「ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)」の版間の差分
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|出身校 = [[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]] |
|出身校 = [[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]] |
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|前職 = [[弁護士]] |
|前職 = [[弁護士]] |
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|所属政党 = [[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]] |
|所属政党 = [[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]→[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]→{{仮リンク|カニング派|en|Canningite}}→ホイッグ党 |
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|称号・勲章 = [[メルバーン子爵]] |
|称号・勲章 = 第2代[[メルバーン子爵]]、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)、[[王立協会]][[フェロー]](FRS) |
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|親族(政治家) = [[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|第3代パーマストン子爵]](義弟) |
|親族(政治家) = {{仮リンク|ペニストン・ラム (初代メルバーン子爵)|label=初代メルバーン子爵|en|Peniston Lamb, 1st Viscount Melbourne}}(父)<br/>[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|第3代パーマストン子爵]](義弟) |
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|配偶者 = [[キャロライン・ラム|キャロライン]] |
|配偶者 = [[キャロライン・ラム|キャロライン]] |
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|サイン = William Lamb, 2nd Viscount Melbourne Signature.svg |
|サイン = William Lamb, 2nd Viscount Melbourne Signature.svg |
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|就任日 = [[1834年]][[7月16日]] - [[1834年]][[11月14日]]<br/>[[1835年]][[4月18日]] |
|就任日 = [[1834年]][[7月16日]] - [[1834年]][[11月14日]]<br/>[[1835年]][[4月18日]] |
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|退任日 = [[1841年]][[8月30日]] |
|退任日 = [[1841年]][[8月30日]] |
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|元首職 = |
|元首職 = [[イギリスの君主|国王]]<br/>女王 |
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|国旗2 = UK |
|国旗2 = UK |
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|国旗3 = UK |
|国旗3 = UK |
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|職名3 = {{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}} |
|職名3 = {{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}} |
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|内閣3 = [[ジョージ・カニング]]内閣 |
|内閣3 = [[ジョージ・カニング|カニング]]内閣、[[フレデリック・ロビンソン (初代ゴドリッチ子爵)|ゴドリッチ子爵]]内閣、[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公爵]]内閣 |
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|就任日3 = [[1827年]][[4月29日]] |
|就任日3 = [[1827年]][[4月29日]] |
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|退任日3 = [[1828年]][[6月21日]] |
|退任日3 = [[1828年]][[6月21日]] |
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|職名4 = [[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員 |
|職名4 = [[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員 |
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|就任日4 = [[1828年]][[7月22日]] |
|就任日4 = [[1828年]][[7月22日]] |
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|退任日4 = [[1848年]][[11月24日]]<ref name="HANSARD"> |
|退任日4 = [[1848年]][[11月24日]]<ref name="HANSARD">{{Cite web |url= http://hansard.millbanksystems.com/people/mr-william-lamb/ |title=Mr William Lamb|accessdate= 2014-8-10 |author= [[イギリス議会|UK Parliament]] |work= [http://hansard.millbanksystems.com/index.html HANSARD 1803–2005] |language= 英語 }}</ref> |
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|国旗5 = UK |
|国旗5 = UK |
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|職名5 = [[庶民院]]議員 |
|職名5 = [[庶民院]]議員 |
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|選挙区5 = {{仮リンク|レオミンスター選挙区|en|Leominster (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|ハーディントン・バー選挙区|en|Haddington Burghs (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|ポーターリントン選挙区|en|Portarlington (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|ピーターバラ選挙区|en|Peterborough (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|ハートフォードシャー選挙区|en|Hertfordshire (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|ニューポート選挙区 (ワイト島)|label=ニューポート選挙区|en|Newport (Isle of Wight) (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|ブレッチングリー選挙区|en|Bletchingley (UK Parliament constituency)}}<ref name="HANSARD"/> |
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第2代[[メルバーン子爵]] |
'''第2代[[メルバーン子爵]]ウィリアム・ラム'''({{lang-en|'''William Lamb, 2nd Viscount of Melbourne'''}}, {{Post-nominals|post-noms=[[枢密院 (イギリス)|PC]], [[王立協会|FRS]]}}、[[1779年]][[3月15日]] - [[1848年]][[11月24日]])は、[[イギリス]]の[[政治家]]、[[貴族]]。 |
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[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]] |
[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]退任後の[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]を指導し、ホイッグ党政権の[[イギリスの首相|首相]]を二度にわたって務めた(第一次:[[1834年]]、第二次:[[1835年]]-[[1841年]])。[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]の治世から[[ヴィクトリア朝]]初期にかけて[[保守党 (イギリス)|保守党]]([[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]])党首[[ロバート・ピール]]と政権を奪い合った。[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]即位時の首相であり、女王の寵愛を受けた。[[1842年]]に政界の第一線を退き、代わって[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]]がホイッグ党を指導していく。 |
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== 概要 == |
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[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]即位時の首相であり、女王の寵愛を受けた。 |
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[[1779年]]に[[メルバーン子爵]]家の次男として誕生。[[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]へ進学。さらに[[リンカーン法曹院]]で学び、[[弁護士]]となる。[[1805年]]に兄が死にメルバーン子爵家の跡取りとなる。また同年に[[キャロライン・ラム|キャロライン・ポンソンビー]]と結婚した(''→[[#生い立ち|生い立ち]]'')。 |
