「アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)」の版間の差分
m r2.7.2+) (ロボットによる 変更: es:Arthur Wellesley |
m →爵位: 巻数訂正。 |
||
(8人の利用者による、間の22版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{出典の明記|date=2011年12月11日 (日) 04:00 (UTC)|ソートキー=人1852年没}} |
|||
{{政治家 |
{{政治家 |
||
|人名 = 初代ウェリントン公爵<br />アーサー・ウェルズリー |
|人名 = 初代ウェリントン公爵<br />アーサー・ウェルズリー |
||
|各国語表記 = {{lang|en|Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington}} |
|各国語表記 = {{lang|en|Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington}} |
||
|画像 = Sir_Arthur_Wellesley,_1st_Duke_of_Wellington.png |
|画像 = Sir_Arthur_Wellesley,_1st_Duke_of_Wellington.png |
||
|画像説明 = |
|画像説明 = 1814年に描かれた肖像画([[トーマス・ローレンス (画家)|サー・トマス・ローレンス]]画) |
||
|国略称 ={{GBR}} |
|||
|生年月日 = [[1769年]][[4月30日]] |
|||
|生年月日 = [[1769年]][[4月29日]] |
|||
|出生地 = [[File:Flag President of Ireland.svg|25px|]] [[アイルランド王国]]、[[ダブリン]] |
|||
|出生地 = {{Flagcountry2|アイルランド王国}}、[[ダブリン]] |
|||
|没年月日 = [[1852年]][[9月14日]] (83歳没) |
|没年月日 = [[1852年]][[9月14日]] (83歳没) |
||
|死没地 = {{GBR3}}、[[ケント (イングランド)|ケント]]州、 |
|死没地 = {{GBR3}}、[[イングランド]]、[[ケント (イングランド)|ケント]]州、{{仮リンク|ウェルマー|en|Walmer}} |
||
|出身校 = |
|出身校 = [[イートン校]] |
||
|前職 = |
|前職 = |
||
|所属政党 = [[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]] |
|所属政党 = [[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]([[保守党 (イギリス)|保守党]]) |
||
|称号・勲章 = [[ガーター勲章]] |
|称号・勲章 = [[ガーター勲章]]勲爵士 (KG)<br />[[バス勲章]]ナイト・グランド・クロス (GCB)<br />[[ロイヤル・ゲルフ勲章]]ナイト・グランド・クロス (GCH)<br />[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]] (PC)<br >[[王立協会]]フェロー (FRS) [[#栄典|他]] |
||
|親族(政治家) = [[リチャード・ウェルズリー (初代ウェルズリー侯爵)|初代ウェルズリー侯爵]] (兄) |
|||
|世襲の有無 = |
|||
|配偶者 = {{仮リンク|キャサリン・ウェルズリー (ウェリントン公爵夫人)|label=キャサリン・パクナム|en|Catherine Wellesley, Duchess of Wellington}} |
|||
|親族(政治家) = |
|||
|配偶者 = [[キャサリン・パクナム]] |
|||
|サイン = Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington Signature.svg |
|サイン = Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington Signature.svg |
||
|職名 = [[イギリスの首相]] |
|国旗 = GBR |
||
|職名 = [[イギリスの首相|首相]] |
|||
|就任日 = [[1828年]][[1月22日]] |
|就任日 = [[1828年]][[1月22日]] - [[1830年]][[11月16日]]<br/>[[1834年]][[11月14日]] |
||
|退任日 = [[ |
|退任日 = [[1834年]][[12月10日]] |
||
|元首職 = 国王 |
|元首職 = 国王 |
||
|元首 = [[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]、[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]] |
|元首 = [[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]、[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]] |
||
|国旗2 = GBR |
|||
|職名2 = イギリスの首相 |
|||
|職名2 = [[外務・英連邦大臣|外務大臣]] |
|||
|就任日2 = [[1834年]][[11月17日]] |
|||
|内閣2 = 第2次ウェリントン公爵内閣(兼任)<br/>第1次[[ロバート・ピール|ピール]]内閣 |
|||
|退任日2 = 1834年[[12月9日]] |
|||
|就任日2 = [[1834年]][[11月14日]] |
|||
|元首職2 = 国王 |
|||
|退任日2 = [[1835年]][[4月18日]] |
|||
|元首2 = ウィリアム4世 |
|||
|国旗3 = GBR |
|||
|職名3 = {{仮リンク|イギリス内務大臣|label=内務大臣|en|Home Secretary}} |
|||
|内閣3 = 第2次ウェリントン公爵内閣(兼任) |
|||
|就任日3 = [[1834年]][[11月14日]] |
|||
|退任日3 = [[1834年]][[12月10日]] |
|||
|国旗4 = GBR |
|||
|職名4 = {{仮リンク|イギリス補給庁長官|label=補給庁長官|en|Master-General of the Ordnance}} |
|||
|内閣4 = [[ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)|リヴァプール伯爵]]内閣 |
|||
|就任日4 = [[1819年]] |
|||
|退任日4 = [[1827年]] |
|||
|国旗5 = GBR |
|||
|職名5 = {{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}} |
|||
|内閣5 = [[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公爵)|ポートランド公爵]]内閣 |
|||
|就任日5 = [[1807年]] |
|||
|退任日5 = [[1809年]] |
|||
}} |
}} |
||
{{基礎情報 軍人 |
|||
初代[[ウェリントン公爵]]'''アーサー・ウェルズリー'''('''Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington''', [[1769年]][[4月30日]]-[[1852年]][[9月14日]])は、[[イギリス]]の[[軍人]]、[[政治家]]。外務大臣をつとめた初代ウェルズリー侯爵[[リチャード・ウェルズリー]]は兄。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]との戦いで軍功を重ね、最終的に[[ワーテルローの戦い]]で打ち破ったことで知られる。通称は「鉄の公爵」(Iron Duke)。後に[[イギリスの首相|首相]]となる。愛馬は[[コペンハーゲン (軍馬)|コペンハーゲン]]。 |
|||
| 氏名 = 軍人としての経歴 |
|||
| 各国語表記 = |
|||
| 渾名 = 鉄の公爵(Iron Duke) |
|||
| 所属組織 = [[イギリス陸軍]] |
|||
| 軍歴 = [[1787年]] - [[1852年]] |
|||
| 最終階級 = [[元帥 (イギリス)|元帥]] |
|||
}} |
|||
初代[[ウェリントン公爵]]'''アーサー・ウェルズリー'''[[元帥 (イギリス)|元帥]]({{lang-en-short|Field Marshal '''Arthur Wellesley''', 1st Duke of Wellington, [[ガーター勲章|KG]], [[バス勲章|GCB]], [[ロイヤル・ゲルフ勲章|GCH]], [[枢密院 (イギリス)|PC]], [[王立協会|FRS]]}}、[[1769年]][[4月29日]] - [[1852年]][[9月14日]])は、[[イギリス]]の[[軍人]]、[[政治家]]、[[貴族]]。 |
|||
[[ナポレオン戦争]]で軍功を重ね、最終的に[[1815年]]の[[ワーテルローの戦い]]で[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]を打ち破った軍人として知られる。軍人としての最終階級は[[元帥 (イギリス)|元帥]]。 |
|||
== 経歴 == |
|||
初代[[モーニントン伯爵]][[ギャレット・ウェズリー (初代モーニントン伯爵)|ギャレット・ウェズリー]]とアン夫妻の四男として[[アイルランド]]の[[ダブリン]]に生まれる。1781年、父の死に伴い[[ブリュッセル]]に移住、次いでフランス西部[[アンジェ]]のピニロール陸軍士官学校に入学する。この時に習得したフランス語はのちに非常に役に立つことになる。 |
|||
[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]([[保守党 (イギリス)|保守党]])の政治家としても活躍し、[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]と[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]の治世中、二度にわたって[[イギリスの首相|首相]]を務めた(在職[[1828年]]-[[1830年]]、[[1834年]])。[[ヴィクトリア朝]]前期にも政界の長老として活躍した。 |
|||
1787年に73連隊に入隊、軍人としてのキャリアを開始する。1790年に[[アイルランド議会 (1297-1800)|アイルランド議会]]の議員に選出されると、革命フランスとの開戦準備や、[[カトリック教会|カトリック教徒]]への[[参政権]]付与などを主張する。1794年には対仏連合軍傘下の軍人として初の実戦参加を果たし、[[ベルギー]]・[[オランダ]]戦線で[[ヨーク公]][[フレデリック (ヨーク・オールバニ公)|フレデリック王子]]率いる軍勢の退却作戦を支援した。 |
|||
「鉄の公爵」(Iron Duke)の異名をとる<ref name="ストローソン(1998)26">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.26</ref><ref name="トレヴェリアン(1975)74">[[#トレヴェリアン(1975)|トレヴェリアン(1975)]] p.74</ref>。 |
|||
1797年には[[コルカタ|カルカッタ]]に赴任、[[ベンガル地方]]の治安警備を担当する。その後1799年の第四次[[マイソール戦争]]、1803年の[[マラータ同盟]]との戦闘などを経て軍人としての頭角を顕し、1804年には本国より[[ナイト]]爵を叙された。しかしこの年[[フランス第一帝政]]が成立すると、近い将来に起こりうるナポレオンとの対決を睨んで翌年には依願帰国した。 |
|||
== 概要 == |
|||
帰国直後には早くも[[ハノーファー王国|ハノーファー]]遠征軍に従軍。1806年には[[イギリス議会]]の[[庶民院]](下院)議員に選出され、この同年ラングフォード卿の娘キャサリン・パクナムと結婚した。翌年にはアイルランド担当大臣に就任する。同年[[コペンハーゲン]]に遠征し、ナポレオンと提携する[[デンマーク]]軍を撃破、その功で翌1808年には陸軍中将に進級した。 |
|||
[[アイルランド貴族]]の[[ギャレット・ウェズリー (初代モーニントン伯爵)|初代モーニントン伯爵ギャレット・ウェズリー]]の三男として[[アイルランド王国]]首都[[ダブリン]]に生まれる。[[イートン校]]に通った後、フランスの士官学校を卒業する。[[1787年]]に[[イギリス陸軍]]に入隊。[[1794年]]には[[フランス革命戦争]]の[[ベルギー]]・[[オランダ]]戦線でイギリス軍の退却作戦を支援して活躍した。これが初めての実戦経験となった。 |
|||
[[1796年]]に[[イギリス東インド会社]]が支配する[[インド]]へ派遣され、同じ頃にインド総督となった兄[[リチャード・ウェルズリー (初代ウェルズリー侯爵)|ウェルズリー侯爵]]のもと、インド征服戦争の指揮を執った。[[1799年]]の[[マイソール王国]]侵攻([[マイソール戦争#第4次マイソール戦争|第四次マイソール戦争]])、[[1803年]]の対[[マラータ同盟]]戦争({{仮リンク|第二次マラータ戦争|en|Second Anglo–Maratha War}})などで戦功をあげた。 |
|||
同年、[[イベリア半島]]において[[半島戦争]]が勃発すると、ナポレオンに反抗する[[スペイン]]・[[ポルトガル王国|ポルトガル]]の民衆を支援すべく、約9000の兵を率いて同地に出兵する。初め半島西北端の[[ア・コルーニャ]]に上陸し、次いで[[リスボン]]に進軍して[[ジャン=アンドシュ・ジュノー|ジュノー]]将軍指揮下のフランスのポルトガル遠征軍を撃破。こののち一旦帰国するが、入れ替わりにナポレオン本隊が半島に侵攻してスペイン全土を制圧。これを受けて1809年4月にポルトガル駐留英軍の総司令官として再度半島に派遣された。同年7月、イギリス・スペイン混成軍を率いて、[[タラベラ・デ・ラ・レイナ|タラベラ・デラレイナ]]で大激戦の末フランス軍を撃破。この時ナポレオンは[[ウィーン]]に駐留していたが、この報に接し初めてウェルズリーの存在を強く意識するようになったといわれている。またこの年、ウェルズリーは一連の武勲で「タラべラおよびウェリントンのウェリントン子爵」および「ウェリントンのドゥロ男爵」に叙され、通称「ウェリントン子爵」となった。 |
|||
[[1805年]]にイギリスに帰国し、[[1806年]]4月には{{仮リンク|キャサリン・ウェルズリー (ウェリントン公爵夫人)|label=キャサリン・パクナム|en|Catherine Wellesley, Duchess of Wellington}}と結婚、また[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]候補として[[庶民院]]議員選挙に出馬して当選し、政界進出を果たした。[[1807年]]には[[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公爵)|ポートランド公爵]]内閣に{{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}として入閣している。 |
|||
その後もポルトガルを拠点にフランス軍への抵抗を続け、1810年にはリスボンに侵攻してきたフランス軍を撃退し、ポルトガル攻略を断念させた。1812年にはスペインにおけるフランス軍の勢力衰退を見て同国に侵攻し、[[マドリード]]を攻略して占領下に置くことに成功。その戦功をもって「ウェリントン伯爵」、同年10月には「ウェリントン侯爵」に叙された。やがて[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]の失敗などを経てナポレオンが[[四面楚歌]]の状態に陥ると、イベリア半島におけるウェリントンの勝利は決定的なものとなり、1813年には[[ピレネー山脈]]を越えてフランス領内に侵攻する。1814年4月に[[トゥールーズ]]郊外でナポレオン退位の報に接し、同年6月にイギリスに凱旋帰国。その際国民の熱狂的な歓迎を受け、その名声を不動のものにした。またこの功で「ウェリントン公爵」に、すなわち王族でない貴族が登りうる最高位に、わずか45歳の若さで叙されている。 |
|||
[[イベリア半島]]において[[半島戦争]]が勃発すると、[[ナポレオン]]に反抗する[[スペイン]]・[[ポルトガル王国|ポルトガル]]の民衆を支援すべく、[[1808年]]7月にイギリス軍を率いてポルトガルに上陸した。8月に{{仮リンク|ヴィメイロの戦い|en|Battle of Vimeiro}}でフランスのポルトガル遠征軍を撃破した。こののち一旦帰国するが、入れ替わりにナポレオン本隊が半島に侵攻してスペイン全土を制圧、再びポルトガルに侵攻してきた。これを受けて[[1809年]]4月にポルトガル駐留英軍の総司令官として再度半島に派遣された。5月の{{仮リンク|ドウロの戦い|en|Second Battle of Porto}}でフランス軍をスペインに押し戻す。7月にも{{仮リンク|タラベラの戦い|en|Battle of Talavera}}で勝利し、この戦功で「ウェリントン・オブ・タラベラ子爵」の爵位を与えられ、貴族に列した。[[1810年]]5月からのフランス軍のポルトガル再侵入も{{仮リンク|トレス・ヴェドラス線|en|Lines of Torres Vedras}}が功を奏し、[[1811年]]3月までにはスペインに追い返した。 |
|||
同年7月には[[在フランスイギリス大使|フランス駐在イギリス公使]]に就任、さらに翌1815年には[[ウィーン会議]]で[[ロバート・ステュアート (カスルリー子爵)|カッスルリー]]外相が途中帰国した後の英国の全権代理を務めた。ついでナポレオンが[[エルバ島]]を脱出して[[パリ]]に復帰すると、これを迎え撃つべくブリュッセルに急行する。1815年6月18日の[[ワーテルローの戦い]]では[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル|ブリュッヘル]]元帥率いる[[プロイセン王国|プロイセン]]軍と協力してナポレオン撃破に決定的な役割を果たし、その野望を最終的に打ち砕くに至った。 |
|||
同年5月からスペイン・ポルトガル国境地帯の要塞の攻略を目指し、[[1812年]]3月から4月にかけての{{仮リンク|バダホスの戦い (1812年)|label=バダホスの戦い|en|Siege of Badajoz (1812)}}の勝利でそれを達成した。その戦功で「ウェリントン伯爵」に叙される。同年6月よりスペイン進行を開始。7月に{{仮リンク|サラマンカの戦い|en|Battle of Salamanca}}でフランス軍を撃破したことで、8月には[[マドリード]]占領に成功した。この功績でウェリントン侯爵に叙された。しかしこの後[[ブルゴス]]攻略に失敗し、さらにフランス軍がマドリードに接近してきたため、全軍をポルトガルまで後退させた。ポルトガルで越冬した後、[[1813年]]5月からスペイン再進行を開始し、6月の[[ビトリアの戦い]]でスペイン王[[ジョゼフ・ボナパルト]]率いるフランス軍を撃破した。この戦いで半島戦争のイギリス軍の優位は決定的となった。この戦功により[[元帥 (イギリス)|元帥]]に昇進した。 |
|||
その後は政治家として活躍し、1828年には[[イギリスの首相|首相]]に就任、イギリス最後の[[公爵]]位を持つ首相となった。首相としての事績では、[[聖公会|国教会]]成立後さまざまな差別を受けていた[[カトリック教会|カトリック教徒]]の人権を擁護した1829年の「カトリック解放令」が画期的なものとして知られるが、全般的にはその政策はむしろ保守主義が目立った。彼が旧式の軍隊編成に固執したことが[[クリミア戦争]]における英国将兵の死傷者数を増やしたことにつながったとして、[[フローレンス・ナイチンゲール]]はその政治手腕に否定的な評価を下している。 |
|||
[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]の失敗などを経てナポレオンが[[四面楚歌]]に陥ったのを受けて、1813年10月よりスペイン・フランス国境を越えてフランス領侵攻を開始した。1814年4月に[[トゥールーズ]]を攻略したところでナポレオンの退位の報に接した。これまでの戦功を労われて「ウェリントン公爵」に叙された。同年6月にイギリスに凱旋帰国。その際国民の熱狂的な歓迎を受け、その名声を不動のものにした。同年7月には[[在フランスイギリス大使|フランス駐在イギリス公使]]に就任、さらに翌1815年には[[ウィーン会議]]で[[ロバート・ステュアート (カスルリー子爵)|カスルリー子爵]]外相が途中帰国した後の英国の全権代理を務めた。 |
|||
他に[[オックスフォード大学]]の総長も務めており、1971年から1991年にかけて用いられた5[[スターリング・ポンド|ポンド]]紙幣にその肖像が使用されていた。また、史上初の[[鉄道の歴史|鉄道の開通式]](1825年)に招かれた賓客でもあったが、[[ロケット号]]による[[鉄道事故#19世紀|死亡事故]]が起きて以後は大の鉄道嫌いになったといわれる。 |
|||
ついでナポレオンが[[エルバ島]]を脱出して[[パリ]]に復帰すると、これを迎え撃つべくブリュッセルに急行する。1815年6月18日の[[ワーテルローの戦い]]では[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル|ブリュッヘル]]元帥率いる[[プロイセン王国|プロイセン]]軍と協力してナポレオン撃破に決定的な役割を果たし、その野望を最終的に打ち砕くに至った。ナポレオン戦争後はフランス占領軍総司令官を務め、敗戦国に寛大な占領統治を行った。占領軍の撤収が完了した後の1818年12月にイギリスに帰国した。 |
|||
=== 略歴 === |
|||
* 1802年 - 陸軍少将 |
|||
* 1806年 - 庶民院(下院)議員 |
|||
* 1807年 - バス勲爵士 |
|||
* 1807年 - アイルランド相 |
|||
* 1808年 - 陸軍中将 |
|||
* 1808年 - イベリア戦争(半島戦争)に従軍 |
|||
* 1809年 - ウェリントン子爵 |
|||
* 1812年 - ウェリントン伯爵 |
|||
* 1812年10月 - ウェリントン侯爵 |
|||
* 1813年 - 陸軍元帥 |
|||
* 1813年 - ドイツ・フランス戦役(フランス戦争)に従軍 |
|||
* 1814年 - ドゥロ侯爵およびウェリントン公爵 |
|||
* 1814年 - 貴族院(上院)議員 |
|||
* 1815年 - ウィーン会議主席全権代理 |
|||
* 1815年 - ワーテルローの戦いで決定的な役割を果たす |
|||
* 1827年 - 陸軍総司令官 |
|||
* 1828年 - 首相(〜1830年) |
|||
* 1834年 - 外務大臣(〜1835年) |
|||
* 1841年 - 無任所大臣 |
|||
* 1842年 -陸軍総司令官(〜1852年) |
|||
帰国後は主に政界で活躍する。[[1819年]]に[[ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)|リヴァプール伯爵]]内閣の{{仮リンク|イギリス補給庁長官|label=補給庁長官|en|Master-General of the Ordnance}}に就任。1827年1月には軍職の{{仮リンク|イギリス陸軍総司令官|label=陸軍総司令官|en|Commander-in-Chief of the Forces}}にも就任した。しかし保守的なウェリントン公爵は、閣内で[[ジョージ・カニング]]ら[[自由主義]]的な閣僚と対立を深めていった。1827年2月にリヴァプール伯爵が首相を辞職し、カニングがその後任となったが、ウェリントン公爵は[[カトリック]]解放の方針に反発して辞職した。 |
|||
== 爵位 == |
|||
