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[[901年]]成立の[[日本三代実録]]に「計仙麻(ケセマ)」という地名の記述があり、これが、歴史上「ケセン」という言葉が載っているもっとも古い文献であるとの説があるがこれは明白に誤りである。正しくは、気仙郡という郡名は『[[続日本紀]]』の[[弘仁]]2年([[811年]])の条が初出である。語源としては以下のように諸説がある。 |
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*[[アイヌ語]]説 |
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:''ケセ kese''が末端、''モイ moi''が入り江で、「南端にある入り江」を意味する''ケセモイ''からきているという説。戦前、気仙地方の教育長を務めた金野菊三郎がとなえた。別説では''ケセモイ''は「静かな海」の意味ともいう。これは[[気仙沼]]の地名の語源説としてもいわれる。また別説では、''ケセ kese''が削る、''マ ma''が場所で「削らせた場所」を意味する''ケセマ''が語源とする。いずれも戦前の古い説である。 |
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:[[茨城県]]の「[[鹿島]]」という地名は、船着場を意味する「かせ」から「かせ間」が語源であり、計仙麻(ケセマ)や気仙沼も「カセ間」の訛りで同語源という説。[[奈良時代]]は国名も郡名も2文字表記と定められていたので、最後の「ま」を略して「気仙郡」と書いたたものであるが、当初は気仙郡と書いても「けせまのこほり」と読んでいた可能性もある。別説では「かせ」が訛ってケセンになったが、計仙麻(ケセマ)や気仙沼は「ケセンの真ん中」という意味だという。 |
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*[[漢語]]説 |
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:海道の入り口という意味の'''滊先'''(<small>読み方:ケセン</small>)に当て字したという説。 |
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気仙郡という郡名は『[[続日本紀]]』の[[弘仁]]2年([[811年]])の条が初出であり、それ以前のいつかの段階で、[[桃生郡]]の北半を分割して、[[陸奥国]]気仙郡が建郡された。これは現在の[[宮城県]]北東部および岩手県南東部にまたがるものであり、現在の[[気仙沼市]]および[[本吉郡]]を含むものであった。 |
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気仙郡司として、[[左大臣]][[阿倍倉梯麻呂]]の後裔とされる'''金氏'''(キンウジ・コンウジ)の名が見える。金氏は、[[貞観 (日本)|貞観]]元年([[859年]])に初代気仙郡司として下向した安倍兵庫丞為雄(ためかつ、為勝とも)を始祖としており、郡司を世襲したようである。[[安倍貞任]]の舅と[[十訓抄]]に見える[[金為行]]と、気仙郡司と『[[陸奥話記]]』に見える[[金為時]]を兄弟とする系図がある。 |
気仙郡司として、[[左大臣]][[阿倍倉梯麻呂]]の後裔とされる'''金氏'''(キンウジ・コンウジ)の名が見える。金氏は、[[貞観 (日本)|貞観]]元年([[859年]])に初代気仙郡司として下向した安倍兵庫丞為雄(ためかつ、為勝とも)を始祖としており、郡司を世襲したようである。[[安倍貞任]]の舅と[[十訓抄]]に見える[[金為行]]と、気仙郡司と『[[陸奥話記]]』に見える[[金為時]]を兄弟とする系図がある。 |
