「エドワード7世 (イギリス王)」の版間の差分
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{{基礎情報 君主 |
{{基礎情報 君主 |
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| 人名 |
| 人名 = エドワード7世 |
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| 各国語表記 = |
| 各国語表記 = Edward VII |
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| 君主号 |
| 君主号 = [[イギリスの君主|イギリス国王]]<br />[[インド皇帝]] |
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| 画像 |
| 画像 = Eduard_VII_1902.jpg |
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| 画像説明 |
| 画像説明 = エドワード7世(1902年) |
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| 在位 |
| 在位 = [[1901年]][[1月22日]] - [[1910年]][[5月6日]] |
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| 戴冠日 |
| 戴冠日 = [[1902年]][[8月9日]]、於[[ウェストミンスター寺院]] |
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| 全名 = {{Lang|en|Albert Edward}}<br />アルバート・エドワード |
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| 別号 =[[インド皇帝]] |
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| 出生日 = [[1841年]][[11月9日]] |
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| 全名 ={{Lang|en|Albert Edward}}<br />アルバート・エドワード |
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| 生地 = {{GBR3}}<br />{{ENG}}、[[ロンドン]]、[[バッキンガム宮殿]] |
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| 出生日 ={{生年月日と年齢|1841|11|9|no}} |
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| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1841|11|9|1910|5|6}} |
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| 埋葬日 = 1910年[[5月20日]] |
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| 配偶者1 = [[アレクサンドラ・オブ・デンマーク]] |
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| 埋葬地 ={{GBR3}} {{ENG}}、[[ウィンザー (イングランド)|ウィンザー]]、[[ウィンザー城]]、{{仮リンク|セント・ジョージ礼拝堂 (ウィンザー城)|label=セント・ジョージ礼拝堂|en|St George's Chapel at Windsor Castle}} |
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| 子女 = {{Collapsible list|title = 一覧参照|[[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|アルバート・ヴィクター]]<br />[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]<br />[[ルイーズ (ファイフ公爵夫人)|ルイーズ]]<br />[[ヴィクトリア・オブ・ザ・ユナイテッド・キングダム (1868-1935)|ヴィクトリア]]<br />[[モード (ノルウェー王妃)|モード]]<br />アレクサンダー・ジョン}} |
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| 継承者 = |
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| 王家 = [[ザクセン=コーブルク=ゴータ家|サクス=コバーグ・アンド・ゴータ家]] |
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| 継承形式 = |
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| 父親 = [[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート・オブ・サクス=コバーグ・アンド・ゴータ]] |
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| 子女 ={{Collapsible list|title = 一覧参照|[[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|アルバート・ヴィクター]]<br />[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]<br />[[ルイーズ (ファイフ公爵夫人)|ルイーズ]]<br />[[ヴィクトリア・アレクサンドラ (イギリス王女)|ヴィクトリア]]<br />[[モード (ノルウェー王妃)|モード]]<br />[[:en:Prince Alexander John of Wales|アレクサンダー・ジョン]]}} |
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| 母親 = [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]] |
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| 宗教 = [[キリスト教]][[イングランド国教会]] |
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| サイン = EdwardVII Signature.svg |
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| 王室歌 = |
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'''エドワード7世'''({{Lang-en|'''Edward VII'''}}、アルバート・エドワード、{{Lang-en|Albert Edward}}、[[1841年]][[11月9日]] - [[1910年]][[5月6日]])は、[[ウィンザー朝|サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝]]の初代[[イギリスの君主|イギリス国王]]、[[イギリス領インド帝国|インド]][[インド皇帝|皇帝]](在位:[[1901年]][[1月22日]] - [[1910年]][[5月6日]])。 |
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'''エドワード7世'''({{Lang-en|'''Edward VII'''}}、全名:'''アルバート・エドワード'''({{Lang-en|Albert Edward}})、[[1841年]][[11月9日]] - [[1910年]][[5月6日]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Edward-VII Edward VII king of Great Britain and Ireland] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>)は、[[ウィンザー朝|サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝]]の初代[[イギリスの君主|イギリス国王]]、[[インド皇帝]](在位:[[1901年]][[1月22日]] - [[1910年]][[5月6日]])。 |
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母である[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の在位が長期に渡ったため、史上最も長く[[プリンス・オブ・ウェールズ]](皇太子)の立場にあった{{#tag:ref|「君主の長男」([[法定推定相続人]])という立場が最も長いのは現皇太子[[チャールズ (プリンス・オブ・ウェールズ)|チャールズ]]であるが([[2011年]][[4月20日]]にエドワード7世を抜いた)、チャールズがプリンス・オブ・ウェールズに叙されたのは[[1958年]]7月(9歳8か月)であり、生後すぐに叙されたエドワード7世よりもだいぶ遅い。そのためプリンス・オブ・ウェールズ期間が最も長いのは[[2014年]]現在もエドワード7世である。計算上チャールズのプリンス・オブ・ウェールズ期間がエドワード7世を抜くのは[[2017年]][[9月9日]]である<ref name="君塚(2012)402">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.402</ref>。|group=注釈}}。 |
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母である[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の在位が長期にわたったため、[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]]に次いで長く[[プリンス・オブ・ウェールズ]](皇太子)の立場にあった{{#tag:ref|「君主の長男」([[法定推定相続人]])の最長記録は[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]]が[[2011年]][[4月20日]]にエドワード7世の記録を更新したが、チャールズがプリンス・オブ・ウェールズに叙されたのは[[1958年]]7月(9歳8か月)であり、生後すぐに叙されたエドワード7世よりもだいぶ遅かった。そのため、その後もエドワード7世がプリンス・オブ・ウェールズとしての期間が最も長かったが、この記録も[[2017年]][[9月9日]]にチャールズが更新した<ref name="君塚(2012)402">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.402</ref>。|group=注釈}}。 |
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在位は[[1901年]]から[[1910年]]までの10年足らずであったが、その治世は「エドワード朝([[:en:Edwardian era|Edwardian era]])」と呼ばれる。在位中は[[1905年]]まで[[保守党 (イギリス)|保守党]]([[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯爵]]と[[アーサー・バルフォア|バルフォア]])、その後は[[自由党 (イギリス)|自由党]]([[ヘンリー・キャンベル=バナマン|キャンベル=バナマン]]と[[ハーバート・ヘンリー・アスキス|アスキス]])が政権を担当した。彼の治世下に[[日英同盟]]、[[英仏協商]]、[[英露協商]]が締結され、[[日本]]・[[フランス]]・[[ロシア帝国|ロシア]]との関係が強化されたため、「ピースメーカー」と呼ばれた。 |
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在位は[[1901年]]から[[1910年]]までの10年足らずであったが、その治世は「'''エドワード朝'''([[:en:Edwardian era|Edwardian era]])」と呼ばれる。在位中は[[1905年]]まで[[保守党 (イギリス)|保守党]]([[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯爵]]と[[アーサー・バルフォア|バルフォア]])、その後は[[自由党 (イギリス)|自由党]]([[ヘンリー・キャンベル=バナマン|キャンベル=バナマン]]と[[ハーバート・ヘンリー・アスキス|アスキス]])が政権を担当した。彼の治世下に[[日英同盟]]、[[英仏協商]]、[[英露協商]]が締結され、[[日本]]・[[フランス]]・[[ロシア帝国|ロシア]]との関係が強化されたため、「'''ピースメーカー'''」と呼ばれた<ref group=注釈>英露協商が結ばれた1907年には[[日仏協約]]と[[日露協約]]が結ばれた。したがってこの年だけで、[[露仏同盟]]をふくむ[[ドイツ帝国]]包囲網6条約のうち3つが成立したことになる。</ref>。 |
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王妃は[[デンマーク]][[デンマーク君主一覧|国王]][[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]の娘[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレクサンドラ]](愛称アリックス)。 |
王妃は[[デンマーク]][[デンマーク君主一覧|国王]][[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]の娘[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレクサンドラ]](愛称アリックス)。 |
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幼少期・少年期は母と父の厳格な教育方針のもと家庭教育で育てられた。[[1852年]]には[[ベルギー]]、[[1855年]]には[[フランス第二帝政|フランス]]を訪問した。[[1859年]]1月から5月にかけては[[イタリア]]に留学した(→''[[#幼年・少年期|幼年・少年期]]'')。 |
幼少期・少年期は母と父の厳格な教育方針のもと家庭教育で育てられた。[[1852年]]には[[ベルギー]]、[[1855年]]には[[フランス第二帝政|フランス]]を訪問した。[[1859年]]1月から5月にかけては[[イタリア]]に留学した(→''[[#幼年・少年期|幼年・少年期]]'')。 |
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同年10月に[[オックスフォード大学]]に入学(イギリス歴代国王で初めての大学入学)。在学中の[[1860年]]7月から11月まで{{仮リンク|英領カナダ|en|Canada under British rule}}や[[アメリカ合衆国]]各地を歴訪した。[[1861年]]夏に[[イギリス陸軍|陸軍]]に入隊。同年10月には[[ケンブリッジ大学]]へ転校した。不良行為が多く、11月には父アルバートが体調が悪いのを押してケンブリッジを訪問し、説教された。これが原因でアルバートは体調を悪化させ、12月に |
同年10月に[[オックスフォード大学]]に入学([[イギリスの君主の一覧|イギリス歴代国王]]で初めての大学入学)。在学中の[[1860年]]7月から11月まで{{仮リンク|英領カナダ|en|Canada under British rule}}や[[アメリカ合衆国]]各地を歴訪した。[[1861年]]夏に[[イギリス陸軍|陸軍]]に入隊。同年10月には[[ケンブリッジ大学]]へ転校した。不良行為が多く、11月には父アルバートが体調が悪いのを押してケンブリッジを訪問し、説教された。これが原因でアルバートは体調を悪化させ、12月に崩じた。以降女王はバーティを疎むようになり、公務から遠ざけるようになった(→''[[#大学時代|大学時代]]'')。 |
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[[1863年]]3月に[[デンマーク]]王女[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレクサンドラ]](愛称アリックス。[[デンマーク国王]][[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]の娘)と結婚。[[1864年]]に妻の母国デンマークと[[プロイセン王国|プロイセン]]・[[オーストリア帝国|オーストリア]]の間に[[ |
[[1863年]]3月に[[デンマーク]]王女[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレクサンドラ]](愛称アリックス。[[デンマーク国王]][[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]の娘)と結婚。[[1864年]]に妻の母国デンマークと[[プロイセン王国|プロイセン]]・[[オーストリア帝国|オーストリア]]の間に[[第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]が勃発し、彼はデンマークを助けようと同戦争の仲裁のための国際会議{{仮リンク|ロンドン会議 (1864年)|label=ロンドン会議|en|London Conference of 1864}}開催を後援したが、同会議は失敗に終わり、結局デンマークは[[シュレースヴィヒ公国|シュレースヴィヒ]]と[[ホルシュタイン公国|ホルシュタイン]]を失った。これをきっかけにバーティ夫妻は反プロイセン派になった(→''[[#結婚とデンマーク戦争|結婚とデンマーク戦争]]'')。 |
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[[1866年]]11月、[[ロシア帝国|ロシア]]皇子[[アレクサンドル3世|アレクサンドル]](後のアレクサンドル3世)とデンマーク王女[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリー・ダウマー(愛称ミニー)]]の結婚式に出席するため訪露。さらに[[1867年]]6月の[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]に際してロシア皇帝に[[ガーター勲章]]を授与することに尽力し、ロシア皇室との親善を図った(→''[[#ロシアとの関係修復|ロシアとの関係修復]]'')。[[1869年]]1月からは[[ムハンマド・アリー朝|エジプト]]、[[オスマン帝国|トルコ]]、[[ギリシャ王国|ギリシャ]]の三か国を訪問した(→''[[#エジプト・ |
[[1866年]]11月、[[ロシア帝国|ロシア]]皇子[[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル]](後のアレクサンドル3世)とデンマーク王女[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリー・ダウマー(愛称ミニー)]]の結婚式に出席するため訪露。さらに[[1867年]]6月の[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]に際してロシア皇帝に[[ガーター勲章]]を授与することに尽力し、ロシア皇室との親善を図った(→''[[#ロシアとの関係修復|ロシアとの関係修復]]'')。[[1869年]]1月からは[[ムハンマド・アリー朝|エジプト]]、[[オスマン帝国|トルコ]]、[[ギリシャ王国|ギリシャ]]の三か国を訪問した(→''[[#エジプト・オスマン・ギリシャ歴訪|エジプト・トルコ・ギリシャ歴訪]]'')。 |
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同年の{{仮リンク|チャールズ・モーダント (第10代准男爵)|label=サー・チャールズ・モーダント准男爵|en|Sir Charles Mordaunt, 10th Baronet}}の離婚訴訟をめぐって証人として出廷する事態になり、世間から皇太子としての資質を疑われた。女王がアルバート |
同年の{{仮リンク|チャールズ・モーダント (第10代准男爵)|label=サー・チャールズ・モーダント准男爵|en|Sir Charles Mordaunt, 10th Baronet}}の離婚訴訟をめぐって証人として出廷する事態になり、世間から皇太子としての資質を疑われた。女王がアルバート崩御後に引きこもったこともあって、王室人気は危機に瀕した(→''[[#モーダント離婚訴訟事件|モーダント離婚訴訟事件]]'')。しかし[[1871年]]11月から12月にかけて[[腸チフス]]を患って命の危機に瀕したところ、劇的に回復したことで人気を回復した(→''[[#腸チフスからの回復|腸チフスからの回復]]'')。 |
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回復後は宥和的になり、特定の国や人物に敵意を飛ばすことが減り、王族らしくなった。[[1873年]]5月の[[ウィーン万国博覧会]]を支援し、同地で会見したドイツ皇帝・プロイセン王[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]と親睦を深めた(→''[[#ウィーン万国博覧会への協力|ウィーン万国博覧会への協力]]'')。[[1874年]]1月には長弟[[アルフレート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|アルフレッド]]王子とロシア皇女[[マリア・アレクサンドロヴナ (ザクセン=コーブルク=ゴータ公妃)|マリア]]の結婚式出席のため訪露し、ロシア皇室との友好を深めた(→''[[#弟とロシア皇女の結婚をめぐって|弟とロシア皇女の結婚をめぐって]]'')。[[1875年]]11月から[[1876年]]3月にかけて[[英領インド帝国]]を訪問し、女王の名代としてインド[[藩王]]たちに |
回復後は宥和的になり、特定の国や人物に敵意を飛ばすことが減り、王族らしくなった。[[1873年]]5月の[[ウィーン万国博覧会]]を支援し、同地で会見したドイツ皇帝・プロイセン王[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]と親睦を深めた(→''[[#ウィーン万国博覧会への協力|ウィーン万国博覧会への協力]]'')。[[1874年]]1月には長弟[[アルフレート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|アルフレッド]]王子とロシア皇女[[マリア・アレクサンドロヴナ (ザクセン=コーブルク=ゴータ公妃)|マリア]]の結婚式出席のため訪露し、ロシア皇室との友好を深めた(→''[[#弟とロシア皇女の結婚をめぐって|弟とロシア皇女の結婚をめぐって]]'')。[[1875年]]11月から[[1876年]]3月にかけて[[英領インド帝国]]を訪問し、女王の名代としてインド[[藩王]]たちに[[インドの星勲章]]を与えることでインド支配層の懐柔に努めた(→''[[#英領インド公式訪問|英領インド公式訪問]]'')。[[1878年]]5月の[[パリ万国博覧会 (1878年)|パリ万国博覧会]]にも協力し、英仏友好にも尽力した(→''[[#パリ万国博覧会への協力|パリ万国博覧会への協力]]'')。[[1881年]]3月にロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺されるとその葬儀に出席するとともに新皇帝アレクサンドル3世にガーター勲章を贈った(→''[[#ロシア皇帝暗殺をめぐって|ロシア皇帝暗殺をめぐって]]'')。ドイツにも頻繁に訪問し、ドイツ皇室との友好に努めたが、[[1888年]]10月にはオーストリアでドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]と揉める事件があった(→''[[#ドイツとの友好目指して|ドイツとの友好目指して]]'')。 |
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[[1891年]]初頭には{{仮リンク|ロイヤル・バカラ・スキャンダル|en|Royal baccarat scandal}}をめぐって訴えられ、再び法廷に立つことになり、皇太子批判が高まった(→''[[#ロイヤル・バカラ・スキャンダル|ロイヤル・バカラ・スキャンダル]]'')。[[1892年]]1月には長男[[クラレンス公]][[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|アルバート・エドワード]](愛称エディ)が薨去。以降は次男の[[ヨーク公]][[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ]](後のジョージ5世)が彼の後継者となった(→''[[#長男エディの薨去|長男エディの薨去]]'')。 |
[[1891年]]初頭には{{仮リンク|ロイヤル・バカラ・スキャンダル|en|Royal baccarat scandal}}をめぐって訴えられ、再び法廷に立つことになり、皇太子批判が高まった(→''[[#ロイヤル・バカラ・スキャンダル|ロイヤル・バカラ・スキャンダル]]'')。[[1892年]]1月には長男[[クラレンス公]][[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|アルバート・エドワード]](愛称エディ)が薨去。以降は次男の[[ヨーク公]][[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ]](後のジョージ5世)が彼の後継者となった(→''[[#長男エディの薨去|長男エディの薨去]]'')。 |
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[[1901年]][[1月22日]]に母ヴィクトリア女王が崩御し、59歳でイギリス国王に即位。王名を「エドワード7世」に定め、王朝名を[[ウィンザー朝|サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝]]に変更した(→''[[#即位|即位]]'')。[[1902年]][[8月9日]]に[[ウェストミンスター寺院]]で戴冠式を挙行した(→''[[#戴冠式|戴冠式]]'')。 |
[[1901年]][[1月22日]]に母ヴィクトリア女王が崩御し、59歳でイギリス国王に即位。王名を「エドワード7世」に定め、王朝名を[[ウィンザー朝|サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝]]に変更した(→''[[#即位|即位]]'')。[[1902年]][[8月9日]]に[[ウェストミンスター寺院]]で戴冠式を挙行した(→''[[#戴冠式|戴冠式]]'')。 |
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内政では[[保守党 (イギリス)|保守党]]政権時期には[[アーサー・バルフォア]]の主導で中等教育制度確立を目指すバルフォア教育法が制定され、またアイルランド小作人への宥和政策であるウィンダム法が制定された(→''[[#保守党政権期|保守党政権期]]'')。[[1905年]]に[[自由党 (イギリス)|自由党]]政権に代わると首相[[ヘンリー・キャンベル=バナマン]]を強く信任したが、野党保守党が貴族院で法案を否決する戦術をとったことにより改革は前に進まなくなった。[[1908年]]に[[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]が首相になると政府の急進的政策に警戒を強めつつ、野党保守党に極端な行動を取らないよう説得にあたった。財務大臣[[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド・ジョージ]]の主導で老齢年金法が制定され、さらに庶民院の優越を定めた[[議会法]]制定を目指 |
内政では[[保守党 (イギリス)|保守党]]政権時期には[[アーサー・バルフォア]]の主導で中等教育制度確立を目指すバルフォア教育法が制定され、またアイルランド小作人への宥和政策であるウィンダム法が制定された(→''[[#保守党政権期|保守党政権期]]'')。[[1905年]]に[[自由党 (イギリス)|自由党]]政権に代わると首相[[ヘンリー・キャンベル=バナマン]]を強く信任したが、野党保守党が貴族院で法案を否決する戦術をとったことにより改革は前に進まなくなった。[[1908年]]に[[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]が首相になると政府の急進的政策に警戒を強めつつ、野党保守党に極端な行動を取らないよう説得にあたった。財務大臣[[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド・ジョージ]]の主導で老齢年金法が制定され、さらに庶民院の優越を定めた[[議会法]]制定を目指したが、その法案をめぐる自由党と保守党の対立の最中に崩御した(→''[[#自由党政権期|自由党政権期]]'')。 |
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外交では保守党政権期に[[ボーア戦争|第2次ボーア戦争]]が終結し、[[南アフリカ]]を併合した(→''[[#第2次ボーア戦争終結|第2次ボーア戦争終結]]'')。また極東においては[[清|中国]]分割をめぐって[[満洲]]占領・北中国の勢力圏化を推し進めるロシアを警戒し、[[日本]]と[[日英同盟|軍事同盟]]を締結した(→''[[#日英同盟|日英同盟]]'')。[[日露戦争]]でも日本を支援した(→''[[#日露戦争をめぐって|日露戦争をめぐって]]'')。フランスとも友好関係深め、世界各地で発生していた英仏の植民地争奪戦を互譲的に解決し、[[英仏協商]]関係を築いた(→''[[#英仏協商|英仏協商]]'')。さらに自由党政権時代にはロシアとも友好関係を深め、中央アジアの[[グレート・ゲーム]]を互譲的に解決して[[英露協商]]関係を築く(→''[[#英露協商|英露協商]]'')。しかしドイツとの関係は悪化の一途をたどり、彼の崩御から4年後に |
外交では保守党政権期に[[ボーア戦争|第2次ボーア戦争]]が終結し、[[南アフリカ]]を併合した(→''[[#第2次ボーア戦争終結|第2次ボーア戦争終結]]'')。また極東においては[[清|中国]]分割をめぐって[[満洲]]占領・北中国の勢力圏化を推し進めるロシアを警戒し、[[日本]]と[[日英同盟|軍事同盟]]を締結した(→''[[#日英同盟|日英同盟]]'')。[[日露戦争]]でも日本を支援した(→''[[#日露戦争をめぐって|日露戦争をめぐって]]'')。フランスとも友好関係を深め、世界各地で発生していた英仏の植民地争奪戦を互譲的に解決し、[[英仏協商]]関係を築いた(→''[[#英仏協商|英仏協商]]'')。さらに自由党政権時代にはロシアとも友好関係を深め、中央アジアの[[グレート・ゲーム]]を互譲的に解決して[[英露協商]]関係を築く(→''[[#英露協商|英露協商]]'')。しかしドイツとの関係は悪化の一途をたどり、彼の崩御から4年後に[[第一次世界大戦]]が勃発することになる(→''[[#ドイツ・オーストリアとの対立|ドイツ・オーストリアとの対立]]'')。 |
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過労で[[気管支炎]]を悪化させ、[[ |
過労で[[気管支炎]]を悪化させ、[[1910年]][[5月6日]]に[[崩御]]した。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 皇太子として === |
=== 皇太子として === |
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生誕とともに[[コーンウォール公爵]]に叙され<ref name="森(1994)82">[[#森(1994)|森(1994)]] p.82</ref>、一月後の[[12月4日]]には[[プリンス・オブ・ウェールズ]](皇太子)に叙される<ref name="ワイ上249">[[#ワイ上|ワイントラウブ(1997)上巻]] p.249</ref>。 |
生誕とともに[[コーンウォール公爵]]に叙され<ref name="森(1994)82">[[#森(1994)|森(1994)]] p.82</ref>、一月後の[[12月4日]]には[[プリンス・オブ・ウェールズ]](皇太子)に叙される<ref name="ワイ上249">[[#ワイ上|ワイントラウブ(1997)上巻]] p.249</ref>。 |
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[[1842年]][[1月25日]]に |
[[1842年]][[1月25日]]に[[セントジョージ礼拝堂 (ウィンザー城)|聖ジョージ・チャペル]]で[[洗礼]]を受け、父アルバートと、ヴィクトリア女王の父である[[ケント公]][[エドワード (ケント公)|エドワード]]の名前を取って「'''アルバート・エドワード'''」と名付けられた{{#tag:ref|時の[[イギリスの首相|首相]][[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン卿]]は「アルバート」の名前は[[ノルマン朝]]が始まって以来、王名に使われたことがないとして「エドワード・アルバート」にすべきと上奏したが、女王は夫であるアルバートへの敬意からこれを退けた<ref name="君塚(2012)4-5">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.4-5</ref>。|group=注釈}}。王室内ではアルバートの名から「'''バーティ'''(Bertie)」と愛称された<ref name="君塚(2012)3-5">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.3-5</ref>。 |
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==== 幼年・少年期 ==== |
==== 幼年・少年期 ==== |
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[[File:Edward VII (1841 – 1910).jpg|180px|thumb|幼い頃のバーティ([[フランツ・ヴィンターハルター]]画)。]] |
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ヴィクトリア女王の女官であるリトルトン男爵夫人{{仮リンク|サラ・リトルトン (リトルトン男爵夫人)|label=サラ・リトルトン|en|Sarah Lyttelton, Baroness Lyttelton}}が[[乳母]]に付けられた。バーティはよく彼女になついたという。また[[イートン校]]教師ヘンリー・バーチが住み込みの家庭教師に付けられた。幼い頃のバーティはきかん坊だったというが、3歳年下の弟アルフレッドが一緒に勉強するようになると、弟のお手本になろうと勉学に励むようになったという。とりわけ語学に優れ、[[英語]]、[[ドイツ語]]、[[フランス語]]の3カ国語を完璧に話せるようになった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.5-7</ref>。 |
ヴィクトリア女王の女官であるリトルトン男爵夫人{{仮リンク|サラ・リトルトン (リトルトン男爵夫人)|label=サラ・リトルトン|en|Sarah Lyttelton, Baroness Lyttelton}}が[[乳母]]に付けられた。バーティはよく彼女になついたという。また[[イートン校]]教師ヘンリー・バーチが住み込みの家庭教師に付けられた。幼い頃のバーティはきかん坊だったというが、3歳年下の弟アルフレッドが一緒に勉強するようになると、弟のお手本になろうと勉学に励むようになったという。とりわけ語学に優れ、[[英語]]、[[ドイツ語]]、[[フランス語]]の3カ国語を完璧に話せるようになった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.5-7</ref>。 |
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母も父も教育には厳格で、特に[[1858年]]に姉ヴィクトリアが[[プロイセン王国|プロイセン]]の第二位王位継承権者[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ王子]](のちのドイツ皇帝・プロイセン王フリードリヒ3世)に輿入れしてロンドンを去った後に両親の目はバーティに集中した。そのためバーティは息がつまりそうな生活を送ったという<ref name="君塚(2012)7-8">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.7-8</ref>。 |
母も父も教育には厳格で、特に[[1858年]]に姉ヴィクトリアが[[プロイセン王国|プロイセン]]の第二位王位継承権者[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ王子]](のちのドイツ皇帝・プロイセン王フリードリヒ3世)に輿入れしてロンドンを去った後に両親の目はバーティに集中した。そのためバーティは息がつまりそうな生活を送ったという<ref name="君塚(2012)7-8">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.7-8</ref>。 |
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[[1852年]]に初の外国訪問として大叔父[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]が国王として統治する[[ベルギー]]を訪問した<ref name="君塚(2012)8">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.8</ref>。ついで[[1855年]]8月には両親とともに[[フランス第二帝政|フランス帝国]]帝都[[パリ]]を訪問した。[[フランス皇帝]][[ナポレオン3世]]は当時皇子がなかったのでバーティを我が子のように可愛がってくれ、バーティはナポレオン3世と馬車に同乗した際に「貴方の息子に生まれたかった」と呟いたという<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.8-9</ref>。 |
[[1852年]]に初の外国訪問として大叔父[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]が国王として統治する[[ベルギー]]を訪問した<ref name="君塚(2012)8">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.8</ref>。ついで[[1855年]]8月には両親とともに[[フランス第二帝政|フランス帝国]]帝都[[パリ]]を訪問した。[[フランス皇帝]][[ナポレオン3世]]は当時皇子がなかったのでバーティを我が子のように可愛がってくれ、バーティはナポレオン3世と馬車に同乗した際に「貴方の息子に生まれたかった」と呟いたという<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.8-9</ref>。[[1857年]]から2、3年間、父アルバート王配の方針でロンドン南西[[リッチモンド公園|リッチモンド・パーク]]内[[ホワイト・ロッジ]]で過ごした。 |
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[[1859年]]1月から陸軍大佐ロバート・ブルースを補導役にして[[イタリア半島]][[教皇領]][[ローマ]]に留学した{{#tag:ref|あくまで勉強であったので「[[プリンス・オブ・ウェールズ]]」としてではなく、「[[レンフルー男爵]](英国皇太子が継ぐ爵位の一つ)」として訪問している<ref name="君塚(2012)10">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.10</ref>。|group=注釈}}。[[フレデリック・レイトン]]はじめ多くの画家たちの知遇を得、また[[ローマ教皇]][[ピウス9世]]とも会見した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.10-11</ref>。 |
[[1859年]]1月から陸軍大佐ロバート・ブルースを補導役にして[[イタリア半島]][[教皇領]][[ローマ]]に留学した{{#tag:ref|あくまで勉強であったので「[[プリンス・オブ・ウェールズ]]」としてではなく、「[[レンフルー男爵]](英国皇太子が継ぐ爵位の一つ)」として訪問している<ref name="君塚(2012)10">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.10</ref>。|group=注釈}}。[[フレデリック・レイトン]]はじめ多くの画家たちの知遇を得、また[[ローマ教皇]][[ピウス9世]]とも会見した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.10-11</ref>。 |
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しかし4月には[[イタリア統一戦争]]が勃発し、フランス軍がローマへ進駐してきたため、父アルバートから帰国を命じられた。これにより予定より2、3カ月早い5月初めに帰国した<ref name="君塚(2012)11">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.11</ref>。 |
しかし4月には[[イタリア統一戦争]]が勃発し、フランス軍がローマへ進駐してきたため、父アルバートから帰国を命じられた。これにより予定より2、3カ月早い5月初めに帰国した<ref name="君塚(2012)11">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.11</ref>。 |
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{{-}} |
{{-}} |
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==== 大学時代 ==== |
==== 大学時代 ==== |
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[[ファイル:Prince Edward 1860.jpg|200px|thumb|1860年の[[オックスフォード大学]]在学中のバーティ。]] |
[[ファイル:Prince Edward 1860.jpg|200px|thumb|1860年の[[オックスフォード大学]]在学中のバーティ。]] |
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帰国後の1859年10月から[[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]]に入学した<ref name="君塚(2012)14">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.14</ref>。彼はイギリス歴代国王で初めて大学で学んだ国王である(ただし正規のコースではない)<ref name="森(1999)266">[[#森(1999)|森(1999)]] p.266</ref>。 |
帰国後の1859年10月から[[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]]に入学した<ref name="君塚(2012)14">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.14</ref>。彼はイギリス歴代国王で初めて大学で学んだ国王である(ただし正規のコースではない)<ref name="森(1999)266">[[#森(1999)|森(1999)]] p.266</ref>。 |
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大学在学中の[[1860年]]7月、 |
大学在学中の[[1860年]]7月、[[植民地大臣]]第5代[[ニューカッスル公爵]][[ヘンリー・ペラム=クリントン (第5代ニューカッスル公爵)|ヘンリー・ペラム=クリントン]]、{{仮リンク|家政長官 (イギリス)|label=家政長官|en|Lord Steward}}第3代{{仮リンク|セント・ジャーマンズ伯爵|en|Earl of St Germans}}{{仮リンク|エドワード・エリオット (第3代セント・ジャーマンズ伯爵)|label=エドワード・エリオット|en|Edward Eliot, 3rd Earl of St Germans}}、補導役ブルース少将を随伴して{{仮リンク|英領カナダ|en|Canada under British rule}}を訪問した。カナダ各地をめぐり、[[オタワ]]では国会議事堂の[[礎石|定礎式]]に臨んだ<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.16-17</ref>。 |
