「焼津神社」の版間の差分
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{{神社 |
{{神社 |
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名称=焼津神社 |
|名称 = 焼津神社 |
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画像 = [[File:Yaizu-jinja |
|画像 = [[File:Yaizu-jinja haiden.JPG|280px]]<br />拝殿 |
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所在地=静岡県焼津市焼津2 |
|所在地 = [[静岡県]][[焼津市]]焼津2丁目7-2 |
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|ISO = JP-22 |
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位置={{ウィキ座標2段度分秒|34|51|54|N|138|18|49|E|region:JP-22_type:landmark|display=inline,title}}| |
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|緯度度 = 34|緯度分 = 51|緯度秒 = 54.14 |
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祭神=日本武尊| |
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|経度度 =138|経度分 = 18|経度秒 = 49.12 |
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社格=式内社(小)・県社・別表神社| |
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|祭神 = [[ヤマトタケル|日本武尊]] |
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創建=[[反正天皇]]4年([[409年]])| |
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|神体 = |
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本殿=[[流造]]| |
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|社格 = [[式内社]](小)<br />旧[[県社]]<br />[[別表神社]] |
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例祭=[[8月13日]]}} |
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|創建 = (伝)第18代[[反正天皇]]4年 |
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|本殿 = [[流造]] |
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|別名 = 入江大明神 |
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|札所等 = |
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|例祭 = [[8月13日]] |
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|神事 = |
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|地図 = Japan Shizuoka |
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}} |
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{{座標一覧}} |
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[[File:Yaizu-jinja torii.JPG|thumb|220px|right|{{center|鳥居}}]] |
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'''焼津神社'''(やいづじんじゃ)は、[[静岡県]][[焼津市]]焼津にある[[神社]]。[[式内社]]、[[近代社格制度|旧社格]]は[[県社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。 |
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旧称は「入江大明神(いりえだいみょうじん)」。[[ヤマトタケル]]の東征伝説に関わる神社として知られる。 |
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'''焼津神社'''(やいづじんじゃ)は、[[静岡県]][[焼津市]]焼津、JR[[焼津駅]]の南西約1kmにある[[神社]]である。[[式内社]]で、旧[[社格]]は[[県社]]。[[第二次世界大戦]]後に[[神社本庁]][[別表神社]]に加えられた。旧称'''入江大明神'''(いりえだいみょうじん)。 |
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== 祭神 == |
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[[日本神話]]における[[日本武尊]]の東征のとき、この地の[[国造]]が謀って日本武尊のいる野原に火を放ち、日本武尊は[[天叢雲剣]]で周囲の草を薙ぎ向火を放って難を逃れたという地であると伝える。主祭神は日本武尊で、配祀神の[[吉備武彦命]]、[[大伴武日連命]]、[[七束脛命]]は東征に付き随った家臣である。[[神体]]は「火石」と「水石」であると伝えられる。伝承によれば、日本武尊が水石と火石を投げた所、1つが当社、もう1つが[[熱田神宮]]に落ちたという。 |
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[[ファイル:焼津神社 日本武尊像.JPG|thumb|160px|right|{{center|境内の[[日本武尊]]像}}]] |
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祭神は次の4柱<ref name="由緒書">神社由緒書。</ref>。 |
