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「フットボール」の版間の差分

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[[ファイル:Football4.png|thumb|300px|様々なフットボール。左上から右下の順にアソシエーション・フットボール([[サッカー]])、[[オージーフットボール|オーストラリアン・ルールズ・フットボール]]、[[インターナショナル・ルールズ・フットボール]]、[[ラグビーユニオン]]、[[ラグビーリーグ]]、[[アメリカンフットボール]]。]]
[[ファイル:Football4.png|thumb|300px|様々なフットボール。左上から右下の順にアソシエーション・フットボール([[サッカー]])、[[オージーフットボール|オーストラリアン・ルールズ・フットボール]]、[[インターナショナル・ルールズ・フットボール]]、[[ラグビーユニオン]]、[[ラグビーリーグ]]、[[アメリカンフットボール]]。]]
'''フットボール'''({{Lang-en-short|football}})とは、2つの[[チーム]]が1つの[[ボール]]を奪い合い、指定された相手陣地の[[ゴール]]に蹴り込む、または運び込む[[競技]]のことであり、[[サッカー]]や[[アメリカンフットボール|アメリカン・フットボール]]、[[ラグビー|ラグビー・フットボール]]に代表される。
'''フットボール'''({{Lang-en-short|football}})とは、2つの[[チーム]]が1つの[[ボール]]を奪い合い、指定された相手陣地の[[ゴール]]に蹴り込む、または運び込む[[競技]]のことであり、[[サッカー]]や[[アメリカンフットボール|アメリカン・フットボール]]、[[ラグビー|ラグビー・フットボール]]に代表される。

「フットボール」またはその[[派生語]]は、しばしばサッカーを指す([[フランス語]]の {{Lang|fr|football}} や、[[ドイツ語]]で「フットボール」を意味する {{Lang|de|Fußball}} は、いずれも「サッカー」(ア式蹴球)のことである)が、国によって事情はかなり異なっている。

== 概要 ==
サッカー({{Lang-en-short|soccer}})は、英語圏ではオーストラリア、アメリカ、カナダで使われる(米国領でアメリカ英語を使うグアムのサッカーのナショナルチームのロゴにはサッカーではなくフットボールと書かれている)。サッカー (soccer) は、元は''as'''''soc'''''iation football''+'''-er''' {{Small|(アソシエイション・フットボール)}}が略され転訛したものであると言われており、今はあまり使われないが、ラグビーがラガーと呼ばれたのと同じである。イギリス英語ではサッカーとは言わずフットボールである。日本語では漢字で「'''蹴球(しゅうきゅう)'''」と書かれる。

また、スポーツ以外では、あらゆる種類の核攻撃を発動できる核兵器発射コード等の重要な軍事機密が収納されているブリーフケースのことを俗に「[[核のフットボール]]」と呼ぶことがある。これは初期の核攻撃計画のコードネームが「ドロップキック」で有ることに由来する。主に映画等で[[アメリカ合衆国]][[大統領]]がフットボールと呼ばれるブリーフケースを常に携帯している描写があるが、現実の米国大統領が常に携行しているかは不明である。ただ、2009年1月に米放送局のABC Newsは、[[オバマ大統領]]が、宣誓式の際軍事機密引継ぎ会議内で、核のフットボールを引き継いだという報道をした。
<!--そもそも足でボールを扱う競技を起源としたと思われるが、現在ではサッカー以外は手を使う事が中心。-->


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 起源 ===
=== 起源 ===
今日「フットボール」として総称されるこれら一連の競技の歴史は定かではないが、これに近い競技が[[ローマ帝国]]の時代に既に行われていたと言われている。また、サッカーに見られる様な「ボールを蹴って運ぶ」という要素は、古代[[中華人民共和国|中国]]の[[蹴鞠]](日本の蹴鞠も)に由来するとも言われており、こうした競技が主に[[イングランド]]で発展、分化し、その一つとして、中世の「懺悔火曜日のフットボール」のような荒唐無稽な「[[祭り]]」としてのフットボールになった。一方、[[イタリア]]では『カルチョ』として発展した。これもまた『蹴る』と名付けられていながら、実態は手によるボールの奪い合いだった。
今日「フットボール」として総称されるこれら一連の競技の歴史は定かではないが、これに近い競技が[[ローマ帝国]]の時代に既に行われていたと言われている。また、サッカーに見られる様な「ボールを蹴って運ぶ」という要素は、古代[[中華人民共和国|中国]]の[[蹴鞠]](日本の蹴鞠も)に由来するとも言われており、こうした競技が主に[[イングランド]]で発展、分化し、その一つとして、中世の「懺悔火曜日のフットボール」のような荒唐無稽な「[[祭り]]」としてのフットボールになった。一方、[[イタリア]]では『カルチョ』として発展した。これもまた『蹴る』と名付けられていながら、実態は手によるボールの奪い合いだった。

=== スポーツへの進化、そして分化 ===
=== スポーツへの進化、そして分化 ===
これらに対し、時の権力は度々『フットボール禁止令』を敷いたが、大衆のフットボールへの情熱は消える事を知らなかった。そして、近代イングランドでは、良家の子弟のための全寮制学校、[[パブリックスクール]]を中心に、フットボールをスポーツとしてルール化する動きが現れ、これが後のサッカー(アソシエーション・フットボール)としてのフットボールのルール作成、そしてそこからのラグビーの分岐につながった。さらに、このサッカーとラグビーは、当時世界中に存在したイギリスの植民地にも伝わり、[[アイルランド]]の旧来のフットボールに影響を与え、またアメリカ、オーストラリアで独自のフットボールが派生して行った。
これらに対し、時の権力は度々『フットボール禁止令』を敷いたが、大衆のフットボールへの情熱は消える事を知らなかった。そして、近代イングランドでは、良家の子弟のための全寮制学校、[[パブリックスクール]]を中心に、フットボールをスポーツとしてルール化する動きが現れ、これが後のサッカー(アソシエーション・フットボール)としてのフットボールのルール作成、そしてそこからのラグビーの分岐につながった。さらに、このサッカーとラグビーは、当時世界中に存在したイギリスの植民地にも伝わり、[[アイルランド]]の旧来のフットボールに影響を与え、またアメリカ、オーストラリアで独自のフットボールが派生して行った。


== 主なフットボール競技 ==
== 各ルールの共通要素 ==
フットボールの様々なルールは以下の要素を共有している{{Citation needed|date=January 2012}}。
*2つの「チーム」は大抵11人から18人の選手からなる。人数を少なくした(1チーム5人かそれ以上)ルールも人気がある。
*試合を行う領域が明確に決められている。
*「点」・「ゴール」は、ボールを相手チームの陣地の端やゴールエリア、あるいはラインを越えて移動させることで得られる。
*ゴールあるいは点は選手が2つの「[[ゴールポスト]]」の間にボールを入れることで得られる。
*ゴールあるいはラインは相手チームによって「守備」されている。
*選手は、—ルールに依るが— キック、ラン、ハンドパスによってボールを移動させる必要がある。
*選手はボールを移動させるのに道具を使わず体のみを用いる。

ほとんどのルールにおいて、選手の動きを制限する「[[オフサイド]]」ルールが存在し、得点はゴールポスト間のクロスバーの上あるいは下をボールが通過することで得られる。いくつかのフットボールルールの共通点は、ゴールラインを越えてボールを運んだ時に得点が入ること、「マーク」あるいは「フェアキャッチ」の後「[[フリーキック]]」が与えられることなどである。

[[古代]]から世界中の人々はボールを蹴ったり運んだりする競技を行っていた。しかしながら、現代のフットボールルールのほとんどは[[イングランド]]に起源がある<ref>Marples, M (1954). A History of Football. Secker and Warburg, London</ref>。

== 語源 ==
{{Main|:en:Football (word)}}
「フットボール」という用語の起源に関しては相反する説明が存在する。「football」(あるいはfoot ball)はボール (ball) を足(foot)で蹴る動作を意味しているという説明は広く受け入れられいてる。もう一つの説明はフットボールを[[中世ヨーロッパ]]において「徒歩で (on foot)」で行われていた様々な競技を元々意味しているというものである。どちらの説明に関しても決定的な証拠はない。

== 初期の歴史 ==
=== 古代 ===
[[ファイル:Ancient Greek Football Player.jpg|thumb|upright|left|ボールの平衡を保つ古代ギリシアのフットボール選手。[[アッティカ]]の[[レキュトス]]に描かれている。]]
[[古代ギリシア|古代ギリシア人]]および[[古代ローマ|古代ローマ人]]は多くの球技を行っていたことが知られており、そのうちの一部は足を使っていた。ローマの球技「{{仮リンク|ハルパストゥム|en|Harpastum}}」は、"{{lang|el|ἐπίσκυρος}}" (''episkyros'') <ref>[http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aentry%3De%29pi%2Fskuros ἐπίσκυρος],
Henry George Liddell, Robert Scott, ''A Greek-English Lexicon'', on Perseus Digital Library</ref><ref>The New Encyclopaedia Britannica, 2007 Edition: "In ancient Greece a game with elements of football, episkuros, or harpaston, was played, and it had migrated to Rome as harpastum by the 2nd century BC".</ref>あるいは "{{lang|el|φαινίνδα}}" (''phaininda'')<ref>[http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aentry%3Dfaini%2Fnda^ φαινίνδα],
Henry George Liddell, Robert Scott, ''A Greek-English Lexicon'', on Perseus Digital Library</ref> として知られている古代ギリシアのチーム競技から作られたと考えられている。この競技はギリシャの劇作家{{仮リンク|若アンティファネス|en|Antiphanes of Berge}}(紀元前388年 - 紀元前311年)によって言及され、後に[[キリスト教]]神学者
[[アレクサンドリアのクレメンス]](150年頃 - 215年頃)によって参照されている。これらの競技は現在の[[ラグビーフットボール]]に似ていると思われる<ref>Nigel Wilson, ''Encyclopedia of Ancient Greece'', Routledge, 2005, p. 310</ref><ref>Nigel M. Kennell, ''The Gymnasium of Virtue: Education and Culture in Ancient Sparta (Studies in the History of Greece and Rome)'', The University of North Carolina Press, 1995, on [http://books.google.com/books?id=u_eAP7wN5XUC&pg=PA61&dq=episkuros+rugby&cd=16#v=onepage&q=episkuros%20rugby&f=false Google Books]</ref><ref>Steve Craig, ''Sports and Games of the Ancients: (Sports and Games Through History)'', Greenwood, 2002, on [http://books.google.com/books?id=KKlSSRq-P2QC&pg=PA104&dq=phaininda+rugby&cd=2#v=onepage&q=phaininda%20rugby&f=false Google Books]</ref><ref>Don Nardo, ''Greek and Roman Sport'', Greenhaven Press, 1999, p. 83</ref><ref>Sally E. D. Wilkins, ''Sports and games of medieval cultures'', Greenwood, 2002, on [http://books.google.com/books?id=IyFHvy-SCIYC&pg=PA214&dq=episkuros+rugby&cd=2#v=onepage&q=episkuros%20rugby&f=false Google books]</ref>。ローマの政治家[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]](紀元前106 - 紀元前43年)は、床屋にボールが蹴り入れられた時にひげをそられていたために死んでしまった男性の事件について記述している。ローマの球技では空気で膨らせたボールが使われていた({{仮リンク|フォリス|en|Balloon (game)}})<ref>E. Norman Gardiner: "Athletics in the Ancient World", Courier Dover Publications, 2002, ISBN 0-486-42486-3, p.229</ref><ref>William Smith: "Dictionary of Greek and Roman Antiquities", 1857, p.777</ref>。

[[ファイル:One Hundred Children in the Long Spring.jpg|thumb|「蹴鞠」を遊ぶ中国の子供を描いた苏汉臣による[[宋 (王朝)|宋代]]の絵画。]]

紀元前1世紀から3世紀の間に編纂された中国の『[[戦国策]]』にはフットボールに似た球技が記されている<ref>He, Jin (2001). ''An Analysis of Zhan Guo Ce''. Beijing: Peking University Press. ISBN 7-301-05101-8, p. 59-82</ref>。戦国策に記されている「[[蹴鞠]]」は地上約9メートルの高さで竹の間に固定された絹布にあいた小さな穴に革製のボールを蹴り入れるといった遊びも描かれている。[[漢|漢王朝]](紀元前206年 - 220年)の時代に、蹴鞠の規則は標準化された{{Citation needed|date=January 2012}}。蹴鞠は後に[[日本]]および[[朝鮮半島]]に伝来した。

[[ファイル:Kemari Matsuri at Tanzan Shrine 2.jpg|thumb|[[談山神社]]で行われている日本の蹴鞠]]
[[ファイル:Tepantitla mural, Ballplayer B Cropped.jpg|thumb|left|upright|[[テオティワカン]]のテパンティトラ壁画の[[メソアメリカの球技]]選手の絵。]]

日本に伝来した蹴鞠は[[飛鳥時代]]に発展した{{Citation needed|date=January 2012}}。日本の皇室では600年頃から蹴鞠が行われていることが知られている。蹴鞠では、数人が輪になりボールを地面に落さないよう蹴り合う。蹴鞠は19世紀注記以前に一度途絶えたが、1903年に復興された{{Citation needed|date=January 2012}}。

世界の多くの異なる地域の[[先住民]]によって行われていた伝統的球技に関しては多数の文献が存在する。例えば、1586年、イングランドの探検家[[ジョン・デイヴィス (探検家)|ジョン・デイヴィス]]に指揮された船の乗組員は、[[グリーンランド]]の[[イヌイット]](エスキモー)とある種のフットボールを行うために上陸した<ref>Richard Hakluyt, [http://etext.library.adelaide.edu.au/h/hakluyt/northwest/chapter8.html Voyages in Search of The North-West Passage], ''[[University of Adelaide]]'', December 29, 2003</ref>。''Aqsaqtuk''と呼ばれる氷上で行われるイヌイットの競技に関する後の報告がある。試合は、2つのチームが平行に並んで向かい合った状態から始まり、選手は相手チームのラインを越えてゴールを狙いボールを蹴る。1610年、[[ジェームズタウン (バージニア州)|ジェームズタウン]]の入植者{{仮リンク|ウィリアム・ストレイチー|en|William Strachey}}は、''Pahsaheman''と呼ばれる[[インディアン|ネイティブ・アメリカン]]の競技ついて記録している{{Citation needed|date=January 2012}}。[[オーストラリア大陸]]において、[[アボリジニ|オーストラリア先住民]]のいくつかの部族は、歴史家によって「{{仮リンク|マーン・グルーク|en|Marn Grook}}」と一般化された詰め物をしたボールを用いた蹴りおよび捕球の競技を行っていた。これに関する最も初期の歴史的報告は1878年の{{仮リンク|ロバート・ブラフ・スミス|en|Robert Brough-Smyth}}の著作「''The Aborigines of Victoria''」に書かれた[[逸話]]である。この本ではリチャード・トーマスと呼ばれる男性が、1841年頃[[ビクトリア州|ビクトリア]]植民地においてアボリジニの人々が球技を行っているのを目撃したと伝えられている: 「トーマス氏は一番前の選手がどのように[[ポッサム]]の皮で作られたボールをドロップキックし、その他の選手が捕球するために空中に飛び上がったを描写した」。一部の歴史家は、「マーン・グルーク」を[[オーストラリアン・ルールズ・フットボール]]の起源の一つであると理論付けている。

[[ファイル:Marn grook illustration 1857.jpg|thumb|left|1850年代のオーストラリア先住民の[[狩猟採集社会|狩猟採集民]]を描いた絵。背景の子供達はフットボール(おそらく{{interlang|en|Woggabaliri}})を行っている<ref>From William Blandowski's Australien in 142 Photographischen Abbildungen, 1857, (Haddon Library, Faculty of Archaeology and Anthropology, Cambridge)</ref>。]]

[[ニュージーランド]]の[[マオリ]]は、{{仮リンク|キ・オ・ラヒ|en|Ki-o-rahi}}と呼ばれる競技を行っていた。試合は陣地が分かれた円形の競技場で1チーム7人で行われ、得点は「pou」(境界の印)に触れるか、中央の標的である'tupu'を打つかで得られる{{Citation needed|date=January 2012}}。

[[アメリカ州の先住民族|先住民族]]によって行われていたゴム製ボールを使った{{仮リンク|メソアメリカの球技|en|Mesoamerican ballgame}}は、これ以前から存在していることが十分に証明されているものの、これらは[[バスケットボール]]あるいは[[バレーボール]]とより類似しており、現代フットボール競技に対する影響はごくわずかであることから、フットボールには分類されていない{{Citation needed|date=January 2012}}。北東アメリカインディアン、特に[[イロコイ連邦]]の人々は、小さなボールを投げたり捕球したりするためのネットラケットを用いる競技を行っていた。しかしながら、[[ラクロス]]の起源であるこの競技は通常「フットボール」の一種とは分類されない{{Citation needed|date=January 2012}}。

これら競技やその他の競技の歴史は古代にまで遡る。しかしながら、現代フットボールルールの主要な起源は西ヨーロッパ、特に[[イングランド]]にあると思われる。

=== 中世および近世ヨーロッパ ===
{{See|:en:Medieval football}}
中世、ヨーロッパ中、特にイングランドにおいて、一年に一度の{{仮リンク|ロイヤル・シュローブタイド・フットボール|en|Royal Schrovetide Football|label=シュローブタイド・フットボール}}が盛んに行われるようになった。ブリテンで行われいた球技については9世紀の『[[ブリトン人の歴史]]』で言及されている<ref>[http://www.fordham.edu/halsall/basis/nennius-full.asp ''Historia Brittonum''] at the [[Medieval Sourcebook.</ref>。ボールを手、足、スティック<ref>{{cite book | last = Ruff | first = Julius | title = Violence in Early Modern Europe 1500-1800 | publisher = Cambridge University Press | year = 2001 | page = 170 | isbn = 978-0521598941}}</ref>で扱う{{仮リンク|ラ・ソーユ|en|La Soule}}あるいchouleとして知られる[[フランス]]北部において行われていた球技については12世紀に記録がある<ref>[[Jean Jules Jusserand|Jusserand, Jean-Jules]]. (1901). ''Le sport et les jeux d'exercice dans l'ancienne France.'' Retrieved January 11, 2008, from http://agora.qc.ca/reftext.nsf/Documents/Football--Le_sport_et_les_jeux_dexercice_dans_lancienne_France__La_soule_par_Jean-Jules_Jusserand {{fr icon}}</ref>。

[[ファイル:Mobfooty.jpg|thumb|left|いわゆる「{{仮リンク|モブフットボール|en|Mob football}}」の絵。]]

「{{仮リンク|モブフットボール|en|Mob football}}」と呼ばれることがあるイングランドで行われていたフットボールの初期の形は、近隣の町や村の間で行われていた。モブフットボールは隣の教区との間の開けた場所で行われ<ref>{{cite book | last = Baker | first = William | title = Sports in the Western World | publisher = University of Illinois Press | year = 1988 | page = 48 | isbn = 978-0252060427}}</ref>、人数は無制限であり<ref>{{cite book | last = Dunning | first = Eric | title = Sport Matters: Sociological Studies of Sport, Violence and Civilisation | publisher = Routledge | year = 1999 | page = 89 | isbn = 978-0415093781}}</ref>、膨らませた動物の膀胱<ref name="sportmatters">{{cite book | last = Dunning | first = Eric | title = Sport Matters: Sociological Studies of Sport, Violence and Civilisation | publisher = Routledge | year = 1999 | page = 88 | isbn = 978-0415093781}}</ref>といった物を特定の場所(相手の村の教会など)に移動させることを目的に争われた。この競技はシュローブタイド、[[クリスマス]]、[[復活祭]]<ref name="sportmatters" />といった重要な宗教的祭りの期間に主に行われ、シュローブタイドゲームはイングランドの多くの街で現代まで生き残っている(後述)。

