「北越急行ほくほく線」の版間の差分
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{{BS|tDST|23.8|[[薬師峠信号場]]||}} |
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{{BS|TUNNEL1||第一田沢T||125.00m<ref name = "dr.hokuhoku_5"/>}} |
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{{BS|hAKRZo|||[[北陸自動車道]]|}} |
{{BS|hAKRZo|||[[北陸自動車道]]|}} |
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{{BS3|STRq|hKRZ|STRlg|||[[信越本線]](←新潟方)|}} |
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{{BS3||ABZrg|STRrf||||}} |
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{{BS|HST|||[[直江津駅]]|}} |
{{BS|HST|||[[直江津駅]]|}} |
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{{BS3||ABZlf|STRq|||信越本線(篠ノ井方→)|}} |
{{BS3||ABZlf|STRq|||信越本線(篠ノ井方→)|}} |
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|} |
|} |
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T:トンネル |
T:トンネル |
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|}<!-- トンネル長はほくほく博士5「ほくほく線の高速運転を支える設備」、橋梁長はほくほく博士10「ほくほく線の中の不思議」より --> |
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'''北越急行ほくほく線'''(ほくえつきゅうこうほくほくせん)は、[[新潟県]][[南魚沼市]]の[[六日町駅]]を起点とし、新潟県[[上越市]]の[[犀潟駅]]までを結ぶ[[北越急行]]の[[鉄道路線]]である。 |
'''北越急行ほくほく線'''(ほくえつきゅうこうほくほくせん)は、[[新潟県]][[南魚沼市]]の[[六日町駅]]を起点とし、新潟県[[上越市]]の[[犀潟駅]]までを結ぶ[[北越急行]]の[[鉄道路線]]である。 |
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[[鉄道敷設法]]第1条別表第55号の3に「新潟県直江津より松代附近を経て六日町に至る鉄道」として規定されたことに由来する路線で<ref name="rj368-54"/>、[[日本国有鉄道]](国鉄)北越北線として敷設が計画された<ref name="rj368-54"/>。首都圏と北陸方面を短絡する路線として<ref name = "工事誌_681" />1968年(昭和43年)に着工されたが<ref name = "新線_150" />、国鉄の経営悪化に伴い1982年(昭和57年)に建設工事が凍結された<ref name="rj368-54"/>。運営を引き継ぐべく設立された北越急行によって1985年(昭和60年)から建設が再開され<ref name="rj368-55"/>、1989年(平成元年)からは[[運輸省]](当時)が打ち出した「幹線鉄道活性化」の方針を受けて高規格化の対象となり<ref name="rj368-55"/>、難工事を経て1997年(平成9年)3月22日より営業を開始した<ref name="rj368-54"/>。開業以来、[[上越新幹線]]に連絡する列車の運行が行われており、特に1998年(平成10年)12月からは在来線最高速度となる150 [[キロメートル毎時|km/h]]運転が<ref name="rj428-33"/>、2002年(平成14年)3月以降はさらに高速となる160 km/h運転が開始されている<ref name="rj428-33"/>。 |
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本項では特段の説明がない限り、「高速走行」とした場合は130 km/hを超える速度による走行をさすものとする。 |
本項では特段の説明がない限り、「高速走行」とした場合は130 km/hを超える速度による走行をさすものとする。 |
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== 歴史 == |
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=== 鉄道誘致活動の始まり === |
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本来は[[鉄道敷設法#改正鉄道敷設法別表|改正鉄道敷設法別表]]第55号の3に「新潟縣直江津ヨリ松代(現 まつだい駅)附近ヲ經テ六日町ニ至ル鐡道」として規定された路線で<ref name="rj368-54"/>、[[日本国有鉄道|国鉄]]北越北線として敷設が計画された路線である<ref name="rj368-54"/>。 |
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大正末期に[[松代町 (新潟県)|松代村]](合併により[[十日町市]]の一部)において[[バス (交通機関)|バス]]会社が設立されて運行を開始したが、この時代には道路の除雪体制がまったく整っておらず、冬季には運行できなくなり各集落は完全に孤立状態となるのが常であった。道路の除雪体制の整備が本格化する1960年(昭和35年)頃までは、冬期の降雪により5月上旬までは道路交通が完全に不能となっていた<ref name = "新線_140" />。1980年代のほくほく線建設が進められている時期になってもなお、十日町と松代を結ぶ[[国道253号]]の薬師峠は毎年雪で不通となり、直線距離で13キロメートルのところを、柏崎・直江津を通る120キロメートルもの迂回をしなければ行き来ができないという状況であった<ref name = "全線_47-48" />。冬にはまったく役に立たなくなる自動車のために、鉄道の重要性・必要性を痛感していた地元の関係者は、1931年(昭和6年)に当地を訪れた[[朝日新聞]]の記者が「この不便な山間地を開くには鉄道を貫通させなくては」と発言したことに刺激され、民間中心の鉄道誘致運動が開始された<ref name = "新線_140" />。 |
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既に1916年(大正5年)5月4日には、[[頸城鉄道線|頸城鉄道]]が新黒井 - 浦川原間を全通させていた<ref name = "工事誌_673" />。当初はこの頸城鉄道とつなぐ形で松代までの「東頸城縦貫鉄道」の建設請願を1932年(昭和7年)8月に国会へ提出した。この時点では松代から信越本線側へ結ぶだけの鉄道で、急峻な地形のために実現が困難と判断されたのか、十日町や六日町と結ぶという構想はなかった<ref name = "工事誌_674" />。その後さらに発展的な構想として、北陸地方と東京を結ぶ「上越西線」という構想となり、[[魚沼郡|魚沼三郡]]や[[東頸城郡]]の町村長が六日町 - 直江津間に鉄道を敷設する陳情書を国会に提出した<ref name = "工事誌_674" />。1938年(昭和13年)4月になると時勢から軍事用の色彩が付加されて、軍都と呼ばれた[[高田駅 (新潟県)|高田]]を起点とする北越鉄道の構想が打ち出され、国防にも役立つという位置づけとされた<ref name = "工事誌_674" />。1937年(昭和12年)8月から9月にかけて、鉄道省による路線測量と経済調査が実施され、路線案の比較検討が行われるとともに、地元による国会への請願が繰り返された<ref name = "新線_141-142" />。 |
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現在の「ほくほく線」は、この北越北線を略して平仮名書きしたものだが、愛称ではなく、正式な路線名称である<ref name = "hokuhoku_enkaku"/>。開業前に正式路線名を決定するにあたり、北越急行と沿線自治体が沿線住民を対象に実施したアンケートにおいて「ほくほく線」と「北越ロマン線」の2つが上位を占めた<ref name = "hokuhoku_enkaku"/>。そして選考の結果「温かいイメージで親しみやすく、呼びやすい」という理由で「ほくほく線」が選ばれた<ref name = "hokuhoku_enkaku"/>。 |
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この時点までは、路線の北側は直江津案と高田案の2案があったが、南側については六日町で統一されていた。しかし1940年(昭和15年)になり、南側を越後湯沢とする案が持ち上がった。これは[[松之山温泉]]に宿泊してスキーをしにきていた鉄道省の技師が、越後湯沢と直江津を結ぶ経路の方が有力であるかのように話したことが発端であるとされるが、真偽ははっきりしていない。ともかくこの年の10月から11月にかけて越後湯沢案に基づく路線の経済調査が実施され、両案の資料が揃うことになった。1942年(昭和17年)から両案の誘致活動が繰り広げられたが、[[第二次世界大戦]]中でもありこの時点ではそこまで厳しい対立ではなかった<ref name = "新線_142" />。1944年(昭和19年)には、国鉄[[信濃川発電所]]のある[[千手町 (新潟県中魚沼郡)|千手町]](現在の十日町市の一部)と十日町を結ぶ工事用の軽便鉄道を延長する形で松代までを結ぶ路線の建設が決まり、工事予算1800万円が計上されたが、翌年の敗戦により計画は中止された<ref name = "新線_142" /><ref name = "鉄道計画_133" />。 |
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ほくほく線には[[上越新幹線]]と接続して[[越後湯沢駅]]と北陸地方の各都市を結ぶ[[特別急行列車|特急]]「[[はくたか (列車)|はくたか]]」が運行されている。ほくほく線が開業する以前は、首都圏と北陸地方を結ぶ手段は東海道新幹線で米原を経由するルートが一般的であった<ref name="rj428-23"/>が、ほくほく線が開業してからは上越新幹線と「はくたか」を乗り継ぐルートのほうが有利になる範囲が拡大された<ref name="rj557-32"/>。 |
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=== 南北戦争からルートの決着まで === |
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ほくほく線は10日間しか営業していなかった初年度を除いて毎年数億円の黒字となっている<ref name="rj392-41"/>。[[2001年]]度の営業収支率は73.0%であり、[[第三セクター鉄道]]の中では経営状態は良好であるが、全体の9割が特急による収益で普通列車の収益は全体の1割にも満たない。[[2014年]]度に[[北陸新幹線]]の[[長野駅]] - [[金沢駅]]間が延伸開業すると、ほくほく線は幹線ではなくローカル線となる<ref name="rj557-44"/>が、[[2012年]]時点で「はくたか」利用者の22%から25%が北陸新幹線でも乗換えを要する直江津で乗降している<ref name="rj557-45"/>。これらのことから、北越急行では「ほくほく線経由の需要も残るのではないか」と予測しており<ref name="rj557-45"/>、事業を継続することは可能であるという見通しをもっている<ref name="rj557-45"/>。 |
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[[ファイル:Route_planning_of_Hokuhoku_line_ja.png|thumb|400px|北越北線と北越南線の計画ルートと実際のほくほく線]] |
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第二次世界大戦後は、高田と結ぶ軍事路線という動きは消滅し、佐渡航路ならびに北陸本線との連絡という観点から直江津起点とすることで決着して、直江津と上越線を結ぶ鉄道とすることになった<ref name = "工事誌_675" /><ref name = "新線_144" />。1950年(昭和25年)9月3日に、北陸上越連絡鉄道(上越西線)期成同盟会の発会式が[[高田市]](現在の[[上越市]]の一部)で行われ、戦後の鉄道建設運動が開始された。しかしルートの一本化はできず、起点は直江津とされたものの終点は六日町と越後湯沢の双方の案が会則に併記される形となった。以降、北越北線案と北越南線案の間で14年に渡る鉄道誘致合戦「南北戦争」が勃発することになった<ref name = "新線_144" />。 |
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北線案の利点は、新潟県内の主要都市を結び産業開発や経済面で優れ、国鉄の採算性に優れること、[[地すべり]]地帯が無く防災上有利であることであり、これに対して南線案の利点は上野 - 直江津間の距離を短縮することができること、勾配を北線の25[[パーミル]]に対して20パーミルに抑えることができ輸送力を大きくできること、苗場や高倉の森林および地下資源、三国、清津の温泉の開発ができることであるとされた<ref name = "新線_147" />。 |
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== 歴史 == |
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===前史 === |
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昭和初期、ほくほく線沿線となる新潟県の上越・中越地方では[[バス (交通機関)|バス]]の運行が開始されたが、当時は道路の除雪体制がまったく整っておらず、冬季には運行できなくなり各集落は完全に孤立状態となるのが常であった。このためかえって鉄道への熱望が高まることになり、大正時代に開通した[[頸城鉄道線|頸城鉄道]]と連絡して[[北陸本線]]と[[上越線]]を短絡する鉄道を実現する運動が開始された。当初は上越線との連絡点は六日町とされたのに対して、西側は[[信越本線]]の[[高田駅 (新潟県)|高田]]とする案と、直江津とする案があった。しかし上越線と北陸本線を短絡する路線の機能を考えて、最終的に直江津案にまとまった。一方[[1940年]](昭和15年)になると、上越線側を越後湯沢とする案が出され、当時の[[鉄道省]]も両案を実際に比較測量している。この越後湯沢と接続する案が鉄道敷設法の同号に「及松代附近ヨリ分岐シテ湯澤(現 越後湯沢駅)ニ至ル鐡道」として規定される北越南線であった。こうして「南北戦争」と称される激しい誘致合戦が始まった<ref name="rj392-38"/>。[[1944年]](昭和19年)に一度は[[信濃川発電所]]の工事[[専用鉄道|専用線]]を転用する形で北越北線が採択されて工事予算がついたが、[[第二次世界大戦]]の戦況悪化に伴い工事は中止された<ref name = "新線_140-142" />。 |
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この当時、国鉄の新線は1922年(大正11年)年に制定された[[鉄道敷設法]]に基づいて建設されており、新線を建設するには法律を改正して鉄道敷設法別表に路線経路を記載する必要があった。そして別表への記載は、諮問機関である鉄道建設審議会の検討を経て決定されることになっていた<ref name = "鉄道計画_134" />。中央の政界では、南北両案の一本化ができさえすればいつでも審議会で了承されるというところまで機が熟していた。しかし一本化ができないままに1953年(昭和28年)2月の第9回鉄道建設審議会が開催され、両案の対立が激しくて審議会でも決断を下しかね、「経過地に関する地元の意見の不一致並びに現地調査の不十分」を理由に審議未了・保留となった<ref name = "新線_147" />。こうした事情もあり、両線の一本化を図るために期成同盟会では、前年に新潟県知事の[[岡田正平]]に経過地の裁定を一任することを決議していた。岡田は、新潟県七市長会および商工会議所連合会に諮問して、北線案が妥当との答申を受け、8月に北線案採択の裁定を下した。しかしこの裁定を説明するために9月に開催された期成同盟会総会を南線側がボイコットするという事態となって、さらに時間が空費されることになった<ref name = "新線_147" />。 |
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第二次世界大戦後は、[[1950年]](昭和25年)から誘致運動が再開されたが、相変わらず南北の対立は残ったままであった。北線の利点は、より大きな都市を通過するため採算性がよく沿線の発展にも貢献すること、[[地すべり]]地帯がなく防災上有利なことで、南線の利点は距離が短く勾配も緩く、未開発の資源や温泉地帯を通過することなどとされた。これらの両線を合わせて「上越西線」とも称されていた。南線のルートは[[うらがわら駅|浦川原]]で分岐して、[[松之山町]]を通り、[[飯山線]]と[[越後鹿渡駅]] - [[越後田沢駅]]間を共用して[[信濃川]]を渡り、越後湯沢へつなぐ、道路の[[国道353号]]に近いものであった。[[1953年]](昭和28年)2月の鉄道建設審議会では、地元の意見が未統一との理由で着工案を保留とした。南北両派の合意により、新潟県知事に裁定を一任することとなったが、同年8月に新潟県知事が北線採択の裁定を下すと、9月の期成同盟会総会を南線側がボイコットする事態となった。それからさらに両派の争いは続き、事態が動いたのは1962年(昭和37年)のこととなった。この頃、[[松之山町]]の中心部で地すべり災害が発生しており鉄道の通過ルートとしてふさわしくないとされたことと、道路交通の発達でそれほど鉄道にこだわる必要がなくなったことなどから、一方の路線が採択された際にはもう一方の路線側から鉄道へ連絡する道路を整備するということを条件に、国鉄に裁定を一任することになった。[[1964年]](昭和39年)4月22日に北越北線が調査線に昇格し、9月28日に工事線となって、北越北線が正式に採択されることになった<ref name = "新線_144-149" />。 |
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それからさらに両派の争いは続き、事態が動いたのは1962年(昭和37年)のこととなった。この頃、南線案の予定通過地である松之山町の中心部で地すべり災害が発生しており鉄道の通過ルートとしてふさわしくないとされたことと、道路交通の発達でそれほど鉄道にこだわる必要がなくなったことなどから、一方の路線が採択された際にはもう一方の路線側から鉄道へ連絡する道路を整備するということを条件に、国鉄に裁定を一任することになった。1962年(昭和37年)4月22日に鉄道建設審議会が上越西線を予定線に採択することを決定し、5月12日に鉄道敷設法1条別表第55ノ3に「新潟県直江津より松代附近を経て六日町に至る鉄道及松代附近より分岐して湯沢に至る鉄道」が追加されて、南北両案が鉄道予定線となった<ref name = "新線_148-149" /><ref name = "衆議院19620512" />。 |
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===着工から凍結、工事再開=== |
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1968年(昭和43年)8月14日にまず六日町 - 十日町間で着工した<ref name="rj392-38"/>。概算工事費は50億1800万円とされた。さらに[[1973年]](昭和48年)3月24日に十日町 - 犀潟間に着工し<ref name="rj392-38"/>、この区間の概算工事費は239億3400万円とされた。国鉄との協議により、将来的な優等列車や貨物列車の運行を想定することになっていた。当初の仮称駅名は、六日町、西六日町、赤倉信号場、津池、十日町、薬師峠信号場、松代、儀明信号場、頸城大島、沢田、増田、犀潟とされていた。さらに当初は非電化で計画されていたが、途中で将来の[[鉄道の電化|電化]]に備えることになり、工事費は511億8600万円と見積もられるようになった。しかし[[鍋立山トンネル]]の難工事などにより工事は見込みよりかなり遅れることになった。そうしているうちに国鉄の経営悪化が進み、その対策として[[1980年]](昭和55年)に[[日本国有鉄道経営再建促進特別措置法]](国鉄再建法)の施行により鉄道新線の工事は凍結されることになった<ref name="rf577-46"/>。国鉄再建法での工事続行基準は、推定輸送密度が4,000 人/日以上とされていたが、北越北線の推定輸送密度は1,600 人/日であった<ref name="rj392-39"/>。この時点で用地取得は73%、路盤工事は58%まで進捗しており、工事費は415億円が投じられていた<ref name = "新線_150-153" />。 |
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1962年(昭和37年)7月から、国鉄では人口分布や産業構成などの経済調査を新潟県に依頼して実施した。地元でも、従来の上越西線期成同盟会を発展的に解消して新たに北越線連合期成同盟会を1963年(昭和38年)6月27日に発足させ、工事線への昇格に向けて積極的な運動を行った。1964年(昭和39年)4月22日に[[運輸大臣]]は北越北線を調査線に指示し、続いて9月28日には工事線に格上げした上で、南線は北線によって効用を満たし得るとの判断から、調査線から南線を削除した。こうして北越北線が正式に採択され、南北戦争は終結することになった<ref name = "新線_149" />。なおちょうどこの頃、1964年(昭和39年)3月に[[日本鉄道建設公団]](鉄道公団、以下公団と略す)が設立され、国鉄の新線建設事業は公団が引き継ぐことになって、北越北線も公団に引き継がれた<ref name = "鉄道計画_135" />。 |
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国鉄再建法では、建設が中断された地方鉄道新線について、地元が第三セクターを設立して引き受けることが可能であると定めていた。[[1983年]](昭和58年)に元首相の[[田中角栄]]の働きによりこの方向で動き出した<ref name="rj368-55"/>。ただし、当時の[[君健男]]新潟県知事は第三セクター化に慎重であり<ref name="rj368-55"/>、第三者のコンサルタントを入れて経営分析を行うことと、国鉄への乗り入れを行うことを条件としてつけた。コンサルタントも、[[秋田内陸縦貫鉄道秋田内陸線]]に対して「永久に黒字転換する見込みがない」と厳しい診断を下した会社に依頼した。ところが新潟県の予想に反し、コンサルタントは「5年で単年度黒字、10年で累積黒字」との報告書を出し、また国鉄も直通運転を了承した。こうして[[1984年]](昭和59年)8月30日に北越急行が設立され、1985年(昭和60年)2月1日に鉄道事業の免許を取得し、3月16日に工事が再開された<ref name = "新線_154-155_284" />。 |
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北越北線が調査線となって以降、詳細なルートの検討が進められた。地元が北越北線に期待することは旅客輸送であったが、国鉄から見れば首都圏と北陸地方を短絡する有力な貨物線であり、[[上越線]]と[[信越本線]]との間の方向転換・[[機関車]]交換作業を廃止し輸送時間を短縮することが狙いであった。そのため1000トン牽引を想定した貨物輸送が路線選定の要となり、当初は[[六日町駅]]と[[黒井駅 (新潟県)|黒井駅]]を可能な限り直線的に結ぶルートが考えられていた<ref name = "工事誌_681" />。これにより十日町では[[飯山線]]と直交するルート案となり<ref name = "工事誌_681" />、飯山線の[[十日町駅]]とは別に北越北線の十日町駅を約1,300メートル離れた位置に設け、地下駅とする案もあった<ref name = "市報19661015" />。しかしこれには地元からの強烈な反発があり、実際の経路は飯山線十日町駅に乗り入れる[[クランク (機械要素)|クランク]]状のものとなった<ref name = "工事誌_681" />。また東頸城地方では、[[安塚町|安塚]]、[[大島村 (新潟県)|大島]]、室野(松代町西部)を経由する南側に膨らんだ路線を要望されて決着に時間を要したが、最終的にほぼ原案通りとなった。ところが、国鉄側と最終的に詰める段階になり、[[直江津駅]]構内の貨物ヤード([[操車場 (鉄道)|操車場]])が処理能力の限界を迎えていたことから、黒井駅の[[犀潟駅]]寄りに新たな操車場を建設する構想が持ち上がった。これにより北越北線の乗り入れは操車場に支障しない犀潟駅とならざるを得ず、旧頸城鉄道沿線から経路が外れて[[頸城村]]の中心地も通らないことになった<ref name = "工事誌_681" />。うらがわら - 犀潟間は、後の工事凍結時点で未着工であったため、黒井の操車場計画が結局実現しなかったこともあって、工事再開時に新たな路線問題となりかけたが、最終的に六日町と犀潟を結ぶ経路で確定した<ref name = "工事誌_681-682" />。 |
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工事を中断した時点で鍋立山トンネルは中央部で645 mの未掘削区間が残されていた<ref name="rj368-49"/>。しかしこのわずかな区間に、さらに10年余りの歳月と146億円の工費が投入されることになった。当初の中央導坑先進工法では強大な土圧により支保工が座屈するなどの問題を生じた<ref name="rj368-49"/>。続いて[[トンネルボーリングマシン]]を導入したが、これも掘削中に土圧により発進地点より手前まで押し戻されてしまう事態となった<ref name="rj368-49"/>。さらに注入剤を入れて<ref name="rj368-49"/>、最終的には手掘りも実施する<ref name="rj428-23"/>などして、645 mを掘るために実に29の工法が駆使された。[[1992年]](平成4年)10月29日にようやく先進導坑が貫通し、1995年(平成7年)3月7日に掘削完了、11月7日に竣工に漕ぎ着けた<ref name = "新線_216-221" />。 |
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=== 国鉄新線としての建設 === |
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===高規格化・開業=== |
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1964年(昭和39年)9月28日に運輸大臣が定めた基本計画では、北越北線は起点を直江津市、終点を南魚沼郡六日町とし、単線非電化で、[[線路等級]]は乙線とされていた。これを基に工事実施計画の指示が行われた<ref name = "新線_150" />。設計にあたっては、有数の豪雪地帯を通ることから雪崩や地すべりの起こらないような場所を選んでルートの設定を行い、将来的に貨物列車や急行列車の運行を行う優等線とすることを考えて勾配や曲線を少なくするようにした<ref name = "新線_150-151" />。 |