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; 主祭神 |
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:* '''[[ヤマトタケル|日本武尊]]'''(やまとたけるのみこと) - 第12代[[景行天皇]][[皇子]]。 |
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; 相殿神 |
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:* [[吉備武彦|吉備武彦命]](きびたけひこのみこと) |
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:* [[大伴武日|大伴武日連命]](おおとものたけひのむらじのみこと) |
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:* [[七束脛命]](ななつかはぎのみこと) |
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: 上記の相殿神3柱は、日本武尊の東征に従った従者とされる。 |
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『[[日本書紀]]』『[[古事記]]』の伝説によれば、ヤマトタケル(日本武尊/倭建命)は天皇の命で東征し、その途上で賊の火攻めに遭った。しかしヤマトタケルは[[草薙剣]]で草を薙ぎ、さらに向い火をつけて難を逃れた。これによりその地は「ヤキツ」(紀は'''焼津'''、記は'''焼遣'''と表記)と称される、という。この火難伝説地が静岡県焼津地域に比定され、焼津神社はその事跡を伝える神社とされる{{Sfn|焼津神社(角川)|1982年}}。 |
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==歴史== |
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創建は、『[[駿河国風土記]]』によれば[[反正天皇]]4年([[409年]])である。『[[延喜式神名帳]]』では[[駿河国]][[益頭郡]]4座のうちの1社として記載され、小社に列している。かつては現在地の南東数kmの地(現在は海の中)に鎮座していたが、次第に海に変じたため、現在地に遷座したと伝えられる。『駿河国諸郡神階帳』には「神階正四位下燒津明神」とある。 |
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ただしこの伝説では、「ヤキツ」の所在地を『日本書紀』で[[駿河国]]、『古事記』で相武国([[相模国]]か)と記載し異同が存在する。このことに関しては、「相武国」を単なる誤記とする説のほか、相模国が古くは駿河国も含む広領域であったとする説、駿河・相模に「ヤキツ」が並存したとする説などがあるが明らかではない{{Sfn|焼津市史 通史編 上|2005年|pp=216-221}}。『焼津市史』では、ヤマトタケル伝説には『日本書紀』の記述の方に原初的な要素が見られることから、『古事記』の記述にはかなり後世の手が入ったと見て、『古事記』の編纂過程で関東地方の征討に重点を置いたために伝承地が本来の駿河から相模に移されたと推測する{{Sfn|焼津市史 通史編 上|2005年|pp=216-221}}。実際、『[[万葉集]]』では駿河の地名として「焼津邊」と詠まれた歌が知られる(巻3 284番)<ref>[http://infux03.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/~manyou/ver2_2/manyou_kekka2.php?kekka=03/0284 03/0284](山口大学「万葉集検索システム」)。</ref>{{Sfn|焼津神社(式内社)|1988年}}。また[[平安時代]]中期の『[[和名抄]]』によると、駿河国には「'''益頭'''(ましづ:のちに'''益津''')」が郡名・郷名として存在したが、これは「ヤキツ」の「焼」を忌み好字として「益」をあてたのが「マシヅ」の読みに転訛したものとされる{{Sfn|焼津神社(神々)|1987年}}{{Sfn|焼津神社(式内社)|1988年}}{{Sfn|焼津市史 通史編 上|2005年|pp=216-221}}。そのほか駿河国では、同様にヤマトタケルの火難伝説を伝える式内社として[[草薙神社]]([[静岡市]][[清水区]][[草薙 (静岡市)|草薙]])の存在も知られる{{Sfn|焼津市史 通史編 上|2005年|pp=216-221}}。 |
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[[今川氏]]が社領500[[石 (単位)|石]]を寄進したと伝えられ、[[江戸時代]]には[[朱印地]]70石が附せられた。[[明治]]6年3月22日郷社に列格し、明治16年6月25日に県社に昇格した。明治40年1月12日に[[神饌幣帛料供進社]]に指定された。[[昭和]]41年7月1日に別表神社に列せられた。 |
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なお、祭神としては他に[[イチキシマヒメ|市杵島姫命]]とする説があり、『駿河国式社備考』では摂社の市杵島姫命社を元社とする説を挙げる{{Sfn|焼津神社(式内社)|1988年}}。祭神に関して、文献では[[中世]]に「入江大明神」の表記が最も早く見られ、次いで[[江戸時代]]頃から市杵島姫命説や現在見る日本武尊説が生じている{{Sfn|焼津神社(式内社)|1988年}}。 |
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==施設== |
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[[File:Yamato Takeru at Yaizu Jinja cr.jpg|thumb|190px|<center>境内にある[[日本武尊]]の像</center>]] |
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摂末社・境内社として以下のものがある。 |
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*摂社 市杵島姫命社(祭神 [[イチキシマヒメ|市杵島姫命]]) |
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*飛地境内摂社 須賀神社(祭神 [[スサノオ|須佐之男命]]・[[クシナダヒメ|奇稲田姫命]]・[[大国主|大己貴命]]) |
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*末社 七社合殿(浅間神社・竈神社・天王社・八幡社・橘姫社・春日社・稲荷社) |
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*末社 五社神社(市神社・天神社・天白社・藤之宮神社・王子神社) |
