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隼鷹型航空母艦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
隼鷹型航空母艦
1945年(昭和20年)9月に撮影された佐世保での隼鷹[1]。
1945年(昭和20年)9月に撮影された佐世保での隼鷹[1]
基本情報
種別 航空母艦
運用者  大日本帝国海軍
同型艦 隼鷹飛鷹
前級 大鳳型航空母艦
次級 大鷹型航空母艦
要目 (計画)
排水量 基準:24,140英トン[2]
公試:27,500トン[2]
満載:29,471トン[2]
全長 219.32 m[2]
水線長 約215.32 m[2]
垂線間長 206.00 m[2]
水線幅 26.70 m[2]
深さ 21.79 m[2](飛行甲板まで)
吃水 公試平均 8.15 m[2]
満載平均 8.60 m[2]
飛行甲板 210.30 m ✕ 27.30 m[2]
エレベーター2基[7]
ボイラー 飛鷹:川崎ラモント式強制循環缶英語版6基[4]
隼鷹:三菱式水管缶6基[4]
補助缶:円缶2基[5]
主機 飛鷹:川崎式オールギヤードタービン2基[4]
隼鷹:三菱ツェリー式オールギヤードタービン2基[4]
推進器 2軸[5]
出力 56,250 hp[2]
速力 25.5ノット[2]
航続距離 計画 10,000カイリ / 18ノット[2][注釈 1]
燃料 重油 4,100トン[2]
乗員 計画乗員 1,187名[6]
兵装 竣工時[11]
40口径 12.7 cm連装高角砲6基
25 mm 3連装機銃8基
装甲 計画[3]
機関室:舷側 20 + 25 mm DS鋼
弾火薬庫:甲板 25 mm DS鋼
後部舷側 25 mm DS鋼
軽質油タンク:甲板 25 mm DS鋼
搭載機

計画 (常用 + 補用)[8]
零式艦上戦闘機12 + 3機
九九式艦上爆撃機18 + 2機
九七式艦上攻撃機18機
合計48 + 5機。

艦攻の補用が5機あり、補用は計10機とする主張もある[9]
搭載艇 12 m 内火艇2隻、12 m 内火ランチ2隻、8 m 内火ランチ1隻、9 m カッター2隻、6 m 通船1隻、13 m 特型運貨船2隻[10]
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隼鷹型航空母艦(じゅんようがたこうくうぼかん)は、大日本帝国海軍航空母艦の艦型。同型艦は「隼鷹」と「飛鷹」。

歴史

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日本海軍は、造船業界の不況対処および戦時の優秀船舶確保のために、一部の民間造船所および建造船舶に補助を与えていた。サンフランシスコ航路のために日本郵船1938年(昭和13年)に計画、1939年(昭和14年)に起工した大型高速客船「橿原丸」と「出雲丸」は、商船としてはそれまでの日本船舶で最大で、建造にあたり大型優秀船建造助成施設を適用され、有事の際に航空母艦に改造できる設計をとることを条件として、日本海軍から建造費用の6割の補助を受けていた[12]1940年に開催予定だった東京オリンピックのために建造され始めたとも言われるが、起工は1939年3月である。のち対米関係が悪化した1940年(昭和15年)に、両客船は、空母への改造が決定され、1941年(昭和16年)に、海軍が日本郵船より建造中の2隻を買収。「橿原丸」は「隼鷹」(じゅんよう)、「出雲丸」は「飛鷹」(ひよう)と新たに命名された。

当初、空母に改装した際には、九六式艦上戦闘機12機、九六式艦上攻撃機18機、九七式艦上攻撃機18機を搭載することが予定されていたが、1941年になると零式艦上戦闘機15機(補用3)、九九式艦上爆撃機20(補用2)、九七式艦上攻撃機18(甲板10機)、800 kg 爆弾54発、250 kg 爆弾198発、60 kg 爆弾348発、九一式改二魚雷27発搭載に変更となっている[12]

原計画が最大24ノットの高速客船であったこともあり、空母改装後は25ノットを出すことができた。この規模の空母としては低速だが、竣工当時には作戦行動上十分な速度と見なされていた。1944年6月のマリアナ沖海戦では小沢中将直率の一航戦に正規空母3隻を集め、二航戦(隼鷹、飛鷹、龍鳳)は戦艦長門」(速力約25ノット)と共に「乙部隊」を編成するなど、運用上の区別があった。この25ノットという速力は、大戦中期から登場し始めた大型、高速の新型機の運用にはやや困難が伴うものであった。艦載機用カタパルトを実用化できなかった日本海軍にとって大型高速化しつつあった艦載機(彗星天山)の発艦問題、特に無風時は深刻であり[13]1944年(昭和19年)8月以降、発艦に補助ロケットを用いたケースがある[13]

