「Wikipedia‐ノート:表記ガイド」の版間の差分
(同じ利用者による、間の3版が非表示) | |||
794行目: | 794行目: | ||
{{コ}} 色々言いたい事はありますが、その前に「A(総理大臣)」に反対の方はいますか?「A(総理大臣)」であれば「A総理大臣」のような敬称+役職ではなく、役職だけを表記している事がわかりますし、「総理大臣のA」よりは違和感もないと思います。--[[利用者:JapaneseA|JapaneseA]]([[利用者‐会話:JapaneseA|会話]]) 2014年10月29日 (水) 16:39 (UTC) |
{{コ}} 色々言いたい事はありますが、その前に「A(総理大臣)」に反対の方はいますか?「A(総理大臣)」であれば「A総理大臣」のような敬称+役職ではなく、役職だけを表記している事がわかりますし、「総理大臣のA」よりは違和感もないと思います。--[[利用者:JapaneseA|JapaneseA]]([[利用者‐会話:JapaneseA|会話]]) 2014年10月29日 (水) 16:39 (UTC) |
||
:論外です。”ウィキペディア語”を創造するつもりですか?あくまでも通常の日本語で表記することを心がけるべきあり、現状のガイドラインによってウィキペディアの表記が普通の日本語から乖離してしまうのなら、ガイドラインを改定するべきです。--[[利用者:Uaauaa|uaa]]([[利用者‐会話:Uaauaa|会話]]) 2014年10月29日 (水) 17:42 (UTC) |
|||
:そもそも、正常な日本語を歪めてまで「役職だけを表記している事」を分からせる必要性が理解できませんね。政治家の言動は、それが私的なものだとしても公人によるものと捉えられるので、野球選手より役職を付ける必然性は高いでしょう。ガイドラインの欠陥を悪用して言葉狩りに血道を上げるのはナンセンスです。ところで、「役職だけを表記している事」を示すために「A(総理大臣)」なんて表記をしている日本語文書の例ってあるんですかね?--[[利用者:Uaauaa|uaa]]([[利用者‐会話:Uaauaa|会話]]) 2014年10月29日 (水) 18:18 (UTC) |
|||
== 全角スラッシュ(/)について == |
== 全角スラッシュ(/)について == |
2014年10月29日 (水) 18:25時点における版
- 波ダッシュについて (承前)
- 仮名について
- 仮名書きと漢字を使い分けるもの
- 「たとえば」 or 「例えば」?
- 具体的なケースについて本ガイドで確認する時の方法をガイドしておく方が親切では?
- 「良い意味で」or「よい意味で」?
- 人名につける敬称
- 数字の区切り","(コンマ)について
- 参考資料
- 英文の引用符について
- 「使用して良い → 使用していい」について
- 中黒「・」はあまり読みやすくないのですが、推奨なのですか?
- 単位の前に半角スペースを入ると文章が間延びするので反対です
- 節の内側両サイドの半角スペースは必要か不要か?
- 字體のこと
- 時分表記について
- 姓名の順序とコンマのこと
- 括弧の使い分けに関して
- 全角チルダ(~)と波ダッシュについて
- 「文字コード」を「使用可能な文字」に
- CURRENTYEARなどの原則使用禁止の提案
- 二重鈎括弧の使用
- 文字そのものについての記事の記事名
- CD名・曲名の括弧
- 著作物名について
- 括弧の使い分けの表記改訂の提案
- 括弧類の全半角使い分けをやめたい
- 数式内におけるリーダー
- 濁点・半濁点・小書き
- 故人等
- 表記ガイドが誤解を招いていることについて
- 或る(有る、在ると離る、散るがあるため)
- 文字参照の是非
- 使用してはいけないカナの説明について
- 作品名などに含まれる感嘆符についての特記
- 「旧」ユーゴスラビア
- 住所について
- 段落の途中の改行
- 表記ガイド 漢数字について 「正式表記の場合」
- 「数字」節の改変提案
- 箇条書きのスタイルについて
- やはり30時間制はおかしいのでは
- 音楽プロモーションビデオの鉤括弧表記について
- 数値と単位(どちらも半角の場合)との間隔
- 「Wikipedia:内容に関連するリンクだけを作成」への誘導加筆の件
- 過去ログ化の提案(2011年11月)
- 放送番組の日付表記について
- JIS X0208に含まれない印刷標準字体の扱いについて
- 読み仮名の付け方の例文の追加
- 読み仮名の付け方の例文についての異論提起
- 外来語の表記
- 西暦和暦併記について
- 「仮名」節の変更について3
- 姓の中のスペース
- 多桁の数字の区切りを、半角スペースに
- 保護依頼致しました
- 機械的な用語置き換えの是非
- 物理関係式の次元
- 過去ログ化の提案(2012年9月)
過去の議論
Wikipedia:表記ガイドは、Wikipedia:日本語表記法、Wikipedia:日本語環境を引きついでいます。統合前の議論については、以下のそれぞれの場所をご覧下さい。統合後の過去ログは右側のサブページをごらんください。
- 日本語表記法
- 統合前の議論 - 年月日、Wikipedia名前空間における文体、漢字表記の統一
- 日本語環境
- 2005年1月30日までの議論 - 人名表記のゆれ、ケとヶ、送り仮名、「:」と「:」の使い分け、 範囲を表す文字について、段落行頭の字下げについて、「・」(中黒・中黒点・中点)は、全角か半角か?
- 統合前の議論 - 括弧の使い分け、ハイフンのかわりのイコール(=)、「2バイト文字」の表現、リーダ、句読点、漢字とひらがなの使い分け、〜について、全角空白、漢字の選択、半角英数は絶対?、カタカナでの中点、過去の議論へのリンク希望
- 表記ガイド
- この文書が 利用者:Michey.M/書き方(初版)、利用者:Miya/書き方(時期不明)、利用者:Koba-chan/Paropedia/書き方(2005-06-02から2006-09-26) にあったころの議論 - 中黒、疑問符・感嘆符、括弧類、俗語・俗称・隠語、未分類、外来語について
- 日本語環境・日本語表記法との統合前の議論 - 「祗」、全角と半角の使い分け、人名漢字、2点リーダー、仮名書きと漢字、不等号を括弧に用いること、物故者、文字コードの記述、人名がスタイルマニュアルと重複、団体の種別と内部リンクを含む団体名、統合の提案について
検索できるのは、統合後の (= サブページ化された) 過去ログのみです。
このページでは SpBot による過去ログ化が行われています。解決済みの節に |
単位の片仮名表記
現在、単位の節では「単位は原則として片仮名・漢字」となっていますが、これには何か合理的な理由が存在するのでしょうか。個人的には「cm」「kg」を「センチメートル」「キログラム」に直されるのは鬱陶しいことこの上ないのですが…--Ltsc2335(会話) 2012年11月10日 (土) 23:34 (UTC)
- 確かにそうなっていますが、それに続けて「単位がその項目内でリンクとなっており、リンク先に説明がある場合」は「アルファベット(半角)などによる単位記号を用いることができます」となっているのですから、大した支障はないのではないでしょうか。単に初出時に「全長300 [[メートル|m]]」のようにしておけば、その後は「m」とだけ書いてもこの規定上は問題ない訳ですから。--Tam0031(会話) 2012年11月11日 (日) 12:35 (UTC)
- それならば、文章を少し変えたいと思います。今の文章では、積極的な書き換えを推奨しているように読めてしまいますので。「原則として」という表現を削った上で、表記例の「m → メートル」などを修正しても構わないでしょうか。--Ltsc2335(会話) 2012年11月11日 (日) 13:42 (UTC)
- 反応遅くなりすみません。具体的な改定文面案があれば何らかの助言ができるかもしれません。--Tam0031(会話) 2012年11月13日 (火) 14:05 (UTC)
- とりあえず、次のような案を提示します。--Ltsc2335(会話) 2012年11月15日 (木) 07:49 (UTC) 一部修正--Ltsc2335(会話) 2012年11月16日 (金) 04:07 (UTC)
- 反応遅くなりすみません。具体的な改定文面案があれば何らかの助言ができるかもしれません。--Tam0031(会話) 2012年11月13日 (火) 14:05 (UTC)
- それならば、文章を少し変えたいと思います。今の文章では、積極的な書き換えを推奨しているように読めてしまいますので。「原則として」という表現を削った上で、表記例の「m → メートル」などを修正しても構わないでしょうか。--Ltsc2335(会話) 2012年11月11日 (日) 13:42 (UTC)
Wikipedia:記事どうしをつなぐ#内容に関連するリンクだけを作成というガイドラインがあり、「項目内で初出の単位には、その単位の項目への内部リンクを設けます」はそれと矛盾しますので反対いたします。単位を記号で書きたいがため、あらゆる項目での初出に内部リンクを設けるのは本末転倒と考えます。--立花左近(会話) 2012年11月15日 (木) 11:16 (UTC)
- その場の流れで改定案を上げてしまいましたが、私は別に表記ガイドを改定したいわけではないのです。ただ、「単位は原則として片仮名・漢字」ということに対する合理的な説明がなく、過去ログにもこれに関する議論がなかったので疑問に思っただけなのです。何か理由があるのなら教えていただけないでしょうか。--Ltsc2335(会話) 2012年11月15日 (木) 12:15 (UTC)
- 私も過去ログを見ましたが、理由は分かりません。必要とお考えなら、単位を内部リンクを設けずにアルファベット表記できるように提案してはいかがでしょうか。しかしながら、これまで長年にわたり改訂の提案もされずに残ってきた箇所であり、多数の記事がそれに従って表記されているわけですから、提案する場合は広く告知をした上で議論し決定すべきではないかと思います。私自身は、現段階ではアルファベット表記の賛否は保留します。--立花左近(会話) 2012年11月15日 (木) 13:13 (UTC)
- そこまでして内部リンクを忌避する必要もないと思います。単位は記事の内容に十分関連していると思いますよ。私は、Ltsc2335さんの改定案でよいと思います。--Tam0031(会話) 2012年11月15日 (木) 13:57 (UTC)
- 反対 例えば建物の記事に高さが書かれていたり、河川の記事に長さが書かれていたりしたとして、それらの単位がどう記事の内容に関連しているのでしょうか。私は今回の改定案には明確に反対いたします。--立花左近(会話) 2012年11月15日 (木) 15:04 (UTC)
- 立花左近さんはWikipedia:記事どうしをつなぐ#内容に関連するリンクだけを作成の内容に少しこだわり過ぎではないでしょうか。ベクレルとかパスカルとかアンペアとか、いろいろな単位が使われるときに、その単位の記事にリンクしておくことは読者の理解を助けるではないですか。誰もが単位を見ただけですぐに理解できるわけではないのです。現状広くみられる、年月日を何でもかんでもリンクしているのはやりすぎだと思いますが、単位をリンクにするのは読者の役に立つことだと思います。原則リンクするというのが気になるならば、リンクを推奨する文章でも構わないと思います。--Tam0031(会話) 2012年11月15日 (木) 16:23 (UTC)
- コメント メートルとかキログラムといった義務教育レベルならまだしも、高校以上の(選択・専攻してないと学ばないような)単位や接頭辞、ヤード・ポンド法や尺貫法、過去の単位系などについては、「原則リンク必須」に近いレベルが望ましいでしょう。--氷鷺(会話) 2012年11月15日 (木) 16:42 (UTC)
- 反対 例えば建物の記事に高さが書かれていたり、河川の記事に長さが書かれていたりしたとして、それらの単位がどう記事の内容に関連しているのでしょうか。私は今回の改定案には明確に反対いたします。--立花左近(会話) 2012年11月15日 (木) 15:04 (UTC)
- コメント 以前、/過去ログ2#単位の前に半角スペースを入ると文章が間延びするので反対ですで(議論から半年ほど遅れて)書いたのですが、文章中では単位に記号を使用しない、数字と単位の間には空白を入れる、というのは欧文で一般的なルールなので、英語版等を参考にしたのではないかと思っています。ただし、実際の経緯は確認していません。
- 単位については、文脈上明らかであれば、記号を使用したほうが読みやすい場合もあるはずです(その際に内部リンクを条件とするのはおかしい、というご指摘はもっともだと思います)。
- ただ、これも以前に書いたのですが、スクリーンリーダー(音声ブラウザ等)に配慮し、記号の使用を避けている場合があるようです(たとえば秋田県湯沢市、京都府向日市、三井住友銀行など)。なお、現在のスクリーンリーダーの対応状況は把握していません。漢字かな交じり文がちゃんと読めるソフトなら、単位記号を読むのは難しくなさそうですが……。 --KAWASAKI Hiroyuki(会話) 2012年11月15日 (木) 15:31 (UTC)
- そこまでして内部リンクを忌避する必要もないと思います。単位は記事の内容に十分関連していると思いますよ。私は、Ltsc2335さんの改定案でよいと思います。--Tam0031(会話) 2012年11月15日 (木) 13:57 (UTC)
- 私も過去ログを見ましたが、理由は分かりません。必要とお考えなら、単位を内部リンクを設けずにアルファベット表記できるように提案してはいかがでしょうか。しかしながら、これまで長年にわたり改訂の提案もされずに残ってきた箇所であり、多数の記事がそれに従って表記されているわけですから、提案する場合は広く告知をした上で議論し決定すべきではないかと思います。私自身は、現段階ではアルファベット表記の賛否は保留します。--立花左近(会話) 2012年11月15日 (木) 13:13 (UTC)
コメント 『項目内で初出の』の部分について、反対します。スクロール0回で済むサブスタブならまだしも、記事の規模に関わらずそのようなことを書いてしまっては、2回目以降のリンクを(重複リンク禁止などと言いながら)削るような輩も出てきます(今も居ますが)。ごく基礎的な義務教育レベルの単位を除き、基本的には単位は「毎回」、あるいは「随所に」(読んでいる途中でリンク箇所を探さなくても済む程度に)リンクを張るべきだと考えます。--氷鷺(会話) 2012年11月15日 (木) 16:51 (UTC)
- 前述の通りアルファベット表記の単位にリンクを設けるのをルーチン化することそのものに反対ですが、念のため。氷鷺さんのご提起されたWikipedia‐ノート:内容に関連するリンクだけを作成#重複リンクのガイドラインの議論は中断してしまったようですが、こちらでそれよりも緩い基準を設定することにも(アルファベット表記の単位限定とはいえ)反対いたします。また、スクリーンリーダーへの配慮の可能性があるとすれば、アルファベット表記の単位の使用の可否は、より慎重に議論すべきと考えます。これは提案中の段階に過ぎませんが、Wikipedia:アクセシビリティ#リンクというのもあります。--立花左近(会話) 2012年11月16日 (金) 01:21 (UTC)
コメント スクリーンリーダーを考慮しないで済むのであれば,アルファベットの単位表記は導入してもいいと思います。次に文案についてですが,初出の~の内部リンクの件については除去を要請します。単位系の記事とかで内部リンクを貼るというのであれば理解はできますが,まったく関係のない記事で単位にわざわざ内部リンクを貼る必要はそもそもないでしょう。また,慣例的にSI単位系と違う単位を用いているのは,すでに紹介されている2つだけではないので,「など」の文言を入れて幅を持たせた方がいいです。例えば,栄養学の分野であれば,普通にカロリー(cal)を使いますから。--かげろん(会話) 2012年11月16日 (金) 03:03 (UTC)
- 「初出の~」については反対意見が多いようですので、除去しておきます。--Ltsc2335(会話) 2012年11月16日 (金) 04:07 (UTC)
コメント 単位の記号表記が自明かどうかは文脈によりけりだと思いますが、説明が必要な場合は“V”より、「V(ボルト)」や「V(ボルト)」と単位の名称を本文中で記述するほうが分かりやすいと思います。いかがでしょうか。 --KAWASAKI Hiroyuki(会話) 2012年11月16日 (金) 08:23 (UTC)
コメント 私もこのような単位を用いる記事を多く編集している立場としては個人的には「cm」「kg」を「センチメートル」「キログラム」に直されるのは鬱陶しいは全く同感ですが、内部リンク云々については各々の記事の事情に応じてリンクを行う、行わないを臨機応変に選択できる余地は残すべきと考えます。SI単位もなるべく用いるのが望ましい程度で、例えば華氏なども文脈によっては使用を妨げるべきではありません。--As6022014(会話) 2012年11月20日 (火) 10:25 (UTC)
HTML5 化に伴うruby要素許容の提案
「読み仮名には丸括弧()を用い、<ruby>……</ruby> は使わないでください。」という文言について、Template‐ノート:ルビにおいて提案をしていますのでぜひご覧ください。MediaWikiの出力がXHTML 1.0からHTML5に変更された今や、rubyを禁止する技術的な制約はなくなり、少なくとも現状{{ルビ}}を呼び出しているような用法はruby要素に切り替えるべきです。表記ガイドがこれに矛盾するので変更を提案するものです。 とはいえ表記ガイドとして積極的にrubyを使えと主張するものではなく、読み仮名の表記法は慣例通り丸括弧を原則としつつも、執筆者がルビの方が適切だと思う場合は必要に応じて{{ルビ}}を使用しても構わない、とガイドすることになるかと思いますが、具体的な使い分けはケースバイケースになるかもしれません。私見での一例(現状{{ルビ}}を使っている記事からの例)はリンク先にてあげております。ご意見を頂戴できれば幸いです。--朝彦(会話) 2012年12月28日 (金) 19:02 (UTC)
同じ意味で複数の漢字が使われる場合
「漢字」節には「漢字の字体は、原則として常用漢字表に従います。」と記述されていますが、厳密にはこの表現だと、同じ文字に複数の字体がある場合だけを指していて、「長編」と「長篇」のように自体の違いではなく文字そのものが違う場合までは規定していないことになります。そこで、「漢字の字体は、原則として常用漢字表に従います。同じ意味で複数の漢字が使われる場合もこれに準じます。」とすることを提案します。なお、Wikipedia:記事名の付け方でも同様の提案をしています。--アルビレオ(会話) 2013年1月19日 (土) 20:40 (UTC)
- コメント 「編」と「篇」は意味が違うという論[1]もあるようで、全く同一の意味で用いられる別の漢字というのは相当まれだと思います。単に「同音の漢字による書きかえ」を意味するのであれば積極的には賛成いたしかねます。「銓衡」→「選考」のように慣用が久しいものについてはまだしも、「毀損」→「棄損?」、「激昂」→「激高?」、「鳥瞰」→「鳥観?」のような稚拙な書き換えを潔しとはしない編集者も多いと思われ、無用の編集合戦を招くだけに思えます。--Damena(会話) 2013年1月31日 (木) 05:54 (UTC)
「ハイフン」について加筆を提案します
「ハイフン」について、現状を追認し、ルールを広く周知するために、以下の加筆を提案します。
「ハイフン」
万一、現状認識に誤りがあるようでしたら、具体的にご指摘ください。よろしくお願いいたします。 また、文章表現上の改善提案も歓迎します。--山田晴通(会話) 2013年3月16日 (土) 12:24 (UTC)
- いずれにしても正確な内容を知るには結局リンク先をあたらなければならないので、ここでは簡潔にとどめてもよいのではと思います。
- また一般論として、同じことを複数の箇所に記載すると、あとで改訂が必要になった場合に手間や取りこぼしの可能性が発生すると思うためです。--Rinopo(会話) 2013年4月7日 (日) 04:21 (UTC)
- とするのはどうでしょうか。
- ただ、現実問題としては、学術用語はハイフンの表記は対象としていなそうで、議論もあまりなされていないと理解しています。ぱっと思いついたコーシー=シュワルツの不等式や南部陽一郎を見るとハイフンの扱いは統一されていないようなので(それぞれの分野で慣用が確立しているわけでもないと思います)、むしろ人名に限定せず、原語でのハイフンは原則として全角等号とする方向で考えたほうがいいのかもしれません(この場合は鉄道関係は例外になるので、言及する必要があると思います)。 --KAWASAKI Hiroyuki(会話) 2013年4月20日 (土) 11:04 (UTC)
丸数字の使用基準作りの提案
提案 前議論にて丸数字の使用基準が曖昧という話が出ました。確かにアラビア数字、漢数字、ローマ数字にはそれぞれ使用例や例外ケースなどが書かれていますが、丸数字に関しては「丸の中に数字が入った丸数字は使用せず、代わりに (1)・(2)・(3) を使用します。」という文言だけで、丸数字を使うか否か参考にならないと思います。丸数字を全面的に禁止し(1)・(2)・(3)で代用するのであれば、その旨を記すべきだと思いますし、他の数字類と同じく例外が認められるのであれば具体例を記すべきです。私個人は、数字を丸で囲むことに大きな意味(代用数字ではカバーできないほどの意味)がある場合を除き、全面的に(1)・(2)・(3)での代用もしくはただ単にアラビア数字の1・2・3で統一し、丸数字は禁止しても構わないと思います。皆さんのご意見をよろしくお願いします。-Elma(会話) 2013年6月16日 (日) 12:59 (UTC)
- 賛成 そうですね。基本的には禁止ということで、例外を具体的に列挙する形にしましょう。ただの番号を通常のアラビア数字に代替する場合は但し書きは書かない、そして例外の場合は必ず「①(丸1)」などと併記または但し書きをするということで。個人的には
- 丸数字という「文字」そのものに言及している場合。「丸数字」の記事など。
- 固有名詞で、番号などではなく意図的に丸数字を使用している場合。読み方が「マルイチ」などと「マル」が入るものなど。(問題なく代替できる場合は括弧数字を使用する)
- 規格、法令、巻次、ページなどで、通常のアラビア数字、漢数字などと区別して丸数字が使われている場合。(問題なく代替できる場合は括弧数字を使用する)
- その他。たとえばアスキーアートやギャル文字などの事例で使用される場合や、推理小説の暗号で丸数字が特別な意味を持つ場合など。
- あたりは例外で良いと思います。--氷鷺(会話) 2013年6月16日 (日) 13:22 (UTC)
- コメントご意見ありがとうございます。私自身「具体的な例外」が殆ど思い当たらなかったので例外を挙げていただき感謝します。ガイドラインに直接関わる編集ですので、お知らせなどで告知したいと思います。他のウィキペディアンの皆様のご意見もよろしくお願いします。--Elma(会話) 2013年6月16日 (日) 14:28 (UTC)
- コメントただの番号を通常のアラビア数字に代替する場合は但し書きは書かない、←これを適用した場合、問題なく代替できる固有名詞において、丸数字かどうかの判別が不可能になりませんか?()付き数字に代替した場合の但し書きも必要だと思うのですが。--相田佳彦(会話) 2013年6月16日 (日) 20:12 (UTC)
- コメントそうですね。公の情報が丸数字であるものをアラビア数字あるいは(1)に代替した場合は節の冒頭などで「本来は丸数字が使用されているが当記事ではWikipediaのガイドラインに沿ってアラビア数字(あるいは(1) )で代替する」という旨の但し書きがあったほうがいいでしょうね。ただ単に数字(カウントや丸数字を意識していない番号付けなど)を意味する場合は但し書きは必須ではなくてもいいと思います。--Elma(会話) 2013年6月17日 (月) 14:43 (UTC)
- コメント - 丸数字のものを括弧付き数字に代替した場合に、WP:JPEによる事情を本文に書く(進撃の巨人#各話リストのようなやり方)というなら反対します。その方法は自己言及的で、読者視点としては避けたいところです(編集者への対応ならコメントアウトで示す方法があります)。そもそも、丸数字かどうかを判別する必要があるような案件こそが所謂例外事項にあたるような事例であって、ただの番号で例外とみなされないような「問題なく代替できる」場合だと、丸数字とそれ以外を判別する必要も発生しないのでは。--ButuCC+Mtp 2013年6月17日 (月) 15:23 (UTC)
- コメント 固有名詞において、例外を除いた場合に但し書きが必要あるか、無いのかについての議論だと考えますので、但し書きの記述方法(WP:JPEによる事情を本文に書くなど)については、とりあえず置いておきます。議論を戻しますが、例えば、ドリムス。(1)という記事において、上述の固有名詞の定義を適用すると、ここに含まれる丸数字の意味は一枚目のオリジナル・アルバムという順番を表す数字だと容易に考えられるため、()付き数字で表記し、本来の表記は~などという但し書きは必要ないというお考えでしょうか。--相田佳彦(会話) 2013年6月19日 (水) 11:19 (UTC)
- コメント - 丸数字のものを括弧付き数字に代替した場合に、WP:JPEによる事情を本文に書く(進撃の巨人#各話リストのようなやり方)というなら反対します。その方法は自己言及的で、読者視点としては避けたいところです(編集者への対応ならコメントアウトで示す方法があります)。そもそも、丸数字かどうかを判別する必要があるような案件こそが所謂例外事項にあたるような事例であって、ただの番号で例外とみなされないような「問題なく代替できる」場合だと、丸数字とそれ以外を判別する必要も発生しないのでは。--ButuCC+Mtp 2013年6月17日 (月) 15:23 (UTC)
- コメント氷鷺さんのコメントのその部分は例外に当たらない場合、すなわち元が丸数字であっても特に意味がないただの番号に過ぎない場合のことです。ですので丸数字がどうかを判別する必要がないわけです。--Wolf359borg(会話) 2013年6月17日 (月) 16:26 (UTC)
- コメントそうですね。公の情報が丸数字であるものをアラビア数字あるいは(1)に代替した場合は節の冒頭などで「本来は丸数字が使用されているが当記事ではWikipediaのガイドラインに沿ってアラビア数字(あるいは(1) )で代替する」という旨の但し書きがあったほうがいいでしょうね。ただ単に数字(カウントや丸数字を意識していない番号付けなど)を意味する場合は但し書きは必須ではなくてもいいと思います。--Elma(会話) 2013年6月17日 (月) 14:43 (UTC)
