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冲鷹 (空母)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
冲鷹から転送)
新田丸 / 冲鷹
トラック島泊地に停泊する冲鷹[注釈 1]
トラック島泊地に停泊する冲鷹[注釈 1]
基本情報
建造所 三菱重工業長崎造船所(客船建造)[2]
呉海軍工廠(空母改造)[2]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 (貨客船 →)航空母艦[3]
級名 大鷹型
母港 横須賀[4]
艦歴
起工 1938年5月9日[2]
進水 1939年5月20日[2]
竣工 1940年3月23日「新田丸」として竣工[2]
1942年11月25日空母へ改造完了[2]
最期 1943年12月4日戦没
除籍 1944年2月5日[5]
改名 新田丸 → 冲鷹[6]
要目(航空母艦改造時)
基準排水量 17,830英トン[7]
公試排水量 20,000トン[7]
満載排水量 21,262.80トン[8]
全長 180.24m[7]
水線長 約173.70m[7]
垂線間長 168.00m[7]
最大幅 23.70m[7]
水線幅 22.50m[7]
深さ 23.50m(飛行甲板まで)[7]
飛行甲板 長さ:172.0m x 幅:23.7m[9]
エレベーター(13x12m)2基[10]
吃水 公試平均 8.00m[7]
満載平均 8.26m[7]
ボイラー 三菱式水管缶4基[11]
補助缶2基[11]
主機 三菱ツェリー式(高低圧[12])タービン2基[13]
推進 2軸 x 140rpm[11]、直径5.000m[14]
出力 25,200hp[7]
速力 21.0ノット[7][注釈 2]
燃料 2,250トン[7]
航続距離 8,500カイリ / 18ノット[7][注釈 3]
乗員 約850名[9]
搭載能力 九一式魚雷 36本[15]
爆弾 800kg72個、250kg72個、60kg240個、30kg演習用90個[16]
飛行機用軽質油 190トン[8]
兵装 竣工時[9]
12.7cm連装高角砲4基
25mm3連装機銃10基
搭載艇 12m内火艇1隻、12m内火ランチ1隻、9mカッター2隻、13m特型運貨船1隻[10]
搭載機 計画(常用+補用)[17]
零式艦上戦闘機 9+2機
九七式艦上攻撃機 14+2機
合計23+4機
(資料によっては合計26+4機)
輸送時、艦上爆撃機16、艦戦24可能[18]
特記の無い場合は計画要目
客船時の要目は新田丸級貨客船を参照
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空母改装前の新田丸(1940年)

冲鷹(ちゅうよう)は[19]大日本帝国海軍航空母艦[6]。 「冲」は高く昇って到達するの意があり[注釈 4]が大空高く昇っていく様を意味する[21][22]

概要

[編集]

軍艦冲鷹[6]大鷹型航空母艦の三番艦である[23][24]。 1940年(昭和15年)3月に三菱重工業長崎造船所で竣工後[25]、貨客船として太平洋航路で運航されていた日本郵船の新田丸級貨客船1番船新田丸(にったまる)を[26][注釈 5]、1941年(昭和16年)9月に日本海軍が徴用[28][29]。運送船として使用後、太平洋戦争開戦後に空母へ改造した艦艇である[30][31]

1942年(昭和17年)中旬より呉海軍工廠で空母改造に着手[28]。同年8月20日の軍艦籍編入および艦艇類別等級表への類別時に[3]、新田丸から冲鷹に改名された[6]。 新田丸級貨客船としては1番船-新田丸、2番船-八幡丸、3番船-春日丸だったが、大鷹型航空母艦としては1番艦-大鷹(春日丸)、2番艦-雲鷹(八幡丸)、3番艦-冲鷹(新田丸)となった[23][32]。 大鷹型航空母艦は小型で速力も20-22ノット程度しか発揮できず、機動部隊同士の戦闘には参加せず航空機輸送任務に従事した[33][34]。 同年11月、冲鷹は空母として竣工[22]。翌月より、ただちに航空機輸送任務に投入された[22]。最初の任務は、日本陸軍航空隊九九式双発軽爆撃機だった[35]

1943年(昭和18年)の大鷹型3隻(冲鷹、雲鷹、大鷹)は、航空機輸送任務に奔走する[36]。4月上旬には三式戦闘機を海上輸送した[37]。同年12月4日、日本本土へ帰投中の冲鷹は、八丈島沖合でアメリカ海軍潜水艦セイルフィッシュの魚雷攻撃により撃沈された[38][注釈 6]

歴史

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建造前

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冲鷹の前身である新田丸は[34]、昭和初期に好況を博していた欧州航路の老齢船を置き換える目的で[40]、またイタリアの貨客船コンテ・ヴェルデ (Conte Verde) やドイツの新型貨客船3隻(シャルンホルストグナイゼナウポツダム)に対抗しつつ1940年(昭和15年)開催予定の東京オリンピックを見込んで[41]、日本郵船が建造した豪華客船新田丸級三姉妹船の第1船である[42][43]。 新田丸級三姉妹船(新田丸、八幡丸春日丸)は、日本郵船を象徴する客船であり[44]日本郵船株式会社のイニシャルNYKに因んで、それぞれNittamaru, Yawatamaru, Kasugamaruと命名されている[45]。本船の場合は、新田義貞にちなむ新田神社に由来する[注釈 7]

新田丸は三菱重工業長崎造船所で建造され、1938年(昭和13年)5月9日起工[注釈 8]1939年(昭和14年)5月20日、進水[48]1940年(昭和15年)3月23日に竣工[49]。建造費用は優秀船舶建造助成施設による補助を受けていた[50]

建造時、新田丸級貨客船は純国産豪華貨客船と宣伝されていた[51][52]。いわゆる国策型優秀船の先駆である[注釈 9] 天洋丸浅間丸氷川丸といったそれまでの客船が西洋式の船内装飾だったのに対し、新田丸は中村順平大阪商船天津航路用だった長城丸の船内装飾を担当)、村野藤吾山下寿郎松田軍平建築家、公室や客室は三菱重工業長崎造船所の装飾設計陣、特別室は川島甚兵衞髙島屋が担当した新日本様式だった[注釈 10]