イングランドにけるほとんど確かにフットボールといえるものの初めての詳細な説明は、およそ1174年から1183年の間に{{仮リンク|ウィリアム・フィッツスティーヴン|en|William FitzStephen}}によってなされた。フィッツスティーブンは、{{仮リンク|懺悔の火曜日|en|Shrove Tuesday}}の毎年恒例の祭でのロンドンの若者の活動について記している。:
{{quote|昼食の後、街の若者全員がフィールドに出て球技に参加した。それぞれの学校の生徒は自分達のボールを持っていた; それぞれの街の組合の労働者もまた自分達のボールを持っていた。年配の市民、父親達、裕福な市民は彼らの息子達が競うのを見たり、若者を身代りとして交代させるために馬に乗ってやってきた: <!--you can see their inner passions aroused as they watch the action and get caught up in the fun being had by the carefree adolescents--><ref>Stephen Alsford, [http://www.trytel.com/~tristan/towns/florilegium/introduction/intro01.html#p25 FitzStephen's Description of London], ''Florilegium Urbanum'', April 5, 2006</ref>}}

ごく初期の言及のほとんどは、単純にこの競技を「ball play」あるいは「playing at ball」と読んでいる。このことは、この時期に行われたい競技が必ずしもボールを蹴ることを含んでいない、という考えを補強する。

おそらくフットボールである球技に対する初期の言及は、1280年、イングランド[[ノーサンバーランド (イングランド)|ノーサンバーランド]]の{{仮リンク|アッファム|en|Ulgham}}から来る: 「ヘンリーは...ボールをプレーしている (playing at ball) 時.. デイビッドに向かって走った」<ref name=Magoun>Francis Peabody Magoun, 1929, "Football in Medieval England and Middle-English literature" (''The American Historical Review'', v. 35, No. 1).</ref>。フットボールはアイルランドにおいて1308年に行われており、[[ダウン州]]{{仮リンク|ニューキャッスル (ダウン州)|en|Newcastle, County Down|label=ニューキャッスル}}での「フットボールの試合」においてウィリアム・バーナードという名の選手によって偶然に体当りされた観客であるJohn McCrocanに言及した文献が存在する<ref>{{cite web|url=http://www.carlow-nationalist.ie/tabId/392/itemId/2418/Irish-inventions-fact-and-fiction.aspx |title=Irish inventions: fact and fiction |publisher=Carlow-nationalist.ie |date= |accessdate=2012-04-16}}</ref>。もう一つのフットボール競技に関する言及は1321年、イングランド[[ノーフォーク]]Shouldhamから来る<ref name="Magoun"/>。

1314年、[[ロンドン市長]]ニコラス・デ・ファーンドンは、フットボールを禁止した法令について当時イングランドの上流階級で使われていたフランス語で記している<ref>Derek Birley (Sport and The Making of Britain). 1993. Manchester University Press. p. 32. 978-0719037597</ref>。

1363年、イングランド王[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]は、「...ハンドボール、フットボール、あるいはホッケー; 狩猟、闘鶏、あるいはその他のそういった無駄な遊び」を禁止する声明を出した<ref>Derek Baker (England in the Later Middle Ages). 1995. Boydell & Brewer. p. 187. ISBN 978-0851156484</ref>。ここでは、この時期の「フットボール」がハンドボールといった体の他の部位を使う競技とは区別されていることが見てとれる。

[[File:Football gravure 1750.jpg|thumb|1750年頃のフランス]]

イングランド王[[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー4世]]もまた、「football」という英単語の最も初期の文書化された使用の一つを示している。ヘンリー4世は「foteball」からの金銭の徴収を禁止する声明を出した<ref name=Magoun/><ref name=Etymology>{{cite web|url=http://www.etymonline.com/index.php?term=football |title=Online Etymology Dictionary (no date), "football" |publisher=Etymonline.com |date= |accessdate=2010-06-19}}</ref>。

[[ノッティンガムシャー]]キャウストンでフットボールが行われたとする15世紀末の[[ラテン語]]の文献もある。これは、「キッキングゲーム」と「[[ドリブル]]」についての初めての解説である: 「彼らが共通の楽しみとして行っていた競技はフットボールゲームと呼ばれている。このゲームでは、若者は大きなボールを空中に投げるのではなく打つことによって地面を転がさせて前に進ませる、そして手ではなく足を用いて、相手方向にボールを蹴る」。この筆者はフットボールの競技場に関する最も初期の言及を残している: 「境界線が記され、試合が始まった」<ref name=Magoun/>。

中世および[[近世]]におけるその他の初めての事例には以下のものがある。
*競技ではなくボールを意味する「a football」という言葉は1486年に初めて言及された<ref name=Etymology/>。これは[[デイム]]・{{仮リンク|ジュリアナ・バーナーズ|en|Juliana Berners}}の『{{interlang|en|Book of Saint Albans}}』に記されている:「遊ぶためのいくらか丸い道具… それは足で使うための道具でラテン語で「pila pedalis」、フットボール (fotebal) と呼ばれる」<ref name=Magoun/>。
*1526年、フットボール用の靴一足が、イングランド王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]によって注文された<ref>[http://arts.guardian.co.uk/news/story/0,,1150460,00.html Vivek Chaudhary, “Who's the fat bloke in the number eight shirt?”] (''[[The Guardian]]'', February 18, 2004.)</ref>。
*1580年に女性達がフットボールの一種を行ったと詩人のサー・[[フィリップ・シドニー]]が詩に残している<ref>Anniina Jokinen, [http://www.luminarium.org/editions/sidneydialogue.htm Sir Philip Sidney. "A Dialogue Between Two Shepherds"] (''Luminarium.org'', July 2006)</ref>。
*「ゴール (goal)」に関する初めて言及されたのは16世紀末および17世紀初頭である。1584年および1602年に、{{仮リンク|ジョン・ノードン|en|John Norden}}および{{仮リンク|リチャード・カルー (古物商)|en|Richard Carew (antiquary)|label=リチャード・カルー}}はそれぞれ{{仮リンク|コーニッシュ・ハーリング|en|Cornish hurling}}における「ゴール」について言及した。カルーは何如にゴールが決まったかを説明している: 「they pitch two bushes in the ground, some eight or ten foote asunder; and directly against them, ten or twelue [twelve] score off, other twayne in like distance, which they terme their Goales」<ref>{{cite web
|url=http://www.gutenberg.org/dirs/etext06/srvcr10.txt
|title=EBook of The Survey of Cornwall
|author=Richard Carew
|publisher=Project Gutenberg
|accessdate=2007-10-03}}</ref>。彼はまた、ゴールキーパーと選手間のボールのパスについて初めて説明した。
*「ゴールを決める」ことに初めて直接言及したのは、{{仮リンク|ジョン・デイ (劇作家)|en|John Day (dramatist)|label=ジョン・デイ}}の戯曲「The Blind Beggar of Bethnal Green」(1600年頃上演、1659年出版)である: "I'll play a gole at {{仮リンク|キャンピング (競技)|en|Camping (game)|label=camp-ball}}(極度に暴力的なフットボールの一種であり、[[イースト・アングリア]]で人気だった)"。同様に1613年の詩で、{{仮リンク|マイケル・ドレイトン|en|Michael Drayton}}は「when the Ball to throw, And drive it to the Gole, in squadrons forth they goe」と記している。

=== カルチョ・フィオレンティノ ===
[[ファイル:Calcio fiorentino 1688.jpg|right|thumb|カルチョ・フィオレンティノの競技場と開始位置の絵。Pietro di Lorenzo Biniの1688年の本から。]]
{{Main|:en:Calcio Fiorentino}}
16世紀、[[フィレンツェ]]では[[公現祭]]と[[四旬節]]の間の期間を祝して、{{仮リンク|サンタクローチェ広場|en|Piazza Santa Croce}}において今日「[[カルチョ]]・ストリーコ ''calcio storico''」(歴史的カルチョ)として知られている競技を行っていた。都市の若い貴族達は立派な絹の衣装で着飾り、暴力的なフットボールの一種に飛び込んでいった。例えば、「カルチョ」の選手は、相手に対してパンチ、ショルダーチャージ、キックすることが出来た。卑怯な殴打も許されていた。この競技は、軍事演習に起源があると言われている。1580年、Giovanni de' Bardi di Vernio伯爵は、「Discorso sopra 'l giuoco del Calcio Fiorentino(カルチョ・フィオレンティノの試合に関する論文)」を書いた。これは、最も初期のフットボール規則であると言われることがある。この競技は1739年1月以降は(1930年5月に復興されるまで)行われていない。

=== フットボールに対する公的な非難と禁止の試み ===
{{Main|:en:Attempts to ban football games}}
フットボール競技、 とりわけ最も乱暴で破壊的なものを禁止する数多くの試みが、特に中世および近世のイングランドおよびその他のヨーロッパで行われてきた。1324年から1667年の間、イングランドにおいてのみフットボールは30以上の国家法と地方法によって禁止されていた。このような法律を繰り返し布告する必要があったことは、人気のある競技を禁止することがいかに困難であったかを証明している。イングランド王[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード2世]]は、ロンドンにおけるフットボールの手に負えなさに悩まされ、1314年4月13日にフットボールを禁止する声明を発表した: 「この都市においてやかましい音の原因となっている大きなボールを追い掛け回す行為は神が禁じる邪悪を生じることから、我々は、国王の代理として、今後jそのような競技をこの都市で禁止することを命ずる。さもなくば禁固刑」。

エドワード3世が1349年6月12日にフットボールを禁止した理由は明確であり、フットボールやその他の競技が、戦争に必須である[[弓術]]の鍛錬から大衆の気を逸らしたたである。1424年、{{仮リンク|スコットランド議会 (スコットランド王国)|en|Parliament of Scotland|label=スコットランド議会}}は{{仮リンク|1424年フットボール法|en|Football Act 1424|label=フットボール法}}を可決した。この法律でフットボールは違法となり、違反したものは4{{仮リンク|ペニー (スコットランド)|en|Penny Scots|label=ペンス}}の罰金を課せられた。

1608年までに、[[マンチェスター]]の地方自治体はフットボールに関する苦情を述べている: "With the ffotebale...[there] hath beene greate disorder in our towne of Manchester we are told, and glasse windowes broken yearlye and spoyled by a companie of lewd and disordered persons ..."<ref>[http://www.sport.gov.gr/2/24/243/2431/24314/243144/paper20.html International Olympic Academy (I.O.A.) (no date), “Minutes 7th International Post Graduate Seminar on Olympic Studies”]</ref>。同年、[[ウィリアム・シェイクスピア]]は、とがめるような文脈で「フットボール」という言葉を使用している。シェイクスピアの戯曲『[[リア王]]』には以下の一節がある: "Nor tripped neither, you base football player(その上,足を払われ放しでは黙っておれまい。この蹴鞠野郎)<ref>{{cite book|和書|author=ウィリアム・シェイクスピア著、福田 恆存 訳|title=リア王|publisher=新潮社|year=1967|isbn=978-4102020050}}</ref>"(第1幕第4場)。また、シェイクスピアは『[[間違いの喜劇]]』でもフットボールに言及している(第2幕第1場)
{{quote|<poem>Am I so round with you as you with me,
That like a football you do spurn me thus?
You spurn me hence, and he will spurn me hither:
If I last in this service, you must case me in leather.</poem>}}
「Spurn」は文字通り「蹴飛ばすこと」を意味することから、このフットボールが選手間でボールを蹴る行為を含んでいることが示唆される。

しかしながら、イングランド王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]の著作『Book of Sports』(1618年)では、毎週日曜日の礼拝の後の午後にフットボールを行うようキリスト教徒に説いている<ref>{{cite book|url=http://books.google.com/?id=sHrejZJVc80C&pg=RA3-PA412&dq=football |title=John Lord Campbell, '&#39;The Lives of the Lords Chancellors and Keepers of the Great Seal of England'&#39;, vol. 2, 1851, p. 412 |publisher=Books.google.co.uk |date= |accessdate=2010-06-19|year=1851}}</ref>。この本の目的は、{{仮リンク|キリスト教の安息日|en|Sabbath in Christianity|label=安息日}}を守る[[ピューリタン]]の厳格さを弱めようとすることであるように思われる<ref>{{cite web|url=http://www.reformed.org/books/hetherington/west_assembly/index.html?mainframe=/books/hetherington/west_assembly/chapter_1a.html#Book%20of%20Sports1618 |title=William Maxwell Hetherington, 1856, '&#39;History of the Westminster Assembly of Divines, Ch.1 (Third Ed.) |publisher=Reformed.org |date= |accessdate=2012-04-16}}</ref>。

== 近代フットボールの成立 ==
=== イングランドのパブリックスクール===
{{Main|:en:English public school football games}}
フットボールは様々な形でブリテンの至るところで行われ続けていてが、[[パブリックスクール]](その他の国での私立学校にあたる)は近代フットボールの成立において4つの重要な出来事が起こったことで広く認められている。まず初めは、パブリックスクールでそれまでの「群集」によるフットボールが、整理されたチームスポーツへと変化したことである。2つ目は、フットボールに関する初期の説明や言及の多くが、これらのパブリックスクールで学んでいた人物によって記録されたことである。3つ目は、パブリックスクールの教師、生徒、卒業生が、出身校間でフットボールの試合を行うことが出来るように、初めてフットボールの規則を成文化したことである。最後は、これらのパブリックスクールが初めて「キッキング」と「ランニング」(あるいは「キャリング」)を明確に分けたことである。

フットボールに似た競技がイングランドのパブリックスクール(主に上流階級、上位中流階級、知的職業階級の男子が通う)で行われていた最も初期の証拠は、1519年のウィリアム・ハーマンの『Vulgaria』である。ハーマンは[[イートン・カレッジ]]と[[ウィンチェスター・カレッジ]]の校長を務め、彼の[[ラテン語]]の教科書は翻訳の演習問題として、「"We wyll playe with a ball full of wynde"」という節が出てくる<ref>A history of Winchester College. by Arthur F Leach. Duckworth, 1899 ISBN 1-4446-5884-0</ref>。

16世紀初めにイートン・カレッジの生徒であり、後にその他の学校の校長を務めた{{仮リンク|リチャード・マルカスター|en|Richard Mulcaster}}は、「16世紀の最も偉大なフットボールの支持者」と評されてきた<ref>{{cite web|url=http://www.footballnetwork.org/dev/historyoffootball/history8_18_3.asp |title=2003, "Richard Mulcaster" |publisher=Footballnetwork.org |date= |accessdate=2010-06-19}}</ref>。彼の貢献には、整理されたチームフットボールの最も初期の証拠がある。マルカスターの文書は、チーム、ポジション、審判、コーチについて言及している。マルカスターの「フットボール」は無秩序で暴力的な伝統的フットボールから進化した。
{{quote|[s]ome smaller number with such overlooking, sorted into sides and standings, not meeting with their bodies so boisterously to trie their strength: nor shouldring or shuffing one an other so barbarously ... may use footeball for as much good to the body, by the chiefe use of the legges.<ref>
Francis Peabody Magoun. (1938) History of football from the beginnings to 1871. p.27. Retrieved 2010-02-09.</ref>}}

1633年、[[アバディーン]]出身の教師{{仮リンク|デイヴィッド ウエッダーバーン|en|David Wedderburn (writer)}}は、「Vocabula」と呼ばれる短かいラテン語の教科書の中で現代フットボールの要素について言及している。ウェッダーバーンは、「ゴールを守る」と翻訳できることやボールをパスすると解釈できることを記している。また、「ボールを手に入れる」ことに言及していることから、いくらかの手で扱うことは許されていたことが示唆される。また、相手選手へのチャージングやホールディングを含むタックルが許されていたことは明らかである{{Citation needed|date=June 2009|reason=For the whole paragraph not just the last sentence}}。

より詳細なフットボールの説明は、1660年頃に書かれた[[フランシス・ウィラビイ]]の『Book of Games』にある<ref>{{cite book|url=http://books.google.com/?id=P-io9DcBllkC&pg=PA168&lpg=PA168&vq=football&dq=willughby+book+of+sports |title=Francis Willughby, 1660–72, '&#39;Book of Games'&#39; |publisher=Books.google.co.uk |date= |accessdate=2010-06-19|isbn=9781859284605|year=2003}}</ref>。{{仮リンク|サットン・コールドフィールド|en|Sutton Coldfield}}の{{仮リンク|ビショップ・ヴェシーズ・グラマー・スクール|en|Bishop Vesey's Grammar School}}の生徒であったウィラビイは、初めてゴールと明確な競技フィールドについて説明した人物である: 「a close that has a gate at either end. The gates are called Goals." His book includes a diagram illustrating a football field. He also mentions tactics ("leaving some of their best players to guard the goal"); scoring ("they that can strike the ball through their opponents' goal first win") and the way teams were selected ("the players being equally divided according to their strength and nimbleness"). He is the first to describe a "law" of football: "they must not strike [an opponent's leg] higher than the ball".{{Citation needed|date=June 2009|reason=For all the quotes in this paragraph}}」。

イングラドのパブリックスクールでは、初めてフットボールの規則が成文化された。特に、18世紀末に彼らは初めて[[オフサイド]]ルールを発明した<ref name=Carosi>{{cite web|url=http://mysite.wanadoo-members.co.uk/corshamref/sub/offhist.htm |author=Julian Carosi|year= 2006|title=The History of Offside|archiveurl=http://web.archive.org/web/20080223054916/http://mysite.wanadoo-members.co.uk/corshamref/sub/offhist.htm|archivedate=2008-02-23|accessdate=2012-05-09}}</ref>。最も初期のこれらのルールでは、選手はボールと相手側のゴールにいる時は単純に「オフサイド ''off their side''」とされた。選手は、足であろうと手であろうと前方にボールをパスすることは許されなかった。前方にボールを進める方法は足でドリブルするか、「[[スクラム (ラグビー)|スクラム]]」あるいは同様の「フォーメーション」の中で進めるかしかなかった。しかしながら、オフサイドルールはそれぞれのスクールで別に分化・発展していった。これは。1810年から1850年の間のウィンチェスター、[[ラグビー校|ラグビー]]、[[ハーロー校|ハロウ]]、{{仮リンク|チェルトナム・カレッジ|en|Cheltenham College|label=チェルトナム}}のそれぞれのフットボールルールに見ることができる<ref name=Carosi/>。知られている初めてのルール(ルール一式という意味で)は、1815年のイートン<ref name="Richard William Cox 2002 243">{{cite book
| title = Encyclopedia of British Football
| author = Richard William Cox | coauthors = Dave Russell and Wray Vamplew
| publisher = Routledge | year = 2002 | isbn = 9780714652498
| page = 243
}}</ref>ならびに{{仮リンク|アルデナム|en|Aldenham}}<ref name="Richard William Cox 2002 243"/>のルールである。

19世紀初頭の間、ブリテンのほとんどの[[労働者階級]]の人々は週に6日働いており、しばしば1日12時間以上働いた。彼らは当時、楽しみのためにスポーツに参加したいという時間も意欲もなく、多くの[[児童労働|子供達は労働力の一部]]となっていた。路上で行われる[[聖人暦|宗教上の祝日]]のフットボールは衰退の道をたどっていた。働く必要がない自由を享受していたパブリックスクールの少年達は、正式なルール一式 (codes of rules) を持つ整理されたフットボール競技の発案者となった。

フットボールは、多くのパブリックスクールで競争力を養い健康を保つための一手段として採用された。それぞれのスクールは、独自のルールを作成した。このルールは異なるスクール間で大きく異なっており、新らしい生徒が入ってくるたびに何度も変化していった。これらのルールは大きく2つに大別された。一方はボールを手で持って運ぶ競技を好み(ラグビー、{{仮リンク|マールバラ・カレッジ|en|Marlborough College|label=マールバラ}}、チェルトナム)、もう一方はキックとドリブルによってボールを進めるやり方を好んだ(イートン、ハロウ、[[ウェストミンスター・スクール|ウェストミンスター]]、{{仮リンク|チャーターハウス・スクール|en|Charterhouse School|label=チャーターハウス}})。このようにルールが分かれたいったのは当時フットボールが行われた状況に部分的に原因がある。例えば、当時チャーターハウスとウェストミンスターではフットボール行う場所が学校の[[回廊]]の中に制限されており、この場所ではボールを手で持って走る荒っぽい競技を行うことは困難であった{{Citation needed|date=June 2009|reason=For the whole paragraph}}。