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9月にはカナダから[[アメリカ合衆国]]へ入国した。3カ月かけてアメリカ各地を歴訪したが、アメリカでのバーティの知名度は抜群であり、各地で歓迎された。[[ワシントンD.C.|ワシントン]]の[[ホワイトハウス]]でも[[ジェームズ・ブキャナン]]大統領から歓待された。[[アメリカ南北戦争]]直前というタイミングでの訪米になった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.18-20</ref>。 |
9月にはカナダから[[アメリカ合衆国]]へ入国した。3カ月かけてアメリカ各地を歴訪したが、アメリカでのバーティの知名度は抜群であり、各地で歓迎された。[[ワシントンD.C.|ワシントン]]の[[ホワイトハウス]]でも[[ジェームズ・ブキャナン]]大統領から歓待された。[[アメリカ南北戦争]]直前というタイミングでの訪米になった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.18-20</ref>。 |
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11月にイギリスへ帰国して大学に復学。[[1861年]]夏には[[イギリス陸軍|陸軍]]近衛歩兵連隊に入隊して[[アイルランド]]で訓練を受けたが、この際にアイルランドの女優{{仮リンク|ネリー・クリフデン|en|Nellie Clifden}}と初性交し、恋愛関係になった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.23-24</ref>。同年9月には美人で名高いデンマーク王族[[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン]](後の[[デンマーク国王]])の娘[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレクサンドラ]](アリックス)とお見合いしたが、やがてネリーとの関係が両親に知れた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.23-26</ref>。またバーティは1861年10月に転校した[[ケンブリッジ大学]]で[[御学友]]と組んでの不良行為が増えていた。そのため父アルバートは11月に体調悪化を押してバーティに説教するためにケンブリッジへやってきた。バーティは父の言いつけを守ると約束したが、アルバートはこの時に無理をしたことがたたり、[[腸チフス]]を悪化させて危篤状態に陥った。父の危篤を知ったバーティは[[12月14日]]午前3時にウィンザー城に駆け付けた。父は瀕死の状態だったが、バーティの顔を見ると安心したような表情になったという。同日午後11時にアルバートは |
11月にイギリスへ帰国して大学に復学。[[1861年]]夏には[[イギリス陸軍|陸軍]]近衛歩兵連隊に入隊して[[アイルランド]]で訓練を受けたが、この際にアイルランドの女優{{仮リンク|ネリー・クリフデン|en|Nellie Clifden}}と初性交し、恋愛関係になった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.23-24</ref>。同年9月には美人で名高いデンマーク王族[[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン]](後の[[デンマーク国王]])の娘[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレクサンドラ]](アリックス)とお見合いしたが、やがてネリーとの関係が両親に知れた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.23-26</ref>。またバーティは1861年10月に転校した[[ケンブリッジ大学]]で[[御学友]]と組んでの不良行為が増えていた。そのため父アルバートは11月に体調悪化を押してバーティに説教するためにケンブリッジへやってきた。バーティは父の言いつけを守ると約束したが、アルバートはこの時に無理をしたことがたたり、[[腸チフス]]を悪化させて危篤状態に陥った。父の危篤を知ったバーティは[[12月14日]]午前3時にウィンザー城に駆け付けた。父は瀕死の状態だったが、バーティの顔を見ると安心したような表情になったという。同日午後11時にアルバートは崩御した。これをきっかけに母ヴィクトリアは「できそこない」のバーティのせいでアルバートが死んだと考えるようになり、バーティを公務から遠ざけるようになった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.25-28</ref>。 |
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女王から不良行為のお目付け役として{{仮リンク|フランシス・ノウルズ (初代ノウルズ子爵)|label=フランシス・ノウルズ|en|Francis Knollys, 1st Viscount Knollys}}(のちの初代 |
女王から不良行為のお目付け役として{{仮リンク|フランシス・ノウルズ (初代ノウルズ子爵)|label=フランシス・ノウルズ|en|Francis Knollys, 1st Viscount Knollys}}(のちの初代[[ノールズ子爵|ノウルズ子爵]])を個人秘書官に付けられた。しかしバーティとノウルズはすぐにも深い信頼関係で結ばれ、ノウルズは後々までバーティの側近として活躍していく<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.51-52</ref>。 |
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[[1862年]]6月にケンブリッジ大学の学業を終えた<ref name="君塚(2012)28">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.28</ref>。 |
[[1862年]]6月にケンブリッジ大学の学業を終えた<ref name="君塚(2012)28">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.28</ref>。 |
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==== 結婚とデンマーク戦争 ==== |
==== 結婚とデンマーク戦争 ==== |
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[[File:William Powell Frith - The Marriage of the Prince of Wales, 10 March 1863.JPG|250px|thumb|1863年3月11日 |
[[File:William Powell Frith - The Marriage of the Prince of Wales, 10 March 1863.JPG|250px|thumb|1863年3月11日、[[ウィンザー城]]・[[セント・ジョージ・チャペル (ウィンザー城)|セント・ジョージ・チャペル]]で行われたバーティと[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレクサンドラ]]の結婚式を描いた絵画([[ウィリアム・フリス]]画)]] |
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[[1863年]]3月に[[ウィンザー城]]の |
[[1863年]]3月に[[ウィンザー城]]の[[セント・ジョージ・チャペル (ウィンザー城)|セント・ジョージ・チャペル]]でアリックスと結婚した。二人は[[セント・ジェームズ宮殿]]近くの{{仮リンク|マールバラハウス|label=マールバラ邸|en|Marlborough House}}(1850年に女王が購入していた)で新婚生活を始めた。また[[ノーフォーク]]に[[サンドリンガムハウス|サンドリンガム邸]]を購入した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.28-30</ref>。夫妻は長男[[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|アルバート・ヴィクター・クリスチャン・エドワード]](愛称「エディ」)、次男[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート]](後の国王ジョージ5世)はじめ二男三女に恵まれた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.30-31</ref>。 |
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同年11月には[[岳父]]クリスチャンがクリスチャン9世としてデンマーク王に即位した。当時デンマークは[[シュレースヴィヒ公国]]や[[ホルシュタイン公国]]と[[同君連合]]の関係にあったが、両公国のドイツ人住民の間でドイツ・ナショナリズムが高まっており、デンマーク君主を戴くことに反発が強まった。このドイツ世論を背景に[[プロイセン王国|プロイセン]]首相[[オットー・フォン・ビスマルク]]は[[オーストリア帝国|オーストリア]]と連携して[[1864年]]2月から[[ |
同年11月には[[岳父]]クリスチャンがクリスチャン9世としてデンマーク王に即位した。当時デンマークは[[シュレースヴィヒ公国]]や[[ホルシュタイン公国]]と[[同君連合]]の関係にあったが、両公国のドイツ人住民の間でドイツ・ナショナリズムが高まっており、デンマーク君主を戴くことに反発が強まった。このドイツ世論を背景に[[プロイセン王国|プロイセン]]首相[[オットー・フォン・ビスマルク]]は[[オーストリア帝国|オーストリア]]と連携して[[1864年]]2月から[[第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]を開始した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.31-33</ref>。 |
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両公国がプロイセンに併合されることを憂慮したバーティは、時の[[自由党 (イギリス)|自由党]]政権の[[外務・英連邦大臣|外相]]初代[[ラッセル伯爵]][[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)|ジョン・ラッセル]]に国際会議を開催するよう働きかけた。バーティは |
両公国がプロイセンに併合されることを憂慮したバーティは、時の[[自由党 (イギリス)|自由党]]政権の[[外務・英連邦大臣|外相]]初代[[ラッセル伯爵]][[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)|ジョン・ラッセル]]に国際会議を開催するよう働きかけた。バーティは強力な[[王立海軍]]で威圧すればプロイセンもオーストリアも引き下がると考えていた{{#tag:ref|現実には鉄道網の発達でヨーロッパ大陸における海軍による港湾封鎖の価値はこの頃微妙になっていた<ref name="君塚(2012)35">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.35</ref>。|group=注釈}}。[[イギリスの首相|イギリス首相]]第3代[[パーマストン子爵]][[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|ヘンリー・ジョン・テンプル]]も外相ラッセル伯爵も会議外交による介入に乗り気だったが、ヴィクトリア女王や閣僚の大半が介入に反対した。女王はプロイセン皇太子に嫁いだ長女ヴィッキーと、デンマーク王女を皇太子妃に迎えたバーティの間で板挟みになっていた。結局パーマストン子爵の強い押しで4月25日から{{仮リンク|ロンドン会議 (1864年)|label=ロンドン会議|en|London Conference of 1864}}が開催されるも、同会議は何の成果もないまま、6月25日までに決裂した。戦闘が再開され、デンマークは[[7月20日]]に降伏し、ホルシュタインとシュレースヴィヒに関する権利を失った。この一件以来、アリックスはプロイセンやドイツを恨むようになり、バーティも彼女に歩調を合わせて駐英プロイセン公使{{仮リンク|アルブレヒト・フォン・ベルンシュトルフ|de|Albrecht von Bernstorff}}伯爵に冷淡な態度を取るようになった。ベルンシュトルフはその件で女王に苦言を呈し、女王からバーティに注意が入っている<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.33-37</ref>。 |
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==== ロシアとの関係修復 ==== |
==== ロシアとの関係修復 ==== |
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[[File:Prince of Wales Edward (1841-1910).jpg|180px|thumb|1860年代のバーティ。]] |
[[File:Prince of Wales Edward (1841-1910).jpg|180px|thumb|1860年代のバーティ。]] |
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[[1866年]]11月、[[ツァーリ|ロシア皇帝]][[アレクサンドル2世]]の次男[[アレクサンドル3世|アレクサンドル皇子]](後のロシア皇帝アレクサンドル3世)がデンマーク王女[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリー・ダウマー(愛称ミニー)]]と結婚した。ミニーはアリックスの妹であり、この結婚式にはバーティも出席したがっていたが、英露関係は[[クリミア戦争]]やアジアにおける植民地争いのために悪化していたため、女王が強硬に反対した。だが時の[[保守党 (イギリス)|保守党]]政権の首相第14代[[ダービー伯爵]][[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|エドワード・スミス=スタンリー]]はロシアとの関係改善を企図していたので皇太子訪 |
[[1866年]]11月、[[ツァーリ|ロシア皇帝]][[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]の次男[[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル皇子]](後のロシア皇帝アレクサンドル3世)がデンマーク王女[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリー・ダウマー(愛称ミニー)]]と結婚した。ミニーはアリックスの妹であり、この結婚式にはバーティも出席したがっていたが、英露関係は[[クリミア戦争]]やアジアにおける植民地争いのために悪化していたため、女王が強硬に反対した。だが時の[[保守党 (イギリス)|保守党]]政権の首相第14代[[ダービー伯爵]][[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|エドワード・スミス=スタンリー]]はロシアとの関係改善を企図していたので皇太子訪露に前向きであり、女王の説得にあたった。その結果、バーティは11月6日にロシアを訪問することになった(アリックスは妊娠中だったので出席を見合わせた)。ロシア側は英皇太子の訪露が実現するか固唾をのんで見守っていたのでバーティ訪問が決定すると大喜びし、皇帝自らが駅まで出迎える大歓迎を行った。11月9日の結婚式でも特等席に案内された<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.37-39</ref>。 |
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バーティ訪露に際してロシア側は[[ガーター勲章]]をロシア皇帝に贈ってほしいとイギリス政府に要請していたが、ヴィクトリア女王が「オーストリア皇帝にもまだ贈られていないのに変則的にロシア皇帝にだけ先に贈られるというのはおかしい」と反対したため、この時は沙汰やみとなった。しかしバーティは贈ってやりたいと考えており、外相スタンリー卿[[エドワード・スタンリー (第15代ダービー伯爵)|エドワード・スタンリー]](後の第15代ダービー伯爵)と協力して、女王の説得にあたった。その結果、女王はオーストリア皇帝とロシア皇帝がそろって出席する[[1867年]]6月の[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]の席で両皇帝に同時にガーター勲章を贈ることを許可した。ロシア皇帝はバーティの配慮に深く感謝し、英露関係は一定の改善を見た<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.37-42</ref>。 |
バーティ訪露に際してロシア側は[[ガーター勲章]]をロシア皇帝に贈ってほしいとイギリス政府に要請していたが、ヴィクトリア女王が「オーストリア皇帝にもまだ贈られていないのに変則的にロシア皇帝にだけ先に贈られるというのはおかしい」と反対したため、この時は沙汰やみとなった。しかしバーティは贈ってやりたいと考えており、外相スタンリー卿[[エドワード・スタンリー (第15代ダービー伯爵)|エドワード・スタンリー]](後の第15代ダービー伯爵)と協力して、女王の説得にあたった。その結果、女王はオーストリア皇帝とロシア皇帝がそろって出席する[[1867年]]6月の[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]の席で両皇帝に同時にガーター勲章を贈ることを許可した。ロシア皇帝はバーティの配慮に深く感謝し、英露関係は一定の改善を見た<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.37-42</ref>。 |
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==== エジプト・ |
==== エジプト・オスマン・ギリシャ歴訪 ==== |
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[[ギリシャ王国|ギリシャ]][[ギリシャ国王の一覧|国王]][[ゲオルギオス1世 (ギリシャ王)|ゲオルギオス1世]]は、バーティの妻アリックスの弟だったので、バーティは早期のギリシャ訪問を希望した。だが1866年から[[クレタ島]]で[[オスマン |
[[ギリシャ王国|ギリシャ]][[ギリシャ国王の一覧|国王]][[ゲオルギオス1世 (ギリシャ王)|ゲオルギオス1世]]は、バーティの妻アリックスの弟だったので、バーティは早期のギリシャ訪問を希望した。だが1866年から[[クレタ島]]で[[オスマン帝国]]の支配からの解放とギリシャ帰属を求めるギリシャ人の反乱が発生し、ギリシャ、オスマン、[[ムハンマド・アリー朝|エジプト]]の間でクレタ島領有権争いが激化したため、慎重に判断する必要があった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.43-44</ref>。 |
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[[1868年]]12月に政権についた[[第1次グラッドストン内閣]](自由党政権)の外相第4代[[クラレンドン伯爵]][[ジョージ・ヴィリアーズ (第4代クラレンドン伯爵)|ジョージ・ヴィリアーズ]]もクレタ島領有権問題が解決するまでは王室の人間が特定の当事国にだけ訪問することに反対であると上奏してきた<ref name="君塚(2012)45">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.45</ref>。 |
[[1868年]]12月に政権についた[[第1次グラッドストン内閣]](自由党政権)の外相第4代[[クラレンドン伯爵]][[ジョージ・ヴィリアーズ (第4代クラレンドン伯爵)|ジョージ・ヴィリアーズ]]もクレタ島領有権問題が解決するまでは王室の人間が特定の当事国にだけ訪問することに反対であると上奏してきた<ref name="君塚(2012)45">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.45</ref>。 |
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そこでバーティはギリシャだけではなく、エジプト、 |
そこでバーティはギリシャだけではなく、エジプト、オスマン帝国にも歴訪するプランに変更することで訪問を政府に認めさせた。[[1869年]]1月からエジプトを訪問し、ついで3月からオスマン帝国を訪問した。そして4月からギリシャを訪問して5月に歴訪の旅を終えた。バーティはいずれの国からも大歓迎され、関係を深めることができた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.46-49</ref>。 |
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==== モーダント離婚訴訟事件 ==== |
==== モーダント離婚訴訟事件 ==== |
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[[1869年]]、バーティの友人である地主・[[庶民院]]議員{{仮リンク|チャールズ・モーダント (第10代 |
[[1869年]]、バーティの友人である地主・[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員{{仮リンク|チャールズ・モーダント (第10代準男爵)|label=第10代準男爵サー・チャールズ・モーダント|en|Sir Charles Mordaunt, 10th Baronet}}の妻{{仮リンク|ハリエット・モーダント|label=ハリエット|en|Harriet Mordaunt}}が子供を身ごもったが、この子供はモーダントの子供ではなかった。怪しんだモーダントは妻の机を調べ、そこからバーティはじめ複数の男性から送られた手紙を発見し、彼らが妻の浮気相手と確信した(バーティ自身はモーダント夫人とは友人なだけだったが)<ref name="君塚2012 p.49-50">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.49-50</ref>。 |
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モーダントは、妻の不貞を理由に離婚訴訟を起こした。バーティは皇太子という立場から直接訴えられる事はなかったものの、[[1870年]]2月23日の裁判で証人として出廷することになった。皇太子が離婚訴訟に巻き込まれること自体が異例であり、これはバーティにとって大きな恥辱となり、皇太子としての資質に疑問が呈されるようになった<ref name="ベイ196">[[#ベイ|ベイカー(1997)]] p.196 |
モーダントは、妻の不貞を理由に離婚訴訟を起こした。バーティは皇太子という立場から直接訴えられる事はなかったものの、[[1870年]]2月23日の裁判で証人として出廷することになった。皇太子が離婚訴訟に巻き込まれること自体が異例であり、これはバーティにとって大きな恥辱となり、皇太子としての資質に疑問が呈されるようになった<ref name="君塚2012 p.49-50"/><ref name="ベイ196">[[#ベイ(1997)|ベイカー(1997)]] p.196</ref>。 |
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さらに[[普仏戦争]]の勃発直前の1870年夏、バーティは「[[プロイセン王国|プロイセン]]封じ込めのため英仏同盟を結ぶべき」との発言で物議を醸し、駐英プロイセン公使{{仮リンク|アルブレヒト・フォン・ベルンシュトルフ|de|Albrecht von Bernstorff}}伯爵から抗議を受け、プロイセン本国にも発言が伝わった{{Sfnp|君塚|2023|p=109-110}}。このため[[フランシス・ノウルズ (初代ノウルズ子爵)|ノウルズ]]秘書官がプロイセン公使館を訪れ、ベルンシュトルフ公使に釈明を行った。 |
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また母ヴィクトリア女王もアルバートの死後、[[スコットランド]]の[[バルモラル城]]や[[ワイト島]]の[[オズボーン・ハウス]]に籠りきりになって公の場に姿を見せなくなっており、使用人[[ジョン・ブラウン (使用人)|ジョン・ブラウン]]との関係も噂されているような状況だったため、王室人気が地に落ちて共和政へ移行することを希望する世論が高まった([[1870年]]から[[1871年]]にかけての[[普仏戦争]]の結果、フランスが共和政に移行したこともその世論を助長した)<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.52-53</ref>。 |
また母ヴィクトリア女王もアルバートの死後、[[スコットランド]]の[[バルモラル城]]や[[ワイト島]]の[[オズボーン・ハウス]]に籠りきりになって公の場に姿を見せなくなっており、使用人[[ジョン・ブラウン (使用人)|ジョン・ブラウン]]との関係も噂されているような状況だったため、王室人気が地に落ちて共和政へ移行することを希望する世論が高まった([[1870年]]から[[1871年]]にかけての[[普仏戦争]]の結果、フランスが共和政に移行したこともその世論を助長した)<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.52-53</ref>。 |
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グラッドストン首相は外相第2代 |
グラッドストン首相は外相第2代[[グランヴィル伯爵]][[グランヴィル・ルーソン=ゴア (第2代グランヴィル伯爵)|グランヴィル・ルーソン=ゴア]]に宛てた書簡の中で「女王は姿が見えず、皇太子は尊敬されていない」という憂慮を表明している<ref name="君塚(2012)54">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.54</ref>。 |
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==== 腸チフスからの回復 ==== |
==== 腸チフスからの回復 ==== |
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[[1871年]]11月末にバーティは父アルバートの死因となった腸チフスを患い、12月に入ると危篤状態に陥った。これには共和政への移行を論じていた新聞や雑誌も含めて国中が心配した。普段はバーティに厳しい女王もこの時ばかりは2週間にわたってバーティの看病に付きっきりになった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.55-56</ref>。 |
[[1871年]]11月末にバーティは父アルバートの死因となった腸チフスを患い、12月に入ると危篤状態に陥った。これには共和政への移行を論じていた新聞や雑誌も含めて国中が心配した。普段はバーティに厳しい女王もこの時ばかりは2週間にわたってバーティの看病に付きっきりになった<ref name="君塚2012 p.55-56">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.55-56</ref>。 |
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ちょうどアルバートの命日の[[12月14日]]にバーティは奇跡的に意識を取り戻し、以降病状は快方に向かった。まるで亡きアルバートがバーティを救ったかのような劇的な展開に国中が歓喜した。首相グラッドストンはこれを王室人気を回復させる好機と見て、女王の許可も得て[[1872年]][[2月27日]]に[[セント・ポール大聖堂]]で1万2000人を招待した皇太子回復感謝礼拝を挙行した。礼拝を終えて宮殿へ戻る女王とバーティは、沿道に集まった人々から「女王陛下万歳」「皇太子殿下万歳」という熱狂的な歓声を受けた。これにより王室廃止論はほぼ吹き飛んだ<ref |
ちょうどアルバートの命日の[[12月14日]]にバーティは奇跡的に意識を取り戻し、以降病状は快方に向かった。まるで亡きアルバートがバーティを救ったかのような劇的な展開に国中が歓喜した。首相グラッドストンはこれを王室人気を回復させる好機と見て、女王の許可も得て[[1872年]][[2月27日]]に[[セント・ポール大聖堂]]で1万2000人を招待した皇太子回復感謝礼拝を挙行した。礼拝を終えて宮殿へ戻る女王とバーティは、沿道に集まった人々から「女王陛下万歳」「皇太子殿下万歳」という熱狂的な歓声を受けた。これにより王室廃止論はほぼ吹き飛んだ<ref name="君塚2012 p.55-56"/>。 |
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==== ウィーン万国博覧会への協力 ==== |
==== ウィーン万国博覧会への協力 ==== |
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[[File:Prince of Wales Vanity Fair 8 November 1873.jpg|180px|thumb|1873年11月8日の『 |
[[File:Prince of Wales Vanity Fair 8 November 1873.jpg|180px|thumb|1873年11月8日の『[[バニティ・フェア (イギリスの雑誌)|バニティ・フェア]]』誌に描かれたバーティ。]] |
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外相グランヴィル伯爵が「あの病気は皇太子を以前よりもずっと親和的に変え、その作法もより魅惑的な物にした」と評したように、この頃からバーティは、特定の国や人物に敵意を飛ばすのを控えるようになり(これまで彼は妻の故国を追い詰めたプロイセンやビスマルクに敵意を飛ばしていた)、王室の人間らしく全ての国との宥和を心がけるようになった<ref name="君塚(2012)62">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.62</ref>。 |
外相グランヴィル伯爵が「あの病気は皇太子を以前よりもずっと親和的に変え、その作法もより魅惑的な物にした」と評したように、この頃からバーティは、特定の国や人物に敵意を飛ばすのを控えるようになり(これまで彼は妻の故国を追い詰めたプロイセンやビスマルクに敵意を飛ばしていた)、王室の人間らしく全ての国との宥和を心がけるようになった<ref name="君塚(2012)62">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.62</ref>。 |
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[[1872年]]6月には翌年春に[[オーストリア=ハンガリー帝国]]で[[ウィーン万国博覧会]]が開催されることが決定し、イギリス政府からも助成金が出されることになった。バーティはグラッドストン首相に働きかけて助成金額を当初予定されていた金額の倍に変更させた<ref name="君塚(2012)62" |
[[1872年]]6月には翌年春に[[オーストリア=ハンガリー帝国]]で[[ウィーン万国博覧会]]が開催されることが決定し、イギリス政府からも助成金が出されることになった。バーティはグラッドストン首相に働きかけて助成金額を当初予定されていた金額の倍に変更させた<ref name="君塚(2012)62"/>。 |
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[[1873年]][[5月1日]]から開催されたウィーン万国博覧会の開会式に、次弟[[アーサー (コノート公)|アーサー]]王子(1874年5月に |
[[1873年]][[5月1日]]から開催されたウィーン万国博覧会の開会式に、次弟[[アーサー (コノート公)|アーサー]]王子(1874年5月に[[コノート公]]に叙される)とともに出席した。普仏戦争の勝利で[[ドイツ皇帝]]に即位していた[[プロイセン王]][[ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|ヴィルヘルム1世]]も同席していたが、バーティはこの席を利用して彼との親交を深めることに努めた<ref name="君塚(2012)62"/>。 |
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==== 弟とロシア皇女の結婚をめぐって ==== |
==== 弟とロシア皇女の結婚をめぐって ==== |
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[[1874年]]1月には長弟[[エディンバラ公]][[アルフレート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|アルフレッド]]がロシア皇帝[[アレクサンドル2世]]の娘[[マリア・アレクサンドロヴナ (ザクセン=コーブルク=ゴータ公妃)|マリア]]と結婚することになった。結婚式はロシアで[[ロシア正教]]に則って行われることになったが、ヴィクトリア女王はこれに不満であった。しかしバーティはその結婚式への出席を希望し、女王の説得にあたった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.64-66</ref>。 |
[[1874年]]1月には長弟[[エディンバラ公]][[アルフレート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|アルフレッド]]がロシア皇帝[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]の娘[[マリア・アレクサンドロヴナ (ザクセン=コーブルク=ゴータ公妃)|マリア]]と結婚することになった。結婚式はロシアで[[ロシア正教]]に則って行われることになったが、ヴィクトリア女王はこれに不満であった。しかしバーティはその結婚式への出席を希望し、女王の説得にあたった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.64-66</ref>。 |
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アレクサンドル2世はこれを機にバーティにロシア陸軍「名誉連隊長」の称号を贈りたいとイギリス側に打診したが、女王もグラッドストン首相も慎重だった。結局バーティは結婚式には出席するが、名誉連隊長は辞退することになった。1874年1月に[[サンクト・ペテルブルク]]に到着したバーティと次弟アーサーは、そこでロシア皇帝以下全ロシア皇族そろっての出迎えを受け、ロシア皇室との親交に尽力した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.65-66</ref>。 |
アレクサンドル2世はこれを機にバーティにロシア陸軍「名誉連隊長」の称号を贈りたいとイギリス側に打診したが、女王もグラッドストン首相も慎重だった。結局バーティは結婚式には出席するが、名誉連隊長は辞退することになった。1874年1月に[[サンクト・ペテルブルク]]に到着したバーティと次弟アーサーは、そこでロシア皇帝以下全ロシア皇族そろっての出迎えを受け、ロシア皇室との親交に尽力した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.65-66</ref>。 |
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==== 英領インド公式訪問 ==== |
==== 英領インド公式訪問 ==== |
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[[File:Edward, Prince of Wales, with elephant, Terai cph.3b08927.jpg|180px|thumb|[[象]]に乗る訪印中のバーティ]] |
[[File:Edward, Prince of Wales, with elephant, Terai cph.3b08927.jpg|180px|thumb|[[象]]に乗る訪印中のバーティ]] |
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[[1875年]]3月にバーティは[[英領インド帝国]]公式訪問の希望を表明した。それに対して女王は公式訪問ではなく、[[インド総督]]第2代 |
[[1875年]]3月にバーティは[[英領インド帝国]]公式訪問の希望を表明した。それに対して女王は公式訪問ではなく、[[インド総督]]第2代[[ノースブルック男爵]][[トーマス・ベアリング (初代ノースブルック伯爵)|トマス・ベアリング]]の賓客として訪問することを勧めた。だがバーティとしては「皇太子公式訪問」とすることでインド王侯に勲章を配り、それによってインド支配層とイギリス王室の結合を強めたいと考えていた。バーティは女王の説得にあたり、保守党政権の首相[[ベンジャミン・ディズレーリ]]も議会で骨折りしてくれた結果、同年11月から翌年3月にかけてのバーティのインド公式訪問が実現した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.67-70</ref>。 |
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インドに到着したバーティは[[コルカタ]]で女王の名代としてインド[[藩王]]たちに |
インドに到着したバーティはカルカッタ([[コルカタ]])で女王の名代としてインド[[藩王]]たちに[[インドの星勲章]]を授与した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.69-70</ref>。さらに[[デリー]]では1万8000人の[[英印軍|インド軍]]の閲兵を行った<ref name="君塚(2012)70">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.70</ref>。[[ヒマラヤ山脈]]の山麓では[[虎]]狩りや[[象]]狩りも楽しんだ<ref name="君塚(2012)70"/>。 |
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3月14日に帰国の途に付いたが、お土産として虎、[[豹]]、象、[[チーター]]、[[ツキノワグマ|ヒマラヤ熊]]、[[アラブ馬]]、[[ダチョウ]]など現地の動物を大量に船に積み込んだため、その船は「現代の[[ノアの箱舟]]」と呼ばれた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.70-71</ref> |
3月14日に帰国の途に付いたが、お土産として虎、[[豹]]、象、[[チーター]]、[[ツキノワグマ|ヒマラヤ熊]]、[[アラブ馬]]、[[ダチョウ]]など現地の動物を大量に船に積み込んだため、その船は「現代の[[ノアの箱舟]]」と呼ばれた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.70-71</ref>。 |
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バーティのインド訪問中にイギリス本国ではヴィクトリア女王の[[インド皇帝|インド女帝]]即位を決める法案が可決されていた。女王は[[1876年 |
バーティのインド訪問中にイギリス本国ではヴィクトリア女王の[[インド皇帝|インド女帝]]即位を決める法案が可決されていた。女王は[[1876年]]2月の[[国王演説|女王演説]]の中で「私は我が息子の皇太子がインド歴訪を無事果たしたその健康に感謝します。インドにおいてあらゆる階級・人種の我が臣民たちから皇太子が心よりの大歓迎を受けていると聞き、彼らインド臣民たちが私の統治のもとで幸せに暮らし、我が王冠に忠誠を誓っていることを確信しました」と述べている<ref name="君塚(2012)71">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.71</ref>。 |
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ただこのインド皇帝の称号のことはバーティには寝耳に水のことだった。バーティはこの称号を嫌い、即位後にもほとんど使用しなかった<ref name="君塚(2012)72">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.72</ref>。 |
ただこのインド皇帝の称号のことはバーティには寝耳に水のことだった。バーティはこの称号を嫌い、即位後にもほとんど使用しなかった<ref name="君塚(2012)72">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.72</ref>。 |
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==== ロシア皇帝暗殺をめぐって ==== |
==== ロシア皇帝暗殺をめぐって ==== |
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[[1881年]]3月にロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺された。バーティはその葬儀への出席を希望した。また新皇帝[[アレクサンドル3世]]に[[ガーター勲章]]を与える使節団の団長になることも希望した。女王もアルフレッドの舅であるロシア皇帝が殺害されたことに衝撃を受けていたので、これを了承した。[[第2次グラッドストン内閣]]外相グランヴィル伯爵も支持したのでバーティの訪露が決まった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.76-78</ref>。 |
[[1881年]]3月にロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺された。バーティはその葬儀への出席を希望した。また新皇帝[[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]]に[[ガーター勲章]]を与える使節団の団長になることも希望した。女王もアルフレッドの舅であるロシア皇帝が殺害されたことに衝撃を受けていたので、これを了承した。[[第2次グラッドストン内閣]]外相グランヴィル伯爵も支持したのでバーティの訪露が決まった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.76-78</ref>。 |
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[[3月24日]]にサンクト・ペテルブルクに到着したバーティは葬儀に出席した後の3月28日にアレクサンドル3世にガーター勲章を授与した。君主が死んだあと、ただちに次の君主にガーター勲章が授与されるというのはよほどイギリス王室と親しい関係にある場合のみであり(ベルギー王室など)、これはバーティの治世における英露の親密な関係の前兆だった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.78-79</ref>。 |
[[3月24日]]にサンクト・ペテルブルクに到着したバーティは葬儀に出席した後の3月28日にアレクサンドル3世にガーター勲章を授与した。君主が死んだあと、ただちに次の君主にガーター勲章が授与されるというのはよほどイギリス王室と親しい関係にある場合のみであり(ベルギー王室など)、これはバーティの治世における英露の親密な関係の前兆だった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.78-79</ref>。 |
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[[1888年]]3月にヴィルヘルム1世が崩御した際にもバーティは訪独してその葬儀に出席した。第2代皇帝に即位したのはバーティの義兄フリードリヒ3世だったが、彼は[[喉頭癌]]を患っていたため、在位99日で崩御した。バーティは再び訪独して葬儀に出席している<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.82</ref>。 |
[[1888年]]3月にヴィルヘルム1世が崩御した際にもバーティは訪独してその葬儀に出席した。第2代皇帝に即位したのはバーティの義兄フリードリヒ3世だったが、彼は[[喉頭癌]]を患っていたため、在位99日で崩御した。バーティは再び訪独して葬儀に出席している<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.82</ref>。 |