- 私としては、こういうのも「信頼できる情報源」に準拠して判断すべきだと思うので、具体的事例をいちいち列挙していくのではなく、例外規定としては「信頼できる情報源(特にウェブ上の情報源)において丸付き数字の使用が一般的な場合」を例外とする規定が1つだけあれば良いと思います。--Dwy(会話)(信じられない誤読をする人がいるので発言の表現を一部修正(下線部追加)--Dwy(会話) 2013年6月17日 (月) 21:31 (UTC))
- あくまで「ウィキペディア日本語版においての丸数字表記の取り扱い」の問題ですから、「信頼できる情報源(特にウェブ上の情報源)において丸付き数字の使用が一般的な場合」とは関係無い(それらの情報源で丸数字が使われていても、代替可能であれば括弧数字等にすべき)と思います。代表的な例外事例を列挙でよいでしょう。--Wolf359borg(会話) 2013年6月16日 (日) 15:56 (UTC)
- コメント それ(「信頼できる情報源」が丸数字かどうか)を基準に含めることには反対です。むしろ考慮すべきすではないでしょう。--氷鷺(会話) 2013年6月16日 (日) 16:18 (UTC)
- 多数派の専門家たちが信頼できる情報源において「代替不能」あるいは「代替しない方が良い」という判断を示しているときに、たかが素人に過ぎないWikipediaの編集者の判断の方を優先させるべき理由はないと思いますが?--Dwy(会話) 2013年6月16日 (日) 16:46 (UTC)
- コメント その『多数派の専門家たちが信頼できる情報源において「代替不能」あるいは「代替しない方が良い」という判断を示している』が独自研究でなければ良いのですけどね。この意味が分かるでしょうか。要するに、丸数字の使用を原則的に避けることにしている専門家・情報源であれば、その判断は考慮に値するでしょう。しかし、丸数字の使用を特に問題視せず「当然のように使う」のかもしれない専門家・情報源であれば、その判断はウィキペディアンの勝手な想像・独自研究に過ぎないのですよ。それこそ結局『たかが素人に過ぎないWikipediaの編集者の判断』になってしまいます。--氷鷺(会話) 2013年6月16日 (日) 17:02 (UTC)
- 丸数字の使用を特に問題視せず当然のように使う専門家の見解は、無視して良いということですか?それはおかしいでしょう。技術的制約が解消しつつある現在、そういう立場の人がいてもおかしくないですし、「信頼できる情報源」だと判断した以上は、そういう意見も当然(その勢力に応じて)尊重すべきです。丸数字禁止は何も不磨の大典というわけではないのですから。--Dwy(会話) 2013年6月16日 (日) 17:39 (UTC)
- コメント ここはウィキペディア日本語版における表記のガイドラインを定める話をしているのですが、話が逸れていませんでしょうか。丸数字の記事にWEBにおける丸数字表記の取り扱いの基準についての記述を書く話をしているわけではありませんし、WEBにおける一般的なルールを作ろうとしているわけでもありません。そもそも主張の内容が変わってきていませんか?最初はWEB上の信頼できる情報源で丸数字表記が一般的な場合を1つ示せば良い、ということだったはずです。それがいつのまにか多数派の専門家たちが信頼できる情報源において「代替不能」あるいは「代替しない方が良い」という判断を示しているという話にすり替わっています。つまり、丸数字表記の取り扱いに関する研究をしている専門家の多数派が発表している「代替不能」あるいは「代替しない方が良い」という判断、なるものを持ち出しているわけですが、それは存在するのでしょうか?ぜひ具体的に提示をお願いいたします。そういう多数派判断があれば参考にはなるでしょうから。しかし、それはウィキペディア日本語版の取り扱う記事や閲覧の事情を考慮したものでは無いはずです。それ1つだけではウィキペディア日本語版における表記のガイドラインになり得るわけがないのは解説するまでもないかと思います。--Wolf359borg(会話) 2013年6月16日 (日) 22:23 (UTC)
- 私が言いたいのは、素人にすぎないウィキペディアンが2〜3人集まって、個人的な思い込みや嗜好であれこれ議論しても、将来の編集者を真に納得させるようなガイドラインはできないということ。ガイドラインを決めるなら、まず他の百科事典や学術論文等における「慣行」を充分調査して、それに準拠して議論を進めるべきです。そして、そういう「慣行」の調査を予め網羅的に行うのが難しい場合は、「例外は、個々の事例毎に、参考にすべき事例(=記事を編集するときに参考にした「信頼できる情報源」)に準拠して判断する」というガイドラインにしておくのが一番便宜に適うのではないかと言っているのです。--Dwy(会話) 2013年6月17日 (月) 23:03 (UTC)
- コメント 素人の個人的な思い込みを述べているのはあなたでしょう。「丸数字の使用を特に問題視せず当然のように使う専門家の見解」は考慮に値しません。「原則不使用」というルールの中での運用を考えているのですから、「普通に使用する」ルールの中での専門家の表現は考慮に値しません。そもそもそれは「専門家の判断」ですらないのですよ。あなたが架空の「専門家の判断」というものに囚われているだけの話で。本当にその専門家が表記について言及していない限り、それは専門家の見解でもなんでもないのですが、この点について、まだお分かりにならないのでしょうか。--氷鷺(会話) 2013年6月18日 (火) 18:13 (UTC)
- 丸数字禁止はあくまで「原則」であって、金科玉条ではないと言っているのですが、わかりませんか?
- 丸数字を使わないことにしたのは、それがウェブ上のメディアでの一般的な慣行だからです。もしある特定の分野あるいは特定の事柄の表記において、ウェブ上のメディアでも気にせずに丸数字を使うのが一般的な慣行であれば(そういうことは滅多にないでしょうが、仮にそういうことがあった場合には)、ウィキペディアでもその慣行に従うのが当たり前です。
- なお、私の主張は「専門家が(どのように判断して)どのように表記しているか『慣行』を調べて、その『慣行』に従え」というものですが、大事なのは「慣行に従え」の部分ですから、括弧の中の(どのように判断して)の部分が引っかかるなら、その部分は省いて考えて下さい。--Dwy(会話) 2013年6月18日 (火) 22:52 (UTC)
- コメント 上の話でもそうでしたが、そういう風に都合よく曲解してしまう方に対しては「禁止」とでも説明した方が良いのかもしれませんね。そもそも外部の慣行に従うのが当然というのもDwyさんの勝手な思い込みに過ぎません。記事内容にしろ表記にしろ一般とウィキペディアとで異なるものはいくらでもある訳で、要するに「慣行に従う」という単純な発想そのものが間違いです。--氷鷺(会話) 2013年6月21日 (金) 16:31 (UTC)
- コメント 素人の個人的な思い込みを述べているのはあなたでしょう。「丸数字の使用を特に問題視せず当然のように使う専門家の見解」は考慮に値しません。「原則不使用」というルールの中での運用を考えているのですから、「普通に使用する」ルールの中での専門家の表現は考慮に値しません。そもそもそれは「専門家の判断」ですらないのですよ。あなたが架空の「専門家の判断」というものに囚われているだけの話で。本当にその専門家が表記について言及していない限り、それは専門家の見解でもなんでもないのですが、この点について、まだお分かりにならないのでしょうか。--氷鷺(会話) 2013年6月18日 (火) 18:13 (UTC)
- 私が言いたいのは、素人にすぎないウィキペディアンが2〜3人集まって、個人的な思い込みや嗜好であれこれ議論しても、将来の編集者を真に納得させるようなガイドラインはできないということ。ガイドラインを決めるなら、まず他の百科事典や学術論文等における「慣行」を充分調査して、それに準拠して議論を進めるべきです。そして、そういう「慣行」の調査を予め網羅的に行うのが難しい場合は、「例外は、個々の事例毎に、参考にすべき事例(=記事を編集するときに参考にした「信頼できる情報源」)に準拠して判断する」というガイドラインにしておくのが一番便宜に適うのではないかと言っているのです。--Dwy(会話) 2013年6月17日 (月) 23:03 (UTC)
- コメント ここはウィキペディア日本語版における表記のガイドラインを定める話をしているのですが、話が逸れていませんでしょうか。丸数字の記事にWEBにおける丸数字表記の取り扱いの基準についての記述を書く話をしているわけではありませんし、WEBにおける一般的なルールを作ろうとしているわけでもありません。そもそも主張の内容が変わってきていませんか?最初はWEB上の信頼できる情報源で丸数字表記が一般的な場合を1つ示せば良い、ということだったはずです。それがいつのまにか多数派の専門家たちが信頼できる情報源において「代替不能」あるいは「代替しない方が良い」という判断を示しているという話にすり替わっています。つまり、丸数字表記の取り扱いに関する研究をしている専門家の多数派が発表している「代替不能」あるいは「代替しない方が良い」という判断、なるものを持ち出しているわけですが、それは存在するのでしょうか?ぜひ具体的に提示をお願いいたします。そういう多数派判断があれば参考にはなるでしょうから。しかし、それはウィキペディア日本語版の取り扱う記事や閲覧の事情を考慮したものでは無いはずです。それ1つだけではウィキペディア日本語版における表記のガイドラインになり得るわけがないのは解説するまでもないかと思います。--Wolf359borg(会話) 2013年6月16日 (日) 22:23 (UTC)
- 丸数字の使用を特に問題視せず当然のように使う専門家の見解は、無視して良いということですか?それはおかしいでしょう。技術的制約が解消しつつある現在、そういう立場の人がいてもおかしくないですし、「信頼できる情報源」だと判断した以上は、そういう意見も当然(その勢力に応じて)尊重すべきです。丸数字禁止は何も不磨の大典というわけではないのですから。--Dwy(会話) 2013年6月16日 (日) 17:39 (UTC)
- コメント その『多数派の専門家たちが信頼できる情報源において「代替不能」あるいは「代替しない方が良い」という判断を示している』が独自研究でなければ良いのですけどね。この意味が分かるでしょうか。要するに、丸数字の使用を原則的に避けることにしている専門家・情報源であれば、その判断は考慮に値するでしょう。しかし、丸数字の使用を特に問題視せず「当然のように使う」のかもしれない専門家・情報源であれば、その判断はウィキペディアンの勝手な想像・独自研究に過ぎないのですよ。それこそ結局『たかが素人に過ぎないWikipediaの編集者の判断』になってしまいます。--氷鷺(会話) 2013年6月16日 (日) 17:02 (UTC)
- 多数派の専門家たちが信頼できる情報源において「代替不能」あるいは「代替しない方が良い」という判断を示しているときに、たかが素人に過ぎないWikipediaの編集者の判断の方を優先させるべき理由はないと思いますが?--Dwy(会話) 2013年6月16日 (日) 16:46 (UTC)
- メモ この位置にあったコメントは氷鷺さんのコメントに対する質問でしたので、適切な位置に移動させていただきました。--Wolf359borg(会話) 2013年6月17日 (月) 16:26 (UTC)
(インデント戻す)氷鷺さんのご意見を支持します。ここで論じられているのは所詮ウィキペディア日本語版のローカルルールに過ぎず、専門家の見解は関係ありません。
仮に「専門家の慣行を調べて従え」とお考えなのであれば、ぜひとも調査結果をご披露ください。ここで決めているローカルルールが、「専門家の慣行」とやらに合致しているかもしれないし、合致していないかもしれない。当の「慣行」を確認できる文献も無い、今の時点では「専門家の慣行」を云々したとしても、「かもしれない」に過ぎない「素人の空想」以上でも以下でもありません。
さて、それではどんなものがあるか。個人的な関心も無いではないので、簡単にいくつか思いつくものを調べてみました。
国立国会図書館による書誌データ作成上の規則が公開されており、その一部に文字種の取り扱い基準と題するページで公開されている2012年1月以降の基準の「2. Unicode基本多言語面(U+0000-FFFF)内のコード値を持つ文字の取扱い」では
Unicode基本多言語面内のコード値を持つ文字でも、下記①~③のいずれかに該当する場合は、当該文字を使用しない。(中略)②Unicode基本多言語面内のコード値を持つ文字が、○や□で囲まれた合成文字である場合は、○や□の中の文字を( )、「 」で囲んだ形に置換える。 — 国立国会図書館による書誌データ作成上の文字種の取り扱い基準2012年1月以降
丸数字にある通り、丸数字はUnicode基本多言語面(U+0000-FFFF)の範囲に収録されていますが、国立国会図書館による書誌データ作成に際しては()[]囲いへの置き換えが規定されています。なおかつ、この置き換えを行った場合、日本目録規則適用細則の例えば「第2章 図書」では2.0.6.3項で上記基準に従うことを前提とし、
タイトルと責任表示に関する事項においては,数字は原則としてそのままの形で転記する。漢数字とアラビア数字等,情報源により表示の文字種が異なる場合,原則としてアラビア数字を記録する。表示の違いについては注記しない。その他の書誌的事項においては,数量や順序などを示す数字はアラビア数字とする。 — 国立国会図書館 日本目録規則適用細則 第2章 図書2.0.6.4項
としており、「表示の違いについても注記しない」「数量や順序などを示す数字はアラビア数字」としています。本件の発端となったエピソードの添え数字について関連する部分として挙げられるのは、同文書の「2.1.6 巻次,回次,年次等及び部編名」というセクションにある2.1.6.2(記録の方法)項でしょう。
所定の情報源に表示されている形で記録する。巻次等については,数字はアラビア数字を用いる。 — 国立国会図書館 日本目録規則適用細則 第2章 図書2.1.6.2項
国立国会図書館がその蔵書目録に対する検索サービスをウェブで公開しているのは言うまでもなく、そして日本で唯一の納本図書館として日本における全国書誌の専門機関であるのは無論のことです。
科学技術振興機構による科学技術情報流通技術基準(SIST)事業の成果が公開されています。「学術論文の執筆と構成」と題されたSIST08では「5.構成要素の記載要領」の下位に「5.6.2 用字用語,記号等」「5.6.3 見出しの番号付け」「5.6.4 図・写真・表の番号付け」などがあります。「5.6.2」では
用字用語,記号,符号,単位,並びに学術用語及び学術的名称(動植物の学名,病名,化合物名等)の表記は,ISO等の標準化関連国際組織及び国内組織による基準に従う。 — SIST08
とあり、次の「5.関連基準」にJIS Z 8202シリーズ:2000が挙げられています。JIS Z 8202シリーズ:2000はやはりウェブで公開されており、日本工業標準調査会で閲覧することができます(検索語は「Z 8202」)。量及び単位-第0部:一般原則を見ただけですが、丸数字が用いられている(まして丸数字が原則)とは理解できませんでした。
同じくSISTの「参考文献の書き方」と題されたSIST02の「3.3 表記法」には、
3.3.1 言語及び文字
書誌要素は,そこで用いられている言語及び文字で記述することを原則とする。 — SIST02
とある一方で、次の「4.書誌要素の記述と構成」セクション配下では
4.3.5 雑誌の巻数・号数
(1)巻数・号数は,アラビア数字で統一する。 — SIST02
と述べられています。「そこで用いられている言語及び文字で」という文言から、丸数字が用いられた場合は従うことを求めていると理解できますが、丸数字が原則であるというのとは別のことです。
日本心理学会の学会誌投稿規程である2005年版 執筆・投稿の手びき<修正版>はその点明快であって、「1.4 数字・数式」において
1.4.1 数字 数を表示する場合は,原則として算用数字を用いる。 — 2005年版 執筆・投稿の手びき<修正版>
と明言しています。
これらは「専門家の慣行」の全量ではありえませんが、専門家集団ごとにブレがあるという傾向は推定できるでしょう。逆に、丸数字が原則というものはこの範囲には見当たりません(これは完全な不在証明ではなく、一定の範囲での限定的な不在証明であり、「全く存在しない」という全称命題とは異なります。しかし、同時に「丸数字が原則」という慣行が「存在する」という命題を立証するものでもありません)。したがって、実用的な水準で一貫性があり、各種の機器での表示・閲覧に支障が無いことに配慮されており、規格・法令など表記法と文書の体系性が関連している場合を例外とするなど、適切な例外が考慮されている限り、「丸数字を用いない」という原則にしたがった表記のガイドラインを採ることに何か問題があるかといえば無く、単に決め事の範囲でしかありません。こうした観点から、例外まで含めて現時点では氷鷺さんの案は(最善かどうかは分からないが)適切であると判断し、支持します。
さて、これらに限らず学会誌の投稿規程の類や各大学ごとの論文執筆のガイドラインなどは、「投稿規程」「文献参照法」などといった類の適切なキーワードにより多数が容易に発見できます。「ウェブ上のメディアでも気にせずに丸数字を使うのが一般的な慣行」であるような慣行を持つ専門家集団がいるのであれば、それは大変興味深い事柄であり、 ぜひともかかる専門家集団の慣行を示す文献をご提示いただきたいと思います。具体的な探索もせず、提示も出来もしないのにあれこれ言っているのだとすれば、それこそ「素人の空想」で議論に容喙しているに過ぎませんので、議論の妨げはお控え願います。なにより、そもそも原則を論じようとしているところで例外を先行させるのも意味が分かりませんし、記事を書かない人にとっては原則がどうなっていようが困りもしないのに容喙する意味がよく分からないのですが。--ikedat76(会話) 2013年6月19日 (水) 14:04 (UTC)一部修正。--ikedat76(会話) 2013年6月19日 (水) 17:19 (UTC)
- ここでは、どのような場合に「例外」を認めるのかを議論しています。「原則」について長々と論じられても全く何の役にも立ちません。「議論の妨げはお控え願います」というお言葉を、そっくりそのままikdat76さんにお返ししましょう。
- それから、ikdat76さんの頭の中には「読者」というものが全く存在しないようですね。ikedat76さんのご発言は、「記事を書かない読者の評価や要望なんかに耳を貸すつもりはないから、黙っていろ」と言っているように聞こえます。私からみれば、信じられないくらい独りよがりな態度と言わざるを得ません。--Dwy(会話) 2013年6月19日 (水) 22:58 (UTC)
- 例外は原則に伴ってしか発生し得ません。したがって、例外を論じるのであればまず原則がどこにあるのかを考えなければなりません。したがって、原則がどこにあるかを確認する作業は例外の確定の上で、論理的に必須であり、だからこそ上のような投稿をしております。
- 原則であれ例外であれ、ルールを決めるのであれば「素人にすぎないウィキペディアンが2〜3人集まって、個人的な思い込みや嗜好であれこれ議論しても」意味が無く、「専門家の慣行」を調べて従うべきだ、という考えを表明されたのは何よりDwyさんご自身です。私が上に挙げた例は極めて限られたものであっても、いずれも専門家によるものですが「慣行」のような曖昧さの残るものではなく、明文規定のものばかりです。こうしたものを調査することは、何よりDwyさんご自身のお考えを尊重したものに他なりませんが、その調査結果について一言も言及が無いのは訝しいことです。
- 「「読者」というものが全く存在しない」と仰せですが、私は氷鷺さんの案に賛同を表明するにあたり「各種の機器での表示・閲覧に支障が無いことに配慮されており」という観点を含めており、失当と考えます。考慮漏れが存在するというのであれば、それは具体的にご教示いただきたく存じます。
- お気づきでないようですが(記事を書かないから具体的に把握できないのでしょうが)表記ルールがいかに整備されたところで、表記ルールそれ自体が読者のためになるわけではありません。読者に届くのは書き手たちのアウトプットであり表記ルールではありません。書き手たちアウトプットを生成する上での補助を与えるのが表記ルールであり、書き手たちが実務上運用し得ないようなルールでは無意味です。もちろん、日本語をクリンゴン文字で書けとかそういう理不尽な表記ルールは論外です。私が申し上げていることも氷鷺さんの案も、せいぜい読者への配慮と書き手の実務との妥協点として実務的なものと言ってよいでしょう(上の例で言えば、SISTと日本心理学会を足して2で割った、とでも例えられましょうか)。それに何よりもここで問題となっているのはたかだかウィキペディア日本語版の表記ルールというローカルなルールに過ぎず、ウェブ上で?の理想的な表記ルールを定めることではありえませんし、そのような概念に「専門家」たちとって一致しえるものではありますまい。
- さて、何よりも「素人」の考えを廃し「専門家の慣行」を推されたのはDwyさんご自身でしょうし、確かに数時間程度の調査結果でしかありません。しかしながら、私の報告に対し、当方に対する非難のみに終始されたようで残念でなりません。私の考えや調査結果などというものは、自覚しておりますが確かに素人のそれでしょう。であるならば、ぜひとも「ウェブ上のメディアでも気にせずに丸数字を使うのが一般的な慣行」であるような慣行を持つ専門家集団も含めて、ご自身の見識と調査結果に付きご教示いただけませんでしょうか。
- なお、当方個人について云々することは議論と無関係ですので、Dwyさんは私の調査結果を無視していただき、ご自身の見識と調査結果について投稿をお願いいたします。当方個人についてさらに何か述べることをお望みであれば、Wikipedia:コメント依頼なりいずこかの適切な場所をご利用いただき、議論の妨げを生じさせないよう重ねてお願い申し上げます。--ikedat76(会話) 2013年6月20日 (木) 10:59 (UTC)
- コメント「丸の中に数字が入った丸数字は使用せず、代わりに (1)・(2)・(3) を使用します。」から変える必要性を感じません。例外は「丸数字という「文字」そのものに言及している場合。「丸数字」の記事など」だけで良いと思います。ページ番号などに数字をまるで囲んだデザインがあったとしてそれを一つの文字だと思うのは妥当ではありません。大体マル123とかはコードがないわけです。--T6n8(会話) 2013年6月20日 (木) 15:27 (UTC)
- コメント丸数字にも文字コードはあります。でなければ、機種依存だろうがなんだろうが、表示できるわけがないのです。いい加減な理解で適当なことを言っても意味がありません。--ikedat76(会話) 2013年6月20日 (木) 22:35 (UTC)
- コメント落ち着いてください。T6n8さんが例に上げているのは123(百二十三)を丸で囲ったページ番号の表記の話だと思います。私の理解が正しければ丸50までしかなかったはずです。--Wolf359borg(会話) 2013年6月20日 (木) 22:53 (UTC)
- コメント丸数字にも文字コードはあります。でなければ、機種依存だろうがなんだろうが、表示できるわけがないのです。いい加減な理解で適当なことを言っても意味がありません。--ikedat76(会話) 2013年6月20日 (木) 22:35 (UTC)
正直なところ、Dwyさんが何に対して異論を唱えているのかよくわかりません。
- 順序を表す数字であれば、○囲みに意味は無いので、数字だけを示せばよい
- 順序を表す以外に数字を〇で囲む用例はありうる(し、実際に存在する)ので、その場合には○囲み数字の使用を許容する
- 順序以外での○囲み数字の使用例を、許容される使われ方として列挙してみた
という論旨と理解していました。最初にDwyさんが異議を唱えられたのは3番目の点だったように解釈しています。「列挙が網羅的でないから意味がない」ということで良かったのでしょうか? 「列挙されているのが順序以外に有意な用例のすべてである」とは言われてないし「その他、〇で数字を囲むことが有意な事例では許容する」と容易に解釈しうるとおもうのですが。明言されていないのが不安ということであれば「その他、〇で数字を囲むことが有意な事例では許容する」と付記すればいいだけの話ですよね。--Cossy(会話) 2013年6月21日 (金) 12:37 (UTC)
- コメント実際の用例で該当する箇所があるため、本議論の推移を見守っています。札幌市営地下鉄#乗車料金の運賃表で、区分に「②区」があります。丸囲み数字は札幌市交通局発行の案内などにも使われておりますが、記事では丸囲みを使わないように「(2)区」と置き換えています。ここに関しては使用に問題がないようであれば変更を考えていますが、Cossyさんが例示した2番目にあたるものと考えており、これが採用されれば変更したいところではありますが。議論中の案件であることもありそのままにしておりますが、推移を見守りたいと思います。--HOPE(会話) 2013年6月21日 (金) 13:00 (UTC)
- コメント議論が白熱しているようですね。当初の提案は「丸数字の使用基準」を明確にすることです。前議論での経緯もあり、またHOPEさんの事例のようなケースも多く存在します。cossyさんも挙げられていますが、「丸数字は原則禁止としておくが、丸数字そのものに意味を有する場合については丸数字の使用を該当記事のノートページ等で検討をしてもよい」ということです。
- 実際、現状の表記ガイドでは丸数字と同じ文字化けの理由で、ローマ数字についてはアルファベットで代用することが決められています。これに倣って丸数字も代用を原則としてはどうかということです。ただし丸数字は多くの場所で使われており、また数字を丸で囲むことに大きな意味を持つ場合もあるため、例外を作って丸数字使用の基準を明確にしよう、ということです。まとめると
- 丸数字を使用せず代替文字で対応するケース
対象の出典等で丸数字が使われているものの、その丸数字が単なるカウント・数字としての意味しか持たないもの(例えば本編とは別の口絵のページ数や、本の巻数など) - 丸数字の使用を検討するケース
対象の出典等で丸数字が使われており、その丸数字に固有の意味が含まれているもの(例えば丸数字を利用したボードゲームや、技術・工業的に丸数字が重要な意味を持つ場合など)
- 丸数字を使用せず代替文字で対応するケース
- であり、丸数字の使用を検討するケースの例を何個か挙げて、ある程度の丸数字のガイドラインを提示できれば混乱も少なくなるのではないか、ということです。--Elma(会話) 2013年6月21日 (金) 14:08 (UTC)