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その後、気仙郡の南半と牡鹿郡の一部を分割して[[本吉郡|元良郡]]が設置された。 |
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[[文治]]5年([[1189年]])の[[奥州藤原氏]]の滅亡後、気仙郡は[[胆沢郡|胆沢]]・[[磐井郡|磐井]]・[[牡鹿郡|牡鹿]]・[[江刺郡|江刺]]などの諸郡(諸説あり)とともに[[奥州総奉行]]に任じられた[[葛西清重]]の所領になったといわれるが、[[鎌倉時代]]岩手県[[宮古市]]に本拠を置いた[[閉伊氏]]の資料には、[[源為朝]]の遺児とされる[[閉伊為頼]](為家・頼基・佐々木行光とも)が[[源頼朝]]より[[閉伊郡|閉伊]]、気仙を給わり[[閉伊氏]]を称し、代々これを領したともあり、'''[[葛西氏]]'''が気仙郡をその治下に置いたのは[[南北朝時代_(日本)|南北朝]]の争乱期になってからともいわれる。 |
[[文治]]5年([[1189年]])の[[奥州藤原氏]]の滅亡後、気仙郡は[[胆沢郡|胆沢]]・[[磐井郡|磐井]]・[[牡鹿郡|牡鹿]]・[[江刺郡|江刺]]などの諸郡(諸説あり)とともに[[奥州総奉行]]に任じられた[[葛西清重]]の所領になったといわれるが、[[鎌倉時代]]岩手県[[宮古市]]に本拠を置いた[[閉伊氏]]の資料には、[[源為朝]]の遺児とされる[[閉伊為頼]](為家・頼基・佐々木行光とも)が[[源頼朝]]より[[閉伊郡|閉伊]]、気仙を給わり[[閉伊氏]]を称し、代々これを領したともあり、'''[[葛西氏]]'''が気仙郡をその治下に置いたのは[[南北朝時代_(日本)|南北朝]]の争乱期になってからともいわれる。 |
2013年1月21日 (月) 06:32時点における版
気仙郡(けせんぐん)は、岩手県南東部にある郡。令制国下では陸奥国(のち陸前国)に属す。
人口4,470人、面積334.84km²、人口密度13.3人/km²。(2024年11月1日、推計人口)
以下の1町を含む。
- 住田町(すみたちょう)
郡域
明治11年(1878年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記1町のほか、現在の大船渡市、陸前高田市および釜石市の一部(唐丹町)を含む。
歴史
地名由来
901年成立の日本三代実録に「計仙麻(ケセマ)」という地名の記述があり、これが、歴史上「ケセン」という言葉が載っているもっとも古い文献であるとの説があるがこれは明白に誤りである。正しくは、気仙郡という郡名は『続日本紀』の弘仁2年(811年)の条が初出である。語源としては以下のように諸説がある。
- アイヌ語説
- ケセ keseが末端、モイ moiが入り江で、「南端にある入り江」を意味するケセモイからきているという説。戦前、気仙地方の教育長を務めた金野菊三郎がとなえた。別説ではケセモイは「静かな海」の意味ともいう。これは気仙沼の地名の語源説としてもいわれる。また別説では、ケセ keseが削る、マ maが場所で「削らせた場所」を意味するケセマが語源とする。いずれも戦前の古い説である。
- 日本語説
- 茨城県の「鹿島」という地名は、船着場を意味する「かせ」から「かせ間」が語源であり、計仙麻(ケセマ)や気仙沼も「カセ間」の訛りで同語源という説。奈良時代は国名も郡名も2文字表記と定められていたので、最後の「ま」を略して「気仙郡」と書いたたものであるが、当初は気仙郡と書いても「けせまのこほり」と読んでいた可能性もある。別説では「かせ」が訛ってケセンになったが、計仙麻(ケセマ)や気仙沼は「ケセンの真ん中」という意味だという。
- 漢語説
- 海道の入り口という意味の滊先(読み方:ケセン)に当て字したという説。
古代 - 中世
