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'''アイヌ料理'''(アイヌりょうり)では、[[アイヌ民族]]の伝統的な食文化を解説する。 |
'''アイヌ料理'''(アイヌりょうり)では、[[アイヌ民族]]の伝統的な食文化を解説する。 |
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==概説== |
==概説== |
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アイヌ民族の食文化は[[漁労]]や[[狩猟]]で得られた[[サケ|鮭]]や[[シカ|鹿]]、山野の採集で得られた[[オオウバユリ]]の[[鱗茎]]や[[ドングリ]]や[[山菜]]、畑で栽培された[[穀物|雑穀]]や[[ジャガイモ]]を素材とする。特徴としては、[[油脂]]をふんだんに使った味付けが挙げられる<ref name=" |
アイヌ民族の食文化は[[漁労]]や[[狩猟]]で得られた[[サケ|鮭]]や[[シカ|鹿]]、山野の採集で得られた[[オオウバユリ]]の[[鱗茎]]や[[ドングリ]]や[[山菜]]、畑で栽培された[[穀物|雑穀]]や[[ジャガイモ]]を素材とする。特徴としては、[[油脂]]をふんだんに使った味付けが挙げられる<ref name="a406-420">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.406-420</ref><ref name="h104-106">[[#極北|世界の食文化20 極北]] P.104-106</ref>。 |
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調味料は[[塩]]のほか、[[タラ]]、[[イワシ]]、[[サメ]]、[[アザラシ]]、[[シカ]]、[[ |
調味料は[[塩]]のほか、[[タラ]]、[[イワシ]]、[[ニシン]]、[[サメ]]、[[アザラシ]]、[[エゾシカ]]、[[ヒグマ]]などの脂肪を用いた<ref name="h98">[[#極北|世界の食文化20 極北]] P.98</ref>。近世以降は[[味噌]]も使用された。また、[[コンブ]]や動物の骨、魚の焼き干しを使って[[出汁]]をとる文化をもっていた。香辛料としては、[[ギョウジャニンニク]]や[[キハダ (植物)|キハダ]]の実、[[タネツケバナ]]を利用した<ref name="h104-106">[[#極北|世界の食文化20 極北]] P.104-106</ref>。 |
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== 食材の調達 == |
== 食材の調達 == |
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=== 狩猟 === |
=== 狩猟 === |
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[[ファイル:C.n.yesoensis--modified.jpg|ユク(エゾシカ)|250px|thumb]] |
[[ファイル:C.n.yesoensis--modified.jpg|ユク(エゾシカ)|250px|thumb]] |
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[[狩猟]]は盛夏~晩夏を除いて1年の大半の時期に行われ、ユク(yuk [[エゾシカ]])、キムンカムイ(kimun kamuy [[ヒグマ]])、イソポカムイ(isopo kamuy [[ウサギ]])、モユク(moyuk [[エゾタヌキ]])、チロンヌプ(cironnup [[キタキツネ]])、ホイヌ(hoinu [[テン]])、ルオプ(ruop [[シマリス]])などの[[獣]]、フミルイ(humiruy [[エゾライチョウ]])、クスイェプ(kusuyep [[キジバト]])、コペチャ(kopeca [[マガモ]])、パラケウ(parkew [[カケス]])、アマメチリ(amameciri [[スズメ]])などの[[鳥類]]を狩った。 |
[[狩猟]]は盛夏~晩夏を除いて1年の大半の時期に行われ、ユク(yuk [[エゾシカ]])、キムンカムイ(kimun kamuy [[ヒグマ]])、イソポカムイ(isopo kamuy [[ウサギ]])、モユク(moyuk [[エゾタヌキ]])、チロンヌプ(cironnup [[キタキツネ]])、ホイヌ(hoinu [[テン]])、ルオプ(ruop [[シマリス]])などの[[獣]]、フミルイ(humiruy [[エゾライチョウ]])、クスイェプ(kusuyep [[キジバト]])、コペチャ(kopeca [[マガモ]])、パラケウ(parkew [[カケス]])、アマメチリ(amameciri [[スズメ]])などの[[鳥類]]を狩った<ref name="B136-139">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.136-139</ref>。 |
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このうちではシカが最も主要な獲物であった。往時の北海道には想像を絶するほどのシカが生息しており、「鍋を火にかけてから狩りに行く」という言葉もあったほど簡単に得ることが出来た。クマやタヌキなどの「狩猟の対象となる動物」をアイヌは「[[カムイ]](神)が人間のために毛皮と肉を土産に持ち、この世に現れた姿」と解釈していたが、シカに関しては「天空にユク(鹿)を司る神『ユクアッテカムイ』(yuk atte kamuy)がいて、大きな袋から人間のために投げ下ろしている」と理解し、それ自体に神格は存在しないものとしていた。あまりの数の多さゆえ、ありがたみが薄れたものらしい<ref name=" |
このうちではシカが最も主要な獲物であった<ref name="h93">[[#極北|世界の食文化20 極北]] P.93</ref>。往時の北海道には想像を絶するほどのシカが生息しており<ref group=note>松浦武四郎は自著『東蝦夷日誌第四編』に、[[安政]]5年([[1858年]])夏に[[日高国]]での体験として、「[[静内]]、[[新冠川|新冠]]の分水嶺となる山中の草原を見下ろせば、三丁四方が赤く染まっていた。同行の土人(ママ)に尋ねたところ、彼はすぐさま弓矢を携えて駆け出していく。途端に赤い集まりは八方に四散した。赤い枯草の連なりと見たのは、鹿の群れだったのだ。その数は万に及ぶだろう」と書き残している。</ref>、「鍋を火にかけてから狩りに行く」という言葉もあったほど簡単に得ることが出来た<ref name="b89">[[#歴史と民俗|アイヌ 歴史と民俗]] P.89</ref>。クマやタヌキなどの「狩猟の対象となる動物」をアイヌは「[[カムイ]](神)が人間のために毛皮と肉を土産に持ち、この世に現れた姿」と解釈していたが、シカに関しては「天空にユク(鹿)を司る神『ユクアッテカムイ』(yuk atte kamuy)がいて、大きな袋から人間のために投げ下ろしている」と理解し、それ自体に神格は存在しないものとしていた。あまりの数の多さゆえ、ありがたみが薄れたものらしい<ref name="b42-43">[[#歴史と民俗|アイヌ 歴史と民俗]] P.42-43</ref><ref group=note>平成19年、[[厚真町]]のニタップナイ遺跡の発掘調査で、江戸時代初期の地層からエゾシカの頭骨が25頭分、雄と雌に分別した上で4-5段に積み上げられた状態で出土した。これは「送り儀礼」に関わる頭骨の安置場所と推定されることから、エゾシカにおける「神格」の有無は時代により失われたとの見方もある。(『アイヌ史を問い直す』p75-77より。)</ref>。北海道東部・[[本別町]]、[[足寄町]]、[[白糠町]]の境にまたがる標高745mのウコタキヌプリは土地のアイヌからユクランケヌプリ(鹿が下る山)と呼ばれ、山上で雷鳴が轟く際は天から神が鹿の入った袋を投げおろしているとの伝承があった。周辺の住民は、この山に[[イナウ]]を捧げて猟運を祈った<ref name="d205-206">[[#伝説集|アイヌ伝説集]] P.205-206</ref>。 |
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クマは春先に[[冬眠]]から覚めたところを狙い、こもる穴の入り口を塞いでから槍で突く。夏場には、毒を塗った仕掛け弓「アマッポ」を獣道に仕掛けて捕らえる。仕掛け弓から発射される矢にはスルク(surku [[トリカブト]]の根)の毒が塗られているが、矢が刺さった箇所の肉を握りこぶしの量ほど抉り取って捨てれば、ほかは食べることができた |
クマは春先に[[冬眠]]から覚めたところを狙い、こもる穴の入り口を塞いでから槍で突く。夏場には、毒を塗った仕掛け弓「アマッポ」を獣道に仕掛けて捕らえる。仕掛け弓から発射される矢にはスルク(surku [[トリカブト]]の根)の毒が塗られているが、矢が刺さった箇所の肉を握りこぶしの量ほど抉り取って捨てれば、ほかは食べることができた |
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<ref name="a327-337">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.327-337</ref>。アイヌがキムンカムイ(山の神)として尊崇する熊の肉は、他の獣肉とは別格とされた。アイヌ語で肉は「カム」だが、熊肉に限っては「カムイハル」(神の食べ物)と呼ぶ。調理の際は「女に調理させない」「他の獣肉と一緒に煮ない」「煮る際、鍋に蓋をしない」などの戒律が守られる。 |
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シカは毒矢の猟の外、崖から追い落として捕らえることも行われた<ref name=" |
シカは毒矢の猟の外、崖から追い落として捕らえることも行われた<ref name="a337">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.337</ref>。 |
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=== 漁撈 === |
=== 漁撈 === |
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[[ファイル:Kulusuk drying fish.jpg|クマ(kuma 乾し棚)で干物を作る|250px|thumb]] |
[[ファイル:Kulusuk drying fish.jpg|クマ(kuma 乾し棚)で干物を作る|250px|thumb]] |
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海に[[丸木舟]]を漕ぎ出し、離頭[[銛]]でタンヌプ(tannup [[イルカ]])、エタシペ(etaspe [[トド]])、トゥカラ(tukar [[アザラシ]])、ウネウ(unew [[オットセイ]])などの[[海獣]]やシリカプ(sirkap [[メカジキ]])、キナポ(kinapo [[マンボウ]])、[[サメ]](same)などの大型魚類を捕らえ、網や釣竿でヘロキ(heroki [[ニシン]])、サマンペ(samampe [[カレイ]])、[[イワシ]](iwasi)、エレクシ(erekus [[タラ]])、チマカニ(cimakani [[カジカ]])、[[コマイ]](komay)、トキカラ(tokikar [[チカ]])、ウッタプ(uttap [[カスベ]])などの小型魚類をとった。 |
海に[[丸木舟]]を漕ぎ出し、離頭[[銛]]でタンヌプ(tannup [[イルカ]])、エタシペ(etaspe [[トド]])、トゥカラ(tukar [[アザラシ]])、ウネウ(unew [[オットセイ]])などの[[海獣]]やシリカプ(sirkap [[メカジキ]])、キナポ(kinapo [[マンボウ]])、[[サメ]](same)などの大型魚類を捕らえ、網や釣竿でヘロキ(heroki [[ニシン]])、サマンペ(samampe [[カレイ]])、[[イワシ]](iwasi)、エレクシ(erekus [[タラ]])、チマカニ(cimakani [[カジカ]])、[[コマイ]](komay)、トキカラ(tokikar [[チカ]])、ウッタプ(uttap [[カスベ]])などの小型魚類をとった<ref name="B136-139">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.136-139</ref>。 |
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巨大なフンペ(humpe [[鯨]])はとても丸木舟や銛の手には負えない。したがって「[[寄り鯨]]」は大変な自然の恵みだった。北海道各地に伝説がある。 |
巨大なフンペ(humpe [[鯨]])はとても丸木舟や銛の手には負えない。したがって「[[寄り鯨]]」は大変な自然の恵みだった。[[白老]]から[[日高支庁]]にかけての地域には、盲目の老婆が寄り鯨を見つけて村人と喜びつつ分け合う様を表現した寸劇「鯨踊り」が伝わる<ref name="b66-67">[[#歴史と民俗|アイヌ 歴史と民俗]] P.66-67</ref>ほか、北海道各地に伝説がある。 |
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*沖に横たわる大きな岩を「寄り鯨」だと思い込み、焚火をしながら浜に打ち上げられるのを待っていた。しかし一向に打ち上げられるはずも無いまま薪も乏しくなり、大切なイタンキ(itanki 椀)までも火にくべてしまい、やがてそのまま全員が餓死してしまった。([[室蘭市]][[イタンキ浜]]の地名伝承<ref name=" |
*沖に横たわる大きな岩を「寄り鯨」だと思い込み、焚火をしながら浜に打ち上げられるのを待っていた。しかし一向に打ち上げられるはずも無いまま薪も乏しくなり、大切なイタンキ(itanki 椀)までも火にくべてしまい、やがてそのまま全員が餓死してしまった。([[室蘭市]][[イタンキ浜]]の地名伝承<ref name="d47">[[#伝説集|アイヌ伝説集]] P.47</ref>) |
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*砦に立てこもった敵をおびき出そうとして、一計を思いついた。海辺に砂を盛り上げ、大きな鯨の形を作っておく。それのあちこちに海藻や魚を差し込んでおけば、鳥が寄り付いて騒ぎ、まるで「寄り鯨」が打ち上げられたよう。案の定、敵は騙されて砦から飛び出す。そこを迷わず討ち取った。([[浦幌町]]厚内の砂鯨伝説<ref name=" |
*砦に立てこもった敵をおびき出そうとして、一計を思いついた。海辺に砂を盛り上げ、大きな鯨の形を作っておく。それのあちこちに海藻や魚を差し込んでおけば、鳥が寄り付いて騒ぎ、まるで「寄り鯨」が打ち上げられたよう。案の定、敵は騙されて砦から飛び出す。そこを迷わず討ち取った。([[浦幌町]]厚内の砂鯨伝説<ref name="d208">[[#伝説集|アイヌ伝説集]] P.208</ref>) |
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上記の例を見ても、寄り鯨の恵みが伺える。ただ、波の静かな[[噴火湾]]では古くからトリカブトの毒を塗った銛による[[捕鯨]]が行われていた<ref name=" |
上記の例を見ても、寄り鯨の恵みが伺える。ただ、波の静かな[[噴火湾]]では古くからトリカブトの毒を塗った銛による[[捕鯨]]が行われていた<ref name="a356-360">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.356-360</ref>。 |
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沿岸部の[[コタン]](kotan)は海の恵みで潤っていたが、やがて[[場所請負制]]によって住民は和人商人が経営する漁場に隷属されることとなり、困窮の道を歩む例が多かった<ref name=" |
沿岸部の[[コタン]](kotan)は海の恵みで潤っていたが、やがて[[場所請負制]]によって住民は和人商人が経営する漁場に隷属されることとなり、困窮の道を歩む例が多かった<ref name="b182">[[#歴史と民俗|アイヌ 歴史と民俗]] P.182</ref><ref name="h87">[[#極北|世界の食文化20 極北]] P.87</ref>。 |
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川漁では釣り、[[網]]漁、ウライ(uray [[簗]])、ラオマプ(raomap [[うけ#筌|筌]])などの方法でカムイチェプ(kamuycep [[サケ]])、イチャニウ(icaniw [[マス]])、スプン(supun [[ウグイ]])、トゥクシシ(tuksis [[アメマス]])、チライ(ciray [[イトウ]])、ユペ(yupe [[チョウザメ]])、スサム(susam [[シシャモ]])、イチャンコッ(icankot [[ヤマメ]])、チポロケソ(ciporkeso [[イワナ]])、ランパラ(rampara [[フナ]])などの魚類を捕獲した。 |
川漁では釣り、[[網]]漁、ウライ(uray [[簗]])、ラオマプ(raomap [[うけ#筌|筌]])などの方法でカムイチェプ(kamuycep [[サケ]])、イチャニウ(icaniw [[マス]])、スプン(supun [[ウグイ]])、トゥクシシ(tuksis [[アメマス]])、チライ(ciray [[イトウ]])、ユペ(yupe [[チョウザメ]])、スサム(susam [[シシャモ]])、イチャンコッ(icankot [[ヤマメ]])、チポロケソ(ciporkeso [[イワナ]])、ランパラ(rampara [[フナ]])などの魚類を捕獲した<ref name="B136-139">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.136-139</ref>。 |
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川の漁で得られる恵みでは、秋になれば川を遡る鮭がもっとも重要な資源だった。アイヌは鮭を「カムイチェプ」(神の魚)と呼び、漁期が近づけば天空の[[天の川]]を見上げて「天の[[石狩川]]」「天の[[天塩川]]」など、その地一番の大河になぞらえ、どこが一番濃く見えるかで漁の豊凶を占った<ref name=" |
