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「ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)」の版間の差分

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|人名 = 第2代メルバーン子爵<br/>ウィリアム・ラム
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|画像説明 = メルバーン子爵(1844年)
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|サイン = William Lamb, 2nd Viscount Melbourne Signature.svg
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第2代[[メルバーン子爵]]'''ウィリアム・ラム'''(William Lamb, 2nd Viscount of Melbourne, {{Post-nominals|post-noms=[[枢密院 (イギリス)|PC]], [[王立協会|FRS]]}}、[[1779年]][[3月15日]] - [[1848年]][[11月24日]])は、[[イギリス]]の[[政治家]]、[[貴族]]。
第2代[[メルバーン子爵]]'''ウィリアム・ラム'''({{lang-en|'''William Lamb, 2nd Viscount of Melbourne'''}}, {{Post-nominals|country=GBR|PC|PCi|FRS|post-noms=}}、[[1779年]][[3月15日]] - [[1848年]][[11月24日]])は、[[イギリス]]の[[政治家]]、[[世襲貴族|貴族]]、[[弁護士]]。


[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]に所属し、[[イギリスの首相|首相]]を度にわたって務めた(第次:[[1834年]]、第次:[[1835年]]-[[1841年]])。[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]の治世から[[ヴィクトリア朝]]初期にかけて[[保守党 (イギリス)|保守党]]([[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]])党首[[ロバート・ピール]]と政権を奪い合った。
[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]退任後の[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]を指導し、ホイッグ党政権の[[イギリスの首相|首相]]を2度にわたって務めた(第1次:[[1834年]]、第2次:[[1835年]]-[[1841年]])。[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]の治世から[[ヴィクトリア朝]]初期にかけて[[保守党 (イギリス)|保守党]]([[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]])党首[[ロバート・ピール]]と政権を奪い合った。[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]即位時の首相であり、女王の寵愛を受けた。[[1842年]]に政界の第一線を退き、代わって[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)|ジョン・ラッセル卿]]がホイッグ党を指導していく


== 概要 ==
[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]即位時の首相であり、女王の寵愛を受けた。
[[1779年]]に[[メルバーン子爵]]家の次男として誕生。[[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]へ進学。さらに[[リンカーン法曹院]]で学び、[[弁護士]]となる。[[1805年]]に兄が死にメルバーン子爵家の跡取りとなる。また同年に[[キャロライン・ラム|キャロライン・ポンソンビー]]と結婚した(''→[[#生い立ち|生い立ち]]'')。

[[1806年]]に[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員に初当選。初め[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]に所属していたが、[[1816年]]から[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]へ移籍した。妻キャロラインの不倫事件で著名となる(''→[[#若手議員|若手議員]]'')。

[[1827年]]の[[ジョージ・カニング]]内閣で{{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}を務めた。[[1828年]]のカニングの死後、{{仮リンク|カニング派|en|Canningite}}と呼ばれるカニングの路線を継承する派閥に加わる。[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公爵]]内閣では他のカニング派閣僚とともに首相ウェリントン公爵の守旧的方針に反発して辞職した(''→[[#トーリー党政権の閣僚|トーリー党政権の閣僚]]'')。

その後、[[ウィリアム・ハスキソン]]指導下のカニング派に属して野党となった。[[1828年]]に爵位を継承し、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員となる。[[1830年]]のハスキソンの死後にはカニング派を継承。ホイッグ党との連携を推進し、同年11月にはウェリントン公爵内閣を倒閣した(''→[[#カニング派としての野党期|カニング派としての野党期]]'')。

代わって成立したホイッグ党政権の[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]内閣に[[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]として入閣。同内閣で行われた第一次選挙法改正をめぐっては慎重派だった(''→[[#ホイッグ党政権の閣僚|ホイッグ党政権の閣僚]]'')。

[[1834年]]7月にグレイ伯爵が首相を辞職すると代わって組閣の大命を受け、{{仮リンク|第一次メルバーン子爵内閣|en|Whig Government 1830–1834}}を組閣した。しかし国王[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]と人事案をめぐって対立を深め、同年11月に罷免された(''→[[#第一次メルバーン子爵内閣|第一次メルバーン子爵内閣]]'')。

後任の保守党政権第1次[[ロバート・ピール|ピール]]内閣を[[1835年]]4月に総辞職に追い込み、{{仮リンク|第二次メルバーン子爵内閣|en|Second Melbourne ministry}}を成立させた。改革を抑えることを条件に与党攻撃を控えるという協約を野党保守党と結んで政権運営を行った(''→[[#組閣までの経緯|組閣までの経緯]]'')。[[1837年]]6月に即位した[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]から相談役として信頼され、寵愛を受けた(''→[[#ヴィクトリア女王即位|ヴィクトリア女王即位]]'')。[[1838年]]に盛り上がった労働者運動[[チャーティズム]]運動は徹底的に弾圧した(''→[[#チャーティズム運動取り締まり|チャーティズム運動取り締まり]]'')。[[1839年]]5月には議会掌握の行き詰まりで辞表を提出したが、後任ピールの寝室女官人事を女王が拒否する事件があったため、メルバーンが続投することになった(''→[[#寝室女官事件|寝室女官事件]]'')。在任中、外務大臣[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]の主導で[[阿片戦争]]や[[第一次アフガン戦争]]を開始し、また[[ベルギー独立革命]]や第二次[[エジプト・トルコ戦争]]の仲裁を行った(''→[[#外交問題|外交問題]]'')。1841年6月の{{仮リンク|1841年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1841}}にホイッグ党が敗れた結果、総辞職した(''→[[#総辞職へ|総辞職]]'')。

首相退任の翌年[[1842年]]にホイッグ党党首の座を[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]]と[[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)|ランズダウン侯爵]]に譲った。退任後も女王と親密だったが、女王の相談役は夫[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート公子]]に転じつつあったため、宮中での影響力も低下していった。[[1848年]]に死去(''→[[#首相退任後|首相退任後]]'')。{{-}}


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== 前半生 ===
=== 生い立ち ===
[[File:Thomas Lawrence (1769-1830) - William Lamb, 2nd Viscount Melbourne - NPG 5185 - National Portrait Gallery.jpg|thumb|若い頃の肖像画([[トーマス・ローレンス (画家)|トマス・ローレンス]]画)]]
[[ロンドン]]にて、{{仮リンク|ペニストン・ラム (初代メルバーン子爵)|label=初代メルバーン子爵ペニストン・ラム|en|Peniston Lamb, 1st Viscount Melbourne}}の次男として生まれた。母は{{仮リンク|エリザベス・ラム (メルバーン子爵夫人)|label=エリザベス|en|Elizabeth Lamb, Viscountess Melbourne}}。
[[1779年]][[3月15日]]、初代[[メルバーン子爵]]{{仮リンク|ペニストン・ラム (初代メルバーン子爵)|label=ペニストン・ラム|en|Peniston Lamb, 1st Viscount Melbourne}}の次男として[[ロンドン]]に生まれた。母はその夫人{{仮リンク|エリザベス・ラム (メルバーン子爵夫人)|label=エリザベス|en|Elizabeth Lamb, Viscountess Melbourne}}。


母の浮気相手{{仮リンク|ジョージ・ウィンダム (第3代エグルモント伯爵)|label=エグルモント伯爵|en|George Wyndham, 3rd Earl of Egremont}}の子とも言われる<ref name="victorianweb">[http://www.victorianweb.org/history/pms/melbourne.html victorianweb]</ref><ref name="ストレイチイ(1953)63">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.63</ref>。ラム家は代々[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]支持の家系であった<ref name="victorianweb"/>。
母の浮気相手{{仮リンク|ジョージ・ウィンダム (第3代エグルモント伯爵)|label=エグルモント伯爵|en|George Wyndham, 3rd Earl of Egremont}}の子とも言われる<ref name="victorianweb">{{Cite web |url= http://www.victorianweb.org/history/pms/melbourne.html |title=William Lamb, the 2nd Viscount Melbourne, 1779-1848|accessdate= 2014-08-10 |work= [http://www.victorianweb.org/index.html The Victorian Web] |language= 英語 }}</ref><ref name="ストレイチイ(1953)63">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.63</ref>。ラム家は代々[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]支持の家系であった<ref name="victorianweb" />。


[[イートン校]][[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]で学ぶ。[[リンカーン法曹院]]に入学している<ref name="LM796HW">{{Venn|id=LM796HW|name=Lamb, the Hon. Henry William}}</ref>。
[[イートン校]]を経て[[グラスゴー大学]]や[[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]で学ぶ。その後、[[リンカーン法曹院]]に入学し、[[1804年]]に[[弁護士]]資格を取得した<ref name="Venn">{{Venn|id=LM796HW|name=Lamb, the Hon. Henry William}}</ref>。


ウィリアムは次男であり、メルバーン子爵位の継承者として期待されていなかったが、1805年の兄{{仮リンク|ペニストン・ラム (1770-1805)|label=ペニストン|en|Peniston Lamb (1770–1805)}}の死により跡取りとなった<ref name="victorianweb" />。同年に[[フレデリック・ポンソンビー (第3代ベスバラ伯爵)|ベスバラ伯爵]]の娘で小説家の[[キャロライン・ラム|キャロライン・ポンソンビー]]と結婚した<ref name="victorianweb" /><ref name="森(1986)558">[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)#森(1986)|森(1986)]] p.558</ref>。
1804年に[[弁護士]]資格を取得<ref name="LM796HW"/>。


=== 若手議員 ===
ウィリアムは次男であり、メルバーン子爵位の継承者として期待されていなかったが、1805年の兄の死により跡取りとなった<ref name="victorianweb"/>。同年に{{仮リンク|フレデリック・ポンソンビー (第3代ベスボロー伯爵)|label=ベスボロー伯爵|en|Frederick Ponsonby, 3rd Earl of Bessborough}}の娘で小説家の[[キャロライン・ラム|キャロライン・ポンソンビー]]と結婚した<ref name="森(1986)558">[[#森(1986)|森(1986)]] p.558</ref><ref name="victorianweb"/>。
1806年に{{仮リンク|レオミンスター選挙区|en|Leominster (UK Parliament constituency)}}から初めて[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員に当選した<ref name="Venn" />。所属政党は当初[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]だったが、[[1812年]]にはカトリック解放を支持したために落選の憂き目を見た{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=467}}。


[[1816年]]に再選された際に[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]へ移籍した<ref name="君塚(1999)87">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.87</ref>。トーリー党内の自由主義派である[[ジョージ・カニング]]の支持者になっていった{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=467}}。
1806年に[[庶民院]]議員に当選した<ref name="LM796HW"/>。
[[File:Portrait of Lady Caroline Lamb.jpg|thumb|180px|妻キャロライン]]
彼の名前が一般に知れ渡ったのは、[[1812年]]の妻キャロラインの醜聞のせいだった。キャロラインがウィリアムの友人であった詩人[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン男爵]]との[[不倫]]に走ったのである。この結果、2人は[[1825年]]に離婚した<ref name="victorianweb" /><ref name="森(1986)558" />。