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[[1806年]]に[[庶民院]]議員に初当選。初め[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]に所属していたが、[[1816年]]から[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]へ移籍した。妻キャロラインの不倫事件で著名となる(''→[[#若手議員|若手議員]]'')。 |
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== 経歴 == |
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=== 前半生 === |
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[[ロンドン]]にて、{{仮リンク|ペニストン・ラム (初代メルバーン子爵)|label=初代メルバーン子爵ペニストン・ラム|en|Peniston Lamb, 1st Viscount Melbourne}}の次男として生まれた。母は{{仮リンク|エリザベス・ラム (メルバーン子爵夫人)|label=エリザベス|en|Elizabeth Lamb, Viscountess Melbourne}}。 |
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[[1827年]]の[[ジョージ・カニング]]内閣で{{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}を務めた。[[1828年]]のカニングの死後、{{仮リンク|カニング派|en|Canningite}}と呼ばれるカニングの路線を継承する派閥に加わる。[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公爵]]内閣では他のカニング派閣僚とともに首相ウェリントン公爵の守旧的方針に反発して辞職した(''→[[#トーリー党政権の閣僚|トーリー党政権の閣僚]]'')。 |
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母の浮気相手{{仮リンク|ジョージ・ウィンダム (第3代エグルモント伯爵)|label=エグルモント伯爵|en|George Wyndham, 3rd Earl of Egremont}}の子とも言われる<ref name="victorianweb">[http://www.victorianweb.org/history/pms/melbourne.html victorianweb]</ref><ref name="ストレイチイ(1953)63">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.63</ref>。ラム家は代々[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]支持の家系であった<ref name="victorianweb"/>。 |
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その後、[[ウィリアム・ハスキソン]]指導下のカニング派に属して野党となった。[[1828年]]に爵位を継承し、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員となる。[[1830年]]のハスキソンの死後にはカニング派を継承。ホイッグ党との連携を推進し、同年11月にはウェリントン公爵内閣を倒閣した(''→[[#カニング派としての野党期|カニング派としての野党期]]'')。 |
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[[イートン校]]・[[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]で学ぶ。[[リンカーン法曹院]]にも入学している<ref name="LM796HW">{{Venn|id=LM796HW|name=Lamb, the Hon. Henry William}}</ref>。 |
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代わって成立したホイッグ党政権の[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]内閣に{{仮リンク|内務大臣 (イギリス)|label=内務大臣|en|Home Secretary}}として入閣。同内閣で行われた第一次選挙法改正をめぐっては慎重派だった(''→[[#ホイッグ党政権の閣僚|ホイッグ党政権の閣僚]]'')。 |
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1804年に[[弁護士]]資格を取得<ref name="LM796HW"/>。 |
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[[1834年]]7月にグレイ伯爵が首相を辞職すると代わって組閣の大命を受け、{{仮リンク|第一次メルバーン子爵内閣|en|Whig Government 1830–1834}}を組閣した。しかし国王[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]と人事案をめぐって対立を深め、同年11月に罷免された(''→[[#第一次メルバーン子爵内閣|第一次メルバーン子爵内閣]]'')。 |
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ウィリアムは次男であり、メルバーン子爵位の継承者として期待されていなかったが、1805年の兄の死により跡取りとなった<ref name="victorianweb"/>。同年に{{仮リンク|フレデリック・ポンソンビー (第3代ベスボロー伯爵)|label=ベスボロー伯爵|en|Frederick Ponsonby, 3rd Earl of Bessborough}}の娘で小説家の[[キャロライン・ラム|キャロライン・ポンソンビー]]と結婚した<ref name="森(1986)558">[[#森(1986)|森(1986)]] p.558</ref><ref name="victorianweb"/>。 |
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後任の保守党政権第1次[[ロバート・ピール|ピール]]内閣を[[1835年]]4月に総辞職に追い込み、{{仮リンク|第2次メルバーン子爵内閣|en|Second Melbourne ministry}}を成立させた。改革を抑えることを条件に与党攻撃を控えるという協約を野党保守党と結んで政権運営を行った(''→[[#組閣までの経緯|組閣までの経緯]]'')。[[1837年]]6月に即位した[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]から相談役として信頼され、寵愛を受けた(''→[[#ヴィクトリア女王即位|ヴィクトリア女王即位]]'')。[[1838年]]に盛り上がった労働者運動[[チャーティズム]]運動は徹底的に弾圧した(''→[[#チャーティズム運動取り締まり|チャーティズム運動取り締まり]]'')。[[1839年]]5月には議会掌握の行き詰まりで辞表を提出したが、後任ピールの寝室女官人事を女王が拒否する事件があったため、メルバーンが続投することになった(''→[[#寝室女官事件|寝室女官事件]]'')。在任中、外務大臣[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]の主導で[[阿片戦争]]や[[アフガン戦争|第一次アフガン戦争]]を開始し、また[[ベルギー独立革命]]や第二次[[エジプト・トルコ戦争]]の仲裁を行った(''→[[#外交問題|外交問題]]'')。1841年6月の{{仮リンク|1841年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1841}}にホイッグ党が敗れた結果、総辞職した(''→[[#総辞職|総辞職]]'')。 |
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1806年に[[庶民院]]議員に当選した<ref name="LM796HW"/>。 |
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首相退任の翌年[[1842年]]にホイッグ党党首の座を[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]]と[[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)|ランズダウン侯爵]]に譲った。退任後も女王と親密だったが、女王の相談役は夫[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート公子]]に転じつつあったため、宮中での影響力も低下していった。[[1848年]]に死去(''→[[#首相退任後|首相退任後]]'')。 |
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{{-}} |
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== 経歴 == |
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=== 生い立ち === |
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[[1779年]][[3月15日]]、初代[[メルバーン子爵]]{{仮リンク|ペニストン・ラム (初代メルバーン子爵)|label=ペニストン・ラム|en|Peniston Lamb, 1st Viscount Melbourne}}の次男として[[ロンドン]]に生まれた。母はその夫人{{仮リンク|エリザベス・ラム (メルバーン子爵夫人)|label=エリザベス|en|Elizabeth Lamb, Viscountess Melbourne}}。 |
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母の浮気相手{{仮リンク|ジョージ・ウィンダム (第3代エグルモント伯爵)|label=エグルモント伯爵|en|George Wyndham, 3rd Earl of Egremont}}の子とも言われる<ref name="victorianweb">{{Cite web |url= http://www.victorianweb.org/history/pms/melbourne.html |title=William Lamb, the 2nd Viscount Melbourne, 1779-1848|accessdate= 2014-8-10 |work= [http://www.victorianweb.org/index.html The Victorian Web] |language= 英語 }}</ref><ref name="ストレイチイ(1953)63">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.63</ref>。ラム家は代々[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]支持の家系であった<ref name="victorianweb"/>。 |
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[[イートン校]]を経て[[グラスゴー大学]]や[[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]で学ぶ。その後、[[リンカーン法曹院]]に入学し、[[1804年]]に[[弁護士]]資格を取得した<ref name="Venn">{{Venn|id=LM796HW|name=Lamb, the Hon. Henry William}}</ref>。 |