川の漁で得られる恵みでは、秋になれば川を遡る鮭がもっとも重要な資源だった<ref name="h89">[[#極北|世界の食文化20 極北]] P.89</ref>。アイヌは鮭を「カムイチェプ」(神の魚)と呼び、漁期が近づけば天空の[[天の川]]を見上げて「天の[[石狩川]]」「天の[[天塩川]]」など、その地一番の大河になぞらえ、どこが一番濃く見えるかで漁の豊凶を占った<ref name="b152">[[#歴史と民俗|アイヌ 歴史と民俗]] P.152</ref>。[[白老]]、[[登別]]では春先に[[コブシ]]が下向きの花を付け、漁期に頭がハゲたパシクル([[カラス]])を見れば、豊漁の兆しとして喜んだ<ref name="a342-354">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.342-354</ref>。豊漁祈願として川の神を祀る祭礼「ペッカムイノミ」(川神への祈祷)を催し、やがて最初に上って来た鮭をマレプ(回転式の銛)で丁寧に捕獲し、それを神に捧げる「[[アシリチェップノミ]]」(asircepnomi 新たなる鮭の祈祷)を行い、[[イナウ]](inaw)と[[トノト]](tonoto どぶろく)と共に[[アペフチ]](火の女神)に捧げて祈った<ref name="a342-354">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.342-354</ref><ref name="h89">[[#極北|世界の食文化20 極北]] P.89</ref>。 |
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サケは回転式の[[銛]]「マレク」で突くか、ウライ([[簗]])で捕らえ、水量のあるところでは2艘の丸木舟の間に網を張って漕ぎ、サケを追い込む「ヤーシ漁」(網漁)を用いた<ref name=" |
サケは回転式の[[銛]]「マレク」で突くか、ウライ([[簗]])で捕らえ、水量のあるところでは2艘の丸木舟の間に網を張って漕ぎ、サケを追い込む「ヤーシ漁」(網漁)を用いた<ref name="a342-354">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.342-354</ref>。天空のW字型をした[[カシオペア座]]は2艘の舟と網に似ていることから、アイヌは「ヤーシ・ノッカ」(網曳き形の星)と呼ぶ<ref name="b70">[[#歴史と民俗|アイヌ 歴史と民俗]] P.70</ref>。暴れるサケはそれ専用に作られた神聖な[[棍棒]]・イサパキクニ(isapakikni)で打って止めをさす。鎌などで引っ掛けることは神を冒涜するものとされた。漁期には物忌みが守られ、[[月経|生理]]中の女性は川に近づくことを許されなかった<ref name="a342-354">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.342-354</ref>。サケは河口のコタンで独り占めはせず、上流部へもいきわたる様に節度を持って獲る。そしてチポロ([[筋子]])やウプ([[白子]])を持った美味いサケを狙うのではなく、産卵を終えて弱ったサケ「ホッチャレ」を重点的に獲った<ref name="B136-139">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.136-139</ref>。来年への資源確保も重要だが、脂肪が抜けきった「ホッチャレ」のほうが保存に向く、という事情もあった。 |
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こうして獲られたサケは、一部を当座の食用に回すほかはすべて保存食に加工した。腹を割いて内臓を取り除き、戸外の物干し棚にかけて乾燥させる。屋内の[[囲炉裏]]の上に吊り下げ、[[燻製]]にする。あるいは雪の中に埋めて凍らせる。乾燥サケをサッ・チェプ(satcep 乾いた魚)、もしくはアタッ(atat)と呼ぶ。食べる際は水で戻し、魚油を加えて旨味を足しながら煮込む<ref name=" |
こうして獲られたサケは、一部を当座の食用に回すほかはすべて保存食に加工した。腹を割いて内臓を取り除き、戸外の物干し棚にかけて乾燥させる。屋内の[[囲炉裏]]の上に吊り下げ、[[燻製]]にする。あるいは雪の中に埋めて凍らせる<ref name="h91">[[#極北|世界の食文化20 極北]] P.91</ref>。乾燥サケをサッ・チェプ(satcep 乾いた魚)、もしくはアタッ(atat)と呼ぶ。食べる際は水で戻し、魚油を加えて旨味を足しながら煮込む<ref name="B49">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.49</ref>。 |
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凍ったサケが、現在の北海道で郷土料理として有名な[[ルイベ]](ruype)である。食べる際はマキリ(makiri 小刀)で大まかに切り分け、[[ヤナギ]]の串に刺してから火にあぶって解かし、少量の塩で味をつけて食べる。[[塩]]は交易でのみ得られる貴重品なので、保存料として大量には使えなかった。アイヌの伝統的な食文化に、塩引き鮭、[[新巻|新巻鮭]]は存在しない<ref name=" |
凍ったサケが、現在の北海道で郷土料理として有名な[[ルイベ]](ruype)である。食べる際はマキリ(makiri 小刀)で大まかに切り分け、[[ヤナギ]]の串に刺してから火にあぶって解かし、少量の塩で味をつけて食べる<ref name="B47-48">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.47-48</ref>。[[塩]]は交易でのみ得られる貴重品なので、保存料として大量には使えなかった。アイヌの伝統的な食文化に、塩引き鮭、[[新巻|新巻鮭]]は存在しない<ref name="B47-48">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.47-48</ref>。 |
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北海道各地に「[[熊牛]]」「[[熊石町|熊石]]」などの地名があるが、これらは[[アイヌ語]]の「クマ・ウシ」(干場があるところ)に漢字をあてたものである。往時は豊漁の地で、住民が干魚作りにいそしんでいた様が伺える<ref name=" |
北海道各地に「[[熊牛]]」「[[熊石町|熊石]]」などの地名があるが、これらは[[アイヌ語]]の「クマ・ウシ」(干場があるところ)に漢字をあてたものである。往時は豊漁の地で、住民が干魚作りにいそしんでいた様が伺える<ref name="d89">[[#歴史と民俗|アイヌ 歴史と民俗]] P.89</ref>。 |
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海浜採集で[[ホタテガイ|ホタテ]]、[[アサリ]]、[[ホッキ]]、[[ナマコ]]、[[コンブ]]、[[ワカメ]]など、[[魚介類]]や[[海藻]]類が採集された。特に昆布やナマコは[[長崎貿易]]で日本側が[[俵物]]として[[清国]]に輸出する貴重な物産であり、[[和人]]との交易品として重要だった。しかし17世紀半ば以降の交易は不平等なもので、乾し鮭100尾が米一升、背負いきれないほどの昆布が冷や飯一椀、という例すらあった<ref name=" |
海浜採集で[[ホタテガイ|ホタテ]]、[[アサリ]]、[[ホッキ]]、[[ナマコ]]、[[コンブ]]、[[ワカメ]]など、[[魚介類]]や[[海藻]]類が採集された。特に昆布やナマコは[[長崎貿易]]で日本側が[[俵物]]として[[清国]]に輸出する貴重な物産であり、[[和人]]との交易品として重要だった。しかし17世紀半ば以降の交易は不平等なもので、乾し鮭100尾が米一升、背負いきれないほどの昆布が冷や飯一椀、という例すらあった<ref name="b182">[[#歴史と民俗|アイヌ 歴史と民俗]] P.182</ref>。 |
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=== 山菜・果実採集 === |
=== 山菜・果実採集 === |
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[[ファイル:Anemone flaccida02.JPG|汁物の具として好まれるニリンソウ。葉の形は毒草のトリカブトと似ているため、採集には注意を要する|250px|thumb]] |
[[ファイル:Anemone flaccida02.JPG|汁物の具として好まれるニリンソウ。葉の形は毒草のトリカブトと似ているため、採集には注意を要する|250px|thumb]] |
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狩りや川漁が男性の大切な仕事ならば、山野での山菜、果実採集は[[アツシ]]織り、子育て、農業とともに女性の大切な仕事だった。雪が解けて木の芽が芽吹くや、女性はサラニプ(saranip [[シナノキ]]の繊維で編んだ袋)とメノコマキリ(menoko makiri 女性の小刀) |
狩りや川漁が男性の大切な仕事ならば、山野での山菜、果実採集は[[アツシ]]織り、子育て、農業とともに女性の大切な仕事だった。雪が解けて木の芽が芽吹くや、女性はサラニプ(saranip [[シナノキ]]の繊維で編んだ袋)とメノコマキリ(menoko makiri 女性の小刀)、イタニ(掘り棒)、シッタプ(鹿の角で作った小型の[[鶴嘴]])手に山野へ繰り出した<ref name="a367-374">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.367-374</ref>。 |
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春一番でエハ(eha [[ヤブマメ]]の実)、プクサ(pukusa [[ギョウジャニンニク]])、オハウキナ(ohaw kina [[ニリンソウ]])、アンチャミ(ancami [[アザミ]])、ピットク(pittok [[オオハナウド]])、ノヤ(noya [[ヨモギ]])、マカヨ(makayo [[フキノトウ]])、ソロマ(sorma [[クサソテツ]])、シケレペキナ(sikerpe kina [[ヒメザゼンソウ]])、コルコニ(korkoni [[アキタブキ]])、メンピロ(mempiro [[ノビル]]の鱗茎)、ムク(muk [[バアソブ]]の根)、トプムク(topmuk [[ツルニンジン]]の根)を採集し、初夏になれば保存食として重要なトゥレプ(turep [[オオウバユリ]]の鱗茎)を大量に採集する。秋に至れば木の実がなる。ペロ(pero [[ナラ]]になる[[ドングリ]])やニセウ(nisew [[カシワ]]になるドングリ)、ハッ(hat [[ヤマブドウ]]の実)、クッチ(kutci [[サルナシ]]の実)などである。さらにカルシ(karus [[キノコ]])の類も重要な食料だった。特にユクカルシ(yuk karus [[マイタケ]])は味も良く、和人との交易に出せば優位な取引が出来る。そのため発見した際は、その周りで踊ったのちにオンカミ(onkami 拝礼)しながら採ったという<ref name="jiten">知里、1953年 - 1962年</ref>。 |
春一番でエハ(eha [[ヤブマメ]]の実)、プクサ(pukusa [[ギョウジャニンニク]])、オハウキナ(ohaw kina [[ニリンソウ]])、アンチャミ(ancami [[アザミ]])、ピットク(pittok [[オオハナウド]])、ノヤ(noya [[ヨモギ]])、マカヨ(makayo [[フキノトウ]])、ソロマ(sorma [[クサソテツ]])、シケレペキナ(sikerpe kina [[ヒメザゼンソウ]])、コルコニ(korkoni [[アキタブキ]])、メンピロ(mempiro [[ノビル]]の鱗茎)、ムク(muk [[バアソブ]]の根)、トプムク(topmuk [[ツルニンジン]]の根)を採集し、初夏になれば保存食として重要なトゥレプ(turep [[オオウバユリ]]の鱗茎)を大量に採集する。秋に至れば木の実がなる。ペロ(pero [[ナラ]]になる[[ドングリ]])やニセウ(nisew [[カシワ]]になるドングリ)、ヤム([[栗]])、ネシコ([[クルミ]])、ハッ(hat [[ヤマブドウ]]の実)、クッチ(kutci [[サルナシ]]の実)などである<ref name="B136-139">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.136-139</ref>。さらにカルシ(karus [[キノコ]])の類も重要な食料だった。特にユクカルシ(yuk karus [[マイタケ]])は味も良く、和人との交易に出せば優位な取引が出来る<ref name="a688">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 下巻]] P.688</ref>。そのため発見した際は、その周りで踊ったのちにオンカミ(onkami 拝礼)しながら採ったという<ref name="jiten">[[#知里|分類アイヌ語辞典]]、1953年 - 1962年</ref>。 |
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[[湖沼]]の沿岸に営まれる[[コタン]](kotan)では、[[栗]]に似た味のペカンペ(pekampe [[菱]]の実)も重要な産物である。秋になると湖上になる実は、ラタシケプ(rataskep 後述、ここでは煮物)の具、神への供物となる上等な食物である。特に[[釧路川]]流域の[[塘路湖]]はペカンペの大産地として知られ、沿岸にはその恵みゆえに戸数の多いコタンが存在した。昭和中期まで、この地では秋になるとペカンペの恵みに感謝する神事ペカンペカムイノミ(pekampe kamuy nomi)が厳かに執り行われ、これが済んでから収穫を行っていた |
[[湖沼]]の沿岸に営まれる[[コタン]](kotan)では、[[栗]]に似た味のペカンペ(pekampe [[菱]]の実)も重要な産物である。秋になると湖上になる実は、ラタシケプ(rataskep 後述、ここでは煮物)の具、神への供物となる上等な食物である。特に[[釧路川]]流域の[[塘路湖]]はペカンペの大産地として知られ、沿岸にはその恵みゆえに戸数の多いコタンが存在した。昭和中期まで、この地では秋になるとペカンペの恵みに感謝する神事ペカンペカムイノミ(pekampe kamuy nomi)が厳かに執り行われ、これが済んでから収穫を行っていた。狩猟漁労民族であるアイヌが植物のために行う神事は北海道でもここだけで、大変珍しい例である。<ref name="a607-612">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 下巻]] P.607-612</ref>それだけ塘路湖のペカンペが多くの人を養ったのだろう。 |
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山菜類は茹で上げて[[灰汁|アク]]を抜き、オハウ(ohaw 汁物)の具やラタシケプ(ここでは山菜と脂の和え物のような料理)とする。そして最も大事なのは、乾燥加工だった。一年の半分を雪に覆われる北海道では、冬季は必然的に青物不足をきたす。それは[[脚気]]や[[壊血病]]に繋がり、死を招きかねない。そのため春から夏にかけ大量に採取された山菜類は、大鍋で茹で上げた後ゴザに広げて天日乾燥し、ポロサラニプ(poro saranip 大きな袋)に納めてプー(pu 高床倉庫)に保存した<ref name=" |
山菜類は茹で上げて[[灰汁|アク]]を抜き、オハウ(ohaw 汁物)の具やラタシケプ(ここでは山菜と脂の和え物のような料理)とする。そして最も大事なのは、乾燥加工だった。一年の半分を雪に覆われる北海道では、冬季は必然的に青物不足をきたす。それは[[脚気]]や[[壊血病]]に繋がり、死を招きかねない。そのため春から夏にかけ大量に採取された山菜類は、大鍋で茹で上げた後ゴザに広げて天日乾燥し、ポロサラニプ(poro saranip 大きな袋)に納めてプー(pu 高床倉庫)に保存した<ref name="a367-374">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.342-354</ref><ref name="B57-60">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.57-60</ref>。 |
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江戸時代後期、[[ロシア]]の侵攻に備えた沿岸警備のため北海道で越冬した[[和人]]は、米と味噌を中心とした[[和食]]に固執したため多くの者が[[脚気]]による[[浮腫]]に斃れた。[[1807年]]に[[オホーツク海]]沿岸の[[斜里郡]]で発生した[[津軽藩士殉難事件]]では、在住の津軽藩士100余名のうち72名が数か月のうちに死亡している。しかしアイヌは乾燥保存した植物や獣肉、魚肉を食べて[[ビタミン]]を摂取することで過酷な冬を乗り切っていた。 |
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⚫ | 山菜類の中で最も重要なのはプクサ([[ギョウジャニンニク]])だった。冬枯れの中で一番に緑濃い茎を出し、食欲をそそるニンニク臭を漂わせる。それはまさに春の喜びであり、女性達は山野に繰り出して採集する。採集の際、問題となるのがセタプクサ(seta pukusa [[スズラン]])の存在である。スズランの芽生えはギョウジャニンニクと酷似しているが、毒草である。したがってアイヌ民族はスズランをセタ・プクサ( |
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⚫ | 山菜類の中で最も重要なのはプクサ([[ギョウジャニンニク]])だった。冬枯れの中で一番に緑濃い茎を出し、食欲をそそるニンニク臭を漂わせる。それはまさに春の喜びであり、女性達は山野に繰り出して採集する。採集の際、問題となるのがセタプクサ(seta pukusa [[スズラン]])の存在である。スズランの芽生えはギョウジャニンニクと酷似しているが、毒草である。したがってアイヌ民族はスズランの芽生えをセタ・プクサ(犬のプクサ)、スズランの実をチロンヌプ・フレップ(狐の[[苺]])と呼んで忌み嫌う<ref name="a109">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.109</ref>。毒草をより分けながら採集されたプクサは茹で上げ、獣脂や塩で和えて食べたり汁の実にする。炊いた際の湯気には薬効があるとされ、[[風邪]]の際は蒸気を浴びた<ref name="b63">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.63</ref>。 |
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。さらに特有のニンニク臭は魔物を寄せ付けないとされ、[[天然痘]]などの伝染病が流行した際は、村の入り口に掲げ、病魔の退散を願った<ref name="b112">[[#歴史と民俗|アイヌ 歴史と民俗]] P.112</ref>。西洋の[[吸血鬼]]除けに[[ニンニク]]を使う風習と、相通じるものがある。日本語の[[北海道方言]]でプクサを「アイヌネギ」というが、その名はまさに「アイヌ民族の[[葱]]」から来ているのである。 |