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*末社 稲荷神社(祭神 [[ウカノミタマ|宇伽之御魂]]) |
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*境内社 焼津天満宮(祭神 [[菅原道真]]公) |
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*境内社 焼津御霊神社([[西南戦争]]から第二次大戦までの国難に殉じた焼津市出身の2500余柱の英霊を祀る) |
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*境内社 郷魂祠(第二次大戦中、東南アジアで鰹節製造業等を行うために設立された有限会社皇道産業焼津践団の殉職者300余柱を祀る) |
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== |
== 歴史 == |
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=== 概史 === |
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[[8月13日]]の[[例祭]]では、2基の[[神輿]]が激しくもみあい、「東海一の荒祭」と言われる。例祭前日には、その年に生まれた子供を抱いてくるくる転がし無事成長を願う「神ころがし」の神事が行われる。 |
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社伝では、[[景行天皇]](第12代)40年7月に日本武尊は東征に際して当地で野火の難を逃れたとし、のち[[反正天皇]](第18代)4年に日本武尊の功徳を敬って神社が創建されたとする<ref name="由緒書"/>。 |
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創建伝承にあるように、焼津神社はヤマトタケル東征の事跡を伝える神社とされる。しかし今日までの研究では、ヤマトタケルは元より実在の人物ではなく、『日本書紀』『古事記』の伝える伝説は各地の伝承を1人の人格にまとめたものとされる<ref>「日本武尊」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。</ref>。両書に記載される地名起源説話も実際には実在地名を逆に下地にした例が多いことから、焼津の起源説話に関しても「ヤキツ」が先行地名として存在したものと推測される{{Sfn|焼津神社(神々)|1987年}}{{Sfn|焼津市史 民俗編|2007年|pp=231-237}}。先行地名としての「ヤキツ」の由来は一説に、焼津地域が天然ガスの埋蔵地であることから、これがいつの時か引火して燃え続けたことによるとされる{{Sfn|焼津神社(神々)|1987年}}{{Sfn|焼津神社(式内社)|1988年}}。 |
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焼津神社付近では、[[古墳時代]]の集落跡として宮之腰遺跡が存在し、古くから人々が居住したことが知られる。また焼津神社の祭祀では、焼津市内にある御沓脱・北御旅所・神岩(現在は水没)という各神蹟が古くから重要視される{{Sfn|焼津神社(神々)|1987年}}。これらの神蹟は海岸線から神岩→北御旅所→御沓脱→焼津神社(宮之腰遺跡)のように並ぶことから、海の彼方の[[常世国]]から神を迎える「神の道」の名残りがこれらにあたると見て、このような[[常世神]]信仰が焼津神社の原祭祀であったとする説がある{{Sfn|焼津神社(神々)|1987年}}{{Sfn|焼津市史 民俗編|2007年|pp=231-237}}。この説では加えて、元々の常世神信仰を下地として焼津にヤマトタケル伝説が重層したと指摘する{{Sfn|焼津神社(神々)|1987年}}。 |
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なお『志太郡誌』によれば、焼津神社は古くは現在地の南東方向に数キロメートルの地に鎮座していたが、同地が次第に海へと変じたため、のちに現在地に遷座したとする{{Sfn|焼津神社(平凡社)|2000年}}。 |
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=== 概史 === |
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[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])成立の『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]では[[駿河国]][[益津郡|益頭郡]]に「焼津神社」と記載され、[[式内社]]に列している{{Sfn|焼津神社(式内社)|1988年}}。また『駿河国内神名帳』では、「焼頭明神(焼津明神) 坐益津郡」として、正四位下の神階を有する旨とともに記載されている。 |
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[[中世]]期には[[今川氏]]からの崇敬を受け、[[今川氏親]]からは社領として500石が寄進されたという{{Sfn|焼津神社(角川)|1982年}}{{Sfn|焼津神社(平凡社)|2000年}}。[[永禄]]4年([[1561年]])6月11日付の[[今川氏真]]朱印状(焼津神社蔵、焼津市指定文化財)では「入江大明神」と見え、社殿修理と修理費に関する徴収許可の旨が記されている{{Sfn|焼津神社(角川)|1982年}}{{Sfn|焼津神社(平凡社)|2000年}}。 |
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[[江戸時代]]に入り、[[慶長]]7年([[1602年]])には[[徳川家康]]から「入江大明神社領」として70石の朱印領が寄進され、これを幕末まで継承した{{Sfn|焼津神社(平凡社)|2000年}}。神職は今川氏親以降鈴木家が世襲し、社僧は江戸時代には真言宗入江山長福寺が担っていた{{Sfn|焼津神社(平凡社)|2000年}}。 |
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[[明治維新]]後、[[明治]]6年([[1873年]])3月22日に[[近代社格制度]]において[[郷社]]に列し、明治16年([[1883年]])6月25日に[[県社]]に昇格した<ref name="由緒書"/>。戦後、[[昭和]]41年([[1966年]])7月1日に[[神社本庁]]の[[別表神社]]に列している<ref name="由緒書"/>。 |
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=== 神階 === |