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ウィリアムは次男であり、メルバーン子爵位の継承者として期待されていなかったが、1805年の兄{{仮リンク|ペニストン・ラム (1770-1805)|label=ペニストン|en|Peniston Lamb (1770–1805)}}の死により跡取りとなった<ref name="victorianweb"/>。同年に{{仮リンク|フレデリック・ポンソンビー (第3代ベスボロー伯爵)|label=ベスボロー伯爵|en|Frederick Ponsonby, 3rd Earl of Bessborough}}の娘で小説家の[[キャロライン・ラム|キャロライン・ポンソンビー]]と結婚した<ref name="森(1986)558">[[#森(1986)|森(1986)]] p.558</ref><ref name="victorianweb"/>。 |
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=== 若手議員 === |
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1806年に[[庶民院]]議員に当選した<ref name="Venn"/>。所属政党は当初[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]だったが、一度落選して[[1816年]]に再選された際に[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]へ移籍した<ref name="君塚(1999)87">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.87</ref>。 |
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彼の名前が一般に知れ渡ったのは、[[1812年]]の妻キャロラインの醜聞のせいだった。キャロラインがウィリアムの友人であった詩人[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン男爵]]との[[不倫]]に走ったのである。この結果、2人は[[1825年]]に離婚した<ref name="森(1986)558">[[#森(1986)|森(1986)]] p.558</ref><ref name="victorianweb"/>。 |
彼の名前が一般に知れ渡ったのは、[[1812年]]の妻キャロラインの醜聞のせいだった。キャロラインがウィリアムの友人であった詩人[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン男爵]]との[[不倫]]に走ったのである。この結果、2人は[[1825年]]に離婚した<ref name="森(1986)558">[[#森(1986)|森(1986)]] p.558</ref><ref name="victorianweb"/>。 |
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一方でウィリアム自身も国王[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]の放蕩仲間であり、多くの女性と関係した<ref name="森(1986)558"/>。二人の女性から離婚訴訟で訴えられたことがあるほどである<ref name="ストレイチイ(1953)67">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.67</ref>。 |
一方でウィリアム自身も国王[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]の放蕩仲間であり、多くの女性と関係した<ref name="森(1986)558"/>。二人の女性から離婚訴訟で訴えられたことがあるほどである<ref name="ストレイチイ(1953)67">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.67</ref>。 |
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=== 閣僚 === |
=== トーリー党政権の閣僚 === |
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1827年4月に |
1827年4月にトーリー党穏健派と[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]穏健派による連立政権[[ジョージ・カニング]]内閣が誕生すると、その{{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}([[閣外大臣]])となった<ref name="君塚(1999)87"/>。 |
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8月にカニングが急死し、[[フレデリック・ロビンソン (初代ゴドリッチ子爵)|ゴドリッチ子爵]]の短期政権を経て、[[1828年]]1月にトーリー党守旧派の[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公爵]]の内閣が発足した。この内閣にも一応残留したウィリアムだったが、彼は{{仮リンク|カニング派|en|Canningite}}と呼ばれるカニング首相の路線を支持する派閥に属していた。カニング派はカトリック問題や選挙法改正問題をめぐってウェリントン公爵と対立を深めていき、結局1928年6月には[[陸軍・植民地大臣]][[ウィリアム・ハスキソン]]、陸軍・植民地省事務長官[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]、[[外務・英連邦大臣|外相]]{{仮リンク|ジョン・ワード (初代ダドリー伯爵)|label=ダドリー伯爵|en|John Ward, 1st Earl of Dudley}}、商務相{{仮リンク|チャールズ・グラント (初代グレネルグ男爵)|label=チャールズ・グラント(後のグレネルグ男爵)|en|Charles Grant, 1st Baron Glenelg}}ら他のカニング派閣僚とともに辞職した<ref name="君塚(2006)28">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.28</ref>。 |
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=== カニング派としての野党期 === |
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下野後は、ハスキソンをリーダーとするカニング派の中の最大派閥ハスキソン派に属した。 |
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[[1828年]]7月22日に父の死去によりメルバーン子爵位をはじめとする爵位を継承。メルバーン子爵位は[[アイルランド貴族]]爵位だが、受け継いだ爵位の中には[[連合王国貴族]]のメルバーン男爵位もあったため、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]へ移籍することとなった。 |
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8月にカニングが急死し、[[フレデリック・ロビンソン (初代ゴドリッチ子爵)|ゴドリッチ子爵]]の短期政権を経て、[[1828年]]1月にトーリー党守旧派の[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公爵]]の内閣が発足した。この内閣にも一応残留したウィリアムだったが、彼はカニング派と呼ばれるカニング首相の路線を支持する派閥に属していた。カニング派はカトリック問題や選挙法改正問題をめぐってウェリントン公爵と対立を深めていき、結局1928年6月には[[陸軍・植民地大臣]]{{仮リンク|ウィリアム・ハスキソン|en|William Huskisson}}、陸軍・植民地省事務長官[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]、[[外務・英連邦大臣|外相]]{{仮リンク|ジョン・ワード (初代ダドリー伯爵)|label=ダドリー伯爵|en|John Ward, 1st Earl of Dudley}}、商務相{{仮リンク|チャールズ・グラント (初代グレネルグ男爵)|label=チャールズ・グラント(後のグレネルグ男爵)|en|Charles Grant, 1st Baron Glenelg}}ら他のカニング派閣僚とともに辞職した<ref name="君塚(2006)28">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.28</ref>。 |
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[[1830年]]9月にハスキソンが鉄道事故死するとパーマストン子爵とともにカニング派ハスキソン派のリーダーとなった。メルバーン卿とパーマストン卿は早速ホイッグ党の{{仮リンク|ヘンリー・ヴァッセル=フォックス (第3代ホランド男爵)|label=ホランド男爵|en|Henry Vassall-Fox, 3rd Baron Holland}}とロンドンで会合し、両党の協力を確認した。野党の結束のもと、11月15日には王室費反対動議を可決させてウェリントン公爵内閣を総辞職に追い込んだ<ref>[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.58-59</ref>。 |
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[[1828年]]7月より父の跡を継いで第2代メルバーン子爵となり、庶民院から[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]に移った。 |
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=== ホイッグ党政権の閣僚 === |
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ホイッグ党嫌いの国王[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]の崩御、また野党勢力の結集などにより、[[1830年]]11月に半世紀ぶりにトーリー党政権が終わり、ホイッグ党・旧カニング派、トーリー分派の連立による[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]内閣が成立した<ref name="君塚(1999)59">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.59</ref>。メルバーン子爵はこの内閣に{{仮リンク|イギリス内務大臣|label=内務大臣|en|Home Secretary}}として入閣した。 |
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ホイッグ党嫌いの国王[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]の崩御と野党勢力の結集により、[[1830年]]11月にホイッグ党・旧カニング派、トーリー分派の連立による[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]内閣が成立した<ref name="君塚(1999)59">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.59</ref>。メルバーン子爵はこの内閣に{{仮リンク|内務大臣 (イギリス)|label=内務大臣|en|Home Secretary}}として入閣した。 |