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日本本土ではほとんど利用されない[[タネツケバナ]]は、鮭と相性が良いとしてシペキナ(鮭の草)の名で鮭料理の香辛料にされた<ref name="b91">[[#歴史と民俗|アイヌ 歴史と民俗]] P.91</ref>。北海道弁では「アイヌ山葵」と呼ばれる。 |
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そして、トゥレプ([[オオウバユリ]])の球根、そしてそれから抽出される[[澱粉]]である。これに関しては後述する。 |
そして、トゥレプ([[オオウバユリ]])の球根、そしてそれから抽出される[[澱粉]]である。これに関しては後述する。 |
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[[ファイル:Ainu traditional house”cise”2.jpg|穀物の精白、製粉に使われた臼。上にはムイ([[箕]])が伏せられている。([[北海道開拓記念館]])|250px|thumb]] |
[[ファイル:Ainu traditional house”cise”2.jpg|穀物の精白、製粉に使われた臼。上にはムイ([[箕]])が伏せられている。([[北海道開拓記念館]])|250px|thumb]] |
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[[ファイル:PSM V33 D521 Ainu storehouse.jpg|穀物を収める高床式倉庫「プー」。明治時代初期に北海道を訪れた[[イギリス人]]の旅行家・[[イザベラ・バード]]のスケッチより。|250px|thumb]] |
[[ファイル:PSM V33 D521 Ainu storehouse.jpg|穀物を収める高床式倉庫「プー」。明治時代初期に北海道を訪れた[[イギリス人]]の旅行家・[[イザベラ・バード]]のスケッチより。|250px|thumb]] |
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アイヌ時代の前段階である10世紀ころの[[擦文時代]]。さらにそれ以前の[[続縄文時代]]から、すでに北海道でも[[農耕]]が行われていた。[[札幌市]]の[[サクシュコトニ川]]流域 |
アイヌ時代の前段階である10世紀ころの[[擦文時代]]。さらにそれ以前の[[続縄文時代]]から、すでに北海道でも[[農耕]]が行われていた。[[札幌市]]の[[サクシュコトニ川]]流域や、[[浦幌町]]十勝太で発見された[[11世紀]]の擦文遺跡からは[[ヒエ]]、[[アワ]]、[[キビ]]などの雑穀類が出土し、[[コムギ]]や[[オオムギ]]も確認されている<ref>[http://www.ob.hkd.mlit.go.jp/hp/sougou/pamphlet/toki_o_koete_top/02sennshi/02-03-03-mugidukuri-p104-105.pdf 十勝太若月遺跡]</ref>。さらに[[オホーツク海]]沿岸地方で同時期に栄えた[[オホーツク文化]]においても、アワ、ヒエ、オオムギの栽培が確認できる<ref name="E172">[[#瀬川|アイヌの歴史]] P.172</ref>。しかし12世紀から始まるアイヌ時代に至って、農耕は縮小する傾向にあった。これは寒冷な気候ゆえに農耕を諦めたというより、本州との交易用の干魚や[[毛皮]]調達のため、狩猟、漁労に重きを置いた結果らしい<ref name="E94">[[#瀬川|アイヌの歴史]] P.94</ref>。さらに[[17世紀]]後半の[[シャクシャインの乱]]以降、アイヌとの交易を自身の都合よく進めたい[[松前藩]]は、アイヌが農業で自活しないよう、[[鍬]]や[[鋤]]、[[鎌]]など鉄製農具の流通を制限していたことも理由として上げられる<ref name="h99-100">[[#極北|世界の食文化20 極北]] P.99-100</ref><ref>[http://www.chikyu.ac.jp/neo-map/file/fukasawa-01.pdf 擦文からアイヌへ]</ref>。 |
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アイヌ語で「トイタ」と呼 |
アイヌ語で農業を「トイタ」と呼ぶ。江戸時代後期の和人の紀行文や明治期の学者によるアイヌへの聞き取り調査によれば、農業は女の仕事であり、片手間に行われるようなものだった<ref name="a380-393">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.380-393</ref>。 |
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まず川の沿岸で樹木や雑草の少ない土地を見定める。その地に所有権を主張する意味で十文字に組んだ木「クイタクペ」を立て、数日のうちに開墾・整地すれば、一年限りで土地の所有権が認められる<ref name="g21">[[#農耕文化|アイヌの農耕文化]] P.21</ref>。開墾は樹木を伐採して焼き払う[[焼畑]]ではなく、「トイタイヨッペ」という刃を湾曲させた[[鎌]]で草地をなぎ払い、土ごと刈り払って整地する簡単なものである<ref name="a380-393">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.380-393</ref>。 |
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畑にはピヤパ([[稗]])、メンクル([[黍]])、ムンチロ([[粟]])、[[ソバ]]、アタネ([[カブ]])を蒔きつける。時代が下ってからは[[豆]]類、[[ジャガイモ]]、[[南瓜]]なども栽培されるようになった。雑穀類にはアイヌ語名がついているが、マメ・ジャガイモ、南瓜はアイヌ語でも「マメ」「イモ・エモ」「カンボチャ」であり、時代が古くないことがわかる。[[ |
畑にはピヤパ([[稗]])、メンクル([[黍]])、ムンチロ([[粟]])、[[ソバ]]、アタネ([[カブ]])を蒔きつける。時代が下ってからは[[豆]]類、[[ジャガイモ]]、[[南瓜]]なども栽培されるようになった。雑穀類にはアイヌ語名がついているが、マメ・ジャガイモ、南瓜はアイヌ語でも「マメ」「イモ・エモ」「カンボチャ」であり、時代が古くないことがわかる。記録によれば、[[寛政]]年間に[[最上徳内]]が蝦夷地に種芋を持ち込み、[[虻田郡]]のアイヌに栽培させたのが北海道におけるジャガイモ栽培の起源だという。一方、千島や樺太のアイヌはジャガイモを「ヌチャトマ」([[ロシア]]の[[エゾエンゴサク]]<ref group=note>[[エゾエンゴサク]](アイヌ語名:トマ)は、アイヌが古くから食用としてきた山菜である。芋状にふくれた根を煮て、獣脂や魚油をつけて味わう。</ref>)と呼ぶことから、アイヌ世界におけるジャガイモの伝播には北方(ロシア)と南方(日本)、2つのルートが存在したことが伺える<ref name="g84-85">[[#農耕文化|アイヌの農耕文化]] P.84-85</ref>。 |
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一年の耕作の中で豊作を祈る[[予祝芸能]]などの儀礼は行われないが、播種の際には種もみを野鳥の卵に浸してから蒔く。これは、野鳥の生命力にあやかって作物の生育を祈る信仰である。また、[[カッコウ]]や[[鴨]]の巣、[[蛇]]の抜け殻を保持していれば豊作に恵まれるとの伝承もあった<ref name="a387">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.387</ref>。実際の農作業では畑に[[畝]]を切らず、[[肥料]]は[[下肥]]は言うまでも無く、[[灰]]、[[腐葉土]]の類まで「大地を穢す」と見なされて施されなかった。除草もそれほど行われなかったため、秋の収穫量は大した物にはならなかった<ref name="a387">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.387</ref>。 |
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⚫ | ただ、広大な北海道は地方によって気候にも差があり、温暖な[[道南]]や[[日高]]地方では、畑の隅の[[糠]]を捨てる場所が、神聖な場所とされていた<ref name=" |
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⚫ | ただ、広大な北海道は地方によって気候にも差があり、温暖な[[道南]]や[[日高]]地方では、畑の隅の[[糠]]を捨てる場所・ムルクタヌサが、神聖な場所とされていた<ref name="h99-100">[[#極北|世界の食文化20 極北]] P.99-100</ref>。それだけ農耕に重点を見出し、丹念に耕作をしていたのだろう。反対に寒冷で農耕に適さない道北に住むアイヌは、農業の基本すら知らなかったらしい。明治中期、役人が[[名寄]]付近のアイヌに農業の普及を図り、「これを土に埋めれば美味しいものができる」と、ジャガイモの種芋と[[ニンジン]]の種を渡し、簡単な説明をして帰った。ところが秋になって再訪してみると、「シャモ([[和人]])に騙された!」と酷く機嫌が悪い。よく聞き合わせてみると、種芋は俵ごと土に埋めたのですべて腐ってしまい、ニンジンの種は藪の中にばら撒きにしたので、[[ネズミ]]の尻尾ほどの太さにすらならなかったという。 |
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⚫ | 秋に至って稔った穀物は、「ピパ」と呼ばれるカワシンジュガイの殻で作った道具で一つ一つ穂首刈りにされる。この収穫法は、[[弥生時代]]に[[本州]]などで[[石包丁]]を使って行われた[[稲]]の収穫と酷似している<ref name=" |
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⚫ | 秋に至って稔った穀物は、「ピパ」と呼ばれるカワシンジュガイの殻で作った道具で一つ一つ穂首刈りにされる。この収穫法は、[[弥生時代]]に[[本州]]などで[[石包丁]]を使って行われた[[稲]]の収穫と酷似している<ref name="a380-393">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.380-393</ref>。このようにして収穫された穀物は乾燥されたのちプー([[高床式倉庫]])に納められ、必要に応じてニス([[臼]])で精白、製粉し、サヨ([[粥]])やシト([[団子]])、[[トノト]](酒)に加工される。カブや馬鈴薯、南瓜は汁の具、ラタシケプ(後述)の材料となった。さらに馬鈴薯は冬の寒さを利用し、[[ポッチェイモ]]という保存食品に加工した<ref name="a380-393">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.380-393</ref>。 |
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[[稲作]]は行われていなかったが、[[米]]は[[擦文時代]]から交易で入って来ていた。北海道各地で発見されている[[青森県]][[五所川原]]産の[[須恵器]]は、米を移出する際の容器として使われた物と考えられている<ref>[http://www.pref.aomori.lg.jp/bunka/education/kinen_siseki_15.html 五所川原須恵器窯跡 |
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== 調理法 == |
== 調理法 == |
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[[ファイル:Ainu traditional house”cise”3.jpg|アペオイ(囲炉裏)で全ての調理が行われた。([[北海道開拓記念館]])|250px|thumb]] |
[[ファイル:Ainu traditional house”cise”3.jpg|アペオイ(囲炉裏)で全ての調理が行われた。([[北海道開拓記念館]])|250px|thumb]] |
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[[7世紀]]から[[12世紀]]ころにかけて栄えた[[擦文時代]]の[[竪穴式住居]]は家の中央部に[[囲炉裏]]が切られるとともに、壁際には煙道が備えられた[[竈]]が設けられ、煮炊きの一翼を担っていた。しかし[[12世紀]]ころを起源とする[[アイヌ文化]]時代に至るや、なぜか竈は廃れた。この理由はよくわからない |
[[7世紀]]から[[12世紀]]ころにかけて栄えた[[擦文時代]]の[[竪穴式住居]]は家の中央部に[[囲炉裏]]が切られるとともに、壁際には煙道が備えられた[[竈]]が設けられ、煮炊きの一翼を担っていた。しかし[[12世紀]]ころを起源とする[[アイヌ文化]]時代に至るや、なぜか竈は廃れた<ref name="E94">[[#瀬川|アイヌの歴史]] P.94</ref>。この理由はよくわからない。[[薪]]が貴重な寒冷地ゆえ、その浪費を避けるために、家の中心の炉に「暖房」、「照明」、「調理」を集約したためかもしれない。 |
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アイヌの住居'''[[チセ]]'''(cise)は、地面を踏み固めた上に藁やゴザ、毛皮を敷いて床とした[[掘立柱建物|平地式住居]]で、その中央に木尻席を欠いた大きな囲炉裏が設けられていた。この囲炉裏に数個のシュワッ(自在鉤)が下げられ、そこに和人との交易で得られた大小のシュー([[鉄]][[鍋]])がかけられている |
アイヌの住居'''[[チセ]]'''(cise)は、地面を踏み固めた上に藁やゴザ、毛皮を敷いて床とした[[掘立柱建物|平地式住居]]で、その中央に木尻席を欠いた大きな囲炉裏が設けられていた。この囲炉裏に数個のシュワッ(自在鉤)が下げられ、そこに和人との交易で得られた大小のシュー([[鉄]][[鍋]])がかけられている。 |
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アイヌは和人や[[ニヴフ]]と同様生食を好み、素材の新鮮さを最大限に生かした「[[刺身]]」「肉や魚の[[たたき]]」が大変に好まれていた。加熱調理については、炉の直火と鍋のみで可能な調理法、すなわち「あぶる」「[[焼く]]」「[[煮る]]」「[[ゆでる]]」が全てである。蒸し物や揚げ物は存在しなかった。 |
アイヌは和人や[[ニヴフ]]と同様生食を好み、素材の新鮮さを最大限に生かした「[[刺身]]」「肉や魚の[[たたき]]」が大変に好まれていた。加熱調理については、炉の直火と鍋のみで可能な調理法、すなわち「あぶる」「[[焼く]]」「[[煮る]]」「[[ゆでる]]」が全てである。蒸し物や揚げ物は存在しなかった<ref name="a406-420">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.406-420</ref>。 |
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アイヌ文化では[[オオウバユリ]]の搾りかすから作った保存食品オントゥレプ(後述)や[[トノト]]([[どぶろく]])を除いて発酵文化が発達しなかった。和人から味噌や[[日本酒]]、醤油を交易で入手して食文化に取り入れていたものの、アイヌが自らこれらを作ることはなかった。 |
アイヌ文化では[[オオウバユリ]]の搾りかすから作った保存食品オントゥレプ(後述)や[[トノト]]([[どぶろく]])を除いて発酵文化が発達しなかった。和人から味噌や[[日本酒]]、醤油を交易で入手して食文化に取り入れていたものの、アイヌが自らこれらを作ることはなかった。 |
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== おもな料理 == |
== おもな料理 == |
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=== オハウ ohaw(煮込み汁)=== |
=== オハウ ohaw(煮込み汁)=== |
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獣肉や魚肉、山菜、野菜を鉄鍋で煮込んだ汁物。単なる[[スープ]]に留まらず、[[鍋料理]]とも言えるほど具沢山の汁物で、「[[主食]]」が存在しない狩猟・漁労民族であるアイヌの食生活の中心を成す料理だった。現在、[[北海道]]の[[郷土料理]]として名高い[[石狩鍋]]、[[三平汁]]の起源とも言われている |
獣肉や魚肉、山菜、野菜を鉄鍋で煮込んだ汁物。単なる[[スープ]]に留まらず、[[鍋料理]]とも言えるほど具沢山の汁物で、「[[主食]]」が存在しない狩猟・漁労民族であるアイヌの食生活の中心を成す料理だった。現在、[[北海道]]の[[郷土料理]]として名高い[[石狩鍋]]、[[三平汁]]の起源とも言われている。 |
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#鍋に水を張り、獣骨や小魚の[[焼き干し]]を入れて火にかけ、[[出汁]]を取る。 |
#鍋に水を張り、獣骨や小魚の[[焼き干し]]を入れて火にかけ、[[出汁]]を取る。 |
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#大まかに切り分けた肉、魚を入れて煮る。乾肉、乾魚の場合は時間をかけて煮る。 |
#大まかに切り分けた肉、魚を入れて煮る。乾肉、乾魚の場合は時間をかけて煮る。肉や魚の[[灰汁|アク]]は一種の薬効成分と考えられているので、取り除かない<ref name="b94">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.94</ref>。 |
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#野菜は根菜などの煮えにくいものから入れ、つぎに繊維の多い山菜、そして葉物野菜を入れる。それらが柔らかくなるまで煮込む。 |
#野菜は根菜などの煮えにくいものから入れ、つぎに繊維の多い山菜、そして葉物野菜を入れる。それらが柔らかくなるまで煮込む。 |
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#動物性[[油脂|脂肪]]、魚油、少量の[[塩]]で味を整え、最後に風味付けとして焼き[[昆布]]の粉末、乾燥させたプクサ([[ギョウジャニンニク]])をふりかける。 |
#動物性[[油脂|脂肪]]、魚油、少量の[[塩]]で味を整え、最後に風味付けとして焼き[[昆布]]の粉末、乾燥させたプクサ([[ギョウジャニンニク]])をふりかける。 |
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※肉のアクが気になるようであれば、後から入れる野菜や薬味に吸わせる<ref name=" |
※肉のアクが気になるようであれば、後から入れる野菜や薬味に吸わせる<ref name="b94">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.94</ref>。 |