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* 正四位下 (『駿河国内神名帳』) - 表記は「焼頭明神」または「焼津明神」(写本による異同)<ref>[{{NDLDC|991014/455}} 『神社覈録 上編』](皇典研究所、1902年、国立国会図書館デジタルコレクション)455コマ参照。</ref>。 |
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== 境内 == |
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[[File:Yaizu-jinja honden.JPG|thumb|220px|right|{{center|本殿と神木}}]] |
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本殿は間口3間5尺・奥行3間4尺で、[[流造]]{{Sfn|焼津神社(式内社)|1988年}}。<!--[[江戸時代]]初期、[[慶長]]8年([[1603年]])の[[徳川家康]]による造営と伝える。:社伝以外で紹介されない(かつ文化財指定を受けていない)ので事実不詳としてコメントアウト-->拝殿は間口5間4尺・奥行3間2尺で、[[入母屋造]]である{{Sfn|焼津神社(式内社)|1988年}}。 |
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== 摂末社 == |
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摂末社・境内関係社は次の通り<ref name="由緒書"/>。 |
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'''摂社''' |
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* 市杵島姫命社 - 祭神:[[イチキシマヒメ|市杵島姫命]]。前述のように焼津神社の元社とする説がある{{Sfn|焼津神社(式内社)|1988年}}。 |
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* 須賀神社 - 祭神:[[スサノオ|須佐之男命]]、[[クシナダヒメ|奇稲田姫命]]、[[大国主|大己貴命]]。焼津5丁目に鎮座する飛地境内社({{ウィキ座標|34|51|43.43|N|138|19|8.21|E|region:JP-22_type:landmark|位置|name=須賀神社(境外摂社)}})。 |
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<gallery> |
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File:Yaizu-jinja Ichikishimahimenomikoto-sha.JPG|市杵島姫命社 |
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File:Suga-jinja (Yaizu) haiden.JPG|須賀神社 |
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</gallery> |
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'''末社''' |
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* 七社合殿 - 浅間神社・竈神社・天王社・八幡社・橘姫社・春日社・稲荷社の7社。 |
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* 五社神社 - 市神社・天神社・天白社・藤之宮神社・王子神社の5社。 |
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* 稲荷神社 - 祭神:[[ウカノミタマ|宇伽之御魂]]。 |
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'''境内社''' |
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* 焼津天満宮 - 祭神:[[菅原道真]]公。 |
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* 焼津御霊神社 - [[西南戦争]]から第二次大戦までの国難に殉じた焼津市出身の2,500余柱の英霊を祀る。 |
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* 郷魂祠 - 第二次大戦中、東南アジアで鰹節製造業等を行うために設立された有限会社皇道産業焼津践団の殉職者300余柱を祀る。 |
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<gallery> |
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File:Yaizu-jinja keidaisha.JPG|{{small|左から五社神社・本社本殿・市杵島姫命社・七社合殿・稲荷神社}} |
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File:Yaizu-jinja Yaizu-tenmangu.JPG|焼津天満宮 |
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File:Yaizu-jinja Yaizu-goryo-jinja.JPG|焼津御霊神社 |
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File:Yaizu-jinja Kyoukon-shi.JPG|郷魂祠 |
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</gallery> |
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== 関係地 == |
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* 神岩 |
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*: 焼津神社東方の海上に存在した、日本武尊が腰掛けたといわれる岩(現在は水没){{Sfn|焼津市史 民俗編|2007年|pp=231-237}}。江戸時代後期の『駿国雑志』では、神岩はすでに崩れて海中に没し、3月の引き潮時のみその姿が現れると記されている{{Sfn|焼津市史 民俗編|2007年|pp=231-237}}。 |
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* 北御旅所 |