- コメントまず具体例で判断するのは良いことですね。HOPEさんの示された例だと市の料金表ページに従って「マル2区」としておくので良いと思います。
- 話はそれますが、ローマ数字をアルファベットで書くのは代用ではなくて本来のやり方に従うということだと理解するほうが良いと思います。縦書きの活字を入れるときは、合字に対するコードポイントとして一定の意味はあったかもしれないけど、ローマ数字は本来アルファベットをならべるもので、横書きで考えるときは中途半端なまとめ文字は不必要です。--T6n8(会話) 2013年6月21日 (金) 14:47 (UTC)
- コメント どんな場合に「〇で数字を囲むことが有意」かどうかについては、様々な意見がありえます。一方の極端には「原文を忠実に転記することには常に意味がある」という見解があるでしょうし、反対の極端には「文字化けしてしまったら何の意味もありえないのだから、そういうリスクは常に避けるべき」という見解があるでしょう。私から見ればどちらにも一理あって、どちらが正しいとは言えないように思います。更に、その両極端の間に無数の立ち位置がありえて、それらの無数の立ち位置の一つ一つが(少なくともその論者にしてみれば)それなりの根拠と説得力を持っているはずです。そういう状況では、何を例外にすべきかを直接議論しても、将来の編集者を納得させるコンセンサスはなかなかできないような気がする。これが私の懸念です。だから、参考になりそうなメディアがどのように表記しているか「慣行」を調べて、その「慣行」に従うことにしようよと提案したわけです。
- その意味で、上でikedat76さんが「慣行」を調べてくださったのは大変ありがたかったです。ただ、どのような「慣行」になっているかについては、ikedat76さんと、ikedat76さんの跡を追って検証してみた私とでは、かなり認識に違いがあります。
- まず、国会図書館の「慣行」についてですが、こちらの検索結果を見る限り、実際にはikedat76さんのおっしゃるような運用にはなっていないようで、どちらかといえば「数字は原則としてそのままの形で転記する」を実行しているように見えます。大体、上で引用されている「下記①~③のいずれかに該当する場合は、当該文字を使用しない。(中略)②Unicode基本多言語面内のコード値を持つ文字が、○や□で囲まれた合成文字である場合は、○や□の中の文字を( )、「 」で囲んだ形に置換える」自体が、「下記①~③」とか丸数字使いまくりで、ちょっと笑ってしまいます。私もちょっと意外でしたが、国会図書館の人たちは「ウェブ上のメディアでも気にせずに丸数字を使うのが一般的な慣行」であるような慣行を持つ専門家集団かもしれません。
- 意外な結果に驚いて、ついでに科学技術振興機構と日本心理学会のサイトにおける「慣行」もググって調べてみました。こちらが科学技術振興機構の検索結果。こちらが日本心理学会の検索結果。どちらも丸数字を避けているようには見えません。
- 検索方法等に間違いがあるならご指摘いただきたいのですが、そうでないなら、元が丸数字の場合、書き換えずにそのまま転記しても良いような気がしてきました。--Dwy(会話) 2013年6月21日 (金) 15:56 (UTC)
- コメント 『まず、国会図書館の「慣行」についてですが、こちらの検索結果を見る限り、実際にはikedat76さんのおっしゃるような運用にはなっていないようで、どちらかといえば「数字は原則としてそのままの形で転記する」を実行しているように見えます。』とのことですが、まさか検索結果が意図するものか確認もせず、ただ最初の件数だけを見て、自分に都合が良いと誤解でもされたのでしょうか。まさかこれで騙せると思ったわけではないでしょうが、杜撰な調査で虚偽の報告をするような真似はやめてください。--氷鷺(会話) 2013年6月21日 (金) 16:15 (UTC)
- コメント国会図書館の立ち位置はよくわかりませんが、科学技術振興機構と日本心理学会はインターネット上での文字表記に関心を持っている専門家集団とは思えないです。さまざまな組織や専門家集団の慣行を参考にして議論するのもよいとは思いますが、再度申し上げますけれども、それはウィキペディア日本語版の取り扱う記事や閲覧の事情を考慮したものでしょうか?議論の混乱を招いた発端の2013年6月16日 (日) 15:44 (UTC)の発言を、そろそろ撤回する頃合いではないでしょうか。--Wolf359borg(会話) 2013年6月21日 (金) 16:44 (UTC)
- コメント国会図書館の文字種取り扱い基準を再確認しましたが、上記まとめは私の誤読を含んでいたので該当部分に抹消線を追加しました。もっとも、国会図書館の書誌データは確かに丸数字を使っていますがUnicode多言語面の範囲内に収まる限りのことであって、多言語面に収録されない文字は「私用面(U+E000-F8FF)」を使用しないとも明言しています。「気にしない」のではなく、Unicode多言語面の範囲の文字種であることを「気にして」使っているというのが正しい要約でしょう。
- 心理学会の投稿規程は学会誌への投稿論文に対するもので、それ以外に適用されるものではありませんから、投稿論文(なおかつ件の投稿規程にしたがって査読がなされるようになって以降に査読されたもの)でなければ何が出てきようが、そうですかとしか言いようがありません。SISTのものは提案であって、強制ではないのですから、それに従っていないものが出てこないところで不思議ではありません。どちらにせよ、文書の性格を全く理解せずにググっただけで異論を言えたつもりになっているだけ、「杜撰な調査で騙し」という言葉の通りですね。
- どちらにせよ、これらは全量調査でも何でもありませんし、原則の上でブレがありそうだという推定にさして影響はありません。
- さて、「影響はありません」と書きました。これ、ほんとでしょうか。そもそも上記3つの機関の公表物だけを見て云々することの適切さはどうなんでしょうか。ひょっとしたら、これも「素人の~」かも知れませんね。であるとすれば、そこで「気にしない」例が見つかったからとしもて、それこそ「素人の」適当な調査結果かも知れませんよね。Dwyさんが突っ込むべきところって、ここじゃないんですか?
- で。ご自身の調査結果と見識はいつ示していただけるのでしょうか。私の調査結果ではなく、Dwyさんご自身の調査結果をです。それとも自分では調査もせず、「ウェブ上のメディアでも気にせずに丸数字を使うのが一般的な慣行」(国会図書館のそれはこれとは違います)とかいう空想上の存在を云々して、いつまでも納得しないおつもりでしょうか。まあ、理想の表記法とやらを求めたければ勝手にやっていればいいんじゃないでしょうか。ここで必要なのは、今記事を書こうとしている人が実務的に使うことが出来て、読者の閲覧性を確保できるルールでしかありません。--ikedat76(会話) 2013年6月21日 (金) 17:42 (UTC)
- いちおう念のためお聞きしますが、これの2・3頁目やそれ以降、それぞれの書誌情報や、資料種別を切り替えた表示を確認されました?(されていたらすみません) --氷鷺(会話) 2013年6月21日 (金) 18:05 (UTC)
- 私が調べたところでは3ページ目の途中までマル数字が出てきていて、つまり37件くらい処理が漏れたという状況と認識しました。全体の件数に比べれば、まあ、がんばったけど残ってしまった程度と理解するので良いと思います。--T6n8(会話) 2013年6月21日 (金) 21:08 (UTC)
- コメント氷鷺さん、T6n8さん、お二人ともフォローありがとうございます。早朝に寝ぼけながら書くもんじゃありませんね。ああ、それから、「文字種取り扱い基準」、それ、書誌データじゃありませんから、そりゃあ適用対象外でしょう。丸数字が出てこようが外字が出てこようが驚くところじゃありません。
- Wolf359borgさんの「インターネット上での文字表記に関心を持っている専門家集団」のご指摘はその通りといえば、まあその通り。でも、それってどんな人たちなんでしょうね。具体的に示されるおつもりはさっぱりないようですので、「専門家の慣行」と思えるものを見繕ったのですけれど。そもそも、それってDwyさんが本当はつっこまなきゃいけないところですけれど、これっぽっちもお気づきいただけませんでした。まあ、自分では調査もしない、意見も無いけれど文句だけは言いたいっていう姿勢に見合ったやり方で、はあ、そうですかっていう程度のものでしかありませんが。「ウィキペディア日本語版の取り扱う記事や閲覧の事情を考慮した」っていうのであれば、もう原則禁止、これでたくさんだと思うんですが。--ikedat76(会話) 2013年6月22日 (土) 09:09 (UTC)
- (氷鷺さんへ)「最初の件数」のことなんか私は何も言っていませんし、最初の2・3頁だけでも無視できないくらいの件数が確実にあるわけですから、「杜撰な調査で虚偽の報告」のような非難を受けるいわれはありません。私としては「どちらかといえば…に見える」という感想を述べただけですし、「検索方法等に間違いがあるならご指摘いただきたいのですが」と言っているのだから、異論があれば穏やかに指摘すれば済むことで、 あなたがなさったような無礼な言いがかりは不愉快です。
- (T6n8さんへ)私が確認しているところでは、37件より、もう少したくさん丸数字が使われています。まず、「タイトル」の欄に丸数字を使っているのが少なくとも80件弱あります。それから、「要約・抄録」欄に丸数字が使われているデータも何十件かは存在しそうな感じです。更に、「目次」データ等のなかにも丸数字が使われているものがあります。検索システムの詳細がわからないので正確な総件数は把握できませんが、その存在を見逃すほど小さい数ではないと思います。「処理漏れ」の可能性は否定しませんが、そう考えるには多すぎる件数のような気がしています。--Dwy(会話) 2013年6月22日 (土) 17:09 (UTC)
- 私が調べたところでは3ページ目の途中までマル数字が出てきていて、つまり37件くらい処理が漏れたという状況と認識しました。全体の件数に比べれば、まあ、がんばったけど残ってしまった程度と理解するので良いと思います。--T6n8(会話) 2013年6月21日 (金) 21:08 (UTC)
- いちおう念のためお聞きしますが、これの2・3頁目やそれ以降、それぞれの書誌情報や、資料種別を切り替えた表示を確認されました?(されていたらすみません) --氷鷺(会話) 2013年6月21日 (金) 18:05 (UTC)
コメント確かにそれぞれの立ち位置で見解が変わるという意見は理解できます。私は「丸数字は文字化けの可能性があるから使わないほうがいい」という立場の意見を持っており、その意見は変わっていませんが「原文を忠実に再現する」「出典を元に記述する」という意見も十分考えられますし、納得できます。その中で大方の人間が満足するであろう「妥協点」(言い方が不適切かもしれませんが)を見つける必要があると思います。以下はOSシェアでのMacなど細かい部分を無視した粗い意見ですが
- 丸数字を認めるとするなら
- 丸数字を規制し続けるとするなら
- Android4.1のFirefox20.0では丸数字は21以上は表示できない。スマートフォンの普及でAndroid端末から閲覧するユーザーも相当数いると思われる
- 2013年4月時点でのOSのシェアではWindowsの90%の内38%はWindowsXPである(標準では丸数字は20までしか見ることができない)
- 文字化けの可能性が捨てきれない
OSシェア参考情報(マイナビニュース)
改めて非常に難しい問題だと思います。20までは表示できる環境が多いですので、20までに限って緩和するということを考えてもいいのではないかと思います。--Elma(会話) 2013年6月21日 (金) 17:00 (UTC)
- コメント 妥協点を探るというのももちろんアリですが、適切に表示されるか不確かなものということには変わりはなく、そもそも現状jawpで丸数字の使用を主張する方もあまりおらず、「もしかしたら伏線があるかもしれない」「出典で専門家が使っている」などと無闇に使いたがる方々に対して譲歩する意味があるのか、疑問に思います。世の中の使用例の大半は、わざわざ丸数字を「使わなければならない」意味というのはない訳で、それをわざわざ使う「書く側の迷惑な自己満足」を許容する気にはなれません。言ってしまえば、少し前にあった「或いは」とか「然し」の表記を認めろといった主張と似たようなものかと。--氷鷺(会話) 2013年6月21日 (金) 17:23 (UTC)
- コメント 例外を含み文字コードとして丸数字の使用を完全に禁止しないのであれば、そのような流れで「丸数字を使用する場合は20まで使用しても良い」とすることは可能だと思います。ですが、現状は原則がどのような形になるのか、例外はどのように認めるのか、という段階であると思います。--Frozen-mikan(会話) 2013年6月21日 (金) 18:48 (UTC)
コメント何度か書き込んでいますが、私は「20までに関わらず全面禁止(例外あり)」という形の原案が最善と考えています。その中で、使用賛成派の立場も考えて可能性を述べているまでです。端的に言えば「意味があるなら使い、ただの数字ならアラビア(代替)を使う」ということです。具体的な例外としては、「各対象(工業や医療など)において丸数字が重要な意味を持っており、それを記事上で記述しなければならない場合のみ」です。改めて確認しますが、「丸数字は原則使うべきでない(例外を認める)」という意見には賛成と考えてよろしいのでしょうか。--Elma(会話) 2013年6月21日 (金) 23:38 (UTC)
- 少なくとも私は、一番上で表明したとおり、「全面禁止(例外あり)」を支持しています。--氷鷺(会話) 2013年6月22日 (土) 07:18 (UTC)
- 同じく。そもそもが原則禁止なのです。妥当な例外だって定めてあるのだから、理想のウェブ上での表記法とか専門化がどうとかいう訳の分からない茶々が入っていなければ、もう結論なんか明らかだと思うんですけれども。--ikedat76(会話) 2013年6月22日 (土) 09:09 (UTC)
- 原則禁止については、最初から誰も異論を唱えていません。「ここでは、どのような場合に『例外』を認めるのかを議論しています」と申し上げたのに、意味もなく余計な原則論を語り始めたのはikedat76さん自身であることを自覚してください。
- それから、随分簡単に「妥当な例外」などと言ってくれてますが、その例外が「妥当」だと言う根拠は何ですか?これまでの議論の中で、根拠らしいものは何も出ていませんよ。ピント外れな無駄話ばかりしていないで、そこのところをはっきりさせてください。--Dwy(会話) 2013年6月22日 (土) 17:09 (UTC)
- コメント 本筋から大分離れていますが、話を元に戻すと丸数字については基本的に使用禁止で例外があるというのが皆さんの共通認識であると思います。あとは、例外の定義について明確にする必要があると考えます。上述しましたが流れてしまったため再掲させて頂きますが、例えば、ドリムス。(1)という記事において、上述の固有名詞の定義を適用すると、ここに含まれる丸数字の意味は一枚目のオリジナル・アルバムという順番を表す数字だと容易に考えられるため、()付き数字で表記し、本来の表記は~などという但し書きは必要ないというお考えでしょうか。--相田佳彦(会話) 2013年6月22日 (土) 11:13 (UTC)
- コメント - 記事名の時点で実際とは異なる場合、{{記事名の制約}}がつくことで結果的に「本来の表記の但し書き」を済ませていることになるでしょう。ドリムス。(1)の場合はAmazon等で(1)に代替される例もありますし、マルイチではなくワンと読むっぽいので、本文上も(1)でいい気がします。--ButuCC+Mtp 2013年6月22日 (土) 15:03 (UTC)
- コメントドリムス。(1)の記事については、一通りの方が閲覧したと思いますので、本文中の丸数字について正しい表記へと修正しました。--相田佳彦(会話) 2013年6月23日 (日) 16:00 (UTC)
- コメント - 記事名の時点で実際とは異なる場合、{{記事名の制約}}がつくことで結果的に「本来の表記の但し書き」を済ませていることになるでしょう。ドリムス。(1)の場合はAmazon等で(1)に代替される例もありますし、マルイチではなくワンと読むっぽいので、本文上も(1)でいい気がします。--ButuCC+Mtp 2013年6月22日 (土) 15:03 (UTC)
丸数字の改定案
コメント明らかに順序を表す意図(ただの数字)の丸数字であれば、但し書きは必要ないでしょう。丸数字の全面禁止(例外あり)は皆さん共通して意見していますので、現状での書き換え案について提示します。
;現在丸の中に数字が入った丸数字は使用せず、代わりに (1)・(2)・(3) を使用します。
;提案丸の中に数字が入った丸数字は原則使用せず、代わりに (1)・(2)・(3) を使用します。
以下のケースに該当し、かつ(1)・(2)・(3)で代替ができない場合は丸数字を用いてもよいとしますが、該当記事のノートページでの議論を心がけてください。また、下記に該当するケースで丸数字を使う際は「①(丸1)」というように代替表記との併記をしてください。
- 丸数字という「文字」そのものに言及している場合(例えば「丸数字」の記事など)。
- 固有名詞で、単なる番号などではなく意図的に丸数字を使用している場合。
- 規格、法令、巻次、ページなどで、通常のアラビア数字、漢数字などと区別して丸数字が使われている場合。
- アスキーアートやギャル文字などで使用されている場合。
- 対象の記事にとって丸数字が重要な意味を持つ場合(例えば推理小説の暗号など)。
特に「対象の記事にとって丸数字が重要な意味を持つ場合」は様々なケースが考えられますので、適用の際はノートページで使用の提案を行うようにしてください。
他にご意見があればよろしくお願いします。--Elma(会話) 2013年6月22日 (土) 13:36 (UTC)
- 質問 まず、原則である使用禁止の根拠は、何でしょうか? 私はUnicode以外の符号化文字集合(主にJIS系)に含まれない文字を使用することによる弊害(閲覧時における文字コード変換による「文字化け」)を防がなければならないため、と認識しています。次に、例外について。「代替ができない場合」とは、誰がどのように判断するのでしょうか? また、記事「丸数字」のケースを含め、例外には原則である使用禁止の根拠を乗り越えるだけの根拠があるのでしょうか?--Frozen-mikan(会話) 2013年6月22日 (土) 16:26 (UTC)
- コメント 使用禁止の根拠は、おっしゃる通り「文字化け」のようです。現在の環境においてはJIS X 0213に規定されており、win、mac共に文字化けは起こりません、当然unicodeにも登録されています。しかし、一部の環境(JIS X 0208以前)では文字化けを起こしてしまいます。あとは、私の憶測になりますが、箇条書き等の表記の統一という意味も含んでいるのではないでしょうか。「代替ができない場合」については、どんな考え方の人物でも、全員が同一の回答ができる定義作りが必要であると考えます。使用禁止の根拠を乗り越える根拠を持つ、所謂例外となる記事については、現状挙げられていませんね(丸数字の定義の記事除く)。実態としては原則禁止でありながら、丸数字が使用されているケースがいくつか見受けられます。--相田佳彦(会話) 2013年6月23日 (日) 12:33 (UTC)
コメント 氷鷺さんの当初の文にあった(問題なく代替できる場合は括弧数字を使用する)が適用されない例が本当にあるのか疑わしく思っています。そもそも「JIS X 0201のラテン文字類にもJIS X 0208にも規定されていない文字は、できるだけ使わないようにしてください。」が効いていて、マル数字なんかは実際に使わないことが可能であるから具体的に、「丸の中に数字が入った丸数字は使用せず、代わりに (1)・(2)・(3) を使用します。」となっているんだと思います。これを超えてマル数字が本当に重要なところは画像をつけるくらいのことをしないと特にアスキーアートなど正しく伝わらないと予想されます。「 丸数字という「文字」そのものに言及している場合(例えば「丸数字」の記事など)。」以外の例外についてはその例外にあたる実例が見つかるまで加えないほうが良いと思います。マル数字がゲタやトウフになっても理解できるように併記をしてある状態でもマル数字を書く意味が有りそうな例は他に思い浮かびません。思い浮かばないので、実例が出てからと思います。--T6n8(会話) 2013年6月22日 (土) 14:52 (UTC)
- ほらね。ちゃんと議論をしていれば、こういう方が出てきて何を例外にするのか合意できなくなる。最初から分かっていた当然の流れです。だからこそ、「(Wikipedia外の信頼できるメディアで例外処理をしている)実例が出ていることを確認した上で(Wikipediaでも)それを例外にする検討をするのが一番の早道なのでは?」と言っていたわけです。
- アスキーアートについては(信頼できるメディアでの違う慣行があれば話は別ですが)私も個人的にはT6n8さんと同じく、アート自体は文字化けしない画像として示すほうが良く、地の文で機種依存文字を使う必要はないと思っています。
- とりあえず「実例が出てから」に賛成を表明しておきます。--Dwy(会話) 2013年6月22日 (土) 15:29 (UTC)
- 「ほらね」とか小賢しい後知恵をいってないで、さっさと実例を出せば?「専門家の」云々って言ったの自分でしょう?それとも文句を言うだけで手は何も動かさない、と?いやはや…--ikedat76(会話) 2013年6月22日 (土) 16:41 (UTC)
- 予め実例を出すのが難しいから、「世間で例外となる実例が見つかったら、ウィキペディアでもそれを例外にしよう」という規定にしたらと提案していたんですけどね。寝ぼけてて人の言うことをちゃんと読んで理解ができないのなら、目が覚めるまで引っ込んでいて欲しい。(ああ、言っちゃった。お互い様なんでこちらだけ一方的に謝るつもりはないけど、熱くなってきたんで、しばらく休みます。)--Dwy(会話) 2013年6月22日 (土) 17:09 (UTC)
- コメント例外の定義になると、やはり上手にまとまりませんね。丸数字においては、文字化けを起こす環境が存在するという事実を考えると極力使用を避けるべきであると考えます。例外の中に、
- 規格、法令、巻次、ページなどで、通常のアラビア数字、漢数字などと区別して丸数字が使われている場合。
- とありますが、この例外は必要無いと考えます。前の方の議論でもありましたが順番を表すために丸数字を用いている場合には、丸数字を使用せず、代替すべきだという結論に達したはずです。この例は、まさしくそれに当てはまります。代替方法としては、今私が思いついた限りでは、丸数字の1であれば、二重括弧((1))や(i)などを用いる、などです。もちろん、これ以外の代替の表記でもっと適当なものがあれば、それらの表記を定義し、統一すべきだと思います。代替表記と更に被るような表記が存在した場合において、例外としておき、その際には議論が必要だと思います。--相田佳彦(会話) 2013年6月23日 (日) 12:58 (UTC)
- コメント例外の定義になると、やはり上手にまとまりませんね。丸数字においては、文字化けを起こす環境が存在するという事実を考えると極力使用を避けるべきであると考えます。例外の中に、
- 予め実例を出すのが難しいから、「世間で例外となる実例が見つかったら、ウィキペディアでもそれを例外にしよう」という規定にしたらと提案していたんですけどね。寝ぼけてて人の言うことをちゃんと読んで理解ができないのなら、目が覚めるまで引っ込んでいて欲しい。(ああ、言っちゃった。お互い様なんでこちらだけ一方的に謝るつもりはないけど、熱くなってきたんで、しばらく休みます。)--Dwy(会話) 2013年6月22日 (土) 17:09 (UTC)
- 「ほらね」とか小賢しい後知恵をいってないで、さっさと実例を出せば?「専門家の」云々って言ったの自分でしょう?それとも文句を言うだけで手は何も動かさない、と?いやはや…--ikedat76(会話) 2013年6月22日 (土) 16:41 (UTC)
- 返信 (T6n8宛)
- 『そもそも「JIS X 0201のラテン文字類にもJIS X 0208にも規定されていない文字は、できるだけ使わないようにしてください。」が効いていて、マル数字なんかは実際に使わないことが可能』――そうでない場合のための「例外」です。たとえばマルイチなどと読ませるような固有名詞や、規格などの原文で 1 と (1) と ① と I がそれぞれ別の意味で使われているような面倒な場合……そのようなレベルのお話です。
- 『マル数字が本当に重要なところは画像をつけるくらいのことをしないと特にアスキーアートなど正しく伝わらないと予想されます。』――そもそもアスキーアートに限って言えば、フォントの問題もありますから、「正しく伝える」のが元々困難であって、化けるくらいのことは仕方の無いことです。
- 『マル数字がゲタやトウフになっても理解できるように併記をしてある状態でもマル数字を書く意味が有りそうな例は他に思い浮かびません。』――思い浮かばないのならそれで結構ですが、実例が思い浮かばなくてもそれを想定して例外を具体的にしようというのがここの主旨でしょう。そうでもしないと、「架空の伏線」とか「架空の専門家の判断」を根拠に丸数字を使われてしまうようですから。いつも誰かがそういう彼らを根気強く説得し教えてあげられるのなら良いのですが、そうもいきません。--氷鷺(会話) 2013年6月23日 (日) 13:19 (UTC)
- 返信 (氷鷺宛) 「 1 と (1) と ① と I がそれぞれ別の意味で使われているような面倒な場合」具体性がこのくらいあがれば話がわかりやすくなります。ここで、1とIは関係ないので、本質的には「(1) と ①」が両方別の意味で使われているときにどのように表記するかが問題であるわけですね。このときは、(1)への代替ではいけないのは納得できますので、「(1)と丸1」、「(1)と丸1(①)」、あるいは「(1)と①(丸1)」の三通り(さらに丸でなくマルと書く可能性で6通り)ある組み合わせからどれかを選べということですね。でも、ガイドとしては「(1)と丸1」あるいは「(1)とマル1」を推奨すれば、丸数字を使ってよい例外とする必要はないと思います。
- 「丸の中に数字が入った丸数字は使用せず、代わりに (1)・(2)・(3) を使用します。」と明確に使うなと書いてあるのに、わけのわからんことをいって丸数字を使おうとするひとは、例外の例が示されていても、さらにわけのわからん理由で使おうとするものだと思いますが、意外と効果があるんですか?