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第3代皇帝に即位したのはバーティの甥にあたるウィリーことヴィルヘルム2世だった。彼は1888年10月にオーストリア皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]を訪問したが、この際バーティもウィーンで開催されていた産業博覧会見学のためにオーストリアに滞在中だった。バーティはオーストリア皇帝とウィリーと自分の三人での会見を希望し、その旨をウィリーに打診したが、ウィリーはオーストリア訪問中にそれ以外の国の皇太子と会見するわけにはいかないと拒否した。またウィリーはその旨の返書を自身ではなく駐ウィーン大使に書かせた。これにヴィクトリア女王が激怒し、結局ウィリーは女王の要求でバーティに謝罪文を書かされた。後の英独関係の緊張を予期させる事件だった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.82-83</ref>。 |
第3代皇帝に即位したのはバーティの甥にあたるウィリーことヴィルヘルム2世だった。彼は1888年10月にオーストリア皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]を訪問したが、この際バーティもウィーンで開催されていた産業博覧会見学のためにオーストリアに滞在中だった。バーティはオーストリア皇帝とウィリーと自分の三人での会見を希望し、その旨をウィリーに打診したが、ウィリーはオーストリア訪問中にそれ以外の国の皇太子と会見するわけにはいかないと拒否した。またウィリーはその旨の返書を自身ではなく駐ウィーン大使に書かせた。これにヴィクトリア女王が激怒し、結局ウィリーは女王の要求でバーティに謝罪文を書かされた。後の英独関係の緊張を予期させる事件だった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.82-83</ref>。 |
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==== ロイヤル・バカラ・スキャンダル ==== |
==== ロイヤル・バカラ・スキャンダル ==== |
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[[File:L'Enfant Terrible.jpg|200px|thumb|{{仮リンク|ロイヤル・バカラ・スキャンダル|en|Royal baccarat scandal}}の際のアメリカの『{{仮リンク|パック (雑誌)|label=パック|en|Puck (magazine)}}』誌の風刺画。バーティの軽犯罪リストをバーティに見せて叱責する[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]。]] |
[[File:L'Enfant Terrible.jpg|200px|thumb|{{仮リンク|ロイヤル・バカラ・スキャンダル|en|Royal baccarat scandal}}の際のアメリカの『{{仮リンク|パック (雑誌)|label=パック|en|Puck (magazine)}}』誌の風刺画。バーティの軽犯罪リストをバーティに見せて叱責する[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]。]] |
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{{main|{{仮リンク|ロイヤル・バカラ・スキャンダル|en|Royal baccarat scandal}}}} |
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[[1890年]]9月、バーティは船主{{仮リンク|アーサー・ウィルソン (船主)|label=アーサー・ウィルソン|en|Arthur Wilson (shipping)}}が所有する[[ヨークシャー]]の邸宅{{仮リンク|トランビー・クロフト|en|Tranby Croft}}で過ごした。夕食後に招待客は[[バカラ (トランプ)|バカラ]]をして楽しんだが、この席上で |
[[1890年]]9月、バーティは船主{{仮リンク|アーサー・ウィルソン (船主)|label=アーサー・ウィルソン|en|Arthur Wilson (shipping)}}が所有する[[ヨークシャー]]の邸宅{{仮リンク|トランビー・クロフト|en|Tranby Croft}}で過ごした。夕食後に招待客は[[バカラ (トランプゲーム)|バカラ]]をして楽しんだが、この席上で{{仮リンク|ウィリアム・ゴードン=カミング (第4代準男爵)|label=第4代準男爵サー・ウィリアム・ゴードン=カミング|en|Sir William Gordon-Cumming, 4th Baronet}}がイカサマをしたと批判され、二度とゲームをしないという誓約書をバーティ含む9人の招待客の署名付きで書かされた。この件は秘匿するはずだったが、[[1891年]]初頭にはバーティの愛人{{仮リンク|デイジー・グランヴィル (ウォリック伯爵夫人)|label=デイジー・ブルック|en|Daisy Greville, Countess of Warwick}}を通じて世間に洩れたため、カミングはバーティら誓約書を書かせた者たちを相手取って民事訴訟を起こした。この件でバーティは再び法廷に立つ羽目となった<ref name="ベイ197">[[#ベイ(1997)|ベイカー(1997)]] p.197</ref><ref name="ワイ下328-329">[[#ワイ下|ワイントラウブ(1997)下巻]] p.328-329</ref>。 |
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ヴィクトリア女王は訴訟を起こしたカミングに対して怒っており、息子バーティを擁護したがっていたが、保守党政権の首相第3代[[ソールズベリー侯爵]][[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ロバート・ガスコイン=セシル]]に介入を止められた。それでも女王はバーティに[[カンタベリー大主教]]宛てに賭博を嘆き咎める公開書状を送らせ、少しでもイメージ改善に努めさせた<ref name="ワイ下329">[[#ワイ下|ワイントラウブ(1997)下巻]] p.329</ref>。 |
ヴィクトリア女王は訴訟を起こしたカミングに対して怒っており、息子バーティを擁護したがっていたが、保守党政権の首相第3代[[ソールズベリー侯爵]][[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ロバート・ガスコイン=セシル]]に介入を止められた。それでも女王はバーティに[[カンタベリー大主教]]宛てに賭博を嘆き咎める公開書状を送らせ、少しでもイメージ改善に努めさせた<ref name="ワイ下329">[[#ワイ下|ワイントラウブ(1997)下巻]] p.329</ref>。 |
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裁判は皇太子が有利になるよう進められたが、陪審の評決の際には批判の声で轟々となった。新聞も国内外問わず大半がカミングの味方でバーティは再び非難の的となった。またバーティは陸軍元帥であったにも関わらず、「士官の行状が問題になった際には部隊長に付される」という陸軍の常識を主張しなかったことも問題視された<ref name="ベイ197"/>。アメリカの『[[ニューヨークタイムズ]]』紙は「イギリス王族はイギリス納税者のお荷物であり、それに相当する見返りは何もない」とイギリス王室批判を行った<ref name="ベイ197"/>。『[[タイムズ]]』紙は「二度とゲームをやらないという署名をしたのが皇太子だったら良かったが」と愚痴った<ref name="ベイ197"/><ref name="ワイ下329"/>。 |
裁判は皇太子が有利になるよう進められたが、陪審の評決の際には批判の声で轟々となった。新聞も国内外問わず大半がカミングの味方でバーティは再び非難の的となった。またバーティは[[陸軍元帥 (イギリス)|陸軍元帥]]であったにも関わらず、「士官の行状が問題になった際には部隊長に付される」という陸軍の常識を主張しなかったことも問題視された<ref name="ベイ197" />。アメリカの『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙は「イギリス王族はイギリス納税者のお荷物であり、それに相当する見返りは何もない」とイギリス王室批判を行った<ref name="ベイ197" />。『[[タイムズ]]』紙は「二度とゲームをやらないという署名をしたのが皇太子だったら良かったが」と愚痴った<ref name="ベイ197" /><ref name="ワイ下329" />。 |
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==== 長男エディの薨去 ==== |
==== 長男エディの薨去 ==== |
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[[File:Jorge v e irmão alberto.jpg|250px|thumb|長男[[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|エディ]](クラレンス公)と次男[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ]](ヨーク公)]] |
[[File:Jorge v e irmão alberto.jpg|250px|thumb|長男[[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|エディ]](クラレンス公)と次男[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ]](ヨーク公)]] |
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バーティの長男である[[クラレンス公]][[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|アルバート・ヴィクター]](愛称エディ)が[[1892年]][[1月14日]]に[[インフルエンザ]]と[[肺炎]]のため薨去した。翌月にはエディと彼の[[はとこ]]にあたるヴュルテンベルク王族[[メアリー・オブ・テック|メアリー |
バーティの長男である[[クラレンス公]][[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|アルバート・ヴィクター]](愛称エディ)が[[1892年]][[1月14日]]に[[インフルエンザ]]と[[肺炎]]のため薨去した。翌月にはエディと彼の[[はとこ]]にあたるヴュルテンベルク王族テック公女[[メアリー・オブ・テック|メアリー]]との結婚が予定されていた中での薨去だった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.84-85</ref>。 |
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バーティはヴィクトリア女王に宛てた手紙の中で「自分の命に何の価値も見出せない私としては、喜んで息子の身代りになりたかった」と苦しい心境を吐露している<ref name="ワイ下343">[[#ワイ下|ワイントラウブ(1997)下巻]] p.343</ref>。 |
バーティはヴィクトリア女王に宛てた手紙の中で「自分の命に何の価値も見出せない私としては、喜んで息子の身代りになりたかった」と苦しい心境を吐露している<ref name="ワイ下343">[[#ワイ下|ワイントラウブ(1997)下巻]] p.343</ref>。 |
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バーティ夫妻は残されたメアリー |
バーティ夫妻は残されたメアリー公女を引き続き娘として取り扱った。世論もメアリーへの同情が強まり、エディに代わって第2王位継承権者となった次男[[ヨーク公]]ジョージ(後の英国王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]])に嫁がせるべきであるという声が増えた<ref name="ワイ下343-344">[[#ワイ下|ワイントラウブ(1997)下巻]] p.343-344</ref>。そして実際にヨーク公とメアリー公女は[[1893年]][[7月6日]]に結婚することとなった<ref name="ワイ下363">[[#ワイ下|ワイントラウブ(1997)下巻]] p.363</ref>。夫妻は1894年に後に英国王[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]となる長男エドワードを儲けている(バーティの初孫)<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.85</ref>。 |
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{{-}} |
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==== グラッドストンの国葬をめぐって ==== |
==== グラッドストンの国葬をめぐって ==== |
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=== 国王として === |
=== 国王として === |
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==== 即位 ==== |
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[[File:King Edward VII portrait.jpg|180px|thumb|エドワード7世の肖像画(1902年、 |
[[File:King Edward VII portrait.jpg|180px|thumb|エドワード7世の肖像画(1902年、[[ルーク・フィルデス]]画)]] |
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[[1901年]][[1月22日]]に[[ワイト島]]の[[オズボーン・ハウス]]でヴィクトリア女王が崩御した。バーティは涙を流しながらその枕元に付き添った。女王の最期の言葉は「バーティ」であったという<ref name="ワイ下505">[[#ワイ下|ワイントラウブ(1997)下巻]] p.505</ref>。 |
[[1901年]][[1月22日]]に[[ワイト島]]の[[オズボーン・ハウス]]でヴィクトリア女王が崩御した。バーティは涙を流しながらその枕元に付き添った。女王の最期の言葉は「バーティ」であったという<ref name="ワイ下505">[[#ワイ下|ワイントラウブ(1997)下巻]] p.505</ref>。 |
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59歳で国王となったバーティは、翌[[1月23日]]早朝に[[セント・ジェームズ宮殿]]において初めての[[枢密院 (イギリス)|枢密院]]会議を招集した。[[カンタベリー大主教]]に国王の宣誓を行った後、「エドワード7世」を王名に定めると宣言した。この際にアルバートを王名にしなかった理由について「アルバートと言えば誰もが父を思い出すようにしたかった」と説明した<ref>[[#ワイ下|ワイントラウブ(1997)下巻]] p.507-508</ref>{{#tag:ref|生前ヴィクトリア女王はバーティに「アルバート・エドワード」という二つ名の王名にしてほしがっていたが、イングランドの君主には二つ名の王がいなかったため、バーティはやんわりと断っていた<ref name="君塚(2012)91">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.91</ref>。|group=注釈}}。「エドワード」の王名は[[テューダー朝]]期の国王[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]以来350年ぶりのことだった<ref name="君塚(2012)91"/>。 |
59歳で国王となったバーティは、翌[[1月23日]]早朝に[[セント・ジェームズ宮殿]]において初めての[[枢密院 (イギリス)|枢密院]]会議を招集した。[[カンタベリー大主教]]に国王の宣誓を行った後、「エドワード7世」を王名に定めると宣言した。この際にアルバートを王名にしなかった理由について「アルバートと言えば誰もが父を思い出すようにしたかった」と説明した<ref>[[#ワイ下|ワイントラウブ(1997)下巻]] p.507-508</ref>{{#tag:ref|生前ヴィクトリア女王はバーティに「アルバート・エドワード」という二つ名の王名にしてほしがっていたが、イングランドの君主には二つ名の王がいなかったため、バーティはやんわりと断っていた<ref name="君塚(2012)91">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.91</ref>。|group=注釈}}。「エドワード」の王名は[[テューダー朝]]期の国王[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]以来350年ぶりのことだった<ref name="君塚(2012)91" />。 |
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また母の遺言に基づき、王朝名をハノーファー朝から父アルバートの家名[[ウィンザー朝|サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝]]に変更した<ref name="君塚(2012)92">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.92</ref>。 |
また母の遺言に基づき、王朝名を[[ハノーヴァー朝|ハノーファー朝]]から父アルバートの家名[[ウィンザー朝|サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝]]に変更した<ref name="君塚(2012)92">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.92</ref>。 |
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30年来の秘書官ノウルズをそのまま国王秘書官として重用し、{{仮リンク|ダイトン・プラウビン|label=サー・ダイトン・プラウビン|en|Dighton Probyn}}を |
30年来の秘書官[[フランシス・ノウルズ (初代ノウルズ子爵)|フランシス・ノウルズ]]をそのまま国王秘書官として重用し、{{仮リンク|ダイトン・プラウビン|label=サー・ダイトン・プラウビン|en|Dighton Probyn}}を[[国王手許金会計長官]]に任じて王室財産を一任した。さらに儀式典礼に詳しい第2代[[イーシャー子爵]]{{仮リンク|レジナルド・ベレット (第2代イーシャー子爵)|label=レジナルド・ベレット|en|Reginald Brett, 2nd Viscount Esher}}を{{仮リンク|ウィンザー城主|en|Constables and Governors of Windsor Castle}}代理に任じ、王室儀式に関する顧問とした<ref name="君塚(2012)92" />。 |
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一方、母が寵愛していた「ムンシ」こと{{仮リンク|アブドル・カリム|en|Abdul Karim (the Munshi)|hi|:मुंशी अब्दुल करीम}}らインド人侍従たちを嫌い、全員インドへ送還させた<ref name="ワイ下513">[[#ワイ下|ワイントラウブ(1997)下巻]] p.513</ref>。また母がよく滞在したワイト島のオズボーン・ハウスも[[王立海軍]]兵学校に下賜して手放した(以降士官候補生の宿所として使用された)<ref name="君塚(2012)92-93">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.92-93</ref>。 |
一方、母が寵愛していた「ムンシ」こと{{仮リンク|アブドル・カリム|en|Abdul Karim (the Munshi)|hi|:मुंशी अब्दुल करीम}}らインド人侍従たちを嫌い、全員インドへ送還させた<ref name="ワイ下513">[[#ワイ下|ワイントラウブ(1997)下巻]] p.513</ref>。また母がよく滞在したワイト島のオズボーン・ハウスも[[王立海軍]]兵学校に下賜して手放した(以降士官候補生の宿所として使用された)<ref name="君塚(2012)92-93">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.92-93</ref>。 |
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==== 戴冠式 ==== |
==== 戴冠式 ==== |
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イーシャー子爵とノウルズの助言を受けながら戴冠式の準備を進めた。当初戴冠式は[[1902年]][[6月26日]]に予定されていたが、直前にエドワードが[[虫垂炎]]を患ったため、エドワードの回復を待って、[[8月9日]]に改めて[[ウェストミンスター寺院]]で挙行された<ref name="君塚(2012)92-93" />。 |
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戴冠式に合わせてエドワードは大規模な叙勲を行った。ヴィクトリア朝ですでに3件あった非キリスト教君主へのガーター勲章授与をこれ以上行わないため、ガーター勲章に次ぐ新しい勲章として |
戴冠式に合わせてエドワードは大規模な叙勲を行った。ヴィクトリア朝ですでに3件あった非キリスト教君主へのガーター勲章授与をこれ以上行わないため、ガーター勲章に次ぐ新しい勲章として[[ロイヤル・ヴィクトリア頸飾]]を制定した。また芸術と学術の分野を中心に功績をあげた24人に限定して与える[[メリット勲章]]も制定した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.93-94</ref>。 |
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エドワードは自分の取り巻きに広く爵位を与えたがっていたが、首相ソールズベリー侯爵が過剰な叙爵に反対したため、秘書官ノウルズなどごく一部の者に限定された<ref name="君塚(2012)93">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.93</ref>。 |
エドワードは自分の取り巻きに広く爵位を与えたがっていたが、首相ソールズベリー侯爵が過剰な叙爵に反対したため、秘書官ノウルズなどごく一部の者に限定された<ref name="君塚(2012)93">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.93</ref>。 |
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===== 保守党政権期 ===== |
===== 保守党政権期 ===== |
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[[File:Gws balfour 02.jpg|180px|thumb|[[保守党 (イギリス)|保守党]]政権の首相[[アーサー・バルフォア]]]] |
[[File:Gws balfour 02.jpg|180px|thumb|[[保守党 (イギリス)|保守党]]政権の首相[[アーサー・バルフォア]]]] |
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即位時の政権は第3代[[ソールズベリー侯爵]][[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ロバート・ガスコイン=セシル]]を首相とする保守党政権だった。1902年3月には同内閣[[第一大蔵卿]][[アーサー・バルフォア]]によって「バルフォア教育法」と呼ばれる{{仮リンク|1902年教育法 (イギリス)|label=教育法|en|Education Act 1902}}が制定され、中等教育制度の確立が目指された<ref name="村岡(1991)229"> |
即位時の政権は第3代[[ソールズベリー侯爵]][[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ロバート・ガスコイン=セシル]]を首相とする保守党政権だった。1902年3月には同内閣[[第一大蔵卿]][[アーサー・バルフォア]]によって「バルフォア教育法」と呼ばれる{{仮リンク|1902年教育法 (イギリス)|label=教育法|en|Education Act 1902}}が制定され、中等教育制度の確立が目指された<ref name="村岡(1991)229">村岡、木畑(1991) p.229</ref><ref name="坂井(1967)323">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.323</ref>。 |
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1902年7月にソールズベリー侯爵が病で退任した。[[ジョゼフ・チェンバレン]]が入院中だったこともあり、エドワードは一般に次期首相と目されていたバルフォアに組閣の大命を下した |
1902年7月にソールズベリー侯爵が病で退任した。[[ジョゼフ・チェンバレン]]が入院中だったこともあり、エドワードは一般に次期首相と目されていたバルフォアに組閣の大命を下した<ref name="ブレイク(1979)199">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.199</ref>。 |
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エドワードはこのバルフォアに好感を持っていなかったという<ref name="タッ(1990)66">[[#タッ(1990)|タックマン(1990)]] p.66</ref>。例えば1903年春のヨーロッパ歴訪の際、エドワードは[[バチカン|ヴァチカン]]訪問を日程に追加しようとした。最終的に国王のヴァチカン訪問は行われたが、この件で優柔不断な態度を取りつづけたバルフォアにエドワードも[[フランシス・ノウルズ (初代ノウルズ子爵)|ノウルズ]]秘書官も不信を抱いた{{Sfnp|君塚|2023|p=127-128}}。さらにバルフォアは低位の宮廷人事をエドワードに無断で推し進めようとしたこともあり、これにはノウルズ秘書官からも「バルフォアは本当にひどすぎる」と強い非難を浴びている{{Sfnp|君塚|2023|p=133-134}}。 |
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1903年にはバルフォア内閣アイルランド担当大臣{{仮リンク|ジョージ・ウィンダム|en|George Wyndham}}の主導で新たなアイルランド土地購入法のウィンダム法が制定され、アイルランド小作人の土地購入が推進された<ref name="高橋(1997)93">[[#高橋(1997)|高橋(1997)]] p.93</ref>。 |
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しかし南アフリカの[[中国人奴隷問題]]{{#tag:ref|英領南アフリカではボーア戦争後の労働力不足を補うため、1904年2月から1906年11月までの間に6万3000人もの中国人[[苦力]]が年季契約で[[清|中国本国]]から南アフリカに鉱山労働者として輸送されてきていた<ref name="市川(1982)156">[[#市川(1982)|市川(1982)]] p.156</ref>。これについて道徳心高い非国教徒の中産階級は大量の苦力を船に詰め込み、鉱山で重労働させる行為は奴隷貿易に該当すると批判した。労働者階級も植民地において低賃金の中国人苦力輸入を黙認すれば、やがてイギリス本国にも輸入されるようになって自分たちの給料を下げられると警戒して反対した<ref name="ブレイク(1979)206-208">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.206-208</ref>。|group=注釈}}をめぐって保守党は批判を集めた<ref name="ブレイク(1979)206-208"/>。 |
1903年にはバルフォア内閣アイルランド担当大臣{{仮リンク|ジョージ・ウィンダム (1863-1915)|en|George_Wyndham|label=ジョージ・ウィンダム}}の主導で新たなアイルランド土地購入法のウィンダム法が制定され、アイルランド小作人の土地購入が推進された<ref name="高橋(1997)93">高橋(1997) p.93</ref>。しかし南アフリカの[[中国人奴隷問題]]{{#tag:ref|英領南アフリカではボーア戦争後の労働力不足を補うため、1904年2月から1906年11月までの間に6万3000人もの中国人[[苦力]]が年季契約で[[清|中国本国]]から南アフリカに鉱山労働者として輸送されてきていた<ref name="市川(1982)156">[[#市川(1982)|市川(1982)]] p.156</ref>。これについて道徳心高い非国教徒の中産階級は大量の苦力を船に詰め込み、鉱山で重労働させる行為は奴隷貿易に該当すると批判した。労働者階級も植民地において低賃金の中国人苦力輸入を黙認すれば、やがてイギリス本国にも輸入されるようになって自分たちの給料を下げられると警戒して反対した<ref name="ブレイク(1979)206-208">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.206-208</ref>。|group=注釈}}をめぐって保守党は批判を集めた<ref name="ブレイク(1979)206-208" />。 |
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またこの時期の保守党政権は関税問題に揺れた。[[1902年]]3月にボーア戦争が終結したが、予想外の長期戦で膨大な戦費がかかったため、蔵相[[マイケル・ヒックス・ビーチ (初代セント・アルドウィン伯爵)|マイケル・ヒックス・ビーチ]]の主導で1902年6月に穀物関税が限定的に導入された。しかし穀物関税は「パン価格を高騰させ、貧民を苦しめる」と批判されていたため、野党自由党が強く反発し、保守党政権内にも慎重論が根強かった<ref name="坂井(1967)205-206">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.205-206</ref>。 |
またこの時期の保守党政権は関税問題に揺れた。[[1902年]]3月にボーア戦争が終結したが、予想外の長期戦で膨大な戦費がかかったため、蔵相[[マイケル・ヒックス・ビーチ (初代セント・アルドウィン伯爵)|マイケル・ヒックス・ビーチ]]の主導で1902年6月に穀物関税が限定的に導入された。しかし穀物関税は「パン価格を高騰させ、貧民を苦しめる」と批判されていたため、野党自由党が強く反発し、保守党政権内にも慎重論が根強かった<ref name="坂井(1967)205-206">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.205-206</ref>。バルフォア内閣成立後にはチェンバレンを中心とした関税改革派(保護貿易派)と蔵相{{仮リンク|チャールズ・リッチー (ダンディーの初代リッチー男爵)|label=チャールズ・リッチー|en|Charles Ritchie, 1st Baron Ritchie of Dundee}}を中心とした自由貿易派に分裂するようになった。首相バルフォアは折衷的立場をとっていたが、最終的には党分裂を避けるために1905年12月に総辞職した<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.208-219</ref>。 |
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バルフォア内閣成立後にはチェンバレンを中心とした関税改革派(保護貿易派)と蔵相{{仮リンク|チャールズ・リッチー (ダンディーの初代リッチー男爵)|label=チャールズ・リッチー|en|Charles Ritchie, 1st Baron Ritchie of Dundee}}を中心とした自由貿易派に分裂するようになった。首相バルフォアは折衷的立場をとっていたが、最終的には党分裂を避けるために1905年12月に総辞職した<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.208-219</ref>。 |
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===== 自由党政権期 ===== |
===== 自由党政権期 ===== |
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[[File:Herbert-Henry-Asquith-1st-Earl-of-Oxford-and-Asquith.jpg|180px|thumb|[[自由党 (イギリス)|自由党]]政権の首相[[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]]] |
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[[1905年]]12月にエドワードは[[自由党 (イギリス)|自由党]]党首[[ヘンリー・キャンベル=バナマン]]に組閣の大命を与えた。バナマンは自由党ながら中産階級富裕層の出身で貴族階級に近い雰囲気があったので、エドワードとしてもお気に入りの政治家であった<ref>[[#中村(1978 |
[[1905年]]12月にエドワードは[[自由党 (イギリス)|自由党]]党首[[ヘンリー・キャンベル=バナマン]]に組閣の大命を与えた。バナマンは自由党ながら中産階級富裕層の出身で貴族階級に近い雰囲気があったので、エドワードとしてもお気に入りの政治家であった<ref>[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.35/47</ref>。 |
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バナマン内閣は組閣後ただちに庶民院を解散し、[[1906年]]1月の[[1906年イギリス総選挙|総選挙]]に大勝し、庶民院多数派を得たが、野党[[保守党 (イギリス)|保守党]]は保守党が半永久的に多数を占める[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]から政府法案を否決するという反対闘争を展開した。これにより自由党政権は野党保守党が納得しない立法は一切できなくなってしまった<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.416-417</ref>。 |
バナマン内閣は組閣後ただちに庶民院を解散し、[[1906年]]1月の[[1906年イギリス総選挙|総選挙]]に大勝し、庶民院多数派を得たが、野党[[保守党 (イギリス)|保守党]]は保守党が半永久的に多数を占める[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]から政府法案を否決するという反対闘争を展開した。これにより自由党政権は野党保守党が納得しない立法は一切できなくなってしまった<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.416-417</ref>。 |
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1908年2月に病に倒れたバナマンはエドワードが滞在中のフランス・[[ビアリッツ]]で休養生活に入り、4月に至って同地でエドワードに辞表を提出した。エドワードがビアリッツを離れたがらなかったので、衆目の一致するバナマンの後継者[[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]もビアリッツに行き、そこでエドワードから組閣の大命を受けた(外国の地で大命降下が行われることについては批判もあった)<ref>[[#中村(1978 |
1908年2月に病に倒れたバナマンはエドワードが滞在中のフランス・[[ビアリッツ]]で休養生活に入り、4月に至って同地でエドワードに辞表を提出した。エドワードがビアリッツを離れたがらなかったので、衆目の一致するバナマンの後継者[[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]もビアリッツに行き、そこでエドワードから組閣の大命を受けた(外国の地で大命降下が行われることについては批判もあった)<ref>[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.40/45</ref>。 |
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エドワードは、「成りあがり者」アスキスに対してはバナマンほど好感をもたなかった<ref name="中村(1978)47">[[#中村(1978))|中村(1978)]] p.47</ref>。アスキス首相が[[婦人参政権]]を考慮したり、怪しい経歴の人物に騎士(サー)の称号を与えようとした場合などには首相を叱責している<ref name="中村(1978)47"/>。またアスキス内閣の急進派閣僚である[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]][[デビッド・ロイド・ジョージ]]と通商長官[[ウィンストン・チャーチル]]の存在を強く憂慮していた<ref name="中村(1978)47"/>。 |
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エドワードは、「成りあがり者」アスキスに対してはバナマンほど好感をもたなかった<ref name="中村(1978)47">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.47</ref>。アスキス首相が[[婦人参政権]]を考慮したり、怪しい経歴の人物に騎士(サー)の称号を与えようとした場合などには首相を叱責している<ref name="中村(1978)47" />。またアスキス内閣の急進派閣僚である[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]][[デビッド・ロイド・ジョージ]]と通商長官[[ウィンストン・チャーチル]]の存在を強く憂慮していた<ref name="中村(1978)47" />。エドワードの思うところ、例えば両閣僚の口出しする外交は[[エドワード・グレイ|グレイ]]外務大臣の職分であり、財務大臣や通商長官の横暴に不快感を伝えている{{Sfnp|君塚|2023|p=139}}。 |
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[[ファイル:ChurchillGeorge0001.jpg|サムネイル|215x215ピクセル|アスキス内閣の急進派閣僚こと[[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド・ジョージ]]と[[ウィンストン・チャーチル]]]] |
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1908年には財務大臣ロイド・ジョージの主導で保守党の了承も得て{{仮リンク|1908年老齢年金法 (イギリス)|label=老齢年金法|en|Old-Age Pensions Act 1908}}が成立し、70歳以上の高齢者で給与が一定の金額以下の者に年金が支給されることになった<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.382-383</ref>。 |
1908年には財務大臣ロイド・ジョージの主導で保守党の了承も得て{{仮リンク|1908年老齢年金法 (イギリス)|label=老齢年金法|en|Old-Age Pensions Act 1908}}が成立し、70歳以上の高齢者で給与が一定の金額以下の者に年金が支給されることになった<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.382-383</ref>。 |
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更にロイド・ジョージは[[1909年]]に有産者に増税を課す「{{仮リンク|人民予算|en|People's Budget}}」を提出したが、野党保守党が「アカの予算」としてこれを徹底糾弾した<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.420/427</ref>。エドワードもロイド・ジョージの急進派思想を嫌っていたが、議会の混乱は望んでいなかったので、極端な反対行動に出ないよう保守党の説得にあたった。しかし功を奏 |
更にロイド・ジョージは[[1909年]]に有産者に増税を課す「{{仮リンク|人民予算|en|People's Budget}}」を提出したが、野党保守党が「アカの予算」としてこれを徹底糾弾した<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.420/427</ref>。エドワードもロイド・ジョージの急進派思想を嫌っていたが、議会の混乱は望んでいなかったので、極端な反対行動に出ないよう保守党の説得にあたった。しかし功を奏せず、結局11月には保守党が多数を占める貴族院は人民予算を否決した<ref>[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.52</ref>。 |
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これにより[[1910年]]1月に{{仮リンク|1910年1月イギリス総選挙|en|United Kingdom general election, January 1910|label=総選挙}}となり、その結果[[庶民院]]は[[ハング・パーラメント]]になったが、[[キャスティング・ボート]]を握った{{仮リンク|アイルランド議会党|en|Irish Parliamentary Party}}が「人民予算」を支持したため、引き続き人民予算の可決成立が目指され、その闘争の中でアスキス首相は[[3月29日]]に貴族院拒否権制限を盛り込んだ[[議会法|議会法案]]も庶民院に提出し、4月14日にこれを可決させた<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.446-447</ref>。 |
これにより[[1910年]]1月に{{仮リンク|1910年1月イギリス総選挙|en|United Kingdom general election, January 1910|label=総選挙}}となり、その結果[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]は[[ハング・パーラメント]]になったが、[[キャスティング・ボート (比喩)|キャスティング・ボート]]を握った{{仮リンク|アイルランド議会党|en|Irish Parliamentary Party}}が「人民予算」を支持したため、引き続き人民予算の可決成立が目指され、その闘争の中でアスキス首相は[[3月29日]]に貴族院拒否権制限を盛り込んだ[[議会法|議会法案]]も庶民院に提出し、4月14日にこれを可決させた<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.446-447</ref>。 |
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議会法案の貴族院送付をめぐって両党が睨みあう中の1910年5月6日にエドワードは崩御した。その後、[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]の即位から間もない1910年8月に至って議会法は成立している<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.459-460</ref>。 |
議会法案の貴族院送付をめぐって両党が睨みあう中の1910年5月6日にエドワードは崩御した。その後、[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]の即位から間もない1910年8月に至って議会法は成立している<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.459-460</ref>。 |
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母の治世末の[[1899年]]10月から[[南アフリカ]]ではじまった[[ボーア戦争|第2次ボーア戦争]]は、[[ゲリラ]]戦争と化していた。ボーア人の家屋・農場はイギリス軍の[[焦土作戦]]で焼き払われ、焼け出された婦女子は[[強制収容所]]に入れられた。これによりボーア人ゲリラは補給が困難となり、また黒人先住民に背後から襲撃される危険も高まってきたため、ついにイギリスと和解する決意を固めた。[[ケープ植民地]]高等弁務官[[アルフレッド・ミルナー]]をはじめとする大英帝国側も戦費が底をついているうえ、現地の白人勢力を早期に一つにまとめて黒人先住民を支配下に置く必要性を痛感していたのでボーア人側との交渉・譲歩に応じた<ref>[[#市川(1982)|市川(1982)]] p.104-106</ref>。 |