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内閣の最優先の目標は選挙法改正であった。しかしどの程度の改正を行うかは閣内でも意見の差があった。[[大法官]]{{仮リンク|ヘンリー・ブルーム (初代ブルーム=ボクス男爵)|label=ブルーム男爵|en|Henry Brougham, 1st Baron Brougham and Vaux}}や[[王璽尚書]]{{仮リンク|ジョン・ランブトン (初代ダーラム伯爵)|label=ダーラム男爵|en|John Lambton, 1st Earl of Durham}}、陸軍・植民地省事務長官[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]]は積極的な改正を希望していたが、メルバーン子爵や外相パーマストン子爵は最低限度の改正を希望していた<ref name="君塚(1999)60">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.60</ref>。 |
内閣の最優先の目標は選挙法改正であった。しかしどの程度の改正を行うかは閣内でも意見の差があった。[[大法官]]{{仮リンク|ヘンリー・ブルーム (初代ブルーム=ボクス男爵)|label=ブルーム男爵|en|Henry Brougham, 1st Baron Brougham and Vaux}}や[[王璽尚書]]{{仮リンク|ジョン・ランブトン (初代ダーラム伯爵)|label=ダーラム男爵|en|John Lambton, 1st Earl of Durham}}、陸軍・植民地省事務長官[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]]は積極的な改正を希望していたが、メルバーン子爵や外相パーマストン子爵は最低限度の改正を希望していた<ref name="君塚(1999)60">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.60</ref>。 |
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ピール首相はウィリアム4世の薦めで{{仮リンク|1835年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1835}}を行い、保守党の議席を多少回復させたものの、選挙後にメルバーン子爵はホイッグ党・急進派・オコンネル(アイルランド独立)派の野党共闘関係を成立させ、アイルランド教会税問題で1835年4月にピール内閣を総辞職に追い込んだ<ref name="君塚(1999)63">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.63</ref>。 |
ピール首相はウィリアム4世の薦めで{{仮リンク|1835年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1835}}を行い、保守党の議席を多少回復させたものの、選挙後にメルバーン子爵はホイッグ党・急進派・オコンネル(アイルランド独立)派の野党共闘関係を成立させ、アイルランド教会税問題で1835年4月にピール内閣を総辞職に追い込んだ<ref name="君塚(1999)63">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.63</ref>。 |
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ウィリアム4世はメルバーン子爵を嫌い、信頼するグレイ伯爵に大命を与えようとしたものの、高齢により政界引退を決意していたグレイ伯爵は大命を拝辞し、代わりにメルバーン子爵に大命を与えるよう助言した。その結果{{仮リンク|第二次メルバーン子爵内閣|en|Second Melbourne ministry}}が成立した<ref name="君塚(1999)64">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.64</ref>。 |
ウィリアム4世はメルバーン子爵を嫌い、信頼するグレイ伯爵に組閣の大命を与えようとしたものの、高齢により政界引退を決意していたグレイ伯爵は大命を拝辞し、代わりにメルバーン子爵に大命を与えるよう助言した。その結果{{仮リンク|第二次メルバーン子爵内閣|en|Second Melbourne ministry}}が成立した<ref name="君塚(1999)64">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.64</ref>。 |
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保守党は、急進派やオコンネル派が求める過激な改革を行わない限りホイッグ党政権を攻撃しないことをメルバーン政権と密約で約定した<ref name="木畑(2011)89">[[#木畑(2011)|木畑・秋田(2011)]] p.89</ref>。メルバーン子爵政権はこの密約を基礎として保守党と急進派・オコンネル派の間で均衡をとりながら6年にわたって政権を担当することになった<ref name="君塚(1999)65">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.65</ref>。 |
保守党は、急進派やオコンネル派が求める過激な改革を行わない限りホイッグ党政権を攻撃しないことをメルバーン政権と密約で約定した<ref name="木畑(2011)89">[[#木畑(2011)|木畑・秋田(2011)]] p.89</ref>。メルバーン子爵政権はこの密約を基礎として保守党と急進派・オコンネル派の間で均衡をとりながら6年にわたって政権を担当することになった<ref name="君塚(1999)65">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.65</ref>。 |
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==== ヴィクトリア女王即位 ==== |
==== ヴィクトリア女王即位 ==== |
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[[File:Sully - Portrait of Queen Victoria.jpg|thumb|150px|1837年のヴィクトリア女王を描いた絵( |
[[File:Sully - Portrait of Queen Victoria.jpg|thumb|150px|1837年のヴィクトリア女王を描いた絵([[トマス・サリー|トーマス・シュリー]]画)]] |
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1837年[[6月20日]]深夜にウィリアム4世が崩御した。首相メルバーン子爵は同日午前9時に国王の姪で[[推定相続人|推定王位継承者]][[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]のいる[[ケンジントン宮殿]]に参内した。ヴィクトリアの引見を受け、引き続き国政を任せるとのお言葉を賜った<ref name="ストレイチイ(1953)53">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.53</ref>。 |
1837年[[6月20日]]深夜にウィリアム4世が崩御した。首相メルバーン子爵は同日午前9時に国王の姪で[[推定相続人|推定王位継承者]][[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]のいる[[ケンジントン宮殿]]に参内した。ヴィクトリアの引見を受け、引き続き国政を任せるとのお言葉を賜った<ref name="ストレイチイ(1953)53">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.53</ref>。 |
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ヴィクトリアは成人を迎えて、母[[ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド|ケント公妃]]や母のアドバイザーであるケント公爵家家令 |
ヴィクトリアは成人を迎えて、母[[ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド|ケント公妃]]や母のアドバイザーであるケント公爵家家令[[ジョン・コンロイ (初代准男爵)|サー・ジョン・コンロイ]]の影響下から脱したばかりであり、自らのアドバイザーを必要としていた。その役割を果たすことになったのがメルバーン子爵だった。女王は彼に、わずか生後8ヶ月で死別した父[[エドワード・オーガスタス (ケント公)|ケント公]]の面影を見いだしていたし、彼もその頃息子を亡くしていたのだった。メルバーン子爵は[[ウィンザー城]]に私室を与えられていたため、女王は40歳年上の首相と結婚するつもりなのかと噂がたてられた。 |
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メルバーン子爵は一日のほとんどを宮廷ですごし、様々な問題でヴィクトリアの相談に乗り、半ばヴィクトリアの個人秘書になっていった<ref name="尾鍋(1984)54">[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.54</ref>。彼の洗練されたマナーと話術はヴィクトリアを魅了して止まなかった<ref name="森(1986)559">[[#森(1986)|森(1986)]] p.559</ref>。二人は毎日6時間は額を突き合わせて過ごしたといい<ref name="ワイントラウブ(1993)上165">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.165</ref>、君臣の関係を越えて、まるで父娘のような関係になっていった<ref name="君塚(2007)31">[[#君塚(2007)|君塚(2007)]] p.31</ref>。 |
メルバーン子爵は一日のほとんどを宮廷ですごし、様々な問題でヴィクトリアの相談に乗り、半ばヴィクトリアの個人秘書になっていった<ref name="尾鍋(1984)54">[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.54</ref>。彼の洗練されたマナーと話術はヴィクトリアを魅了して止まなかった<ref name="森(1986)559">[[#森(1986)|森(1986)]] p.559</ref>。二人は毎日6時間は額を突き合わせて過ごしたといい<ref name="ワイントラウブ(1993)上165">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.165</ref>、君臣の関係を越えて、まるで父娘のような関係になっていった<ref name="君塚(2007)31">[[#君塚(2007)|君塚(2007)]] p.31</ref>。 |
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1839年5月初めにメルバーン子爵が議会に提出した[[英領西インド諸島|英領ジャマイカ]]の奴隷制度廃止法案は[[庶民院]]を通過したものの、わずか5票差という僅差であったため、メルバーン子爵は自らの求心力の低下を悟り、5月7日にヴィクトリアに辞表を提出した<ref name="尾鍋(1984)65">[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.65</ref>。ヴィクトリアの衝撃は大きく、泣き崩れたという<ref name="ストレイチイ(1953)87">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.87</ref><ref name="ワイントラウブ(1993)上193">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.193</ref>。 |