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[[1988年]](昭和63年)になり、[[整備新幹線]]問題の関係で[[北陸新幹線]]の建設の見通しが立たなかったことから、北越北線を高速化して[[スーパー特急]]を走らせる計画が[[運輸省]]から打ち出された<ref name="rj392-39"/>。もともと優等列車の運転を想定して高い規格で建設されていたこともあり、翌1989年(平成元年)5月31日に高速化に伴う工事実施計画の変更が申請され、高速化事業が動き出した。これにより、JRと直通の特急列車を走らせるために電化が実施されることになった<ref name="rj368-55"/>。建設に要するとされた310億円は、建設に当たっていた[[日本鉄道建設公団]](鉄道公団)の地方新線工事費から70億円、幹線鉄道活性化事業費補助金が42億円、北越急行出資金が40億円、JR東日本の負担金が158億円とされた<ref name = "新線_156-207" />。 |
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まず六日町 - 十日町間について、1968年(昭和43年)3月28日に工事実施計画が認可され、8月14日に着工となった<ref name = "新線_150" />。この区間を先に着工したのは、まつだいとうらがわらの間でのルートの決着が付いていなかったためであった<ref name = "工事誌_681" />。基本計画とは逆に起点は六日町、終点は十日町で、途中停車場は西六日町(→魚沼丘陵)、赤倉(信号場)、津池(→美佐島)と仮称されていた。最小曲線半径は400メートル、最急勾配は14パーミル、40キログラムレールを使用し、橋梁の設計[[活荷重]]はKS-16、概算工事費は50億1800万円とされた<ref name = "新線_151" />。 |
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当初計画では、六日町駅では北越急行専用プラットホームよりも高崎方でJRとの線路の接続を行うことになっていたが、専用プラットホームで発着する普通列車とは別に、越後湯沢からの特急列車が北越急行に直接進入できるようにする渡り線が追加されることになった<ref name="rj428-29"/>。十日町駅では、JR線を乗り越した後に地上に降りてプラットホームを設ける計画であった<ref name="rj428-29"/>が、プラットホーム前後に生じる急勾配と急曲線を解消するために高架上にプラットホームを設置することになった<ref name="rj428-29"/>。犀潟駅では、高架でJR線を乗り越した後に海側に北越急行専用プラットホームを設ける計画であったが、信越本線の上下線の間に降りてJR線に乗り入れる構造に改めた<ref name="rj428-29"/>。また、高速化の制約となっていた[[分岐器]]の通過速度制限を緩和するために、[[一線スルー]]にする改良を実施した<ref name="rj392-40"/>。さらに[[カント (路線)|カント]]の向上を行った<ref name = "新線_156-207" />。 |
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続いて1972年(昭和47年)10月11日に十日町 - 犀潟間の工事実施計画が認可され、1973年(昭和48年)3月24日に着工された<ref name = "新線_151-152" />。この区間の途中停車場は薬師峠(信号場)、松代(→まつだい)、儀明(信号場)、頸城大島(→ほくほく大島)、沢田(→虫川大杉)、増田(→くびき)と仮称されていた。最小曲線半径は1,000メートル、最急勾配は14パーミル、40キログラムレールを使うが長大トンネル内は50キログラムレールとし、橋梁の設計活荷重はKS-16、概算工事費は239億3400万円となった<ref name = "新線_152" />。1979年度完成を予定していた<ref name = "新線_151" />。 |
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1997年(平成9年)3月22日に開業した<ref name="rj428-32"/>。首都圏では「北陸新線」という名で宣伝された。同時に本路線を経由する[[特別急行列車|特急]]「[[はくたか (列車)|はくたか]]」の運転が開始された<ref name="rj428-32"/>。当初から160 km/h運行に対応する設備で開業したが、さらなる技術的な検討を待ってから実際の160 km/h運転を開始することにしたため、当初の特急列車の最高速度は140 km/hとされた<ref name="rj428-32"/>。その後、段階的な検証を行い、[[1998年]](平成10年)12月から「はくたか」が150 km/h運転を開始し<ref name="rj428-33"/>、続いて2002年(平成14年)3月から当初の予定通りの160 km/h運転が開始されている<ref name="rj428-33"/>。なお、ほくほく線開業後、まつだい駅から松之山温泉を訪れる行楽客が増えたという<ref name="rj392-38"/>。 |
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停車場の配線についても貨物列車の運行を前提とした計画になっており、単式ホームとされた西六日町、津池の両停車場以外のすべての停車場で列車交換が可能で、貨物列車相互の行き違いを想定してすべての交換可能駅で1,000トン貨物列車に対応した有効長460メートルを確保していた。在来線併設の六日町、十日町、犀潟を除くすべての停車場に、上下線とも[[安全側線]]を設置して、上下列車の待避線への同時進入を可能とすることになっていた。六日町、十日町、松代の各停車場については、機関車牽引の10両編成を想定してプラットホームの有効長を240メートルとし、これ以外の停車場については電車列車の6両編成を想定した140メートルとしていた<ref name = "工事誌_347" />。 |
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[[2004年]](平成16年)10月23日の[[新潟県中越地震]]では発生後全線で運転を見合わせた。10月26日より被害の少なかった[[犀潟駅|犀潟]] - [[まつだい駅|まつだい]]間で普通列車に限った臨時ダイヤによる運転を再開。11月2日に全線で運転を再開した。当初は速度制限つきの運転で、12月17日から160 km/h運転を再開している。また、[[2005年]](平成17年)2月11日より上越線が全面復旧する3月24日までの間、週末を中心にのべ13日にわたって[[急行列車|急行]]「[[能登 (列車)|能登]]」がほくほく線を経由して運転された<ref name = "dr.hokuhoku_13" />。 |
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その後、国鉄[[新潟鉄道管理局]]からの防雪設備の完備や保守の軽減化への要望があり、さらに[[運輸省]]の通達で工事実施計画に含めるべき事項が加えられたこともあり、1978年(昭和53年)7月20日に工事実施計画が変更された。これにより十日町 - 犀潟間の工事実施計画について、犀潟駅への取り付けの変更が行われ、最小曲線半径が1,000メートルから600メートルとなり、50キログラムレールの使用と[[スラブ軌道]]の採用、電化対応設備を設けることが記載された。十日町 - 犀潟間の工事予算は511億8600万円に改定され、完成予定期日は1983年(昭和58年)に延長されることになった<ref name = "新線_153" />。 |
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[[2007年]](平成19年)7月16日に発生した[[新潟県中越沖地震]]では、特急「はくたか」が終日運休となる。翌17日から運転を再開した<ref name = "dr.hokuhoku_b2"/>。 |
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この頃、[[全国新幹線鉄道整備法]]により全国的な新幹線ネットワークの整備計画が進められており、東京と北陸地方を結ぶ新幹線として[[北陸新幹線]]の基本計画が1972年(昭和47年)に制定されていた。北陸新幹線は北越北線と重複する高速鉄道計画となったが、[[高度経済成長]]の時期でもありそれほど問題視はされず、また北陸新幹線が旅客輸送、北越北線が貨物輸送と役割分担することも考えられていた。しかし1973年(昭和48年)に第一次[[オイルショック]]に見舞われると、北陸新幹線の建設は延期されることになった<ref name = "鉄道計画_138-139" />。 |
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==施設== |
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===軌道=== |
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ほくほく線は全線が単線で、[[軌条]](レール)は全線に渡り60kgレール{{refnest|group="注釈"|name="60kgレール"|1mあたりの重さが60kgのレール。}}である<ref name="rj557-27"/>。構想当初から首都圏と北陸を結ぶ優等列車や貨物列車の運転が考えられていた。しかし国鉄再建法に伴う工事中断とその後の第三セクター方式での建設再開に際して、旅客専用線として計画を改めており、重い[[機関車]]の入線は不可能となっている<ref name="rj557-45"/>。ただし[[雪かき車]]の通行は想定されており、設計に際して[[国鉄DD14形ディーゼル機関車|DD14形]]・[[国鉄DD53形ディーゼル機関車|DD53形]]の両ロータリー式雪かき車の重量が考慮されている<ref name = "工事誌_71-72" />。 |
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北越北線はその間も工事が続けられていたが、全国各地にある鉄道新線のうちの1か所でしかなく、配分される建設予算に限りがあったことや、トンネル工事が難航していたことで遅れていた<ref name = "鉄道計画_139" />。そうしているうちに国鉄の経営悪化が進み、その対策として1980年(昭和55年)に[[日本国有鉄道経営再建促進特別措置法]](国鉄再建法)の施行により鉄道新線の工事は凍結されることになった<ref name="rf577-46"/>。国鉄再建法での工事続行基準は、推定輸送密度が4,000人/日以上とされていたが、北越北線の推定輸送密度は1,600人/日であった<ref name="rj392-39"/>。この時点で用地取得は73パーセント、路盤工事は58パーセントまで進捗しており、工事費は415億円が投じられていた<ref name = "新線_153" />。1982年(昭和57年)3月に完成施設の保安工事が完了すると、建設工事は全面ストップすることになった<ref name = "鉄道計画_141" />。 |
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本線上において高速走行の列車が通過する場所にある[[分岐器]]12組をノーズ可動クロッシングとした<ref name="rj557-28"/>が、これは開業時点では、新幹線以外の日本の鉄道ではほくほく線を含めても20組程度しか導入されていなかった特殊な分岐器である<ref name="rj557-28"/>。ただし、十日町駅構内については、駅前後の曲線で速度制限を受けることによって130 km/h以下の速度での通過となる<ref name="rj557-30"/>ため、ノーズ可動クロッシングを使用していない<ref name="rj557-30"/>。また、交換設備はすべて1線スルー方式で<ref name="rj392-40"/>、直進側を通過する際には最高速度のままで通過可能である<ref name="rj392-40"/>。 |
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=== 第三セクター方式での建設再開と高速化 === |
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魚沼丘陵と東頸城丘陵を横断する線形からトンネルが14箇所と多く<ref name="rj368-54"/>、すべてのトンネルの長さを合計すると40,292mとなり<ref name="rj392-33"/>、これは路線長59.5kmの68%に相当する<ref name="rj392-33"/>。 |
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国鉄再建法では、建設が中断された地方鉄道新線について、地元が第三セクターを設立して引き受けることが可能であると定めていた<ref name = "新線_20-21" />。[[岩手県]]の[[三陸鉄道]]のように、早々にこの方針で動き出して、第三セクターでの開業を果たした鉄道もあった<ref name = "全線_200-202" />。しかし北越北線については、鉄道の経営への不安があったことに加えて、新潟県出身の[[田中角栄]]元首相が「北越北線だけは特別に貨物幹線としてやらせる」と発言していたことなどもあり、沿線自治体は第三セクター化に興味を示さなかった。だが結局北越北線が国鉄新線として工事再開されることはなかった<ref name = "鉄道計画_140-141" />。 |
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1983年(昭和58年)6月22日に東京で開催された北越北線建設促進期成同盟会総会に突然田中角栄が出席し、それまでの国鉄での建設再開の考えを撤回した上で、第三セクターでの引き受け案を持ち出した<ref name = "新線_154" /><ref name = "鉄道計画_141" />。この提案は突然のことであり、沿線自治体の関係者を困惑させた<ref name = "鉄道計画_141" />。当時の[[君健男]]新潟県知事は第三セクター化に慎重であったが<ref name="rj368-55"/>、期成同盟会会長の諸里正典十日町市長は田中の動きに呼応して第三セクター化を目指し、独断で国や公団との接触を開始した。沿線の他の市町村は、こうした諸里市長の独断専行に不満を持っていたとされる<ref name = "鉄道計画_141 - 142" />。 |
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[[架線]]支持方式は、地上区間では新幹線と同様のコンパウンドカテナリ方式を使用している<ref name="rj557-28"/>が、もともと非電化路線として建設されたため断面積の小さいトンネル内では、上下寸法の小さいツインシンプルカテナリ方式を採用しており<ref name="rj557-28"/>、さらに吊架には長幹碍子という特殊な[[碍子]]を使用している<ref name="rj557-28"/>。 |
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「プロの国鉄がやってもダメなものを、素人の県や市町村がうまくやれるはずがない」として慎重であった君知事は、第三者のコンサルタントを入れて経営分析を行わせ、また第三セクター化は越後湯沢 - 六日町間と犀潟 - 直江津間での国鉄への乗り入れを行うことを条件としてつけた。コンサルタントも、[[秋田内陸縦貫鉄道秋田内陸線]]に対して「永久に黒字転換する見込みがない」と厳しい診断を下した会社に依頼した。ところが新潟県の予想に反し、コンサルタントは「5年で単年度黒字、10年で累積黒字」との報告書を出し、また国鉄も直通運転を了承した<ref name = "新線_284" />。こうして梯子を外された格好となった新潟県は、第三セクター化推進の方針に転換することになった。裏側では、田中元首相の政治力を背景に諸里市長が立ち回り、君知事を政治的に追い込んだ、と伝えられている<ref name = "鉄道計画_142 - 143" />。こうして1984年(昭和59年)8月30日に北越急行が設立され、1985年(昭和60年)2月1日に鉄道事業の免許を取得し、3月16日に工事が再開された<ref name = "新線_154-155" />。 |
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===駅・信号場=== |
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列車の行き違いを行う交換設備は、起終点を除くと十日町・まつだい・虫川大杉・くびきの4駅と、赤倉・薬師峠・儀明の3信号所にあり、すべて10両編成同士の列車交換が可能である<ref name="rj392-40"/>。駅数は両端の六日町駅・犀潟駅を含めて12駅で<ref name="rj368-54"/>、自社管理の駅員配置駅は十日町駅だけで<ref name="rj368-54"/>、起点・終点駅である六日町駅・[[犀潟駅]]と[[十日町駅]]以外は、すべて[[無人駅]]である。また、特急の停車しない駅のプラットホームはすべて2両分のみである<ref name="rj368-53"/>が、虫川大杉駅の下り線に限り9両分の長さである<ref name="rj368-53"/>。また、信号場は3箇所ともトンネル内にある<ref name="rj368-54"/>。 |
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[[第三セクター鉄道]]として建設を再開するにあたり、建設計画が修正された。[[気動車]]による1 - 2両編成程度を想定し、最大で4両編成とし、旅客輸送のみに限定することになった。これにより全体にプラットホームと待避線の有効長が短縮され、頸城大島駅の交換設備は省略されることになった。上下列車の待避線への同時進入を考慮しないことにして安全側線も省略された。JR線と接続する六日町・十日町・犀潟の駅配線は大幅に変更され、特に十日町は飯山線と平面交差であったのが立体交差に修正された<ref name = "工事誌_348-349" />。橋梁の設計活荷重については、国鉄時代にはKS-16荷重を想定していたが、旅客のみに改められたこともあり、第三セクター化以降に建設される場所についてはKS-12荷重を採用することになった<ref name = "工事誌_71-72" />。 |
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「はくたか」・快速が停車しない駅では、列車が高速で通過して危険であることから、[[プラットホーム|ホーム]]への入口にはスイングゲートが付いていて、列車に乗降する時以外はホームに入らないようにとの注意書きがしてある<ref name="rj392-37"/>。特に[[美佐島駅]]はホームがトンネル内にあり、通過列車が接近した場合、風圧によって飛ばされる危険が高い{{refnest|group="注釈"|name="美佐島風速"|特急が140 km/hでトンネルに進入した場合、トンネル内を吹き抜ける風は、風速25mにも及ぶ<ref name="rj368-53"/>。}}ことから、列車到着後2分以内にホームから出る必要がある。このため、無人駅ながら危険防止のため、ホーム部分は常に[[監視カメラ]]によって管理されており、列車が発着した後もホームに残っているとアナウンスで注意される<ref name="rj557-39"/>。 |
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工事を中断した時点で[[鍋立山トンネル]]は中央部で645メートルの未掘削区間が残されていた<ref name="rj368-49"/>。1986年(昭和61年)2月24日に掘削が再開されたが、このわずかな区間にさらに10年余りの歳月と146億円の工費が投入されることになった<ref name = "新線_216-217" />。当初の中央導坑先進工法では強大な土圧により[[支保工]]が座屈するなどの問題を生じた<ref name="rj368-49"/>。続いて[[トンネルボーリングマシン]]を導入したが、これも掘削中に土圧により発進地点より手前まで押し戻されてしまう事態となった<ref name="rj368-49"/>。さらに注入剤を入れて<ref name="rj368-49"/>、最終的には手掘りも実施する<ref name="rj428-23"/>などして、645メートルを掘るために実に29の工法が駆使された<ref name = "新線_219" />。1992年(平成4年)10月29日にようやく先進導坑が貫通し、1995年(平成7年)3月7日に掘削完了、11月7日に竣工に漕ぎ着けた<ref name = "新線_217-219" />。ほくほく線の開業を左右したのは政治でも採算上の数値でもなく、鍋立山トンネルの工事であったと評され、このトンネルの完成によってほくほく線開業のめどが立つことになった<ref name = "全線_56-57" />。 |
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1988年(昭和63年)になり、[[整備新幹線]]問題の関係で[[北陸新幹線]]の建設の見通しが立たなかったことから、北越北線を高速化して[[スーパー特急]]を走らせる計画が[[運輸省]]から打ち出された<ref name="rj392-39"/>。もともと優等列車の運転を想定して高い規格で建設されていたこともあり、翌1989年(平成元年)5月31日に高速化に伴う工事実施計画の変更が申請され、高速化事業が動き出した<ref name = "新線_185" />。これにより、JRと直通の特急列車を走らせるために電化が実施されることになった<ref name="rj368-55"/>。高速化事業に要するとされた310億円は、建設に当たっていた公団の地方新線工事費から70億円、幹線鉄道活性化事業費補助金が42億円、北越急行出資金が40億円、JR東日本の負担金が158億円とされた<ref name = "新線_194" />。 |
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当初計画では、六日町駅では北越急行専用プラットホームよりも高崎方でJRとの線路の接続を行うことになっていたが、専用プラットホームで発着する普通列車とは別に、越後湯沢からの特急列車が北越急行に直接進入できるようにする渡り線が追加されることになった<ref name="rj428-29"/>。十日町駅では、JR線を乗り越した後に地上に降りてプラットホームを設ける計画であった<ref name="rj428-29"/>が、プラットホーム前後に生じる急勾配と急曲線を解消するために高架上にプラットホームを設置することになった<ref name="rj428-29"/>。犀潟駅では、高架でJR線を乗り越した後に海側に北越急行専用プラットホームを設ける計画であったが、信越本線の上下線の間に降りてJR線に乗り入れる構造に改めた<ref name="rj428-29"/>。また、高速化の制約となっていた[[分岐器]]の通過速度制限を緩和するために、[[一線スルー]]にする改良を実施した<ref name="rj392-40"/>。軌道を強化するため、スラブ軌道区間を延長し、レールも一部を50キログラムレールから60キログラムレールに変更し、道床厚の増大や枕木の追加を実施した<ref name = "新線_189-190" />。特急列車の最大10両編成に対応するようにプラットホームや交換駅の待避線有効長が再び延長された<ref name = "新線_192-193" />。信号設備として、高速進行現示のできる信号機を設置し、また[[自動列車停止装置]] (ATS) をATS-P形とした<ref name = "新線_190-192" />。このほか、ホーム柵の設置、雪害対策の強化、騒音防止などの措置が採られた<ref name = "新線_192" />。 |
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最終的に総工費は、地方新線建設費として1026億円、高規格化255億円の合計1281億円となった<ref name = "工事誌_9" />。工事期間中、死者は10名、負傷者は54名であった<ref name = "工事誌_21" />。 |
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=== 開業 === |
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[[ファイル:Route_comparison_between_Tokyo_and_Hokuriku_ja.png|thumb|400px|東京と北陸を結ぶルートの変遷、ほくほく線開業前は東海道新幹線米原乗換の「きらめき」ルートと、上越新幹線長岡乗換の「かがやき」ルートがあったが、ほくほく線開業により上越新幹線越後湯沢乗換の「はくたか」ルートが使われるようになった。北陸新幹線が金沢まで開業すると、最速かつ乗換なしのルートとなる]] |
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ほくほく線は、1997年(平成9年)3月22日に開業した<ref name="rj428-32"/>。路線名の「ほくほく線」は、国鉄新線としての予定線名である北越北線を略して平仮名書きしたものだが、愛称ではなく、正式な路線名称である<ref name = "hokuhoku_enkaku"/>。開業前に正式路線名を決定するにあたり、北越急行と沿線自治体が沿線住民を対象に実施したアンケートにおいて「ほくほく線」と「北越ロマン線」の2つが上位を占めた<ref name = "hokuhoku_enkaku"/>。そして選考の結果「温かいイメージで親しみやすく、呼びやすい」という理由で「ほくほく線」が選ばれた<ref name = "hokuhoku_enkaku"/>。路線名は開業の5年前の1992年(平成4年)に決定されており、異例の早い時期の路線名決定は、工事再開後もトンネル工事の遅延と高規格化工事で開業が遅れた結果であった<ref name = "鉄道計画_146" />。 |
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開業と同時に、上越新幹線と越後湯沢駅で接続して首都圏と北陸地方を結ぶ[[特別急行列車|特急]]「[[はくたか (列車)|はくたか]]」が、ほくほく線経由で運転を開始した<ref name="rj428-32"/>。ほくほく線が開業する以前は、首都圏と北陸地方を結ぶ手段は東海道新幹線で米原を経由するルートが一般的であった<ref name="rj428-23"/>が、ほくほく線が開業してからは上越新幹線と「はくたか」を乗り継ぐルートのほうが有利になる範囲が拡大された<ref name="rj557-32"/>。上越新幹線と越後湯沢で接続しての東京と金沢の間の最速所要時間は3時間43分となり、長岡経由に比べて15分短縮された<ref name = "鉄道計画_147" />。 |
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当初から160 km/h運行に対応する設備で開業したが、さらなる技術的な検討を待ってから実際の160 km/h運転を開始することにしたため、当初の特急列車の最高速度は140 km/hとされた<ref name="rj428-32"/>。その後、段階的な検証を行い、[[1998年]](平成10年)12月から「はくたか」が150 km/h運転を開始し<ref name="rj428-33"/>、続いて2002年(平成14年)3月から当初の予定通りの160 km/h運転が開始されている<ref name="rj428-33"/>。なお、ほくほく線開業後、まつだい駅から[[松之山温泉]]を訪れる行楽客が増えたという<ref name="rj392-38"/>。 |
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2004年(平成16年)10月23日の[[新潟県中越地震]]では発生後全線で運転を見合わせた。10月26日より被害の少なかった[[犀潟駅|犀潟]] - [[まつだい駅|まつだい]]間で普通列車に限った臨時ダイヤによる運転を再開。11月2日に全線で運転を再開した。当初は速度制限つきの運転で、12月17日から160 km/h運転を再開している。また、2005年(平成17年)2月11日より上越線が全面復旧する3月24日までの間、週末を中心にのべ13日にわたって[[急行列車|急行]]「[[能登 (列車)|能登]]」がほくほく線を経由して運転された<ref name = "dr.hokuhoku_13" />。2007年(平成19年)7月16日に発生した[[新潟県中越沖地震]]では、特急「はくたか」が終日運休となり、翌17日から運転を再開した<ref name = "dr.hokuhoku_b2"/>。 |