- なるべく適切に代用表記を選択してもらうためには、例外の例を示して丸数字を使うハードルを下げるより原則に従って代用表記する例を示したほうがいいんじゃないでしょうか?例『ドリムス。①』->『ドリムス。(1)』; 札幌市営地下鉄の区間「マル2区」。
- 「丸の中に数字が入った丸数字は使用せず、代わりに (1)・(2)・(3) を使用します。(1)・(2)・(3) が異なる意味に使われているときは丸1・丸2・丸3またはマル1・マル2・マル3などの表現を使用します。丸数字の文字・文字コード自体を例示する場合は例外的に、丸1などの表記と合わせて丸数字を『丸1(①)』のように示すことがあります。」くらいの内容は同意できそうです。そんなに遠い位置にいるわけではないと思います。--T6n8(会話) 2013年6月23日 (日) 14:51 (UTC)
- コメント - 上節で取り上げた「③頁の件」に当たるものですが、実際は「p.1とp.①」が並立している状況で「p.①」をそれ以外の表現に変える場合、「p.マル1」や「p.丸1」と代替するならともかく(こういう場合に括弧よりこの方法が推奨なら明記すべき)として、「p.①→p.(1)」という代替をやった場合、典拠元のページ数が丸文字であることを注記しないと、ページを参照する側に混乱が生じないでしょうか?(どう考えているか確認したいだけです。意見を強く推す気はありません)--ButuCC+Mtp 2013年6月23日 (日) 15:29 (UTC)
- 返信 なかなか難しいですね。考慮したい要素は、ページ番号を丸で囲ったものがその文献では24までであっても、印刷技術としては51とか100だって十分ありうるのですから、一貫した表現方法にしたい。実物を見たときは、候補が2箇所以下になるので、p.(1)はまあ問題ないけど、複写依頼を出すことを考えるとマルで囲ってあるところというのを明示できたほうが安全そうという点も配慮したい。「p.(51) ((51)はマルで囲まれた数字)」にすると括弧が集まりすぎて美しくない。丸(51)頁が簡潔な気がする。「丸の中に数字が入った丸数字は使用せず、代わりに (1)・(2)・(3) を使用します。丸が特に重要なときは、丸(1)・丸(2)・丸(3)、丸1・丸2・丸3、またはマル1・マル2・マル3などの表現を使用します。丸数字の文字・文字コード自体を例示する場合は例外的に、丸1などの表記と合わせて丸数字を『丸1(①)』のように示すことがあります。」のほうがいいですね。--T6n8(会話) 2013年6月23日 (日) 22:53 (UTC)
- コメント - 上節で取り上げた「③頁の件」に当たるものですが、実際は「p.1とp.①」が並立している状況で「p.①」をそれ以外の表現に変える場合、「p.マル1」や「p.丸1」と代替するならともかく(こういう場合に括弧よりこの方法が推奨なら明記すべき)として、「p.①→p.(1)」という代替をやった場合、典拠元のページ数が丸文字であることを注記しないと、ページを参照する側に混乱が生じないでしょうか?(どう考えているか確認したいだけです。意見を強く推す気はありません)--ButuCC+Mtp 2013年6月23日 (日) 15:29 (UTC)
とりあえず、Dwyさんは個人的な主張ばかり繰り返されているので、仕方ありませんから彼の主張は却下ということで話を進めましょう。ここでは「例外」についてどういった指針を示すのか議論している筈なのですが、どうも根本的なところから変えたいようですし、しかしそれは話題のレベルが違いますし(加えて言うならつい先日それは無しになった話で)、それに対する他の方の支持もないのですから、これ以上相手をしてあげる必要はないでしょう。しばらくと言わず、できればもっとごゆっくりお休みいただいたほうが助かるのですが。--氷鷺(会話) 2013年6月23日 (日) 13:19 (UTC)
- コメント前の議論においても注意しましたが、そういった人を逆撫でするような発言(どの部分かご自分でよく考えてください)をしていては冷静な議論にはなりませんので避けるべきです。他にいくらでも表現方法はあります。これは価値観等の違いではありません、一般的なモラルの問題です。--相田佳彦(会話) 2013年6月23日 (日) 13:54 (UTC)
- コメント気持ちは分かりますが、熱くならず落ち着きましょう。Wikipedia:議論が白熱しても冷静に、ウィキペディアは何ではないかなどで示されるように感情的にならず冷静にいきましょう。お互いの粗探しではなく「例外」について議論をしましょう。--Elma(会話) 2013年6月23日 (日) 14:59 (UTC)
賛成 そういえば、Elmaさんの改定案についての議論から遠ざかってしまっていましたね。私はElmaさんの案で良いと思います。強いて言うと、『規格、法令、巻次、ページなどで、』の箇所は、その前の行との対応を考えて『番号などを意味するものだが、』にするのもアリかなと思いました。--氷鷺(会話) 2013年6月23日 (日) 15:27 (UTC)
- 固有名詞で、単なる番号などではなく意図的に丸数字を使用している場合。
とありますが、意図的というのは定性的な表現なので混乱を招く可能性があると思います。また、意図的に丸数字を使用しているかどうかの判別方法についての具体例(実例)が一切無いので理解不能になります。前述にあった判別法だと、読みが「マルイチ」なら意図的という意味もよく分かりません。私は、丸数字の読みは一般的に「マルイチ」、「マルニ」だと認識しております。この項の内容と前述の意図的という意味の判別方法を適用すると、丸数字の読み方が示されていない場合は、固有名詞においては全て例外として記述できると解釈できると思います。このような解釈ができるような曖昧な定義は避けるべきです。 固有名詞については例外を設けず、この項については削除で良いのではないでしょうか。必要であれば、
- 対象の記事にとって丸数字が重要な意味を持つ場合(例えば推理小説の暗号など)。
で適用すればよく、冗長であると考えます。必要であるなら、その実例と曖昧になっている意図的の定義付けについて述べて頂きたい。 --相田佳彦(会話) 2013年6月23日 (日) 17:16 (UTC)
- そこまで「理解できない」場合を想定するのもどうかと。もう少し頭を使っていただかないと、会話が成立しないのでとても困ります。たとえば『丸数字の読みは一般的に「マルイチ」、「マルニ」だと認識しております。』は誤りです。それは丸数字の記号単独について言及する場合や、それこそ「意図的」な場合、そして表記を厳密に・正確に伝えようとする(たとえば市立をイチリツ、(1)をカッコイチカッコトジと読むような)場合です。『進撃の巨人①』は、その読みが「マルイチ」である必要はまったくありませんよね?(まさか、これが必ずマルイチと読むものだという主張をするつもりではないでしょう)――そして、読みが「マルイチ」ということを判断材料のひとつにするのは、そもそも「その読みの根拠」「その表記である理由」が想像や推測ではなく実在するということであり、そもそも「その読み方でなければならない理由がある」ということです。そういうわけで、丸数字がすべて意図的だというあなたの主張は詭弁であり、検討の余地はありません。--氷鷺(会話) 2013年6月24日 (月) 15:34 (UTC)
- コメント細かいことにコメントしてると長くなるので、触れません。私が確認したいのは意図的の判断基準についてです。結局のところ、意図的の判断材料は、丸数字が用いられたものにおいて「その読み方でなければならない理由がある」、つまり丸数字について「読み方が、公式に示されている」ことが前提条件で、「丸数字そのものを指し示す読みである」、この2条件を満たした場合という解釈でいいですか?特殊な読みを持つ丸数字、例えば①と書いて「パン1」という読み方が示された単語を含む固有名詞(例えば楽曲名)が存在したとします。この例においては丸数字の読みが「パン」と定義されているので丸数字の記号そのものを指し示す、つまり括弧付き数字では代替できない、としていいのですか。--相田佳彦(会話) 2013年6月24日 (月) 23:42 (UTC)
- コメント丸数字は原則禁止という方向であり、意味があったとしてもシンプルな表記を心がけるべきだと思います。その点に関しては「対象の記事にとって丸数字が重要な意味を持つ場合(例えば推理小説の暗号など)。」の1本に絞って提示するのもいいとは思いますが、具体例が推理小説のみでは編集者が判断材料にできるレベルではないと思います。1本に絞る場合はもう少し具体例を列挙するべきだと思います。--Elma(会話) 2013年7月1日 (月) 14:30 (UTC)
- コメント細かいことにコメントしてると長くなるので、触れません。私が確認したいのは意図的の判断基準についてです。結局のところ、意図的の判断材料は、丸数字が用いられたものにおいて「その読み方でなければならない理由がある」、つまり丸数字について「読み方が、公式に示されている」ことが前提条件で、「丸数字そのものを指し示す読みである」、この2条件を満たした場合という解釈でいいですか?特殊な読みを持つ丸数字、例えば①と書いて「パン1」という読み方が示された単語を含む固有名詞(例えば楽曲名)が存在したとします。この例においては丸数字の読みが「パン」と定義されているので丸数字の記号そのものを指し示す、つまり括弧付き数字では代替できない、としていいのですか。--相田佳彦(会話) 2013年6月24日 (月) 23:42 (UTC)
見落としていましたが、「アスキーアートやギャル文字などで使用されている場合。」には、代替表記を(すぐ隣に)併記してはマズイですね。使用例とは分離して①=マル1などと書くのであればともかく、併記だと説明すべき使用例の説明の邪魔にしかならない訳で、本末転倒です。というか、そういうケースはフォント・フォントサイズに依存するところも大きいので、もはや併記不要で良いように思います。ところで、現状、Elmaさんの案に対する検討すべき点・反対というのはありますかね…? --氷鷺(会話) 2013年7月5日 (金) 17:04 (UTC)
- 議論が発生していた例は、例外に当たるという結論にならず、代替表現という結論になっているのだから、ガイドにどういう代替表現をするのかの実例を加えることこそが重要と思います。例外は、無理に考えた実例のない例外の例を挙げる必要はないと思います。
;対案丸の中に数字が入った丸数字は原則使用せず、代わりに (1)・(2)・(3) を使用します。丸が特に重要なときは、丸(1)・丸(2)・丸(3)、丸1・丸2・丸3、またはマル1・マル2・マル3などの表現を使用します。置き換えの例
- 『ドリムス。①』->『ドリムス。(1)』
- 札幌市営地下鉄の区間「マル2区」。
- p.① -> p.(1)または丸1頁 (ページ番号に普通の数字と丸付き数字があって区別する必要があるとき)
丸数字の文字・文字コード自体を例示する場合は例外的に、丸1などの表記と合わせて丸数字を『丸1(①)』のように示すことがあります。他に代替不能で必要がある場合には、丸数字を用いることは可能ですが、該当記事のノートページでの議論を行うようにしてください。
--T6n8(会話) 2013年7月6日 (土) 02:22 (UTC)
新しい用例を発見しました。ハイパー演算子で、用いられているマル数字、マルnはやっぱり、最初から括弧数字、括弧nになおして、マル数字ですの注記が望ましいですよね。--T6n8(会話) 2013年7月19日 (金) 22:46 (UTC)
- コメント原則として丸数字の使用は禁止ですので、修正を加えるべきです。文中に表記の制約のため、以後丸囲み文字~という記述があるため、冗長にならないように注意して但し書きを加えれば良いと思います。--相田佳彦(会話) 2013年7月27日 (土) 09:42 (UTC)
- コメント数学者ではないので英語版ウィキペディアの情報を鵜呑みにしますが、別に丸数字が一般的な表記法というわけでもなさそうです。記事の表記法を切り換えれば良いだけかと。--朝彦(会話) 2013年7月27日 (土) 18:36 (UTC)
感嘆符のダブル使用について
Wikipedia:表記ガイド#疑問符・感嘆符では、感嘆符を使用するにあたって、直前の文字が全角なら全角を、半角なら半角を使用するよう推奨しています。
ですが、記事名ではなく、記事中「大改造!!劇的ビフォーアフター」と書く場合、この感嘆符は全角で「!!」とすべきなのか、半角で「!!」とすべきなのか、現在のガイドラインでは判別しかねます。また、記事によっては台詞を引用として「!?」あるいは「?!」とする場合もありますが、これは「?!」「!?」(全角)とするべきなのか、「!?」「?!」(半角)とすべきなのか、判別しかねます。
現在のガイドラインを文面通り理解すれば、「大改造!!劇的ビフォーアフター」は「大改造!!劇的ビフォーアフター」になるかと思いますが、、、、、(自信はあまりありませんが)。
以上の件について、皆様のご見解を頂けたらありがたく存じます。よろしくお願い致します。--Megevand (会話) 2013年8月1日 (木) 12:37 (UTC)
- コメント 連続して使用される場合、擬似的に組み文字とみなして「!!」でよろしいのでは。「!!」だと間延びしますからね。--禁樹なずな(会話) 2013年8月1日 (木) 12:39 (UTC)
- 早速のコメントありがとうございます。ダブル疑問符と感嘆符は擬似的に組文字とみなして「!!」「!?」(「?!」)とする。いいアイディアですね。他の方のコメントも待ってみて、後にこれを表記ガイドにのせる提案をしてみたいなと思います。でないと、あまり顕在化はしておりませんが、いずれ編集上の問題となると思いますので。重ねがさね、コメントありがとうございました。ちなみに、現在では上記の通り解釈できますので、例えばあまちゃんでは全角で表記していることをご報告しておきます。--Megevand (会話) 2013年8月1日 (木) 12:52 (UTC)
ダブル感嘆符・疑問符の使用について、ガイドラインに推奨事項を新規盛り込みの提案
提案 直近で禁樹なずなさんが提案されているように、Wikipedia:表記ガイド#疑問符・感嘆符に以下の文面を追加することを提案します(赤字部分が追加文面です)。
以上です。皆様のご意見をお待ちしております。--Megevand (会話) 2013年8月2日 (金) 10:58 (UTC)
現行の「全角には全角使用」の推奨事項と整合性をもたせるため、「(半角2つで全角とみなします)」を追記しました。--Megevand (会話) 2013年8月2日 (金) 18:37 (UTC)
報告 1週間の期間中異論は出ませんでしたので、合意に至ったものとし、上記提案(赤字部分)をガイドラインに追加記載いたしました(参照 : [2])。--Megevand (会話) 2013年8月9日 (金) 20:18 (UTC)
- 今更かもしれませんが、「半角2つで全角とみなします」というのはちょっと意味がわかりません。半角は半角ですので。不要な一文だと思います。そもそもが例外規定ですので、「全角には全角使用」をオーバーライドするための項目です。整合性を考慮する必要はありません。--朝彦(会話) 2014年2月16日 (日) 21:36 (UTC)
数式の記述方法について質問
「ウィキペディアの記事における表記方法の慣習」を説明してあるはずのWikipedia:表記ガイド#数式にはTeXの書き方のみ記述してあって、プロジェクト:数学#数式を組むでは「なるべくHTMLを用いるようにしてください」と書いてあるのですが、どちらを優先すればいいのですか?--Meniv(会話) 2013年8月30日 (金) 08:24 (UTC)
複数の字体がある人名用漢字の字体について
2000年(平成12年)12月時点で「人名用漢字別表」に字体が掲載されていた漢字は「表外漢字字体表」に示されていないので、現在の「人名用漢字別表」にある字体に従います。複数の字体がある場合は簡略なほうの字体を用います。 例(括弧外の字体を用います):亘(亙)・凜(凛)・尭(堯)・遥(遙)
これだけでは説明が漠然としてわかりにくいと思いますので、参考までに現在の人名用漢字別表にある漢字の中で複数の字体が示されているもののうち、表記ガイドの原則ではどの字体を用いるとしているのかを具体的に挙げておきます。結論として、JIS X 2008に印刷標準字体がある檜・禰の2字以外は「簡略なほう」を用いることになります。
- 亘‐亙 → 亘 ★
- 凜‐凛 → 凜 ◎
- 尭‐堯 → 尭 ◎
- 巌‐巖 → 巌 ★
- 晃‐晄 → 晃 ◎
- 桧‐檜 → 檜 ◆
- 槙‐槇 → 槙 ◎
- 渚‐渚 → 渚 ★
- 猪‐猪 → 猪 ★
- 琢‐琢 → 琢 ★
- 祢‐禰 → 禰 ◆
- 祐‐祐 → 祐 ★
- 祷‐禱 → 祷 ※
- 禄‐祿 → 禄 ★
- 禎‐禎 → 禎 ★
- 穣‐穰 → 穣 ★
- 萌‐萠 → 萌 ◎
- 遥‐遙 → 遥 ◎
【凡例】
- ◎=表外漢字字体表制定以前より人名用漢字別表に掲載されていたほう
- ★=旧・人名用漢字許容字体でないほう
- ◆=印刷標準字体
- ※=禱が印刷標準字体だがJIS X 2008外のため、簡易慣用字体の祷を使用
--2001:CE8:96:1:4B2:AB07:1933:C243 2013年9月3日 (火) 20:39 (UTC)
著作物名の表記について
現在、上記のガイドの説明の中にある「比較的長大」「比較的短小」という文言を根拠として、長編小説は『』、短編小説は「」と表記しなければいけない、短編小説はどんな時も「」と表記しなければいけない、と主張される方(利用者:新続頭痛さん)がいたので(ノート:坂口安吾)、その主張が本当に「表記ガイド」が意図している指針なのかを井戸端で広く意見を募りました。私の解釈では、「比較的短小な作品」というのは、小説に対する「章」、戯曲に対する「幕」、交響曲に対する「楽章」のことであり、「作品群に含まれる単一の作品」というのは、全集に対する「収録作品」、アルバムに対する「シングル曲」のことだと認識していたので、同じ個別の独立作品であり同格でもある長編小説と短編小説の表記を変えなければいけないという解釈はとても違和感がありました。井戸端での他の方々の意見も、短編小説はどんな時も「」と表記しなければいけない、というふうに捉えている方は見受けられませんでした。
雑誌新聞掲載時の状況を示すときなどは、長編小説も短編小説も「」と表記するというご意見は、ねこぱんださんやMEGEVANDさんから寄せられ、それに関連するご意見としてikedat76さんから、学会誌の中の論文と、文学作品の性質の違いについて以下のようなご意見がありました。
- 「そうした物理的な出版形態とは相対的に独立して存在している作品を指すときにどうするのか」
- 「文学作品について言えば、定期刊行物の連載から始まって単行本化され、文庫になり、作品集や全集に収録され…等々と多様な・物理的な出版形態で刊行されるというのは、ある意味で文学作品特有の事情とも言えるように思います。そうした事情がある以上、それを出版物一般に拡大してガイドラインを左右するというのが適当かどうか。物理的な出版形態とは独立に作品を指す表記法について考えていくのが方向としては適切でしょう。」
これは例えば文学作品の記事の冒頭文などで、その作品の出版形態を説明する時に
- 『○○』は、誰々の小説である。1987年に文芸雑誌『××』に掲載された。
- 『○○』は、1987年に文芸雑誌『××』に掲載された後に、▼▼社から単行本刊行された。現在は◎◎社から刊行されている。
というふうに、出版形態に対して相対的に独立している「作品そのもの」を指し示すときには、やはり『』が妥当だと私も思いますので、ikedat76さんの意見は参考になりました。そして一方で、作家の「年譜」のように、複数の作品のその時の状況を時系列を追って説明されるような場合には、
- 1987年に文芸雑誌『××』に「○○」が掲載、1989年には新聞『▼▼』に「◎◎」が連載。
と、「」の表記でいいかと思います。これは、ねこぱんださんもおっしゃっていたように、長編小説、短編小説にかかわらず「」表記になるのが妥当だと思います。そして、この雑誌掲載の場合の三人の方のご意見内でも、長編だから短編だからという区別でないという認識は共通でした。現在、新続頭痛さんが表記編集した坂口安吾の版では、雑誌掲載時・単独説明に限らず、ただ単に長編小説は『』、短編小説は「」の基準となっており、書き下ろしで単行本刊行された中編小説も「」になっていますので(短編小説と同じ扱いなのかな?)、やはりとても違和感があります。代表作を連ねているテンプレ内でも、長編小説だけが『』になってます。
短編小説は、長編小説と同じように独立発表されている同格の単独作品ですので、それを単独で説明記述する際には、どちらも同様に『』で表記するのが当然だと私は思っています。例えば、三島由紀夫の代表作を文章内で列記する時に、
- 三島由紀夫の代表作は、『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』「憂国」『鹿鳴館』『サド侯爵夫人』である。
と、同じ作家の同じ著作物なのに『憂国』だけを「」で表記するなどという変な書き方は、文芸評論でも見たことがありません。そして、『鹿鳴館』『サド侯爵夫人』は戯曲ですが、これらは長編ではなく、長めの短編もしくは中編の戯曲ですので、もしも作品の長さで表記を区別しなくてはいけないというと、これらも「鹿鳴館」「サド侯爵夫人」と表記しなければいけないのでしょうか。「表記ガイド」では、『』表記のカテゴリーの方に「戯曲名」があるから『』でいいということなら、同じ文学作品である「小説名」が、何故そこの範疇にならないのか不思議です。短編小説は戯曲や映画の原作になっているものが無数にあり、長編小説と同格の一個の文学作品で、単独で単行本になっている短編小説や中編小説も沢山あります。
そして小説は、長編、中編、短編というふうに長さによって便宜上分けたりしますが、実際にはそれぞれの間の境界はあいまいです。例えば、『真夏の死』は、全集や作品集などに分類する際には短編小説とされていますが、作者の三島由紀夫本人はノヴェレット(短編を意味するShort storyではなく、中編小説に相当する意味)だと言ってます。また、長編小説と中編小説との境界もあいまいです。全集で長編小説として分類されていても、評論家によっては中編小説と呼んでいる小説もあります。このように短編、中編、長編と名付けてられていても、その境界ぎりぎりのところでは実際にはあまり変わらない長さだったり、ほんの少しの長さに違いで、長編小説に区分けされたり、短めのものは短編小説となったりします。戯曲にはそんな区分けがないので、全部「戯曲」と呼んでいるだけです。
なので、このような便宜上の長さの分類を根拠にして、『』と「」の表記を区別するなどというのは、文学作品の個別記事作成の上で意味がなく、長編も短編も質的には何ら変わらない同格の小説です。この点に関しては、uaaさんやJkr2255さんも以下のようなご意見でした。