艦橋は、当初の計画では、「龍驤」のように飛行甲板先端下部に設け、飛行甲板上には何も設けない予定であったが、設計中の正規空母「大鳳」が、従来の舷側から湾曲して出す煙突をやめ、飛行甲板上に設けた煙突と艦橋とを一体化する構造となることが決定したので、その事前試験の意味も含めて、欧米の空母では標準の、煙突と一体となったアイランドを日本空母として初めて採用している[14] 。ただし、排煙による気流の乱れが艦載機の着艦を妨げないよう、煙突上部を右外側へ26度傾斜させており、この点は英米空母と異なった。この斜め煙突と艦橋が一体となったアイランドは、ミッドウェー海戦後に航空本部(航空本部部長片桐英吉中将、航空本部総務部長大西瀧治郎少将)が提出した意見書『航空母艦整備方針ニ関スル意見』「三 補助航空母艦計画要求概案」に「(イ)艦橋煙突 飛鷹型ニ準ズ」と記述されている[15]。のちに大和型戦艦から改造された空母「信濃」にも採用された。「飛鷹」は竣工時から艦橋に二号一型電探(対空レーダー)を装備している[16]。格納庫は二層で、エレベーターは飛行甲板の前部と後部に一基ずつ設置されている。

太平洋戦争においては、先に竣工した「隼鷹」が1942年5月3日をもって第四航空戦隊に配備され[17]、「龍驤」と共にアリューシャン方面の戦いに参加した[18]。ミッドウェー海戦後、第二航空戦隊は「隼鷹」「飛鷹」「龍驤」で再建された[19][注釈 2]ガダルカナル島の戦い以降の空母機動部隊を支える中核戦力として活躍した。隼鷹型の大戦後半の搭載機は零戦21、彗星18(9機は飛行甲板繋止)、天山9の合計48機だったという[16]。これは、アメリカ海軍のヨークタウン級空母の搭載機の約半数で打撃力も半分であった。

特徴

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機関に日本海軍としてはトップクラスの性能のボイラーを採用した。隼鷹(橿原丸)の三菱水管缶は 420℃、飛鷹の川崎ラモント缶は 420℃、蒸気圧はそれぞれ 42気圧・40気圧で、駆逐艦島風の機関を上回り、アメリカ海軍のエセックス級空母に匹敵するスペックであった[20]。一方で、下部格納庫は缶室の真上にあって温度上昇に悩まされ、すのこを敷きつめて解決を図っている[12]。2軸推進であったが、スクリューの直径は日本海軍最大の直径5.5 mであった[20]。「飛鷹」は1942年(昭和17年)10月20日に機関故障を起こし、日本海軍は南太平洋海戦第三次ソロモン海戦を前に貴重な航空戦力の一角を失っている[21]

本型は商船改造空母ではあったが、当初から空母への改造が念頭に置かれていたために、装備された装甲は「蒼龍」に準する内容(水中防御の装甲は劣る)となっており、商船改造空母としては世界的に見ても異例の防御力を持っていた。弾薬庫甲板、後部舷側、ガソリンタンク甲板が25 mm DS鋼板、機関室舷側のみ20 mm+25 mm DS鋼板で構成されている[12]。機関部分も2重底とされていた[20]ミッドウェー作戦に連動したアリューシャン作戦直前、佐伯湾に停泊していた「隼鷹」に転勤した山川兵曹によれば、「変てこな煙突」の空母の艦首に、乗っていた内火艇が衝突した。すると「隼鷹」の外舷が凹んでおり、同乗者と共に不安を抱いている[22]。また珊瑚海海戦で損傷した空母「翔鶴」から「隼鷹」に転勤した河野茂(三等飛行兵曹)は、「いままでに乗ったどの艦よりもゆったりして、優しい感じだった」と述べている[23]

「飛鷹」副長によれば、燃料満載・燃料未載の場合、艦橋が右舷にあるため右舷に7度傾斜した[24]。1943年末に「飛鷹」では副長の主張により、左舷空所にバラストをつめて満載時傾斜が右3度に減っている[24]。また軍艦のように区画が細分化されておらず、被害を受けた際に区画的に防御を行う能力には劣っていた[25]