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中心となる具材からそれぞれ「チェプオハウ」(cep ohaw 魚汁)、「カムオハウ」(kam- 肉汁)、「カムイオハウ」(kamuy- 熊汁)、「キナオハウ」(kina- 野菜汁)などと呼ばれていた。[[ニリンソウ]]は汁と相性が良いため「オハウキナ」(ohawkina 汁の草)と呼ばれ、具材として特に好まれていた<ref name=" |
中心となる具材からそれぞれ「チェプオハウ」(cep ohaw 魚汁)、「カムオハウ」(kam- 肉汁)、「カムイオハウ」(kamuy- 熊汁)、「キナオハウ」(kina- 野菜汁)などと呼ばれていた。[[ニリンソウ]]は汁と相性が良いため「オハウキナ」(ohawkina 汁の草)と呼ばれ、具材として特に好まれていた<ref name="a378">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.378</ref>。 |
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=== ラタシケプ rataskep(野草による煮物や和え物)=== |
=== ラタシケプ rataskep(野草による煮物や和え物)=== |
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直訳すれば「混ぜたもの」。山菜や野菜、豆類を柔らかく汁気が無くなるまで煮込み、軽く潰してから[[油脂|獣脂]]、魚油、少量の塩で味を整えた料理<ref name=" |
直訳すれば「混ぜたもの」。山菜や野菜、豆類を柔らかく汁気が無くなるまで煮込み、軽く潰してから[[油脂|獣脂]]、魚油、少量の塩で味を整えた料理<ref name="b40-44">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.40-44</ref>。 |
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日常食としても作られるが、儀式の供物や振る舞いには欠かせない、[[ハレとケ|ハレ]]食である。 |
日常食としても作られるが、儀式の供物や振る舞いには欠かせない、[[ハレとケ|ハレ]]食である。 |
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使用する材料によって限りない種類がある<ref name=" |
使用する材料によって限りない種類がある<ref name="b40-44">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.40-44</ref>。 |
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;シケレペキナラタシケプ sikerpekina rataskep |
;シケレペキナラタシケプ sikerpekina rataskep |
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;ニセウラタシケプ nisew rataskep |
;ニセウラタシケプ nisew rataskep |
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:ニセウ([[ドングリ|どんぐり]])は殻を取り、渋皮つきのまま数回ゆでこぼして[[灰汁|アク]]を抜く。ここにあらかじめ水戻ししておいた豆を水と共に入れ、沸騰したら煮汁を捨てる。再度水を注いで全体が柔らかくなるまで煮込み、[[トウモロコシ|玉蜀黍]]の粒を入れてさらに煮る。好みの柔らかさになったら米の粉を入れ、全体を練り上げる。塩と脂で味を整え、出来上がり。 |
:ニセウ([[ドングリ|どんぐり]])は殻を取り、渋皮つきのまま数回ゆでこぼして[[灰汁|アク]]を抜く。ここにあらかじめ水戻ししておいた豆を水と共に入れ、沸騰したら煮汁を捨てる。再度水を注いで全体が柔らかくなるまで煮込み、[[トウモロコシ|玉蜀黍]]の粒を入れてさらに煮る。好みの柔らかさになったら米の粉を入れ、全体を練り上げる。塩と脂で味を整え、出来上がり。 |
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なお、チエトイ([[珪藻土]]。アイヌ語で「我ら食べる土」の意)で山菜類を和えた食品も、珍味として好まれていた<ref name="b89">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.89</ref>。 |
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=== サヨ sayo(粥)=== |
=== サヨ sayo(粥)=== |
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ピヤパ([[ヒエ|稗]])やシアマム([[米]])で炊いた薄い[[粥]]。大抵は穀物のみで炊かれるが、山菜などを炊き込む場合もある。農耕民族のような「[[主食]]」としての粥ではなく、脂こい汁物や焼肉、焼き魚で腹を満たしたのち、「口直し」として[[茶]]のようにすすられるものである<ref name=" |
ピヤパ([[ヒエ|稗]])やシアマム([[米]])で炊いた薄い[[粥]]。大抵は穀物のみで炊かれるが、山菜などを炊き込む場合もある。農耕民族のような「[[主食]]」としての粥ではなく、脂こい汁物や焼肉、焼き魚で腹を満たしたのち、「口直し」として[[茶]]のようにすすられるものである<ref name="b37-39">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.37-39</ref>。そのため脂気が混じらないように、それ専用の小鍋で炊かれる。盛り付けの際も、掬うカスプ([[お玉杓子]])は汁用とは別のサヨカスプ(粥杓子)を用い、汁の味が混ざらないよう気を配った<ref name="a406-420">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.406-420</ref>。 |
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このサヨには、以下の種類がある<ref name=" |
このサヨには、以下の種類がある<ref name="b37-39">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.37-39</ref>。 |
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;トゥレプサヨ turep sayo |
;トゥレプサヨ turep sayo |
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=== シト sito(団子)=== |
=== シト sito(団子)=== |
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[[ファイル:Ainu traditional house”cise”4.jpg|チセ内部に飾られた漆器類。儀礼の際はシトやトノト(どぶろく)を盛り付ける。([[北海道開拓記念館]])|250px|thumb]] |
[[ファイル:Ainu traditional house”cise”4.jpg|チセ内部に飾られた漆器類。儀礼の際はシトやトノト(どぶろく)を盛り付ける。([[北海道開拓記念館]])|250px|thumb]] |
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[[団子]]。名称の「シト」は、[[大和言葉]]でペースト状にすりつぶした生の穀物や団子をさす「'''しとぎ'''」と同系統とされている<ref name=" |
[[団子]]。名称の「シト」は、[[大和言葉]]でペースト状にすりつぶした生の穀物や団子をさす「'''しとぎ'''」と同系統とされている<ref name="a406-420">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.406-420</ref><ref name="f150">[[#国学院|日本の食とこころ]] P.150</ref>。かつて穀物の[[精白]]や[[製粉]]を[[臼]]による手作業でこなしていた時代は、その手間ゆえに贅沢な食品。日常の食品としてよりも、[[イオマンテ]]([[熊送り]])やイチャルパ(祖霊祭)その他、[[ハレとケ|ハレ]]の日の供物やご馳走して作られることが多かった<ref name="b157-158">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.157-158</ref>。 |
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材料はメンクル([[キビ|黍]])、ムンチロ([[アワ|粟]])、シアマム([[米]])。時代が下がればエモ([[ジャガイモ|馬鈴薯]])、カンポチャ(南瓜)も材料として加わった。日本の[[草餅]]と同じく、ノヤ([[ヨモギ]])を混ぜ込んだ「ノヤシト」も春の味として好まれていた。 |
材料はメンクル([[キビ|黍]])、ムンチロ([[アワ|粟]])、シアマム([[米]])。メンクルで作られた物を本式とする。時代が下がればエモ([[ジャガイモ|馬鈴薯]])、カンポチャ(南瓜)も材料として加わった。日本の[[草餅]]と同じく、ノヤ([[ヨモギ]])を混ぜ込んだ「ノヤシト」も春の味として好まれていた<ref name="a378">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.378</ref>。 |
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作り方は以下の通り<ref name=" |
作り方は以下の通り<ref name="b44-45">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.44-45</ref>。 |
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#精白された穀物を一晩水に漬ける。水から上げたのち、一晩水を切る。 |
#精白された穀物を一晩水に漬ける。水から上げたのち、一晩水を切る。 |
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#穀物を[[臼]]に入れ、数人でイウタウポポ(杵搗き歌)を唄い調子を取りながら搗いて粉にする。 |
#穀物を[[臼]]に入れ、数人でイウタウポポ(杵搗き歌)を唄い調子を取りながら搗いて粉にする。 |
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#大鍋に沸かした湯で、鍋底に焦げ付かないように注意しながら茹で上げる。 |
#大鍋に沸かした湯で、鍋底に焦げ付かないように注意しながら茹で上げる。 |
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茹で上がったシトは、供物にするならばそのままシントコ(sintoko 漆塗りの桶)、パッチ(patci 木鉢)、オッチケ([[膳]])に盛り付けるか、[[ミズキ]]の串に刺した巨大な[[串団子]]「ニッオシト」にして神前に捧げる<ref name=" |
茹で上がったシトは、供物にするならばそのままシントコ(sintoko 漆塗りの桶)、パッチ(patci 木鉢)、オッチケ([[膳]])に盛り付けるか、[[ミズキ]]の串に刺した巨大な[[串団子]]「ニッオシト」にして神前に捧げる<ref name="b157-158">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.157-158</ref>。人間が食べる際は、チポロ([[イクラ]])を半潰しにしたものか、焼いた[[コンブ|昆布]]を砕き、脂で練ったタレをつける<ref name="b125-134">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.125-134</ref>。 |
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シトの食品としての歴史は古く、[[厚真町]]で発見された擦文時代の遺跡からもアワ製の団子が発見されている<ref name="E94">[[#瀬川|アイヌの歴史]] P.94</ref>。一方でアイヌの伝統的な食文化に蒸した穀物を臼で搗き潰した「[[餅]]」は存在しなかった。アイヌが日本式の餅に接したのは、場所請負制などで和人の往来が増えた江戸時代後期以降である<ref name="g171">[[#農耕文化|アイヌの農耕文化]] P.171</ref>。 |
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人間が食べる際は、チポロ([[イクラ]])を半潰しにしたものか、焼いた[[コンブ|昆布]]を砕き、脂で練ったタレをつける<ref name="syokuji"/>。 |
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=== チタタプ citatap(肉や魚のたたき)=== |
=== チタタプ citatap(肉や魚のたたき)=== |
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チタタプという[[アイヌ語]]を訳すれば、「チ・タタ・プ」(ci-tata-p 我々が・たくさん叩いた・もの)。その名の通り、魚の[[たたき]]である。 |
チタタプという[[アイヌ語]]を訳すれば、「チ・タタ・プ」(ci-tata-p 我々が・たくさん叩いた・もの)。その名の通り、魚の[[たたき]]である。 |
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以下は、代表的な作り方<ref name=" |
以下は、代表的な作り方<ref name="b50-51">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.50-51</ref>。 |
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#[[サケ|鮭]]のアラ、頭、[[白子 (精巣)|白子]]をイタタニ(丸太を輪切りにして作った[[まな板|俎板]])に乗せ、[[鉈]]のような重みのある刃物で刻み、叩く。 |
#[[サケ|鮭]]のアラ、頭、[[白子 (精巣)|白子]]をイタタニ(丸太を輪切りにして作った[[まな板|俎板]])に乗せ、[[鉈]]のような重みのある刃物で刻み、叩く。 |
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#ペースト状になるまで叩いたら[[ネギ|葱]]、メンピロ([[ノビル]])、プクサ([[ギョウジャニンニク]])のみじん切りを薬味として加える。 |
#ペースト状になるまで叩いたら[[ネギ|葱]]、メンピロ([[ノビル]])、プクサ([[ギョウジャニンニク]])のみじん切りを薬味として加える。 |
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#焼き[[コンブ|昆布]]と塩で味を整える。 |
#焼き[[コンブ|昆布]]と塩で味を整える。 |
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鮭以外でも、スプン([[ウグイ]])、ウッタプ([[カスベ]])、イチャニウ([[マス]])、チマカニ([[カジカ]])などあらゆる魚、さらにユク([[エゾシカ|鹿]])、キムンカムイ([[ヒグマ]])、モユク([[タヌキ|狸]])、イソポカムイ([[ウサギ|兎]])、さらにルオプ([[シマリス]])などの獣肉も刻んで薬味を加え、チタタプに加工された。老いた獣の肉は固いことが多いので、チタタプに加工すれば食べやすい。 |
鮭以外でも、スプン([[ウグイ]])、ウッタプ([[カスベ]])、イチャニウ([[マス]])、チマカニ([[カジカ]])などあらゆる魚、さらにユク([[エゾシカ|鹿]])、キムンカムイ([[ヒグマ]])、モユク([[タヌキ|狸]])、イソポカムイ([[ウサギ|兎]])、さらにルオプ([[シマリス]])などの獣肉も刻んで薬味を加え、チタタプに加工された。老いた獣の肉は固いことが多いので、チタタプに加工すれば食べやすい<ref name="b108-114">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.108-114</ref>。 |
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これらのチタタプの鮮度が落ちた場合は、[[つみれ]]のように汁に入れる<ref name=" |
これらのチタタプの鮮度が落ちた場合は、[[つみれ]]のように汁に入れる<ref name="b109">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.109</ref>。 |
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[[イオマンテ]](iomante)の際は、熊の[[脳]]のたたき、「チノイペコタタプ」が作られる。材料は熊のほほ肉、脳味噌、葱、塩。儀式で飾り付けた熊の頭から脳味噌を取り出し、あらかじめゆでて刻んだ熊の頬肉と混ぜる。薬味として葱を効かせ、塩で味付けする。[[熊送り]]の際しか作られない貴重な料理なので、量も少ない。儀式を司る[[コタン]]の有力者から、掌に直に下賜される<ref name=" |
[[イオマンテ]](iomante)の際は、熊の[[脳]]のたたき、「チノイペコタタプ」が作られる。材料は熊のほほ肉、脳味噌、葱、塩。儀式で飾り付けた熊の頭から脳味噌を取り出し、あらかじめゆでて刻んだ熊の頬肉と混ぜる。薬味として葱を効かせ、塩で味付けする。[[熊送り]]の際しか作られない貴重な料理なので、量も少ない。儀式を司る[[コタン]]の有力者から、掌に直に下賜される<ref name="b160-161">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.160-161</ref>。 |
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== 保存食 == |
== 保存食 == |
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=== 乾し肉・乾し魚 === |
=== 乾し肉・乾し魚 === |
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アイヌ語では乾し肉をサッカム(satkam)、乾し魚をサッチェプ(satcep)、ニケルイ(nikeruy)、アタッ(atat)と呼ぶ |