一方でウィリアム自身も国王[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]の放蕩仲間であり、多くの女性と関係した<ref name="森(1986)558" />。二人の女性から離婚をめぐり訴えられたことがあるほどである<ref name="ストレイチイ(1953)67">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.67</ref>。
彼の名前が一般に知れ渡ったのは、[[1812年]]の妻キャロラインの醜聞のせいだった。キャロラインがウィリアムの友人であった詩人[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン男爵]]との[[不倫]]に走ったのである。この結果、2人は[[1825年]]に離婚した<ref name="森(1986)558">[[#森(1986)|森(1986)]] p.558</ref><ref name="victorianweb"/>。


=== トーリー党政権の閣僚 ===
一方でウィリアム自身も国王[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]の放蕩仲間であり、多くの女性と関係した<ref name="森(1986)558"/>。二人の女性から離婚訴訟で訴えられたことがあるほどである<ref name="ストレイチイ(1953)67">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.67</ref>。
1827年4月にトーリー党穏健派と[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]穏健派による連立政権[[ジョージ・カニング]]内閣が誕生すると、その{{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}([[閣外大臣]])となった<ref name="君塚(1999)87" />。


8月にカニングが急死し、[[フレデリック・ロビンソン (初代ゴドリッチ子爵)|ゴドリッチ子爵]]の短期政権を経て、[[1828年]]1月にトーリー党守旧派の[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公爵]]の内閣が発足した。この内閣にも一応残留したウィリアムだったが、彼は{{仮リンク|カニング派|en|Canningite}}と呼ばれるカニング首相の路線を支持する派閥に属していた。カニング派はカトリック問題や選挙法改正問題をめぐってウェリントン公爵と対立を深めていき、結局1828年6月には[[陸軍・植民地大臣]][[ウィリアム・ハスキソン]]、陸軍・植民地省事務長官[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]、[[外務・英連邦大臣|外相]]{{仮リンク|ジョン・ワード (初代ダドリー伯爵)|label=ダドリー伯爵|en|John Ward, 1st Earl of Dudley}}、商務相{{仮リンク|チャールズ・グラント (初代グレネルグ男爵)|label=チャールズ・グラント(後のグレネルグ男爵)|en|Charles Grant, 1st Baron Glenelg}}ら他の{{仮リンク|カニング派閣僚|en|Canningite government, 1827–1828}}とともに辞職した<ref name="君塚(2006)28">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.28</ref>。
=== 閣僚 ===
1827年4月に[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]穏健派と[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]穏健派による連立政権[[ジョージ・カニング]]内閣が誕生すると、その{{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}として入閣した。


=== カニング派としての野党期 ===
8月にカニングが急死し、[[フレデリック・ロビンソン (初代ゴドリッチ子爵)|ゴドリッチ子爵]]の短期政権を経て、[[1828年]]1月にトーリー党守旧派の[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公爵]]の内閣が発足した。この内閣にも一応残留したウィリアムだったが、彼はカニング派と呼ばれるカニング首相の路線を支持する派閥に属していた。カニング派はカトリック問題や選挙法改正問題をめぐってウェリントン公爵と対立を深めていき、結局1928年6月には[[陸軍・植民地大臣]]{{仮リンク|ウィリアム・ハスキソン|en|William Huskisson}}、陸軍・植民地省事務長官[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]、[[外務・英連邦大臣|外相]]{{仮リンク|ジョン・ワード (初代ダドリー伯爵)|label=ダドリー伯爵|en|John Ward, 1st Earl of Dudley}}、商務相{{仮リンク|チャールズ・グラント (初代グレネルグ男爵)|label=チャールズ・グラント(後のグレネルグ男爵)|en|Charles Grant, 1st Baron Glenelg}}ら他のカニング派閣僚とともに辞職した<ref name="君塚(2006)28">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.28</ref>。
下野後は、ハスキソンをリーダーとするカニング派の中の最大派閥ハスキソン派に属した。


[[1828年]]7月より父のを継いで第2代メルバーン子爵となり庶民院から[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]移った。
[[1828年]]7月22日に父の死去によりメルバーン子爵位をはじめとする爵位を継承。メルバーン子爵位は[[アイルランド貴族]]爵位だが、受け継いだ爵位の中には[[連合王国貴族]]のメルバーン男爵位もあったため、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]籍することとなった。


[[1830年]]9月にハスキソンが鉄道事故死するとパーマストン子爵とともにカニング派ハスキソン派のリーダーとなった。メルバーン卿とパーマストン卿は早速ホイッグ党の[[ヘンリー・ヴァッセル=フォックス (第3代ホランド男爵)|ホランド男爵]]とロンドンで会合し、両党の協力を確認した。野党の結束のもと、11月15日には王室費反対動議を可決させてウェリントン公爵内閣を総辞職に追い込んだ<ref>[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.58-59</ref>。
ホイッグ党嫌いの国王[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]の崩御、また野党勢力の結集などにより、[[1830年]]11月に半世紀ぶりにトーリー党政権が終わり、ホイッグ党・旧カニング派、トーリー分派の連立による[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]内閣が成立した<ref name="君塚(1999)59">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.59</ref>。メルバーン子爵はこの内閣に{{仮リンク|イギリス内務大臣|label=内務大臣|en|Home Secretary}}として入閣した。


=== ホイッグ党政権の閣僚 ===
内閣の最優先の目標は選挙法改正であった。しかしどの程度の改正を行うかは閣内でも意見の差があった。[[大法官]]{{仮リンク|ヘンリー・ブルーム (初代ブルーム=ボクス男爵)|label=ブルーム男爵|en|Henry Brougham, 1st Baron Brougham and Vaux}}や[[王璽尚書]]{{仮リンク|ジョン・ランブトン (初代ダーラム伯爵)|label=ダーラム男爵|en|John Lambton, 1st Earl of Durham}}、陸軍・植民地省事務長官[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]]は積極的な改正を希望していたが、メルバーン子爵や外相パーマストン子爵は最低限度の改正を希望していた<ref name="君塚(1999)60">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.60</ref>。
ホイッグ党嫌いの国王[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]の崩御と野党勢力の結集により、[[1830年]]11月にホイッグ党・旧カニング派、トーリー分派の連立による[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]内閣が成立した<ref name="君塚(1999)59">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.59</ref>。メルバーン子爵はこの内閣に内務大臣として入閣した。

内閣の最優先の目標は選挙法改正であった。しかしどの程度の改正を行うかは閣内でも意見の差があった。[[大法官]][[ヘンリー・ブルーム (初代ブルーム=ボクス男爵)|ブルーム男爵]]や[[王璽尚書]][[ジョン・ラムトン (初代ダラム伯爵)|ダラム男爵]]、陸軍・植民地省事務長官[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]]は積極的な改正を希望していたが、メルバーン子爵や外相パーマストン子爵は最低限度の改正を希望していた<ref name="君塚(1999)60">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.60</ref>。


しかしグレイ伯爵の指導力により内閣は分裂することなく1832年6月に第一次選挙法改正を達成した<ref name="君塚(1999)61">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.61</ref>。
しかしグレイ伯爵の指導力により内閣は分裂することなく1832年6月に第一次選挙法改正を達成した<ref name="君塚(1999)61">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.61</ref>。


=== 第一次メルバーン子爵内閣 ===
=== 第一次メルバーン子爵内閣 ===
[[File:The House of Commons, 1833 by Sir George Hayter.jpg|thumb|1833年の庶民院を描いた絵]]
1834年5月のアイルランド国教会に収められる教会税の転用問題をめぐって閣内は分裂し、転用に反対する[[陸軍・植民地大臣]][[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|スタンリー卿(後のダービー伯爵)]]らホイッグ党右派が離党したことでグレイ伯爵内閣は[[1834年]]7月に総辞職した。グレイ伯爵は国王[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]に後任の首相としてメルバーン子爵を推挙した。これは退任する首相が後任の首相を国王に推挙した初めての事例となった<ref name="君塚(1999)62">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.62</ref>。
1834年5月のアイルランド国教会に収められる教会税の転用問題をめぐって閣内は分裂し、転用に反対する[[陸軍・植民地大臣]][[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|スタンリー卿(後のダービー伯爵)]]らホイッグ党右派が離党したことでグレイ伯爵内閣は[[1834年]]7月に総辞職した。グレイ伯爵は国王[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]に後任の首相としてメルバーン子爵を推挙した。これは退任する首相が後任の首相を国王に推挙した初めての事例となった<ref name="君塚(1999)62">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.62</ref>。


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=== 第二次メルバーン子爵内閣 ===
=== 第二次メルバーン子爵内閣 ===
==== 組閣までの経緯 ====
==== 組閣までの経緯 ====
ウィリアム4世は保守党の[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公爵]]に大命を与えたが、ウェリントン公爵は保守党庶民院院内総務[[ロバート・ピール|サー・ロバート・ピール]]を推挙し、イタリア訪問中のピールが戻るまでの暫定という条件で組閣した。1834年12月に{{仮リンク|次ピール内閣|en|First Peel ministry}}が樹立された<ref name="君塚(1999)63">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.63</ref>。
ウィリアム4世は保守党の[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公爵]]に大命を与えたが、ウェリントン公爵は保守党庶民院院内総務[[ロバート・ピール|サー・ロバート・ピール]]を推挙し、イタリア訪問中のピールが戻るまでの暫定という条件で組閣した。1834年12月に[[1次ピール内閣]]が樹立された<ref name="君塚(1999)63">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.63</ref>。


ピール首相はウィリアム4世の薦めで{{仮リンク|1835年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1835}}を行い、保守党の議席を多少回復させたものの、選挙後にメルバーン子爵はホイッグ党・急進派・オコンネル(アイルランド独立)派の野党共闘関係を成立させ、アイルランド教会税問題で1835年4月にピール内閣を総辞職に追い込んだ<ref name="君塚(1999)63">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.63</ref>。
ピール首相はウィリアム4世の薦めで{{仮リンク|1835年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1835}}を行い、保守党の議席を多少回復させたものの、選挙後にメルバーン子爵はホイッグ党・急進派・オコンネル(アイルランド独立)派の野党共闘関係を成立させ、アイルランド教会税問題で1835年4月にピール内閣を総辞職に追い込んだ<ref name="君塚(1999)63">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.63</ref>。


ウィリアム4世はメルバーン子爵を嫌い、信頼するグレイ伯爵に大命を与えようとしたものの、高齢により政界引退を決意していたグレイ伯爵は大命を拝辞し、代わりにメルバーン子爵に大命を与えるよう助言した。その結果{{仮リンク|第二次メルバーン子爵内閣|en|Second Melbourne ministry}}が成立した<ref name="君塚(1999)64">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.64</ref>。
ウィリアム4世はメルバーン子爵を嫌い、信頼するグレイ伯爵に組閣の大命を与えようとしたものの、高齢により政界引退を決意していたグレイ伯爵は大命を拝辞し、代わりにメルバーン子爵に大命を与えるよう助言した。その結果{{仮リンク|第二次メルバーン子爵内閣|en|Second Melbourne ministry}}が成立した<ref name="君塚(1999)64">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.64</ref>。


