「冲鷹 (空母)」の版間の差分
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{{Infobox 艦艇 |
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<div class="thumb tright"> |
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|名称 = 新田丸 / 冲鷹 |
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{| class="wikitable" style="margin: 0em; width: 300px; background:#ffffff" |
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|画像 = Imperial Japanese Navy aircraft career Chuyo.JPG |
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|画像説明 = トラック島泊地に停泊する冲鷹{{Efn|1943年5月、駆逐艦[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]より撮影、特設艦船を挟んで姉妹艦[[雲鷹 (空母)|雲鷹]]も写っている{{Sfn|世界の艦船、日本航空母艦史|1994|p=87}}。}} |
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|運用者 = {{navy|Empire of Japan}} |
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!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|艦歴 |
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|建造所 = [[三菱重工業]][[長崎造船所]](客船建造)<ref name="中川1994" /><br />[[呉海軍工廠]](空母改造)<ref name="中川1994" /> |
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|種別 = (貨客船 →)[[航空母艦]]<ref name="S17内令1554号" /> |
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|起工||[[1938年]][[12月14日]] |
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|クラス = [[大鷹型航空母艦|大鷹型]] |
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|計画 = |
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|進水||[[1939年]][[5月20日]] |
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|発注 = |
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|起工 = [[1938年]][[5月9日]]<ref name="中川1994">中川努「主要艦艇艦歴表」[[#日本海軍全艦艇史]]資料篇p.7</ref> |
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|就役||[[1940年]][[3月23日]]「新田丸」として竣工<br />[[1942年]][[11月25日]]空母へ改装完了 |
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|進水 = [[1939年]][[5月20日]]<ref name="中川1994" /> |
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|竣工 = [[1940年]][[3月23日]]「新田丸」として竣工<ref name="中川1994" /><br />[[1942年]][[11月25日]]空母へ改造完了<ref name="中川1994" /> |
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|退役|| |
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|就役 = |
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|除籍 = [[1944年]][[2月5日]]<ref name="S19内令304号" /> |
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|最後 = [[1943年]][[12月4日]]戦没 |
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|母港 = 横須賀<ref name="S17内令2176号" /> |
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|除籍||[[1944年]][[2月5日]] |
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|建造費 = |
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|改名 = 新田丸 → 冲鷹<ref name="S17達234号" /> |
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!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|性能諸元 |
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|要目注記 = 航空母艦改造時 |
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|基準排水量 = 17,830[[トン|英トン]]<ref name="Ippan-p4">「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.4</ref> |
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|[[排水量]]||基準:17,830t 公試:20,000t |
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|公試排水量 = 20,000トン<ref name="Ippan-p4" /> |
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|満載排水量 = 21,262.80トン<ref name="Ippan-p57">「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.57</ref> |
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|全長||180.24m |
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|全長 = 180.24[[メートル|m]]<ref name="Ippan-p4" /> |
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|水線長 = 約173.70m<ref name="Ippan-p4" /> |
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|水線幅||22.5m |
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|垂線間長 = 168.00m<ref name="Ippan-p4" /> |
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|全幅 = 23.70m<ref name="Ippan-p4" /> |
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|全幅|| |
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|水線幅 = 22.50m<ref name="Ippan-p4" /> |
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|吃水 = 公試平均 8.00m<ref name="Ippan-p4" /><br />満載平均 8.26m<ref name="Ippan-p4" /> |
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|吃水||8.00m (公試状態) |
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|深さ = 23.50m(飛行甲板まで)<ref name="Ippan-p4" /> |
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|高さ = |
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|飛行甲板||長さ:172.0m x 幅:23.7m |
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|飛行甲板 = 長さ:172.0m x 幅:23.7m<ref name="日本空母物語pp442-443">阿部安雄「日本海軍航空母艦・水上機母艦要目表」([[#日本空母物語]]pp.442-443)</ref><br />エレベーター(13x12m)2基<ref name="Ippan-p46">「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.46</ref> |
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|推進 = 2軸 x 140[[rpm (単位)|rpm]]<ref name="Ippan-p35">「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.35</ref>、直径5.000m<ref name="海軍造船技術概要p1678">[[#海軍造船技術概要]]p.1678</ref> |
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|主缶||三菱式水管缶4基 |
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|主機 = 三菱ツェリー式(高低圧<ref>[[#昭和造船史1]]pp.780-781</ref>)タービン2基<ref>[[#日本航空母艦史]]p.64</ref> |
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|出力 = 25,200[[馬力|hp]]<ref name="Ippan-p4" /> |
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|主機||三菱ツェリー式タービン2基2軸 25,200hp |
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|ボイラー = 三菱式水管缶4基<ref name="Ippan-p35" /><br />補助缶2基<ref name="Ippan-p35" /> |
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|- |
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|速力 = 21.0[[ノット]]<ref name="Ippan-p4" />{{efn|[[#海軍造船技術概要]]p.275では、速力22ノット、航続距離は18ノットで8,000カイリとしている。}} |
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|速力||21.0[[ノット]] |
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|燃料 = 2,250トン<ref name="Ippan-p4" /> |
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|航続距離 = 8,500[[カイリ]] / 18ノット<ref name="Ippan-p4" />{{efn|[[#海軍造船技術概要]]p.275では、速力22ノット、航続距離は18ノットで8,000カイリとしている。}} |
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|航続距離||18ktで8,500浬 |
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|乗員 = 約850名<ref name="日本空母物語pp442-443" /> |
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|搭載量 = 九一式[[魚雷]] 36本<ref name="Ippan-p12">「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.12</ref><br />[[爆弾]] 800kg72個、250kg72個、60kg240個、30kg演習用90個<ref name="Ippan-p31">「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.31</ref><br />飛行機用[[ガソリン|軽質油]] 190トン<ref name="Ippan-p57" /> |
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|乗員||約850名 |
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|兵装 = '''竣工時'''<ref name="日本空母物語pp442-443" /><br />[[四〇口径八九式十二糎七高角砲|12.7cm連装高角砲]]4基<br />[[九六式二十五粍高角機銃|25mm3連装機銃]]10基 |
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|搭載艇 = 12m内火艇1隻、12m内火ランチ1隻、9mカッター2隻、13m特型運貨船1隻<ref name="Ippan-p46" /> |
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|兵装<br />(竣工時)||12.7cm連装高角砲4基<br />25mm3連装機銃10基 |
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|搭載機 = 計画(常用+補用)<ref name="海軍造船技術概要p296">[[#海軍造船技術概要]]p.296</ref><br />[[零式艦上戦闘機]] 9+2機<br />[[九七式艦上攻撃機]] 14+2機<br />合計23+4機<br />(資料によっては合計26+4機)<br />輸送時、[[艦上爆撃機]]16、艦戦24可能<ref>[[#S1712四水戦日誌(3)]] p.32〔 8日1245冲鷹|一.10日未明「トラック」発11市0600「カビエング」ノ15度200浬ニ於テ搭乗員ヲ移乗セシメラレ度、発艦飛行機ハ艦爆十六 機、艦戦二十四機、艦戦ハ落下傘ナシ/二.11AF宛二十粍機銃弾一万発ハ空輸其ノ他「トラック」ニ移揚(略)〕</ref>。 |
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|レーダー = |
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|搭載機<br />(常用+補用)||[[艦上戦闘機]] 9+2機<br />[[艦上攻撃機]] 14+2機<br /> 合計23+4機<br />(資料によっては合計26+4機) |
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|ソナー = |
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|その他 = |
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|} |
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|備考 = 特記の無い場合は計画要目<br />客船時の要目は[[新田丸級貨客船]]を参照 |
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</div> |
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[[ファイル:Nitta-maru_1940.jpg|right|thumb|300px|空母改装前の新田丸(1940年)]] |
[[ファイル:Nitta-maru_1940.jpg|right|thumb|300px|空母改装前の新田丸(1940年)]] |
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'''冲鷹'''(ちゅうよう)は{{Sfn|世界の艦船、日本航空母艦史|1994|pp=84a-87|ps=大鷹型 TAIYO CLASS/冲鷹 Chuyo}}、[[大日本帝国海軍]]の[[航空母艦]]<ref name="S17達234号">[[#達昭和17年8月]] p.21〔 達第二百三十四號 呉海軍工廠ニ於テ艤装中ノ汽船新田丸ヲ左ノ通命名セラル 昭和十七年八月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎 軍艦 冲鷹(チュウヨウ) 〕</ref>。 |
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'''冲鷹'''(ちゅうよう)は、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[航空母艦]]。[[大鷹型航空母艦|大鷹型]]の1隻で[[日本郵船]]の客船新田丸を航空母艦に改造したものである。(注記:「冲」の字は[[水部|サンズイ]]ではなく[[冫部|ニスイ]]) |
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「冲」は高く昇って到達するの意があり{{efn|戦時中の史料<ref>[[#S1810-12経過概要]] p.13〔 昭和十八年十二月經過概要|四|沖鷹再度敵Sノ雷撃ヲ受ケ沈没 〕</ref>、戦後の二次資料など、一部で「沖鷹」と表記するが、海軍の法令上は[[冫部|ニスイ]]の「冲鷹」である<ref name="S17達234号" />。}}、[[鷹]]が大空高く昇っていく様を意味する<ref name="丸写真4巻62艦名">[[#丸写真第4巻|写真日本の軍艦第4巻]]62頁「艦名の由来/冲鷹(ちゅうよう)」</ref>{{Sfn|空母二十九隻|2016|p=325|ps=冲鷹(ちゅうよう)}}。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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[[軍艦]]'''冲鷹'''は<ref name="S17達234号" />、[[大鷹型航空母艦]]の三番艦である<ref name="S19-01艦艇類別大鷹型">[[#編制(昭和19年1月31日現在)]] p.4〔 艦艇類別等級別表|軍艦|航空母艦|大鷹型|大鷹、雲鷹、冲鷹、神鷹、海鷹 〕</ref><ref>[[#丸写真第4巻|写真日本の軍艦第4巻]]114頁(新田丸写真)</ref>。 |
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「新田丸」は、[[昭和]]初期に好況を博していた欧州航路の老齢船を置き換える目的で日本郵船が建造した豪華客船'''新田丸級三姉妹船'''の第1船として誕生した。新田丸級三姉妹船(新田丸、[[雲鷹 (空母)|八幡丸]]、[[大鷹 (空母)|春日丸]])は、日本郵船を象徴する客船であり、'''日本郵船株式会社'''のイニシャル'''NYK'''に因んでそれぞれ'''N'''ittamaru, '''Y'''awatamaru, '''K'''asugamaruと命名されている。 |
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1940年(昭和15年)3月に[[三菱重工業長崎造船所]]で竣工後<ref name="福井著11特設68表5">[[#福井著作11|日本特設艦船物語]]68頁「第5表 特設航空母艦予定船舶(昭和16年12月現在)」</ref>、貨客船として太平洋航路で運航されていた日本郵船の[[新田丸級貨客船]][[ネームシップ|1番船]]'''新田丸'''(にったまる)を<ref>{{アジア歴史資料センター|J21022360600|Shin Sekai Asahi Shinbun 1939.11.09 新世界朝日新聞/nws_19391109(スタンフォード大学フーヴァー研究所)}} p.3〔 太平洋に巨船競爭時代 {{smaller|米國側計畫の三隻}}三万四千噸級 明年一月起工と決定す/國産で對抗! 豪華を誇る新田丸 {{smaller|早くも明春二月處女航海}} 〕</ref>{{Efn|新田丸級貨客船はヨーロッパ航路に投入予定だったが、第二次世界大戦の勃発で太平洋航路に投入された{{Sfn|世界交通文化発達史|1940|p=125|ps=(原本251頁)日本郵船會社}}。}}、1941年(昭和16年)9月に日本海軍が徴用{{Sfn|護衛空母入門|2005|pp=252-253|ps=冲鷹}}<ref name="福井著11特設81表6">[[#福井著作11|日本特設艦船物語]]81頁「第6表 商船改造航空母艦軍艦籍入籍までの経歴」</ref>。運送船として使用後、[[太平洋戦争]]開戦後に空母へ[[改造空母|改造]]した艦艇である{{Sfn|空母二十九隻|2016|pp=278-281|ps=東奔西走の運び屋空母}}{{Sfn|戦史叢書95|1976|pp=276-278|ps=戦備計画の再検討}}。 |
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1942年(昭和17年)中旬より[[呉海軍工廠]]で空母改造に着手{{Sfn|護衛空母入門|2005|pp=252-253|ps=冲鷹}}。同年8月20日の軍艦籍編入および[[大日本帝国海軍艦艇類別変遷|艦艇類別等級表]]への類別時に<ref name="S17内令1554号" />、新田丸から冲鷹に改名された<ref name="S17達234号" />。 |
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「新田丸」は[[三菱重工業長崎造船所]]で建造され、[[1938年]](昭和13年)[[5月9日]]起工、[[1939年]](昭和14年)[[5月20日]]進水、[[1940年]](昭和15年)[[3月23日]]に竣工している。建造費用は[[優秀船舶建造助成施設]]による補助を受けていた。 |
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新田丸級貨客船としては1番船-新田丸、2番船-八幡丸、3番船-春日丸だったが、大鷹型航空母艦としては1番艦-[[大鷹 (空母)|大鷹(春日丸)]]、2番艦-[[雲鷹 (空母)|雲鷹(八幡丸)]]、3番艦-冲鷹(新田丸)となった<ref name="S19-01艦艇類別大鷹型" />{{Sfn|空母二十九隻|2016|pp=75-76|ps=期待はずれに終わった改造}}。 |
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大鷹型航空母艦は小型で速力も20-22ノット程度しか発揮できず、機動部隊同士の戦闘には参加せず航空機輸送任務に従事した{{Sfn|空母二十九隻|2016|pp=293-294|ps=不遇に泣いた運送空母「冲鷹」の無念}}{{Sfn|特設艦船入門|2008|pp=64-69|ps=(ロ)「大鷹」「雲鷹」「冲鷹」}}。 |
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同年11月、冲鷹は空母として竣工{{Sfn|空母二十九隻|2016|p=325|ps=冲鷹(ちゅうよう)}}。翌月より、ただちに航空機輸送任務に投入された{{Sfn|空母二十九隻|2016|p=325|ps=冲鷹(ちゅうよう)}}。最初の任務は、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]][[航空師団|航空隊]]の[[九九式双発軽爆撃機]]だった{{Sfn|戦史叢書07|1967|pp=69a-70|ps=白城子教導飛行団(軽爆)}}。 |
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[[1943年]](昭和18年)の大鷹型3隻(冲鷹、雲鷹、大鷹)は、航空機輸送任務に奔走する<ref>[[#丸写真第4巻|写真日本の軍艦第4巻]]115頁(冲鷹と雲鷹写真)</ref>。4月上旬には[[三式戦闘機]]を海上輸送した{{Sfn|戦史叢書07|1967|pp=207-208|ps=第十四飛行団と三式戦闘機}}。同年[[12月4日]]、日本本土へ帰投中の冲鷹は、[[八丈島]]沖合で[[アメリカ海軍]]潜水艦[[セイルフィッシュ (SS-192)|セイルフィッシュ]]の魚雷攻撃により撃沈された{{Sfn|大井篤|2014|p=187}}{{efn|この時、冲鷹に乗艦していた米潜水艦[[スカルピン (SS-191)|スカルピン]](前月11月に沈没)の捕虜20名も戦死した{{Sfn|航空母艦物語|2013|pp=304a-305|ps=米人捕虜も運命を共に(冲鷹VSセイルフィッシュ)}}。}}。 |