母の治世末の[[1899年]]10月から[[南アフリカ]]ではじまった[[ボーア戦争|第2次ボーア戦争]]は、[[ゲリラ]]戦争と化していた。ボーア人の家屋・農場はイギリス軍の[[焦土作戦]]で焼き払われ、焼け出された婦女子は[[強制収容所]]に入れられた。これによりボーア人ゲリラは補給が困難となり、また黒人先住民に背後から襲撃される危険も高まってきたため、ついにイギリスと和解する決意を固めた。[[ケープ植民地]]高等弁務官[[アルフレッド・ミルナー]]をはじめとする大英帝国側も戦費が底をついているうえ、現地の白人勢力を早期に一つにまとめて黒人先住民を支配下に置く必要性を痛感していたのでボーア人側との交渉・譲歩に応じた<ref>[[#市川(1982)|市川(1982)]] p.104-106</ref>。 |
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その結果、1902年5月にフェレーニヒンフ条約が締結されて終戦し、南アフリカは大英帝国に併合された( |
その結果、1902年5月にフェレーニヒンフ条約が締結されて終戦し、南アフリカは大英帝国に併合された([[トランスヴァール植民地]])。その後、自由党政権になると自治権を付与する改革が目指され、[[1906年]]12月にエドワードの勅許状によってトランスヴァール植民地は自治権を付与された<ref>[[#市川(1982)|市川(1982)]] p.104/125</ref>。 |
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===== 日英同盟 ===== |
===== 日英同盟 ===== |
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1901年1月に即位したエドワードも日本との同盟に前向きであり、同年8月には駐英日本公使[[林董]]との交渉にあたっていた外相第5代[[ランズダウン侯爵]][[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第5代ランズダウン侯爵)|ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス]]からの報告書の欄外に「そのような可能性(日露開戦)がある場合には常に日本に心からの支援を与えることが最も重要である」と書き込んでいる<ref name="君塚(2012)138">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.138</ref>。 |
1901年1月に即位したエドワードも日本との同盟に前向きであり、同年8月には駐英日本公使[[林董]]との交渉にあたっていた外相第5代[[ランズダウン侯爵]][[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第5代ランズダウン侯爵)|ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス]]からの報告書の欄外に「そのような可能性(日露開戦)がある場合には常に日本に心からの支援を与えることが最も重要である」と書き込んでいる<ref name="君塚(2012)138">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.138</ref>。 |
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エドワードは1901年のクリスマスから年末まで家族で過ごす予定だったが、その予定を変更して、[[12月27日]]に訪英中の日本の元首相[[伊藤博文]]侯爵を引見した。伊藤はイギリス政界から「親ロシア派の巨頭」と看做され警戒されている人物だったが、英語 |
エドワードは1901年のクリスマスから年末まで家族で過ごす予定だったが、その予定を変更して、[[12月27日]]に訪英中の日本の元首相[[伊藤博文]]侯爵を引見した。伊藤はイギリス政界から「親ロシア派の巨頭」と看做され警戒されている人物だったが、英語を流暢に話したため、すぐにもエドワードと打ち解けることができた。翌[[1902年]][[1月4日]]にエドワードは伊藤に[[バス勲章]]ナイト・グランド・クロス(GCB)を叙勲している<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.144-146</ref>。 |
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伊藤が帰国した後の[[1902年]][[1月30日]]にロンドンでランズダウン侯爵と林によって[[日英同盟]]が正式に調印された。日英どちらかが二か国以上と戦争になった場合はもう片方は同盟国のために参戦、一か国との戦争の場合はもう片方は中立を保つという内容だった。そのためイギリス政府としては早急にフランスを取りこんでフランスがロシアとともに日本に宣戦布告するのを阻止する必要があった<ref name="君塚(2012)147">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.147</ref><ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.297/307-309</ref>。 |
伊藤が帰国した後の[[1902年]][[1月30日]]にロンドンでランズダウン侯爵と林によって[[日英同盟]]が正式に調印された。日英どちらかが二か国以上と戦争になった場合はもう片方は同盟国のために参戦、一か国との戦争の場合はもう片方は中立を保つという内容だった。そのためイギリス政府としては早急にフランスを取りこんで[[露仏同盟]]を結ぶフランスがロシアとともに日本に宣戦布告するのを阻止する必要があった<ref name="君塚(2012)147">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.147</ref><ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.297/307-309</ref>。 |
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===== 英仏協商 ===== |
===== 英仏協商 ===== |
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[[File:King's carriage leaving Longchamps with Loubet and King Edward.jpg|250px|thumb|1903年5月2日 |
[[File:King's carriage leaving Longchamps with Loubet and King Edward.jpg|250px|thumb|1903年5月2日、[[パリ]]で。馬車に乗るエドワードとフランス大統領[[エミール・ルーベ]]。]] |
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[[File:Britain Before the First World War; Edward VII Q107145.jpg|250px|thumb|フランス・[[ヴァンセンヌ]]でフランス軍を閲兵するエドワード。]] |
[[File:Britain Before the First World War; Edward VII Q107145.jpg|250px|thumb|フランス・[[ヴァンセンヌ]]でフランス軍を閲兵するエドワード。]] |
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[[File:Edward VII at the Paris Opera 1903 (Petit Journal).jpg|180px|thumb|[[パリ国立オペラ]]を訪問するエドワードを描いた『{{仮リンク|ル・プティ・ジュルナル|fr|Le Petit Journal (quotidien)}}』紙の表紙。]] |
[[File:Edward VII at the Paris Opera 1903 (Petit Journal).jpg|180px|thumb|[[パリ国立オペラ]]を訪問するエドワードを描いた『{{仮リンク|ル・プティ・ジュルナル|fr|Le Petit Journal (quotidien)}}』紙の表紙。]] |
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親仏派のエドワードは英仏友好を強く願っており、早期の国王としての訪仏を希望していた。[[ビスマルク体制]]下において孤立させられていたフランスは、ビスマルク失脚後にロシアやイタリアとの関係を改善して包囲から脱することに成功していた。英仏関係も1898年の[[ファショダ事件]]でフランス外相[[テオフィル・デルカッセ]]がイギリスに譲歩したことで友好関係に転じつつあったため、エドワードの訪仏は[[1903年]]5月にも実現した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.99/111</ref><ref name="坂井(1967)307">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.307</ref>。 |
親仏派のエドワードは英仏友好を強く願っており、早期の国王としての訪仏を希望していた。[[ビスマルク体制]]下において孤立させられていたフランスは、ビスマルク失脚後にロシアやイタリアとの関係を改善して包囲から脱することに成功していた。英仏関係も1898年の[[ファショダ事件]]でフランス外相[[テオフィル・デルカッセ]]がイギリスに譲歩したことで友好関係に転じつつあったため、エドワードの訪仏は[[1903年]]5月にも実現した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.99/111</ref><ref name="坂井(1967)307">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.307</ref>。 |
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エドワードはフランス訪問に先立つ1903年4月にポルトガルとイタリアに立ち寄り、ポルトガル王[[カル |
エドワードはフランス訪問に先立つ1903年4月にポルトガルとイタリアに立ち寄り、ポルトガル王[[カルロス1世 (ポルトガル王)|カルロス1世]]、イタリア王[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]、ローマ教皇[[レオ13世]]らと会見した(教皇との会見は非公式会見。英国王は「英国国教会首長」であるため教皇との公式会見には[[アーサー・バルフォア]]内閣から反発があり、「非公式会見」の形式となった)<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.100-103</ref>。 |
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その後1903年[[5月1日]]からフランスを訪問し、大統領官邸[[エリゼ宮殿]]で大統領 |
その後1903年[[5月1日]]からフランスを訪問し、大統領官邸[[エリゼ宮殿]]で大統領[[エミール・ルーベ]]と会見した。何度も訪仏していたエドワードのフランス語は流暢であり、二人はすぐにも打ち解けたという。パリのイギリス商工会議所での演説では「英仏のいがみ合いの時代は終わりました」「これまでも将来もイギリスとフランスこそが平和的な進歩と文明のチャンピオンであり、パイオニアであり、文学・芸術・科学におけるもっとも高貴な国であると確信しています」と語り、[[パリ市庁舎]]での演説では「皆さんもご存じの通り、私は若い頃からしばしばパリを訪問してきました。そしてパリに戻ってくるたびに、まるで我が家のように皆さんがもてなしてくださることは、大いなる喜びです」と述べた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.105-108</ref>。 |
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当時のフランスはまだ反英的な空気が根強かったが、エドワードの演説はフランス国民の胸を打ったようである。5月4日にパリを発つ際、沿道の人々はエドワードに対して「我らが国王陛下万歳」という言葉を叫んだ。こうした状況をフランスの『[[フィガロ (新聞)|フィガロ]]』紙は「陛下の御言葉の一つ一つが両国関係にとって新しい時代が到来したことを約束してくれているように聞こえた」と報じている<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.109</ref>。駐仏ベルギー大使も「国民の態度がこれほど完全に変わるなんてわが国では考えられない。エドワード7世は完全にフランス国民の心を掴んだ」と本国に報告している<ref name="タッ(1986)15">[[#タッ(1986)|タックマン(1986)]] p.15</ref>。 |
当時のフランスはまだ反英的な空気が根強かったが、エドワードの演説はフランス国民の胸を打ったようである。5月4日にパリを発つ際、沿道の人々はエドワードに対して「我らが国王陛下万歳」という言葉を叫んだ。こうした状況をフランスの『[[フィガロ (新聞)|フィガロ]]』紙は「陛下の御言葉の一つ一つが両国関係にとって新しい時代が到来したことを約束してくれているように聞こえた」と報じている<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.109</ref>。駐仏ベルギー大使も「国民の態度がこれほど完全に変わるなんてわが国では考えられない。エドワード7世は完全にフランス国民の心を掴んだ」と本国に報告している<ref name="タッ(1986)15">[[#タッ(1986)|タックマン(1986)]] p.15</ref>。 |
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エドワード訪仏の返礼としてルーベ大統領が1903年[[7月6日]]に訪英した。エドワードは首相バルフォア、外相ランズダウン侯爵とともに[[ヴィクトリア駅]]まで出迎えに立った。到着した大統領とエドワードは30秒以上も堅く握手を交わした。バッキンガム宮殿で大統領のための晩餐会や舞踏会を主催し、また大統領とともに[[コヴェント・ガーデン]]の王立歌劇場で[[ジョルジュ・ビゼー]]の『[[カルメン (オペラ) |
エドワード訪仏の返礼としてルーベ大統領が1903年[[7月6日]]に訪英した。エドワードは首相バルフォア、外相ランズダウン侯爵とともに[[ロンドン・ヴィクトリア駅|ヴィクトリア駅]]まで出迎えに立った。到着した大統領とエドワードは30秒以上も堅く握手を交わした。バッキンガム宮殿で大統領のための晩餐会や舞踏会を主催し、また大統領とともに[[コヴェント・ガーデン]]の王立歌劇場で[[ジョルジュ・ビゼー]]の『[[カルメン (オペラ)|カルメン]]』、[[シャルル・グノー]]の『[[ロメオとジュリエット (グノー)|ロメオとジュリエット]]』などフランス・オペラを鑑賞した。大統領が帰国の途に就いた7月9日にもバーティはヴィクトリア駅まで見送りに出た<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.112-116</ref>。 |
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このエドワード訪仏とルーベ大統領の返礼の訪英がきっかけとなり、英仏関係は深まった。またビスマルク失脚後のドイツでは皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が「世界政策」の名のもとドイツ海軍力 |
このエドワード訪仏とルーベ大統領の返礼の訪英がきっかけとなり、英仏関係は深まった。またビスマルク失脚後のドイツでは皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が「世界政策」の名のもとドイツ海軍力の大幅増強を行い、英仏のアジア・アフリカ植民地支配を脅かしており、これも英仏両国を結び付ける背景となった<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.252/308</ref>。外相ランズダウン侯爵は駐英フランス大使{{仮リンク|ポール・カンボン|fr|Paul Cambon}}を通じて[[テオフィル・デルカッセ]]仏外相と交渉を進め、[[エジプト]]、[[モロッコ]]、[[ナイジェリア]]、[[タイ王国|シャム]]([[タイ王国|タイ]])、[[マダガスカル島]]、[[ニューヘブリディーズ諸島]]、[[ニューファンドランド島]]などの利権・領有権をめぐる英仏間の懸案事項を互譲的に解決した。それは最終的に1904年4月8日の[[英仏協商]]で結実した<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.308-309</ref>。 |
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エドワードはこれら英仏交渉の全てを政府に任せており、直接には関係しなかったものの、フランスとの友好を棄損しそうな空気が発生するとただちにその除去のために行動した。たとえば1903年秋に[[ドレフュス事件]]再審をめぐって『[[タイムズ]]』紙など英国主要新聞がフランスの反ユダヤ主義を批判する論説を載せ、フランス政府がそれに反発を示した際、エドワードは首相バルフォアに「タイムズ紙編集長を呼び出して反仏報道を止めるよう要請すべきである」と述べている(つまり言論統制してでも英仏友好を維持すべきとの考えを示した)<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.119-120</ref>。またフランスに割譲する植民地についての庶民院での討議の際、バルフォア首相が「イギリス領土の割譲にはイギリス議会の承諾が必要」という「失言」を行い(当時のイギリスでは「国王陛下の領土」の割譲は基本的に国王の了承だけあればよく、議会に諮る必要はないと考えられていた)、ノウルズら国王側近がこれに強い不快感を示したが、エドワードは英仏協商に水を差したくなかったため、あえてこれを追及しようとはしなかった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.123-124</ref>。 |
エドワードはこれら英仏交渉の全てを政府に任せており、直接には関係しなかったものの、フランスとの友好を棄損しそうな空気が発生するとただちにその除去のために行動した。たとえば1903年秋に[[ドレフュス事件]]再審をめぐって『[[タイムズ]]』紙など英国主要新聞がフランスの反ユダヤ主義を批判する論説を載せ、フランス政府がそれに反発を示した際、エドワードは首相バルフォアに「タイムズ紙編集長を呼び出して反仏報道を止めるよう要請すべきである」と述べている(つまり言論統制してでも英仏友好を維持すべきとの考えを示した)<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.119-120</ref>。またフランスに割譲する植民地についての庶民院での討議の際、バルフォア首相が「イギリス領土の割譲にはイギリス議会の承諾が必要」という「失言」を行い(当時のイギリスでは「国王陛下の領土」の割譲は基本的に国王の了承だけあればよく、議会に諮る必要はないと考えられていた)、ノウルズら国王側近がこれに強い不快感を示したが、エドワードは英仏協商に水を差したくなかったため、あえてこれを追及しようとはしなかった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.123-124</ref>。 |
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===== 日露戦争をめぐって ===== |
===== 日露戦争をめぐって ===== |
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[[File:Prince Arthur of Connaught Offering the Order of the Garter to the Emperor Meiji.jpg|250px|thumb|[[明治天皇]]に[[ガーター勲章]]を授与するコノート公[[アーサー (コノート公)|アーサー]]。]] |
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1904年2月に[[日露戦争]]が勃発した。エドワードは妻の甥にあたるロシア皇帝[[ニコライ2世]](ニッキー)を昔から可愛がってきたため、個人的にはニコライを応援したがっていたが、同盟国日本を支援してロシアの拡張主義を抑えることがイギリスの国益であることは弁えていた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.154-155</ref>。 |
1904年2月に[[日露戦争]]が勃発した。エドワードは妻の甥にあたるロシア皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]](ニッキー)を昔から可愛がってきたため、個人的にはニコライを応援したがっていたが、同盟国日本を支援してロシアの拡張主義を抑えることがイギリスの国益であることは弁えていた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.154-155</ref>。 |
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エドワードは、日露講和の仲介役になるとニコライに申し出たが、ニコライは「[[ボーア戦争|南アフリカ戦争]]では誰もイギリスに停戦など迫らなかったではありませんか」と反論して断った<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.155</ref>。ついでエドワードは[[6月25日]]にドイツを非公式訪問し、甥にあたるヴィルヘルム2世と会見した(日本国内ではこれについて英独連携しての日露講和介入の前兆と推測された)<ref name="君塚(2012)157">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.157</ref>。また8月12日にニコライの皇太子[[アレクセイ・ニコラエヴィチ (ロシア皇太子)|アレクセイ・ニコラエヴィチ]]が誕生すると、エドワードは皇太子ジョージやヴィルヘルム2世、デンマーク王クリスチャン9世らと共にその[[代父]]となった。これをニコライとの関係改善のきっかけにしたいという思いがあったという<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.157-158</ref>。 |
エドワードは、日露講和の仲介役になるとニコライに申し出たが、ニコライは「[[ボーア戦争|南アフリカ戦争]]では誰もイギリスに停戦など迫らなかったではありませんか」と反論して断った<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.155</ref>。ついでエドワードは[[6月25日]]にドイツを非公式訪問し、甥にあたるヴィルヘルム2世と会見した(日本国内ではこれについて英独連携しての日露講和介入の前兆と推測された)<ref name="君塚(2012)157">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.157</ref>。また8月12日にニコライの皇太子[[アレクセイ・ニコラエヴィチ (ロシア皇太子)|アレクセイ・ニコラエヴィチ]]が誕生すると、エドワードは皇太子ジョージやヴィルヘルム2世、デンマーク王クリスチャン9世らと共にその[[代父]]となった。これをニコライとの関係改善のきっかけにしたいという思いがあったという<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.157-158</ref>。 |
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10月に入るとロシアの[[バルチック艦隊]]が極東へ送られることになったが、10月21日には[[ドッガーバンク]]でイギリス漁船が日本の[[水雷艇]]と間違われてバルチック艦隊に砲撃され、多くの英漁民が救助されずに落命する事件が発生した([[ドッガーバンク事件]])。この事件でイギリス国内の反露世論が高まり、エドワードも覚書の中で「最も卑劣な非道である」と怒りを露わにした。ニコライは25日にエドワード宛てに謝罪文を送ったが、それに対してエドワードは「貴方が優しい心を持っており、罪のない人々が命を落としたことを悲しんでいるのは分かるが、私と我が国民は貴方の艦隊が負傷者を一切助けずに続航したことに激昂している」と怒りの返信をし、また署名も普段ニコライ宛の手紙に書く「貴方の伯父バーティ」ではなく「エドワード国王」と他人行儀に書いた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.159-160</ref>。 |
10月に入るとロシアの[[バルチック艦隊]]が極東へ送られることになったが、10月21日には[[ドッガーバンク]]でイギリス漁船が日本の[[水雷艇]]と間違われてバルチック艦隊に砲撃され、多くの英漁民が救助されずに落命する事件が発生した([[ドッガーバンク事件]])。この事件でイギリス国内の反露世論が高まり、エドワードも覚書の中で「最も卑劣な非道である」と怒りを露わにした。ニコライは25日にエドワード宛てに謝罪文を送ったが、それに対してエドワードは「貴方が優しい心を持っており、罪のない人々が命を落としたことを悲しんでいるのは分かるが、私と我が国民は貴方の艦隊が負傷者を一切助けずに続航したことに激昂している」と怒りの返信をし、また署名も普段ニコライ宛の手紙に書く「貴方の伯父バーティ」ではなく「エドワード国王」と他人行儀に書いた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.159-160</ref>。 |
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英国内では日露戦争の戦況は日本不利と分析されていたため、1905年1月にロシア軍が守る[[旅順]]を日本軍が陥落させたとの報告を受けたエドワードは非常に驚いた様子だったという。特に[[連合艦隊]]司令長官[[東郷平八郎]]提督に感心し、彼に個人的な激励メッセージを贈っている<ref name="君塚(2012)164">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.164</ref>。1905年5月の日本海海戦でバルチック艦隊が壊滅するとバルフォア率いるイギリス政府も日本との同盟延長に前向きとなり、日英間で同盟延長交渉が進められ、8月までに両国の防衛範囲をインドにも拡張させた第二次日英同盟が締結された。エドワードは日本が極東だけでなくインドでもイギリスに協力してくれることに感謝した<ref name="君塚(2012)166">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.166</ref>。 |
英国内では日露戦争の戦況は日本不利と分析されていたため、1905年1月にロシア軍が守る[[旅順]]を日本軍が陥落させたとの報告を受けたエドワードは非常に驚いた様子だったという。特に[[連合艦隊]]司令長官[[東郷平八郎]]提督に感心し、彼に個人的な激励メッセージを贈っている<ref name="君塚(2012)164">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.164</ref>。1905年5月の[[日本海海戦]]でバルチック艦隊が壊滅するとバルフォア率いるイギリス政府も日本との同盟延長に前向きとなり、日英間で同盟延長交渉が進められ、8月までに両国の防衛範囲をインドにも拡張させた[[第二次日英同盟]]が締結された。エドワードは日本が極東だけでなくインドでもイギリスに協力してくれることに感謝した<ref name="君塚(2012)166">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.166</ref>。 |
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外相ランズダウン侯爵はこれを機に[[明治天皇]]に[[ガーター勲章]]を贈ることを提案し、首相バルフォアの了承も得て、1905年10月にエドワードにその旨を上奏した。前述したようにエドワードは勲章の儀礼にうるさい王であり、異教徒の君主にガーター勲章を贈ることを嫌った{{#tag:ref|エドワードが即位して間もなくの頃、イスラム教国[[オスマン帝国|オスマン=トルコ帝国]][[オスマン帝国の君主|皇帝(スルタン)]][[アブデュルハミト2世]]は父や叔父がもらったガーター勲章を自分にも授与して欲しい旨の意をエドワードに伝えてきたが、エドワードは拒否を貫いた。また[[ガージャール朝|ペルシャ帝国(イラン)]][[シャー|皇帝(シャー)]][[モザッファロッディーン・シャー]]も父がもらったガーター勲章を自分にも授与して欲しいとエドワードに要請してきたが、この時もエドワードは強く難色を示した(この時にはバルフォア首相が辞職をちらつかせて強く要請してきたため、結局その説得を受け入れてしぶしぶシャーにガーター勲章を贈っている)<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.175-176</ref>。|group=注釈}}。しかしこの頃までにはだいぶ親日家になっていたエドワードはほとんど難色を示すことなく、許可を出した。これにより1906年2月にもエドワードの |
外相ランズダウン侯爵はこれを機に[[明治天皇]]に[[ガーター勲章]]を贈ることを提案し、首相バルフォアの了承も得て、1905年10月にエドワードにその旨を上奏した。前述したようにエドワードは勲章の儀礼にうるさい王であり、異教徒の君主にガーター勲章を贈ることを嫌った{{#tag:ref|エドワードが即位して間もなくの頃、イスラム教国[[オスマン帝国|オスマン=トルコ帝国]][[オスマン帝国の君主|皇帝(スルタン)]][[アブデュルハミト2世]]は父や叔父がもらったガーター勲章を自分にも授与して欲しい旨の意をエドワードに伝えてきたが、エドワードは拒否を貫いた。また[[ガージャール朝|ペルシャ帝国(イラン)]][[シャー|皇帝(シャー)]][[モザッファロッディーン・シャー]]も父がもらったガーター勲章を自分にも授与して欲しいとエドワードに要請してきたが、この時もエドワードは強く難色を示した(この時にはバルフォア首相が辞職をちらつかせて強く要請してきたため、結局その説得を受け入れてしぶしぶシャーにガーター勲章を贈っている)<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.175-176</ref>。|group=注釈}}。しかしこの頃までにはだいぶ親日家になっていたエドワードはほとんど難色を示すことなく、許可を出した。これにより1906年2月にもエドワードの弟[[コノート=ストラサーン公爵]][[アーサー (コノート公)|アーサー]]王子が「ガーター使節団」団長として日本に派遣され、明治天皇にガーター勲章を授与した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.173-176</ref>。[[日本政府]]は使節団を歓待するため、到着日にあわせて[[大名行列]]を再演するイベントを催している<ref name="repo1">[http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/text/fn169.html 参勤交代と日本の文化] コンスタンティン・ノミコス・ヴァポリス(メリーランド大学準教授)日文研フォーラム、第169回 pp.1 - 29、2004-10、国際日本文化研究センター</ref>。 |
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===== 第一次モロッコ事件をめぐって ===== |
===== 第一次モロッコ事件をめぐって ===== |
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[[File:Guglielmo II a Tangeri (1905).jpg|250px|thumb| |
[[File:Guglielmo II a Tangeri (1905).jpg|250px|thumb|1905年3月31日、ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]](中央)の[[タンジェ|タンジール]]上陸。]] |
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ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は[[1897年]]に[[アルフレート・フォン・ティルピッツ]]提督を海軍長官に任じて以降、 |
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は[[1897年]]に[[アルフレート・フォン・ティルピッツ]]提督を海軍長官に任じて以降、海軍力増強を押し進めていた。イギリスも[[ジョン・アーバスノット・フィッシャー]]提督が1904年に[[第一海軍卿]]に就任してから海軍増強を急ピッチに進め、英独は[[建艦競争]]の時代へ入ろうとしていた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.298-299</ref>。 |
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そんな中の[[1905年]][[3月31日]]、ヴィルヘルムは、フランスが植民地化を狙っていた[[モロッコ]]・[[タンジール]]に上陸し、モロッコの領土保全と門戸開放を訴えることでフランスの植民地政策を牽制する行動に出た([[第一次モロッコ事件]])。その後ドイツ政府はモロッコ問題の国際会議を提唱したが、これに対してフランス政府はまず独仏の二国間会議を開くべきと反論し、両者の主張は平行線をたどった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.124-128</ref> |
そんな中の[[1905年]][[3月31日]]、ヴィルヘルムは、フランスが植民地化を狙っていた[[モロッコ]]・[[タンジェ|タンジール]]に上陸し、モロッコの領土保全と門戸開放を訴えることでフランスの植民地政策を牽制する行動に出た([[第一次モロッコ事件]])。その後ドイツ政府はモロッコ問題の国際会議を提唱したが、これに対してフランス政府はまず独仏の二国間会議を開くべきと反論し、両者の主張は平行線をたどった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.124-128</ref>。 |
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イギリス政府も国際会議開催には慎重だった。駐タンジール英国領事[[ジェラルド・ロウサ|サー・ジェラルド・ロウサ]]は「ドイツはモロッコ問題の国際会議を開くことで英仏協商を修正させたいのではないか」という報告書をエドワードに送ったが、エドワードは欄外に「平たく言えばドイツはフランスをモロッコから追い出してその後釜に座りたいだけではないか!」と書いて怒りを示している。しかしエドワードは国際会議を開いた方がフランスのモロッコ権益がより保証されると考えていたので国際会議に反対しなかった。またフランス政府も、列強各国と交渉を重ねるうちに実際に国際会議が開かれたとしてもドイツを支持する列強はないとの確信を強め、7月頃から国際会議開催に前向きになった。独仏両国が前向きである以上、イギリス政府としても会議に反対するわけにはいかなくなった<ref name="君塚(2012)127-128">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.127-128</ref>。 |
イギリス政府も国際会議開催には慎重だった。駐タンジール英国領事[[ジェラルド・ロウサ|サー・ジェラルド・ロウサ]]は「ドイツはモロッコ問題の国際会議を開くことで英仏協商を修正させたいのではないか」という報告書をエドワードに送ったが、エドワードは欄外に「平たく言えばドイツはフランスをモロッコから追い出してその後釜に座りたいだけではないか!」と書いて怒りを示している。しかしエドワードは国際会議を開いた方がフランスのモロッコ権益がより保証されると考えていたので、国際会議に反対しなかった。またフランス政府も、列強各国と交渉を重ねるうちに実際に国際会議が開かれたとしてもドイツを支持する列強はないとの確信を強め、7月頃から国際会議開催に前向きになった。独仏両国が前向きである以上、イギリス政府としても会議に反対するわけにはいかなくなった<ref name="君塚(2012)127-128">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.127-128</ref>。 |
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こうして1906年1月16日から[[スペイン]]で[[アルヘシラス会議]]が開催された。モロッコの警察問題をめぐって独仏が紛糾する中の3月初旬、エドワードはフランスとの関係を強化しようと[[ビアリッツ]]の「オテル・デュ・パレ」の訪問を決定した(以降ここを定宿と定めて1910年の崩御まで定期的に訪問した)。その道中にパリに立ち寄り、 |
こうして1906年1月16日から[[スペイン]]で[[アルヘシラス会議]]が開催された。モロッコの警察問題をめぐって独仏が紛糾する中の3月初旬、エドワードはフランスとの関係を強化しようと[[ビアリッツ]]の「オテル・デュ・パレ」の訪問を決定した(以降ここを定宿と定めて1910年の崩御まで定期的に訪問した)。その道中にパリに立ち寄り、[[アルマン・ファリエール]]大統領や{{仮リンク|モーリス・ルーヴィエ|fr|Maurice Rouvier}}首相らと会談し、モロッコの湾岸都市の警察権を手放すつもりはないというフランスの立場に支持を表明した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.208-210</ref>。 |
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さらにエドワードは駐イタリア・アメリカ大使{{仮リンク|ヘンリー・ホワイト (外交官)|label=ヘンリー・ホワイト|en|Henry White (diplomat)}}を通じて日露講和を斡旋した実績のあるアメリカ大統領[[セオドア・ルーズベルト]]にこの問題でも積極的に介入してほしいと依頼した。英外相[[エドワード・グレイ]]や{{仮リンク|外務省事務次官 (イギリス)|label=外務省事務次官|en|Permanent Under-Secretary at the Foreign Office}}[[チャールズ・ハーディング (初代ハーディング・オブ・ペンズハースト男爵)|チャールズ・ハーディング]]はルーズベルトの介入に不満があったものの、結果的にはアメリカの強力なリーダシップのおかげでアルヘシラス会議は決裂することなく、4月7日に条約締結に至った。この条約によりモロッコの独立と領土の保全が保証され、モロッコにおける各国の通商の自由も保証された。また焦点だった警察問題は、モロッコの8つの湾岸都市についてフランスとスペインの警察権が認められることになり、フランス有利の結果に終わった。この会議は英仏の連携がいよいよ強固になったこと、またアメリカが[[モンロー主義]]を脱却して他の大陸の問題にも本格的に介入するようになったことを示していた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.213-215</ref>。 |
さらにエドワードは、駐イタリア・アメリカ大使{{仮リンク|ヘンリー・ホワイト (外交官)|label=ヘンリー・ホワイト|en|Henry White (diplomat)}}を通じて日露講和を斡旋した実績のあるアメリカ大統領[[セオドア・ルーズベルト]]にこの問題でも積極的に介入してほしいと依頼した。英外相[[エドワード・グレイ]]や{{仮リンク|外務省事務次官 (イギリス)|label=外務省事務次官|en|Permanent Under-Secretary at the Foreign Office}}[[チャールズ・ハーディング (初代ハーディング・オブ・ペンズハースト男爵)|チャールズ・ハーディング]]は、ルーズベルトの介入に不満があったものの、結果的にはアメリカの強力なリーダシップのおかげでアルヘシラス会議は決裂することなく、4月7日に条約締結に至った。この条約によりモロッコの独立と領土の保全が保証され、モロッコにおける各国の通商の自由も保証された。また焦点だった警察問題は、モロッコの8つの湾岸都市についてフランスとスペインの警察権が認められることになり、フランス有利の結果に終わった。この会議は英仏の連携がいよいよ強固になったこと、またアメリカが[[モンロー主義]]を脱却して他の大陸の問題にも本格的に介入するようになったことを示していた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.213-215</ref>。 |
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===== 英露協商 ===== |
===== 英露協商 ===== |
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[[File:Edward VII and Nicholas II 1908.jpg|250px|thumb|1908年、[[タリン|レヴァル]]沖 |
[[File:Edward VII and Nicholas II 1908.jpg|250px|thumb|1908年6月9日、[[タリン|レヴァル]]沖に停泊するロシア皇室ヨット[[スタンダルト (ヨット)|スタンダルト]]上のエドワードとニコライ2世。]] |
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日露戦争の敗戦で極東進出を阻止されたロシア皇帝ニコライ2世は、イギリスとの関係改善を志向するようになった。エドワードやイギリス政府もロシアとの関係改善に前向きだった。そのため[[1907年]]に入ると英露間で中央アジアの「[[グレート・ゲーム]]」をめぐる交渉が進展を見せ、同年[[8月31日]]に至って[[英露協商]]が締結された。これにより英露が長きにわたって争奪戦を繰り広げてきた[[バーラクザイ朝|アフガニスタン]]については、ロシアへの敵対行動に利用しないとの条件付きながらイギリス勢力圏であることをロシアが確認した。また[[ガージャール朝|ペルシャ帝国(イラン)]]については、北部をロシア勢力圏、南部をイギリス勢力圏とする分割がなされた。また[[チベット]]については両国とも不干渉で合意した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.248-256</ref>。この英露協商はペルシャにおいては「イギリスがペルシャをロシアに売り飛ばした」と批判されることが多かったが(この不満が1909年のペルシャ立憲革命の一因となった)、英仏協商、[[露仏同盟]]を結んでいるフランスでは英露接近は歓迎された。日本も[[日仏協商]]、[[日露協商]]の交渉を進めている時期だったので英露接近を歓迎した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.258-259</ref>。 |
日露戦争の敗戦で極東進出を阻止されたロシア皇帝ニコライ2世は、イギリスとの関係改善を志向するようになった。エドワードやイギリス政府もロシアとの関係改善に前向きだった。そのため[[1907年]]に入ると英露間で中央アジアの「[[グレート・ゲーム]]」をめぐる交渉が進展を見せ、同年[[8月31日]]に至って[[英露協商]]が締結された。これにより英露が長きにわたって争奪戦を繰り広げてきた[[バーラクザイ朝|アフガニスタン]]については、ロシアへの敵対行動に利用しないとの条件付きながらイギリス勢力圏であることをロシアが確認した。また[[ガージャール朝|ペルシャ帝国(イラン)]]については、北部をロシア勢力圏、南部をイギリス勢力圏とする分割がなされた。また[[チベット]]については両国とも不干渉で合意した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.248-256</ref>。この英露協商はペルシャにおいては「イギリスがペルシャをロシアに売り飛ばした」と批判されることが多かったが(この不満が1909年のペルシャ立憲革命の一因となった)、英仏協商、[[露仏同盟]]を結んでいるフランスでは英露接近は歓迎された。日本も[[日仏協商]]、[[日露協商]]の交渉を進めている時期だったので英露接近を歓迎した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.258-259</ref>。 |
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===== ドイツ・オーストリアとの対立 ===== |
===== ドイツ・オーストリアとの対立 ===== |
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[[File:Edward VII and Wilhelm II in Berlin 1909.jpg|250px|thumb|1909年 |