* イギリス |
|||
** [[ウェリントン公爵|ウェリントン公]] |
|||
** ウェリントン侯 |
|||
** ドゥロ侯 |
|||
** ウェリントン伯 |
|||
** タラヴェラおよびウェリントンのウェリントン子爵 |
|||
** ウェルズリーのウェリントン男爵 |
|||
* オランダ |
|||
** ワーテルロー大公 |
|||
* スペイン |
|||
** シウダード・ロドリゴ公 |
|||
* ポルトガル |
|||
** ヴィットリア公 |
|||
** トレス・ヴェドラス侯 |
|||
** ヴィミエロ伯(以上、ポルトガルにおける爵位) |
|||
* フランス |
|||
** ブルノワ公 |
|||
等。 |
|||
カニングの急死、続く[[ゴドリッチ子爵フレデリック・ジョン・ロビンソン|ゴドリッチ子爵]]内閣と国王[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]の対立により、1828年に1月にはウェリントン公爵に大命降下があった。カトリック問題を棚上げすることでカニング派の入閣を取り付けて{{仮リンク|第1次ウェリントン公爵内閣|en|Wellington ministry}}の組閣に成功した。しかし自由主義的なカニング派とは意見が合わず、1828年5月から6月にかけてカニング派閣僚に集団辞職された。もともとカトリック解放に慎重な立場だったウェリントン公爵だが、頑迷ではなく、アイルランド・カトリックが当選するという情勢の変化に応じて、1829年4月にはカトリック解放法案を可決させた。しかしこれにより党内からも反発を受けて内閣の基盤は弱くなった。選挙法改正の機運が高まる中、野党の団結は進み、1830年11月にウェリントン公爵内閣は議会で敗北を喫し、総辞職を余儀なくされた。これによって半世紀ぶりの[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]への[[政権交代]]が起こった。 |
|||
== 出典 == |
|||
ホイッグ政権の間も野党トーリー党(1834年頃から[[保守党 (イギリス)|保守党]]と改名)を党首として指導したが、党の実務は{{仮リンク|保守党庶民院院内総務|label=同党庶民院院内総務|en|Leaders of the Conservative Party#Leaders in the House of Commons 1834–1922}}[[ロバート・ピール|サー・ロバート・ピール准男爵]]に委ねるようになった。ホイッグ党政権が推し進める選挙法改正を阻止しようとしたが、失敗している。 |
|||
1834年11月にホイッグ政権の首相[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]]が国王[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]と対立して解任された際に国王より大命を降下され、イタリア訪問中のピールが帰国するまでの暫定政権として{{仮リンク|第2次ウェリントン公爵内閣|en|Wellington caretaker ministry}}を組閣した。12月にピールが帰国するとただちに首相職を譲り、第1次ピール内閣の外務大臣に転じた。第1次ピール内閣は早期に倒閣され、メルバーン子爵政権に戻るもウェリントン公爵は一貫してピールを支え続けた。1837年に即位した[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]からも厚い信任を寄せられていたが、1839年の{{仮リンク|寝室女官事件|en|Bedchamber crisis}}時の女王の説得には失敗した。 |
|||
第2次ピール内閣には無任所大臣として入閣。1842年には軍職の陸軍総司令官職に再任され、1852年の死まで務めた。しかし[[シビリアン・コントロール]]を嫌うあまり、あらゆる軍制改革に反対して旧式の軍隊編成に固執した。これが[[クリミア戦争]]における英国将兵の死傷者数を増やしたことにつながったといわれる。 |
|||
1852年9月に[[ケント]]の{{仮リンク|ウェルマー|en|Walmer}}で死去。 |
|||
{{-}} |
|||
== 生涯 == |
|||
=== 出生 === |
|||
[[1769年]]、[[アイルランド貴族]]初代{{仮リンク|モーニントン伯爵|en|Earl of Mornington}}[[ギャレット・ウェズリー (初代モーニントン伯爵)|ギャレット・ウェズリー]]の三男として生まれる<ref name="世界伝記大事典(1980,2)148">[[#世界伝記大事典(1980,2)|世界伝記大事典(1980)世界編2巻]] p.148</ref><ref name="柘植(1995)17">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.17</ref>。母は{{仮リンク|アーサー・ヒル=トレヴァー (初代ダンガノン子爵)|label=ダンガノン子爵アーサー・ヒル=トレヴァー|en|Arthur Hill-Trevor, 1st Viscount Dungannon}}の娘アン<ref name="DNB">{{cite DNB |wstitle= Wellesley, Arthur |last= Lloyd |first= Ernest Marsh |authorlink= |volume= 60 |pages= |page= 170 }} 2013年1月9日閲覧</ref>。 |
|||
誕生日と生誕地については諸説あるが、1769年[[4月29日]]に[[アイルランド]]首都[[ダブリン]]のアッパー・メリオン・ストリート24番地に生まれたとする説が有力である{{#tag:ref|母アンによればアーサーの生誕日は1769年5月1日というが、看護婦によれば1769年3月6日ダンガノン城の生まれだという。ダブリンの聖ピーター教会のレジストリによれば4月30日にアーサーがそこで洗礼を受けたという。『Exshaw's Gentleman's Magazine』1769年5月号は4月29日にモーニントン伯爵に子が生まれたとしている。1769年5月2日から4日の『Dublin Gazette』は数日前にダブリンのアッパー・メリオン・ストリートでイベントがあったとしている。以上を総合的に判断してアーサーは1769年4月29日にダブリンのアッパー・メリオン・ストリート24番地にあったモーニントン伯爵家別邸で生まれたとする説が有力になっている<ref name="DNB"/>。|group=注釈}}。 |
|||
長兄に[[リチャード・ウェルズリー (初代ウェルズリー侯爵)|ウェルズリー子爵リチャード]]、次兄に{{仮リンク|ウィリアム・ウェルズリー=ポール (第3代モーニントン伯爵)|label=ウィリアム|en|William Wellesley-Pole, 3rd Earl of Mornington}}がいる。また後に弟として{{仮リンク|ヘンリー・ウェルズリー (初代カウリー男爵)|label=ヘンリー|en|Henry Wellesley, 1st Baron Cowley}}、妹として{{仮リンク|レディー・アン・スミス|label=アン|en|Lady Anne Smith}}(後の{{仮リンク|チャールズ・カリング・スミス|en|Charles Culling Smith}}夫人)が生まれた。 |
|||
=== 学業 === |
|||
イングランド・ロンドンで初等教育を受けた後、[[1781年]]に名門[[パブリックスクール]]の[[イートン校]]に入学した。成績は並みだったが、血気盛んな学生で鳴らし、よく喧嘩した。後世にアーサーは「ワーテルローに勝利できたのはイートン校の運動場のおかげ」と評している<ref name="ストローソン(1998)34">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.34</ref>。 |
|||
父モーニントン伯爵の死で学費支払いに困窮した母アンの指示でイートン校を退学し、当時[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]領土だった[[ブリュッセル]]に移住し、[[1786年]]から乗馬学校に通うようになった<ref name="DNB"/><ref name="柘植(1995)17"/>。その後、フランス・[[アンジェ]]のピニロール陸軍士官学校に入学する<ref name="DNB"/>。この時にフランス語を習得する<ref name="DNB"/><ref name="柘植(1995)17"/>。 |
|||
=== 初期の軍歴 === |
|||
18歳の時の[[1787年]]3月、陸軍{{仮リンク|イギリス陸軍第73歩兵連隊|label=第73歩兵連隊|en|73rd (Perthshire) Regiment of Foot}}に入隊した<ref>{{LondonGazette |issue= 12836 |startpage= 118 |date= 6 March 1787 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref><ref name="DNB"/><ref name="柘植(1995)17"/>。 |
|||
同年12月には{{仮リンク|イギリス陸軍第76歩兵連隊|label=第76歩兵連隊|en|76th Regiment of Foot}}の{{仮リンク|中尉 (イギリス軍)|label=中尉|en|Lieutenant (British Army and Royal Marines)}}となる<ref name="DNB"/>。1788年1月には{{仮リンク|イギリス陸軍第41歩兵連隊|label=第41歩兵連隊|en|41st (Welch) Regiment of Foot}}<ref>{{LondonGazette |issue= 12958 |startpage= 40 |date= 22 January 1788 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref>、また同年{{仮リンク|イギリス陸軍第12王立槍騎兵連隊|label=第12軽竜騎兵連隊|en|12th Royal Lancers}}<ref name="DNB"/><ref>{{LondonGazette |issue= 13121 |startpage= 539 |date= 8 August 1789 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref>、[[1791年]]6月には{{仮リンク|イギリス陸軍第58歩兵連隊|label=第58歩兵連隊|en|58th (Rutlandshire) Regiment of Foot}}<ref name="DNB"/>、同年9月に{{仮リンク|大尉 (イギリス)|en|Captain (British Army and Royal Marines)}}に昇進した<ref>{{LondonGazette |issue= 13347 |startpage= 542 |date= 27 September 1791 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref>。[[1792年]]には{{仮リンク|イギリス陸軍第18王立軽騎兵連隊|label=第18王立軽竜騎兵連隊|en|18th Royal Hussars}}に転属している<ref name="DNB"/><ref>{{LondonGazette |issue= 13488 |startpage= 976 |date= 25 December 1792 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref>。 |
|||
1787年11月から[[1793年]]3月にかけては{{仮リンク|アイルランド総督|en|Lord Lieutenant of Ireland}}の{{仮リンク|ジョージ・ニュージェント=テンプル=グランヴィル (初代バッキンガム侯爵)|label=バッキンガム侯爵|en|George Nugent-Temple-Grenville, 1st Marquess of Buckingham}}や[[ジョン・フェイン (第10代ウェストモーランド伯爵)|ウェストモーランド伯爵]]の副官を務めた<ref name="DNB"/>。また[[1790年]]から[[1795年]]にかけては[[アイルランド議会 (1297-1800)|アイルランド議会]]議員にも選出され<ref name="世界伝記大事典(1980,2)148"/>、[[フランス第一共和政|革命フランス]]との開戦準備や、[[カトリック教会|カトリック教徒]]への[[参政権]]付与などを主張する<ref name="DNB"/>。 |
|||
このアイルランド滞在期に未来の妻{{仮リンク|キャサリン・ウェルズリー (ウェリントン公爵夫人)|label=キャサリン・パクナム|en|Catherine Wellesley, Duchess of Wellington}}({{仮リンク|エドワード・パクナム (第2代ロングフォード男爵)|label=第2代ロングフォード男爵|en|Edward Pakenham, 2nd Baron Longford}}の娘)に最初の求婚をしているが、キャサリンの兄であるトムが妹にはもっと地位の高い相手を見つけられると考えて反対したため、この時には断られた<ref name="ストローソン(1998)36">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.36</ref>。 |
|||
[[1793年]][[4月30日]]には兄モーニントン伯爵リチャードから借りた金で{{仮リンク|ウェリントン公爵連隊|label=第33歩兵連隊|en|Duke of Wellington's Regiment}}の{{仮リンク|少佐 (イギリス軍)|label=少佐|en|Major (United Kingdom)}}の階級を購入した<ref>{{LondonGazette |issue= 13542 |startpage= 555 |date= 29 June 1793 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref> <ref name="DNB"/>{{#tag:ref|当時イギリス陸軍の階級は中佐階級までは買い取ることができた。中佐以降は基本的に[[年功序列]]である<ref name="バーソープ(2001)3">[[#バーソープ(2001)|バーソープ(2001)]] p.3</ref>。|group=注釈}}。同年のうちに{{仮リンク|中佐 (イギリス軍)|label=中佐|en|Lieutenant colonel (United Kingdom)}}に昇進した<ref>{{LondonGazette |issue= 13596 |startpage= 1052 |date= 23 November 1793 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref><ref name="DNB"/>。 |
|||
=== フランス革命戦争での初陣 === |
|||
[[File:Field Marshal Arthur Wellesley KG CCB GCH CoR 1st Duke of Wellington2.jpg|180px|thumb|26歳の頃のアーサー・ウェズリー中佐を描いた絵画。]] |
|||
[[フランス革命]]に対する王政列強諸国の干渉を理由にフランス革命政府は[[1792年]]から[[フランス革命戦争]]を起こした。フランス革命軍は[[カール・ヴィルヘルム・フェルディナント (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)|ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公]]率いる[[プロイセン王国|プロイセン]]・[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]連合軍を駆逐してオーストリア領土だった[[オランダ]]や[[ラインラント]]を制圧した<ref name="ストローソン(1998)36">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.36</ref>。 |
|||
これに対して英国首相[[ウィリアム・ピット (小ピット)|ウィリアム・ピット]]は列強諸国共同の外交交渉でフランス軍を占領地から撤退させようとしたが、フランス革命を阻止して[[ブルボン朝]]復古を図りたいオーストリアと、フランス革命阻止より自国の増強を図りたいプロイセン・[[ロシア帝国|ロシア]]で足並みがそろわなかった。その隙をついてフランス革命軍は侵攻を進めていき、[[1793年]]2月にはベルギー併合を狙ってイギリスとオランダに宣戦布告してくるに至った<ref name="ストローソン(1998)36">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.36</ref>。 |
|||
国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の次男[[フレデリック (ヨーク・オールバニ公)|ヨーク公爵フレデリック]]率いるイギリス軍がベルギーの[[フランドル]]に派遣された。アーサーは、[[1794年]]6月から第33歩兵連隊を率いてフランドルに赴き、ヨーク公爵の軍に合流した<ref name="ストローソン(1998)47">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.47</ref>。この戦いはイギリス軍の惨敗に終わるが、混乱状態の撤退戦の中でもアーサーの第33歩兵連隊は高い規律を保ったという。9月15日にボクステルでヨーク公爵の軍がフランス革命軍に攻撃された際にも第33歩兵連隊はフランス軍に一斉射撃を浴びせ続け、フランス革命軍の前進を遅らせ、友軍の撤退を助けた<ref name="ストローソン(1998)48">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.48</ref>。 |
|||
アーサーにとってはこの戦いが初めての実戦経験となった<ref name="DNB"/><ref name="柘植(1995)18">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.18</ref><ref name="ストローソン(1998)47">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.47</ref>。後にアーサーは「我々はオランダでの敗戦のおかげで自分たちの欠点を知り、これを教訓とすることができた」と語っている<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.47-48</ref>。 |
|||
[[1795年]]4月にイギリスへ帰国。敗戦に気落ちして軍を去る事も考えたアーサーだったが、再就職先が見つからなかったので結局軍に留まった<ref name="ストローソン(1998)49">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.49</ref>。同年5月には兄[[リチャード・ウェルズリー (初代ウェルズリー侯爵)|モーニントン伯爵リチャード]]が家名のウェズリーを旧家名ウェルズリーに戻したのに合わせて、アーサーもウェルズリー姓となった<ref name="DNB"/><ref name="ストローソン(1998)72">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.72</ref>。 |
|||
{{-}} |
|||
=== インド征服戦争 === |
|||
[[1796年]]5月に{{仮リンク|大佐 (イギリス軍)|label=大佐|en|Colonel (United Kingdom)}}に昇進したアーサーは<ref>{{LondonGazette |issue= 13892 |startpage= 460 |date= 14 May 1796 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref><ref name="DNB"/>、6月に第33歩兵連隊を率いて[[イギリス東インド会社]]が統治する[[インド]]に派遣された<ref name="世界伝記大事典(1980,2)148"/><ref name="柘植(1995)18">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.18</ref><ref name="ストローソン(1998)49"/>。彼のインドに対する印象は悪く、兄に宛てた手紙の中で「現地人は[[ヒンズー教徒]]であれ、[[イスラム教徒]]であれ、品性の欠片もなく、温かみに欠け、容赦なき残虐行為を平気で行う。その膨大な人数に物を言わせてヨーロッパ人を襲撃しては殺害する」と書いている<ref name="ストローソン(1998)69">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.69</ref>。 |
|||
[[1798年]]5月からは兄モーニントン伯爵(彼は1799年にウェルズリー侯爵に叙される)が[[インド総督]]に任じられてインドに赴任してきた<ref name="世界伝記大事典(1980,2)148"/>。弟ヘンリーも兄の秘書として同行しており、ウェルズリー家兄弟3人がそろってインドの指導的地位に付いた形となる。3人は緊密に協力しあってインド統治にあたった<ref name="ストローソン(1998)72">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.72</ref>。 |
|||
この頃イギリス東インド会社領インドは前途多難な状況にあった。インド南部[[マイソール王国]]国王[[ティプー・スルタン]]がフランスと同盟してイギリスを圧迫してきていた<ref name="浜渦(1999)71">[[#浜渦(1999)|浜渦(1999)]] p.71</ref>。こうした状況の中、兄モーニントン伯爵は戦争によってイギリス東インド会社領を拡大することを目指した<ref name="浜渦(1999)70">[[#浜渦(1999)|浜渦(1999)]] p.70</ref>。 |
|||
アーサーはいたずらに領土拡大を行うことには消極的だったが{{#tag:ref|この頃アーサーは「イギリスの支配地域が広がればそれだけ危険が増える。その国の公務員、あるいは略奪を働いてきた者たちの職を奪うことになり、それらの者たちを敵に回すばかりか、領土が広がるほど各所の防衛も手薄になっていく」と語っている<ref name="ストローソン(1998)95">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.95</ref>。|group=注釈}}、兄のもとで軍人として存分に腕を振るうことになる<ref name="世界伝記大事典(1980,2)148"/>。 |
|||
==== 第4次マイソール戦争 ==== |
|||
[[イギリス海軍|イギリス王立海軍]][[ホレーショ・ネルソン]]提督の活躍でフランス革命軍[[ナポレオン・ボナパルト]]の[[エジプト遠征]]は失敗におわり、フランス軍がエジプトからマイソール王国に援軍を送ってくる可能性はなくなった<ref name="ストローソン(1998)84">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.84</ref>。これを受けて兄モーニントン伯爵は[[1799年]]2月よりイギリス東インド会社軍にマイソール侵攻を開始させた([[マイソール戦争#第4次マイソール戦争|第4次マイソール戦争]])<ref name="ストローソン(1998)84">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.84</ref>。 |
|||