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[[天洋丸]]、[[浅間丸]]、[[氷川丸]]といったそれまでの客船が西洋式の船内装飾だったのに対し、本船は[[中村順平]]([[商船三井|大阪商船]]の[[天津市|天津]]航路用だった[[長城丸]]の船内装飾を担当)、[[村野藤吾]]、[[山下寿郎]]、[[松田軍平]]ら[[建築家]]、公室や客室は三菱重工業長崎造船所の装飾設計陣、特別室は[[川島織物セルコン|川島甚兵衞]]と[[高島屋]]が担当した[[新日本様式]]だった。 |
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== 歴史 == |
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一等ラウンジは[[六歌仙]]を[[エッチング]]で描き出し、それを[[松田権六]]による[[蒔絵]]で囲んでいた。前部エントラス・ホールは国産の天然木材を[[クリアラッカー]]で仕上げ、[[アルマイト板]]に[[尾長鶏]]が描かれていた。一等食堂のサイドボードは[[尾形光琳]]の[[紅白梅屏風]]を模した蒔絵が扉となり、開けると[[スクリーン]]が現れた。これらの装飾は航空母艦の改造時に廃棄された<ref>[http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00460/mokuji.htm 日本財団図書館 戦前日本の最優秀船 新田丸]</ref>。 |
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=== 建造前 === |
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{{Main|新田丸級貨客船}} |
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冲鷹の前身である新田丸は{{Sfn|特設艦船入門|2008|pp=64-69|ps=(ロ)「大鷹」「雲鷹」「冲鷹」}}、昭和初期に好況を博していた欧州航路の老齢船を置き換える目的で<ref>{{アジア歴史資料センター|J21022118600|Shin Sekai Asahi Shinbun 1936.06.24 新世界朝日新聞/nws_19360624(スタンフォード大学フーヴァー研究所)}} p.3〔 海運界―制覇を目指して… 躍氣となつた郵船 各航路に新造船を加ふ 〕</ref>、またイタリアの貨客船[[コンテ・ヴェルデ (客船)|コンテ・ヴェルデ]] (''{{lang|it|Conte Verde}}'') やドイツの新型貨客船3隻([[神鷹 (空母)|シャルンホルスト]]、[[:de:Gneisenau (Schiff, 1935)|グナイゼナウ]]、[[:de:Potsdam (Schiff, 1935)|ポツダム]])に対抗しつつ1940年(昭和15年)開催予定の[[1940年東京オリンピック|東京オリンピック]]を見込んで<ref>{{アジア歴史資料センター|J21022172200|Shin Sekai Asahi Shinbun 1937.03.24 新世界朝日新聞/nws_19370324(スタンフォード大学フーヴァー研究所)}} p.2〔 「海運日本」の新女王 歐洲航路の三巨船 {{smaller|郵船愈々建造に着手}} 〕</ref>、日本郵船が建造した[[豪華客船]]'''新田丸級三姉妹船'''の第1船である{{Sfn|護衛空母入門|2005|pp=116-119|ps=新田丸型客船三隻の誕生と改造方法}}<ref>[[#日本空母物語]]105、298頁</ref>。 |
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新田丸級三姉妹船(新田丸、[[雲鷹 (空母)|八幡丸]]、[[大鷹 (空母)|春日丸]])は、日本郵船を象徴する客船であり<ref>{{Citation |和書|author=|editor=山下亀三郎|year=1943|month=4|title=沈みつ浮きつ.天|chapter=郵船新田丸披露宴にて|publisher=山下株式會社秘書部|url={{NDLDC|1140145/114}}|ref=沈みつ浮きつ.天}}</ref>、'''日本郵船株式会社'''のイニシャル'''NYK'''に因んで、それぞれ'''N'''{{lang|en|ittamaru}}, '''Y'''{{lang|en|awatamaru}}, '''K'''{{lang|en|asugamaru}}と命名されている{{Sfn|特設艦船入門|2008|pp=192-193|ps=(ロ)「大鷹」級特設航空母艦(大鷹、雲鷹、冲鷹)の活躍}}。本船の場合は、[[新田義貞]]にちなむ[[新田神社_(太田市)|新田神社]]に由来する{{Efn|'''船名の由來''' 正に紀元二千六百年の船<ref name="nws19410603p.2">{{アジア歴史資料センター|J21022401400|Shin Sekai Asahi Shinbun 1941.06.03 新世界朝日新聞/nws_19410603(スタンフォード大学フーヴァー研究所)}} p.2(新田丸特集記事)</ref> 新田丸の船名は[[建武の新政|建武鴻業]]の柱石 新田義貞公を祀る[[群馬県|群馬縣]][[太田市|太田町]]鎭座新田神社の祀號を奉戴するものであるが、曠古の非常時局に際し國を擧げて新東亞建設に邁進するの時、海運報國の旗幟のもとに五大洋に雄飛する我が「日の丸船隊」の先驅をなす新國策船の負ふ名として蓋し相應しい船名といふべきである、漸く事多からんとする世界海運界の爭覇戰に堂々太平洋の春波を蹴つて強豪を壓せんとするわが新田丸の威容こそ、方に光輝ある「[[紀元二千六百年記念行事|紀元二千六百年の船]]」である(記事おわり)}}。 |
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新田丸は[[三菱重工業長崎造船所]]で建造され、[[1938年]](昭和13年)[[5月9日]]起工{{Efn|新優秀船新田丸 '''六月に來航……''' {{smaller|仕上げ入念のため三ヶ月遲る}}<ref>{{アジア歴史資料センター|J21022378200|Shin Sekai Asahi Shinbun 1941.02.08 新世界朝日新聞/nws_19410208(スタンフォード大学フーヴァー研究所)}} p.3</ref> 日本郵船會社の歐洲航路用優秀客貨船新田丸は一九三八年五月九日長崎造船所で起工、三九年五月二十日無事進水を了し、艤装を終へ次第來る四月二十日ごろ桑港に向け處女航海の壮途にのぼるはずであつたが、物資の不足、仕上げに際し入念を期してゐるため豫定より遲れて來る六月初旬來航することになつた旨桑港郵船支店へ入電があつた。(記事おわり)}}。 |
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[[第二次世界大戦]]の影響で[[サンフランシスコ]]航路に就航していたが、日米関係の悪化に伴い航路は休止、[[1941年]](昭和16年)[[9月12日]]、日本海軍に徴用される。 |
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[[1939年]](昭和14年)[[5月20日]]、進水<ref>{{アジア歴史資料センター|J21022326200|Shin Sekai Asahi Shinbun 1939.05.19 新世界朝日新聞/nws_19390519(スタンフォード大学フーヴァー研究所)}} p.3〔 世界に誇る純國産船 {{smaller|歐州航路}}新田丸の進水式! {{smaller|續いて今秋、姉妹船二隻進水}} 〕</ref>。[[1940年]](昭和15年)[[3月23日]]に竣工{{Sfn|世界の艦船、日本航空母艦史|1994|p=84b}}。建造費用は[[優秀船舶建造助成施設]]による補助を受けていた{{Sfn|空母二十九隻|2016|pp=72-74|ps=商船改造空母の発想と実施}}。 |
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建造時、新田丸級貨客船は純国産豪華貨客船と宣伝されていた<ref>{{cite web|url= https://hojishinbun.hoover.org/en/newspapers/tnj19390518-02.1.2 |pages=02|title = 郵船歐洲航路用の優秀船新田丸 <small>長崎三菱造船で進水式 世界に誇る純國産船</small>|publisher= Nippu Jiji, 1939.05.18 Edition 02 |work = Hoji Shinbun Digital Collection | accessdate = 2023-12-09}}</ref><ref name="tni19391102p3">{{cite web|url= https://hojishinbun.hoover.org/en/newspapers/tnj19391102-01.1.3 |pages=03|title = 日本郵船新優秀船 新田丸處女航海 <small>明春四月</small>ホノルルへ|publisher= Nippu Jiji, 1939.11.02 |work = Hoji Shinbun Digital Collection | accessdate = 2023-12-09}}</ref>。いわゆる国策型優秀船の先駆である{{Efn|造船日本 世界に誇る豪華客船 純國産新田丸竣工 {{smaller|陽春四月、晴れの處女航海}}<ref>{{アジア歴史資料センター|J21022375800|Shin Sekai Asahi Shinbun 1940.01.27 新世界朝日新聞/nws_19400127(スタンフォード大学フーヴァー研究所)}} p.3</ref>(東京二十五日同盟)三菱長崎造船所で建造を急いでゐた郵船の新造客船新田丸(一万六千五百トン)はいよ〱來月二十九日竣工の運びとなつた、同船は一等客室三百および食堂に世界最初の冷房装置を施した豪華船で、速力二十二ノツト船長百八十メートル、船巾二十二メートル、竣工と共に桑港航路に就航する筈である。新田丸は[[支那事変|事變]]以來日本郵船が鋭意建造に當つてゐる國策型優秀船隊の先驅をなすもので、姉妹船八幡丸、春日丸と共に船型、推進器、機關、航海用具、船客設備貨物設備等あらゆる部門に世界最優秀最高の設備を具へてをり、世界いづれかの國において既に試みられ優れた性能を有し優秀最新なりと目せられる機器、設備にして同船に備へられざるものは一つもなく、しかもそれらは前部國産品である點に異彩を放つてゐる、例えば世界でも數える位しかない須式第十四型ジヤイロコンパスも國産品であり、船舶用無線電話も國産品である、また大西洋の超豪華客船[[クイーン・メリー_(客船)|クヰン・メリー號]]や[[ノルマンディー_(客船)|ノルマンデー號]]にもない一等客室全部の冷房を斷行し世界の客船設備に一新天地を開拓してゐるのである(記事おわり)}} |
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[[太平洋戦争]]開戦当初は運送艦として用いられていたが、[[1942年]](昭和17年)[[8月]]に海軍が買収し、[[呉海軍工廠]]で航空母艦への改装が開始される。艦名も「冲鷹」と命名された。改装は1942年(昭和17年)[[11月25日]]に完了した。そのため本艦には他の2隻と異なり、特設航空母艦としての経歴は無い。 |
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[[天洋丸]]、[[浅間丸]]、[[氷川丸]]といったそれまでの客船が西洋式の船内装飾だったのに対し、新田丸は[[中村順平]]([[商船三井|大阪商船]]の[[天津市|天津]]航路用だった[[長城丸]]の船内装飾を担当)、[[村野藤吾]]、[[山下寿郎]]、[[松田軍平]]ら[[建築家]]、公室や客室は三菱重工業長崎造船所の装飾設計陣、特別室は[[川島織物セルコン|川島甚兵衞]]と[[髙島屋]]が担当した[[新日本様式]]だった{{Efn|新田丸装飾説明<ref name="nws19410603p.2"/> }}。 |
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一等ラウンジは[[六歌仙]]を[[エッチング]]で描き出し、それを[[松田権六]]による[[蒔絵]]で囲んでいた{{Efn|新田丸装飾説明<ref name="nws19410603p.2"/> }}。前部エントラス・ホールは国産の天然木材を[[クリアラッカー]]で仕上げ、[[アルマイト板]]に[[尾長鶏]]が描かれていた。一等食堂のサイドボードは[[尾形光琳]]の[[紅白梅屏風]]を模した蒔絵が扉となり、開けると[[スクリーン]]が現れた。これらの装飾は航空母艦の改造時に廃棄された<ref>[http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00460/mokuji.htm 日本財団図書館 戦前日本の最優秀船 新田丸]</ref>。 |
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改装完了後[[連合艦隊]]付属として海軍籍に入り、[[12月13日]]に[[横須賀市|横須賀]]を出撃し[[チューク諸島|トラック島]]へ陸軍の白城子教導飛行団を運んだ。その後も[[1943年]](昭和18年)[[4月25日]]~[[5月13日]]、[[5月24日]]~[[6月9日]]、[[6月16日]]~[[7月2日]]にトラック島への航空機の輸送を行った。 |
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進水から半年も経たないうちに[[第二次世界大戦]]が勃発して欧州航路は中止され、新田丸級三姉妹船は太平洋航路に就役することになった<ref>{{アジア歴史資料センター|J21022357800|Shin Sekai Asahi Shinbun 1939.10.26 新世界朝日新聞/nws_19391026(スタンフォード大学フーヴァー研究所)}} p.3〔 太平洋の女王「新田丸」明年四月桑港へ入港 {{smaller|純國産を誇る豪華な三姉妹}} 〕</ref><ref name="tni19391102p3" />。 |
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1943年9月24日、空母「[[大鷹 (空母)|大鷹]]」とともにトラックから横須賀に向けて航行中、小笠原諸島北東沖でアメリカ潜水艦の雷撃により「大鷹」が損傷、「冲鷹」は航行不能となった「大鷹」を曳航して約8ノットで航行し横須賀にたどり着いた<ref name="katura">桂理平、[http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-1-kuubotyuuyounosounan-katura1.html 空母冲鷹の遭難]</ref>。 |
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1940年(昭和15年)3月23日、竣工<ref>{{アジア歴史資料センター|J21022401200|Shin Sekai Asahi Shinbun 1941.06.02 新世界朝日新聞/nws_19410602(スタンフォード大学フーヴァー研究所)}} p.3(新田丸要目)</ref>。長崎から神戸港に移動し<ref name="nws19410603p.2"/>、4月3日より神戸から横浜までの試乗航海を実施する<ref>{{アジア歴史資料センター|J21022389600|Shin Sekai Asahi Shinbun 1941.04.05 新世界朝日新聞/nws_19410405(スタンフォード大学フーヴァー研究所)}} p.3 〔 こんな巨船が來ます 明春=主力艦級の超豪華船[ 相ついで同朋にお目見得 ]二萬七千噸の[[隼鷹 (空母)|橿原]]、[[飛鷹 (空母)|出雲]]兩船 /世界に誇る新優秀船新田丸試乘航海 本社代表鈴木東京支局長参加 〕</ref>。 |
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4月10日、[[邦彦王妃俔子|久邇宮大妃]]、[[梨本宮守正王|梨本宮]]、[[春仁王妃直子|同妃閑院若宮妃]]、[[賀陽宮恒憲王]]など皇族多数の台臨を仰いだ<ref name="nws19410603p.2"/>。 |
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5月18日、ホノルル経由でサンフランシスコへむかうべく、横浜港を出発した<ref>{{アジア歴史資料センター|J21022398400|Shin Sekai Asahi Shinbun 1941.05.19 新世界朝日新聞/nws_19410519(スタンフォード大学フーヴァー研究所)}} p.3 〔 豪華船「新田丸」處女航海へ……(横濱十八日同盟) 〕</ref>。 |
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既述のように[[第二次世界大戦]]の影響で[[サンフランシスコ]]航路に就航したが、日米関係の悪化に伴い航路は休止される{{Sfn|空母機動部隊|2010|pp=237-238|ps=大々的"整形手術"}}。[[1941年]](昭和16年)6月の時点で、海軍側は「新田丸」の空母改造を要望していた<ref>{{アジア歴史資料センター|C14120245100|海軍航空本部 支那事変日誌 昭和16.6.1〜16.6.30/1.一般 6月1日現在(4)各部よりの要求 p.2}}</ref>。空母改造は規定路線だったが、日米交渉使節団輸送のため改装工事着手は延期された{{Sfn|戦史叢書95|1976|pp=96-97|ps=出師準備第二着作業発動}}。 |
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1943年(昭和18年)[[11月30日]]、「冲鷹」は空母「[[雲鷹 (空母)|雲鷹]]」、「[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]」、[[重巡洋艦]]「[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]」、駆逐艦「曙」、「朧」、「漣」、「浦風」とともにトラックを出港し日本へ向かった<ref>[[#空母瑞鳳生涯]]174頁</ref>。空母にはソロモン・ニューギニアからの人員、機材が搭載されており、また「冲鷹」には民間人や20名の捕虜も乗っていた<ref name="katura"/>。その頃、トラック港湾部長が護衛艦隊司令部に発信した暗号を解読した米軍は、複数の潜水艦に輸送船団の襲撃を命じた<ref>[[#空母瑞鳳生涯]]176頁</ref>。12月3日夜、荒天のため各艦は分散してしまい、互いの位置すら掴めていなかった<ref>[[#空母瑞鳳生涯]]175頁</ref>。一方、船団を追跡していたアメリカ[[潜水艦]][[セイルフィッシュ (SS-192)|セイルフィッシュ]]は八丈島東方で2度目の襲撃を行う。レーダーで目標を探知すると、4本の魚雷を発射して命中音2本を確認、これに対し「冲鷹」は『0時10分、われに魚雷1本命中す、前部居住区火災、航行可能』と発信した<ref>[[#空母瑞鳳生涯]]177頁</ref>。セイルフィッシュは落伍した「冲鷹」を追跡し、浮上すると5時50分に魚雷3本を発射、命中2本を記録している<ref name="瑞鳳生涯178">[[#空母瑞鳳生涯]]178頁</ref>。セイルフィッシュは「冲鷹」の左舷1500mを通過すると、潜航して9時40分に後部魚雷発射管から魚雷3本を発射、2回の命中音と破壊音を確認した<ref name="瑞鳳生涯178"/>。三度被雷した「冲鷹」は沈没<ref name="瑞鳳生涯178"/>。「冲鷹」には約3000名(内乗員は553名)が乗っており、救助されたのは約170名と言う<ref name="katura"/>。また同乗していた捕虜は19名が命を落とした<ref name="katura"/>。 |
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8月4日、日本郵船は「新田丸」と「[[氷川丸]]」の出港を中止した<ref>{{アジア歴史資料センター|J21022485000|Shin Sekai Asahi Shinbun 1941.08.05 新世界朝日新聞/nws_19410805(スタンフォード大学フーヴァー研究所)}} p.3〔 日米定期航路杜絶か 新田丸、氷川丸出帆を中止 米人六百余名立往生 〕</ref>。同月、[[近衛文麿]]内閣総理大臣や[[吉田善吾]](海軍側首席随員)は「新田丸」に乗船、[[最上型重巡洋艦|最上型巡洋艦]]4隻<!--([[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]、[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]、[[最上 (重巡洋艦)|最上]]、[[三隈 (重巡洋艦)|三隈]])-->に護衛され、[[ハワイ諸島]][[オアフ島]]の[[真珠湾]]に入港する計画がたてられた{{Sfn|野村實|1988|p=172a|ps=最後のチャンスも逃す}}。近衛首相は[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領と会談する予定だったという{{Sfn|野村實|1988|p=172b}}。だが、近衛とルーズベルトの会談は実現しなかった{{Sfn|野村實|1988|p=172b}}。[[9月12日]]、「新田丸」は日本海軍に徴用された<ref name="福井著11特設81表6" />。 |
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10月中旬以降、日米兩政府は貨客船3隻を北米航路に投入することで同意、「新田丸」は[[バンクーバー_(ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]と[[シアトル]]に寄港する予定だった<ref>{{アジア歴史資料センター|J21022498400|Shin Sekai Asahi Shinbun 1941.10.12 新世界朝日新聞/nws_19411012(スタンフォード大学フーヴァー研究所)}} p.3〔 いよいよ來る日本船!わが提案に米國も同意 三船次いで米國へ(中略)▲新田丸 十月二十日横濱發、ヴアンクバー及びシアトル向け 〕</ref>。だが「新田丸」のシアトル行きは中止され、「氷川丸」に置き換えられた<ref>{{アジア歴史資料センター|J21022499000|Shin Sekai Asahi Shinbun 1941.10.15 新世界朝日新聞/nws_19411015(スタンフォード大学フーヴァー研究所)}} p.3〔 [[龍田丸]]卅日着來月二日出帆 {{smaller|シアトルへは氷川丸}}(中略)なほバンクーバー、シアトルには新田丸が向けられる旨曩に發豹されてゐたが、これを變更して氷川丸が配船されることになつた、ホノルルへは從前通り[[大洋丸]]である(記事おわり) 〕</ref>。 |
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[[1944年]](昭和19年)[[2月5日]]除籍。 |
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=== 新田丸 === |
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[[太平洋戦争]]開戦当初、「新田丸」は運送艦として用いられた{{Sfn|空母二十九隻|2016|p=325|ps=冲鷹(ちゅうよう)}}。 |
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<small>※『艦長たちの軍艦史』73-74頁、『日本海軍史』第9巻「将官履歴」に基づく。</small> |
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[[1941年]](昭和16年)12月中旬、[[ウェーク島の戦い]]終結後の日本軍守備隊を増強するため{{Sfn|戦史叢書38|1970|pp=224-225|ps=ウェーク島の警備担当となった第六根拠地隊}}、[[上海海軍特別陸戦隊]](長光少佐、海兵55期)を[[ウェーク島]](大鳥島)へ輸送することになった{{Sfn|戦史叢書38|1970|pp=225a-226|ps=上海特別陸戦隊の長代替のウェーク進出と第六十五警備隊の新編}}<ref name="徴傭行動六20">[[#徴傭船舶行動甲第1回続(6)]]p.20〔大東亜戰爭徴傭船新田丸行動概見表 横須賀地方海軍運輸部長海軍〕「年/項/月/日:一六.一二.一五|所在 發:二見|着 |配属:横須賀鎮守府|記事:軍需便二〇五七屯 人員三五七一名 輸送」/「一六.一二.一七| |呉|」/「一七.一.一二|大鳥島| |」/「一七.一.一八| |横浜」</ref>。 |
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=== 艤装員長 === |
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「新田丸」は[[上海市]]を出発、横須賀と[[ロンゲラップ環礁|ロンゲラップ島]]を経由して、[[1942年]](昭和17年)1月12日[[ウェーク島]]に到着した<ref name="徴傭行動六20" />{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=225b}}。第六十五警備部隊が新編され、ウェーク島守備部隊となった{{efn|第六十五警備隊司令は川崎進大佐(海兵46期)、12月31日に新設<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072083500|昭和16年12月31日(水)海軍辞令公報(部内限)第785号 p.49}}</ref>。第六根拠地隊麾下であった{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=225b}}。}}。 |
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#石井芸江 [[大佐]]:1942年8月20日 - |