アイヌ語では乾し肉をサッカム(satkam)、乾し魚をサッチェプ(satcep)、ニケルイ(nikeruy)、アタッ(atat)と呼ぶ。 |
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特に秋の[[サケ|鮭]]は当座の生食用以外に大量に獲られ、半年を生き抜くための[[保存食]]に加工された。まず頭と内臓を取り除き、戸外の物干しで乾燥させてから屋内に取り込み、囲炉裏の煙に当てて[[燻製]]にする。夏のイチャニウ(icaniw [[マス]])やトゥクシシ(tuksis [[アメマス]])は[[ハエ|蝿]]の害を防ぐため、開いてから火で炙り、[[焼き干し]]に加工する。これら乾し魚、焼き干しはそのままほぐして食べるか、水でもどして汁の実、煮物として食された。産卵後の鮭で作った乾し魚は味が落ちるので、食べる際は魚油を加えて煮込み、旨味を足す<ref name=" |
特に秋の[[サケ|鮭]]は当座の生食用以外に大量に獲られ、半年を生き抜くための[[保存食]]に加工された。まず頭と内臓を取り除き、戸外の物干しで乾燥させてから屋内に取り込み、囲炉裏の煙に当てて[[燻製]]にする。夏のイチャニウ(icaniw [[マス]])やトゥクシシ(tuksis [[アメマス]])は[[ハエ|蝿]]の害を防ぐため、開いてから火で炙り、[[焼き干し]]に加工する。これら乾し魚、焼き干しはそのままほぐして食べるか、水でもどして汁の実、煮物として食された。産卵後の鮭で作った乾し魚は味が落ちるので、食べる際は魚油を加えて煮込み、旨味を足す<ref name="b79-85">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.79-85</ref>。 |
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腹を開いた際に得られるウプ(up [[白子 (精巣)|白子]])やチポロ(cipor [[筋子]])も乾燥して保存し、オハウ(ohaw 汁物)の[[出汁]]やサヨ(sayo [[粥]])に用いられた<ref name=" |
腹を開いた際に得られるウプ(up [[白子 (精巣)|白子]])やチポロ(cipor [[筋子]])も乾燥して保存し、オハウ(ohaw 汁物)の[[出汁]]やサヨ(sayo [[粥]])に用いられた<ref name="b157-158">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.157-158</ref>。 |
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獣肉はごく新鮮なうちは肉から内臓まで生で食されるが、やはり端境期を考えて乾し肉に加工される。ユク(yuk [[エゾシカ|鹿]])、キムンカムイ(kimun kamuy [[ヒグマ]])の肉を細かく切り分け、大鍋で軽くゆでる。汁気を切った後、囲炉裏の上に吊るし、乾燥させつつ煙を当てる。このサッカム(乾し肉)はそのまま食べるか、水から煮込んで汁物にする<ref name=" |
獣肉はごく新鮮なうちは肉から内臓まで生で食されるが、やはり端境期を考えて乾し肉に加工される。ユク(yuk [[エゾシカ|鹿]])、キムンカムイ(kimun kamuy [[ヒグマ]])の肉を細かく切り分け、大鍋で軽くゆでる。汁気を切った後、囲炉裏の上に吊るし、乾燥させつつ煙を当てる。このサッカム(乾し肉)はそのまま食べるか、水から煮込んで汁物にする<ref name="b95">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.95</ref>。 |
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=== ウバユリ澱粉 === |
=== ウバユリ澱粉 === |
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トゥレプ(turep [[オオウバユリ]]の[[鱗茎]])から得られる[[澱粉]]は、アイヌ民族が用いる植物質の食品の中では穀物以上に重要な位置を占める。[[画像:オオウバユリ葉.JPG|thumb|rihgt|250px|オオウバユリの葉 これよりも多少成長した頃合に球根を掘り出す]] |
トゥレプ(turep [[オオウバユリ]]の[[鱗茎]])から得られる[[澱粉]]は、アイヌ民族が用いる植物質の食品の中では穀物以上に重要な位置を占める。[[画像:オオウバユリ葉.JPG|thumb|rihgt|250px|オオウバユリの葉 これよりも多少成長した頃合に球根を掘り出す]] |
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[[旧暦]]4月をアイヌ語でモキウタチュプ(mo kiwtacup 少しばかりウバユリを掘る月)、5月をシキウタチュプ(si kiwtacup 本格的にウバユリを掘る月) |
[[旧暦]]4月をアイヌ語でモキウタチュプ(mo kiwtacup 少しばかりウバユリを掘る月)、5月をシキウタチュプ(si kiwtacup 本格的にウバユリを掘る月)と呼び、この時期に女性達はサラニプ(saranip 編み袋)とイタニ(掘り棒)を手に山野を廻り、オオウバユリの球根を集める。集まった球根から、以下の方法で澱粉を採集する<ref name="b196-201">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.196-201</ref>。 |
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#球根から茎と髭根を切り落とした後、鱗片を一枚一枚はがし、きれいに水洗いする。 |
#球根から茎と髭根を切り落とした後、鱗片を一枚一枚はがし、きれいに水洗いする。 |
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#数日経てば桶の水面には細かい繊維や皮のクズが浮き、底には澱粉が沈殿している。繊維クズはオントゥレプ(後述)を作るために取り分ける。桶の底に溜まった澱粉のうち、半液体状の「二番粉」と粉状の「一番粉」を分離する。 |
#数日経てば桶の水面には細かい繊維や皮のクズが浮き、底には澱粉が沈殿している。繊維クズはオントゥレプ(後述)を作るために取り分ける。桶の底に溜まった澱粉のうち、半液体状の「二番粉」と粉状の「一番粉」を分離する。 |
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これら2種類の澱粉は乾燥して保存するが、その前に出来立ての新鮮なものを料理して楽しむ。水溶きした一番粉をクッタラ(kuttar [[イタドリ]])やワッカクトゥ(wakkakutu [[ヨブスマソウ]])など、空洞になっている草の茎のなかに流し込み、灰の中で蒸し焼きにして[[葛切り|くずきり]]状にしたり、二番粉を団子に丸めてコロコニ(korkoni [[フキ]])やプシニ(pusni [[ホオノキ]])の葉で包んで灰の中で焼き、筋子や獣脂を添えて食べる |
これら2種類の澱粉は乾燥して保存するが、その前に出来立ての新鮮なものを料理して楽しむ。水溶きした一番粉をクッタラ(kuttar [[イタドリ]])やワッカクトゥ(wakkakutu [[ヨブスマソウ]])など、空洞になっている草の茎のなかに流し込み、灰の中で蒸し焼きにして[[葛切り|くずきり]]状にしたり、二番粉を団子に丸めてコロコニ(korkoni [[フキ]])やプシニ(pusni [[ホオノキ]])の葉で包んで灰の中で焼き、筋子や獣脂を添えて食べる。 |
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乾燥して保存された澱粉のうち、日常使用されるのは二番粉である。団子に加工して、サヨ([[粥]])に入れる。一番粉は贈答用や薬用で、普段は滅多に口にできない<ref name=" |
乾燥して保存された澱粉のうち、日常使用されるのは二番粉である。団子に加工して、サヨ([[粥]])に入れる。一番粉は贈答用や薬用で、普段は滅多に口にできない<ref name="b188">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.188</ref>。 |
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なお、一連の澱粉採集作業の間、「酒」と「色事」に関する会話は[[タブー]]。澱粉が落ち着かなくなり、うまく沈殿しなくなるという<ref name=" |
なお、一連の澱粉採集作業の間、「酒」と「色事」に関する会話は[[タブー]]。澱粉が落ち着かなくなり、うまく沈殿しなくなるという<ref name="b200">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.200</ref>。 |
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=== オントゥレプ onturep=== |
=== オントゥレプ onturep=== |
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訳すれば、「醗酵させたウバユリ」。トゥレプ([[オオウバユリ]])から澱粉を抽出する際、同時に集めた皮や繊維などのカスを醗酵させて作った保存食である。以下の方法で作られる<ref name=" |
訳すれば、「醗酵させたウバユリ」。トゥレプ([[オオウバユリ]])から澱粉を抽出する際、同時に集めた皮や繊維などのカスを醗酵させて作った保存食である。以下の方法で作られる<ref name="b201">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.201</ref>。 |
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#オオウバユリの球根を潰して水に晒した際、水面や水中に浮く繊維や皮をイチャリ(icari [[笊]])で集める。 |
#オオウバユリの球根を潰して水に晒した際、水面や水中に浮く繊維や皮をイチャリ(icari [[笊]])で集める。 |
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ペネコショイモ、ムニニイモとも呼ばれる、[[馬鈴薯]]で作る保存食。北海道の寒さを利用した製造過程は、[[南米]]の[[チューニョ]]と酷似している。 |
ペネコショイモ、ムニニイモとも呼ばれる、[[馬鈴薯]]で作る保存食。北海道の寒さを利用した製造過程は、[[南米]]の[[チューニョ]]と酷似している。 |
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秋に収穫された馬鈴薯のうち、形の悪いものや小さいものをそのまま戸外に放置する。やがて冬の寒さでイモは凍り、昼になれば融ける。この過程を繰り返すうちにイモの組織は破壊され、ぶよぶよした手触りになる。 |
秋に収穫された馬鈴薯のうち、形の悪いものや小さいものをそのまま戸外に放置する。やがて冬の寒さでイモは凍り、昼になれば融ける。この過程を繰り返すうちにイモの組織は破壊され、ぶよぶよした手触りになる。このような状態になったイモを水に漬けて溶かし、底に沈んだ澱粉を取り出して丸め、暖かい場所に並べて醗酵させれば、キメの細かい馬鈴薯澱粉ができる。食べる際は丸めて脂で揚げ、潰したチポロ([[イクラ]])をかけて勧める<ref name="b128">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.128</ref>。 |
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== 嗜好品 == |
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このような状態になったイモを水に漬けて溶かし、底に沈んだ澱粉を取り出して丸め、暖かい場所に並べて醗酵させれば、キメの細かい馬鈴薯澱粉ができる。食べる際は丸めて脂で揚げ、潰したチポロ([[イクラ]])をかけて勧める。 |
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[[ファイル:Iomante2.JPG|250px|thumb|[[1930年]]代に行われた[[イオマンテ]]で、神に酒を捧げる男性たち。オッチケ([[膳]])やタカイサラ([[天目台]])の上に載せられたイタンキ([[椀]])の酒を、[[イクパスイ]](椀に渡された箆状の器物)で天界に届ける。右側には、仕込みに使われたシントコ(行器)が見える。]] |
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アイヌ語で「酒」を意味する言葉には、「サケ」「トノト」「アシコロ」がある。サケは言うまでも無く日本語だが、トノトも和人の有力者を意味する「トノ」(殿)から与えられた食べ物、飲み物の意があり、和人の影響下にある言葉と見なせる<ref name="g161-167">[[#農耕文化|アイヌの農耕文化]] P.161-167</ref>。アイヌの酒は稗を麹で醸した[[醸造酒]]で、見た目や味は[[どぶろく]]に酷似している。 |
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酒作りは、すべて女性の手で行われる。周囲からカッケマ(淑女・奥様)と尊崇される人徳備わった女性が担い手にふさわしい。反対に若い女性は不浄とされ、作業には加われない。 |
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=== トノト(どぶろく) === |
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酒の材料は、ピヤパ(稗)かメンクル(黍)が最良とされる。まず大鍋で穀物を粥に炊き、人肌に冷めたところで[[麹]]を混ぜ込む。麹は和人との交易で入手するほか、稗、ドングリ、オオウバユリの球根を煮たものに桂の皮の粉末を振り掛けて自製した。なお、アイヌ語で麹を意味する言葉「カムタチ」は、日本語の古語で糀を意味する言葉「かむたち」と同一である<ref name="E99">[[#瀬川|アイヌの歴史]] P.99</ref>。 |
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酒を仕込んだシントコ(漆塗りの桶)には、魔除けとして熾火を沈める。これは[[アペフチ]](火の神)の分身をいただくことで酒を悪神から守り、仕込みの成功を祈る信仰である。さらに魔除けとしてシントコの上にタシロ(山刀)や[[アイヌ刀|エムシ]]を載せた上で、カムイプラヤ([[チセ]]の一番奥の神聖な窓)の傍に安置し、10日ほど置く。充分に発酵が進んだら[[もろみ]]をイチャリ([[笊]])で濾し、シラリ([[酒粕]])を分離して完成させる。酒はサケピサック(酒柄杓)でかき混ぜてエトウヌップ(片口)に取り、イタンキ(椀)に注ぐ<ref name="b162-169">[[#アイヌの食事|聞き書き アイヌの食事]] P.162-169</ref>。神に酒を捧げる際は、タカイサラ(天目台)に載せたイタンキの酒に[[イクパスイ]](奉酒箆)を浸し、[[イナウ]]に塗り付ける。イクパスイを介することで、人間界では一滴の酒が天界には一樽分もの量になって届くとされた。アイヌにとって酒は「神と共に、皆で味わうもの」とされる。独りでの手酌酒はあり得ない行為だった<ref name="g161-167">[[#農耕文化|アイヌの農耕文化]] P.161-167</ref>。 |
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⚫ | アイヌ民族はプシニ(pusni [[ホオノキ]])の枝や実、オマウクシニ(omawkusni [[コブシ]])の皮や枝、スムヌハシ(sumnuhas [[クロモジ]]の枝)、キキンニ(kikinni [[エゾノウワミズザクラ]])の皮、ハシポ(haspo [[イソツツジ]]の葉)、エント(ento [[ナギナタコウジュ]]の茎葉)、ウペウ(upew [[イブキボウフウ]]の根)、ピットク(pittok [[オオハナウド]]の根)、ムヌシ(munusi [[エゾオオバセンキュウ]]の根)を、煎じて茶のように飲んでいた。また海岸に寄り上がるチプラス(ciprasu [[クスノキ]])も、同様に使われた。[[樺太]]地方ではヌフチャ(nuxca [[カバフトツツジ]]の茎葉)、オタルフニ(otaruxni [[ハマナス]]の木)の削り花の綿、キナカオホニ(kinakaoxni [[エゾイチゴ]]の茎葉)が煎じて飲まれていた |
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[[静内町]]など日高地方のアイヌには、「[[津波]]の神は酒粕を嫌う」との伝承があった。そのため家の周囲に酒粕を撒き、津波除けのまじないとした<ref name="d113-114">[[#伝説集|アイヌ伝説集]] P.113-114</ref>。 |
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====茶==== |
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⚫ | アイヌ民族はプシニ(pusni [[ホオノキ]])の枝や実、オマウクシニ(omawkusni [[コブシ]])の皮や枝、スムヌハシ(sumnuhas [[クロモジ]]の枝)、キキンニ(kikinni [[エゾノウワミズザクラ]])の皮、ハシポ(haspo [[イソツツジ]]の葉)、エント(ento [[ナギナタコウジュ]]の茎葉)、ウペウ(upew [[イブキボウフウ]]の根)、ピットク(pittok [[オオハナウド]]の根)、ムヌシ(munusi [[エゾオオバセンキュウ]]の根)を、煎じて茶のように飲んでいた<ref name="a406-420">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.406-420</ref><ref name="b94">[[#歴史と民俗|アイヌ 歴史と民俗]] P.94</ref>。また海岸に寄り上がるチプラス(ciprasu [[クスノキ]])も、同様に使われた<ref group=note>『分類アイヌ語辞典 植物編』p135より。気候が寒冷な北海道ではクスノキは生育しない。しかし海岸に打ち上げられる木片の中に特別に香気に優れた物を見出すことで、クスノキという植物の存在は知られていた。クスノキのアイヌ語名「チプラス」は、直訳すれば「船の削り屑」である。松浦武四郎は『後方羊蹄日記』に「[[札幌岳]]の山頂に奇妙な木が生えていた。[[文化 (元号)|文化]]年間にあるアイヌがその枝葉を持ち帰ったことで、クスノキだということが判明した。神が内地から持ち帰って植えた物だろうとのことだ。」との伝説を書き残している</ref>。[[樺太]]地方ではヌフチャ(nuxca [[カバフトツツジ]]の茎葉)、オタルフニ(otaruxni [[ハマナス]]の木)の削り花の綿、キナカオホニ(kinakaoxni [[エゾイチゴ]]の茎葉)が煎じて飲まれていた<ref name="jiten"/>。 |