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*: 所在地:焼津市城之腰({{ウィキ座標|34|51|48.41|N|138|19|28.78|E|region:JP-22_type:landmark|位置|name=北御旅所}}) - 焼津神社の東方約1キロメートル。 |
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*: 例祭(荒祭り)における神輿渡御の[[御旅所]]。北御旅所の沖合に神岩があり、北御旅所の地は日本武尊の上陸地になるといわれる{{Sfn|焼津市史 民俗編|2007年|pp=231-237}}。そのため他数ヶ所の御旅所とは異なり、当地でのみ特殊神饌が供えられる{{Sfn|焼津市史 民俗編|2007年|pp=231-237}}。 |
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* 御沓脱(おくつぬぎ) |
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*: 所在地:焼津市焼津6丁目({{ウィキ座標|34|51|58.57|N|138|19|5.33|E|region:JP-22_type:landmark|位置|name=御沓脱(神蹟)}}) - 焼津神社の東方約300メートル。 |
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*: 日本武尊が東征の際に休息し、老女が日本武尊に小麦飯を奉った場所と伝える<ref name="由緒書"/>{{Sfn|焼津市史 民俗編|2007年|pp=231-237}}。 |
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== 祭事 == |
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=== 年間祭事 === |
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焼津神社で年間に行われる祭事の一覧<ref name="由緒書"/>。 |
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* 月次祭 (毎月1日・15日) |
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* 御霊神社月次祭 (毎月15日) |
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* 歳旦祭、大漁祈願祭 (1月1日) |
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* 節分祭 (2月節分日) |
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* 紀元祭 (2月11日) |
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* 祈年祭 (2月17日) |
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* 春分の日当日祭、稲荷社祭 (春分の日) |
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* 大祓、夏越祈願祭 (6月30日) |
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* 御注連下し祭、市神社祭 (8月1日) |
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* 御沓脱祭、夕祭、御神楽祭 (8月12日) |
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* '''例祭'''、神幸式 (8月13日) |
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* 秋分の日当日祭、市杵島姫命社祭 (秋分の日) |
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* 天満宮祭 (9月25日) |
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* 須賀神社前夜祭・例祭 (10月16日-17日) |
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* 郷魂祠前夜祭・例祭 (10月27日-28日) |
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* 金山祭 (11月8日) |
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* 新嘗祭 (11月23日) |
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* 鎮火祭、竈神社祭 (12月17日) |
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* 天長祭 (12月23日) |
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* 除夜祭 (12月31日) |
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=== 例祭 === |
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[[例祭]]は[[8月13日]]で、前日(12日)に御沓脱祭・夕祭・御神楽祭・幟(のぼり)かつぎ・神ころがしが執り行われたのち、当日(13日)に「'''荒祭り'''」と称される神輿渡御神事が行われる。 |
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12日の祭りのうち、「幟かつぎ」は生後3年の間に幟をかついで参拝し、3年目には幟を焼津神社に奉納する成長祈願の神事である<ref name="由緒書"/>。また「神ころがし」は、幟かつぎ1年目の幼児を拝殿前の斎場で3度転がす鎮魂祈願の神事である<ref name="由緒書"/><ref name="獅子木遣り 国"/>。この「神ころがし」は、後述の獅子木遣りと併せて国の[[選択無形民俗文化財|記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財]](選択無形民俗文化財)に選択されている<ref name="獅子木遣り 国"/>。 |