[[ファイル:Rugby School 850.jpg|thumb|left|[[ラグビー校]] ]]
ラグビー校の生徒であった[[ウィリアム・ウェッブ・エリス]]は、[[1823年]]、イングランドの有名な[[パブリックスクール]]の[[ラグビー校]]でフットボールの試合中、ボールを抱えたまま相手のゴール目指して走り出した」といわれている。大抵、この行為がラグビー・フットボールの始まりであるとされているが、実際の出来事であったかについてはほとんど証拠がなく、ほとんどのスポーツ歴史学者はこの物語を作り話であると考えている。
ラグビーの起源であるボールを持って走った行為の第1号がエリス少年なのかは諸説あるが、起源たる発明者の対象として名前が分かっている人物はウィリアム・ウェッブ・エリスただ一人である。そのことから彼の名はラグビーの歴史を語る上で欠かすことのできないものとなっている。[[ラグビーワールドカップ]]の優勝記念カップは彼の名にちなみ「[[ウェブ・エリス・カップ]](Webb Ellis Cup)」と名づけられている。この「ボールを手で抱えた」行為は「ボールを拾い上げた」として、ウェブ・エリスの「罪」が現代サッカーで禁じられているボールを手で扱ったことであるとしばしば誤解されるが、当時ボールを手で扱うことは許されいることが多く、ある場合は強制的なものであった<ref>example of ball handling in early football from English writer [[William Hone]], writing in 1825 or 1826, quotes the social commentator Sir [[Frederick Morton Eden]], regarding "Foot-Ball", as played at [[Scone, Scotland]]:
:''The game was this: he who at any time got the ball into his hands, run [sic] with it till overtaken by one of the opposite part; and then, if he could shake himself loose from those on the opposite side who seized him, he run on; if not, he threw the ball from him, unless it was wrested from him by the other party,'' but no person was allowed to kick it. ([http://www.uab.edu/english/hone/etexts/edb/day-pages/046-february15.html William Hone, 1825–26, ''The Every-Day Book'', "February 15."] Access date: March 15, 2007.)</ref>。ウェブ・エリスが無視したのは、当時ボールを持って後方に戻るか前方に蹴るかしか許されていなかったのに、「ボールを手で持って前方に走った」ことである。

1849年代のイギリスの[[鉄道狂時代]]、人々はより遠くに以前よりも便利に移動できるようになった。このため、スクール間のスポーツ大会が可能となった。しかしながら、パブリックスクールはそれぞれ独自のフットボールのルールで競技を行っていたため、対抗戦を行うことは困難だった。この問題の解決策は大抵、試合を前半後半に分け、一方をそれぞれのルールで行うというものであった(現在も[[ラグビーユニオン]]と[[ラグビーリーグ]]のクラブ間の試合で同様の方法が採られている)。

多くのフットボール競技の「近代的」なルールは19世紀中頃から終わりに策定された。これは、ローン・ボウリングやローン・テニス(芝生のコートで行うテニス)といったその他の競技でも同様である。この主要な推進力は1830年の世界初の[[芝刈り機]]の特許であった。これにより、近代的なスポーツ用の競技場を用意することが可能になった<ref>ABC Radio National ''Ockham's Razor'', first broadcast 6 June 2010.</ref>。

ラグビー・フットボールはさておき、パブリックスクールのルールはそれぞれの学校以外で行われることはこれまでほとんどなかった。しかしながら、それらの多くは現在でもそれぞれのパブリックスクールで行われている。

イギリスのスポーツにおけるパブリックスクールの優勢は、労働者階級の子供達の余暇の時間を大幅に増加させた1850年[[工場法]]の後に衰え始めた。1850年より前は、多くのイギリスの子供達は1日12時間以上週6日働かなければならなかった。1850年からは、平日は午前6時より前(冬季は午前7時)と午後6時より後(冬季は午後7時)、土曜日は午後2時に仕事を終えなければならなかった。これらの変化は、労働者階級の子供達が様々なフットボールを含む競技に多くの時間を使えるようになったことを意味している。

=== 初めての事柄 ===
==== クラブ ====
{{Main|:en:Oldest football clubs}}
フットボールをプレーするためのスポーツクラブは18世紀に始まった。例えば18世紀中頃にはロンドンの[[体育協会]]が設立された(1796年に試合を停止)<ref>THE SURREY CLUB Bell's Life in London and Sporting Chronicle (London, England), Sunday, October 07, 1849; pg. 6.New Readerships</ref><ref>Football: The First Hundred Years. The Untold Story. Adrian Harvey. 2005. Routledge, London</ref>。

[[スコットランド]]・[[エディンバラ]]に1824年から1841年の間存在していた「The Foot-Ball Club」が、フットボールクラブの名称で呼ばれた記録に残る最初のクラブである<ref>John Hope, ''Accounts and papers of the football club kept by John Hope, WS, and some Hope Correspondence 1787–1886'' (National Archives of Scotland, GD253/183)</ref><ref name="Nas.gov.uk">{{cite web|url=http://www.nas.gov.uk/about/071112.asp |title=The Foot-Ball Club in Edinburgh, 1824–1841 – The National Archives of Scotland |publisher=Nas.gov.uk |date=2007-11-13 |accessdate=2010-06-19}}</ref>。このクラブはトリッピング(足を掛けて転ばす)を禁止していたが、プッシング、ホールディング、ボールを拾い上げる行為は許されていた<ref name="Nas.gov.uk"/>。

学校あるいは大学の一部ではないという意味において世界最古の現存するフットボールクラブであると主張している2つのクラブは、ラグビーフットボールの拠点である。[[バーンズ・ラグビーフットボールクラブ|バーンズ・クラブ]]は1839年に、[[ガイズ・キングス・アンド・セント・トーマス・ラグビー・フットボール・クラブ|ガイズ病院フットボールクラブ]]は1843年に設立されたと言われている。日付やプレーされていたフットボールの種類についてどちらも十分な証拠書類がないが、こういった主張はそれでもその他の現代ルールが生まれるよりも前にラグビーが人気であったことを示唆している。

1845年、ラグビー校の3人の少年がルールを成文化する役目を負った。これは全てのフットボールの中で初めて成文化された規則である<ref>{{cite web |title=Rugby chronology |work=Museum of Rugby |url=http://www.rfu.com/microsites/museum/page.aspx?section=89&sectionTitle=World+Rugby+Chronology |accessdate=April 24, 2006}}</ref>。これによってラグビーの伝播がさらに加速された。例えば、[[ダブリン大学フットボールクラブ]](1854年に[[トリニティ・カレッジ (ダブリン大学)|ダブリン大学トリニティ・カレッジ]]で設立され、後にラグビーの拠点として有名となった)は、世界最古の文書が残るフットボールクラブである。

==== 大会 ====
{{Main|:en:Oldest football competitions}}
最も長く続いているフットボール行事の一つが、1858年から毎年[[メルボルン・グラマー・スクール]]と[[スコッチ・カレッジ (メルボルン)|スコッチ・カレッジ]]との間で争われる[[コードナー=エグルストン・カップ]]である。最初の年は実験的なルールの下で開催されたものの、この行事は[[オーストラリアン・ルールズ・フットボール]]の最初の試合でもあると多くの人によって信じられている。最初のフットボールのトーナメントは、メルボルン王立カレドニア協会の提供によって[[メルボルン・ルール]]の下で1861年に開催された[[カレドニアン・チャレンジ・カップ]]であった<ref>{{cite web|url=http://www.electricscotland.com/history/australia/melbourne.htm |title=History of the Royal Caledonian Society of Melbourne |publisher=Electricscotland.com |date= |accessdate=2010-06-19}}</ref>。最古のフットボールのリーグはラグビーフットボールの大会である[[ユナイテッド・ホスピタル・カップ|ユナイテッド・ホスピタル・チャレンジ・カップ]]であるが、最古のラグビートロフィーは1878年から争われている[[ヨークシャー・カップ (ラグビーユニオン)|ヨークシャー・カップ]]である。[[南オーストラリアフットボール協会]](1877年4月30日)は、現存する最古のオーストラリアン・ルールズ・フットボールの大会である。現存する最古のサッカートロフィーは[[ユーダン・カップ]](1867年)であり、最古の全国的なサッカー大会はイングランドの[[FAカップ]](1871年)である。[[フットボールリーグ]](1888年)は最も長く続いているサッカーリーグでありと認識されている。最初のフットボールの国際試合は、1870年5月5日、FAの権限下で[[ジ・オーバル]]において[[サッカーイングランド代表|イングランド]]と[[サッカースコットランド代表|スコットランド]]の間で行われた。最初のラグビーの国際試合は1871年に開催された。

==== 現代的なボール====
{{Main|フットボール (ボール)}}

[[ファイル:Richard Lindon (1816-1887).jpg|upright|thumb|[[リチャード・リンドン]](1880年撮影)は、ゴム製の初のフットボールを発明したと考えられている。]]
ヨーロッパにおいて、初期のフットボールは動物の[[膀胱]]、具体的には豚の膀胱を膨らませて作られていた。後に、[[革]]製カバーが用いられるようになり、ボールの形状を保つことができるようになった<ref>[http://www.soccerballworld.com/History.htm#Early Soccer Ball World – Early History] . Retrieved June 9, 2006. {{Wayback|url=http://www.soccerballworld.com/History.htm#Early|date =20060616030554|bot=DASHBot}}</ref>。しかし、1851年、[[リチャード・リンドン]]と[[ウィリアム・ギルバート]](両者とも[[ラグビー (イングランド)|ラグビー]]出身の靴職人)が、[[ロンドン万国博覧会 (1851年)|ロンドン万国博覧会]]において円型と楕円型のボールを展示した。リチャード・リンドンの妻は、豚ぼ膀胱を膨らませる作業が原因によって肺の病気で死んだと言われている<ref>The exact name of Mr Lindon is in dispute, as well as the exact timing of the creation of the inflatable bladder. It is known that he created this for both association and rugby footballs. However, sites devoted to football indicate he was known as [http://www.richardlindon.com HJ Lindon], who was actually Richards Lindon's son, and created the ball in 1862 (ref: [http://www.soccerballworld.com/History.htm Soccer Ball World]), whereas rugby sites refer to him as [[Richard Lindon]] creating the ball in 1870 (ref: [http://observer.guardian.co.uk/osm/story/0,,1699545,00.html Guardian article]). Both agree that his wife died when inflating pig's bladders. This information originated from web sites which may be unreliable, and the answer may only be found in researching books in central libraries.</ref>。リンドンはまた、「ゴム製空気注入式膀胱」と「真鍮製ハンドポンプ」の発明でメダルを受賞した。

1855年、アメリカ合衆国の発明家[[チャールズ・グッドイヤー]]([[加硫]]ゴムの特許を取得した)が[[パリ万国博覧会 (1855年)|パリ万国博覧会]]において、加硫ゴムパネルの外装で覆われた球形のフットボールを展示した。このボールはアメリカ合衆国における初期フットボールにおいて人気となった<ref>[http://www.soccerballworld.com/Oldestball.htm soccerballworld.com, (no date) "Charles Goodyear's Soccer Ball"] Downloaded 30/11/06.</ref>。

==== 現代的なパス戦術 ====
{{Main|パス (サッカー)}}
ボールを前方にパスし、ゴールキーパーを越えて得点しようと試みる選手を含むフットボールの試合に関する最も初期の資料は、1633年に[[スコットランド]]、[[アバディーン]]の詩人・教師であったDavid Wedderburnによって書かれた<ref>[http://www.scotsman.com/news/scottish-news/edinburgh-east-fife/scots_invented_beautiful_game_1_1121849 Scots invented beautiful game] The Scotsman, 14 June 2006</ref>。

「科学的」なフットールは1839年に[[ランカシャー]]で<ref>Bell's Life in London and Sporting Chronicle (London, England), Sunday, January 13, 1839.New Readerships</ref>、現代ラグビーでは1862年に<ref>Blackwood's Magazine, Published by W. Blackwood, 1862, page 563</ref>、シェフィールドFCでは早ければ1865年<ref>Bell's Life in London and Sporting Chronicle (London, England), Saturday, January 07, 1865; Issue 2,229: "The Sheffield party, however, eventually took a lead, and through some scientific movements of Mr J Wild, scored a goal amid great cheering"</ref><ref>Bell's life in london, November 26th 1865, issue 2275: "We cannot help recording the really scientific play with which the Sheffield men backed each other up</ref>に初めて記録されている。

チームが協調して動くパスサッカーを見せた初めてのチームは、1869/70の[[ロイヤル・エンジニアーズAFC]]であった<ref>{{cite book |last= Wall|first= Sir Frederick|title= 50 Years of Football, 1884–1934|year= 2005|publisher= Soccer Books Limited|location= |isbn= 1-8622-3116-8}}</ref><ref name=autogenerated1>[Cox, Richard (2002) The encyclopaedia of British Football, Routledge, United Kingdom]</ref>。1869年までには、彼らは「共によく動き」、「バックアップし」、「協調」によって利益を得ていた<ref>Bell's Life in London and Sporting Chronicle, 18 December 1869</ref>。1870年までには、エンジニアーズはボールをパスしていた<ref>Bell's Life in London and Sporting Chronicle, 5 November 1870,issue 2</ref>。1872年初頭には、エンジニアーズは「共に美しくプレーする」と賞賛された初めてのフットボールチームであった<ref>Bell's Life in London and Sporting Chronicle, 17 February 1872,issue 2694</ref>。続けざまのダブルパスは、1872年3月のダービー校と[[ノッティンガム・フォレスト]]との試合で初めて報告された<ref>The Derby Mercury (Derby, England), Wednesday, March 20, 1872; Issue 8226</ref>。現代的なフォーメーションを初めて完成させたのは[[ケンブリッジ大学AFC]]であり<ref>{{cite book|first=Brendan|last=Murphy|title=From Sheffield with Love|year=2007|publisher=Sports Book Limited|isbn=978-1-899807-56-7|page=59}}</ref><ref>Association Football, chapter by CW Alcock, The English Illustrated Magazine 1891, page 287</ref><ref>{{cite book|first=Adrian|last=Harvey|title=Football, the First Hundred Years|year=2005|pages=273, ref 34–119|publisher=Routledge|isbn=0-415-35019-0|url=http://books.google.com/?id=TxoZ0S-GC7MC}}</ref>、2-3-5の「ピラミッド」フォーメーションを導入した<ref>Csanadi Arpad, Hungerian coaching manual "Soccer", Corvina, Budapest 1965</ref><ref>Wilson Jonathon, Inverting the pyramid: a History of Football Tactics , Orion, 2008</ref>。

=== ケンブリッジ・ルール ===
{{Main|ケンブリッジ・ルール}}
1848年、共に[[シュルーズベリー校]]の卒業生であった[[ケンブリッジ大学]]のH. de WindonとJ. C. Thringは、[[ハーロー校|ハーロー]]、[[イートン校|イートン]]、[[ラグビー校|ラグビー]]、[[ウィンチェスター・カレッジ|ウィンチェスター]]、シュルーズベリーのその他12名の代表者と共に[[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]において会合を開いた。8時間の会合により「[[ケンブリッジ・ルール]]」として知られている最初の現代フットボール規則が作られた。これらの規則の写しは現存していないが、1856年頃の改訂版がシュルーズベリー校の図書館に保管されている<ref>
{{cite web|title=Football Association tribute to the Cambridge Rules|url=http://www.admin.cam.ac.uk/news/dp/2006121303|accessdate=2011-04-28}}
</ref>。この規則では明らかにキッキングゲームが好まれていた。ボールを手で扱うことは「足で蹴ったボールを直接キャッチした時」のみ許されており(フリーキックが与えられる)、相手のゴール前でウロウロすることを禁じる原始的なオフサイドルールも存在した。ケンブリッジ・ルールはイングランドのパブリックスクールや大学以外では広く採用されなかった(しかし、[[サッカー|協会式フットボール]]の規則を制定する[[フットボール・アソシエーション]]の委員会にはほぼ間違いなく最も重要な影響を与えた)。

=== シェフィールド・ルール ===
{{Main|シェフィールド・ルール}}
1850年代後期までには、様々なフットボールをプレーするための多くのフットボールクラブが英語圏の至るところで作られた。イングランドの[[シェフィールド]]でNathaniel CreswickとWilliam Prestによって設立された[[シェフィールドFC|シェフィールド・フットボール・クラブ]]は、後にサッカーをプレーした世界最古のクラブと認識された<ref name="Football, the First Hundred Years">{{cite book|first=Adrian|last=Harvey|title=Football, the First Hundred Years|year=2005|pages=95–99|publisher=Routledge|isbn=0415350190|url=http://books.google.com/?id=TxoZ0S-GC7MC}}</ref>。しかし、シェフィールドFCは当初は「[[シェフィールド・ルール]]」による独自のフットボールをプレーしていた。この規則はパブリックスクールの規則から大きく離れており、最も重要な差異は「オフサイド」ルールの欠如である。

[[フリーキック]]、[[コーナーキック]]、ハンドボール、[[スローイン]]、クロスバーなど多くの要素がこのルールで発明され、後にアソシエーション・フットボール(サッカー)にも広がっていった<ref>{{cite book|first=Brendan|last=Murphy|title=From Sheffield with Love|year=2007|pages=41–43|publisher=Sports Book Limited|isbn=9781899807567}}</ref>。1870年代までには、シェフィールド・ルールはイングランド北部およに中部で主要なルールとなった。この時期、[[フットボール・アソシエーション|ロンドン]]と[[シェフィールド・アンド・ハラムシャー・カウンティー・フットボール・アソシエーション|シェフィールド]]のFAによる一連の変更によって、徐々に両者の規則の差が減っていき、1877年に共通の規則が採用された。

=== オーストラリアン・ルールズ ===
{{Main|オーストラリアン・ルールズ・フットボール}}
[[ファイル:Australianfootball1866.jpg|left|thumb|1866年に[[メルボルン]]の[[ヤラ・パーク|リッチモンド・パドック]]で行われた[[オーストラリアン・ルールズ・フットボール]]の試合。Robert Bruceによる[[木版画]]。]]

[[ビクトリアゴールドラッシュ]]の間、オーストラリアでは様々なフットボールがプレーされていた。これらの起源は今だに大きな議論のテーマであるが、今日オーストラリアン・ルールズ・フットボールとして知られているコードの普及は[[トム・ウィルズ]]によるものであると現在されている。

1858年7月10日、ウィルズは冬季にクリケット選手の健康を保つための「競技規則」を持つ「foot-ball club」を呼び掛ける手紙をBell's Life in Victoria & Sporting Chronicleに書いた<ref>{{cite web | title=Letter from Tom Wills | work=MCG website | url=http://www.mcg.org.au/default.asp?pg=footballdisplay&articleid=37|accessdate=2006-07-14|archiveurl = http://web.archive.org/web/20060625081726/http%3A//www.mcg.org.au/default.asp%3Fpg%3Dfootballdisplay%26articleid%3D37 |archivedate = June 25, 2006|deadurl=yes}}</ref>。これが新しいスポーツが作られた瞬間であると歴史家によって考えられている。広報と個人的な交流により、ウィルズは様々なルールを実験するフットボールの試合を[[メルボルン]]で調整することができ<ref name=Origins>{{cite web | title=The Origins of Australian Rules Football | work=MCG website | url=http://www.mcg.org.au/default.asp?pg=footballdisplay&articleid=36|accessdate=2007-06-22|archiveurl = http://web.archive.org/web/20070611104451/http%3A//www.mcg.org.au/default.asp%3Fpg%3Dfootballdisplay%26articleid%3D36 |archivedate = June 11, 2007|deadurl=yes}}</ref>、記録が残る最初の試合は1858年7月31日に開催された。1858年8月7日、ウィルズは比較的確かな証拠がある[[メルボルン・グラマー・スクール]]と[[スコッチ・カレッジ (メルボルン)|スコッチ・カレッジ]]との試合の審判を務めた。これらの試合の後、整理されたフットボールの試合は急速に人気を広げていった。