[[File:Edward VII and Wilhelm II in Berlin 1909.jpg|250px|thumb|1909年2月9日、ベルリン訪問時のエドワード。[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]とともに。]] |
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英露接近が成ると、イギリスと植民地争いする国はドイツだけとなった。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、自国が孤立していることに焦り、イギリスとの関係改善を志向した。エドワードも甥との友好に前向きだったので、アルヘシラス会議後の1906年8月に外務政務次官ハーディングを伴ってドイツ・ |
英露接近が成ると、イギリスと植民地争いする国はドイツだけとなった。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、自国が孤立していることに焦り、イギリスとの関係改善を志向した。エドワードも甥との友好に前向きだったので、アルヘシラス会議後の1906年8月に外務政務次官ハーディングを伴ってドイツ・[[クロンベルク・イム・タウヌス]]の{{仮リンク|フリードリヒスホーフ城|de|Schlosshotel Kronberg}}を訪問し、そこでヴィルヘルムや独外相{{仮リンク|ハインリヒ・フォン・チルシュキー|de|Heinrich von Tschirschky}}と会見した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.293-295</ref>。つづいて[[1907年]]8月にもハーディングを伴ってドイツ・[[カッセル]]・{{仮リンク|ヴィルヘルムスヘーエ城|de|Schloss Wilhelmshöhe}}を訪問し、ヴィルヘルムや独首相[[ベルンハルト・フォン・ビューロー]]と会見した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.304-305</ref>。また1907年11月にはヴィルヘルムが訪英し、エドワードは王族一同や外相グレイとともにウィンザー城で彼を歓待した。しかしバグダッド鉄道や建艦競争など政治面での英独緊張緩和には至らなかった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.309-311</ref>。 |
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1908年8月にエドワードはハーディングを伴ってオーストリアの[[バート・イシュル]]を訪問し、オーストリア皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]や{{仮リンク|オーストリア外相|de|Liste der Außenminister der Habsburgermonarchie}}[[アロイス・レクサ・フォン・エーレンタール]]と会見した。これらの会見で英 |
1908年8月にエドワードはハーディングを伴ってオーストリアの[[バート・イシュル]]を訪問し、オーストリア皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]や{{仮リンク|オーストリア外相|de|Liste der Außenminister der Habsburgermonarchie}}[[アロイス・レクサ・フォン・エーレンタール]]と会見した。これらの会見で英墺両国は英独の建艦競争を英墺関係に影響をさせないこと、バルカン半島情勢に協力してあたることを確認した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.265-266</ref>。 |
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しかし同年[[9月29日]]にオーストリア皇帝は1878年の[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]で締結された[[ベルリン条約 (1878年)|ベルリン条約]]に基づきオーストリアの統治下に置かれていた[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]を併合したい旨の希望をエドワード宛てに送ってきた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.267</ref>。一か月前の会見でそんな話は全く出なかったからエドワードはこれにショックを受けた。さらに[[10月5日]]には[[ブルガリア君主一覧|ブルガリア公]][[フェルディナン |
しかし同年[[9月29日]]にオーストリア皇帝は1878年の[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]で締結された[[ベルリン条約 (1878年)|ベルリン条約]]に基づきオーストリアの統治下に置かれていた[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]を併合したい旨の希望をエドワード宛てに送ってきた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.267</ref>。一か月前の会見でそんな話は全く出なかったからエドワードはこれにショックを受けた。さらに[[10月5日]]には[[ブルガリア君主一覧|ブルガリア公]][[フェルディナント (ブルガリア王)|フェルディナンド]]がオスマン帝国からの独立、自らの称号を公から皇帝(ツァーリ)へ変えること、国名を公国から帝国に変えることを宣言した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.268</ref>。 |
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こうしたオーストリアやブルガリアの動きには[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]やロシアが反発した。ロシアは国際会議を提唱し、フランスがそれに同調した。エドワードやイギリス政府も友好関係に入っていたロシアに同調し、ボスニア・ヘルツェゴビナの併合・ブルガリア独立いずれもベルリン会議署名国全ての同意を得ない限り認められないという見解を示した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.268-271</ref>。しかしドイツとオーストリアは国際会議開催に慎重であり、両国の合意が得られず、会議開催は不可能となった。英仏露VS独墺の構図はいよいよ深まっていった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.276-277</ref>。 |
こうしたオーストリアやブルガリアの動きには[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]やロシアが反発した。ロシアは国際会議を提唱し、フランスがそれに同調した。エドワードやイギリス政府も友好関係に入っていたロシアに同調し、ボスニア・ヘルツェゴビナの併合・ブルガリア独立いずれもベルリン会議署名国全ての同意を得ない限り認められないという見解を示した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.268-271</ref>。しかしドイツとオーストリアは国際会議開催に慎重であり、両国の合意が得られず、会議開催は不可能となった。英仏露VS独墺の構図はいよいよ深まっていった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.276-277</ref>。 |
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==== 崩御 ==== |
==== 崩御 ==== |
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{{main|{{仮リンク|エドワード7世の死と国葬|en|Death and state funeral of Edward VII}}}} |
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[[File:4125s2.ogv|thumb|250px|[[1910年]][[5月20日]]、エドワード7世の大葬の葬列の動画]] |
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[[File:4125s2.ogv|thumb|250px|1910年5月20日、エドワード7世の大葬の葬列の動画]] |
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1909年4月の「人民予算」提出から[[1910年]]1月の総選挙まで庶民院の自由党と貴族院の保守党の対立激化でエドワードは9ヶ月近くにわたって休む暇がなかった。その過労で[[気管支炎]]を患い、体調は悪化し続けた。1910年3月9日になってようやく休養を許され、ビアリッツで療養生活に入ったが、体調は回復しなかった。しかもアスキス内閣が[[議会法|議会法案]]提出に動いたことで再び与野党の対立が激化したため、エドワードは4月27日にも療養を切り上げてロンドンへ戻らねばならなくなった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.352-353</ref>。 |
1909年4月の「人民予算」提出から[[1910年]]1月の総選挙まで庶民院の自由党と貴族院の保守党の対立激化でエドワードは9ヶ月近くにわたって休む暇がなかった。その過労で[[気管支炎]]を患い、体調は悪化し続けた。1910年3月9日になってようやく休養を許され、ビアリッツで療養生活に入ったが、体調は回復しなかった。しかもアスキス内閣が[[議会法|議会法案]]提出に動いたことで再び与野党の対立が激化したため、エドワードは4月27日にも療養を切り上げてロンドンへ戻らねばならなくなった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.352-353</ref>。 |
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[[5月2日]]に気管支炎が再び酷くなったが、無理をして公務をこなし続けた結果、[[5月5日]]にはかつてないほどに衰弱した状態に陥った。その容体を聞いたアリックスや皇太子ジョージらはただちにエドワードの元に駆け付けた。皇太子は「お父さん、『空中の魔女(Witch of the Air)』(バーティの持ち馬)がケンプトン・パークのレースで優勝しましたよ」と語りかけ、エドワードは「私も聞いたよ。本当にうれしい」と応じたという<ref name="君塚(2012)354">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.354</ref><ref name="ロン(1976)275">[[#ロン(1976)|ロングリグ(1976)]] p.275</ref>。 |
[[5月2日]]に気管支炎が再び酷くなったが、無理をして公務をこなし続けた結果、[[5月5日]]にはかつてないほどに衰弱した状態に陥った。その容体を聞いたアリックスや皇太子ジョージらはただちにエドワードの元に駆け付けた。皇太子は「お父さん、『空中の魔女(Witch of the Air)』(バーティの持ち馬)がケンプトン・パークのレースで優勝しましたよ」と語りかけ、エドワードは「私も聞いたよ。本当にうれしい」と応じたという<ref name="君塚(2012)354">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.354</ref><ref name="ロン(1976)275">[[#ロン(1976)|ロングリグ(1976)]] p.275</ref>。 |
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[[5月6日]]午後11時45分、アリックスや皇太子らに看取られながら崩御した。68歳だった。最後の言葉は「いや、私は絶対に降参しない。続けるぞ。最後まで仕事を続けるぞ」という昏睡状態の中での呟きだった。その最期を看取ったアリックスは「彼は国のために命を落とした」と語った<ref name="君塚(2012)354" |
[[5月6日]]午後11時45分、アリックスや皇太子らに看取られながら崩御した。68歳だった。最後の言葉は「いや、私は絶対に降参しない。続けるぞ。最後まで仕事を続けるぞ」という昏睡状態の中での呟きだった。その最期を看取ったアリックスは「彼は国のために命を落とした」と語った<ref name="君塚(2012)354"/>。 |
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エドワードの棺は[[5月17日]]に |
エドワードの棺は[[5月17日]]に[[ウェストミンスター・ホール]]へ移され、[[5月18日]]から正装安置が行われた。2日間で70万人もの国民が参列し、エドワードの崩御を悼んだ。[[5月20日]]、砲車に乗せられた棺は、軍隊と各国の要人の葬列を伴ってパディントン駅まで運ばれた。葬列には、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、ロシア皇帝の弟[[ミハイル・アレクサンドロヴィチ (1878-1918)|ミハイル・アレクサンドロヴィチ]]大公、日本皇族[[伏見宮貞愛親王]]、前アメリカ大統領[[セオドア・ルーズベルト]]、フランス外相[[ステファン・ピション]]などが参列した。駅から列車で[[ウィンザー城]]の[[セントジョージ礼拝堂 (ウィンザー城)|セント・ジョージ礼拝堂]]まで輸送され、そこで[[カンタベリー大主教]]らによる葬送礼拝が執り行われた後、埋葬された<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.356-362</ref>。 |
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|File:Floral Clock, Queen Victoria Gardens, Melbourne.JPG|[[オーストラリア]]・[[メルボルン]]・{{仮リンク|ヴィクトリア女王庭園|en|Queen Victoria Gardens}}にあるエドワード7世像(2005年撮影) |
|File:Floral Clock, Queen Victoria Gardens, Melbourne.JPG|[[オーストラリア]]・[[メルボルン]]・{{仮リンク|ヴィクトリア女王庭園|en|Queen Victoria Gardens}}にあるエドワード7世像(2005年撮影) |
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|File:J150W EdwardVII 2010-04 0244.JPG|オーストラリア・[[アデレード]]にあるエドワード7世像(2010年撮影) |
|File:J150W EdwardVII 2010-04 0244.JPG|オーストラリア・[[アデレード]]にあるエドワード7世像(2010年撮影) |
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|File:Monument Edouard VII Montreal 06.jpg|[[カナダ]]・[[モントリオール]]・{{仮リンク|フィリップ広場|en|Phillips Square}}にあるエドワード7世像(2011年撮影) |
|File:Monument Edouard VII Montreal 06.jpg|[[カナダ]]・[[モントリオール]]・{{仮リンク|フィリップス広場|en|Phillips Square}}にあるエドワード7世像(2011年撮影) |
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|File:Queen's Park.JPG|カナダ・[[トロント]]・{{仮リンク|女王公園 (トロント)|label=女王公園|en|Queen's Park (Toronto)}}にあるエドワード7世像(2007年撮影) |
|File:Queen's Park.JPG|カナダ・[[トロント]]・{{仮リンク|女王公園 (トロント)|label=女王公園|en|Queen's Park (Toronto)}}にあるエドワード7世像(2007年撮影) |
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|File:Place Edouard VII, Paris.jpg|[[フランス]]・[[パリ]]・{{仮リンク|エドワード7世広場|fr|Place Édouard-VII}}にあるエドワード7世像(2011年撮影) |
|File:Place Edouard VII, Paris.jpg|[[フランス]]・[[9区 (パリ)|パリ9区]]・{{仮リンク|エドワード7世広場|fr|Place Édouard-VII}}にあるエドワード7世像(2011年撮影)。「[[9区 (パリ)#映画館・劇場]]」も参照。 |
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== 人物 == |
== 人物 == |
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=== 母への恐怖 === |
=== 母への恐怖 === |
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彼は子供の頃から両親に出来が悪いと評価され、50歳代になっても母から公務に関わることを許されなかった<ref name="森(1999)266-267">[[#森(1999)|森(1999)]] p.266-267</ref>。ヴィクトリア女王は「無能」な息子が自分より長生きしないことを祈ってさえいたという<ref name="川本(2006)64">[[#川本(2006)|川本・松村編(2006)]] p.64</ref>。 |
彼は子供の頃から両親に出来が悪いと評価され、50歳代になっても母から公務に関わることを許されなかった<ref name="森(1999)266-267">[[#森(1999)|森(1999)]] p.266-267</ref>。ヴィクトリア女王は「無能」な息子が自分より長生きしないことを祈ってさえいたという<ref name="川本(2006)64">[[#川本(2006)|川本・松村編(2006)]] p.64</ref>。 |
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彼は皇太子時代を通じて母の影に怯えながら暮らした。52歳の時、ある晩餐会に遅刻し、身体を小さくしながら自分の席へ向かおうとしたが、はるか正面席の女王から鋭い一瞥をされ、震えあがり、自分の席まで行けず、しかし帰るわけにもいかず、柱の陰で立ち尽くしたということがあったという<ref name="森(1999)266-267"/>。エドワードは「私としては永遠なる父に祈りを捧げるのは別にかまわない。しかし英国広しといえど、永遠なる母に悩まされているのは私だけだろう」と述べたことがあった<ref name="ベイ(1997)190">[[#ベイ(1997)|ベイカー(1997)]] p.190</ref>。 |
彼は皇太子時代を通じて母の影に怯えながら暮らした。52歳の時、ある晩餐会に遅刻し、身体を小さくしながら自分の席へ向かおうとしたが、はるか正面席の女王から鋭い一瞥をされ、震えあがり、自分の席まで行けず、しかし帰るわけにもいかず、柱の陰で立ち尽くしたということがあったという<ref name="森(1999)266-267" />。エドワードは「私としては永遠なる父に祈りを捧げるのは別にかまわない。しかし英国広しといえど、永遠なる母に悩まされているのは私だけだろう」と述べたことがあった<ref name="ベイ(1997)190">[[#ベイ(1997)|ベイカー(1997)]] p.190</ref>。 |
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ヴィクトリア朝を代表する二人の対称的な首相、[[ベンジャミン・ディズレーリ]]と[[ウィリアム・グラッドストン]]は女王・皇太子への接し方も対称的だった。女王に忠実なディズレーリは「皇太子に伝令の写しを送ることを拒絶はしないが、その場合にはそれほど重要ではない文書を送るように」という女王からの指示に従って、エドワードに重要な書類を見せなかった。対して女王との関係が悪いグラッドストンは様々な機密文書を女王に |
ヴィクトリア朝を代表する二人の対称的な首相、[[ベンジャミン・ディズレーリ]]と[[ウィリアム・グラッドストン]]は女王・皇太子への接し方も対称的だった。女王に忠実なディズレーリは「皇太子に伝令の写しを送ることを拒絶はしないが、その場合にはそれほど重要ではない文書を送るように」という女王からの指示に従って、エドワードに重要な書類を見せなかった。対して女王との関係が悪いグラッドストンは様々な機密文書を女王に無断でエドワードに見せていた。エドワードもグラッドストンに深く感謝し、グラッドストンの葬儀に際しては恐らく初めて母の意思に反する形で彼の葬儀に出席している<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.72-73/86-89</ref>。 |
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=== 放蕩 === |
=== 放蕩 === |
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皇太子時代、エドワードは公務から排除されていたため、そのエネルギーは放蕩に向いた<ref name="森(1999)267">[[#森(1999)|森(1999)]] p.267</ref>。20歳の時にはじめて女性と寝たエドワードは、以降売春婦を除いて101人の女性と関係を持ったという<ref name="森(1999)308">[[#森(1999)|森(1999)]] p.308</ref>。恋愛問題をめぐって[[ランドルフ・チャーチル (1849-1895)|ランドルフ・チャーチル卿]](後の英国首相[[ウィンストン・チャーチル]]の父)に決闘を申し込んだこともある<ref name="ペイン(1975)44">[[#ペイン(1975)|ペイン(1975)]] p.44</ref>。 |
皇太子時代、エドワードは公務から排除されていたため、そのエネルギーは放蕩に向いた<ref name="森(1999)267">[[#森(1999)|森(1999)]] p.267</ref>。20歳の時にはじめて女性と寝たエドワードは、以降売春婦を除いて101人の女性と関係を持ったという<ref name="森(1999)308">[[#森(1999)|森(1999)]] p.308</ref>。恋愛問題をめぐって[[ランドルフ・チャーチル (1849-1895)|ランドルフ・チャーチル卿]](後の英国首相[[ウィンストン・チャーチル]]の父)に決闘を申し込んだこともある<ref name="ペイン(1975)44">[[#ペイン(1975)|ペイン(1975)]] p.44</ref>。 |
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数多い愛人の中でも特にエドワードから寵愛を受け、常に彼と一緒にあった愛人が3人おり、彼女たちは「[[公妾|ロイヤル・ミストレス]]( |
数多い愛人の中でも特にエドワードから寵愛を受け、常に彼と一緒にあった愛人が3人おり、彼女たちは「[[公妾|ロイヤル・ミストレス]]({{Lang|en|Royal mistress}})」と俗称された<ref name="森(1999)276">[[#森(1999)|森(1999)]] p.276</ref>。その最初の一人は、[[1877年]]5月に知り合い、[[1880年]]に別れた[[リリー・ラングトリー]]だった。[[ジャージー]]出身の平民の人妻だが、美人で気立てが良く、身の程をわきまえていたのでヴィクトリア女王や妃アリックスからも気に入られていた(リリーはアリックスに対して常に下手に出たため、アリックスはリリーに対して嫉妬しなかったという)<ref>[[#森(1999)|森(1999)]] p.276-283/290-291</ref>。 |
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つづいて[[1889年]]から[[1897年]]までウォリック伯爵夫人{{仮リンク|デイジー・グレンヴィル (ウォリック伯爵夫人)|label=デイジー・グレンヴィル|en|Daisy Greville, Countess of Warwick}}を「ロイヤル・ミストレス」にした。彼女は{{仮リンク|メイナード子爵|label=メイナード子爵家|en|Viscount Maynard}}の令嬢で第5代[[ウォリック伯]]{{仮リンク|フランシス・グレンヴィル|en|Francis Greville, 5th Earl of Warwick}}の妻だった。エドワードは彼女を相談相手の妻のように扱い、「デイジー・ワイフ」と呼んでいた。デイジーは貴族社会で気立てが良いと評判でヴィクトリア女王からの覚えもよかったが、貴族出身だけに下手に出ることがなかったため、アリックス妃から強い敵意を抱かれた<ref>[[#森(1999)|森(1999)]] p.284-291</ref>。やがてデイジーは社会主義運動にのめり込み、政治面でもエドワードに影響を及ぼすようになった。1894年にエドワードは貴族院で「貧民街改善案」を訴えているが、これはデイジーの影響だったという。しかしデイジーの社会主義傾倒が深まりすぎるとエドワードとの思想面での距離が広がり、結局二人は1897年に別れることになった<ref>[[#森(1999)|森(1999)]] p.292-297</ref>。 |
つづいて[[1889年]]から[[1897年]]までウォリック伯爵夫人{{仮リンク|デイジー・グレンヴィル (ウォリック伯爵夫人)|label=デイジー・グレンヴィル|en|Daisy Greville, Countess of Warwick}}を「ロイヤル・ミストレス」にした。彼女は{{仮リンク|メイナード子爵|label=メイナード子爵家|en|Viscount Maynard}}の令嬢で第5代[[ウォリック伯]]{{仮リンク|フランシス・グレンヴィル|en|Francis Greville, 5th Earl of Warwick}}の妻だった。エドワードは彼女を相談相手の妻のように扱い、「デイジー・ワイフ」と呼んでいた。デイジーは貴族社会で気立てが良いと評判でヴィクトリア女王からの覚えもよかったが、貴族出身だけに下手に出ることがなかったため、アリックス妃から強い敵意を抱かれた<ref>[[#森(1999)|森(1999)]] p.284-291</ref>。やがてデイジーは社会主義運動にのめり込み、政治面でもエドワードに影響を及ぼすようになった。1894年にエドワードは貴族院で「貧民街改善案」を訴えているが、これはデイジーの影響だったという。しかしデイジーの社会主義傾倒が深まりすぎるとエドワードとの思想面での距離が広がり、結局二人は1897年に別れることになった<ref>[[#森(1999)|森(1999)]] p.292-297</ref>。 |
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その後[[1898年]]早春から国王即位を挟んで1910年の崩御まで[[アリス・ケッペル]]夫人を「ロイヤル・ミストレス」にした。彼女はスコットランドの準男爵家の出身で、第7代アルビマール伯爵{{仮リンク|ウィリアム・ケッペル (第7代アルビマール伯爵)|label=ウィリアム・ケッペル|en|William Keppel, 7th Earl of Albemarle}}の三男{{仮リンク|ジョージ・ケッペル (軍人)|label=ジョージ・ケッペル|en|George Keppel (soldier)}}と結婚していた。エドワードとは27歳の年の差があったが、彼女はエドワードが落ち込んでいる時には励まし、エドワードが疳癪を起こせば耐え忍び、エドワードが病気になれば献身的に看病するという「高齢者向き」の愛人だったため、エドワードは片時も彼女を手放さなかった。エドワードの即位時には彼女の去就が注目されたが、結局国王となった後もエドワードは皇太子時代以上に彼女を寵愛した。やがて彼女は「La Favorita(お気に入り)」と渾名されるようになった。アリスへのアリックス妃の反応はリリーほど好感をもっていないが、デイジーほど嫌ってもいないという雰囲気だったという。しかしエドワード崩御後にアリックス妃はアリスをただちに宮殿から退去させている。また皇太子ジョージ(ジョージ5世)はアリスを嫌っていた<ref>[[#森(1999)|森(1999)]] p.297-302/306</ref>。 |
その後[[1898年]]早春から国王即位を挟んで1910年の崩御まで[[アリス・ケッペル]]夫人を「ロイヤル・ミストレス」にした。彼女はスコットランドの準男爵家の出身で、第7代アルビマール伯爵{{仮リンク|ウィリアム・ケッペル (第7代アルビマール伯爵)|label=ウィリアム・ケッペル|en|William Keppel, 7th Earl of Albemarle}}の三男{{仮リンク|ジョージ・ケッペル (軍人)|label=ジョージ・ケッペル|en|George Keppel (soldier)}}と結婚していた。エドワードとは27歳の年の差があったが、彼女はエドワードが落ち込んでいる時には励まし、エドワードが疳癪を起こせば耐え忍び、エドワードが病気になれば献身的に看病するという「高齢者向き」の愛人だったため、エドワードは片時も彼女を手放さなかった。エドワードの即位時には彼女の去就が注目されたが、結局国王となった後もエドワードは皇太子時代以上に彼女を寵愛した。やがて彼女は「La Favorita(お気に入り)」と渾名されるようになった。アリスへのアリックス妃の反応はリリーほど好感をもっていないが、デイジーほど嫌ってもいないという雰囲気だったという。しかしエドワード崩御後にアリックス妃はアリスをただちに宮殿から退去させている。また皇太子ジョージ(ジョージ5世)はアリスを嫌っていた<ref>[[#森(1999)|森(1999)]] p.297-302/306</ref>。 |
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=== ラブチェアー === |
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パリで最も豪華な売春宿である{{仮リンク|ル・シャバネ|en|Le Chabanais}}の常連客であり、同時に2人の女性と性行為を行うという性交嗜好を満たすために特別に設計された椅子、{{仮リンク|ラブ・チェアー|en|Love chair}}が設置されていた<ref>{{cite web|website=[[BuzzFeed]]|url=https://www.buzzfeed.com/jp/bfjapan/nsfw-historical-sex-facts-no-one-tells-you-about-at-school-1|title=知られざるセックスの歴史、我々の祖先は想像以上にみだらだった|author=Hilary Mitchell|date=2017-10-25|accessdate=2024-07-26}}</ref>。 |
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=== 「ピースメーカー」 === |
=== 「ピースメーカー」 === |
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即位前に放蕩家として国内外に浮き名を流したため、イギリス史上最大の愚王となるのではと不安視されたが、実際に即位した後には外交問題を中心に活躍して有能な王であることを内外に知らしめた<ref name="森(1999)265" |
即位前に放蕩家として国内外に浮き名を流したため、イギリス史上最大の愚王となるのではと不安視されたが、実際に即位した後には外交問題を中心に活躍して有能な王であることを内外に知らしめた<ref name="森(1999)265"/>。 |
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彼の9年間という短い在位期間にイギリスは昔からの敵国[[フランス]]と[[ロシア帝国|ロシア]]、また東洋の新興国[[日本]]と連携関係を創ることができた<ref name="タッ(1986)14">[[#タッ(1986)|タックマン(1986)]] p.14</ref>。そのため「ピースメーカー」と呼ばれた<ref name="君塚(2012)367">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.367</ref>。 |
彼の9年間という短い在位期間にイギリスは昔からの敵国[[フランス]]と[[ロシア帝国|ロシア]]、また東洋の新興国[[日本]]と連携関係を創ることができた<ref name="タッ(1986)14">[[#タッ(1986)|タックマン(1986)]] p.14</ref>。そのため「ピースメーカー」と呼ばれた<ref name="君塚(2012)367">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.367</ref>。 |
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エドワード7世には[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の[[黄禍論]]のような人種的偏見はなかった。若い頃のインド訪問時、白人の非白人に対する横柄な態度を見て、彼は眉をひそめていた<ref name="君塚(2012)369">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.369</ref>。 |
エドワード7世には[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の[[黄禍論]]のような人種的偏見はなかった。若い頃のインド訪問時、白人の非白人に対する横柄な態度を見て、彼は眉をひそめていた<ref name="君塚(2012)369">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.369</ref>。 |
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フランスについてはエドワード7世は若い頃から親仏派だった。最初の訪仏の際、ナポレオン3世に「貴方の国は立派な国です。私は貴方の息子になりたいです」と述べたことはよく知られている。ただ彼の親仏は母ヴィクトリア女王の親独方針に反発しての部分も大きかったようである<ref name="タッ(1986)14" |
フランスについてはエドワード7世は若い頃から親仏派だった。最初の訪仏の際、ナポレオン3世に「貴方の国は立派な国です。私は貴方の息子になりたいです」と述べたことはよく知られている。ただ彼の親仏は母ヴィクトリア女王の親独方針に反発しての部分も大きかったようである<ref name="タッ(1986)14"/>。 |
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一方イギリスのフランス・ロシア・日本への接近によって孤立することになったドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]は叔父エドワードをドイツ包囲網の中心人物と恨んでいた。彼は1907年に宴会の席でエドワードについて「悪魔め!彼は計り知れないほど恐ろしい悪魔だ」と公言した<ref name="タッ(1986)12">[[#タッ(1986)|タックマン(1986)]] p.12</ref>。晩年にも回顧録の中でエドワードこそが第一次世界大戦の元凶と断じている。ヴィルヘルムによればエドワードはイギリス政府の方針に沿って行動していた立憲君主ではなく、彼独自の政治的野心で行動していた人物で、その野心のためにドイツ包囲網を築いたのだという<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.366-367</ref>。 |
一方イギリスのフランス・ロシア・日本への接近によって孤立することになったドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]は叔父エドワードをドイツ包囲網の中心人物と恨んでいた(ただし、ロシアとの同盟を解消したのはドイツであり、日本に三国干渉を仕掛けるなど嫌われる行動、孤立する行動をヴィルヘルム二世は自分からとっている)。彼は1907年に宴会の席でエドワードについて「悪魔め!彼は計り知れないほど恐ろしい悪魔だ」と公言した<ref name="タッ(1986)12">[[#タッ(1986)|タックマン(1986)]] p.12</ref>。晩年にも回顧録の中でエドワードこそが第一次世界大戦の元凶と断じている。ヴィルヘルムによればエドワードはイギリス政府の方針に沿って行動していた立憲君主ではなく、彼独自の政治的野心で行動していた人物で、その野心のためにドイツ包囲網を築いたのだという<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.366-367</ref>。 |
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===競馬=== |
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エドワードは、皇太子時代から競馬に熱中していた。競走馬の生産、所有にうちこみ、競馬を統括する[[ジョッキークラブ|イギリス競馬会]]へも影響力を行使した。特に競走馬の馬主と生産者して良績を残し、1900年には全英馬主チャンピオン・生産者チャンピオンになった<ref name="ヴァンプルー56"> ヴァンプルー p.56-57</ref>。歴代の王族のうち、競馬でエドワードほどの成功をおさめたものはいなかった<ref name="TH_persimmon">[http://www.tbheritage.com/Portraits/Persimmon.html Throughbred Heritage Persimmon]2014年12月17日閲覧。</ref><ref group="注釈">大レースの勝ち鞍や馬主チャンピオンになったこと、ダービー3勝し、そのうち1勝は国王としての唯一の勝利で、クラシック8勝、約200年の間に15頭しかいない三冠馬のうち1頭を生産、チャンピオン種牡馬を生産、などの点で、歴代の王族でエドワードに比肩しうる者はいない。長年積み重ねた勝利数では、エリザベス2世が馬主として400勝以上をあげている。</ref>。 |
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====皇太子時代==== |
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1862年に[[アスコット競馬場]]で、[[プリンスオブウェールズステークス]](無理に日本語化すると「王太子賞」となる)が創設されたが、これは当時の[[プリンス・オブ・ウェールズ]]であるエドワードの称号を冠したものだった<ref name="FRIXO_PWS">[http://www.frixo.com/sbook/events/prince-of-wales-stakes.asp FRIXO Prince of Wales`s Stakes Betting]</ref>。 |
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エドワードは、大学時代の学友であるヘンリー・チャップリン([[:en:Henry Chaplin, 1st Viscount Chaplin]]<ref group="注釈">1863年に[[ハーミット]]で[[ダービーステークス|イギリスダービー]]優勝</ref>、フレデリック・ジョンストン([[:en:Sir Frederick Johnstone, 8th Baronet]]<ref group="注釈">1883年に[[:en:St. Blaise (horse)|セントブレーズ]]で[[ダービーステークス|イギリスダービー]]優勝</ref>らとともに競馬にうちこみ、1864年にイギリス競馬会([[ジョッキークラブ]])の会員になった。ただし、母のヴィクトリア女王の不興をかうことを避けるため、馬は他人の名義で走らせた<ref name="バーネット112">バーネット p.112-116</ref>。自身の名義で服色登録をしたのは1875年が初めてで、実際にその服色で出走させたのは1877年になってからだった<ref name="バーネット112"/><ref>[[#ロン(1976)|ロングリグ(1976)]] p.137/275</ref>。 |
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[[File:Persimmon 1896.jpg|180px|thumb|right|ダービー優勝直後のパーシモンと皇太子エドワード。]] |
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エドワードは、イギリス中の主要な競馬開催には顔を出した。春の[[ニューマーケット|ニューマーケット]]、[[エプソム競馬場|エプソム]]、それが終わると6月の[[アスコット競馬場|アスコット]]、7月のニューマーケット、8月の[[グッドウッド競馬場|グッドウッド]]と足を運んだ。イギリス南部の海に面したグッドウッドの競馬のあとは海辺でヨットに打ち込んだ。母のヴィクトリアは皇太子をたしなめたが、エドワードは聞き入れなかった<ref name="Hib7">『Edward VII: The Last Victorian King』,Christopher Hibbert,Palgrave Macmillan,2007,[7]round of pleasure</ref>。 |
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あるとき、ロシア大使がエドワードに、競馬場へ行くにはどのような服装がよいのか尋ねた。エドワードはこう答えた。ニューマーケット競馬場に行くならモーニングに山高帽だ。だがエプソム競馬場のダービーなら[[シルクハット]]でなければならない<ref group="注釈">ニューマーケット競馬場には伝統的に「観客席」はなく、上流階級の観客は馬上から競馬を観戦するのが習わしだったので、乗馬用の山高帽。エプソム競馬場には貴賓席があるので、上流階級に相応しいシルクハット、ということになる。</ref><ref name="Hib7"/>。 |
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エドワードは、はじめのうちは安馬を障害戦に出走させることで満足していたが、やがて自ら競走馬生産を行うため、1885年に[[:en:Sandringham House|サンドリンガム]]に牧場を開設した<ref group="注釈">王族が牧場を開くのはこれが初めてではなく、16世紀に開設されたハンプトンコート牧場が伝統的に王室牧場だった。エドワードの祖父にあたるウィリアム4世が牧場を縮小し、エドワードの母ヴィクトリアが牧場を閉鎖した。しかしヴィクトリアの夫アルバートの働きかけで、ヴィクトリアは後にハンプトンコート牧場を再興している。ハンプトンコートはロンドンからすぐの場所にあったが、サンドリンガムはロンドンから100km以上離れていて、むしろ[[ニューマーケット競馬場]]に近い。</ref>。エドワードが生産した競走馬のうち、最初に一流の活躍をしたのは1893年生まれの牝馬タイス(Thais)で、1896年4月に[[1000ギニー]]を勝ち、エドワードに最初の[[イギリスクラシック三冠|クラシック競走]]勝ちをもたらした<ref name="ヴァンプルー56"/><ref group="注釈">ヴァンプルー,p56 によれば1886年。</ref><ref>[[#ロン(1976)|ロングリグ(1976)]] p.137/275</ref><ref>Church,p193</ref>。 |