アーサー率いる第33歩兵連隊はその中心として活躍し、ティプーの立て籠る{{仮リンク|セリンガパタム|kn|ಶ್ರೀರಂಗಪಟ್ಟಣ}}要塞に対する最初の攻撃を指揮した。しかしアーサーは昼間まで待って偵察せずに夜間のうちに攻撃を敢行しようとしたことで、要塞までの道のサルタンペター林において、どこにいるか分からない敵から一方的に攻撃を食らって退却を余儀なくされた。この時の教訓で以降アーサーは昼間に十分に偵察を行うことを心がけるようになった<ref name="ストローソン(1998)84">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.84</ref>。 |
|||
5月のセリンガパタム要塞への再攻撃では{{仮リンク|サー・デヴィッド・バード (初代准男爵)|label=デヴィッド・バード|en|Sir David Baird, 1st Baronet}}の指揮下で戦った。今度は問題なくサルタンペター林を通過して総攻撃の末にセリンガパタム要塞を陥落させ、ティプーも討ち取ることができた<ref name="ストローソン(1998)85">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.85</ref>。 |
|||
==== マイソール統治とウォー盗賊団との戦い ==== |
|||
戦後、要塞攻略の最大の功労者であるバード少将を差し置いて、アーサーがセリンガパタム要塞の総督に任じられ、マイソール全域の統治にあたることになった<ref name="ストローソン(1998)85">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.85</ref>。アーサーは「公正、腐敗抑止、正直、約束の実行が統治の基本」と主張し、法律の整備と秩序の維持に努め、[[殖産興業]]を図った。また現地諸侯の権威を保障しつつ、マイソール国民の雇用の創出に励んだ<ref name="ストローソン(1998)95">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.95</ref>。 |
|||
一方この頃のインド南部では[[マラータ族]]の盗賊団首領ドゥーンディア・ウォー(Dhoondiah Waugh)の略奪が激しくなっていた。ウォーはセリンガパタム要塞陥落の際にそこから脱出することに成功し、同じく要塞から脱出した他の元マイソール兵たちとともに盗賊団を作って各地で略奪を行っていた人物だった<ref name="ストローソン(1998)95">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.95</ref>。 |
|||
アーサーは1799年8月にウォー盗賊団討伐に出陣した<ref name="DNB"/>。ウォーの本拠地チテルドローグを攻め落とすことに成功したものの、この時にはウォーに逃げられた。逃げのびたウォーは[[1800年]]4月までに再び盗賊団を組織したため、アーサーが再度出陣し、同年9月までにはウォー盗賊団を[[インド半島]]の先まで追い詰めて、とうとうウォーを討ち取った<ref name="ストローソン(1998)95">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.95</ref>。 |
|||
[[1802年]]4月29日に{{仮リンク|少将 (イギリス軍)|label=少将|en|Major-general (United Kingdom)}}に昇進した<ref>{{LondonGazette |issue= 15478 |startpage= 467 |date= 8 May 1802 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref><ref name="DNB"/><ref name="世界伝記大事典(1980,2)148"/>。 |
|||
==== 第2次マラータ戦争 ==== |
|||
[[File:Battle of Assaye2.jpg|250px|thumb|{{仮リンク|アサエの戦い|en|Battle of Assaye}}を描いた絵画。指揮をとっている人物がアーサー・ウェルズリー少将。]] |
|||
1799年の[[ブリュメールのクーデター]]でフランス[[第一執政]]の座についていた[[ナポレオン・ボナパルト]]は、[[1802年]]3月にイギリスと[[アミアンの和約]]を締結したが、この休戦中もナポレオンはインドにおけるイギリスの覇権を覆そうと[[マラータ同盟]]の支援を行った<ref name="ストローソン(1998)112">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.112</ref>。 |
|||
これに対抗してインド総督である兄[[リチャード・ウェルズリー (初代ウェルズリー侯爵)|ウェルズリー侯爵リチャード]]は次なる侵攻対象をマラータ同盟に定めた。再びアーサーがその実行役となった。[[1803年]]2月にセリンガパタムを立ち、[[プネー]]までの1000キロを2カ月で行軍した<ref name="DNB"/><ref name="ストローソン(1998)113">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.113</ref>。マラータ族に補給線を断ち切られることを警戒して牛を引き連れていったことが迅速な行軍を可能とした<ref name="ストローソン(1998)113">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.113</ref>。 |
|||
8月には同盟国[[ニザーム王国]]を脅かすマラータ族のアメードヌガー要塞を攻略した<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.113-114</ref>。 |
|||
さらに9月にはマラータ族の中でも強力な王国である{{仮リンク|ナグポール王国|en|Nagpur kingdom}}({{仮リンク|ラージャ2世・ボンスラー|en|Raghoji II Bhonsle}})と{{仮リンク|グワーリヤル王国|en|Gwalior State}}({{仮リンク|ダウラト・シンディア|en|Daulat Scindia}})と対峙した。マラータ側は5万人の兵と100基の大砲を持っており、対するイギリス軍は2歩兵連隊と1騎兵連隊の計7000人、大砲は20基しかなく圧倒的に不利な情勢であった。アーサーはこれだけ兵力差がある大軍を相手にするには側面をつくしかないと考えてカイトナ川渡河を敢行し、{{仮リンク|アサエの戦い|en|Battle of Assaye}}においてボンスラー軍、シンディア軍ともに撃破することに成功した<ref name="ストローソン(1998)118">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.118</ref>。 |
|||
11月にも{{仮リンク|アルガウム|en|Argaon}}でボンスラー軍、シンディア軍と再び対峙した。マラータ軍の砲撃でセポイが散り散りにされたが、アーサーは的確な指示で彼らを再招集し、また迂回させることで予定位置に集結させ、勝利することができた<ref name="ストローソン(1998)118">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.118</ref>。 |
|||
この一連の{{仮リンク|第二次マラータ戦争|en|Second Anglo–Maratha War}}の勝利が鮮やかだったため、アーサーは一躍有名人となった<ref name="柘植(1995)17">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.17</ref>。1804年9月には[[バス勲章]]を授与され<ref name="DNB"/><ref name="LondonGazette1804">{{LondonGazette |issue= 15732 |startpage= 1069 |date= 28 August 1804 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref>、「サー・アーサー・ウェルズリー」となった。 |
|||
しかし1804年中のモンソン将軍の[[コーター (インド)|コーター]]での敗戦、レイク将軍の{{仮リンク|バーラトプル|hi|भरतपुर}}攻略失敗で兄ウェルズリー侯爵の立場はなくなり、[[1805年]]に本国に召還された<ref name="浜渦(1999)74">[[#浜渦(1999)|浜渦(1999)]] p.74</ref>。弟であるサー・アーサーもこれを機にインドでの職を退くことにした<ref name="世界伝記大事典(1980,2)148"/>。 |
|||
{{-}} |
|||
=== 帰国・政界進出 === |
|||
[[File:Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington by Robert Home.jpg|180px|thumb|1804年のサー・アーサー・ウェルズリー少将。]] |
|||
1805年9月にイギリスに帰国した<ref name="ストローソン(1998)121">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.121</ref>。 |
|||
フランス第一執政ナポレオンは[[地中海]]の覇権をイギリスから奪うべく[[マルタ島]]を狙い、これに反発したイギリス政府が1803年5月にフランスに宣戦布告したことで[[ナポレオン戦争]]が勃発していた<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.109-110</ref>。アーサーも帰国して間もない1805年12月に第33歩兵連隊付き旅団長として[[エルベ川]]に出征したが、翌[[1806年]]2月には再帰国している<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.129/136</ref>。 |
|||
4月に{{仮リンク|キャサリン・ウェルズリー (ウェリントン公爵夫人)|label=キャサリン・パクナム|en|Catherine Wellesley, Duchess of Wellington}}に再び求婚し、今度は受け入れられた<ref name="ストローソン(1998)129">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.129</ref>。[[1807年]]初頭には長男{{仮リンク|アーサー・ウェルズリー (第2代ウェリントン公爵)|label=アーサー・ウェルズリー|en|Arthur Richard Wellesley, 2nd Duke of Wellington}}を儲けた<ref name="ストローソン(1998)144">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.144</ref>。 |
|||
[[1806年]]4月には{{仮リンク|ライ (東サセックス)|label=ライ|en|Rye, East Sussex}}選挙区から出馬して[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]所属の[[庶民院]]議員に初当選し、政界進出を果たした<ref>{{LondonGazette |issue= 15908 |startpage= 449 |date= 8 April 1806 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref><ref name="DNB"/>。議員の職責を果たしながら軍人の職務も引き続き務めた<ref name="ストローソン(1998)143">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.143</ref>。 |
|||
[[1807年]]春には[[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公爵)|ポートランド公爵]]内閣が発足し、サー・アーサーはその{{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}として入閣した<ref name="ストローソン(1998)144">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.144</ref>。またこの時[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]にも列せられた<ref name="LondonGazette1807">{{LondonGazette |issue = 16018 |date = 11 April 1807 |startpage = 1 |accessdate = 2013-01-27 }}</ref>。2年ほど在職するも、ナポレオン戦争従軍のために大陸へ赴くことになった<ref name="世界伝記大事典(1980,2)148"/>。 |
|||
[[1808年]][[4月25日]]に{{仮リンク|中将 (イギリス)|label=中将|en|Lieutenant-general (United Kingdom)}}に昇進した<ref>{{LondonGazette |issue= 16142 |startpage= 622 |date= 3 May 1808 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref><ref name="DNB"/>。 |
|||
{{-}} |
|||
=== ナポレオン戦争 === |
|||
==== 半島戦争勃発 ==== |
|||
1807年にポルトガル侵攻を決意したフランス皇帝ナポレオン(1804年に皇帝即位)は、スペイン宰相[[マヌエル・デ・ゴドイ]]との間にポルトガル分割とフランス軍のスペイン領通過を認める内容の[[フォンテーヌブロー条約 (1807年)|フォンテーヌブロー条約]]を締結してポルトガル侵攻を開始し、同年12月にはポルトガル首都[[リスボン]]を占領した<ref name="松村(2006)143">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.143</ref>。さらに1808年にはスペイン王室を退位させて、ナポレオンの兄[[ジョゼフ・ボナパルト]]をスペイン王位に就けた<ref name="ストローソン(1998)144">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.144</ref><ref name="松村(2006)144">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.144</ref>。 |
|||
この一連のナポレオンの横暴に反発したスペイン民衆は、1808年5月以降、次々と武装蜂起し、[[イベリア半島]]全土を舞台にした[[半島戦争]]が勃発した。7月には[[ピエール・デュポン (軍人)|ピエール・デュポン]]将軍率いるフランス軍が{{仮リンク|バイレンの戦い|es|Batalla de Bailén}}でスペイン軍に敗れる事態となった<ref name="ストローソン(1998)152">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.152</ref><ref name="松村(2005)146">[[#松村(2005)|松村(2005)]] p.146</ref>。 |
|||
こうした状況を見て[[外務・英連邦大臣|イギリス外務大臣]][[ジョージ・カニング]]はポルトガルやスペインの蜂起を支援することを決定し、1808年7月にサー・アーサーを司令官とする9000人の王立陸軍をリスボンの北方にある[[モンデゴ川|モンデゴ湾]]に派遣した<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.153-155</ref>。 |
|||
上陸にあたってサー・アーサーは部下たちに「ポルトガルは国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]陛下の盟邦であって、征服地ではない。略奪や強姦は許されない。違反者は厳罰に処す」と厳命しつつ、ポルトガル市民に対しては「我々はフランスの侵略者から諸君らを解放しにきた」と訴えた<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.155-156</ref>。 |
|||
==== 仏軍のイベリア半島自主撤退まで ==== |
|||
1808年8月には全軍の揚陸を完了し、ポルトガル軍とも合流して1万5000人の軍勢でもってフランス軍に占領された[[リスボン]]へ向けて進軍を開始した<ref name="ストローソン(1998)155">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.155</ref>。これに対してフランス軍ポルトガル遠征軍司令官[[ジャン=アンドシュ・ジュノー]]将軍は{{仮リンク|アンリ・フランソワ・ラボールド|fr|Henri-François Delaborde (général)}}将軍率いる4000人ほどの軍勢を迎撃に差し向けた。両軍は8月17日に{{仮リンク|ロリカの戦い|en|Battle of Roliça}}で激突したが、ライフル部隊を先行させることでラボールド軍を押し戻すことに成功した<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.156-157</ref>。 |
|||
続いてジュノー将軍自らがポルトガル遠征軍の総兵力の三分の二を率いて出陣してきた。両軍は8月21日に{{仮リンク|ヴィメイロの戦い|en|Battle of Vimeiro}}で衝突したが、サー・アーサーの防御的な布陣が功を奏し、フランス軍に軽歩兵の狙撃と大砲の砲撃を食らわせ、さらに縦列で進軍してきたフランス軍に対して横列のイギリス軍が前面・側面から銃撃を浴びせかけることで敗走させることに成功した<ref name="ストローソン(1998)158">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.158</ref>。 |
|||
この戦いの敗北を受けてジュノー将軍は、イギリスに停戦を要求し、8月30日にはイギリス・ポルトガル駐留軍総司令官{{仮リンク|サー・ヒュー・ダルリンプル (初代准男爵)|label=サー・ヒュー・ダルリンプル准男爵|en|Sir Hew Dalrymple, 1st Baronet, of High Mark}}将軍との間に{{仮リンク|シントラの和平|en|Convention of Sintra}}を締結した。これによりポルトガル駐留フランス軍はイギリス船に乗って海上からフランスまで撤退することになった<ref name="ストローソン(1998)159">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.159</ref><ref name="松村(2005)146"/>。しかしこの和平はイギリス国民から不評であり、サー・アーサーも徹底的にフランス軍と戦うことを希望していたために落胆したという<ref name="ストローソン(1998)160">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.160</ref>。 |
|||
またこの後、イギリスのポルトガル駐留軍総司令官となった{{仮リンク|ジョン・ムーア (イギリス陸軍将校)|label=サー・ジョン・ムーア|en|John Moore (British Army officer)}}将軍とも険悪な関係になったため、サー・アーサーはひとまず帰国することになった<ref name="ストローソン(1998)160"/>。 |
|||
==== 仏軍のポルトガル再侵攻を撃退 ==== |
|||
[[File:Francesco Bartolozzi - Invicto Wellington, Lusitânia Grata (1810).jpg|thumb|180px|1810年のウェリントン子爵中将を描いた{{仮リンク|フランチェスコ・バルトロッツィ|it|Francesco Bartolozzi}}の絵画]] |
|||
[[1808年]]9月にムーア率いる英軍がスペインへ進軍すると、フランス軍も同年11月にナポレオン自らの指揮のもとスペイン侵攻を再開し、12月には[[マドリード]]を再占領した。これに対して英軍はフランス軍との決戦を避け撤退した。英軍は[[アメリカ独立戦争]]敗北の教訓で大陸奥深くでの長期戦を避け、圧倒的な制海権を活用し、攻撃しては海岸まで撤退することを基本戦法としていたからだが、ナポレオンはイギリス軍の撤退を弱気と誤認し「イギリス軍はフランス軍と戦う資格がない」と豪語した<ref name="松村(2006)146-147">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.146-147</ref>。 |
|||
結局ナポレオンは翌[[1809年]]1月に本国の政治情勢やオーストリアの不穏な動きから[[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト]]将軍に後を任せてパリに帰還した。逆にサー・アーサーは[[1809年]]4月にポルトガル駐留英軍の総司令官として再度ポルトガルに派遣された<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.166/168</ref>。サー・アーサー率いる英軍は、5月7日に[[オポルト]]南方の[[ドウロ川]]渡河を敢行してスールト将軍率いるフランス軍の不意を突き、{{仮リンク|ドウロの戦い|en|Second Battle of Porto}}でこれを破り、スールト軍をポルトガルから撤退させた<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.173-174</ref>。 |
|||
続いて[[クロード・ヴィクトル=ペラン]]元帥率いるフランス軍2万3000人がポルトガル向けて進軍してきた。サー・アーサーは戦場をスペインに移してスペイン軍と合流のうえ、7月21日、スペインの[[タラベラ・デ・ラ・レイナ]]に結集していたヴィクトル軍に攻撃をかけた。撤退するヴィクトル軍をスペイン軍に追撃させたが、ヴィクトル軍はマドリード駐留部隊と合流して反転攻勢に転じ、スペイン軍を追い返した。これを受けてサー・アーサーはタラベラに守備布陣を敷いてフランス軍を待ち受け、7月28日の{{仮リンク|タラベラの戦い|en|Battle of Talavera}}で激戦の末にフランス軍を退けた<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.175-176</ref>。 |
|||
サー・アーサーはこの戦功で'''ウェリントン・オブ・タラベラ子爵'''(Viscount Wellington of Talavera)、'''ドウロ・オブ・ウェルズリー男爵'''(Baron Douro of Wellesley)の爵位を与えられ、貴族に列した<ref name="LondonGazette1809">{{LondonGazette |issue= 16291 |startpage= 1342 |date= 22 August 1809 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref><ref name="DNB"/><ref name="ストローソン(1998)176">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.176</ref>。 |
|||
タラベラ戦後、ウェリントン子爵は軍をポルトガルに戻すとともにリスボン北方に極秘裏に{{仮リンク|トレス・ヴェドラス線|en|Lines of Torres Vedras}}を建設してフランス軍来襲に備えた。この防衛線の存在は自軍にも伏せられていた<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.180/183</ref>。 |
|||