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近代以降は[[本州]]から移入された[[日本茶]]が広く飲まれるようになった。 |
近代以降は[[本州]]から移入された[[日本茶]]が広く飲まれるようになった。 |
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====樹液==== |
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北海道に自生する樹木の中には、甘い樹液を蓄えたものもある。アイヌはこれら樹木のニワッカ(樹液。訳すれば「木の水」)を飲料や調味料に用いた。 |
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北米の[[サトウカエデ]]と同じ種に属するトペニ([[イタヤカエデ]]。アイヌ語で「甘い木」の意)の幹に傷をつければ、甘みのある樹液が流れ出す。冬期のトペニの幹に傷を付けて得られた「樹液のつらら」を[[アイスキャンデー]]のように楽しむほか、煮詰めて甘味料として使用する。これで豆や菱の実を煮込んだ料理は、上等のラタシケプとして好まれた<ref name="a416">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.416</ref>。明治以降の[[砂糖]]の流入で樹液利用も廃れたが、太平洋戦争時の物資不足の折には樹液利用が一時的に復活したという。 |
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=== 煙草 === |
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[[ファイル:WLA brooklynmuseum Ainu Tanpak Op.jpg|タンパク・オプ(煙草入れ)|250px|thumb]] |
[[ファイル:WLA brooklynmuseum Ainu Tanpak Op.jpg|タンパク・オプ(煙草入れ)|250px|thumb]] |
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[[煙草]]を[[アイヌ語]]でタンパク(tampaku)といい、[[和人]]との交易で[[漆器]]や鉄製品、米、綿織物とともに入手していたが、ごく少数の例でアイヌ自身が栽培していたトイタタンパク(toyta tampaku)もあった<ref name=" |
[[煙草]]を[[アイヌ語]]でタンパク(tampaku)といい、[[和人]]との交易で[[漆器]]や鉄製品、米、綿織物とともに入手していたが、ごく少数の例でアイヌ自身が栽培していたトイタタンパク(toyta tampaku)もあった<ref name="b94">[[#歴史と民俗|アイヌ 歴史と民俗]] P.94</ref>。「トイタ」(toyta)は畑仕事の意で「自ら栽培した[[タバコ]]」という意味合いである。 |
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[[幌別郡|幌別地方]]では、栽培しているタバコをアエトイタ・タンパク(aetoyta tampaku)と呼び、野生化したタバコをヤイトゥッカ・タンパク(yaytukka tampaku)と呼ぶ<ref name="jiten"/>。 |
[[幌別郡|幌別地方]]では、栽培しているタバコをアエトイタ・タンパク(aetoyta tampaku)と呼び、野生化したタバコをヤイトゥッカ・タンパク(yaytukka tampaku)と呼ぶ<ref name="jiten"/>。 |
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また煙草の代用品としてオイナマッキナ(oynamatkina [[ノブキ]])、ハシポ(haspo [[イソツツジ]])、リヤハム(riyaham [[キバナノシャクナゲ]])、リヤエムシ(riyaemus [[エゾユズリハ]])、エフルペシキナ(コタニワタリ)が使われることがあった<ref name="jiten"/>。 |
また煙草の代用品としてオイナマッキナ(oynamatkina [[ノブキ]])、ハシポ(haspo [[イソツツジ]])、リヤハム(riyaham [[キバナノシャクナゲ]])、リヤエムシ(riyaemus [[エゾユズリハ]])、エフルペシキナ(コタニワタリ)が使われることがあった<ref name="jiten"/>。 |
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煙管は交易で入手するほか、中が空洞になっているラスパ(rasupa [[ノリウツギ]])の枝で自製したニキセリ(nikiseri 木煙管)もあった。 |
煙管は交易で入手するほか、中が空洞になっているラスパ(rasupa [[ノリウツギ]])の枝で自製したニキセリ(nikiseri 木煙管)もあった<ref name="b94">[[#歴史と民俗|アイヌ 歴史と民俗]] P.94</ref>。 |
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アイヌの言い伝えでは、人間が好む煙草は神や妖怪もまた好むものとされていた。そこで儀式の際は[[カムイ]]に煙草を捧げる。また、山の中で[[キムナイヌ|キムンアイヌ]](kimun aynu [[雪男]]のような妖怪)や[[ミントゥチ]](mintuci [[河童]])に遭遇した際も、煙草を差し出せば悪さをされないばかりか、猟運や宝物を授けてくれるという<ref name=" |
アイヌの言い伝えでは、人間が好む煙草は神や妖怪もまた好むものとされていた。そこで儀式の際は[[カムイ]]に煙草を捧げる。また、山の中で[[キムナイヌ|キムンアイヌ]](kimun aynu [[雪男]]のような妖怪)や[[ミントゥチ]](mintuci [[河童]])に遭遇した際も、煙草を差し出せば悪さをされないばかりか、猟運や宝物を授けてくれるという<ref name="d197">[[#伝説集|アイヌ伝説集]] P.197</ref><ref name="d260">[[#伝説集|アイヌ伝説集]] P.260</ref>。 |
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== 食具・作法 == |
== 食具・作法 == |
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[[ファイル:PSM V33 D519 Ainu at home.jpg|囲炉裏を囲んでの食事風景。[[イザベラ・バード]]のスケッチより。|250px|thumb]] |
[[ファイル:PSM V33 D519 Ainu at home.jpg|囲炉裏を囲んでの食事風景。[[イザベラ・バード]]のスケッチより。|250px|thumb]] |
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アイヌ語で食事を「イペ」という。一日での伝統的な食事回数はクネイワイペ([[朝食]])とオヌマンイペ([[夕食]])の一日2回だが、[[大正時代]]にトケシイペ([[昼食]])が加わって一日3食になった。夜間のサケ漁などの折は、特別にクンネイペ([[夜食]])を摂る<ref name="a411">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.416</ref>。 |
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串焼きの魚やシト([[団子]])は手づかみで口に運ぶが、その他の汁物や煮物はパスイ(pasuy [[箸]])やパラパスイ(parapasuy [[スプーン]])を使って食べる。これらはみな木を削って作ったものである<ref name="minzokusi"/>。 |
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串焼きの魚やシト([[団子]])は手づかみで口に運ぶが、その他の汁物や煮物はパスイ(pasuy [[箸]])やパラパスイ(parapasuy [[スプーン]])を使って食べる。これらはみな木を削って作ったものである<ref name="a406-420">[[#文化保存|アイヌ民俗誌 上巻]] P.406-420</ref>。札幌市北区の[[北海道大学]]構内で発見された[[11世紀]]の遺跡から箸や木製椀が出土しており[http://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/files/hakubutsukagaku/museum/syuzo/27-nouko/27-nouko.html]、パスイ(箸)、ペラ(箆)、プタ(鍋蓋)、パッチ(木鉢)、トゥキ(盃)など食に関わるアイヌ語の単語にはハ行がPの音で発音され、「ツ」の音が「tu」だった[[上代日本語]]の名残が見受けられることから、食具の使用は擦文時代にさかのぼることが伺える。 |
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== アイヌ料理の現在 == |
== アイヌ料理の現在 == |
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今まで述べてきたアイヌ民族の食生活は江戸時代後期から明治初期ころまでの例である。以降は |
今まで述べてきたアイヌ民族の食生活は江戸時代後期から明治初期ころまでの例である。以降は[[明治時代]]に本格化した開拓事業や[[エゾシカ大量死]]などの自然災害などによって、猟の獲物も腹を満たすほどには得られなくなった。現在のアイヌ民族は周囲の[[和人]]と殆ど差のない食生活を送っている<ref name="h104-117">[[#極北|世界の食文化20 極北]] P.104-117</ref>。 |
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しかし山間部に住むアイヌ民族にとっては、春の山菜狩りは今なお一大イベントである。先祖と同じく[[ギョウジャニンニク]]を大量に採集し、「[[おひたし]]」「酢味噌和え」「卵とじ」「醤油漬け」など和人の調理法を取り入れて賞味している |
しかし山間部に住むアイヌ民族にとっては、春の山菜狩りは今なお一大イベントである。先祖と同じく[[ギョウジャニンニク]]を大量に採集し、「[[おひたし]]」「酢味噌和え」「卵とじ」「醤油漬け」など和人の調理法を取り入れて賞味している。 |
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前述のオハウ(汁物)は[[味噌]]を加えられ[[味噌汁]]と同化したが、それでも食生活の中では重要な位置を占めている。ラタシケプは獣脂や魚油の代わりに[[バター]]を使用し、「[[ポテトサラダ]]」風になって現在でも親しまれている。[[ミキサー (調理器具)|ミキサー]]を使ってオオウバユリの球根をすり潰し、抽出した澱粉を中華料理やコーンスープのとろみ付けに使う例もあるという<ref name=" |
前述のオハウ(汁物)は[[味噌]]を加えられ[[味噌汁]]と同化したが、それでも食生活の中では重要な位置を占めている。ラタシケプは獣脂や魚油の代わりに[[バター]]を使用し、「[[ポテトサラダ]]」風になって現在でも親しまれている。[[ミキサー (調理器具)|ミキサー]]を使ってオオウバユリの球根をすり潰し、抽出した澱粉を中華料理やコーンスープのとろみ付けに使う例もあるという<ref name="h104-117">[[#極北|世界の食文化20 極北]] P.104-117</ref>。 |
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アイヌ料理の伝統は、形をかえつつも今なお伝承されているのである。 |
アイヌ料理の伝統は、形をかえつつも今なお伝承されているのである。 |
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現在、アイヌ料理は[[阿寒湖]]畔の観光コタンなどで味わうことができる。[[東京都]]にも、『レラ・チセ』というアイヌ料理店が、[[1994年]]から[[2009年]]11月まで営業していた。[[2011年]][[5月22日]]から、[[新宿区]][[百人町]]に『[[ハルコロ]]』が営業している。 |
現在、アイヌ料理は[[阿寒湖]]畔の観光コタンなどで味わうことができる。[[東京都]]にも、『[[レラ・チセ]]』というアイヌ料理店が、[[1994年]]から[[2009年]]11月まで営業していた。[[2011年]][[5月22日]]から、[[新宿区]][[百人町]]に『[[ハルコロ]]』が営業している。 |
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== 参考文献 == |
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== 外部リンク == |
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2013年5月2日 (木) 08:54時点における版
アイヌ料理(アイヌりょうり)では、アイヌ民族の伝統的な食文化を解説する。
概説
アイヌ民族の食文化は漁労や狩猟で得られた鮭や鹿、山野の採集で得られたオオウバユリの鱗茎やドングリや山菜、畑で栽培された雑穀やジャガイモを素材とする。特徴としては、油脂をふんだんに使った味付けが挙げられる[1][2]。
調味料は塩のほか、タラ、イワシ、ニシン、サメ、アザラシ、エゾシカ、ヒグマなどの脂肪を用いた[3]。近世以降は味噌も使用された。また、コンブや動物の骨、魚の焼き干しを使って出汁をとる文化をもっていた。香辛料としては、ギョウジャニンニクやキハダの実、タネツケバナを利用した[2]。
食材の調達
狩猟
狩猟は盛夏~晩夏を除いて1年の大半の時期に行われ、ユク(yuk エゾシカ)、キムンカムイ(kimun kamuy ヒグマ)、イソポカムイ(isopo kamuy ウサギ)、モユク(moyuk エゾタヌキ)、チロンヌプ(cironnup キタキツネ)、ホイヌ(hoinu テン)、ルオプ(ruop シマリス)などの獣、フミルイ(humiruy エゾライチョウ)、クスイェプ(kusuyep キジバト)、コペチャ(kopeca マガモ)、パラケウ(parkew カケス)、アマメチリ(amameciri スズメ)などの鳥類を狩った[4]。
このうちではシカが最も主要な獲物であった[5]。往時の北海道には想像を絶するほどのシカが生息しており[note 1]、「鍋を火にかけてから狩りに行く」という言葉もあったほど簡単に得ることが出来た[6]。クマやタヌキなどの「狩猟の対象となる動物」をアイヌは「カムイ(神)が人間のために毛皮と肉を土産に持ち、この世に現れた姿」と解釈していたが、シカに関しては「天空にユク(鹿)を司る神『ユクアッテカムイ』(yuk atte kamuy)がいて、大きな袋から人間のために投げ下ろしている」と理解し、それ自体に神格は存在しないものとしていた。あまりの数の多さゆえ、ありがたみが薄れたものらしい[7][note 2]。北海道東部・本別町、足寄町、白糠町の境にまたがる標高745mのウコタキヌプリは土地のアイヌからユクランケヌプリ(鹿が下る山)と呼ばれ、山上で雷鳴が轟く際は天から神が鹿の入った袋を投げおろしているとの伝承があった。周辺の住民は、この山にイナウを捧げて猟運を祈った[8]。
クマは春先に冬眠から覚めたところを狙い、こもる穴の入り口を塞いでから槍で突く。夏場には、毒を塗った仕掛け弓「アマッポ」を獣道に仕掛けて捕らえる。仕掛け弓から発射される矢にはスルク(surku トリカブトの根)の毒が塗られているが、矢が刺さった箇所の肉を握りこぶしの量ほど抉り取って捨てれば、ほかは食べることができた [9]。アイヌがキムンカムイ(山の神)として尊崇する熊の肉は、他の獣肉とは別格とされた。アイヌ語で肉は「カム」だが、熊肉に限っては「カムイハル」(神の食べ物)と呼ぶ。調理の際は「女に調理させない」「他の獣肉と一緒に煮ない」「煮る際、鍋に蓋をしない」などの戒律が守られる。
シカは毒矢の猟の外、崖から追い落として捕らえることも行われた[10]。
漁撈
海に丸木舟を漕ぎ出し、離頭銛でタンヌプ(tannup イルカ)、エタシペ(etaspe トド)、トゥカラ(tukar アザラシ)、ウネウ(unew オットセイ)などの海獣やシリカプ(sirkap メカジキ)、キナポ(kinapo マンボウ)、サメ(same)などの大型魚類を捕らえ、網や釣竿でヘロキ(heroki ニシン)、サマンペ(samampe カレイ)、イワシ(iwasi)、エレクシ(erekus タラ)、チマカニ(cimakani カジカ)、コマイ(komay)、トキカラ(tokikar チカ)、ウッタプ(uttap カスベ)などの小型魚類をとった[4]。
巨大なフンペ(humpe 鯨)はとても丸木舟や銛の手には負えない。したがって「寄り鯨」は大変な自然の恵みだった。白老から日高支庁にかけての地域には、盲目の老婆が寄り鯨を見つけて村人と喜びつつ分け合う様を表現した寸劇「鯨踊り」が伝わる[11]ほか、北海道各地に伝説がある。
- 沖に横たわる大きな岩を「寄り鯨」だと思い込み、焚火をしながら浜に打ち上げられるのを待っていた。しかし一向に打ち上げられるはずも無いまま薪も乏しくなり、大切なイタンキ(itanki 椀)までも火にくべてしまい、やがてそのまま全員が餓死してしまった。(室蘭市イタンキ浜の地名伝承[12])
- 砦に立てこもった敵をおびき出そうとして、一計を思いついた。海辺に砂を盛り上げ、大きな鯨の形を作っておく。それのあちこちに海藻や魚を差し込んでおけば、鳥が寄り付いて騒ぎ、まるで「寄り鯨」が打ち上げられたよう。案の定、敵は騙されて砦から飛び出す。そこを迷わず討ち取った。(浦幌町厚内の砂鯨伝説[13])
上記の例を見ても、寄り鯨の恵みが伺える。ただ、波の静かな噴火湾では古くからトリカブトの毒を塗った銛による捕鯨が行われていた[14]。
沿岸部のコタン(kotan)は海の恵みで潤っていたが、やがて場所請負制によって住民は和人商人が経営する漁場に隷属されることとなり、困窮の道を歩む例が多かった[15][16]。
川漁では釣り、網漁、ウライ(uray 簗)、ラオマプ(raomap 筌)などの方法でカムイチェプ(kamuycep サケ)、イチャニウ(icaniw マス)、スプン(supun ウグイ)、トゥクシシ(tuksis アメマス)、チライ(ciray イトウ)、ユペ(yupe チョウザメ)、スサム(susam シシャモ)、イチャンコッ(icankot ヤマメ)、チポロケソ(ciporkeso イワナ)、ランパラ(rampara フナ)などの魚類を捕獲した[4]。
川の漁で得られる恵みでは、秋になれば川を遡る鮭がもっとも重要な資源だった[17]。アイヌは鮭を「カムイチェプ」(神の魚)と呼び、漁期が近づけば天空の天の川を見上げて「天の石狩川」「天の天塩川」など、その地一番の大河になぞらえ、どこが一番濃く見えるかで漁の豊凶を占った[18]。白老、登別では春先にコブシが下向きの花を付け、漁期に頭がハゲたパシクル(カラス)を見れば、豊漁の兆しとして喜んだ[19]。豊漁祈願として川の神を祀る祭礼「ペッカムイノミ」(川神への祈祷)を催し、やがて最初に上って来た鮭をマレプ(回転式の銛)で丁寧に捕獲し、それを神に捧げる「アシリチェップノミ」(asircepnomi 新たなる鮭の祈祷)を行い、イナウ(inaw)とトノト(tonoto どぶろく)と共にアペフチ(火の女神)に捧げて祈った[19][17]。