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さらにこの年の6月、エドワードの生産した牡馬[[パーシモン]]がダービーをレコード勝ちした。王族のダービー制覇は1822年の[[フレデリック (ヨーク・オールバニ公)|ヨーク公フレデリック]]以来、74年ぶりで、この勝利はイギリス王室の人気も大いに高めた。このレースの模様は、3年前に実用化されたばかりの[[キネトスコープ]]で録画されており、その日の夜からそのフィルムがカンタベリー・ミュージックホール([[:en:Canterbury Music Hall|Canterbury Music Hall]])やアルハンブラ劇場([[:en:Alhambra Theatre]])で24時間上映された。観客は動画を見終わると「皇太子万歳!(God bless the Prince of Wales)」と叫んで気勢を上げた<ref>[http://www.victorian-cinema.net/persimmon Victorian-cinema Persimmon]2014年12月17日閲覧。</ref>。このフィルムは当時の人気コンテンツとなって、次々と各地で上映された。年末にはオーストラリアへフィルムが送られて上映され、年が明けて1月にはニュージーランドで公開された<ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=WH18961026.2.9&srpos=4&e=21-10-1896-31-10-1896--10--1----0Persimmon-- Wanganui Herald紙 1896年10月26日付 A REPREHENSIBLE PRACTICE]2014年12月17日閲覧。</ref><ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=ME18961210.2.19&srpos=1&e=01-12-1896-10-12-1896--10--1----0Persimmon-- Mataura Ensign紙 1896年12月10日付 The Cinematographe on the Stage]2014年12月17日閲覧。</ref><ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=TS18970406.2.5&srpos=7&e=01-04-1897-30-04-1897--10--1----0Persimmon-- Star紙 1897年4月6日付 THEATRE ROYAL]2014年12月17日閲覧。</ref>。「皇太子のダービー優勝(The Prince's Derby)」という俗歌もつくられ、これを著した本も人気を博した<ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=OW18960827.2.170&srpos=11&e=16-08-1896-31-08-1896--10--11----0Persimmon-- Otago Witness紙 1896年8月27日付 LITERARY NOTES]2014年12月17日閲覧。</ref><ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=OW18970107.2.161&srpos=4&e=01-01-1897-31-01-1897--10--1----0Persimmon-- Otago Witness紙 1897年1月7日付 BOOK NOTICES]2014年12月17日閲覧。</ref>。 |
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翌年、パーシモンは古馬最高峰の[[ゴールドカップ]]も勝ったが、王族の優勝は1821年に優勝した王弟時代の[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]以来だった<ref name="ヴァンプルー56"/><ref>クレイグ,p.90-91</ref>。パーシモンはエドワードのサンドリンガム牧場で種牡馬になると、1902年、1906年、1908年、1912年の4回、イギリスの種牡馬チャンピオンとなった<ref>山野1970,75</ref><ref name="TH_persimmon"/>。 |
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[[File:Diamond Jubilee.jpg|thumb|right|180px|エミール・アダムによるダイヤモンドジュビリーの肖像画。<!--モノクロ画像なのではっきり判別できないが、オリジナルは王室の服色で描かれている。-->]] |
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タイスとパーシモンを生産した翌年1894年にサンドリンガム牧場で生まれたアンブッシュ(Ambush)は1900年にイギリス最大の障害競走[[グランドナショナル]]に勝ち、このレース史上初めての王族の優勝となった。この年には、パーシモンの[[競走馬の血統#兄弟姉妹の関係|全弟]]の[[ダイヤモンドジュビリー]]が、[[2000ギニー]]、ダービー、[[セントレジャーステークス|セントレジャー]]を勝って三冠馬となった。王族として三冠馬の馬主となったのは2014年まででこれが唯一の例である。この1900年の競馬シーズンが終わってみると、エドワードが生産者、馬主として稼いだ賞金額はイギリスの全馬主のなかで首位であり、エドワードは1900年の馬主チャンピオン・生産者チャンピオンとなった<ref group="注釈">のちにエリザベス2世は女王として2度、馬主チャンピオンになっている。</ref><ref name="ヴァンプルー56"> ヴァンプルー p.56-57</ref><ref>クレイグ、p.223</ref>。エドワードはドイツからエミール・アダム([[:en:Emil Adam|Emil Adam]])という画家を呼び寄せ、パーシモン、アンブッシュ、ダイヤモンドジュビリーの肖像画を描かせた<ref name="ヴァンプルー73"> ヴァンプルー p.73</ref><ref>Church,p.124,p.193,p276</ref>。 |
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なお、「ダイヤモンドジュビリー」という馬名は、この馬の誕生した1897年が母のヴィクトリアの在位60周年の年であったため、これにちなんで[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレクサンドラ妃]]が命名したものである。アレクサンドラ妃もイギリス競馬に名を残しており、結婚後間もない1865年に「アレクサンドラ・プレート」([[:en:Queen_Alexandra_Stakes|Alexandra Plate]])という競走を創設し、アレクサンドラが毎年の賞金を下賜した。この競走は今でも続いており、毎年6月の王室競馬[[ロイヤルアスコット開催]]で行われていて、2014年現在イギリスの平地競走では最長距離の競走となっている<ref name="ヴァンプルー56"> ヴァンプルー p.56-57</ref>。 |
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====国王時代==== |
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馬主チャンピオンに輝いた1900年がおわり、年が明けると1901年の1月に母ヴィクトリアが崩御した。エドワードは戴冠して国王となったが、競馬との関わりはその後も続き、グッドウッド競馬場の夏開催“グロリアス・グッドウッド”とその後のパーティーには常に顔を出した。この開催を表現するのによく用いられる"a garden party with racing tacked on"(競馬で彩られた園遊会)というフレーズは、エドワード7世によるものである<ref>ヴァンプルー,p110</ref><ref>[http://edition.cnn.com/2011/SPORT/07/27/horse.racing.glorious.goodwood/ CNN Glorious Goodwood: Horse racing's garden party]2014年12月16日閲覧。</ref><ref>[https://www.goodwood.com/horse-racing/news/articles/garden-party-to-launch-the-new-season-at-goodwood-racecourse.aspx グッドウッド競馬場公式サイト]2014年12月16日閲覧。</ref>。 |
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1903年のある日、エドワード7世はニューマーケットで朝の散歩をしている途中で、調教師のジョン・ポーター([[:en:John Porter (horseman)|John Porter]])に声をかけられた。ポーターは当時、ダービー7勝、手がけた三冠馬は3頭<ref group="注釈">[[オーモンド]]、[[コモン (競走馬)|コモン]]、[[フライングフォックス]]。牝馬の[[ラフレッシュ]]を数に含めると4頭。</ref>という名調教師で、エドワード7世自身も皇太子時代に初めて馬を持って以来、17頭の面倒を見てもらった人物である。ポーター調教師は、自身が本拠地を置く[[ニューベリー (バークシャー)|ニューベリー]]に新しい競馬場を作ろうとしていたが、ジョッキークラブの許可が得られなかった。というのも、当時のイギリスでは各地に競馬場が乱立し、低質な運営から不正や犯罪の温床となっていて、ジョッキークラブは新設競馬場を一切認めていなかったのである。エドワード7世はポーター調教師のために国王としてジョッキークラブにかけあい、特別に新設競馬場設置の許可を引き出した。こうしてできたのが[[ニューベリー競馬場]]で、[[ウィンザー城]]からも近いニューベリー競馬場は王室所有の[[アスコット競馬場]]に次いでイギリス王室に所縁のある競馬場となっている<ref name="">シューバック,p.55-60</ref><ref>クレイグ,p.249</ref><ref group="注釈">たまたまエリザベス2世の誕生日がニューベリー競馬場の開催日にあたることから、エリザベス女王はしばしばニューベリー競馬場で誕生日を迎えている。また、エリザベス2世が馬主として1974年の1000ギニーとオークスを勝ったハイクレア(Highclere)の名は、ニューベリー近郊のハイクレアという地名から採られている。</ref>。 |
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国王になってから馬主としてのピークが来るのは1909年で、前年(1908年、2歳の時)に借り受けた<ref group="注釈">現在日本の競馬では競走馬の貸し借りは禁止されているが、昔の日本や、諸外国では普通に行われている。貸し借りには様々な条件が付与されるが、たとえば競走馬としての権利は貸すが、引退後の種牡馬の権利は渡さないなど、ケースバイケースである。</ref>[[ミノル (イギリスの競走馬)|ミノル]]が2000ギニーを勝ち、国王になってから初めてのクラシック制覇となった。もちろん歴代国王の中でも、現役の王がクラシック競走の優勝馬主となるのは初めてだった<ref group="注釈">のちに、現役の王としてイギリスクラシックに勝っのは、ジョージ5世(1勝)、ジョージ6世(2勝)、エリザベス2世(3勝、2014年現在)がいる。</ref><ref name="ヴァンプルー56"/><ref name="クレイグ118">クレイグ,p.118</ref>。 |
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[[ファイル:Minoru at Epsom.jpg|400px|thumb|right|ダービー優勝直後のミノルとエドワード7世。エドワード7世に手綱が手渡される瞬間を描いている。紫地に金の[[飾緒]]、緋色の袖、黒帽子の王室の服色も確認できる。]] |
[[ファイル:Minoru at Epsom.jpg|400px|thumb|right|ダービー優勝直後のミノルとエドワード7世。エドワード7世に手綱が手渡される瞬間を描いている。紫地に金の[[飾緒]]、緋色の袖、黒帽子の王室の服色も確認できる。]] |
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*詳しくは[[エドワード7世と競馬]]を参照。 |
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ミノルはダービーに出走し、最終コーナーから進出して、ルビエ(Louviers<ref group="注釈">Louviersのカタカナ転記には様々なものがある。ルビエール(ウィレット、p.196)、ルヴィエール(レスター、p.172)、ルーヴィエ(山野1970、p.204)、ルーヴィエル(山野1996、p.44)など。フランス風に読めば「ルービエ」よりになるし、英国風によめば「ルビエーズ」よりになる。フランスの地名[[:en:Louviers]]のことだと考えれば日本では「ルビエ」と転記する事が多い。Louviersはイギリス産馬で馬主もイギリス人である。Louviersはドイツで種牡馬チャンピオンになったのでドイツ風に読むと「ルービエーズ」のようになるし、ロシアへ売られていったのでロシア風に読めば「ルビエス」となる。</ref>)と2ハロン(約402メートル)に渡る叩き合いの末、全く並んでゴールした。当時は写真判定がなく、ゴールは目視で判定された。審判が王族を特別扱いして不当に有利な判定をしたと誹られることを回避するために、イギリス競馬界では伝統的に、王族の馬が接戦でゴールした場合には、王室に不利な判定を下すことになっていた。しかし、判定が決するまで長い時間がかかった末、短頭差(イギリス競馬では最小の着差)でミノルの優勝と発表された<ref name="TA_19090528">[http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/5727278 The Advertiser紙 1909年5月28日付 A Popular Victory]2014年12月16日閲覧。</ref><ref name="KM_19090609">[http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/90985059 Kalgoorlie Miner 紙 1909年6月9日付 An Exciting Scene]2014年12月16日閲覧。</ref><ref name="ヴァンプルー56"/><ref name="クレイグ118"/>。 |
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エドワード7世は皇太子時代から競馬に熱心だった。1864年にイギリス競馬会([[ジョッキークラブ]])の会員になり、馬主としてデビューした{{refnest|group="注釈"|ただし母のヴィクトリア女王を憚って、他人の名義で競走馬を出走させた<ref name="バーネット112">バーネット p.112-116</ref>。自身の名義で走らせるようになったのは1877年から<ref name="バーネット112"/><ref name="ReferenceA">[[#ロン(1976)|ロングリグ(1976)]] p.137/275</ref>。}}。 |
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1885年には[[:en:Sandringham House|サンドリンガム]]に牧場を開設してサラブレッド生産を始めた。その生産馬で1896年に[[1000ギニー]]を勝って[[イギリスクラシック三冠|クラシック競走]]初優勝<ref name="ヴァンプルー56" /><ref group="注釈">ヴァンプルー,p56 によれば1886年。</ref><ref name="ReferenceA">[[#ロン(1976)|ロングリグ(1976)]] p.137/275</ref><ref>Church,p193</ref>、同年6月には[[パーシモン (競走馬)|パーシモン]]で[[ダービーステークス|ダービー]]をレコード勝ちし、1822年の[[フレデリック (ヨーク・オールバニ公)|ヨーク公フレデリック]]以来の74年ぶりの王族によるダービー優勝となった。パーシモンは翌年に古馬最高峰の[[ゴールドカップ]]も制し<ref name="ヴァンプルー56" /><ref>クレイグ,p.90-91</ref>、引退して種牡馬になるとイギリスの[[リーディングサイアー|種牡馬チャンピオン]]となった<ref>山野1970,75</ref><ref name="TH_persimmon">[http://www.tbheritage.com/Portraits/Persimmon.html Throughbred Heritage Persimmon] 2014年12月17日閲覧。</ref>。1900年には自家生産馬でイギリス最大の障害競走[[グランドナショナル]]優勝(王族として史上初)、[[ダイヤモンドジュビリー (競走馬)|ダイヤモンドジュビリー]]で[[2000ギニー]]、ダービー、[[セントレジャーステークス|セントレジャー]]の三冠制覇(2017年現在、王族として唯一の例)、この年の馬主チャンピオン・生産者チャンピオンとなった<ref name="ヴァンプルー56">ヴァンプルー p.56-57</ref><ref>クレイグ、p.223</ref>。 |
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ダービーでの慣習にしたがって、優勝馬のオーナーであるエドワード7世は、貴賓席からゴール直後の走路に降り立ち、ミノルの手綱をとった。観客の興奮はピークに達し、何千人もの観客が国王と優勝馬を近くで見ようと取り囲み、警官隊が必死でこれを押し戻した。王室を讃える人々の熱狂の渦に取り巻かれて、エドワード7世は少し怯えたようにさえ見えた、と当時の新聞に書かれている。国王夫妻らを乗せた列車が[[ヴィクトリア駅|ロンドン駅]]に戻ってくると、歓喜に湧く大観衆が出迎えた。現役国王がダービーを制するのは史上初<ref group="注釈">2014年現在で、唯一の例。</ref>で、この勝利は王室の人気を大いに高めたとされている<ref name="TA_19090528"/><ref name="KM_19090609"/><ref name="ヴァンプルー56"/><ref>レスター、p.272-273</ref>。第9代レスター男爵(Sir Charles Byrne Warren Leicester, 9th Baronet,1896–1968)は、1957年に出版した『サラブレッドの世界』の中で「この勝利はおそらく競馬の歴史のなかでももっとも有名なもの」と紹介している<ref>レスター、p.272</ref>。 |
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国王即位後も、1909年に[[ミノル (イギリスの競走馬)|ミノル]]で2000ギニーとダービーを制した。現役の国王としてのダービー優勝は2017年時点で唯一の例である<ref name="ヴァンプルー56" /><ref name="クレイグ118">クレイグ,p.118</ref>。この優勝は第9代準男爵サー・チャールズ・レスター(Sir Charles Byrne Warren Leicester, 9th Baronet,1896–1968)によって「おそらく競馬の歴史のなかでももっとも有名なもの」と評されている<ref>レスター、p.272</ref>。 |
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ミノルは翌1910年も走ったが、5月にエドワード7世が崩御して馬主登録が失効したために引退した。エドワード7世が皇太子ジョージと最後にかわした会話もエドワード7世の持ち馬が競馬で勝ったことに関する話題だった<ref>[[#ロン(1976)|ロングリグ(1976)]] p.137/275</ref>。 |
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王族としての競馬での活躍は王室人気に貢献した<ref name="ヴァンプルー56" /><ref name="TA_19090528">[http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/5727278 The Advertiser紙 1909年5月28日付 A Popular Victory] 2014年12月16日閲覧。</ref><ref name="KM_19090609">[http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/90985059 Kalgoorlie Miner 紙 1909年6月9日付 An Exciting Scene] 2014年12月16日閲覧。</ref><ref>レスター、p.272-273</ref>。最初のダービー優勝の様子は映画になってイギリス、オーストラリア、ニュージーランドなどで放映された<ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=WH18961026.2.9&srpos=4&e=21-10-1896-31-10-1896--10--1----0Persimmon-- Wanganui Herald紙 1896年10月26日付 A REPREHENSIBLE PRACTICE] 2014年12月17日閲覧。</ref><ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=ME18961210.2.19&srpos=1&e=01-12-1896-10-12-1896--10--1----0Persimmon-- Mataura Ensign紙 1896年12月10日付 The Cinematographe on the Stage] 2014年12月17日閲覧。</ref><ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=TS18970406.2.5&srpos=7&e=01-04-1897-30-04-1897--10--1----0Persimmon-- Star紙 1897年4月6日付 THEATRE ROYAL] 2014年12月17日閲覧。</ref>。[[アスコット競馬場]]ではエドワード7世を記念して「[[キングエドワード7世ステークス]]」が行われているほか、[[プリンスオブウェールズステークス (イギリス)|プリンスオブウェールズステークス]]もエドワード7世の王太子時代に創設されたものである<ref name="FRIXO_PWS">[http://www.frixo.com/sbook/events/prince-of-wales-stakes.asp FRIXO Prince of Wales`s Stakes Betting]</ref>。 |
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1926年には、アスコット競馬場で行われていた「アスコットダービー」という競走がエドワード7世を記念して「[[キングエドワード7世ステークス]]」に改称された<ref>[http://www.punterslounge.com/king-edward-vii-stakes King Edward VII Stakes Betting Guide]2014年12月16日閲覧。</ref><ref>[http://www.frixo.com/sbook/events/king-edward-vii-stakes.asp FRIXO King Edward VII Stakes Betting]2014年12月16日閲覧。</ref>。 |
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=== ファッション === |
=== ファッション === |
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皇太子時代から[[ダンディ|ファッションリーダー]]として名をはせており、その影響は現代でも見てとれる。例えば[[ディレクターズスーツ]]はエドワード7世の発案とされている<ref name="ストリートスタイル">[[#ストリートスタイル|髙村(1997)]] p.42</ref>。これはそれ以前にはあくまで室内着、あるいはカジュアルに近い服装とされていた3つ揃いのスーツを、[[フロックコート]]、[[モーニングコート]]に次ぐ礼装として調えたものであり、エドワード7世自身が着用することで礼服としての地位が示された。また、この格好と合わせられる[[ホンブルク帽]]を有名にしたのも他ならぬエドワード7世である。さらに、グレンチェック模様の服を皇太子時代から好んで着用したために、この模様には「プリンス オブ ウェールズ」という呼び名があり、また今でもそう呼ばれている<ref>[https://www.fashion-press.net/words/516 プリンス オブ ウェールズ:Prince of Wales]</ref>。ネクタイの結び方の種類に「プリンス・アルバート」というものがある。これは、結び目を小さく形作る方法である<ref>[http://www.brooksbrothers.co.jp/special/tie-prince-albert.html プリンスアルバート]</ref>。 |
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[[ディレクターズスーツ]]を考案するなどエドワーディアン・スタイルと呼ばれるスーツ・スタイルを広め、現代のファッションにもその影響は大きい<ref name="ストリートスタイル">[[#ストリートスタイル|髙村(1997)]] p.42</ref>。 |
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=== その他 === |
=== その他 === |
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*[[1868年]]に[[スウェーデン王]][[カール15世 (スウェーデン王)|カール15世]]の |
*[[1868年]]に[[スウェーデン王]][[カール15世 (スウェーデン王)|カール15世]](スウェーデン・グランドロッジのグランドマスター)の手で[[フリーメイソン]]に加入した{{sfn|湯浅慎一|1990|p=107}}。1870年から[[イングランド・連合グランドロッジ]]のグランド・マスターを務めた。即位に際して辞職した<ref name="Grand Lodge">{{Cite web |url= http://freemasonry.bcy.ca/biography/edward_vii/edward_vii.html |title= Edward VII |accessdate= 2014-02-17 |work= [http://freemasonry.bcy.ca/grandlodge.html Grand Lodge of British Columbia and Yukon] |language= 英語 }}</ref>。ただメイソンリー活動にはさほど熱心ではなかったようである{{sfn|湯浅慎一|1990|p=108}}。 |
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*ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、ロシア皇帝ニコライ2世の |
*ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、ロシア皇帝ニコライ2世の伯父にあたるため、「ヨーロッパの伯父さん」と渾名された<ref name="君塚(2012)233">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.233</ref>。 |
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*プリンス・オブ・ウェールズとしての在任期間が長いため「[[プリンスオブウェールズ島 (カナダ)|プリンス・オブ・ウェールズ島]]」など「プリンス・オブ・ウェールズ」の名がつけられた固有名詞はエドワード7世に由来するものが多い。 |
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*自動車への関心も高く、1907年にはそれ以前からイギリスに存在した自動車クラブを改称する形で[[王立自動車クラブ]](RAC)の設立を命じた<ref>[https://www.royalautomobileclub.co.uk/about-the-club/ About the Club] - RAC</ref>。 |
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*コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズの1作『[[高名な依頼人]]』にも、直接の名指しはされないが事件の依頼人として登場する。20世紀のミステリ作家[[ピーター・ラヴゼイ]]には、エドワード皇太子を主人公とした長編シリーズを3作、刊行している。 |
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== 栄典 == |
== 栄典 == |
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=== 爵位・君主号 === |
=== 爵位・君主号 === |
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*[[1841年]][[11月9日]]、[[コーンウォール公爵]](即位まで)<ref name="thepeerage">{{Cite web|last=Lundy|first=Darryl|url=http://thepeerage.com/p10066.htm#i100651|title=Edward VII Saxe-Coburg and Gotha, King of the United Kingdom|work=thepeerage.com|language=英語|accessdate=2014 |
*[[1841年]][[11月9日]]、[[コーンウォール公爵]](即位まで)<ref name="thepeerage">{{Cite web|last=Lundy|first=Darryl|url=http://thepeerage.com/p10066.htm#i100651|title=Edward VII Saxe-Coburg and Gotha, King of the United Kingdom|work=thepeerage.com|language=英語|accessdate=2014-04-13}}</ref> |
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*1841年11月9日、[[ロスシー公爵]](即位まで)<ref name="thepeerage"/> |
*1841年11月9日、[[ロスシー公爵]](即位まで)<ref name="thepeerage" /> |
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*1841年[[12月8日]]、 |
*1841年[[12月8日]]、[[チェスター伯爵]](即位まで)<ref name="thepeerage" /> |
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*1841年12月8日、[[プリンス・オブ・ウェールズ]](即位まで)<ref name="thepeerage"/> |
*1841年12月8日、[[プリンス・オブ・ウェールズ]](即位まで)<ref name="thepeerage" /> |
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*[[1901年]][[1月22日]]、[[イギリスの君主|イギリス国王]]<ref name="thepeerage"/> |
*[[1901年]][[1月22日]]、[[イギリスの君主|イギリス国王]]<ref name="thepeerage" /> |
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*[[1902年]][[8月9日]]、戴冠。正式な称号は「神の恩寵による、グレートブリテン及びアイルランド連合王国ならびに海外のドミニオンの国王、信仰の擁護者、インド皇帝(By the Grace of God, of the United Kingdom of Great Britain and Ireland, and of the British Dominions beyond the Seas, King, Defender of the Failth, Emperor of India)」<ref name="thepeerage"/> |
*[[1902年]][[8月9日]]、戴冠。正式な称号は「神の恩寵による、グレートブリテン及びアイルランド連合王国ならびに海外のドミニオンの国王、[[信仰の擁護者]]、インド皇帝(By the Grace of God, of the United Kingdom of Great Britain and Ireland, and of the British Dominions beyond the Seas, King, Defender of the Failth, Emperor of India)」<ref name="thepeerage" /> |
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=== 勲章 === |
=== 勲章 === |
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*[[1858年]][[11月9日]]、[[ガーター勲章|ガーター勲章勲 |
*[[1858年]][[11月9日]]、[[ガーター勲章|ガーター勲章勲爵士]](KG)<ref name="thepeerage" /> |
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*[[1867年]][[5月24日]]、[[シッスル勲章|シッスル勲章勲 |
*[[1867年]][[5月24日]]、[[シッスル勲章|シッスル勲章勲爵士]](KT)<ref name="thepeerage" /> |
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=== 外国勲章 === |
=== 外国勲章 === |
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エドワードは38か国から65種類の勲章をもらっており、これはイギリス歴代国王の中でも |
エドワードは38か国から65種類の勲章をもらっており、これはイギリス歴代国王の中でも女王[[エリザベス2世]]に次ぐ数である<ref name="君塚(2004)108">[[#君塚(2004)|君塚(2004)]] p.108</ref>。エドワードが外国から授与された勲章に以下のような物がある<ref>[[#君塚(2004)|君塚(2004)]] p.300-302</ref>。以下、国名五十音順。カッコ内の年代は授与された年。 |
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*[[エチオピア帝国]]: |
*[[エチオピア帝国]]:[[ソロモン勲章]]([[1874年]])、[[メネリク2世勲章]]、[[エチオピアの星勲章]]([[1902年]]) |
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*[[オーストリア帝国]]:{{仮リンク|聖シュテファン勲章|de|k.u. Sankt Stephans-Orden}}(1867年)、[[ツェーリンゲン獅子勲章]] |
*[[オーストリア帝国]]:{{仮リンク|聖シュテファン勲章|de|k.u. Sankt Stephans-Orden}}(1867年)、[[ツェーリンゲン獅子勲章]] |
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*[[オスマン帝国]]:{{仮リンク|オスマン勲章|en|Order of Osmanieh}}([[1862年]])、[[オスマン皇室勲章]](1902年)、{{仮リンク|メディジ勲章|tr|Kılıçlı Mecidi Nişanı}} |
*[[オスマン帝国]]:{{仮リンク|オスマン勲章|en|Order of Osmanieh}}([[1862年]])、[[オスマン皇室勲章]](1902年)、{{仮リンク|メディジ勲章|tr|Kılıçlı Mecidi Nişanı}} |
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*[[スペイン]]:[[金羊毛騎士団|金羊毛勲章]]([[1852年]])、{{仮リンク|カルロス3世勲章|es|Orden de Carlos III}}([[1876年]]) |
*[[スペイン]]:[[金羊毛騎士団|金羊毛勲章]]([[1852年]])、{{仮リンク|カルロス3世勲章|es|Orden de Carlos III}}([[1876年]]) |
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*[[タイ王国]]:[[白象勲章]]・[[大チャクリー勲章]]([[1880年]]) |
*[[タイ王国]]:[[白象勲章]]・[[大チャクリー勲章]]([[1880年]]) |
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*[[デンマーク]]: |
*[[デンマーク]]:[[象勲章]]([[1864年]])、[[ダンネブロ勲章]](1864年) |
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*[[日本]]:[[大勲位菊花大綬章]]([[1886年]])、[[大勲位菊花章頸飾]]([[1902年]]) |
*[[日本]]:[[大勲位菊花大綬章]]([[1886年]])、[[大勲位菊花章頸飾]]([[1902年]]) |
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*[[ノルウェー]]: |
*[[ノルウェー]]:[[聖オーラヴ勲章]]([[1906年]]) |
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*[[ハワイ王国]]:{{仮リンク|カラカウア王室勲章|en|Royal Order of Kalākaua}}([[1881年]])、{{仮リンク|カメハメハ勲章|en|Royal Order of Kamehameha I (decoration)}} |
*[[ハワイ王国]]:{{仮リンク|カラカウア王室勲章|en|Royal Order of Kalākaua}}([[1881年]])、{{仮リンク|カメハメハ勲章|en|Royal Order of Kamehameha I (decoration)}} |
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*[[ブラジル帝国]]: |
*[[ブラジル帝国]]:[[南十字星勲章]]([[1872年]]?) |
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*[[フランス]]:[[レジオンドヌール勲章]]([[1863年]]) |
*[[フランス]]:[[レジオンドヌール勲章]]([[1863年]]) |
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*[[ブルガリア王国]]:{{仮リンク|アレクサンダル勲章|bg|Свети Александър (орден)}} |
*[[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]:{{仮リンク|アレクサンダル勲章|bg|Свети Александър (орден)}} |
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*[[プロイセン王国]]: |
*[[プロイセン王国]]:[[黒鷲勲章]](1842年/1858年)、黒鷲勲章頸飾([[1869年]])、{{仮リンク|赤鷲勲章|de|Roter Adlerorden}}、[[ホーエンツォレルン王家勲章]] |
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*[[ベルギー]]:{{仮リンク|レオポルド勲章|nl|Leopoldsorde (België)|fr|Ordre de Léopold}} |
*[[ベルギー]]:{{仮リンク|レオポルド勲章|nl|Leopoldsorde (België)|fr|Ordre de Léopold}} |
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*[[ガージャール朝|ペルシャ帝国]]:{{仮リンク|ライオンと太陽勲章|en|Order of the Lion and the Sun}} |
*[[ガージャール朝|ペルシャ帝国]]:{{仮リンク|ライオンと太陽勲章|en|Order of the Lion and the Sun}} |
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*[[ポルトガル王国]]:{{仮リンク|塔と剣勲章|pt|Ordem Militar da Torre e Espada, do Valor, Lealdade e Mérito}} |
*[[ポルトガル王国]]:{{仮リンク|塔と剣勲章|pt|Ordem Militar da Torre e Espada, do Valor, Lealdade e Mérito}} |
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*[[ルーマニア王国]]:{{仮リンク|ルーマニアの星勲章|ro|Ordinul național „Steaua României”}}([[1882年]])、[[カロル1世勲章]] |
*[[ルーマニア王国]]:{{仮リンク|ルーマニアの星勲章|ro|Ordinul național „Steaua României”}}([[1882年]])、[[カロル1世勲章]] |
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*[[ロシア帝国]]:{{仮リンク|聖アンドレーイ勲章|ru|Орден Святого апостола Андрея Первозванного}}([[1844年]])、 |
*[[ロシア帝国]]:{{仮リンク|聖アンドレーイ勲章|ru|Орден Святого апостола Андрея Первозванного}}([[1844年]])、[[聖アレクサンダー・ネーヴスキ勲章]]、{{仮リンク|白鷲勲章 (ロシア帝国)|label=白鷲勲章|ru|Орден Белого орла (Российская империя)}}、{{仮リンク|聖アンナ勲章|ru|Орден Святой Анны}}、{{仮リンク|聖スタニスラフ勲章|ru|Орден Святого Станислава (Российская империя)}}、{{仮リンク|聖ウラジーミル勲章|ru|Орден Святого Владимира}}([[1881年]]) |
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この他、[[ドイツ帝国]][[領邦]]諸国などからも勲章をもらっている。 |
この他、[[ドイツ帝国]][[領邦]]諸国などからも勲章をもらっている。 |
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=== 名誉職 === |
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*1863年、[[ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ|科学技術産業振興協会]](王立技芸協会)会長<ref name="ODNB">{{Cite ODNB|id=32975|title=Edward VII|last=Matthew|first=H. C. G.|origyear=2004|date=26 May 2016}}</ref> |
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== 子女 == |
== 子女 == |
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[[ファイル:Edward VII of the United Kingdom as Prince of Wales and family - Project Gutenberg eText 15052.png|thumb|right|250px|エドワードと家族(1891年)]] |
[[ファイル:Edward VII of the United Kingdom as Prince of Wales and family - Project Gutenberg eText 15052.png|thumb|right|250px|エドワードと家族(1891年)]] |
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アリックス王妃との間に3男3女を儲けた<ref name="thepeerage"/>。 |
アリックス王妃との間に3男3女を儲けた<ref name="thepeerage" />。 |
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* [[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|アルバート・ヴィクター]]([[1864年]]-[[1892年]]) クラレンス公。愛称エディ |
* [[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|アルバート・ヴィクター]]([[1864年]]-[[1892年]]) クラレンス公。愛称エディ |
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* [[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート]]([[1865年]]-[[1936年]]) 次代国王ジョージ5世 |
* [[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート]]([[1865年]]-[[1936年]]) 次代国王ジョージ5世 |
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* [[ルイーズ (ファイフ公爵夫人)|ルイーズ・ヴィクトリア・アレクサンドラ・ダグマー]]([[1867年]]-[[1931年]]) [[ファイフ公爵]][[アレグザンダー・ダフ (初代ファイフ公爵)|アレグザンダー]]夫人 |
* [[ルイーズ (ファイフ公爵夫人)|ルイーズ・ヴィクトリア・アレクサンドラ・ダグマー]]([[1867年]]-[[1931年]]) [[ファイフ公爵]][[アレグザンダー・ダフ (初代ファイフ公爵)|アレグザンダー]]夫人 |