1809年10月にイギリス本国で[[スペンサー・パーシヴァル]]内閣が成立した。同内閣に外務大臣として入閣した兄ウェルズリー侯爵や半島戦争を重視する[[戦争・植民地大臣]][[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公爵)|ポートランド公爵]]の後押しでウェリントン子爵のポルトガル駐留軍は3万人規模に増強された<ref name="ストローソン(1998)180">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.180</ref>。 |
|||
[[1810年]]5月より[[アンドレ・マッセナ]]元帥率いるフランス軍がポルトガル・スペイン国境の[[シウダ・ロドリーゴ]]と{{仮リンク|アルメイダ (ポルトガル)|label=アルメイダ|pt|Almeida}}の要塞に攻撃をかけてきた。両要塞が夏まで持ちこたえている間、南の防衛を固めつつ、小麦の収穫を素早く終わらせた。両要塞が陥落した後、{{仮リンク|ブサコ|pt|Serra do Buçaco}}まで後退して守備の布陣をとり、9月末の{{仮リンク|ブサコの戦い|en|Battle of Bussaco}}でフランス軍を退けた<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.182-183</ref>。 |
|||
ブサコの戦いに勝利したものの、ウェリントン子爵は軍をトレス・ヴェドラス線まで後退させた。マッセナ元帥率いるフランス軍が追撃に出てきたが、トレス・ヴェドラス線の入り組んだ塹壕や大砲用の落とし穴が広がる光景を見てマッセナ元帥は愕然とし、「奴がこの山を築いたのか」と叫んだという<ref name="ストローソン(1998)183">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.183</ref>。結局マッセナ元帥の軍は4か月ほど粘ったものの、補給状態が壊滅的となり、1811年3月にはスペインに撤退していった<ref name="ストローソン(1998)184">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.184</ref>。 |
|||
{{-}} |
|||
==== スペイン・ポルトガル国境の争奪戦 ==== |
|||
つづいてウェリントン子爵はスペイン進撃のため、ポルトガル・スペイン国境付近の要塞シウダ・ロドリーゴ、[[バダホス]]、アルメイダの奪還作戦を開始した。マッセナ元帥率いるフランス軍も急ピッチで再編成を済ませ、アルメイダを包囲する{{仮リンク|ブレント・スペンサー|en|Brent Spencer}}将軍率いる{{仮リンク|第1師団 (イギリス)|label=イギリス軍第1師団|en|1st Infantry Division (United Kingdom)}}に対して攻勢に出てきた。しかし1811年5月11日の{{仮リンク|フエンテス・デ・オニョーロの戦い|en|Battle of Fuentes de Oñoro}}の激戦の末にフランス軍を[[サラマンカ]]へ押し戻すことに成功した<ref name="ストローソン(1998)186">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.186</ref>。この勝利によりアルメイダ要塞を奪還したが、フランス軍の防衛部隊には無事撤退された<ref name="ストローソン(1998)187">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.187</ref>。 |
|||
並行して{{仮リンク|ウィリアム・ベレスフォード (初代ベレスフォード子爵)|label=ウィリアム・ベレスフォード|en|William Beresford, 1st Viscount Beresford}}少将率いるイギリス・ポルトガル連合軍はバダホス要塞攻略を開始したが、スールト元帥率いるフランス軍が援軍に駆け付けてきて、両軍は5月16日に{{仮リンク|アルブエラの戦い|en|Battle of Albuera}}で衝突した。ウェリントン子爵が戦場に間に合わず、また甚大な死傷者が出た激戦となったが、ベレスフォード軍がなんとか勝利し、バダホス要塞を陥落させた。ただ被害が甚大すぎて結局ポルトガルまで撤退することを余儀なくされた<ref name="ストローソン(1998)187">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.187</ref>。 |
|||
[[1811年]]の冬の間、軍の増強・休息・補給の確保にあたり、シウダード・ロドリゴとバダホス攻略の準備を進めた<ref name="ストローソン(1998)188">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.188</ref>。1812年に入るとただちにシウダード・ロドリゴ攻略を目指して出陣し、1月9日には同市を占領し、[[オーギュスト・マルモン]]元帥率いるフランス軍を激戦の末に退けた<ref name="ストローソン(1998)196">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.196</ref>。 |
|||
この戦いの直後の1812年2月に'''ウェリントン伯爵'''(Earl of Wellington)に叙せられた<ref>{{LondonGazette |issue= 16576 |startpage= 335 |date= 18 February 1812 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref>。 |
|||
その後、バダホス再攻略を目指し、1812年3月から4月にかけて{{仮リンク|バダホスの戦い (1812年)|label=バダホスの戦い|en|Siege of Badajoz (1812)}}に及んだ。勝利し、バダホス占領に成功したものの、やはり激戦となり、甚大な死傷者がでた。戦死者が大量に横たわる戦場を視察したウェリントン子爵は涙を流しながら「政府が工兵隊と地雷工兵隊をもっとたくさん送っていてくれたら、勇敢な兵士たちはもっと容易く敵の防衛拠点を制圧して任務を達成していたはずだ」と述べて政府批判したという<ref name="ストローソン(1998)197">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.197</ref>。 |
|||
==== スペイン進撃 ==== |
|||
[[File:Wellington a Salamanca.jpg|thumb|250px|{{仮リンク|サラマンカの戦い|en|Battle of Salamanca}}の指揮を執るウェリントン伯爵中将]] |
|||
ウェリントン伯爵は1812年6月13日より5万のイギリス・ポルトガル・スペイン連合軍を率いて{{仮リンク|アゲダ川|es|Río Águeda}}を渡河し、スペイン進撃を開始した<ref name="ストローソン(1998)206">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.206</ref>。イギリス軍は[[サラマンカ]]に入り、フランス軍はドウロ川を挟んで対陣した<ref name="ストローソン(1998)206">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.206</ref>。 |
|||
7月22日、ウェリントン伯爵を守備的将軍と看做していたマルモン元帥率いるフランス軍が、イギリス軍を包囲しようと動いた結果、フランス軍の防衛が手薄になるというチャンスが生まれた。この報告を受けた時、ウェリントン伯爵は食べていたチキンを放り捨てて自ら伝令となって義弟{{仮リンク|エドワード・パクナム|en|Edward Pakenham}}将軍のもとへいき、彼が指揮する{{仮リンク|第3機械化師団 (イギリス)|label=第3師団|en|3rd Mechanised Division (United Kingdom)}}に攻勢をかけさせた<ref name="ストローソン(1998)206">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.206</ref>。 |
|||
こうしてはじまった{{仮リンク|サラマンカの戦い|en|Battle of Salamanca}}で、パクナム率いる第3師団は{{仮リンク|ジャン・ギヨーム・バルテルミー・トーミエール|fr|Jean Guillaume Barthélemy Thomières}}将軍率いるフランス軍師団を半壊させ、ウェリントン伯爵も{{仮リンク|第4歩兵師団 (イギリス)|label=第4師団|en|4th Infantry Division (United Kingdom)}}と{{仮リンク|第5歩兵師団 (イギリス)|label=第5師団|en|5th Infantry Division (United Kingdom)}}を率いてフランス軍中央に攻勢をかけ、{{仮リンク|アントワン・ルイ・ポポン|fr|Antoine Louis Popon}}のフランス軍歩兵部隊を潰走させ、{{仮リンク|ジョン・ル・マルシャン|en|John Le Marchant (British Army cavalry officer)}}率いるイギリス軍騎兵隊が追撃をかけてポポンの軍を壊滅させた<ref name="ストローソン(1998)208">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.208</ref>。負傷して戦線離脱したマルモン元帥に代わってフランス軍総司令官となった{{仮リンク|ベルトラン・クローゼル|fr|Bertrand Clauzel}}元帥はウェリントン伯爵の攻撃の起点である丘陵を狙ったが、ウェリントン伯爵はそこに3個師団を予備役として配置しており、これを撃退することができた。ただスペイン軍がトルメス・アルバ川の防衛の任を放棄していたため、フランス軍は全滅を免れて撤退に成功した<ref name="ストローソン(1998)209">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.209</ref> |
|||
フランス軍の撤退を許したとはいえ、サラマンカの戦いはイギリスの鮮やかな勝利であった。フランス軍師団長の一人{{仮リンク|マクシミリアン・セバスチャン・フォア|fr|Maximilien Sébastien Foy}}はウェリントン伯爵が守備戦だけでなく攻勢にも長けていた事に驚き、彼の用兵術を[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]のそれに例えて称賛した<ref name="ストローソン(1998)209">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.209</ref>。ウェリントン伯爵本人も後年自分の最大の大勝利の一つにこの戦いを入れている<ref name="ストローソン(1998)207">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.207</ref>。 |
|||
この戦いの勝利で1812年8月12日にスペイン首都[[マドリード]]を占領することに成功した<ref name="ストローソン(1998)210">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.210</ref>。この功績で'''ウェリントン侯爵'''(Marquess of Wellington)に叙せられた<ref>{{LondonGazette |issue= 16635 |startpage= 1643 |date= 15 August 1812 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref>。また9月にスペイン連合軍最高司令官に就任し、スペイン軍の指揮も正式に任された<ref name="ストローソン(1998)225">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.225</ref>。 |
|||
同月、マドリードから4個師団を率いて北上して[[ブルゴス]]市を包囲した。しかしブルゴスのフランス軍の守備は堅く落とすことができず、またフランス軍がマドリードへの再攻勢を計画している事を知ると、ウェリントン侯爵は何のためらいもなく、マドリードを放棄して全軍をポルトガルまで撤退させた。これが彼の最後の撤退だった<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.216-217</ref>。この撤退は兵たちには不満が多かったものの、ポルトガルで越冬することによって兵士たちの生活環境の改善、軍再編成はしやすかった<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.216/229</ref>。 |
|||
1813年1月に{{仮リンク|ウェリントン公爵連隊|label=第33歩兵連隊|en|Duke of Wellington's Regiment}}連隊長改め{{仮リンク|王立近衛騎馬連隊 (イギリス)|label=王立近衛騎兵連隊|en|Royal Horse Guards}}連隊長に任じられ、3月には[[ガーター勲章]]を授与されている<ref>{{LondonGazette |issue= 16692 |startpage= 105 |date= 12 January 1813 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref><ref name="LondonGazette1813">{{LondonGazette |issue= 16708 |startpage= 458 |date= 2 March 1813 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref><ref name="DNB"/><ref name="ストローソン(1998)225">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.225</ref>。 |
|||
{{-}} |
|||
==== スペイン再進撃 ==== |
|||
[[File:Arthur Wellesley duca di Wellington a Vitoria.jpg|thumb|250px|[[ビトリアの戦い]]の指揮を執るウェリントン侯爵中将。]] |
|||
ウェリントン侯爵は1813年2月にはスペインへの再遠征を計画し、5月からそれを実行に移した。ポルトガルを立つにあたってウェリントン侯爵は2度とここには戻らないと宣言した<ref name="ストローソン(1998)230">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.230</ref>。この頃、ウェリントン侯爵の手元にはイギリス・ポルトガル軍8万人とスペイン軍2万人、スペイン不正規軍5万人の兵力があった<ref name="ストローソン(1998)228">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.228</ref>。 |
|||
6月13日に[[ビトリアの戦い]]でスペイン王[[ジョゼフ・ボナパルト]]とその軍事顧問[[ジャン=バティスト・ジュールダン]]元帥が率いるフランス軍と対峙したが、補給面で圧倒的に有利なイギリス軍の圧勝に終わった。ジョゼフはウェリントン侯爵がフランス軍と本国の連絡線を断とうとしていることに気付き、[[パンプローナ]]に向けて後退していった<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.231-232</ref><ref name="松村(2006)182">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.182</ref>。この戦いは半島戦争におけるイギリス軍の優勢を決定づけた戦いとなった<ref name="松村(2006)182"/>。イギリス軍はフランス軍が置き去りにしていった多くの戦利品を得ることができたが、その中にジュールダン元帥の指揮杖もあった。ウェリントン侯爵はこれを[[摂政皇太子]][[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ]]に献上した。それに対して摂政皇太子は「フランス元帥の指揮杖をもらった代わりにイギリス元帥の指揮杖をあげよう」という洒落た返事とともにウェリントン侯爵に[[元帥 (イギリス)|元帥]]位を与えた<ref name="ストローソン(1998)233">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.233</ref>{{#tag:ref|この時のウェリントンの年齢は44歳であり、これは王室出身者を除いて史上最年少での元帥就任だった<ref name="バーソープ(2001)4">[[#バーソープ(2001)|バーソープ(2001)]] p.4</ref>。|group=注釈}}。 |
|||
一方ナポレオンは敗戦報告を受けて激怒し、ジュールダンを解任してスールト元帥を後任とした<ref name="ストローソン(1998)234">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.234</ref>。 |
|||
ウェリントン侯爵は7月からスペイン国内に残された二つのフランス軍要塞、[[サン・セバスティアン]]と[[パンプローナ]]の攻略を開始したが、スールト元帥はこの英軍の分散を利用して[[ロンセスバーリェス]]と[[マヤ峠]]に攻勢をかけて英軍を追い、さらにパンプローナを包囲する英軍を襲撃してその補給物資を鹵獲しようとした。ウェリントン侯爵はスールト軍が[[レサカ]]を強襲すると予想して準備していたのでこの動きには裏をかかれた形だった<ref name="ストローソン(1998)240">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.240</ref>。 |
|||
だがウェリントン侯爵はすぐにパンプローナ北方に全軍を終結させて防衛体制を整えると{{仮リンク|ソラウレンの戦い|en|Battle of Sorauren}}で得意の守備戦に持ち込んだ。スールト元帥がサン・セバスティアン要塞救出のための行軍中に誤ってウェリントンの本陣に突っ込んだことが功を奏し、フランス軍を徹底的に叩くことに成功した。他のフランス軍もイギリス軍から補給物資を鹵獲することに失敗してフランス本国へ敗走していった。この後、8月から10月にかけてサン・セバスティアンとパンプローナをじっくりと落とした<ref name="ストローソン(1998)242">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.242</ref>。 |
|||
ここにフランス軍はイベリア半島から完全に駆逐されたのだった。 |
|||
{{-}} |
|||
==== ナポレオン最初の失脚から復権まで ==== |
|||
[[File:DelarocheNapoleon.jpg|thumb|180px|1814年4月、[[フォンテーヌブロー]]の[[ナポレオン]]を描いた絵画([[ポール・ドラローシュ]]画)]] |
|||
ナポレオンを取り巻く情勢は半島戦争以外でも壊滅的になっていた。彼が万を期して1812年6月に開始した[[1812年ロシア戦役|ロシア侵攻]]は1812年末までに失敗に終わり、この情勢を見た[[プロイセン王国]]はロシアと同盟を組んでナポレオンに反旗を翻した<ref name="ストローソン(1998)226">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.226</ref><ref name="本池(1993)169-170">[[#本池(1993)|本池(1993)]] p.169-170</ref>。[[オーストリア帝国]]もビトリアの戦いでのイギリス軍の勝利を見て、ナポレオンと距離をとるようになり、最終的には1813年8月にロシア・プロイセンと同盟してフランスに宣戦布告した<ref name="ストローソン(1998)238">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.238</ref><ref name="本池(1993)175-176">[[#本池(1993)|本池(1993)]] p.175-176</ref>。10月の[[ライプツィヒの戦い]]でフランス軍が同盟軍に敗れた結果、[[ライン同盟]]諸国の大半もナポレオンから離反するに至った<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.239-240</ref><ref name="本池(1993)175-176">[[#本池(1993)|本池(1993)]] p.175-178</ref>。 |
|||
いよいよナポレオンに止めを刺す時が来たと判断したウェリントン侯爵は、1813年10月にスペイン・フランス国境の[[ビダソア川]]を確保し、11月からフランス侵攻を開始した<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.243-244</ref>。[[バイヨンヌ]]を包囲しようとしたが、これを恐れたスールト率いるフランス軍は[[トゥールーズ]]に撤退した<ref name="ストローソン(1998)243">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.243</ref><ref name="松村(2006)191-192">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.191-192</ref>。ウェリントン侯爵は[[ボルドー]]を占領し、さらにトゥールーズへ向けて進軍した<ref name="松村(2006)192">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.192</ref>。 |
|||
一方ロシア・プロイセン・オーストリア同盟軍も東からフランス侵攻を開始し、1814年3月末にはロシア皇帝[[アレクサンドル1世]]率いる同盟軍が[[パリ]]に入城した<ref>[[#本池(1993)|本池(1993)]] p.182-190</ref>。同盟軍の占領下で[[シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール|タレーラン]]の臨時フランス政府が樹立され、4月2日には[[元老院 (フランス)|元老院]]がナポレオン廃位を決定した。パリに戻れなくなり、[[フォンテーヌブロー]]に留まっていたナポレオンも4月4日には退位を受け入れた<ref name="ストローソン(1998)245">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.245</ref><ref name="本池(1993)191-192">[[#本池(1993)|本池(1993)]] p.191-192</ref>。 |
|||
[[File:Arthur Wellesley - Lawrence 1814-15.jpg|thumb|180px|left|1814年から1815年頃に書かれたウェリントン公爵元帥の肖像画([[トーマス・ローレンス (画家)|トーマス・ローレンス]]画)]] |
|||
ウェリントン侯爵の軍は4月10日にトゥールーズを攻略した。その翌日11日にナポレオン側と同盟国側の交渉でナポレオンの無条件退位が正式に決まり、12日にはウェリントン侯爵にもその情報が伝わった<ref>[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.193-194</ref>。この際ウェリントン侯爵は「いい時期だ」と述べて喜んだという<ref name="ストローソン(1998)245">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.245</ref>。同日のうちにウェリントン侯爵とスールト元帥も現地の停戦協定を結んだ<ref name="松村(2006)194">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.194</ref>。 |