一等ラウンジは六歌仙エッチングで描き出し、それを松田権六による蒔絵で囲んでいた[注釈 11]。前部エントラス・ホールは国産の天然木材をクリアラッカーで仕上げ、アルマイト板尾長鶏が描かれていた。一等食堂のサイドボードは尾形光琳紅白梅屏風を模した蒔絵が扉となり、開けるとスクリーンが現れた。これらの装飾は航空母艦の改造時に廃棄された[54]

進水から半年も経たないうちに第二次世界大戦が勃発して欧州航路は中止され、新田丸級三姉妹船は太平洋航路に就役することになった[55][52]。 1940年(昭和15年)3月23日、竣工[56]。長崎から神戸港に移動し[46]、4月3日より神戸から横浜までの試乗航海を実施する[57]。 4月10日、久邇宮大妃梨本宮同妃閑院若宮妃賀陽宮恒憲王など皇族多数の台臨を仰いだ[46]。 5月18日、ホノルル経由でサンフランシスコへむかうべく、横浜港を出発した[58]

既述のように第二次世界大戦の影響でサンフランシスコ航路に就航したが、日米関係の悪化に伴い航路は休止される[59]1941年(昭和16年)6月の時点で、海軍側は「新田丸」の空母改造を要望していた[60]。空母改造は規定路線だったが、日米交渉使節団輸送のため改装工事着手は延期された[61]。 8月4日、日本郵船は「新田丸」と「氷川丸」の出港を中止した[62]。同月、近衛文麿内閣総理大臣や吉田善吾(海軍側首席随員)は「新田丸」に乗船、最上型巡洋艦4隻に護衛され、ハワイ諸島オアフ島真珠湾に入港する計画がたてられた[63]。近衛首相はフランクリン・ルーズベルト大統領と会談する予定だったという[64]。だが、近衛とルーズベルトの会談は実現しなかった[64]9月12日、「新田丸」は日本海軍に徴用された[29]

10月中旬以降、日米兩政府は貨客船3隻を北米航路に投入することで同意、「新田丸」はバンクーバーシアトルに寄港する予定だった[65]。だが「新田丸」のシアトル行きは中止され、「氷川丸」に置き換えられた[66]

新田丸

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太平洋戦争開戦当初、「新田丸」は運送艦として用いられた[22]1941年(昭和16年)12月中旬、ウェーク島の戦い終結後の日本軍守備隊を増強するため[67]上海海軍特別陸戦隊(長光少佐、海兵55期)をウェーク島(大鳥島)へ輸送することになった[68][69]。 「新田丸」は上海市を出発、横須賀とロンゲラップ島を経由して、1942年(昭和17年)1月12日ウェーク島に到着した[69][70]。第六十五警備部隊が新編され、ウェーク島守備部隊となった[注釈 12]

帰路の「新田丸」は、米兵捕虜約1,000-1,200名をウェーク島から本土へ輸送した[72]。この捕虜輸送任務にあたり、豊田副武呉鎮守府長官は「必要ならば武力を行使して良い」と指示していた[73]。斎藤利夫大尉以下の警戒隊は58名しかおらず、船内で幾度か小競り合いが起きた[74]。1月18日、横浜港に到着した[69]。この様子がニュース映像として残っている[75]。なお報告を受けた軍令部部員のK中佐は斎藤大尉を厳しく叱責し、船内取締規約を破ったとみなされた捕虜5名の処刑を命じた[76]。「新田丸」は米兵捕虜を上海に輸送したが、その際に捕虜5名が処刑され、遺体は米国旗に包まれて水葬に伏された[注釈 13]

その後も、「新田丸」は兵員輸送任務に投入された[79]4月18日ドーリットル空襲時には、横浜および横須賀に所在[80]。5月1日、解傭される[81]。6月9日、呉に向けて横須賀を出発した[82]

冲鷹

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1942年

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1942年(昭和17年)6月21日、「新田丸」を特設航空母艦に改造するよう、艤装工事の指令が出される[83]7月17日の時点で、空母改造工事は相当進捗していた[84]8月、日本海軍は「新田丸」を買収する[85]。一般には、8月10日より呉海軍工廠で航空母艦への改装に着手する[85][86]。 8月20日、新田丸は冲鷹(チュウヨウ)へと改名した[6][87]航空母艦に類別される[注釈 14]。 改名と共に軍艦として類別されたため[29]、本艦には先行2隻(春日丸=大鷹 、八幡丸=雲鷹)と異なり、特設航空母艦としての経歴は無い。同日付で海軍は、春日丸橿原丸艤装員長等を歴任した石井芸江(石井藝江)大佐を、冲鷹艤装員長に任命する[88]

新田丸級三隻の中で最後の改造艦となった「冲鷹」は[89]、姉妹艦の運用経験から[87]、当初より飛行甲板を10m延長した[85][90]。幅も先行2隻の23.5mから23.7mに増した[90]。対空火器も12cm単装高角砲四基から12.7cm連装高角砲四基に変更、機銃も増強されている[85][90]。一方で、日本海軍の空母用カタパルト開発失敗と低速力により、大鷹型の航空機運用能力はカタパルトを装備したアメリカ軍の軽空母護衛空母のそれと比較して限定的なものとなる[91]。結局、隼鷹型航空母艦をのぞく日本海軍の商船改造空母が最前線に投入される事はなかった。

1942年(昭和17年)11月20日、石井芸江大佐(冲鷹艤装員長)は冲鷹艦長(初代)に任命される[92]11月25日、空母改装完了[49]。同月付で横須賀鎮守府[4]。さらに連合艦隊付属となり[86][93]、航空機輸送任務に投入される事になった[85]駆逐艦山雲」(横須賀鎮守府警備駆逐艦)に護衛されて内海西部を出発[94]、11月28日横須賀港に到着した[86]