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* [[ヴィクトリア・ |
* [[ヴィクトリア・オブ・ザ・ユナイテッド・キングダム (1868-1935)|ヴィクトリア・アレクサンドラ・オルガ・メアリー]]([[1868年]]-[[1935年]]) |
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* [[モード (ノルウェー王妃)|モード・シャーロット・メアリー・ヴィクトリア]]([[1869年]]-[[1938年]]) [[ノルウェー]][[ノルウェー君主一覧|国王]][[ホーコン7世]]妃 |
* [[モード (ノルウェー王妃)|モード・シャーロット・メアリー・ヴィクトリア]]([[1869年]]-[[1938年]]) [[ノルウェー]][[ノルウェー君主一覧|国王]][[ホーコン7世]]妃 |
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* アレクサンダー・ジョン・チャールズ・アルバート([[1871年]]、夭折) |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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== 参考文献 == |
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*{{Cite book|和書|author= |
*{{Cite book|和書|author=市川承八郎|authorlink=市川承八郎|date=1982年(昭和57年)|title=イギリス帝国主義と南アフリカ|publisher=[[晃洋書房]]|asin=B000J7OZW8|ref=市川(1982)}} |
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*{{Cite book|和書| |
*{{Cite book|和書|editor1=川本静子|editor1-link=川本静子|editor2=松村昌家|editor2-link=松村昌家|date=2006年(平成18年)|title=ヴィクトリア女王 ジェンダー・王権・表象|series=MINERVA歴史・文化ライブラリー9|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=978-4623046607|ref=川本(2006)}} |
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*{{Cite book|和書|author= |
*{{Cite book|和書|author=君塚直隆|authorlink=君塚直隆|date=1999年(平成11年)|title=イギリス二大政党制への道 後継首相の決定と「長老政治家」 |publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641049697|ref=君塚(1999)}} |
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*{{Cite book|和書 |title=女王陛下の影法師 - {{fontsize|small|秘書官からみた英国政治史}} |year=2023 |publisher=[[筑摩書房]] |ref=harv |last=君塚 |first=直隆 |author-link=君塚直隆 |isbn=4480511644 |location=[[東京都]][[台東区]] |series=ちくま学芸文庫 |edition=第一刷}} |
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===競馬関連=== |
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*{{Cite book|和書|author=髙村是州|date=1997年(平成9年)|title=ザ・ストリートスタイル|publisher=グラフィック社|isbn=978-4766108958|ref=ストリートスタイル}} |
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*『ダービー その世界最高の競馬を語る』アラステア・バーネット、ティム・ネリガン |
*『ダービー その世界最高の競馬を語る』アラステア・バーネット、ティム・ネリガン/千葉隆章訳、(財)競馬国際交流協会刊、1998 |
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*『Edward VII: The Last Victorian King』 |
*『Edward VII: The Last Victorian King』 Christopher Hibbert Palgrave Macmillan, 2007,[7]round of pleasure |
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*『英国競馬事典』,レイ・ヴァンプルー、ジョイス・ケイ共著 |
*『英国競馬事典』,レイ・ヴァンプルー、ジョイス・ケイ共著、山本雅男・訳,財団法人競馬国際交流協会・刊,2008,p56-59「王室」 |
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*『グローバル・レーシング』アラン・シューバック |
*『グローバル・レーシング』アラン・シューバック、デイリーレーシングフォーム・刊、財団法人競馬国際交流協会・訳刊、2010 |
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*『競馬 サラブレッドの生産および英国競馬小史』デニス・クレイグ |
*『競馬 サラブレッドの生産および英国競馬小史』デニス・クレイグ、マイルズ・ネーピア改訂、佐藤正人訳、中央競馬ピーアールセンター刊、1986 |
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*『CLASSIC PEDIGREES 1776-2005』Michael Church編、Raceform刊、2005 |
*『CLASSIC PEDIGREES 1776-2005』Michael Church編、Raceform刊、2005 |
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*『サラブレッドの世界』サー・チャールズ・レスター著、佐藤正人訳、サラブレッド血統センター刊、1971 |
*『サラブレッドの世界』サー・チャールズ・レスター著、佐藤正人訳、サラブレッド血統センター刊、1971 |
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* [[三国協商]] |
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* [[威風堂々 (行進曲)|威風堂々]] |
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* [[戴冠式頌歌]] |
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* [[ヴィクトリア朝]] |
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2024年11月2日 (土) 14:08時点における最新版
エドワード7世 Edward VII | |
---|---|
イギリス国王 インド皇帝 | |
エドワード7世(1902年) | |
在位 | 1901年1月22日 - 1910年5月6日 |
戴冠式 | 1902年8月9日、於ウェストミンスター寺院 |
全名 |
Albert Edward アルバート・エドワード |
出生 |
1841年11月9日 イギリス イングランド、ロンドン、バッキンガム宮殿 |
死去 |
1910年5月6日(68歳没) イギリス イングランド、ロンドン、バッキンガム宮殿 |
埋葬 |
1910年5月20日 イギリス イングランド、バークシャー、ウィンザー、ウィンザー城セント・ジョージ礼拝堂 |
配偶者 | アレクサンドラ・オブ・デンマーク |
子女 |
一覧参照
|
家名 | サクス=コバーグ・アンド・ゴータ家 |
王朝 | サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝 |
父親 | アルバート・オブ・サクス=コバーグ・アンド・ゴータ |
母親 | ヴィクトリア女王 |
宗教 | キリスト教イングランド国教会 |
サイン |
エドワード7世(英語: Edward VII、全名:アルバート・エドワード(英語: Albert Edward)、1841年11月9日 - 1910年5月6日[1])は、サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝の初代イギリス国王、インド皇帝(在位:1901年1月22日 - 1910年5月6日)。
母であるヴィクトリア女王の在位が長期にわたったため、チャールズ3世に次いで長くプリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)の立場にあった[注釈 1]。
在位は1901年から1910年までの10年足らずであったが、その治世は「エドワード朝(Edwardian era)」と呼ばれる。在位中は1905年まで保守党(ソールズベリー侯爵とバルフォア)、その後は自由党(キャンベル=バナマンとアスキス)が政権を担当した。彼の治世下に日英同盟、英仏協商、英露協商が締結され、日本・フランス・ロシアとの関係が強化されたため、「ピースメーカー」と呼ばれた[注釈 2]。
王妃はデンマーク国王クリスチャン9世の娘アレクサンドラ(愛称アリックス)。
概要
[編集]1841年11月9日、ヴィクトリア女王とその王配アルバート公子の第2子(長男)として生まれる。同年12月4日にプリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)の称号を得る。1842年1月25日に洗礼を受け、「アルバート・エドワード」と名付けられた。「バーティ」と愛称された(→生誕)。
幼少期・少年期は母と父の厳格な教育方針のもと家庭教育で育てられた。1852年にはベルギー、1855年にはフランスを訪問した。1859年1月から5月にかけてはイタリアに留学した(→幼年・少年期)。
同年10月にオックスフォード大学に入学(イギリス歴代国王で初めての大学入学)。在学中の1860年7月から11月まで英領カナダやアメリカ合衆国各地を歴訪した。1861年夏に陸軍に入隊。同年10月にはケンブリッジ大学へ転校した。不良行為が多く、11月には父アルバートが体調が悪いのを押してケンブリッジを訪問し、説教された。これが原因でアルバートは体調を悪化させ、12月に崩じた。以降女王はバーティを疎むようになり、公務から遠ざけるようになった(→大学時代)。
1863年3月にデンマーク王女アレクサンドラ(愛称アリックス。デンマーク国王クリスチャン9世の娘)と結婚。1864年に妻の母国デンマークとプロイセン・オーストリアの間に第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発し、彼はデンマークを助けようと同戦争の仲裁のための国際会議ロンドン会議開催を後援したが、同会議は失敗に終わり、結局デンマークはシュレースヴィヒとホルシュタインを失った。これをきっかけにバーティ夫妻は反プロイセン派になった(→結婚とデンマーク戦争)。
1866年11月、ロシア皇子アレクサンドル(後のアレクサンドル3世)とデンマーク王女マリー・ダウマー(愛称ミニー)の結婚式に出席するため訪露。さらに1867年6月のパリ万国博覧会に際してロシア皇帝にガーター勲章を授与することに尽力し、ロシア皇室との親善を図った(→ロシアとの関係修復)。1869年1月からはエジプト、トルコ、ギリシャの三か国を訪問した(→エジプト・トルコ・ギリシャ歴訪)。
同年のサー・チャールズ・モーダント准男爵の離婚訴訟をめぐって証人として出廷する事態になり、世間から皇太子としての資質を疑われた。女王がアルバート崩御後に引きこもったこともあって、王室人気は危機に瀕した(→モーダント離婚訴訟事件)。しかし1871年11月から12月にかけて腸チフスを患って命の危機に瀕したところ、劇的に回復したことで人気を回復した(→腸チフスからの回復)。
回復後は宥和的になり、特定の国や人物に敵意を飛ばすことが減り、王族らしくなった。1873年5月のウィーン万国博覧会を支援し、同地で会見したドイツ皇帝・プロイセン王ヴィルヘルム1世と親睦を深めた(→ウィーン万国博覧会への協力)。1874年1月には長弟アルフレッド王子とロシア皇女マリアの結婚式出席のため訪露し、ロシア皇室との友好を深めた(→弟とロシア皇女の結婚をめぐって)。1875年11月から1876年3月にかけて英領インド帝国を訪問し、女王の名代としてインド藩王たちにインドの星勲章を与えることでインド支配層の懐柔に努めた(→英領インド公式訪問)。1878年5月のパリ万国博覧会にも協力し、英仏友好にも尽力した(→パリ万国博覧会への協力)。1881年3月にロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺されるとその葬儀に出席するとともに新皇帝アレクサンドル3世にガーター勲章を贈った(→ロシア皇帝暗殺をめぐって)。ドイツにも頻繁に訪問し、ドイツ皇室との友好に努めたが、1888年10月にはオーストリアでドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と揉める事件があった(→ドイツとの友好目指して)。
1891年初頭にはロイヤル・バカラ・スキャンダルをめぐって訴えられ、再び法廷に立つことになり、皇太子批判が高まった(→ロイヤル・バカラ・スキャンダル)。1892年1月には長男クラレンス公アルバート・エドワード(愛称エディ)が薨去。以降は次男のヨーク公ジョージ(後のジョージ5世)が彼の後継者となった(→長男エディの薨去)。
1901年1月22日に母ヴィクトリア女王が崩御し、59歳でイギリス国王に即位。王名を「エドワード7世」に定め、王朝名をサクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝に変更した(→即位)。1902年8月9日にウェストミンスター寺院で戴冠式を挙行した(→戴冠式)。
内政では保守党政権時期にはアーサー・バルフォアの主導で中等教育制度確立を目指すバルフォア教育法が制定され、またアイルランド小作人への宥和政策であるウィンダム法が制定された(→保守党政権期)。1905年に自由党政権に代わると首相ヘンリー・キャンベル=バナマンを強く信任したが、野党保守党が貴族院で法案を否決する戦術をとったことにより改革は前に進まなくなった。1908年にハーバート・ヘンリー・アスキスが首相になると政府の急進的政策に警戒を強めつつ、野党保守党に極端な行動を取らないよう説得にあたった。財務大臣ロイド・ジョージの主導で老齢年金法が制定され、さらに庶民院の優越を定めた議会法制定を目指したが、その法案をめぐる自由党と保守党の対立の最中に崩御した(→自由党政権期)。
外交では保守党政権期に第2次ボーア戦争が終結し、南アフリカを併合した(→第2次ボーア戦争終結)。また極東においては中国分割をめぐって満洲占領・北中国の勢力圏化を推し進めるロシアを警戒し、日本と軍事同盟を締結した(→日英同盟)。日露戦争でも日本を支援した(→日露戦争をめぐって)。フランスとも友好関係を深め、世界各地で発生していた英仏の植民地争奪戦を互譲的に解決し、英仏協商関係を築いた(→英仏協商)。さらに自由党政権時代にはロシアとも友好関係を深め、中央アジアのグレート・ゲームを互譲的に解決して英露協商関係を築く(→英露協商)。しかしドイツとの関係は悪化の一途をたどり、彼の崩御から4年後に第一次世界大戦が勃発することになる(→ドイツ・オーストリアとの対立)。
生涯
[編集]皇太子として
[編集]生誕
[編集]1841年11月9日午前10時48分、ヴィクトリア女王とその王配アルバートの第2子(長男)としてロンドンのバッキンガム宮殿に生まれる。姉にヴィクトリア(愛称ヴィッキー)がおり、後に長妹アリス(1843年-1878年)、長弟アルフレッド(1844年-1900年)、次妹ヘレナ(1846年-1922年)、三妹ルイーズ(1848年-1939年)、次弟アーサー(1850年-1942年)、三弟レオポルド(1853年-1884年)、四妹ベアトリス(1857年-1944年)が生まれる[3]。
生誕とともにコーンウォール公爵に叙され[4]、一月後の12月4日にはプリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)に叙される[5]。
1842年1月25日に聖ジョージ・チャペルで洗礼を受け、父アルバートと、ヴィクトリア女王の父であるケント公エドワードの名前を取って「アルバート・エドワード」と名付けられた[注釈 3]。王室内ではアルバートの名から「バーティ(Bertie)」と愛称された[7]。
幼年・少年期
[編集]ヴィクトリア女王の女官であるリトルトン男爵夫人サラ・リトルトンが乳母に付けられた。バーティはよく彼女になついたという。またイートン校教師ヘンリー・バーチが住み込みの家庭教師に付けられた。幼い頃のバーティはきかん坊だったというが、3歳年下の弟アルフレッドが一緒に勉強するようになると、弟のお手本になろうと勉学に励むようになったという。とりわけ語学に優れ、英語、ドイツ語、フランス語の3カ国語を完璧に話せるようになった[8]。
母も父も教育には厳格で、特に1858年に姉ヴィクトリアがプロイセンの第二位王位継承権者フリードリヒ王子(のちのドイツ皇帝・プロイセン王フリードリヒ3世)に輿入れしてロンドンを去った後に両親の目はバーティに集中した。そのためバーティは息がつまりそうな生活を送ったという[9]。
1852年に初の外国訪問として大叔父レオポルド1世が国王として統治するベルギーを訪問した[10]。ついで1855年8月には両親とともにフランス帝国帝都パリを訪問した。フランス皇帝ナポレオン3世は当時皇子がなかったのでバーティを我が子のように可愛がってくれ、バーティはナポレオン3世と馬車に同乗した際に「貴方の息子に生まれたかった」と呟いたという[11]。1857年から2、3年間、父アルバート王配の方針でロンドン南西リッチモンド・パーク内ホワイト・ロッジで過ごした。
1859年1月から陸軍大佐ロバート・ブルースを補導役にしてイタリア半島教皇領ローマに留学した[注釈 4]。フレデリック・レイトンはじめ多くの画家たちの知遇を得、またローマ教皇ピウス9世とも会見した[13]。
しかし4月にはイタリア統一戦争が勃発し、フランス軍がローマへ進駐してきたため、父アルバートから帰国を命じられた。これにより予定より2、3カ月早い5月初めに帰国した[14]。
大学時代
[編集]帰国後の1859年10月からオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学した[15]。彼はイギリス歴代国王で初めて大学で学んだ国王である(ただし正規のコースではない)[16]。
大学在学中の1860年7月、植民地大臣第5代ニューカッスル公爵ヘンリー・ペラム=クリントン、家政長官第3代セント・ジャーマンズ伯爵エドワード・エリオット、補導役ブルース少将を随伴して英領カナダを訪問した。カナダ各地をめぐり、オタワでは国会議事堂の定礎式に臨んだ[17]。
9月にはカナダからアメリカ合衆国へ入国した。3カ月かけてアメリカ各地を歴訪したが、アメリカでのバーティの知名度は抜群であり、各地で歓迎された。ワシントンのホワイトハウスでもジェームズ・ブキャナン大統領から歓待された。アメリカ南北戦争直前というタイミングでの訪米になった[18]。
11月にイギリスへ帰国して大学に復学。1861年夏には陸軍近衛歩兵連隊に入隊してアイルランドで訓練を受けたが、この際にアイルランドの女優ネリー・クリフデンと初性交し、恋愛関係になった[19]。同年9月には美人で名高いデンマーク王族クリスチャン(後のデンマーク国王)の娘アレクサンドラ(アリックス)とお見合いしたが、やがてネリーとの関係が両親に知れた[20]。またバーティは1861年10月に転校したケンブリッジ大学で御学友と組んでの不良行為が増えていた。そのため父アルバートは11月に体調悪化を押してバーティに説教するためにケンブリッジへやってきた。バーティは父の言いつけを守ると約束したが、アルバートはこの時に無理をしたことがたたり、腸チフスを悪化させて危篤状態に陥った。父の危篤を知ったバーティは12月14日午前3時にウィンザー城に駆け付けた。父は瀕死の状態だったが、バーティの顔を見ると安心したような表情になったという。同日午後11時にアルバートは崩御した。これをきっかけに母ヴィクトリアは「できそこない」のバーティのせいでアルバートが死んだと考えるようになり、バーティを公務から遠ざけるようになった[21]。
女王から不良行為のお目付け役としてフランシス・ノウルズ(のちの初代ノウルズ子爵)を個人秘書官に付けられた。しかしバーティとノウルズはすぐにも深い信頼関係で結ばれ、ノウルズは後々までバーティの側近として活躍していく[22]。
結婚とデンマーク戦争
[編集]1863年3月にウィンザー城のセント・ジョージ・チャペルでアリックスと結婚した。二人はセント・ジェームズ宮殿近くのマールバラ邸(1850年に女王が購入していた)で新婚生活を始めた。またノーフォークにサンドリンガム邸を購入した[24]。夫妻は長男アルバート・ヴィクター・クリスチャン・エドワード(愛称「エディ」)、次男ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート(後の国王ジョージ5世)はじめ二男三女に恵まれた[25]。
同年11月には岳父クリスチャンがクリスチャン9世としてデンマーク王に即位した。当時デンマークはシュレースヴィヒ公国やホルシュタイン公国と同君連合の関係にあったが、両公国のドイツ人住民の間でドイツ・ナショナリズムが高まっており、デンマーク君主を戴くことに反発が強まった。このドイツ世論を背景にプロイセン首相オットー・フォン・ビスマルクはオーストリアと連携して1864年2月から第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を開始した[26]。
両公国がプロイセンに併合されることを憂慮したバーティは、時の自由党政権の外相初代ラッセル伯爵ジョン・ラッセルに国際会議を開催するよう働きかけた。バーティは強力な王立海軍で威圧すればプロイセンもオーストリアも引き下がると考えていた[注釈 5]。イギリス首相第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルも外相ラッセル伯爵も会議外交による介入に乗り気だったが、ヴィクトリア女王や閣僚の大半が介入に反対した。女王はプロイセン皇太子に嫁いだ長女ヴィッキーと、デンマーク王女を皇太子妃に迎えたバーティの間で板挟みになっていた。結局パーマストン子爵の強い押しで4月25日からロンドン会議が開催されるも、同会議は何の成果もないまま、6月25日までに決裂した。戦闘が再開され、デンマークは7月20日に降伏し、ホルシュタインとシュレースヴィヒに関する権利を失った。この一件以来、アリックスはプロイセンやドイツを恨むようになり、バーティも彼女に歩調を合わせて駐英プロイセン公使アルブレヒト・フォン・ベルンシュトルフ伯爵に冷淡な態度を取るようになった。ベルンシュトルフはその件で女王に苦言を呈し、女王からバーティに注意が入っている[28]。
ロシアとの関係修復
[編集]1866年11月、ロシア皇帝アレクサンドル2世の次男アレクサンドル皇子(後のロシア皇帝アレクサンドル3世)がデンマーク王女マリー・ダウマー(愛称ミニー)と結婚した。ミニーはアリックスの妹であり、この結婚式にはバーティも出席したがっていたが、英露関係はクリミア戦争やアジアにおける植民地争いのために悪化していたため、女王が強硬に反対した。だが時の保守党政権の首相第14代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーはロシアとの関係改善を企図していたので皇太子訪露に前向きであり、女王の説得にあたった。その結果、バーティは11月6日にロシアを訪問することになった(アリックスは妊娠中だったので出席を見合わせた)。ロシア側は英皇太子の訪露が実現するか固唾をのんで見守っていたのでバーティ訪問が決定すると大喜びし、皇帝自らが駅まで出迎える大歓迎を行った。11月9日の結婚式でも特等席に案内された[29]。
バーティ訪露に際してロシア側はガーター勲章をロシア皇帝に贈ってほしいとイギリス政府に要請していたが、ヴィクトリア女王が「オーストリア皇帝にもまだ贈られていないのに変則的にロシア皇帝にだけ先に贈られるというのはおかしい」と反対したため、この時は沙汰やみとなった。しかしバーティは贈ってやりたいと考えており、外相スタンリー卿エドワード・スタンリー(後の第15代ダービー伯爵)と協力して、女王の説得にあたった。その結果、女王はオーストリア皇帝とロシア皇帝がそろって出席する1867年6月のパリ万国博覧会の席で両皇帝に同時にガーター勲章を贈ることを許可した。ロシア皇帝はバーティの配慮に深く感謝し、英露関係は一定の改善を見た[30]。
エジプト・オスマン・ギリシャ歴訪
[編集]ギリシャ国王ゲオルギオス1世は、バーティの妻アリックスの弟だったので、バーティは早期のギリシャ訪問を希望した。だが1866年からクレタ島でオスマン帝国の支配からの解放とギリシャ帰属を求めるギリシャ人の反乱が発生し、ギリシャ、オスマン、エジプトの間でクレタ島領有権争いが激化したため、慎重に判断する必要があった[31]。
1868年12月に政権についた第1次グラッドストン内閣(自由党政権)の外相第4代クラレンドン伯爵ジョージ・ヴィリアーズもクレタ島領有権問題が解決するまでは王室の人間が特定の当事国にだけ訪問することに反対であると上奏してきた[32]。
そこでバーティはギリシャだけではなく、エジプト、オスマン帝国にも歴訪するプランに変更することで訪問を政府に認めさせた。1869年1月からエジプトを訪問し、ついで3月からオスマン帝国を訪問した。そして4月からギリシャを訪問して5月に歴訪の旅を終えた。バーティはいずれの国からも大歓迎され、関係を深めることができた[33]。
モーダント離婚訴訟事件
[編集]1869年、バーティの友人である地主・庶民院議員第10代準男爵サー・チャールズ・モーダントの妻ハリエットが子供を身ごもったが、この子供はモーダントの子供ではなかった。怪しんだモーダントは妻の机を調べ、そこからバーティはじめ複数の男性から送られた手紙を発見し、彼らが妻の浮気相手と確信した(バーティ自身はモーダント夫人とは友人なだけだったが)[34]。
モーダントは、妻の不貞を理由に離婚訴訟を起こした。バーティは皇太子という立場から直接訴えられる事はなかったものの、1870年2月23日の裁判で証人として出廷することになった。皇太子が離婚訴訟に巻き込まれること自体が異例であり、これはバーティにとって大きな恥辱となり、皇太子としての資質に疑問が呈されるようになった[34][35]。
さらに普仏戦争の勃発直前の1870年夏、バーティは「プロイセン封じ込めのため英仏同盟を結ぶべき」との発言で物議を醸し、駐英プロイセン公使アルブレヒト・フォン・ベルンシュトルフ伯爵から抗議を受け、プロイセン本国にも発言が伝わった[36]。このためノウルズ秘書官がプロイセン公使館を訪れ、ベルンシュトルフ公使に釈明を行った。
また母ヴィクトリア女王もアルバートの死後、スコットランドのバルモラル城やワイト島のオズボーン・ハウスに籠りきりになって公の場に姿を見せなくなっており、使用人ジョン・ブラウンとの関係も噂されているような状況だったため、王室人気が地に落ちて共和政へ移行することを希望する世論が高まった(1870年から1871年にかけての普仏戦争の結果、フランスが共和政に移行したこともその世論を助長した)[37]。
グラッドストン首相は外相第2代グランヴィル伯爵グランヴィル・ルーソン=ゴアに宛てた書簡の中で「女王は姿が見えず、皇太子は尊敬されていない」という憂慮を表明している[38]。
腸チフスからの回復
[編集]1871年11月末にバーティは父アルバートの死因となった腸チフスを患い、12月に入ると危篤状態に陥った。これには共和政への移行を論じていた新聞や雑誌も含めて国中が心配した。普段はバーティに厳しい女王もこの時ばかりは2週間にわたってバーティの看病に付きっきりになった[39]。
ちょうどアルバートの命日の12月14日にバーティは奇跡的に意識を取り戻し、以降病状は快方に向かった。まるで亡きアルバートがバーティを救ったかのような劇的な展開に国中が歓喜した。首相グラッドストンはこれを王室人気を回復させる好機と見て、女王の許可も得て1872年2月27日にセント・ポール大聖堂で1万2000人を招待した皇太子回復感謝礼拝を挙行した。礼拝を終えて宮殿へ戻る女王とバーティは、沿道に集まった人々から「女王陛下万歳」「皇太子殿下万歳」という熱狂的な歓声を受けた。これにより王室廃止論はほぼ吹き飛んだ[39]。
ウィーン万国博覧会への協力
[編集]外相グランヴィル伯爵が「あの病気は皇太子を以前よりもずっと親和的に変え、その作法もより魅惑的な物にした」と評したように、この頃からバーティは、特定の国や人物に敵意を飛ばすのを控えるようになり(これまで彼は妻の故国を追い詰めたプロイセンやビスマルクに敵意を飛ばしていた)、王室の人間らしく全ての国との宥和を心がけるようになった[40]。
1872年6月には翌年春にオーストリア=ハンガリー帝国でウィーン万国博覧会が開催されることが決定し、イギリス政府からも助成金が出されることになった。バーティはグラッドストン首相に働きかけて助成金額を当初予定されていた金額の倍に変更させた[40]。
1873年5月1日から開催されたウィーン万国博覧会の開会式に、次弟アーサー王子(1874年5月にコノート公に叙される)とともに出席した。普仏戦争の勝利でドイツ皇帝に即位していたプロイセン王ヴィルヘルム1世も同席していたが、バーティはこの席を利用して彼との親交を深めることに努めた[40]。
弟とロシア皇女の結婚をめぐって
[編集]1874年1月には長弟エディンバラ公アルフレッドがロシア皇帝アレクサンドル2世の娘マリアと結婚することになった。結婚式はロシアでロシア正教に則って行われることになったが、ヴィクトリア女王はこれに不満であった。しかしバーティはその結婚式への出席を希望し、女王の説得にあたった[41]。
アレクサンドル2世はこれを機にバーティにロシア陸軍「名誉連隊長」の称号を贈りたいとイギリス側に打診したが、女王もグラッドストン首相も慎重だった。結局バーティは結婚式には出席するが、名誉連隊長は辞退することになった。1874年1月にサンクト・ペテルブルクに到着したバーティと次弟アーサーは、そこでロシア皇帝以下全ロシア皇族そろっての出迎えを受け、ロシア皇室との親交に尽力した[42]。
英領インド公式訪問
[編集]1875年3月にバーティは英領インド帝国公式訪問の希望を表明した。それに対して女王は公式訪問ではなく、インド総督第2代ノースブルック男爵トマス・ベアリングの賓客として訪問することを勧めた。だがバーティとしては「皇太子公式訪問」とすることでインド王侯に勲章を配り、それによってインド支配層とイギリス王室の結合を強めたいと考えていた。バーティは女王の説得にあたり、保守党政権の首相ベンジャミン・ディズレーリも議会で骨折りしてくれた結果、同年11月から翌年3月にかけてのバーティのインド公式訪問が実現した[43]。
インドに到着したバーティはカルカッタ(コルカタ)で女王の名代としてインド藩王たちにインドの星勲章を授与した[44]。さらにデリーでは1万8000人のインド軍の閲兵を行った[45]。ヒマラヤ山脈の山麓では虎狩りや象狩りも楽しんだ[45]。
3月14日に帰国の途に付いたが、お土産として虎、豹、象、チーター、ヒマラヤ熊、アラブ馬、ダチョウなど現地の動物を大量に船に積み込んだため、その船は「現代のノアの箱舟」と呼ばれた[46]。
バーティのインド訪問中にイギリス本国ではヴィクトリア女王のインド女帝即位を決める法案が可決されていた。女王は1876年2月の女王演説の中で「私は我が息子の皇太子がインド歴訪を無事果たしたその健康に感謝します。インドにおいてあらゆる階級・人種の我が臣民たちから皇太子が心よりの大歓迎を受けていると聞き、彼らインド臣民たちが私の統治のもとで幸せに暮らし、我が王冠に忠誠を誓っていることを確信しました」と述べている[47]。
ただこのインド皇帝の称号のことはバーティには寝耳に水のことだった。バーティはこの称号を嫌い、即位後にもほとんど使用しなかった[48]。
パリ万国博覧会への協力
[編集]1878年5月に開催されたパリ万博にも協力した。この万博はフランスに第三共和政が樹立されてから最初の万博だったが、当時のヨーロッパ諸国は君主国ばかりだったから、共和政体のフランスは嫌われていた。そのためフランス政府は外国からの賓客を集めるのに苦慮しており、バーティが開会式に出席してくれることに非常に感謝していた[49]。
万博開催中バーティは足繁くパリに通い(パリの愛人に会うためでもあったが)、万博のイギリス展示の拡張に努めた。インド、カナダ、オセアニア、南アフリカなど植民地からも出展させ、大英帝国だけで展示の三分の一を占めるに至った。バーティはこの際に「友好協調(Entente cordiale)」という言葉を強調したが、これはバーティの治世の英仏接近の前兆であった[50]。
ロシア皇帝暗殺をめぐって
[編集]1881年3月にロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺された。バーティはその葬儀への出席を希望した。また新皇帝アレクサンドル3世にガーター勲章を与える使節団の団長になることも希望した。女王もアルフレッドの舅であるロシア皇帝が殺害されたことに衝撃を受けていたので、これを了承した。第2次グラッドストン内閣外相グランヴィル伯爵も支持したのでバーティの訪露が決まった[51]。
3月24日にサンクト・ペテルブルクに到着したバーティは葬儀に出席した後の3月28日にアレクサンドル3世にガーター勲章を授与した。君主が死んだあと、ただちに次の君主にガーター勲章が授与されるというのはよほどイギリス王室と親しい関係にある場合のみであり(ベルギー王室など)、これはバーティの治世における英露の親密な関係の前兆だった[52]。
ドイツとの友好目指して
[編集]1881年2月には甥にあたるドイツのヴィルヘルム皇子(後のヴィルヘルム2世、家族内ではウィリーの愛称で呼ばれた)の結婚式に出席した。妻アリックスは相変わらずプロイセン嫌いでこの訪問を拒否したため、バーティ一人での出席となった。バーティはこれを機にドイツ首相ビスマルクとも初会見したが、政治的にきわどい話は徹底的に回避し、摩擦を起こすのを避けたという[53]。
ついで1885年3月にはドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の88歳の誕生日祝賀式典に出席した。植民地政策をめぐってイギリスが孤立化する恐れがあった時期だったので時の第2次グラッドストン内閣はドイツとの友好政策を重視しており、外相グランヴィル伯爵もこの皇太子訪独を大いに歓迎した[54]。
1888年3月にヴィルヘルム1世が崩御した際にもバーティは訪独してその葬儀に出席した。第2代皇帝に即位したのはバーティの義兄フリードリヒ3世だったが、彼は喉頭癌を患っていたため、在位99日で崩御した。バーティは再び訪独して葬儀に出席している[55]。
第3代皇帝に即位したのはバーティの甥にあたるウィリーことヴィルヘルム2世だった。彼は1888年10月にオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を訪問したが、この際バーティもウィーンで開催されていた産業博覧会見学のためにオーストリアに滞在中だった。バーティはオーストリア皇帝とウィリーと自分の三人での会見を希望し、その旨をウィリーに打診したが、ウィリーはオーストリア訪問中にそれ以外の国の皇太子と会見するわけにはいかないと拒否した。またウィリーはその旨の返書を自身ではなく駐ウィーン大使に書かせた。これにヴィクトリア女王が激怒し、結局ウィリーは女王の要求でバーティに謝罪文を書かされた。後の英独関係の緊張を予期させる事件だった[56]。
ロイヤル・バカラ・スキャンダル
[編集]1890年9月、バーティは船主アーサー・ウィルソンが所有するヨークシャーの邸宅トランビー・クロフトで過ごした。夕食後に招待客はバカラをして楽しんだが、この席上で第4代準男爵サー・ウィリアム・ゴードン=カミングがイカサマをしたと批判され、二度とゲームをしないという誓約書をバーティ含む9人の招待客の署名付きで書かされた。この件は秘匿するはずだったが、1891年初頭にはバーティの愛人デイジー・ブルックを通じて世間に洩れたため、カミングはバーティら誓約書を書かせた者たちを相手取って民事訴訟を起こした。この件でバーティは再び法廷に立つ羽目となった[57][58]。
ヴィクトリア女王は訴訟を起こしたカミングに対して怒っており、息子バーティを擁護したがっていたが、保守党政権の首相第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルに介入を止められた。それでも女王はバーティにカンタベリー大主教宛てに賭博を嘆き咎める公開書状を送らせ、少しでもイメージ改善に努めさせた[59]。
裁判は皇太子が有利になるよう進められたが、陪審の評決の際には批判の声で轟々となった。新聞も国内外問わず大半がカミングの味方でバーティは再び非難の的となった。またバーティは陸軍元帥であったにも関わらず、「士官の行状が問題になった際には部隊長に付される」という陸軍の常識を主張しなかったことも問題視された[57]。アメリカの『ニューヨーク・タイムズ』紙は「イギリス王族はイギリス納税者のお荷物であり、それに相当する見返りは何もない」とイギリス王室批判を行った[57]。『タイムズ』紙は「二度とゲームをやらないという署名をしたのが皇太子だったら良かったが」と愚痴った[57][59]。
長男エディの薨去
[編集]バーティの長男であるクラレンス公アルバート・ヴィクター(愛称エディ)が1892年1月14日にインフルエンザと肺炎のため薨去した。翌月にはエディと彼のはとこにあたるヴュルテンベルク王族テック公女メアリーとの結婚が予定されていた中での薨去だった[60]。
バーティはヴィクトリア女王に宛てた手紙の中で「自分の命に何の価値も見出せない私としては、喜んで息子の身代りになりたかった」と苦しい心境を吐露している[61]。
バーティ夫妻は残されたメアリー公女を引き続き娘として取り扱った。世論もメアリーへの同情が強まり、エディに代わって第2王位継承権者となった次男ヨーク公ジョージ(後の英国王ジョージ5世)に嫁がせるべきであるという声が増えた[62]。そして実際にヨーク公とメアリー公女は1893年7月6日に結婚することとなった[63]。夫妻は1894年に後に英国王エドワード8世となる長男エドワードを儲けている(バーティの初孫)[64]。
グラッドストンの国葬をめぐって
[編集]ヴィクトリア朝中期から後期にかけて4度にわたって首相を務めた自由党党首ウィリアム・グラッドストンはヴィクトリア女王と仲が悪かったため、女王から干されているバーティに対して好意的だった。女王に独断で政府の機密文書をバーティに提供してくれた[65]。
そのグラッドストンも1898年5月19日に死去した。議会の要請で国葬が営まれることになったものの、女王はグラッドストン夫人に弔電を打つ以上の弔意を表すことを嫌がった。これに対してバーティは英国を代表する政治家の国葬に王族がノータッチというのは問題があると考え、女王の反対を無視してでもグラッドストンの棺の介添人になる決意を固めた[66]。
5月28日にウェストミンスター寺院で国葬が執り行われ、その棺にはバーティとヨーク公ジョージがぴったりと張り付いた。これは恐らく彼のはじめての母への反逆だった[67]。
国王として
[編集]即位
[編集]1901年1月22日にワイト島のオズボーン・ハウスでヴィクトリア女王が崩御した。バーティは涙を流しながらその枕元に付き添った。女王の最期の言葉は「バーティ」であったという[68]。
59歳で国王となったバーティは、翌1月23日早朝にセント・ジェームズ宮殿において初めての枢密院会議を招集した。カンタベリー大主教に国王の宣誓を行った後、「エドワード7世」を王名に定めると宣言した。この際にアルバートを王名にしなかった理由について「アルバートと言えば誰もが父を思い出すようにしたかった」と説明した[69][注釈 6]。「エドワード」の王名はテューダー朝期の国王エドワード6世以来350年ぶりのことだった[70]。
また母の遺言に基づき、王朝名をハノーファー朝から父アルバートの家名サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝に変更した[71]。
30年来の秘書官フランシス・ノウルズをそのまま国王秘書官として重用し、サー・ダイトン・プラウビンを国王手許金会計長官に任じて王室財産を一任した。さらに儀式典礼に詳しい第2代イーシャー子爵レジナルド・ベレットをウィンザー城主代理に任じ、王室儀式に関する顧問とした[71]。
一方、母が寵愛していた「ムンシ」ことアブドル・カリムらインド人侍従たちを嫌い、全員インドへ送還させた[72]。また母がよく滞在したワイト島のオズボーン・ハウスも王立海軍兵学校に下賜して手放した(以降士官候補生の宿所として使用された)[73]。
戴冠式
[編集]イーシャー子爵とノウルズの助言を受けながら戴冠式の準備を進めた。当初戴冠式は1902年6月26日に予定されていたが、直前にエドワードが虫垂炎を患ったため、エドワードの回復を待って、8月9日に改めてウェストミンスター寺院で挙行された[73]。
戴冠式に合わせてエドワードは大規模な叙勲を行った。ヴィクトリア朝ですでに3件あった非キリスト教君主へのガーター勲章授与をこれ以上行わないため、ガーター勲章に次ぐ新しい勲章としてロイヤル・ヴィクトリア頸飾を制定した。また芸術と学術の分野を中心に功績をあげた24人に限定して与えるメリット勲章も制定した[74]。
エドワードは自分の取り巻きに広く爵位を与えたがっていたが、首相ソールズベリー侯爵が過剰な叙爵に反対したため、秘書官ノウルズなどごく一部の者に限定された[75]。
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1902年8月9日の戴冠式のパレードの写真
内政
[編集]保守党政権期
[編集]即位時の政権は第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルを首相とする保守党政権だった。1902年3月には同内閣第一大蔵卿アーサー・バルフォアによって「バルフォア教育法」と呼ばれる教育法が制定され、中等教育制度の確立が目指された[76][77]。
1902年7月にソールズベリー侯爵が病で退任した。ジョゼフ・チェンバレンが入院中だったこともあり、エドワードは一般に次期首相と目されていたバルフォアに組閣の大命を下した[78]。
エドワードはこのバルフォアに好感を持っていなかったという[79]。例えば1903年春のヨーロッパ歴訪の際、エドワードはヴァチカン訪問を日程に追加しようとした。最終的に国王のヴァチカン訪問は行われたが、この件で優柔不断な態度を取りつづけたバルフォアにエドワードもノウルズ秘書官も不信を抱いた[80]。さらにバルフォアは低位の宮廷人事をエドワードに無断で推し進めようとしたこともあり、これにはノウルズ秘書官からも「バルフォアは本当にひどすぎる」と強い非難を浴びている[81]。
1903年にはバルフォア内閣アイルランド担当大臣ジョージ・ウィンダムの主導で新たなアイルランド土地購入法のウィンダム法が制定され、アイルランド小作人の土地購入が推進された[82]。しかし南アフリカの中国人奴隷問題[注釈 7]をめぐって保守党は批判を集めた[84]。
またこの時期の保守党政権は関税問題に揺れた。1902年3月にボーア戦争が終結したが、予想外の長期戦で膨大な戦費がかかったため、蔵相マイケル・ヒックス・ビーチの主導で1902年6月に穀物関税が限定的に導入された。しかし穀物関税は「パン価格を高騰させ、貧民を苦しめる」と批判されていたため、野党自由党が強く反発し、保守党政権内にも慎重論が根強かった[85]。バルフォア内閣成立後にはチェンバレンを中心とした関税改革派(保護貿易派)と蔵相チャールズ・リッチーを中心とした自由貿易派に分裂するようになった。首相バルフォアは折衷的立場をとっていたが、最終的には党分裂を避けるために1905年12月に総辞職した[86]。
自由党政権期
[編集]1905年12月にエドワードは自由党党首ヘンリー・キャンベル=バナマンに組閣の大命を与えた。バナマンは自由党ながら中産階級富裕層の出身で貴族階級に近い雰囲気があったので、エドワードとしてもお気に入りの政治家であった[87]。
バナマン内閣は組閣後ただちに庶民院を解散し、1906年1月の総選挙に大勝し、庶民院多数派を得たが、野党保守党は保守党が半永久的に多数を占める貴族院から政府法案を否決するという反対闘争を展開した。これにより自由党政権は野党保守党が納得しない立法は一切できなくなってしまった[88]。
1908年2月に病に倒れたバナマンはエドワードが滞在中のフランス・ビアリッツで休養生活に入り、4月に至って同地でエドワードに辞表を提出した。エドワードがビアリッツを離れたがらなかったので、衆目の一致するバナマンの後継者ハーバート・ヘンリー・アスキスもビアリッツに行き、そこでエドワードから組閣の大命を受けた(外国の地で大命降下が行われることについては批判もあった)[89]。
エドワードは、「成りあがり者」アスキスに対してはバナマンほど好感をもたなかった[90]。アスキス首相が婦人参政権を考慮したり、怪しい経歴の人物に騎士(サー)の称号を与えようとした場合などには首相を叱責している[90]。またアスキス内閣の急進派閣僚である財務大臣デビッド・ロイド・ジョージと通商長官ウィンストン・チャーチルの存在を強く憂慮していた[90]。エドワードの思うところ、例えば両閣僚の口出しする外交はグレイ外務大臣の職分であり、財務大臣や通商長官の横暴に不快感を伝えている[91]。
1908年には財務大臣ロイド・ジョージの主導で保守党の了承も得て老齢年金法が成立し、70歳以上の高齢者で給与が一定の金額以下の者に年金が支給されることになった[92]。
更にロイド・ジョージは1909年に有産者に増税を課す「人民予算」を提出したが、野党保守党が「アカの予算」としてこれを徹底糾弾した[93]。エドワードもロイド・ジョージの急進派思想を嫌っていたが、議会の混乱は望んでいなかったので、極端な反対行動に出ないよう保守党の説得にあたった。しかし功を奏せず、結局11月には保守党が多数を占める貴族院は人民予算を否決した[94]。