|||
ウェリントン侯爵は本国からこれまでの戦功を労われ、5月3日に'''ウェリントン公爵'''(Duke of Wellington)に叙せられた<ref>{{LondonGazette |issue= 16894 |startpage= 936 |date=3 May 1814 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref><ref name="ストローソン(1998)245"/>。 |
|||
[[フランス復古王政|王政復古]]でフランス王位についた[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]が、5月30日に同盟軍と{{仮リンク|パリ条約 (1814年)|label=パリ条約|en|Treaty of Paris (1814)}}を締結したことでフランス領土の範囲は[[1792年]]時の状態に戻ることになった<ref name="ストローソン(1998)252">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.252</ref><ref name="本池(1993)194">[[#本池(1993)|本池(1993)]] p.194</ref><ref name="松村(2006)194">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.194</ref>。またフランスとオランダの[[植民地]]の多くをイギリスが獲得した<ref name="本池(1993)194"/>。 |
|||
終戦によりウェリントン公爵も6月にはイギリスに帰国したが、帰国後ただちに[[在フランスイギリス大使|駐フランス・イギリス大使]]に任じられてパリに派遣された<ref>{{LondonGazette |issue= 16915 |startpage= 1389 |date= 9 July 1814 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref><ref name="ストローソン(1998)249">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.249</ref>。この任命はウェリントン公爵がフランス語とフランス旧体制[[アンシャン・レジーム]]の機微に通じており、[[フランス復古王政]]と交渉しやすい人物と目されていたためと見られる。だがウェリントン公爵自身はこの任命を不可思議に思っていたという<ref name="ストローソン(1998)250">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.250</ref>。 |
|||
1814年末に[[ウィーン会議]]が開催されるとウェリントン公爵も参加した<ref name="世界伝記大事典(1980,2)149">[[#世界伝記大事典(1980,2)|世界伝記大事典(1980)世界編2巻]] p.149</ref>。1815年2月にイギリス代表だった外相[[ロバート・ステュアート (カスルリー子爵)|カスルリー子爵]]が帰国するとその代理としてウェリントン公爵がイギリス代表となった<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.253-254</ref>。しかし会議は、ロシアがポーランド、プロイセンがザクセンの領有権を主張したことで紛糾し、「会議は踊る、されど進まず」と揶揄される状況になった<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.252-253</ref>。ウェリントン公爵もこの状況にあきれ果てたという<ref name="柘植(1995)23-24">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.23-24</ref>。 |
|||
その間、イギリス軍に監視されながら[[エルバ島]]の小領主をしていたナポレオンは、ルイ18世がフランスの民心を得られないのを見て今フランスに戻れば政権を取り戻せると判断した。エルバ島を脱出して{{仮リンク|ゴルフ=ジュアン|fr|Golfe-Juan}}に上陸したナポレオンは、復古王政を反人民の[[封建主義]]体制と批判し、皇帝政府に復帰することをフランス軍やフランス人民に訴えた。ルイ18世は[[ミシェル・ネイ]]元帥をナポレオン捕縛に派遣したが、ネイ元帥は途中でナポレオンに寝返った。他のフランス軍将軍たちも続々とナポレオンに従い、ナポレオンは無血でパリを奪還することに成功した<ref>[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.199-202</ref><ref>[[#本池(1993)|本池(1993)]] p.195-202</ref>。 |
|||
この報告を聞いたウィーン会議出席中の各国首脳は、反ナポレオンで再び団結し、1815年3月12日にナポレオン排除を決議した<ref name="ストローソン(1998)266">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.266</ref><ref name="本池(1993)204">[[#本池(1993)|本池(1993)]] p.204</ref>。 |
|||
{{-}} |
|||
==== ワーテルローの戦い ==== |
|||
[[File:Hillingford - Wellington and Blucher Meeting Before the Battle of Waterloo.jpg|thumb|180px|作戦会議を行うウェリントン公爵元帥とプロイセン軍の[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル|ブリュッヘル]]元帥({{仮リンク|ロバート・アレクサンダー・ヒリングフォード|en|Robert Alexander Hillingford}}画)]] |
|||
ウェリントン公爵はオランダ領ベルギーで同盟軍の指揮を執ることになった。ウィーンを発つ直前にロシア皇帝アレクサンドル1世より「世界をもう一度救うのは貴官だ」とのお言葉を賜っている<ref name="ストローソン(1998)268">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.268</ref>。 |
|||
1815年4月4日に[[ブリュッセル]]に到着したウェリントン公爵は9万5000人のイギリス・オランダ・ハノーヴァー・ブラウンシュヴァイク連合軍を指揮し、[[モンス]]から海岸にかけて布陣した<ref name="ストローソン(1998)269">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.269</ref><ref name="柘植(1995)26">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.26</ref><ref name="本池(1993)215">[[#本池(1993)|本池(1993)]] p.215</ref><ref name="松村(2006)196">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.196</ref>。訓練が未熟な部隊も多かったものの、ウェリントン公爵の名声や気配りはこの雑多な多国籍軍の共同作業を可能とした<ref name="ストローソン(1998)272">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.272</ref>。さらに[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル]]元帥率いるプロイセン・ルクセンブルク連合軍12万人ほどが[[アルデンヌ]]から[[シャルルロワ]]にかけて布陣していた<ref name="本池(1993)215"/><ref name="松村(2006)196"/>。一方ナポレオンがパリでかき集めた兵力は58万人ほどで、そのうち12万4000人を自らの直属の野戦軍にした<ref name="松村(2006)196"/>。 |
|||
ナポレオン率いるフランス軍主力は6月11日にパリを発ち、6月14日には[[シャルルロワ]]付近に到着した<ref name="松村(2006)197">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.197</ref>。ウェリントン公爵はフランス軍がシャルルロワを攻撃すると見せかけて西側の進路をとると予想し、6月15日夕方、隷下の[[ウィレム2世 (オランダ王)|オラニエ公ウィレム]]と{{仮リンク|ローランド・ヒル (ヒル子爵)|label=ヒル卿|en|Rowland Hill, 1st Viscount Hill}}に指示を出して、{{仮リンク|ヘラールツベルヘン|nl|Geraardsbergen}}から{{仮リンク|ニーヴェル|fr|Nivelles}}に至る地域に素早く展開できるよう準備を開始させた<ref name="ストローソン(1998)274">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.274</ref>。同日夜10時頃、フランス軍主力がシャルルロワに進軍したことを知ったウェリントン公爵は、ニーヴェルと[[カトル・ブラ]]に軍を終結させるよう指示し直し、その後予定通りに{{仮リンク|シャルロッテ・レノックス (リッチモンド公爵夫人)|label=リッチモンド公爵夫人|en|Charlotte Lennox, Duchess of Richmond}}主催の{{仮リンク|リッチモンド公爵夫人の舞踏会|label=舞踏会|en|Duchess of Richmond's ball}}に出席した<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.274-275</ref>。 |
|||
その舞踏会のさなか、フランス軍主力がカトル・ブラに進軍したとの報告を受けたウェリントン公爵は、{{仮リンク|チャールズ・レノックス (第4代リッチモンド公爵)|label=リッチモンド公爵|en|Charles Lennox, 4th Duke of Richmond}}に対して「ナポレオンにはしてやられました。24時間進軍してこちらへ向かってきています。カトル・ブラでナポレオンを迎え撃つことはできないでしょう。恐らくここで戦うことになります」と述べて地図上で[[ワーテルロー]]を指さしたという<ref name="ストローソン(1998)272">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.272</ref>。 |
|||
6月16日、ナポレオンは{{仮リンク|リニーの戦い|en|Battle of Ligny}}でフランス軍主力をプロイセン軍と戦わせながら、[[ミシェル・ネイ]]元帥率いるフランス軍の一部を交通の要衝[[カトル・ブラ]]に差し向けた。そこを占領することで西側面からもプロイセン軍に攻勢をかけようとしたのだが、カトル・ブラを守る現地イギリス軍旅団は持ちこたえ、同日夕方にはウェリントン公爵率いるイギリス軍主力がカトル・ブラに到着し、ネイ軍を撃退した<ref name="松村(2006)198">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.198</ref><ref name="柘植(1995)28">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.28</ref>。 |
|||
一方リニーの戦いに敗れたプロイセン軍は、[[ワーヴル]]まで撤退した(ただしネイ軍がカトル・ブラを占領できなかったためプロイセン軍も決定的打撃は受けずにすんだ)<ref name="ストローソン(1998)276">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.276</ref><ref name="本池(1993)215"/><ref name="松村(2006)198"/>。 |
|||
[[File:Wellington at Waterloo Hillingford.jpg|thumb|250px|left|ワーテルローの戦いで指揮を執るウェリントン公爵元帥(ヒリングフォード画)]] |
|||
プロイセン軍の撤退を知ったウェリントン公爵は「ご老体が惨敗したか」と冷やかに述べたという。ウェリントン公爵は73歳になっても前線で指揮をとろうとするブリュッヘル元帥に否定的であったという<ref name="柘植(1995)28">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.28</ref>。 |
|||
プロイセン軍が撤退した以上、英軍がカトル・ブラに留まる意味もなく、ウェリントン公爵は6月16日から17日にかけて戦術的後退を行ったが、ナポレオン軍主力が追跡してきた。これを知ったウェリントン公爵はプロイセン軍のブリュッヘル元帥に[[ワーテルロー]]付近への集結を求める伝令を送った。もしプロイセン軍が来れないようであればウェリントン公爵としてはブリュッセルも放棄して後退を続けるつもりであった<ref name="柘植(1995)29">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.29</ref>。だがブリュッヘル元帥からの返答はすぐにもワーテルローへ向かうというものだった<ref name="柘植(1995)30">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.30</ref>。これを信じたウェリントン公爵は後退を中止し、[[ワーテルロー]]付近で守備布陣を固めた<ref name="松村(2006)199">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.199</ref>。 |
|||
6月17日は午後2時頃から豪雨となった<ref name="柘植(1995)29"/>、ナポレオンは地面の安定を待って[[6月18日]]午後1時まで本格的な攻撃をかけなかった<ref name="松村(2006)199"/><ref name="ストローソン(1998)282">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.282</ref>。この隙にブリュッヘル率いるプロイセン軍がワーテルローに接近することが可能となった。ナポレオンは「プロイセン軍は到着まで二日はかかる」と考えており、プロイセン軍を追撃している[[エマニュエル・ド・グルーシー]]元帥の軍を呼び戻すべきとのスールト元帥の進言も却下している<ref name="ストローソン(1998)282-283">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.282-283</ref>。 |
|||
6月18日午後1時半から{{仮リンク|ジャン=バティスト・ドルーエ (初代デルロン伯)|label=デルロン伯爵|fr|Jean-Baptiste Drouet d'Erlon}}将軍率いるフランス軍第1軍団がイギリス軍中央に攻勢をかけてきた。{{仮リンク|トーマス・ピクトン|label=ピクトン|en|Thomas Picton}}中将の第5師団が迎え撃ったが、激戦となり、ピクトン中将も戦死した<ref name="ストローソン(1998)282-283">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.282-283</ref>。 |
|||
ウェリントン公爵は{{仮リンク|エドワード・サマセット|label=サマセット卿|en|Lord Edward Somerset}}少将率いる近衛騎兵旅団と{{仮リンク|ウィリアム・ポンソンビー (イギリス陸軍)|label=サー・ウィリアム・ポンソンビー|en|William Ponsonby (British Army officer)}}少将率いる連合騎兵旅団を応援に送ることとした。ウェリントン公爵は「紳士たちよ、王室の部隊の名誉のためだ」と叫んで彼らを鼓舞した<ref name="ストローソン(1998)284">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.284</ref>。出撃した両騎兵旅団はデルロン軍を退けたが、追撃で深追いし過ぎたため大きな打撃をこうむり、ポンソンビー少将も戦死した<ref name="ストローソン(1998)284">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.284</ref><ref name="柘植(1995)35">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.35</ref>。 |
|||
つづいて午後4時にネイ元帥がフランス重騎兵連隊を率いてイギリス軍中央に突撃をかけてきた<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.277/285</ref>。しかしイギリス陸軍は[[14世紀]]の[[クレシーの戦い]]の教訓で日頃から騎兵単独突撃に対して[[方陣]]を組んで突破を阻止する訓練を受けていた<ref>[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.199-200</ref>。そのため冷静に横一列になって射撃を浴びせかけ、フランス騎兵を次々と討ち取ることができた<ref name="ストローソン(1998)285">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.285</ref>。ウェリントン公爵は、愛馬[[コペンハーゲン (軍馬)|コペンハーゲン]]を駆ってあちこちの部隊を回り、「あと少しだ。プロイセン軍が到着すれば戦争は終わる」と兵士たちを励ました<ref name="ストローソン(1998)285">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.285</ref>。 |
|||
[[File:Blucher Wellington i Napoleon (1815).jpg|thumb|250px|ナポレオンを処分するウェリントン公爵元帥とプロイセン軍の[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル|ブリュッヘル]]元帥の風刺画]] |
|||
騎兵単独突撃を断念したネイ元帥は午後6時、歩兵・騎兵・砲兵を適切に活用して{{仮リンク|ラ・エー・サント|en|La Haye Sainte}}を攻略、これによって英軍の守備陣形が崩されそうになった。ネイ元帥はイギリス軍を一気に突き崩すため、ナポレオンに増援を要請したが、ナポレオンは接近してきたプロイセン軍の方を警戒しており、唯一手元に残る兵力の[[古参近衛隊|近衛隊]]を{{仮リンク|ジョルジュ・ムートン|label=ロバウ伯爵|fr|Georges Mouton}}率いる第6軍団支援に送った<ref name="ストローソン(1998)286">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.286</ref><ref name="松村(2006)199">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.199</ref>。その結果ネイ軍の攻撃は不徹底に終わった。ウェリントン公爵は弱体化した部分の指揮を自ら執って、適切に援軍を送って補強し、危機を回避した<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.277/286</ref>。 |
|||
午後7時頃になってようやくナポレオンはラ・エー・サントに近衛隊投入を決定した。ウェリントン公爵は近衛第1連隊にこれを食い止めさせている間、第52連隊にフランス近衛隊の側面を突かせ、近衛隊を敗走に追い込んだ<ref name="ストローソン(1998)287">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.287</ref>。フランス軍最強の近衛隊の撤退でフランス軍主力に動揺が走った<ref name="ストローソン(1998)287">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.287</ref>。さらにプロイセン軍もロバウ軍を撃破して、ラ・エー・サントに押し寄せてきた<ref name="松村(2006)200">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.200</ref><ref name="ストローソン(1998)287">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.287</ref>。 |
|||
ウェリントン公爵はフランス軍が崩壊し始めたのを見逃さず、「始めたことは最後までやり遂げよう(In for a Penny In for a Pound)」という号令のもと全軍を前進させた<ref name="ストローソン(1998)287">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.287</ref>。 |
|||
ナポレオンは手元に残されていた最後の近衛隊部隊を投入しつつ、総崩れになって敗走してくるフランス兵たちに檄を飛ばしたが、無駄な努力に終わった。結局ナポレオンも戦場を放棄してシャルルロワへ逃げていった。フランス軍の追撃はプロイセン軍が行った<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.287-288</ref>。 |
|||
こうしてワーテルローの戦いは同盟軍の勝利に終わった。だがこの戦いは同盟軍側にも甚大な数の戦死者を出していた。ウェリントン公爵軍は1万5000人、ブリュッヘル軍は7000人が戦死している(フランス軍は2万3000人)<ref name="松村(2006)201">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.201</ref>。翌19日に戦死者リストを見せられたウェリントン公爵は涙を流しながら「敗戦のときの気持ちは私には分からないが、これほど多くの戦友を失って得た勝利ほど悲しいことはない」と軍医に語っている<ref name="ストローソン(1998)288">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.288</ref>。 |
|||
{{-}} |
|||
=== フランス占領軍総司令官 === |
|||
ナポレオンはパリまで逃げ戻ったが、ナポレオンを支持する者はもうほとんどなく、フランス議会から退位を要求された。同盟軍がパリに接近してくるに及んで、ナポレオンはイギリス軍に投降した。イギリス政府の決定でナポレオンは[[セント・ヘレナ島]]に流刑となった。ルイ18世がパリに帰還し、復古王政が再開された。また[[パリ条約 (1815年)|第二次パリ条約]]が締結されてフランスは莫大な賠償金を課され、フランス領土は[[1790年]]時の領土まで削減されることになった<ref name="松村(2006)201">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.201</ref>。 |
|||
ウェリントン公爵はフランス占領同盟軍の総司令官に就任した<ref name="ストローソン(1998)306">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.306</ref>。ウェリントン公爵は本国の外相[[ロバート・ステュアート (カスルリー子爵)|カスルリー子爵]]と協力して、復讐に燃えるロシア、プロイセン、オーストリアを抑えて寛大な占領統治を行った。ロシアが求める[[イエナ橋]]の爆破も退けた。15万人もの占領軍は多すぎるとして縮小することも提案している。ロシア軍、プロイセン軍、オーストリア軍はフランス国民から激しい略奪を行ったが、イギリス軍はウェイリントン公爵の指揮下に規律を保ち、略奪を行わなかった<ref name="ストローソン(1998)306">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.306</ref>。 |