航空機輸送任務に従事する空母にとって最大の敵は、日本近海にも進出していたアメリカ軍の潜水艦だった[95]。 12月上旬、本艦は潜水母艦から空母に改造されたばかりの「龍鳳」(元大鯨)と共に、航空機輸送任務に従事する[96]。12月4日、連合艦隊は空母2隻(龍鳳、冲鷹)及び護衛の駆逐艦時津風」と駆逐艦卯月」に対し、トラック島への進出を下令した[97][98]。 輸送物件は、日本陸軍第六飛行師団(師団長板花義一陸軍中将)[99]隷下の白城子教導飛行団が保有する九九式双発軽爆撃機だった[100][注釈 15]。「冲鷹」は飛行第四十五戦隊の九九双軽23機を飛行甲板に露天繋止、戦隊長をふくむ隊員203名を乗船させた[35]。「龍鳳」は九九双軽22機と飛行団長をふくむ133名を乗船させた[102]。 ところが本艦で機関故障が発生し出港が遅れる見込みとなったため、「龍鳳」と「時津風」が先行して出発することになった[89][103]

12月11日、先行隊(龍鳳、時津風)は横須賀を出発する[104]12月12日午前10時前後、「龍鳳」は八丈島東160浬で米潜ドラムに雷撃され[105]、右舷中部に魚雷1本が命中した[106][107]。同艦は「時津風」や、横須賀から応援にかけつけた駆逐艦旗風」等に護衛され、出撃したばかりの横須賀へ引き返している[95][注釈 16]。 龍鳳隊より遅れて出港した冲鷹隊(冲鷹、卯月)は[102][111]、サイパン北西で駆逐艦朝雲」(第9駆逐隊)と駆逐艦時雨」(第27駆逐隊)と合流、12月18日トラック泊地へ到着した[112][113]。 横須賀への帰路と[114]、翌年1月2日からのトラック再進出の際も[89]、「朝雲」と「時雨」に護衛された[115]

1943年

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1943年(昭和18年)2月1日、冲鷹艦長は石井芸江大佐から加藤与四郎(加藤與四郎)大佐に交代する[86][116]。 2月7日、「冲鷹」は駆逐艦3隻に護衛されて横須賀を出港、ラバウル方面航空機輸送任務に従事する[117]12日、冲鷹隊はトラック着[86][118]。冲鷹隊はカビエン、ラバウル方面への航空機輸送任務に従事する[28]。2月20日、横須賀に戻った[86][112]。大鷹型空母3隻は、引き続き航空機輸送任務に従事した[119]

4月上旬、「大鷹」とともに陸軍第十四飛行団第六十八戦隊(三式戦闘機)のトラックへの輸送に従事した[120]。「冲鷹」と「大鷹」は4月4日に重巡洋艦鳥海」と駆逐艦4隻に護衛されて横須賀を出発する[121]。 4月8日夜、アメリカ潜水艦「タニー」が日本の空母3隻を発見した[注釈 17]。距離800mの「大鷹」に対し艦尾発射管より魚雷4本を発射したが、早爆した[122]。「大鷹」に魚雷命中と誤認した「タニー」は、今度は「冲鷹」に魚雷6本を発射するも、同じく早爆に終わった[123]。10日、トラック泊地に到着して任務を終えた[124]。 4月21日、「冲鷹」と「大鷹」は横須賀に戻った[125]

4月25日、「雲鷹」とともに横須賀を出発し、トラックへの航空機輸送に従事[125]。 5月8日、「冲鷹」と「雲鷹」や戦艦「大和」、第五戦隊(妙高羽黒)などはトラックを出発[126]。5月13日に「大和」は呉に、「冲鷹」他は横須賀に入港した[126]

5月24日から再びトラックへの航空機輸送に従事した[125]。6月5日、「冲鷹」と「雲鷹」は、駆逐艦3隻に護衛されて横須賀に帰投することになった[127][128]。 6月5日にトラックを出発し、本土へ向かう[129]。6月9日、横須賀に到着する[86][130]

6月16日、第三戦隊司令官栗田健男中将の指揮下[131]、第三戦隊(金剛榛名[132]、第七戦隊(熊野鈴谷[133]、軽巡五十鈴[134](第十四戦隊)[135]、空母3隻(龍鳳、雲鷹、冲鷹)[136]、駆逐艦部隊は横須賀を出発する[137][注釈 18]。 6月20日、暗号解読により待ち伏せていた米潜水艦スピアーフィッシュが空母(個艦不明)に対し魚雷4本を発射するが、速力を見誤っていたので命中しなかった[139][注釈 19]。6月21日、栗田部隊はトラック泊地に到着した[135][140]。便乗していた航空隊関係者は、同地で別の輸送船に移乗した[141][142]。その後、一旦内地に戻る[86][130]

「冲鷹」は7月10日に翔鶴型航空母艦などとともに内海西部を出発し、7月15日にトラックに着いた[143]。この時「冲鷹」は五五二空八〇二空関係の輸送に従事した[144]。また、「冲鷹」にはマーシャル諸島ソロモン諸島派遣予定の陸軍部隊や重火器も積載されていた[145][注釈 20]。7月15日、暗号解読や僚艦からの通報により、複数のアメリカ軍潜水艦がトラック諸島近海で小沢機動部隊を待ち伏せていた[146][147]。潜水艦「ティノサ」は距離3500mで魚雷4本を発射するが回避され[148]、小沢部隊は被害なくトラック泊地に到着した[149]。任務を終えた本艦は内地に戻る[130]

9月7日[150]、空母2隻(大鷹、冲鷹)は[151]、駆逐艦3隻に護衛されて横須賀を出発する[152]。11日、トラック泊地に到着した[153][154]。 9月21日、駆逐艦「島風」に護衛された空母2隻(冲鷹、大鷹)はトラック泊地を出発した[150][155]。 24日、艦隊は先頭より島風-冲鷹-大鷹という単縦陣を形成し、速力20ノットで航行していた[156]。悪天候の中、父島の北東200浬で、輸送艦隊は敵潜に襲撃される[157][158]。午前7時前後、暗号解読により日本艦隊を捕捉したアメリカ軍潜水艦「カブリラ」が魚雷6本を発射する[150]。「大鷹」の右舷に3本〜5本が命中したが、起爆した魚雷は艦尾への1本のみで、沈没には至らなかった[159][160]。 しかし、機関部と舵を破壊されて航行不能となった[161]。爆雷攻撃をおこなった「島風」は『敵潜撃沈』を報告しているがカブリラは沈んでおらず[162]、またカブリラも日本側の反撃と悪天候により目標を見失った[161]。「大鷹」の曳航を、「冲鷹」が担当する[注釈 21]。午後2時すぎに曳航準備を完了、姉妹艦を速力8-11ノット程で曳航し、横須賀へ向かった[164]。また応援の駆逐艦部隊とも合同し、共同で空母2隻を護衛した[165]。26日16時30分、大鷹曳航部隊は横須賀に到着した[166]。 9月27日、冲鷹艦長は加藤与四郎大佐から大倉留三郎大佐[167](前職、潜水母艦迅鯨艦長)[168]に交代する。