- そもそも、「長編小説は『』、短編小説は「」で表記しなければいけない」なんて現実的に無理でしょう。「長編小説」と「短編小説」ってどこで線引きするんですかね?ガイドラインの記述にそう解釈できる余地があるのなら、文面を改正すべきだと思います。
- 多数の作品が列挙される場面でカッコを使い分けるということは、カッコの違いによって、その内容について何かしらの質的な違いがあることを(少なくとも)暗示することになります。「短篇集の1作品」と「単体で発表された作品」を区別するならまだ意味はあるのですが、単体作品の中で「比較的長いもの」と「比較的短いもの」について違いを示さなければならないほど、両者に質的な違いがあるのかは疑問に感じます。
新続頭痛さんは、ある「短編小説名」と、それと同名タイトルの「短編小説集名」を区別するために、短編小説の表記を常に「」とするのは有効という意見を井戸端でおっしゃってましたが、その違いをどんな時でも(その小説そのものについて語っている時でも)、どんな場面の記述内でも保っていなくてはいけないという必要性が両者の間にそんなにあることなのか、そこまで重要性のあることなのか疑問です。もしも両者が混同されかねない場合や、収録作品全部を包括した同名の書籍を同時に示したい場合は、作品集『○○』というふうに、前に一言「作品集」と書き加えたり、「同名作品集」という文言で対処するなり、ケースバイケースで対応すればいいだけのことだ思います。同名タイトルの作品集があるというだけの理由で、その個別の「小説名」を常にどんな場面においても絶対に「」表記にしなければいけないというのは、何か小説そのもの、一個の文学作品そのものに主眼をおいていないで、どっちを主体にして考えているのか甚だ疑問です。
それに、そういった「作品集名」と「同名作品」の事例は短編小説以外にもあり、長編小説『女神』もその作品以外に数点の短編と同時収録されている同名タイトルの本もありますし、長編の戯曲も他の戯曲と同時収録されている本もあります。中編小説なら尚更、複数収録で同名タイトルの本は多くありますので、短編小説だけをそのような理由で、短編小説はどんな時も「」と表記しなければいけない、とするのは、論点がズレていると思います。そういう「作品集名」と「同名作品」の違いを示す意味においては、短編小説も中編小説も同じです。
なので、「表記ガイド」の説明の『』のカテゴリーに「小説名」という文言を加えた説明文にして、わずかな長さの違いで小説の表記が変えなければいけないかのような錯誤が生じないようにしてもらいたいと思います。また、「比較的長大な作品」「比較的短小な作品」という文言も、「同じ性質の作品の間での長短」というふうに捉えられてしまうと、例えばテレビドラマの場合でも、大河ドラマに比べれば、単発ドラマは短小作品ということも言えますし、交響曲に比べれば、ショパンの『子犬のワルツ』は短小な作品とも受け取られてしまい、上記の小説の場合のように、それぞれ独立した同格のドラマ作品や楽曲にもかかわらず、長さで表記を変えなければいけないかのような誤解が生じますので、この言い回しにも何か工夫が必要だと思います。--みしまるもも(会話) 2014年4月14日 (月) 03:59 (UTC)
- 現行ガイドラインの問題箇所と具体的な改正内容を示していただけないと、議論が進まないと思います。--uaa(会話) 2014年4月16日 (水) 09:22 (UTC)
改定案
私の改訂案としては、「小説名」という一句も入れた上で、以下のようにしたらいいのではないかと思います。「比較的長大」という文言の方は、上記の説明のように、同格同質の作品間でも長さで表記を変えなければいけないかのような誤解の元になるので省きました。
- 作品あるいは作品群(書名・雑誌名・交響曲などの曲名・組曲などの名称・CDなどのアルバム名・映画名・小説名・戯曲名・テレビの番組名・イベント名・大会名など)は、和文では『 』で囲み、欧文では(入力を
''……''
として)イタリック体にします。- 例: 『海辺のカフカ』・『憂国』・『動物の謝肉祭』・Yesterday ... and Today・『ローマの休日』・『報道ステーション』
- 比較的短小な作品(書中の章名や見出し名・小説の章名や話名・戯曲の幕名・交響曲などの楽章名・テレビ番組の企画名や話名・CDなどのシングル名など)や、
作品群に含まれる単一の作品(雑誌中の収録論文名・全集中の収録作品名・詩集中の詩名・組曲中の曲名・シングルやアルバム中の曲名など)は、和文では「 」、欧文では、英文における “...” または各言語においてそれに相当する括弧で囲みます。- 例: Nature “Molecular Structure of Nucleic Acids”・『展覧会の絵』「プロムナード」・Yesterday ... and Today “Yesterday”・『古畑任三郎』「ラストダンス」
- ※ ただし文学作品記事の冒頭説明文などで、過去に掲載された雑誌媒体などの物理的な出版形態とは相対的に独立して存在している作品を指すときには、その小説名などは『 』のままでもよい。また、作家の年譜など、複数の作品のその時の状況を時系列を追って説明されるような場合には、その掲載作品名は「 」で囲むことが望ましい。
- 例: 小説『○○』は、1987年に文芸雑誌『××』に掲載された後に、▼▼社から単行本刊行された。現在は◎◎社から刊行されている。
- 例: 1987年に文芸雑誌『××』に短編「○○」が掲載、1989年には新聞『▼▼』に長編「●●」が連載。
--みしまるもも(会話) 2014年4月16日 (水) 11:22 (UTC) 修正--みしまるもも(会話) 2014年4月16日 (水) 11:30 (UTC)
- (コメント)
- 「作品あるいは作品群」(『』)と「比較的短小な作品」および「作品群に含まれる単一の作品」(「」)では、前者で「作品」と言ってしまっている以上、言葉の上で両者をきちんと仕分けすることができていません。
- 「書中の章名や見出し名・小説の章名や話名・戯曲の幕名」というところは概ね「一つのまとまった作品の一部分」のような言葉が該当すると思いますが、これを「(作品全体に対して)比較的短小な作品」と言い表すのは自然な日本語の使い方ではありません。
- 提案の趣旨は、「」を使うのは収録などの包含関係を示していることが自明な場合や章題など作品の一部の題の場合に限り、包含・収録関係を離れてまとまった一作品の題名に言及するときには『』を使う、ということだと思います。
- これだと例えば「CDなどのシングル名」は「」を使うとなっていますが、シングルやアルバムといった収録媒体から離れた「楽曲そのもの」を指す場合には『』を使うことになるのだと思います(そう考えないと一貫性がない)。同じ記事中の同じタイトルの楽曲がシングル名にもアルバム名にもなりうるところで、『』を示すものが場所によって楽曲自体になったりアルバム名になったりするのは、たとえ前に「アルバム」とか「楽曲」といった言葉を入れたとしても視覚的にわかりにくさを招きます。
- 論文の場合も収録関係を離れて「論文そのもの」に言及するときには『』を使うことになるのだと思います(そう考えないと一貫性がない)。これは論文に言及する際の慣用からはずれるのではないかと思います。
- 自分の過去の執筆記事を見返しても、現在のように「短い作品」、つまりなにかに収録されて受容されることが予想されるような形態のものに「」を用いる形が記事中で一貫していれば、わざわざ「書物である」「短編小説である」「記事またはエッセイである」といった前置きがなくとも、文脈と鉤括弧の使い分けでそのような情報が大雑把にではあれ読者に伝えられていることが多いです。この区別をなくしてしまうとそうしたものすべてにいちいち前置きを入れる必要が出てきてしまう。前置きをおいて正確に伝えるような場合でも、「短い作品は「」/そのまま書名になりうる長いものには『』」という使い分けには文章を読む上で視覚的な分かりやすさがあります。これは現状の表記方法のメリットです。
- 対して、改定案に従って改訂することの明確なメリットは「中間的なものに対して迷う必要がなくなる」くらいだと思います。これは上で述べたようなことに代替できるメリットではありません。提案者が述べている、同じ文学作品であるのに「」が使われるものと『』が使われるものがあるのはおかしい、という意見は、実際にそのような使い分けが(日本文学を含めて)複数の資料で確認できる以上、個人の感覚という以外なにも客観的な根拠が示されていません。
- 私は現在の表記ガイドおよびスタイルマニュアルは「短編小説に対しては一貫して「」を用いると考えるのが自然である」ということを言っているのです(井戸端でそう言っているのは私だけだった、ということを書かれていますが、私が順を追ってまとまった説明をした後でなお異議を唱えている人はいまのところ提案者だけです)。これを「短編小説はどんな時も「」と表記しなければいけない」と命令語法に書き換えて何度も掲載するのは悪質な印象操作だと考えます。表記ガイド自体がそもそも例外を許容しているのであり、例えば引用文中で『』が使われているなど、誰が見ても例外性が納得できるようなものであれば従う必要はないでしょう。--新続頭痛(会話) 2014年4月19日 (土) 03:59 (UTC)
コメント「中間的なものに対して迷う必要がなくなる」メリットの方が「視覚的に分かりやい」なんて愚にもつかない理由よりはるかに大きいと思いますね。「短い作品は「」/そのまま書名になりうる長いものには『』という使い分け」が文章を読む上で視覚的に分かりやすいと言えるには、①短い作品と長い作品の定義が明確であり、②この使い分けが世間一般に広く認識されているということが前提となる筈ですが、いずれの条件も満たしてないでしょう。「短い作品」「長い作品」ってなんか決まりがあるんですか?作品名に括弧を付けるに際しては、『○○』<ref>長編とされている出典</ref>とか「××」<ref>短編とされている出典</ref>のように一々出典を付けなければならないのでしょうか?執筆者の判断で分けるなんて論外ですね。使い分けが一般的なものでなければ、作品タイトルを列挙したものに『』と「」が混在していても奇異にしか映らないでしょう。ウィキぺディアンが勝手に分類したものをウィキぺディアのローカルルールで書き分けるなんて「分かりやすい」どころか迷惑千万です。
みしまるもも氏の改定案ですが、「比較的短小な作品」のような後で揉めるような文言が残っていますね。
* 作品及び作品群(書名・雑誌名・交響曲などの曲名・組曲などの名称・CDなどのアルバム名・映画名・戯曲名・テレビの番組名・イベント名・大会名など)の名称は、和文では『 』で囲み、欧文では(入力を''……''
として)イタリック体にします。
- 例: 『海辺のカフカ』・『動物の謝肉祭』・Yesterday ... and Today・『ローマの休日』・『報道ステーション』
- 作品中の小題(書中の章名や見出し名・小説の章名や話名・戯曲の幕名・交響曲などの楽章名・テレビ番組の企画名や話名など)は、和文では「 」、欧文では、英文における “...” または各言語においてそれに相当する括弧で囲みます。
- 単独の作品でも、作品群中の一作品として記述する場合(雑誌中の収録論文名・全集中の収録作品名・詩集中の詩名・組曲中の曲名・シングルやアルバム中の曲名など)は同様とします。
- 例: Nature “Molecular Structure of Nucleic Acids”・『展覧会の絵』「プロムナード」・Yesterday ... and Today “Yesterday”・『古畑任三郎』「ラストダンス」
というのは如何でしょうか?タイトルは原則『』とし、収蔵する作品群と共に記述する場合のみ、作品群と区別するために「」を用いることとしました。この方がシンプルでいいのではないでしょうか?--uaa(会話) 2014年4月19日 (土) 11:31 (UTC)
- 長編と短編の厳密な区分を要求した上で「いちいち出典をつけなければならないのか」などというのはおかしいと思いますよ。前の議論で少し触れたようにいくつかの指標に基づいて蓋然的に判断することは可能です。Wikipediaにおける表記のルールの話なのですからどのように決めても(共通の規則のようなものが外部にない以上)ローカルルールにしかなりえないでしょう。また短い論文でも著名なものであれば詳細な注釈をつけて単独で刊行されたりされうる、ということを考えれば「文学作品」「小説」であることはそれほど特別視すべきことでもないです。
- 「中間的なものに対して迷う必要がなくなる」メリットの方が「執筆の際、作品の性質を示すための手段を提供する」かつ「読者にとって視覚的に分かりやい」というメリットよりもはるかに大きい、とは私は思いません。--新続頭痛(会話) 2014年4月19日 (土) 12:01 (UTC)
- (追記)ああ、それから「世間一般に広く認知されている」かは知りませんが、Wikipediaでその表記体系を採用していることがおかしくないと言える程度にはそのような短編・長編の使い分けの例は散見するように思います。--新続頭痛(会話) 2014年4月19日 (土) 12:11 (UTC)
井戸端で新続頭痛さんの意見の後に反論のコメントがついていないからといって、新続頭痛さんに同調したということにはなりません。特に強い興味がなければ、一回意見を入れて済ましておく人もいます。そして井戸端に寄せられた意見では、現在の表記ガイドおよびスタイルマニュアルは「短編小説に対しては一貫して「」を用いると考えるのが自然である。 というような表記ガイドの解釈をしている方はいませんでした。新続頭痛さんは坂口安吾で実際に、短編小説はどんな時も「」と表記しなければいけないという姿勢で巻き戻し、例外なく短編小説はどんな時も「」表記にしています。代表作を併記するところでさえも、長編小説だけを『』表記に新たに変えてしまいました。なので私は印象操作などしていません。事実を言っているだけです。
また、改定案のメリットが、「中間的なものに対して迷う必要がなくなる」だけとおっしゃってますが、そもそも「中間的長さの作品」や中編小説をどちらの表記にしたらいいかと迷うような解釈をしていたこと自体がおかしいのであって、同じ性質の作品を、その「長さを理由に」表記を変えるなどという発想自体が日本の文学作品にはありません。私は多くの文芸評論や解題などを読んでいますが、同じ独立した小説であるにもかかわらず、「長編小説と短編小説を区別するという理由」で表記を変えているものなど見たことがないです。「年譜」などで雑誌掲載を表わしている場合や、雑誌掲載時の受賞作を表わしている場合、収録作品を表わしている場合などで、書籍や雑誌と区別する意味で表記を変える時はありますが、それは「小説の長さ」を理由にした基準ではありません。
短編小説を『』に表記すると、その前に「前置きを入れる必要が出てきてしまう」と新続頭痛さんは言ってますが、「小説そのもの」の内容を説明している記述内では、おのずから「その小説そのもの」について語っていることは自明ですし、前後関係を見ても分かることですから、そこで「同名短編集の書籍」との区別の文言を入れる必要性は通常ありません。そんな前置きをいちいち入れている文芸評論もないです。「小説そのもの」にとっては、その小説が収録されている「書籍」は一過性のもので(初刊本がプレミアがつくというのとは別の話)、様々な多くの出版媒体によってその収録内容も変化するような類のものなので、そのような類の書籍に対して、「小説そのもの」を語っている時にも常に、「同名短編集の書籍」との区別を念頭に置かなければいけないということはほとんどありません。もしどうしても二者が同じ記述内において混同されるような場合には、書籍の方に「作品集」と前置きするか、「同名作品集」など付記すればいいだけのことです。それに、長編小説や中編小説にも「同名作品集」がありますので、短編小説に対しては一貫して「」を用いる というのは論点がズレています。
それから、私の改定案の書き方についてですが、「章」「楽章」「幕」「話」は、単独作品ではありませんが、これらも「作品」には違いありませんから、「一部分」よりもやはり、uaaさんの案のように「作品中の小題」にして()にきちんとその旨の説明をされていれば、上の「作品」との区別ができると思います。
CDシングルカット曲の問題については、歌手が定期的に発表する「アルバムという作品」との比較対象として区別をするために、シングル曲は「」表記することに決めているようなので、それは()内ではなく別個に説明してもいいかと思います。交響曲でもアルバムでは複数曲で収録されたりしますが、それは小説の作品集や全集と似たものであり、歌手が定期的に発表する「アルバム作品」とシングル曲との対応関係を区別する規準とは性質が違うものです。これはある意味、シングル曲の特殊な表記ですので、シングル曲が単独の時でも「」表記だからといって、文学作品分野の短編小説にまで、書籍に収録されるから「」という短絡的な方向づけで短編小説の概念を語られても困ります。小説は戯曲や映画と同じで、長さで質が変わるわけではありませんし、シングル曲も曲の長さで表記を変えているわけではないでしょう。
寄稿雑誌とそれに密着的な関係の各論文と、物理的に存立している性質の文学作品との違いについては、上記でも説明しているので、その上で改定案の例を書き、文学作品に適したガイドラインの例示の提案もしています。著名な論文などで単独で言及されることが多い論文は、文学作品と同じように表記してもいいと思いますし、そこらへんはその論文の性質によって臨機応変にすればいいんじゃないでしょうか。
あまりガチガチに、論文はこうだから、文学作品もそれと同じように表記を一貫性を持たせなくてはいけないかのような新続頭痛さんのようなガイドラインの解釈の仕方は、それぞれに分野に合った表記方法を考える上で、逆にその分野における一貫性を損なっています。その作家の代表作を記述する際に、短編小説だけが「」表記になってしまうような奇怪な解釈(短編小説に対しては一貫して「」を用いる )は、小説の分野にはそぐいませんし、そんなおかしな基準の表記方法は、日本文学の分野にはありません。中編と長編の境界線や、中編と短編の境界線があいまいなものも多いのは上記でも説明しており、戯曲にはそんな区別がないことも説明しました。なので、短編小説だけを「」にしなければいかないかのような不思議な錯誤が生じかねない現在のガイドラインの説明文はやはり書き変えておきたいと思います。--みしまるもも(会話) 2014年4月19日 (土) 13:08 (UTC)
改定案2
uaaさんの案と、新続頭痛さんのシングル曲の指摘を受けて、少し書き直してみました。「CDなどのアルバム名」「CDなどのシングル名」という文言は、()説明文の後ろでもいいかもしれません。
- 作品あるいは作品群、CDなどのアルバム名(書名・雑誌名・交響曲などの曲名・組曲などの名称・映画名・小説名・戯曲名・著名な評論名・テレビの番組名・イベント名・大会名など)は、和文では『 』で囲み、欧文では(入力を
''……''
として)イタリック体にします。- 例: 『海辺のカフカ』・『憂国』・『動物の謝肉祭』・Yesterday ... and Today・『ローマの休日』・『報道ステーション』
- 作品中の小題、CDなどのシングル名(書中の章名や見出し名・小説の章名や話名・戯曲の幕名・交響曲などの楽章名・テレビ番組の企画名や話名)は、和文では「 」、欧文では、英文における “...” または各言語においてそれに相当する括弧で囲みます。
単独の作品でも、作品群中の一作品として記述する場合(雑誌中の寄稿論文名・全集中の収録作品名・詩集中の詩名・組曲中の曲名・シングルやアルバム中の曲名など)も同様とします。- 例: Nature “Molecular Structure of Nucleic Acids”・『展覧会の絵』「プロムナード」・Yesterday ... and Today “Yesterday”・『古畑任三郎』「ラストダンス」
- ※ ただし文学作品記事の冒頭説明文などで、過去に掲載された雑誌媒体などの物理的な出版形態とは相対的に独立して存在している作品を指すときには、その小説名などは『 』のままでもよい。また、作家の年譜など、複数の作品のその時の状況を時系列を追って説明されるような場合には、その掲載作品名は「 」で囲むことが望ましい。
- 例: 小説『○○』は、1987年に文芸雑誌『××』に掲載された後に、▼▼社から単行本刊行された。現在は◎◎社から刊行されている。
- 例: 1987年に文芸雑誌『××』に短編「○○」が掲載、1989年には新聞『▼▼』に長編「●●」が連載。
--みしまるもも(会話) 2014年4月19日 (土) 13:15 (UTC) 加筆--みしまるもも(会話) 2014年4月19日 (土) 13:24 (UTC)
- 改定案2は、最初より大分明快にはなったと思います。趣旨自体は変わらないので反対理由も変わりません。
- それで「そんなおかしな基準の表記方法は、日本文学の分野にはありません。」ということを繰り返しておられますが、現に確認できると言っているところでなぜそのような断言を続けられるのかわかりません。他の人も容易に確認できそうなところでは例えば新潮文庫『彼岸過迄』の柄谷行人の解説、『こころ』の三好行雄の解説にそのような使い分けが見られます。客観的な根拠をなにも示さずに「日本文学の分野ではそのような表記はされない」といったことを続けられては議論にも何にもなりません。
- 「寄稿雑誌とそれに密着的な関係の各論文と、物理的に存立している性質の文学作品との違いについて」というのも根拠がわかりません。論文雑誌にも文芸雑誌にもいろいろな性質のものがあります。
- 戯曲は上演されうるという性質もありますから、小説と同じように扱うことはしにくいかもしれません。気づかれなかったかもしれませんが、井戸端で紹介したPDFでは「一幕ものの戯曲」を区別して「」を使用するとしており、妥当な判断かと思います。
- この調子で議論を続けられても、あまり生産的な結論は得られないと思います。--新続頭痛(会話) 2014年4月19日 (土) 14:03 (UTC)
- (追記)それで私のガイドラインの解釈が誤解である、という点ですが、上のようなかたちで抜本的な書きなおしをしなければその「誤解」が正せない、ということをご自分で示されている時点でほぼ説得力を失っていると思います。--新続頭痛(会話) 2014年4月19日 (土) 14:29 (UTC)
新続頭痛さんの誤解を正せないと、改定案の意味がないということはありません。そもそも現在の「表記ガイド」も、短編小説に対しては一貫して「」を用いる という指針にはなっていませんし、そのような解釈をしている人も井戸端の意見を募ってみてもいませんでした。そして今回、説明文を改訂するのは、別に新続頭痛さんの誤解を解くためだけではなく、より分かりやすい説明文にするためであって、「表記ガイド」の指針自体は基本的には変わりません。井戸端で新続頭痛さんがリンクしたものも、短編が『』表記になっているものもあったので、短編小説に対しては一貫して「」を用いる という理由にはなってなく、論拠になってませんでした。