これらの初期の試合に関わったウィルズとその他の人々は、1859年5月14日に[[メルボルン・フットボール・クラブ]](現存する最古のオーストラリアのフットボールクラブ)を結成した。最初のメンバーはウィルズ、[[ウィリアム・ハマースリー]]、J・B・トンプソン、[[トーマス・H・スミス]]などであった。

この最初のルールを作った人々の背景は、ルールに与えた影響に関する興味深い推察につながる。囚人を祖先とするウィルズはイングランドで教育を受けた。ウィルズはラグビーフトボールやクリケットの選手であり、オーストラリア先住民と強いつながりを持っていた。ウィルズは最初はラグビー校のルールを導入することを望んだ。ハマースリーは、イングランドから移住したクリケット選手・ジャーナリストであった。トーマス・スミスはアイルランドから移住した教師であった。委員会のメンバーはイングランドのパブリックスクールのフットボールのルールを含むいくつかのルールについて議論した。その他のフットボールと同様の特徴を含むにもかかわらず、いかなる影響を示す決定的な証拠も存在しない。代わりに、委員会はオーストラリアの状況により適したスポーツとすることを決定し、ウィルズが「いや、我々は我々自身のスポーツを持つべきである」と宣言したと文書化されている<ref>[http://www.abc.net.au/rn/deakin/stories/s291489.htm Sport: Touchstone of Australian Life] from the Australian Broadcasting Commission. First broadcast on Thursday 17/05/01</ref>。このルール体系(コード)は、[[マーク (オーストラリアン・ルールズ・フットボール)|マーク]]や[[フリーキック (オーストラリアン・ルールズ・フットボール)|フリーキック]]、タックルの存在、オフサイドルールの欠如、選手がボールを投げることについて明確に反則とされることが独特である。

このメルボルン・フットボール・ルールは広く普及し、その他のビクトリア植民地のクラブにも徐々に採用されていった。彼らは、その他の影響力のあるビクトリアのフットボールクラブのルールに対応するため、1860年代までに数度ルールを書き直している。[[ジーロング・フットボール・クラブ]]のルールに対応するためにH. C. A. ハリソンの委員会によって1866年に行われた重要なルールの書き直しによって、「ヴィクトリアン・ルールズ」として知られるようになっていたこのゲームは、その他のルール体系からますます離れたものなっていった。このルールではクリケット競技場、ラグビーボール、特殊化したゴールと背後のポスト、走っている間のボールをバウンドさせること、ハイジャンプによるマークなどがある。このルールは[[オーストラリアの州と特別地域|その他のオーストラリアの植民地]]にすばやく広がった。[[第一次世界大戦]]後、中心地の南部オーストラリア以外では、このルール体系は衰退期を迎えたが、アマチュアレベルでは世界中に広がっており、主要なプロ大会として[[オーストラリアン・フットボール・リーグ]]が生まれた。

=== フットボール・アソシエーション ===
[[ファイル:England v Scotland (1872).jpg|thumb|初の[[サッカー|フットボール]]の国際試合である[[サッカースコットランド代表|スコットランド]]対[[サッカーイングランド代表|イングランド]]。一時は[[ラグビー・フットボール]]の初期の例として[[ラグビー・フットボール・ユニオン]]の手に渡っていた。]]
{{Main|フットボール・アソシエーション#歴史}}

1860年代初期、イングランドにおいて様々なパブリックスクールのゲームを統合・調和させる試みが進められていた。1862年、後に{{仮リンク|アッピンガム校|en|Uppingham School}}の教師となるJ. C. Thringは、彼が「The Simplest Game」と呼ぶ新たなルールを考案した。これらは「アッピンガム・ルールズ」としても知られている。Thringのルールは通常ケンブリッジ・ルールズとは見做されていない。1863年10月初頭に、ハロー、シュルーズベリー、イートン、ラグビー、マールバラ、ウェストミンスターの卒業生を代表する7名の委員会によってケンブリッジ・ルールズの新たな改訂版が策定された。

1863年10月26日の夜、ロンドン、グレート・クイーン通りのフリーメーソンズ酒場において、[[ロンドン州|ロンドン大都市圏]]のいくつかのフットボールクラブの代表が、[[フットボール・アソシエーション]] (FA) の設立会合に集った。この協会の目的は、単一の統一ルール体系を確立し、会員間での試合のプレーを規制することであった。初会合に続いて、パブリックスクールが協会への加盟を要請された。チャーターハウスとアッピンガム以外のパブリックスクールはこの誘いを辞退した。1863年10月から12月の間に合計6回のFAの会合が行われた。3回目の会合の後、ルールの草稿が発表された。しかしながら、4回目の会合の始めに、直近に発表された1963年版のケンブリッジ・ルールズに注目が集った。ケンブリッジ・ルールズはFAのルールの草稿とは、ボールを持って走ることとハッキング(相手の脛を蹴ること)の2つの点で大きな違いがあった。

議論を引き起こしたFAのルールは以下の2つである。

{{quote|IX. 選手は[[フェアキャッチ]]あるいはワンバウンドしたボールをキャッチした場合、対戦相手のゴールに向かって走る権利を得るものとする: しかしフェアキャッチの場合、マークを行った場合は走ってはならないものとする。
<p>
X. もし選手が対戦相手のゴールに向かって走れば、相手側の選手は彼にチャージ、ホールド、トリッピング、ハッキング、あるいは彼からボールを奪い取る自由があるものとするが、同時にホールドとハッキングをすることはできない。|<ref>Peter Shortell. [http://clubs.rfu.com/Clubs/portals/cornwallreferees/ThoughtsforRefs6667.aspx Hacking – a history], [http://clubs.rfu.com/Clubs/portals/cornwallreferees/CRRSHistory6515.aspx Cornwall Referees Society], 2 October 2006</ref>}}

5回目の会合において、これら2つのルールを削除する提案が成された。代表者のほとんどがこれを指示したが、[[ブラックヒースFC|ブラックヒース]]に代表でFAの初代会計係であった[[フランシス・モール・キャンベル|F・M・キャンベル]]が異議を唱えた。キャンベルは「ハッキングこそが真のフットボールである」と述べた。しかしながら、ボールを手に持って走ることとハッキングの禁止の動議が可決され、ブラックヒースはFAを脱退した。12月8日の最後の会合の後、FAは後に[[サッカー|アソシエーション・フットボール]]として知られるスポーツの最初の包括的な一連の規則である「[[サッカー競技規則|フットボールの規則]] ''Laws of Football''」を発表した。19世紀末から使われている「サッカー ''soccer''」という用語は「Association」の省略形に由来する<ref name=OEDsoccer>{{cite journal |last= |first= |authorlink= |coauthors= |year= 2011|month= June|title= soccer, n|journal=[[Oxford English Dictionary]] |volume= |issue= |pages= |url= http://www.oed.com/view/Entry/183733|accessdate=July 1, 2011}}</ref>。

最初のFAのルールはもはや現在のサッカーでは見られない要素をまだ含んでいたが、それらはオーストラリアン・フットボールやラグビー・フットボールといったその他のゲームにおいて今でも見ることができる。例えば、選手はフェアキャッチを行い「マーク」を主張することができ、フリーキックの権利を得ることができた。また、相手のゴールラインの後ろのボールにタッチした場合、タッチした側がゴールライン手前15ヤード(13メートル)からのゴールに向かっての[[フリーキック]]の権利を得た。

=== ラグビーフットボール ===
{{Main|ラグビーユニオンの歴史}}
[[ファイル:Football London Ilustrated News.gif|thumb|ラグビーのスクラム(1871年)]]
[[イギリス|ブリテン]]では、1870年までに、ラグビー校のゲームの変種をプレーする約75のクラブがあった。アイルランド、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドにも「ラグビー」クラブがあった。しかしながら、1871年にロンドンの21のクラブが集まり[[ラグビー・フットボール・ユニオン]] (RFU) を結成するまでは、一般的に受け入れられたラグビーのルールはなかった。これらのルールではボールをパスすることが許されている。また、ラインを越えてボールを地面に触れさせるとゴールへの試みが許される[[トライ]]も含まれていたが、マークからのドロップゴールやペナルティーコンバージョンがまだ戦いの主な形であった。

=== 北米のフットボール競技 ===
{{Refimprove|date=December 2007}}
{{Main|アメリカンフットボールの歴史|カナディアンフットボール}}

ブリテンでの事例と同様に、19世紀初頭までに、北米の学校および大学では生徒によるチーム間で独自のゲームがプレーされていた。[[ニューハンプシャー州]]にある[[ダートマス大学]]では、早くも1820年代にはサッカーの変種である[[オールド・ディビジョン・フットボール]]と呼ばれるゲームがプレーされていた。

[[ファイル:The Tigers of Hamilton football team.jpg|thumb|[[オンタリオ州]][[ハミルトン (オンタリオ州)|ハミルトン]]の「タイガース」(1906年頃)。タイガースは1869年にハミルトン・フット・ボール・クラブとして創立され、1950年にハミルトン・フライング・ワイルドキャッツと合併して[[ハミルトン・タイガーキャッツ]]となった。このチームは現在も[[カナディアン・フットボール・リーグ]]に参加している<ref name="Football Canada timeline">{{cite web|url=http://www.footballcanada.com/history_timeline.asp|title=Canadian Football Timelines (1860– present)|accessdate=2006-12-23|publisher=[[Football Canada]]|archiveurl = http://web.archive.org/web/20070228064050/http%3A//www.footballcanada.com/history_timeline.asp |archivedate = February 28, 2007|deadurl=yes}}</ref>。]]

カナダにおけるラグビーの初の試合は1865年に[[モントリオール]]で開催されたと一般的に言われている。この試合では[[イギリス陸軍]]将校が地元の住民と対戦した。ラグビーは次第に支持者を増やし、1868年にカナダで記録が残る初のフットボールクラブである[[モントリオール・フットボール・クラブ]]が結成された。

1869年、FAの体系を基にしたルールの下、アメリカ合衆国での初の試合が[[プリンストン大学|プリンストン]]と[[ラトガース大学|ラトガース]]との間で行われた。これは大学間での試合という意味において、アメリカ合衆国初の[[カレッジフットボール]]の試合でもあるとしばしば見なされている(しかし、アメリカンフットボールの最終形はサッカーではなくラグビーから来ている)。

現代[[アメリカンフットボール]]は1874年の[[モントリオール]]の[[マギル大学]]と[[ハーバード大学]]との試合から生まれた。当時、ハーバードの学生はアメリカの大学で好まれていたFAの体系に基づく「キッキング」ゲームではなくボストン・ゲーム(ランニングが許された体系)をプレーしていたと報告されている。そのため、ハーバードはマギルでプレーされていたラグビーの基づくゲームに適応することが容易であり、2つのチームはそれぞれのルールを交互に行っていた。しかしながら、数年の内に、ハーバードはマギルのラグビールールを採用し、その他の米国の大学にも同じく採用するよう説得した。1876年、マサソイト会議において、これらの大学が[[ラグビー・フットボール・ユニオン]]のルールの大半を採用することが合意された。プリンストンやラトガースなどはサッカーを基にしたルールを数年間採用し続けていたが、その後にハーバードらのラグビーを基にしたルールに転向した。一般的に米国の大学は20世紀初頭までサッカーに戻ることはなった。

[[ファイル:1882RutgersFootballTeam.jpg|thumb|left|ラトガース大学フットボールチーム(1882年)]]

1880年、[[エール大学]]のコーチ[[ウォルター・キャンプ]]は、アメリカのゲーム形式への多くの主要な変化を考案した。アメリカンフットボールをラグビーフットボールと異なるスポーツに確立させたキャンプが考案した2つの最も重要なルールの革新は、「スクリメージ」と「ダウン・アンド・ディスタンス」ルールである。

スクリメージは、グラウンドからボールを他の選手の手に渡すための開始動作の慣習を意味する。キャンプの最初のルールでは、この渡す動作は足のみで許されていたが、程なくして手でボールをパスすることも許されるようルールが変更された。ルールでは、2つのチームを互いに隔てる固有のスクリメージラインを定めた。ある選手がタックルされた時、その選手はダウンしたと判定されプレーは止まり、両チームはスクリメージラインの両側で再整列する。次に、ボールがグラウンドからスナップされ、プレーが再開する。チームは、ある距離(ヤードで測定される)を獲得する(進む)ために限られた回数のダウンを与えられる。アメリカンフットボールでは、ボールの保持権が移った後、10ヤード進むために4回のダウン(攻撃権)が与えられる。カナディアンフットボールでは、10ヤード進むために3回のダウンが許される。これらのルールは北米のルール体系とラグビーとの間に根本的な区別を作り出した。ラグビーは今でも根本的に連続動作のゲームであるが、北米のルール体系は「スクリメージ」からのデリバリーによって開始し「ダウン」によって終わる個別の「プレー」によって整理される。

==== 批判と部分調整 ====
初期のアメリカンフットボールは、過剰に暴力的な試合であり、毎年数件死亡事故や人生を左右する大怪我などに悩まされていた。暴力が非常に極端となったため、[[セオドア・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]は1905年に、暴力を最小化するようルールを変更しない限りアメリカンフットボールを禁止すると脅かした。この年にいくつかのルール変更が実施されたが、最も持続したのは[[フォワードパス]]の許可の導入であり、これは1880年代のキャンプのルール変更にように、このスポーツの性質を根本的に変化させた。ボールを前方の投げることが反則でなくなると、ボールを前進させる全く新たな手段が生まれた。その結果、選手はそれぞれの役割により特化するようになり、異なるポジションの選手は異なる技術が必要とされるようになった。したがって、ある選手は主にボールを持って走ること(ランニング)に関与する([[ランニングバック]])が、その他にスローイング([[クォーターバック]])、キャッチング([[ワイドレシーバー]])、ブロッキング([[オフェンシブライン]])に特化した選手もいる。1940年代および1950年代に選手交代が自由になったことで、攻撃と守備の「小隊」をそれぞれ配置できるようになり、さらなるポジションの特殊化が進んだ。

長年にわたって、カナディアンフットボールはアメリカンフットボールの進展の一部を吸収したが、多くの独自の特徴を保ってもいる。そのうちの一つは、カナディアンフットボールが長年、自身をラグビーと公式に区別していなかったことである。例えば、1884年に設立された'''カナダ・ラグビーフットボール・ユニオン'''は、ラグビーユニオンの団体ではなく[[カナディアン・フットボール・リーグ]]の前身だった(今日[[ラグビーカナダ]]として知られるカナダ・ラグビー・ユニオンは1965年まで結成されなかった)。アメリカンフットボールも1880年代にはしばしば「ラグビー」と言い表された。

=== ゲーリックフットボール ===
[[ファイル:Croke Park from the hill.jpg|thumb|300px|[[クローク・パーク]]における[[全アイルランドシニアフットボール選手権|全アイルランドフットボール決勝]](2004年)。]]
{{Main|ゲーリックフットボール}}
19世紀半ば、様々な伝統的フットボール(総称して[[ケイド]] ''caid''と呼ばれる)がアイルランド、特に[[ケリー州]]で人気を保っていた。司祭のW. Ferrisはこの時期の「ケイド」の主要な2つの形式につして描写している: 「フィールド・ゲーム」における目的は2本の木の大枝によって作られたアーチのようなゴールにボールを入れることであった; 大規模な「クロスカントリーゲーム」は日曜日の日中の時間の大半を使って行われ、ボールを教区の境界を越えることで勝敗がついた。敵の選手への「レスリング」や「ホールディング」、ボールを持って走ることは全て許されていた。

1870年代までには、ラグビーおよびサッカーがアイルランドでも人気を得始めていた。[[トリニティ・カレッジ (ダブリン大学)|ダブリン大学トリニティ・カレッジ]]はラグビーの初期の拠点であった。イングランドのFAのルールは広く普及していた。伝統的なケイドの形式はトリッピングが許される「しっちゃかめっちゃかな」ゲームに取って代わられ始めていた。

1884年に[[ゲーリック体育協会]] (GAA) が設立されるまでは、アイルランドの様々なフットボールを統一し体系化しようという真剣な試みはなされなかった。GAAは[[ハーリング]]といった伝統的なアイルランドのスポーツを振興し、ラグビーやサッカーのような輸入されたスポーツを拒絶しようとした。最初のゲーリックフットボールのルールは[[モーリス・デイヴィン]]によって起草され、『United Ireland』誌上で1887年2月7日に発表された。デイヴィンのルールは、ハーリングといったスポーツの影響やアイルランド固有のフットボールの体系を形式化しようという切望が見られた。この差別化の主な例は、オフサイドルールの欠如であった(長年ハーリングといったアイリッシュゲームやオーストラリアン・ルールズ・フットボールにのみ見られた要素である)。

=== ラグビーフットボールの分裂 ===
[[ファイル:Reverend marshall.jpg|thumb|[[ラグビーリーグ]]の結成につながったラグビーフットボールの分裂を風刺した1890年代のイングランドの風刺画。風刺的に描写されているのは選手への支払の主な反対者であるフランク・マーシャル牧師とマーシャルの長年の対抗者であるジェームズ・ミラーである。]]
{{See|ラグビーリーグの歴史}}
[[国際ラグビー評議会]] (IRFB) は1886年に設立されたが、亀裂が生じ始めていた。[[プロフェッショナルスポーツ|プロフェッショナリズム]]が様々なフットボール競技に忍び寄り始めていた。

イングランドでは、1890年代までに、長年続く[[ラグビー・フットボール・ユニオン]]の「プロ」選手の禁止がラグビーフットボール内での地域間の対立の原因となった。これはイングランド北部の多くの選手が[[労働者階級]]であり、トレーニングや遠征、試合、怪我からの回復のための休みを取ることができなかったためである。これは、この10年前にイングランド北部においてサッカーで起こったこととほとんど変わらなかったが、サッカーの場合、統括団体はイングランド北部の労働者階級の支持を遠ざけようとしたRFUとは大きく異なる対処をした。1895年、ラグビーをプレーすることによる賃金の損失を補うための休業補償が支払われている選手に関する論争の後に、北部のクラブの代表者らは[[ハダースフィールド]]で集い、[[ラグビー・フットボール・リーグ|ノーザン・ラグビー・フットボール・ユニオン]] (NRFU) を結成した。この新たな団体は当初は選手への様々な休業補償のみを認めていた。しかし、2年のうちに、NRFUの選手への支払が認められた(しかしスポーツ以外の職に就いている必要はまだあった)。

プロリーグへの要求は、ラグビーがよりよい「観客」のためのスポーツとなることを決定付けた。数年以内に、NRFUのルールはRFUのルールから分化していった。特に「[[ラインアウト]]」の廃止は重大な変更であった。その後、「ラック」がタックラーとタックルされた選手との間で争われる2人の選手によるラックが許される「プレー=ザ=ボール・ラック」に置き換えられた。「モール」はボール保持者がつかまると停止され、プレー=ザ=ボール=ラックに置き換えられた。NRFUのランカシャーとヨークシャーの競技会が1901年に合併し、「ノーザン・ラグビー・リーグ」が結成され、イングランドにおいて[[ラグビーリーグ]]の名称が初めて公式に使用された。

そのうちに、クラブによってプレーされるRFU版のラグビーは[[ラグビーユニオン]]として知られるようになった。

=== サッカーのグローバル化 ===
{{Main|FIFAの歴史}}
国際試合の人気が高まった20世紀の始めには、サッカーを監督する単一の団体に対する必要性が明らかとなっていた。イングランドのフットボール・アソシエーションは国際団体設置のための多くの話し合いの議長を務めたが、進展は見られなかった。その後、イングランド以外のヨーロッパの七カ国(フランス、ベルギー、デンマーク、オランダ、スペイン、スウェーデン、スイス)によって1904年5月21日にパリにおいて「Fédération Internationale de Football Association」 (FIFA) が設立された。初代会長は[[ロベール・ゲラン]]であった。現在もフランス語の名称および略称がフランス語圏以外の地域でも使用されている。