沈没

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1943年(昭和18年)11月上旬のろ号作戦ブーゲンビル島沖航空戦)で日本海軍の母艦航空隊は大幅に消耗し[169]、補充のため第一航空戦隊所属の小型空母瑞鳳」がトラック泊地より横須賀に帰投する[170]。11月16日、空母3隻(瑞鳳、冲鷹、雲鷹)は駆逐艦複数隻に護衛されて横須賀を出発、21日トラック泊地に到着した[注釈 22]11月30日、瑞鳳艦長服部勝二大佐指揮下の艦隊は[171][注釈 23]、空母瑞鳳(艦長服部勝二大佐、海兵44期)、空母冲鷹(艦長大倉留三郎大佐、海兵43期)、空母雲鷹(艦長関郁乎大佐、海兵43期)、重巡洋艦摩耶(艦長加藤与四郎大佐、海兵43期。前職は、冲鷹2代目艦長)[167][173]、駆逐艦部隊(第7駆逐隊[注釈 24]浦風)という戦力でトラックを出港し[174]、日本へ向かった[175][176]。 各空母にはソロモン・ニューギニアからの人員・機材が搭載されており、民間人を含む多数の便乗者も乗艦していた[177][178]。さらに駆逐艦「山雲」の攻撃で撃沈されたアメリカ軍潜水艦「スカルピン」の捕虜41名が[179]、内地の捕虜収容所へ送られるため空母に分乗していた[180]。また重巡摩耶」は11月5日のラバウル空襲で大破しており[181]、本格的な修理を行うため本土回航を命じられていた[182]

その頃、トラック港湾部長が護衛艦隊司令部に発信した暗号を解読したアメリカ軍は、複数の潜水艦に輸送船団の襲撃を命じる[183]。潜水艦「スケート」と「ガンネル」による襲撃は失敗した[184]

12月3日深夜、瑞鳳隊は八丈島東方海面(約360km)を航行していた[185]。荒天のため、各艦は互いの位置すら掴めていなかったという[186]。一方、船団を追跡していたアメリカ潜水艦「セイルフィッシュ」は、悪天候の最中にレーダーで目標を探知した[187][188]。当時の瑞鳳隊は、摩耶 - 瑞鳳 - 冲鷹 - 雲鷹の単縦陣だったという[184]。 日本側記録12月3日午後11時10分[174](アメリカ軍記録12月4日午前零時12分)、八丈島の東方海域でセイルフィッシュは4本の魚雷を発射して命中音2本を確認した[188]。これに対し「冲鷹」は北緯32度30分 東経143度40分 / 北緯32.500度 東経143.667度 / 32.500; 143.667地点で、前部に魚雷1本が命中したと発信する[注釈 25]。瑞鳳以下他艦艇は、被雷した「冲鷹」と、警戒役の駆逐艦「浦風」を残して内地へ向かった[190]。セイルフィッシュは落伍艦を追跡し、浮上すると5時50分(日本時間4時50分)に魚雷3本を発射、命中2本を記録しているが[187]、実際の命中は1本であった[191]。機関室への命中により、多数の死傷者を出す[185]。セイルフィッシュは「冲鷹」の左舷1500mを通過すると、潜航して9時40分(日本時間8時40分)に後部魚雷発射管から魚雷3本を発射[187]。2回の命中音と破壊音を確認した[191]。第三撃を受ける直前、駆逐艦「」が接近してきたという証言もある[178]。第三撃は艦橋付近に命中[192]。セイルフィッシュは爆雷攻撃により深深度潜航を余儀なくされ、目標の沈没を目撃しなかった[193]

夜明け前、「瑞鳳」は指揮下艦艇に沖鷹曳航と護衛命令を出していたが[194][189]、「冲鷹」は姉妹艦の到着を待たず、魚雷合計3本の命中により沈没[174]。随伴していた「浦風」の報告によれば北緯32度30分 東経144度0分 / 北緯32.500度 東経144.000度 / 32.500; 144.000の地点で午前8時47分に沈没した[195]。アメリカ軍によれば 北緯32度37分 東経143度39分 / 北緯32.617度 東経143.650度 / 32.617; 143.650の地点で沈没[188]。強風と波浪のため駆逐艦から内火艇や短艇を海面におろすことが出来ず、救助作業は難航した[196]。「浦風」は冲鷹副長以下約130名を救助、続いて到着した駆逐艦」が運用長以下約30名を救助した[197][注釈 26]。他の乗組員・便乗者は総員戦死[注釈 27]。冲鷹便乗中の第一航空戦隊の熟練整備員や機械工員も多数が戦死したため、海軍航空隊の整備や修理能力にも影響を与えた[200]。またスカルピンの捕虜21名も、救助されたのは1名であった[201]

12月4日、瑞鳳隊は横須賀に到着した[182]。12月9日、軍令部において瑞鳳・摩耶・雲鷹・第7駆逐隊司令、高松宮宣仁親王(海軍大佐、軍令部部員、昭和天皇弟宮)等関係者があつまり、護衛および対潜水艦に関する研究をおこなう[172]。日本海軍の潜水艦では襲撃できない悪天候下での雷撃であったことから、(一)水中聴音発射、(二)電探(レーダー)発射、(三)聴音魚雷の可能性が指摘された[202][203]

1944年(昭和19年)2月5日、大鷹型航空母艦[204]、帝国軍艦籍より除籍された[5]