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一方、ほくほく線の高規格化が行われるきっかけとなった整備新幹線計画問題については、その後北陸新幹線について計画が見直されるたびに順次フル規格での建設が進められていった。北陸新幹線高崎 - 長野間については、ほくほく線のおよそ半年後の1997年(平成9年)10月1日に開業したが、この時点では上越新幹線・ほくほく線経由が北陸地方への最速ルートであり、北陸へ向かうには北陸新幹線ではない新幹線に乗らなければならない状態となり、[[長野新幹線]]という名前が付けられる一因となった<ref name = "鉄道計画_148-150" />。しかし2015年(平成27年)春に予定されている北陸新幹線の金沢開業後は、特急「はくたか」は廃止されてほくほく線はローカル線に転落してしまうことになる<ref name = "鉄道計画_149-151" />。 |
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ほくほく線は10日間しか営業していなかった初年度を除いて毎年数億円の黒字となっている<ref name="rj392-41"/>。2001年度の営業収支率は73.0パーセントであり、[[第三セクター鉄道]]の中では経営状態は良好であるが、全体の9割が特急による収益で普通列車の収益は全体の1割にも満たない<ref name="rj557-44"/>。北陸新幹線開業によるローカル線転落に備えて、これまでの利益を赤字補填用に蓄えてあり、2013年(平成25年)3月31日時点で剰余金は約92億円に上る<ref name = "鉄道計画_151-152" />。また2012年(平成24年)時点で「はくたか」利用者の22パーセントから25パーセントが北陸新幹線でも乗り換えを要する直江津で乗降している<ref name="rj557-45"/>。これらのことから、北越急行では「ほくほく線経由の需要も残るのではないか」と予測しており<ref name="rj557-45"/>、事業を継続することは可能であるという見通しをもっている<ref name="rj557-45"/>。 |
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=== 年表 === |
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* 1931年(昭和6年)8月 - 地元の関係者が国会に請願書を提出し、鉄道敷設運動が始まる<ref name = "新線_140-141" />。 |
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* 1940年(昭和15年) - 越後湯沢と結ぶ北越南線構想が持ち上がる<ref name = "新線_142" />。 |
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* 1944年(昭和19年) - 信濃川発電所工事線を延長する形で松代と結ぶ路線の建設が決まるが、後に敗戦により計画中止<ref name = "新線_142" />。 |
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* 1950年(昭和25年)9月3日 - 北陸上越連絡鉄道(上越西線)期成同盟会発会式<ref name = "新線_144" />。 |
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* 1953年(昭和28年) |
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** 2月 - 第9回鉄道建設審議会で地元意見の不一致を理由として審議未了・保留<ref name = "鉄道計画_133-134" />。 |
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** 8月 - 新潟県知事裁定により北越北線採択<ref name = "新線_147" />。 |
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** 9月 - 期成同盟会総会を南線側がボイコット<ref name = "新線_147" />。 |
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* 1961年(昭和36年)2月23日 - 南北両派が一本化で協力推進する協約を締結<ref name = "新線_148" />。 |
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* 1962年(昭和37年) |
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** 4月22日 - 鉄道建設審議会が上越西線(北越北線)を予定線に採択<ref name = "新線_148" />。 |
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** 5月12日 - 鉄道敷設法第1条別表第55ノ3号により、予定路線に編入<ref name = "衆議院19620512" />。 |
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* 1964年(昭和39年) |
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** 4月22日 - 運輸大臣により、北越北線を調査線に指示<ref name = "新線_149" />。 |
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** 9月28日 - 工事線に昇格<ref name = "新線_149" />、運輸大臣が路線の基本計画を定め、[[日本鉄道建設公団]](鉄道公団)に対して工事実施計画の指示<ref name = "新線_150" />。 |
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* 1968年(昭和43年) |
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** 3月28日 - 六日町 - 十日町間工事実施計画認可<ref name = "新線_150" />。 |
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** 8月14日 - 六日町 - 十日町間着工<ref name = "新線_150" />。 |
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* 1972年(昭和47年)10月11日 - 十日町 - 犀潟間工事実施計画認可<ref name = "新線_150" />。 |
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* 1973年(昭和48年)3月24日 - 十日町 - 犀潟間着工<ref name = "新線_150" />。 |
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* 1978年(昭和53年)7月20日 - 停車場有効長の延伸、[[スラブ軌道]]の採用、電化準備工事などを含めた工事実施計画変更<ref name = "新線_153" />。 |
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* 1980年(昭和55年)12月27日 - 日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)施行<ref name = "衆議院19801227" />により工事凍結<ref name = "新線_153" />。 |
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* 1982年(昭和57年)3月 - 完成済み施設の保安工事完了、工事全面停止<ref name = "鉄道計画_141" />。 |
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* 1983年(昭和58年)6月22日 - 北越北線建設促進期成同盟会総会において、田中角栄元首相から第三セクター化の構想が提示される<ref name = "新線_154" />。 |
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* 1984年(昭和59年) |
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** 3月1日 - 第三セクター設立準備会設立<ref name = "新線_154-155" />。 |
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** 8月27日 - 北越急行創立総会を新潟市で開催<ref name = "新線_154-155" />。 |
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** 8月30日 - 北越急行株式会社設立登記<ref name = "新線_154-155" />。 |
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** 11月8日 - 国鉄再建法第14条第1項に基づく国鉄新線の告示<ref name = "新線_154-155" />。 |
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* 1985年(昭和60年) |
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** 2月1日 - 北越急行が地方鉄道業の免許を受ける<ref name = "新線_154-155" />。 |
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** 2月25日 - 運輸大臣により鉄道公団へ工事実施計画の指示<ref name = "新線_154-155" />。 |
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** 3月16日 - 鉄道公団により工事再開<ref name = "新線_154-155" />。 |
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* 1988年(昭和63年)8月 - 運輸省が「整備新幹線運輸省規格案」を発表、北陸新幹線と連携した幹線鉄道とするための、北越急行の電化・高規格化を提唱<ref name = "新線_179-180" />。 |
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* 1989年(平成元年) |
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** 3月28日 - JR東日本と北越急行の間で北越北線高規格化に関する基本協定を締結<ref name = "新線_187-188" />。 |
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** 5月31日 - 北越急行、事業基本計画の変更申請、最高速度を95 km/hから130 km/hへ、動力方式を内燃から電気へ、別途160 km/h対応で基礎的施設の工事を行っておくことを表明<ref name = "新線_185-186" />。 |
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** 7月31日 - 運輸大臣が鉄道公団に対して工事実施計画の変更指示<ref name = "新線_186" />。 |
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** 10月2日 - 高規格化対応工事に着手<ref name = "新線_186" />。 |
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* 1996年(平成8年)4月15日 - まつだい駅構内にてレール締結式<ref name = "工事誌_318" />。 |
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* 1997年(平成9年)3月22日 - ほくほく線開業<ref name="rj428-32"/>。 |
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* 1998年(平成10年)12月8日 - 「はくたか」を150 km/hにスピードアップ<ref name = "5周年_26-27" />。 |
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* 2002年(平成14年)3月23日 - 「はくたか」を160 km/hにスピードアップ<ref name = "5周年_26-27" />。 |
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* 2004年(平成16年) |
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** 10月23日 - 新潟県中越地震発生、全線で運休となる<ref name = "dr.hokuhoku_13" />。 |
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** 10月26日 - 犀潟 - まつだい間で運転再開<ref name = "dr.hokuhoku_13" />。 |
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** 11月2日 - 全線で運転を再開<ref name = "dr.hokuhoku_13" />。 |
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* 2007年(平成19年)7月16日 - 新潟県中越沖地震発生、「はくたか」の運転を1日休止<ref name = "dr.hokuhoku_b2"/>。 |
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== 施設 == |
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=== 構造物 === |
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構想当初から首都圏と北陸を結ぶ優等列車や貨物列車の運転が考えられており、それに備えてKS-16荷重を採用していた<ref name = "新線_150-151" />。しかし国鉄再建法に伴う工事中断とその後の第三セクター方式での建設再開に際して、旅客専用線として計画を改めており、重い[[機関車]]の入線は不可能となっている<ref name="rj557-45"/>。第三セクター化後に建設された区間の活荷重はKS-12荷重を採用している<ref name = "工事誌_71-72" />。ただし[[雪かき車]]の通行は想定されており、設計に際して[[国鉄DD14形ディーゼル機関車|DD14形]]・[[国鉄DD53形ディーゼル機関車|DD53形]]の両ロータリー式雪かき車の重量が考慮されている<ref name = "工事誌_71-72" />。 |
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魚沼丘陵と東頸城丘陵を横断する線形からトンネルが14か所と多く<ref name="rj368-54"/>、すべてのトンネルの長さを合計すると40,342メートルとなり、これは路線長59,468メートルの67.8パーセントに相当する<ref name = "工事誌_66" />。他の構造種別は、土路盤が9,679メートルで16.3パーセント(うち切取1,042メートル、盛土8,637メートル)、橋梁が9,447メートルで15.9パーセントである<ref name = "工事誌_66" />。 |
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全長が3,000メートルを超えるトンネルについて、起点側から順に以下に示す。 |
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; [[赤倉トンネル]] |
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: 赤倉トンネルは、魚沼丘陵 - しんざ間に位置する全長10,471.5メートルのトンネルで、トンネル内に赤倉信号場と美佐島駅が存在する<ref name = "dr.hokuhoku_5" />。JR以外の日本の鉄道トンネルではもっとも長い<ref name = "dr.hokuhoku_5" />。東工区4,281.5メートル、中工区4,140.0メートル、西工区2,050.0メートルの3つの工区に分割して施工され、東工区および中工区では膨張性地圧と大量の湧水により工事が難航した<ref name = "工事誌_129" />。トンネル内で上越新幹線の[[塩沢トンネル]]と立体交差となっており、交差部でのトンネル間隔は1メートルもない条件で、先に赤倉トンネルが施工されたことから塩沢トンネル施工前に赤倉トンネルに補強工事を行っている<ref name = "上越工事誌" />。1969年(昭和44年)から1974年(昭和49年)にかけて建設され<ref name = "工事誌_125" />、工事凍結時点では既に完成済みであった。 |
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; 薬師峠トンネル |
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: 薬師峠トンネルは、十日町 - まつだい間に位置する全長6,199.17メートルのトンネルで、トンネル内に薬師峠信号場が存在する<ref name = "dr.hokuhoku_5" />。東工区3,647メートル、西工区2,522メートルに分割されて施工され、西工区では地質に恵まれ順調に掘削できたものの、東工区は大規模な異常出水に直面したほか、国鉄[[信濃川発電所]]用の水路トンネル2本との立体交差があり、特別な対応が求められた<ref name = "工事誌_150" />。1973年(昭和48年)から1979年(昭和54年)にかけて建設され<ref name = "工事誌_125" />、工事凍結時点では既に完成済みであった。 |
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; [[鍋立山トンネル]] |
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: 鍋立山トンネルは、まつだい - ほくほく大島間に位置する全長9116.5メートル(スノーシェッド13メートルを含めて9129.5メートル)のトンネルで、トンネル内に儀明信号場が存在する<ref name = "dr.hokuhoku_5" />。東工区1750.5メートル、中工区3,387.0メートル、西工区3979.0メートルに分割して施工され<ref name = "回顧_766" />、東工区は予定通りの工期で完成したが、西工区の後半(トンネル中央側)と中工区は膨張性地山と可燃性ガスの湧出により苦しめられた<ref name = "工事誌_160" />。1973年(昭和48年)に着工したが、1982年(昭和57年)の工事凍結時点で645メートルが未掘削で残されており、工事再開後も日本のトンネル工事史上未曽有とされる困難を極める工事となった<ref name = "工事誌_160" />。最終的に1995年(平成7年)に完成し<ref name = "新線_216-217" />、途中の中断期間を含めると21年11か月を要した。 |
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; 霧ヶ岳トンネル |
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: 霧ヶ岳トンネルは、ほくほく大島 - 虫川大杉間に位置する全長3726.98メートル(スノーシェッド6メートルを含めて3732.98メートル)のトンネルである<ref name = "dr.hokuhoku_5" />。東工区1,826メートル(入口側の六夜沢橋梁を含む)、西工区1,828メートル、出口側開削区間140メートルの3工区に分割して施工された。地質に恵まれた工事であったが、西工区は建設中に工事凍結を迎え、東工区は工事再開後の着工であった<ref name = "工事誌_240" />。1978年(昭和53年)から1992年(平成4年)にかけて建設された<ref name = "工事誌_125" />。 |
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; 第一飯室トンネル |
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: 第一飯室トンネルは、うらがわら - 大池いこいの森間に位置する全長3287メートルのトンネルである<ref name = "dr.hokuhoku_5" />。東工区1,610メートル、西工区1,672メートルに分割して施工され、一部崩壊性地山に遭遇して難渋したが全体的には順調な進行で<ref name = "工事誌_242" />、工事再開後の1988年(昭和63年)に着工し1991年(平成3年)までかけて建設された<ref name = "工事誌_125" />。 |
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全線で橋梁が28か所、高架橋が35か所、架道橋が69か所、線路橋が3か所、溝橋が2か所ある<ref name = "工事誌_88" />。最長の橋梁は、十日町 - 薬師峠信号場間にある信濃川橋梁で、全長406.73メートルである<ref name = "工事誌_冒頭図" /><ref name = "工事誌_89" />。橋脚や橋台は国鉄線として施工されたためKS-16荷重で設計されているが、橋桁は第三セクター化されてからの施工のためKS-12荷重となっている。1径間68メートルの3径間連続[[トラス橋|トラス]]を2連用いた橋梁となっている<ref name = "工事誌_92-94" />。 |
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=== 軌道 === |
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ほくほく線は全線が単線で<ref name="rj557-27"/>、[[軌条]](レール)は60キログラムレール{{Refnest|group="注釈"|name="60kgレール"|1mあたりの重さが60kgのレール。}}が大半を占めるが、50キログラムレールを使用している区間もある<ref name = "工事誌_307" />。また全線の約7割が[[スラブ軌道]]であり、[[バラスト軌道]]が約2割であるほか、事情に応じて合成まくらぎ直結軌道、弾性まくらぎ直結軌道、鋼直結軌道、パネル軌道などの区間がある<ref name = "工事誌_307" />。 |
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建設中数度に渡り工事実施計画の変更が行われたが、最終的に最小曲線半径は400メートル、最急勾配は33パーミルとなっている<ref name = "工事誌_7-8" />。半径の小さな曲線はすべて、JR線と接続する六日町・十日町・犀潟の駅付近に位置し、それ以外の区間では半径800メートル以上である<ref name = "新線路_34-35" />。もっとも曲線のきつい半径400メートルのカーブは犀潟駅の1か所のみで、制限速度は80 km/hである<ref name = "新線路_34-35" />。高規格化にあたって、緩和曲線長の延伸などの改良が行われている<ref name = "新線路_34-35" />。 |
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本線上において高速走行の列車が通過する場所にある[[分岐器]]12組をノーズ可動クロッシングとした<ref name="rj557-28"/>が、これは開業時点では、新幹線以外の日本の鉄道ではほくほく線を含めても20組程度しか導入されていなかった特殊な分岐器である<ref name="rj557-28"/>。ただし、十日町駅構内については、駅前後の曲線で速度制限を受けることによって130 km/h以下の速度での通過となる<ref name="rj557-30"/>ため、ノーズ可動クロッシングを使用していない<ref name="rj557-30"/>。また、交換設備はすべて1線スルー方式で<ref name="rj392-40"/>、直進側を通過する際には最高速度のままで通過可能である<ref name="rj392-40"/>。 |
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[[踏切]]は、始終端の六日町駅・犀潟駅構内の2か所のみであり<ref name = "新線_180" />、線区の中間にはまったく踏切が存在しない。この2か所の踏切では、前後に存在する曲線や分岐器に伴う速度制限により、列車の通過速度が130 km/h以下に抑えられることから、他の線区の踏切と同等であるとして、特段の保安措置は採られていない<ref name = "新線_190-192" />。 |
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=== 駅・信号場 === |
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列車の行き違いを行う[[列車交換|交換設備]]は、起終点を除くと十日町・まつだい・虫川大杉・くびきの4駅と、赤倉・薬師峠・儀明の3信号場にあり、すべて10両編成同士の列車交換が可能である<ref name="rj392-40"/>。駅数は両端の六日町駅・犀潟駅を含めて12駅で<ref name="rj368-54"/>、自社管理の駅員配置駅は十日町駅だけで<ref name="rj368-54"/>、起点・終点駅である六日町駅・[[犀潟駅]]と[[十日町駅]]以外は、すべて[[無人駅]]である。また、特急の停車しない駅のプラットホームはすべて2両分のみである<ref name="rj368-53"/>が、虫川大杉駅の下り線に限り9両分の長さである<ref name="rj368-53"/>。また、信号場は3か所ともトンネル内にある<ref name="rj368-54"/>。トンネル内の信号場は、国鉄新線としての建設時に貨物列車の運行を計画していたことから、有効長460メートルを実現するために、複線断面となっている延長が680メートルに達しているが、実際の待避線有効長は240メートルとなっている<ref name = "工事誌_353" />。 |
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「はくたか」・快速が停車しない駅では、列車が高速で通過して危険であることから、[[プラットホーム|ホーム]]への入口にはスイングゲートが付いていて、列車に乗降する時以外はホームに入らないようにとの注意書きがしてある<ref name="rj392-37"/>。特に[[美佐島駅]]はホームがトンネル内にあり、通過列車が接近した場合、風圧によって飛ばされる危険が高い{{Refnest|group="注釈"|name="美佐島風速"|特急が140 km/hでトンネルに進入した場合、トンネル内を吹き抜ける風は、風速25メートルにも及ぶ<ref name="rj368-53"/>。}}ことから、列車到着後2分以内にホームから出る必要がある。このため、無人駅ながら危険防止のため、ホーム部分は常に[[監視カメラ]]によって管理されており、列車が発着した後もホームに残っているとアナウンスで注意される<ref name="rj557-39"/>。 |
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車両基地は六日町駅に隣接しており<ref name="rj557-36"/>、2両編成×3編成が収容可能な収容庫と、検修庫に分かれている<ref name="rj557-36"/>。 |