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帰路の「新田丸」は、米兵捕虜約1,000-1,200名をウェーク島から本土へ輸送した{{Sfn|戦史叢書38|1970|pp=227-228|ps=新田丸による捕虜還送}}。この捕虜輸送任務にあたり、[[豊田副武]]呉鎮守府長官は「必要ならば武力を行使して良い」と指示していた<ref>[[#S1612呉鎮日誌(1)]] p.44〔 26日呉鎮長官→斉藤大尉(呉海兵団)|機密呉鎮守府命令第四四五號 昭和十六年十二月二十六日 呉鎮守府司令長官豊田副武 海軍大尉斉藤利夫ニ命令 一.貴官ハ別ニ編制セル陸戦隊一個小隊ヲ率ヰ徴傭船新田丸ニ乗船シ捕虜輸送時之ガ警戒監視ニ任ズベシ。任務遂行上必要アルトキハ武力ヲ行使スルコトヲ得/二.新田丸乗船中敵對行動其ノ他軍事上必要アルトキハ同船ノ進退ニ関シ同船船長ニ所要ノ指示ヲ為スコトヲ得 〕</ref>。斎藤利夫大尉以下の警戒隊は58名しかおらず、船内で幾度か小競り合いが起きた{{Sfn|歴群、戦争裁判|1993|pp=148-150|ps=▼米兵捕虜処刑の「新田丸事件」}}。1月18日、横浜港に到着した<ref name="徴傭行動六20" />。この様子がニュース映像として残っている<ref>{{Cite web|和書|url= https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009180566_00000|title = ウエーキ島から横浜港へ<敗残の米俘虜護送> |date= 1942 |work = NHKアーカイブス| accessdate = 2023-12-09}}([[NHKアーカイブスポータル]])</ref>。なお報告を受けた[[軍令部]]部員のK中佐は斎藤大尉を厳しく叱責し、船内取締規約を破ったとみなされた捕虜5名の処刑を命じた{{Sfn|歴群、戦争裁判|1993|p=149}}。「新田丸」は米兵捕虜を上海に輸送したが、その際に捕虜5名が処刑され、遺体は米国旗に包まれて水葬に伏された{{efn|太平洋戦争終結後、捕虜処刑命令を出したK中佐は既に戦死していたので、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]は斎藤大尉を責任者とみなした{{Sfn|歴群、戦争裁判|1993|p=150}}。だが斎藤が逃亡生活に入り、[[1952年]](昭和27年)2月に逮捕令状を取り消した{{Sfn|歴群、戦争裁判|1993|pp=157-158|ps=▼戦犯の「逮捕令状取消し」}}。}}。 |
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=== 艦長 === |
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#石井芸江 大佐:1942年11月20日 - |
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その後も、「新田丸」は兵員輸送任務に投入された<ref>[[#S17.03横鎮日誌(5)]] p.55〔 二五(天候略)(略)二.新田丸運輸機密第五六六番電ニ依リ人員及軍需品輸送任務ノ爲木更津經由高雄ニ向ケ横須賀發(略)二.潮、漣、曙、伊一二三入港(以下略) 〕</ref>。[[4月18日]]の[[ドーリットル空襲]]時には、横浜および横須賀に所在<ref>[[#徴傭船舶行動甲第1回続(6)]] p.21〔新田丸〕「一七.四.一八|横浜| |」/「一七.四.一八| |横須賀」</ref>。5月1日、解傭される<ref>[[#徴傭船舶行動甲第1回続(6)]] p.22〔新田丸〕「一七.四.二五|横須賀| |」/「一七.四.二五| |横浜」/「昭|一七.五.一|解傭」</ref>。6月9日、呉に向けて横須賀を出発した<ref>[[#S17.06横鎮日誌(4)]] pp.21-22〔 九(天候略)(略)三、朧一七〇〇呉ニ向ケ出港|一、新田丸軍需品輸送ノタメ呉ニ向ケ横須賀發(以下略) 〕</ref>。 |
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#加藤与四郎 大佐:1943年2月1日 - |
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#大倉留三郎 大佐:1943年9月27日 - 12月4日戦死 |
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=== 冲鷹 === |
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==== 1942年 ==== |
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[[1942年]](昭和17年)[[6月21日]]、「新田丸」を特設航空母艦に改造するよう、艤装工事の指令が出される<ref>[[#S17.05呉鎮日誌(2)]] pp.51-52〔 二一(天候略)(略)二、官房機密第七四九一號ニ依リ徴用船新田丸ヲ特設航空母艦トシテ艤装ノ件指令ス/三、官房機密第七四九二號ニ依リ千代田ニ防寒施設施行ノ件指令 〕</ref>。 |
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[[7月17日]]の時点で、空母改造工事は相当進捗していた<ref>[[#S17.05呉鎮日誌(3)]] p.29〔 十七日一一五〇 呉鎭参謀長|横鎭参謀長 人事局長(軍務局長 外)|呉鎭機密第九一一番電 新田丸(横鎭所管裸船徴傭呉工廠ニテ特設空母ニ改装中)ノ艤装工事ハ既ニ相當進捗シアリ目下固有船長及船員ノ一部殘留シアルモ保安警戒及防諜上成ルベク速ニ艦長以下ノ乗員ト交替セシムルヲ適當ト認メラルルニ付然ルベク取計ヒ相成度 追テ同船ハ十一月中旬諸公試指向同末日工事完了引渡ノ豫定|無電 〕</ref>。 |
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[[8月]]、日本海軍は「新田丸」を買収する<ref name="日本空母物語310">[[#日本空母物語]]310-311頁「(3)雲鷹(旧八幡丸)と冲鷹(旧新田丸)」</ref>。一般には、[[8月10日]]より[[呉海軍工廠]]で航空母艦への改装に着手する<ref name="日本空母物語310" /><ref name="丸写真4冲鷹">[[#丸写真第4巻|写真日本の軍艦第4巻]]109頁「航空母艦(祥鳳・瑞鳳・千歳・千代田・信濃・伊吹・大鷹・雲鷹・冲鷹・神鷹・海鷹)行動年表 ◇冲鷹◇」</ref>。 |
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8月20日、新田丸は冲鷹(チュウヨウ)へと改名した<ref name="S17達234号" /><ref name="福井著11特設80">[[#福井著作11|日本特設艦船物語]]80頁「◇冲鷹(旧名:新田丸)」</ref>。 |
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[[航空母艦]]に類別される{{Efn|内令第一五五四號 艦艇類別等級別表左ノ通改正ス<ref name="S17内令1554号">[[#内令昭和17年8月(3)]] pp.5-6</ref> 昭和十七年八月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦二等阿賀野型ノ項中「阿賀野」ノ下ニ「、能代、矢矧」ヲ加フ 同、航空母艦ノ項中「飛鷹」ノ下ニ「、冲鷹」ヲ加フ|驅逐艦、一等初春型ノ項中「子日、」ヲ、同白露ノ項中「山風、」ヲ、同朝潮型ノ項中「、霰」ヲ削リ、同秋月型ノ項中「新月」ノ下ニ「、若月」ヲ加フ(以下略) }}。 |
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改名と共に[[軍艦]]として類別されたため<ref name="福井著11特設81表6" />、本艦には先行2隻(春日丸=大鷹 、八幡丸=雲鷹)と異なり、特設航空母艦としての経歴は無い。同日付で海軍は、[[大鷹 (空母)|春日丸]]・[[隼鷹 (空母)|橿原丸]]艤装員長等を歴任した[[石井芸江]](石井藝江)大佐を、冲鷹艤装員長に任命する<ref name="jirei926">{{アジア歴史資料センター|C13072086600|昭和17年8月20日(発令8月20日)海軍辞令公報(部内限)第926号 p.43}}</ref>。 |
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新田丸級三隻の中で最後の改造艦となった「冲鷹」は{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=429}}、姉妹艦の運用経験から<ref name="福井著11特設80" />、当初より飛行甲板を10m延長した<ref name="日本空母物語310" /><ref name="丸写真4巻92">[[#丸写真第4巻|写真日本の軍艦第4巻]]92-93頁</ref>。幅も先行2隻の23.5mから23.7mに増した<ref name="丸写真4巻92" />。対空火器も12cm単装高角砲四基から12.7cm連装高角砲四基に変更、機銃も増強されている<ref name="日本空母物語310" /><ref name="丸写真4巻92" />。一方で、日本海軍の空母用カタパルト開発失敗と低速力により、大鷹型の航空機運用能力はカタパルトを装備したアメリカ軍の[[軽空母]]や[[護衛空母]]のそれと比較して限定的なものとなる<ref>[[#日本空母物語]]107頁</ref>。結局、[[隼鷹型航空母艦]]をのぞく日本海軍の商船改造空母が最前線に投入される事はなかった。 |
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1942年(昭和17年)11月20日、石井芸江大佐(冲鷹艤装員長)は冲鷹艦長(初代)に任命される<ref name="jirei993">{{アジア歴史資料センター|C13072088300|昭和17年11月20日(発令11月20日付)海軍辞令公報(部内限)第993号 p.6}}</ref>。 |
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[[11月25日]]、空母改装完了{{Sfn|世界の艦船、日本航空母艦史|1994|p=84b}}。同月付で[[横須賀鎮守府]]籍<ref name="S17内令2176号">[[#内令昭和17年11月(4)]] p.39〔 内令第二千百七十六號 軍艦 冲鷹 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル 昭和十七年十一月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎 〕</ref>。さらに[[連合艦隊]]付属となり<ref name="丸写真4冲鷹" /><ref>[[#S1711佐鎮日誌(2)]] pp.27-28〔 大海第一部長|各警備府、各艦隊各参謀長|十一月下旬帝國海軍戰時編制中左ノ通改正セラルルコトニ手續中(略)三、二十五日附(以下略) 〕</ref>、航空機輸送任務に投入される事になった<ref name="日本空母物語310" />。 |
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[[朝潮型駆逐艦|駆逐艦]]「[[山雲 (駆逐艦)|山雲]]」(横須賀鎮守府警備駆逐艦)に護衛されて内海西部を出発<ref>[[#S17.07横防日誌(2)]] p.27〔 二十七日(天候略)(略)一八三〇山雲播磨灘着|三、海上保護直接護衛部隊(略)(三)山雲ハ播磨灘ヨリ冲鷹ノ直接護衛 〕</ref>、11月28日[[横須賀港]]に到着した<ref name="丸写真4冲鷹" />。 |
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航空機輸送任務に従事する空母にとって最大の敵は、日本近海にも進出していたアメリカ軍の潜水艦だった<ref name="S1712横防(1)4">[[#S17.12横防日誌(1)]] pp.4-5〔 (イ)而シテ本月ハ上中下旬ヲ通ジ三陸ヨリ犬吠埼ニ至ル海面ニ於テ敵潜水艦ノ出現頻繁ニシテ其ノ數別表ノ如ク味方艦及船團ニ對シテ雷撃或ハ砲撃ヲナシ神護丸ノ沈没其ノ他ニ商船損害ヲ受ケタルモ其ノ都度直率部隊ノ艦艇ヲ始メ東京湾部隊三陸部隊ノ艦艇及館空飛行機ヲ以テ之ヲ捜索掃蕩攻撃セリ中旬ニハ北緯三十二度十分東経百四十二度三十二分ニ於テ南下中ノ龍鳳雷撃ヲ受ケ軽微ノ損害ヲ蒙リ直率部隊艦艇及館空機ハ同艦ノ警戒護衛ヲ實施シ東京湾ニ入港セラレタリ 〕</ref>。 |
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12月上旬、本艦は[[潜水母艦]]から空母に改造されたばかりの「[[龍鳳 (空母)|龍鳳]]」(元大鯨)と共に、航空機輸送任務に従事する{{Sfn|日本空母戦史|1977|pp=430a-433|ps=龍鳳の竣工(十一月三十日)}}。12月4日、連合艦隊は空母2隻(龍鳳、冲鷹)及び護衛の[[陽炎型駆逐艦|駆逐艦]]「[[時津風 (陽炎型駆逐艦)|時津風]]」<!--(第16駆逐隊)-->と[[睦月型駆逐艦|駆逐艦]]「[[卯月 (睦月型駆逐艦)|卯月]]」<!--(第30駆逐隊)-->に対し、[[チューク諸島|トラック島]]への進出を下令した<ref>[[#S1712四水戦日誌(1)]] p.30〔 4日0850GF長官→各隊GF電令作第405号/一.龍鳳、冲鷹ハ龍鳳艦長之ヲ指揮シ大海機密第201059番電(11月ニ依ル陸軍航空部隊及航本機密第021622番電ニ依ル飛行機ノ輸送ニ従事スベシ。二.龍鳳ヲ右輸送期間中主隊ニ編入ス。三.左ノ各指揮官ハ指定駆逐艦ヲシテ龍鳳艦長ノ指揮ヲ承ケ第一輸送ノ護衛ニ従事セシムベシ 外南洋部隊卯月横須賀「トラック」間、機動部隊駆逐艦1隻横須賀「サイパン」間、前進部隊駆逐艦2隻「サイパン」「トラック」間。四.日進(以下略) 〕</ref>{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=215-217|ps=航空母艦による航空機輸送}}。 |
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輸送物件は、日本陸軍[[第6飛行師団 (日本軍)|第六飛行師団]](師団長[[板花義一]]陸軍中将){{Sfn|戦史叢書07|1967|pp=57-58|ps=航空関係の統帥組織と陣容}}隷下の白城子教導飛行団が保有する[[九九式双発軽爆撃機]]だった{{Sfn|戦史叢書07|1967|pp=59-62|ps=派遣部隊の選定と素質/独立飛行第七十六中隊/第十二飛行師団/白城子教導飛行団}}{{efn|白城子教導飛行団(飛行団長[[白銀重二]]陸軍少将)と隷下の軽爆二戦隊……飛行第四十五戦隊(戦隊長[[濱田龍太郎]]陸軍大佐)と飛行第二百八戦隊(戦隊長[[於田秋光]]陸軍大佐)である{{Sfn|戦史叢書07|1967|p=62|ps=白城子教導飛行団}}。}}。「冲鷹」は飛行第四十五戦隊の九九双軽23機を飛行甲板に露天繋止、戦隊長をふくむ隊員203名を乗船させた{{Sfn|戦史叢書07|1967|pp=69a-70|ps=白城子教導飛行団(軽爆)}}。「龍鳳」は九九双軽22機と飛行団長をふくむ133名を乗船させた{{Sfn|戦史叢書07|1967|p=69b}}。 |
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ところが本艦で機関故障が発生し出港が遅れる見込みとなったため、「龍鳳」と「時津風」が先行して出発することになった{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=429}}<ref>[[#S1712四水戦日誌(2)]] p.16〔 11日1116龍鳳→各隊/発竜鳳艦長 一.竜鳳ハ時津風ヲ率ヒ竜鳳キデ101301番電通行動ス。二.冲鷹ハ主給水ポンプ故障ノ為出港ヲ延期シ12日復旧後卯月ヲ率ヒ艦長所定ニ依リ行動セシム。三.朝雲時雨ハ15日1200竜鳳ニ会合予定ノ通警戒ニ任ズ 〕</ref>。 |
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[[12月11日]]、先行隊(龍鳳、時津風)は横須賀を出発する{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=217}}。[[12月12日]]午前10時前後、「龍鳳」は[[八丈島]]東160浬で米潜[[ドラム (潜水艦)|ドラム]]<!-- (''{{lang|en|USS Drum, SS-228}}'') -->に雷撃され{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=431}}、右舷中部に魚雷1本が命中した<ref>[[#S1712四水戦日誌(2)]] p.17〔 12日1058竜鳳→各隊/右舷中部ニ浸水アルモ単独航行ニ差支ナシ横須賀ニ引返ス 警戒ニ関シ御手配ヲ乞フ 〕</ref><ref name="S1712横防(1)23">[[#S17.12横防日誌(1)]] p.23〔 敵潜水艦發見記録|一二|一〇一八|N三十二度十分 E百四十二度五〇分|龍鳳|雷撃|損害アリ旗風 駆潜三十三、三十四警戒直衛 館空飛行機捜索攻撃 〕-〔 一三|〇六二〇|N二十四度〇分 E百四十二度二十分|〃(龍鳳)|〃(雷撃)|命中セズ 〕</ref>。同艦は「時津風」や、横須賀から応援にかけつけた[[神風型駆逐艦 (2代)|駆逐艦]]「[[旗風 (駆逐艦)|旗風]]」等に護衛され、出撃したばかりの横須賀へ引き返している<ref name="S1712横防(1)4" />{{efn|龍鳳の被雷により、第四十五戦隊隊員は45名が戦死{{Sfn|戦史叢書07|1967|p=69b}}、合計百余名の死傷者を出した{{Sfn|戦史叢書97|1979|p=234-235|ps=飛行部隊の集中 ― 航空母艦の利用}}。「龍鳳」が輸送するはずだった九九双軽爆は、[[翔鶴型航空母艦|空母]]「[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]」([[第一航空戦隊]])が輸送した{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=432}}{{Sfn|戦史叢書07|1967|p=70}}。}}。 |
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龍鳳隊より遅れて出港した冲鷹隊(冲鷹、卯月)は{{Sfn|戦史叢書07|1967|p=69b}}<ref>[[#S17.07横防日誌(2)]] pp.41-42〔 (十二月)十二日(天候略)|(三)水路嚮導(一、略)(二)駆潜三十三ハ一六一五横須賀出撃ノ冲鷹卯月ヲ湾口附近迄嚮導ス 〕</ref>、サイパン北西で[[朝潮型駆逐艦|駆逐艦]]「[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]」(第9駆逐隊)と[[白露型駆逐艦|駆逐艦]]「[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]」(第27駆逐隊)と合流、12月18日トラック泊地へ到着した{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=430b}}<ref>[[#S1712四水戦日誌(1)]] p.13〔 …朝雲時雨ハ9dg司令之ヲ率ヒ冲鷹警戒任務ノ為13日1530「トラック」出撃15日1445「サイパン」北西海面ニテ冲鷹卯月ニ合同、18日0750「トラック」着… 〕</ref>。 |
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横須賀への帰路と<ref>[[#S1712四水戦日誌(1)]] p.13〔 …更ニAdB電令作第90号4sd電令作第1号ニ依リGF電令作第405号ニ依ル輸送任務ニ従事スル冲鷹警戒任務ノ為21日1024「トラック」発26日1250横須賀着。 〕</ref>、翌年1月2日からのトラック再進出の際も{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=429}}、「朝雲」と「時雨」に護衛された<ref>[[#S1712四水戦日誌(3)]] p.18 〔 2日1530(司令)9dg|9dg(峯雲欠)27dg(白露有明夕暮欠)冲鷹ヲ護衛「トラック」ニ向ケ横須賀発 〕</ref>。 |
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==== 1943年 ==== |
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[[1943年]](昭和18年)2月1日、冲鷹艦長は石井芸江大佐から[[加藤与四郎]](加藤與四郎)大佐に交代する<ref name="丸写真4冲鷹" /><ref name="jirei1046">{{アジア歴史資料センター|C13072089600|昭和18年2月1日(発令2月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1046号 p.21}}</ref>。 |
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2月7日、「冲鷹」は駆逐艦3隻に護衛されて横須賀を出港、ラバウル方面航空機輸送任務に従事する<ref>[[#S1712四水戦日誌(4)]] p.62〔 7日|(将旗)4sd、2dg([[村雨 (白露型駆逐艦)|村雨]])19dg([[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]])[[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]及冲鷹ヲ指揮シ横須賀発トラックニ回航ス 二.9dg(朝雲)五月雨「ガ」島撤収任務ニ従事 〕</ref>。 |
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<!--2月8日、1日遅れて横須賀を出港した貨客船[[龍田丸]]と駆逐艦[[山雲 (駆逐艦)|山雲]]は[[伊豆諸島]][[御蔵島]]沖合でアメリカ軍潜水艦[[ターポン (潜水艦)|ターポン]] (''{{lang|en|USS Tarpon, SS-175}}'') の襲撃を受け、龍田丸が撃沈された{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=430b}}。龍田丸沈没の速報は航行中の冲鷹にも届いたという{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=430b}}。-->[[2月12日|12日]]、冲鷹隊はトラック着<ref name="丸写真4冲鷹" /><ref>[[#S1712四水戦日誌(4)]] p.63〔 12日|一.村雨 浦波 朝潮 冲鷹「トラック」着冲鷹警戒任務ヲ終了ス 〕</ref>。冲鷹隊はカビエン、ラバウル方面への航空機輸送任務に従事する{{Sfn|護衛空母入門|2005|pp=252-253|ps=冲鷹}}。2月20日、横須賀に戻った<ref name="丸写真4冲鷹" />{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=430b}}。大鷹型空母3隻は、引き続き航空機輸送任務に従事した{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=294a|ps=航空母艦による航空機の輸送}}。 |
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4月上旬、「大鷹」とともに陸軍[[第十四飛行団]]第六十八戦隊([[三式戦闘機]])のトラックへの輸送に従事した<ref>『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』294、322ページ</ref>。「冲鷹」と「大鷹」は4月4日に[[高雄型重巡洋艦|重巡洋艦]]「[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]」と駆逐艦4隻<!--「[[漣 (吹雪型駆逐艦)|漣]]」、「[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]]」、「[[黒潮 (駆逐艦)|黒潮]]」、「[[親潮 (駆逐艦)|親潮]]」-->に護衛されて横須賀を出発する<ref>『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』322ページ</ref>。 |
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4月8日夜、アメリカ潜水艦「[[タニー (潜水艦)|タニー]]」が日本の空母3隻を発見した{{efn|空母2隻は「大鷹」と「冲鷹」だが、「タニー」は「鳥海」も空母と誤認していた{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=491}}。}}。距離800mの「大鷹」に対し艦尾発射管より魚雷4本を発射したが、早爆した{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=491}}。「大鷹」に魚雷命中と誤認した「タニー」は、今度は「冲鷹」に魚雷6本を発射するも、同じく早爆に終わった{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=492}}。10日、トラック泊地に到着して任務を終えた<ref>[[#S1801二水戦日誌(5)]] p.6〔 4月4日-同10日|[[親潮 (駆逐艦)|親潮]]、[[黒潮 (駆逐艦)|黒潮]]|冲鷹、大鷹|横須賀→「トラック」〕</ref>。<!--だが三式戦部隊はトラックからラバウルへの空輸において、液冷エンジンの故障・航空機による航法誘導の失敗により、不時着機や行方不明機を多数出してしまった{{Sfn|戦史叢書07|1967|p=209}}{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=332b}}。飛行第七十八戦隊の南太平洋進出は2か月遅れることになり、その後は海上輸送をやめ、中国大陸~フィリピン~ニューギニア島という陸路輸送となった{{Sfn|戦史叢書07|1967|p=210}}。--> |
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4月21日、「冲鷹」と「大鷹」は横須賀に戻った<ref name=戦史叢書(62)294>『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』294ページ</ref>。 |
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4月25日、「雲鷹」とともに横須賀を出発し、トラックへの航空機輸送に従事<ref name=戦史叢書(62)294/>。 |