アメリカ海軍マリアナ沖海戦で「飛鷹」を撃沈した際に「迅鷹(はやたか)級航空母艦」の表現を使った[26]

同型艦

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注・出典

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注釈

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  1. ^ #写真日本の軍艦第4巻p.32、#日本航空母艦史p.68、#日本の航空母艦(長谷川)p.38に12,251カイリ / 18ノットの数値があるが、#隼鷹公試成績表、飛鷹#公試成績表には、その数値がない。
  2. ^ 「龍驤」は臨時に第一航空戦隊に編入されて出撃、第二次ソロモン海戦で撃沈された。1942年末より二航戦に龍鳳が加わり、「飛鷹」がマリアナ沖海戦で沈むまでこの3隻編制であった。

出典

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  1. ^ #日本海軍全艦艇史p.377
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」p.3。
  3. ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」p.38。
  4. ^ a b c d #日本航空母艦史p.68
  5. ^ a b 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」p.34。
  6. ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」p.41。
  7. ^ #写真日本の軍艦第4巻p.32
  8. ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」p.30。
  9. ^ #写真日本の軍艦第4巻p.33
  10. ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」p.45。
  11. ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」p.7。
  12. ^ a b c d #川崎戦歴p.72
  13. ^ a b #川崎戦歴p.73
  14. ^ 『軍艦メカ2 日本の空母』 光人社 1991年
  15. ^ 戦史叢書43 1971, p. 635.
  16. ^ a b #川崎戦歴p.74
  17. ^ 戦史叢書43 1971, p. 104.
  18. ^ 戦史叢書43 1971, pp. 230–233六 北方部隊
  19. ^ 戦史叢書43 1971, pp. 639–640.
  20. ^ a b c 雑誌 丸 2010年11月号 飛鷹型空母特集
  21. ^ #艦爆隊長p.146
  22. ^ #空母艦爆p.98
  23. ^ #証言p.114
  24. ^ a b #飛鷹副長p.152
  25. ^ #飛鷹副長p.145
  26. ^ 大騒ぎ程の海戰ではなく 日本第三艦隊位の出動か 一飛行機母艦ほか三船撃沈の報(眞珠灣ニミツ司令長官公報發表)”. Hoji Shinbun Digital Collection.  Yuta Nippō, 1944.06.23. pp. 03. 2023年9月19日閲覧。

参考文献

[編集]
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.A03032269800『(第1002番艦)新造運転公試成績摘要表(三菱重工業(株)長崎造船所)』。 
    • Ref.A03032270000『軍艦瑞鳳運転公試成績摘要表(横須賀海軍工廠)』。 
  • 阿部善朗『艦爆隊長の戦訓 体験的/新説太平洋海空戦』光人社、1997年。ISBN 4-7698-0834-8 
  • 川崎まなぶ『日本海軍の航空母艦 その生い立ちと戦歴』大日本絵画、2009年。ISBN 978-4-499-23003-2 
  • 志柿謙吉『空母「飛鷹」海戦記 「飛鷹」副長の見たマリアナ沖決戦』光人社、2002年2月。ISBN 4-7698-1040-7 
  • 橋本敏男田辺弥八ほか『証言・ミッドウェー海戦 私は炎の海で戦い生還した!』光人社、1992年。ISBN 4-7698-0606-X 
  • 長谷川藤一『軍艦メカニズム図鑑 日本の航空母艦』(第3刷)グランプリ出版、1998年12月(原著1997年9月)。ISBN 4-87687-184-1 
  • 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ミッドウェー海戦』 第43巻、朝雲新聞社、1971年3月。 
  • 雑誌『丸』編集部 編『写真日本の軍艦 第4巻 空母II』光人社、1989年10月。ISBN 4-7698-0454-7 
  • モデルアート臨時増刊、『艦船模型スペシャルNo.18-商船改造空母』、(モデルアート社、2005年)
  • 『世界の艦船2011年1月号増刊(増刊第95集) 日本航空母艦史』、海人社、2010年12月。 
  • 山川新作『空母艦爆隊 艦爆搭乗員死闘の記録今日の話題社、1985年。ISBN 4-87565-118-X 
  • 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」

関連項目

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  • コロッサス級航空母艦 - 1944年から1945年にかけて竣工したイギリス海軍の空母。隼鷹型と同様の25ノットである。
  • ノルマンディー (客船) - フランスの8万トン超の大型貨客船で、アメリカ海軍が接収して空母改造を試みたが、作業中の火災と横転事故で中止。