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13日の神輿渡御(荒祭り)は、[[神輿]]2基(男輿・女輿)が行列とともに神幸する神事である<ref name="由緒書"/>。神輿の煽りが荒々しいほど神霊の活動が活発になるとする信仰があり、2基の神輿はもみあいながら市内を荒々しく巡るため「荒祭り」と通称される{{Sfn|焼津神社(神々)|1987年}}。神輿は焼津神社から南御旅所、北御旅所、魚市場御旅所、焼津御旅所と巡るが、このうち北御旅所が最重要視される{{Sfn|焼津神社(神々)|1987年}}。北御旅所は日本武尊の上陸地と伝え、同地では大祭式が開かれ小麦飯・牛の舌餅・櫛形餅といった特殊神饌が供えられる{{Sfn|焼津神社(神々)|1987年}}<ref name="由緒書"/>(櫛形餅は[[弟橘媛]]伝説に由来{{Sfn|焼津神社(神々)|1987年}})。神輿渡御の行列では「獅子木遣り」として、行列先頭を雌雄2頭の獅子頭と、そこから伸びる獅子幕を持った約80人ずつの少女達が木遣り歌を歌いながら練り歩く<ref name="獅子木遣り 県"/><ref name="説明板">境内説明板。</ref>。この獅子木遣りは国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(選択無形民俗文化財)に選択、および静岡県指定無形民俗文化財に指定されている<ref name="獅子木遣り 国"/><ref name="獅子木遣り 県"/>。 |
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== 文化財 == |
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=== 選択無形民俗文化財(国選択) === |
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* 焼津神社の獅子木遣りと神ころがし - 昭和53年12月8日選択<ref name="獅子木遣り 国">{{国指定文化財等データベース|312|374|焼津神社の獅子木遣りと神ころがし}}</ref>。 |
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=== 静岡県指定文化財 === |
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* 無形民俗文化財 |
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** 焼津神社の獅子木遣り - 昭和53年3月24日指定<ref name="獅子木遣り 県">[https://www.city.yaizu.lg.jp/rekimin/bunkazai/c02.html 焼津神社の獅子木遣り](焼津市ホームページ)。</ref>。 |
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=== 焼津市指定文化財 === |
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* 有形文化財 |
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** 今川氏真朱印状(古文書) - 室町時代末期、永禄4年(1561年)の[[今川氏真]]からの朱印状。平成19年10月26日指定<ref>[https://www.city.yaizu.lg.jp/rekimin/bunkazai/a41.html 今川氏真朱印状](焼津市ホームページ)。</ref>。 |
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== 現地情報 == |
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'''所在地''' |
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* [[静岡県]][[焼津市]]焼津2丁目7-2 |
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'''交通アクセス''' |
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* 鉄道:[[東海旅客鉄道]](JR東海)[[東海道本線]] [[焼津駅]] (徒歩約15分) |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
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* 神社由緒書 |
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* 境内説明板 |
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* 自治体史 |
|||
** {{Cite book|和書|author=|chapter=|year=|title=焼津市史|publisher=焼津市|isbn=|ref=}} |
|||
*** {{Wikicite|reference=「通史編 上巻」 2005年|ref={{Harvid|焼津市史 通史編 上|2005年}}}}、{{Wikicite|reference=「民俗編」 2007年|ref={{Harvid|焼津市史 民俗編|2007年}}}}。 |
|||
* 百科事典 |
|||
** {{Cite book|和書|author=[[三橋健]]|chapter=焼津神社|year=|title=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=|ref={{Harvid|焼津神社(国史)}}}} |
|||
** {{Cite book|和書|author=土岐昌訓|chapter=焼津神社|year=|title=[[日本大百科全書|日本大百科全書(ニッポニカ)]]|publisher=[[小学館]]|isbn=|ref={{Harvid|焼津神社(日本大百科)}}}} |
|||
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1982|chapter=焼津神社|title=[[角川日本地名大辞典]] 22 静岡県|publisher=[[角川書店]]|isbn=978-4040012209|ref={{Harvid|焼津神社(角川)|1982年}}}} |
|||
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2000|chapter=焼津神社|title=[[日本歴史地名大系]] 22 静岡県の地名|publisher=[[平凡社]]|isbn=4582490220|ref={{Harvid|焼津神社(平凡社)|2000年}}}} |
|||
* その他書籍 |
|||
** {{Cite book|和書|editor=明治神社誌料編纂所編|author=|year=1912|chapter=焼津神社|title=[[府県郷社明治神社誌料]]|publisher=明治神社誌料編纂所|isbn=|ref={{Harvid|明治神社誌料|1912年}}}} |
|||