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5月8日、「冲鷹」と「雲鷹」や戦艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」、第五戦隊([[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]、[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]])などはトラックを出発<ref name=戦史叢書(62)328>『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』328ページ</ref>。5月13日に「大和」は呉に、「冲鷹」他は横須賀に入港した<ref name=戦史叢書(62)328/>。 |
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5月24日から再びトラックへの航空機輸送に従事した<ref name=戦史叢書(62)294/>。6月5日、「冲鷹」と「雲鷹」は、駆逐艦3隻に護衛されて横須賀に帰投することになった<ref>[[#S1801二水戦日誌(6)]] pp.34-35〔 AdB指揮官|29日2330 2sd4sd各司令官4dg司令(GF 4F 横鎮各司令長官 大臣 総長 雲鷹 冲鷹 [[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]|AdB電令作第208號 雲鷹冲鷹「トラック」ヨリ横須賀回航ニ際シ2sd司令官ハ麾下驅逐艦1隻ヲ、4sd司令官ハ4dg([[萩風 (駆逐艦)|萩風]])ヲ派遣シ雲鷹艦長ノ指揮ヲ受ケ同艦ノ警戒ニ任ゼシムベシ 〕-〔 29日2330 2sd司令官→二水戦〔2F、2KEg、4F司 雲鷹 冲鷹 潮〕|AdB電令作第208號ニ依ル駆逐艦ヲ[[清波 (駆逐艦)|清波]]ニ指定ス」</ref><ref>[[#S1805四水戦日誌(1)]] p.55〔 27日0822(将旗)GF→27日1500(将旗)2F(将旗)7dg雲鷹大鷹冲鷹潮|GF電令作第578号 一.雲鷹冲鷹潮現任務終了後雲鷹艦長指揮ノ下ニ横須賀ニ回航スベシ/二.AdB指揮官ハd×2(萩風ヲ含ム)ヲシテ雲鷹艦長ノ指揮ヲ受ケ右部隊ノ護衛ニ任ズベシ/三.7dg(曙)ハ現任務終了後横須賀ニ回航スベシ 〕</ref>。 |
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6月5日にトラックを出発し、本土へ向かう<ref>[[#S1805四水戦日誌(2)]] p.83〔 5日(天候略)4dg(萩風)0425横須賀ニ向ケトラック発|4dg(萩風)AdB電令作第208号ニ依ル雲鷹冲鷹警戒任務ニ従事横須賀ニ回航ス|元GF司令長官山本元帥国葬 〕</ref>。6月9日、横須賀に到着する<ref name="丸写真4冲鷹" />{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=294b}}。 |
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6月16日、第三戦隊司令官[[栗田健男]]中将の指揮下<ref>[[#S1709三戦隊日誌(3)]] p.26〔 (3)十六日3S司令官指揮ノ下ニ7S 2sf其ノ他ト共ニ横須賀発二十一日「トラツク」ニ進出回航及輸送ノ任務ヲ完了セリ 〕</ref>、第三戦隊([[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]]){{Sfn|日本空母戦史|1977|p=496b|ps=トラック島にむかった艦隊}}、第七戦隊([[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]、[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]])<ref>[[#S1704七戦隊日誌(7)]] p.5〔 (五)六月十五日前進部隊ニ編入セラレ六月十六日第三戰隊司令官指揮ノ下ニ第三戰隊第七戰隊(最上欠)第二航空戰隊(龍鳳)五十鈴雲鷹沖鷹第七駆逐隊第十六駆逐隊(雪風)第二十七駆逐隊(白露欠)浜風谷風涼風新月清波ト横須賀發二十一日「トラック」着 〕</ref>、軽巡[[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=369|ps=横二特のナウル進出}}(第十四戦隊){{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=471}}、空母3隻(龍鳳、雲鷹、冲鷹){{Sfn|日本空母戦史|1977|p=486}}、駆逐艦部隊は横須賀を出発する{{Sfn|高松宮日記6巻|1997|p=360|ps=(昭和18年6月16日項)}}{{efn|第27駆逐隊(時雨、有明、夕暮)、第7駆逐隊(潮、漣、曙)、陽炎型駆逐艦([[雪風 (駆逐艦)|雪風]]、[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]、[[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]])、白露型駆逐艦[[涼風 (駆逐艦)|涼風]]、秋月型駆逐艦[[新月 (駆逐艦)|新月]]、夕雲型駆逐艦[[清波 (駆逐艦)|清波]]<ref>[[#S1805四水戦日誌(2)]] p.9〔 16日、27dg(白露欠)ハGF電令作第593号ニ依リ3S(指揮官)ノ指揮下ノ下ニ3S 7S(最上欠)2sf(龍鳳)五十鈴 雲鷹 冲鷹 7dg 16dg(雪風)浜風 谷風 涼風 清波 新月等ト共ニ横須賀発、21日「トラック」着 〕</ref>。}}。 |
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6月20日、暗号解読により待ち伏せていた米潜水艦[[スピアフィッシュ (サーゴ級潜水艦)|スピアーフィッシュ]]が空母(個艦不明)に対し魚雷4本を発射するが、速力を見誤っていたので命中しなかった{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=497}}{{efn|木俣滋郎『日本空母戦史』496ページの編成表では同行艦に駆逐艦[[江風 (白露型駆逐艦)|江風]](第24駆逐隊)を加えるが、同艦はスピアーフィッシュと交戦して損傷、トラック泊地で修理中。}}。6月21日、栗田部隊はトラック泊地に到着した{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=471}}{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=342}}。便乗していた航空隊関係者は、同地で別の輸送船に移乗した{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=349-350|ps=五五二空の第二十二航空戦隊編入とマーシャル進出}}{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=350-351|ps=八〇二空横濱基地派遣隊の引き揚げと二式飛行艇の食う首}}。その後、一旦内地に戻る<ref name="丸写真4冲鷹" />{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=294b}}。 |
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7月10日、第三艦隊司令長官[[小沢治三郎]]中将は{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=487a|ps=内地を出撃せる第三艦隊(昭和十八年七月九日)}}、[[第一航空戦隊]](瑞鶴、翔鶴、瑞鳳){{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=356-357|ps=東方部隊指揮官の任務、機動部隊指揮官に継承}}と冲鷹<ref name="S1709日進(2)38" />、重巡3隻([[利根 (重巡洋艦)|利根]]、[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]、[[最上 (重巡洋艦)|最上]])、軽巡洋艦[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|pp=443-445|ps=大淀の陸軍輸送(七月)}}、軽巡洋艦[[阿賀野 (軽巡洋艦)|阿賀野]](第十戦隊旗艦)、水上機母艦[[日進 (水上機母艦)|日進]]{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=372-373|ps=南海第四守備隊の南東方面への転用}}、駆逐艦部隊は横須賀を出撃する{{efn|陽炎型駆逐艦([[嵐 (駆逐艦)|嵐]]、[[萩風 (駆逐艦)|萩風]]、[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]])、秋月型駆逐艦([[涼月 (駆逐艦)|涼月]]、[[初月 (駆逐艦)|初月]])、夕雲型駆逐艦[[玉波 (駆逐艦)|玉波]]<ref name="S1709日進(2)38">[[#S1709日進詳報(2)]] p.38〔 七月三日一八二五機動部隊指揮官|8S 10S外日進|KdB機密〇三二一一〇番電 一.略/二.冲鷹日進玉波(日進艦長ノ命ヲ受ケ日進警衛ニ任ズ)ハ便宜各所在地發七月十一日一二〇〇迄ニ當部隊ニ合同セヨ|無電 〕-〔 七月十日〇五三〇日進(宛略)日進玉波〇五〇〇「トラック」ニ向ケ發|無電 〕-〔 七月十四日〇五〇〇瑞鶴|艦隊|日進冲鷹玉波嵐ハ列ヲ解キ日進艦長所定ニ依リ概ネ當隊ニ續行「トラック」ニ入泊スベシ|信号 〕</ref><ref>[[#S1701八戦隊日誌(6)]] p.18〔 …翌十日機動部隊指揮官指揮ノ下ニ第八戦隊ヲ率ヰ0600同地發1230沖ノ島出撃「トラック」ニ回航15日着急速補給ヲ完了機動部隊第一部隊(8S 61dg)及第三部隊(日進)ヲ率ヰ14S(那珂)ヲ併セ指揮シ16日早朝「トラック」發ニテ搭載人員ヲ「ミレ」方面ニ輸送ノ予定ナシリ所… 〕</ref>。}}。 |
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「冲鷹」は7月10日に[[翔鶴型航空母艦]]などとともに内海西部を出発し、7月15日にトラックに着いた<ref>『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』357ページ</ref>。この時「冲鷹」は[[第五五二海軍航空隊|五五二空]]や[[第十四航空隊_(2代)|八〇二空]]関係の輸送に従事した<ref>『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』349-351ページ</ref>。また、「冲鷹」には[[マーシャル諸島]]や[[ソロモン諸島]]派遣予定の陸軍部隊や重火器も積載されていた{{Sfn|日本空母戦史|1977|pp=498-500}}<ref group=注釈>この部隊のトラック進出時には陸軍南海第四守備隊の輸送が行われているが、『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』372ページによれば「冲鷹」はそれには従事していない。</ref>。7月15日、暗号解読や僚艦からの通報により、複数のアメリカ軍潜水艦<!-- アメリカ潜水艦[[ティノサ (潜水艦)|ティノサ]]、[[ポーギー (潜水艦)|ポーギー]]など、-->がトラック諸島近海で小沢機動部隊を待ち伏せていた{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=487b}}{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=445}}。潜水艦「[[ティノサ (潜水艦)|ティノサ]]<!-- (''{{lang|en|USS Tinosa, SS-283}}'') -->」は距離3500mで魚雷4本を発射するが回避され{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=500}}、小沢部隊は被害なくトラック泊地に到着した{{Sfn|高松宮日記6巻|1997|p=472|ps=(昭和18年7月16日項)〔 ○第三艦隊(一五-一六四〇)第一航空戦隊、第八、第十戦隊(「阿賀野」、第六十一、第四駆逐隊、「磯風」)、「最上」「大淀」「日進」「冲鷹」「玉波」、トラック着。〕}}<!-- {{efn|第八戦隊司令官[[岸福治]]少将指揮下の艦隊は[[ソロモン諸島]]への輸送任務のため[[ラバウル]]にむかうが{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=373}}、このうち日進は7月22日に[[ブーゲンビル島]]で空襲を受け撃沈された{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=445}}。}} -->。任務を終えた本艦は内地に戻る{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=294b}}。 |
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9月7日{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=529}}、空母2隻(大鷹、冲鷹)は{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=384-385|ps=航空母艦の航空機輸送}}、駆逐艦3隻に護衛されて横須賀を出発する<ref>[[#S1806二水戦日誌(3)]] p.25〔 四日一五〇八沖鷹(宛略)冲鷹 大鷹 [[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]] [[風雲 (駆逐艦)|風雲]] [[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]左ニ依リ「トラツク」ニ向ケ七日〇五〇〇横須賀發(略) 〕</ref>。11日、トラック泊地に到着した{{Sfn|五月雨出撃す|2010|p=230}}<ref>[[#S1806二水戦日誌(3)]] p.9〔 (6)五月雨 前月ニ引續キ横須賀ニテ修理整備ニ従事中七日冲鷹大鷹ヲ護衛横須賀發十一日「トラツク」着… 〕</ref>。 |
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9月21日、駆逐艦「[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]」に護衛された空母2隻(冲鷹、大鷹)はトラック泊地を出発した{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=529}}<ref>[[#S1709大鷹詳報(3)]] p.19〔 (ロ)(略)次期軍事機材輸送任務ノ為横須賀回航ヲ要シ便乗者840名托送品零戦6其ノ他若干ヲ搭載ノ上21日0400「トラック」港出港(以下略) 〕</ref>。 |
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24日、艦隊は先頭より島風-冲鷹-大鷹という[[単縦陣]]を形成し、速力20ノットで航行していた<ref>[[#S1709大鷹詳報(3)]] p.18〔 (二)我軍ノ兵力配備及行動 横須賀回航ノ途次 島風 冲鷹 本艦ノ順ニテ単縦陣ニテ之字運動A法(時隔五分)ヲ実施基準針路320度速力20節ニテ航行中ナリ 〕</ref>。悪天候の中、父島の北東200浬で、輸送艦隊は敵潜に襲撃される{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=403-404|ps=「大鷹」被雷航行不能}}<ref>[[#S1709大鷹詳報(3)]] p.24〔 (三)天候及戦場ノ状況 天候曇雨量9風向北東風速10米波浪4驟雨屡々来襲シ水平線附近特ニ視界不良ナリ本艦ノ北緯28度2分東経145度59分 〕</ref>。午前7時前後、暗号解読により日本艦隊を捕捉したアメリカ軍潜水艦「[[カブリラ (潜水艦)|カブリラ]]<!-- (''{{lang|en|USS Cabrilla, SS-288}}'') -->」が魚雷6本を発射する{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=529}}。「大鷹」の右舷に3本〜5本が命中したが、起爆した魚雷は艦尾への1本のみで、沈没には至らなかった<ref>[[#福井著作11|日本特設艦船物語]]77-78頁「◇大鷹(旧名:春日丸)」</ref><ref>[[#S1709大鷹詳報(3)]] pp.20-21〔 0658|射点右110度400乃至500米ヨリ将ニ開進セントスル雷跡多数ヲ発見直ニ取舵一杯前進一杯ヲ令シタルモ約15秒後1本艦尾ニ命中爆発1本前部火薬庫(不爆)1本爆弾庫(頭部脱落不爆)ニ命中、2本前方1本後方通過防水ヲ令ス、高角砲機銃ヲ以テ攻撃ス、当時潜望鏡ヲ認メタル者ナシ 〕</ref>。 |
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しかし、機関部と舵を破壊されて航行不能となった{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=530}}。爆雷攻撃をおこなった「島風」は『敵潜撃沈』を報告しているがカブリラは沈んでおらず<ref>[[#S1806二水戦日誌(3)]] p.5〔 島風、冲鷹護衛中24日(28度0分N140度10分E)敵潜1隻撃沈 〕</ref>、またカブリラも日本側の反撃と悪天候により目標を見失った{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=530}}。「大鷹」の曳航を、「冲鷹」が担当する{{efn|○二十四日、「大鷹」ハ父島北東ニテ敵潜水艦ノ雷撃ニヨリ舵取機械ヲヤラレ航行不能、「冲鷹」曳航(11kt)「横」ニ向フ。護衛駆逐艦ハ敵潜水艦ヲ捕捉、撃沈セルコト略確実。{{Sfn|高松宮日記6巻|1997|p=608|ps=(昭和18年9月24日項)}} }}。午後2時すぎに曳航準備を完了、姉妹艦を速力8-11ノット程で曳航し、横須賀へ向かった<ref>[[#S1709大鷹詳報(3)]] p.23〔 1515|冲鷹320度ニ定針速力16節(實速9.2節)爾後曳航實速力11.2節 〕</ref>。また応援の駆逐艦部隊とも合同し、共同で空母2隻を護衛した<ref>[[#S1806二水戦日誌(3)]] p.95〔 25日|[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]大鷹部隊合同ノ為横須賀発2000合同護衛ニ就ク 〕</ref>。26日16時30分、大鷹曳航部隊は横須賀に到着した<ref>[[#S1806二水戦日誌(3)]] p.80〔 26日1630冲鷹|冲鷹 大鷹 島風 [[漣 (吹雪型駆逐艦)|漣]] 横須賀着(略)〕、同部隊戦時日誌 p.95〔 26日|島風 白露 冲鷹 大鷹護衛任務終了横須賀着 〕</ref>。 |
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9月27日、冲鷹艦長は加藤与四郎大佐から[[大倉留三郎]]大佐<ref name="jirei1224">{{アジア歴史資料センター|C13072093200|昭和18年9月27日(発令9月27日付)海軍辞令公報(部内限)第1224号 p.5}}</ref>(前職、潜水母艦[[迅鯨 (潜水母艦)|迅鯨]]艦長)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072118400|昭和18年9月10日(発令9月8日付)海軍辞令公報(部内限)第1211号 p.1}}迅鯨艦長(大倉留三郎大佐→佐藤敬三大佐)</ref>に交代する。 |
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==== 沈没 ==== |
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[[1943年]](昭和18年)11月上旬の[[ろ号作戦]]([[ブーゲンビル島沖航空戦]])で日本海軍の母艦航空隊は大幅に消耗し{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=431|ps=一航戦飛行機隊のトラック復帰と五五二空の転進}}、補充のため[[第一航空戦隊]]所属の[[瑞鳳型航空母艦|小型空母]]「[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]」がトラック泊地より横須賀に帰投する{{Sfn|日本空母戦史|1977|pp=532-536|ps=沖鷹沈没(十二月四日)}}。11月16日、空母3隻(瑞鳳、冲鷹、雲鷹)は駆逐艦複数隻に護衛されて横須賀を出発、21日トラック泊地に到着した{{efn|木俣滋郎『日本空母戦史』532ページでは同行艦を駆逐艦4隻([[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]、曙、朧、漣)と記述するが、[[朧 (吹雪型駆逐艦)|朧]]は1942年10月17日に沈没している。}}。 |
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[[11月30日]]、瑞鳳艦長[[服部勝二]]大佐指揮下の艦隊は<ref>[[#ラバウル空襲時摩耶被害(2)]] p.33〔 一.各部隊指揮官ハ左ノ隊艦ヲシテ11月30日頃「PT」発「NAA」ニ回航セシムベシ 瑞鳳冲鷹雲鷹摩耶七駆浦風|二.瑞鳳艦長ハ回航中右部隊ヲ指揮スベシ 〕</ref>{{efn|各艦艦長の姓名と[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]][[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)|卒業期]]は、『高松宮宣仁親王日記第七巻』158ページの欄外解説より引用{{Sfn|高松宮日記7巻|1997|pp=158-159|ps=(昭和18年12月9日項)}}。}}、空母[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]](艦長[[服部勝二]]大佐、海兵44期)、空母[[冲鷹]](艦長大倉留三郎大佐、海兵43期)、空母[[雲鷹 (空母)|雲鷹]](艦長[[関郁乎]]大佐、海兵43期)、重巡洋艦[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]](艦長加藤与四郎大佐、海兵43期。前職は、冲鷹2代目艦長)<ref name="jirei1224" /><ref name="jirei1242">{{アジア歴史資料センター|C13072093900|昭和18年10月20日(発令10月16日付)海軍辞令公報(部内限)第1242号 p.2}}</ref>、駆逐艦部隊(第7駆逐隊{{efn|第7駆逐隊司令は[[山本岩多]]大佐、海兵46期。『戦史叢書62巻』529ページでは、護衛の駆逐艦を第7駆逐隊(曙、朧、漣)および浦風と記述する。}}、[[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]<!-- 第十戦隊、第17駆逐隊 -->)という戦力でトラックを出港し<ref name="S1812護衛対潜概要p1">[[#S1812護衛対潜|昭和18年12月経過概要(護衛対潜)]] p.1〔 (12月)3|2310|八丈島ノE180°ニテ冲鷹(GF附)ハ敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ク| |前部ニ魚雷×1名中航行不自由 瑞鳳、雲鷹、摩耶、7dg、浦風同航トラックヨリ横須賀ニ回航中(中略)4日早朝再ビ雷撃ヲ受ク 0845/4沈没 〕</ref>、日本へ向かった{{Sfn|空母瑞鳳の生涯|1999|p=174}}{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=529a|ps=米潜水艦の跳梁と「冲鷹」の被雷沈没}}。 |
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各空母にはソロモン・ニューギニアからの人員・機材が搭載されており、民間人を含む多数の便乗者も乗艦していた{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=532b}}<ref name="katura">『なにわ会』桂理平「空母冲鷹の遭難」</ref>。さらに駆逐艦「[[山雲 (駆逐艦)|山雲]]」の攻撃で撃沈されたアメリカ軍潜水艦「[[スカルピン (SS-191)|スカルピン]]<!-- (''{{lang|en|USS Sculpin, SS-191}}'') -->」の捕虜41名が{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=518}}、内地の捕虜収容所へ送られるため空母に分乗していた{{Sfn|ニミッツ|1962|p=369}}。また[[高雄型重巡洋艦|重巡]]「[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]」は11月5日の[[ラバウル空襲]]で大破しており{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=399-340}}、本格的な修理を行うため本土回航を命じられていた{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=430-431|ps=「摩耶」の応急修理と内地回航}}。 |
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その頃、トラック港湾部長が護衛艦隊司令部に発信した暗号を解読したアメリカ軍は、複数の潜水艦に輸送船団の襲撃を命じる{{Sfn|空母瑞鳳の生涯|1999|p=176}}。潜水艦「[[スケート (潜水艦)|スケート]]<!-- (''{{lang|en|USS Skate, SS-305}}'') -->」と「[[ガンネル (潜水艦)|ガンネル]]<!-- (''{{lang|en|USS Gunnel, SS-253}}'') -->」による襲撃は失敗した{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=533}}。 |