保守党は、急進派やオコンネル派が求める過激な改革を行わない限りホイッグ党政権を攻撃しないことをメルバーン政権と密約で約定した<ref name="木畑(2011)89">[[#木畑(2011)|木畑・秋田(2011)]] p.89</ref>。メルバーン子爵政権はこの密約を基礎として保守党と急進派・オコンネル派の間で均衡をとりながら6年にわたって政権を担当することになった<ref name="君塚(1999)65">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.65</ref>。
保守党は、急進派やオコンネル派が求める過激な改革を行わない限りホイッグ党政権を攻撃しないことをメルバーン政権と密約で約定した<ref name="木畑(2011)89">[[#木畑(2011)|木畑・秋田(2011)]] p.89</ref>。メルバーン子爵政権はこの密約を基礎として保守党と急進派・オコンネル派の間で均衡をとりながら6年にわたって政権を担当することになった<ref name="君塚(1999)65">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.65</ref>。

{{-}}
==== ヴィクトリア女王即位 ====
==== ヴィクトリア女王即位 ====
[[File:Sully - Portrait of Queen Victoria.jpg|thumb|150px|1837年のヴィクトリア女王を描いた絵({{仮リンク|トーマス・シュリー|en|Thomas Sully}}画)]]
[[File:Dronning victoria.jpg|thumb|180px|若き女王ヴィクトリア]]
1837年[[6月20日]]深夜にウィリアム4世が崩御した。首相メルバーン子爵は同日午前9時に国王の姪で[[推定相続人|推定王位継承者]][[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]のいる[[ケンジントン宮殿]]に参内した。ヴィクトリアの引見を受け、引き続き国政を任せるとの言葉を賜った<ref name="ストレイチイ(1953)53">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.53</ref>。
1837年[[6月20日]]深夜にウィリアム4世が崩御した。首相メルバーン子爵は同日午前9時に国王の姪で[[推定相続人|推定王位継承者]][[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア王女]]のいる[[ケンジントン宮殿]]に参内した。ヴィクトリアの引見を受け、引き続き国政を任せるとの言葉を賜った<ref name="ストレイチイ(1953)53">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.53</ref>。


ヴィクトリアは成人を迎えて、母[[ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド|ケント公妃]]や母のアドバイザーであるケント公爵家家令{{仮リンク|ジョン・コンロイ|label=サー・ジョン・コンロイ|en|John Conroy}}の影響下から脱したばかりであり、自らのアドバイザーを必要としていた。その役割を果たすことになったのがメルバーン子爵だった。女王は彼に、わずか生後8ヶ月で死別した父[[エドワード・オーガスタス (ケント公)|ケント公]]の面影を見いだしていたし、彼もその頃息子を亡くしていたのだった。メルバーン子爵は[[ウィンザー城]]に私室を与えられていたため、女王は40歳年上の首相と結婚するつもりなのかと噂がたてられた。
ヴィクトリアは5月24日に18歳となり、成人を迎えて、母[[ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド|ケント公妃]]や母のアドバイザーであるケント公爵家家令[[ジョン・コンロイ (初代准男爵)|サー・ジョン・コンロイ]]の影響下から脱したばかりであり、自らのアドバイザーを必要としていた。その役割を果たすことになったのがメルバーン子爵だった。女王は彼に、わずか生後8ヶ月で死別した父[[エドワード・オーガスタス (ケント公)|ケント公]]の面影を見いだしてい、彼もその頃息子を亡くしていたのだった。メルバーン子爵は[[ウィンザー城]]に私室を与えられていたため、女王は40歳年上の首相と結婚するつもりなのかと噂がたてられた。


メルバーン子爵は一日のほとんどを宮廷ですごし、様々な問題でヴィクトリアの相談に乗り、半ばヴィクトリアの個人秘書になっていった<ref name="尾鍋(1984)54">[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.54</ref>。彼の洗練されたマナーと話術はヴィクトリアを魅了して止まなかった<ref name="森(1986)559">[[#森(1986)|森(1986)]] p.559</ref>。二人は毎日6時間は額を突き合わせて過ごしたといい<ref name="ワイントラウブ(1993)上165">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.165</ref>、君臣の関係を越えて、まるで父娘のような関係になっていった<ref name="君塚(2007)31">[[#君塚(2007)|君塚(2007)]] p.31</ref>。
メルバーン子爵は一日のほとんどを宮廷ですごし、様々な問題でヴィクトリアの相談に乗り、半ばヴィクトリアの個人秘書になっていった<ref name="尾鍋(1984)54">[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.54</ref>。彼の洗練されたマナーと話術はヴィクトリアを魅了して止まなかった<ref name="森(1986)559">[[#森(1986)|森(1986)]] p.559</ref>。二人は毎日6時間は額を突き合わせて過ごしたといい<ref name="ワイントラウブ(1993)上165">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.165</ref>、君臣の関係を越えて、まるで父娘のような関係になっていった<ref name="君塚(2007)31">[[#君塚(2007)|君塚(2007)]] p.31</ref>。


この頃の女王の日記にも毎日のように「メルバーン卿」「M卿」の名前が登場する<ref name="君塚(2007)31"/><ref>[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.71-74</ref>。ヴィクトリアがはじめて[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]に出席して議会開会宣言を行った日の日記には「彼が玉座の側に控えていてくれるだけで安心できる。」と書かれている<ref>[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.170-171</ref>。
この頃の女王の日記にも毎日のように「メルバーン卿」「M卿」の名前が登場する<ref name="君塚(2007)31" /><ref>[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.71-74</ref>。ヴィクトリアがはじめて[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]に出席して議会開会宣言を行った日の日記には「彼が玉座の側に控えていてくれるだけで安心できる。」と書かれている<ref>[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.170-171</ref>。


====チャーティズム運動取り締まり ====
====チャーティズム運動取り締まり ====
1838年には労働者運動が盛んになり、「劣等処遇の原則」{{#tag:ref|{{仮リンク|ワークハウス|label=救貧院|en|Workhouse}}に収容される貧困労働者の生活水準は、収容されていない労働者の生活水準を下回らねばならないとする原則<ref name="村岡(1991)83">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.83</ref>。|group=注釈}}を盛り込もうとする{{仮リンク|救貧法改正|en|Poor Law Amendment Act 1834}}に反対する運動と工場法改正による10時間労働の法文化を求める運動が拡大してイングランド北部を中心に[[チャーティズム]]運動が形成されるようになった<ref name="村岡(1991)84">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.84</ref>。
1838年には労働者運動が盛んになり、「劣等処遇の原則」{{#tag:ref|[[救貧院 (ワークハウス)|救貧院]]に収容される貧困労働者の生活水準は、収容されていない労働者の生活水準を下回らねばならないとする原則<ref name="村岡(1991)83">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.83</ref>。|group=注釈}}を盛り込もうとする{{仮リンク|救貧法改正|en|Poor Law Amendment Act 1834}}に反対する運動と工場法改正による10時間労働の法文化を求める運動が拡大してイングランド北部を中心に[[チャーティズム]]運動が形成されるようになった<ref name="村岡(1991)84">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.84</ref>。


1838年5月には{{仮リンク|ウィリアム・ラベット|en|William Lovett}}によって「人民憲章」{{#tag:ref|男子普通選挙、秘密投票、毎年の解散総選挙、議員の財産資格廃止、議員歳費支給、選挙区の平等の6つを掲げている<ref name="村岡(1991)105">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.105</ref>。|group=注釈}}が提唱され、チャーティズム運動の旗印となった<ref name="村岡(1991)105">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.105</ref>。チャーティズム運動は、人民憲章支持の署名を国民から集めて、1839年7月に議会に請願するという形で進展していった<ref>[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.105-106</ref>。
1838年5月には{{仮リンク|ウィリアム・ラベット|en|William Lovett}}によって「人民憲章」{{#tag:ref|男子普通選挙、秘密投票、毎年の解散総選挙、議員の財産資格廃止、議員歳費支給、選挙区の平等の6つを掲げている<ref name="村岡(1991)105">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.105</ref>。|group=注釈}}が提唱され、チャーティズム運動の旗印となった<ref name="村岡(1991)105">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.105</ref>。チャーティズム運動は、人民憲章支持の署名を国民から集めて、1839年7月に議会に請願するという形で進展していった<ref>[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.105-106</ref>。
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==== 寝室女官事件 ====
==== 寝室女官事件 ====
[[File:Robert Peel.jpg|thumb|180px|保守党の第2代[[ピール伯爵|準男爵]][[ロバート・ピール|サー・ロバート・ピール]]]]
1839年5月初めにメルバーン子爵が議会に提出した[[英領西インド諸島|英領ジャマイカ]]の奴隷制度廃止法案は[[庶民院]]を通過したものの、わずか5票差という僅差であったため、メルバーン子爵は自らの求心力の低下を悟り、5月7日にヴィクトリアに辞表を提出した<ref name="尾鍋(1984)65">[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.65</ref>。ヴィクトリアの衝撃は大きく、泣き崩れたという<ref name="ストレイチイ(1953)87">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.87</ref><ref name="ワイントラウブ(1993)上193">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.193</ref>。
{{seealso|寝室女官事件}}
1839年5月初めにメルバーン子爵が議会に提出した[[英領西インド諸島|英領ジャマイカ]]の奴隷制度廃止法案は[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]を通過したものの、わずか5票差という僅差であったため、メルバーン子爵は自らの求心力の低下を悟り、5月7日にヴィクトリアに辞表を提出した<ref name="尾鍋(1984)65">[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.65</ref>。ヴィクトリアの衝撃は大きく、泣き崩れたという<ref name="ストレイチイ(1953)87">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.87</ref><ref name="ワイントラウブ(1993)上193">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.193</ref>。


後任予定の保守党[[ロバート・ピール]]は現在ホイッグ党の国会議員の妻で占められる女王の女官を保守党の国会議員の妻に代えることを提言して、女王に拒否されたため、組閣を拝辞した。ヴィクトリアはメルバーン子爵留任、その結果メルバーン子爵が留任することになった({{仮リンク|寝室女官事件|en|Bedchamber crisis}})<ref name="尾鍋(1984)66">[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.66</ref>。
代わって組閣大命を受けた保守党庶民院院内総務[[ロバート・ピール|サー・ロバート・ピール]]準男爵現在ホイッグ党の議員の妻で占められる宮中の女官を保守党の議員の妻に代えることを提言して、女王に拒否された。これより女王とピールの間で寝室女官人事権をめて政治闘争が勃発した([[寝室女官事件]])<ref name="君塚(1999)70">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.70</ref>。


メルバーン卿は女王への書簡の中で「(女官人事は)陛下個人の事柄なので、陛下のご希望通り主張されるべき。しかしもしサー・ロバートが譲歩できぬなら、拒絶して交渉を長引かせるべきではない」と助言した<ref>[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.88-89</ref>。しかし女王もピールも一歩も引かず両者の対立が深まると、メルバーン卿はピールの強引な態度に反感を持ち、ホイッグ党幹部会にも諮ったうえで女王支持を表明した<ref>[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.70-71</ref>。
ただメルバーン子爵もこの事件が立憲主義の抵触する可能性があると理解しており、留任は複雑な気持ちであったという<ref name="ワイントラウブ(1993)上196">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.196</ref>。

結局ピールは5月12日にも組閣の大命を拝辞し、メルバーン卿が首相続投することに同意した。翌13日には保守党貴族院院内総務ウェリントン公爵もメルバーン卿の政権運営に協力することを表明した<ref>[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.71-72</ref>。

メルバーン子爵もこの事件が立憲主義に抵触する可能性があると理解しており、留任は複雑な気持ちであったという<ref name="ワイントラウブ(1993)上196">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.196</ref>。