年表

[編集]
  • 1938年(昭和13年)5月9日 - 貨客船新田丸として起工。
  • 1939年(昭和14年) 5月20日 - 進水。
  • 1940年(昭和15年) 3月23日 - 竣工。
  • 1941年(昭和16年)
    • 9月5日 - 新田丸級貨客船3番船春日丸、特設航空母艦春日丸として竣工、春日丸級航空母艦1番艦となる。
    • 9月12日 - 日本海軍に徴傭される。
  • 1942年(昭和17年)
    • 8月10日 - 空母への改装開始[86]
    • 8月20日 - 新田丸から冲鷹へ改名、軍艦籍に加入。
    • 11月25日 - 空母への改装完了、横須賀鎮守府籍[86]
    • 12月11日 - 龍鳳、時津風、卯月と出撃予定だったが、冲鷹の機関部故障のため出港延期[注釈 28]
    • 12月12日 - 卯月と横須賀発[86]。12月18日、トラック着[86]
    • 12月21日 - 時雨、朝雲とトラック発[86]。12月26日横須賀着[104]
  • 1943年(昭和18年)
    • 1月2日 - 朝雲および時雨と横須賀発[206]。1月8日[86]、トラック着[207]
    • 1月10日 - 村雨(第四水雷戦隊旗艦、第2駆逐隊)および浦波(第19駆逐隊)[208]とラバウル方面経由[104]。艦爆16、艦戦24を搭載。1月12日、駆逐艦秋風(第34駆逐隊)と合同し基地人員・物件を移載[209]
    • 1月13日 - カビエン北方で航空機発艦、14日トラック帰着[210]。燃料補給後横須賀回航[86]、20日着[211]
    • 2月7日 - 横須賀発、ラバウル方面輸送[104]。12日トラック着[86]
    • 2月15日 - トラック発[104]。20日横須賀着[104][119]
    • 2月28日 - 横須賀発[86]。3月5日トラック着[130]
    • 3月8日 - トラック発[86]。3月13日横須賀着[130]
    • 4月4日 - 大鷹等とともに横須賀発[130][212]。4月10日、トラック着[213]
    • 4月16日 - 大鷹・時雨・有明とトラック発[214]。21日横須賀着[130]
    • 4月25日 - 雲鷹[130]や軽巡那珂(第十四戦隊、司令官伊藤賢三少将)等と横須賀発[215]、4月30日トラック着[216]
    • 5月8日 - 雲鷹および戦艦大和等とトラック発[217]、5月13日横須賀着[130]
    • 5月24日 - 雲鷹と横須賀発[86]、5月29日トラック着[130]
    • 6月5日 - 雲鷹とトラック発[86]、6月9日横須賀着[130]
    • 6月16日 - 第三戦隊や水上機母艦日進等と横須賀発[86]。21日トラック着[140]
    • 6月28日 - 雲鷹とトラック発[86]、7月2日横須賀着[130]
    • 7月10日 - 小沢機動部隊と合流し、内地出発[86]。7月15日トラック着[130]
    • 7月19日 - トラック発[86]。7月24日横須賀着[130]
    • 9月7日 - 大鷹と横須賀発[151]、9月11日、トラック着[86]
    • 9月24日 - 大鷹・島風と横須賀回航中、米潜カブリラから雷撃されて大鷹が大破、冲鷹が大鷹を曳航し[218]、応援艦艇と共に26日横須賀着[86]
    • 10月4日 - 島風および白露[219]と横須賀発[注釈 29]、10月9日トラック着[220]
    • 10月15日 - トラック発[86]
    • 10月18日 - サイパン島北方で米潜フライングフィッシュが魚雷6本を発射、1本命中を報告するも冲鷹に被害なし[221]。20日、横須賀帰投[86]
    • 10月27日 - 横須賀出発[86]。10月31日[218]もしくは11月1日、トラック着[86]
    • 11月5日 - トラック発[86]。10日、横須賀着[86]
    • 11月16日 - 瑞鳳・雲鷹等と横須賀発[86]。11月21日トラック着[222]
    • 11月30日 - 瑞鳳・雲鷹・摩耶・浦風等とトラック発[197]
    • 12月3日 - 米潜セイルフィッシュの雷撃で大破[197]
    • 12月4日 - セイルフィッシュの再度の雷撃により沈没[86]。生存者を浦風と漣が救助[197]
  • 1944年(昭和19年)

艦長

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艤装員長
  1. 石井芸江 大佐:1942年8月20日[88] - 1942年11月20日[92]
艦長
  1. 石井芸江 大佐:1942年11月20日[92] - 1943年12月1日[116]
  2. 加藤与四郎 大佐:1943年2月1日[116] - 1943年9月27日[167]
  3. 大倉留三郎 大佐:1943年9月27日[167] - 12月4日戦死(海軍少将に進級)[199][223]