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[[12月3日]]深夜、瑞鳳隊は[[八丈島]]東方海面(約360km)を航行していた{{Sfn|空母機動部隊|2010|pp=239-241|ps=突如おそった三本の魚雷}}。荒天のため、各艦は互いの位置すら掴めていなかったという{{Sfn|空母瑞鳳の生涯|1999|p=175}}。一方、船団を追跡していたアメリカ潜水艦「[[セイルフィッシュ (SS-192)|セイルフィッシュ]]<!-- (''{{lang|en|USS Sailfish, SS-192}}'') -->」は、悪天候の最中に[[レーダー]]で目標を探知した{{Sfn|航空母艦物語|2013|pp=304b-305}}<ref name="日本空母物語312">[[#日本空母物語]]312-313頁「米潜水艦の冲鷹撃沈」</ref>。当時の瑞鳳隊は、摩耶 - 瑞鳳 - 冲鷹 - 雲鷹の[[単縦陣]]だったという{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=533}}。 |
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日本側記録[[12月3日]]午後11時10分<ref name="S1812護衛対潜概要p1" />(アメリカ軍記録[[12月4日]]午前零時12分)、八丈島の東方海域でセイルフィッシュは4本の魚雷を発射して命中音2本を確認した<ref name="日本空母物語312" />。これに対し「冲鷹」は{{coor dm|32|30|N|143|40|E|}}地点で、前部に魚雷1本が命中したと発信する{{efn|○「冲鷹」(三-二三三〇)2310我魚雷一本命中、前部兵員室ニ火災、32°-30′N 143′E(野島崎灯台127°240′)。/○「瑞鳳」(四-〇六四五)0500「冲鷹」再度魚雷命中、航行不能。「雲鷹」ハ救難ニ行ケ《荒天ノタメ航行困難ノ状況ニテ曳航セントシタリシテテヰル間ニ第二回攻撃サル》。{{Sfn|高松宮日記7巻|1997|p=151|ps=(昭和18年12月4日項)}} }}。瑞鳳以下他艦艇は、被雷した「冲鷹」と、警戒役の[[陽炎型駆逐艦|駆逐艦]]「浦風」を残して内地へ向かった{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=534}}。セイルフィッシュは落伍艦を追跡し、浮上すると5時50分(日本時間4時50分)に魚雷3本を発射、命中2本を記録しているが{{Sfn|航空母艦物語|2013|pp=304b-305}}、実際の命中は1本であった{{Sfn|空母瑞鳳の生涯|1999|p=178}}。機関室への命中により、多数の死傷者を出す{{Sfn|空母機動部隊|2010|pp=239-241|ps=突如おそった三本の魚雷}}。セイルフィッシュは「冲鷹」の左舷1500mを通過すると、潜航して9時40分(日本時間8時40分)に後部魚雷発射管から魚雷3本を発射{{Sfn|航空母艦物語|2013|pp=304b-305}}。2回の命中音と破壊音を確認した{{Sfn|空母瑞鳳の生涯|1999|p=178}}。第三撃を受ける直前、駆逐艦「[[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]]」が接近してきたという証言もある<ref name="katura" />。第三撃は艦橋付近に命中{{Sfn|空母機動部隊|2010|pp=241-245|ps=地獄の海に漂う将兵千数百名}}。セイルフィッシュは爆雷攻撃により深深度潜航を余儀なくされ、目標の沈没を目撃しなかった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=370}}。 |
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夜明け前、「瑞鳳」は指揮下艦艇に沖鷹曳航と護衛命令を出していたが<ref>[[#S1812十戦隊日誌(1)]] p.16〔 四0430瑞鳳カ|冲鷹ノ状況ハ冲鷹機密第040310番電ノ通リ雲鷹ハ冲鷹曳航 浦風 漣ハ護衛セヨ 〕</ref>{{Sfn|高松宮日記7巻|1997|p=151|ps=(昭和18年12月4日項)}}、「冲鷹」は姉妹艦の到着を待たず、魚雷合計3本の命中により沈没<ref name="S1812護衛対潜概要p1" />。随伴していた「浦風」の報告によれば{{coor dm|32|30|N|144|0|E|}}の地点で午前8時47分に沈没した<ref>[[#S1812十戦隊日誌(1)]] p.16〔 四0848浦風|浦風機密第040848番電 冲鷹0847沈没地32度30分北144度0分東我救助中 〕</ref>。アメリカ軍によれば {{coord|32|37|N|143|39|E}}の地点で沈没<ref name="日本空母物語312" />。強風と波浪のため駆逐艦から内火艇や[[カッターボート|短艇]]を海面におろすことが出来ず、救助作業は難航した{{Sfn|歴群18、水雷戦隊I|1998|pp=148-149|ps=荒天下の救助作業}}。「浦風」は冲鷹副長以下約130名を救助、続いて到着した[[吹雪型駆逐艦|駆逐艦]]「[[漣 (吹雪型駆逐艦)|漣]]」が運用長以下約30名を救助した{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=529b}}{{efn|漣乗組員の記録によれば、同艦は93名を救助、戦死者1名であった{{Sfn|歴群18、水雷戦隊I|1998|p=149}}。}}。他の乗組員・便乗者は総員戦死{{efn|『戦史叢書62巻』529ページでは戦死者約1250名とする{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=529b}}。一部資料では乗員533名と便乗者3000名中、生存者170名<ref name="katura" />。冲鷹乗組員は本倉艦長<ref name="jirei1318">{{アジア歴史資料センター|C13072095700|昭和19年2月10日(発令昭和18年12月4日)海軍辞令公報(部内限)第1318号 p.38}}</ref>以下513名戦死{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=535}}。}}。冲鷹便乗中の第一航空戦隊の熟練整備員や機械工員も多数が戦死したため、海軍航空隊の整備や修理能力にも影響を与えた{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=535}}。またスカルピンの捕虜21名も、救助されたのは1名であった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=371}}。 |
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12月4日、瑞鳳隊は横須賀に到着した{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=430-431|ps=「摩耶」の応急修理と内地回航}}。12月9日、[[軍令部]]において瑞鳳・摩耶・雲鷹・第7駆逐隊司令、[[高松宮宣仁親王]](海軍大佐、軍令部部員、[[昭和天皇]]弟宮)等関係者があつまり、護衛および対潜水艦に関する研究をおこなう{{Sfn|高松宮日記7巻|1997|pp=158-159|ps=(昭和18年12月9日項)}}。日本海軍の潜水艦では襲撃できない悪天候下での雷撃であったことから、(一)水中聴音発射、(二)電探(レーダー)発射、(三)聴音魚雷の可能性が指摘された{{Sfn|高松宮日記7巻|1997|p=159}}{{Sfn|高松宮日記7巻|1997|p=164}}。 |
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[[1944年]](昭和19年)[[2月5日]]、大鷹型航空母艦<ref>[[#内令昭和19年2月(1)]] p.47〔 内令第二百九十六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十九年二月五日 海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦、航空母艦大鷹型ノ項中「、冲鷹」ヲ削ル|驅送艦、一等峯風型ノ項中「、沼風」ヲ、同二等若竹型ノ項中「、芙蓉」ヲ削ル|潜水艦、二等呂百型ノ項中「呂號第百、」ヲ削ル|海防艦ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |輸送艦|一等|第一號型|第一號| 〕</ref>、帝国軍艦籍より除籍された<ref name="S19内令304号">[[#内令昭和19年2月(1)]] p.47〔 内令第三百四號 横須賀鎮守府籍 軍艦 冲鷹 右帝國軍艦籍ヨリ除カル(略)|昭和十九年二月五日 海軍大臣 嶋田繁太郎 〕</ref>。 |
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== 年表 == |
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* 1938年(昭和13年)[[5月9日]] - 貨客船新田丸として起工。 |
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* [[1939年]](昭和14年) [[5月20日]] - 進水。 |
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* [[1940年]](昭和15年) [[3月23日]] - 竣工。 |
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* 1941年(昭和16年) |
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** [[9月5日]] - 新田丸級貨客船3番船春日丸、特設航空母艦春日丸として竣工、春日丸級航空母艦1番艦となる。 |
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** [[9月12日]] - 日本海軍に徴傭される。 |
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* 1942年(昭和17年) |
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** [[8月10日]] - 空母への改装開始<ref name="丸写真4冲鷹" />。 |
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** [[8月20日]] - 新田丸から冲鷹へ改名、軍艦籍に加入。 |
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** [[11月25日]] - 空母への改装完了、横須賀鎮守府籍<ref name="丸写真4冲鷹" />。 |
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** [[12月11日]] - 龍鳳、時津風、卯月と出撃予定だったが、冲鷹の機関部故障のため出港延期{{efn|『戦史叢書62』216ページの冲鷹輸送経過では「12月11日横須賀発、龍鳳が米潜に攻撃され分離した」と記述する{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=216}}。}}。 |
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** [[12月12日]] - 卯月と横須賀発<ref name="丸写真4冲鷹" />。12月18日、トラック着<ref name="丸写真4冲鷹" />。 |
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** [[12月21日]] - 時雨、朝雲とトラック発<ref name="丸写真4冲鷹" />。12月26日横須賀着{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=217}}。 |
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* 1943年(昭和18年) |
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** 1月2日 - 朝雲および時雨と横須賀発<ref>[[#S1712四水戦日誌(3)]] p.75〔 2日|朝雲、時雨1530トラックニ向ケ横須賀発(冲鷹警戒) 〕</ref>。1月8日<ref name="丸写真4冲鷹" />、トラック着<ref>[[#S1712四水戦日誌(3)]] p.28〔 8日0740朝雲|9dg(峯雲欠)27dg(白露有明夕暮欠)着 〕</ref>。 |
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** 1月10日 - [[村雨 (白露型駆逐艦)|村雨]](第四水雷戦隊旗艦、第2駆逐隊)および[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]](第19駆逐隊)<ref>[[#S1712四水戦日誌(3)]] p.78〔 10日|一.(将旗)4sdハ2dg(村雨)及19dg(浦波)ヲ併セ指揮シ1500トラック出撃AdB電令作第118号ニ依ル冲鷹警戒任務ニ従事カビエン北方ニ向フ 〕</ref>とラバウル方面経由{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=217}}。艦爆16、艦戦24を搭載。1月12日、駆逐艦[[秋風 (駆逐艦)|秋風]](第34駆逐隊)と合同し基地人員・物件を移載<ref>[[#S1712四水戦日誌(3)]] p.9〔(二)作戦指導(略)12日朝「カビエン」ノ15度200浬ノ地点ニ至リ秋風ト合同秋風ハ冲鷹ヨリ基地人員物件等ヲ移積シ(秋風ハ0900分離「カビエン」ニ向フ 〕</ref>。 |
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** 1月13日 - カビエン北方で航空機発艦、14日トラック帰着<ref>[[#S1712四水戦日誌(3)]] p.81〔 14日|一.村雨浦波冲鷹トラック入泊駆逐艦燃料補給及冲鷹揚陸残リ戦闘機1機ヲ揚陸シタル後横須賀ニ回航ス(略) 〕</ref>。燃料補給後横須賀回航<ref name="丸写真4冲鷹" />、20日着<ref>[[#S1712四水戦日誌(3)]] p.54〔 20日0830(将旗)4sd→各長官|村雨浦波横須賀着 〕</ref>。 |
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** 2月7日 - 横須賀発、ラバウル方面輸送{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=217}}。12日トラック着<ref name="丸写真4冲鷹" />。 |
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** 2月15日 - トラック発{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=217}}。20日横須賀着{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=217}}{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=294a|ps=航空母艦による航空機の輸送}}。 |
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** 2月28日 - 横須賀発<ref name="丸写真4冲鷹" />。3月5日トラック着{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=294b}}。 |
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** 3月8日 - トラック発<ref name="丸写真4冲鷹" />。3月13日横須賀着{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=294b}}。 |
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** 4月4日 - 大鷹等とともに横須賀発{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=294b}}<ref>[[#S1801二水戦日誌(4)]] p.34〔 大鷹艦長/一.大鷹 冲鷹 響 漣 黒潮 親潮 ヲ率ヰ4月3日「トラック」ニ向ケ横須賀発ノ予定 二.黒磯親潮ハ出撃準備完成ノ後燃料満載4月1日迄ニ横須賀ニ回航スベシ 〕</ref>。4月10日、トラック着<ref>[[#S1801二水戦日誌(4)]] p.6〔 4月4日-同10日|親潮黒潮|冲鷹大鷹|横須賀→「トラック」 〕</ref>。 |
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** 4月16日 - 大鷹・時雨・有明とトラック発<ref>[[#S1801二水戦日誌(4)]] p.30〔 AdB指揮官|4月14日1447対潜掃蕩隊|掃蕩隊(略)4月16日0600「トラック」発予定ノ大鷹冲鷹(護衛艦時雨有明)ノ護衛ニ協力(礁外300浬附近迄)シツツ敵銭掃討ニ任ズベシ 〕</ref>。21日横須賀着{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=294b}}。 |
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** 4月25日 - 雲鷹{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=294b}}や軽巡[[那珂 (軽巡洋艦)|那珂]](第十四戦隊、司令官[[伊藤賢三]]少将)等と横須賀発{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=468-469}}、4月30日トラック着{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=310|ps=第十四戦隊の内南洋部隊への進出}}。 |
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** 5月8日 - 雲鷹および戦艦大和等とトラック発{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=328b}}、5月13日横須賀着{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=294b}}。 |
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** 5月24日 - 雲鷹と横須賀発<ref name="丸写真4冲鷹" />、5月29日トラック着{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=294b}}。 |
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** 6月5日 - 雲鷹とトラック発<ref name="丸写真4冲鷹" />、6月9日横須賀着{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=294b}}。 |
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** 6月16日 - 第三戦隊や水上機母艦[[日進 (水上機母艦)|日進]]等と横須賀発<ref name="丸写真4冲鷹" />。21日トラック着{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=342}}。 |
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** 6月28日 - 雲鷹とトラック発<ref name="丸写真4冲鷹" />、7月2日横須賀着{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=294b}}。 |
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** 7月10日 - 小沢機動部隊と合流し、内地出発<ref name="丸写真4冲鷹" />。7月15日トラック着{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=294b}}。 |
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** 7月19日 - トラック発<ref name="丸写真4冲鷹" />。7月24日横須賀着{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=294b}}。 |
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** 9月7日 - 大鷹と横須賀発{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=384-385|ps=航空母艦の航空機輸送}}、9月11日、トラック着<ref name="丸写真4冲鷹" />。 |
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** 9月24日 - 大鷹・島風と横須賀回航中、米潜カブリラから雷撃されて大鷹が大破、冲鷹が大鷹を曳航し{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=385}}、応援艦艇と共に26日横須賀着<ref name="丸写真4冲鷹" />。 |
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** 10月4日 - 島風および白露<ref>[[#S1806二水戦日誌(4)]] p.10〔 島風 横須賀ニ在リテ待機、4日冲鷹護衛横須賀発9日「トラック」着… 〕</ref>と横須賀発{{efn|木俣滋郎『日本空母戦史』531ページと『戦史叢書62巻』の経過表では、冲鷹の護衛を「島風、漣」と記載する{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=385}}。}}、10月9日トラック着<ref>[[#S1806二水戦日誌(4)]] p.77〔 九(天候略)島風白露一五三五「トラツク」着|島風冲鷹ヲ護衛「トラツク」着 〕</ref>。 |
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** 10月15日 - トラック発<ref name="丸写真4冲鷹" />。 |
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** 10月18日 - サイパン島北方で米潜[[フライングフィッシュ (潜水艦)|フライングフィッシュ]]が魚雷6本を発射、1本命中を報告するも冲鷹に被害なし{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=531}}。20日、横須賀帰投<ref name="丸写真4冲鷹" />。 |
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** 10月27日 - 横須賀出発<ref name="丸写真4冲鷹" />。10月31日{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=385}}もしくは11月1日、トラック着<ref name="丸写真4冲鷹" />。 |
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** 11月5日 - トラック発<ref name="丸写真4冲鷹" />。10日、横須賀着<ref name="丸写真4冲鷹" />。 |
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** 11月16日 - 瑞鳳・雲鷹等と横須賀発<ref name="丸写真4冲鷹" />。11月21日トラック着{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=528}}。 |
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** 11月30日 - 瑞鳳・雲鷹・摩耶・浦風等とトラック発{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=529b}}。 |
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** 12月3日 - 米潜セイルフィッシュの雷撃で大破{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=529b}}。 |
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** 12月4日 - セイルフィッシュの再度の雷撃により沈没<ref name="丸写真4冲鷹" />。生存者を浦風と漣が救助{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=529b}}。 |
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* 1944年(昭和19年) |
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** [[2月5日]] - 除籍<ref name="丸写真4冲鷹" />。 |
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== 艦長 == |
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;艤装員長 |
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#石井芸江 [[大佐]]:1942年8月20日<ref name="jirei926" /> - 1942年11月20日<ref name="jirei993" /> |
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;艦長 |