1839年5月初めにメルバーン子爵が議会に提出した[[英領西インド諸島|英領ジャマイカ]]の奴隷制度廃止法案は[[庶民院]]を通過したものの、わずか5票差という僅差であったため、メルバーン子爵は自らの求心力の低下を悟り、5月7日にヴィクトリアに辞表を提出した<ref name="尾鍋(1984)65">[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.65</ref>。ヴィクトリアの衝撃は大きく、泣き崩れたという<ref name="ストレイチイ(1953)87">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.87</ref><ref name="ワイントラウブ(1993)上193">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.193</ref>。 |
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代わって組閣の大命を受けた保守党庶民院院内総務[[ロバート・ピール|サー・ロバート・ピール]]準男爵は、現在ホイッグ党の議員の妻で占められる宮中の女官を保守党の議員の妻に代えることを提言して、女王に拒否された。これにより女王とピールの間で寝室女官人事権をめぐって政治闘争が勃発した([[寝室女官事件]])<ref name="君塚(1999)70">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.70</ref>。 |
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メルバーン卿は女王への書簡の中で「(女官人事は)陛下個人の事柄なので、陛下のご希望通り主張されるべき。しかしもしサー・ロバートが譲歩できぬなら、拒絶して交渉を長引かせるべきではない」と助言した<ref>[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.88-89</ref>。しかし女王もピールも一歩も引かず両者の対立が深まると、メルバーン卿はピールの強引な態度に反感を持ち、ホイッグ党幹部会にも諮ったうえで女王支持を表明した<ref>[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.70-71</ref>。結局ピールは5月12日にも組閣の大命を拝辞し、メルバーン卿が首相続投することに同意した。翌13日には保守党貴族院院内総務ウェリントン公爵もメルバーン卿の政権運営に協力することを表明した<ref>[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.71-72</ref>。 |
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ただメルバーン子爵もこの事件が立憲主義の抵触する可能性があると理解しており、留任は複雑な気持ちであったという<ref name="ワイントラウブ(1993)上196">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.196</ref>。 |
ただメルバーン子爵もこの事件が立憲主義の抵触する可能性があると理解しており、留任は複雑な気持ちであったという<ref name="ワイントラウブ(1993)上196">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.196</ref>。 |
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=== 首相退任後 === |
=== 首相退任後 === |
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首相退任の翌年[[1842年]]に病に倒れたことでホイッグ党党首職とホイッグ党貴族院院内総務職からも退任した。後任となったのは[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]]と[[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)|ランズダウン侯爵]]だった<ref name="君塚(1999)75">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.75</ref>。 |
首相退任の翌年[[1842年]]に病に倒れたことでホイッグ党党首職とホイッグ党貴族院院内総務職からも退任した。後任となったのは[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]](庶民院)と[[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)|ランズダウン侯爵]](貴族院)だった<ref name="君塚(1999)75">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.75</ref>。 |
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この後もメルバーン子爵とヴィクトリア女王の親密な関係は続いたが、この頃には女王の相談役は1840年に女王と結婚した[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート公子]]になっていたため、メルバーン子爵の宮廷内の影響力は徐々に小さくなっていった<ref name="君塚(1999)75"/>。 |
この後もメルバーン子爵とヴィクトリア女王の親密な関係は続いたが、この頃には女王の相談役は1840年に女王と結婚した[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート公子]]になっていたため、メルバーン子爵の宮廷内の影響力は徐々に小さくなっていった<ref name="君塚(1999)75"/>。 |
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1845年末にはピール内閣が[[穀物法]]廃止をめぐって閣内分裂状態になり、総辞職の意向を表明した。ホイッグ党党首ジョン・ラッセル卿の指導力に不安を感じたヴィクトリア女王はメルバーン子爵の力を借りたがっていたが、その頃には彼の病状はだいぶ深刻化しており、ヴィクトリア女王の下へ参内することもさえ困難になっていたため、政局を主導することはできなかった(またそもそもメルバーン子爵は穀物法廃止に反対だった)<ref>[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.80-82</ref>。 |
1845年末にはピール内閣が[[穀物法]]廃止をめぐって閣内分裂状態になり、総辞職の意向を表明した。ホイッグ党党首ジョン・ラッセル卿の指導力に不安を感じたヴィクトリア女王はメルバーン子爵の力を借りたがっていたが、その頃には彼の病状はだいぶ深刻化しており、ヴィクトリア女王の下へ参内することもさえ困難になっていたため、政局を主導することはできなかった(またそもそもメルバーン子爵は穀物法廃止に反対だった)<ref>[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.80-82</ref>。 |
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結局ピール内閣は[[1846年]]6月に穀物法を廃止できたが、保守党は分裂して総辞職を余儀なくされ、ジョン・ラッセル卿に大命 |
結局ピール内閣は[[1846年]]6月に穀物法を廃止できたが、保守党は分裂して総辞職を余儀なくされ、ジョン・ラッセル卿に組閣の大命があり、ホイッグ党が政権を奪還した<ref name="君塚(1999)83">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.83</ref>。 |
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それを見届けた後の[[1848年]]11月に69歳で死去した<ref name="君塚(1999)78">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.78</ref>。 |
それを見届けた後の[[1848年]]11月に69歳で死去した<ref name="君塚(1999)78">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.78</ref>。 |
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メルバーン子爵の爵位は弟{{仮リンク|フレデリック・ラム (第3代メルバーン子爵)|label=フレデリック・ラム|en|Frederick Lamb, 3rd Viscount Melbourne}}が継承した。 |
子供は無く、メルバーン子爵の爵位は弟{{仮リンク|フレデリック・ラム (第3代メルバーン子爵)|label=フレデリック・ラム|en|Frederick Lamb, 3rd Viscount Melbourne}}が継承した。 |
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== 人物 == |
== 人物 == |
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[[File:William Lamb, 2nd Viscount Melbourne by Sir Edwin Henry Landseer.jpg|thumb|150px|メルバーン子爵の肖像画]] |
[[File:William Lamb, 2nd Viscount Melbourne by Sir Edwin Henry Landseer.jpg|thumb|150px|メルバーン子爵の肖像画]] |
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ホイッグ党党首だが、内部分裂のために庶民院でギリギリの票しか集められない首相だった。そのため彼の政治的スタンスは保守党よりだった<ref name="ワイントラウブ(1993)上170">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.170</ref>。 |
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宗教も進歩も信じず、何に対しても価値を認めない人だった。社会改革は最悪の事態を招くと考えており、「善行などという考えは起こさないだけマシである。そうすれば窮地に陥る事もない」<ref name="ストレイチイ(1953)65">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.65</ref><ref name="ワイントラウブ(1993)上170"/>、「『悪人』というだけで毛嫌いするべきではない。その範疇に入る者はあまりに大勢いすぎる」と述べている<ref name="ワイントラウブ(1993)上170"/>。 |
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「政府の責務とは犯罪を防止し、契約を保障することに尽きる」と語っていた。メルバーン卿によれば、教育の普及など良くて無益、貧者に教育を与えるのはむしろ危険なことであった。自由貿易は欺瞞であり、民主主義などという物は馬鹿の骨頂だった。工場で労働する貧しい子供たちについては「ああ、そんなものはただそっとしておいてやればいいいのにねぇ!」で終わりだった。このように徹底した保守主義者・貴族主義者だったにも関わらず、彼は反動ではなかった。内務大臣時代に選挙法改正を受け入れたように政権維持に必要と判断すれば平然と改革を行う狡猾な機会主義者だった<ref name="ストレイチイ(1953)65">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.65</ref>。 |