昨日新続頭痛さんが挙げた新潮文庫は今手元にないので、はたしてそれが本当に、短編小説に対しては一貫して「」を用いる という理由に基づいて「」表記になっているのかは、井戸端のリンクのようによく中身を確認しなければなりません。たまたまそこに短編の「」があるというだけでは、短絡的に(短編=「」)とも言えませんし、メインで語っている小説と区別する意味で表記を変えていたり、書籍になっていないから表記を区別している場合もあるので、よく前後関係を確認しないといけません。それと、短編小説が「」表記となっているものが一つや二つあるだけで、その評論家が、いつでもどんな時でも、短編小説に対しては一貫して「」を用いる という基準に基づいて、様々な作家の解説をしているとも限らないので、たったそれだけの短い解説や日報の中に、「」表記の短編小説の事例があったからといって、短編小説に対しては一貫して「」を用いるというのが、その評論家のスタンダードとは断定できません。
私が持っている評論本でも、三島由紀夫が10代の時に書いたものはなぜか「」表記にしている人もいますが、『憂国』や『英霊の声』は「」にはなってませんでしたので、短編小説に対しては一貫して「」を用いる という理由に基づてはいませんでした。また、三島由紀夫や川端康成の新潮文庫の解説「人と文学」や年譜は、一貫して「小説名」は全部同じ表記になってます。雑誌掲載時でも、雑誌と同じ『』表記になっており、長編だから短編だからという基準にはどれもなっていませんでした。その時々の解説者が書く解説内の表記も、短編だから長編だからという理由で表記を区別しているものはまず見当たりませんでした。安部公房の短編『水中都市』の解説をしているドナルド・キーンも、収録短編を『』表記にしてますし、三島由紀夫が自作解説している短編も全部『』になっており、雑誌掲載時のことを語っている時も表記は同じになってます。全集の年譜や書誌でも長編も短編も同じ表記で統一されており、「」表記ならばそれで統一されてます。なので全体から見れば、「小説の長さ」基準で表記を変えているものはほとんどないと言っていいものです。
それから、「戯曲は上演されうるという性質もありますから、小説と同じように扱うことはしにくい」という新続頭痛さんの主張は、両者を全く別の性質のものとする根拠になりません。短編小説も舞台で朗読劇のように上演されることもあり、朗読番組や朗読CDもありますし、安部公房の短編小説は、少し書き変えて戯曲になっているものが沢山あるので、両者はそんなかけ離れた性質ではありません。また、「一幕ものの戯曲」は、どんな時も「」で表記するなどという基準も、三島由紀夫や安部公房の戯曲を見るかぎり、そんな表記方法はありません、戯曲には「場」というものもあるので、それなら「5場」から成っている戯曲『班女』は、同じような長さの『卒塔婆小町』と表記を変えなければいけないのかという、新たな混乱が出てきます。井戸端で新続頭痛さんがリンクしたものを見ても、「戯曲集の中の一幕物」と書かれているだけで、「一幕ものの戯曲」とはなってませんでした。
そして、もしも「一幕ものの戯曲」は、どんな時も「」で表記するという基準と、短編小説に対しては一貫して「」を用いる という基準を同時並行させると仮定するなら、複数の「章」がある短編小説と、複数の「幕」がある戯曲で、表記がバラバラになり、それこそ混乱の元になります。このように、作品の「長さ」で表記を変えようと考えること自体が、日本文学の作品表記において全くそぐいませんので、新続頭痛さんの「表記ガイド」解釈にそって、「一幕ものの戯曲」は、どんな時も「」で表記するとか、短編小説に対しては一貫して「」を用いる などという基準は到底無理がありますし、一般的な日本の文芸評論や作家論、全集の書誌情報や年譜でも、そのような基準がスタンダードになってはいません。--みしまるもも(会話) 2014年4月20日 (日) 02:58 (UTC)
- (付記) 新潮文庫『彼岸過迄』の柄谷行人の解説と、『こころ』の三好行雄の解説を確認しました。
- 『彼岸過迄』の柄谷行人の方は、夏目漱石の小説『彼岸過迄』『それから』『吾輩は猫である』『三四郎』『門』『行人』の名称は出てきましたが、短編小説の名称はありませんでした。江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」が一つ、「」表記になっていただけでした。たった一つの「D坂の殺人事件」表記だけをもって、、短編小説に対しては一貫して「」を用いる という理由に基づいて「」表記になっているのかは判断できません。夏目漱石以外の作品だから目立たなくしているのかもしれません。
- 『こころ』の三好行雄の方は、夏目漱石の小説『こころ』『彼岸過迄』『行人』『先生の遺書』の名称が出てきました。このうち『先生の遺書』については文中で
- 数種の短編を書きつぎ、それをあわせて総題を『心』とする予定だったという。しかし、<某短編『先生の遺書』を書き込んで行くうちに、予定通り早く片が付かない事を発見したので>(初版序)、『先生の遺書』だけで連載を打切り、…
- と書かれてあり、夏目漱石に関しては、短編だからといって「」表記となってはいませんでした。そして、森鴎外の「興津弥五右衛門の遺書」、阿部次郎の『三太郎の日記』、武者小路実篤の『友情』は、森鴎外だけ「」表記となってますが、これも森鴎外の短編は、書籍になっていないために「」表記にしたのかもしれませんから、これだけでは何を根拠にしているのか不明ですし、夏目の短編『先生の遺書』が『』表記になっていることも考え併せると、はっきりと短編小説に対しては一貫して「」を用いる 基準かどうかは分かりません。
- そして『こころ』の巻末に載っていた年譜では、夏目漱石の長編小説も短編小説も評論も全部が『』表記に統一されてました。この表記の仕方は、三島由紀夫や川端康成の年譜の記載方式と同じでした。なので、新潮文庫の『こころ』を見ても、短編小説に対しては一貫して「」を用いる という基準がスタンダードになっているとはいえませんでした。--みしまるもも(会話) 2014年4月20日 (日) 07:02 (UTC)
- まず付記の部分について。『先生の遺書』というのは最初に漱石による序からの引用文中でこのような表記で出てきます。解説者が言及しているのはその直後でもあり、また長短のある作品として現存するものでもないから混乱を避けるために合わせたというだけでしょう。「森鴎外の短編は、書籍になっていないために「」表記にしたのかもしれません」「たった一つの「D坂の殺人事件」表記だけをもって、短編小説に対しては一貫して「」を用いるという理由に基づいて「」表記になっているのかは判断できません」というのは私には何を言っているのか理解できませんでした。年譜と解説は作者が違いますから表記は違うのは当然かと思います。新潮文庫のどれも年譜と解説の鉤括弧の表記方法は大抵一致していません。
- 私はそのような表記方法が現に使われている、ということの簡便に確認できる例として上の二つを挙げただけです。他の表記方法が存在することを否定しているわけではありませんので、みしまるももさんが持っている本のいくつかはこうなっている、ということを挙げられても反証にはなりません。これくらいのことは理解してほしいのですが。--新続頭痛(会話) 2014年4月20日 (日) 09:01 (UTC)
- 段落を戻して反対理由についてもう少し説明しておきます(どちらかというと、uaaさん向けの説明です)。現状、長編小説のタイトルは雑誌掲載など、収録関係を明確に示しているような場合に「」、書名として、または単独で言及する際には『』を使う、というかたちが許容されています(前に述べたように私は一貫して『』を使っていますが)。しかし長編小説というのは連載のかたちであれ、書物のかたちであれ、基本的にそのタイトルが示すものは一つの同じ長編小説しかありません(単行本化の際に加筆修正されて別物になったりすることもありますが、それはとりあえずおいといて)。ですから「こころ」としていたものを文脈によって『こころ』に変えたとしても、ひとつの長編小説であり従って一冊の書物として普及することが多いものである、という情報さえ読者に伝えてあれば別に混乱は起きないのです。
- 短編の場合はそうではありません。小説にしろ論文にしろ音楽にしろ、ある短い作品を収録した作品集がその作品名をそのまま作品集のタイトルにする、ということは広く見られます。ですので区別のために『』は作品集名、「」は収録作品名に使う、という表記方法も広く見られます。こういう表記が広く見られるものに対して、たとえその名前を冠した作品集がないからといって、同じ記事内で同じ短編に対してある場合は「」、ある場合は『』を使ってしまうと、ぱっと見その名前の作品集があるのかと思われかねません。実際に表題作として収録されている作品集があるのであればなおさらで、文脈上明らかな場合でも視覚的に混乱を招きます。それを回避するためにはいちいち「短編『○○』」のように前書きをつける必要が出てきてしまいます。文章がくどくなるし、執筆者にも閲覧者にも不親切です。短編に一貫して「」を使う場合でももちろんそのような前書きをつけることがありますが、左記のように「つけなければわからなくなりかねない」状態に較べれば見て取りやすさも文章の自由度もこちらのほうが上です。
- 中間的な形態で迷いが出そうなもの、というのは例えば明らかに短編という長さのものだが単独で刊行されて広く普及している、とかそういったようなものだと思います。井戸端で意見があったように、鉤括弧というのはまず地の文と区別するために用いられます。『』と「」の区別は、その中でさらに区別をする必要がある場合に用いられます。その観点に立てば、作品集に収録される形態が一般的なものは作品集の形態と区別するために「」、一冊の書物の形態で読まれるのが一般的で、収録されるものは全集・選集くらいかあるいはあってもほとんど知られていないようなものは『』、というふうな使い分けが自然にできると思います。それでも迷うケースは出てくるでしょうが、執筆者が迷うようなものであれば現実問題として『』でも「」でも別にさしたる混乱は招かないでしょう。井戸端でその程度の表記ゆれは記事内で一貫してさえいれば問題ない、と言ったのはそういう理由です。
- 要は受容の形態を蓋然的に区別しているのであって、「長さ」でカテゴライズをする目的で括弧を使い分けるわけではありません。少しの長さの違いを判別して使い分けるのはおかしい、というような意見は観点がずれています。『』を使うか「」を使うか迷わないで済む、というのは執筆者の側の便宜であって、閲覧者の便宜ではありません。--新続頭痛(会話) 2014年4月20日 (日) 09:01 (UTC)
- (追記)長編か短編かに関わらずすべて『』でくくる、というのは、文章のスパンがあらかじめ予想でき、上のような使い分けの必要性がないとわかって書く解説文や評論などには適すると思います。不特定多数の執筆者が参加し、記事ごとのスタイルも一定の範囲内ではあれ不特定であるようなところでは上記した理由で(短編を一貫して「」でくくる方法に較べて)適するものではないでしょう。--新続頭痛(会話) 2014年4月20日 (日) 09:23 (UTC)
『先生の遺書』の表記を引用符の中の表記に合わせたというなら、尚更、その解説文内で、短編小説に対しては一貫して「」を用いる というような、作品の長さで表記が変るという厳格な基準にはなってはいないことの証明になってます。それから、たった一つの江戸川乱歩の小説がそこで「」表記になっているからといって、即それが、短編小説に対しては一貫して「」を用いる という基準にならないという意味も、そのメインの作家以外の作品を強調させないために表記を変える人もいますので、たったそれだけでは、その評論家の意図は分からないということです。とにかく、その事例では夏目漱石の小説間で短編小説を「」としているものはありませんでした。
それと、新続頭痛さんが言っている、「長編小説というのは連載のかたちであれ、書物のかたちであれ、基本的にそのタイトルが示すものは一つの同じ長編小説しかありません」というのは違います。例えば、川端康成などは最初から長編のつもりで書いてはなく、短い断章のようなものを短編か長編になるかも分からないままに断続的に(連載ではない)書いていって、結果的に短編か中編か長編かになるだけです。『雪国』『千羽鶴』などはその一例で、雑誌掲載時には「雪国」というタイトルはありません。それに長編小説でも、他の作品と同時収録で本になっているものもありますし、長編だから、必ずしも単独本とも限りません。『千羽鶴』の最初の単行本も、『山の音』と同時収録になってます。ちなみに短編小説でも連載小説はあります。
それから、「『』を使ってしまうと、ぱっと見その名前の作品集があるのかと思われかねません。」というのも、そんな発想を先ず思うのは、Wikipediaの「表記ガイド」で「書籍名だけ」を『』と表記すると思い込んでいる人だけです。普通は、文学作品などの著作名は作品の長さに関係なく『』か「」で表記されているのが一般的ですので、『』を使っているから、即「書籍」だという発想などありません。「小説名」「戯曲名」という著作名を示しているんだと思うだけです。逆に同じ小説にもかかわらず、「」と『』が同時に混在している方が閲覧者にとって「視覚的に混乱」が起きてます。現に坂口安吾の表記を、私は一閲覧者として見て、違和感しかなく、とても変だと思います。なぜ新続頭痛さんは『二流の人』を「」表記にしているのか、納得のいく説明を私にしてください。百科事典の文学記事を見る時に奇妙でしかありません。
新続頭痛さんの主張していることは逆に、長年Wikipediaに居て「書籍名だけを『』と表記する」という考えに囚われている人の側の視点でしかなく、閲覧者のことを二の次にしています。それに、新続頭痛さんはこれまでいろいろなことを言ってますが、代表作を併記する時になぜ長編小説以外は「」表記にしなければいけないのか、正当性があるような説明はこれまで一切ありませんでした。長さでカテゴライズしているわけでないと言いながら、なぜ短編小説に対しては一貫して「」を用いるという結論になるんですか。 新続頭痛さんがこれまで根拠としいる話は、短編小説だけの事例ではなく論点がズレていることは前にも私は言っています。いったい短編小説と中編小説は何が違うんですか。長編小説と中編小説は何が違うというんですか。何度も言っているように、多くの文芸評論や全集の書誌情報でも、同じ作家の代表作をバラバラの表記方法で書いているものはまずありませんので、新続頭痛さんの主張する基準は、文学作品の表記上で全くそぐわない特異な考え方です。不特定多数の執筆者が参加し、多くの一般人が閲覧する記事なら尚更、普通一般に多く普及しているスタンダードな表記方法にするべきです。--みしまるもも(会話) 2014年4月20日 (日) 13:12 (UTC)
「絶対」を強要しないということ
新続頭痛さんが言っているような、「短編小説」と「それが収録された同名作品集」を区別する際には、ガイドラインにもあるように、すでに「」表記が許容されていますので、どうしてもそういう混同のおそれ大きい場合には、その「」表記を採用するなりして対処すればいいことです。また、その名称の作品集がなく、書籍に一回しか収録されなかったような、あまり著名ではない短編小説の場合も、特にその作品が中心的な重きをおいていない場合の記述内では、「」表記にしてもいいんじゃないでしょうか。そういうのは記事内でケースケースで相応しいように考慮して書けばいいことです。
私が何度も言っているのは、そういったケースのために、川端康成や三島由紀夫や坂口安吾をはじめ、長編小説にも中編小説にも短編小説にも同じように重要性のある著名な文学作品が多く存在しているような作家のその作品名を書く際にも、短編小説に対しては一貫して「」を用いる というような基準を強制されては困るということです。そして、現にそのようなガイドラインの指針は現在もありません。短編小説に対しては一貫して「」を用いる などというような、日本の文学作品において無理な表記方法を主張をしているのは新続頭痛さんだけです。--みしまるもも(会話) 2014年4月21日 (月) 01:34 (UTC)
すみません。お二人ともその分野に精通された方なので、何をどう申し上げても脇が甘い、筋が通ってないという批判をされそうで怖いので具体的な提案は避けますが(おそらくそう思っている方は多いはず)、要は、このウィキペディアで統一してどのように表記しようかというのがそもそもの主旨ですから、ここはお互いの価値観とか信念とかをいったん脇へ置いておいて、妥協できる道を探れませんか?そして、一回で完璧なガイドができずとも、長い目で良いものが出来るように考えていったら良いのではないですか?、、、、というコメントをするのも、本当は怖いのですが、もし参考になることがあれば幸いです。それでは。--MEGEVAND (会話) 2014年4月22日 (火) 20:48 (UTC)
- この場に「その分野に精通」している人間は一人もいませんよ。今起こっているのは「価値観」とか「信念」とかいったことのはるか以前の、日本語や通念の理解とか論理的な意思疎通とかいったレベルでの齟齬です。--新続頭痛(会話) 2014年4月23日 (水) 09:33 (UTC)
上に挙げたのと同じ柄谷行人は新潮文庫『堕落論』で同じ表記方法を取っていて、安吾の作品のなかでも「続堕落論」「イノチガケ」「織田信長」(『信長』ではなくて短編のほう)に対して、別に解説の主題でもなんでもない『吹雪物語』だけ二重鉤にしています。他にも日本文学に限っても対談、論文、解説ほかでこうした表記は一定数確認できます。大して量のない手持ちの文献だけでこれだけ見つかるのですから範囲を広げればいくらでも見つかるでしょう。しかしこの例だって「これだけでは長編を区別しているかどうかわからない」「特に重要な作品だからこれだけ二重鉤にしているのかもしれない」などということを言い出せばいくらでも言えてしまう。このような仕方で合わないものを排除したうえで「日本文学でこうした表記をしているのを見たことがない」などと主張されているわけですから、「その分野に精通」などしていなくてもなにか非常におかしなことを言っているのだということくらいはわかるでしょう。(「目立たせないために」って中学生の感想文の話じゃあるまいし)。話を合わせろというほうが無理です。
せっかく議題に上がったところですから、本来であればガイドラインの曖昧な部分を詰めたり、検討しなおしたりといったことにつなげるべきでしょうが、提案者の主張の様相や議論運びから考えて現実的に不可能でしょう。「二流の人」の判断についても他の人なら妥当性を検証できそうな理由に基づいて一重鉤にしているのですが、今それに言葉を費やしても生産的な議論に繋がるとは到底思えません。むしろ何か付け加えるたびにそれが結果的に脱線や議題拡散の材料になってしまう。提案者はどうもとにかくまくしたてて形の上で反論を「論破」すれば提案が通るとでも思っておられるようですが、Wikipediaはそのようには運用されていません。他の利用者も話についてこれていないようですし、このような状況で上の「提案」が通る見込みはないでしょう。現状の文言を触らずとしておく以外どうしようもない。--新続頭痛(会話) 2014年4月23日 (水) 09:33 (UTC)
私やuaaさんが、ガイドラインの曖昧な部分を詰めたり、検討しているのに、それを一貫して反対しているのは、新続頭痛さんです。私は上記でも書いたように、「短編小説」と「それが収録された同名作品集」を区別する際には、ガイドラインでも「」表記が許容されていますので、両者が混同されるようなら、ケースバイケースで新続頭痛さんの裁量で、「」表記すればいい話だと言ってます。でも、だからと言って、そのケースのために、ガイドラインにもないような、短編小説に対しては一貫して「」を用いる などという新続頭痛さんの解釈を、他のところで強制するなということです。
それに、柄谷行人のように表記する人がいても、それは一般的ではありません。「これだけ見つかる」とか「一定数いる」と新続頭痛さんは言ってますが、たったの一人や二人の例で、「いくらでも見つかる」というのは、単なる新続頭痛さんの推測レベルの話です。三好行雄については、『先生の遺書』は「」表記になってませんでしたし、森鴎外も書籍でないから「」表記なのかもしれませんから、何が基準かははっきりしてません。また、個人の解説者が、その人の好きなように書いた個々の表記を出されても、あまり意味のないことです。私が言った「目立たせないために」というのも、人によっては、三島由紀夫の10代の作品を「」表記にしたり、どういう意図か理由もあいまいで「」表記にしている人もいますので、そんな場合もあります。新続頭痛さんは多くの文芸評論をお読みになっていないから、書き手によって特に基準もなく、好きなように変えている恣意的な表記があるのを知らないだけでしょう。ちなみに、柄谷行人も、294頁では『日本文化私観』を、『』表記にしていたり、302頁では「」表記にしていたりと、その時々によって好きなように変えており、一貫性はありませんでした。特にその両者を雑誌掲載時とか書籍で区別しているというわけでもなく、同じような語りにおいて『日本文化私観』の表記がバラバラです。
あと大事なのは、その新潮文庫の『堕落論』の巻末付録にある、出版社が作成した「年譜」では、やはり一般的な表記法にそって、短編も長編も区別なく、雑誌掲載時などは「」表記で統一し、書籍刊行時は『』表記になっていることです。こういうふうに長編も短編も区別なく同じように表記するのは、年譜や共通の解説文や全集の書誌情報ではスタンダードな表記方法です。だから、柄谷行人はこうだとか言われても、それは多数派ではないですし、一般的に多く使われているのは、この新潮文庫の年譜などの表記のように、長編も短編も同じように、雑誌掲載時は「」で、書籍は『』の基準であったり、あるいは、すべて『』になっていたりします。三島由紀夫や川端康成は後者の方になってます。いずれにしても、短編小説に対しては一貫して「」を用いる というのは、スタンダードな表記にはなってませんし、年譜、全集の書誌情報、百科事典には相応しくない表記です。
それから、『二流の人』も短編小説ではないのに、なぜ新続頭痛さんの基準では、「」表記にしているのか意味不明です。『二流の人』は中編小説だから「」だということでしょうか? 長さ的には長編小説の方に近いですが、新続頭痛さんの判断では短編小説と同じ扱いということになるんですか? 新潮文庫の年譜の基準では、執筆時や雑誌掲載時は、短編長編にかかわらず、「」表記にしてますから、それなりに統一されており、理由や基準ははっきりしてますから、他の長編や中編と同じようになっていているので納得できますが、新続頭痛さんは、そのスタンダードな表記法や、Wikipediaの表記ガイドとは違い、どんな時(雑誌掲載時)でも長編小説は『』表記にしているのに、ほぼ長編の『二流の人』が短編扱いに何故なるのか、いったいどんな理由なのかを説明してください。そうでないと、新続頭痛さんの基準での、「中編小説の表記の基準」が全く分かりません。まさか中編小説も、 中編小説に対しても一貫して「」を用いる なんて無理な表記の解釈をしているんでしょうか。--みしまるもも(会話) 2014年4月23日 (水) 12:40 (UTC) 加筆--みしまるもも(会話) 2014年4月24日 (木) 00:51 (UTC)