|||
また「変節者」「裏切り者」であっても[[シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール|タレーラン]]や[[ジョゼフ・フーシェ|フーシェ]]は閣僚の地位に留まらせるようルイ18世の説得にあたった<ref name="ストローソン(1998)310">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.310</ref>。一方でルイ18世に復讐で逮捕された[[ミシェル・ネイ]]元帥の助命嘆願はしなかった。その結果ネイは銃殺刑に処された<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.307-308</ref> |
|||
1818年秋[[アーヘン会議 (1818年)|アーヘン会議]]が開催され、ウェリントン公爵は外相カスルリー子爵とともにイギリス代表として出席した<ref name="ストローソン(1998)311">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.311</ref>。この会議でウェリントン公爵は[[ベアリングス銀行]]からフランス政府への融資を取り付け、フランス政府の賠償金支払いの当てを作り、その結果会議は11月末までにフランス占領軍を撤収させることを決議した<ref name="ストローソン(1998)311">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.311</ref>。 |
|||
こうしてウェリントン公爵も1818年12月にはイギリスへ帰国することとなった<ref name="ストローソン(1998)311">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.311</ref>。 |
|||
{{-}} |
|||
=== リヴァプール伯爵内閣補給庁長官 === |
|||
[[File:His Grace the Duke of Wellington.jpg|180px|thumb|1820年頃のウェリントン公爵]] |
|||
帰国後、ただちに[[ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)|リヴァプール伯爵]]内閣の{{仮リンク|イギリス補給庁長官|label=補給庁長官|en|Master-General of the Ordnance}}に就任した<ref>{{LondonGazette |issue= 17434 |startpage= 2325 |date= 26 December 1818 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref><ref name="ストローソン(1998)311">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.311</ref>。 |
|||
この時代、イギリス陸軍に関する管理機構は錯綜しており、補給庁は陸軍の武器弾薬や軍用コートの補給を所管する役所だった(食料と輸送は大蔵省の管轄)<ref name="ストローソン(1998)312">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.312</ref>。[[1827年]]までという長きにわたってこの閣僚職に在職したウェリントン侯爵だったが、特筆される様な業績はなかった<ref name="ストローソン(1998)312">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.312</ref>。 |
|||
1822年8月に盟友である外務大臣カスルリー子爵が自殺し、[[ジョージ・カニング]]がその後任となった。この人事はウェリントン公爵が国王[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]に推挙した結果だった<ref name="ストローソン(1998)321">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.321</ref>。カニングはトーリー党内の[[自由主義]]派であり<ref name="トレヴェリアン(1975)120">[[#トレヴェリアン(1975)|トレヴェリアン(1975)]] p.120</ref>、保守的なウェリントン公爵は彼に好感を持っていなかったが、反政府派に対抗するためには彼の入閣が不可欠と考えていた<ref name="ストローソン(1998)321"/>。 |
|||
だがカニングの入閣により閣内の亀裂は深まった。とりわけウェリントン公爵と[[大法官]]{{仮リンク|ジョン・スコット (初代エルドン伯爵)|label=エルドン伯爵|en|John Scott, 1st Earl of Eldon}}の保守的な見解が、カニングや{{仮リンク|ウィリアム・ハスキソン|en|William Huskisson}}の自由主義的見解と頻繁に衝突するようになった。首相リヴァプール首相や内務大臣[[ロバート・ピール|サー・ロバート・ピール]]、[[戦争・植民地大臣]][[ヘンリー・バサースト (第3代バサースト伯爵)|バサースト伯爵]]は中間的な立場を取ることが多かった<ref name="君塚(1999)50">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.50</ref><ref name="トレヴェリアン(1975)120">[[#トレヴェリアン(1975)|トレヴェリアン(1975)]] p.120</ref>。 |
|||
とりわけ対立が深刻化したのがカトリック解放問題だった。これは[[イングランド国教会]]信徒にしか公務就任が認められていない現状に対してカトリックの公務就任を認めるべきか否かという問題であった。この問題ではカニング、ハスキソンがカトリック解放を支持する一方、ピールがカトリック解放に強く反対した。ウェリントン公爵もカトリック解放反対の立場だったが、閣内分裂を恐れ、この問題ではバサースト伯爵とともに閣内融和に努めている<ref name="君塚(1999)50"/>。 |
|||
1827年1月に{{仮リンク|イギリス陸軍総司令官|label=陸軍総司令官|en|Commander-in-Chief of the Forces}}[[フレデリック (ヨーク・オールバニ公)|ヨーク・オールバニ公爵]]が[[薨去]]すると、ウェリントン公爵が補給庁長官在任のまま軍職の陸軍最高司令官を兼務した<ref>{{LondonGazette |issue= 18327 |startpage= 153 |date= 23 January 1827 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref>。ウェリントン公爵はこの地位に付いたことを非常に喜んだという<ref name="ストローソン(1998)327">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.327</ref>。 |
|||
1827年2月17日にリヴァプール伯爵が[[脳卒中]]で倒れ、これ以上首相の職務を執るのは難しい容態となった。{{仮リンク|リチャード・テンプル=ニュージェント=ブリッジス=チャンドス=グレンヴィル (初代バッキンガム=チャンドス公爵)|label=バッキンガム=チャンドス公爵|en|Richard Temple-Nugent-Brydges-Chandos-Grenville, 1st Duke of Buckingham and Chandos}}や{{仮リンク|ヘンリー・ペラム=クリントン (第4代ニューカッスル公爵)|label=ニューカッスル公爵|en|Henry Pelham-Clinton, 4th Duke of Newcastle}}といったカトリック解放に慎重な貴族たちは後任の首相にウェリントン公爵を推したものの、当のウェリントン公爵は首相になる意思がなく、国王ジョージ4世から次期首相について下問された際に「私はカニングかピールに大命を与えるべきと考えますが、首相選定は陛下が果たされるべき責務です」と奉答している<ref>[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.50-51</ref>。 |
|||
カニングとピールはともに相手の内閣で閣僚になる事を拒否していたため、国王としてはどちらかを切らねばならなかった。最終的に国王はカニングに大命を与えている<ref name="君塚(1999)51">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.51</ref>。 |
|||
これによりピールをはじめとしたカトリック解放反対派閣僚たちは閣僚職を辞した。カニングはせめてウェリントン公爵だけでも内閣に残留させようと説得を続けたが、ウェリントン公爵は「カトリック問題を慎重に取り扱うというリヴァプール内閣の方針を貴官が踏襲するならば留まってもいいが、貴官にその意思はないことは明白である。党を分裂させる恐れのある内閣には参加できない」と述べて入閣を拒否し、補給庁長官職と陸軍総司令官職を辞した<ref name="君塚(1999)52">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.52</ref><ref name="ストローソン(1998)327"/>。 |
|||
{{-}} |
|||
=== 首相就任までの経緯 === |
|||
トーリー党守旧派から協力を拒否されたカニングはホイッグ党の{{仮リンク|ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)|label=ランズダウン侯爵|en|Henry Petty-Fitzmaurice, 3rd Marquess of Lansdowne}}派と連立を組んで組閣した。これによりトーリー党、ホイッグ党双方が党分裂状態になった<ref>[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.52-53</ref>。 |
|||
しかしカニングは首相就任4カ月にして病死。国王ジョージ4世はこの時にはウェリントン公爵を召集することなく、[[ゴドリッチ子爵フレデリック・ジョン・ロビンソン|ゴドリッチ子爵]]に大命を与えている<ref name="君塚(1999)52">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.52</ref>。ウェリントン公爵はゴドリッチ子爵内閣にも入閣しなかったが、軍職の陸軍総司令官職への復帰は了承している<ref name="ストローソン(1998)327">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.327</ref>。 |
|||
国王はカトリック解放やホイッグ党から閣僚を入れ過ぎることに反対する立場だったので、内閣のお目付役としてトーリー党守旧派の{{仮リンク|ジョン・チャールズ・ヘリス|en|John Charles Herries}}を蔵相として入閣させていた<ref>[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.53-54</ref>。そのためゴドリッチ子爵内閣はすぐにも閣内不一致となった。国王とゴドリッチ子爵の対立も深まり、1828年1月8日には内閣総辞職に追い込まれた<ref name="君塚(1999)55">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.55</ref>。 |
|||
国王は1月9日にウェリントン公爵を召集して大命降下した。ウェリントン公爵は即答せず、各方面との組閣交渉の時間を頂いて退下した<ref name="君塚(1999)56">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.56</ref>。 |
|||
ウェリントン公爵はまずカニング内閣に参加していたホイッグ党ランズダウン侯爵派に入閣を要請したが、彼らはウェリントン公爵の反カトリック解放の立場に反発して入閣を拒否した。つづいてハスキソン率いるカニング派(トーリー党内自由主義派・カトリック解放派)に協力を要請したが、彼らはカトリック解放問題を棚上げにするということで入閣を了承した。これによって組閣の見通しが立った<ref name="君塚(1999)56">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.56</ref>。 |
|||
=== 第1次ウェリントン公爵内閣 === |
|||
[[File:1st Duke of Wellington 1831.jpg|180px|thumb|1830年から1831年頃に描かれた{{仮リンク|ジョン・ジャクソン (画家)|label=ジョン・ジャクソン|en|John Jackson (painter)}}の肖像画。]] |
|||
[[1828年]][[1月20日]]に大命を拝受し、22日に{{仮リンク|第1次ウェリントン公爵内閣|en|Wellington ministry}}を成立させた<ref name="君塚(1999)56">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.56</ref>。この際に陸軍総司令官職は辞した<ref name="ストローソン(1998)328">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.328</ref>。 |
|||
ウェリントン公爵の内閣にはハスキソン、パーマストン子爵、メルバーン子爵など多くのカニング派閣僚が参加していたが、彼らは5月から6月にかけて[[腐敗選挙区]]削減問題で内務大臣ピールと対立を深め、一斉に辞職してしまった<ref name="君塚(1999)56">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.56</ref>。このためにウェリントン公爵内閣は早々に政権基盤が不安定になった。 |
|||
一方野党ホイッグ党はランズダウン侯爵派と再統一して、カトリック問題などで与党に対する攻勢を強めてきた。また1828年7月には[[アイルランド]]独立を目指すアイルランド・カトリックの{{仮リンク|ダニエル・オコンネル|en|Daniel O'Connell}}が庶民院議員に当選するも国教徒でないことを理由に議場に入る事を認められず、カトリック解放の機運が高まった<ref name="君塚(1999)57">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.57</ref>。 |
|||
ウェリントン公爵は頑迷なカトリック解放反対派というわけではなく、この頃にはカトリックへの譲歩も考えるようになっていた。ピールや国王を説得のうえ、[[1829年]]3月にカトリック解放法案を議会に提出、4月に可決させた。これによって17世紀以来議会から締め出されていたカトリックに庶民院議員の道が開けた。だがカトリック解放に反対するウルトラ・トーリーが事実上トーリー党から離反してしまい、ウェリントン公爵の政治基盤は強化されるどころか弱体化した<ref name="君塚(1999)57">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.57</ref>。 |
|||
またカトリック問題が落ち着いたのも束の間で、今度は選挙法改正の機運が高まっていき、ホイッグ党若手議員のリーダーである[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]]が腐敗選挙区廃止と大都市の議席増を内容とする選挙法改正法案を議会に提出してきた。なんとか同法案を否決に追い込んだものの、これによって逆にホイッグ党の反政府団結力は強くなった<ref name="君塚(1999)57">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.57</ref>。 |
|||
[[1830年]][[6月26日]]にジョージ4世が[[崩御]]し、その弟である[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]が新国王に即位したこともホイッグ党にとって有利な材料となった。ジョージ4世はホイッグ党やホイッグ党党首[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]のことを嫌っていたが、ウィリアム4世はグレイ伯爵と交友があり、ホイッグ党に対しても比較的好意的だったのである<ref name="君塚(1999)57-58">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.57-58</ref>。 |
|||
当時のイギリスの慣例で新国王の即位に伴って{{仮リンク|1830年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1830}}が行われたが、トーリー党が250議席、野党(ホイッグ、カニング派、ウルトラ・トーリー)が196議席、無所属・所属不明が212議席という結果になった。一応多数派を得たトーリー党だったが、野党の団結は進み、11月2日にウェリントン公爵が「選挙法改正は行わない」と議会で明言したことにより、政府打倒の機運は最高潮に達した。この空気に呑まれてもともと選挙法改正に反対していたウルトラ・トーリーまでもが倒閣に協力した<ref name="君塚(1999)58">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.58</ref>。 |
|||
その結果、11月15日には政府提出の王室費に関する法案に反対するホイッグ党の動議が233対204で可決される事態となり、ウェリントン公爵は総辞職を余儀なくされた。ここに半世紀にわたったトーリー党政権は倒れ、グレイ伯爵を首班とするホイッグ党政権が誕生するに至った<ref name="君塚(1999)58-59">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.58-59</ref>。 |
|||
=== 野党党首として === |
|||
以降ウェリントン公爵は1834年まで野党としてのトーリー党を指導した。ただこの頃からトーリー党の実務を[[ロバート・ピール]]に委ねるようになった<ref name="君塚(1999)63">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.63</ref>。 |
|||
グレイ伯爵政権は選挙法改正を目指したが、ウェリントン公爵率いるトーリー党はこれを阻止することに全力をあげた。1831年の{{仮リンク|1831年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1831}}のホイッグ党の大勝で選挙法改正の大勢を覆しがたくなっても、貴族院で法案を修正して骨抜きにすることは諦めなかった<ref name="横越(1960)122">[[#横越(1960)|横越(1960)]] p.122</ref>。 |
|||
1832年5月、選挙法改正法案の審議の際に政府が敗北したことでグレイ伯爵が総辞職を表明し、ウィリアム4世はウェリントン公爵に大命を降下しようとした<ref name="横越(1960)124">[[#横越(1960)|横越(1960)]] p.124</ref>。だが選挙法改正反対論者が首相に就任することへの世論の反発は激しく、裕福な中産階級が中心となって納税拒否や銀行預金一斉引き出しといった形で抵抗運動が起こった。恐慌に発展することを恐れた[[イングランド銀行]]理事がウェリントン公爵に組閣を断念するよう説得に現れるほどの事態となった。結局ウェリントン公爵は組閣を断念し、グレイ伯爵が再組閣することになった<ref name="横越(1960)149-150">[[#横越(1960)|横越(1960)]] p.149-150</ref>。 |
|||
この一件以来、ウェリントン公爵は「二度と首相はやらない」と公言するようになった<ref name="ブレイク(1979)46">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.46</ref>。ただ自由主義的なピールは党内に敵が多かったので、トーリー党の政権奪還・ピールの首相就任まではウェリントン公爵が党首を務め続けるしかなかった。またウェリントン公爵自身もしばしば政治への意欲を取り戻して、貴族院からトーリー党を指導してピールを掣肘した<ref name="ブレイク(1979)46"/>。 |
|||
ウィリアム4世が選挙法改正法案に賛成する貴族院議員を新たに作るというホイッグ党の要求をしぶしぶ受け入れるにいたって、ウェリントン公爵ら貴族院トーリー党も抵抗を諦めた。1832年6月、第1次選挙法改正が達成された<ref name="横越(1960)124-125">[[#横越(1960)|横越(1960)]] p.124-125</ref>。 |
|||
ホイッグ党はこの選挙法改正をはじめとして政治改革を多数行ったものの、それによって党内の亀裂は徐々に深まっていき、[[1834年]]5月には[[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|スタンリー卿(後のダービー伯爵)]]らが閣僚職を辞し、ホイッグ党からも離党する事態となった<ref name="君塚(1999)62">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.62</ref>。求心力低下を抑えがたくなったグレイ伯爵は7月に辞職し、後任の首相として[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]]をウィリアム4世に推挙した。ウィリアム4世はグレイ伯爵の助言通りメルバーン子爵に大命を与えたものの、人事案をめぐって不満を持ち、11月にはメルバーン子爵を首相から罷免した<ref name="君塚(1999)62-63">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.62-63</ref>。 |
|||
{{-}} |
|||
=== 第2次ウェリントン公爵内閣とピールへのバトンタッチ === |
|||
[[File:The Duke of Wellington and Sri Robert Peel 1844.jpg|thumb|200px|ウェリントン公爵と[[ロバート・ピール|サー・ロバート・ピール准男爵]]を描いた絵画]] |
|||
この後、ウィリアム4世は[[保守党 (イギリス)|保守党]](1834年前後からトーリー党は保守党という名称を使用するようになる)党首ウェリントン公爵に大命を降下した。ウェリントン公爵は首相にはならないと公言していたから{{仮リンク|保守党庶民院院内総務|en|Leaders of the Conservative Party#Leaders in the House of Commons 1834–1922}}[[ロバート・ピール]]に大命を与えるべきことを上奏した<ref name="君塚(1999)63">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.63</ref>。 |
|||
ただこの時ピールはイタリア旅行中であったため、彼が帰国するまでの暫定として首相を務めることは了解し、{{仮リンク|第2次ウェリントン公爵内閣|en|Wellington caretaker ministry}}を発足させた<ref name="君塚(1999)63">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.63</ref>。 |
|||