車両基地は六日町駅に隣接しており<ref name="rj557-36"/>、2両編成×3編成が収容可能な収容庫と、検修庫に分かれている<ref name="rj557-36"/>。 |
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===閉塞方式=== |
=== 閉塞方式 === |
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閉塞方式は単線自動閉塞式で<ref name="rj392-40"/>、出発信号機8機と閉塞信号機22機を使用<ref name="rj392-40"/>、1閉塞平均の距離は1,566mである<ref name="rj392-40"/>。[[列車集中制御装置]] (CTC) とプログラム式進路制御 (PRC) を併用し<ref name="rj392-40"/>、進路設定の上で支障となる要因がなくなると30秒で進路を設定できる<ref name="rj392-40"/>。 |
[[閉塞 (鉄道)|閉塞]]方式は単線自動閉塞式で<ref name="rj392-40"/>、出発信号機8機と閉塞信号機22機を使用<ref name="rj392-40"/>、1閉塞平均の距離は1,566mである<ref name="rj392-40"/>。[[列車集中制御装置]] (CTC) とプログラム式進路制御 (PRC) を併用し<ref name="rj392-40"/>、進路設定の上で支障となる要因がなくなると30秒で進路を設定できる<ref name="rj392-40"/>。 |
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===保安装置=== |
=== 保安装置 === |
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[[ファイル:Kousokushinko.png|thumb|160 km/h走行を指示する高速進行現示、緑が2灯点灯している]] |
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保安装置([[自動列車停止装置]])はATS-P形を採用した<ref name="rj557-29"/>。当初、運輸省では高速運転に際して、新幹線と同様に[[自動列車制御装置]] (ATC) の導入を求めていた<ref name="rj557-28"/>が、導入コストの問題のほか<ref name="rj557-28"/>、各地からの臨時列車の乗り入れが車種の制限なく行えるようにするため<ref name="rj557-28"/>、ATS-P形の導入となった。また、交換駅での同時進入は通常なら警戒現示により25km/h制限となるところ<ref name="rj392-40"/>、ATS-P形の導入によって本線側55km/h・分岐側45km/hに制限速度が緩和されている<ref name="rj392-40"/>。また、130 km/h以上での走行を許可する「高速進行現示」として主信号機では緑2灯の点灯、中継信号機では縦に6灯の点灯をもって、高速進行現示とする「GG信号」が導入された<ref name="rj557-29"/>。このGG信号は、ATS-Pトランスポンダを搭載した車両に限って現示されるもので、トランスポンダ搭載車が信号機を通過する数十秒前にG信号(進行現示)からの変換によりGG信号が現示される<ref name="rj368-47"/>。 |
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保安装置([[自動列車停止装置]])はATS-P形を採用した<ref name="rj557-29"/>。当初、運輸省では高速運転に際して、新幹線と同様に[[自動列車制御装置]] (ATC) の導入を求めていた<ref name="rj557-28"/>が、導入コストの問題のほか<ref name="rj557-28"/>、各地からの臨時列車の乗り入れが車種の制限なく行えるようにするため<ref name="rj557-28"/>、ATS-P形の導入となった。また、交換駅での同時進入は通常なら警戒現示により25km/h制限となるところ<ref name="rj392-40"/>、ATS-P形の導入によって本線側55km/h・分岐側45km/hに制限速度が緩和されている<ref name="rj392-40"/>。また、130 km/h以上での走行を許可する「高速進行現示」として主信号機では緑2灯の点灯、中継信号機では縦に6灯の点灯をもって、高速進行現示とする「GG信号」が導入された<ref name="rj557-29"/>。このGG信号は、ATS-Pトランスポンダを搭載した車両に限って現示されるもので、トランスポンダ搭載車が信号機を通過する数十秒前にG信号(進行現示)からの変換によりGG信号が現示される<ref name="rj368-47"/>。このGG信号の導入により、それまでの緑1灯の点灯となる進行現示(G信号)は130 km/hの制限信号となった<ref name="rj368-46"/>。 |
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=== 電力設備 === |
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160 km/h走行を考えれば電流を小さくできる[[交流電化]]の方が有利な面が多いが、トンネル断面が小さくて交流の絶縁離隔確保ができないことから[[直流電化]]が採用されている<ref name = "電気設備_46-47" />。[[架線]]支持方式は、地上区間では新幹線と同様のコンパウンドカテナリ方式を使用している<ref name="rj557-28"/>が、もともと非電化路線として建設されたため断面積の小さいトンネル内では、上下寸法の小さいツインシンプルカテナリ方式を採用しており<ref name="rj557-28"/>、さらに吊架には長幹碍子という特殊な[[碍子]]を使用している<ref name="rj557-28"/>。[[変電所]]は、おおむね10キロメートル間隔で六日町、津池、十日町、松代、大島、浦川原、大潟の7か所に設置されている<ref name = "電気設備_47-48" />。 |
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ほくほく線の最高速度は160 km/hで、これは新幹線を除く鉄道では[[京成成田空港線]]の「[[スカイライナー]]」とともに日本では最速である。160 km/hに設定された背景には、国鉄時代に湖西線で行われた高速走行試験の目標が160 km/hであったこと<ref name="rj428-23"/>や、「新幹線の在来線の軌間の比率を考えると、200 km/hに対して160 km/hとなる」という考えもあったことが挙げられる<ref name="rj557-29"/>。「140 km/hでも十分」という意見もあった<ref name="rj557-29"/>が、関係者や技術者の多くは「絶対に在来線鉄道の将来に役立つ」と協力を惜しまなかったという<ref name="rj557-29"/>。 |
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=== 最高速度 === |
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しかし、1996年から開始された開業前の試運転の際には、高速走行時の車内で予想以上の気圧変動が発生しており<ref name="rj428-30"/>、気密構造でなかった681系を使用した試運転で窓の接着部分には指が入るほどの隙間ができてしまったことすらあった<ref name="rj557-29"/>。これらの現象は、ほくほく線のトンネルが単線断面であり、かつトンネル断面が複雑であることが要因であった<ref name="rj428-30"/>が、これに伴い、ほくほく線で高速運転を行う特急形車両については、扉が閉じた際に圧着させるなどの対策を施した簡易気密構造の車両に限定されることになった<ref name="rj428-30"/>。その後の半年にわたる試運転で安全性は立証された<ref name="rj428-32"/>ものの、万全を期して、開業当初の最高速度は140 km/hとした<ref name="rj428-32"/>。その2年後に行われた特急形車両の重要部検査時には、車両の構体に亀裂などがないかを微細に確認した上で<ref name="rj428-32"/>、1998年12月から150 km/h運転を開始した<ref name="rj428-33"/>。さらに2年後に行われた全般検査時にも構体に対して同様の確認を行い<ref name="rj428-33"/>、2000年11月21日には160 km/h運転の試運転を行った上で問題がないことを確認<ref name="rj428-33"/>、2002年3月から160 km/h運転が開始されている<ref name="rj428-23"/>。 |
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ほくほく線の最高速度は160 km/hで、これは新幹線を除く鉄道では[[京成成田空港線]]の「[[スカイライナー]]」とともに日本では最速である。160 km/hに設定された背景には、国鉄時代に湖西線で行われた高速走行試験の目標が160 km/hであったこと<ref name="rj428-23"/>や、「新幹線の在来線の軌間の比率を考えると、200 km/hに対して160 km/hとなる」という考えもあったことが挙げられる<ref name="rj557-29"/>。「140 km/hでも十分」という意見もあった<ref name="rj557-29"/>が、関係者や技術者の多くは「絶対に在来線鉄道の将来に役立つ」と協力を惜しまなかったという<ref name="rj557-29"/>。 |
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しかし、1996年から開始された開業前の試運転の際には、高速走行時の車内で予想以上の気圧変動が発生しており<ref name="rj428-30"/>、気密構造でなかった681系を使用した試運転で窓の接着部分には指が入るほどの隙間ができてしまったことすらあった<ref name="rj557-29"/>。これらの現象は、ほくほく線のトンネルが単線断面であり、かつトンネル断面が複雑であることが要因であった<ref name="rj428-30"/>が、これに伴い、ほくほく線で高速運転を行う特急形車両については、扉が閉じた際に圧着させるなどの対策を施した簡易気密構造の車両に限定されることになった<ref name="rj428-30"/>。その後の半年にわたる試運転で安全性は立証された<ref name="rj428-32"/>ものの、万全を期して、開業当初の最高速度は140 km/hとした<ref name="rj428-32"/>。その2年後に行われた特急形車両の重要部検査時には、車両の構体に亀裂などがないかを微細に確認した上で<ref name="rj428-32"/>、1998年12月8日から150 km/h運転を開始した<ref name = "5周年_26-27" />。さらに2年後に行われた全般検査時にも構体に対して同様の確認を行い<ref name="rj428-33"/>、2000年11月21日には160 km/h運転の試運転を行った上で問題がないことを確認<ref name="rj428-33"/>、2002年3月23日から160 km/h運転が開始されている<ref name = "5周年_26-27" />。 |
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通常ダイヤであれば155km/h程度で定時運行が可能で<ref name="rj557-31"/>、160 km/hは列車が遅延した際の余裕と考えられている<ref name="rj557-31"/>。また、最高速度である160 km/hで走行できる区間は、下り列車が赤倉・鍋立山・霧ヶ岳の各トンネル内とくびき駅から犀潟駅までの高架橋区間<ref name="rj428-33"/>、上り列車では薬師峠トンネル内となっている<ref name="rj428-33"/>。さらに、気圧変動の緩和のため、ATS-Pによってトンネル進入時に130 km/hに速度を落とし、進入後のトンネル内で160 km/hまで加速させている<ref name="rj428-33"/>。 |
通常ダイヤであれば155km/h程度で定時運行が可能で<ref name="rj557-31"/>、160 km/hは列車が遅延した際の余裕と考えられている<ref name="rj557-31"/>。また、最高速度である160 km/hで走行できる区間は、下り列車が赤倉・鍋立山・霧ヶ岳の各トンネル内とくびき駅から犀潟駅までの高架橋区間<ref name="rj428-33"/>、上り列車では薬師峠トンネル内となっている<ref name="rj428-33"/>。さらに、気圧変動の緩和のため、ATS-Pによってトンネル進入時に130 km/hに速度を落とし、進入後のトンネル内で160 km/hまで加速させている<ref name="rj428-33"/>。 |
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なお、うらがわら駅と大池いこいの森駅の間の曲線では |
なお、うらがわら駅と大池いこいの森駅の間の曲線では135 km/hに制限されている<ref name="rj557-31"/>が、これは在来線ではもっとも高速の速度制限である<ref name="rj557-31"/>。 |
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== 運行形態 == |
== 運行形態 == |
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ほくほく線では、上越新幹線と接続して北陸方面を結ぶ特急列車<ref name="rj368-54"/>と、地域内利用を主眼とした普通列車が運行されている<ref name="rj368-55"/>。正式な起点は六日町駅だが、列車運行および旅客案内では犀潟駅から六日町駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている<ref name="rj368-44"/>。これは、特急「はくたか」がJR西日本主体の列車であり<ref name="rj368-44"/>、北陸本線に合わせたためである<ref name="rj368-44"/>。 |
ほくほく線では、上越新幹線と接続して北陸方面を結ぶ特急列車<ref name="rj368-54"/>と、地域内利用を主眼とした普通列車が運行されている<ref name="rj368-55"/>。正式な起点は六日町駅だが、列車運行および旅客案内では犀潟駅から六日町駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている<ref name="rj368-44"/>。これは、特急「はくたか」がJR西日本主体の列車であり<ref name="rj368-44"/>、北陸本線に合わせたためである<ref name="rj368-44"/>。 |
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===特徴=== |
=== 特徴 === |
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開業当初から、越後湯沢での上越新幹線連絡を最優先にしたダイヤ設定が行われている<ref name="rj392-34"/>。 |
開業当初から、越後湯沢での上越新幹線連絡を最優先にしたダイヤ設定が行われている<ref name="rj392-34"/>。 |
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この結果、1999年時点では特急「はくたか」同士のすれ違いは、56回中24回がほくほく線内で行われていた<ref name="rj392-34"/>{{ |
この結果、1999年時点では特急「はくたか」同士のすれ違いは、56回中24回がほくほく線内で行われていた<ref name="rj392-34"/>{{Refnest|group="注釈"|name="はくたか1999"|この当時の特急「はくたか」は10往復<ref name="rj392-34"/>。}}。また、ほくほく線内のみを運転する普通列車は、数駅ごとに特急列車の待避や交換待ちなどで長時間停車する列車が多い<ref name="rj368-57"/>。1999年の時点では、通過駅のない普通列車で最も短い所要時間が直江津から六日町までで49分45秒であったのに対して<ref name="rj392-34"/>、最長の所要時間を要する列車では六日町から直江津までに1時間24分かかっていた<ref name="rj392-36"/>。 |
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JR線内へ乗り入れる快速・各駅停車はJR線内で通過運転を行っており、上越線の[[上越国際スキー場前駅]](冬期のみ)と[[塩沢駅]]に一部列車が停車する<ref name="rj368-53"/>が、上越線の[[石打駅]]・[[大沢駅 (新潟県)|大沢駅]]と信越本線の[[黒井駅 (新潟県)|黒井駅]]は全列車が通過となる<ref name="rj368-53"/>。これは、短い編成でワンマン運転を行うほくほく線の列車では、JR線内での突発的な需要に応じ切れないことが理由と考えられている<ref name="rj368-53"/>。 |
JR線内へ乗り入れる快速・各駅停車はJR線内で通過運転を行っており、上越線の[[上越国際スキー場前駅]](冬期のみ)と[[塩沢駅]]に一部列車が停車する<ref name="rj368-53"/>が、上越線の[[石打駅]]・[[大沢駅 (新潟県)|大沢駅]]と信越本線の[[黒井駅 (新潟県)|黒井駅]]は全列車が通過となる<ref name="rj368-53"/>。これは、短い編成でワンマン運転を行うほくほく線の列車では、JR線内での突発的な需要に応じ切れないことが理由と考えられている<ref name="rj368-53"/>。 |
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ほくほく線内の列車に乗務する乗務員は、特急列車では境界駅の犀潟駅・六日町駅に停車しない関係で(六日町駅は一部の列車が停車)運転士・車掌共にJR東日本直江津運輸区が担当している。かつてはJR西日本の車掌もほくほく線区間を乗務することがあった<ref name="rj368-51"/>が、2012年時点では車掌も運転士と同様の区間に乗務している<ref name="rj557-23"/>。一方、普通列車については、JR東日本の区間も含めて北越急行の運転士が担当する<ref name="rj368-51"/>。 |
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=== 列車の乗降方法 === |
=== 列車の乗降方法 === |
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駅員が配置されている六日町駅、十日町駅、犀潟駅ではすべてのドアが開き乗降が可能だが、これらの駅以外の駅で乗降する場合は、2両編成で運転される普通・快速列車の2両目のドアは開けず、1両目の後部のドアより乗車し、1両目の前部のドアより降車する[[ワンマン運転#後乗り前降り|後乗り前降り]]方式を取っている<ref name="dr.hokuhoku_16" />。 |
駅員が配置されている六日町駅、十日町駅、犀潟駅ではすべてのドアが開き乗降が可能だが、これらの駅以外の駅で乗降する場合は、2両編成で運転される普通・快速列車の2両目のドアは開けず、1両目の後部のドアより乗車し、1両目の前部のドアより降車する[[ワンマン運転#後乗り前降り|後乗り前降り]]方式を取っている<ref name="dr.hokuhoku_16" />。 |
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===運行管理=== |
=== 運行管理 === |
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ほくほく線の運行管理は、六日町駅に隣接した運転指令所により行われている<ref name="rj392-41"/>。 |
ほくほく線の運行管理は、六日町駅に隣接した運転指令所により行われている<ref name="rj392-41"/>。 |
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また、運転通告についても、JRなどで行われている運転通告券による方式は無人駅の多いほくほく線では困難であるため<ref name="rj557-32"/>、無線伝達をもって運転通告としている<ref name="rj557-32"/>。このため、全線にわたって漏洩同軸ケーブル (LCX) が敷設され<ref name="rj392-40"/>、列車がほくほく線内のどの位置にいても運転指令所との通信が明瞭に行える<ref name="rj392-40"/>。 |
また、運転通告についても、JRなどで行われている運転通告券による方式は無人駅の多いほくほく線では困難であるため<ref name="rj557-32"/>、無線伝達をもって運転通告としている<ref name="rj557-32"/>。このため、全線にわたって漏洩同軸ケーブル (LCX) が敷設され<ref name="rj392-40"/>、列車がほくほく線内のどの位置にいても運転指令所との通信が明瞭に行える<ref name="rj392-40"/>。 |
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ほくほく線区間の特急の運転士は前述の通りJRの乗務員が担当しているが、ほくほく線内では一切の指揮系統は北越急行の運転指令によるものとなる<ref name="rj557-23"/>。逆に、普通列車の乗務員については、JR東日本区間ではJR東日本の指揮下となる<ref name="rj557-23"/>。 |
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== 雪対策 == |
== 雪対策 == |
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前述の通り、ほくほく線は路線長の68 |
前述の通り、ほくほく線は路線長の68パーセントがトンネルであるが、沿線は1日の間に数十センチの積雪があるほどの豪雪地帯である<ref name="rj557-36"/>。このため、残る地上区間については数々の雪対策が施されている。 |
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; 高架橋 |
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;高架橋:高架橋の中に雪が溜まらないようにする対策として、くびき付近では線路と側壁の間が吹き抜けとなっている「開床式高架橋」を採用している<ref name="rj428-29"/>ほか、周囲が田園地帯の区間の高架橋には、そもそも側壁自体が設けられていない<ref name="rj368-53"/>。一方、しんざ駅と十日町駅の間の高架橋では、赤倉トンネルの湧水をそのまま線路脇に流している<ref name="rj557-39"/>。 |
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: 高架橋の中に雪が溜まらないようにする対策として、くびき付近では線路と側壁の間が吹き抜けとなっている「開床式高架橋」を採用している<ref name="rj428-29"/>ほか、周囲が田園地帯の区間の高架橋には、そもそも側壁自体が設けられていない<ref name="rj368-53"/>。一方、しんざ駅と十日町駅の間の高架橋では、赤倉トンネルの湧水をそのまま線路脇に流している<ref name="rj557-39"/>。 |
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; 消雪溝 |
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;融雪ピット:車両が排雪した後も線路脇に雪の壁を作らないようにするための装備。六日町駅構内の踏切脇に設けられており<ref name="rj557-37"/>、レールの間の枕木上にFRP製のトレーを置き、地下水を流すことによって列車に押された線路内の雪の量を減らす<ref name="rj557-37"/>。これによって線路から踏切内へ持ち込まれる雪が少なくなる<ref name="rj557-37"/>。前述の取水制限があるため、使用後の水は循環使用されている<ref name="rj557-37"/>。 |
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: 車両が排雪した後も線路脇に雪の壁を作らないようにするための装備。六日町駅構内に設けられており、線路脇に溝を作って地下水を流す<ref name="rj557-37"/>。六日町では地下水汲み上げによる地盤沈下が激しく、地下水の利用には制限がある<ref name="rj557-37"/>ため、使用後の水は循環使用される<ref name="rj557-37"/>。 |
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; 融雪ピット |
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;スプリンクラー:六日町の車両基地構内、十日町駅構内などに設けられている。六日町では地下水を利用するが、前述の取水制限があるため使用後の水は循環使用されているほか、車両基地内も路盤をアスファルト舗装とし、その上にバラストを敷いた強化路盤としている<ref name="rj557-36"/>。十日町駅手前の飯山線を跨ぐ部分は赤倉トンネルの湧水を<ref name="rj557-39"/>、十日町駅構内では薬師峠トンネルの湧水を利用しており<ref name="rj557-40"/>、使用後の水は十日町の市街地道路の融雪に利用された後、信濃川へ放流されている<ref name="rj557-40"/>。 |
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: 六日町駅構内の踏切脇に設けられており<ref name="rj557-37"/>、レールの間の枕木上にFRP製のトレーを置き、地下水を流すことによって列車に押された線路内の雪の量を減らす<ref name="rj557-37"/>。これによって線路から踏切内へ持ち込まれる雪が少なくなる<ref name="rj557-37"/>。前述の取水制限があるため、使用後の水は循環使用されている<ref name="rj557-37"/>。 |
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;熱風ヒーター:地下水脈が全くないため地下水を利用する手段が採れず<ref name="rj557-43"/>、水利権の関係で川の水も利用できない<ref name="rj557-43"/>まつだい駅構内の分岐器に装備される<ref name="rj557-43"/>。ボイラーで摂氏100度まで加温された温風をダクトで分岐器に導くもので<ref name="rj557-43"/>、温風噴射口では摂氏40度程度の温風となる<ref name="rj557-43"/>。なお、松代地区では道路の融雪も水が利用できず、ロードヒーティングが主体である<ref name="rj557-43"/>。 |
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; パネル式融雪装置:車両が排雪した後も線路脇に雪の壁を作らないようにするための装備。地下水によって加温した不凍液をパネルの中に循環させるもので<ref name="rj557-37-38"/>、民家や施設が周囲にあって除雪の際に投雪ができない場所に設けられている<ref name="rj557-37-38"/>。六日町駅構内では地下水は循環利用である<ref name="rj557-37"/>が、[[関越自動車道]]を跨ぐ場所では取水制限がないため地下水は循環利用していない<ref name="rj557-38"/>。 |