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#石井芸江 大佐:1942年11月20日<ref name="jirei993" /> - 1943年12月1日<ref name="jirei1046" /> |
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#加藤与四郎 大佐:1943年2月1日<ref name="jirei1046" /> - 1943年9月27日<ref name="jirei1224" /> |
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#大倉留三郎 大佐:1943年9月27日<ref name="jirei1224" /> - 12月4日戦死(海軍少将に進級)<ref name="jirei1318" /><ref>{{アジア歴史資料センター|C12070735800|昭和19年3月2日〜昭和19年5月2日 呉鎮守府公報(防衛省防衛研究所)/4月 p.1}}〔 ◎令達 呉鎮守府日令第九三號 昭和十九年四月一日 呉鎭守府司令長官 野村直邦 四月六日一三一五大東亞戰爭戰歿者故海軍少将大倉留三郎外ニ對スル遺骨歸還式ヲ、同七日〇九〇〇合同海軍葬儀ヲ執行ス 〕</ref> |
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== 同型艦 == |
== 同型艦 == |
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* [[大鷹 (空母)|大鷹]] |
* [[大鷹 (空母)|大鷹]] |
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* [[雲鷹 (空母)|雲鷹]] |
* [[雲鷹 (空母)|雲鷹]] |
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* [[神鷹 (空母)|神鷹]] |
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* [[海鷹 (空母)|海鷹]] |
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==脚注== |
== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist}} |
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{{Reflist|group="注釈"}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所) |
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* 長谷川藤一、軍艦メカニズム図鑑-日本の航空母艦、グランプリ出版、1997年 |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C13072024200|title=昭和19年1月31日現在10版 内令提要追録第14号原稿(防衛省防衛研究所)巻3/第13類艦船(1)|ref=編制(昭和19年1月31日現在)}} |
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* 雑誌「丸」編集部、写真|日本の軍艦 第4巻 空母Ⅱ、光人社、1989年 |
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*{{Cite book|和書| |
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08051772000|title=昭和16年〜昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書|ref=戦隊行動調書}} |
||
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08050021700|title=昭和16年〜17年 大東亜戦争徴傭船舶行動概見表 甲 第1回 続(6)|ref=徴傭船舶行動甲第1回続(6)}} |
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* モデルアート臨時増刊、艦船模型スペシャルNo.18-商船改造空母、モデルアート社、2005年 |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070115300|title=昭和17年1月〜12月達/達昭和17年8月|ref=達昭和17年8月}} |
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*海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第一法規出版、1995年。 |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070150500|title=昭和16年1月〜4月内令1巻/昭和16年4月(5)|ref=内令昭和16年4月(5)}} |
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*外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9 |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070164600|title=昭和17年7月〜9月 内令3巻/昭和17年8月分(3)|ref=内令昭和17年8月(3)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070173700|title=昭和17年9月〜12月内令/昭和17年11月(4)|ref=内令昭和17年11月(4)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070194400|title=自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年2月(1)|ref=内令昭和19年2月(1)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070194500|title=自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年2月(2)|ref=内令昭和19年2月(2)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030323300|title=昭和16年12月1日〜昭和16年12月31日 呉鎮守府戦時日誌(1)|ref=S1612呉鎮日誌(1)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030323400|title=昭和16年12月1日〜昭和16年12月31日 呉鎮守府戦時日誌(2)|ref=S1612呉鎮日誌(2)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030323500|title=昭和16年12月1日〜昭和16年12月31日 呉鎮守府戦時日誌(3)|ref=S1612呉鎮日誌(3)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030324900|title=昭和17年5月1日〜昭和17年8月31日 呉鎮守府戦時日誌(2)|ref=S17.05呉鎮日誌(2)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030325000|title=昭和17年5月1日〜昭和17年8月31日 呉鎮守府戦時日誌(3)|ref=S17.05呉鎮日誌(3)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030316200|title=昭和17年3月1日〜昭和17年3月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(5)|ref=S17.03横鎮日誌(5)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030319000|title=昭和17年6月1日〜昭和17年6月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(4)|ref=S17.06横鎮日誌(4)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030362100|title=昭和17年7月1日〜昭和17年11月30日 横須賀防備隊戦時日誌(2)|ref=S17.07横防日誌(2)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030362400|title=昭和17年12月1日〜昭和18年2月28日 横須賀防備隊戦時日誌(1)|ref=S17.12横防日誌(1)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030339900|title=昭和17年11月1日〜昭和17年11月30日 佐世保鎮守府戦時日誌(2)|ref=S1711佐鎮日誌(2)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030116000|title=昭和17年12月1日〜昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)|ref=S1712四水戦日誌(1)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030116100|title=昭和17年12月1日〜昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)|ref=S1712四水戦日誌(2)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030116200|title=昭和17年12月1日〜昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)|ref=S1712四水戦日誌(3)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030100500|title=昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)|ref=S1801二水戦日誌(4)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030100600|title=昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)|ref=S1801二水戦日誌(5)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030100700|title=昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)|ref=S1801二水戦日誌(6)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030116900|title=昭和18年5月1日〜昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=S1805四水戦日誌(1)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030101000|title=昭和18年6月14日〜昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=S1806二水戦日誌(1)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030583100|title=昭和17年9月28日〜昭和18年9月24日 軍艦大鷹戦闘詳報(3)|ref=S1709大鷹詳報(3)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030749200|title=昭和18年11月5日ラバウル港内対空戦闘時の摩耶の被害及び応急処置(2)|ref=ラバウル空襲時摩耶被害(2)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030050000|title=昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(1)|ref=S1812十戦隊日誌(1)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030041900|title=昭和17年9月11日〜昭和18年11月30日 第3戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)|ref=S1709三戦隊日誌(3)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030047800|title=昭和17年4月1日〜昭和18年8月31日 第7戦隊戦時日誌戦闘詳報(7)|ref=S1704七戦隊日誌(7)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030044800|title=昭和17年12月1日〜昭和18年11月2日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=S1712五戦隊日誌(2)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030586800|title=昭和17年9月11日〜昭和18年7月22日 軍艦日進戦闘詳報(2)|ref=S1709日進詳報(2)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030048700|title=昭和17年1月12日〜昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(6)|ref=S1701八戦隊日誌(6)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120622400|title=昭和18年10月経過概要〜昭和18年12月経過概要|ref=S1810-12経過概要}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120658800|title=昭和16.12〜18.12 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の1/昭和18年12月|ref=S1812護衛対潜}} |
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<!-- ウィキペディア推奨スタイル、著者五十音順 --> |
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* <!-- オオイ2014 -->{{Cite book|和書|author=大井篤|authorlink=大井篤|coauthors=|year=2014|month=5|origyear=1953|title=海上護衛戦|chapter=|publisher=株式会社KADOKAWA|isbn=978-4-04-101598-8|ref={{SfnRef|大井篤|2014}}}} |
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* <!-- オオウチ2005 -->{{Cite book|和書|author=大内建二|authorlink=|year=2005|month=4|title=護衛空母入門 {{small|その誕生と運用メカニズム}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2451-3|ref={{SfnRef|護衛空母入門|2005}}}} |
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* <!-- オオウチ2008 -->{{Cite book|和書|author=大内建二|authorlink=|year=2008|month=4|title=特設艦船入門 {{small|海軍を支えた戦時改装船徹底研究}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2565-4|ref={{SfnRef|特設艦船入門|2008}}}} |
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* <!-- オカムラ -->{{Cite book|和書|author={{smaller|神鷹とシャルンホルストを偲ぶ会}}岡村信幸|coauthors=|year=1999|month=12|origyear=|chapter=|title=日の丸ドイツ船|publisher=岩波ブックサービスセンター|isbn=|ref={{SfnRef|日の丸ドイツ船|1999}}}} |
|||
* <!-- カツラ -->{{Cite book|和書|author=桂理平|year=1999|month=10|title=空母瑞鳳の生涯 {{small|われ等かく戦えり}}|publisher=霞出版社|isbn=4-87602-213-5|ref={{SfnRef|空母瑞鳳の生涯|1999}}}} |
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* <!-- カイグン -->海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第一法規出版、1995年。 |
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*<!-- キマタ1977-->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1977|month=7|title=日本空母戦史|publisher=図書出版社|ref={{SfnRef|日本空母戦史|1977}}}} |
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*<!-- キマタ1989 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1989|month=3|title=日本軽巡戦史|publisher=図書出版社|ref={{SfnRef|日本軽巡戦史|1989}}}} |
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*<!-- スドウ 2010 -->{{Cite book|和書|author=須藤幸助|coauthors=|year=2010|month=01|origyear=|chapter=|title=駆逐艦「五月雨」出撃す {{small|ソロモン海の火柱}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2630-9|ref={{SfnRef|五月雨出撃す|2010}} }} |
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* <!-- セカイ1994増刊40 -->{{Cite book|和書|author=編集人 木津徹|author2=発行人 石渡幸二|date=1994-05|chapter=|title=世界の艦船 日本航空母艦史 1994.No.481|publisher=株式会社海人社|series=1994年5月号増刊 第481集(増刊第40集)|isbn=4-905551-48-X|ref={{SfnRef|世界の艦船、日本航空母艦史|1994}}}} |
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* <!--セカイ2010増刊95 -->{{Cite book|和書|volume=世界の艦船 2011年1月号増刊 第736集(増刊第95集)|title=日本航空母艦史|publisher=海人社|date=2010-12|ref=日本航空母艦史}} |
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* <!-- ソトヤマ -->外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9 |
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*<!-- タカマツ六 -->{{Cite book|和書|author=高松宮宣仁親王|authorlink=高松宮宣仁親王|coauthors=[[嶋中鵬二]]発行人|title=高松宮日記 第六巻 {{small|昭和十八年 二月〜九月}}|publisher=中央公論社|date=1997-03|origyear=|ISBN=4-12-403396-6|ref={{SfnRef|高松宮日記6巻|1997}}}} |
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*<!--タカマツ七 -->{{Cite book|和書|author=高松宮宣仁親王|authorlink=高松宮宣仁親王|coauthors=[[嶋中鵬二]]発行人|title=高松宮日記 第七巻 {{small|昭和十八年十月一日〜昭和十九年十二月三十一日}}|publisher=中央公論社|dater=1997-07|ISBN=4-12-403397-4|ref={{SfnRef|高松宮日記7巻|1997}}}} |
|||
* <!--ニホ-->{{Cite book|和書|volume=明治百年史叢書 第207巻|title=昭和造船史(第1巻)|editor=(社)日本造船学会|edition=第3版|publisher=原書房|date=1981|origdate=1977-10|isbn=4-562-00302-2|ref=昭和造船史1}} |
|||
* <!-- ニミッツ -->{{Cite book|和書|author1=チェスター・ニミッツ|authorlink1=チェスター・ニミッツ|author2=E・B・ポッター|coauthors=[[実松譲]]・富永謙吾訳|year=1962|month=12|title=ニミッツの太平洋海戦史|publisher=恒文社|isbn=|ref={{SfnRef|ニミッツ|1962}}}} |
|||
*<!-- ノムラミノル -->{{Cite book|和書|author=野村實|authorlink=野村実|coauthors=|year=1988||month=2|title=天皇・伏見宮と日本海軍|publisher=文藝春秋|isbn=4-16-342120-3|ref={{SfnRef|野村實|1988}}}} |
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*<!-- ノモトタメキ2013 -->{{Cite book|和書|author=野元為輝ほか|coauthors=|year=2013||month=06|title=航空母艦物語 {{small|体験で綴る日本空母の興亡と変遷!}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1544-0|ref={{SfnRef|航空母艦物語|2013}}}} |
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**{{small|戦史研究家}}大浜啓一『青い目の見た軽空母七隻の最後 {{small|海中深くひそむ米潜水艦と鷹型空母の息づまる対決}}』 |
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* <!-- ハセガワ -->長谷川藤一、軍艦メカニズム図鑑-日本の航空母艦、グランプリ出版、1997年 |
|||
* <!--フクイ1994-->{{Cite book|和書|author=福井静夫|authorlink=福井静夫|date=1994|title=写真 日本海軍全艦艇史|publisher=ベストセラーズ|isbn=4-584-17054-1|ref=日本海軍全艦艇史}}<!-- 上巻、下巻、資料篇 --> |
|||
* <!-- フクイ1996 -->{{Cite book|和書|author=福井静夫|authorlink=福井静夫|year=1996|month=8|title=<small>福井静夫著作集-軍艦七十五年回想記第七巻</small> 日本空母物語|publisher=[[光人社]]|isbn=4-7698-0655-8|ref=日本空母物語}} |
|||
*<!--フクイ2001-->{{Cite book|和書|author=福井静夫|authorlink=福井静夫|editor=阿部安雄・戸高一成/編集委員|year=2001|month=4|title={{small|福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記}} 日本特設艦船物語|chapter=第三章 特設航空母艦|volume=第11巻|publisher=光人社|isbn=4-7698-0998-0|ref=福井著作11}} |
|||
*<!--ホウエイチョウ07 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦|volume=第7巻|year=1967|month=8|publisher=朝雲新聞社|isbn=|ref={{SfnRef|戦史叢書07|1967}}}} |
|||
*<!--ホウエイチョウ29 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 北東方面海軍作戦|volume=第29巻|year=1969|month=8|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書29|1969}}}} |