この後もメルバーン子爵とヴィクトリア女王の親密な関係は続いたが、次第に女王の相談役は1840年に女王と結婚した[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート公子]]になっていたため、メルバーン子爵の宮廷内の影響力は徐々に小さくなっていった<ref name="君塚(1999)75" />。

ただ、メルバーン子爵も手をこまねいていた訳ではなく、自身の秘書官[[ジョージ・エドワード・アンソン|ジョージ・アンソン]]をアルバート公子の秘書官に推挙するなど、宮廷への影響力保持に努めている。メルバーン子爵の息のかかった人物を押し付けられた形になったアルバート公子は、女王に不満をこぼした{{Sfnp|君塚|2023|p=54}}。しかし、アンソンは公平な態度で公子と有力政治家との間を支え、二人は強い信頼関係を築いていった。アンソンとともに政治経験を重ねたアルバート公子はメルバーン子爵の死後、女王に最も影響力を及ぼす立場となった{{Sfnp|君塚|2023|p=55}}。


==== 外交問題 ====
==== 外交問題 ====
メルバーン子爵が首相在任中、外交問題は慌ただしかった。[[ベルギー独立革命]]をめぐる国際紛争の仲裁、第二次[[エジプト・トルコ戦争]]によって起きた国際紛争の仲裁(第二次[[東方問題]])、[[アメリカ]]との国境紛争、[[清]]に自由貿易を強要するために発動した[[アヘン戦争]]、ロシアの南下政策への対抗のために発動した[[アフガン戦争#第一次アフガン戦争|第一次アフガン戦争]]と外交紛争がたてつづけに起きた。外交問題は基本的に外相であった[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]に全幅の信頼をおいて任せていた。パーマストン子爵はメルバーン首相の妹と長年の愛人関係の末結婚しており公私共に親しい間柄であった<ref name="君塚(2006)23">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.23</ref>。
メルバーン子爵が首相在任中、外交問題は慌ただしかった。[[ベルギー独立革命]]をめぐる国際紛争の仲裁、第二次[[エジプト・トルコ戦争]]によって起きた国際紛争の仲裁(第二次[[東方問題]])、[[アメリカ]]との国境紛争、[[清]]に自由貿易を強要するために発動した[[アヘン戦争]]、ロシアの南下政策への対抗のために発動した[[第一次アフガン戦争]]と外交紛争がたてつづけに起きた。外交問題は基本的に外相であった[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]に全幅の信頼をおいて任せていた。パーマストン子爵はメルバーン首相の妹と長年の愛人関係の末結婚しており公私共に親しい間柄であった<ref name="君塚(2006)23">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.23</ref>。


しかしパーマストン外交のうち第一次アフガン戦争は散々な失敗に終わり、内閣崩壊の原因ともなった<ref name="浜渦(1999)95">[[#浜渦(1999)|浜渦(1999)]] p.95</ref>。
しかしパーマストン外交のうち第一次アフガン戦争は散々な失敗に終わり、内閣崩壊の原因ともなった<ref name="浜渦(1999)95">[[#浜渦(1999)|浜渦(1999)]] p.95</ref>。


==== 総辞職 ====
==== 総辞職 ====
1841年4月に[[穀物法]]廃止(穀物自由貿易)運動への譲歩で政権の延命を狙ったが、地主など農業利益の代弁者たちの反発を買い、1841年4月に提出した砂糖関税低減の法案は議会で否決された。内閣信任相当の法案の否決は総辞職か解散総選挙すべきであったが、メルバーン子爵はそのまま政権に居座った。これに対抗してピールは6月に内閣不信任案を提出し、1票差で可決された。これを受けてメルバーン子爵は{{仮リンク|1841年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1841}}に打って出たが、敗北した<ref name="神川(2011)100">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.100</ref>。
1841年4月に[[穀物法]]廃止(穀物自由貿易)運動への譲歩で政権の延命を狙ったが、地主など農業利益の代弁者たちの反発を買い、1841年4月に提出した砂糖関税低減の法案は議会で否決された。内閣信任相当の法案の否決は総辞職か解散総選挙すべきであったが、メルバーン子爵はそのまま政権に居座った。これに対抗してピールは6月に内閣不信任案を提出し、1票差で可決された。これを受けてメルバーン子爵は{{仮リンク|1841年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1841}}に打って出たが、敗北した<ref name="神川(2011)100">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.100</ref>。


メルバーン子爵内閣は1841年8月に内閣総辞職することとなった<ref name="神川(2011)100">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.100</ref>。保守党への政権交代を前にしたメルバーン子爵は、[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート公子]]を仲介役としてピールと交渉することに決めた。アルバート公子は[[ジョージ・エドワード・アンソン|アンソン]]秘書官を通じてピールと連絡をとり、両者は「保守党政権樹立に伴い、ホイッグ派の女王の女官は退き、ピールが推挙した女官を据えること」に合意に達した<ref name="ストレイチイ(1953)131">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.131</ref>。
メルバーン子爵内閣は1841年8月に内閣総辞職することとなった<ref name="神川(2011)100">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.100</ref>。

こうして{{仮リンク|第2次ピール内閣|en|Second_Peel_ministry|label=ピール政権}}はスムーズに発足することができた。


=== 首相退任後 ===
=== 首相退任後 ===
首相退任の翌年[[1842年]]に病に倒れたことでホイッグ党党首職とホイッグ党貴族院院内総務職からも退任した。後任となったのは[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]]と[[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)|ランズダウン侯爵]]だった<ref name="君塚(1999)75">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.75</ref>。
首相退任の翌年[[1842年]]に病に倒れたことでホイッグ党党首職とホイッグ党貴族院院内総務職からも退任した。後任となったのは[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]](庶民院)と[[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)|ランズダウン侯爵]](貴族院)だった<ref name="君塚(1999)75">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.75</ref>。


首相を退いたのちも女王との文通は続いた。文通では女王と政治の問題を議論し、退任したにもかかわらず官吏任命について意見もした<ref name="ストレイチイ(1953)132">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.132</ref>。そのため、メルバーン子爵が「[[ウィリアム・エイコート (初代ヘイツベリー男爵)|ヘイツベリー男爵]]は有能なので{{仮リンク|在オーストリア・イギリス大使|en|List_of_ambassadors_of_the_United_Kingdom_to_Austria|label=駐オーストリア大使}}とすべき」と推すと、女王は外務大臣に「有能なヘイツベリー卿をなにか重要な任務に就かせよ」と要求した<ref name="ストレイチイ(1953)132">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.132</ref>。これを知った[[クリスティアン・フリードリヒ・フォン・シュトックマー|シュトックマー男爵]](侍医、アルバート公子の顧問)は驚き、[[ジョージ・エドワード・アンソン|アンソン]]秘書官を派遣して「非立憲的である」と戒めた。行動を諫められたメルバーン子爵はアンソン秘書官に怒りを爆発させ、その後もお構いなしに女王と文通を続けた。しかしシュトックマー男爵は諦めず二度も諫言を続けると、メルバーン子爵の女王への手紙は次第に毒にも薬にもならない内容に変わっていったという<ref name="ストレイチイ(1953)133">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.133</ref>。
この後もメルバーン子爵とヴィクトリア女王の親密な関係は続いたが、この頃には女王の相談役は1840年に女王と結婚した[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート公子]]になっていたため、メルバーン子爵の宮廷内の影響力は徐々に小さくなっていった<ref name="君塚(1999)75"/>。


[[1845年]]7月にグレイ伯爵が死去するとメルバーン子爵が一番の「長老政治家」になった<ref name="君塚(1999)78">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.78</ref>。
[[1845年]]7月にグレイ伯爵が死去するとメルバーン子爵が一番の「長老政治家」になった<ref name="君塚(1999)78">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.78</ref>。


1845年末にはピール内閣が[[穀物法]]廃止をめぐって閣内分裂状態になり、総辞職の意向を表明した。ホイッグ党党首ジョン・ラッセル卿の指導力に不安を感じたヴィクトリア女王はメルバーン子爵の力を借りたがっていたが、その頃には彼の病状はだいぶ深刻化しており、ヴィクトリア女王の下へ参内することさえ困難になっていたため、政局を主導することはできなかった(またそもそもメルバーン子爵は穀物法廃止に反対だった)<ref>[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.80-82</ref>。
1845年末にはピール内閣が[[穀物法]]廃止をめぐって閣内分裂状態になり、総辞職の意向を表明した。ホイッグ党党首ジョン・ラッセル卿の指導力に不安を感じたヴィクトリア女王はメルバーン子爵の力を借りたがっていたが、その頃には彼の病状はだいぶ深刻化しており、ヴィクトリア女王の下へ参内することさえ困難になっていたため、政局を主導することはできなかった(またそもそもメルバーン子爵は穀物法廃止に反対だった)<ref>[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.80-82</ref>。


結局ピール内閣は[[1846年]]6月に穀物法を廃止できたが、保守党は分裂して総辞職を余儀なくされ、ジョン・ラッセル卿に大命降下があり、ホイッグ党が政権を奪還した<ref name="君塚(1999)83">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.83</ref>。
結局ピール内閣は[[1846年]]6月に穀物法を廃止できたが、保守党は分裂して総辞職を余儀なくされ、[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)|ジョン・ラッセル卿]]組閣の大命があり、ホイッグ党が政権を奪還した<ref name="君塚(1999)83">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.83</ref>。しかし老いたメルバーン子爵にラッセル首相からの入閣の打診はなかった<ref name="ストレイチイ(1953)153">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.153</ref>。


[[1848年]]11月に69歳で死去した<ref name="君塚(1999)78">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.78</ref>。メルバーン子爵の逝去の数日前、ヴィクトリア女王は叔父の[[ベルギー国王の一覧|ベルギー国王]][[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]に「メルバーン卿が善良で親切で愛情深い方であったことは決して忘れられません。…{{Fontsize|small|(中略)}}…あの頃がまた帰ってきてほしいとは全く望みませんけれど…」と書き送っている<ref name="ストレイチイ(1953)154">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.154</ref>。
それを見届けた後の[[1848年]]11月に69歳で死去した<ref name="君塚(1999)78">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.78</ref>。


メルバーン子爵の爵位は弟{{仮リンク|フレデリック・ラム (第3代メルバーン子爵)|label=フレデリック・ラム|en|Frederick Lamb, 3rd Viscount Melbourne}}が継承した。
一男一女がいたが共に先立たれ、メルバーン子爵の爵位は弟{{仮リンク|フレデリック・ラム (第3代メルバーン子爵)|label=フレデリック・ラム|en|Frederick Lamb, 3rd Viscount Melbourne}}が継承した。


== 人物 ==
== 人物 ==
[[File:William Lamb, 2nd Viscount Melbourne by Sir Edwin Henry Landseer.jpg|thumb|150px|メルバーン子爵の肖像画]]
[[File:William Lamb, 2nd Viscount Melbourne by Sir Edwin Henry Landseer.jpg|thumb|150px|メルバーン子爵の肖像画]]
ホイッグ党党首だが、内部分裂のために庶民院でギリギリの票しか集められない首相だった。そのため彼の政治的スタンスは保守党よりだった<ref name="ワイントラウブ(1993)上170">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.170</ref>。