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;温水ジェット噴射装置:分岐器の可動部分で雪氷が詰まることによって、分岐器の不転換を引き起こすことがある<ref name="rj557-42"/>。無人駅がほとんどのほくほく線では、直ちに人力で対応することは難しい<ref name="rj557-42"/>ため、不転換の分岐器があった場合には温水を噴射して氷雪を溶かす方法を採用した<ref name="rj557-42"/>。この装置は運行指令所から遠隔操作され、噴射口からは摂氏25度の温水が60秒間噴射される<ref name="rj557-43"/>。この装置は、ほくほく線の本線上にある全ての分岐器に装備されている<ref name="rj557-42"/>。降雪のないトンネル内の信号場にも設置されているのは、通過車両から落下した雪塊をも考慮したものである<ref name="rj557-43"/>。 |
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; スプリンクラー:六日町の車両基地構内、十日町駅構内などに設けられている。六日町では地下水を利用するが、前述の取水制限があるため使用後の水は循環使用されているほか、車両基地内も路盤をアスファルト舗装とし、その上にバラストを敷いた強化路盤としている<ref name="rj557-36"/>。十日町駅手前の飯山線を跨ぐ部分は赤倉トンネルの湧水を<ref name="rj557-39"/>、十日町駅構内では薬師峠トンネルの湧水を利用しており<ref name="rj557-40"/>、使用後の水は十日町の市街地道路の融雪に利用された後、[[信濃川]]へ放流されている<ref name="rj557-40"/>。 |
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;除雪機械(モーターカー):JRから譲受した旧式の排雪用のモーターカー1台のほか、ほくほく線開業時に新造した2台が用意されている<ref name="rj557-41"/>。新造したモーターカーは、犀潟寄りに雪を両脇に押し出すラッセルヘッド<ref name="rj557-41"/>、六日町寄りに線路脇の雪の壁を崩した上で投雪するロータリーヘッドを装備している<ref name="rj557-41"/>ほか、架線に付着している霜や雪を除去するためにパンタグラフを装備している<ref name="rj557-42"/>。 |
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; 熱風ヒーター |
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: 地下水脈が全くないため地下水を利用する手段が採れず<ref name="rj557-43"/>、水利権の関係で川の水も利用できない<ref name="rj557-43"/>まつだい駅構内の分岐器に装備される<ref name="rj557-43"/>。ボイラーで摂氏100度まで加温された温風をダクトで分岐器に導くもので<ref name="rj557-43"/>、温風噴射口では摂氏40度程度の温風となる<ref name="rj557-43"/>。なお、松代地区では道路の融雪も水が利用できず、ロードヒーティングが主体である<ref name="rj557-43"/>。 |
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; 温水ジェット噴射装置 |
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: 分岐器の可動部分で雪氷が詰まることによって、分岐器の不転換を引き起こすことがある<ref name="rj557-42"/>。無人駅がほとんどのほくほく線では、直ちに人力で対応することは難しい<ref name="rj557-42"/>ため、不転換の分岐器があった場合には温水を噴射して氷雪を溶かす方法を採用した<ref name="rj557-42"/>。この装置は運行指令所から遠隔操作され、噴射口からは摂氏25度の温水が60秒間噴射される<ref name="rj557-43"/>。この装置は、ほくほく線の本線上にあるすべての分岐器に装備されている<ref name="rj557-42"/>。降雪のないトンネル内の信号場にも設置されているのは、通過車両から落下した雪塊をも考慮したものである<ref name="rj557-43"/>。 |
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; 除雪機械(モーターカー) |
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: JRから譲受した旧式の排雪用のモーターカー1台のほか、ほくほく線開業時に新造した2台が用意されている<ref name="rj557-41"/>。新造したモーターカーは、犀潟寄りに雪を両脇に押し出すラッセルヘッド<ref name="rj557-41"/>、六日町寄りに線路脇の雪の壁を崩した上で投雪するロータリーヘッドを装備している<ref name="rj557-41"/>ほか、架線に付着している霜や雪を除去するためにパンタグラフを装備している<ref name="rj557-42"/>。 |
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このような地上側での雪対策の装備について、定期点検を含めた総経費は年間約1億円である<ref name="rj557-43"/>。 |
このような地上側での雪対策の装備について、定期点検を含めた総経費は年間約1億円である<ref name="rj557-43"/>。 |
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地上側の設備に加え、線内列車に使用されるHK100形のスロープロウの先端部分は櫛の歯のような形状にしている<ref name="rj557-37"/>が、これは2本のレールの間の雪が圧雪状態の塊になると脱線事故の原因になりかねない<ref name="rj557-37"/>ため、この先端部分で雪をほぐし、圧雪状態にならないようにするためである<ref name="rj557-37"/>。また、六日町駅構内の車両基地では、冬季は屋外での車両留置は行わず、 |
地上側の設備に加え、線内列車に使用されるHK100形のスロープロウの先端部分は櫛の歯のような形状にしている<ref name="rj557-37"/>が、これは2本のレールの間の雪が圧雪状態の塊になると脱線事故の原因になりかねない<ref name="rj557-37"/>ため、この先端部分で雪をほぐし、圧雪状態にならないようにするためである<ref name="rj557-37"/>。また、六日町駅構内の車両基地では、冬季は屋外での車両留置は行わず、すべて留置用の収容庫か検修庫を利用する<ref name="rj557-36"/>。このため、車両洗浄機や洗浄台も収容庫内に設けられている<ref name="rj557-36"/>。さらに、前述の運行体制の一環として、大雪であっても列車の運行を行うことによって、線路上への積雪を最小限に抑えている<ref name="rj557-44"/>。北越急行では、「最大の除雪手段は、列車を走らせ続けること」としている<ref name="rj557-44"/>。 |
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こうしたさまざまな雪対策を開業当初から装備した<ref name="rj557-44"/>ことにより、ほくほく線は接続するJRの路線が不通になった時でも運休することはほとんどなく<ref name = "dr.hokuhoku_9"/>、雪対策で不備をきたしたことも皆無に近い<ref name="rj557-44"/>。 |
こうしたさまざまな雪対策を開業当初から装備した<ref name="rj557-44"/>ことにより、ほくほく線は接続するJRの路線が不通になった時でも運休することはほとんどなく<ref name = "dr.hokuhoku_9"/>、雪対策で不備をきたしたことも皆無に近い<ref name="rj557-44"/>。 |
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== 利用状況 == |
== 利用状況 == |
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ほくほく線の沿線は大きく南魚沼地域(南魚沼市のうち旧[[六日町]])・中魚沼地域([[十日町市]])・東頸地域(十日町市のうち旧[[松代町 (新潟県)|松代町]])・平野部([[上越市]]のうち旧[[大島村 (新潟県)|大島村]]・[[浦川原村]]・[[頸城村]]・[[大潟町]])の4地域に分けられる<ref name="rj368-55"/>。それぞれの地域はもともと丘陵地帯によって隔てられていた<ref name="rj368-55"/>ため、平常時の流動はほくほく線のルートとは平野部以外は一致していない<ref name="rj368-55"/>。しかし、東頸地域はもともとの交通事情が悪かったため、ほくほく線の開業に伴い利便性が向上した<ref name="rj368-55"/>。また、十日町市にある十日町総合高等学校は新潟県全域を学区とする高校であり、ほくほく線開業により自宅らの通学が可能となった<ref name="rj368-55"/>。しかし、ほくほく線の沿線は最も過疎化と高齢化が進んでいる地域で<ref name="rj368-55"/>、マイカー保有率も1.5人に1台の割合で<ref name="rj368-55"/>、当初より線内需要は厳しいと見られていた<ref name="rj368-55"/>。 |
ほくほく線の沿線は大きく南魚沼地域(南魚沼市のうち旧[[六日町]])・中魚沼地域([[十日町市]])・東頸地域(十日町市のうち旧[[松代町 (新潟県)|松代町]])・平野部([[上越市]]のうち旧[[大島村 (新潟県)|大島村]]・[[浦川原村]]・[[頸城村]]・[[大潟町]])の4地域に分けられる<ref name="rj368-55"/>。それぞれの地域はもともと丘陵地帯によって隔てられていた<ref name="rj368-55"/>ため、平常時の流動はほくほく線のルートとは平野部以外は一致していない<ref name="rj368-55"/>。しかし、東頸地域はもともとの交通事情が悪かったため、ほくほく線の開業に伴い利便性が向上した<ref name="rj368-55"/>。また、十日町市にある十日町総合高等学校は新潟県全域を学区とする高校であり、ほくほく線開業により自宅からの通学が可能となった<ref name="rj368-55"/>。しかし、ほくほく線の沿線は最も過疎化と高齢化が進んでいる地域で<ref name="rj368-55"/>、マイカー保有率も1.5人に1台の割合で<ref name="rj368-55"/>、当初より線内需要は厳しいと見られていた<ref name="rj368-55"/>。 |
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こうした事情もあり、ほくほく線開業と同時に公共交通体系の再構築が行われた。北越急行に出資するバス事業者である[[頸城自動車]]は、1996年10月に東頸地区自治体との共同出資による[[東頸バス]]の営業を開始し<ref name="rj368-56"/>、ほくほく線の開業後は各駅前に乗り入れる路線を設定した<ref name="rj368-56"/>。また、同様に北越急行に出資する[[越後交通]]は、ほくほく線の列車と競合する越後湯沢 |
こうした事情もあり、ほくほく線開業と同時に公共交通体系の再構築が行われた。北越急行に出資するバス事業者である[[頸城自動車]]は、1996年10月に東頸地区自治体との共同出資による[[東頸バス]]の営業を開始し<ref name="rj368-56"/>、ほくほく線の開業後は各駅前に乗り入れる路線を設定した<ref name="rj368-56"/>。また、同様に北越急行に出資するバス事業者の[[越後交通]]は、ほくほく線の列車と競合する越後湯沢 - 十日町の路線バスを減便している<ref name="rj368-56"/>。 |
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越後湯沢 |
越後湯沢 - 十日町は峠越えとなるために自動車でも1時間程度の所要時間を要していた<ref name="rj368-56"/>が、ほくほく線が開業すると普通列車でも30分台で結ばれるようになった<ref name="rj368-56"/>。また、前述した雪対策によって安定した輸送を目指したことが評価され<ref name="rj557-44"/>、沿線の家庭では進学時にほくほく線沿線の高校を選ばせたり、上越線が不通になると越後湯沢と六日町のタクシー利用が増加する事例もみられるようになった<ref name="rj557-44"/>。現実の線内利用者数も、開業当初に年間65万人程度だったものが2012年には110万人に増加している<ref name="rj557-43"/>。 |
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=== 輸送実績 === |
=== 輸送実績 === |
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|通学定期 |
|通学定期 |
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|定 期 外 |
|定 期 外 |
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|合 |
|合 計 |
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! style="font-weight: normal;"|1996年(平成8年) |
! style="font-weight: normal;"|1996年(平成8年) |
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=== 車両各説 === |
=== 車両各説 === |
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==== 自社車両 ==== |
==== 自社車両 ==== |
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; [[北越急行HK100形電車|HK100形]] |
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;[[北越急行HK100形電車|HK100形]]:ほくほく線内の普通列車として運用される車両で、開業時点では9両が製造された<ref name="rj368-54"/>。1999年に1両<ref name="rj392-41"/>、2003年に2両が増備された<ref name="rj557-45"/>。2003年に増備された車両のみ片運転台の2両編成で<ref name="rj557-45"/>、それ以外は両運転台の車両である<ref name="rj557-45"/>。 |
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;[[JR西日本681系電車|681系2000番台]]:特急「はくたか」に運用される。[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の[[JR西日本681系電車|681系電車]]と同一仕様の車両で、「スノーラビットエクスプレス」という愛称を有する<ref name="rj368-51"/>。9両編成が2編成製造されたが、整備・検査などはすべてJR西日本に委託されており<ref name="rj368-51"/>、車両自体もJR西日本の金沢総合車両所に常駐である<ref name="rj368-51"/>。開業当初はJR西日本の車両とは運用が区別されていた<ref name="rj368-51"/>が、2002年3月ダイヤ改正以降はJR西日本681系との共通運用となっている<ref name="rf577-51"/>。 |
: ほくほく線内の普通列車として運用される車両で、開業時点では9両が製造された<ref name="rj368-54"/>。1999年に1両<ref name="rj392-41"/>、2003年に2両が増備された<ref name="rj557-45"/>。2003年に増備された車両のみ片運転台の2両編成で<ref name="rj557-45"/>、それ以外は両運転台の車両である<ref name="rj557-45"/>。 |
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; [[JR西日本681系電車|681系2000番台]] |
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: 特急「はくたか」に運用される。[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の[[JR西日本681系電車|681系電車]]と同一仕様の車両で、「スノーラビットエクスプレス」という愛称を有する<ref name="rj368-51"/>。9両編成が2編成製造されたが、整備・検査などはすべてJR西日本に委託されており<ref name="rj368-51"/>、車両自体もJR西日本の金沢総合車両所に常駐である<ref name="rj368-51"/>。開業当初はJR西日本の車両とは運用が区別されていた<ref name="rj368-51"/>が、2002年3月ダイヤ改正以降はJR西日本681系との共通運用となっている<ref name="rf577-51"/>。 |
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; [[JR西日本683系電車|683系8000番台]] |
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;[[JR西日本683系電車|683系8000番台]]:特急「はくたか」に運用される。JR西日本の[[JR西日本683系電車|683系電車]]とほぼ同一仕様で、2005年にJR東日本の車両を置き換える形で、9両編成が1編成導入された<ref name = "dr.hokuhoku_11"/>。簡易気密構造を有しており<ref name = "dr.hokuhoku_11"/>、高速走行に対応するためにブレーキ装置がキャリパー式ディスクブレーキとなっている<ref name="rj557-45"/>。681系2000番台・JR西日本681系との共通運用となっている<ref name="rj557-25"/>。 |
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: 特急「はくたか」に運用される。JR西日本の[[JR西日本683系電車|683系電車]]とほぼ同一仕様で、2005年にJR東日本の車両を置き換える形で、9両編成が1編成導入された<ref name = "dr.hokuhoku_11"/>。簡易気密構造を有しており<ref name = "dr.hokuhoku_11"/>、高速走行に対応するためにブレーキ装置がキャリパー式ディスクブレーキとなっている<ref name="rj557-45"/>。681系2000番台・JR西日本681系との共通運用となっている<ref name="rj557-25"/>。 |
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==== 乗り入れ車両 ==== |
==== 乗り入れ車両 ==== |
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===== JR東日本 ===== |
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;[[国鉄485系電車|JR東日本485系]]:開業当初から特急「はくたか」で乗り入れ<ref name="rj368-51"/>。2005年のダイヤ改正で北越急行683系8000番台に置き換えられた<ref name = "dr.hokuhoku_11"/>。 |
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;[[国鉄485系電車| |
; [[国鉄485系電車|485系]] |
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: 開業当初から特急「はくたか」で乗り入れ<ref name="rj368-51"/>。2005年のダイヤ改正で北越急行683系8000番台に置き換えられた<ref name = "dr.hokuhoku_11"/>。 |
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;[[国鉄489系電車|JR西日本489系]]:485系の代わりに特急「はくたか」で乗り入れてることがあったほか、急行「能登」が臨時にほくほく線経由で運行された際に乗り入れた<ref name = "dr.hokuhoku_13"/>。 |
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===== JR西日本 ===== |
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;[[国鉄583系電車|JR西日本583系]]:冬季のみ「シュプール号」で乗り入れていた<ref name="rj392-39-40"/>。 |
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; [[国鉄485系電車|485系]] |
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;[[JR西日本681系電車|JR西日本681系]]:開業当初から特急「はくたか」で乗り入れ<ref name="rj368-51"/>。簡易気密構造を有しており<ref name="rj368-51"/>、高速走行が可能。「ホワイトウイング」という愛称を有する<ref name="rf577-50"/>。開業当初は北越急行の車両とは運用が区別されていた<ref name="rj368-51"/>が、2002年3月のダイヤ改正以降は681系2000番台との共通運用となっている<ref name="rf577-51"/>。 |
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: 開業当初から特急「はくたか」で乗り入れ<ref name="rj368-51"/>。2002年のダイヤ改正で681系に置き換えられた<ref name="rj428-33"/>。 |
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;[[JR西日本683系電車|JR西日本683系]]:特急「サンダーバード」用の4000番台が、運用上の都合で681系の運用に入ることがある<ref name="rj557-24-25"/>。高速運転には対応しておらず、最高速度は130 km/hとなる<ref name="rj557-31"/>。 |
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; [[国鉄489系電車|489系]] |
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: 485系の代わりに特急「はくたか」で乗り入れていることがあったほか、急行「能登」が臨時にほくほく線経由で運行された際に乗り入れた<ref name = "dr.hokuhoku_13"/>。 |
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; [[国鉄583系電車|583系]] |
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: 冬季のみ「シュプール号」で乗り入れていた<ref name="rj392-39-40"/>。 |
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; [[JR西日本681系電車|681系]] |
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: 開業当初から特急「はくたか」で乗り入れ<ref name="rj368-51"/>。簡易気密構造を有しており<ref name="rj368-51"/>、高速走行が可能。「ホワイトウイング」という愛称を有する<ref name="rf577-50"/>。開業当初は北越急行の車両とは運用が区別されていた<ref name="rj368-51"/>が、2002年3月のダイヤ改正以降は681系2000番台との共通運用となっている<ref name="rf577-51"/>。 |
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; [[JR西日本683系電車|683系]] |
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: 特急「サンダーバード」用の4000番台が、運用上の都合で681系の運用に入ることがある<ref name="rj557-24-25"/>。高速運転には対応しておらず、最高速度は130 km/hとなる<ref name="rj557-31"/>。 |
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== データ == |
== データ == |
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=== 年表 === |
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* 1931年(昭和6年)9月 - 地元の関係者による鉄道敷設運動が始まる。 |
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* 1940年(昭和15年) - 北越南線の計画が持ち上がって「南北戦争」勃発。 |
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* 1953年(昭和28年) |
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** 2月 - 第9回鉄道建設審議会で地元意見の不一致を理由として審議未了・保留。 |
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** 8月 - 新潟県知事裁定により北越北線採択。 |
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** 9月 - 期成同盟会総会を南線側がボイコット。 |
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* 1961年(昭和36年)2月23日 - 南北両派が一本化で協力推進する協約を締結。 |
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* 1962年(昭和37年) |
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** 4月22日 - 鉄道建設審議会が上越西線(北越北線)を予定線に採択。 |
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** 5月12日 - 鉄道敷設法別表第55の3号により、予定路線に編入。 |
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* 1964年(昭和39年) |
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** 4月22日 - 運輸大臣により、北越北線を調査線に指示。 |
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** 9月28日 - 工事線に昇格、[[日本鉄道建設公団]](鉄道公団)に対して工事実施計画の指示。 |