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*<!--ホウエイチョウ38 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<1> {{small|昭和17年5月まで}}|volume=第38巻|year=1970|month=10|publisher=[[朝雲新聞社]]|ref={{SfnRef|戦史叢書38|1970}}}} |
|||
*<!--ホウエイチョウ62 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<2> {{small|昭和十七年六月以降}}|volume=第62巻|year=1973|month=2|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書62|1973}}}} |
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*<!--ホウエイチョウ95 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 海軍航空概史|volume=第95巻|date=1976-03|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書95|1976}}}} |
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*<!--ホウエイチョウ96 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> {{small|ガ島撤収後}}|volume=第96巻|year=1976|month=8|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書96|1976}}}} |
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* <!--ホウエイチョウ97 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 陸軍航空作戦基盤の建設運用|volume=第97巻|date=1979-04|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書97|1979}}}} |
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* <!--マキノ-->{{Cite book|和書|editor1=牧野茂|editor1-link=牧野茂 (軍人)|editor2=福井静夫|editor2-link=福井静夫|date=1987-05|title=海軍造船技術概要|publisher=今日の話題社|isbn=4-87565-205-4|ref=海軍造船技術概要}} |
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* <!--マル-->{{Cite book|和書|title=<small>写真</small>日本の軍艦 第4巻 <small>空母II</small>|editor=雑誌『丸』編集部|editor-link=丸 (雑誌)|publisher=光人社|date=1989-10|isbn=4-7698-0454-7|ref=丸写真第4巻}} |
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* <!-- マル2010 -->{{Cite book|和書|author=雑誌「丸」編集部|coauthors=|year=2010||month=7|chapter=|title=空母機動部隊 {{small|私は非情の海空戦をこう戦った!}}|publisher=光人社|isbn=|ref={{SfnRef|空母機動部隊|2010}}}} |
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**{{small|元「冲鷹」運用長・海軍中尉}}阿土拓司『改造空母「沖鷹」八丈島沖合に消ゆ {{small|むかし豪華客船「新田丸」}}』 |
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* <!-- モデルアート -->モデルアート臨時増刊、艦船模型スペシャルNo.18-商船改造空母、モデルアート社、2005年 |
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* 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 |
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*<!-- ヨコイ -->{{Cite book|和書|author=横井俊之ほか|coauthors=|year=2016||month=2|title=空母二十九隻 {{small|日本空母の興亡変遷と戦場の実相}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1611-9|ref={{SfnRef|空母二十九隻|2016}}}} |
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**{{smaller|元第三艦隊参謀・海軍大佐}}末國正雄『装甲なき"改造空母"建造うらばな史<!-- 原文ママ、裏話の誤字ではない --> {{smaller|条約制限下の保有量を補うべく出現した改造プランの背景と実情}}』 |
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**{{smaller|元三十五突撃隊・海軍二等兵曹・艦艇研究家}}正岡勝直『鷹型ミニ空母五隻が辿った薄幸の生涯 {{smaller|客船改造の大鷹、雲鷹、冲鷹、神鷹、海鷹の船団護衛と潜水艦との戦い}}』 |
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**{{smaller|戦史研究家}}塚田享、{{smaller|戦史研究家}}丹羽年雄、{{smaller|元「海鷹」甲板士官・海軍中尉}}徳富敬太郎、{{smaller|元「大鷹」飛行長・海軍少佐}}五十嵐周正『悲運の護衛輸送空母たちの航跡』/『特設空母「大鷹」の思い出 {{smaller|五十嵐周正}}』 |
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**{{smaller|戦史研究家}}伊達久『日本海軍航空母艦戦歴一覧 {{smaller|伊吹および雲龍型未成艦をふくむ空母二十九隻の太平洋戦争}}』 |
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*<!-- レキシ1993 -->{{Cite book|和書|author=別冊歴史読本特別増刊|coauthors=|date=1993-08|title=戦争裁判 処刑者一千 {{smaller|勝者は敗者をいかに裁いたか}}|chapter=|publisher=新人物往来社|series=戦記シリーズ Vol.23|isbn=|ref={{SfnRef|歴群、戦争裁判|1993}}}} |
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**(148-158頁){{smaller|ノンフィクションレポート(3)}}渡辺大助(福島テレビ)『「戦犯」を拒否して逃亡潜行七年 {{smaller|元海軍少佐を支えた妻の愛}}』 |
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*<!-- レキシ1998 -->{{Cite book|和書|author=歴史群像編集部編|coauthors=|year=1998|month=5|title=水雷戦隊I 特型駆逐艦 {{smaller|米英を震撼させたスーパー・デストロイヤーの全貌}}|chapter=雨倉孝之 人物抄伝/太平洋の群像 駆逐隊司令・駆逐艦艦長列伝(1)|publisher=学習研究社|series=歴史群像太平洋戦史シリーズ Vol.18|isbn=4-05-601768--9|ref={{SfnRef|歴群18、水雷戦隊I|1998}}}} |
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**(144-151頁)「漣」砲手の海戦秘話―{{smaller|吹雪型駆逐艦「漣」後部三番砲塔・右砲一番砲手が綴る海の戦いの生々しい実相と「漣」の最期。}}―{{smaller|文}}=川島俊英 |
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*[https://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション] - [[国立国会図書館]] |
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** {{Citation |和書|author1=東京日日新聞社|author2=|date=1940-12|title=世界交通文化發達史|chapter=水上交通 交通界の王者|publisher=東京日日新聞社|url={{NDLDC|1068274}}|ref={{SfnRef|世界交通文化発達史|1940}}}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[オーシャン・ライナー]] |
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* [[大日本帝国海軍艦艇一覧]] |
* [[大日本帝国海軍艦艇一覧]] |
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* [[沖鷹丸]] |
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== 外部リンク == |
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* {{Cite web|和書|url= https://web.archive.org/web/20130418232933/http://www.naniwa-navy.com/index.htm |title=なにわ会(海軍兵学校第72期、海軍機関学校第53期、海軍経理学校第33期合同クラス会):戦記その003 桂理平「空母冲鷹の遭難」|work= 成果物情報 |publisher=なにわ会|language=日本語|accessdate=2015-01-05}} |
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* {{Cite web|和書|url= http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00460/mokuji.htm |title=戦前日本の最優秀客船 新田丸|work= 成果物情報 |publisher=日本財団図書館|language=日本語|accessdate=2015-01-05}} |
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[[Category:大鷹型航空母艦]] |
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[[Category:第二次世界大戦の日本の航空母艦]] |
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[[Category:1939年進水船]] |
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[[Category:1940年竣工船]] |
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[[Category:第二次世界大戦の沈没船]] |
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[[Category:三菱重工業長崎造船所が建造した船舶]] |
2024年4月9日 (火) 22:18時点における最新版
新田丸 / 冲鷹 | |
---|---|
トラック島泊地に停泊する冲鷹[注釈 1] | |
基本情報 | |
建造所 |
三菱重工業長崎造船所(客船建造)[2] 呉海軍工廠(空母改造)[2] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | (貨客船 →)航空母艦[3] |
級名 | 大鷹型 |
母港 | 横須賀[4] |
艦歴 | |
起工 | 1938年5月9日[2] |
進水 | 1939年5月20日[2] |
竣工 |
1940年3月23日「新田丸」として竣工[2] 1942年11月25日空母へ改造完了[2] |
最期 | 1943年12月4日戦没 |
除籍 | 1944年2月5日[5] |
改名 | 新田丸 → 冲鷹[6] |
要目(航空母艦改造時) | |
基準排水量 | 17,830英トン[7] |
公試排水量 | 20,000トン[7] |
満載排水量 | 21,262.80トン[8] |
全長 | 180.24m[7] |
水線長 | 約173.70m[7] |
垂線間長 | 168.00m[7] |
最大幅 | 23.70m[7] |
水線幅 | 22.50m[7] |
深さ | 23.50m(飛行甲板まで)[7] |
飛行甲板 |
長さ:172.0m x 幅:23.7m[9] エレベーター(13x12m)2基[10] |
吃水 |
公試平均 8.00m[7] 満載平均 8.26m[7] |
ボイラー |
三菱式水管缶4基[11] 補助缶2基[11] |
主機 | 三菱ツェリー式(高低圧[12])タービン2基[13] |
推進 | 2軸 x 140rpm[11]、直径5.000m[14] |
出力 | 25,200hp[7] |
速力 | 21.0ノット[7][注釈 2] |
燃料 | 2,250トン[7] |
航続距離 | 8,500カイリ / 18ノット[7][注釈 3] |
乗員 | 約850名[9] |
搭載能力 |
九一式魚雷 36本[15] 爆弾 800kg72個、250kg72個、60kg240個、30kg演習用90個[16] 飛行機用軽質油 190トン[8] |
兵装 |
竣工時[9] 12.7cm連装高角砲4基 25mm3連装機銃10基 |
搭載艇 | 12m内火艇1隻、12m内火ランチ1隻、9mカッター2隻、13m特型運貨船1隻[10] |
搭載機 |
計画(常用+補用)[17] 零式艦上戦闘機 9+2機 九七式艦上攻撃機 14+2機 合計23+4機 (資料によっては合計26+4機) 輸送時、艦上爆撃機16、艦戦24可能[18]。 |
特記の無い場合は計画要目 客船時の要目は新田丸級貨客船を参照 |
冲鷹(ちゅうよう)は[19]、大日本帝国海軍の航空母艦[6]。 「冲」は高く昇って到達するの意があり[注釈 4]、鷹が大空高く昇っていく様を意味する[21][22]。
概要
[編集]軍艦冲鷹は[6]、大鷹型航空母艦の三番艦である[23][24]。 1940年(昭和15年)3月に三菱重工業長崎造船所で竣工後[25]、貨客船として太平洋航路で運航されていた日本郵船の新田丸級貨客船1番船新田丸(にったまる)を[26][注釈 5]、1941年(昭和16年)9月に日本海軍が徴用[28][29]。運送船として使用後、太平洋戦争開戦後に空母へ改造した艦艇である[30][31]。
1942年(昭和17年)中旬より呉海軍工廠で空母改造に着手[28]。同年8月20日の軍艦籍編入および艦艇類別等級表への類別時に[3]、新田丸から冲鷹に改名された[6]。 新田丸級貨客船としては1番船-新田丸、2番船-八幡丸、3番船-春日丸だったが、大鷹型航空母艦としては1番艦-大鷹(春日丸)、2番艦-雲鷹(八幡丸)、3番艦-冲鷹(新田丸)となった[23][32]。 大鷹型航空母艦は小型で速力も20-22ノット程度しか発揮できず、機動部隊同士の戦闘には参加せず航空機輸送任務に従事した[33][34]。 同年11月、冲鷹は空母として竣工[22]。翌月より、ただちに航空機輸送任務に投入された[22]。最初の任務は、日本陸軍航空隊の九九式双発軽爆撃機だった[35]。
1943年(昭和18年)の大鷹型3隻(冲鷹、雲鷹、大鷹)は、航空機輸送任務に奔走する[36]。4月上旬には三式戦闘機を海上輸送した[37]。同年12月4日、日本本土へ帰投中の冲鷹は、八丈島沖合でアメリカ海軍潜水艦セイルフィッシュの魚雷攻撃により撃沈された[38][注釈 6]。
歴史
[編集]建造前
[編集]冲鷹の前身である新田丸は[34]、昭和初期に好況を博していた欧州航路の老齢船を置き換える目的で[40]、またイタリアの貨客船コンテ・ヴェルデ (Conte Verde) やドイツの新型貨客船3隻(シャルンホルスト、グナイゼナウ、ポツダム)に対抗しつつ1940年(昭和15年)開催予定の東京オリンピックを見込んで[41]、日本郵船が建造した豪華客船新田丸級三姉妹船の第1船である[42][43]。 新田丸級三姉妹船(新田丸、八幡丸、春日丸)は、日本郵船を象徴する客船であり[44]、日本郵船株式会社のイニシャルNYKに因んで、それぞれNittamaru, Yawatamaru, Kasugamaruと命名されている[45]。本船の場合は、新田義貞にちなむ新田神社に由来する[注釈 7]。
新田丸は三菱重工業長崎造船所で建造され、1938年(昭和13年)5月9日起工[注釈 8]。 1939年(昭和14年)5月20日、進水[48]。1940年(昭和15年)3月23日に竣工[49]。建造費用は優秀船舶建造助成施設による補助を受けていた[50]。
建造時、新田丸級貨客船は純国産豪華貨客船と宣伝されていた[51][52]。いわゆる国策型優秀船の先駆である[注釈 9] 天洋丸、浅間丸、氷川丸といったそれまでの客船が西洋式の船内装飾だったのに対し、新田丸は中村順平(大阪商船の天津航路用だった長城丸の船内装飾を担当)、村野藤吾、山下寿郎、松田軍平ら建築家、公室や客室は三菱重工業長崎造船所の装飾設計陣、特別室は川島甚兵衞と髙島屋が担当した新日本様式だった[注釈 10]。
一等ラウンジは六歌仙をエッチングで描き出し、それを松田権六による蒔絵で囲んでいた[注釈 11]。前部エントラス・ホールは国産の天然木材をクリアラッカーで仕上げ、アルマイト板に尾長鶏が描かれていた。一等食堂のサイドボードは尾形光琳の紅白梅屏風を模した蒔絵が扉となり、開けるとスクリーンが現れた。これらの装飾は航空母艦の改造時に廃棄された[54]。
進水から半年も経たないうちに第二次世界大戦が勃発して欧州航路は中止され、新田丸級三姉妹船は太平洋航路に就役することになった[55][52]。 1940年(昭和15年)3月23日、竣工[56]。長崎から神戸港に移動し[46]、4月3日より神戸から横浜までの試乗航海を実施する[57]。 4月10日、久邇宮大妃、梨本宮、同妃閑院若宮妃、賀陽宮恒憲王など皇族多数の台臨を仰いだ[46]。 5月18日、ホノルル経由でサンフランシスコへむかうべく、横浜港を出発した[58]。
既述のように第二次世界大戦の影響でサンフランシスコ航路に就航したが、日米関係の悪化に伴い航路は休止される[59]。1941年(昭和16年)6月の時点で、海軍側は「新田丸」の空母改造を要望していた[60]。空母改造は規定路線だったが、日米交渉使節団輸送のため改装工事着手は延期された[61]。 8月4日、日本郵船は「新田丸」と「氷川丸」の出港を中止した[62]。同月、近衛文麿内閣総理大臣や吉田善吾(海軍側首席随員)は「新田丸」に乗船、最上型巡洋艦4隻に護衛され、ハワイ諸島オアフ島の真珠湾に入港する計画がたてられた[63]。近衛首相はフランクリン・ルーズベルト大統領と会談する予定だったという[64]。だが、近衛とルーズベルトの会談は実現しなかった[64]。9月12日、「新田丸」は日本海軍に徴用された[29]。
10月中旬以降、日米兩政府は貨客船3隻を北米航路に投入することで同意、「新田丸」はバンクーバーとシアトルに寄港する予定だった[65]。だが「新田丸」のシアトル行きは中止され、「氷川丸」に置き換えられた[66]。
新田丸
[編集]太平洋戦争開戦当初、「新田丸」は運送艦として用いられた[22]。 1941年(昭和16年)12月中旬、ウェーク島の戦い終結後の日本軍守備隊を増強するため[67]、上海海軍特別陸戦隊(長光少佐、海兵55期)をウェーク島(大鳥島)へ輸送することになった[68][69]。 「新田丸」は上海市を出発、横須賀とロンゲラップ島を経由して、1942年(昭和17年)1月12日ウェーク島に到着した[69][70]。第六十五警備部隊が新編され、ウェーク島守備部隊となった[注釈 12]。
帰路の「新田丸」は、米兵捕虜約1,000-1,200名をウェーク島から本土へ輸送した[72]。この捕虜輸送任務にあたり、豊田副武呉鎮守府長官は「必要ならば武力を行使して良い」と指示していた[73]。斎藤利夫大尉以下の警戒隊は58名しかおらず、船内で幾度か小競り合いが起きた[74]。1月18日、横浜港に到着した[69]。この様子がニュース映像として残っている[75]。なお報告を受けた軍令部部員のK中佐は斎藤大尉を厳しく叱責し、船内取締規約を破ったとみなされた捕虜5名の処刑を命じた[76]。「新田丸」は米兵捕虜を上海に輸送したが、その際に捕虜5名が処刑され、遺体は米国旗に包まれて水葬に伏された[注釈 13]。
その後も、「新田丸」は兵員輸送任務に投入された[79]。4月18日のドーリットル空襲時には、横浜および横須賀に所在[80]。5月1日、解傭される[81]。6月9日、呉に向けて横須賀を出発した[82]。
冲鷹
[編集]1942年
[編集]1942年(昭和17年)6月21日、「新田丸」を特設航空母艦に改造するよう、艤装工事の指令が出される[83]。 7月17日の時点で、空母改造工事は相当進捗していた[84]。 8月、日本海軍は「新田丸」を買収する[85]。一般には、8月10日より呉海軍工廠で航空母艦への改装に着手する[85][86]。 8月20日、新田丸は冲鷹(チュウヨウ)へと改名した[6][87]。 航空母艦に類別される[注釈 14]。 改名と共に軍艦として類別されたため[29]、本艦には先行2隻(春日丸=大鷹 、八幡丸=雲鷹)と異なり、特設航空母艦としての経歴は無い。同日付で海軍は、春日丸・橿原丸艤装員長等を歴任した石井芸江(石井藝江)大佐を、冲鷹艤装員長に任命する[88]。
新田丸級三隻の中で最後の改造艦となった「冲鷹」は[89]、姉妹艦の運用経験から[87]、当初より飛行甲板を10m延長した[85][90]。幅も先行2隻の23.5mから23.7mに増した[90]。対空火器も12cm単装高角砲四基から12.7cm連装高角砲四基に変更、機銃も増強されている[85][90]。一方で、日本海軍の空母用カタパルト開発失敗と低速力により、大鷹型の航空機運用能力はカタパルトを装備したアメリカ軍の軽空母や護衛空母のそれと比較して限定的なものとなる[91]。結局、隼鷹型航空母艦をのぞく日本海軍の商船改造空母が最前線に投入される事はなかった。
1942年(昭和17年)11月20日、石井芸江大佐(冲鷹艤装員長)は冲鷹艦長(初代)に任命される[92]。 11月25日、空母改装完了[49]。同月付で横須賀鎮守府籍[4]。さらに連合艦隊付属となり[86][93]、航空機輸送任務に投入される事になった[85]。 駆逐艦「山雲」(横須賀鎮守府警備駆逐艦)に護衛されて内海西部を出発[94]、11月28日横須賀港に到着した[86]。
航空機輸送任務に従事する空母にとって最大の敵は、日本近海にも進出していたアメリカ軍の潜水艦だった[95]。 12月上旬、本艦は潜水母艦から空母に改造されたばかりの「龍鳳」(元大鯨)と共に、航空機輸送任務に従事する[96]。12月4日、連合艦隊は空母2隻(龍鳳、冲鷹)及び護衛の駆逐艦「時津風」と駆逐艦「卯月」に対し、トラック島への進出を下令した[97][98]。 輸送物件は、日本陸軍第六飛行師団(師団長板花義一陸軍中将)[99]隷下の白城子教導飛行団が保有する九九式双発軽爆撃機だった[100][注釈 15]。「冲鷹」は飛行第四十五戦隊の九九双軽23機を飛行甲板に露天繋止、戦隊長をふくむ隊員203名を乗船させた[35]。「龍鳳」は九九双軽22機と飛行団長をふくむ133名を乗船させた[102]。 ところが本艦で機関故障が発生し出港が遅れる見込みとなったため、「龍鳳」と「時津風」が先行して出発することになった[89][103]。
12月11日、先行隊(龍鳳、時津風)は横須賀を出発する[104]。12月12日午前10時前後、「龍鳳」は八丈島東160浬で米潜ドラムに雷撃され[105]、右舷中部に魚雷1本が命中した[106][107]。同艦は「時津風」や、横須賀から応援にかけつけた駆逐艦「旗風」等に護衛され、出撃したばかりの横須賀へ引き返している[95][注釈 16]。 龍鳳隊より遅れて出港した冲鷹隊(冲鷹、卯月)は[102][111]、サイパン北西で駆逐艦「朝雲」(第9駆逐隊)と駆逐艦「時雨」(第27駆逐隊)と合流、12月18日トラック泊地へ到着した[112][113]。 横須賀への帰路と[114]、翌年1月2日からのトラック再進出の際も[89]、「朝雲」と「時雨」に護衛された[115]。
1943年
[編集]1943年(昭和18年)2月1日、冲鷹艦長は石井芸江大佐から加藤与四郎(加藤與四郎)大佐に交代する[86][116]。 2月7日、「冲鷹」は駆逐艦3隻に護衛されて横須賀を出港、ラバウル方面航空機輸送任務に従事する[117]。 12日、冲鷹隊はトラック着[86][118]。冲鷹隊はカビエン、ラバウル方面への航空機輸送任務に従事する[28]。2月20日、横須賀に戻った[86][112]。大鷹型空母3隻は、引き続き航空機輸送任務に従事した[119]。
4月上旬、「大鷹」とともに陸軍第十四飛行団第六十八戦隊(三式戦闘機)のトラックへの輸送に従事した[120]。「冲鷹」と「大鷹」は4月4日に重巡洋艦「鳥海」と駆逐艦4隻に護衛されて横須賀を出発する[121]。 4月8日夜、アメリカ潜水艦「タニー」が日本の空母3隻を発見した[注釈 17]。距離800mの「大鷹」に対し艦尾発射管より魚雷4本を発射したが、早爆した[122]。「大鷹」に魚雷命中と誤認した「タニー」は、今度は「冲鷹」に魚雷6本を発射するも、同じく早爆に終わった[123]。10日、トラック泊地に到着して任務を終えた[124]。 4月21日、「冲鷹」と「大鷹」は横須賀に戻った[125]。
4月25日、「雲鷹」とともに横須賀を出発し、トラックへの航空機輸送に従事[125]。 5月8日、「冲鷹」と「雲鷹」や戦艦「大和」、第五戦隊(妙高、羽黒)などはトラックを出発[126]。5月13日に「大和」は呉に、「冲鷹」他は横須賀に入港した[126]。