同型艦

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脚注

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注釈

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  1. ^ 1943年5月、駆逐艦より撮影、特設艦船を挟んで姉妹艦雲鷹も写っている[1]
  2. ^ #海軍造船技術概要p.275では、速力22ノット、航続距離は18ノットで8,000カイリとしている。
  3. ^ #海軍造船技術概要p.275では、速力22ノット、航続距離は18ノットで8,000カイリとしている。
  4. ^ 戦時中の史料[20]、戦後の二次資料など、一部で「沖鷹」と表記するが、海軍の法令上はニスイの「冲鷹」である[6]
  5. ^ 新田丸級貨客船はヨーロッパ航路に投入予定だったが、第二次世界大戦の勃発で太平洋航路に投入された[27]
  6. ^ この時、冲鷹に乗艦していた米潜水艦スカルピン(前月11月に沈没)の捕虜20名も戦死した[39]
  7. ^ 船名の由來 正に紀元二千六百年の船[46] 新田丸の船名は建武鴻業の柱石 新田義貞公を祀る群馬縣太田町鎭座新田神社の祀號を奉戴するものであるが、曠古の非常時局に際し國を擧げて新東亞建設に邁進するの時、海運報國の旗幟のもとに五大洋に雄飛する我が「日の丸船隊」の先驅をなす新國策船の負ふ名として蓋し相應しい船名といふべきである、漸く事多からんとする世界海運界の爭覇戰に堂々太平洋の春波を蹴つて強豪を壓せんとするわが新田丸の威容こそ、方に光輝ある「紀元二千六百年の船」である(記事おわり)
  8. ^ 新優秀船新田丸 六月に來航…… 仕上げ入念のため三ヶ月遲る[47] 日本郵船會社の歐洲航路用優秀客貨船新田丸は一九三八年五月九日長崎造船所で起工、三九年五月二十日無事進水を了し、艤装を終へ次第來る四月二十日ごろ桑港に向け處女航海の壮途にのぼるはずであつたが、物資の不足、仕上げに際し入念を期してゐるため豫定より遲れて來る六月初旬來航することになつた旨桑港郵船支店へ入電があつた。(記事おわり)
  9. ^ 造船日本 世界に誇る豪華客船 純國産新田丸竣工 陽春四月、晴れの處女航海[53](東京二十五日同盟)三菱長崎造船所で建造を急いでゐた郵船の新造客船新田丸(一万六千五百トン)はいよ〱來月二十九日竣工の運びとなつた、同船は一等客室三百および食堂に世界最初の冷房装置を施した豪華船で、速力二十二ノツト船長百八十メートル、船巾二十二メートル、竣工と共に桑港航路に就航する筈である。新田丸は事變以來日本郵船が鋭意建造に當つてゐる國策型優秀船隊の先驅をなすもので、姉妹船八幡丸、春日丸と共に船型、推進器、機關、航海用具、船客設備貨物設備等あらゆる部門に世界最優秀最高の設備を具へてをり、世界いづれかの國において既に試みられ優れた性能を有し優秀最新なりと目せられる機器、設備にして同船に備へられざるものは一つもなく、しかもそれらは前部國産品である點に異彩を放つてゐる、例えば世界でも數える位しかない須式第十四型ジヤイロコンパスも國産品であり、船舶用無線電話も國産品である、また大西洋の超豪華客船クヰン・メリー號ノルマンデー號にもない一等客室全部の冷房を斷行し世界の客船設備に一新天地を開拓してゐるのである(記事おわり)
  10. ^ 新田丸装飾説明[46]
  11. ^ 新田丸装飾説明[46]
  12. ^ 第六十五警備隊司令は川崎進大佐(海兵46期)、12月31日に新設[71]。第六根拠地隊麾下であった[70]
  13. ^ 太平洋戦争終結後、捕虜処刑命令を出したK中佐は既に戦死していたので、GHQは斎藤大尉を責任者とみなした[77]。だが斎藤が逃亡生活に入り、1952年(昭和27年)2月に逮捕令状を取り消した[78]
  14. ^ 内令第一五五四號 艦艇類別等級別表左ノ通改正ス[3] 昭和十七年八月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦二等阿賀野型ノ項中「阿賀野」ノ下ニ「、能代、矢矧」ヲ加フ 同、航空母艦ノ項中「飛鷹」ノ下ニ「、冲鷹」ヲ加フ|驅逐艦、一等初春型ノ項中「子日、」ヲ、同白露ノ項中「山風、」ヲ、同朝潮型ノ項中「、霰」ヲ削リ、同秋月型ノ項中「新月」ノ下ニ「、若月」ヲ加フ(以下略)
  15. ^ 白城子教導飛行団(飛行団長白銀重二陸軍少将)と隷下の軽爆二戦隊……飛行第四十五戦隊(戦隊長濱田龍太郎陸軍大佐)と飛行第二百八戦隊(戦隊長於田秋光陸軍大佐)である[101]
  16. ^ 龍鳳の被雷により、第四十五戦隊隊員は45名が戦死[102]、合計百余名の死傷者を出した[108]。「龍鳳」が輸送するはずだった九九双軽爆は、空母瑞鶴」(第一航空戦隊)が輸送した[109][110]
  17. ^ 空母2隻は「大鷹」と「冲鷹」だが、「タニー」は「鳥海」も空母と誤認していた[122]
  18. ^ 第27駆逐隊(時雨、有明、夕暮)、第7駆逐隊(潮、漣、曙)、陽炎型駆逐艦(雪風浜風谷風)、白露型駆逐艦涼風、秋月型駆逐艦新月、夕雲型駆逐艦清波[138]
  19. ^ 木俣滋郎『日本空母戦史』496ページの編成表では同行艦に駆逐艦江風(第24駆逐隊)を加えるが、同艦はスピアーフィッシュと交戦して損傷、トラック泊地で修理中。
  20. ^ この部隊のトラック進出時には陸軍南海第四守備隊の輸送が行われているが、『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』372ページによれば「冲鷹」はそれには従事していない。
  21. ^ ○二十四日、「大鷹」ハ父島北東ニテ敵潜水艦ノ雷撃ニヨリ舵取機械ヲヤラレ航行不能、「冲鷹」曳航(11kt)「横」ニ向フ。護衛駆逐艦ハ敵潜水艦ヲ捕捉、撃沈セルコト略確実。[163] 
  22. ^ 木俣滋郎『日本空母戦史』532ページでは同行艦を駆逐艦4隻(秋雲、曙、朧、漣)と記述するが、は1942年10月17日に沈没している。
  23. ^ 各艦艦長の姓名と海軍兵学校卒業期は、『高松宮宣仁親王日記第七巻』158ページの欄外解説より引用[172]
  24. ^ 第7駆逐隊司令は山本岩多大佐、海兵46期。『戦史叢書62巻』529ページでは、護衛の駆逐艦を第7駆逐隊(曙、朧、漣)および浦風と記述する。
  25. ^ ○「冲鷹」(三-二三三〇)2310我魚雷一本命中、前部兵員室ニ火災、32°-30′N 143′E(野島崎灯台127°240′)。/○「瑞鳳」(四-〇六四五)0500「冲鷹」再度魚雷命中、航行不能。「雲鷹」ハ救難ニ行ケ《荒天ノタメ航行困難ノ状況ニテ曳航セントシタリシテテヰル間ニ第二回攻撃サル》。[189] 
  26. ^ 漣乗組員の記録によれば、同艦は93名を救助、戦死者1名であった[198]
  27. ^ 『戦史叢書62巻』529ページでは戦死者約1250名とする[197]。一部資料では乗員533名と便乗者3000名中、生存者170名[178]。冲鷹乗組員は本倉艦長[199]以下513名戦死[200]
  28. ^ 『戦史叢書62』216ページの冲鷹輸送経過では「12月11日横須賀発、龍鳳が米潜に攻撃され分離した」と記述する[205]
  29. ^ 木俣滋郎『日本空母戦史』531ページと『戦史叢書62巻』の経過表では、冲鷹の護衛を「島風、漣」と記載する[218]