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* 1968年(昭和43年) |
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** 2月23日 - 北越北線六日町 - 十日町間工事実施計画の認可申請。 |
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** 3月28日 - 六日町 - 十日町間工事実施計画認可。 |
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** 8月14日 - 六日町 - 十日町間着工。 |
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* 1972年(昭和47年) |
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** 8月21日 - 十日町 - 犀潟間工事実施計画の認可申請。 |
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** 10月11日 - 十日町 - 犀潟間工事実施計画認可。 |
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* 1973年(昭和48年)3月24日 - 十日町 - 犀潟間着工。 |
|||
* 1978年(昭和53年)7月20日 - 停車場有効長の延伸、[[スラブ軌道]]の採用、電化準備工事などを含めた工事実施計画変更。 |
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* 1980年(昭和55年)12月27日 - 日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)施行により工事凍結。 |
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* 1983年(昭和58年)6月22日 - 北越北線建設促進期成同盟会総会において、田中角栄元首相から第三セクター化の構想が提示される。 |
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* 1984年(昭和59年) |
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** 3月1日 - 第三セクター設立準備会設立。 |
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** 8月27日 - 北越急行創立総会を新潟市で開催。 |
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** 8月30日 - 北越急行株式会社設立登記。 |
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** 11月8日 - 国鉄再建法第14条第1項に基づく国鉄新線の告示。 |
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* 1985年(昭和60年) |
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** 2月1日 - 北越急行が地方鉄道業の免許を受ける。 |
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** 2月25日 - 運輸大臣により鉄道公団へ工事実施計画の指示。 |
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** 3月16日 - 鉄道公団により工事再開。 |
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* 1988年(昭和63年)8月 - 運輸省が「整備新幹線運輸省規格案」を発表、北陸新幹線と連携した幹線鉄道とするための、北越急行の電化・高規格化を提唱。 |
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* 1989年(平成元年) |
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** 3月28日 - JR東日本と北越急行の間で北越北線高規格化に関する基本協定を締結。 |
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** 5月31日 - 北越急行、事業基本計画の変更申請、最高速度を95 km/hから160 km/hへ、動力方式を内燃から電気へ。 |
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** 7月31日 - 運輸大臣が鉄道公団に対して工事実施計画の変更指示。 |
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** 10月2日 - 高規格化対応工事に着手。 |
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* 1997年(平成9年)3月22日 - ほくほく線開業。 |
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* 1998年(平成10年)12月 - 「はくたか」を150 km/hにスピードアップ。 |
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* 2002年(平成14年)3月 - 「はくたか」を160 km/hにスピードアップ。 |
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* 2004年(平成16年) |
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** 10月23日 - 新潟県中越地震発生、全線で運休となる。 |
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** 10月26日 - 犀潟 - まつだい間で運転再開。 |
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** 11月2日 - 全線で運転を再開。 |
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* 2007年(平成19年)7月16日 - 新潟県中越沖地震発生、「はくたか」の運転を1日休止。 |
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=== 路線データ === |
=== 路線データ === |
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* 路線距離([[営業キロ]]): 59.5 [[キロメートル|km]] |
* 路線距離([[営業キロ]]): 59.5 [[キロメートル|km]] |
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!style="width:11em;"|駅名 |
!style="width:11em;"|駅名 |
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!style="width:2.5em;"|駅間キロ |
!style="width:2.5em;"|駅間キロ |
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!style="width:3.6em;"|六日町<br/>からの<br/>営業<br/>キロ |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
=== 出典 === |
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<ref name = "ゆめぞら">{{Cite web | url = http://www.hokuhoku.co.jp/5yumezora/top.html | title = ほくほく線 ゆめぞら | publisher = [[北越急行]] | accessdate = 2012-07-15}}</ref> |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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===工事誌=== |
=== 工事誌 === |
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* {{Cite book | 和書 | editor = [[日本鉄道建設公団]] | title = 北越北線工事誌 | publisher = [[日本鉄道建設公団]] | year = 1998 | month = 3 | ref = 工事誌}} |
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===書籍=== |
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=== 書籍 === |
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* {{Cite book | 和書 | author = 草町義和 | title = 鉄道計画は変わる。 | publisher = [[交通新聞社]] | date = 2014-02-15 | edition = 第1刷 | isbn = 978-4-330-43814-6 | ref = 鉄道計画}} |
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* {{Cite book | 和書 | editor = [[日本鉄道建設公団]]高速化研究会 | title = 三セク新線高速化の軌跡 | publisher = [[交通新聞社]] | date = 1998-10-20 | edition = 初版 | isbn = 4-87513-077-5 | ref = 新線}} |
* {{Cite book | 和書 | editor = [[日本鉄道建設公団]]高速化研究会 | title = 三セク新線高速化の軌跡 | publisher = [[交通新聞社]] | date = 1998-10-20 | edition = 初版 | isbn = 4-87513-077-5 | ref = 新線}} |
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* {{Cite book | 和書 | author = [[宮脇俊三]] | title = 全線開通版 線路のない時刻表 | publisher = [[講談社]] | isbn = 4-06-263721-9 | date = 1998-02-15 | ref = 全線}} |
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===雑誌記事=== |
=== 雑誌記事 === |
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* {{Cite journal|和書|author=大熊孝夫 |year=2009 |month=5 |title=雪国を駆けぬける「スノーラビット」|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] |issue=577 |pages= 46-55 |publisher=[[交友社]] |ref = 大熊577}} |
* {{Cite journal|和書|author=大熊孝夫 |year=2009 |month=5 |title=雪国を駆けぬける「スノーラビット」|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] |issue=577 |pages= 46-55 |publisher=[[交友社]] |ref = 大熊577}} |
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* {{Cite journal | 和書 | author = 君塚和夫・金子誠・川井重男・吉田真琴・奥谷民雄・芳村照士 | title = 北越北線160km/h高速走行の電気設備 | journal = 鉄道と電気技術 | volume = 8 | issue = 4 | year = 1997 | month = 4 | publisher = 日本鉄道電気技術協会 | pages = 45 - 57 | ref = 電気設備}} |
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* {{Cite journal | 和書 | author = 柴田剛志 | title = 回顧21年3カ月 北越北線・鍋立山トンネル掘削完了 | journal = 日本鉄道施設協会誌 | volume = 33 | issue = 10 | year = 1995 | month = 10 | publisher = 日本鉄道施設協会 | pages = 765 - 767 | ref = 回顧}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=[[鈴木文彦]] |year=1997 |month=6 |title=北越急行開業の経緯と沿線|journal=[[鉄道ジャーナル]] |issue=368 |pages=54-57 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 鈴木368}} |
* {{Cite journal|和書|author=[[鈴木文彦]] |year=1997 |month=6 |title=北越急行開業の経緯と沿線|journal=[[鉄道ジャーナル]] |issue=368 |pages=54-57 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 鈴木368}} |
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* {{Cite journal|和書|author=[[種村直樹]] |year=1999 |month=6 |title=在来線初の150km/h特急 快走|journal=鉄道ジャーナル |issue=392 |pages=31-41 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 種村392}} |
* {{Cite journal|和書|author=[[種村直樹]] |year=1999 |month=6 |title=在来線初の150km/h特急 快走|journal=鉄道ジャーナル |issue=392 |pages=31-41 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 種村392}} |
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830行目: | 995行目: | ||
* {{Cite journal|和書|author=鶴通孝 |year=2002 |month=6 |title=在来線高速化をリードする北越急行のチャレンジ|journal=鉄道ジャーナル |issue=428 |pages=20-33 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 鶴428}} |
* {{Cite journal|和書|author=鶴通孝 |year=2002 |month=6 |title=在来線高速化をリードする北越急行のチャレンジ|journal=鉄道ジャーナル |issue=428 |pages=20-33 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 鶴428}} |
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* {{Cite journal|和書|author=鶴通孝 |year=2013 |month=3 |title=在来線最速特急の誇り|journal=鉄道ジャーナル |issue=557 |pages=18-33 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 鶴557}} |
* {{Cite journal|和書|author=鶴通孝 |year=2013 |month=3 |title=在来線最速特急の誇り|journal=鉄道ジャーナル |issue=557 |pages=18-33 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 鶴557}} |
||
* {{Cite journal | 和書 | author = 羽賀修 | year = 1991 | month = 1 | title = 北越北線の高速化と新軌道構造等 | journal = 新線路 | volume = 45 | issue = 1 | pages = 34 - 39 | publisher = 鉄道現業社 | ref = 新線路}} |
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* {{Cite journal | 和書 | author = 古川裕之 | year = 2002 | month = 7 | title = 開業5周年を迎えた北越急行・ほくほく線 | journal = 運転協会誌 | volume = 44 | issue = 7 | pages = 25 - 28 | publisher = 日本鉄道運転協会 | ref = 5周年}} |
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* {{Cite journal|和書|author= |year=2013 |month=3 |title=北越急行の16年と将来|journal=鉄道ジャーナル |issue=557 |pages=34-45 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = RJ557}} |
* {{Cite journal|和書|author= |year=2013 |month=3 |title=北越急行の16年と将来|journal=鉄道ジャーナル |issue=557 |pages=34-45 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = RJ557}} |
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2014年4月6日 (日) 14:28時点における版
ほくほく線 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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683系8000番台とHK100形 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
路線総延長 | 59.5 km | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
軌間 | 1,067 mm | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
電圧 | 1,500 V(直流) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
最大勾配 | 33 パーミル | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
最小半径 | 400 m | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
最高速度 | 160 km/h | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
T:トンネル |
北越急行ほくほく線(ほくえつきゅうこうほくほくせん)は、新潟県南魚沼市の六日町駅を起点とし、新潟県上越市の犀潟駅までを結ぶ北越急行の鉄道路線である。
鉄道敷設法第1条別表第55号の3に「新潟県直江津より松代附近を経て六日町に至る鉄道」として規定されたことに由来する路線で[4]、日本国有鉄道(国鉄)北越北線として敷設が計画された[4]。首都圏と北陸方面を短絡する路線として[5]1968年(昭和43年)に着工されたが[6]、国鉄の経営悪化に伴い1982年(昭和57年)に建設工事が凍結された[4]。運営を引き継ぐべく設立された北越急行によって1985年(昭和60年)から建設が再開され[7]、1989年(平成元年)からは運輸省(当時)が打ち出した「幹線鉄道活性化」の方針を受けて高規格化の対象となり[7]、難工事を経て1997年(平成9年)3月22日より営業を開始した[4]。開業以来、上越新幹線に連絡する列車の運行が行われており、特に1998年(平成10年)12月からは在来線最高速度となる150 km/h運転が[8]、2002年(平成14年)3月以降はさらに高速となる160 km/h運転が開始されている[8]。
本項では特段の説明がない限り、「高速走行」とした場合は130 km/hを超える速度による走行をさすものとする。
歴史
鉄道誘致活動の始まり
大正末期に松代村(合併により十日町市の一部)においてバス会社が設立されて運行を開始したが、この時代には道路の除雪体制がまったく整っておらず、冬季には運行できなくなり各集落は完全に孤立状態となるのが常であった。道路の除雪体制の整備が本格化する1960年(昭和35年)頃までは、冬期の降雪により5月上旬までは道路交通が完全に不能となっていた[9]。1980年代のほくほく線建設が進められている時期になってもなお、十日町と松代を結ぶ国道253号の薬師峠は毎年雪で不通となり、直線距離で13キロメートルのところを、柏崎・直江津を通る120キロメートルもの迂回をしなければ行き来ができないという状況であった[10]。冬にはまったく役に立たなくなる自動車のために、鉄道の重要性・必要性を痛感していた地元の関係者は、1931年(昭和6年)に当地を訪れた朝日新聞の記者が「この不便な山間地を開くには鉄道を貫通させなくては」と発言したことに刺激され、民間中心の鉄道誘致運動が開始された[9]。
既に1916年(大正5年)5月4日には、頸城鉄道が新黒井 - 浦川原間を全通させていた[11]。当初はこの頸城鉄道とつなぐ形で松代までの「東頸城縦貫鉄道」の建設請願を1932年(昭和7年)8月に国会へ提出した。この時点では松代から信越本線側へ結ぶだけの鉄道で、急峻な地形のために実現が困難と判断されたのか、十日町や六日町と結ぶという構想はなかった[12]。その後さらに発展的な構想として、北陸地方と東京を結ぶ「上越西線」という構想となり、魚沼三郡や東頸城郡の町村長が六日町 - 直江津間に鉄道を敷設する陳情書を国会に提出した[12]。1938年(昭和13年)4月になると時勢から軍事用の色彩が付加されて、軍都と呼ばれた高田を起点とする北越鉄道の構想が打ち出され、国防にも役立つという位置づけとされた[12]。1937年(昭和12年)8月から9月にかけて、鉄道省による路線測量と経済調査が実施され、路線案の比較検討が行われるとともに、地元による国会への請願が繰り返された[13]。
この時点までは、路線の北側は直江津案と高田案の2案があったが、南側については六日町で統一されていた。しかし1940年(昭和15年)になり、南側を越後湯沢とする案が持ち上がった。これは松之山温泉に宿泊してスキーをしにきていた鉄道省の技師が、越後湯沢と直江津を結ぶ経路の方が有力であるかのように話したことが発端であるとされるが、真偽ははっきりしていない。ともかくこの年の10月から11月にかけて越後湯沢案に基づく路線の経済調査が実施され、両案の資料が揃うことになった。1942年(昭和17年)から両案の誘致活動が繰り広げられたが、第二次世界大戦中でもありこの時点ではそこまで厳しい対立ではなかった[14]。1944年(昭和19年)には、国鉄信濃川発電所のある千手町(現在の十日町市の一部)と十日町を結ぶ工事用の軽便鉄道を延長する形で松代までを結ぶ路線の建設が決まり、工事予算1800万円が計上されたが、翌年の敗戦により計画は中止された[14][15]。
南北戦争からルートの決着まで
第二次世界大戦後は、高田と結ぶ軍事路線という動きは消滅し、佐渡航路ならびに北陸本線との連絡という観点から直江津起点とすることで決着して、直江津と上越線を結ぶ鉄道とすることになった[16][17]。1950年(昭和25年)9月3日に、北陸上越連絡鉄道(上越西線)期成同盟会の発会式が高田市(現在の上越市の一部)で行われ、戦後の鉄道建設運動が開始された。しかしルートの一本化はできず、起点は直江津とされたものの終点は六日町と越後湯沢の双方の案が会則に併記される形となった。以降、北越北線案と北越南線案の間で14年に渡る鉄道誘致合戦「南北戦争」が勃発することになった[17]。
北線案の利点は、新潟県内の主要都市を結び産業開発や経済面で優れ、国鉄の採算性に優れること、地すべり地帯が無く防災上有利であることであり、これに対して南線案の利点は上野 - 直江津間の距離を短縮することができること、勾配を北線の25パーミルに対して20パーミルに抑えることができ輸送力を大きくできること、苗場や高倉の森林および地下資源、三国、清津の温泉の開発ができることであるとされた[18]。
この当時、国鉄の新線は1922年(大正11年)年に制定された鉄道敷設法に基づいて建設されており、新線を建設するには法律を改正して鉄道敷設法別表に路線経路を記載する必要があった。そして別表への記載は、諮問機関である鉄道建設審議会の検討を経て決定されることになっていた[19]。中央の政界では、南北両案の一本化ができさえすればいつでも審議会で了承されるというところまで機が熟していた。しかし一本化ができないままに1953年(昭和28年)2月の第9回鉄道建設審議会が開催され、両案の対立が激しくて審議会でも決断を下しかね、「経過地に関する地元の意見の不一致並びに現地調査の不十分」を理由に審議未了・保留となった[18]。こうした事情もあり、両線の一本化を図るために期成同盟会では、前年に新潟県知事の岡田正平に経過地の裁定を一任することを決議していた。岡田は、新潟県七市長会および商工会議所連合会に諮問して、北線案が妥当との答申を受け、8月に北線案採択の裁定を下した。しかしこの裁定を説明するために9月に開催された期成同盟会総会を南線側がボイコットするという事態となって、さらに時間が空費されることになった[18]。
それからさらに両派の争いは続き、事態が動いたのは1962年(昭和37年)のこととなった。この頃、南線案の予定通過地である松之山町の中心部で地すべり災害が発生しており鉄道の通過ルートとしてふさわしくないとされたことと、道路交通の発達でそれほど鉄道にこだわる必要がなくなったことなどから、一方の路線が採択された際にはもう一方の路線側から鉄道へ連絡する道路を整備するということを条件に、国鉄に裁定を一任することになった。1962年(昭和37年)4月22日に鉄道建設審議会が上越西線を予定線に採択することを決定し、5月12日に鉄道敷設法1条別表第55ノ3に「新潟県直江津より松代附近を経て六日町に至る鉄道及松代附近より分岐して湯沢に至る鉄道」が追加されて、南北両案が鉄道予定線となった[20][21]。
1962年(昭和37年)7月から、国鉄では人口分布や産業構成などの経済調査を新潟県に依頼して実施した。地元でも、従来の上越西線期成同盟会を発展的に解消して新たに北越線連合期成同盟会を1963年(昭和38年)6月27日に発足させ、工事線への昇格に向けて積極的な運動を行った。1964年(昭和39年)4月22日に運輸大臣は北越北線を調査線に指示し、続いて9月28日には工事線に格上げした上で、南線は北線によって効用を満たし得るとの判断から、調査線から南線を削除した。こうして北越北線が正式に採択され、南北戦争は終結することになった[22]。なおちょうどこの頃、1964年(昭和39年)3月に日本鉄道建設公団(鉄道公団、以下公団と略す)が設立され、国鉄の新線建設事業は公団が引き継ぐことになって、北越北線も公団に引き継がれた[23]。