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ヴィクトリアの宮廷では品行方正に恭しくヴィクトリアに仕えたメルバーン子爵だが<ref name="ストレイチイ(1953)68">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.68</ref>、首相の職務はかなりいい加減にやっていたという。呼び出された高官がメルバーン子爵の部屋に入るとメルバーン子爵は本などが散らばるベッドの中で寝転がっていたり、化粧室でヒゲを剃っていたりしたという。また閣議の際に居眠りすることもあった<ref name="ストレイチイ(1953)66">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.66</ref>。 |
ヴィクトリアの宮廷では品行方正に恭しくヴィクトリアに仕えたメルバーン子爵だが<ref name="ストレイチイ(1953)68">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.68</ref>、首相の職務はかなりいい加減にやっていたという。呼び出された高官がメルバーン子爵の部屋に入るとメルバーン子爵は本などが散らばるベッドの中で寝転がっていたり、化粧室でヒゲを剃っていたりしたという。また閣議の際に居眠りすることもあった<ref name="ストレイチイ(1953)66">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.66</ref>。 |
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話術が巧みだったので社交界では魅力的な人であったという<ref name="ストレイチイ(1953)63">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.63</ref> |
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== 栄典 == |
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=== 爵位 === |
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*[[1828年]][[7月22日]]、第2代[[メルバーン子爵]]([[1781年]]創設[[アイルランド貴族]]爵位) |
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*1828年7月22日、第2代メルバーン男爵([[1770年]]創設アイルランド貴族爵位) |
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*1828年7月22日、第2代メルバーン男爵([[1815年]]創設[[連合王国貴族]]爵位) |
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=== その他 === |
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*[[1827年]]、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)<ref name="Venn"/> |
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*1828年7月22日、第3代[[准男爵]](1755年創設グレートブリテン准男爵位) |
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*[[1841年]][[2月25日]]、[[王立協会]][[フェロー]](FRS)<ref>{{Cite book|title=List of Fellows of the Royal Society 1660 – 2007|url=https://royalsociety.org/~/media/Royal_Society_Content/about-us/fellowship/Fellows1660-2007.pdf|format=PDF|publisher=[[王立協会|The Royal Society]]}}</ref> |
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== メルバーン子爵を演じた人物 == |
== メルバーン子爵を演じた人物 == |
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*[[ポール・ベタニー]]:イギリス映画『[[ヴィクトリア女王 世紀の愛]]』([[2009年]])<ref name="IMDb">[http://www.imdb.com/character/ch0045853/ IMDb]</ref> |
*[[ポール・ベタニー]]:イギリス映画『[[ヴィクトリア女王 世紀の愛]]』([[2009年]])<ref name="IMDb">[http://www.imdb.com/character/ch0045853/ IMDb]</ref> |
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{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}| years = [[1827年]]-[[1828年]]| before = {{仮リンク|ヘンリー・ゴールバーン|en|Henry Goulburn}}| after = {{仮リンク|フランシス・エガートン (初代エレスメア伯爵)|label=フランシス・ルーソン=ゴア卿|en|Francis Egerton, 1st Earl of Ellesmere}}}} |
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{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|内務大臣 (イギリス)|label=内務大臣|en|Home Secretary}}| years = [[1830年]]-[[1834年]]| before = [[ロバート・ピール|サー・ロバート・ピール准男爵]]| after = {{仮リンク|ジョン・ポンソンビー (第4代ベスボロー伯爵)|label=第4代ベスボロー伯爵|en|John Ponsonby, 4th Earl of Bessborough}}}} |
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| before = {{仮リンク|ジョン・ラボック (初代准男爵)|label=ジョン・ラボック|en|Sir John Lubbock, 1st Baronet}}<br/>[[チャールズ・キネアード (第8代キネアード卿)|チャールズ・キネアード]] |
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}} |
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| after = {{仮リンク|ジョン・ラボック (初代准男爵)|label=ジョン・ラボック|en|Sir John Lubbock, 1st Baronet}}<br/>{{仮リンク|ヘンリー・ボーナム (政治家)|label=ヘンリー・ボーナム|en|Henry Bonham (politician)}} |
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{{s-bef | before = {{仮リンク|オズヴァルド・モズレー (第2代准男爵)|label=サー・オズヴァルド・モズレー|en|Sir Oswald Mosley, 2nd Baronet, of Ancoats}}}} |
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| title = {{仮リンク|ポーターリントン選挙区|en|Portarlington (UK Parliament constituency)}}選出庶民院議員 |
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| years = {{仮リンク|1807年イギリス総選挙|label=1807年|en|United Kingdom general election, 1807}} - {{仮リンク|1812年イギリス総選挙|label=1812年|en|United Kingdom general election, 1812}} |
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}} |
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{{s-aft | after = [[アーサー・シェイクスピア (庶民院議員)|アーサー・シェイクスピア]]}} |
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| before = {{仮リンク|ウィリアム・エリオット (庶民院議員)|label=ウィリアム・エリオット|en|William Elliot (MP)}}<br/>{{仮リンク|ジョージ・ポンソンビー|en|George Ponsonby}} |
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}} |
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{{s-ttl |
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| title = {{仮リンク|ピーターバラ選挙区|en|Peterborough (UK Parliament constituency)}}選出庶民院議員 |
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| years = 1816年 - 1819年<br/><small>同一選挙区同時当選者<br/>{{仮リンク|ウィリアム・エリオット (庶民院議員)|label=ウィリアム・エリオット|en|William Elliot (MP)}}(1816–1819)<br/>{{仮リンク|ジェームズ・スカーレット (初代アビンガー男爵)|label=サー・ジェームズ・スカーレット|en|James Scarlett, 1st Baron Abinger}}(1819)</small> |
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}} |
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{{s-aft |
|||
| after = {{仮リンク|ジェームズ・スカーレット (初代アビンガー男爵)|label=サー・ジェームズ・スカーレット|en|James Scarlett, 1st Baron Abinger}}<br/>{{仮リンク|ロバート・ヘロン (第2代准男爵)|label=サー・ロバート・ヘロン准男爵|en|Sir Robert Heron, 2nd Baronet}} |
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}} |
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{{s-bef |
|||
| before = {{仮リンク|トマス・ブランド (第20代デイカー男爵)|label=トマス・ブランド|en|Thomas Brand, 20th Baron Dacre}}<br/>[[ジョン・サンダース・セブライト (第7代准男爵)|サー・ジョン・サンダース・セブライト]] |
|||
}} |
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{{s-ttl |