- すでに議論が正常な形で成立していないことは他から見ても明らかだと思いますので、これ以上なにかを付け加える必要を感じません。あなたは自分で自分の提案を潰しにかかっているのと同じことだと思います。--新続頭痛(会話) 2014年4月24日 (木) 08:45 (UTC)
新続頭痛さんは、私の真面目な疑問や質問には答えられない、説明できないということですね。承知いたしました。--みしまるもも(会話) 2014年4月24日 (木) 08:59 (UTC)
- 合意形成や意見の整理・すり合わせができるような議論状況では到底ない、と言っているのです。--新続頭痛(会話) 2014年4月24日 (木) 09:01 (UTC)
合意形成や意見の整理・すり合わせを最初から拒否しているのは、新続頭痛さんの方です。新続頭痛さんは、「改定案2」のところで、
- 「最初より大分明快にはなったと思います。趣旨自体は変わらないので反対理由も変わりません」
と言い、結局、短編小説に対しては一貫して「」を用いる という中身にならなければ、反対することには変わりないという姿勢をただ貫いているだけですので、私やuaaさんが、「ガイドラインの曖昧な部分を詰めたり、検討して、文言を変えて、短編小説に対しては一貫して「」を用いる などという無理な解釈の意味に誤解されないようにすること自体」が嫌なだけです。これは井戸端のときから、新続頭痛さんが最初から「反対する」と明言してますので、明らかなことです。新続頭痛さんにしてみたら、今のままの方が新続頭痛さんの好きなように、いくらでも、短編小説に対しては一貫して「」を用いる という、新続頭痛さん独自の解釈がされやすいままになるからです。なので、いくら議論を重ねて、こちらが真面目に質問や疑問点(なぜ新続頭痛さんが『二流の人』を短編と同じ「」表記にするのか)を投げかけても、新続頭痛さんはそうやって、はぐらかし続けるだけです。
結局、短編小説に対しては一貫して「」を用いる という方針にならなければ、新続頭痛さんは、ガイドラインの文言を変えること自体を反対し続けるだけですので、とりあえず、「小説名」という一句を『』のカテゴリーに書き加えることだけはさせていただきます。同じ文学作品名の「戯曲名」が書いてあって、「小説名」があってはならないということは、どう考えてもありえませんので、これだけは書き加えさせていただきたいと思います。uaaさんやMEGEVANDさんの同意があれば、「小説名」を「戯曲名」の横に書き加えたいと思います。--みしまるもも(会話) 2014年4月24日 (木) 11:16 (UTC)
- そのような合意は形成されていません。合意なくガイドラインを書き換えてはいけません。--新続頭痛(会話) 2014年4月24日 (木) 12:54 (UTC)
「戯曲名」の横に「小説名」を書き加えさせてください
現在のガイドラインでも、「著作物名」は基本的に『』表記にしていいことになってますので、そこのカテゴリーに含まれている「戯曲名」「映画名」と同じように芸術作品名・文学作品名である「小説名」を入れてはいけないというのは論理的にありえないでしょう。これは別に現状のガイドラインを変更することでは全くありません。「」表記にする場合の事例については、その下で説明されていますので、そのケースによっては小説名も戯曲名も「」表記になることは示されており、許容されています。短編小説集と、その個別作品を区別させたい時は、「」表記は十分許容されてます。
なので、私はなにも、小説に対しては一貫して『』を用いろ などという解釈を、新続頭痛さんのように他者に強制するつもりなど一切ありませんし、そんなガイドライン解釈にもなりえないのは、ガイドラインをよく読めば分かることです。「小説名」を書き加えたら、ガイドラインが変って、小説に対しては一貫して『』を用いる という基準になるなどと、怖れを抱いてビクついているのは新続頭痛さんだけです。
そもそも著作物名の表記というものは、そのケースバイケース(雑誌掲載関係、収録関係など)によって「相対的」に変わりうるものですので、新続頭痛さんのように、一貫して などという姿勢を貫き通すこと自体が、この表記ガイドの指針が逸脱した考えです。新続頭痛さんは今、短編小説に対しては一貫して「」を用いる 、長編小説に対しては、雑誌掲載時でも一貫して『』を用いるという基準の表記をしていますが、それこそ、現在の表記ガイドを無視していると言えます。井戸端のご意見でも、そのような特異な新続頭痛さんに賛同している方は誰もいませんでした。
なので、新続頭痛さんには現在のガイドラインをある程度、ちゃんと守ってもらい、短編小説に対しては一貫して「」を用いる 、長編小説に対しては、雑誌掲載時でも一貫して『』を用いるなどという、ガイドラインにないような手前勝手な表記は控えてもらいたいと思います。そうしないと、坂口安吾の現在の表記のように、同じように雑誌掲載時の経過を説明しながらも、長編小説だけが『』になっていたり、中編小説が「」表記になっていたりと、何が何だかごちゃごちゃで、非常に汚らしいバラバラ表記で、閲覧者にも執筆者にもわけが分かりません。新続頭痛さんのあの書き方は、一般的な表記どころか、このWikipediaの表記ガイドからも外れてます。--みしまるもも(会話) 2014年4月25日 (金) 03:24 (UTC)
- 小説や戯曲の鉤括弧表記はどのようにするのが最適か、本来であれば検討に値する問題ですが、議論提起者がこのような状態ではどうしようもないでしょう。まくしたてれば意見が通るわけではない、ということを書きました。他の利用者をおいてけぼりで自分の考えだけ滔々と書き連ね、反論があればその趣旨と関係あろうとなかろうととにかく少しでもおかしなところを見つけ出して論難する、これで合意など成立するわけがない。本件の提起者は、Wikipediaの議論についてなにか重大な誤解をしているようです。--新続頭痛(会話) 2014年4月25日 (金) 10:51 (UTC)
新続頭痛さんに対する私の真面目な質問や疑問点には、一切、真摯に説明・返答をせずに、そういうふうにはぐらかして、全て私が悪いから議論ができないかのようなレッテルを貼るんですね。本当に卑怯でずるい人です。
私が言っていることは、何も新続頭痛さんが、短編小説を「」表記するのを止めろなどということではありません。あなたが短編小説集と、それと同名の短編小説を区別する際には、今までのように、そのケースで適切なようにおやりになればいいことだと言ってるんです。
しかし、それを例えば、三島由紀夫や川端康成や坂口安吾のように、短編小説も中編小説も長編小説と同じように重要性が高く、代表作がある場合の作家の作品を同列で列記する場面においても、短編小説に対しては一貫して「」を用いるなどという無理な解釈を強制して「押しつけるな」ということです。
はっきり言うと、新続頭痛さんが今実行しているご自分の解釈(短編小説に対しては一貫して「」を用いる 、長編小説に対しては、雑誌掲載時でも一貫して『』を用いる)などという、表記ガイドの指針でもない、変てこりんで無理な手前勝手な絶対基準を、人にまで強制するなということです。--みしまるもも(会話) 2014年4月25日 (金) 12:09 (UTC)
- 一人が言いたいことを一方的に言い続けるだけでは議論は成立しません。それがわからないのであれば、どうしようもない。--新続頭痛(会話) 2014年4月25日 (金) 13:43 (UTC)
反対 現時点で、如何なる改訂も事態の改善に資するとは思えません。ことに例示の項目を足したり引いたりといった小手先の改訂に意味は無いでしょう。提案者は改定によって何がどう改善されうるのかを論理的に示していません。新続頭痛氏の解釈が間違っているだけで「ガイドラインをよく読めばわかる」のであれば、ガイドラインを改正する理由はないことになり、主張が矛盾しています。--Kojidoi(会話) 2014年4月26日 (土) 10:49 (UTC)
(Kojidoiさんへ)
私は、「ガイドラインを改正」するつもりは全くありませんし、「ガイドラインを改訂しろ」とも主張してません。井戸端(Wikipedia:井戸端/subj/小説における著作物名の表記の『』と「」の区別の仕方について)でも、皆さん常識的にこのガイドラインを解釈しており、誰も新続頭痛さんのように、短編小説に対しては一貫して「」を用いるなどという判断をしている人はいませんでしたから、「ガイドライン」自体を変える必要性は今のところはありませんし、私も「ガイドラインを改正、改訂」しろとは、どこでも主張はしていません。そのことは、きちんと一番上の方から、順を追って全部を詳細に読んでくだされば、分かることだと思います。
私やuaaさんは、「解釈」の誤解を招きかねない記述があるので、その「説明の書き方」を少し変えて、分かりやすくした方がいいのではという提案をしていただけです。本当の案の一例、二例案は、上の方にあるので、それもあらためてよく見てくだされば意味がよくお分かりになると思います。でも、Kojidoiさんのように反対する人がいれば、私は無理強いすることはしませんし、新続頭痛さんも一切それに反対するだけですので、それが叶うことは現実的にはないでしょう。
とりあえずは、上でも言ったように、新続頭痛さんが今実行しているご自分の解釈(短編小説に対しては一貫して「」を用いる 、長編小説に対しては、雑誌掲載時でも一貫して『』を用いる)などという、表記ガイドの指針でもない、変てこりんで無理な手前勝手な絶対基準を、人にまで強制しなければ、基本的に済む話ですので。そんなことで、ねちねちと干渉されたり、強制されたりして記事執筆に費やす時間が削られたりしたら困りますので、それさえ無理強いされるようなことがなければ、もうどうでもいいです。--みしまるもも(会話) 2014年4月26日 (土) 13:22 (UTC)
楽曲タイトルの表記言語とテンプレートでの言語指定について
記事「マイケル・ジャクソン」において、原題である英語で記載されていた楽曲タイトルを私が公式の日本語題に変更したところ[3]、「日本語題での表記は義務付けられていないはず」[4]として差し戻しを受けた[5]。その後、私が導入部での人名の原語表記についてTemplate:Lang-enを用いて指定したところ[6]、「Wikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)に違反している」としてこれも除去を受けた[7]。相手方のこのような編集はjawikiの方針・ガイドラインに適ったものであると言えるのであろうか。--114.149.247.179 2014年8月3日 (日) 18:34 (UTC)
人名のスタイルについて
この表記ガイドのルールには、「人名に肩書・敬称・学位・位階・勲などは付けないでください(Wikipedia:スタイルマニュアル#人物・人名によります)」とあり、私は一国の大統領や首相、さらには野球選手にまでこのルールを適用してきました。
- × バラク・オバマ大統領、安倍晋三首相、星野仙一監督、嶋基宏捕手 (すべて敬称にあたる書き方)
- ○ 大統領バラク・オバマ、首相安倍晋三、監督星野仙一、捕手嶋基宏 (または役職と氏名の間に「の」を入れた表記)
しかし、uaa氏から私の会話ページに「執筆者は当マニュアルで規定するスタイルに絶対に従わなければならないわけではありません」の文言もあるので、がんじがらめに適用しなくてもよい、という趣旨のクレームがつきました。「じゃあ、何のためのガイドラインなんだ」とも言いたいですが。
ここで皆様からご意見を募りたいのですが、人名に敬称をつけるのは皇族・王族以外にも場合によっては適用しても問題ないのか、それともやはり人名に敬称はつけないのがベストなのか、どうお考えでしょうか。私は少なくとも、スポーツ選手やスポーツ監督には敬称にあたる書き方は慎むべきと考えます。実際に、新聞であってもコラムの場合は敬称をつけない文体になっています。--Fielder(会話) 2014年8月17日 (日) 14:10 (UTC)
コメント 私の記事が一端緒になったようなので一言だけ。ガイドラインの最も重要な趣旨は「敬称等の使用による権威付けによって、記事の客観性を毀損することを防止する」ことだと考えます。「何某博士がこう言っている」というような例です。ただFielder氏が主張される「嶋基宏捕手のような表現が敬称に当たり避けるべき」というのは、さすがに一般社会では通用しません。属性あるいは職能を表わす表現と、敬称や肩書は別個のものです。「捕手」はチーム内での役割を明示するに過ぎません。あまり瑣末に流れずガイドラインを運用することを望みます。--TX2468(会話) 2014年8月17日 (日) 15:37 (UTC)
- 第三者の方からのご意見がつく前のコメントで恐縮ですが、書かせていただきます。
百科事典では敬称はつけない、すなわち呼び捨てが原則でしょう。「一般社会で通用しない」と仰っていますが、一般社会で呼び捨てが通用しないのは当然であり、ここで一般社会を例に出すのは的外れです。新聞記事であってもコラムでは敬称略、すなわち呼び捨てで書かれているのに、百科事典でこういったガイドラインが守られていないのは稚拙すぎます。--Fielder(会話) 2014年8月17日 (日) 15:50 (UTC) - 追記。属性や職能を表す表現であっても、人名の後につければ(例:三木谷浩史オーナー)、それは立派な敬称です。--Fielder(会話) 2014年8月17日 (日) 15:53 (UTC)
- コメント 指摘の「首相」「監督」といった言葉は、一般にそういう地位にある人が敬意を払われる傾向にある、というだけであって、敬称ではなくどちらかと言えば肩書なのではないでしょうか。人名の前につけるか後につけるかで敬称であるかどうかが変化するとは、私には思えないです。私はこれまで、この規定のところを見落としていて、まさに指摘されるような表現を使ってきましたけど、これを制限されるのはさすがに違うように思います。人名を文中に記載するときに、どういう立場にある人であるかを一緒に書くことは読者の理解に資するわけですし、その際に人名の前に書くように制限するというのはあまり意味がないことだと思います。肩書を後に付けたからと言って、「記事の客観性を毀損する」とは私には思えないです。そのようにガイドラインを読めるならば、ガイドラインを改訂すべきだと思います。--Tam0031(会話) 2014年8月17日 (日) 16:09 (UTC)
- コメント 地の文での「人名+役職」の表記は他の百科事典、歴史書などでも普通に使われています。手元の『ブリタニカ』や『マイペディア』では、ニクソン大統領とか、福田首相とかの表記があります。Fielder氏の言われていることは敬語の使い方ですので、敬語を使わない百科事典の文章に適用する意味はありません。なお、敬語の文脈においては、「役職の人名」も中立的な表現ではないことを指摘しておきます。 --Yhiroyuki(会話) 2014年8月17日 (日) 16:36 (UTC)
- コメント 結論から先に言えば、名前の後に職位名をつける/つけないは、前後の文脈や内容で判断すべきものであって、杓子定規に適用するものではないでしょう。無論、つけない方が望ましいのですが(科学分野の記事なら例外なく敬称はつけないのですがね)。ただし、名前の後に職位名をつけることが「敬称に当たらない」とするのは誤りではあるので、「敬称に当たらない」と主張される方々においては、その点認識を改めていただきたく思います。--森藍亭(会話) 2014年8月17日 (日) 17:40 (UTC) 下線部追記。--森藍亭(会話) 2014年8月17日 (日) 18:00 (UTC)
- (Fielder氏 2014年8月17日 (日) 15:50 (UTC)へのレス)話がかみ合ってませんね。TX2468氏が言ってるのは、「属性あるいは職能を表わす表現」を敬称扱いすることが「一般社会で通用しない」ということなんですよ。それと、氏の本ガイドラインの趣旨についての認識はWikipedia‐ノート:表記ガイド/過去ログ8#肩書についての結論とも共通してますね。要するに、あなたが本ガイドラインの趣旨も考慮せず、”敬称”を拡大解釈しているということです。
- 「属性」や「職能」は、本ガイドラインで「原則として付けない」とされている「敬称」や「肩書」には該当しません。過去の議論や趣旨を鑑みても、そう解すべきでしょう。そもそも、本ガイドラインは「ウィキペディアの記事における表記方法の慣習を説明」するのが目的ですよね。御自身がウィキペディアの記事に於いて広く使われている表記方法を否定するような解釈をしていることにいい加減気付いてくださいよ。「ただし、このガイドラインはすべての記事に絶対に適用しなければならないものではありません」ともあります。つまり、日本語として珍妙な表現にしてまで当ガイドラインに従う必要はないということです。だから、御自身でも「少々まどろっこしい」なんて思いながらそのような表現に書き換えるのが理解できませんね。更に、人名については「付けることが慣習となっているもの」には適用しない旨が明記されています。これは、文中で例示されている「皇族・王族」のみに限定されていません。
- ところで、日本語の百科事典では全て「大統領バラク・オバマ」とか「首相の安倍晋三」という表現に統一されてるんですか?「バラク・オバマ大統領」や「安倍晋三首相」という表現は使われてないんですか?--uaa(会話) 2014年8月17日 (日) 18:04 (UTC)
- 敬称は厳密に言えば様、君などの接尾語で、閣下、陛下など代名詞としても使用される、いわゆる尊称も含みますが、ウィキペディアで使用される頻度はあまりないでしょう。問題のほとんどは、「敬意を払うに足る肩書」についての考え方だと思います。これには主計局長、陸軍大将といった職名や男爵などの栄爵が含まれます。実際のところ行政や軍事に関する記述でガイドラインを厳守することはなかなか困難です。肩書で回っている世界ですから。真崎甚三郎軍事参議官をを「軍事参議官の真崎甚三郎」と書くことはできますが、その方法で二・二六事件を詳述すれば文章がどうにもならなくなります。であればこそuaa氏の言われるガイドラインの例外規定があると考えます。「田中証人」、「鈴木研修員」、「近藤運転手」といった人の属性や職能に関する表現は、一般に敬意を払うものではないので問題はないでしょう。社会通念上、野球選手の守備位置も同じことと考えます。要はガイドラインの趣旨を理解し、可能な努力を払うことにつきると思います。--TX2468(会話) 2014年8月18日 (月) 02:17 (UTC)
(第三者の方へ)これまでの経緯については、利用者‐会話:Uaauaa#マシュー・ペリーでの要約欄について利用者‐会話:Fielder#Wikipedia:表記ガイドの乱用について利用者‐会話:TX2468#敬称にあたる書き方は謹んでください。利用者‐会話:Fielder#「敬称にあたる書き方は謹んでください」へのご返事を参照してください。--uaa(会話) 2014年8月17日 (日) 18:04 (UTC)
コメント 私が記事を執筆する際には原則呼び捨てにします。しかし機械的に敬称を修正して回るのは問題ありで、例をあげてみます。某壱太郎投手の記事として『某壱太郎の完全試合達成に対し、某弐次郎捕手は「スプリットが非常に良かった」、対戦相手の某参三郎監督は「スプリットを狙わせたが失敗だった」と語った』という記述から「捕手」と「監督」を機械的に削除したとすると、非常にわかりにくくなるのではないでしょうか。もちろん、『某壱太郎の完全試合達成に対し、バッテリーを組んだ某弐次郎は「スプリットが非常に良かった」、敵将の某参三郎は「スプリットを狙わせたが失敗だった」と語った』などとすることで対応できるわけですが。要するにケースバイケースであり、片っ端から敬称を削除して回ったり、他の利用者に「敬称を使うな」と要求するような性質のものではないと考えます。ガイドラインはあくまでも原則にすぎない、という点を忘れないでいただきたいと思います。なおFielderさんの投稿履歴を拝見しましたが、あらしへの対処などでお疲れなのでしょうか、「いい加減にせよ!」「ルール違反!」「時系列くらいしっかりまとめるべき」など要約の文が荒れ気味と感じます。他の利用者への敬意をもって行動していただきたいと思います。--143.90.212.40 2014年8月18日 (月) 09:55 (UTC)
- 簡単な返信で失礼しますが、143.90.212.40さんのご意見は非常に参考になります。私も『某壱太郎の完全試合達成に対し、バッテリーを組んだ某弐次郎は「スプリットが非常に良かった」、敵将の某参三郎は「スプリットを狙わせたが失敗だった」と語った』という言い回しに変えて対処するようにしていましたが、ご指摘の通り荒らしへの対処の疲れもあり、ここのところは要約文が乱暴気味になったり野球記事でポジションを機械的に削除するだけにとどめたりしてしまっていました。「ケースバイケース」ということは念頭に入れて編集に務めたいと思います。--Fielder(会話) 2014年8月18日 (月) 10:36 (UTC)
今更すみません。Fielder様に強く同意します。桜井誠 (活動家)で「橋下徹大阪市長」を「大阪市長橋下徹」というような編集をしたら、Uaauaa様によってRvされ、この議論へ誘導されました。市長・首相・大臣などは政治家の役職を現すとともに、敬称に該当すると思います。TX2468様が仰っている「ガイドラインの最も重要な趣旨は「敬称等の使用による権威付けによって、記事の客観性を毀損することを防止する」ことだと考えます。「何某博士がこう言っている」というような例です。」に該当すると判断しました。「捕手」や「投手」の場合であれば、「~杓子定規に適用するものではないでしょう」(森藍亭様)「ケースバイケース」(143.90.212.40様)という御意見も肯けますが、政治家の場合は、敬称を除去すべきケースではないでしょうか? ましてや、私の編集をわざわざRvまでする必要があるのか疑問に感じます。--JapaneseA(会話) 2014年10月26日 (日) 13:58 (UTC)
- 「政治家の役職は敬称に該当しない」という意見も複数出ており、「政治家の役職も書き方によっては敬称に該当する」という意見は一部ですね。御自分に都合悪い意見は無視ですか?これまで寄せられた意見は、「政治家の役職も書き方によっては敬称に該当するけど杓子定規に適用するものではなくケースバイケース」と「政治家の役職は敬称に該当しないから適用対象外」に集約されると思います。何れにせよ、「敬称を除去すべきケース」ではないでしょう。政治家の公人としての言動を記述する際に用いられた表現を、科学分野の記事で「何某博士がこう言っている」と書くのと同列に扱うことが無茶苦茶ですね。「当該部分に政治家の肩書きを入れと敬称になる」とする理論的な説明を求めたいです。実際、当該箇所に肩書きがあることが「記事の客観性を毀損」しているのですか?