5月24日から再びトラックへの航空機輸送に従事した[125]。6月5日、「冲鷹」と「雲鷹」は、駆逐艦3隻に護衛されて横須賀に帰投することになった[127][128]。 6月5日にトラックを出発し、本土へ向かう[129]。6月9日、横須賀に到着する[86][130]。
6月16日、第三戦隊司令官栗田健男中将の指揮下[131]、第三戦隊(金剛、榛名)[132]、第七戦隊(熊野、鈴谷)[133]、軽巡五十鈴[134](第十四戦隊)[135]、空母3隻(龍鳳、雲鷹、冲鷹)[136]、駆逐艦部隊は横須賀を出発する[137][注釈 18]。 6月20日、暗号解読により待ち伏せていた米潜水艦スピアーフィッシュが空母(個艦不明)に対し魚雷4本を発射するが、速力を見誤っていたので命中しなかった[139][注釈 19]。6月21日、栗田部隊はトラック泊地に到着した[135][140]。便乗していた航空隊関係者は、同地で別の輸送船に移乗した[141][142]。その後、一旦内地に戻る[86][130]。
「冲鷹」は7月10日に翔鶴型航空母艦などとともに内海西部を出発し、7月15日にトラックに着いた[143]。この時「冲鷹」は五五二空や八〇二空関係の輸送に従事した[144]。また、「冲鷹」にはマーシャル諸島やソロモン諸島派遣予定の陸軍部隊や重火器も積載されていた[145][注釈 20]。7月15日、暗号解読や僚艦からの通報により、複数のアメリカ軍潜水艦がトラック諸島近海で小沢機動部隊を待ち伏せていた[146][147]。潜水艦「ティノサ」は距離3500mで魚雷4本を発射するが回避され[148]、小沢部隊は被害なくトラック泊地に到着した[149]。任務を終えた本艦は内地に戻る[130]。
9月7日[150]、空母2隻(大鷹、冲鷹)は[151]、駆逐艦3隻に護衛されて横須賀を出発する[152]。11日、トラック泊地に到着した[153][154]。 9月21日、駆逐艦「島風」に護衛された空母2隻(冲鷹、大鷹)はトラック泊地を出発した[150][155]。 24日、艦隊は先頭より島風-冲鷹-大鷹という単縦陣を形成し、速力20ノットで航行していた[156]。悪天候の中、父島の北東200浬で、輸送艦隊は敵潜に襲撃される[157][158]。午前7時前後、暗号解読により日本艦隊を捕捉したアメリカ軍潜水艦「カブリラ」が魚雷6本を発射する[150]。「大鷹」の右舷に3本〜5本が命中したが、起爆した魚雷は艦尾への1本のみで、沈没には至らなかった[159][160]。 しかし、機関部と舵を破壊されて航行不能となった[161]。爆雷攻撃をおこなった「島風」は『敵潜撃沈』を報告しているがカブリラは沈んでおらず[162]、またカブリラも日本側の反撃と悪天候により目標を見失った[161]。「大鷹」の曳航を、「冲鷹」が担当する[注釈 21]。午後2時すぎに曳航準備を完了、姉妹艦を速力8-11ノット程で曳航し、横須賀へ向かった[164]。また応援の駆逐艦部隊とも合同し、共同で空母2隻を護衛した[165]。26日16時30分、大鷹曳航部隊は横須賀に到着した[166]。 9月27日、冲鷹艦長は加藤与四郎大佐から大倉留三郎大佐[167](前職、潜水母艦迅鯨艦長)[168]に交代する。
沈没
[編集]1943年(昭和18年)11月上旬のろ号作戦(ブーゲンビル島沖航空戦)で日本海軍の母艦航空隊は大幅に消耗し[169]、補充のため第一航空戦隊所属の小型空母「瑞鳳」がトラック泊地より横須賀に帰投する[170]。11月16日、空母3隻(瑞鳳、冲鷹、雲鷹)は駆逐艦複数隻に護衛されて横須賀を出発、21日トラック泊地に到着した[注釈 22]。 11月30日、瑞鳳艦長服部勝二大佐指揮下の艦隊は[171][注釈 23]、空母瑞鳳(艦長服部勝二大佐、海兵44期)、空母冲鷹(艦長大倉留三郎大佐、海兵43期)、空母雲鷹(艦長関郁乎大佐、海兵43期)、重巡洋艦摩耶(艦長加藤与四郎大佐、海兵43期。前職は、冲鷹2代目艦長)[167][173]、駆逐艦部隊(第7駆逐隊[注釈 24]、浦風)という戦力でトラックを出港し[174]、日本へ向かった[175][176]。 各空母にはソロモン・ニューギニアからの人員・機材が搭載されており、民間人を含む多数の便乗者も乗艦していた[177][178]。さらに駆逐艦「山雲」の攻撃で撃沈されたアメリカ軍潜水艦「スカルピン」の捕虜41名が[179]、内地の捕虜収容所へ送られるため空母に分乗していた[180]。また重巡「摩耶」は11月5日のラバウル空襲で大破しており[181]、本格的な修理を行うため本土回航を命じられていた[182]。
その頃、トラック港湾部長が護衛艦隊司令部に発信した暗号を解読したアメリカ軍は、複数の潜水艦に輸送船団の襲撃を命じる[183]。潜水艦「スケート」と「ガンネル」による襲撃は失敗した[184]。
12月3日深夜、瑞鳳隊は八丈島東方海面(約360km)を航行していた[185]。荒天のため、各艦は互いの位置すら掴めていなかったという[186]。一方、船団を追跡していたアメリカ潜水艦「セイルフィッシュ」は、悪天候の最中にレーダーで目標を探知した[187][188]。当時の瑞鳳隊は、摩耶 - 瑞鳳 - 冲鷹 - 雲鷹の単縦陣だったという[184]。 日本側記録12月3日午後11時10分[174](アメリカ軍記録12月4日午前零時12分)、八丈島の東方海域でセイルフィッシュは4本の魚雷を発射して命中音2本を確認した[188]。これに対し「冲鷹」は北緯32度30分 東経143度40分 / 北緯32.500度 東経143.667度地点で、前部に魚雷1本が命中したと発信する[注釈 25]。瑞鳳以下他艦艇は、被雷した「冲鷹」と、警戒役の駆逐艦「浦風」を残して内地へ向かった[190]。セイルフィッシュは落伍艦を追跡し、浮上すると5時50分(日本時間4時50分)に魚雷3本を発射、命中2本を記録しているが[187]、実際の命中は1本であった[191]。機関室への命中により、多数の死傷者を出す[185]。セイルフィッシュは「冲鷹」の左舷1500mを通過すると、潜航して9時40分(日本時間8時40分)に後部魚雷発射管から魚雷3本を発射[187]。2回の命中音と破壊音を確認した[191]。第三撃を受ける直前、駆逐艦「曙」が接近してきたという証言もある[178]。第三撃は艦橋付近に命中[192]。セイルフィッシュは爆雷攻撃により深深度潜航を余儀なくされ、目標の沈没を目撃しなかった[193]。
夜明け前、「瑞鳳」は指揮下艦艇に沖鷹曳航と護衛命令を出していたが[194][189]、「冲鷹」は姉妹艦の到着を待たず、魚雷合計3本の命中により沈没[174]。随伴していた「浦風」の報告によれば北緯32度30分 東経144度0分 / 北緯32.500度 東経144.000度の地点で午前8時47分に沈没した[195]。アメリカ軍によれば 北緯32度37分 東経143度39分 / 北緯32.617度 東経143.650度の地点で沈没[188]。強風と波浪のため駆逐艦から内火艇や短艇を海面におろすことが出来ず、救助作業は難航した[196]。「浦風」は冲鷹副長以下約130名を救助、続いて到着した駆逐艦「漣」が運用長以下約30名を救助した[197][注釈 26]。他の乗組員・便乗者は総員戦死[注釈 27]。冲鷹便乗中の第一航空戦隊の熟練整備員や機械工員も多数が戦死したため、海軍航空隊の整備や修理能力にも影響を与えた[200]。またスカルピンの捕虜21名も、救助されたのは1名であった[201]。
12月4日、瑞鳳隊は横須賀に到着した[182]。12月9日、軍令部において瑞鳳・摩耶・雲鷹・第7駆逐隊司令、高松宮宣仁親王(海軍大佐、軍令部部員、昭和天皇弟宮)等関係者があつまり、護衛および対潜水艦に関する研究をおこなう[172]。日本海軍の潜水艦では襲撃できない悪天候下での雷撃であったことから、(一)水中聴音発射、(二)電探(レーダー)発射、(三)聴音魚雷の可能性が指摘された[202][203]。
1944年(昭和19年)2月5日、大鷹型航空母艦[204]、帝国軍艦籍より除籍された[5]。
年表
[編集]- 1938年(昭和13年)5月9日 - 貨客船新田丸として起工。
- 1939年(昭和14年) 5月20日 - 進水。
- 1940年(昭和15年) 3月23日 - 竣工。
- 1941年(昭和16年)
- 1942年(昭和17年)
- 1943年(昭和18年)
- 1月2日 - 朝雲および時雨と横須賀発[206]。1月8日[86]、トラック着[207]。
- 1月10日 - 村雨(第四水雷戦隊旗艦、第2駆逐隊)および浦波(第19駆逐隊)[208]とラバウル方面経由[104]。艦爆16、艦戦24を搭載。1月12日、駆逐艦秋風(第34駆逐隊)と合同し基地人員・物件を移載[209]。
- 1月13日 - カビエン北方で航空機発艦、14日トラック帰着[210]。燃料補給後横須賀回航[86]、20日着[211]。
- 2月7日 - 横須賀発、ラバウル方面輸送[104]。12日トラック着[86]。
- 2月15日 - トラック発[104]。20日横須賀着[104][119]。
- 2月28日 - 横須賀発[86]。3月5日トラック着[130]。
- 3月8日 - トラック発[86]。3月13日横須賀着[130]。
- 4月4日 - 大鷹等とともに横須賀発[130][212]。4月10日、トラック着[213]。
- 4月16日 - 大鷹・時雨・有明とトラック発[214]。21日横須賀着[130]。
- 4月25日 - 雲鷹[130]や軽巡那珂(第十四戦隊、司令官伊藤賢三少将)等と横須賀発[215]、4月30日トラック着[216]。
- 5月8日 - 雲鷹および戦艦大和等とトラック発[217]、5月13日横須賀着[130]。
- 5月24日 - 雲鷹と横須賀発[86]、5月29日トラック着[130]。
- 6月5日 - 雲鷹とトラック発[86]、6月9日横須賀着[130]。
- 6月16日 - 第三戦隊や水上機母艦日進等と横須賀発[86]。21日トラック着[140]。
- 6月28日 - 雲鷹とトラック発[86]、7月2日横須賀着[130]。
- 7月10日 - 小沢機動部隊と合流し、内地出発[86]。7月15日トラック着[130]。
- 7月19日 - トラック発[86]。7月24日横須賀着[130]。
- 9月7日 - 大鷹と横須賀発[151]、9月11日、トラック着[86]。
- 9月24日 - 大鷹・島風と横須賀回航中、米潜カブリラから雷撃されて大鷹が大破、冲鷹が大鷹を曳航し[218]、応援艦艇と共に26日横須賀着[86]。
- 10月4日 - 島風および白露[219]と横須賀発[注釈 29]、10月9日トラック着[220]。
- 10月15日 - トラック発[86]。
- 10月18日 - サイパン島北方で米潜フライングフィッシュが魚雷6本を発射、1本命中を報告するも冲鷹に被害なし[221]。20日、横須賀帰投[86]。
- 10月27日 - 横須賀出発[86]。10月31日[218]もしくは11月1日、トラック着[86]。
- 11月5日 - トラック発[86]。10日、横須賀着[86]。
- 11月16日 - 瑞鳳・雲鷹等と横須賀発[86]。11月21日トラック着[222]。
- 11月30日 - 瑞鳳・雲鷹・摩耶・浦風等とトラック発[197]。
- 12月3日 - 米潜セイルフィッシュの雷撃で大破[197]。
- 12月4日 - セイルフィッシュの再度の雷撃により沈没[86]。生存者を浦風と漣が救助[197]。
- 1944年(昭和19年)
艦長
[編集]- 艤装員長
- 艦長
- 石井芸江 大佐:1942年11月20日[92] - 1943年12月1日[116]
- 加藤与四郎 大佐:1943年2月1日[116] - 1943年9月27日[167]
- 大倉留三郎 大佐:1943年9月27日[167] - 12月4日戦死(海軍少将に進級)[199][223]
同型艦
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 1943年5月、駆逐艦潮より撮影、特設艦船を挟んで姉妹艦雲鷹も写っている[1]。
- ^ #海軍造船技術概要p.275では、速力22ノット、航続距離は18ノットで8,000カイリとしている。
- ^ #海軍造船技術概要p.275では、速力22ノット、航続距離は18ノットで8,000カイリとしている。
- ^ 戦時中の史料[20]、戦後の二次資料など、一部で「沖鷹」と表記するが、海軍の法令上はニスイの「冲鷹」である[6]。
- ^ 新田丸級貨客船はヨーロッパ航路に投入予定だったが、第二次世界大戦の勃発で太平洋航路に投入された[27]。
- ^ この時、冲鷹に乗艦していた米潜水艦スカルピン(前月11月に沈没)の捕虜20名も戦死した[39]。
- ^ 船名の由來 正に紀元二千六百年の船[46] 新田丸の船名は建武鴻業の柱石 新田義貞公を祀る群馬縣太田町鎭座新田神社の祀號を奉戴するものであるが、曠古の非常時局に際し國を擧げて新東亞建設に邁進するの時、海運報國の旗幟のもとに五大洋に雄飛する我が「日の丸船隊」の先驅をなす新國策船の負ふ名として蓋し相應しい船名といふべきである、漸く事多からんとする世界海運界の爭覇戰に堂々太平洋の春波を蹴つて強豪を壓せんとするわが新田丸の威容こそ、方に光輝ある「紀元二千六百年の船」である(記事おわり)
- ^ 新優秀船新田丸 六月に來航…… 仕上げ入念のため三ヶ月遲る[47] 日本郵船會社の歐洲航路用優秀客貨船新田丸は一九三八年五月九日長崎造船所で起工、三九年五月二十日無事進水を了し、艤装を終へ次第來る四月二十日ごろ桑港に向け處女航海の壮途にのぼるはずであつたが、物資の不足、仕上げに際し入念を期してゐるため豫定より遲れて來る六月初旬來航することになつた旨桑港郵船支店へ入電があつた。(記事おわり)
- ^ 造船日本 世界に誇る豪華客船 純國産新田丸竣工 陽春四月、晴れの處女航海[53](東京二十五日同盟)三菱長崎造船所で建造を急いでゐた郵船の新造客船新田丸(一万六千五百トン)はいよ〱來月二十九日竣工の運びとなつた、同船は一等客室三百および食堂に世界最初の冷房装置を施した豪華船で、速力二十二ノツト船長百八十メートル、船巾二十二メートル、竣工と共に桑港航路に就航する筈である。新田丸は事變以來日本郵船が鋭意建造に當つてゐる國策型優秀船隊の先驅をなすもので、姉妹船八幡丸、春日丸と共に船型、推進器、機關、航海用具、船客設備貨物設備等あらゆる部門に世界最優秀最高の設備を具へてをり、世界いづれかの國において既に試みられ優れた性能を有し優秀最新なりと目せられる機器、設備にして同船に備へられざるものは一つもなく、しかもそれらは前部國産品である點に異彩を放つてゐる、例えば世界でも數える位しかない須式第十四型ジヤイロコンパスも國産品であり、船舶用無線電話も國産品である、また大西洋の超豪華客船クヰン・メリー號やノルマンデー號にもない一等客室全部の冷房を斷行し世界の客船設備に一新天地を開拓してゐるのである(記事おわり)
- ^ 新田丸装飾説明[46]
- ^ 新田丸装飾説明[46]
- ^ 第六十五警備隊司令は川崎進大佐(海兵46期)、12月31日に新設[71]。第六根拠地隊麾下であった[70]。
- ^ 太平洋戦争終結後、捕虜処刑命令を出したK中佐は既に戦死していたので、GHQは斎藤大尉を責任者とみなした[77]。だが斎藤が逃亡生活に入り、1952年(昭和27年)2月に逮捕令状を取り消した[78]。
- ^ 内令第一五五四號 艦艇類別等級別表左ノ通改正ス[3] 昭和十七年八月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦二等阿賀野型ノ項中「阿賀野」ノ下ニ「、能代、矢矧」ヲ加フ 同、航空母艦ノ項中「飛鷹」ノ下ニ「、冲鷹」ヲ加フ|驅逐艦、一等初春型ノ項中「子日、」ヲ、同白露ノ項中「山風、」ヲ、同朝潮型ノ項中「、霰」ヲ削リ、同秋月型ノ項中「新月」ノ下ニ「、若月」ヲ加フ(以下略)
- ^ 白城子教導飛行団(飛行団長白銀重二陸軍少将)と隷下の軽爆二戦隊……飛行第四十五戦隊(戦隊長濱田龍太郎陸軍大佐)と飛行第二百八戦隊(戦隊長於田秋光陸軍大佐)である[101]。
- ^ 龍鳳の被雷により、第四十五戦隊隊員は45名が戦死[102]、合計百余名の死傷者を出した[108]。「龍鳳」が輸送するはずだった九九双軽爆は、空母「瑞鶴」(第一航空戦隊)が輸送した[109][110]。
- ^ 空母2隻は「大鷹」と「冲鷹」だが、「タニー」は「鳥海」も空母と誤認していた[122]。
- ^ 第27駆逐隊(時雨、有明、夕暮)、第7駆逐隊(潮、漣、曙)、陽炎型駆逐艦(雪風、浜風、谷風)、白露型駆逐艦涼風、秋月型駆逐艦新月、夕雲型駆逐艦清波[138]。
- ^ 木俣滋郎『日本空母戦史』496ページの編成表では同行艦に駆逐艦江風(第24駆逐隊)を加えるが、同艦はスピアーフィッシュと交戦して損傷、トラック泊地で修理中。
- ^ この部隊のトラック進出時には陸軍南海第四守備隊の輸送が行われているが、『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』372ページによれば「冲鷹」はそれには従事していない。
- ^ ○二十四日、「大鷹」ハ父島北東ニテ敵潜水艦ノ雷撃ニヨリ舵取機械ヲヤラレ航行不能、「冲鷹」曳航(11kt)「横」ニ向フ。護衛駆逐艦ハ敵潜水艦ヲ捕捉、撃沈セルコト略確実。[163]
- ^ 木俣滋郎『日本空母戦史』532ページでは同行艦を駆逐艦4隻(秋雲、曙、朧、漣)と記述するが、朧は1942年10月17日に沈没している。
- ^ 各艦艦長の姓名と海軍兵学校卒業期は、『高松宮宣仁親王日記第七巻』158ページの欄外解説より引用[172]。
- ^ 第7駆逐隊司令は山本岩多大佐、海兵46期。『戦史叢書62巻』529ページでは、護衛の駆逐艦を第7駆逐隊(曙、朧、漣)および浦風と記述する。
- ^ ○「冲鷹」(三-二三三〇)2310我魚雷一本命中、前部兵員室ニ火災、32°-30′N 143′E(野島崎灯台127°240′)。/○「瑞鳳」(四-〇六四五)0500「冲鷹」再度魚雷命中、航行不能。「雲鷹」ハ救難ニ行ケ《荒天ノタメ航行困難ノ状況ニテ曳航セントシタリシテテヰル間ニ第二回攻撃サル》。[189]
- ^ 漣乗組員の記録によれば、同艦は93名を救助、戦死者1名であった[198]。
- ^ 『戦史叢書62巻』529ページでは戦死者約1250名とする[197]。一部資料では乗員533名と便乗者3000名中、生存者170名[178]。冲鷹乗組員は本倉艦長[199]以下513名戦死[200]。
- ^ 『戦史叢書62』216ページの冲鷹輸送経過では「12月11日横須賀発、龍鳳が米潜に攻撃され分離した」と記述する[205]。
- ^ 木俣滋郎『日本空母戦史』531ページと『戦史叢書62巻』の経過表では、冲鷹の護衛を「島風、漣」と記載する[218]。
出典
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- ^ a b #内令昭和19年2月(1) p.47〔 内令第三百四號 横須賀鎮守府籍 軍艦 冲鷹 右帝國軍艦籍ヨリ除カル(略)|昭和十九年二月五日 海軍大臣 嶋田繁太郎 〕
- ^ a b c d e f #達昭和17年8月 p.21〔 達第二百三十四號 呉海軍工廠ニ於テ艤装中ノ汽船新田丸ヲ左ノ通命名セラル 昭和十七年八月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎 軍艦 冲鷹(チュウヨウ) 〕
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- ^ a b c 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.35
- ^ #昭和造船史1pp.780-781
- ^ #日本航空母艦史p.64
- ^ #海軍造船技術概要p.1678
- ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.12
- ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.31
- ^ #海軍造船技術概要p.296
- ^ #S1712四水戦日誌(3) p.32〔 8日1245冲鷹|一.10日未明「トラック」発11市0600「カビエング」ノ15度200浬ニ於テ搭乗員ヲ移乗セシメラレ度、発艦飛行機ハ艦爆十六 機、艦戦二十四機、艦戦ハ落下傘ナシ/二.11AF宛二十粍機銃弾一万発ハ空輸其ノ他「トラック」ニ移揚(略)〕
- ^ 世界の艦船、日本航空母艦史 1994, pp. 84a-87大鷹型 TAIYO CLASS/冲鷹 Chuyo
- ^ #S1810-12経過概要 p.13〔 昭和十八年十二月經過概要|四|沖鷹再度敵Sノ雷撃ヲ受ケ沈没 〕
- ^ 写真日本の軍艦第4巻62頁「艦名の由来/冲鷹(ちゅうよう)」
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- ^ #S17.07横防日誌(2) p.27〔 二十七日(天候略)(略)一八三〇山雲播磨灘着|三、海上保護直接護衛部隊(略)(三)山雲ハ播磨灘ヨリ冲鷹ノ直接護衛 〕
- ^ a b #S17.12横防日誌(1) pp.4-5〔 (イ)而シテ本月ハ上中下旬ヲ通ジ三陸ヨリ犬吠埼ニ至ル海面ニ於テ敵潜水艦ノ出現頻繁ニシテ其ノ數別表ノ如ク味方艦及船團ニ對シテ雷撃或ハ砲撃ヲナシ神護丸ノ沈没其ノ他ニ商船損害ヲ受ケタルモ其ノ都度直率部隊ノ艦艇ヲ始メ東京湾部隊三陸部隊ノ艦艇及館空飛行機ヲ以テ之ヲ捜索掃蕩攻撃セリ中旬ニハ北緯三十二度十分東経百四十二度三十二分ニ於テ南下中ノ龍鳳雷撃ヲ受ケ軽微ノ損害ヲ蒙リ直率部隊艦艇及館空機ハ同艦ノ警戒護衛ヲ實施シ東京湾ニ入港セラレタリ 〕
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- ^ #S17.12横防日誌(1) p.23〔 敵潜水艦發見記録|一二|一〇一八|N三十二度十分 E百四十二度五〇分|龍鳳|雷撃|損害アリ旗風 駆潜三十三、三十四警戒直衛 館空飛行機捜索攻撃 〕-〔 一三|〇六二〇|N二十四度〇分 E百四十二度二十分|〃(龍鳳)|〃(雷撃)|命中セズ 〕
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- ^ #S1712四水戦日誌(1) p.13〔 …更ニAdB電令作第90号4sd電令作第1号ニ依リGF電令作第405号ニ依ル輸送任務ニ従事スル冲鷹警戒任務ノ為21日1024「トラック」発26日1250横須賀着。 〕
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- ^ #S1805四水戦日誌(1) p.55〔 27日0822(将旗)GF→27日1500(将旗)2F(将旗)7dg雲鷹大鷹冲鷹潮|GF電令作第578号 一.雲鷹冲鷹潮現任務終了後雲鷹艦長指揮ノ下ニ横須賀ニ回航スベシ/二.AdB指揮官ハd×2(萩風ヲ含ム)ヲシテ雲鷹艦長ノ指揮ヲ受ケ右部隊ノ護衛ニ任ズベシ/三.7dg(曙)ハ現任務終了後横須賀ニ回航スベシ 〕
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- ^ #S1709大鷹詳報(3) p.19〔 (ロ)(略)次期軍事機材輸送任務ノ為横須賀回航ヲ要シ便乗者840名托送品零戦6其ノ他若干ヲ搭載ノ上21日0400「トラック」港出港(以下略) 〕
- ^ #S1709大鷹詳報(3) p.18〔 (二)我軍ノ兵力配備及行動 横須賀回航ノ途次 島風 冲鷹 本艦ノ順ニテ単縦陣ニテ之字運動A法(時隔五分)ヲ実施基準針路320度速力20節ニテ航行中ナリ 〕
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- ^ #S1709大鷹詳報(3) pp.20-21〔 0658|射点右110度400乃至500米ヨリ将ニ開進セントスル雷跡多数ヲ発見直ニ取舵一杯前進一杯ヲ令シタルモ約15秒後1本艦尾ニ命中爆発1本前部火薬庫(不爆)1本爆弾庫(頭部脱落不爆)ニ命中、2本前方1本後方通過防水ヲ令ス、高角砲機銃ヲ以テ攻撃ス、当時潜望鏡ヲ認メタル者ナシ 〕
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- ^ #S1812十戦隊日誌(1) p.16〔 四0848浦風|浦風機密第040848番電 冲鷹0847沈没地32度30分北144度0分東我救助中 〕
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- ^ #S1712四水戦日誌(3) p.75〔 2日|朝雲、時雨1530トラックニ向ケ横須賀発(冲鷹警戒) 〕
- ^ #S1712四水戦日誌(3) p.28〔 8日0740朝雲|9dg(峯雲欠)27dg(白露有明夕暮欠)着 〕
- ^ #S1712四水戦日誌(3) p.78〔 10日|一.(将旗)4sdハ2dg(村雨)及19dg(浦波)ヲ併セ指揮シ1500トラック出撃AdB電令作第118号ニ依ル冲鷹警戒任務ニ従事カビエン北方ニ向フ 〕
- ^ #S1712四水戦日誌(3) p.9〔(二)作戦指導(略)12日朝「カビエン」ノ15度200浬ノ地点ニ至リ秋風ト合同秋風ハ冲鷹ヨリ基地人員物件等ヲ移積シ(秋風ハ0900分離「カビエン」ニ向フ 〕
- ^ #S1712四水戦日誌(3) p.81〔 14日|一.村雨浦波冲鷹トラック入泊駆逐艦燃料補給及冲鷹揚陸残リ戦闘機1機ヲ揚陸シタル後横須賀ニ回航ス(略) 〕
- ^ #S1712四水戦日誌(3) p.54〔 20日0830(将旗)4sd→各長官|村雨浦波横須賀着 〕
- ^ #S1801二水戦日誌(4) p.34〔 大鷹艦長/一.大鷹 冲鷹 響 漣 黒潮 親潮 ヲ率ヰ4月3日「トラック」ニ向ケ横須賀発ノ予定 二.黒磯親潮ハ出撃準備完成ノ後燃料満載4月1日迄ニ横須賀ニ回航スベシ 〕
- ^ #S1801二水戦日誌(4) p.6〔 4月4日-同10日|親潮黒潮|冲鷹大鷹|横須賀→「トラック」 〕
- ^ #S1801二水戦日誌(4) p.30〔 AdB指揮官|4月14日1447対潜掃蕩隊|掃蕩隊(略)4月16日0600「トラック」発予定ノ大鷹冲鷹(護衛艦時雨有明)ノ護衛ニ協力(礁外300浬附近迄)シツツ敵銭掃討ニ任ズベシ 〕
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参考文献
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- (148-158頁)ノンフィクションレポート(3)渡辺大助(福島テレビ)『「戦犯」を拒否して逃亡潜行七年 元海軍少佐を支えた妻の愛』
- 歴史群像編集部編「雨倉孝之 人物抄伝/太平洋の群像 駆逐隊司令・駆逐艦艦長列伝(1)」『水雷戦隊I 特型駆逐艦 米英を震撼させたスーパー・デストロイヤーの全貌』学習研究社〈歴史群像太平洋戦史シリーズ Vol.18〉、1998年5月。ISBN 4-05-601768--9。
- (144-151頁)「漣」砲手の海戦秘話―吹雪型駆逐艦「漣」後部三番砲塔・右砲一番砲手が綴る海の戦いの生々しい実相と「漣」の最期。―文=川島俊英
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 東京日日新聞社「水上交通 交通界の王者」『世界交通文化發達史』東京日日新聞社、1940年12月 。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- “なにわ会(海軍兵学校第72期、海軍機関学校第53期、海軍経理学校第33期合同クラス会):戦記その003 桂理平「空母冲鷹の遭難」”. 成果物情報. なにわ会. 2015年1月5日閲覧。
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