サケは回転式の銛「マレク」で突くか、ウライ(簗)で捕らえ、水量のあるところでは2艘の丸木舟の間に網を張って漕ぎ、サケを追い込む「ヤーシ漁」(網漁)を用いた[19]。天空のW字型をしたカシオペア座は2艘の舟と網に似ていることから、アイヌは「ヤーシ・ノッカ」(網曳き形の星)と呼ぶ[20]。暴れるサケはそれ専用に作られた神聖な棍棒・イサパキクニ(isapakikni)で打って止めをさす。鎌などで引っ掛けることは神を冒涜するものとされた。漁期には物忌みが守られ、生理中の女性は川に近づくことを許されなかった[19]。サケは河口のコタンで独り占めはせず、上流部へもいきわたる様に節度を持って獲る。そしてチポロ(筋子)やウプ(白子)を持った美味いサケを狙うのではなく、産卵を終えて弱ったサケ「ホッチャレ」を重点的に獲った[4]。来年への資源確保も重要だが、脂肪が抜けきった「ホッチャレ」のほうが保存に向く、という事情もあった。
こうして獲られたサケは、一部を当座の食用に回すほかはすべて保存食に加工した。腹を割いて内臓を取り除き、戸外の物干し棚にかけて乾燥させる。屋内の囲炉裏の上に吊り下げ、燻製にする。あるいは雪の中に埋めて凍らせる[21]。乾燥サケをサッ・チェプ(satcep 乾いた魚)、もしくはアタッ(atat)と呼ぶ。食べる際は水で戻し、魚油を加えて旨味を足しながら煮込む[22]。 凍ったサケが、現在の北海道で郷土料理として有名なルイベ(ruype)である。食べる際はマキリ(makiri 小刀)で大まかに切り分け、ヤナギの串に刺してから火にあぶって解かし、少量の塩で味をつけて食べる[23]。塩は交易でのみ得られる貴重品なので、保存料として大量には使えなかった。アイヌの伝統的な食文化に、塩引き鮭、新巻鮭は存在しない[23]。
北海道各地に「熊牛」「熊石」などの地名があるが、これらはアイヌ語の「クマ・ウシ」(干場があるところ)に漢字をあてたものである。往時は豊漁の地で、住民が干魚作りにいそしんでいた様が伺える[24]。
海浜採集でホタテ、アサリ、ホッキ、ナマコ、コンブ、ワカメなど、魚介類や海藻類が採集された。特に昆布やナマコは長崎貿易で日本側が俵物として清国に輸出する貴重な物産であり、和人との交易品として重要だった。しかし17世紀半ば以降の交易は不平等なもので、乾し鮭100尾が米一升、背負いきれないほどの昆布が冷や飯一椀、という例すらあった[15]。
山菜・果実採集
狩りや川漁が男性の大切な仕事ならば、山野での山菜、果実採集はアツシ織り、子育て、農業とともに女性の大切な仕事だった。雪が解けて木の芽が芽吹くや、女性はサラニプ(saranip シナノキの繊維で編んだ袋)とメノコマキリ(menoko makiri 女性の小刀)、イタニ(掘り棒)、シッタプ(鹿の角で作った小型の鶴嘴)手に山野へ繰り出した[25]。
春一番でエハ(eha ヤブマメの実)、プクサ(pukusa ギョウジャニンニク)、オハウキナ(ohaw kina ニリンソウ)、アンチャミ(ancami アザミ)、ピットク(pittok オオハナウド)、ノヤ(noya ヨモギ)、マカヨ(makayo フキノトウ)、ソロマ(sorma クサソテツ)、シケレペキナ(sikerpe kina ヒメザゼンソウ)、コルコニ(korkoni アキタブキ)、メンピロ(mempiro ノビルの鱗茎)、ムク(muk バアソブの根)、トプムク(topmuk ツルニンジンの根)を採集し、初夏になれば保存食として重要なトゥレプ(turep オオウバユリの鱗茎)を大量に採集する。秋に至れば木の実がなる。ペロ(pero ナラになるドングリ)やニセウ(nisew カシワになるドングリ)、ヤム(栗)、ネシコ(クルミ)、ハッ(hat ヤマブドウの実)、クッチ(kutci サルナシの実)などである[4]。さらにカルシ(karus キノコ)の類も重要な食料だった。特にユクカルシ(yuk karus マイタケ)は味も良く、和人との交易に出せば優位な取引が出来る[26]。そのため発見した際は、その周りで踊ったのちにオンカミ(onkami 拝礼)しながら採ったという[27]。
湖沼の沿岸に営まれるコタン(kotan)では、栗に似た味のペカンペ(pekampe 菱の実)も重要な産物である。秋になると湖上になる実は、ラタシケプ(rataskep 後述、ここでは煮物)の具、神への供物となる上等な食物である。特に釧路川流域の塘路湖はペカンペの大産地として知られ、沿岸にはその恵みゆえに戸数の多いコタンが存在した。昭和中期まで、この地では秋になるとペカンペの恵みに感謝する神事ペカンペカムイノミ(pekampe kamuy nomi)が厳かに執り行われ、これが済んでから収穫を行っていた。狩猟漁労民族であるアイヌが植物のために行う神事は北海道でもここだけで、大変珍しい例である。[28]それだけ塘路湖のペカンペが多くの人を養ったのだろう。
山菜類は茹で上げてアクを抜き、オハウ(ohaw 汁物)の具やラタシケプ(ここでは山菜と脂の和え物のような料理)とする。そして最も大事なのは、乾燥加工だった。一年の半分を雪に覆われる北海道では、冬季は必然的に青物不足をきたす。それは脚気や壊血病に繋がり、死を招きかねない。そのため春から夏にかけ大量に採取された山菜類は、大鍋で茹で上げた後ゴザに広げて天日乾燥し、ポロサラニプ(poro saranip 大きな袋)に納めてプー(pu 高床倉庫)に保存した[25][29]。
江戸時代後期、ロシアの侵攻に備えた沿岸警備のため北海道で越冬した和人は、米と味噌を中心とした和食に固執したため多くの者が脚気による浮腫に斃れた。1807年にオホーツク海沿岸の斜里郡で発生した津軽藩士殉難事件では、在住の津軽藩士100余名のうち72名が数か月のうちに死亡している。しかしアイヌは乾燥保存した植物や獣肉、魚肉を食べてビタミンを摂取することで過酷な冬を乗り切っていた。
ドングリ類は茹でてアクを抜き、シト(sito 団子)やラタシケプ(ここでは和え物)に加工する[30]。
山菜類の中で最も重要なのはプクサ(ギョウジャニンニク)だった。冬枯れの中で一番に緑濃い茎を出し、食欲をそそるニンニク臭を漂わせる。それはまさに春の喜びであり、女性達は山野に繰り出して採集する。採集の際、問題となるのがセタプクサ(seta pukusa スズラン)の存在である。スズランの芽生えはギョウジャニンニクと酷似しているが、毒草である。したがってアイヌ民族はスズランの芽生えをセタ・プクサ(犬のプクサ)、スズランの実をチロンヌプ・フレップ(狐の苺)と呼んで忌み嫌う[31]。毒草をより分けながら採集されたプクサは茹で上げ、獣脂や塩で和えて食べたり汁の実にする。炊いた際の湯気には薬効があるとされ、風邪の際は蒸気を浴びた[32]。 。さらに特有のニンニク臭は魔物を寄せ付けないとされ、天然痘などの伝染病が流行した際は、村の入り口に掲げ、病魔の退散を願った[33]。西洋の吸血鬼除けにニンニクを使う風習と、相通じるものがある。日本語の北海道方言でプクサを「アイヌネギ」というが、その名はまさに「アイヌ民族の葱」から来ているのである。
日本本土ではほとんど利用されないタネツケバナは、鮭と相性が良いとしてシペキナ(鮭の草)の名で鮭料理の香辛料にされた[34]。北海道弁では「アイヌ山葵」と呼ばれる。
そして、トゥレプ(オオウバユリ)の球根、そしてそれから抽出される澱粉である。これに関しては後述する。
農耕
アイヌ時代の前段階である10世紀ころの擦文時代。さらにそれ以前の続縄文時代から、すでに北海道でも農耕が行われていた。札幌市のサクシュコトニ川流域や、浦幌町十勝太で発見された11世紀の擦文遺跡からはヒエ、アワ、キビなどの雑穀類が出土し、コムギやオオムギも確認されている[35]。さらにオホーツク海沿岸地方で同時期に栄えたオホーツク文化においても、アワ、ヒエ、オオムギの栽培が確認できる[36]。しかし12世紀から始まるアイヌ時代に至って、農耕は縮小する傾向にあった。これは寒冷な気候ゆえに農耕を諦めたというより、本州との交易用の干魚や毛皮調達のため、狩猟、漁労に重きを置いた結果らしい[37]。さらに17世紀後半のシャクシャインの乱以降、アイヌとの交易を自身の都合よく進めたい松前藩は、アイヌが農業で自活しないよう、鍬や鋤、鎌など鉄製農具の流通を制限していたことも理由として上げられる[38][39]。
アイヌ語で農業を「トイタ」と呼ぶ。江戸時代後期の和人の紀行文や明治期の学者によるアイヌへの聞き取り調査によれば、農業は女の仕事であり、片手間に行われるようなものだった[40]。 まず川の沿岸で樹木や雑草の少ない土地を見定める。その地に所有権を主張する意味で十文字に組んだ木「クイタクペ」を立て、数日のうちに開墾・整地すれば、一年限りで土地の所有権が認められる[41]。開墾は樹木を伐採して焼き払う焼畑ではなく、「トイタイヨッペ」という刃を湾曲させた鎌で草地をなぎ払い、土ごと刈り払って整地する簡単なものである[40]。
畑にはピヤパ(稗)、メンクル(黍)、ムンチロ(粟)、ソバ、アタネ(カブ)を蒔きつける。時代が下ってからは豆類、ジャガイモ、南瓜なども栽培されるようになった。雑穀類にはアイヌ語名がついているが、マメ・ジャガイモ、南瓜はアイヌ語でも「マメ」「イモ・エモ」「カンボチャ」であり、時代が古くないことがわかる。記録によれば、寛政年間に最上徳内が蝦夷地に種芋を持ち込み、虻田郡のアイヌに栽培させたのが北海道におけるジャガイモ栽培の起源だという。一方、千島や樺太のアイヌはジャガイモを「ヌチャトマ」(ロシアのエゾエンゴサク[note 3])と呼ぶことから、アイヌ世界におけるジャガイモの伝播には北方(ロシア)と南方(日本)、2つのルートが存在したことが伺える[42]。
一年の耕作の中で豊作を祈る予祝芸能などの儀礼は行われないが、播種の際には種もみを野鳥の卵に浸してから蒔く。これは、野鳥の生命力にあやかって作物の生育を祈る信仰である。また、カッコウや鴨の巣、蛇の抜け殻を保持していれば豊作に恵まれるとの伝承もあった[43]。実際の農作業では畑に畝を切らず、肥料は下肥は言うまでも無く、灰、腐葉土の類まで「大地を穢す」と見なされて施されなかった。除草もそれほど行われなかったため、秋の収穫量は大した物にはならなかった[43]。
ただ、広大な北海道は地方によって気候にも差があり、温暖な道南や日高地方では、畑の隅の糠を捨てる場所・ムルクタヌサが、神聖な場所とされていた[38]。それだけ農耕に重点を見出し、丹念に耕作をしていたのだろう。反対に寒冷で農耕に適さない道北に住むアイヌは、農業の基本すら知らなかったらしい。明治中期、役人が名寄付近のアイヌに農業の普及を図り、「これを土に埋めれば美味しいものができる」と、ジャガイモの種芋とニンジンの種を渡し、簡単な説明をして帰った。ところが秋になって再訪してみると、「シャモ(和人)に騙された!」と酷く機嫌が悪い。よく聞き合わせてみると、種芋は俵ごと土に埋めたのですべて腐ってしまい、ニンジンの種は藪の中にばら撒きにしたので、ネズミの尻尾ほどの太さにすらならなかったという。
秋に至って稔った穀物は、「ピパ」と呼ばれるカワシンジュガイの殻で作った道具で一つ一つ穂首刈りにされる。この収穫法は、弥生時代に本州などで石包丁を使って行われた稲の収穫と酷似している[40]。このようにして収穫された穀物は乾燥されたのちプー(高床式倉庫)に納められ、必要に応じてニス(臼)で精白、製粉し、サヨ(粥)やシト(団子)、トノト(酒)に加工される。カブや馬鈴薯、南瓜は汁の具、ラタシケプ(後述)の材料となった。さらに馬鈴薯は冬の寒さを利用し、ポッチェイモという保存食品に加工した[40]。
稲作は行われていなかったが、米は擦文時代から交易で入って来ていた。北海道各地で発見されている青森県五所川原産の須恵器は、米を移出する際の容器として使われた物と考えられている[44]。しかしこれは特別な時にしか食べられない、大変ぜいたくな物だった。アイヌ語で米を意味する言葉「シアマム」は、直訳すれば「真の穀物」。その重要さが伺える。
時代が下るにつれて野菜類も順次北海道に伝来した。幕末の探検家・松浦武四郎は、紀行文「石狩日誌」に空知川流域のコタンで胡瓜が栽培されているさまを記している。さらに繊維用の麻や、嗜好用の煙草が栽培されることもあった[45]。
調理法
7世紀から12世紀ころにかけて栄えた擦文時代の竪穴式住居は家の中央部に囲炉裏が切られるとともに、壁際には煙道が備えられた竈が設けられ、煮炊きの一翼を担っていた。しかし12世紀ころを起源とするアイヌ文化時代に至るや、なぜか竈は廃れた[37]。この理由はよくわからない。薪が貴重な寒冷地ゆえ、その浪費を避けるために、家の中心の炉に「暖房」、「照明」、「調理」を集約したためかもしれない。
アイヌの住居チセ(cise)は、地面を踏み固めた上に藁やゴザ、毛皮を敷いて床とした平地式住居で、その中央に木尻席を欠いた大きな囲炉裏が設けられていた。この囲炉裏に数個のシュワッ(自在鉤)が下げられ、そこに和人との交易で得られた大小のシュー(鉄鍋)がかけられている。
アイヌは和人やニヴフと同様生食を好み、素材の新鮮さを最大限に生かした「刺身」「肉や魚のたたき」が大変に好まれていた。加熱調理については、炉の直火と鍋のみで可能な調理法、すなわち「あぶる」「焼く」「煮る」「ゆでる」が全てである。蒸し物や揚げ物は存在しなかった[1]。
アイヌ文化ではオオウバユリの搾りかすから作った保存食品オントゥレプ(後述)やトノト(どぶろく)を除いて発酵文化が発達しなかった。和人から味噌や日本酒、醤油を交易で入手して食文化に取り入れていたものの、アイヌが自らこれらを作ることはなかった。
おもな料理
オハウ ohaw(煮込み汁)
獣肉や魚肉、山菜、野菜を鉄鍋で煮込んだ汁物。単なるスープに留まらず、鍋料理とも言えるほど具沢山の汁物で、「主食」が存在しない狩猟・漁労民族であるアイヌの食生活の中心を成す料理だった。現在、北海道の郷土料理として名高い石狩鍋、三平汁の起源とも言われている。 具材に特に決まりはないが、大体以下の様な方法で調理される[46]。 。
- 鍋に水を張り、獣骨や小魚の焼き干しを入れて火にかけ、出汁を取る。
- 大まかに切り分けた肉、魚を入れて煮る。乾肉、乾魚の場合は時間をかけて煮る。肉や魚のアクは一種の薬効成分と考えられているので、取り除かない[47]。
- 野菜は根菜などの煮えにくいものから入れ、つぎに繊維の多い山菜、そして葉物野菜を入れる。それらが柔らかくなるまで煮込む。
- 動物性脂肪、魚油、少量の塩で味を整え、最後に風味付けとして焼き昆布の粉末、乾燥させたプクサ(ギョウジャニンニク)をふりかける。
※肉のアクが気になるようであれば、後から入れる野菜や薬味に吸わせる[47]。
中心となる具材からそれぞれ「チェプオハウ」(cep ohaw 魚汁)、「カムオハウ」(kam- 肉汁)、「カムイオハウ」(kamuy- 熊汁)、「キナオハウ」(kina- 野菜汁)などと呼ばれていた。ニリンソウは汁と相性が良いため「オハウキナ」(ohawkina 汁の草)と呼ばれ、具材として特に好まれていた[48]。
ラタシケプ rataskep(野草による煮物や和え物)
直訳すれば「混ぜたもの」。山菜や野菜、豆類を柔らかく汁気が無くなるまで煮込み、軽く潰してから獣脂、魚油、少量の塩で味を整えた料理[49]。 日常食としても作られるが、儀式の供物や振る舞いには欠かせない、ハレ食である。
使用する材料によって限りない種類がある[49]。
- シケレペキナラタシケプ sikerpekina rataskep
- 乾燥させたシケレペキナ(ヒメザゼンソウ)を湯で戻してから、弱火で数時間、汁気が無くなるまで炊く。食べやすい大きさに刻み、獣脂と塩少量で味を整える。
- プクサラタシケプ pukusa rataskep
- 豆を柔らかくなるまで炊き、プクサ(ギョウジャニンニク)の茎を加えてさらに炊く。獣脂と塩で味を整える。
- チスイェラタシケプ cisuye rataskep
- 初夏に採集したチスイェ(アマニュウ)で作る。豆を炊いて柔らかくなったところにチスイェを加えてさらに炊き、獣脂と魚油で味を整える。
- かぼちゃラタシケプ kampoca rataskep
- 豆を柔らかくなるまで炊き、切干にして保存しておいた南瓜を水で戻して入れ、さらに炊く。南瓜が煮崩れたところで、塩と魚油で味を整える。香辛料としてシケレペ(キハダ)の実をふりかける。
- チポロラタシケプ cipor rataskep
- 「チポロイモ」とも呼ばれる料理。馬鈴薯は皮ごとゆでる。別の鍋にチポロ(筋子)を入れ、弱火で潰しながら半煮えにする。茹で上がった馬鈴薯は皮をむいて厚切りにし、先ほどの煮えたチポロを入れ、塩を加えてよく混ぜる。
- ニセウラタシケプ nisew rataskep
- ニセウ(どんぐり)は殻を取り、渋皮つきのまま数回ゆでこぼしてアクを抜く。ここにあらかじめ水戻ししておいた豆を水と共に入れ、沸騰したら煮汁を捨てる。再度水を注いで全体が柔らかくなるまで煮込み、玉蜀黍の粒を入れてさらに煮る。好みの柔らかさになったら米の粉を入れ、全体を練り上げる。塩と脂で味を整え、出来上がり。
なお、チエトイ(珪藻土。アイヌ語で「我ら食べる土」の意)で山菜類を和えた食品も、珍味として好まれていた[6]。
サヨ sayo(粥)
ピヤパ(稗)やシアマム(米)で炊いた薄い粥。大抵は穀物のみで炊かれるが、山菜などを炊き込む場合もある。農耕民族のような「主食」としての粥ではなく、脂こい汁物や焼肉、焼き魚で腹を満たしたのち、「口直し」として茶のようにすすられるものである[50]。そのため脂気が混じらないように、それ専用の小鍋で炊かれる。盛り付けの際も、掬うカスプ(お玉杓子)は汁用とは別のサヨカスプ(粥杓子)を用い、汁の味が混ざらないよう気を配った[1]。
このサヨには、以下の種類がある[50]。
- トゥレプサヨ turep sayo
- トゥレプ(オオウバユリ)から澱粉を採集した際の澱粉滓を醗酵させた保存食オントゥレプ(on turep)を入れた粥。まず硬く乾燥したオントゥレプを臼で搗き砕き、水で戻す。水の沈殿物で直径3センチほどの団子を作り、稗の薄い粥に入れてさらに炊く。
トゥレプの球根の鱗茎を入れた粥も、同じ名前で呼ばれる。 - イルプサヨ irup sayo
- オオウバユリのイルプ(澱粉)を団子にして入れた粥。
- エントサヨ ento sayo
- 山菜の一種であるエント(ナギナタコウジュ)を入れた粥。独特の香気が好まれる。
- サッシラリサヨ satsirari sayo
- トノト(どぶろく)を作ったときにできるシラリ(酒粕)を、粥に入れる。
- キキンニサヨ kikinni sayo
- キキンニ(エゾノウワミズザクラ)の皮を入れた粥。
- チポロサヨ cipor sayo
- 米で粥を炊き、チポロ(イクラ)を入れる。生イクラを使ったチポロサヨは、秋にしか食べられないごちそうである。それ以外の季節は、サッチポロ(sat cipor 乾燥筋子)を入れた粥を作る。
シト sito(団子)
団子。名称の「シト」は、大和言葉でペースト状にすりつぶした生の穀物や団子をさす「しとぎ」と同系統とされている[1][51]。かつて穀物の精白や製粉を臼による手作業でこなしていた時代は、その手間ゆえに贅沢な食品。日常の食品としてよりも、イオマンテ(熊送り)やイチャルパ(祖霊祭)その他、ハレの日の供物やご馳走して作られることが多かった[52]。
材料はメンクル(黍)、ムンチロ(粟)、シアマム(米)。メンクルで作られた物を本式とする。時代が下がればエモ(馬鈴薯)、カンポチャ(南瓜)も材料として加わった。日本の草餅と同じく、ノヤ(ヨモギ)を混ぜ込んだ「ノヤシト」も春の味として好まれていた[48]。
作り方は以下の通り[53]。
- 精白された穀物を一晩水に漬ける。水から上げたのち、一晩水を切る。
- 穀物を臼に入れ、数人でイウタウポポ(杵搗き歌)を唄い調子を取りながら搗いて粉にする。