=== 2つのラグビーの更なる分岐 ===
ラグビーリーグのルールは、1906年に1チームの選手数が15名から13名に減ったことでラグビーユニオンから大きく分かれた。1907年、ニュージーランドのプロラグビーチームがオーストラリアおよびブリテンに遠征を行い熱狂的な反響受け、翌年にはオーストラリアにおいてプロラグビーリーグが開始された。しかし、プロの試合のルールは国ごとに異なっており、国際試合を行う度に厳密なルールの摺り合わせのための交渉が必要であった。この状況は、1948年に[[ボルドー]]における会合で[[ラグビーリーグ国際連盟]] (RLIF) が結成されるまで続いた。

20世紀後半の間、ルールはさらに変化した。1966年、ラグビーリーグはアメリカンフットボールから「ダウン」の概念を借用した。これにより、4回以上タックルを受けるまでボールのポゼッションを維持できることとなった。タックルの最大数は後に6回まで増加し(1971年)、ラグビーリーグにおいてこれは「シックス・タックル・ルール」として知られるようになった。

1990年代初頭にフルタイムのプロ選手が誕生し、結果として試合がスピードアップすると、2チーム間の5メートルオフサイド距離が10メートルとなり、交代ルールは様々な入替ルールに取って代わられた。

ラグビーユニオンの規則もまた20世紀の間に大きく変化した。特に、「マーク」からのゴールが廃止され、「22メートル」ラインの外側からのタッチへの直接のキックが不利になり、不確定な「ラック」あるいは「モール」の後のボールの保持圏を決定するための新たな規則が導入され、ラインアウトにおける選手のリフティングが合法化された。

1995年、ラグビーユニオンではプロ選手が解禁された。これによって、2種類のラグビー間の元々の対立点は無くなり、双方の団体の役員が再統合の可能性について言及することもあるが、近い将来においてそのような出来事があり得ない程に双方のルールおよび文化は異なっている。

[[ファイル:Shunsuke1 20080622.jpg|thumb|[[サッカー]]において相手チームが作る「壁」に向かってフリーキックを蹴る選手。]]

==「フットボール」という語句の使用 ==
「フットボール」またはその[[派生語]]は、しばしばサッカーを指す([[フランス語]]の {{Lang|fr|football}} や、[[ドイツ語]]で「フットボール」を意味する {{Lang|de|Fußball}} は、いずれも「サッカー」(ア式蹴球)のことである)が、国によって事情はかなり異なっている。例えば、[[アメリカ合衆国]]では、ほぼアメリカン・フットボールを意味し、[[カナダ]]では [[カナディアンフットボール|カナディアン・フットボール]]も表し、[[オーストラリア]]では、地域によってラグビーまたは[[オージーフットボール|オーストラリアン・ルールズ・フットボール]]を表す。つまり、その国で一番人気のあるフットボール競技が「フットボール」と呼ばれる。

[[ファイル:Football cross.jpg|thumb|[[アメリカンフットボール]]の試合でスクリメージラインに集まる選手。]]

[[サッカー|アソシエーション・フットボール]]は、その他のフットボール競技が支配的な地域(アメリカ合衆国、カナダ、アイルランド、オーストラリア、ニュージーランド等)では一般形に「サッカー」として知られている。[[アメリカ合衆国]]において[[アメリカンフットボール]]は常に「フットボール]]である。[[カナディアンフットボール]]がより人気のある[[フランス語圏]][[ケベック州]]では、カナディアン・フットボールが「フットボール」として知られ、アソシエーション・フットボールは''{{lang|fr-ca|le soccer}}''として知られている<ref>{{cite web|url=http://www.federation-soccer.qc.ca/index.php?option=com_content&view=article&id=149&Itemid=34 |title=The governing body is the "Fédération de soccer du Québec" |publisher=Federation-soccer.qc.ca |date= |accessdate=2012-04-16}}</ref>。英語が公用語あるいは主要な言語である[[FIFA]]に加盟する45の協会のうち、ほとんどは現在組織の公式名称に「フットボール ''Football''」の語を使用している。[[カナダサッカー協会|カナダ]]および[[アメリカ合衆国サッカー連盟|アメリカ合衆国]]は名称に「Soccer」を使用している。

いくつかのFIFA加盟協会は最近「Football」を使用するように標準化している。
* オーストラリアのサッカーの統括団体は2007年に名称をサッカーからフットボールに変更した<ref>[http://www.smh.com.au/news/Soccer/Soccer-to-become-football-in-Australia/2004/12/16/1102787198357.html?from=more Stories Soccer to become football in Australia] (SMH.com.au. December 17, 2004) "ASA chairman Frank Lowy said the symbolic move would bring Australia into line with the vast majority of other countries which call the sport football."</ref>
* ニュージーランドもまた、「国際的な競技がフットボールと呼ばれる」と述べ、名称を変更した<ref>[http://www.nzsoccer.com/plugins/newsfeed.cgi?rm=content&plugin_data_id=12155 NZ Football – The Local Name Of The Global Game] (NZFootball.co.nz. April 27, 2006) "The international game is called football and were part of the international game so the game in New Zealand should be called football"</ref>
* サモアは2009年に名称を「Samoa Football (Soccer) Federation」から「Football Federation Samoa」に変更した<ref>{{cite web|author=David As... |url=http://www.sportingpulse.com/assoc_page.cgi?client=0-1001-0-0-0&sID=12574&&news_task=DETAIL&articleID=10755795&sectionID=12574 |title="new name & logo for Samoan football" |publisher=Sportingpulse.com |date=2009-11-28 |accessdate=2012-04-16}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.samoaobserver.ws/index.php?view=article&id=21824%3Afootball-progress&option=com_content&Itemid=81 |title="Football progress in Samoa " |publisher=Samoaobserver.ws |date= |accessdate=2012-04-16}}</ref>

== フットボールの分化 ==

{|class = "wikitable"
|-
|rowspan=19 |フットボール
|rowspan=4 style="background: #8080FF;"|[[ケンブリッジ・ルール]](1848年)
|rowspan=15 style="background: #C080C0;"|[[フットボール協会]](1863年)
|-
|colspan=3 style="background: #C080C0;"|[[脳性麻痺7人制サッカー|7人制]]
|-
|colspan=3 style="background: #C080C0;"| [[ビーチサッカー|ビーチ]](1992年)
|-
|colspan=3 style="background: #C080C0;"|[[フットサル]](1930年)
|-
|rowspan=4 style="background: #8080FF;"|[[シェフィールド・ルール]](1857年)
|-
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|-
|colspan=3 style="background: #C080C0;"|[[視覚障害者5人制サッカー|パラリンピック]]
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|rowspan=9 style="background: #FF8080;"|[[ラグビーユニオン競技規則|ラグビー・ルール]](1845年)
|-
|rowspan=6 style="background: #FF8080;"|[[ラグビーユニオン]](1871年)
|-
|colspan=2 style="background: #FF8080;"|[[7人制ラグビー|ラグビーセブンス]](1883年)
|-
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|-
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|-
|style="background: #FFC080;"|[[タッチラグビー]]
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||[[アメリカンフットボール]](1869年)
| colspan="3"|[[アリーナフットボール]](1987年)
|- style="background: #FFFF80;"
||[[カナディアンフットボール]](1861年)
| colspan="3"|[[フラッグフットボール]]
|-
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|-
|colspan=5 style="background: #80FFFF;"|[[オージーフットボール|オーストラリアン・ルールズ]](1859年)
|}

== 現在のフットボール競技とその派生競技 ==
{| class="wikitable" align="right" style="font-size: 80%;"
{| class="wikitable" align="right" style="font-size: 80%;"
|-
|-
75行目: 410行目:
|-
|-
|}
|}
* [[サッカー]]
=== サッカーおよびその派生競技 ===
[[ファイル:Indoor Soccer Game in Mexico.JPG|thumb|メキシコの屋外で行われている[[インドアサッカー]]の試合。[[審判]]が赤チームにフリーキックを与えている。]]
** [[インドア・サッカー]]
* [[サッカー|アソシエーション・フットボール]]。フットボール、サッカー、フッティーとしても知られている。
** [[フットサル]]
** [[スタイットボール]]
* フットボールのインドア/バスケットボールコートを用いる派生競技:
** [[5人制サッカー]] — 以下のような様々なルールの下、世界中でプレーされている:
** [[ビーチサッカー]]
*** [[フチボウ・デ・サロン]]
* [[ラグビー]]
*** [[フットサル]] — FIFA公認の5人制屋内競技
*** [[ミニヴットバル]] — 東および西[[フランドル]]地方で非常に人気のある5人制屋内競技
*** [[パピ・フット]] — 中央アメリカにおいて屋外バスケットボールコートでプレーされる5人制競技
** [[インドアサッカー]] — 6人制屋内競技。屋外でプレーされることの多い[[ラテンアメリカ]]では''fútbol rápido''として知られている
**[[マスターズ・フットボール]] — 35歳以上のプロ選手による6人制の大会。
* パラリンピック・サッカー — 障害を持つアスリートのために考案されたサッカー<ref>{{cite web | last = Summers | first = Mark | title = The Disability Football Directory | url = http://www.disabilityfootball.co.uk|accessdate=2013-06-03}}</ref>
** [[視覚障害者5人制サッカー]]
** [[脳性麻痺7人制サッカー]]
** 切断障害者サッカー — [[切断 (医学)|切断者]]アスリートのため
** ろう者サッカー — [[聴覚障害]]を持つアスリートのため
** [[電動車椅子サッカー]]
* [[ビーチサッカー]] — 砂の上でプレーするサッカー
* [[ストリートサッカー]]
* [[ラッシュ・ゴーリー]] — ゴールキーパーの役割が通常よりも柔軟なサッカーの変種
* [[ストリートサッカー|ヘッダー・アンド・ボレー]] — 頭とボレーでのみ得点することを目的とする
* [[カニサッカー]] ''Crab soccer'' — 選手は背中を地面に向けて両手足で立ち、通常のようにサッカーを行う
* [[スナンプ・サッカー]] — 泥んこサッカーとも呼ばれる
* [[ジョーキーボール]]
* ラッシュボール

また、モータースポーツ版サッカーも存在する。

=== ラグビー校のフットボールおよびその子孫 ===
* [[ラグビー|ラグビーフットボール]]
** [[ラグビーリーグ]] — しばしば単に「リーグ」と呼ばれ、オーストラリアのニューサウスウェールズ州およびクイーンズランド州では単純に「フットボール」あるいは「フッティー」として知られている。
***[[ラグビーリーグナインズ]](あるいは[[ラグビーリーグセブンズ|セブンズ]])
***[[タッチラグビー]] — 接触を排除したラグビーリーグ。しばしば「タッチ」と呼ばれ、南アフリカでは「シックス・ダウン」として知られている。
** [[ラグビーユニオン]]
** [[ラグビーユニオン]]
** [[ラグビーリーグ]]
*** [[ミニラグビー]] - 子供向け競技
*** [[7人制ラグビー]][[ファイル:Fiji Cook Island rugby.jpg|thumb|[[7人制ラグビー|ラグビーセブンズ]]; [[ラグビーフィジー代表|フィジー]] v [[ラグビークック諸島代表|クック諸島]]([[2006年コモンウェルスゲームズ]]、メルボルン)]]
** [[7人制ラグビー|7人制ラグビーユニオン]]
** [[タッチラグビー]]
*** [[ラグビー・テンズ]] - 10人制
** [[タグラグビー]]
** [[ビーチラグビー]] — 砂の上で行われるラグビー
** [[オージータグフットボール]]
** [[タッチラグビ]] — ックルを排除したラビーフットボールの一般名
***[[タグラグビー]] — 接触排除したラグビーで、[[面ファスナー|マジックテープ]]をはがすことがタックルを示す
* [[ゲーリックフットボール|ゲーリック・フットボール]]
* [[オージーフトボール|オージー・フットボール]]
* [[グリドアイアン・フットボール]]
* [[アメリカンフットボール|アメリカン・フットボール]]
** [[アメリカンフットボール]] — アメリカ合衆国とカナダでは「フットボール」、オーストラリアとニュージーラドでは「グリッドアイアン」と呼ばれる。タッチフットボールと区別するために「タックル・フットボール」と呼ばれることがある。
** [[カナディアンフットボール|カナディアフットボール]]
** [[インドアメリカンフットボール|ドアフットボール]]、[[アリーナフットボール]] — アメリカンフットボールの屋内版
** [[アリーナフットボール|アリーナ・フットボール]]
** [[9人制カンフットボール]]、[[8人制カンフットボル]]、[[6人制アメリカンフットボール]] — 11名のフィールド選手を揃えることができない小規模な高校で主にプレーされる。
* [[スーパーフットボール]]
** [[タッチ・フットボール]]
* [[チ・フットボール]] (アメリカン系など、多様)
*** [[フラフットボール]]
**ストリートフットボール
** [[カナディアンフットボール]] — カナダでは単純に「フットボール」と呼ばれる。カナダにおいて「フットボール」がカナディアンフットボールとアメリカンフットボールのどちらを意味するかは文脈に依存する。
*** カナディアンフラッグフットボール
*** 9人制カナディアンフットボール
***6人制カナディアンフットボール

=== アイルランドおよびオーストラリアのフットボール ===
[[ファイル:International rules.jpg|thumb|[[ドックランズ・スタジアム]]([[メルボルン]])で行われたオーストラリとアイルランドの2005[[インターナショナル・ルールズ・フットボール|インターナショナル・ルールズ]]・シリーズにおけるテストマッチ。]]
これらのルール体系は共通してオフサイドルールがなく、ボールを持って走る間にボールをバウンドあるいはトーキックする必要があり、スローイングではなくパンチングあるいはタッピングによってハンドパスが行われる。

* [[オージーフットボール|オーストラリアン・ルールズ・フットボール]] — 公式には「オーストラリアン・フットボール」として、非公式には「フットボール」、「フッティー」、「オージールールズ」として知られている。一部の地域では統括団体ならびに競技大会の名称であるAFLと呼ばれる。日本語ではオージーフットボールとして知られている。
** [[オズキック]] — 小さな子供の向けに考案されたオージーフットボール
** [[メトロ・フッティー]] — 北米の都市において[[グリッドアイアン・フットボール|グリッドアイアン]]の競技場を使用するためにUSAFLによって考案されたバージョン
** [[キック=トゥー=キック]] – 非公式バージョン
** [[ナイン・ア・サイド・フッティー]] — 9人制オーストラリアンルールズ。
** [[レック・フッティー]] — 「レクリエーショナル・フットボール」。AFLによって作られた接触を排したオーストラリアン・ルールズで、タックルをタグで置き換える。
** タッチ・オージー・ルールズ — イギリスでのみプレーされているオーストラリアン・ルールズの非接触版
** [[サモア・ルールズ]] — [[ラグビーフットボール]]の競技場を使用するなど、[[サモア]]の状況に適応したルール。
** [[マスターズ・オーストラリアン・フットボール]](スーパールールズ) — 35歳以上の選手のための大会のために導入された接触を減らしたルール。
** [[女子オーストラリアン・ルールズ・フットボール]] — 女子の大会のために接触を減らし、より小さなボールを使用する。
* [[ゲーリックフットボール]] — アイルランドで主にプレーされる。一般に「フットボール」あるいは「ゲーリック」と呼ばれる。
**[[女子ゲーリックフットボール]]
* [[インターナショナル・ルールズ・フットボール]] — ゲーリックフットボールとオーストラリアン・ルールズの選手が共にプレーするためにルール体系

=== 現存する中世の球技 ===

==== イギリス ====
* [[ハクシー・フッド]] — [[リンカンシャー]]、[[ハクシー]]において[[公現祭]]に行われる。
* [[パンケーキ・デイ|シュローブチューズデー]]ゲームズ
** [[スコアリング・ザ・ヘイルズ]]([[ノーサンバーランド (イングランド)|ノーサンバーランド]]、[[アニック]])
** [[ロイヤル・シュローブタイド・フットボール]]([[ダービーシャー州|ダービーシャー]]、[[アッシュボーン]])
** シュローブタイド・ボール・ゲーム([[ウォリックシャー]]、[[アザーストーン]])
** [[パーベック・マーブラーズのシュローブ・チューズデー・フットボール・セレモニー]]([[ドーセット]]、[[コーフキャッスル]])
** [[コーニッシュ・ハーリング|ハーリング・ザ・シルバー・ボール]]([[コーンウォール]]、[[セント・コロンブ・メジャー]])
** [[セジフィールド・ボール・ゲーム|ボール・ゲーム]]([[ダラム (カウンティ)|ダラム]]、[[セジフィールド]])
* スコットランドの以下の地域では、クリスマスおよび[[ホグマネイ]]頃の[[バ・ゲーム]]は今でも人気がある。
** [[ベリックシャー]]、[[ダンス (スコットランド)]]
** [[パースシャー]]、[[スクーン (スコットランド)|スクーン]]
** [[オークニー諸島]]、[[カークウォール]]

==== イギリス外 ====
* [[カルチョ・フィオレンティノ]] — 16世紀の[[フィレンツェ]]で行われていたルネッサンス期のフットボールを現代に復興したもの

=== 現存するイギリスのパブリックスクールのフットボール===
[[ファイル:RendallsHarrowFootball.jpg|right|thumb|試合後の[[ハロウ・フットボール]]の選手。]]
イギリスの[[パブリックスクール]]では今でも以下のフットボールが行われている。
*[[イートン・フィールド・ゲーム]]
*[[イートン・ウォール・ゲーム]]
*[[ハロウ・フットボール]]
*[[ウィンチェスター・カレッジ・フットボール]]

=== 近年考案された競技 ===
* [[キーピー・アッピー]] — 足、脛、胸、肩、頭を使ってボールをジャグリングするパフォーマンス
** [[フットバッグ]]
* [[フリースタイルフットボール]]

==== FAのルールを基にした競技 ====
* Cubbies
* Three sided football
* Triskelion

==== ラグビーを基にした競技 ====
*Force ’em backs

==== 混成競技 ====
* [[オースタス]]
**[[第二次世界大戦]]中に[[メルボルン]]で考案されたオーストラリアン・ルールズと[[アメリカンフットボール]]の折衷ルール
* [[ボサボール]]
**サッカーと[[バレーボール]]と[[体操]]を混合したスポーツ。インフレータブルや[[トランポリン]]上でプレーされる。
* [[フットバレー]]
**サッカーとビーチバレーを混合したもの。
* [[サッカーテニス]]
**サッカーとテニスを混合したもの。
*[[キックベースボール]]
**1942年頃にアメリカ合衆国で考案されたサッカーと野球の混成競技。
* [[スピードボール]]
**アメリカンフットボールとサッカーとバスケットボールを混合したもの。1912年にアメリカ合衆国で考案された。
* [[ユニバーサル・フットボール]]
**オーストラリアン・ルールズとラグビーリーグの混成競技。1933年にシドニーで実験的に行われた<ref>Sean Fagan, [http://rl1908.com/articles/AFL.htm Breaking The Codes], ''RL1908.com'', 2006 {{Dead link|date=September 2012}}</ref>。
*[[ヴォラータ]]
**サッカーおよび[[ハンドボール]]に似た競技。1920年代にイタリアのファシスト党書記長[[アウグスト・トゥラーティ]]によって考案された。
*[[ウィルチェアーラグビー]]
**'''マーダーボール'''(殺人ボール)としても知られている。1977年にカナダで考案された。ラグビーよりも[[アイスホッケー]]とバスケットボールを基にしている。

