受けていない。志那禰祭での神幸行列に加わる青銅鉾12振のうち最も重要な鉾で、「太郎鉾」とも称される[1][2]

現地情報

所在地

交通アクセス

周辺

脚注

注釈

  1. ^ a b 「土佐三大祭」は、土佐神社の志那禰祭(8月24日・25日)、秋葉神社(吾川郡仁淀川町)の秋葉祭り(2月11日)、久礼八幡宮高岡郡中土佐町)の久礼八幡宮大祭(旧暦8月14日-15日)の3祭。
  2. ^ 都佐国造の本拠地の比定地には、土佐神社周辺とする説のほか、小立足尼の「小立」を「尾立(ひじ)」と見て鏡川流域とする説、地検帳に見える「カクソ村」を「国造」の転訛として高知市中須賀町付近とする説がある (土佐神社(平凡社) & 1983年)。

原典

  1. ^ a b c 『日本書紀』天武天皇4年(675年)3月丙午(2日)条(神道・神社史料集成参照)。
  2. ^ a b c 『日本書紀』朱鳥元年(686年)8月辛巳(13日)条(神道・神社史料集成参照)。
  3. ^ a b c 『雅事問答』所収の『土佐国風土記』逸文「土左大神之子」(1944年発見の逸文)。
  4. ^ a b c d 『釈日本紀』巻12「一言主神」所収または巻15「土左大神以神刀一口進于天皇」所収の『土佐国風土記』逸文「土左高賀茂大社」(神道・神社史料集成参照)。
  5. ^ a b c 『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条(神道・神社史料集成参照)。
  6. ^ a b 『延喜式』神名帳 土佐国土佐郡条。
  7. ^ 『続日本紀』天平宝字8年(764年)11月庚子(7日)条(神道・神社史料集成参照)。
  8. ^ a b 『釈日本紀』巻12「一言主神」。
  9. ^ 『古事記』雄略天皇記。
  10. ^ 『日本書紀』雄略天皇4年2月条。
  11. ^ 『先代旧事本紀』「国造本紀」都佐国造条。
  12. ^ 『新抄格勅符抄』10(神事諸家封戸)大同元年(806年)牒(神道・神社史料集成参照)。
  13. ^ 『百錬抄』元仁元年(1224年)10月6日条。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 土佐神社(平凡社) & 1983年.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 都佐坐神社(式内社) & 1987年.
  3. ^ a b c d e f g 神社由緒書。
  4. ^ a b c d e 中世諸国一宮制 & 2000年, pp. 564–567.
  5. ^ 書き下し文は『新編日本古典文学全集 5 風土記』小学館、1997年、p. 513による。
  6. ^ a b c d 『新編日本古典文学全集 5 風土記』小学館、1997年、pp. 513-514。
  7. ^ a b c d 高知県の歴史(山川) & 2001年, pp. 47–48.
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 土佐神社(角川) & 1986年.
  9. ^ a b c d 土佐神社(神々) & 1984年.
  10. ^ 土佐国(平凡社) & 1983年.
  11. ^ 「地誌編 宿毛市 > 沿革」『角川日本地名大辞典 39 高知県』 角川書店、1986年。
  12. ^ a b c d e 一宮古墳群(平凡社) & 1983年.
  13. ^ 高知県の歴史(山川) & 2001年, p. 35.
  14. ^ 土佐郷(平凡社) & 1983年.
  15. ^ 神戸郷(平凡社) & 1983年.
  16. ^ 神道・神社史料集成.
  17. ^ a b 善楽寺(角川) & 1986年.
  18. ^ a b 土佐神社本殿、幣殿及び拝殿(うち本殿) - 国指定文化財等データベース(文化庁
  19. ^ a b 土佐神社本殿、幣殿及び拝殿(うち幣殿及び拝殿) - 国指定文化財等データベース(文化庁
  20. ^ 土佐神社本殿・幣殿及び拝殿(高知県ホームページ)。
  21. ^ 土佐神社本殿、幣殿及び拝殿(高知市ホームページ)。
  22. ^ a b 土佐神社鼓楼 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  23. ^ 土佐神社鼓楼(高知県ホームページ)。
  24. ^ 土佐神社鼓楼(高知市ホームページ)。
  25. ^ a b 土佐神社楼門 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  26. ^ 土佐神社楼門(高知県ホームページ)。
  27. ^ 土佐神社楼門(高知市ホームページ)。
  28. ^ a b c d e f g 境内説明板。
  29. ^ 「鳴無神社」『府県郷社明治神社誌料』 明治神社誌料編纂所編、明治神社誌料編纂所、1912年(『明治神社誌料 府県郷社 下』(近代デジタルライブラリーより)484コマ参照)。
  30. ^ 鳴無神社(平凡社) & 1983年.
  31. ^ 鳴無神社(神々) & 1984年.
  32. ^ 土佐神社御旅所の現地説明板。
  33. ^ 葛木男神社(式内社) & 1987年.
  34. ^ 土佐神社の鰐口(高知市ホームページ)。
  35. ^ 土佐神社の能面(高知市ホームページ)。
  36. ^ 土佐神社の銅鏡(高知市ホームページ)。

参考文献・サイト

土佐神社出版物・現地説明板

  • 神社由緒書
  • 境内説明板

書籍

  • 百科事典
    • 日本歴史地名大系 40 高知県の地名』平凡社、1983年。ISBN 978-4582490404 
      • 「土佐国」「土佐郷」「神戸郷」「土佐神社」「善楽寺」「一宮古墳群」「鳴無神社」
    • 角川日本地名大辞典 39 高知県』角川書店、1986年。ISBN 978-4040013905{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
      • 「土佐国」「土佐郡」「土佐神社」
    • 広谷喜十郎「土佐神社」『国史大辞典吉川弘文館 
  • その他書籍
    • 谷川健一編 編『日本の神々 -神社と聖地- 2 山陽・四国』白水社、1984年。ISBN 4560022127 
      • 高木啓夫「土佐神社」高木啓夫「鳴無神社」
    • 式内社研究会編 編『式内社調査報告 第9巻』皇學館大学出版部、1987年。 
      • 山本大「都佐坐神社」山本大「葛木男神社」山本大「葛木咩神社」
    • 中世諸国一宮制研究会編 編『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000年。ISBN 978-4872941708 
    • 『高知県の歴史』山川出版社、2001年。ISBN 978-4634323902 

サイト

関連図書

  • 古事類苑 神祇部95』 神宮司庁編、土佐神社項。
  • 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、42頁。
  • 白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』東京堂出版、1979年、249頁。

関連項目

外部リンク