宗教も進歩も信じず、何に対しても価値を認めない人だった。社会改革は最悪の事態を招くと考えており、「善行などという考えは起こさないだけマシである。そうすれば窮地に陥る事もない」<ref name="ストレイチイ(1953)65">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.65</ref><ref name="ワイントラウブ(1993)上170" />、「『悪人』というだけで毛嫌いするべきではない。その範疇に入る者はあまりに大勢いすぎる」と述べている<ref name="ワイントラウブ(1993)上170" />。

「政府の責務とは犯罪を防止し、契約を保障することに尽きる」と語っていた。メルバーン卿によれば、教育の普及など良くて無益、貧者に教育を与えるのはむしろ危険なことであった。自由貿易は欺瞞であり、民主主義などという物は馬鹿の骨頂だった。工場で労働する貧しい子供たちについては「ああ、そんなものはただそっとしておいてやればいいいのにねぇ!」で終わりだった。このように徹底した保守主義者・貴族主義者だったにもかかわらず、彼は反動ではなかった。内務大臣時代に選挙法改正を受け入れたように政権維持に必要と判断すれば平然と改革を行う狡猾な機会主義者だった<ref name="ストレイチイ(1953)65">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.65</ref>。

ヴィクトリアの宮廷では品行方正に恭しくヴィクトリアに仕えたメルバーン子爵だが<ref name="ストレイチイ(1953)68">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.68</ref>、首相の職務はかなりいい加減にやっていたという。呼び出された高官がメルバーン子爵の部屋に入るとメルバーン子爵は本などが散らばるベッドの中で寝転がっていたり、化粧室でヒゲを剃っていたりしたという。また閣議の際に居眠りすることもあった<ref name="ストレイチイ(1953)66">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.66</ref>。
ヴィクトリアの宮廷では品行方正に恭しくヴィクトリアに仕えたメルバーン子爵だが<ref name="ストレイチイ(1953)68">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.68</ref>、首相の職務はかなりいい加減にやっていたという。呼び出された高官がメルバーン子爵の部屋に入るとメルバーン子爵は本などが散らばるベッドの中で寝転がっていたり、化粧室でヒゲを剃っていたりしたという。また閣議の際に居眠りすることもあった<ref name="ストレイチイ(1953)66">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.66</ref>。

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話術が巧みだったので社交界では魅力的な人であったという<ref name="ストレイチイ(1953)63">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.63</ref>。

== 栄典 ==
=== 爵位・準男爵位 ===
[[1828年]][[7月22日]]に死去した父から以下の爵位・準男爵位を継承した<ref name="CP ES">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/melbourne1781.htm|title=Melbourne, Viscount (I, 1781 - 1853)|accessdate= 2015-12-03 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。

*'''キャヴァン県キルモアの第2代[[メルバーン子爵]]''' <small>(2nd Viscount Melbourne, of Kilmore in the County of Cavan)</small>
*:([[1781年]][[1月11日]]の[[勅許状]]による[[アイルランド貴族]]爵位)
*'''キャヴァン県における第2代メルバーン卿、キルモア男爵''' <small>(2nd Lord Melbourne, Baron of Kilmore in the County of Cavan)</small>
*:([[1770年]][[6月8日]]の勅許状によるアイルランド貴族爵位)
*'''ダービー州におけるメルバーンの第2代メルバーン男爵''' <small>(2nd Baron Melbourne, of Melbourne in the County of Derby)</small>
*:([[1815年]][[8月11日]]の勅許状による[[連合王国貴族]]爵位)
*'''(ハートフォードシャーにおけるブロケット・ホールの)第3代準男爵''' <small>(3rd Baronet "of Brocket Hall in Hertfordshire")</small>
*:([[1755年]]の勅許状によるグレートブリテン[[準男爵]]位)

=== その他 ===
*[[1827年]]、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)<ref name="Venn" />
*[[1841年]][[2月25日]]、[[王立協会フェロー]](FRS)<ref>{{Cite book|title=List of Fellows of the Royal Society 1660 – 2007|url=https://royalsociety.org/~/media/Royal_Society_Content/about-us/fellowship/Fellows1660-2007.pdf|format=PDF|publisher=[[王立協会|The Royal Society]]}}</ref>

== メルバーン子爵を演じた人物 ==
== メルバーン子爵を演じた人物 ==
=== 映画 ===
*{{仮リンク|オットー・トレスラー|de|Otto Tressler}}:[[ドイツ]]映画『[[女王さまはお若い]]』([[1936年]])<ref name="IMDb" />
*{{仮リンク|H.B.ワーナー|en|H. B. Warner}}:イギリス映画『[[:en:Victoria the Great|Victoria the Great]]』([[1937年]])<ref name="IMDb" />
*{{仮リンク|フレデリック・レスター|en|Frederick Leister}}:イギリス映画『[[:en:The Prime Minister (film)|The Prime Minister]]』([[1941年]])<ref name="IMDb" />
*{{仮リンク|カール・ルートヴィヒ・ディール|de|Karl Ludwig Diehl}}:[[オーストリア]]映画『[[女王さまはお若い]]』([[1954年]])<ref name="IMDb" />
*[[ジョン・フィンチ]]:イギリス映画『[[レディ・カロライン]]』([[1972年]])<ref name="IMDb" />
*[[ポール・ベタニー]]:イギリス映画『[[ヴィクトリア女王 世紀の愛]]』([[2009年]])<ref name="IMDb">[http://www.imdb.com/character/ch0045853/ IMDb]</ref>
*[[ポール・ベタニー]]:イギリス映画『[[ヴィクトリア女王 世紀の愛]]』([[2009年]])<ref name="IMDb">[http://www.imdb.com/character/ch0045853/ IMDb]</ref>
=== ドラマ ===
*{{仮リンク|カール・ルートヴィヒ・ディール|de|Karl Ludwig Diehl}}:[[オーストリア]]映画『[[女王さまはお若い]]』([[1954年]])<ref name="IMDb"/>
*[[ルーファス・シーウェル]]:「[[女王ヴィクトリア 愛に生きる]]」([[2016年]])
*{{仮リンク|フレデリック・レスター|en|Frederick Leister}}:イギリス映画『[[:en:The Prime Minister (film)|The Prime Minister]]』([[1941年]])<ref name="IMDb"/>
*{{仮リンク|H.B.ワーナー|en|H. B. Warner}}:イギリス映画『[[:en:Victoria the Great|Victoria the Great]]』([[1937年]])<ref name="IMDb"/>
*{{仮リンク|オットー・トレスラー|de|Otto Tressler}}:[[ドイツ]]映画『[[女王さまはお若い]]』([[1936年]])<ref name="IMDb"/>


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
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{{reflist|group=注釈|1}}
=== 出典 ===
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
<div class="references-small"><!-- references/ -->{{reflist|1}}</div>


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[尾鍋輝彦]]|date=1984年(昭和59年)|title=最高の議会人 グラッドストン|series=[[清水新書]]016|publisher=[[清水書院]]|isbn=978-4389440169|ref=尾鍋(1984)}}
*{{Cite book|和書|author=尾鍋輝彦|authorlink=尾鍋輝彦|year=1984|title=最高の議会人 グラッドストン|series=清水新書016|publisher=[[清水書院]]|isbn=978-4389440169|ref=尾鍋(1984)}}
**新版『最高の議会人 グラッドストン』清水書院〈新・人と歴史29〉、2018年。ISBN 978-4389441296。
*{{Cite book|和書|author=[[神川信彦]]|editor=[[君塚直隆]]編|date=2011年(平成23年)|title=グラッドストン 政治における使命感|publisher=[[吉田書店]]|isbn=978-4905497028|ref=神川(2011)}}
*{{Cite book|和書|editor=[[木畑洋一]]、[[秋田茂]]|date=2011年(平成23年)|title=近代イギリの歴史 16世紀から現代まで|publisher=[[ミネルヴァ房]]|isbn=978-4623059027|ref=木畑(2011)}}
*{{Cite book|和書|author=神川信彦|authorlink=神川信彦|editor=解説君塚直隆|editor-link=君塚直隆|year=2011|title=グラッドトン 政治における使命感|publisher=吉田|isbn=978-4905497028|ref=神川(2011)}}
*{{Cite book|和書|author=[[君塚直隆]]|date=1999年(平成11年)|title=イギリス二大政党制への道 後継首相決定と「長老政治家」 |publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641049697|ref=君塚(1999)}}
*{{Cite book|和書|editor1=木畑洋一|editor1-link=木畑洋一|editor2=秋田茂|editor2-link=秋田茂|year=2011|title=近代イギリスの歴史 16世紀から現代まで|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=978-4623059027|ref=木畑(2011)}}
*{{Cite book|和書|author=君塚直隆|date=2006年(平成18年)|title=パクス・ブリタニカのイギリス外交 パーマストンと会議外交時代|publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641173224|ref=君塚(2006)}}
*{{Cite book|和書|author=君塚直隆|authorlink=君塚直隆|year=1999|title=イギリス二大政党制へ道 後継首相の決定と「長老政治家」 |publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641049697|ref=君塚(1999)}}
*{{Cite book|和書|author=君塚直隆|date=2007年(平成19年)|title=ヴィア女王 大英帝国“戦う女王”|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4121019165|ref=君塚(2007)}}
*{{Cite book|和書|author=君塚直隆|authorlink=君塚直隆|year=2006|title=ス・ブタニカのイギリス外交 パーマストンと会議外交時代|publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641173224|ref=君塚(2006)}}
*{{Cite book|和書|author=[[リットン・ストレイチー|リットン・ストレイチイ]]|date=1953年(昭和28年)|title=ヴィクトリア女王|series=[[角川文庫]]601|translator=[[小川和夫]]|publisher=[[角川]]|asin=B000JB9WHM|ref=ストレイチイ(1953)}}
*{{Cite book|和書|author=君塚直隆|year=2007|title=ヴィクトリア女王 大英帝国の“戦う女王”|publisher=[[中央公論新社]][[中公新書]]|isbn=978-4121019165|ref=君塚(2007)}}
*{{Cite book|和書 |title=女王陛下の影法師 - {{fontsize|small|秘書官からみた英国政治史}} |year=2023 |publisher=[[筑摩書房]] |ref=harv |last=君塚 |first=直隆 |author-link=君塚直隆 |isbn=4480511644 |location=[[東京都]][[台東区]] |series=ちくま学芸文庫 |edition=第一刷}}
*{{Cite book|和書|author=[[浜渦哲雄]]|date=1999年(平成11年)|title=大英帝国インド総督列伝 イギリスはいかにインドを統治したか|publisher=中央公論新社|isbn=978-4120029370|ref=浜渦(1999)}}
*{{Cite book|和書|editor=[[村岡健次 (歴史学者)|村岡健次]]、[[木畑洋一]]編|date=1991年(平成3年)|title=イギス史〈3〉近現代|series=世界歴史大系|publisher=[[出版社]]|isbn=978-4634460300|ref=村岡(1991)}}
*{{Cite book|和書|author=リットン・ストレイチイ|authorlink=リットン・ストレイチー|year=1953|title=ヴィクトア女王|series=[[角川文庫]]|translator=[[小川和夫]]|publisher=[[書店]]|asin=B000JB9WHM|ref=ストレイチイ(1953)}}新版・冨山房百科文庫、1981年
*{{Cite book|和書|author=[[森護]]|date=1986年(昭和61年)|title=英国王室史話|publisher=[[大修館書店]]|isbn=978-4469240900|ref=(1986)}}
*{{Cite book|和書|author=浜渦哲雄|authorlink=浜渦哲雄|year=1999|title=インド総督列伝 イギリスはいかにインドを統治したか|publisher=中央公論新社|isbn=978-4120029370|ref=浜渦(1999)}}
*{{Cite book|和書|author1=松村赳|authorlink1=松村赳 |author2=富田虎男|authorlink2=富田虎男|year=2000|title=英米史辞典|publisher=[[研究社]]|isbn=978-4767430478|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|スタンリー・ワイントラウブ|en|Stanley Weintraub}}|date=2007年(平成19年)|title=ヴィクトリア女王〈上〉|translator=[[平岡緑]]|publisher=中央公論新社|isbn=978-4120022340|ref=ワイントラウブ(1993)上}}
*{{Cite book|和書|editor1=村岡健次|editor1-link=村岡健次 (歴史学者)|editor2=木畑洋一|editor2-link=木畑洋一|year=1991|title=イギリス史〈3〉近現代|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634460300|ref=村岡(1991)}}
*{{Cite book|和書|author=森護|authorlink=森護|year=1986|title=英国王室史話|publisher=[[大修館書店]]|isbn=978-4469240900|ref=森(1986)}}
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|スタンリー・ワイントラウブ|en|Stanley Weintraub}}|year=1993|title=ヴィクトリア女王〈上〉|translator=平岡緑|publisher=[[中央公論新社|中央公論社]]|isbn=978-4120022340|ref=ワイントラウブ(1993)上}}新版・[[中公文庫]](全3巻)、2006年