出典

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  2. ^ a b c d e f 中川努「主要艦艇艦歴表」#日本海軍全艦艇史資料篇p.7
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  4. ^ a b #内令昭和17年11月(4) p.39〔 内令第二千百七十六號 軍艦 冲鷹 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル 昭和十七年十一月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎 〕
  5. ^ a b #内令昭和19年2月(1) p.47〔 内令第三百四號 横須賀鎮守府籍 軍艦 冲鷹 右帝國軍艦籍ヨリ除カル(略)|昭和十九年二月五日 海軍大臣 嶋田繁太郎 〕
  6. ^ a b c d e f #達昭和17年8月 p.21〔 達第二百三十四號 呉海軍工廠ニ於テ艤装中ノ汽船新田丸ヲ左ノ通命名セラル 昭和十七年八月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎 軍艦 冲鷹(チュウヨウ) 〕
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  8. ^ a b 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.57
  9. ^ a b c 阿部安雄「日本海軍航空母艦・水上機母艦要目表」(#日本空母物語pp.442-443)
  10. ^ a b 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.46
  11. ^ a b c 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.35
  12. ^ #昭和造船史1pp.780-781
  13. ^ #日本航空母艦史p.64
  14. ^ #海軍造船技術概要p.1678
  15. ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.12
  16. ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.31
  17. ^ #海軍造船技術概要p.296
  18. ^ #S1712四水戦日誌(3) p.32〔 8日1245冲鷹|一.10日未明「トラック」発11市0600「カビエング」ノ15度200浬ニ於テ搭乗員ヲ移乗セシメラレ度、発艦飛行機ハ艦爆十六 機、艦戦二十四機、艦戦ハ落下傘ナシ/二.11AF宛二十粍機銃弾一万発ハ空輸其ノ他「トラック」ニ移揚(略)〕
  19. ^ 世界の艦船、日本航空母艦史 1994, pp. 84a-87大鷹型 TAIYO CLASS/冲鷹 Chuyo
  20. ^ #S1810-12経過概要 p.13〔 昭和十八年十二月經過概要|四|沖鷹再度敵Sノ雷撃ヲ受ケ沈没 〕
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  63. ^ 野村實 1988, p. 172a最後のチャンスも逃す
  64. ^ a b 野村實 1988, p. 172b.
  65. ^ Shin Sekai Asahi Shinbun 1941.10.12 新世界朝日新聞/nws_19411012(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022498400  p.3〔 いよいよ來る日本船!わが提案に米國も同意 三船次いで米國へ(中略)▲新田丸 十月二十日横濱發、ヴアンクバー及びシアトル向け 〕
  66. ^ Shin Sekai Asahi Shinbun 1941.10.15 新世界朝日新聞/nws_19411015(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022499000  p.3〔 龍田丸卅日着來月二日出帆 シアトルへは氷川丸(中略)なほバンクーバー、シアトルには新田丸が向けられる旨曩に發豹されてゐたが、これを變更して氷川丸が配船されることになつた、ホノルルへは從前通り大洋丸である(記事おわり) 〕
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  68. ^ 戦史叢書38 1970, pp. 225a-226上海特別陸戦隊の長代替のウェーク進出と第六十五警備隊の新編
  69. ^ a b c #徴傭船舶行動甲第1回続(6)p.20〔大東亜戰爭徴傭船新田丸行動概見表 横須賀地方海軍運輸部長海軍〕「年/項/月/日:一六.一二.一五|所在 發:二見|着 |配属:横須賀鎮守府|記事:軍需便二〇五七屯 人員三五七一名 輸送」/「一六.一二.一七| |呉|」/「一七.一.一二|大鳥島| |」/「一七.一.一八| |横浜」
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  74. ^ 歴群、戦争裁判 1993, pp. 148–150▼米兵捕虜処刑の「新田丸事件」
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  114. ^ #S1712四水戦日誌(1) p.13〔 …更ニAdB電令作第90号4sd電令作第1号ニ依リGF電令作第405号ニ依ル輸送任務ニ従事スル冲鷹警戒任務ノ為21日1024「トラック」発26日1250横須賀着。 〕
  115. ^ #S1712四水戦日誌(3) p.18 〔 2日1530(司令)9dg|9dg(峯雲欠)27dg(白露有明夕暮欠)冲鷹ヲ護衛「トラック」ニ向ケ横須賀発 〕
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  128. ^ #S1805四水戦日誌(1) p.55〔 27日0822(将旗)GF→27日1500(将旗)2F(将旗)7dg雲鷹大鷹冲鷹潮|GF電令作第578号 一.雲鷹冲鷹潮現任務終了後雲鷹艦長指揮ノ下ニ横須賀ニ回航スベシ/二.AdB指揮官ハd×2(萩風ヲ含ム)ヲシテ雲鷹艦長ノ指揮ヲ受ケ右部隊ノ護衛ニ任ズベシ/三.7dg(曙)ハ現任務終了後横須賀ニ回航スベシ 〕
  129. ^ #S1805四水戦日誌(2) p.83〔 5日(天候略)4dg(萩風)0425横須賀ニ向ケトラック発|4dg(萩風)AdB電令作第208号ニ依ル雲鷹冲鷹警戒任務ニ従事横須賀ニ回航ス|元GF司令長官山本元帥国葬 〕
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  156. ^ #S1709大鷹詳報(3) p.18〔 (二)我軍ノ兵力配備及行動 横須賀回航ノ途次 島風 冲鷹 本艦ノ順ニテ単縦陣ニテ之字運動A法(時隔五分)ヲ実施基準針路320度速力20節ニテ航行中ナリ 〕
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  158. ^ #S1709大鷹詳報(3) p.24〔 (三)天候及戦場ノ状況 天候曇雨量9風向北東風速10米波浪4驟雨屡々来襲シ水平線附近特ニ視界不良ナリ本艦ノ北緯28度2分東経145度59分 〕
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  160. ^ #S1709大鷹詳報(3) pp.20-21〔 0658|射点右110度400乃至500米ヨリ将ニ開進セントスル雷跡多数ヲ発見直ニ取舵一杯前進一杯ヲ令シタルモ約15秒後1本艦尾ニ命中爆発1本前部火薬庫(不爆)1本爆弾庫(頭部脱落不爆)ニ命中、2本前方1本後方通過防水ヲ令ス、高角砲機銃ヲ以テ攻撃ス、当時潜望鏡ヲ認メタル者ナシ 〕
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  210. ^ #S1712四水戦日誌(3) p.81〔 14日|一.村雨浦波冲鷹トラック入泊駆逐艦燃料補給及冲鷹揚陸残リ戦闘機1機ヲ揚陸シタル後横須賀ニ回航ス(略) 〕
  211. ^ #S1712四水戦日誌(3) p.54〔 20日0830(将旗)4sd→各長官|村雨浦波横須賀着 〕
  212. ^ #S1801二水戦日誌(4) p.34〔 大鷹艦長/一.大鷹 冲鷹 響 漣 黒潮 親潮 ヲ率ヰ4月3日「トラック」ニ向ケ横須賀発ノ予定 二.黒磯親潮ハ出撃準備完成ノ後燃料満載4月1日迄ニ横須賀ニ回航スベシ 〕
  213. ^ #S1801二水戦日誌(4) p.6〔 4月4日-同10日|親潮黒潮|冲鷹大鷹|横須賀→「トラック」 〕
  214. ^ #S1801二水戦日誌(4) p.30〔 AdB指揮官|4月14日1447対潜掃蕩隊|掃蕩隊(略)4月16日0600「トラック」発予定ノ大鷹冲鷹(護衛艦時雨有明)ノ護衛ニ協力(礁外300浬附近迄)シツツ敵銭掃討ニ任ズベシ 〕
  215. ^ 日本軽巡戦史 1989, p. 468-469.
  216. ^ 戦史叢書62 1973, p. 310第十四戦隊の内南洋部隊への進出
  217. ^ 戦史叢書62 1973, p. 328b.
  218. ^ a b c 戦史叢書62 1973, p. 385.
  219. ^ #S1806二水戦日誌(4) p.10〔 島風 横須賀ニ在リテ待機、4日冲鷹護衛横須賀発9日「トラック」着… 〕
  220. ^ #S1806二水戦日誌(4) p.77〔 九(天候略)島風白露一五三五「トラツク」着|島風冲鷹ヲ護衛「トラツク」着 〕
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  222. ^ 戦史叢書62 1973, p. 528.
  223. ^ 昭和19年3月2日〜昭和19年5月2日 呉鎮守府公報(防衛省防衛研究所)/4月 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C12070735800 〔 ◎令達 呉鎮守府日令第九三號 昭和十九年四月一日 呉鎭守府司令長官 野村直邦 四月六日一三一五大東亞戰爭戰歿者故海軍少将大倉留三郎外ニ對スル遺骨歸還式ヲ、同七日〇九〇〇合同海軍葬儀ヲ執行ス 〕