=== 卓上競技およびその他の遊戯 ===

==== サッカーを基にしたもの ====
* [[スッブテオ]]
* [[ブロー・フットボール]]
* [[テーブル・フットボール]] — '''フーズボール'''、'''テーブルサッカー'''としても知られている。
* [[ファンタジー・フットボール]]
* [[ボタン・フットボール]]
* [[ペニー・フットボール]]
* [[FIFAシリーズ]]
* [[ウイニングイレブン]]
* [[スーパーマリオストライカーズ|マリオストライカーズ]]

==== アメリカンフットボールを基にしたもの ====
* [[ペーパー・フットボール]]
* [[ブラッド・ボウル]]
* [[ファンタジー・フットボール (アメリカンフットボール)]]
* [[マッデンNFL]]

==== オーストラリアン・ルールズを基にしたもの ====
* [[AFL (テレビゲーム)]]

==== ラグビーリーグを基にしたもの ====
* Rugby Leagueシリーズ
* Australian Rugby League


== 「フットボール」の意味する競技 ==
== 「フットボール」の意味する競技 ==
* [[アイルランド]]: [[ゲーリックフットボール|ゲーリック・フットボール]]、あるいは、サッカー
* [[アイルランド]]: [[ゲーリックフットボール|ゲーリック・フットボール]]、あるいは、サッカー
* [[アゼルバイジャン]]: [[サッカー]]
* [[アメリカ合衆国|アメリカ]]: [[アメリカンフットボール|アメリカン・フットボール]]
* [[アメリカ合衆国|アメリカ]]: [[アメリカンフットボール|アメリカン・フットボール]]
* [[アルゼンチン]]: [[サッカー]]
* [[イギリス]]: [[サッカー]]
* [[イギリス]]: [[サッカー]]
* [[インド]]: サッカー
* [[インド]]: サッカー
* [[ウガンダ]]: サッカー
* [[ウガンダ]]: サッカー
* [[ウクライナ]]: [[サッカー]]
* [[ウズベキスタン]]: [[サッカー]]
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* [[エクアドル]]: [[サッカー]]
* [[オーストラリア]]: [[オージーフットボール|オージー・フットボール]]、あるいは、ラグビー(地域により異なる)
* [[オーストラリア]]: [[オージーフットボール|オージー・フットボール]]、あるいは、ラグビー(地域により異なる)
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* [[ベナン]]: サッカー
* [[ベナン]]: サッカー
* [[マダガスカル]]: サッカー
* [[マダガスカル]]: サッカー
* [[メキシコ]]: [[サッカー]]
* [[ルクセンブルク]]: サッカー
* [[ルクセンブルク]]: サッカー

* [[ロシア]]: [[サッカー]]
== スポーツ以外の用例 ==
スポーツ以外では、あらゆる種類の核攻撃を発動できる核兵器発射コード等の重要な軍事機密が収納されているブリーフケースのことを俗に「[[核のフットボール]]」と呼ぶことがある。これは初期の核攻撃計画のコードネームが「ドロップキック」で有ることに由来する。主に映画等で[[アメリカ合衆国]][[大統領]]がフットボールと呼ばれるブリーフケースを常に携帯している描写があるが、現実の米国大統領が常に携行しているかは不明である。ただ、2009年1月に米放送局のABC Newsは、[[オバマ大統領]]が、宣誓式の際軍事機密引継ぎ会議内で、核のフットボールを引き継いだという報道をした。


== 脚注 ==
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== 参考文献 ==


== 関連項目 ==
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2013年6月3日 (月) 08:35時点における版

様々なフットボール。左上から右下の順にアソシエーション・フットボール(サッカー)、オーストラリアン・ルールズ・フットボールインターナショナル・ルールズ・フットボールラグビーユニオンラグビーリーグアメリカンフットボール

フットボール: football)とは、2つのチームが1つのボールを奪い合い、指定された相手陣地のゴールに蹴り込む、または運び込む競技のことであり、サッカーアメリカン・フットボールラグビー・フットボールに代表される。

歴史

起源

今日「フットボール」として総称されるこれら一連の競技の歴史は定かではないが、これに近い競技がローマ帝国の時代に既に行われていたと言われている。また、サッカーに見られる様な「ボールを蹴って運ぶ」という要素は、古代中国蹴鞠(日本の蹴鞠も)に由来するとも言われており、こうした競技が主にイングランドで発展、分化し、その一つとして、中世の「懺悔火曜日のフットボール」のような荒唐無稽な「祭り」としてのフットボールになった。一方、イタリアでは『カルチョ』として発展した。これもまた『蹴る』と名付けられていながら、実態は手によるボールの奪い合いだった。

スポーツへの進化、そして分化

これらに対し、時の権力は度々『フットボール禁止令』を敷いたが、大衆のフットボールへの情熱は消える事を知らなかった。そして、近代イングランドでは、良家の子弟のための全寮制学校、パブリックスクールを中心に、フットボールをスポーツとしてルール化する動きが現れ、これが後のサッカー(アソシエーション・フットボール)としてのフットボールのルール作成、そしてそこからのラグビーの分岐につながった。さらに、このサッカーとラグビーは、当時世界中に存在したイギリスの植民地にも伝わり、アイルランドの旧来のフットボールに影響を与え、またアメリカ、オーストラリアで独自のフットボールが派生して行った。

各ルールの共通要素

フットボールの様々なルールは以下の要素を共有している[要出典]

  • 2つの「チーム」は大抵11人から18人の選手からなる。人数を少なくした(1チーム5人かそれ以上)ルールも人気がある。
  • 試合を行う領域が明確に決められている。
  • 「点」・「ゴール」は、ボールを相手チームの陣地の端やゴールエリア、あるいはラインを越えて移動させることで得られる。
  • ゴールあるいは点は選手が2つの「ゴールポスト」の間にボールを入れることで得られる。
  • ゴールあるいはラインは相手チームによって「守備」されている。
  • 選手は、—ルールに依るが— キック、ラン、ハンドパスによってボールを移動させる必要がある。
  • 選手はボールを移動させるのに道具を使わず体のみを用いる。

ほとんどのルールにおいて、選手の動きを制限する「オフサイド」ルールが存在し、得点はゴールポスト間のクロスバーの上あるいは下をボールが通過することで得られる。いくつかのフットボールルールの共通点は、ゴールラインを越えてボールを運んだ時に得点が入ること、「マーク」あるいは「フェアキャッチ」の後「フリーキック」が与えられることなどである。

古代から世界中の人々はボールを蹴ったり運んだりする競技を行っていた。しかしながら、現代のフットボールルールのほとんどはイングランドに起源がある[1]

語源

「フットボール」という用語の起源に関しては相反する説明が存在する。「football」(あるいはfoot ball)はボール (ball) を足(foot)で蹴る動作を意味しているという説明は広く受け入れられいてる。もう一つの説明はフットボールを中世ヨーロッパにおいて「徒歩で (on foot)」で行われていた様々な競技を元々意味しているというものである。どちらの説明に関しても決定的な証拠はない。

初期の歴史

古代

ボールの平衡を保つ古代ギリシアのフットボール選手。アッティカレキュトスに描かれている。

古代ギリシア人および古代ローマ人は多くの球技を行っていたことが知られており、そのうちの一部は足を使っていた。ローマの球技「ハルパストゥム英語版」は、"ἐπίσκυρος" (episkyros) [2][3]あるいは "φαινίνδα" (phaininda)[4] として知られている古代ギリシアのチーム競技から作られたと考えられている。この競技はギリシャの劇作家若アンティファネス英語版(紀元前388年 - 紀元前311年)によって言及され、後にキリスト教神学者 アレクサンドリアのクレメンス(150年頃 - 215年頃)によって参照されている。これらの競技は現在のラグビーフットボールに似ていると思われる[5][6][7][8][9]。ローマの政治家キケロ(紀元前106 - 紀元前43年)は、床屋にボールが蹴り入れられた時にひげをそられていたために死んでしまった男性の事件について記述している。ローマの球技では空気で膨らせたボールが使われていた(フォリス[10][11]

「蹴鞠」を遊ぶ中国の子供を描いた苏汉臣による宋代の絵画。

紀元前1世紀から3世紀の間に編纂された中国の『戦国策』にはフットボールに似た球技が記されている[12]。戦国策に記されている「蹴鞠」は地上約9メートルの高さで竹の間に固定された絹布にあいた小さな穴に革製のボールを蹴り入れるといった遊びも描かれている。漢王朝(紀元前206年 - 220年)の時代に、蹴鞠の規則は標準化された[要出典]。蹴鞠は後に日本および朝鮮半島に伝来した。

談山神社で行われている日本の蹴鞠
テオティワカンのテパンティトラ壁画のメソアメリカの球技選手の絵。

日本に伝来した蹴鞠は飛鳥時代に発展した[要出典]。日本の皇室では600年頃から蹴鞠が行われていることが知られている。蹴鞠では、数人が輪になりボールを地面に落さないよう蹴り合う。蹴鞠は19世紀注記以前に一度途絶えたが、1903年に復興された[要出典]

世界の多くの異なる地域の先住民によって行われていた伝統的球技に関しては多数の文献が存在する。例えば、1586年、イングランドの探検家ジョン・デイヴィスに指揮された船の乗組員は、グリーンランドイヌイット(エスキモー)とある種のフットボールを行うために上陸した[13]Aqsaqtukと呼ばれる氷上で行われるイヌイットの競技に関する後の報告がある。試合は、2つのチームが平行に並んで向かい合った状態から始まり、選手は相手チームのラインを越えてゴールを狙いボールを蹴る。1610年、ジェームズタウンの入植者ウィリアム・ストレイチー英語版は、Pahsahemanと呼ばれるネイティブ・アメリカンの競技ついて記録している[要出典]オーストラリア大陸において、オーストラリア先住民のいくつかの部族は、歴史家によって「マーン・グルーク英語版」と一般化された詰め物をしたボールを用いた蹴りおよび捕球の競技を行っていた。これに関する最も初期の歴史的報告は1878年のロバート・ブラフ・スミス英語版の著作「The Aborigines of Victoria」に書かれた逸話である。この本ではリチャード・トーマスと呼ばれる男性が、1841年頃ビクトリア植民地においてアボリジニの人々が球技を行っているのを目撃したと伝えられている: 「トーマス氏は一番前の選手がどのようにポッサムの皮で作られたボールをドロップキックし、その他の選手が捕球するために空中に飛び上がったを描写した」。一部の歴史家は、「マーン・グルーク」をオーストラリアン・ルールズ・フットボールの起源の一つであると理論付けている。

1850年代のオーストラリア先住民の狩猟採集民を描いた絵。背景の子供達はフットボール(おそらくWoggabaliri)を行っている[14]

ニュージーランドマオリは、キ・オ・ラヒ英語版と呼ばれる競技を行っていた。試合は陣地が分かれた円形の競技場で1チーム7人で行われ、得点は「pou」(境界の印)に触れるか、中央の標的である'tupu'を打つかで得られる[要出典]

先住民族によって行われていたゴム製ボールを使ったメソアメリカの球技は、これ以前から存在していることが十分に証明されているものの、これらはバスケットボールあるいはバレーボールとより類似しており、現代フットボール競技に対する影響はごくわずかであることから、フットボールには分類されていない[要出典]。北東アメリカインディアン、特にイロコイ連邦の人々は、小さなボールを投げたり捕球したりするためのネットラケットを用いる競技を行っていた。しかしながら、ラクロスの起源であるこの競技は通常「フットボール」の一種とは分類されない[要出典]

これら競技やその他の競技の歴史は古代にまで遡る。しかしながら、現代フットボールルールの主要な起源は西ヨーロッパ、特にイングランドにあると思われる。

中世および近世ヨーロッパ

中世、ヨーロッパ中、特にイングランドにおいて、一年に一度のシュローブタイド・フットボールが盛んに行われるようになった。ブリテンで行われいた球技については9世紀の『ブリトン人の歴史』で言及されている[15]。ボールを手、足、スティック[16]で扱うラ・ソーユ英語版あるいchouleとして知られるフランス北部において行われていた球技については12世紀に記録がある[17]

いわゆる「モブフットボール英語版」の絵。

モブフットボール英語版」と呼ばれることがあるイングランドで行われていたフットボールの初期の形は、近隣の町や村の間で行われていた。モブフットボールは隣の教区との間の開けた場所で行われ[18]、人数は無制限であり[19]、膨らませた動物の膀胱[20]といった物を特定の場所(相手の村の教会など)に移動させることを目的に争われた。この競技はシュローブタイド、クリスマス復活祭[20]といった重要な宗教的祭りの期間に主に行われ、シュローブタイドゲームはイングランドの多くの街で現代まで生き残っている(後述)。

イングランドにけるほとんど確かにフットボールといえるものの初めての詳細な説明は、およそ1174年から1183年の間にウィリアム・フィッツスティーヴン英語版によってなされた。フィッツスティーブンは、懺悔の火曜日の毎年恒例の祭でのロンドンの若者の活動について記している。:

昼食の後、街の若者全員がフィールドに出て球技に参加した。それぞれの学校の生徒は自分達のボールを持っていた; それぞれの街の組合の労働者もまた自分達のボールを持っていた。年配の市民、父親達、裕福な市民は彼らの息子達が競うのを見たり、若者を身代りとして交代させるために馬に乗ってやってきた: [21]

ごく初期の言及のほとんどは、単純にこの競技を「ball play」あるいは「playing at ball」と読んでいる。このことは、この時期に行われたい競技が必ずしもボールを蹴ることを含んでいない、という考えを補強する。

おそらくフットボールである球技に対する初期の言及は、1280年、イングランドノーサンバーランドアッファム英語版から来る: 「ヘンリーは...ボールをプレーしている (playing at ball) 時.. デイビッドに向かって走った」[22]。フットボールはアイルランドにおいて1308年に行われており、ダウン州ニューキャッスル英語版での「フットボールの試合」においてウィリアム・バーナードという名の選手によって偶然に体当りされた観客であるJohn McCrocanに言及した文献が存在する[23]。もう一つのフットボール競技に関する言及は1321年、イングランドノーフォークShouldhamから来る[22]

1314年、ロンドン市長ニコラス・デ・ファーンドンは、フットボールを禁止した法令について当時イングランドの上流階級で使われていたフランス語で記している[24]

1363年、イングランド王エドワード3世は、「...ハンドボール、フットボール、あるいはホッケー; 狩猟、闘鶏、あるいはその他のそういった無駄な遊び」を禁止する声明を出した[25]。ここでは、この時期の「フットボール」がハンドボールといった体の他の部位を使う競技とは区別されていることが見てとれる。

1750年頃のフランス

イングランド王ヘンリー4世もまた、「football」という英単語の最も初期の文書化された使用の一つを示している。ヘンリー4世は「foteball」からの金銭の徴収を禁止する声明を出した[22][26]

ノッティンガムシャーキャウストンでフットボールが行われたとする15世紀末のラテン語の文献もある。これは、「キッキングゲーム」と「ドリブル」についての初めての解説である: 「彼らが共通の楽しみとして行っていた競技はフットボールゲームと呼ばれている。このゲームでは、若者は大きなボールを空中に投げるのではなく打つことによって地面を転がさせて前に進ませる、そして手ではなく足を用いて、相手方向にボールを蹴る」。この筆者はフットボールの競技場に関する最も初期の言及を残している: 「境界線が記され、試合が始まった」[22]

中世および近世におけるその他の初めての事例には以下のものがある。

  • 競技ではなくボールを意味する「a football」という言葉は1486年に初めて言及された[26]。これはデイムジュリアナ・バーナーズ英語版の『Book of Saint Albans』に記されている:「遊ぶためのいくらか丸い道具… それは足で使うための道具でラテン語で「pila pedalis」、フットボール (fotebal) と呼ばれる」[22]
  • 1526年、フットボール用の靴一足が、イングランド王ヘンリー8世によって注文された[27]
  • 1580年に女性達がフットボールの一種を行ったと詩人のサー・フィリップ・シドニーが詩に残している[28]
  • 「ゴール (goal)」に関する初めて言及されたのは16世紀末および17世紀初頭である。1584年および1602年に、ジョン・ノードン英語版およびリチャード・カルー英語版はそれぞれコーニッシュ・ハーリング英語版における「ゴール」について言及した。カルーは何如にゴールが決まったかを説明している: 「they pitch two bushes in the ground, some eight or ten foote asunder; and directly against them, ten or twelue [twelve] score off, other twayne in like distance, which they terme their Goales」[29]。彼はまた、ゴールキーパーと選手間のボールのパスについて初めて説明した。
  • 「ゴールを決める」ことに初めて直接言及したのは、ジョン・デイ英語版の戯曲「The Blind Beggar of Bethnal Green」(1600年頃上演、1659年出版)である: "I'll play a gole at camp-ball英語版(極度に暴力的なフットボールの一種であり、イースト・アングリアで人気だった)"。同様に1613年の詩で、マイケル・ドレイトン英語版は「when the Ball to throw, And drive it to the Gole, in squadrons forth they goe」と記している。

カルチョ・フィオレンティノ

カルチョ・フィオレンティノの競技場と開始位置の絵。Pietro di Lorenzo Biniの1688年の本から。

16世紀、フィレンツェでは公現祭四旬節の間の期間を祝して、サンタクローチェ広場英語版において今日「カルチョ・ストリーコ calcio storico」(歴史的カルチョ)として知られている競技を行っていた。都市の若い貴族達は立派な絹の衣装で着飾り、暴力的なフットボールの一種に飛び込んでいった。例えば、「カルチョ」の選手は、相手に対してパンチ、ショルダーチャージ、キックすることが出来た。卑怯な殴打も許されていた。この競技は、軍事演習に起源があると言われている。1580年、Giovanni de' Bardi di Vernio伯爵は、「Discorso sopra 'l giuoco del Calcio Fiorentino(カルチョ・フィオレンティノの試合に関する論文)」を書いた。これは、最も初期のフットボール規則であると言われることがある。この競技は1739年1月以降は(1930年5月に復興されるまで)行われていない。

フットボールに対する公的な非難と禁止の試み

フットボール競技、 とりわけ最も乱暴で破壊的なものを禁止する数多くの試みが、特に中世および近世のイングランドおよびその他のヨーロッパで行われてきた。1324年から1667年の間、イングランドにおいてのみフットボールは30以上の国家法と地方法によって禁止されていた。このような法律を繰り返し布告する必要があったことは、人気のある競技を禁止することがいかに困難であったかを証明している。イングランド王エドワード2世は、ロンドンにおけるフットボールの手に負えなさに悩まされ、1314年4月13日にフットボールを禁止する声明を発表した: 「この都市においてやかましい音の原因となっている大きなボールを追い掛け回す行為は神が禁じる邪悪を生じることから、我々は、国王の代理として、今後jそのような競技をこの都市で禁止することを命ずる。さもなくば禁固刑」。

エドワード3世が1349年6月12日にフットボールを禁止した理由は明確であり、フットボールやその他の競技が、戦争に必須である弓術の鍛錬から大衆の気を逸らしたたである。1424年、スコットランド議会英語版フットボール法英語版を可決した。この法律でフットボールは違法となり、違反したものは4ペンス英語版の罰金を課せられた。

1608年までに、マンチェスターの地方自治体はフットボールに関する苦情を述べている: "With the ffotebale...[there] hath beene greate disorder in our towne of Manchester we are told, and glasse windowes broken yearlye and spoyled by a companie of lewd and disordered persons ..."[30]。同年、ウィリアム・シェイクスピアは、とがめるような文脈で「フットボール」という言葉を使用している。シェイクスピアの戯曲『リア王』には以下の一節がある: "Nor tripped neither, you base football player(その上,足を払われ放しでは黙っておれまい。この蹴鞠野郎)[31]"(第1幕第4場)。また、シェイクスピアは『間違いの喜劇』でもフットボールに言及している(第2幕第1場)

Am I so round with you as you with me,
That like a football you do spurn me thus?
You spurn me hence, and he will spurn me hither:
If I last in this service, you must case me in leather.