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2014年9月6日 (土) 07:48時点における版
第2代メルバーン子爵 ウィリアム・ラム William Lamb 2nd Viscount of Melbourne | |
---|---|
| |
生年月日 | 1779年3月15日 |
出生地 | グレートブリテン王国 ロンドン |
没年月日 | 1848年11月24日(69歳没) |
死没地 | イギリス ハートフォードシャー |
出身校 | ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ |
前職 | 弁護士 |
所属政党 | ホイッグ党→トーリー党→カニング派→ホイッグ党 |
称号 | 第2代メルバーン子爵、枢密顧問官(PC)、王立協会フェロー(FRS) |
配偶者 | キャロライン |
親族 |
初代メルバーン子爵(父) 第3代パーマストン子爵(義弟) |
サイン | |
在任期間 |
1834年7月16日 - 1834年11月14日 1835年4月18日 - 1841年8月30日 |
国王 女王 |
ウィリアム4世 ヴィクトリア |
内閣 | グレイ伯爵内閣 |
在任期間 | 1830年11月22日 - 1834年7月16日 |
内閣 | カニング内閣、ゴドリッチ子爵内閣、ウェリントン公爵内閣 |
在任期間 | 1827年4月29日 - 1828年6月21日 |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1828年7月22日 - 1848年11月24日[1] |
庶民院議員 | |
選挙区 |
レオミンスター選挙区 ハーディントン・バー選挙区 ポーターリントン選挙区 ピーターバラ選挙区 ハートフォードシャー選挙区 ニューポート選挙区 ブレッチングリー選挙区[1] |
在任期間 |
1806年1月31日 - 1806年11月1日 1806年11月24日 - 1807年5月30日 1807年5月23日 - 1812年10月24日 1816年4月16日 - 1819年11月30日 1819年11月29日 - 1826年6月16日 1827年4月24日 - 1827年5月25日 1827年5月7日 - 1828年7月23日[1] |
第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラム(英語: William Lamb, 2nd Viscount of Melbourne, PC, FRS、1779年3月15日 - 1848年11月24日)は、イギリスの政治家、貴族。
グレイ伯爵退任後のホイッグ党を指導し、ホイッグ党政権の首相を二度にわたって務めた(第一次:1834年、第二次:1835年-1841年)。ウィリアム4世の治世からヴィクトリア朝初期にかけて保守党(トーリー党)党首ロバート・ピールと政権を奪い合った。ヴィクトリア女王即位時の首相であり、女王の寵愛を受けた。1842年に政界の第一線を退き、代わってジョン・ラッセル卿がホイッグ党を指導していく。
概要
1779年にメルバーン子爵家の次男として誕生。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへ進学。さらにリンカーン法曹院で学び、弁護士となる。1805年に兄が死にメルバーン子爵家の跡取りとなる。また同年にキャロライン・ポンソンビーと結婚した(→生い立ち)。
1806年に庶民院議員に初当選。初めホイッグ党に所属していたが、1816年からトーリー党へ移籍した。妻キャロラインの不倫事件で著名となる(→若手議員)。
1827年のジョージ・カニング内閣でアイルランド担当大臣を務めた。1828年のカニングの死後、カニング派と呼ばれるカニングの路線を継承する派閥に加わる。ウェリントン公爵内閣では他のカニング派閣僚とともに首相ウェリントン公爵の守旧的方針に反発して辞職した(→トーリー党政権の閣僚)。
その後、ウィリアム・ハスキソン指導下のカニング派に属して野党となった。1828年に爵位を継承し、貴族院議員となる。1830年のハスキソンの死後にはカニング派を継承。ホイッグ党との連携を推進し、同年11月にはウェリントン公爵内閣を倒閣した(→カニング派としての野党期)。
代わって成立したホイッグ党政権のグレイ伯爵内閣に内務大臣として入閣。同内閣で行われた第一次選挙法改正をめぐっては慎重派だった(→ホイッグ党政権の閣僚)。
1834年7月にグレイ伯爵が首相を辞職すると代わって組閣の大命を受け、第一次メルバーン子爵内閣を組閣した。しかし国王ウィリアム4世と人事案をめぐって対立を深め、同年11月に罷免された(→第一次メルバーン子爵内閣)。
後任の保守党政権第1次ピール内閣を1835年4月に総辞職に追い込み、第2次メルバーン子爵内閣を成立させた。改革を抑えることを条件に与党攻撃を控えるという協約を野党保守党と結んで政権運営を行った(→組閣までの経緯)。1837年6月に即位したヴィクトリア女王から相談役として信頼され、寵愛を受けた(→ヴィクトリア女王即位)。1838年に盛り上がった労働者運動チャーティズム運動は徹底的に弾圧した(→チャーティズム運動取り締まり)。1839年5月には議会掌握の行き詰まりで辞表を提出したが、後任ピールの寝室女官人事を女王が拒否する事件があったため、メルバーンが続投することになった(→寝室女官事件)。在任中、外務大臣パーマストン子爵の主導で阿片戦争や第一次アフガン戦争を開始し、またベルギー独立革命や第二次エジプト・トルコ戦争の仲裁を行った(→外交問題)。1841年6月の解散総選挙にホイッグ党が敗れた結果、総辞職した(→総辞職)。
首相退任の翌年1842年にホイッグ党党首の座をジョン・ラッセル卿とランズダウン侯爵に譲った。退任後も女王と親密だったが、女王の相談役は夫アルバート公子に転じつつあったため、宮中での影響力も低下していった。1848年に死去(→首相退任後)。
経歴
生い立ち
1779年3月15日、初代メルバーン子爵ペニストン・ラムの次男としてロンドンに生まれた。母はその夫人エリザベス。
母の浮気相手エグルモント伯爵の子とも言われる[2][3]。ラム家は代々ホイッグ党支持の家系であった[2]。
イートン校を経てグラスゴー大学やケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学ぶ。その後、リンカーン法曹院に入学し、1804年に弁護士資格を取得した[4]。
ウィリアムは次男であり、メルバーン子爵位の継承者として期待されていなかったが、1805年の兄ペニストンの死により跡取りとなった[2]。同年にベスボロー伯爵の娘で小説家のキャロライン・ポンソンビーと結婚した[5][2]。
若手議員
1806年に庶民院議員に当選した[4]。所属政党は当初ホイッグ党だったが、一度落選して1816年に再選された際にトーリー党へ移籍した[6]。
彼の名前が一般に知れ渡ったのは、1812年の妻キャロラインの醜聞のせいだった。キャロラインがウィリアムの友人であった詩人バイロン男爵との不倫に走ったのである。この結果、2人は1825年に離婚した[5][2]。
一方でウィリアム自身も国王ジョージ4世の放蕩仲間であり、多くの女性と関係した[5]。二人の女性から離婚訴訟で訴えられたことがあるほどである[7]。
トーリー党政権の閣僚
1827年4月にトーリー党穏健派とホイッグ党穏健派による連立政権ジョージ・カニング内閣が誕生すると、そのアイルランド担当大臣(閣外大臣)となった[6]。
8月にカニングが急死し、ゴドリッチ子爵の短期政権を経て、1828年1月にトーリー党守旧派のウェリントン公爵の内閣が発足した。この内閣にも一応残留したウィリアムだったが、彼はカニング派と呼ばれるカニング首相の路線を支持する派閥に属していた。カニング派はカトリック問題や選挙法改正問題をめぐってウェリントン公爵と対立を深めていき、結局1928年6月には陸軍・植民地大臣ウィリアム・ハスキソン、陸軍・植民地省事務長官パーマストン子爵、外相ダドリー伯爵、商務相チャールズ・グラント(後のグレネルグ男爵)ら他のカニング派閣僚とともに辞職した[8]。
カニング派としての野党期
下野後は、ハスキソンをリーダーとするカニング派の中の最大派閥ハスキソン派に属した。
1828年7月22日に父の死去によりメルバーン子爵位をはじめとする爵位を継承。メルバーン子爵位はアイルランド貴族爵位だが、受け継いだ爵位の中には連合王国貴族のメルバーン男爵位もあったため、貴族院へ移籍することとなった。
1830年9月にハスキソンが鉄道事故死するとパーマストン子爵とともにカニング派ハスキソン派のリーダーとなった。メルバーン卿とパーマストン卿は早速ホイッグ党のホランド男爵とロンドンで会合し、両党の協力を確認した。野党の結束のもと、11月15日には王室費反対動議を可決させてウェリントン公爵内閣を総辞職に追い込んだ[9]。
ホイッグ党政権の閣僚
ホイッグ党嫌いの国王ジョージ4世の崩御と野党勢力の結集により、1830年11月にホイッグ党・旧カニング派、トーリー分派の連立によるグレイ伯爵内閣が成立した[10]。メルバーン子爵はこの内閣に内務大臣として入閣した。
内閣の最優先の目標は選挙法改正であった。しかしどの程度の改正を行うかは閣内でも意見の差があった。大法官ブルーム男爵や王璽尚書ダーラム男爵、陸軍・植民地省事務長官ジョン・ラッセル卿は積極的な改正を希望していたが、メルバーン子爵や外相パーマストン子爵は最低限度の改正を希望していた[11]。
しかしグレイ伯爵の指導力により内閣は分裂することなく1832年6月に第一次選挙法改正を達成した[12]。
第一次メルバーン子爵内閣
1834年5月のアイルランド国教会に収められる教会税の転用問題をめぐって閣内は分裂し、転用に反対する陸軍・植民地大臣スタンリー卿(後のダービー伯爵)らホイッグ党右派が離党したことでグレイ伯爵内閣は1834年7月に総辞職した。グレイ伯爵は国王ウィリアム4世に後任の首相としてメルバーン子爵を推挙した。これは退任する首相が後任の首相を国王に推挙した初めての事例となった[13]。
しかしホイッグ左派のジョン・ラッセル卿を庶民院院内総務にすることに反対した国王ウィリアム4世とメルバーン子爵の対立が深まり、国王は1834年11月14日にはメルバーン子爵を罷免したため、この第一次メルバーン子爵内閣は短命政権に終わった[14]。
もっともメルバーン子爵にとって罷免は計算のうちであったという。というのも少数党の保守党(トーリー党)政権をわざと誕生させることでその無能さを晒し、すぐに政権復帰して政権の安定化を図ることができると考えられたからである[15]。
第二次メルバーン子爵内閣
組閣までの経緯
ウィリアム4世は保守党のウェリントン公爵に大命を与えたが、ウェリントン公爵は保守党庶民院院内総務サー・ロバート・ピールを推挙し、イタリア訪問中のピールが戻るまでの暫定という条件で組閣した。1834年12月に第一次ピール内閣が樹立された[14]。
ピール首相はウィリアム4世の薦めで解散総選挙を行い、保守党の議席を多少回復させたものの、選挙後にメルバーン子爵はホイッグ党・急進派・オコンネル(アイルランド独立)派の野党共闘関係を成立させ、アイルランド教会税問題で1835年4月にピール内閣を総辞職に追い込んだ[14]。
ウィリアム4世はメルバーン子爵を嫌い、信頼するグレイ伯爵に組閣の大命を与えようとしたものの、高齢により政界引退を決意していたグレイ伯爵は大命を拝辞し、代わりにメルバーン子爵に大命を与えるよう助言した。その結果第二次メルバーン子爵内閣が成立した[16]。
保守党は、急進派やオコンネル派が求める過激な改革を行わない限りホイッグ党政権を攻撃しないことをメルバーン政権と密約で約定した[17]。メルバーン子爵政権はこの密約を基礎として保守党と急進派・オコンネル派の間で均衡をとりながら6年にわたって政権を担当することになった[18]。
ヴィクトリア女王即位
1837年6月20日深夜にウィリアム4世が崩御した。首相メルバーン子爵は同日午前9時に国王の姪で推定王位継承者ヴィクトリアのいるケンジントン宮殿に参内した。ヴィクトリアの引見を受け、引き続き国政を任せるとのお言葉を賜った[19]。
ヴィクトリアは成人を迎えて、母ケント公妃や母のアドバイザーであるケント公爵家家令サー・ジョン・コンロイの影響下から脱したばかりであり、自らのアドバイザーを必要としていた。その役割を果たすことになったのがメルバーン子爵だった。女王は彼に、わずか生後8ヶ月で死別した父ケント公の面影を見いだしていたし、彼もその頃息子を亡くしていたのだった。メルバーン子爵はウィンザー城に私室を与えられていたため、女王は40歳年上の首相と結婚するつもりなのかと噂がたてられた。