これにより1910年1月に総選挙となり、その結果庶民院はハング・パーラメントになったが、キャスティング・ボートを握ったアイルランド議会党が「人民予算」を支持したため、引き続き人民予算の可決成立が目指され、その闘争の中でアスキス首相は3月29日に貴族院拒否権制限を盛り込んだ議会法案も庶民院に提出し、4月14日にこれを可決させた[95]。
議会法案の貴族院送付をめぐって両党が睨みあう中の1910年5月6日にエドワードは崩御した。その後、ジョージ5世の即位から間もない1910年8月に至って議会法は成立している[96]。
外交
[編集]第2次ボーア戦争終結
[編集]母の治世末の1899年10月から南アフリカではじまった第2次ボーア戦争は、ゲリラ戦争と化していた。ボーア人の家屋・農場はイギリス軍の焦土作戦で焼き払われ、焼け出された婦女子は強制収容所に入れられた。これによりボーア人ゲリラは補給が困難となり、また黒人先住民に背後から襲撃される危険も高まってきたため、ついにイギリスと和解する決意を固めた。ケープ植民地高等弁務官アルフレッド・ミルナーをはじめとする大英帝国側も戦費が底をついているうえ、現地の白人勢力を早期に一つにまとめて黒人先住民を支配下に置く必要性を痛感していたのでボーア人側との交渉・譲歩に応じた[97]。
その結果、1902年5月にフェレーニヒンフ条約が締結されて終戦し、南アフリカは大英帝国に併合された(トランスヴァール植民地)。その後、自由党政権になると自治権を付与する改革が目指され、1906年12月にエドワードの勅許状によってトランスヴァール植民地は自治権を付与された[98]。
日英同盟
[編集]1895年の日清戦争後、列強諸国による中国分割がはじまり、阿片戦争以来の中国のイギリス一国の半植民地状態が崩壊した。とりわけ満洲や北中国を勢力圏にしていくロシアと揚子江流域の権益を保持したいイギリスの対立が深まった。1900年には中国分割に反発した中国人暴徒たちが義和団の乱を起こしたが、列強諸国の連合軍によりただちに鎮圧された。ロシアはこれを好機として満洲を軍事占領した。これに反発したイギリスのソールズベリー侯爵内閣は、ロシアの満洲・朝鮮半島進出を警戒する日本と同盟交渉を進めた[99][100]。
1901年1月に即位したエドワードも日本との同盟に前向きであり、同年8月には駐英日本公使林董との交渉にあたっていた外相第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスからの報告書の欄外に「そのような可能性(日露開戦)がある場合には常に日本に心からの支援を与えることが最も重要である」と書き込んでいる[101]。
エドワードは1901年のクリスマスから年末まで家族で過ごす予定だったが、その予定を変更して、12月27日に訪英中の日本の元首相伊藤博文侯爵を引見した。伊藤はイギリス政界から「親ロシア派の巨頭」と看做され警戒されている人物だったが、英語を流暢に話したため、すぐにもエドワードと打ち解けることができた。翌1902年1月4日にエドワードは伊藤にバス勲章ナイト・グランド・クロス(GCB)を叙勲している[102]。
伊藤が帰国した後の1902年1月30日にロンドンでランズダウン侯爵と林によって日英同盟が正式に調印された。日英どちらかが二か国以上と戦争になった場合はもう片方は同盟国のために参戦、一か国との戦争の場合はもう片方は中立を保つという内容だった。そのためイギリス政府としては早急にフランスを取りこんで露仏同盟を結ぶフランスがロシアとともに日本に宣戦布告するのを阻止する必要があった[103][104]。
英仏協商
[編集]親仏派のエドワードは英仏友好を強く願っており、早期の国王としての訪仏を希望していた。ビスマルク体制下において孤立させられていたフランスは、ビスマルク失脚後にロシアやイタリアとの関係を改善して包囲から脱することに成功していた。英仏関係も1898年のファショダ事件でフランス外相テオフィル・デルカッセがイギリスに譲歩したことで友好関係に転じつつあったため、エドワードの訪仏は1903年5月にも実現した[105][106]。
エドワードはフランス訪問に先立つ1903年4月にポルトガルとイタリアに立ち寄り、ポルトガル王カルロス1世、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世、ローマ教皇レオ13世らと会見した(教皇との会見は非公式会見。英国王は「英国国教会首長」であるため教皇との公式会見にはアーサー・バルフォア内閣から反発があり、「非公式会見」の形式となった)[107]。
その後1903年5月1日からフランスを訪問し、大統領官邸エリゼ宮殿で大統領エミール・ルーベと会見した。何度も訪仏していたエドワードのフランス語は流暢であり、二人はすぐにも打ち解けたという。パリのイギリス商工会議所での演説では「英仏のいがみ合いの時代は終わりました」「これまでも将来もイギリスとフランスこそが平和的な進歩と文明のチャンピオンであり、パイオニアであり、文学・芸術・科学におけるもっとも高貴な国であると確信しています」と語り、パリ市庁舎での演説では「皆さんもご存じの通り、私は若い頃からしばしばパリを訪問してきました。そしてパリに戻ってくるたびに、まるで我が家のように皆さんがもてなしてくださることは、大いなる喜びです」と述べた[108]。
当時のフランスはまだ反英的な空気が根強かったが、エドワードの演説はフランス国民の胸を打ったようである。5月4日にパリを発つ際、沿道の人々はエドワードに対して「我らが国王陛下万歳」という言葉を叫んだ。こうした状況をフランスの『フィガロ』紙は「陛下の御言葉の一つ一つが両国関係にとって新しい時代が到来したことを約束してくれているように聞こえた」と報じている[109]。駐仏ベルギー大使も「国民の態度がこれほど完全に変わるなんてわが国では考えられない。エドワード7世は完全にフランス国民の心を掴んだ」と本国に報告している[110]。
エドワード訪仏の返礼としてルーベ大統領が1903年7月6日に訪英した。エドワードは首相バルフォア、外相ランズダウン侯爵とともにヴィクトリア駅まで出迎えに立った。到着した大統領とエドワードは30秒以上も堅く握手を交わした。バッキンガム宮殿で大統領のための晩餐会や舞踏会を主催し、また大統領とともにコヴェント・ガーデンの王立歌劇場でジョルジュ・ビゼーの『カルメン』、シャルル・グノーの『ロメオとジュリエット』などフランス・オペラを鑑賞した。大統領が帰国の途に就いた7月9日にもバーティはヴィクトリア駅まで見送りに出た[111]。
このエドワード訪仏とルーベ大統領の返礼の訪英がきっかけとなり、英仏関係は深まった。またビスマルク失脚後のドイツでは皇帝ヴィルヘルム2世が「世界政策」の名のもとドイツ海軍力の大幅増強を行い、英仏のアジア・アフリカ植民地支配を脅かしており、これも英仏両国を結び付ける背景となった[112]。外相ランズダウン侯爵は駐英フランス大使ポール・カンボンを通じてテオフィル・デルカッセ仏外相と交渉を進め、エジプト、モロッコ、ナイジェリア、シャム(タイ)、マダガスカル島、ニューヘブリディーズ諸島、ニューファンドランド島などの利権・領有権をめぐる英仏間の懸案事項を互譲的に解決した。それは最終的に1904年4月8日の英仏協商で結実した[113]。
エドワードはこれら英仏交渉の全てを政府に任せており、直接には関係しなかったものの、フランスとの友好を棄損しそうな空気が発生するとただちにその除去のために行動した。たとえば1903年秋にドレフュス事件再審をめぐって『タイムズ』紙など英国主要新聞がフランスの反ユダヤ主義を批判する論説を載せ、フランス政府がそれに反発を示した際、エドワードは首相バルフォアに「タイムズ紙編集長を呼び出して反仏報道を止めるよう要請すべきである」と述べている(つまり言論統制してでも英仏友好を維持すべきとの考えを示した)[114]。またフランスに割譲する植民地についての庶民院での討議の際、バルフォア首相が「イギリス領土の割譲にはイギリス議会の承諾が必要」という「失言」を行い(当時のイギリスでは「国王陛下の領土」の割譲は基本的に国王の了承だけあればよく、議会に諮る必要はないと考えられていた)、ノウルズら国王側近がこれに強い不快感を示したが、エドワードは英仏協商に水を差したくなかったため、あえてこれを追及しようとはしなかった[115]。
日露戦争をめぐって
[編集]1904年2月に日露戦争が勃発した。エドワードは妻の甥にあたるロシア皇帝ニコライ2世(ニッキー)を昔から可愛がってきたため、個人的にはニコライを応援したがっていたが、同盟国日本を支援してロシアの拡張主義を抑えることがイギリスの国益であることは弁えていた[116]。
エドワードは、日露講和の仲介役になるとニコライに申し出たが、ニコライは「南アフリカ戦争では誰もイギリスに停戦など迫らなかったではありませんか」と反論して断った[117]。ついでエドワードは6月25日にドイツを非公式訪問し、甥にあたるヴィルヘルム2世と会見した(日本国内ではこれについて英独連携しての日露講和介入の前兆と推測された)[118]。また8月12日にニコライの皇太子アレクセイ・ニコラエヴィチが誕生すると、エドワードは皇太子ジョージやヴィルヘルム2世、デンマーク王クリスチャン9世らと共にその代父となった。これをニコライとの関係改善のきっかけにしたいという思いがあったという[119]。
10月に入るとロシアのバルチック艦隊が極東へ送られることになったが、10月21日にはドッガーバンクでイギリス漁船が日本の水雷艇と間違われてバルチック艦隊に砲撃され、多くの英漁民が救助されずに落命する事件が発生した(ドッガーバンク事件)。この事件でイギリス国内の反露世論が高まり、エドワードも覚書の中で「最も卑劣な非道である」と怒りを露わにした。ニコライは25日にエドワード宛てに謝罪文を送ったが、それに対してエドワードは「貴方が優しい心を持っており、罪のない人々が命を落としたことを悲しんでいるのは分かるが、私と我が国民は貴方の艦隊が負傷者を一切助けずに続航したことに激昂している」と怒りの返信をし、また署名も普段ニコライ宛の手紙に書く「貴方の伯父バーティ」ではなく「エドワード国王」と他人行儀に書いた[120]。
英国内では日露戦争の戦況は日本不利と分析されていたため、1905年1月にロシア軍が守る旅順を日本軍が陥落させたとの報告を受けたエドワードは非常に驚いた様子だったという。特に連合艦隊司令長官東郷平八郎提督に感心し、彼に個人的な激励メッセージを贈っている[121]。1905年5月の日本海海戦でバルチック艦隊が壊滅するとバルフォア率いるイギリス政府も日本との同盟延長に前向きとなり、日英間で同盟延長交渉が進められ、8月までに両国の防衛範囲をインドにも拡張させた第二次日英同盟が締結された。エドワードは日本が極東だけでなくインドでもイギリスに協力してくれることに感謝した[122]。
外相ランズダウン侯爵はこれを機に明治天皇にガーター勲章を贈ることを提案し、首相バルフォアの了承も得て、1905年10月にエドワードにその旨を上奏した。前述したようにエドワードは勲章の儀礼にうるさい王であり、異教徒の君主にガーター勲章を贈ることを嫌った[注釈 8]。しかしこの頃までにはだいぶ親日家になっていたエドワードはほとんど難色を示すことなく、許可を出した。これにより1906年2月にもエドワードの弟コノート=ストラサーン公爵アーサー王子が「ガーター使節団」団長として日本に派遣され、明治天皇にガーター勲章を授与した[124]。日本政府は使節団を歓待するため、到着日にあわせて大名行列を再演するイベントを催している[125]。
第一次モロッコ事件をめぐって
[編集]ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は1897年にアルフレート・フォン・ティルピッツ提督を海軍長官に任じて以降、海軍力増強を押し進めていた。イギリスもジョン・アーバスノット・フィッシャー提督が1904年に第一海軍卿に就任してから海軍増強を急ピッチに進め、英独は建艦競争の時代へ入ろうとしていた[126]。
そんな中の1905年3月31日、ヴィルヘルムは、フランスが植民地化を狙っていたモロッコ・タンジールに上陸し、モロッコの領土保全と門戸開放を訴えることでフランスの植民地政策を牽制する行動に出た(第一次モロッコ事件)。その後ドイツ政府はモロッコ問題の国際会議を提唱したが、これに対してフランス政府はまず独仏の二国間会議を開くべきと反論し、両者の主張は平行線をたどった[127]。
イギリス政府も国際会議開催には慎重だった。駐タンジール英国領事サー・ジェラルド・ロウサは「ドイツはモロッコ問題の国際会議を開くことで英仏協商を修正させたいのではないか」という報告書をエドワードに送ったが、エドワードは欄外に「平たく言えばドイツはフランスをモロッコから追い出してその後釜に座りたいだけではないか!」と書いて怒りを示している。しかしエドワードは国際会議を開いた方がフランスのモロッコ権益がより保証されると考えていたので、国際会議に反対しなかった。またフランス政府も、列強各国と交渉を重ねるうちに実際に国際会議が開かれたとしてもドイツを支持する列強はないとの確信を強め、7月頃から国際会議開催に前向きになった。独仏両国が前向きである以上、イギリス政府としても会議に反対するわけにはいかなくなった[128]。
こうして1906年1月16日からスペインでアルヘシラス会議が開催された。モロッコの警察問題をめぐって独仏が紛糾する中の3月初旬、エドワードはフランスとの関係を強化しようとビアリッツの「オテル・デュ・パレ」の訪問を決定した(以降ここを定宿と定めて1910年の崩御まで定期的に訪問した)。その道中にパリに立ち寄り、アルマン・ファリエール大統領やモーリス・ルーヴィエ首相らと会談し、モロッコの湾岸都市の警察権を手放すつもりはないというフランスの立場に支持を表明した[129]。
さらにエドワードは、駐イタリア・アメリカ大使ヘンリー・ホワイトを通じて日露講和を斡旋した実績のあるアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトにこの問題でも積極的に介入してほしいと依頼した。英外相エドワード・グレイや外務省事務次官チャールズ・ハーディングは、ルーズベルトの介入に不満があったものの、結果的にはアメリカの強力なリーダシップのおかげでアルヘシラス会議は決裂することなく、4月7日に条約締結に至った。この条約によりモロッコの独立と領土の保全が保証され、モロッコにおける各国の通商の自由も保証された。また焦点だった警察問題は、モロッコの8つの湾岸都市についてフランスとスペインの警察権が認められることになり、フランス有利の結果に終わった。この会議は英仏の連携がいよいよ強固になったこと、またアメリカがモンロー主義を脱却して他の大陸の問題にも本格的に介入するようになったことを示していた[130]。
英露協商
[編集]日露戦争の敗戦で極東進出を阻止されたロシア皇帝ニコライ2世は、イギリスとの関係改善を志向するようになった。エドワードやイギリス政府もロシアとの関係改善に前向きだった。そのため1907年に入ると英露間で中央アジアの「グレート・ゲーム」をめぐる交渉が進展を見せ、同年8月31日に至って英露協商が締結された。これにより英露が長きにわたって争奪戦を繰り広げてきたアフガニスタンについては、ロシアへの敵対行動に利用しないとの条件付きながらイギリス勢力圏であることをロシアが確認した。またペルシャ帝国(イラン)については、北部をロシア勢力圏、南部をイギリス勢力圏とする分割がなされた。またチベットについては両国とも不干渉で合意した[131]。この英露協商はペルシャにおいては「イギリスがペルシャをロシアに売り飛ばした」と批判されることが多かったが(この不満が1909年のペルシャ立憲革命の一因となった)、英仏協商、露仏同盟を結んでいるフランスでは英露接近は歓迎された。日本も日仏協商、日露協商の交渉を進めている時期だったので英露接近を歓迎した[132]。
ニコライはエドワードとの直接会見を希望しており、エドワードの方もなるべく早期にロシア帝都サンクト・ペテルブルクを訪問して甥ニコライと再会することを希望していた。しかし専制王朝国家ロシアは自由主義国イギリスでは評判が悪く、英国王がロシア帝都を訪問することには反対の声が根強かった。バーティの友人には初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・ロスチャイルドやサー・アーネスト・カッセルらユダヤ人も多いが、彼らもユダヤ人迫害(ポグロム)の中心地であるロシアの帝都を訪れることには反対していた。外相グレイも英露協商を深化させるためには英露両君主の会見が不可欠と認識しつつも、ロシア帝都で会見を行うことには難色を示した。そのためエドワードは、帝都訪問を断念し、1908年6月にレヴァル沖でニコライと会見することにした。エドワードとアリックスは、ここでニコライ、皇后アレクサンドラ(アリッキー)(エドワードの姪)、皇太后マリア(ミニー)(アリックスの妹)らと再会し、家族として抱き合った。またエドワードはこの席上でニコライを王立海軍元帥に叙した[133]。
ドイツ・オーストリアとの対立
[編集]英露接近が成ると、イギリスと植民地争いする国はドイツだけとなった。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、自国が孤立していることに焦り、イギリスとの関係改善を志向した。エドワードも甥との友好に前向きだったので、アルヘシラス会議後の1906年8月に外務政務次官ハーディングを伴ってドイツ・クロンベルク・イム・タウヌスのフリードリヒスホーフ城を訪問し、そこでヴィルヘルムや独外相ハインリヒ・フォン・チルシュキーと会見した[134]。つづいて1907年8月にもハーディングを伴ってドイツ・カッセル・ヴィルヘルムスヘーエ城を訪問し、ヴィルヘルムや独首相ベルンハルト・フォン・ビューローと会見した[135]。また1907年11月にはヴィルヘルムが訪英し、エドワードは王族一同や外相グレイとともにウィンザー城で彼を歓待した。しかしバグダッド鉄道や建艦競争など政治面での英独緊張緩和には至らなかった[136]。
1908年8月にエドワードはハーディングを伴ってオーストリアのバート・イシュルを訪問し、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世やオーストリア外相アロイス・レクサ・フォン・エーレンタールと会見した。これらの会見で英墺両国は英独の建艦競争を英墺関係に影響をさせないこと、バルカン半島情勢に協力してあたることを確認した[137]。
しかし同年9月29日にオーストリア皇帝は1878年のベルリン会議で締結されたベルリン条約に基づきオーストリアの統治下に置かれていたボスニア・ヘルツェゴビナを併合したい旨の希望をエドワード宛てに送ってきた[138]。一か月前の会見でそんな話は全く出なかったからエドワードはこれにショックを受けた。さらに10月5日にはブルガリア公フェルディナンドがオスマン帝国からの独立、自らの称号を公から皇帝(ツァーリ)へ変えること、国名を公国から帝国に変えることを宣言した[139]。
こうしたオーストリアやブルガリアの動きにはセルビア王国やロシアが反発した。ロシアは国際会議を提唱し、フランスがそれに同調した。エドワードやイギリス政府も友好関係に入っていたロシアに同調し、ボスニア・ヘルツェゴビナの併合・ブルガリア独立いずれもベルリン会議署名国全ての同意を得ない限り認められないという見解を示した[140]。しかしドイツとオーストリアは国際会議開催に慎重であり、両国の合意が得られず、会議開催は不可能となった。英仏露VS独墺の構図はいよいよ深まっていった[141]。
1908年10月28日には「デイリー・テレグラフ事件」が発生し、ドイツ皇帝ヴィルヘルムへの批判が内外で高まった。英独緊張を鎮めるため、グレイ外相はエドワードのベルリン訪問を希望した。エドワードはそれを承諾して1909年2月にベルリンを訪問した。この訪問ではバグダッド鉄道や建艦競争など両国の政治的懸案事項はハーディングとビューロウ首相の間で話し合うこととし、エドワードとヴィルヘルムの会談では政治的な話題には触れないこととした。エドワードはこの訪独時、すでに体調が悪化し始めていたが、平静を装って各種行事をこなした。しかしハーディングの方はバグダッド鉄道問題でも海軍問題でもドイツから譲歩を引き出すことはできず、両国の対立を解消させることができなかった[142]。
エドワードの積極的な「王室外交」にも関わらず、ドイツやオーストリアとの政治的対立を緩和させられなかったのは、20世紀初頭という時代がすでに各国の王室・皇室間の友好関係だけでは動かせなくなっているという現実を如実に示すものであった[143]。
崩御
[編集]1909年4月の「人民予算」提出から1910年1月の総選挙まで庶民院の自由党と貴族院の保守党の対立激化でエドワードは9ヶ月近くにわたって休む暇がなかった。その過労で気管支炎を患い、体調は悪化し続けた。1910年3月9日になってようやく休養を許され、ビアリッツで療養生活に入ったが、体調は回復しなかった。しかもアスキス内閣が議会法案提出に動いたことで再び与野党の対立が激化したため、エドワードは4月27日にも療養を切り上げてロンドンへ戻らねばならなくなった[144]。
5月2日に気管支炎が再び酷くなったが、無理をして公務をこなし続けた結果、5月5日にはかつてないほどに衰弱した状態に陥った。その容体を聞いたアリックスや皇太子ジョージらはただちにエドワードの元に駆け付けた。皇太子は「お父さん、『空中の魔女(Witch of the Air)』(バーティの持ち馬)がケンプトン・パークのレースで優勝しましたよ」と語りかけ、エドワードは「私も聞いたよ。本当にうれしい」と応じたという[145][146]。
5月6日午後11時45分、アリックスや皇太子らに看取られながら崩御した。68歳だった。最後の言葉は「いや、私は絶対に降参しない。続けるぞ。最後まで仕事を続けるぞ」という昏睡状態の中での呟きだった。その最期を看取ったアリックスは「彼は国のために命を落とした」と語った[145]。
エドワードの棺は5月17日にウェストミンスター・ホールへ移され、5月18日から正装安置が行われた。2日間で70万人もの国民が参列し、エドワードの崩御を悼んだ。5月20日、砲車に乗せられた棺は、軍隊と各国の要人の葬列を伴ってパディントン駅まで運ばれた。葬列には、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、ロシア皇帝の弟ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公、日本皇族伏見宮貞愛親王、前アメリカ大統領セオドア・ルーズベルト、フランス外相ステファン・ピションなどが参列した。駅から列車でウィンザー城のセント・ジョージ礼拝堂まで輸送され、そこでカンタベリー大主教らによる葬送礼拝が執り行われた後、埋葬された[147]。
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イングランド・リヴァプールのロイヤル・リバー・ビルディング前のエドワード7世像(2009年撮影)
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オーストラリア・アデレードにあるエドワード7世像(2010年撮影)
人物
[編集]母への恐怖
[編集]母ヴィクトリア女王が長きにわたって在位したため、60年にもわたって皇太子だった[148]。
彼は子供の頃から両親に出来が悪いと評価され、50歳代になっても母から公務に関わることを許されなかった[149]。ヴィクトリア女王は「無能」な息子が自分より長生きしないことを祈ってさえいたという[150]。
彼は皇太子時代を通じて母の影に怯えながら暮らした。52歳の時、ある晩餐会に遅刻し、身体を小さくしながら自分の席へ向かおうとしたが、はるか正面席の女王から鋭い一瞥をされ、震えあがり、自分の席まで行けず、しかし帰るわけにもいかず、柱の陰で立ち尽くしたということがあったという[149]。エドワードは「私としては永遠なる父に祈りを捧げるのは別にかまわない。しかし英国広しといえど、永遠なる母に悩まされているのは私だけだろう」と述べたことがあった[151]。
ヴィクトリア朝を代表する二人の対称的な首相、ベンジャミン・ディズレーリとウィリアム・グラッドストンは女王・皇太子への接し方も対称的だった。女王に忠実なディズレーリは「皇太子に伝令の写しを送ることを拒絶はしないが、その場合にはそれほど重要ではない文書を送るように」という女王からの指示に従って、エドワードに重要な書類を見せなかった。対して女王との関係が悪いグラッドストンは様々な機密文書を女王に無断でエドワードに見せていた。エドワードもグラッドストンに深く感謝し、グラッドストンの葬儀に際しては恐らく初めて母の意思に反する形で彼の葬儀に出席している[152]。
放蕩
[編集]皇太子時代、エドワードは公務から排除されていたため、そのエネルギーは放蕩に向いた[153]。20歳の時にはじめて女性と寝たエドワードは、以降売春婦を除いて101人の女性と関係を持ったという[154]。恋愛問題をめぐってランドルフ・チャーチル卿(後の英国首相ウィンストン・チャーチルの父)に決闘を申し込んだこともある[155]。
数多い愛人の中でも特にエドワードから寵愛を受け、常に彼と一緒にあった愛人が3人おり、彼女たちは「ロイヤル・ミストレス(Royal mistress)」と俗称された[156]。その最初の一人は、1877年5月に知り合い、1880年に別れたリリー・ラングトリーだった。ジャージー出身の平民の人妻だが、美人で気立てが良く、身の程をわきまえていたのでヴィクトリア女王や妃アリックスからも気に入られていた(リリーはアリックスに対して常に下手に出たため、アリックスはリリーに対して嫉妬しなかったという)[157]。
つづいて1889年から1897年までウォリック伯爵夫人デイジー・グレンヴィルを「ロイヤル・ミストレス」にした。彼女はメイナード子爵家の令嬢で第5代ウォリック伯フランシス・グレンヴィルの妻だった。エドワードは彼女を相談相手の妻のように扱い、「デイジー・ワイフ」と呼んでいた。デイジーは貴族社会で気立てが良いと評判でヴィクトリア女王からの覚えもよかったが、貴族出身だけに下手に出ることがなかったため、アリックス妃から強い敵意を抱かれた[158]。やがてデイジーは社会主義運動にのめり込み、政治面でもエドワードに影響を及ぼすようになった。1894年にエドワードは貴族院で「貧民街改善案」を訴えているが、これはデイジーの影響だったという。しかしデイジーの社会主義傾倒が深まりすぎるとエドワードとの思想面での距離が広がり、結局二人は1897年に別れることになった[159]。
その後1898年早春から国王即位を挟んで1910年の崩御までアリス・ケッペル夫人を「ロイヤル・ミストレス」にした。彼女はスコットランドの準男爵家の出身で、第7代アルビマール伯爵ウィリアム・ケッペルの三男ジョージ・ケッペルと結婚していた。エドワードとは27歳の年の差があったが、彼女はエドワードが落ち込んでいる時には励まし、エドワードが疳癪を起こせば耐え忍び、エドワードが病気になれば献身的に看病するという「高齢者向き」の愛人だったため、エドワードは片時も彼女を手放さなかった。エドワードの即位時には彼女の去就が注目されたが、結局国王となった後もエドワードは皇太子時代以上に彼女を寵愛した。やがて彼女は「La Favorita(お気に入り)」と渾名されるようになった。アリスへのアリックス妃の反応はリリーほど好感をもっていないが、デイジーほど嫌ってもいないという雰囲気だったという。しかしエドワード崩御後にアリックス妃はアリスをただちに宮殿から退去させている。また皇太子ジョージ(ジョージ5世)はアリスを嫌っていた[160]。
ラブチェアー
[編集]パリで最も豪華な売春宿であるル・シャバネの常連客であり、同時に2人の女性と性行為を行うという性交嗜好を満たすために特別に設計された椅子、ラブ・チェアーが設置されていた[161]。
「ピースメーカー」
[編集]即位前に放蕩家として国内外に浮き名を流したため、イギリス史上最大の愚王となるのではと不安視されたが、実際に即位した後には外交問題を中心に活躍して有能な王であることを内外に知らしめた[148]。
彼の9年間という短い在位期間にイギリスは昔からの敵国フランスとロシア、また東洋の新興国日本と連携関係を創ることができた[162]。そのため「ピースメーカー」と呼ばれた[163]。
エドワード7世にはヴィルヘルム2世の黄禍論のような人種的偏見はなかった。若い頃のインド訪問時、白人の非白人に対する横柄な態度を見て、彼は眉をひそめていた[164]。
フランスについてはエドワード7世は若い頃から親仏派だった。最初の訪仏の際、ナポレオン3世に「貴方の国は立派な国です。私は貴方の息子になりたいです」と述べたことはよく知られている。ただ彼の親仏は母ヴィクトリア女王の親独方針に反発しての部分も大きかったようである[162]。
一方イギリスのフランス・ロシア・日本への接近によって孤立することになったドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は叔父エドワードをドイツ包囲網の中心人物と恨んでいた(ただし、ロシアとの同盟を解消したのはドイツであり、日本に三国干渉を仕掛けるなど嫌われる行動、孤立する行動をヴィルヘルム二世は自分からとっている)。彼は1907年に宴会の席でエドワードについて「悪魔め!彼は計り知れないほど恐ろしい悪魔だ」と公言した[165]。晩年にも回顧録の中でエドワードこそが第一次世界大戦の元凶と断じている。ヴィルヘルムによればエドワードはイギリス政府の方針に沿って行動していた立憲君主ではなく、彼独自の政治的野心で行動していた人物で、その野心のためにドイツ包囲網を築いたのだという[166]。
競馬
[編集]- 詳しくはエドワード7世と競馬を参照。
エドワード7世は皇太子時代から競馬に熱心だった。1864年にイギリス競馬会(ジョッキークラブ)の会員になり、馬主としてデビューした[注釈 9]。
1885年にはサンドリンガムに牧場を開設してサラブレッド生産を始めた。その生産馬で1896年に1000ギニーを勝ってクラシック競走初優勝[169][注釈 10][168][170]、同年6月にはパーシモンでダービーをレコード勝ちし、1822年のヨーク公フレデリック以来の74年ぶりの王族によるダービー優勝となった。パーシモンは翌年に古馬最高峰のゴールドカップも制し[169][171]、引退して種牡馬になるとイギリスの種牡馬チャンピオンとなった[172][173]。1900年には自家生産馬でイギリス最大の障害競走グランドナショナル優勝(王族として史上初)、ダイヤモンドジュビリーで2000ギニー、ダービー、セントレジャーの三冠制覇(2017年現在、王族として唯一の例)、この年の馬主チャンピオン・生産者チャンピオンとなった[169][174]。
国王即位後も、1909年にミノルで2000ギニーとダービーを制した。現役の国王としてのダービー優勝は2017年時点で唯一の例である[169][175]。この優勝は第9代準男爵サー・チャールズ・レスター(Sir Charles Byrne Warren Leicester, 9th Baronet,1896–1968)によって「おそらく競馬の歴史のなかでももっとも有名なもの」と評されている[176]。
王族としての競馬での活躍は王室人気に貢献した[169][177][178][179]。最初のダービー優勝の様子は映画になってイギリス、オーストラリア、ニュージーランドなどで放映された[180][181][182]。アスコット競馬場ではエドワード7世を記念して「キングエドワード7世ステークス」が行われているほか、プリンスオブウェールズステークスもエドワード7世の王太子時代に創設されたものである[183]。
ファッション
[編集]皇太子時代からファッションリーダーとして名をはせており、その影響は現代でも見てとれる。例えばディレクターズスーツはエドワード7世の発案とされている[184]。これはそれ以前にはあくまで室内着、あるいはカジュアルに近い服装とされていた3つ揃いのスーツを、フロックコート、モーニングコートに次ぐ礼装として調えたものであり、エドワード7世自身が着用することで礼服としての地位が示された。また、この格好と合わせられるホンブルク帽を有名にしたのも他ならぬエドワード7世である。さらに、グレンチェック模様の服を皇太子時代から好んで着用したために、この模様には「プリンス オブ ウェールズ」という呼び名があり、また今でもそう呼ばれている[185]。ネクタイの結び方の種類に「プリンス・アルバート」というものがある。これは、結び目を小さく形作る方法である[186]。
その他
[編集]- 1868年にスウェーデン王カール15世(スウェーデン・グランドロッジのグランドマスター)の手でフリーメイソンに加入した[187]。1870年からイングランド・連合グランドロッジのグランド・マスターを務めた。即位に際して辞職した[188]。ただメイソンリー活動にはさほど熱心ではなかったようである[189]。
- ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、ロシア皇帝ニコライ2世の伯父にあたるため、「ヨーロッパの伯父さん」と渾名された[190]。
- プリンス・オブ・ウェールズとしての在任期間が長いため「プリンス・オブ・ウェールズ島」など「プリンス・オブ・ウェールズ」の名がつけられた固有名詞はエドワード7世に由来するものが多い。
- 自動車への関心も高く、1907年にはそれ以前からイギリスに存在した自動車クラブを改称する形で王立自動車クラブ(RAC)の設立を命じた[191]。
- コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズの1作『高名な依頼人』にも、直接の名指しはされないが事件の依頼人として登場する。20世紀のミステリ作家ピーター・ラヴゼイには、エドワード皇太子を主人公とした長編シリーズを3作、刊行している。
栄典
[編集]爵位・君主号
[編集]- 1841年11月9日、コーンウォール公爵(即位まで)[192]
- 1841年11月9日、ロスシー公爵(即位まで)[192]
- 1841年12月8日、チェスター伯爵(即位まで)[192]
- 1841年12月8日、プリンス・オブ・ウェールズ(即位まで)[192]
- 1901年1月22日、イギリス国王[192]
- 1902年8月9日、戴冠。正式な称号は「神の恩寵による、グレートブリテン及びアイルランド連合王国ならびに海外のドミニオンの国王、信仰の擁護者、インド皇帝(By the Grace of God, of the United Kingdom of Great Britain and Ireland, and of the British Dominions beyond the Seas, King, Defender of the Failth, Emperor of India)」[192]
勲章
[編集]外国勲章
[編集]エドワードは38か国から65種類の勲章をもらっており、これはイギリス歴代国王の中でも女王エリザベス2世に次ぐ数である[193]。エドワードが外国から授与された勲章に以下のような物がある[194]。以下、国名五十音順。カッコ内の年代は授与された年。
- エチオピア帝国:ソロモン勲章(1874年)、メネリク2世勲章、エチオピアの星勲章(1902年)
- オーストリア帝国:聖シュテファン勲章(1867年)、ツェーリンゲン獅子勲章
- オスマン帝国:オスマン勲章(1862年)、オスマン皇室勲章(1902年)、メディジ勲章
- オランダ:ネーデルラント獅子勲章(1849年)
- ギリシャ王国:贖主勲章(1862年)
- サルデーニャ王国:聖マウリッツィオ・ラザロ勲章
- スウェーデン:熾天使勲章(1864年)、カール13世勲章(1868年)、ヴァーサ勲章
- スペイン:金羊毛勲章(1852年)、カルロス3世勲章(1876年)
- タイ王国:白象勲章・大チャクリー勲章(1880年)
- デンマーク:象勲章(1864年)、ダンネブロ勲章(1864年)
- 日本:大勲位菊花大綬章(1886年)、大勲位菊花章頸飾(1902年)
- ノルウェー:聖オーラヴ勲章(1906年)
- ハワイ王国:カラカウア王室勲章(1881年)、カメハメハ勲章
- ブラジル帝国:南十字星勲章(1872年?)
- フランス:レジオンドヌール勲章(1863年)
- ブルガリア王国:アレクサンダル勲章
- プロイセン王国:黒鷲勲章(1842年/1858年)、黒鷲勲章頸飾(1869年)、赤鷲勲章、ホーエンツォレルン王家勲章
- ベルギー:レオポルド勲章
- ペルシャ帝国:ライオンと太陽勲章
- ポルトガル王国:塔と剣勲章
- ルーマニア王国:ルーマニアの星勲章(1882年)、カロル1世勲章
- ロシア帝国:聖アンドレーイ勲章(1844年)、聖アレクサンダー・ネーヴスキ勲章、白鷲勲章、聖アンナ勲章、聖スタニスラフ勲章、聖ウラジーミル勲章(1881年)
名誉職
[編集]- 1863年、科学技術産業振興協会(王立技芸協会)会長[195]
子女
[編集]アリックス王妃との間に3男3女を儲けた[192]。
- アルバート・ヴィクター(1864年-1892年) クラレンス公。愛称エディ
- ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート(1865年-1936年) 次代国王ジョージ5世
- ルイーズ・ヴィクトリア・アレクサンドラ・ダグマー(1867年-1931年) ファイフ公爵アレグザンダー夫人
- ヴィクトリア・アレクサンドラ・オルガ・メアリー(1868年-1935年)
- モード・シャーロット・メアリー・ヴィクトリア(1869年-1938年) ノルウェー国王ホーコン7世妃
- アレクサンダー・ジョン・チャールズ・アルバート(1871年、夭折)
-
エドワードと妃アリックスと長男エディ(ラウリッツ・タクセン画)
-
エドワードと次男ジョージ(1890年)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 「君主の長男」(法定推定相続人)の最長記録はチャールズ3世が2011年4月20日にエドワード7世の記録を更新したが、チャールズがプリンス・オブ・ウェールズに叙されたのは1958年7月(9歳8か月)であり、生後すぐに叙されたエドワード7世よりもだいぶ遅かった。そのため、その後もエドワード7世がプリンス・オブ・ウェールズとしての期間が最も長かったが、この記録も2017年9月9日にチャールズが更新した[2]。
- ^ 英露協商が結ばれた1907年には日仏協約と日露協約が結ばれた。したがってこの年だけで、露仏同盟をふくむドイツ帝国包囲網6条約のうち3つが成立したことになる。
- ^ 時の首相メルバーン卿は「アルバート」の名前はノルマン朝が始まって以来、王名に使われたことがないとして「エドワード・アルバート」にすべきと上奏したが、女王は夫であるアルバートへの敬意からこれを退けた[6]。
- ^ あくまで勉強であったので「プリンス・オブ・ウェールズ」としてではなく、「レンフルー男爵(英国皇太子が継ぐ爵位の一つ)」として訪問している[12]。
- ^ 現実には鉄道網の発達でヨーロッパ大陸における海軍による港湾封鎖の価値はこの頃微妙になっていた[27]。
- ^ 生前ヴィクトリア女王はバーティに「アルバート・エドワード」という二つ名の王名にしてほしがっていたが、イングランドの君主には二つ名の王がいなかったため、バーティはやんわりと断っていた[70]。
- ^ 英領南アフリカではボーア戦争後の労働力不足を補うため、1904年2月から1906年11月までの間に6万3000人もの中国人苦力が年季契約で中国本国から南アフリカに鉱山労働者として輸送されてきていた[83]。これについて道徳心高い非国教徒の中産階級は大量の苦力を船に詰め込み、鉱山で重労働させる行為は奴隷貿易に該当すると批判した。労働者階級も植民地において低賃金の中国人苦力輸入を黙認すれば、やがてイギリス本国にも輸入されるようになって自分たちの給料を下げられると警戒して反対した[84]。
- ^ エドワードが即位して間もなくの頃、イスラム教国オスマン=トルコ帝国皇帝(スルタン)アブデュルハミト2世は父や叔父がもらったガーター勲章を自分にも授与して欲しい旨の意をエドワードに伝えてきたが、エドワードは拒否を貫いた。またペルシャ帝国(イラン)皇帝(シャー)モザッファロッディーン・シャーも父がもらったガーター勲章を自分にも授与して欲しいとエドワードに要請してきたが、この時もエドワードは強く難色を示した(この時にはバルフォア首相が辞職をちらつかせて強く要請してきたため、結局その説得を受け入れてしぶしぶシャーにガーター勲章を贈っている)[123]。
- ^ ただし母のヴィクトリア女王を憚って、他人の名義で競走馬を出走させた[167]。自身の名義で走らせるようになったのは1877年から[167][168]。
- ^ ヴァンプルー,p56 によれば1886年。
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- バーバラ・タックマン 著、山室まりや 訳『八月の砲声(新装版)』筑摩書房、1986年(昭和61年)。ISBN 978-4480853356。
- バーバラ・タックマン 著、大島かおり 訳『世紀末のヨーロッパ 誇り高き塔・第一次大戦前夜』筑摩書房、1990年(平成2年)。ISBN 978-4480855541。
- 中村祐吉『イギリス政変記 アスキス内閣の悲劇』集英社、1978年(昭和53年)。ASIN B000J8P5LC。
- ブレイク男爵 著、早川崇 訳『英国保守党史 ピールからチャーチルまで』労働法令協会、1979年(昭和54年)。ASIN B000J73JSE。
- ケネス・ベイカー (作家) 著、樋口幸子 訳『英国王室スキャンダル史』河出書房新社、1997年(平成9年)。ISBN 978-4309223193。
- ロバート・ペイン 著、佐藤亮一 訳『チャーチル』文化放送、1975年(昭和50年)。ASIN B000J9D8JC。法政大学出版局で再刊(1993年)
- 森護『英国王室史事典-Historical encyclopaedia of Royal Britain-』大修館書店、1994年(平成6年)。ISBN 978-4469012408。
- 森護『英国王と愛人たち 英国王室史夜話』河出書房新社、1999年(平成11年)。ISBN 978-4309223537。
- 湯浅慎一『フリーメイソンリー その思想、人物、歴史』中央公論社〈中公新書〉、1990年。ISBN 978-4121009555。
- スタンリー・ワイントラウブ 著、平岡緑 訳『ヴィクトリア女王〈上〉』中央公論社、1993年(平成5年)。ISBN 978-4120022340。中公文庫で再刊(全3巻、2006年)
- スタンリー・ワイントラウブ 著、平岡緑 訳『ヴィクトリア女王〈下〉』中央公論社、1993年(平成5年)。ISBN 978-4120022432。
競馬関連
[編集]- ロジャー・ロングリグ 著、原田俊治 訳『競馬の世界史』日本中央競馬会弘済会、1976年(昭和51年)。ASIN B000J9355O。
- 髙村是州『ザ・ストリートスタイル』グラフィック社、1997年(平成9年)。ISBN 978-4766108958。
- 『ダービー その世界最高の競馬を語る』アラステア・バーネット、ティム・ネリガン/千葉隆章訳、(財)競馬国際交流協会刊、1998
- 『Edward VII: The Last Victorian King』 Christopher Hibbert Palgrave Macmillan, 2007,[7]round of pleasure
- 『英国競馬事典』,レイ・ヴァンプルー、ジョイス・ケイ共著、山本雅男・訳,財団法人競馬国際交流協会・刊,2008,p56-59「王室」
- 『グローバル・レーシング』アラン・シューバック、デイリーレーシングフォーム・刊、財団法人競馬国際交流協会・訳刊、2010
- 『競馬 サラブレッドの生産および英国競馬小史』デニス・クレイグ、マイルズ・ネーピア改訂、佐藤正人訳、中央競馬ピーアールセンター刊、1986
- 『CLASSIC PEDIGREES 1776-2005』Michael Church編、Raceform刊、2005
- 『サラブレッドの世界』サー・チャールズ・レスター著、佐藤正人訳、サラブレッド血統センター刊、1971
- 『名馬の血統 種牡馬系統のすべて』山野浩一著、明文社刊、1970、1977
- 『伝説の名馬PartIII』山野浩一・著、中央競馬ピーアール・センター・刊、1996
関連項目
[編集]- 第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシル(1902年まで首相)
- アーサー・バルフォア(1902年から1905年まで首相)
- ヘンリー・キャンベル=バナマン(1905年から1908年まで首相)
- ハーバート・ヘンリー・アスキス(1908年から首相)
- 日英同盟
- 三国協商
- 威風堂々
- 戴冠式頌歌
- ヴィクトリア朝
- クレープシュゼット
- エドワード七世の戴冠式
- 君塚直隆
エドワード7世
ヴェッティン家分家
| ||
イギリス王室 | ||
---|---|---|
先代 ヴィクトリア |
イギリス国王 大英帝国自治領国王 インド皇帝 1901年1月22日 - 1910年5月6日 |
次代 ジョージ5世 |
空位 最後の在位者 ジョージ皇太子(後のジョージ4世) |
プリンス・オブ・ウェールズ コーンウォール公爵 ロスシー公爵 1841年 – 1901年 |
次代 ジョージ皇太子 (後のジョージ5世) |
職能団体・学会職 | ||
先代 ウィリアム・トゥック |
科学技術産業振興協会会長 1863年 – 1901年 |
次代 サー・フレデリック・ブラムウェル準男爵 |
フリーメイソン | ||
先代 初代リポン侯爵 |
イングランド・連合グランドロッジ グランドマスター 1874年 – 1901年 |
次代 初代コノート公爵 |
名誉職 | ||
空位 最後の在位者 王配アルバート
|
バス騎士団グレート・マスター 1897年 – 1901年 |
次代 初代コノート公爵 |
- エドワード7世
- 連合王国の君主
- インド皇帝
- 20世紀ヨーロッパの君主
- 20世紀アジアの君主
- 20世紀アフリカの君主
- 20世紀アメリカの君主
- 20世紀オセアニアの君主
- プリンス・オブ・ウェールズ
- コーンウォール公
- ロスシー公
- サクス=コバーグ=ゴータ家
- ガーター勲章
- シッスル勲章
- 大勲位菊花章頸飾受章者
- 大勲位菊花大綬章受章者
- 金羊毛騎士団員
- レジオンドヌール勲章グラントフィシエ受章者
- 聖マウリッツィオ・ラザロ勲章受章者
- 大チャクリー勲章受章者
- 白象勲章受章者
- ダンネブロ勲章受章者
- 赤鷲勲章受章者
- 聖アンナ勲章受章者
- 聖スタニスラフ勲章受章者
- 聖ウラジーミル勲章受章者
- 白鷲勲章受章者 (ロシア帝国)
- 聖アレクサンドル・ネフスキー勲章受章者
- 聖アンドレイ勲章受章者
- 聖オーラヴ勲章受章者
- 王立協会王族フェロー
- エディンバラ王立協会フェロー
- オーストリア=ハンガリー帝国陸軍元帥
- 日露戦争の人物
- 日英関係
- 英仏関係
- 英露関係
- 馬主
- 競走馬生産者
- フリーメイソン
- ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ
- イギリスのソーシャライト
- ヴィクトリア女王の子女
- ヴィクトリア朝の人物
- ウィンザー城セント・ジョージ礼拝堂に埋葬された人物
- オックスフォード大学クライスト・チャーチ出身の人物
- ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ出身の人物
- シティ・オブ・ウェストミンスター出身の人物
- 19世紀イギリスの人物
- 20世紀イギリスの人物
- 1841年生
- 1910年没