参考文献

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  • 長谷川藤一、軍艦メカニズム図鑑-日本の航空母艦、グランプリ出版、1997年
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  • 福井静夫 著「第三章 特設航空母艦」、阿部安雄・戸高一成/編集委員 編『福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 日本特設艦船物語』 第11巻、光人社、2001年4月。ISBN 4-7698-0998-0 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦』 第7巻、朝雲新聞社、1967年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 北東方面海軍作戦』 第29巻、朝雲新聞社、1969年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<1> 昭和17年5月まで』 第38巻、朝雲新聞社、1970年10月。 
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  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍航空概史』 第95巻、朝雲新聞社、1976年3月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収後』 第96巻、朝雲新聞社、1976年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 陸軍航空作戦基盤の建設運用』 第97巻、朝雲新聞社、1979年4月。 
  • 牧野茂福井静夫 編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年5月。ISBN 4-87565-205-4 
  • 雑誌『丸』編集部 編『写真日本の軍艦 第4巻 空母II』光人社、1989年10月。ISBN 4-7698-0454-7 
  • 雑誌「丸」編集部『空母機動部隊 私は非情の海空戦をこう戦った!』光人社、2010年7月。 
    • 元「冲鷹」運用長・海軍中尉阿土拓司『改造空母「沖鷹」八丈島沖合に消ゆ むかし豪華客船「新田丸」
  • モデルアート臨時増刊、艦船模型スペシャルNo.18-商船改造空母、モデルアート社、2005年
  • 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」
  • 横井俊之ほか『空母二十九隻 日本空母の興亡変遷と戦場の実相』潮書房光人社、2016年2月。ISBN 978-4-7698-1611-9 
    • 元第三艦隊参謀・海軍大佐末國正雄『装甲なき"改造空母"建造うらばな史 条約制限下の保有量を補うべく出現した改造プランの背景と実情
    • 元三十五突撃隊・海軍二等兵曹・艦艇研究家正岡勝直『鷹型ミニ空母五隻が辿った薄幸の生涯 客船改造の大鷹、雲鷹、冲鷹、神鷹、海鷹の船団護衛と潜水艦との戦い
    • 戦史研究家塚田享、戦史研究家丹羽年雄、元「海鷹」甲板士官・海軍中尉徳富敬太郎、元「大鷹」飛行長・海軍少佐五十嵐周正『悲運の護衛輸送空母たちの航跡』/『特設空母「大鷹」の思い出 五十嵐周正
    • 戦史研究家伊達久『日本海軍航空母艦戦歴一覧 伊吹および雲龍型未成艦をふくむ空母二十九隻の太平洋戦争
  • 別冊歴史読本特別増刊『戦争裁判 処刑者一千 勝者は敗者をいかに裁いたか』新人物往来社〈戦記シリーズ Vol.23〉、1993年8月。 
    • (148-158頁)ノンフィクションレポート(3)渡辺大助(福島テレビ)『「戦犯」を拒否して逃亡潜行七年 元海軍少佐を支えた妻の愛
  • 歴史群像編集部編「雨倉孝之 人物抄伝/太平洋の群像 駆逐隊司令・駆逐艦艦長列伝(1)」『水雷戦隊I 特型駆逐艦 米英を震撼させたスーパー・デストロイヤーの全貌』学習研究社〈歴史群像太平洋戦史シリーズ Vol.18〉、1998年5月。ISBN 4-05-601768--9 
    • (144-151頁)「漣」砲手の海戦秘話―吹雪型駆逐艦「漣」後部三番砲塔・右砲一番砲手が綴る海の戦いの生々しい実相と「漣」の最期。=川島俊英

関連項目

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外部リンク

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