- 出来上がった粉を湯で練上げ、直径7、8センチ、厚さ1センチほどの大きさに丸める。
- 大鍋に沸かした湯で、鍋底に焦げ付かないように注意しながら茹で上げる。
茹で上がったシトは、供物にするならばそのままシントコ(sintoko 漆塗りの桶)、パッチ(patci 木鉢)、オッチケ(膳)に盛り付けるか、ミズキの串に刺した巨大な串団子「ニッオシト」にして神前に捧げる[52]。人間が食べる際は、チポロ(イクラ)を半潰しにしたものか、焼いた昆布を砕き、脂で練ったタレをつける[54]。
シトの食品としての歴史は古く、厚真町で発見された擦文時代の遺跡からもアワ製の団子が発見されている[37]。一方でアイヌの伝統的な食文化に蒸した穀物を臼で搗き潰した「餅」は存在しなかった。アイヌが日本式の餅に接したのは、場所請負制などで和人の往来が増えた江戸時代後期以降である[55]。
チタタプ citatap(肉や魚のたたき)
チタタプというアイヌ語を訳すれば、「チ・タタ・プ」(ci-tata-p 我々が・たくさん叩いた・もの)。その名の通り、魚のたたきである。
以下は、代表的な作り方[56]。
- 鮭のアラ、頭、白子をイタタニ(丸太を輪切りにして作った俎板)に乗せ、鉈のような重みのある刃物で刻み、叩く。
- ペースト状になるまで叩いたら葱、メンピロ(ノビル)、プクサ(ギョウジャニンニク)のみじん切りを薬味として加える。
- 焼き昆布と塩で味を整える。
鮭以外でも、スプン(ウグイ)、ウッタプ(カスベ)、イチャニウ(マス)、チマカニ(カジカ)などあらゆる魚、さらにユク(鹿)、キムンカムイ(ヒグマ)、モユク(狸)、イソポカムイ(兎)、さらにルオプ(シマリス)などの獣肉も刻んで薬味を加え、チタタプに加工された。老いた獣の肉は固いことが多いので、チタタプに加工すれば食べやすい[57]。
これらのチタタプの鮮度が落ちた場合は、つみれのように汁に入れる[58]。
イオマンテ(iomante)の際は、熊の脳のたたき、「チノイペコタタプ」が作られる。材料は熊のほほ肉、脳味噌、葱、塩。儀式で飾り付けた熊の頭から脳味噌を取り出し、あらかじめゆでて刻んだ熊の頬肉と混ぜる。薬味として葱を効かせ、塩で味付けする。熊送りの際しか作られない貴重な料理なので、量も少ない。儀式を司るコタンの有力者から、掌に直に下賜される[59]。
保存食
乾し肉・乾し魚
アイヌ語では乾し肉をサッカム(satkam)、乾し魚をサッチェプ(satcep)、ニケルイ(nikeruy)、アタッ(atat)と呼ぶ。
特に秋の鮭は当座の生食用以外に大量に獲られ、半年を生き抜くための保存食に加工された。まず頭と内臓を取り除き、戸外の物干しで乾燥させてから屋内に取り込み、囲炉裏の煙に当てて燻製にする。夏のイチャニウ(icaniw マス)やトゥクシシ(tuksis アメマス)は蝿の害を防ぐため、開いてから火で炙り、焼き干しに加工する。これら乾し魚、焼き干しはそのままほぐして食べるか、水でもどして汁の実、煮物として食された。産卵後の鮭で作った乾し魚は味が落ちるので、食べる際は魚油を加えて煮込み、旨味を足す[60]。
腹を開いた際に得られるウプ(up 白子)やチポロ(cipor 筋子)も乾燥して保存し、オハウ(ohaw 汁物)の出汁やサヨ(sayo 粥)に用いられた[52]。
獣肉はごく新鮮なうちは肉から内臓まで生で食されるが、やはり端境期を考えて乾し肉に加工される。ユク(yuk 鹿)、キムンカムイ(kimun kamuy ヒグマ)の肉を細かく切り分け、大鍋で軽くゆでる。汁気を切った後、囲炉裏の上に吊るし、乾燥させつつ煙を当てる。このサッカム(乾し肉)はそのまま食べるか、水から煮込んで汁物にする[61]。
ウバユリ澱粉
トゥレプ(turep オオウバユリの鱗茎)から得られる澱粉は、アイヌ民族が用いる植物質の食品の中では穀物以上に重要な位置を占める。
旧暦4月をアイヌ語でモキウタチュプ(mo kiwtacup 少しばかりウバユリを掘る月)、5月をシキウタチュプ(si kiwtacup 本格的にウバユリを掘る月)と呼び、この時期に女性達はサラニプ(saranip 編み袋)とイタニ(掘り棒)を手に山野を廻り、オオウバユリの球根を集める。集まった球根から、以下の方法で澱粉を採集する[62]。
- 球根から茎と髭根を切り落とした後、鱗片を一枚一枚はがし、きれいに水洗いする。
- 鱗片を大きな桶に入れ、斧の刃の峰を杵がわりにして粘りが出るまで搗き潰す。その後で桶に水を大量に注ぎ、2日ほど放置する。
- 数日経てば桶の水面には細かい繊維や皮のクズが浮き、底には澱粉が沈殿している。繊維クズはオントゥレプ(後述)を作るために取り分ける。桶の底に溜まった澱粉のうち、半液体状の「二番粉」と粉状の「一番粉」を分離する。
これら2種類の澱粉は乾燥して保存するが、その前に出来立ての新鮮なものを料理して楽しむ。水溶きした一番粉をクッタラ(kuttar イタドリ)やワッカクトゥ(wakkakutu ヨブスマソウ)など、空洞になっている草の茎のなかに流し込み、灰の中で蒸し焼きにしてくずきり状にしたり、二番粉を団子に丸めてコロコニ(korkoni フキ)やプシニ(pusni ホオノキ)の葉で包んで灰の中で焼き、筋子や獣脂を添えて食べる。
乾燥して保存された澱粉のうち、日常使用されるのは二番粉である。団子に加工して、サヨ(粥)に入れる。一番粉は贈答用や薬用で、普段は滅多に口にできない[63]。
なお、一連の澱粉採集作業の間、「酒」と「色事」に関する会話はタブー。澱粉が落ち着かなくなり、うまく沈殿しなくなるという[64]。
オントゥレプ onturep
訳すれば、「醗酵させたウバユリ」。トゥレプ(オオウバユリ)から澱粉を抽出する際、同時に集めた皮や繊維などのカスを醗酵させて作った保存食である。以下の方法で作られる[65]。
- オオウバユリの球根を潰して水に晒した際、水面や水中に浮く繊維や皮をイチャリ(icari 笊)で集める。
- よく水気を絞ったのち、コロコニ(フキ)やワッカクトゥ(ヨブスマソウ)の葉で包んで3~10日ほど寝かせ、醗酵させる。この醗酵作業をオン(on)という。
- オンさせたものを臼に入れ、よく搗き潰す。搗きあがったらこねてドーナツ状に丸め、乾燥させる。
- 紐を通し、炉の火棚に吊るして貯蔵する。
食べる際は搗き砕いて水でもどし、団子にしてサヨ(粥)に入れる。
ポッチェイモ
ペネコショイモ、ムニニイモとも呼ばれる、馬鈴薯で作る保存食。北海道の寒さを利用した製造過程は、南米のチューニョと酷似している。
秋に収穫された馬鈴薯のうち、形の悪いものや小さいものをそのまま戸外に放置する。やがて冬の寒さでイモは凍り、昼になれば融ける。この過程を繰り返すうちにイモの組織は破壊され、ぶよぶよした手触りになる。このような状態になったイモを水に漬けて溶かし、底に沈んだ澱粉を取り出して丸め、暖かい場所に並べて醗酵させれば、キメの細かい馬鈴薯澱粉ができる。食べる際は丸めて脂で揚げ、潰したチポロ(イクラ)をかけて勧める[66]。
嗜好品
酒
アイヌ語で「酒」を意味する言葉には、「サケ」「トノト」「アシコロ」がある。サケは言うまでも無く日本語だが、トノトも和人の有力者を意味する「トノ」(殿)から与えられた食べ物、飲み物の意があり、和人の影響下にある言葉と見なせる[67]。アイヌの酒は稗を麹で醸した醸造酒で、見た目や味はどぶろくに酷似している。
酒作りは、すべて女性の手で行われる。周囲からカッケマ(淑女・奥様)と尊崇される人徳備わった女性が担い手にふさわしい。反対に若い女性は不浄とされ、作業には加われない。
酒の材料は、ピヤパ(稗)かメンクル(黍)が最良とされる。まず大鍋で穀物を粥に炊き、人肌に冷めたところで麹を混ぜ込む。麹は和人との交易で入手するほか、稗、ドングリ、オオウバユリの球根を煮たものに桂の皮の粉末を振り掛けて自製した。なお、アイヌ語で麹を意味する言葉「カムタチ」は、日本語の古語で糀を意味する言葉「かむたち」と同一である[68]。
酒を仕込んだシントコ(漆塗りの桶)には、魔除けとして熾火を沈める。これはアペフチ(火の神)の分身をいただくことで酒を悪神から守り、仕込みの成功を祈る信仰である。さらに魔除けとしてシントコの上にタシロ(山刀)やエムシを載せた上で、カムイプラヤ(チセの一番奥の神聖な窓)の傍に安置し、10日ほど置く。充分に発酵が進んだらもろみをイチャリ(笊)で濾し、シラリ(酒粕)を分離して完成させる。酒はサケピサック(酒柄杓)でかき混ぜてエトウヌップ(片口)に取り、イタンキ(椀)に注ぐ[69]。神に酒を捧げる際は、タカイサラ(天目台)に載せたイタンキの酒にイクパスイ(奉酒箆)を浸し、イナウに塗り付ける。イクパスイを介することで、人間界では一滴の酒が天界には一樽分もの量になって届くとされた。アイヌにとって酒は「神と共に、皆で味わうもの」とされる。独りでの手酌酒はあり得ない行為だった[67]。
静内町など日高地方のアイヌには、「津波の神は酒粕を嫌う」との伝承があった。そのため家の周囲に酒粕を撒き、津波除けのまじないとした[70]。
飲料
茶
「茶」と言ってもツバキ科の常緑樹「チャ」の葉を加工した飲料ではなく、冷帯気候の北海道に自生する木の実や皮、薬草の煎じ汁(茶外茶)である[1]。
アイヌ民族はプシニ(pusni ホオノキ)の枝や実、オマウクシニ(omawkusni コブシ)の皮や枝、スムヌハシ(sumnuhas クロモジの枝)、キキンニ(kikinni エゾノウワミズザクラ)の皮、ハシポ(haspo イソツツジの葉)、エント(ento ナギナタコウジュの茎葉)、ウペウ(upew イブキボウフウの根)、ピットク(pittok オオハナウドの根)、ムヌシ(munusi エゾオオバセンキュウの根)を、煎じて茶のように飲んでいた[1][47]。また海岸に寄り上がるチプラス(ciprasu クスノキ)も、同様に使われた[note 4]。樺太地方ではヌフチャ(nuxca カバフトツツジの茎葉)、オタルフニ(otaruxni ハマナスの木)の削り花の綿、キナカオホニ(kinakaoxni エゾイチゴの茎葉)が煎じて飲まれていた[27]。
近代以降は本州から移入された日本茶が広く飲まれるようになった。
樹液
北海道に自生する樹木の中には、甘い樹液を蓄えたものもある。アイヌはこれら樹木のニワッカ(樹液。訳すれば「木の水」)を飲料や調味料に用いた。
春先のカパッタッニ(kapattatni シラカバの幹)に傷を付ければ、大量の樹液が流れ出す。この樹液をタッニ・ワッカ(tatni wakka シラカバの水)と呼び、周囲に水場がない場所で野営する際の炊事の水に用いていたが、このシラカバ樹液に刻んだシケレペキナ(ヒメザゼンソウ)を入れて風味を付け、飲用とすることも行われていた[47]。樺太アイヌは、放置して固まりかけたシラカバ樹液にクロスグリの汁を入れて発酵させ、酒を造った。
北米のサトウカエデと同じ種に属するトペニ(イタヤカエデ。アイヌ語で「甘い木」の意)の幹に傷をつければ、甘みのある樹液が流れ出す。冬期のトペニの幹に傷を付けて得られた「樹液のつらら」をアイスキャンデーのように楽しむほか、煮詰めて甘味料として使用する。これで豆や菱の実を煮込んだ料理は、上等のラタシケプとして好まれた[71]。明治以降の砂糖の流入で樹液利用も廃れたが、太平洋戦争時の物資不足の折には樹液利用が一時的に復活したという。
煙草
煙草をアイヌ語でタンパク(tampaku)といい、和人との交易で漆器や鉄製品、米、綿織物とともに入手していたが、ごく少数の例でアイヌ自身が栽培していたトイタタンパク(toyta tampaku)もあった[47]。「トイタ」(toyta)は畑仕事の意で「自ら栽培したタバコ」という意味合いである。
幌別地方では、栽培しているタバコをアエトイタ・タンパク(aetoyta tampaku)と呼び、野生化したタバコをヤイトゥッカ・タンパク(yaytukka tampaku)と呼ぶ[27]。
煙草は刻んでからキセリ(kiseri 煙管)に詰めて使用された。クッタラ(kuttarイタドリ)、ハッハム(hatham ヤマブドウの葉)、ウペウ(upew イブキボウフウ)、エフルペシキナ(ehurpeskina コタニワタリ)を混ぜることもあった[27]。 また煙草の代用品としてオイナマッキナ(oynamatkina ノブキ)、ハシポ(haspo イソツツジ)、リヤハム(riyaham キバナノシャクナゲ)、リヤエムシ(riyaemus エゾユズリハ)、エフルペシキナ(コタニワタリ)が使われることがあった[27]。
煙管は交易で入手するほか、中が空洞になっているラスパ(rasupa ノリウツギ)の枝で自製したニキセリ(nikiseri 木煙管)もあった[47]。
アイヌの言い伝えでは、人間が好む煙草は神や妖怪もまた好むものとされていた。そこで儀式の際はカムイに煙草を捧げる。また、山の中でキムンアイヌ(kimun aynu 雪男のような妖怪)やミントゥチ(mintuci 河童)に遭遇した際も、煙草を差し出せば悪さをされないばかりか、猟運や宝物を授けてくれるという[72][73]。
食具・作法
アイヌ語で食事を「イペ」という。一日での伝統的な食事回数はクネイワイペ(朝食)とオヌマンイペ(夕食)の一日2回だが、大正時代にトケシイペ(昼食)が加わって一日3食になった。夜間のサケ漁などの折は、特別にクンネイペ(夜食)を摂る[74]。
鍋で調理された料理はカスプ(kasup お玉杓子)ですくい、イタンキ(itanki 椀)に盛り付けられる。このイタンキは和人との交易で入手した漆器で、400mlは入る大型のものである。椀に入りきらない大きな魚や肉の塊は、ヨシで編んだ敷物に乗せられる[1]。
串焼きの魚やシト(団子)は手づかみで口に運ぶが、その他の汁物や煮物はパスイ(pasuy 箸)やパラパスイ(parapasuy スプーン)を使って食べる。これらはみな木を削って作ったものである[1]。札幌市北区の北海道大学構内で発見された11世紀の遺跡から箸や木製椀が出土しており[1]、パスイ(箸)、ペラ(箆)、プタ(鍋蓋)、パッチ(木鉢)、トゥキ(盃)など食に関わるアイヌ語の単語にはハ行がPの音で発音され、「ツ」の音が「tu」だった上代日本語の名残が見受けられることから、食具の使用は擦文時代にさかのぼることが伺える。
客人に対しては主婦が「イペヤン」(お上がりください)といって勧める。客人は謝意を述べ、カムイハル(熊肉)のような貴重品ならば額まで捧げて押し戴いた後に箸をつける。一方、家人のみの食事では何も言わず食べ始める。食事が済んだら、食べ物に感謝を捧げる意味で「フンナ」と一言いう[75]。
出された食事は、和人と同じく「残さず食べる」のがマナーである。食事の最後には椀の内側を指で丁寧に拭い、残った汁気を舐める。そのため人差し指はイタンキ・ケム・アシケッペ(椀を舐める指)の名で呼ばれている[1][47]。
アイヌ料理の現在
今まで述べてきたアイヌ民族の食生活は江戸時代後期から明治初期ころまでの例である。以降は明治時代に本格化した開拓事業やエゾシカ大量死などの自然災害などによって、猟の獲物も腹を満たすほどには得られなくなった。現在のアイヌ民族は周囲の和人と殆ど差のない食生活を送っている[76]。
しかし山間部に住むアイヌ民族にとっては、春の山菜狩りは今なお一大イベントである。先祖と同じくギョウジャニンニクを大量に採集し、「おひたし」「酢味噌和え」「卵とじ」「醤油漬け」など和人の調理法を取り入れて賞味している。
前述のオハウ(汁物)は味噌を加えられ味噌汁と同化したが、それでも食生活の中では重要な位置を占めている。ラタシケプは獣脂や魚油の代わりにバターを使用し、「ポテトサラダ」風になって現在でも親しまれている。ミキサーを使ってオオウバユリの球根をすり潰し、抽出した澱粉を中華料理やコーンスープのとろみ付けに使う例もあるという[76]。
アイヌ料理の伝統は、形をかえつつも今なお伝承されているのである。
現在、アイヌ料理は阿寒湖畔の観光コタンなどで味わうことができる。東京都にも、『レラ・チセ』というアイヌ料理店が、1994年から2009年11月まで営業していた。2011年5月22日から、新宿区百人町に『ハルコロ』が営業している。
脚注
- ^ 松浦武四郎は自著『東蝦夷日誌第四編』に、安政5年(1858年)夏に日高国での体験として、「静内、新冠の分水嶺となる山中の草原を見下ろせば、三丁四方が赤く染まっていた。同行の土人(ママ)に尋ねたところ、彼はすぐさま弓矢を携えて駆け出していく。途端に赤い集まりは八方に四散した。赤い枯草の連なりと見たのは、鹿の群れだったのだ。その数は万に及ぶだろう」と書き残している。
- ^ 平成19年、厚真町のニタップナイ遺跡の発掘調査で、江戸時代初期の地層からエゾシカの頭骨が25頭分、雄と雌に分別した上で4-5段に積み上げられた状態で出土した。これは「送り儀礼」に関わる頭骨の安置場所と推定されることから、エゾシカにおける「神格」の有無は時代により失われたとの見方もある。(『アイヌ史を問い直す』p75-77より。)
- ^ エゾエンゴサク(アイヌ語名:トマ)は、アイヌが古くから食用としてきた山菜である。芋状にふくれた根を煮て、獣脂や魚油をつけて味わう。
- ^ 『分類アイヌ語辞典 植物編』p135より。気候が寒冷な北海道ではクスノキは生育しない。しかし海岸に打ち上げられる木片の中に特別に香気に優れた物を見出すことで、クスノキという植物の存在は知られていた。クスノキのアイヌ語名「チプラス」は、直訳すれば「船の削り屑」である。松浦武四郎は『後方羊蹄日記』に「札幌岳の山頂に奇妙な木が生えていた。文化年間にあるアイヌがその枝葉を持ち帰ったことで、クスノキだということが判明した。神が内地から持ち帰って植えた物だろうとのことだ。」との伝説を書き残している
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- ^ 聞き書き アイヌの食事 P.109
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- ^ 聞き書き アイヌの食事 P.79-85
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- ^ 聞き書き アイヌの食事 P.188
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- ^ 聞き書き アイヌの食事 P.128
- ^ a b アイヌの農耕文化 P.161-167
- ^ アイヌの歴史 P.99
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- ^ アイヌ伝説集 P.113-114
- ^ アイヌ民俗誌 上巻 P.416
- ^ アイヌ伝説集 P.197
- ^ アイヌ伝説集 P.260
- ^ アイヌ民俗誌 上巻 P.416
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- ^ a b 世界の食文化20 極北 P.104-117
参考文献
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- 更科源蔵『アイヌ 歴史と民俗』社会思想社、1968年。ASIN B000JA5YH0。
- 更科源蔵『アイヌ伝説集』みやま書房、1981年。
- 瀬川拓郎『アイヌの歴史』講談社、2007年。ISBN 978-4062584012。
- 知里真志保『分類アイヌ語辞典』平凡社。ASIN B000JB3WQ4。
- 林喜茂 (1969). アイヌの農耕文化. 慶友社. ASIN B000J9W90Q
- 萩中美枝; 藤村久和; 村木美幸; 畑井朝子; 古原敏弘 (1992). 日本の食生活全集48 聞き書き アイヌの食事. 農山漁村文化協会. ISBN 9784540920042
- 岸上伸啓; 木原仁美; 葛野浩昭; 佐々木史郎; 手塚薫; 吉田睦 (1995). 世界の食文化20 極北. 農山漁村文化協会. ISBN 978-4540050060
- 簑島栄紀 (2011). アイヌ史を問い直す. 勉誠出版. ISBN 4585226052