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{Commonscat|William Lamb, 2nd Viscount Melbourne}}
{{Commonscat|William Lamb, 2nd Viscount Melbourne}}
*[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)]]
*[[イギリスの首相の一覧]]
*[[ホイッグ党 (イギリス)]]
*[[メルバーン子爵]]
*[[ヴィクトリア (イギリス女王)]]
*[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]
*[[ロバート・ピール]]
*[[ロバート・ピール]]
*[[メルボルン]](メルバーン子爵にんで名づけられた[[オーストラリア]]の都市)
*[[メルボルン]](メルバーン子爵にちなんで名づけられた[[オーストラリア]]の都市)

== 外部リンク ==
* {{Kotobank|メルバーン}}


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{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[イギリスの首相|首相]]| years = [[1835年]]-[[1841年]]| before =[[ロバート・ピール|サー・ロバート・ピール准男爵]]| after = [[ロバート・ピール|サー・ロバート・ピール准男爵]]}}
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{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|貴族院院内総務|en|Leader of the House of Lords}}| years = [[1834年]]| before = [[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|第2代グレイ伯爵]]| after = [[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|初代ウェリントン公爵]]}}
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2024年11月23日 (土) 00:04時点における最新版

第2代メルバーン子爵
ウィリアム・ラム
William Lamb
2nd Viscount of Melbourne
メルバーン子爵(1844年)
生年月日 1779年3月15日
出生地 グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国 ロンドン
没年月日 (1848-11-24) 1848年11月24日(69歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリス ハートフォードシャー
出身校 ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ
前職 弁護士
所属政党 ホイッグ党トーリー党カニング派英語版→ホイッグ党
称号 第2代メルバーン子爵枢密顧問官(PC)、王立協会フェロー(FRS)
配偶者 キャロライン
親族 初代メルバーン子爵英語版(父)
第4代ベスバラ伯爵(義兄)
第3代パーマストン子爵(義弟)
サイン

在任期間 1834年7月16日 - 1834年11月14日
1835年4月18日 - 1841年8月30日
王/女王 ウィリアム4世
ウィリアム4世、ヴィクトリア

内閣 グレイ伯爵内閣
在任期間 1830年11月22日 - 1834年7月16日

内閣 カニング内閣、ゴドリッチ子爵内閣、ウェリントン公爵内閣
在任期間 1827年4月29日 - 1828年6月21日

イギリスの旗 貴族院議員
在任期間 1828年7月22日 - 1848年11月24日[1]

イギリスの旗 庶民院議員
選挙区 レオミンスター選挙区英語版
ハーディントン・バー選挙区英語版
ポーターリントン選挙区英語版
ピーターバラ選挙区英語版
ハートフォードシャー選挙区英語版
ニューポート選挙区英語版
ブレッチングリー選挙区英語版[1]
在任期間 1806年1月31日 - 1806年11月1日
1806年11月24日 - 1807年5月30日
1807年5月23日 - 1812年10月24日
1816年4月16日 - 1819年11月30日
1819年11月29日 - 1826年6月16日
1827年4月24日 - 1827年5月25日
1827年5月7日 - 1828年7月23日[1]
テンプレートを表示

第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラム英語: William Lamb, 2nd Viscount of Melbourne, PC PC (Ire) FRS1779年3月15日 - 1848年11月24日)は、イギリス政治家貴族弁護士

グレイ伯爵退任後のホイッグ党を指導し、ホイッグ党政権の首相を2度にわたって務めた(第1次:1834年、第2次:1835年-1841年)。ウィリアム4世の治世からヴィクトリア朝初期にかけて保守党トーリー党)党首ロバート・ピールと政権を奪い合った。ヴィクトリア女王即位時の首相であり、女王の寵愛を受けた。1842年に政界の第一線を退き、代わってジョン・ラッセル卿がホイッグ党を指導していく。

概要

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1779年メルバーン子爵家の次男として誕生。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへ進学。さらにリンカーン法曹院で学び、弁護士となる。1805年に兄が死にメルバーン子爵家の跡取りとなる。また同年にキャロライン・ポンソンビーと結婚した(生い立ち)。

1806年庶民院議員に初当選。初めホイッグ党に所属していたが、1816年からトーリー党へ移籍した。妻キャロラインの不倫事件で著名となる(若手議員)。

1827年ジョージ・カニング内閣でアイルランド担当大臣英語版を務めた。1828年のカニングの死後、カニング派英語版と呼ばれるカニングの路線を継承する派閥に加わる。ウェリントン公爵内閣では他のカニング派閣僚とともに首相ウェリントン公爵の守旧的方針に反発して辞職した(トーリー党政権の閣僚)。

その後、ウィリアム・ハスキソン指導下のカニング派に属して野党となった。1828年に爵位を継承し、貴族院議員となる。1830年のハスキソンの死後にはカニング派を継承。ホイッグ党との連携を推進し、同年11月にはウェリントン公爵内閣を倒閣した(カニング派としての野党期)。

代わって成立したホイッグ党政権のグレイ伯爵内閣に内務大臣として入閣。同内閣で行われた第一次選挙法改正をめぐっては慎重派だった(ホイッグ党政権の閣僚)。

1834年7月にグレイ伯爵が首相を辞職すると代わって組閣の大命を受け、第一次メルバーン子爵内閣英語版を組閣した。しかし国王ウィリアム4世と人事案をめぐって対立を深め、同年11月に罷免された(第一次メルバーン子爵内閣)。

後任の保守党政権第1次ピール内閣を1835年4月に総辞職に追い込み、第二次メルバーン子爵内閣英語版を成立させた。改革を抑えることを条件に与党攻撃を控えるという協約を野党保守党と結んで政権運営を行った(組閣までの経緯)。1837年6月に即位したヴィクトリア女王から相談役として信頼され、寵愛を受けた(ヴィクトリア女王即位)。1838年に盛り上がった労働者運動チャーティズム運動は徹底的に弾圧した(チャーティズム運動取り締まり)。1839年5月には議会掌握の行き詰まりで辞表を提出したが、後任ピールの寝室女官人事を女王が拒否する事件があったため、メルバーンが続投することになった(寝室女官事件)。在任中、外務大臣パーマストン子爵の主導で阿片戦争第一次アフガン戦争を開始し、またベルギー独立革命や第二次エジプト・トルコ戦争の仲裁を行った(外交問題)。1841年6月の解散総選挙英語版にホイッグ党が敗れた結果、総辞職した(総辞職)。

首相退任の翌年1842年にホイッグ党党首の座をジョン・ラッセル卿ランズダウン侯爵に譲った。退任後も女王と親密だったが、女王の相談役は夫アルバート公子に転じつつあったため、宮中での影響力も低下していった。1848年に死去(首相退任後)。

経歴

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生い立ち

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若い頃の肖像画(トマス・ローレンス画)

1779年3月15日、初代メルバーン子爵ペニストン・ラム英語版の次男としてロンドンに生まれた。母はその夫人エリザベス英語版

母の浮気相手エグルモント伯爵英語版の子とも言われる[2][3]。ラム家は代々ホイッグ党支持の家系であった[2]

イートン校を経てグラスゴー大学ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学ぶ。その後、リンカーン法曹院に入学し、1804年弁護士資格を取得した[4]

ウィリアムは次男であり、メルバーン子爵位の継承者として期待されていなかったが、1805年の兄ペニストン英語版の死により跡取りとなった[2]。同年にベスバラ伯爵の娘で小説家のキャロライン・ポンソンビーと結婚した[2][5]

若手議員

[編集]

1806年にレオミンスター選挙区英語版から初めて庶民院議員に当選した[4]。所属政党は当初ホイッグ党だったが、1812年にはカトリック解放を支持したために落選の憂き目を見た[6]

1816年に再選された際にトーリー党へ移籍した[7]。トーリー党内の自由主義派であるジョージ・カニングの支持者になっていった[6]

妻キャロライン

彼の名前が一般に知れ渡ったのは、1812年の妻キャロラインの醜聞のせいだった。キャロラインがウィリアムの友人であった詩人バイロン男爵との不倫に走ったのである。この結果、2人は1825年に離婚した[2][5]

一方でウィリアム自身も国王ジョージ4世の放蕩仲間であり、多くの女性と関係した[5]。二人の女性から離婚をめぐり訴えられたことがあるほどである[8]

トーリー党政権の閣僚

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1827年4月にトーリー党穏健派とホイッグ党穏健派による連立政権ジョージ・カニング内閣が誕生すると、そのアイルランド担当大臣英語版閣外大臣)となった[7]

8月にカニングが急死し、ゴドリッチ子爵の短期政権を経て、1828年1月にトーリー党守旧派のウェリントン公爵の内閣が発足した。この内閣にも一応残留したウィリアムだったが、彼はカニング派英語版と呼ばれるカニング首相の路線を支持する派閥に属していた。カニング派はカトリック問題や選挙法改正問題をめぐってウェリントン公爵と対立を深めていき、結局1828年6月には陸軍・植民地大臣ウィリアム・ハスキソン、陸軍・植民地省事務長官パーマストン子爵外相ダドリー伯爵英語版、商務相チャールズ・グラント(後のグレネルグ男爵)英語版ら他のカニング派閣僚英語版とともに辞職した[9]

カニング派としての野党期

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下野後は、ハスキソンをリーダーとするカニング派の中の最大派閥ハスキソン派に属した。

1828年7月22日に父の死去によりメルバーン子爵位をはじめとする爵位を継承。メルバーン子爵位はアイルランド貴族爵位だが、受け継いだ爵位の中には連合王国貴族のメルバーン男爵位もあったため、貴族院へ移籍することとなった。