気仙郡という郡名は『続日本紀』の弘仁2年(811年)の条が初出であり、それ以前のいつかの段階で、桃生郡の北半を分割して、陸奥国気仙郡が建郡された。これは現在の宮城県北東部および岩手県南東部にまたがるものであり、現在の気仙沼市および本吉郡を含むものであった。
気仙郡司として、左大臣阿倍倉梯麻呂の後裔とされる金氏(キンウジ・コンウジ)の名が見える。金氏は、貞観元年(859年)に初代気仙郡司として下向した安倍兵庫丞為雄(ためかつ、為勝とも)を始祖としており、郡司を世襲したようである。安倍貞任の舅と十訓抄に見える金為行と、気仙郡司と『陸奥話記』に見える金為時を兄弟とする系図がある。
その後、気仙郡の南半と牡鹿郡の一部を分割して元良郡が設置された。
文治5年(1189年)の奥州藤原氏の滅亡後、気仙郡は胆沢・磐井・牡鹿・江刺などの諸郡(諸説あり)とともに奥州総奉行に任じられた葛西清重の所領になったといわれるが、鎌倉時代岩手県宮古市に本拠を置いた閉伊氏の資料には、源為朝の遺児とされる閉伊為頼(為家・頼基・佐々木行光とも)が源頼朝より閉伊、気仙を給わり閉伊氏を称し、代々これを領したともあり、葛西氏が気仙郡をその治下に置いたのは南北朝の争乱期になってからともいわれる。
戦国・江戸
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の奥州仕置により、気仙郡を統治していた葛西氏が滅亡すると、気仙郡は木村吉清・清久父子の治下に置かれる。天正19年(1591年)に葛西大崎一揆で失脚した木村吉清に代わり伊達政宗の所領となる。同年8月、一揆に参加した気仙郡の土豪の多くが、桃生郡須江山の糠塚舘において政宗の命令を受けた泉田重光・屋代景頼に殺害された。仙台藩ではこれを豊臣秀次の命令によるものであったと主張している。
江戸時代には引き続き伊達氏を藩主とする仙台藩の所領となった。関ヶ原の戦いの後、藩境の情勢が安定するまでの間には中島宗求・大條宗綱ら重臣が配置されたが、のちに直轄地となった。気仙郡の統治の中心となったのは代官所が置かれた今泉村であった。
幕末時点では全域が仙台藩領であった。「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点に存在した村は以下の通り。(24村)
- 今泉村、長部村、高田村、浜田村、勝木田村、小友村、広田村、末崎村、大船渡村、赤崎村、綾里村、越喜来村、吉浜村、唐丹村、立根村、猪川村、田茂山村、日頃市村、上有住村、下有住村、世田米村、横田村、竹駒村、矢作村
沿革
町村制施行以前の沿革
- 明治元年9月24日(1868年11月8日) - 仙台藩主伊達慶邦が薩長軍に降伏。全領土62万石を没収される。
- 明治元年12月7日(1869年1月19日)
- 明治2年8月18日(1869年9月23日) - 花巻県の区域が江刺県の管轄となる。
- 明治4年11月2日(1871年12月13日) - 第1次府県統合により一関県の管轄となる。
- 明治4年12月13日(1872年1月22日) - 一関県が水沢県に改称。
- 明治8年(1875年)10月17日 - 水沢県により下記の村の統合が行われる。(20村)
- 今泉村・長部村が合併して気仙村となる。
- 高田村・竹駒村が合併して氷上村となる。
- 浜田村・勝木田村が合併して米崎村となる。
- 猪川村・田茂山村が合併して盛村となる。
- 明治8年(1875年)11月22日 - 水沢県が磐井県に改称。
- 明治9年(1876年)4月18日 - 第2次府県統合により宮城県の管轄となる。北第三大区となる。
- 明治9年(1876年)5月25日 - 岩手県に移管。乙第三大区となる。
- 明治11年(1878年)11月26日 - 郡区町村編制法の岩手県での施行により行政区画としての気仙郡が発足。郡役所を盛村に設置。
町村制施行後の沿革