北越北線が調査線となって以降、詳細なルートの検討が進められた。地元が北越北線に期待することは旅客輸送であったが、国鉄から見れば首都圏と北陸地方を短絡する有力な貨物線であり、上越線と信越本線との間の方向転換・機関車交換作業を廃止し輸送時間を短縮することが狙いであった。そのため1000トン牽引を想定した貨物輸送が路線選定の要となり、当初は六日町駅と黒井駅を可能な限り直線的に結ぶルートが考えられていた[5]。これにより十日町では飯山線と直交するルート案となり[5]、飯山線の十日町駅とは別に北越北線の十日町駅を約1,300メートル離れた位置に設け、地下駅とする案もあった[24]。しかしこれには地元からの強烈な反発があり、実際の経路は飯山線十日町駅に乗り入れるクランク状のものとなった[5]。また東頸城地方では、安塚、大島、室野(松代町西部)を経由する南側に膨らんだ路線を要望されて決着に時間を要したが、最終的にほぼ原案通りとなった。ところが、国鉄側と最終的に詰める段階になり、直江津駅構内の貨物ヤード(操車場)が処理能力の限界を迎えていたことから、黒井駅の犀潟駅寄りに新たな操車場を建設する構想が持ち上がった。これにより北越北線の乗り入れは操車場に支障しない犀潟駅とならざるを得ず、旧頸城鉄道沿線から経路が外れて頸城村の中心地も通らないことになった[5]。うらがわら - 犀潟間は、後の工事凍結時点で未着工であったため、黒井の操車場計画が結局実現しなかったこともあって、工事再開時に新たな路線問題となりかけたが、最終的に六日町と犀潟を結ぶ経路で確定した[25]。
国鉄新線としての建設
1964年(昭和39年)9月28日に運輸大臣が定めた基本計画では、北越北線は起点を直江津市、終点を南魚沼郡六日町とし、単線非電化で、線路等級は乙線とされていた。これを基に工事実施計画の指示が行われた[6]。設計にあたっては、有数の豪雪地帯を通ることから雪崩や地すべりの起こらないような場所を選んでルートの設定を行い、将来的に貨物列車や急行列車の運行を行う優等線とすることを考えて勾配や曲線を少なくするようにした[26]。
まず六日町 - 十日町間について、1968年(昭和43年)3月28日に工事実施計画が認可され、8月14日に着工となった[6]。この区間を先に着工したのは、まつだいとうらがわらの間でのルートの決着が付いていなかったためであった[5]。基本計画とは逆に起点は六日町、終点は十日町で、途中停車場は西六日町(→魚沼丘陵)、赤倉(信号場)、津池(→美佐島)と仮称されていた。最小曲線半径は400メートル、最急勾配は14パーミル、40キログラムレールを使用し、橋梁の設計活荷重はKS-16、概算工事費は50億1800万円とされた[27]。
続いて1972年(昭和47年)10月11日に十日町 - 犀潟間の工事実施計画が認可され、1973年(昭和48年)3月24日に着工された[28]。この区間の途中停車場は薬師峠(信号場)、松代(→まつだい)、儀明(信号場)、頸城大島(→ほくほく大島)、沢田(→虫川大杉)、増田(→くびき)と仮称されていた。最小曲線半径は1,000メートル、最急勾配は14パーミル、40キログラムレールを使うが長大トンネル内は50キログラムレールとし、橋梁の設計活荷重はKS-16、概算工事費は239億3400万円となった[29]。1979年度完成を予定していた[27]。
停車場の配線についても貨物列車の運行を前提とした計画になっており、単式ホームとされた西六日町、津池の両停車場以外のすべての停車場で列車交換が可能で、貨物列車相互の行き違いを想定してすべての交換可能駅で1,000トン貨物列車に対応した有効長460メートルを確保していた。在来線併設の六日町、十日町、犀潟を除くすべての停車場に、上下線とも安全側線を設置して、上下列車の待避線への同時進入を可能とすることになっていた。六日町、十日町、松代の各停車場については、機関車牽引の10両編成を想定してプラットホームの有効長を240メートルとし、これ以外の停車場については電車列車の6両編成を想定した140メートルとしていた[30]。
その後、国鉄新潟鉄道管理局からの防雪設備の完備や保守の軽減化への要望があり、さらに運輸省の通達で工事実施計画に含めるべき事項が加えられたこともあり、1978年(昭和53年)7月20日に工事実施計画が変更された。これにより十日町 - 犀潟間の工事実施計画について、犀潟駅への取り付けの変更が行われ、最小曲線半径が1,000メートルから600メートルとなり、50キログラムレールの使用とスラブ軌道の採用、電化対応設備を設けることが記載された。十日町 - 犀潟間の工事予算は511億8600万円に改定され、完成予定期日は1983年(昭和58年)に延長されることになった[31]。
この頃、全国新幹線鉄道整備法により全国的な新幹線ネットワークの整備計画が進められており、東京と北陸地方を結ぶ新幹線として北陸新幹線の基本計画が1972年(昭和47年)に制定されていた。北陸新幹線は北越北線と重複する高速鉄道計画となったが、高度経済成長の時期でもありそれほど問題視はされず、また北陸新幹線が旅客輸送、北越北線が貨物輸送と役割分担することも考えられていた。しかし1973年(昭和48年)に第一次オイルショックに見舞われると、北陸新幹線の建設は延期されることになった[32]。
北越北線はその間も工事が続けられていたが、全国各地にある鉄道新線のうちの1か所でしかなく、配分される建設予算に限りがあったことや、トンネル工事が難航していたことで遅れていた[33]。そうしているうちに国鉄の経営悪化が進み、その対策として1980年(昭和55年)に日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)の施行により鉄道新線の工事は凍結されることになった[34]。国鉄再建法での工事続行基準は、推定輸送密度が4,000人/日以上とされていたが、北越北線の推定輸送密度は1,600人/日であった[35]。この時点で用地取得は73パーセント、路盤工事は58パーセントまで進捗しており、工事費は415億円が投じられていた[31]。1982年(昭和57年)3月に完成施設の保安工事が完了すると、建設工事は全面ストップすることになった[36]。
第三セクター方式での建設再開と高速化
国鉄再建法では、建設が中断された地方鉄道新線について、地元が第三セクターを設立して引き受けることが可能であると定めていた[37]。岩手県の三陸鉄道のように、早々にこの方針で動き出して、第三セクターでの開業を果たした鉄道もあった[38]。しかし北越北線については、鉄道の経営への不安があったことに加えて、新潟県出身の田中角栄元首相が「北越北線だけは特別に貨物幹線としてやらせる」と発言していたことなどもあり、沿線自治体は第三セクター化に興味を示さなかった。だが結局北越北線が国鉄新線として工事再開されることはなかった[39]。
1983年(昭和58年)6月22日に東京で開催された北越北線建設促進期成同盟会総会に突然田中角栄が出席し、それまでの国鉄での建設再開の考えを撤回した上で、第三セクターでの引き受け案を持ち出した[40][36]。この提案は突然のことであり、沿線自治体の関係者を困惑させた[36]。当時の君健男新潟県知事は第三セクター化に慎重であったが[7]、期成同盟会会長の諸里正典十日町市長は田中の動きに呼応して第三セクター化を目指し、独断で国や公団との接触を開始した。沿線の他の市町村は、こうした諸里市長の独断専行に不満を持っていたとされる[41]。
「プロの国鉄がやってもダメなものを、素人の県や市町村がうまくやれるはずがない」として慎重であった君知事は、第三者のコンサルタントを入れて経営分析を行わせ、また第三セクター化は越後湯沢 - 六日町間と犀潟 - 直江津間での国鉄への乗り入れを行うことを条件としてつけた。コンサルタントも、秋田内陸縦貫鉄道秋田内陸線に対して「永久に黒字転換する見込みがない」と厳しい診断を下した会社に依頼した。ところが新潟県の予想に反し、コンサルタントは「5年で単年度黒字、10年で累積黒字」との報告書を出し、また国鉄も直通運転を了承した[42]。こうして梯子を外された格好となった新潟県は、第三セクター化推進の方針に転換することになった。裏側では、田中元首相の政治力を背景に諸里市長が立ち回り、君知事を政治的に追い込んだ、と伝えられている[43]。こうして1984年(昭和59年)8月30日に北越急行が設立され、1985年(昭和60年)2月1日に鉄道事業の免許を取得し、3月16日に工事が再開された[44]。
第三セクター鉄道として建設を再開するにあたり、建設計画が修正された。気動車による1 - 2両編成程度を想定し、最大で4両編成とし、旅客輸送のみに限定することになった。これにより全体にプラットホームと待避線の有効長が短縮され、頸城大島駅の交換設備は省略されることになった。上下列車の待避線への同時進入を考慮しないことにして安全側線も省略された。JR線と接続する六日町・十日町・犀潟の駅配線は大幅に変更され、特に十日町は飯山線と平面交差であったのが立体交差に修正された[45]。橋梁の設計活荷重については、国鉄時代にはKS-16荷重を想定していたが、旅客のみに改められたこともあり、第三セクター化以降に建設される場所についてはKS-12荷重を採用することになった[46]。
工事を中断した時点で鍋立山トンネルは中央部で645メートルの未掘削区間が残されていた[47]。1986年(昭和61年)2月24日に掘削が再開されたが、このわずかな区間にさらに10年余りの歳月と146億円の工費が投入されることになった[48]。当初の中央導坑先進工法では強大な土圧により支保工が座屈するなどの問題を生じた[47]。続いてトンネルボーリングマシンを導入したが、これも掘削中に土圧により発進地点より手前まで押し戻されてしまう事態となった[47]。さらに注入剤を入れて[47]、最終的には手掘りも実施する[49]などして、645メートルを掘るために実に29の工法が駆使された[50]。1992年(平成4年)10月29日にようやく先進導坑が貫通し、1995年(平成7年)3月7日に掘削完了、11月7日に竣工に漕ぎ着けた[51]。ほくほく線の開業を左右したのは政治でも採算上の数値でもなく、鍋立山トンネルの工事であったと評され、このトンネルの完成によってほくほく線開業のめどが立つことになった[52]。
1988年(昭和63年)になり、整備新幹線問題の関係で北陸新幹線の建設の見通しが立たなかったことから、北越北線を高速化してスーパー特急を走らせる計画が運輸省から打ち出された[35]。もともと優等列車の運転を想定して高い規格で建設されていたこともあり、翌1989年(平成元年)5月31日に高速化に伴う工事実施計画の変更が申請され、高速化事業が動き出した[53]。これにより、JRと直通の特急列車を走らせるために電化が実施されることになった[7]。高速化事業に要するとされた310億円は、建設に当たっていた公団の地方新線工事費から70億円、幹線鉄道活性化事業費補助金が42億円、北越急行出資金が40億円、JR東日本の負担金が158億円とされた[54]。
当初計画では、六日町駅では北越急行専用プラットホームよりも高崎方でJRとの線路の接続を行うことになっていたが、専用プラットホームで発着する普通列車とは別に、越後湯沢からの特急列車が北越急行に直接進入できるようにする渡り線が追加されることになった[55]。十日町駅では、JR線を乗り越した後に地上に降りてプラットホームを設ける計画であった[55]が、プラットホーム前後に生じる急勾配と急曲線を解消するために高架上にプラットホームを設置することになった[55]。犀潟駅では、高架でJR線を乗り越した後に海側に北越急行専用プラットホームを設ける計画であったが、信越本線の上下線の間に降りてJR線に乗り入れる構造に改めた[55]。また、高速化の制約となっていた分岐器の通過速度制限を緩和するために、一線スルーにする改良を実施した[56]。軌道を強化するため、スラブ軌道区間を延長し、レールも一部を50キログラムレールから60キログラムレールに変更し、道床厚の増大や枕木の追加を実施した[57]。特急列車の最大10両編成に対応するようにプラットホームや交換駅の待避線有効長が再び延長された[58]。信号設備として、高速進行現示のできる信号機を設置し、また自動列車停止装置 (ATS) をATS-P形とした[59]。このほか、ホーム柵の設置、雪害対策の強化、騒音防止などの措置が採られた[60]。
最終的に総工費は、地方新線建設費として1026億円、高規格化255億円の合計1281億円となった[61]。工事期間中、死者は10名、負傷者は54名であった[62]。
開業
ほくほく線は、1997年(平成9年)3月22日に開業した[63]。路線名の「ほくほく線」は、国鉄新線としての予定線名である北越北線を略して平仮名書きしたものだが、愛称ではなく、正式な路線名称である[64]。開業前に正式路線名を決定するにあたり、北越急行と沿線自治体が沿線住民を対象に実施したアンケートにおいて「ほくほく線」と「北越ロマン線」の2つが上位を占めた[64]。そして選考の結果「温かいイメージで親しみやすく、呼びやすい」という理由で「ほくほく線」が選ばれた[64]。路線名は開業の5年前の1992年(平成4年)に決定されており、異例の早い時期の路線名決定は、工事再開後もトンネル工事の遅延と高規格化工事で開業が遅れた結果であった[65]。
開業と同時に、上越新幹線と越後湯沢駅で接続して首都圏と北陸地方を結ぶ特急「はくたか」が、ほくほく線経由で運転を開始した[63]。ほくほく線が開業する以前は、首都圏と北陸地方を結ぶ手段は東海道新幹線で米原を経由するルートが一般的であった[49]が、ほくほく線が開業してからは上越新幹線と「はくたか」を乗り継ぐルートのほうが有利になる範囲が拡大された[66]。上越新幹線と越後湯沢で接続しての東京と金沢の間の最速所要時間は3時間43分となり、長岡経由に比べて15分短縮された[67]。
当初から160 km/h運行に対応する設備で開業したが、さらなる技術的な検討を待ってから実際の160 km/h運転を開始することにしたため、当初の特急列車の最高速度は140 km/hとされた[63]。その後、段階的な検証を行い、1998年(平成10年)12月から「はくたか」が150 km/h運転を開始し[8]、続いて2002年(平成14年)3月から当初の予定通りの160 km/h運転が開始されている[8]。なお、ほくほく線開業後、まつだい駅から松之山温泉を訪れる行楽客が増えたという[68]。
2004年(平成16年)10月23日の新潟県中越地震では発生後全線で運転を見合わせた。10月26日より被害の少なかった犀潟 - まつだい間で普通列車に限った臨時ダイヤによる運転を再開。11月2日に全線で運転を再開した。当初は速度制限つきの運転で、12月17日から160 km/h運転を再開している。また、2005年(平成17年)2月11日より上越線が全面復旧する3月24日までの間、週末を中心にのべ13日にわたって急行「能登」がほくほく線を経由して運転された[69]。2007年(平成19年)7月16日に発生した新潟県中越沖地震では、特急「はくたか」が終日運休となり、翌17日から運転を再開した[70]。
一方、ほくほく線の高規格化が行われるきっかけとなった整備新幹線計画問題については、その後北陸新幹線について計画が見直されるたびに順次フル規格での建設が進められていった。北陸新幹線高崎 - 長野間については、ほくほく線のおよそ半年後の1997年(平成9年)10月1日に開業したが、この時点では上越新幹線・ほくほく線経由が北陸地方への最速ルートであり、北陸へ向かうには北陸新幹線ではない新幹線に乗らなければならない状態となり、長野新幹線という名前が付けられる一因となった[71]。しかし2015年(平成27年)春に予定されている北陸新幹線の金沢開業後は、特急「はくたか」は廃止されてほくほく線はローカル線に転落してしまうことになる[72]。
ほくほく線は10日間しか営業していなかった初年度を除いて毎年数億円の黒字となっている[73]。2001年度の営業収支率は73.0パーセントであり、第三セクター鉄道の中では経営状態は良好であるが、全体の9割が特急による収益で普通列車の収益は全体の1割にも満たない[74]。北陸新幹線開業によるローカル線転落に備えて、これまでの利益を赤字補填用に蓄えてあり、2013年(平成25年)3月31日時点で剰余金は約92億円に上る[75]。また2012年(平成24年)時点で「はくたか」利用者の22パーセントから25パーセントが北陸新幹線でも乗り換えを要する直江津で乗降している[76]。これらのことから、北越急行では「ほくほく線経由の需要も残るのではないか」と予測しており[76]、事業を継続することは可能であるという見通しをもっている[76]。
年表
- 1931年(昭和6年)8月 - 地元の関係者が国会に請願書を提出し、鉄道敷設運動が始まる[77]。
- 1940年(昭和15年) - 越後湯沢と結ぶ北越南線構想が持ち上がる[14]。
- 1944年(昭和19年) - 信濃川発電所工事線を延長する形で松代と結ぶ路線の建設が決まるが、後に敗戦により計画中止[14]。
- 1950年(昭和25年)9月3日 - 北陸上越連絡鉄道(上越西線)期成同盟会発会式[17]。
- 1953年(昭和28年)
- 1961年(昭和36年)2月23日 - 南北両派が一本化で協力推進する協約を締結[79]。
- 1962年(昭和37年)
- 1964年(昭和39年)
- 1968年(昭和43年)
- 1972年(昭和47年)10月11日 - 十日町 - 犀潟間工事実施計画認可[6]。
- 1973年(昭和48年)3月24日 - 十日町 - 犀潟間着工[6]。
- 1978年(昭和53年)7月20日 - 停車場有効長の延伸、スラブ軌道の採用、電化準備工事などを含めた工事実施計画変更[31]。
- 1980年(昭和55年)12月27日 - 日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)施行[80]により工事凍結[31]。
- 1982年(昭和57年)3月 - 完成済み施設の保安工事完了、工事全面停止[36]。
- 1983年(昭和58年)6月22日 - 北越北線建設促進期成同盟会総会において、田中角栄元首相から第三セクター化の構想が提示される[40]。
- 1984年(昭和59年)
- 1985年(昭和60年)
- 1988年(昭和63年)8月 - 運輸省が「整備新幹線運輸省規格案」を発表、北陸新幹線と連携した幹線鉄道とするための、北越急行の電化・高規格化を提唱[81]。
- 1989年(平成元年)
- 1996年(平成8年)4月15日 - まつだい駅構内にてレール締結式[85]。
- 1997年(平成9年)3月22日 - ほくほく線開業[63]。
- 1998年(平成10年)12月8日 - 「はくたか」を150 km/hにスピードアップ[86]。
- 2002年(平成14年)3月23日 - 「はくたか」を160 km/hにスピードアップ[86]。
- 2004年(平成16年)
- 2007年(平成19年)7月16日 - 新潟県中越沖地震発生、「はくたか」の運転を1日休止[70]。
施設
構造物
構想当初から首都圏と北陸を結ぶ優等列車や貨物列車の運転が考えられており、それに備えてKS-16荷重を採用していた[26]。しかし国鉄再建法に伴う工事中断とその後の第三セクター方式での建設再開に際して、旅客専用線として計画を改めており、重い機関車の入線は不可能となっている[76]。第三セクター化後に建設された区間の活荷重はKS-12荷重を採用している[46]。ただし雪かき車の通行は想定されており、設計に際してDD14形・DD53形の両ロータリー式雪かき車の重量が考慮されている[46]。
魚沼丘陵と東頸城丘陵を横断する線形からトンネルが14か所と多く[4]、すべてのトンネルの長さを合計すると40,342メートルとなり、これは路線長59,468メートルの67.8パーセントに相当する[87]。他の構造種別は、土路盤が9,679メートルで16.3パーセント(うち切取1,042メートル、盛土8,637メートル)、橋梁が9,447メートルで15.9パーセントである[87]。
全長が3,000メートルを超えるトンネルについて、起点側から順に以下に示す。
- 赤倉トンネル
- 赤倉トンネルは、魚沼丘陵 - しんざ間に位置する全長10,471.5メートルのトンネルで、トンネル内に赤倉信号場と美佐島駅が存在する[3]。JR以外の日本の鉄道トンネルではもっとも長い[3]。東工区4,281.5メートル、中工区4,140.0メートル、西工区2,050.0メートルの3つの工区に分割して施工され、東工区および中工区では膨張性地圧と大量の湧水により工事が難航した[88]。トンネル内で上越新幹線の塩沢トンネルと立体交差となっており、交差部でのトンネル間隔は1メートルもない条件で、先に赤倉トンネルが施工されたことから塩沢トンネル施工前に赤倉トンネルに補強工事を行っている[89]。1969年(昭和44年)から1974年(昭和49年)にかけて建設され[90]、工事凍結時点では既に完成済みであった。
- 薬師峠トンネル
- 薬師峠トンネルは、十日町 - まつだい間に位置する全長6,199.17メートルのトンネルで、トンネル内に薬師峠信号場が存在する[3]。東工区3,647メートル、西工区2,522メートルに分割されて施工され、西工区では地質に恵まれ順調に掘削できたものの、東工区は大規模な異常出水に直面したほか、国鉄信濃川発電所用の水路トンネル2本との立体交差があり、特別な対応が求められた[91]。1973年(昭和48年)から1979年(昭和54年)にかけて建設され[90]、工事凍結時点では既に完成済みであった。
- 鍋立山トンネル
- 鍋立山トンネルは、まつだい - ほくほく大島間に位置する全長9116.5メートル(スノーシェッド13メートルを含めて9129.5メートル)のトンネルで、トンネル内に儀明信号場が存在する[3]。東工区1750.5メートル、中工区3,387.0メートル、西工区3979.0メートルに分割して施工され[92]、東工区は予定通りの工期で完成したが、西工区の後半(トンネル中央側)と中工区は膨張性地山と可燃性ガスの湧出により苦しめられた[93]。1973年(昭和48年)に着工したが、1982年(昭和57年)の工事凍結時点で645メートルが未掘削で残されており、工事再開後も日本のトンネル工事史上未曽有とされる困難を極める工事となった[93]。最終的に1995年(平成7年)に完成し[48]、途中の中断期間を含めると21年11か月を要した。
- 霧ヶ岳トンネル
- 霧ヶ岳トンネルは、ほくほく大島 - 虫川大杉間に位置する全長3726.98メートル(スノーシェッド6メートルを含めて3732.98メートル)のトンネルである[3]。東工区1,826メートル(入口側の六夜沢橋梁を含む)、西工区1,828メートル、出口側開削区間140メートルの3工区に分割して施工された。地質に恵まれた工事であったが、西工区は建設中に工事凍結を迎え、東工区は工事再開後の着工であった[94]。1978年(昭和53年)から1992年(平成4年)にかけて建設された[90]。
- 第一飯室トンネル
- 第一飯室トンネルは、うらがわら - 大池いこいの森間に位置する全長3287メートルのトンネルである[3]。東工区1,610メートル、西工区1,672メートルに分割して施工され、一部崩壊性地山に遭遇して難渋したが全体的には順調な進行で[95]、工事再開後の1988年(昭和63年)に着工し1991年(平成3年)までかけて建設された[90]。
全線で橋梁が28か所、高架橋が35か所、架道橋が69か所、線路橋が3か所、溝橋が2か所ある[96]。最長の橋梁は、十日町 - 薬師峠信号場間にある信濃川橋梁で、全長406.73メートルである[97][98]。橋脚や橋台は国鉄線として施工されたためKS-16荷重で設計されているが、橋桁は第三セクター化されてからの施工のためKS-12荷重となっている。1径間68メートルの3径間連続トラスを2連用いた橋梁となっている[99]。
軌道
ほくほく線は全線が単線で[100]、軌条(レール)は60キログラムレール[注釈 1]が大半を占めるが、50キログラムレールを使用している区間もある[101]。また全線の約7割がスラブ軌道であり、バラスト軌道が約2割であるほか、事情に応じて合成まくらぎ直結軌道、弾性まくらぎ直結軌道、鋼直結軌道、パネル軌道などの区間がある[101]。
建設中数度に渡り工事実施計画の変更が行われたが、最終的に最小曲線半径は400メートル、最急勾配は33パーミルとなっている[102]。半径の小さな曲線はすべて、JR線と接続する六日町・十日町・犀潟の駅付近に位置し、それ以外の区間では半径800メートル以上である[103]。もっとも曲線のきつい半径400メートルのカーブは犀潟駅の1か所のみで、制限速度は80 km/hである[103]。高規格化にあたって、緩和曲線長の延伸などの改良が行われている[103]。
本線上において高速走行の列車が通過する場所にある分岐器12組をノーズ可動クロッシングとした[104]が、これは開業時点では、新幹線以外の日本の鉄道ではほくほく線を含めても20組程度しか導入されていなかった特殊な分岐器である[104]。ただし、十日町駅構内については、駅前後の曲線で速度制限を受けることによって130 km/h以下の速度での通過となる[105]ため、ノーズ可動クロッシングを使用していない[105]。また、交換設備はすべて1線スルー方式で[56]、直進側を通過する際には最高速度のままで通過可能である[56]。
踏切は、始終端の六日町駅・犀潟駅構内の2か所のみであり[106]、線区の中間にはまったく踏切が存在しない。この2か所の踏切では、前後に存在する曲線や分岐器に伴う速度制限により、列車の通過速度が130 km/h以下に抑えられることから、他の線区の踏切と同等であるとして、特段の保安措置は採られていない[59]。
駅・信号場
列車の行き違いを行う交換設備は、起終点を除くと十日町・まつだい・虫川大杉・くびきの4駅と、赤倉・薬師峠・儀明の3信号場にあり、すべて10両編成同士の列車交換が可能である[56]。駅数は両端の六日町駅・犀潟駅を含めて12駅で[4]、自社管理の駅員配置駅は十日町駅だけで[4]、起点・終点駅である六日町駅・犀潟駅と十日町駅以外は、すべて無人駅である。また、特急の停車しない駅のプラットホームはすべて2両分のみである[107]が、虫川大杉駅の下り線に限り9両分の長さである[107]。また、信号場は3か所ともトンネル内にある[4]。トンネル内の信号場は、国鉄新線としての建設時に貨物列車の運行を計画していたことから、有効長460メートルを実現するために、複線断面となっている延長が680メートルに達しているが、実際の待避線有効長は240メートルとなっている[108]。
「はくたか」・快速が停車しない駅では、列車が高速で通過して危険であることから、ホームへの入口にはスイングゲートが付いていて、列車に乗降する時以外はホームに入らないようにとの注意書きがしてある[109]。特に美佐島駅はホームがトンネル内にあり、通過列車が接近した場合、風圧によって飛ばされる危険が高い[注釈 2]ことから、列車到着後2分以内にホームから出る必要がある。このため、無人駅ながら危険防止のため、ホーム部分は常に監視カメラによって管理されており、列車が発着した後もホームに残っているとアナウンスで注意される[110]。
車両基地は六日町駅に隣接しており[1]、2両編成×3編成が収容可能な収容庫と、検修庫に分かれている[1]。
閉塞方式
閉塞方式は単線自動閉塞式で[56]、出発信号機8機と閉塞信号機22機を使用[56]、1閉塞平均の距離は1,566mである[56]。列車集中制御装置 (CTC) とプログラム式進路制御 (PRC) を併用し[56]、進路設定の上で支障となる要因がなくなると30秒で進路を設定できる[56]。
保安装置
保安装置(自動列車停止装置)はATS-P形を採用した[111]。当初、運輸省では高速運転に際して、新幹線と同様に自動列車制御装置 (ATC) の導入を求めていた[104]が、導入コストの問題のほか[104]、各地からの臨時列車の乗り入れが車種の制限なく行えるようにするため[104]、ATS-P形の導入となった。また、交換駅での同時進入は通常なら警戒現示により25km/h制限となるところ[56]、ATS-P形の導入によって本線側55km/h・分岐側45km/hに制限速度が緩和されている[56]。また、130 km/h以上での走行を許可する「高速進行現示」として主信号機では緑2灯の点灯、中継信号機では縦に6灯の点灯をもって、高速進行現示とする「GG信号」が導入された[111]。このGG信号は、ATS-Pトランスポンダを搭載した車両に限って現示されるもので、トランスポンダ搭載車が信号機を通過する数十秒前にG信号(進行現示)からの変換によりGG信号が現示される[112]。このGG信号の導入により、それまでの緑1灯の点灯となる進行現示(G信号)は130 km/hの制限信号となった[113]。
電力設備
160 km/h走行を考えれば電流を小さくできる交流電化の方が有利な面が多いが、トンネル断面が小さくて交流の絶縁離隔確保ができないことから直流電化が採用されている[114]。架線支持方式は、地上区間では新幹線と同様のコンパウンドカテナリ方式を使用している[104]が、もともと非電化路線として建設されたため断面積の小さいトンネル内では、上下寸法の小さいツインシンプルカテナリ方式を採用しており[104]、さらに吊架には長幹碍子という特殊な碍子を使用している[104]。変電所は、おおむね10キロメートル間隔で六日町、津池、十日町、松代、大島、浦川原、大潟の7か所に設置されている[115]。
最高速度