1830年9月にハスキソンが鉄道事故死するとパーマストン子爵とともにカニング派ハスキソン派のリーダーとなった。メルバーン卿とパーマストン卿は早速ホイッグ党のホランド男爵とロンドンで会合し、両党の協力を確認した。野党の結束のもと、11月15日には王室費反対動議を可決させてウェリントン公爵内閣を総辞職に追い込んだ[10]

ホイッグ党政権の閣僚

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ホイッグ党嫌いの国王ジョージ4世の崩御と野党勢力の結集により、1830年11月にホイッグ党・旧カニング派、トーリー分派の連立によるグレイ伯爵内閣が成立した[11]。メルバーン子爵はこの内閣に内務大臣として入閣した。

内閣の最優先の目標は選挙法改正であった。しかしどの程度の改正を行うかは閣内でも意見の差があった。大法官ブルーム男爵王璽尚書ダラム男爵、陸軍・植民地省事務長官ジョン・ラッセル卿は積極的な改正を希望していたが、メルバーン子爵や外相パーマストン子爵は最低限度の改正を希望していた[12]

しかしグレイ伯爵の指導力により内閣は分裂することなく1832年6月に第一次選挙法改正を達成した[13]

第一次メルバーン子爵内閣

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1833年の庶民院を描いた絵

1834年5月のアイルランド国教会に収められる教会税の転用問題をめぐって閣内は分裂し、転用に反対する陸軍・植民地大臣スタンリー卿(後のダービー伯爵)らホイッグ党右派が離党したことでグレイ伯爵内閣は1834年7月に総辞職した。グレイ伯爵は国王ウィリアム4世に後任の首相としてメルバーン子爵を推挙した。これは退任する首相が後任の首相を国王に推挙した初めての事例となった[14]

しかしホイッグ左派のジョン・ラッセル卿を庶民院院内総務にすることに反対した国王ウィリアム4世とメルバーン子爵の対立が深まり、国王は1834年11月14日にはメルバーン子爵を罷免したため、この第一次メルバーン子爵内閣英語版は短命政権に終わった[15]

もっともメルバーン子爵にとって罷免は計算のうちであったという。というのも少数党の保守党(トーリー党)政権をわざと誕生させることでその無能さを晒し、すぐに政権復帰して政権の安定化を図ることができると考えられたからである[16]

第二次メルバーン子爵内閣

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組閣までの経緯

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ウィリアム4世は保守党のウェリントン公爵に大命を与えたが、ウェリントン公爵は保守党庶民院院内総務サー・ロバート・ピールを推挙し、イタリア訪問中のピールが戻るまでの暫定という条件で組閣した。1834年12月に第1次ピール内閣が樹立された[15]

ピール首相はウィリアム4世の薦めで解散総選挙英語版を行い、保守党の議席を多少回復させたものの、選挙後にメルバーン子爵はホイッグ党・急進派・オコンネル(アイルランド独立)派の野党共闘関係を成立させ、アイルランド教会税問題で1835年4月にピール内閣を総辞職に追い込んだ[15]

ウィリアム4世はメルバーン子爵を嫌い、信頼するグレイ伯爵に組閣の大命を与えようとしたものの、高齢により政界引退を決意していたグレイ伯爵は大命を拝辞し、代わりにメルバーン子爵に大命を与えるよう助言した。その結果第二次メルバーン子爵内閣英語版が成立した[17]

保守党は、急進派やオコンネル派が求める過激な改革を行わない限りホイッグ党政権を攻撃しないことをメルバーン政権と密約で約定した[18]。メルバーン子爵政権はこの密約を基礎として保守党と急進派・オコンネル派の間で均衡をとりながら6年にわたって政権を担当することになった[19]

ヴィクトリア女王即位

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若き女王ヴィクトリア

1837年6月20日深夜にウィリアム4世が崩御した。首相メルバーン子爵は同日午前9時に国王の姪で推定王位継承者ヴィクトリア王女のいるケンジントン宮殿に参内した。ヴィクトリアの引見を受け、引き続き国政を任せるとの言葉を賜った[20]

ヴィクトリアは5月24日に18歳となり、成人を迎えて、母ケント公妃や母のアドバイザーであるケント公爵家家令サー・ジョン・コンロイの影響下から脱したばかりであり、自らのアドバイザーを必要としていた。その役割を果たすことになったのがメルバーン子爵だった。女王は彼に、わずか生後8ヶ月で死別した父ケント公の面影を見いだして慕い、彼もその頃息子を亡くしていたのだった。メルバーン子爵はウィンザー城に私室を与えられていたため、女王は40歳年上の首相と結婚するつもりなのかと噂がたてられた。

メルバーン子爵は一日のほとんどを宮廷ですごし、様々な問題でヴィクトリアの相談に乗り、半ばヴィクトリアの個人秘書になっていった[21]。彼の洗練されたマナーと話術はヴィクトリアを魅了して止まなかった[22]。二人は毎日6時間は額を突き合わせて過ごしたといい[23]、君臣の関係を越えて、まるで父娘のような関係になっていった[24]

この頃の女王の日記にも毎日のように「メルバーン卿」「M卿」の名前が登場する[24][25]。ヴィクトリアがはじめて貴族院に出席して議会開会宣言を行った日の日記には「彼が玉座の側に控えていてくれるだけで安心できる。」と書かれている[26]

チャーティズム運動取り締まり

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1838年には労働者運動が盛んになり、「劣等処遇の原則」[注釈 1]を盛り込もうとする救貧法改正英語版に反対する運動と工場法改正による10時間労働の法文化を求める運動が拡大してイングランド北部を中心にチャーティズム運動が形成されるようになった[28]

1838年5月にはウィリアム・ラベット英語版によって「人民憲章」[注釈 2]が提唱され、チャーティズム運動の旗印となった[29]。チャーティズム運動は、人民憲章支持の署名を国民から集めて、1839年7月に議会に請願するという形で進展していった[30]

ところが急進派も含めて議会のほぼ全議員がこの請願を拒否した。メルバーン子爵も政治改革はあくまで議会内で行われるべきと考えており、こうした議会外からの圧力運動には抑圧の姿勢で臨んだ[31]。メルバーン子爵は1839年から1840年にかけて500人のチャーティズム運動指導者を逮捕させている[32]

寝室女官事件

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保守党の第2代準男爵サー・ロバート・ピール

1839年5月初めにメルバーン子爵が議会に提出した英領ジャマイカの奴隷制度廃止法案は庶民院を通過したものの、わずか5票差という僅差であったため、メルバーン子爵は自らの求心力の低下を悟り、5月7日にヴィクトリアに辞表を提出した[33]。ヴィクトリアの衝撃は大きく、泣き崩れたという[34][35]

代わって組閣の大命を受けた保守党庶民院院内総務サー・ロバート・ピール準男爵は、現在ホイッグ党の議員の妻で占められる宮中の女官を保守党の議員の妻に代えることを提言して、女王に拒否された。これにより女王とピールの間で寝室女官人事権をめぐって政治闘争が勃発した(寝室女官事件[36]

メルバーン卿は女王への書簡の中で「(女官人事は)陛下個人の事柄なので、陛下のご希望通り主張されるべき。しかしもしサー・ロバートが譲歩できぬなら、拒絶して交渉を長引かせるべきではない」と助言した[37]。しかし女王もピールも一歩も引かず両者の対立が深まると、メルバーン卿はピールの強引な態度に反感を持ち、ホイッグ党幹部会にも諮ったうえで女王支持を表明した[38]

結局ピールは5月12日にも組閣の大命を拝辞し、メルバーン卿が首相続投することに同意した。翌13日には保守党貴族院院内総務ウェリントン公爵もメルバーン卿の政権運営に協力することを表明した[39]

メルバーン子爵もこの事件が立憲主義に抵触する可能性があると理解しており、留任は複雑な気持ちであったという[40]

この後もメルバーン子爵とヴィクトリア女王の親密な関係は続いたが、次第に女王の相談役は1840年に女王と結婚したアルバート公子になっていたため、メルバーン子爵の宮廷内の影響力は徐々に小さくなっていった[41]

ただ、メルバーン子爵も手をこまねいていた訳ではなく、自身の秘書官ジョージ・アンソンをアルバート公子の秘書官に推挙するなど、宮廷への影響力保持に努めている。メルバーン子爵の息のかかった人物を押し付けられた形になったアルバート公子は、女王に不満をこぼした[42]。しかし、アンソンは公平な態度で公子と有力政治家との間を支え、二人は強い信頼関係を築いていった。アンソンとともに政治経験を重ねたアルバート公子はメルバーン子爵の死後、女王に最も影響力を及ぼす立場となった[43]

外交問題

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メルバーン子爵が首相在任中、外交問題は慌ただしかった。ベルギー独立革命をめぐる国際紛争の仲裁、第二次エジプト・トルコ戦争によって起きた国際紛争の仲裁(第二次東方問題)、アメリカとの国境紛争、に自由貿易を強要するために発動したアヘン戦争、ロシアの南下政策への対抗のために発動した第一次アフガン戦争と外交紛争がたてつづけに起きた。外交問題は基本的に外相であったパーマストン子爵に全幅の信頼をおいて任せていた。パーマストン子爵はメルバーン首相の妹と長年の愛人関係の末結婚しており公私共に親しい間柄であった[44]

しかしパーマストン外交のうち第一次アフガン戦争は散々な失敗に終わり、内閣崩壊の原因ともなった[45]

総辞職へ

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1841年4月に穀物法廃止(穀物自由貿易)運動への譲歩で政権の延命を狙ったが、地主など農業利益の代弁者たちの反発を買い、1841年4月に提出した砂糖関税低減の法案は議会で否決された。内閣信任相当の法案の否決は総辞職か解散総選挙すべきであったが、メルバーン子爵はそのまま政権に居座った。これに対抗してピールは6月に内閣不信任案を提出し、1票差で可決された。これを受けてメルバーン子爵は解散総選挙英語版に打って出たが、敗北した[46]

メルバーン子爵内閣は1841年8月に内閣総辞職することとなった[46]。保守党への政権交代を前にしたメルバーン子爵は、アルバート公子を仲介役としてピールと交渉することに決めた。アルバート公子はアンソン秘書官を通じてピールと連絡をとり、両者は「保守党政権樹立に伴い、ホイッグ派の女王の女官は退き、ピールが推挙した女官を据えること」に合意に達した[47]

こうしてピール政権英語版はスムーズに発足することができた。

首相退任後

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首相退任の翌年1842年に病に倒れたことでホイッグ党党首職とホイッグ党貴族院院内総務職からも退任した。後任となったのはジョン・ラッセル卿(庶民院)とランズダウン侯爵(貴族院)だった[41]

首相を退いたのちも女王との文通は続いた。文通では女王と政治の問題を議論し、退任したにもかかわらず官吏任命について意見もした[48]。そのため、メルバーン子爵が「ヘイツベリー男爵は有能なので駐オーストリア大使英語版とすべき」と推すと、女王は外務大臣に「有能なヘイツベリー卿をなにか重要な任務に就かせよ」と要求した[48]。これを知ったシュトックマー男爵(侍医、アルバート公子の顧問)は驚き、アンソン秘書官を派遣して「非立憲的である」と戒めた。行動を諫められたメルバーン子爵はアンソン秘書官に怒りを爆発させ、その後もお構いなしに女王と文通を続けた。しかしシュトックマー男爵は諦めず二度も諫言を続けると、メルバーン子爵の女王への手紙は次第に毒にも薬にもならない内容に変わっていったという[49]