*** [{{NDLDC|1088244/872}} 『明治神社誌料 府県郷社 上』](国立国会図書館デジタルコレクション)872-873コマ参照。 |
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* [http://yaizujinja.or.jp/ 焼津神社] - 公式サイト |
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* [http://shizuoka-jinjacho.or.jp/shokai/jinja.php?id=4407001 焼津神社] - 静岡県神社庁 |
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2015年8月18日 (火) 16:11時点における版
焼津神社 | |
---|---|
拝殿 | |
所在地 | 静岡県焼津市焼津2丁目7-2 |
位置 | 北緯34度51分54.14秒 東経138度18分49.12秒 / 北緯34.8650389度 東経138.3136444度座標: 北緯34度51分54.14秒 東経138度18分49.12秒 / 北緯34.8650389度 東経138.3136444度 |
主祭神 | 日本武尊 |
社格等 |
式内社(小) 旧県社 別表神社 |
創建 | (伝)第18代反正天皇4年 |
本殿の様式 | 流造 |
別名 | 入江大明神 |
例祭 | 8月13日 |
地図 |
焼津神社(やいづじんじゃ)は、静岡県焼津市焼津にある神社。式内社、旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。
旧称は「入江大明神(いりえだいみょうじん)」。ヤマトタケルの東征伝説に関わる神社として知られる。
祭神
祭神は次の4柱[1]。
『日本書紀』『古事記』の伝説によれば、ヤマトタケル(日本武尊/倭建命)は天皇の命で東征し、その途上で賊の火攻めに遭った。しかしヤマトタケルは草薙剣で草を薙ぎ、さらに向い火をつけて難を逃れた。これによりその地は「ヤキツ」(紀は焼津、記は焼遣と表記)と称される、という。この火難伝説地が静岡県焼津地域に比定され、焼津神社はその事跡を伝える神社とされる[2]。
ただしこの伝説では、「ヤキツ」の所在地を『日本書紀』で駿河国、『古事記』で相武国(相模国か)と記載し異同が存在する。このことに関しては、「相武国」を単なる誤記とする説のほか、相模国が古くは駿河国も含む広領域であったとする説、駿河・相模に「ヤキツ」が並存したとする説などがあるが明らかではない[3]。『焼津市史』では、ヤマトタケル伝説には『日本書紀』の記述の方に原初的な要素が見られることから、『古事記』の記述にはかなり後世の手が入ったと見て、『古事記』の編纂過程で関東地方の征討に重点を置いたために伝承地が本来の駿河から相模に移されたと推測する[3]。実際、『万葉集』では駿河の地名として「焼津邊」と詠まれた歌が知られる(巻3 284番)[4][5]。また平安時代中期の『和名抄』によると、駿河国には「益頭(ましづ:のちに益津)」が郡名・郷名として存在したが、これは「ヤキツ」の「焼」を忌み好字として「益」をあてたのが「マシヅ」の読みに転訛したものとされる[6][5][3]。そのほか駿河国では、同様にヤマトタケルの火難伝説を伝える式内社として草薙神社(静岡市清水区草薙)の存在も知られる[3]。
なお、祭神としては他に市杵島姫命とする説があり、『駿河国式社備考』では摂社の市杵島姫命社を元社とする説を挙げる[5]。祭神に関して、文献では中世に「入江大明神」の表記が最も早く見られ、次いで江戸時代頃から市杵島姫命説や現在見る日本武尊説が生じている[5]。
歴史
概史
社伝では、景行天皇(第12代)40年7月に日本武尊は東征に際して当地で野火の難を逃れたとし、のち反正天皇(第18代)4年に日本武尊の功徳を敬って神社が創建されたとする[1]。
創建伝承にあるように、焼津神社はヤマトタケル東征の事跡を伝える神社とされる。しかし今日までの研究では、ヤマトタケルは元より実在の人物ではなく、『日本書紀』『古事記』の伝える伝説は各地の伝承を1人の人格にまとめたものとされる[7]。両書に記載される地名起源説話も実際には実在地名を逆に下地にした例が多いことから、焼津の起源説話に関しても「ヤキツ」が先行地名として存在したものと推測される[6][8]。先行地名としての「ヤキツ」の由来は一説に、焼津地域が天然ガスの埋蔵地であることから、これがいつの時か引火して燃え続けたことによるとされる[6][5]。
焼津神社付近では、古墳時代の集落跡として宮之腰遺跡が存在し、古くから人々が居住したことが知られる。また焼津神社の祭祀では、焼津市内にある御沓脱・北御旅所・神岩(現在は水没)という各神蹟が古くから重要視される[6]。これらの神蹟は海岸線から神岩→北御旅所→御沓脱→焼津神社(宮之腰遺跡)のように並ぶことから、海の彼方の常世国から神を迎える「神の道」の名残りがこれらにあたると見て、このような常世神信仰が焼津神社の原祭祀であったとする説がある[6][8]。この説では加えて、元々の常世神信仰を下地として焼津にヤマトタケル伝説が重層したと指摘する[6]。
なお『志太郡誌』によれば、焼津神社は古くは現在地の南東方向に数キロメートルの地に鎮座していたが、同地が次第に海へと変じたため、のちに現在地に遷座したとする[9]。
概史
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では駿河国益頭郡に「焼津神社」と記載され、式内社に列している[5]。また『駿河国内神名帳』では、「焼頭明神(焼津明神) 坐益津郡」として、正四位下の神階を有する旨とともに記載されている。
中世期には今川氏からの崇敬を受け、今川氏親からは社領として500石が寄進されたという[2][9]。永禄4年(1561年)6月11日付の今川氏真朱印状(焼津神社蔵、焼津市指定文化財)では「入江大明神」と見え、社殿修理と修理費に関する徴収許可の旨が記されている[2][9]。
江戸時代に入り、慶長7年(1602年)には徳川家康から「入江大明神社領」として70石の朱印領が寄進され、これを幕末まで継承した[9]。神職は今川氏親以降鈴木家が世襲し、社僧は江戸時代には真言宗入江山長福寺が担っていた[9]。
明治維新後、明治6年(1873年)3月22日に近代社格制度において郷社に列し、明治16年(1883年)6月25日に県社に昇格した[1]。戦後、昭和41年(1966年)7月1日に神社本庁の別表神社に列している[1]。
神階
- 正四位下 (『駿河国内神名帳』) - 表記は「焼頭明神」または「焼津明神」(写本による異同)[10]。
境内
本殿は間口3間5尺・奥行3間4尺で、流造[5]。拝殿は間口5間4尺・奥行3間2尺で、入母屋造である[5]。
摂末社
摂末社・境内関係社は次の通り[1]。
摂社
- 市杵島姫命社 - 祭神:市杵島姫命。前述のように焼津神社の元社とする説がある[5]。
- 須賀神社 - 祭神:須佐之男命、奇稲田姫命、大己貴命。焼津5丁目に鎮座する飛地境内社(北緯34度51分43.43秒 東経138度19分8.21秒)。
-
市杵島姫命社
-
須賀神社
末社
- 七社合殿 - 浅間神社・竈神社・天王社・八幡社・橘姫社・春日社・稲荷社の7社。
- 五社神社 - 市神社・天神社・天白社・藤之宮神社・王子神社の5社。