この暫定政権の間にウェリントン公爵は国王ウィリアム4世や保守党幹部たちにピールを売り込み、ピールが首相・保守党党首としてスムーズにスタートを切れるよう尽力した<ref name="君塚(1999)63">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.63</ref>。 |
|||
12月にピールが帰国するとただちに首相職を辞し、首相・保守党党首の座をピールに譲った。そして第1次ピール内閣に[[外務・英連邦大臣|外務大臣]]・{{仮リンク|貴族院院内総務|en|Leader of the House of Lords}}として入閣した。だが、野党であるホイッグ党、{{仮リンク|急進派 (イギリス)|label=急進派|en|Radicals (UK)}}、オコンネル派(アイルランド議員)の連携が深まり、ピール内閣は1835年4月には総辞職に追い込まれ、ホイッグ党のメルバーン子爵が政権に返り咲いた<ref name="君塚(1999)63">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.63</ref>。 |
|||
=== ヴィクトリア女王の即位と寝室女官事件 === |
|||
[[1837年]]6月20日にウィリアム4世が崩御し、その姪である18歳の[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]が女王に即位した<ref name="君塚(1999)65">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.65</ref>。同日開かれたヴィクトリア女王最初の[[枢密院 (イギリス)|枢密院会議]]にウェリントン公爵も出席したが、彼はその時の光景を「彼女はその肉体で自らの椅子を満たし、その精神で部屋全体を満たしていた」と表している<ref name="ワイントラウブ(1993)上158">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.158</ref>。 |
|||
女王は首相メルバーン子爵を偏愛したが、メルバーン子爵は保守党の攻撃、急進派の離反などで求心力を落としていき、[[1839年]][[5月7日]]には女王に辞表を提出した。この際にメルバーン子爵は保守党貴族院院内総務であるウェリントン公爵を後任の首相に推挙している<ref name="君塚(1999)68">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.68</ref>。 |
|||
女王はその助言に従って[[5月8日]]にウェリントン公爵を召集したが、ウェリントン公爵は「70過ぎの自分には首相の大任は務まりません。庶民院への影響力もありません」と拝辞し、代わりにロバート・ピールに大命を与えるべきことを上奏した<ref name="君塚(1999)69">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.69</ref><ref name="ワイントラウブ(1993)上194">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.194</ref>。またこの際女王はウェリントン公爵に「今後もメルバーン卿に諮問してよいか」と下問している。野党党首が宮廷で個人的に君主の相談役になるなど前代未聞のことであったが、ウェリントン公爵は女王の気持ちも察してこれを了承した<ref name="君塚(1999)69">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.69</ref>。 |
|||
だが同日午後に召集されたピールは大命を拝受しつつもメルバーン子爵が女王の相談役になることには反対し、女王の不興を買った。さらにその翌日にピールは寝室女官をはじめとした女官(ホイッグ党の議員たちの妻が多数を占める)の一部を保守党の議員の妻に入れ替える宮廷女官人事案を女王に提出した。女王は女官の人事は女王の私的人事と称してこれに強く反対した。ピールと女王の間で激しい闘争が発生した<ref name="君塚(1999)69-70">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.69-70</ref>。 |
|||
ウェリントン公爵はなんとか二人の仲を取り持とうと尽力したものの、二人はお互い引く様子を見せなかった。結局ウェリントン公爵はピールに大命を拝辞することを勧め、ピールはメルバーン子爵が引き続き首相を務めることに同意するに至った<ref name="君塚(1999)71">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.71</ref>。ウェリントン公爵はメルバーン子爵になるべく協力することを約束することになった<ref name="君塚(1999)72">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.72</ref> |
|||
この事件は{{仮リンク|寝室女官事件|en|Bedchamber crisis}}と呼ばれる。 |
|||
{{-}} |
|||
=== 晩年 === |
|||
[[File:Duke of Wellington Photo.jpg|180px|thumb|1844年のウェリントン公爵の写真]] |
|||
寝室女官事件によりもうしばらく政権を担当することになったメルバーン子爵だったが、1841年の{{仮リンク|1841年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1841}}でホイッグ党が保守党に敗れた結果、1841年8月に召集された新議会で敗北し、総辞職に追い込まれた<ref name="君塚(1999)74">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.74</ref>。 |
|||
こうして1841年9月には第2次ピール内閣が発足することとなった。同内閣にウェリントン公爵は無任所大臣として入閣している<ref name="ストローソン(1998)334">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.334</ref>。彼はピールを支持し続けた。保守党が[[穀物法]]廃止をめぐって分裂した際にも彼はピールを支持している<ref name="ストローソン(1998)339">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.339</ref>。 |
|||
一方陸軍においては1842年には再び陸軍総司令官に就任し<ref>{{LondonGazette |issue= 20130 |startpage= 2217 |date= 16 August 1842 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref>、こちらは死去する1852年まで務めた<ref name="ストローソン(1998)334">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.334</ref>。ただこの頃にはウェリントン公爵はだいぶ老衰しており、耳も遠くなっていたという。子孫である{{仮リンク|ジェラルド・ウェルズリー (第7代ウェリントン公爵)|label=第7代ウェリントン公爵|en|Gerald Wellesley, 7th Duke of Wellington}}によれば「陸軍総司令部への出勤は一苦労だった。馬から降りる姿は痛ましい以外の何物でもなかった。やっとデスクに付くと小言と居眠りだけで一日を過ごした」という状態だったといい、「晩年に陸軍総司令官の職務を引き受けたことは彼の人生の最大の誤りだった」と評している<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.334-335</ref>。 |
|||
この頃陸軍について正規兵の不足などが問題視されていたが、ウェリントン公爵はあらゆる軍制改革に慎重だった。それによって軍隊の統帥権を陸軍大臣に奪われ、軍隊が議会のものになってしまうことを恐れていたためである<ref name="ストローソン(1998)342">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.342</ref>。 |
|||
その結果、イギリス陸軍は旧態然としたまま残ってしまった。インド人や中国人、ビルマ人、アフガン人の相手をするには十分だったとしても、ヨーロッパの軍隊の中では劣弱であることは[[クリミア戦争]]で証明される形となった<ref name="ストローソン(1998)341">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.341</ref>。 |
|||
=== 死去 === |
|||
[[1852年]][[9月14日]]に[[ケント (イングランド)|ケント]]の{{仮リンク|ウェルマー|en|Walmer}}の城で死去。83年の生涯だった。葬儀は11月18日に[[セント・ポール大聖堂]]で行われた<ref>{{LondonGazette |issue= 21381 |startpage= 3079 |date= 16 November 1852|accessdate= 2013年1月27日 }}</ref> <ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.343-344</ref>。 |
|||
死の11日ほど前に友人に「戦争するということと生きていくことは同じことだ。それは知らないことを知ろうと努めること、つまり丘の向こうにあるものを知ろうとすることだからだ」という言葉を残した<ref name="ストローソン(1998)343">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.343</ref>。 |
|||
{{Gallery |
|||
|lines=3 |
|||
|File:Duke of Wellington statue, Princes Street Edinburgh.jpg|[[スコットランド]]・[[エジンバラ]]にあるウェリントン公爵と愛馬[[コペンハーゲン (軍馬)|コペンハーゲン]]の像 |
|||
|File:Wellington Arch, London.JPG|[[ロンドン]]・[[ハイド・パーク (ロンドン)|ハイド・パーク]]にある{{仮リンク|ウェリントン・アーチ|en|Wellington Arch}} |
|||
|File:Ireland - Dublin - Phoenix Park - Wellington Monument.jpg|[[アイルランド]]・[[ダブリン]]にある{{仮リンク|ウェリントン記念碑|en|Wellington Monument, Dublin}} |
|||
|File:The Wellington - Wellington Street, London (6447092453) (2).jpg|ウェリントン公爵の名を冠したロンドンの老舗[[パブ]]「ザ・ウェリントン」 |
|||
}} |
|||
{{-}} |
|||
== 人物 == |
|||
[[File:The Duke of Wellington on Copenhagen (1818) by Thomas Lawrence.jpg|180px|thumb|ウェリントン公爵と愛馬[[コペンハーゲン (軍馬)|コペンハーゲン]]を描いた肖像画([[トーマス・ローレンス (画家)|トーマス・ローレンス]]画)。]] |
|||
後退して補給線を短くして防備を固め、守備戦で敵を撃退することが多かった将軍であり、「偉大な将軍の資質は、後退が必要な時にその事実を認めて実行する勇気があることだ」と語った<ref name="ストローソン(1998)184">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.184</ref>。 |
|||
ウェリントン公爵はナポレオンと違い、自らの戦勝や功績を大げさに語ることがなかった。ワーテルローの戦いの勝因も「ナポレオンが戦術らしい戦術を使わなかった。フランス軍が従来通り縦隊で進軍してきて従来通り撃退されただけ。それでも苦しい戦いだった。あと少しで負けるところだった」と謙虚な説明をしていた<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.288-289</ref>。年老いたウェリントン公爵が[[ハイド・パーク]]を歩行中、身体を支えてくれた通りすがりの人にお礼を述べた際、その通行人は「この世で最も偉大な人物に手を差し伸べられる日が来るとは思いませんでしたよ」と述べたが、それに対してウェリントン公爵は「馬鹿げたことを言いなさんな」と答えたという<ref name="ストローソン(1998)314">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.314</ref>。 |
|||
常にイギリス紳士たる自覚を持ち、敗者に対しても寛容であった<ref name="柘植(1995)42">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.42</ref>。その精神はインドの征服地や敗戦国フランスに対しても発揮された。ウェリントン公爵は「戦争が終結したら全ての敵意を忘れねばならない。敵を許さなければ戦争は永遠に続く。大英帝国の政策が些細な悪感情に影響されることがあってはならない」と語っている<ref name="ストローソン(1998)119">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.119</ref>。 |
|||
しばしば略奪を働く隷下の兵士たちを「酒を飲むために応募した人間の屑」と呼ぶことがあった<ref name="トレヴェリアン(1975)79">[[#トレヴェリアン(1975)|トレヴェリアン(1975)]] p.79</ref>。一方彼らの勇敢さはウェリントン公爵も認めるところであり、「粗暴だが勇敢で任務に忠実な兵士たちは、軍事的教養以外にも大事なものを持っている紳士たちに指揮されることによって戦場で大きな力を発揮する」と主張していた<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.197-198</ref>。 |
|||
ただウェリントン公爵の隷下の指揮官たちは軍事教育をほとんど受けておらず、ウェリントンも彼らの能力をあまり高く評価していなかった<ref name="バーソープ(2001)6">[[#バーソープ(2001)|バーソープ(2001)]] p.6</ref>。そのためワーテルローの戦いにおいても、彼が[[旅団]]・[[大隊]]レベルにまで直に命令を発していた<ref name="バーソープ(2001)8">[[#バーソープ(2001)|バーソープ(2001)]] p.8</ref>。 |
|||
戦場ではあまり派手な軍服は着たがらず、全体的に控えめな格好をしていることが多かった<ref name="バーソープ(2001)47">[[#バーソープ(2001)|バーソープ(2001)]] p.47</ref>。 |
|||
ナポレオン戦争後の後半生は政界での活動が多かったが、ウェリントン公爵自身は軍務の方を愛しており、政治家や民間人と付き合うのは好きではなかったという<ref name="世界伝記大事典(1980,2)149-150">[[#世界伝記大事典(1980,2)|世界伝記大事典(1980)世界編2巻]] p.149-150</ref>。 |
|||
筆まめな人物であり、膨大な量の書簡を残している。書簡を本として編纂し出版したこともある。また議会演説集も出版している<ref name="世界伝記大事典(1980,2)150">[[#世界伝記大事典(1980,2)|世界伝記大事典(1980)世界編2巻]] p.150</ref>。 |
|||
== その他 == |
|||
*足首の上までの長さのブーツを愛用していた。これは彼のトレードマークの一つとなり、[[ウェリントン・ブーツ]]という言葉が広まった<ref name="朝倉(1996)133">[[#朝倉(1996)|朝倉・三浦(1996)]] p.133</ref>。 |
|||
*鷲鼻からノージーとあだ名されていた<ref name="朝倉(1996)133">[[#朝倉(1996)|朝倉・三浦(1996)]] p.133</ref>。この特徴的な顔のおかげで、(写真が登場する以前の時代の人物としては珍しいことだが)人々からよく顔を認知されていたという<ref name="世界伝記大事典(1980,2)150"/>。 |
|||
*ウェリントン公爵の部下の兵士にトマス・アトキンスという勇敢な兵士がおり、彼に感銘を受けていたウェリントン公爵は国務大臣を務めていた頃、陸軍法規に兵士代表として「トマス・アトキンス」の名前を記載した。これがきっかけとなり、イギリス兵のことを「{{仮リンク|トミー・アトキンス|label=トマス・アトキンス(トミー・アトキンス)|en|Tommy Atkins}}」、もしくは「トミー」と呼ぶ習慣が生まれた<ref name="朝倉(1996)133">[[#朝倉(1996)|朝倉・三浦(1996)]] p.133</ref>。 |
|||
*1971年から1990年まで[[イングランド銀行]]が発行していた「シリーズD」の5[[スターリング・ポンド|ポンド]]紙幣の裏面に肖像が使用されていた<ref name="柘植(1995)24">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.24</ref><ref>{{Cite web |url= http://www.bankofengland.co.uk/banknotes/Pages/denom_guide/nonflash/5-seriesd.aspx |title= Withdrawn Banknotes Reference Guide: £5 Series D (Pictoral Series) |publisher= [[イングランド銀行|Bank of England]] |language= 英語 |accessdate=2013-01-27}}</ref>。 |
|||
{{-}} |
|||
== 栄典 == |
|||
=== イギリス === |
|||
<div style="float:left; width:50%"> |
|||
==== 爵位 ==== |
|||
すべて[[連合王国貴族]]。 |
|||
* ウェリントンのドゥロ男爵 - 1809年9月4日<ref name="Doyle">[[File:PD-icon.svg|12px| ]] {{cite encyclopedia |editor-first= James William Edmund |editor-last= Doyle |editor-link= :en:James William Edmund Doyle |encyclopedia= The Official Baronage of England: Showing the Succession, Dignities, and Offices of Every Peer from 1066 to 1885 |title= WELLINGTON. |url = http://archive.org/stream/officialbaronag02doylgoog#page/n636/mode/2up |accessdate = 2013-2-10 |language = 英語 |edition = |year = 1886 |publisher = [[:en:Longmans|Longmans]] |volume = 3 |location = [[ロンドン|London]] |pages = 615-620 }}</ref><ref name="Cokayne">[[File:PD-icon.svg|12px| ]] {{cite encyclopedia |editor-first= George Edward |editor-last= Cokayne |editor-link= :en:George Cokayne |encyclopedia= [[:en:The Complete Peerage|The Complete Peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain, and the United Kingdom Extant, Extinct, or Dormant]] |title= WELLINGTON. |url= http://archive.org/stream/completepeerage00cokagoog#page/n89/mode/2up |accessdate= 2013-2-10 |language= 英語 |edition= 1 |year= 1898 |publisher= [[:en:George Bell & Sons|George Bell & Sons]] |volume= 8 |location= [[ロンドン|London]] |pages= 80-83 }}</ref> |
|||
* タラヴェラおよびウェリントンのウェリントン子爵 - 1809年9月4日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
* ウェリントン伯爵 – 1812年2月<!--18日--><ref name="Doyle" /><!--28日--><ref name="Cokayne" /> |
|||
* ウェリントン侯爵 – 1812年<!--8月12日--><ref name="Doyle" /><!--10月3日--><ref name="Cokayne" /> |
|||
* ドゥロ侯爵 – 1814年5月<!--3日--><ref name="Doyle" /><!--11日--><ref name="Cokayne" /> |
|||
* [[ウェリントン公爵]] – 1814年5月<!--3日--><ref name="Doyle" /><!--11日--><ref name="Cokayne" /> |
|||
</div><div style="float:left;"> |
|||
==== 勲位・名誉職など ==== |
|||
* [[バス勲章]]ナイト・コンパニオン - 1804年9月1日<ref name="LondonGazette1804" /><ref name="Doyle" />(1815年1月2日、バス勲章の制度改正<ref>{{LondonGazette |issue= 16972 |startpage= 17 |date= 4 January 1815 |accessdate = 2013-02-14 }}</ref>に伴い同ナイト・グランド・クロス<ref>{{LondonGazette |issue= 16972 |startpage= 18 |date= 4 January 1815 |accessdate = 2013-02-14 }}</ref><ref name="Doyle" />) |
|||
* イギリス[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]] - 1807年4月8日<ref name="LondonGazette1807" /><ref name="Doyle" /> |
|||
* {{仮リンク|枢密院 (アイルランド)|en|Privy Council of Ireland|label=アイルランド枢密顧問官}} - 1807年4月21日<ref name="Doyle" /> |
|||
* [[ガーター勲章]] 騎士 - 1813年3月4日<ref name="LondonGazette1813" /><ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
* 半島戦争の[[従軍記章]]([[:en:Army Gold Medal|Army Gold Medal]]) |
|||
* {{仮リンク|ハンプシャー州統監|en|Lord Lieutenant of Hampshire}}および{{仮リンク|ハンプシャー主席治安判事|en|Custos Rotulorum of Hampshire|label=主席治安判事}} - 1820年12月19日<ref name="Doyle" />〜1852年<ref name="Cokayne" /> |