メルバーン子爵は一日のほとんどを宮廷ですごし、様々な問題でヴィクトリアの相談に乗り、半ばヴィクトリアの個人秘書になっていった[20]。彼の洗練されたマナーと話術はヴィクトリアを魅了して止まなかった[21]。二人は毎日6時間は額を突き合わせて過ごしたといい[22]、君臣の関係を越えて、まるで父娘のような関係になっていった[23]。
この頃の女王の日記にも毎日のように「メルバーン卿」「M卿」の名前が登場する[23][24]。ヴィクトリアがはじめて貴族院に出席して議会開会宣言を行った日の日記には「彼が玉座の側に控えていてくれるだけで安心できる。」と書かれている[25]。
チャーティズム運動取り締まり
1838年には労働者運動が盛んになり、「劣等処遇の原則」[注釈 1]を盛り込もうとする救貧法改正に反対する運動と工場法改正による10時間労働の法文化を求める運動が拡大してイングランド北部を中心にチャーティズム運動が形成されるようになった[27]。
1838年5月にはウィリアム・ラベットによって「人民憲章」[注釈 2]が提唱され、チャーティズム運動の旗印となった[28]。チャーティズム運動は、人民憲章支持の署名を国民から集めて、1839年7月に議会に請願するという形で進展していった[29]。
ところが急進派も含めて議会のほぼ全議員がこの請願を拒否した。メルバーン子爵も政治改革はあくまで議会内で行われるべきと考えており、こうした議会外からの圧力運動には抑圧の姿勢で臨んだ[30]。メルバーン子爵は1839年から1840年にかけて500人のチャーティズム運動指導者を逮捕させている[31]。
寝室女官事件
1839年5月初めにメルバーン子爵が議会に提出した英領ジャマイカの奴隷制度廃止法案は庶民院を通過したものの、わずか5票差という僅差であったため、メルバーン子爵は自らの求心力の低下を悟り、5月7日にヴィクトリアに辞表を提出した[32]。ヴィクトリアの衝撃は大きく、泣き崩れたという[33][34]。
代わって組閣の大命を受けた保守党庶民院院内総務サー・ロバート・ピール準男爵は、現在ホイッグ党の議員の妻で占められる宮中の女官を保守党の議員の妻に代えることを提言して、女王に拒否された。これにより女王とピールの間で寝室女官人事権をめぐって政治闘争が勃発した(寝室女官事件)[35]。
メルバーン卿は女王への書簡の中で「(女官人事は)陛下個人の事柄なので、陛下のご希望通り主張されるべき。しかしもしサー・ロバートが譲歩できぬなら、拒絶して交渉を長引かせるべきではない」と助言した[36]。しかし女王もピールも一歩も引かず両者の対立が深まると、メルバーン卿はピールの強引な態度に反感を持ち、ホイッグ党幹部会にも諮ったうえで女王支持を表明した[37]。結局ピールは5月12日にも組閣の大命を拝辞し、メルバーン卿が首相続投することに同意した。翌13日には保守党貴族院院内総務ウェリントン公爵もメルバーン卿の政権運営に協力することを表明した[38]。
ただメルバーン子爵もこの事件が立憲主義の抵触する可能性があると理解しており、留任は複雑な気持ちであったという[39]。
外交問題
メルバーン子爵が首相在任中、外交問題は慌ただしかった。ベルギー独立革命をめぐる国際紛争の仲裁、第二次エジプト・トルコ戦争によって起きた国際紛争の仲裁(第二次東方問題)、アメリカとの国境紛争、清に自由貿易を強要するために発動したアヘン戦争、ロシアの南下政策への対抗のために発動した第一次アフガン戦争と外交紛争がたてつづけに起きた。外交問題は基本的に外相であったパーマストン子爵に全幅の信頼をおいて任せていた。パーマストン子爵はメルバーン首相の妹と長年の愛人関係の末結婚しており公私共に親しい間柄であった[40]。
しかしパーマストン外交のうち第一次アフガン戦争は散々な失敗に終わり、内閣崩壊の原因ともなった[41]。
総辞職
1841年4月に穀物法廃止(穀物自由貿易)運動への譲歩で政権の延命を狙ったが、地主など農業利益の代弁者たちの反発を買い、1841年4月に提出した砂糖関税低減の法案は議会で否決された。内閣信任相当の法案の否決は総辞職か解散総選挙すべきであったが、メルバーン子爵はそのまま政権に居座った。これに対抗してピールは6月に内閣不信任案を提出し、1票差で可決された。これを受けてメルバーン子爵は解散総選挙に打って出たが、敗北した[42]。
メルバーン子爵内閣は1841年8月に内閣総辞職することとなった[42]。
首相退任後
首相退任の翌年1842年に病に倒れたことでホイッグ党党首職とホイッグ党貴族院院内総務職からも退任した。後任となったのはジョン・ラッセル卿(庶民院)とランズダウン侯爵(貴族院)だった[43]。
この後もメルバーン子爵とヴィクトリア女王の親密な関係は続いたが、この頃には女王の相談役は1840年に女王と結婚したアルバート公子になっていたため、メルバーン子爵の宮廷内の影響力は徐々に小さくなっていった[43]。
1845年7月にグレイ伯爵が死去するとメルバーン子爵が一番の「長老政治家」になった[44]。
1845年末にはピール内閣が穀物法廃止をめぐって閣内分裂状態になり、総辞職の意向を表明した。ホイッグ党党首ジョン・ラッセル卿の指導力に不安を感じたヴィクトリア女王はメルバーン子爵の力を借りたがっていたが、その頃には彼の病状はだいぶ深刻化しており、ヴィクトリア女王の下へ参内することもさえ困難になっていたため、政局を主導することはできなかった(またそもそもメルバーン子爵は穀物法廃止に反対だった)[45]。
結局ピール内閣は1846年6月に穀物法を廃止できたが、保守党は分裂して総辞職を余儀なくされ、ジョン・ラッセル卿に組閣の大命があり、ホイッグ党が政権を奪還した[46]。
それを見届けた後の1848年11月に69歳で死去した[44]。
子供は無く、メルバーン子爵の爵位は弟フレデリック・ラムが継承した。
人物
ホイッグ党党首だが、内部分裂のために庶民院でギリギリの票しか集められない首相だった。そのため彼の政治的スタンスは保守党よりだった[47]。
宗教も進歩も信じず、何に対しても価値を認めない人だった。社会改革は最悪の事態を招くと考えており、「善行などという考えは起こさないだけマシである。そうすれば窮地に陥る事もない」[48][47]、「『悪人』というだけで毛嫌いするべきではない。その範疇に入る者はあまりに大勢いすぎる」と述べている[47]。
「政府の責務とは犯罪を防止し、契約を保障することに尽きる」と語っていた。メルバーン卿によれば、教育の普及など良くて無益、貧者に教育を与えるのはむしろ危険なことであった。自由貿易は欺瞞であり、民主主義などという物は馬鹿の骨頂だった。工場で労働する貧しい子供たちについては「ああ、そんなものはただそっとしておいてやればいいいのにねぇ!」で終わりだった。このように徹底した保守主義者・貴族主義者だったにも関わらず、彼は反動ではなかった。内務大臣時代に選挙法改正を受け入れたように政権維持に必要と判断すれば平然と改革を行う狡猾な機会主義者だった[48]。
ヴィクトリアの宮廷では品行方正に恭しくヴィクトリアに仕えたメルバーン子爵だが[49]、首相の職務はかなりいい加減にやっていたという。呼び出された高官がメルバーン子爵の部屋に入るとメルバーン子爵は本などが散らばるベッドの中で寝転がっていたり、化粧室でヒゲを剃っていたりしたという。また閣議の際に居眠りすることもあった[50]。
話術が巧みだったので社交界では魅力的な人であったという[3]
栄典
爵位
- 1828年7月22日、第2代メルバーン子爵(1781年創設アイルランド貴族爵位)
- 1828年7月22日、第2代メルバーン男爵(1770年創設アイルランド貴族爵位)
- 1828年7月22日、第2代メルバーン男爵(1815年創設連合王国貴族爵位)
その他
メルバーン子爵を演じた人物
- ポール・ベタニー:イギリス映画『ヴィクトリア女王 世紀の愛』(2009年)[52]
- カール・ルートヴィヒ・ディール:オーストリア映画『女王さまはお若い』(1954年)[52]
- フレデリック・レスター:イギリス映画『The Prime Minister』(1941年)[52]
- H.B.ワーナー:イギリス映画『Victoria the Great』(1937年)[52]
- オットー・トレスラー:ドイツ映画『女王さまはお若い』(1936年)[52]
脚注
注釈
出典
- ^ a b c UK Parliament. “Mr William Lamb” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年8月10日閲覧。
- ^ a b c d e “William Lamb, the 2nd Viscount Melbourne, 1779-1848” (英語). The Victorian Web. 2014年8月10日閲覧。
- ^ a b ストレイチイ(1953) p.63
- ^ a b c "Lamb, the Hon. Henry William (LM796HW)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ a b c 森(1986) p.558
- ^ a b 君塚(1999) p.87
- ^ ストレイチイ(1953) p.67
- ^ 君塚(2006) p.28
- ^ 君塚(1999) p.58-59
- ^ 君塚(1999) p.59
- ^ 君塚(1999) p.60
- ^ 君塚(1999) p.61
- ^ 君塚(1999) p.62
- ^ a b c 君塚(1999) p.63
- ^ 神川(2011) p.71
- ^ 君塚(1999) p.64
- ^ 木畑・秋田(2011) p.89
- ^ 君塚(1999) p.65
- ^ ストレイチイ(1953) p.53
- ^ 尾鍋(1984) p.54
- ^ 森(1986) p.559
- ^ ワイントラウブ(1993) 上巻 p.165
- ^ a b 君塚(2007) p.31
- ^ ストレイチイ(1953) p.71-74
- ^ ワイントラウブ(1993) 上巻 p.170-171
- ^ 村岡、木畑(1991) p.83
- ^ 村岡、木畑(1991) p.84
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- ^ ストレイチイ(1953) p.66
- ^ (PDF) List of Fellows of the Royal Society 1660 – 2007. The Royal Society
- ^ a b c d e IMDb
参考文献
- 尾鍋輝彦『最高の議会人 グラッドストン』清水書院〈清水新書016〉、1984年(昭和59年)。ISBN 978-4389440169。
- 神川信彦 著、君塚直隆編 編『グラッドストン 政治における使命感』吉田書店、2011年(平成23年)。ISBN 978-4905497028。
- 木畑洋一、秋田茂 編『近代イギリスの歴史 16世紀から現代まで』ミネルヴァ書房、2011年(平成23年)。ISBN 978-4623059027。
- 君塚直隆『イギリス二大政党制への道 後継首相の決定と「長老政治家」』有斐閣、1999年(平成11年)。ISBN 978-4641049697。
- 君塚直隆『パクス・ブリタニカのイギリス外交 パーマストンと会議外交の時代』有斐閣、2006年(平成18年)。ISBN 978-4641173224。
- 君塚直隆『ヴィクトリア女王 大英帝国の“戦う女王”』中央公論新社、2007年(平成19年)。ISBN 978-4121019165。
- リットン・ストレイチイ 著、小川和夫 訳『ヴィクトリア女王』角川書店〈角川文庫601〉、1953年(昭和28年)。ASIN B000JB9WHM。
- 浜渦哲雄『大英帝国インド総督列伝 イギリスはいかにインドを統治したか』中央公論新社、1999年(平成11年)。ISBN 978-4120029370。
- 村岡健次、木畑洋一編 編『イギリス史〈3〉近現代』山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年(平成3年)。ISBN 978-4634460300。
- 森護『英国王室史話』大修館書店、1986年(昭和61年)。ISBN 978-4469240900。
- スタンリー・ワイントラウブ 著、平岡緑 訳『ヴィクトリア女王〈上〉』中央公論新社、2007年(平成19年)。ISBN 978-4120022340。
関連項目
- イギリスの首相の一覧
- ホイッグ党 (イギリス)
- メルバーン子爵
- ヴィクトリア (イギリス女王)
- グレイ伯爵
- ロバート・ピール
- メルボルン(メルバーン子爵に因んで名づけられたオーストラリアの都市)