- 稲荷神社 - 祭神:宇伽之御魂。
境内社
- 焼津天満宮 - 祭神:菅原道真公。
- 焼津御霊神社 - 西南戦争から第二次大戦までの国難に殉じた焼津市出身の2,500余柱の英霊を祀る。
- 郷魂祠 - 第二次大戦中、東南アジアで鰹節製造業等を行うために設立された有限会社皇道産業焼津践団の殉職者300余柱を祀る。
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左から五社神社・本社本殿・市杵島姫命社・七社合殿・稲荷神社
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焼津天満宮
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焼津御霊神社
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郷魂祠
関係地
- 神岩
- 北御旅所
- 所在地:焼津市城之腰(北緯34度51分48.41秒 東経138度19分28.78秒) - 焼津神社の東方約1キロメートル。
- 例祭(荒祭り)における神輿渡御の御旅所。北御旅所の沖合に神岩があり、北御旅所の地は日本武尊の上陸地になるといわれる[8]。そのため他数ヶ所の御旅所とは異なり、当地でのみ特殊神饌が供えられる[8]。
- 御沓脱(おくつぬぎ)
- 所在地:焼津市焼津6丁目(北緯34度51分58.57秒 東経138度19分5.33秒) - 焼津神社の東方約300メートル。
- 日本武尊が東征の際に休息し、老女が日本武尊に小麦飯を奉った場所と伝える[1][8]。
祭事
年間祭事
焼津神社で年間に行われる祭事の一覧[1]。
- 月次祭 (毎月1日・15日)
- 御霊神社月次祭 (毎月15日)
- 歳旦祭、大漁祈願祭 (1月1日)
- 節分祭 (2月節分日)
- 紀元祭 (2月11日)
- 祈年祭 (2月17日)
- 春分の日当日祭、稲荷社祭 (春分の日)
- 大祓、夏越祈願祭 (6月30日)
- 御注連下し祭、市神社祭 (8月1日)
- 御沓脱祭、夕祭、御神楽祭 (8月12日)
- 例祭、神幸式 (8月13日)
- 秋分の日当日祭、市杵島姫命社祭 (秋分の日)
- 天満宮祭 (9月25日)
- 須賀神社前夜祭・例祭 (10月16日-17日)
- 郷魂祠前夜祭・例祭 (10月27日-28日)
- 金山祭 (11月8日)
- 新嘗祭 (11月23日)
- 鎮火祭、竈神社祭 (12月17日)
- 天長祭 (12月23日)
- 除夜祭 (12月31日)
例祭
例祭は8月13日で、前日(12日)に御沓脱祭・夕祭・御神楽祭・幟(のぼり)かつぎ・神ころがしが執り行われたのち、当日(13日)に「荒祭り」と称される神輿渡御神事が行われる。
12日の祭りのうち、「幟かつぎ」は生後3年の間に幟をかついで参拝し、3年目には幟を焼津神社に奉納する成長祈願の神事である[1]。また「神ころがし」は、幟かつぎ1年目の幼児を拝殿前の斎場で3度転がす鎮魂祈願の神事である[1][11]。この「神ころがし」は、後述の獅子木遣りと併せて国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(選択無形民俗文化財)に選択されている[11]。
13日の神輿渡御(荒祭り)は、神輿2基(男輿・女輿)が行列とともに神幸する神事である[1]。神輿の煽りが荒々しいほど神霊の活動が活発になるとする信仰があり、2基の神輿はもみあいながら市内を荒々しく巡るため「荒祭り」と通称される[6]。神輿は焼津神社から南御旅所、北御旅所、魚市場御旅所、焼津御旅所と巡るが、このうち北御旅所が最重要視される[6]。北御旅所は日本武尊の上陸地と伝え、同地では大祭式が開かれ小麦飯・牛の舌餅・櫛形餅といった特殊神饌が供えられる[6][1](櫛形餅は弟橘媛伝説に由来[6])。神輿渡御の行列では「獅子木遣り」として、行列先頭を雌雄2頭の獅子頭と、そこから伸びる獅子幕を持った約80人ずつの少女達が木遣り歌を歌いながら練り歩く[12][13]。この獅子木遣りは国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(選択無形民俗文化財)に選択、および静岡県指定無形民俗文化財に指定されている[11][12]。
文化財
選択無形民俗文化財(国選択)
- 焼津神社の獅子木遣りと神ころがし - 昭和53年12月8日選択[11]。
静岡県指定文化財
- 無形民俗文化財
- 焼津神社の獅子木遣り - 昭和53年3月24日指定[12]。
焼津市指定文化財
現地情報
所在地
交通アクセス
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k 神社由緒書。
- ^ a b c 焼津神社(角川) & 1982年.
- ^ a b c d 焼津市史 通史編 上 & 2005年, pp. 216–221.
- ^ 03/0284(山口大学「万葉集検索システム」)。
- ^ a b c d e f g h i 焼津神社(式内社) & 1988年.
- ^ a b c d e f g h i j 焼津神社(神々) & 1987年.
- ^ 「日本武尊」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。
- ^ a b c d e f g 焼津市史 民俗編 & 2007年, pp. 231–237.
- ^ a b c d e 焼津神社(平凡社) & 2000年.
- ^ 『神社覈録 上編』(皇典研究所、1902年、国立国会図書館デジタルコレクション)455コマ参照。
- ^ a b c d 焼津神社の獅子木遣りと神ころがし - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ a b c 焼津神社の獅子木遣り(焼津市ホームページ)。
- ^ 境内説明板。
- ^ 今川氏真朱印状(焼津市ホームページ)。
参考文献
- 神社由緒書
- 境内説明板
- 自治体史
- 『焼津市史』焼津市。
- 「通史編 上巻」 2005年、「民俗編」 2007年。
- 『焼津市史』焼津市。
- 百科事典
- 三橋健「焼津神社」『国史大辞典』吉川弘文館。
- 土岐昌訓「焼津神社」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館。
- 「焼津神社」『角川日本地名大辞典 22 静岡県』角川書店、1982年。ISBN 978-4040012209。
- 「焼津神社」『日本歴史地名大系 22 静岡県の地名』平凡社、2000年。ISBN 4582490220。
- その他書籍
- 明治神社誌料編纂所編 編「焼津神社」『府県郷社明治神社誌料』明治神社誌料編纂所、1912年。
- 『明治神社誌料 府県郷社 上』(国立国会図書館デジタルコレクション)872-873コマ参照。
- 野本寛一 著「焼津神社」、谷川健一編 編『日本の神々 -神社と聖地- 10 東海』白水社、1987年。ISBN 4560022208。
- 池邉彌 著「焼津神社」、式内社研究会編 編『式内社調査報告 第9巻』皇學館大学出版部、1988年。
- 明治神社誌料編纂所編 編「焼津神社」『府県郷社明治神社誌料』明治神社誌料編纂所、1912年。