「Spurn」は文字通り「蹴飛ばすこと」を意味することから、このフットボールが選手間でボールを蹴る行為を含んでいることが示唆される。

しかしながら、イングランド王ジェームズ1世の著作『Book of Sports』(1618年)では、毎週日曜日の礼拝の後の午後にフットボールを行うようキリスト教徒に説いている[32]。この本の目的は、安息日英語版を守るピューリタンの厳格さを弱めようとすることであるように思われる[33]

近代フットボールの成立

イングランドのパブリックスクール

フットボールは様々な形でブリテンの至るところで行われ続けていてが、パブリックスクール(その他の国での私立学校にあたる)は近代フットボールの成立において4つの重要な出来事が起こったことで広く認められている。まず初めは、パブリックスクールでそれまでの「群集」によるフットボールが、整理されたチームスポーツへと変化したことである。2つ目は、フットボールに関する初期の説明や言及の多くが、これらのパブリックスクールで学んでいた人物によって記録されたことである。3つ目は、パブリックスクールの教師、生徒、卒業生が、出身校間でフットボールの試合を行うことが出来るように、初めてフットボールの規則を成文化したことである。最後は、これらのパブリックスクールが初めて「キッキング」と「ランニング」(あるいは「キャリング」)を明確に分けたことである。

フットボールに似た競技がイングランドのパブリックスクール(主に上流階級、上位中流階級、知的職業階級の男子が通う)で行われていた最も初期の証拠は、1519年のウィリアム・ハーマンの『Vulgaria』である。ハーマンはイートン・カレッジウィンチェスター・カレッジの校長を務め、彼のラテン語の教科書は翻訳の演習問題として、「"We wyll playe with a ball full of wynde"」という節が出てくる[34]

16世紀初めにイートン・カレッジの生徒であり、後にその他の学校の校長を務めたリチャード・マルカスター英語版は、「16世紀の最も偉大なフットボールの支持者」と評されてきた[35]。彼の貢献には、整理されたチームフットボールの最も初期の証拠がある。マルカスターの文書は、チーム、ポジション、審判、コーチについて言及している。マルカスターの「フットボール」は無秩序で暴力的な伝統的フットボールから進化した。

[s]ome smaller number with such overlooking, sorted into sides and standings, not meeting with their bodies so boisterously to trie their strength: nor shouldring or shuffing one an other so barbarously ... may use footeball for as much good to the body, by the chiefe use of the legges.[36]

1633年、アバディーン出身の教師デイヴィッド ウエッダーバーン英語版は、「Vocabula」と呼ばれる短かいラテン語の教科書の中で現代フットボールの要素について言及している。ウェッダーバーンは、「ゴールを守る」と翻訳できることやボールをパスすると解釈できることを記している。また、「ボールを手に入れる」ことに言及していることから、いくらかの手で扱うことは許されていたことが示唆される。また、相手選手へのチャージングやホールディングを含むタックルが許されていたことは明らかである[要出典]

より詳細なフットボールの説明は、1660年頃に書かれたフランシス・ウィラビイの『Book of Games』にある[37]サットン・コールドフィールドビショップ・ヴェシーズ・グラマー・スクール英語版の生徒であったウィラビイは、初めてゴールと明確な競技フィールドについて説明した人物である: 「a close that has a gate at either end. The gates are called Goals." His book includes a diagram illustrating a football field. He also mentions tactics ("leaving some of their best players to guard the goal"); scoring ("they that can strike the ball through their opponents' goal first win") and the way teams were selected ("the players being equally divided according to their strength and nimbleness"). He is the first to describe a "law" of football: "they must not strike [an opponent's leg] higher than the ball".[要出典]」。

イングラドのパブリックスクールでは、初めてフットボールの規則が成文化された。特に、18世紀末に彼らは初めてオフサイドルールを発明した[38]。最も初期のこれらのルールでは、選手はボールと相手側のゴールにいる時は単純に「オフサイド off their side」とされた。選手は、足であろうと手であろうと前方にボールをパスすることは許されなかった。前方にボールを進める方法は足でドリブルするか、「スクラム」あるいは同様の「フォーメーション」の中で進めるかしかなかった。しかしながら、オフサイドルールはそれぞれのスクールで別に分化・発展していった。これは。1810年から1850年の間のウィンチェスター、ラグビーハロウチェルトナム英語版のそれぞれのフットボールルールに見ることができる[38]。知られている初めてのルール(ルール一式という意味で)は、1815年のイートン[39]ならびにアルデナム英語版[39]のルールである。

19世紀初頭の間、ブリテンのほとんどの労働者階級の人々は週に6日働いており、しばしば1日12時間以上働いた。彼らは当時、楽しみのためにスポーツに参加したいという時間も意欲もなく、多くの子供達は労働力の一部となっていた。路上で行われる宗教上の祝日のフットボールは衰退の道をたどっていた。働く必要がない自由を享受していたパブリックスクールの少年達は、正式なルール一式 (codes of rules) を持つ整理されたフットボール競技の発案者となった。

フットボールは、多くのパブリックスクールで競争力を養い健康を保つための一手段として採用された。それぞれのスクールは、独自のルールを作成した。このルールは異なるスクール間で大きく異なっており、新らしい生徒が入ってくるたびに何度も変化していった。これらのルールは大きく2つに大別された。一方はボールを手で持って運ぶ競技を好み(ラグビー、マールバラ英語版、チェルトナム)、もう一方はキックとドリブルによってボールを進めるやり方を好んだ(イートン、ハロウ、ウェストミンスターチャーターハウス)。このようにルールが分かれたいったのは当時フットボールが行われた状況に部分的に原因がある。例えば、当時チャーターハウスとウェストミンスターではフットボール行う場所が学校の回廊の中に制限されており、この場所ではボールを手で持って走る荒っぽい競技を行うことは困難であった[要出典]

ラグビー校

ラグビー校の生徒であったウィリアム・ウェッブ・エリスは、1823年、イングランドの有名なパブリックスクールラグビー校でフットボールの試合中、ボールを抱えたまま相手のゴール目指して走り出した」といわれている。大抵、この行為がラグビー・フットボールの始まりであるとされているが、実際の出来事であったかについてはほとんど証拠がなく、ほとんどのスポーツ歴史学者はこの物語を作り話であると考えている。 ラグビーの起源であるボールを持って走った行為の第1号がエリス少年なのかは諸説あるが、起源たる発明者の対象として名前が分かっている人物はウィリアム・ウェッブ・エリスただ一人である。そのことから彼の名はラグビーの歴史を語る上で欠かすことのできないものとなっている。ラグビーワールドカップの優勝記念カップは彼の名にちなみ「ウェブ・エリス・カップ(Webb Ellis Cup)」と名づけられている。この「ボールを手で抱えた」行為は「ボールを拾い上げた」として、ウェブ・エリスの「罪」が現代サッカーで禁じられているボールを手で扱ったことであるとしばしば誤解されるが、当時ボールを手で扱うことは許されいることが多く、ある場合は強制的なものであった[40]。ウェブ・エリスが無視したのは、当時ボールを持って後方に戻るか前方に蹴るかしか許されていなかったのに、「ボールを手で持って前方に走った」ことである。

1849年代のイギリスの鉄道狂時代、人々はより遠くに以前よりも便利に移動できるようになった。このため、スクール間のスポーツ大会が可能となった。しかしながら、パブリックスクールはそれぞれ独自のフットボールのルールで競技を行っていたため、対抗戦を行うことは困難だった。この問題の解決策は大抵、試合を前半後半に分け、一方をそれぞれのルールで行うというものであった(現在もラグビーユニオンラグビーリーグのクラブ間の試合で同様の方法が採られている)。

多くのフットボール競技の「近代的」なルールは19世紀中頃から終わりに策定された。これは、ローン・ボウリングやローン・テニス(芝生のコートで行うテニス)といったその他の競技でも同様である。この主要な推進力は1830年の世界初の芝刈り機の特許であった。これにより、近代的なスポーツ用の競技場を用意することが可能になった[41]

ラグビー・フットボールはさておき、パブリックスクールのルールはそれぞれの学校以外で行われることはこれまでほとんどなかった。しかしながら、それらの多くは現在でもそれぞれのパブリックスクールで行われている。

イギリスのスポーツにおけるパブリックスクールの優勢は、労働者階級の子供達の余暇の時間を大幅に増加させた1850年工場法の後に衰え始めた。1850年より前は、多くのイギリスの子供達は1日12時間以上週6日働かなければならなかった。1850年からは、平日は午前6時より前(冬季は午前7時)と午後6時より後(冬季は午後7時)、土曜日は午後2時に仕事を終えなければならなかった。これらの変化は、労働者階級の子供達が様々なフットボールを含む競技に多くの時間を使えるようになったことを意味している。

初めての事柄

クラブ

フットボールをプレーするためのスポーツクラブは18世紀に始まった。例えば18世紀中頃にはロンドンの体育協会が設立された(1796年に試合を停止)[42][43]

スコットランドエディンバラに1824年から1841年の間存在していた「The Foot-Ball Club」が、フットボールクラブの名称で呼ばれた記録に残る最初のクラブである[44][45]。このクラブはトリッピング(足を掛けて転ばす)を禁止していたが、プッシング、ホールディング、ボールを拾い上げる行為は許されていた[45]

学校あるいは大学の一部ではないという意味において世界最古の現存するフットボールクラブであると主張している2つのクラブは、ラグビーフットボールの拠点である。バーンズ・クラブは1839年に、ガイズ病院フットボールクラブは1843年に設立されたと言われている。日付やプレーされていたフットボールの種類についてどちらも十分な証拠書類がないが、こういった主張はそれでもその他の現代ルールが生まれるよりも前にラグビーが人気であったことを示唆している。

1845年、ラグビー校の3人の少年がルールを成文化する役目を負った。これは全てのフットボールの中で初めて成文化された規則である[46]。これによってラグビーの伝播がさらに加速された。例えば、ダブリン大学フットボールクラブ(1854年にダブリン大学トリニティ・カレッジで設立され、後にラグビーの拠点として有名となった)は、世界最古の文書が残るフットボールクラブである。

大会

最も長く続いているフットボール行事の一つが、1858年から毎年メルボルン・グラマー・スクールスコッチ・カレッジとの間で争われるコードナー=エグルストン・カップである。最初の年は実験的なルールの下で開催されたものの、この行事はオーストラリアン・ルールズ・フットボールの最初の試合でもあると多くの人によって信じられている。最初のフットボールのトーナメントは、メルボルン王立カレドニア協会の提供によってメルボルン・ルールの下で1861年に開催されたカレドニアン・チャレンジ・カップであった[47]。最古のフットボールのリーグはラグビーフットボールの大会であるユナイテッド・ホスピタル・チャレンジ・カップであるが、最古のラグビートロフィーは1878年から争われているヨークシャー・カップである。南オーストラリアフットボール協会(1877年4月30日)は、現存する最古のオーストラリアン・ルールズ・フットボールの大会である。現存する最古のサッカートロフィーはユーダン・カップ(1867年)であり、最古の全国的なサッカー大会はイングランドのFAカップ(1871年)である。フットボールリーグ(1888年)は最も長く続いているサッカーリーグでありと認識されている。最初のフットボールの国際試合は、1870年5月5日、FAの権限下でジ・オーバルにおいてイングランドスコットランドの間で行われた。最初のラグビーの国際試合は1871年に開催された。

現代的なボール

リチャード・リンドン(1880年撮影)は、ゴム製の初のフットボールを発明したと考えられている。

ヨーロッパにおいて、初期のフットボールは動物の膀胱、具体的には豚の膀胱を膨らませて作られていた。後に、製カバーが用いられるようになり、ボールの形状を保つことができるようになった[48]。しかし、1851年、リチャード・リンドンウィリアム・ギルバート(両者ともラグビー出身の靴職人)が、ロンドン万国博覧会において円型と楕円型のボールを展示した。リチャード・リンドンの妻は、豚ぼ膀胱を膨らませる作業が原因によって肺の病気で死んだと言われている[49]。リンドンはまた、「ゴム製空気注入式膀胱」と「真鍮製ハンドポンプ」の発明でメダルを受賞した。

1855年、アメリカ合衆国の発明家チャールズ・グッドイヤー加硫ゴムの特許を取得した)がパリ万国博覧会において、加硫ゴムパネルの外装で覆われた球形のフットボールを展示した。このボールはアメリカ合衆国における初期フットボールにおいて人気となった[50]

現代的なパス戦術

ボールを前方にパスし、ゴールキーパーを越えて得点しようと試みる選手を含むフットボールの試合に関する最も初期の資料は、1633年にスコットランドアバディーンの詩人・教師であったDavid Wedderburnによって書かれた[51]

「科学的」なフットールは1839年にランカシャー[52]、現代ラグビーでは1862年に[53]、シェフィールドFCでは早ければ1865年[54][55]に初めて記録されている。

チームが協調して動くパスサッカーを見せた初めてのチームは、1869/70のロイヤル・エンジニアーズAFCであった[56][57]。1869年までには、彼らは「共によく動き」、「バックアップし」、「協調」によって利益を得ていた[58]。1870年までには、エンジニアーズはボールをパスしていた[59]。1872年初頭には、エンジニアーズは「共に美しくプレーする」と賞賛された初めてのフットボールチームであった[60]。続けざまのダブルパスは、1872年3月のダービー校とノッティンガム・フォレストとの試合で初めて報告された[61]。現代的なフォーメーションを初めて完成させたのはケンブリッジ大学AFCであり[62][63][64]、2-3-5の「ピラミッド」フォーメーションを導入した[65][66]

ケンブリッジ・ルール

1848年、共にシュルーズベリー校の卒業生であったケンブリッジ大学のH. de WindonとJ. C. Thringは、ハーローイートンラグビーウィンチェスター、シュルーズベリーのその他12名の代表者と共にトリニティ・カレッジにおいて会合を開いた。8時間の会合により「ケンブリッジ・ルール」として知られている最初の現代フットボール規則が作られた。これらの規則の写しは現存していないが、1856年頃の改訂版がシュルーズベリー校の図書館に保管されている[67]。この規則では明らかにキッキングゲームが好まれていた。ボールを手で扱うことは「足で蹴ったボールを直接キャッチした時」のみ許されており(フリーキックが与えられる)、相手のゴール前でウロウロすることを禁じる原始的なオフサイドルールも存在した。ケンブリッジ・ルールはイングランドのパブリックスクールや大学以外では広く採用されなかった(しかし、協会式フットボールの規則を制定するフットボール・アソシエーションの委員会にはほぼ間違いなく最も重要な影響を与えた)。

シェフィールド・ルール

1850年代後期までには、様々なフットボールをプレーするための多くのフットボールクラブが英語圏の至るところで作られた。イングランドのシェフィールドでNathaniel CreswickとWilliam Prestによって設立されたシェフィールド・フットボール・クラブは、後にサッカーをプレーした世界最古のクラブと認識された[68]。しかし、シェフィールドFCは当初は「シェフィールド・ルール」による独自のフットボールをプレーしていた。この規則はパブリックスクールの規則から大きく離れており、最も重要な差異は「オフサイド」ルールの欠如である。

フリーキックコーナーキック、ハンドボール、スローイン、クロスバーなど多くの要素がこのルールで発明され、後にアソシエーション・フットボール(サッカー)にも広がっていった[69]。1870年代までには、シェフィールド・ルールはイングランド北部およに中部で主要なルールとなった。この時期、ロンドンシェフィールドのFAによる一連の変更によって、徐々に両者の規則の差が減っていき、1877年に共通の規則が採用された。

オーストラリアン・ルールズ

1866年にメルボルンリッチモンド・パドックで行われたオーストラリアン・ルールズ・フットボールの試合。Robert Bruceによる木版画

ビクトリアゴールドラッシュの間、オーストラリアでは様々なフットボールがプレーされていた。これらの起源は今だに大きな議論のテーマであるが、今日オーストラリアン・ルールズ・フットボールとして知られているコードの普及はトム・ウィルズによるものであると現在されている。

1858年7月10日、ウィルズは冬季にクリケット選手の健康を保つための「競技規則」を持つ「foot-ball club」を呼び掛ける手紙をBell's Life in Victoria & Sporting Chronicleに書いた[70]。これが新しいスポーツが作られた瞬間であると歴史家によって考えられている。広報と個人的な交流により、ウィルズは様々なルールを実験するフットボールの試合をメルボルンで調整することができ[71]、記録が残る最初の試合は1858年7月31日に開催された。1858年8月7日、ウィルズは比較的確かな証拠があるメルボルン・グラマー・スクールスコッチ・カレッジとの試合の審判を務めた。これらの試合の後、整理されたフットボールの試合は急速に人気を広げていった。

これらの初期の試合に関わったウィルズとその他の人々は、1859年5月14日にメルボルン・フットボール・クラブ(現存する最古のオーストラリアのフットボールクラブ)を結成した。最初のメンバーはウィルズ、ウィリアム・ハマースリー、J・B・トンプソン、トーマス・H・スミスなどであった。

この最初のルールを作った人々の背景は、ルールに与えた影響に関する興味深い推察につながる。囚人を祖先とするウィルズはイングランドで教育を受けた。ウィルズはラグビーフトボールやクリケットの選手であり、オーストラリア先住民と強いつながりを持っていた。ウィルズは最初はラグビー校のルールを導入することを望んだ。ハマースリーは、イングランドから移住したクリケット選手・ジャーナリストであった。トーマス・スミスはアイルランドから移住した教師であった。委員会のメンバーはイングランドのパブリックスクールのフットボールのルールを含むいくつかのルールについて議論した。その他のフットボールと同様の特徴を含むにもかかわらず、いかなる影響を示す決定的な証拠も存在しない。代わりに、委員会はオーストラリアの状況により適したスポーツとすることを決定し、ウィルズが「いや、我々は我々自身のスポーツを持つべきである」と宣言したと文書化されている[72]。このルール体系(コード)は、マークフリーキック、タックルの存在、オフサイドルールの欠如、選手がボールを投げることについて明確に反則とされることが独特である。

このメルボルン・フットボール・ルールは広く普及し、その他のビクトリア植民地のクラブにも徐々に採用されていった。彼らは、その他の影響力のあるビクトリアのフットボールクラブのルールに対応するため、1860年代までに数度ルールを書き直している。ジーロング・フットボール・クラブのルールに対応するためにH. C. A. ハリソンの委員会によって1866年に行われた重要なルールの書き直しによって、「ヴィクトリアン・ルールズ」として知られるようになっていたこのゲームは、その他のルール体系からますます離れたものなっていった。このルールではクリケット競技場、ラグビーボール、特殊化したゴールと背後のポスト、走っている間のボールをバウンドさせること、ハイジャンプによるマークなどがある。このルールはその他のオーストラリアの植民地にすばやく広がった。第一次世界大戦後、中心地の南部オーストラリア以外では、このルール体系は衰退期を迎えたが、アマチュアレベルでは世界中に広がっており、主要なプロ大会としてオーストラリアン・フットボール・リーグが生まれた。

フットボール・アソシエーション

初のフットボールの国際試合であるスコットランドイングランド。一時はラグビー・フットボールの初期の例としてラグビー・フットボール・ユニオンの手に渡っていた。

1860年代初期、イングランドにおいて様々なパブリックスクールのゲームを統合・調和させる試みが進められていた。1862年、後にアッピンガム校英語版の教師となるJ. C. Thringは、彼が「The Simplest Game」と呼ぶ新たなルールを考案した。これらは「アッピンガム・ルールズ」としても知られている。Thringのルールは通常ケンブリッジ・ルールズとは見做されていない。1863年10月初頭に、ハロー、シュルーズベリー、イートン、ラグビー、マールバラ、ウェストミンスターの卒業生を代表する7名の委員会によってケンブリッジ・ルールズの新たな改訂版が策定された。