- そもそも、「大阪市長橋下徹」とか「首相安倍晋三」が日常的に多く使われる、自然な表現なんでしょうか?不完全な表記ガイドに書かれた一つの単語を振り回してまで、珍妙な表現に書き換える必要はないでしょう。それが「杓子定規に適用するものではないでしょう」ということですよね。それに、要約欄で「Wikipediaでは陛下でさえも呼び捨てです」と仰ってますが、「人名に肩書・敬称・学位・位階・勲などは付けないでください」の後に「皇族・王族などで付けることが慣習となっているものは例外とします。例: 後醍醐天皇 」とありますよね。要するに、ガイドラインを守るために習慣的に使われている表現まで排除しなければならないというものではないということです。「大阪市長橋下徹」とか、ウィキペディア方言とも言えるような表現であり、Rvすべきケースでしょう。--uaa(会話) 2014年10月26日 (日) 16:06 (UTC)
- これまでの議論を見るに「「政治家の役職は敬称に該当しないから適用対象外」に集約される」とは解釈できませんでした。あとは合意形成のコメント依頼とします。--JapaneseA(会話) 2014年10月27日 (月) 04:20 (UTC)
- 「「政治家の役職も書き方によっては敬称に該当するけど杓子定規に適用するものではなくケースバイケース」と「政治家の役職は敬称に該当しないから適用対象外」に集約される」と言ったんですけどね。何れにせよ、「首相安倍晋三」なんて書き方に統一するべきという意見は無かったということです。コメント依頼の依頼文が「A大臣とするか大臣のAとするかで意見が分かれています」となってますが、そのような二者択一的な意見は出ていません。もし、ガイドラインの文章にそう解される余地があるなら、ガイドラインから当該部分を削除すべきでしょうね。--uaa(会話) 2014年10月27日 (月) 12:26 (UTC)
- 情報 役職名が後置される例[8]。他、『百科事典マイペデイア』(2008)でも、政治家の役職を後置する例を確認しています。 --Yhiroyuki(会話) 2014年10月27日 (月) 06:06 (UTC)
- コメント コメント依頼からです。政治家であっても前後の文脈で判断するべきだと思われます。政治家の場合、氏名+役職名でも敬称と取られるかどうかは半々だと思われます。政治家にとって馴染み深い敬称って○○国務大臣とかではなく、○○先生とかじゃないでしょうか。国務大臣の○○先生と書いたら流石にダメだと思いますが、文の流れとして○○大臣のほうが自然ならそうするべきです。どちらかと言うと大臣とか市長とかはどちらかというと地位を示すものなので階級に近いものだと考えています。「首相安倍晋三」は何らかのサインや、公文書ではみかける書き方ですね。--アルトクール(話/歴) 2014年10月27日 (月) 18:29 (UTC)
- これまでの議論を見るに「「政治家の役職は敬称に該当しないから適用対象外」に集約される」とは解釈できませんでした。あとは合意形成のコメント依頼とします。--JapaneseA(会話) 2014年10月27日 (月) 04:20 (UTC)
- コメント依頼から参りました。
- 論点が噛み合っていません。
- ガイドラインは「肩書・敬称・学位・位階・勲」と言っています。字面通り解釈すれば、「社長」や「市長」が「敬称」に当たらなくても、「肩書」に該当してしまえば、やっぱりアウトということになります。
- ガイドラインは、「肩書類」は人名の後だとダメだけど人名の前なら良いよ、とも言っていません。字面通り解釈するなら、前でも後ろでもアウトです。一番初めにFielderさんは肩書を後置すれば×で、前置すれば○であるかの様に示しましたが、ガイドラインを文字通り読めばどっちも×です。
- したがって、論点は<「市長」「首相」や「役職」は「肩書」に該当するか、YES or NO>になるべきです。(私は該当するとおもいます)
- 「肩書」がつくことが何が悪い、という論点にするのであれば、これはガイドラインを変更する議論です。(市長や首相は肩書ではない、という主張であればまた話は変わってきます。)
- あまり論点になっていないようですが、「肩書とか」を前につけるか後ろにつけるかに関連して、「敬意」とは無関係に、次のようなことを指摘できると考えます。
- Fielderさんが最初に提示したうち「捕手」とかまで「肩書」と言えるのか、これは悩みます。捕手だとややわかりにくいですが、「外野手」に置き換えるとわかりやすい。「外野手として選手登録されているから『外野手』も肩書だ」と主張することは、一応できそうです。しかしそれでは「左翼手」は?「内野手」で登録されている選手が、試合の途中で二塁手から左翼にまわり、さらに投手に交代したら?こう考えると、「捕手」は文脈によって単純に属性を表す肩書だったり、それ以上の意味を内包した説明だったり、変わります。次の2文を読んでいただくと意味が伝わるかなと思います。
- 田中捕手がキャッチした。
- 捕手の田中がキャッチした。
- 精緻に分析しようとすると、この2文は意味が異なります。こうするとその違いが明確になります。
- 捕手がキャッチした。
- 田中がキャッチした。
- こうすると、「捕手」という語の位置は「敬意」とは無関係に文意を変えることがわかります。
- ただまあ、ふだんはここまで厳密に文章を分析なんかしませんから、過度に気にすることもないようにも思います。
- 私は、肩書や役職・役割が付記されることは、単純に文章をわかりやすくするために役に立つと思います。田中って誰だよ、って話になっちゃいますからね。「運転手の田中は」と書かないと、田中がどういう立場で文脈に関わってくるのかわからなくなってしまいます。たとえば「運転手の田中は」と「運転していた田中は」では、文に含まれる情報量が違いますよね。前者は田中が社会的に運転手という立場を有していることは示していますが、厳密には運転していたかは不明です。後者はその逆。推理小説のレトリックみたいなもんですね。しかしふつうは「運転していた田中運転手は」とは書きません。鬱陶しいですから。したがってガイドラインから「肩書」を除去しちゃえばいいな、と考えます。
- 「肩書」・「役職」には「敬意」が含まれるからダメである、と主張するのであれば、やはりガイドラインの見直しが必要でしょう。
- Wikipedia:表記ガイド#人名もWikipedia:スタイルマニュアル#人物・人名も、「敬意の存在を問題視します」とは明記していません。単に、名前に付加物をつけることで冗長になるのを回避しようとしているだけに見えます。現代の日本の我々にはあまり縁がないですが、王族にいろいろくっつけて正式に書こうとするとどえらい長いことになりますよね、ヒズマジェスティーなんちゃらかんちゃらオブなんちゃらアンドなんちゃら、みたいな。「正二位なんとか将軍なんたらのかみなんとか源朝臣なんとか三郎左衛門」みたいに書かずに「源頼朝」にしようね、というだけじゃないでしょうか。少なくともガイドラインは「意図」までは語っていません。
- 敬意表現の存在が記述の中立性を妨げるからダメなんだ、という理屈は、(共感するかは別として)理解はできるものです。そうであるならば、そう明記する方向でガイドラインの修正を図るべきでしょう。
- 敬称に詳述されていますが、「敬称」というのはその語に自動的に敬意が織り込まれているものです。「天皇」は敬称ではないですが「聖上」は敬称です。「社長」「部長」「首相」などはいずれも組織や団体における役割・役職を説明する中立的な語であり、敬称ではありません。その役割・役職に対して敬意が生ずるかどうかは相対的なものです。たとえば社員が自社の社長を外部に紹介するときは「これが社長のAです」とか社長が「○○部長を呼べ」といった場合に、これらの語には敬意は生じていません。「天皇」ですら、たとえばGHQ司令官が「天皇を呼んでこい」とか、アメリカ兵が「天皇を打倒するぞ」という場合があるわけで、「天皇」という語には自動的に敬意が織り込まれているわけではありません。これが「陛下を呼んでこい」「聖上を打倒するぞ」になれば、自動的に敬意が織り込まれています。「大臣」も「お前じゃ話にならん、大臣出せ!」と言った時にはここには敬意など存在しません。単に「話の通じるやつを出せ」といっているだけです。「お前じゃ話にならん、閣下を出せ!」だと敬意表現です。したがって「敬意を含む表現は中立的じゃないからダメよ」という主旨なのであれば、「社長」や「市長」はOKです。
- しかし議論の出発点であるFielderさんの問題提起(「敬称にあたる表記だから後ろにつけちゃダメ」)の時点で、いろいろとガイドラインから飛躍があるということです。。
- 参考までに。(英語版 - 私は英語版至上主義じゃないですが、英語版では細かい説明がたくさんあり、たくさんの場合に応じた解説があります。これらを参照するのも一つのヒントにはなりそうです。斜め読みした感じでは、敬称(サーネーム)や博士などは「完全否定」されていません。Mr.やMrs.にいたるまで、つけたほうがわかりやすいならつけろ、状況によって使い分けろと言っています。英語の場合は敬意に関係なく、「President Obama」という表記はあっても「Obama President」とは普通書きませんから、前か後ろかは大きな問題にはならないようです。「誰々,役職,役職,who isなになに,」のようにカンマや関係代名詞で並置していく文法もありますが、これも「敬意」とは関係ないでしょう。また、Honorific titlesでは「honorific titles should not be deleted when they are used throughout an article unless there is consensus」とあり、「第○代なんとか男爵」みたいなのを省略しろとは言っていません。トータルとしては、敬称を用いることで中立性がどうのこうのではなく、冗長性や、他の人物と区別するのに必要であるかどうかに応じて考えろ、と言っているようです。ただし、そもそも「敬語」というのは日本語の特徴的な概念で、英語には一般的にはそういう概念はないと言われていますから、英語版をそっくりそのまま適用するのがベストかと言えばそうとも言えないでしょう。)--柒月例祭(会話) 2014年10月27日 (月) 19:06 (UTC)
色々言いたい事はありますが、その前に「A(総理大臣)」に反対の方はいますか?「A(総理大臣)」であれば「A総理大臣」のような敬称+役職ではなく、役職だけを表記している事がわかりますし、「総理大臣のA」よりは違和感もないと思います。--JapaneseA(会話) 2014年10月29日 (水) 16:39 (UTC)
- 論外です。”ウィキペディア語”を創造するつもりですか?あくまでも通常の日本語で表記することを心がけるべきあり、現状のガイドラインによってウィキペディアの表記が普通の日本語から乖離してしまうのなら、ガイドラインを改定するべきです。--uaa(会話) 2014年10月29日 (水) 17:42 (UTC)
- そもそも、正常な日本語を歪めてまで「役職だけを表記している事」を分からせる必要性が理解できませんね。政治家の言動は、それが私的なものだとしても公人によるものと捉えられるので、野球選手より役職を付ける必然性は高いでしょう。ガイドラインの欠陥を悪用して言葉狩りに血道を上げるのはナンセンスです。ところで、「役職だけを表記している事」を示すために「A(総理大臣)」なんて表記をしている日本語文書の例ってあるんですかね?--uaa(会話) 2014年10月29日 (水) 18:18 (UTC)
全角スラッシュ(/)について
俳優のテンプレにその俳優の主な作品を記載する時に、今までは半角スラッシュ( / )を使用し並べていましたが、現在は全角スラッシュを使う例が多く見受けられます。しかし、全角スラッシュは使用可能な文字には含まれていません。私個人の意見は半角スラッシュを使わずに全角スラッシュを使う方が見やすいと思う次第でありますが、皆様はどのようにお考えでしょうか。何卒意見をお寄せ下さい。 ==欣之介くん(会話) 2014年9月13日 (土) 23:58 (UTC)
- コメントブラウザによって文字化けしたり見にくくなるから半角スラッシュが推奨されてるんじゃないの?自分だけの環境で判断しては拙いよ。それと俳優のtmp内もブラウザによって表示が異なるからこだわっても意味ないよ。ここのテーマには関係ないけどね。--118.109.8.93 2014年9月14日 (日) 02:34 (UTC)
- コメント 「現在は全角スラッシュを使う例が多く見受けられます」のはどのページですか? 手作業またはbot作業依頼にて<br />タグまたは半角スラッシュに置換を行います。「Template:ActorActressで代表作を全角スラッシュでセパレートしているものが多く見受けられます」というような数の理論ではないのです。--LearningBox(会話) 2014年9月14日 (日) 02:43 (UTC)
- コメント 表記ガイドに持ち込まれましたが、そもそも、渡哲也におけるあなたの編集「テンプレを無駄に長くする必要はない」から出ている話です。
- これはTemplate:ActorActressの使い方の話ですが、「主な作品」の引数にはコメントアウトの説明文で<!-- 皆が認める代表作品を入力 -->と書いてあり、その人物の代表作品を書くようになっています。ベテラン俳優のように出演作や主演も多い場合は、多数が納得する形で作品を厳選するか、もしくは全て掲載を行わず『[[#出演]]を参照』とする方法があります。
- 「あれも載せたいこれも載せたい」「だが、テンプレートが長くなるのは嫌だ」「縦長にしないため<br />タグで一作品1行にするのではなく / で区切って縦幅を詰めたい」「『主な作品』を区切るのに私は / ではなく / を使ってきました」「みなさん『主な作品』の / での区切りを認めてください」この流れですよ? 賛同を得るのは困難と言わざるをえません。--LearningBox(会話) 2014年9月14日 (日) 03:49 (UTC)
- コメント 提案者の意見には賛同できませんが、全角スラッシュを用いてもよい例外が出てくる余地(具体的には思いつきませんが)はあるかもしれません。たとえば、約物全般に言えますが、mw:Typography Refreshの導入でフォント指定が和欧混植となる(現状、デフォルトでゴシック体のCSS適用のガジェットが有効になっていますが)ため、見出しに関しては和文と半角約物の上下位置がずれる場合がある、といった状況もあります。IPの方から文字化けの可能性のご指摘がありましたが、全角スラッシュはJIS X 0208に含まれていますのでその心配はないかと。全角チルダなどとは状況は異なります。表記ガイドを根拠にbotで置換するというのは、少々乱暴なご発言かと思いました。--Wolf359borg(会話) 2014年9月14日 (日) 04:16 (UTC)
01月のような表記のリダイレクトが作成されている件について
Wikipedia:井戸端#01月、平成02年、明治06年、大正09年といった表記のリダイレクトの賛否にて、01月、平成02年、明治06年、大正09年、03月07日のような先頭に0を含む表記のリダイレクトがあることについてそれらのリダイレクトを削除しても良いのか問題提起いたしましたのでご報告させていただきます。これは元々Wikipedia:利用案内#複数のリダイレクトの削除依頼を一括で行う方法にてリダイレクト削除の方法を質問したことが発端となっており、利用案内のほうでリダイレクトの有用性や表記ガイドの修正を含めて井戸端などで議論すべきとの意見が出ましたので井戸端に議論場所を移したものです。--Meniv(会話) 2014年10月16日 (木) 15:10 (UTC)
表記ガイドの修正について
利用案内のほうでアルビレオさんや柒月例祭さんよりWikipedia:表記ガイド#年月日・時間への言及がありましたのでこちらで別に発議します。 01月のような表記ができてしまうリダイレクトを削除して0x月0x日のような記述は「できない」ではなく「しない」と明記すべきか、非推奨な一方でできないこともないとしてリダイレクトを存続し、表記ガイドを修正すべきかの皆さんの考えをお聞きしたいです。余談ですが私を含めて井戸端のほうでは0x月系のリダイレクトは必要ないとする考えが多いですが、利用案内のほうでは0x月系のリダイレクトを使用することを積極的に禁止する理由はないとの意見もありました。--Meniv(会話) 2014年10月16日 (木) 15:24 (UTC)
- コメント 個別のリダイレクトの存廃に関しては表記ガイドは直接関係ないので、リダイレクト削除の対応と表記ガイドの改定は別途切り離して進めるのが良いと思います。以下、書式上のルールに限ってのコメントと提案です。
- 現行の表記ガイドの説明をそのまま読むと、たしかに表現がわかりにくい面はあると思います。基本的には、これは単純に「03月05日」のような表記は使わないという意味で解釈するのが最も自然であり現実的でしょう。「リンクが正しく表示されない」というのはその理由の一例を述べたものかと思いますが、そもそも記事中に置く日付のリンクは人物の生没年など重要なもののみということになっていますし、リンクを置くにしてもパイプリンクを使えば数字の表記方法とは無関係にすべて正常にリンク可能ですので、説明としてこの部分は無い方が良いのではないかと思います。
- 提案 そこで具体的な対応策として、「Wikipedia:表記ガイド#年月日・時間」内の一文を下記のように改定するという対処法ではいかがでしょうか。
- (現行)「03月05日」のような0を入れた書き方は、リンクが正しくされないので使わないでください。
- (改定)「03月05日」のような0を入れた日時の書き方は記事の中では使用しません。表の桁揃えが必要な場合には、スタイル指定で文字を右揃え("text-align:right")にするか、テンプレート {{0}} を使用してください。
- --ディー・エム(会話) 2014年10月18日 (土) 08:18 (UTC)
条件付賛成原則的にはそのような書き方をしない方向で良いでしょう。ただし「固有名詞で用いられる場合に限り、この限りではない」(単に日時表記を行うために用いることは不可)という断りを付せば良いと思います。--Don-hide(会話) 2014年10月18日 (土) 08:26 (UTC) 票変更。--Don-hide(会話) 2014年10月27日 (月) 12:58 (UTC)(条件付賛成)原則として「しない」としてよいと思います。ただし、Don-hideさんが指摘されている固有名詞だけでなく、(実際の例の有無はともかく)引用のような「そのまま引き写すことが必要な場合」を除くと条件を付ける必要はあるでしょう。--Claw of Slime (talk) 2014年10月20日 (月) 11:58 (UTC)--2014年10月22日 (水) 18:04 (UTC)条件付き賛成を取消
コメント ご意見ありがとうございます。たしかに、固有名詞や引用の場合は除くと明記しておいたほうが良さそうです。下記のとおり改定案を修正したいと思います。
- (改定案2)「03月05日」のような0を入れた日時の書き方は、原典の引用や固有名詞の表記に用いる場合を除き、記事中では原則として使用しません。表の桁揃えが必要な場合には、スタイル指定で文字を右揃え("text-align:right")にするか、テンプレート {{0}} を使用してください。
--ディー・エム(会話) 2014年10月21日 (火) 10:38 (UTC)
- コメント 表記ガイドとしては原則的な書き方を規定するものなので、0を入れた書き方はしないとして良いと考えます。その上で細かい点ですが、Wikipedia:表記ガイド#年月日・時間の節の先頭に『以下は記事の中で年月日・時間について記述する場合に適用します。著作物の名前に年月日・時間が含まれる場合など「固有名詞」には適用しません。また、引用する場合にも適用しません。』という文が既にあり、冗長になるで、提案箇所については当初のディー・エムさんの案のままの方が良いと思います。--アルビレオ(会話) 2014年10月22日 (水) 04:41 (UTC)
- 賛成 アルビレオさんご指摘の節冒頭の注記を見落としていました。ディー・エムさんの原案のままで賛成とします。--Claw of Slime (talk) 2014年10月22日 (水) 18:04 (UTC)
コメント ご意見ありがとうございます。確かに節の冒頭に書かれていました。あと1週間程度待った上で、アルビレオさんご指摘の内容(節冒頭に断り書きがあるので修正部分の文面は原案の方を採用)で特に異論が出ないようでしたら原案の文面で文書の改訂を行いたいと思います。--ディー・エム(会話) 2014年10月26日 (日) 13:09 (UTC)
- 賛成 アルビレオ氏ご指摘の件、了解しました。当初提案通りで賛成に変更します。--Don-hide(会話) 2014年10月27日 (月) 12:58 (UTC)
- 余計なことをいいます。みなさんの指摘する問題は概ね仰るとおりと思います。ただ、フッと目に入ったので気になってしまったのですが、署名をするときの時刻表記には「08:15」みたいに、桁そろえのための0が入りますよね・・・(設定によって違うのかな?)。「日時」のうち「時」に関してはシステムがこうなっているのに、「日時で0はダメよ」というのは塩梅がわるい気が・・・。--柒月例祭(会話) 2014年10月27日 (月) 20:11 (UTC)
- まずは事実。私の設定では、表示を標準のベクターではなくモダンにしています。その環境では、例えばウォッチリストの時刻表示は08:15のように時の前ゼロが表示されますが、ノートページ内の署名は8:15のように、時の前ゼロはサプレスされます。ただし、13:09のように分については前ゼロは表示されます。日付についてはウォッチリストでも10月2日のように、月の後の日でも前ゼロは表示されません。
- 以下私の推測。特に時刻でhh:mmやhh;mm;ssの形式で表記する場合、hhの前ゼロは表示することと抑止することの両方があるが、mmやssについては前ゼロを表示することが一般だと思います。一方日付については前ゼロはサプレスする方が多いのではないでしょうか。年月日でも、2005-06-02(本ノートページの先頭付近にあります)のような形式では月も日も前ゼロをサプレスしないことも普通です。
- もし書くのであれば、2014-09-02や12:02のようにハイフンやコロンを使う形式では、ハイフンやコロンの後ろのゼロも表示して構いません、くらいでしょうか。ここまでガイドに書くかどうかという話もありますが。--アルビレオ(会話) 2014年10月28日 (火) 00:28 (UTC)
- 「2000-01-01」のようなハイフン区切りでの日付表記や「01:01」のようなコロン区切りでの時刻表記において前ゼロを入れてそれぞれ2桁表示とするのは、ISO 8601によって規定されているものであり、広く用いられているものですので、このような表記まで禁止する必要はないでしょう。特に時刻表記においては、「01:23」を「1:23」と表記することはあっても「12:03」を「12:3」と表記することはまずないですし。一方で、日本語において年月日や時分を区切りとした「2000年1月1日」や「1時1分」を「2000年01月01日」や「01時01分」とすることは一般的ではないよね、というのが今回の提案と理解しています。「2000-01-01」「01:01」について表記ガイドで触れる必要があるのかは微妙なところだと思います。--Claw of Slime (talk) 2014年10月28日 (火) 06:45 (UTC)
- とりあえずはこのノートで明確な解釈を確認できていますので、大丈夫ではないでしょうか。もし今後、誤解されたり拡大解釈されてままならないことがあれば改めて説明の追記を検討ということで問題無いと思います。--ディー・エム(会話) 2014年10月29日 (水) 13:13 (UTC)
- 「2000-01-01」のようなハイフン区切りでの日付表記や「01:01」のようなコロン区切りでの時刻表記において前ゼロを入れてそれぞれ2桁表示とするのは、ISO 8601によって規定されているものであり、広く用いられているものですので、このような表記まで禁止する必要はないでしょう。特に時刻表記においては、「01:23」を「1:23」と表記することはあっても「12:03」を「12:3」と表記することはまずないですし。一方で、日本語において年月日や時分を区切りとした「2000年1月1日」や「1時1分」を「2000年01月01日」や「01時01分」とすることは一般的ではないよね、というのが今回の提案と理解しています。「2000-01-01」「01:01」について表記ガイドで触れる必要があるのかは微妙なところだと思います。--Claw of Slime (talk) 2014年10月28日 (火) 06:45 (UTC)
- 賛成 みなさんのご発言のとおりと思います。余計な事を言ってすみませんでした。ご提案に賛成します。--柒月例祭(会話) 2014年10月29日 (水) 13:22 (UTC)
- コメント いえ、ご指摘ありがとうございました。このままスルーしていたら後で疑義が生じる可能性もあったかもしれないと考えると、事前に問題がクリアできてよかったと思います。--ディー・エム(会話) 2014年10月29日 (水) 14:17 (UTC)