- 明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により以下の町村が発足。氷上村が高田町と竹駒村に、盛村が盛町と猪川村に分割された以外は、従前の村が単独で自治体を形成。(2町20村)
- 明治23年(1890年)5月17日 - 郡制を施行。
- 大正12年(1923年)4月1日 - 郡会が廃止。
- 大正15年(1926年)
- 7月1日 - 郡役所が廃止。
- 11月1日 - 気仙村が町制施行し、気仙町となる。(3町19村)
- 昭和7年(1932年)4月1日 - 大船渡村が町制施行し、大船渡町となる。(4町18村)
- 昭和15年(1940年)4月29日 - 世田米村が町制施行し、世田米町となる。(5町17村)
- 昭和27年(1952年)
- 昭和30年(1955年)
- 昭和31年(1956年)9月30日 - 越喜来村・吉浜村・綾里村が合併し、三陸村が発足。(1町1村)
- 昭和42年(1967年)4月1日 - 三陸村が町制施行し、三陸町となる。(2町)
- 平成13年(2001年)11月15日 - 三陸町を大船渡市に編入。(1町)
変遷表
藩政期 | 明治8年 | 明治22年4月1日 | 明治22年 - 大正15年 | 昭和元年 - 昭和29年 | 昭和30年 - 昭和64年 | 平成元年 - 現在 | 現在 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
大船渡村 | 大船渡村 | 大船渡村 | 大船渡村 | 昭和7年4月1日 町制施行 大船渡町 |
昭和27年4月1日 大船渡市 |
大船渡市 | 大船渡市 | 大船渡市 | |
田茂山村 | 盛村 | 盛町 | 盛町 | 盛町 | |||||
猪川村 | 猪川村 | 猪川村 | 猪川村 | ||||||
赤崎村 | 赤崎村 | 赤崎村 | 赤崎村 | 赤崎村 | |||||
立根村 | 立根村 | 立根村 | 立根村 | 立根村 | |||||
日頃市村 | 日頃市村 | 日頃市村 | 日頃市村 | 日頃市村 | |||||
末崎村 | 末崎村 | 末崎村 | 末崎村 | 末崎村 | |||||
越喜来村 | 越喜来村 | 越喜来村 | 越喜来村 | 越喜来村 | 昭和31年9月30日 三陸村 |
昭和42年4月1日 町制施行 三陸町 |
平成13年11月15日 大船渡市に編入 | ||
吉浜村 | 吉浜村 | 吉浜村 | 吉浜村 | 吉浜村 | |||||
綾里村 | 綾里村 | 綾里村 | 綾里村 | 綾里村 | |||||
高田村 | 氷上村 | 高田町 | 高田町 | 高田町 | 昭和30年1月1日 陸前高田市 |
陸前高田市 | 陸前高田市 | ||
竹駒村 | 竹駒村 | 竹駒村 | 竹駒村 | ||||||
今泉村 | 気仙村 | 気仙村 | 大正15年11月1日 町制施行 気仙町 |
気仙町 | |||||
長部村 | |||||||||
広田村 | 広田村 | 広田村 | 広田村 | 昭和27年6月1日 町制施行 広田町 | |||||
小友村 | 小友村 | 小友村 | 小友村 | 小友村 | |||||
矢作村 | 矢作村 | 矢作村 | 矢作村 | 矢作村 | |||||
横田村 | 横田村 | 横田村 | 横田村 | 横田村 | |||||
浜田村 | 米崎村 | 米崎村 | 米崎村 | 米崎村 | |||||
勝木田村 | |||||||||
世田米村 | 世田米村 | 世田米村 | 昭和15年4月29日 町制施行 世田米町 |
世田米町 | 昭和30年4月1日 住田町 |
住田町 | 住田町 | ||
上有住村 | 上有住村 | 上有住村 | 上有住村 | 上有住村 | |||||
下有住村 | 下有住村 | 下有住村 | 下有住村 | 下有住村 | |||||
唐丹村 | 唐丹村 | 唐丹村 | 唐丹村 | 唐丹村 | 昭和30年4月1日 釜石市の一部 |
釜石市 | 釜石市 |
参考文献
- 『角川日本地名大辞典』3 岩手県(角川書店、1985年)