1863年10月26日の夜、ロンドン、グレート・クイーン通りのフリーメーソンズ酒場において、ロンドン大都市圏のいくつかのフットボールクラブの代表が、フットボール・アソシエーション (FA) の設立会合に集った。この協会の目的は、単一の統一ルール体系を確立し、会員間での試合のプレーを規制することであった。初会合に続いて、パブリックスクールが協会への加盟を要請された。チャーターハウスとアッピンガム以外のパブリックスクールはこの誘いを辞退した。1863年10月から12月の間に合計6回のFAの会合が行われた。3回目の会合の後、ルールの草稿が発表された。しかしながら、4回目の会合の始めに、直近に発表された1963年版のケンブリッジ・ルールズに注目が集った。ケンブリッジ・ルールズはFAのルールの草稿とは、ボールを持って走ることとハッキング(相手の脛を蹴ること)の2つの点で大きな違いがあった。

議論を引き起こしたFAのルールは以下の2つである。

IX. 選手はフェアキャッチあるいはワンバウンドしたボールをキャッチした場合、対戦相手のゴールに向かって走る権利を得るものとする: しかしフェアキャッチの場合、マークを行った場合は走ってはならないものとする。

X. もし選手が対戦相手のゴールに向かって走れば、相手側の選手は彼にチャージ、ホールド、トリッピング、ハッキング、あるいは彼からボールを奪い取る自由があるものとするが、同時にホールドとハッキングをすることはできない。

[73]

5回目の会合において、これら2つのルールを削除する提案が成された。代表者のほとんどがこれを指示したが、ブラックヒースに代表でFAの初代会計係であったF・M・キャンベルが異議を唱えた。キャンベルは「ハッキングこそが真のフットボールである」と述べた。しかしながら、ボールを手に持って走ることとハッキングの禁止の動議が可決され、ブラックヒースはFAを脱退した。12月8日の最後の会合の後、FAは後にアソシエーション・フットボールとして知られるスポーツの最初の包括的な一連の規則である「フットボールの規則 Laws of Football」を発表した。19世紀末から使われている「サッカー soccer」という用語は「Association」の省略形に由来する[74]

最初のFAのルールはもはや現在のサッカーでは見られない要素をまだ含んでいたが、それらはオーストラリアン・フットボールやラグビー・フットボールといったその他のゲームにおいて今でも見ることができる。例えば、選手はフェアキャッチを行い「マーク」を主張することができ、フリーキックの権利を得ることができた。また、相手のゴールラインの後ろのボールにタッチした場合、タッチした側がゴールライン手前15ヤード(13メートル)からのゴールに向かってのフリーキックの権利を得た。

ラグビーフットボール

ファイル:Football London Ilustrated News.gif
ラグビーのスクラム(1871年)

ブリテンでは、1870年までに、ラグビー校のゲームの変種をプレーする約75のクラブがあった。アイルランド、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドにも「ラグビー」クラブがあった。しかしながら、1871年にロンドンの21のクラブが集まりラグビー・フットボール・ユニオン (RFU) を結成するまでは、一般的に受け入れられたラグビーのルールはなかった。これらのルールではボールをパスすることが許されている。また、ラインを越えてボールを地面に触れさせるとゴールへの試みが許されるトライも含まれていたが、マークからのドロップゴールやペナルティーコンバージョンがまだ戦いの主な形であった。

北米のフットボール競技

ブリテンでの事例と同様に、19世紀初頭までに、北米の学校および大学では生徒によるチーム間で独自のゲームがプレーされていた。ニューハンプシャー州にあるダートマス大学では、早くも1820年代にはサッカーの変種であるオールド・ディビジョン・フットボールと呼ばれるゲームがプレーされていた。

オンタリオ州ハミルトンの「タイガース」(1906年頃)。タイガースは1869年にハミルトン・フット・ボール・クラブとして創立され、1950年にハミルトン・フライング・ワイルドキャッツと合併してハミルトン・タイガーキャッツとなった。このチームは現在もカナディアン・フットボール・リーグに参加している[75]

カナダにおけるラグビーの初の試合は1865年にモントリオールで開催されたと一般的に言われている。この試合ではイギリス陸軍将校が地元の住民と対戦した。ラグビーは次第に支持者を増やし、1868年にカナダで記録が残る初のフットボールクラブであるモントリオール・フットボール・クラブが結成された。

1869年、FAの体系を基にしたルールの下、アメリカ合衆国での初の試合がプリンストンラトガースとの間で行われた。これは大学間での試合という意味において、アメリカ合衆国初のカレッジフットボールの試合でもあるとしばしば見なされている(しかし、アメリカンフットボールの最終形はサッカーではなくラグビーから来ている)。

現代アメリカンフットボールは1874年のモントリオールマギル大学ハーバード大学との試合から生まれた。当時、ハーバードの学生はアメリカの大学で好まれていたFAの体系に基づく「キッキング」ゲームではなくボストン・ゲーム(ランニングが許された体系)をプレーしていたと報告されている。そのため、ハーバードはマギルでプレーされていたラグビーの基づくゲームに適応することが容易であり、2つのチームはそれぞれのルールを交互に行っていた。しかしながら、数年の内に、ハーバードはマギルのラグビールールを採用し、その他の米国の大学にも同じく採用するよう説得した。1876年、マサソイト会議において、これらの大学がラグビー・フットボール・ユニオンのルールの大半を採用することが合意された。プリンストンやラトガースなどはサッカーを基にしたルールを数年間採用し続けていたが、その後にハーバードらのラグビーを基にしたルールに転向した。一般的に米国の大学は20世紀初頭までサッカーに戻ることはなった。

ラトガース大学フットボールチーム(1882年)

1880年、エール大学のコーチウォルター・キャンプは、アメリカのゲーム形式への多くの主要な変化を考案した。アメリカンフットボールをラグビーフットボールと異なるスポーツに確立させたキャンプが考案した2つの最も重要なルールの革新は、「スクリメージ」と「ダウン・アンド・ディスタンス」ルールである。

スクリメージは、グラウンドからボールを他の選手の手に渡すための開始動作の慣習を意味する。キャンプの最初のルールでは、この渡す動作は足のみで許されていたが、程なくして手でボールをパスすることも許されるようルールが変更された。ルールでは、2つのチームを互いに隔てる固有のスクリメージラインを定めた。ある選手がタックルされた時、その選手はダウンしたと判定されプレーは止まり、両チームはスクリメージラインの両側で再整列する。次に、ボールがグラウンドからスナップされ、プレーが再開する。チームは、ある距離(ヤードで測定される)を獲得する(進む)ために限られた回数のダウンを与えられる。アメリカンフットボールでは、ボールの保持権が移った後、10ヤード進むために4回のダウン(攻撃権)が与えられる。カナディアンフットボールでは、10ヤード進むために3回のダウンが許される。これらのルールは北米のルール体系とラグビーとの間に根本的な区別を作り出した。ラグビーは今でも根本的に連続動作のゲームであるが、北米のルール体系は「スクリメージ」からのデリバリーによって開始し「ダウン」によって終わる個別の「プレー」によって整理される。

批判と部分調整

初期のアメリカンフットボールは、過剰に暴力的な試合であり、毎年数件死亡事故や人生を左右する大怪我などに悩まされていた。暴力が非常に極端となったため、セオドア・ルーズベルト大統領は1905年に、暴力を最小化するようルールを変更しない限りアメリカンフットボールを禁止すると脅かした。この年にいくつかのルール変更が実施されたが、最も持続したのはフォワードパスの許可の導入であり、これは1880年代のキャンプのルール変更にように、このスポーツの性質を根本的に変化させた。ボールを前方の投げることが反則でなくなると、ボールを前進させる全く新たな手段が生まれた。その結果、選手はそれぞれの役割により特化するようになり、異なるポジションの選手は異なる技術が必要とされるようになった。したがって、ある選手は主にボールを持って走ること(ランニング)に関与する(ランニングバック)が、その他にスローイング(クォーターバック)、キャッチング(ワイドレシーバー)、ブロッキング(オフェンシブライン)に特化した選手もいる。1940年代および1950年代に選手交代が自由になったことで、攻撃と守備の「小隊」をそれぞれ配置できるようになり、さらなるポジションの特殊化が進んだ。

長年にわたって、カナディアンフットボールはアメリカンフットボールの進展の一部を吸収したが、多くの独自の特徴を保ってもいる。そのうちの一つは、カナディアンフットボールが長年、自身をラグビーと公式に区別していなかったことである。例えば、1884年に設立されたカナダ・ラグビーフットボール・ユニオンは、ラグビーユニオンの団体ではなくカナディアン・フットボール・リーグの前身だった(今日ラグビーカナダとして知られるカナダ・ラグビー・ユニオンは1965年まで結成されなかった)。アメリカンフットボールも1880年代にはしばしば「ラグビー」と言い表された。

ゲーリックフットボール

クローク・パークにおける全アイルランドフットボール決勝(2004年)。

19世紀半ば、様々な伝統的フットボール(総称してケイド caidと呼ばれる)がアイルランド、特にケリー州で人気を保っていた。司祭のW. Ferrisはこの時期の「ケイド」の主要な2つの形式につして描写している: 「フィールド・ゲーム」における目的は2本の木の大枝によって作られたアーチのようなゴールにボールを入れることであった; 大規模な「クロスカントリーゲーム」は日曜日の日中の時間の大半を使って行われ、ボールを教区の境界を越えることで勝敗がついた。敵の選手への「レスリング」や「ホールディング」、ボールを持って走ることは全て許されていた。

1870年代までには、ラグビーおよびサッカーがアイルランドでも人気を得始めていた。ダブリン大学トリニティ・カレッジはラグビーの初期の拠点であった。イングランドのFAのルールは広く普及していた。伝統的なケイドの形式はトリッピングが許される「しっちゃかめっちゃかな」ゲームに取って代わられ始めていた。

1884年にゲーリック体育協会 (GAA) が設立されるまでは、アイルランドの様々なフットボールを統一し体系化しようという真剣な試みはなされなかった。GAAはハーリングといった伝統的なアイルランドのスポーツを振興し、ラグビーやサッカーのような輸入されたスポーツを拒絶しようとした。最初のゲーリックフットボールのルールはモーリス・デイヴィンによって起草され、『United Ireland』誌上で1887年2月7日に発表された。デイヴィンのルールは、ハーリングといったスポーツの影響やアイルランド固有のフットボールの体系を形式化しようという切望が見られた。この差別化の主な例は、オフサイドルールの欠如であった(長年ハーリングといったアイリッシュゲームやオーストラリアン・ルールズ・フットボールにのみ見られた要素である)。

ラグビーフットボールの分裂

ラグビーリーグの結成につながったラグビーフットボールの分裂を風刺した1890年代のイングランドの風刺画。風刺的に描写されているのは選手への支払の主な反対者であるフランク・マーシャル牧師とマーシャルの長年の対抗者であるジェームズ・ミラーである。

国際ラグビー評議会 (IRFB) は1886年に設立されたが、亀裂が生じ始めていた。プロフェッショナリズムが様々なフットボール競技に忍び寄り始めていた。

イングランドでは、1890年代までに、長年続くラグビー・フットボール・ユニオンの「プロ」選手の禁止がラグビーフットボール内での地域間の対立の原因となった。これはイングランド北部の多くの選手が労働者階級であり、トレーニングや遠征、試合、怪我からの回復のための休みを取ることができなかったためである。これは、この10年前にイングランド北部においてサッカーで起こったこととほとんど変わらなかったが、サッカーの場合、統括団体はイングランド北部の労働者階級の支持を遠ざけようとしたRFUとは大きく異なる対処をした。1895年、ラグビーをプレーすることによる賃金の損失を補うための休業補償が支払われている選手に関する論争の後に、北部のクラブの代表者らはハダースフィールドで集い、ノーザン・ラグビー・フットボール・ユニオン (NRFU) を結成した。この新たな団体は当初は選手への様々な休業補償のみを認めていた。しかし、2年のうちに、NRFUの選手への支払が認められた(しかしスポーツ以外の職に就いている必要はまだあった)。

プロリーグへの要求は、ラグビーがよりよい「観客」のためのスポーツとなることを決定付けた。数年以内に、NRFUのルールはRFUのルールから分化していった。特に「ラインアウト」の廃止は重大な変更であった。その後、「ラック」がタックラーとタックルされた選手との間で争われる2人の選手によるラックが許される「プレー=ザ=ボール・ラック」に置き換えられた。「モール」はボール保持者がつかまると停止され、プレー=ザ=ボール=ラックに置き換えられた。NRFUのランカシャーとヨークシャーの競技会が1901年に合併し、「ノーザン・ラグビー・リーグ」が結成され、イングランドにおいてラグビーリーグの名称が初めて公式に使用された。

そのうちに、クラブによってプレーされるRFU版のラグビーはラグビーユニオンとして知られるようになった。

サッカーのグローバル化

国際試合の人気が高まった20世紀の始めには、サッカーを監督する単一の団体に対する必要性が明らかとなっていた。イングランドのフットボール・アソシエーションは国際団体設置のための多くの話し合いの議長を務めたが、進展は見られなかった。その後、イングランド以外のヨーロッパの七カ国(フランス、ベルギー、デンマーク、オランダ、スペイン、スウェーデン、スイス)によって1904年5月21日にパリにおいて「Fédération Internationale de Football Association」 (FIFA) が設立された。初代会長はロベール・ゲランであった。現在もフランス語の名称および略称がフランス語圏以外の地域でも使用されている。

2つのラグビーの更なる分岐

ラグビーリーグのルールは、1906年に1チームの選手数が15名から13名に減ったことでラグビーユニオンから大きく分かれた。1907年、ニュージーランドのプロラグビーチームがオーストラリアおよびブリテンに遠征を行い熱狂的な反響受け、翌年にはオーストラリアにおいてプロラグビーリーグが開始された。しかし、プロの試合のルールは国ごとに異なっており、国際試合を行う度に厳密なルールの摺り合わせのための交渉が必要であった。この状況は、1948年にボルドーにおける会合でラグビーリーグ国際連盟 (RLIF) が結成されるまで続いた。

20世紀後半の間、ルールはさらに変化した。1966年、ラグビーリーグはアメリカンフットボールから「ダウン」の概念を借用した。これにより、4回以上タックルを受けるまでボールのポゼッションを維持できることとなった。タックルの最大数は後に6回まで増加し(1971年)、ラグビーリーグにおいてこれは「シックス・タックル・ルール」として知られるようになった。

1990年代初頭にフルタイムのプロ選手が誕生し、結果として試合がスピードアップすると、2チーム間の5メートルオフサイド距離が10メートルとなり、交代ルールは様々な入替ルールに取って代わられた。

ラグビーユニオンの規則もまた20世紀の間に大きく変化した。特に、「マーク」からのゴールが廃止され、「22メートル」ラインの外側からのタッチへの直接のキックが不利になり、不確定な「ラック」あるいは「モール」の後のボールの保持圏を決定するための新たな規則が導入され、ラインアウトにおける選手のリフティングが合法化された。

1995年、ラグビーユニオンではプロ選手が解禁された。これによって、2種類のラグビー間の元々の対立点は無くなり、双方の団体の役員が再統合の可能性について言及することもあるが、近い将来においてそのような出来事があり得ない程に双方のルールおよび文化は異なっている。

サッカーにおいて相手チームが作る「壁」に向かってフリーキックを蹴る選手。

「フットボール」という語句の使用

「フットボール」またはその派生語は、しばしばサッカーを指す(フランス語football や、ドイツ語で「フットボール」を意味する Fußball は、いずれも「サッカー」(ア式蹴球)のことである)が、国によって事情はかなり異なっている。例えば、アメリカ合衆国では、ほぼアメリカン・フットボールを意味し、カナダでは カナディアン・フットボールも表し、オーストラリアでは、地域によってラグビーまたはオーストラリアン・ルールズ・フットボールを表す。つまり、その国で一番人気のあるフットボール競技が「フットボール」と呼ばれる。

アメリカンフットボールの試合でスクリメージラインに集まる選手。

アソシエーション・フットボールは、その他のフットボール競技が支配的な地域(アメリカ合衆国、カナダ、アイルランド、オーストラリア、ニュージーランド等)では一般形に「サッカー」として知られている。アメリカ合衆国においてアメリカンフットボールは常に「フットボール]]である。カナディアンフットボールがより人気のあるフランス語圏ケベック州では、カナディアン・フットボールが「フットボール」として知られ、アソシエーション・フットボールはle soccerとして知られている[76]。英語が公用語あるいは主要な言語であるFIFAに加盟する45の協会のうち、ほとんどは現在組織の公式名称に「フットボール Football」の語を使用している。カナダおよびアメリカ合衆国は名称に「Soccer」を使用している。

いくつかのFIFA加盟協会は最近「Football」を使用するように標準化している。

  • オーストラリアのサッカーの統括団体は2007年に名称をサッカーからフットボールに変更した[77]
  • ニュージーランドもまた、「国際的な競技がフットボールと呼ばれる」と述べ、名称を変更した[78]
  • サモアは2009年に名称を「Samoa Football (Soccer) Federation」から「Football Federation Samoa」に変更した[79][80]

フットボールの分化

フットボール ケンブリッジ・ルール(1848年) フットボール協会(1863年)
7人制
ビーチ(1992年)
フットサル(1930年)
シェフィールド・ルール(1857年)
室内
パラリンピック
ストリート
ラグビー・ルール(1845年)
ラグビーユニオン(1871年)
ラグビーセブンス(1883年)
ラグビーリーグ(1875年)
ラグビーナインス
ビーチラグビー
タッチラグビー
アメリカンフットボール(1869年) アリーナフットボール(1987年)
カナディアンフットボール(1861年) フラッグフットボール
ゲーリック(1887年)
オーストラリアン・ルールズ(1859年)

現在のフットボール競技とその派生競技

の使用 前方へ投げる 前方へ落とす
サッカー 不可 - -
インドア・サッカー 不可 - -
フットサル 不可 - -
ラグビー 不可 不可
タッチ
フットボール
不可 不可
ゲーリック
フットボール
不可
オージー
フットボール
不可
アメリカン
フットボール
カナディアン
フットボール
スーパー
フットボール

サッカーおよびその派生競技

メキシコの屋外で行われているインドアサッカーの試合。審判が赤チームにフリーキックを与えている。

また、モータースポーツ版サッカーも存在する。

ラグビー校のフットボールおよびその子孫

アイルランドおよびオーストラリアのフットボール

ドックランズ・スタジアムメルボルン)で行われたオーストラリとアイルランドの2005インターナショナル・ルールズ・シリーズにおけるテストマッチ。

これらのルール体系は共通してオフサイドルールがなく、ボールを持って走る間にボールをバウンドあるいはトーキックする必要があり、スローイングではなくパンチングあるいはタッピングによってハンドパスが行われる。

現存する中世の球技

イギリス

イギリス外

現存するイギリスのパブリックスクールのフットボール

試合後のハロウ・フットボールの選手。

イギリスのパブリックスクールでは今でも以下のフットボールが行われている。

近年考案された競技

FAのルールを基にした競技

  • Cubbies
  • Three sided football
  • Triskelion

ラグビーを基にした競技

  • Force ’em backs

混成競技

卓上競技およびその他の遊戯

サッカーを基にしたもの

アメリカンフットボールを基にしたもの

オーストラリアン・ルールズを基にしたもの

ラグビーリーグを基にしたもの

  • Rugby Leagueシリーズ
  • Australian Rugby League

「フットボール」の意味する競技

スポーツ以外の用例

スポーツ以外では、あらゆる種類の核攻撃を発動できる核兵器発射コード等の重要な軍事機密が収納されているブリーフケースのことを俗に「核のフットボール」と呼ぶことがある。これは初期の核攻撃計画のコードネームが「ドロップキック」で有ることに由来する。主に映画等でアメリカ合衆国大統領がフットボールと呼ばれるブリーフケースを常に携帯している描写があるが、現実の米国大統領が常に携行しているかは不明である。ただ、2009年1月に米放送局のABC Newsは、オバマ大統領が、宣誓式の際軍事機密引継ぎ会議内で、核のフットボールを引き継いだという報道をした。

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関連項目