ほくほく線の最高速度は160 km/hで、これは新幹線を除く鉄道では京成成田空港線の「スカイライナー」とともに日本では最速である。160 km/hに設定された背景には、国鉄時代に湖西線で行われた高速走行試験の目標が160 km/hであったこと[49]や、「新幹線の在来線の軌間の比率を考えると、200 km/hに対して160 km/hとなる」という考えもあったことが挙げられる[111]。「140 km/hでも十分」という意見もあった[111]が、関係者や技術者の多くは「絶対に在来線鉄道の将来に役立つ」と協力を惜しまなかったという[111]。
しかし、1996年から開始された開業前の試運転の際には、高速走行時の車内で予想以上の気圧変動が発生しており[116]、気密構造でなかった681系を使用した試運転で窓の接着部分には指が入るほどの隙間ができてしまったことすらあった[111]。これらの現象は、ほくほく線のトンネルが単線断面であり、かつトンネル断面が複雑であることが要因であった[116]が、これに伴い、ほくほく線で高速運転を行う特急形車両については、扉が閉じた際に圧着させるなどの対策を施した簡易気密構造の車両に限定されることになった[116]。その後の半年にわたる試運転で安全性は立証された[63]ものの、万全を期して、開業当初の最高速度は140 km/hとした[63]。その2年後に行われた特急形車両の重要部検査時には、車両の構体に亀裂などがないかを微細に確認した上で[63]、1998年12月8日から150 km/h運転を開始した[86]。さらに2年後に行われた全般検査時にも構体に対して同様の確認を行い[8]、2000年11月21日には160 km/h運転の試運転を行った上で問題がないことを確認[8]、2002年3月23日から160 km/h運転が開始されている[86]。
通常ダイヤであれば155km/h程度で定時運行が可能で[117]、160 km/hは列車が遅延した際の余裕と考えられている[117]。また、最高速度である160 km/hで走行できる区間は、下り列車が赤倉・鍋立山・霧ヶ岳の各トンネル内とくびき駅から犀潟駅までの高架橋区間[8]、上り列車では薬師峠トンネル内となっている[8]。さらに、気圧変動の緩和のため、ATS-Pによってトンネル進入時に130 km/hに速度を落とし、進入後のトンネル内で160 km/hまで加速させている[8]。
なお、うらがわら駅と大池いこいの森駅の間の曲線では135 km/hに制限されている[117]が、これは在来線ではもっとも高速の速度制限である[117]。
運行形態
ほくほく線では、上越新幹線と接続して北陸方面を結ぶ特急列車[4]と、地域内利用を主眼とした普通列車が運行されている[7]。正式な起点は六日町駅だが、列車運行および旅客案内では犀潟駅から六日町駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている[118]。これは、特急「はくたか」がJR西日本主体の列車であり[118]、北陸本線に合わせたためである[118]。
特徴
開業当初から、越後湯沢での上越新幹線連絡を最優先にしたダイヤ設定が行われている[119]。
この結果、1999年時点では特急「はくたか」同士のすれ違いは、56回中24回がほくほく線内で行われていた[119][注釈 3]。また、ほくほく線内のみを運転する普通列車は、数駅ごとに特急列車の待避や交換待ちなどで長時間停車する列車が多い[120]。1999年の時点では、通過駅のない普通列車で最も短い所要時間が直江津から六日町までで49分45秒であったのに対して[119]、最長の所要時間を要する列車では六日町から直江津までに1時間24分かかっていた[121]。
JR線内へ乗り入れる快速・各駅停車はJR線内で通過運転を行っており、上越線の上越国際スキー場前駅(冬期のみ)と塩沢駅に一部列車が停車する[107]が、上越線の石打駅・大沢駅と信越本線の黒井駅は全列車が通過となる[107]。これは、短い編成でワンマン運転を行うほくほく線の列車では、JR線内での突発的な需要に応じ切れないことが理由と考えられている[107]。
ほくほく線内の列車に乗務する乗務員は、特急列車では境界駅の犀潟駅・六日町駅に停車しない関係で(六日町駅は一部の列車が停車)運転士・車掌共にJR東日本直江津運輸区が担当している。かつてはJR西日本の車掌もほくほく線区間を乗務することがあった[122]が、2012年時点では車掌も運転士と同様の区間に乗務している[123]。一方、普通列車については、JR東日本の区間も含めて北越急行の運転士が担当する[122]。
列車の乗降方法
駅員が配置されている六日町駅、十日町駅、犀潟駅ではすべてのドアが開き乗降が可能だが、これらの駅以外の駅で乗降する場合は、2両編成で運転される普通・快速列車の2両目のドアは開けず、1両目の後部のドアより乗車し、1両目の前部のドアより降車する後乗り前降り方式を取っている[124]。
運行管理
ほくほく線の運行管理は、六日町駅に隣接した運転指令所により行われている[73]。
開業当初からJR東日本新潟支社の運転指令との連携が行われていたが、当初はJR西日本の区間での遅れ情報がJR東日本を通じて提供されるシステムであった[117]ため、ダイヤの乱れが大きい場合には情報の遅れが生じ[117]、ひどいときには越後湯沢行きの列車の遅れ状況が直江津に到着しないと判明しなかったことすらあった[117]。このため、他社線での遅れ状況を把握するためのディスプレイが運転指令所に設置され[117]、JR西日本エリアも含めた運行状況をリアルタイムで把握できるようになった[117]。
また、運転通告についても、JRなどで行われている運転通告券による方式は無人駅の多いほくほく線では困難であるため[66]、無線伝達をもって運転通告としている[66]。このため、全線にわたって漏洩同軸ケーブル (LCX) が敷設され[56]、列車がほくほく線内のどの位置にいても運転指令所との通信が明瞭に行える[56]。
ほくほく線区間の特急の運転士は前述の通りJRの乗務員が担当しているが、ほくほく線内では一切の指揮系統は北越急行の運転指令によるものとなる[123]。逆に、普通列車の乗務員については、JR東日本区間ではJR東日本の指揮下となる[123]。
雪対策
前述の通り、ほくほく線は路線長の68パーセントがトンネルであるが、沿線は1日の間に数十センチの積雪があるほどの豪雪地帯である[1]。このため、残る地上区間については数々の雪対策が施されている。
- 高架橋
- 高架橋の中に雪が溜まらないようにする対策として、くびき付近では線路と側壁の間が吹き抜けとなっている「開床式高架橋」を採用している[55]ほか、周囲が田園地帯の区間の高架橋には、そもそも側壁自体が設けられていない[107]。一方、しんざ駅と十日町駅の間の高架橋では、赤倉トンネルの湧水をそのまま線路脇に流している[110]。
- 消雪溝
- 車両が排雪した後も線路脇に雪の壁を作らないようにするための装備。六日町駅構内に設けられており、線路脇に溝を作って地下水を流す[125]。六日町では地下水汲み上げによる地盤沈下が激しく、地下水の利用には制限がある[125]ため、使用後の水は循環使用される[125]。
- 融雪ピット
- 六日町駅構内の踏切脇に設けられており[125]、レールの間の枕木上にFRP製のトレーを置き、地下水を流すことによって列車に押された線路内の雪の量を減らす[125]。これによって線路から踏切内へ持ち込まれる雪が少なくなる[125]。前述の取水制限があるため、使用後の水は循環使用されている[125]。
- パネル式融雪装置
- 車両が排雪した後も線路脇に雪の壁を作らないようにするための装備。地下水によって加温した不凍液をパネルの中に循環させるもので[126]、民家や施設が周囲にあって除雪の際に投雪ができない場所に設けられている[126]。六日町駅構内では地下水は循環利用である[125]が、関越自動車道を跨ぐ場所では取水制限がないため地下水は循環利用していない[127]。
- スプリンクラー
- 六日町の車両基地構内、十日町駅構内などに設けられている。六日町では地下水を利用するが、前述の取水制限があるため使用後の水は循環使用されているほか、車両基地内も路盤をアスファルト舗装とし、その上にバラストを敷いた強化路盤としている[1]。十日町駅手前の飯山線を跨ぐ部分は赤倉トンネルの湧水を[110]、十日町駅構内では薬師峠トンネルの湧水を利用しており[128]、使用後の水は十日町の市街地道路の融雪に利用された後、信濃川へ放流されている[128]。
- 熱風ヒーター
- 地下水脈が全くないため地下水を利用する手段が採れず[129]、水利権の関係で川の水も利用できない[129]まつだい駅構内の分岐器に装備される[129]。ボイラーで摂氏100度まで加温された温風をダクトで分岐器に導くもので[129]、温風噴射口では摂氏40度程度の温風となる[129]。なお、松代地区では道路の融雪も水が利用できず、ロードヒーティングが主体である[129]。
- 温水ジェット噴射装置
- 分岐器の可動部分で雪氷が詰まることによって、分岐器の不転換を引き起こすことがある[130]。無人駅がほとんどのほくほく線では、直ちに人力で対応することは難しい[130]ため、不転換の分岐器があった場合には温水を噴射して氷雪を溶かす方法を採用した[130]。この装置は運行指令所から遠隔操作され、噴射口からは摂氏25度の温水が60秒間噴射される[129]。この装置は、ほくほく線の本線上にあるすべての分岐器に装備されている[130]。降雪のないトンネル内の信号場にも設置されているのは、通過車両から落下した雪塊をも考慮したものである[129]。
- 除雪機械(モーターカー)
- JRから譲受した旧式の排雪用のモーターカー1台のほか、ほくほく線開業時に新造した2台が用意されている[131]。新造したモーターカーは、犀潟寄りに雪を両脇に押し出すラッセルヘッド[131]、六日町寄りに線路脇の雪の壁を崩した上で投雪するロータリーヘッドを装備している[131]ほか、架線に付着している霜や雪を除去するためにパンタグラフを装備している[130]。
このような地上側での雪対策の装備について、定期点検を含めた総経費は年間約1億円である[129]。
地上側の設備に加え、線内列車に使用されるHK100形のスロープロウの先端部分は櫛の歯のような形状にしている[125]が、これは2本のレールの間の雪が圧雪状態の塊になると脱線事故の原因になりかねない[125]ため、この先端部分で雪をほぐし、圧雪状態にならないようにするためである[125]。また、六日町駅構内の車両基地では、冬季は屋外での車両留置は行わず、すべて留置用の収容庫か検修庫を利用する[1]。このため、車両洗浄機や洗浄台も収容庫内に設けられている[1]。さらに、前述の運行体制の一環として、大雪であっても列車の運行を行うことによって、線路上への積雪を最小限に抑えている[74]。北越急行では、「最大の除雪手段は、列車を走らせ続けること」としている[74]。
こうしたさまざまな雪対策を開業当初から装備した[74]ことにより、ほくほく線は接続するJRの路線が不通になった時でも運休することはほとんどなく[132]、雪対策で不備をきたしたことも皆無に近い[74]。
利用状況
ほくほく線の沿線は大きく南魚沼地域(南魚沼市のうち旧六日町)・中魚沼地域(十日町市)・東頸地域(十日町市のうち旧松代町)・平野部(上越市のうち旧大島村・浦川原村・頸城村・大潟町)の4地域に分けられる[7]。それぞれの地域はもともと丘陵地帯によって隔てられていた[7]ため、平常時の流動はほくほく線のルートとは平野部以外は一致していない[7]。しかし、東頸地域はもともとの交通事情が悪かったため、ほくほく線の開業に伴い利便性が向上した[7]。また、十日町市にある十日町総合高等学校は新潟県全域を学区とする高校であり、ほくほく線開業により自宅からの通学が可能となった[7]。しかし、ほくほく線の沿線は最も過疎化と高齢化が進んでいる地域で[7]、マイカー保有率も1.5人に1台の割合で[7]、当初より線内需要は厳しいと見られていた[7]。
こうした事情もあり、ほくほく線開業と同時に公共交通体系の再構築が行われた。北越急行に出資するバス事業者である頸城自動車は、1996年10月に東頸地区自治体との共同出資による東頸バスの営業を開始し[133]、ほくほく線の開業後は各駅前に乗り入れる路線を設定した[133]。また、同様に北越急行に出資するバス事業者の越後交通は、ほくほく線の列車と競合する越後湯沢 - 十日町の路線バスを減便している[133]。
越後湯沢 - 十日町は峠越えとなるために自動車でも1時間程度の所要時間を要していた[133]が、ほくほく線が開業すると普通列車でも30分台で結ばれるようになった[133]。また、前述した雪対策によって安定した輸送を目指したことが評価され[74]、沿線の家庭では進学時にほくほく線沿線の高校を選ばせたり、上越線が不通になると越後湯沢と六日町のタクシー利用が増加する事例もみられるようになった[74]。現実の線内利用者数も、開業当初に年間65万人程度だったものが2012年には110万人に増加している[129]。
輸送実績
ほくほく線の輸送実績を下表に記す。 表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
年 度 | 輸送実績(乗車人員):万人/年度 | 輸送密度 人/1日 |
特 記 事 項 | |||
---|---|---|---|---|---|---|
通勤定期 | 通学定期 | 定 期 外 | 合 計 | |||
1996年(平成8年) | 0.1 | 0.1 | 16.0 | 16.2 | 252 | 開業 |
1997年(平成9年) | 5.3 | 16.1 | 273.4 | 294.8 | 6,783 | |
1998年(平成10年) | 9.0 | 24.6 | 265.4 | 299.0 | 6,703 | |
1999年(平成11年) | 11.5 | 34.1 | 263.9 | 309.5 | 6,777 | |
2000年(平成12年) | 11.7 | 38.6 | 266.1 | 316.4 | 6,887 | |
2001年(平成13年) | 13.1 | 38.0 | 272.7 | 323.8 | 7,087 | |
2002年(平成14年) | 10.4 | 39.9 | 279.5 | 329.8 | 7,282 | |
2003年(平成15年) | 10.1 | 39.8 | 287.2 | 337.1 | 7,403 | |
2004年(平成16年) | 9.4 | 37.8 | 279.0 | 326.2 | 7,252 | 新潟県中越地震発生 |
2005年(平成17年) | 10.5 | 37.2 | 280.3 | 328.0 | 7,299 | |
2006年(平成18年) | ||||||
2007年(平成19年) | 新潟県中越沖地震発生 |
収入実績
ほくほく線の収入実績を下表に記す。 表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
年 度 | 旅客運賃収入:千円/年度 | 運輸雑収 千円/年度 |
総合計 千円/年度 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
通勤定期 | 通学定期 | 定 期 外 | 手小荷物 | 合 計 | |||
1996年(平成8年) | 1,260 | 931 | 139,197 | 0 | 141,388 | 11,988 | 153,376 |
1997年(平成9年) | 11,217 | 16,856 | 28,073 | 0 | 3,194,144 | 404,122 | 3,598,266 |
1998年(平成10年) | 16,722 | 26,863 | 3,084,511 | 0 | 3,128,096 | 439,348 | 3,567,444 |
1999年(平成11年) | 21,953 | 32,452 | 3,174,414 | 0 | 3,228,819 | 522,594 | 3,751,413 |
2000年(平成12年) | 23,602 | 36,450 | 3,185,860 | 0 | 3,245,912 | 482,125 | 3,728,037 |
2001年(平成13年) | 26,452 | 37,181 | 3,214,647 | 0 | 3,278,280 | 535,995 | 3,814,275 |
2002年(平成14年) | 20,967 | 37,804 | 3,325,368 | 0 | 3,384,139 | 564,007 | 3,948,146 |
2003年(平成15年) | 21,781 | 38,222 | 3,290,207 | 0 | 3,350,210 | 654,334 | 4,004,544 |
2004年(平成16年) | 21,729 | 37,795 | 3,167,224 | 0 | 3,226,748 | 579,652 | 3,806,400 |
2005年(平成17年) | 27,586 | 36,116 | 3,293,044 | 0 | 3,356,746 | 771,544 | 4,128,290 |
2006年(平成18年) | |||||||
2007年(平成19年) |
車両
車両の特徴
ほくほく線の特急形車両は、JR西日本の保有する車両と同一形式である。これは、車両選定の段階で160 km/hの高速走行を考慮して設計されていたのがJR西日本の681系しかなかったこと[134]、全くの新形式を製造することは会社の体力的に無理であったことが理由として挙げられている[134]。その一方、他社からの乗り入れのみでなく自社の車両を保有することになったのは、各社間協議で「大規模な相互直通運転を行うには各社が初期の設備投資をするのが絶対条件」とされていたこと[135]、高速走行を実施するために長期にわたる試験が必要となった[134]が、JR西日本の車両を長期間借用するのは困難であった[134]ことが理由として挙げられる。
一方、ほくほく線内の普通列車は、ローカル線の普通列車としては高速の部類に入る最高速度110 km/hで運転され、特急列車「はくたか」への影響を小さくするため[76]普通列車用の車両であるHK100形は優れた加速性能を持つ[76]。普通・快速列車は全列車がワンマン運転である。ほくほく線ではトンネルが多くあまり景色が見られないという路線特徴を逆手に取り、トンネル走行時に車内にて映像を鑑賞できる「ゆめぞら号」という車両が運行されている[76]。この「ゆめぞら号」は主に土曜・日曜・祝日に運行中で、季節によって異なる映像が上映される。詳しい運行状況は北越急行株式会社のホームページで確認することができる[136][137]。
HK-100形は全車両が新潟鐵工所(新潟トランシス)製[76]、681系2000番台は川崎重工業製であるが一部車両は委託製造として近畿車輛・新潟鐵工所で製造した[138]。683系8000番台は構体と電装品を川崎重工業で製造し、最終組み立てを新潟トランシスで行っている[139]。
車両各説
自社車両
- HK100形
- ほくほく線内の普通列車として運用される車両で、開業時点では9両が製造された[4]。1999年に1両[73]、2003年に2両が増備された[76]。2003年に増備された車両のみ片運転台の2両編成で[76]、それ以外は両運転台の車両である[76]。
- 681系2000番台
- 特急「はくたか」に運用される。JR西日本の681系電車と同一仕様の車両で、「スノーラビットエクスプレス」という愛称を有する[122]。9両編成が2編成製造されたが、整備・検査などはすべてJR西日本に委託されており[122]、車両自体もJR西日本の金沢総合車両所に常駐である[122]。開業当初はJR西日本の車両とは運用が区別されていた[122]が、2002年3月ダイヤ改正以降はJR西日本681系との共通運用となっている[140]。
- 683系8000番台
- 特急「はくたか」に運用される。JR西日本の683系電車とほぼ同一仕様で、2005年にJR東日本の車両を置き換える形で、9両編成が1編成導入された[141]。簡易気密構造を有しており[141]、高速走行に対応するためにブレーキ装置がキャリパー式ディスクブレーキとなっている[76]。681系2000番台・JR西日本681系との共通運用となっている[142]。
乗り入れ車両
JR東日本
JR西日本
- 485系
- 開業当初から特急「はくたか」で乗り入れ[122]。2002年のダイヤ改正で681系に置き換えられた[8]。
- 489系
- 485系の代わりに特急「はくたか」で乗り入れていることがあったほか、急行「能登」が臨時にほくほく線経由で運行された際に乗り入れた[69]。
- 583系
- 冬季のみ「シュプール号」で乗り入れていた[143]。
- 681系
- 開業当初から特急「はくたか」で乗り入れ[122]。簡易気密構造を有しており[122]、高速走行が可能。「ホワイトウイング」という愛称を有する[144]。開業当初は北越急行の車両とは運用が区別されていた[122]が、2002年3月のダイヤ改正以降は681系2000番台との共通運用となっている[140]。
- 683系
- 特急「サンダーバード」用の4000番台が、運用上の都合で681系の運用に入ることがある[145]。高速運転には対応しておらず、最高速度は130 km/hとなる[117]。
データ
路線データ
- 路線距離(営業キロ): 59.5 km
- 軌間: 1,067 mm[102]
- 駅数(起終点を含む): 12
- 最高速度: 160 km/h(特急、右記の区間以外。京成成田空港線と共に営業在来線日本国内最速)、140 km/h(薬師峠信号場 - まつだい間、虫川大杉 - くびき間)、110 km/h(普通・快速)
- 複線区間: なし(全線単線)
- 電化区間: 全線(直流1,500 V)[102]
- 最小曲線半径: 400 m[102]
- 最急勾配: 33 パーミル[102]
- 設計活荷重: KS-16(国鉄時代に完成した区間)、KS-12(第三セクター化後に完成した区間)
- 最長トンネル: 赤倉トンネル(10,472 m、魚沼丘陵 - しんざ間。トンネル内に赤倉信号場と美佐島駅があり、地下鉄・JR線以外では日本最長の鉄道トンネル[3])
- 閉塞方式: 単線自動閉塞式[102]
- 保安装置: ATS-P[102]
- 運転指令所: 六日町指令所[102]
駅一覧
- 全線新潟県内に所在。
- 便宜上、ほくほく線の列車が直通するJR上越線・信越本線の区間も合わせて記載する。なおJRの普通列車は上越国際スキー場前駅を除き下表のJRの駅すべてに停車する。
- 凡例
- 停車駅 … ●:全列車停車、|:全列車通過、*:一部の列車が停車、※:夏季・冬季のみ一部の列車が停車、△:一部の下り列車が通過。
- 線路 … ∥:複線区間、◇:単線区間(列車交換可能)、|:単線区間(列車交換不可)、∨:ここより下は単線、∧:ここより下は複線
運営会社 | 路線名 | 駅名 | 駅間キロ | 六日町 からの 営業 キロ |
北越急行普通 | 北越急行快速 | 特急はくたか | 接続路線 | 線路 | 所在地 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
JR東日本 | 上越線 | 越後湯沢駅 | - | 17.6 | ● | ● | ● | 東日本旅客鉄道:上越新幹線・上越線(水上方面・ガーラ湯沢支線) | ∥ | 南魚沼郡 湯沢町 |
石打駅 | 6.4 | 11.2 | | | | | | | ∥ | 南魚沼市 | |||
大沢駅 | 4.0 | 7.2 | | | | | | | ∥ | ||||
上越国際スキー場前駅 | 1.0 | 6.2 | ※ | ※ | | | ∥ | ||||
塩沢駅 | 2.3 | 3.9 | * | | | | | ∥ | ||||
六日町駅 | 3.9 | 0.0 | ● | ● | * | 東日本旅客鉄道:上越線(小出方面) | ∨ | |||
北越急行 | ほくほく線 | |||||||||
魚沼丘陵駅 | 3.6 | 3.6 | ● | | | | | | | ||||
赤倉信号場 | - | (8.5) | | | | | | | ◇ | 十日町市 | |||
美佐島駅 | 8.6 | 12.2 | ● | | | | | | | ||||
しんざ駅 | 2.2 | 14.4 | ● | | | | | | | ||||
十日町駅 | 1.5 | 15.9 | ● | ● | * | 東日本旅客鉄道:飯山線 | ◇ | |||
薬師峠信号場 | - | (23.8) | | | | | | | ◇ | ||||
まつだい駅 | 13.3 | 29.2 | ● | ● | | | ◇ | ||||
儀明信号場 | - | (34.1) | | | | | | | ◇ | ||||
ほくほく大島駅 | 9.4 | 38.6 | ● | ● | | | | | 上越市 | |||
虫川大杉駅 | 6.2 | 44.8 | ● | ● | | | ◇ | ||||
うらがわら駅 | 2.0 | 46.8 | ● | ● | | | | | ||||
大池いこいの森駅 | 4.9 | 51.7 | △ | | | | | | | ||||
くびき駅 | 1.9 | 53.6 | ● | ● | | | ◇ | ||||
犀潟駅 | 5.9 | 59.5 | ● | ● | | | 東日本旅客鉄道:信越本線(柏崎方面) | ∧ | |||
JR東日本 | 信越本線 | |||||||||
黒井駅 | 4.4 | 63.9 | | | | | | | ∥ | ||||
直江津駅 | 2.7 | 66.6 | ● | ● | ● | 東日本旅客鉄道:信越本線(長野方面) 西日本旅客鉄道:北陸本線(特急「はくたか」直通) |
∥ |
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 「北越急行の16年と将来」 p.36
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- ^ 『北越北線工事誌』p.673
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- ^ 『三セク新線高速化の軌跡』pp.141 - 142
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- ^ 『北越北線工事誌』p.675
- ^ a b c 『三セク新線高速化の軌跡』p.144
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- ^ 『三セク新線高速化の軌跡』pp.148 - 149
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- ^ 『三セク新線高速化の軌跡』p.152
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- ^ 「681系電車特急はくたか発車!」 p.46
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- ^ 「雪国を駆けぬけるスノーラビット」 p.50
- ^ 「在来線最速特急の誇り」 pp.24-25
参考文献
工事誌
書籍
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- 日本鉄道建設公団高速化研究会 編『三セク新線高速化の軌跡』(初版)交通新聞社、1998年10月20日。ISBN 4-87513-077-5。
- 宮脇俊三『全線開通版 線路のない時刻表』講談社、1998年2月15日。ISBN 4-06-263721-9。
雑誌記事
- 大熊孝夫「雪国を駆けぬける「スノーラビット」」『鉄道ファン』第577号、交友社、2009年5月、46-55頁。
- 君塚和夫・金子誠・川井重男・吉田真琴・奥谷民雄・芳村照士「北越北線160km/h高速走行の電気設備」『鉄道と電気技術』第8巻第4号、日本鉄道電気技術協会、1997年4月、45 - 57頁。
- 柴田剛志「回顧21年3カ月 北越北線・鍋立山トンネル掘削完了」『日本鉄道施設協会誌』第33巻第10号、日本鉄道施設協会、1995年10月、765 - 767頁。
- 鈴木文彦「北越急行開業の経緯と沿線」『鉄道ジャーナル』第368号、鉄道ジャーナル社、1997年6月、54-57頁。
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- 鶴通孝「681系電車特急はくたか発車!」『鉄道ジャーナル』第368号、鉄道ジャーナル社、1997年6月、42-51頁。
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- 鶴通孝「在来線高速化をリードする北越急行のチャレンジ」『鉄道ジャーナル』第428号、鉄道ジャーナル社、2002年6月、20-33頁。
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- 羽賀修「北越北線の高速化と新軌道構造等」『新線路』第45巻第1号、鉄道現業社、1991年1月、34 - 39頁。
- 古川裕之「開業5周年を迎えた北越急行・ほくほく線」『運転協会誌』第44巻第7号、日本鉄道運転協会、2002年7月、25 - 28頁。
- 「北越急行の16年と将来」『鉄道ジャーナル』第557号、鉄道ジャーナル社、2013年3月、34-45頁。