1845年7月にグレイ伯爵が死去するとメルバーン子爵が一番の「長老政治家」になった[50]

1845年末にはピール内閣が穀物法廃止をめぐって閣内分裂状態になり、総辞職の意向を表明した。ホイッグ党党首ジョン・ラッセル卿の指導力に不安を感じたヴィクトリア女王はメルバーン子爵の力を借りたがっていたが、その頃には彼の病状はだいぶ深刻化しており、ヴィクトリア女王の下へ参内することさえ困難になっていたため、政局を主導することはできなかった(またそもそもメルバーン子爵は穀物法廃止に反対だった)[51]

結局ピール内閣は1846年6月に穀物法を廃止できたが、保守党は分裂して総辞職を余儀なくされ、ジョン・ラッセル卿に組閣の大命があり、ホイッグ党が政権を奪還した[52]。しかし老いたメルバーン子爵にラッセル首相からの入閣の打診はなかった[53]

1848年11月に69歳で死去した[50]。メルバーン子爵の逝去の数日前、ヴィクトリア女王は叔父のベルギー国王レオポルド1世に「メルバーン卿が善良で親切で愛情深い方であったことは決して忘れられません。…(中略)…あの頃がまた帰ってきてほしいとは全く望みませんけれど…」と書き送っている[54]

一男一女がいたが共に先立たれ、メルバーン子爵の爵位は弟フレデリック・ラム英語版が継承した。

人物

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メルバーン子爵の肖像画

ホイッグ党党首だが、内部分裂のために庶民院でギリギリの票しか集められない首相だった。そのため彼の政治的スタンスは保守党よりだった[55]

宗教も進歩も信じず、何に対しても価値を認めない人だった。社会改革は最悪の事態を招くと考えており、「善行などという考えは起こさないだけマシである。そうすれば窮地に陥る事もない」[56][55]、「『悪人』というだけで毛嫌いするべきではない。その範疇に入る者はあまりに大勢いすぎる」と述べている[55]

「政府の責務とは犯罪を防止し、契約を保障することに尽きる」と語っていた。メルバーン卿によれば、教育の普及など良くて無益、貧者に教育を与えるのはむしろ危険なことであった。自由貿易は欺瞞であり、民主主義などという物は馬鹿の骨頂だった。工場で労働する貧しい子供たちについては「ああ、そんなものはただそっとしておいてやればいいいのにねぇ!」で終わりだった。このように徹底した保守主義者・貴族主義者だったにもかかわらず、彼は反動ではなかった。内務大臣時代に選挙法改正を受け入れたように政権維持に必要と判断すれば平然と改革を行う狡猾な機会主義者だった[56]

ヴィクトリアの宮廷では品行方正に恭しくヴィクトリアに仕えたメルバーン子爵だが[57]、首相の職務はかなりいい加減にやっていたという。呼び出された高官がメルバーン子爵の部屋に入るとメルバーン子爵は本などが散らばるベッドの中で寝転がっていたり、化粧室でヒゲを剃っていたりしたという。また閣議の際に居眠りすることもあった[58]

話術が巧みだったので社交界では魅力的な人であったという[3]

栄典

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爵位・準男爵位

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1828年7月22日に死去した父から以下の爵位・準男爵位を継承した[59]

  • キャヴァン県キルモアの第2代メルバーン子爵 (2nd Viscount Melbourne, of Kilmore in the County of Cavan)
    (1781年1月11日勅許状によるアイルランド貴族爵位)
  • キャヴァン県における第2代メルバーン卿、キルモア男爵 (2nd Lord Melbourne, Baron of Kilmore in the County of Cavan)
    (1770年6月8日の勅許状によるアイルランド貴族爵位)
  • ダービー州におけるメルバーンの第2代メルバーン男爵 (2nd Baron Melbourne, of Melbourne in the County of Derby)
    (1815年8月11日の勅許状による連合王国貴族爵位)
  • (ハートフォードシャーにおけるブロケット・ホールの)第3代準男爵 (3rd Baronet "of Brocket Hall in Hertfordshire")
    (1755年の勅許状によるグレートブリテン準男爵位)

その他

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メルバーン子爵を演じた人物

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映画

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ドラマ

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脚注

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注釈

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  1. ^ 救貧院に収容される貧困労働者の生活水準は、収容されていない労働者の生活水準を下回らねばならないとする原則[27]
  2. ^ 男子普通選挙、秘密投票、毎年の解散総選挙、議員の財産資格廃止、議員歳費支給、選挙区の平等の6つを掲げている[29]

出典

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  1. ^ a b c UK Parliament. “Mr William Lamb” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年8月10日閲覧。
  2. ^ a b c d e William Lamb, the 2nd Viscount Melbourne, 1779-1848” (英語). The Victorian Web. 2014年8月10日閲覧。
  3. ^ a b ストレイチイ(1953) p.63
  4. ^ a b c "Lamb, the Hon. Henry William (LM796HW)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
  5. ^ a b c 森(1986) p.558
  6. ^ a b 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 467.
  7. ^ a b 君塚(1999) p.87
  8. ^ ストレイチイ(1953) p.67
  9. ^ 君塚(2006) p.28
  10. ^ 君塚(1999) p.58-59
  11. ^ 君塚(1999) p.59
  12. ^ 君塚(1999) p.60
  13. ^ 君塚(1999) p.61
  14. ^ 君塚(1999) p.62
  15. ^ a b c 君塚(1999) p.63
  16. ^ 神川(2011) p.71
  17. ^ 君塚(1999) p.64
  18. ^ 木畑・秋田(2011) p.89
  19. ^ 君塚(1999) p.65
  20. ^ ストレイチイ(1953) p.53
  21. ^ 尾鍋(1984) p.54
  22. ^ 森(1986) p.559
  23. ^ ワイントラウブ(1993) 上巻 p.165
  24. ^ a b 君塚(2007) p.31
  25. ^ ストレイチイ(1953) p.71-74
  26. ^ ワイントラウブ(1993) 上巻 p.170-171
  27. ^ 村岡、木畑(1991) p.83
  28. ^ 村岡、木畑(1991) p.84
  29. ^ a b 村岡、木畑(1991) p.105
  30. ^ 村岡、木畑(1991) p.105-106
  31. ^ 木畑・秋田(2011) p.90
  32. ^ 君塚(1999) p.73
  33. ^ 尾鍋(1984) p.65
  34. ^ ストレイチイ(1953) p.87
  35. ^ ワイントラウブ(1993) 上巻 p.193
  36. ^ 君塚(1999) p.70
  37. ^ ストレイチイ(1953) p.88-89
  38. ^ 君塚(1999) p.70-71
  39. ^ 君塚(1999) p.71-72
  40. ^ ワイントラウブ(1993) 上巻 p.196
  41. ^ a b 君塚(1999) p.75
  42. ^ 君塚 (2023), p. 54.
  43. ^ 君塚 (2023), p. 55.
  44. ^ 君塚(2006) p.23
  45. ^ 浜渦(1999) p.95
  46. ^ a b 神川(2011) p.100
  47. ^ ストレイチイ(1953) p.131
  48. ^ a b ストレイチイ(1953) p.132
  49. ^ ストレイチイ(1953) p.133
  50. ^ a b 君塚(1999) p.78
  51. ^ 君塚(1999) p.80-82
  52. ^ 君塚(1999) p.83
  53. ^ ストレイチイ(1953) p.153
  54. ^ ストレイチイ(1953) p.154
  55. ^ a b c ワイントラウブ(1993) 上巻 p.170
  56. ^ a b ストレイチイ(1953) p.65
  57. ^ ストレイチイ(1953) p.68
  58. ^ ストレイチイ(1953) p.66
  59. ^ Heraldic Media Limited. “Melbourne, Viscount (I, 1781 - 1853)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2015年12月3日閲覧。
  60. ^ (PDF) List of Fellows of the Royal Society 1660 – 2007. The Royal Society. https://royalsociety.org/~/media/Royal_Society_Content/about-us/fellowship/Fellows1660-2007.pdf 
  61. ^ a b c d e f IMDb

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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公職
先代
ヘンリー・ゴールバーン英語版
イギリスの旗 アイルランド担当大臣英語版
1827年-1828年
次代
フランシス・ルーソン=ゴア卿英語版
先代
サー・ロバート・ピール准男爵
イギリスの旗 内務大臣
1830年-1834年
次代
第4代ベスバラ伯爵
先代
第2代グレイ伯爵
イギリスの旗 首相
1834年7月16日1834年11月14日
次代
初代ウェリントン公爵
イギリスの旗 貴族院院内総務
1834年
先代
サー・ロバート・ピール准男爵
イギリスの旗 首相
1835年-1841年
次代
サー・ロバート・ピール准男爵
先代
初代ウェリントン公爵
イギリスの旗 貴族院院内総務
1835年-1841年
次代
初代ウェリントン公爵
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
ジョン・ラボック英語版
チャールズ・キネアード
レオミンスター選挙区英語版選出庶民院議員
1806年
同一選挙区同時当選者
ジョン・ラボック英語版
次代
ジョン・ラボック英語版
ヘンリー・ボーナム英語版
先代
サー・オズヴァルド・モズレー英語版
ポーターリントン選挙区英語版選出庶民院議員
1807年英語版 - 1812年英語版
次代
アーサー・シェイクスピア
先代
ウィリアム・エリオット英語版
ジョージ・ポンソンビー英語版
ピーターバラ選挙区英語版選出庶民院議員
1816年 - 1819年
同一選挙区同時当選者
ウィリアム・エリオット英語版(1816–1819)
サー・ジェームズ・スカーレット英語版(1819)
次代
サー・ジェームズ・スカーレット英語版
サー・ロバート・ヘロン准男爵英語版
先代
トマス・ブランド英語版
サー・ジョン・サンダース・セブライト
ハートフォードシャー選挙区英語版選出庶民院議員
1819年 – 1826年英語版
同一選挙区同時当選者
サー・ジョン・サンダース・セブライト
次代
サー・ジョン・サンダース・セブライト
ニコルソン・カルバート英語版
先代
ジョージ・カニング
ウィリアム・スコット
ニューポート選挙区英語版選出庶民院議員
1827年
同一選挙区同時当選者
ウィリアム・スコット
次代
ウィリアム・スコット
スペンサー・パーシヴァル英語版
先代
ウィリアム・ラッセル英語版
チャールズ・テニソン英語版
ブレッチングリー選挙区英語版選出庶民院議員
1827年 - 1828年
同一選挙区同時当選者
チャールズ・テニソン英語版
次代
チャールズ・テニソン英語版
ウィリアム・エワート英語版
党職
先代
第2代グレイ伯爵
ホイッグ党党首
1834年-1842年
次代
貴族院:第3代ランズダウン侯爵
庶民院:ジョン・ラッセル卿
アイルランドの爵位
先代
ペニストン・ラム英語版
第2代メルバーン子爵
1828年 - 1848年
次代
フレデリック・ラム英語版