|||
* [[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]の[[戴冠式]]における[[大司馬 (イングランド)|イングランド大司馬]] - 1821年7月19日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{仮リンク|ロンドン塔管理長官|en|Constable of the Tower}}・{{仮リンク|タワーハムレッツ統監|en|Lord Lieutenant of the Tower Hamlets}} - 1826年12月29日<ref name="Doyle" />〜1852年<ref name="Cokayne" /> |
|||
* [[ドーヴァー城]]管理長官・{{仮リンク|五港長官|en|Lord Warden of the Cinque Ports}} - 1829年1月20日<ref name="Doyle" />〜1852年<ref name="Cokayne" /> |
|||
* [[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]の戴冠式におけるイングランド大司馬 - 1831年9月8日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
* [[オックスフォード大学]] 総長 - 1834年1月29日<ref name="Doyle" />〜1852年<ref name="Cokayne" /> |
|||
* [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]女王の戴冠式におけるイングランド大司馬 - 1838年6月28日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{仮リンク|土木技術者協会|en|Institution of Civil Engineers}} 名誉会員 |
|||
* [[王立協会]] フェロー - 1847年11月25日<ref>{{FRS |code = NA6604 |title = Wellesley; Arthur (1769 - 1852); 1st Duke of Wellington |accessdate = 2013-2-14 }}</ref> |
|||
</div><br style="clear:both" /> |
|||
=== 外国 === |
|||
<div style="float:left; width:50%"> |
|||
==== 爵位 ==== |
|||
* {{Flagcountry2|ポルトガル王国|1707}}: ヴィメイロ伯爵 - 1811年10月18日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{Flag2|スペイン|1785}}: {{仮リンク|シウダード・ロドリゴ公爵|es|Ducado de Ciudad Rodrigo}}、一級[[グランデ]] - 1812年1月<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{Flagcountry2|ポルトガル王国|1707}}: トレシュ・ベドラシュ侯爵 - 1812年<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{Flagcountry2|ポルトガル王国|1707}}: {{仮リンク|ヴィトーリア公爵|pt|Duque da Vitória}} 1812年12月18日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{flagicon image|Flag of the Netherlands.svg}} [[ネーデルラント連合王国|オランダ]]: {{仮リンク|ワーテルロー公|nl|Prins van Waterloo}} 1815年7月18日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
</div><div style="float:left;"> |
|||
==== 勲章 ==== |
|||
* {{Flagcountry2|ポルトガル王国|1707}}: {{仮リンク|塔および剣勲章|pt|Ordem Militar da Torre e Espada, do Valor, Lealdade e Mérito}} 大十字騎士 - 1811年10月18日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{Flag2|スペイン|1785}}: {{仮リンク|聖フェルナンド桂冠十字章|es|Cruz Laureada de San Fernando}} 大十字騎士 - 1812年4月11日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{Flag2|スペイン|1785}}: [[金羊毛騎士団|金羊毛勲章]] 騎士 - 1812年8月7日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{flagicon image|Flag of the Habsburg Monarchy.svg}} [[オーストリア帝国|オーストリア]]: [[マリア・テレジア軍事勲章]] 大十字騎士 - 1814年2月5日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{flag|Sweden}}: {{仮リンク|剣勲章|sv|Svärdsorden}} 大十字騎士 - 1814年2月5日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
*{{Flagcountry2|ロシア帝国}}: {{仮リンク|聖ゲオルギー勲章|ru|Орден Святого Георгия}} 大十字騎士 - 1814年3月4日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{Flagcountry2|プロイセン王国|1803}}: {{仮リンク|黒鷲勲章|de|Schwarzer Adlerorden}} 大十字騎士 - 1814年3月4日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{flagicon image|Flag of the Netherlands.svg}} [[ネーデルラント連合王国|オランダ]]: {{仮リンク|ヴィレム軍事勲章|nl|Militaire Willems-Orde}} 大十字騎士 - 1815年4月30日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{flag|Denmark}}: {{仮リンク|象勲章|da|Elefantordenen}} 騎士 - 1815年7月<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{flagicon image|Flagge Königreich Sachsen (1815-1918).svg}} [[ザクセン王国|ザクセン]]: [[:de:Hausorden der Rautenkrone|Hausorden der Rautenkrone]] 騎士 - 1815年7月27日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{flagicon image|Banner of Baden (3^2).svg}} [[バーデン (領邦)|バーデン]]: [[:de:Hausorden der Treue|Hausorden der Treue]] 騎士 - 1815年7月<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{Flagcountry2|サルデーニャ王国|1782}}: [[聖アヌンツィアータ騎士団|聖アヌンツィアータ勲章]] 騎士 1815年7月<ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{Flagcountry2|フランス王国|1814}}: {{仮リンク|聖霊勲章|fr|Ordre du Saint-Esprit}} 騎士 - 1815年11月27日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{flagicon image|Flag of Hanover 1837-1866.svg}} [[ハノーファー王国|ハノーファー]]: {{仮リンク|ロイヤル・ゲルフ勲章|en|Royal Guelphic Order}} 大十字騎士 - 1816年3月<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{Flag2|スペイン|1785}}: {{仮リンク|聖ヘルメネギルド勲章|es|Real y Militar Orden de San Hermenegildo}} 大十字騎士 - 1817年<!--2月1日--><ref name="Doyle" /><!--9月1日--><ref name="Cokayne" /> |
|||
*{{Flagcountry2|両シチリア王国}}: {{仮リンク|聖ジェナーロ勲章|it|Insigne e reale ordine di San Gennaro}} 騎士 - 1817年7月16日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
*{{Flagcountry2|両シチリア王国}}: {{仮リンク|聖フェルディナンドおよび功労勲章|it|Reale ordine di San Ferdinando e del merito}} 騎士 - 1817年7月16日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{flagicon image|Flag of Bavaria (striped).svg}} [[バイエルン王国|バイエルン]]: {{仮リンク|マックスヨーゼフ軍事勲章|de|Militär-Max-Joseph-Orden}} 大十字騎士<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{Flag2|スペイン|1785}}: {{仮リンク|カルロス3世勲章|es|Orden de Carlos III}} 騎士 <ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{Flagcountry2|プロイセン王国|1803}}: {{仮リンク|赤鷲勲章|de|Roter Adlerorden}} 大十字騎士 |
|||
* {{Flagcountry2|ロシア帝国}}: {{仮リンク|聖アレクサンドル・ネフスキー勲章|ru|Орден Святого Александра Невского}} 騎士<ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{Flagcountry2|ロシア帝国}}: {{仮リンク|聖アンドレイ勲章|ru|Орден Святого апостола Андрея Первозванного}} 騎士<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{flagicon image|Banner of Baden (3^2).svg}} [[バーデン (領邦)|バーデン]]: {{仮リンク|ツェーリング獅子勲章|de|Orden vom Zähringer Löwen}}<ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{flagicon image|Flagge Großherzogtum Hessen ohne Wappen.svg}} [[ヘッセン大公国|ヘッセン]]: {{仮リンク|金獅子勲章|de|Hausorden vom Goldenen Löwen}}<ref name="Cokayne" /> |
|||
* {{flagicon image|Flagge Königreich Württemberg.svg}} [[ヴュルテンベルク王国|ヴュルテンベルク]]: {{仮リンク|軍事功労勲章 (ヴュルテンベルク)|de|Militärverdienstorden (Württemberg)|label=軍事功労勲章}}<ref name="Cokayne" /> |
|||
</div><br style="clear:both" /> |
|||
== ウェリントン公爵を演じた人物 == |
|||
*{{仮リンク|ジュリアン・グローバー|en|Julian Glover}}:『[[ヴィクトリア女王 世紀の愛]]』([[2009年]]、[[イギリス]]映画)<ref name="IMDb">[http://www.imdb.com/character/ch0028220/ IMDb]</ref> |
|||
*{{仮リンク|カエタノ・マルティネス・デ・イルホ|es|Cayetano Martínez de Irujo}}:『[[宮廷画家ゴヤは見た]]』([[2006年]]、[[スペイン]]、[[アメリカ]]映画)<ref name="IMDb"/> |
|||
*[[ヒュー・フレイザー]]:『[[炎の英雄 シャープ]]』([[1993年]]-[[1997年]]、[[ITV (イギリス)|ITV]]制作のテレビドラマ)<ref>[http://www.sharpefilm.com/ SharpeFilm.com]</ref>{{refnest|group="注釈"|ヒュー・フレイザーが演じるのはウェリントン卿となった第3話Sharpe's Company以降で、それより前はデビッド・トゥルートンが演じている。}} |
|||
*[[ローレンス・オリヴィエ]]:『{{仮リンク|レディ・カロライン|en|Lady Caroline Lamb (film)}}』([[1972年]]、アメリカ映画)<ref name="IMDb"/> |
|||
*[[クリストファー・プラマー]]:『[[ワーテルロー (映画)|ワーテルロー]]』([[1970年]]、[[イタリア]]、[[ソ連]]映画)<ref name="IMDb"/> |
|||
*{{仮リンク|ジョン・ネヴィル (俳優)|label=ジョン・ネヴィル|en|John Neville (actor)}}:『{{仮リンク|勇将ジェラールの冒険|en|The Adventures of Gerard}}』(1970年、イギリス映画)<ref name="IMDb"/> |
|||
*{{仮リンク|トリン・サッチャー|en|Torin Thatcher}}:『{{仮リンク|奇跡 (映画)|label=奇跡|en|The Miracle (1959 film)}}』([[1959年]]、アメリカ映画)<ref name="IMDb"/> |
|||
*{{仮リンク|ヴァルデマール・ライトゲープ|de|Waldemar Leitgeb}}:『{{仮リンク|ロスチャイルド一家 (映画)|label=ロスチャイルド一家|de|Die Rothschilds (1940)}}』([[1940年]]、[[ナチス・ドイツ]]映画)<ref name="IMDb"/> |
|||
*{{仮リンク|ジェームス・デール|en|James Dale}}:『{{仮リンク|ヴィクトリア女王 (映画)|label=ヴィクトリア女王|en|Victoria the Great}}』([[1937年]]、イギリス映画)<ref name="IMDb"/> |
|||
*[[ジョージ・アーリス]]:『{{仮リンク|風雲の欧羅巴|en|The Iron Duke (film)}}』([[1934年]]、イギリス映画)<ref name="IMDb"/> |
|||
== 脚注 == |
|||
{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
||
=== 注釈 === |
|||
<div class="references-small">{{Reflist}}</div> |
|||
{{reflist|group=注釈|1}} |
|||
=== 出典 === |
|||
<div class="references-small"><!-- references/ -->{{reflist|3}}</div> |
|||
== 参考文献 == |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[朝倉治彦]]、[[三浦一郎]]|date=1996年(平成8年)|title=世界人物逸話大事典|publisher=[[角川書店]]|isbn=978-4040319001|ref=朝倉(1996)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[君塚直隆]]|date=1999年(平成11年)|title=イギリス二大政党制への道 後継首相の決定と「長老政治家」 |publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641049697|ref=君塚(1999)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[ジョン・ストローソン]]|date=1998年(平成10年)|title=公爵(ウエリントン)と皇帝(ナポレオン)|publisher=[[新潮社]]|isbn=978-4105371012|ref=ストローソン(1998)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[柘植久慶]]|date=1995年(平成7年)|title=名将たちの決断|series=[[中公文庫]]|publisher=[[中央公論社]]|isbn=978-4122024694|ref=柘植(1995)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|label=G.M.トレヴェリアン|en|G. M. Trevelyan}}|translator=[[大野真弓]]|date=1975年(昭和50年)|title=イギリス史 3|publisher=[[みすず書房]]|isbn=978-4622020370|ref=トレヴェリアン(1975)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|マイケル・バーソープ|en|Michael Barthorp}}|translator=[[堀和子]]|date=2001年(平成13年)|title=ウェリントンの将軍たち ナポレオン戦争の覇者|publisher=[[新紀元社]]|isbn=978-4105371012|ref=バーソープ(2001)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[浜渦哲雄]]|date=1999年(平成11年)|title=大英帝国インド総督列伝 イギリスはいかにインドを統治したか|publisher=中央公論新社|isbn=978-4120029370|ref=浜渦(1999)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ロバート・ブレイク (ブレイク男爵)|label=ブレイク男爵|en|Robert Blake, Baron Blake}}|translator=[[早川崇]]|date=1979年(昭和54年)|title=英国保守党史 ピールからチャーチルまで|publisher=[[労働法令協会]]|asin=B000J73JSE|ref=ブレイク(1979)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[松村劭]]|date=2006年(平成18年)|title=ナポレオン戦争全史|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4562039531|ref=松村(2006)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[本池立]]|date=1993年(平成5年)|title=ナポレオン 革命と戦争|publisher=[[世界書院]]|isbn=978-4792721114|ref=本池(1993)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[横越英一]]|date=1960年(昭和35年)|title=近代政党史研究|publisher=[[勁草書房]]|asin=B000JAPE20|ref=横越(1960)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|スタンリー・ワイントラウブ|en|Stanley Weintraub}}|date=2007年(平成19年)|title=ヴィクトリア女王〈上〉|translator=[[平岡緑]]|publisher=中央公論新社|isbn=978-4120022340|ref=ワイントラウブ(1993)上}} |
|||
*{{Cite book|和書|date=1980年(昭和55年)|title=世界伝記大事典〈世界編 2〉ウイーオ|publisher=[[ほるぷ出版]]|asin=B000J7XCOU|ref=世界伝記大事典(1980,2)}} |
|||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
101行目: | 568行目: | ||
{{Commonscat|Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington|初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー}} |
{{Commonscat|Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington|初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー}} |
||
* {{Hansard-contribs| sir-arthur-wellesley| Sir Arthur Wellesley }} {{en icon}} |
* {{Hansard-contribs| sir-arthur-wellesley| Sir Arthur Wellesley }} {{en icon}} |
||
* {{NRA|P30097|初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー}} |
|||
* [http://blackwatch.napoleonicmedals.org/Wellington/Wellington.htm MEDALLIONS OF THE NAPOLEONIC ERA>Wellington] (ナポレオン時代のメダル集の内、ウェリントン公に関するもの) |
|||
* [http://www.number10.gov.uk/past-prime-ministers/arthur-wellesley-1st-duke-of-wellington/ Arthur Wellesley 1st Duke of Wellington] {{en icon}} ''[[ダウニング街10番地]]'' |
|||
* [http://www.histoire-empire.org/articles/congres_de_vienne/acte_du_congres_de_vienne_01.htm Acte du Congrès de Vienne du 9 juin 1815] (ウィーン会議議定書。ウェリントン公の名がその全称号とともに記載) |
|||
* [http://www.npg.org.uk/collections/search/person/mp04752/ Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington (1769-1852)] {{en icon}} - ''[[ナショナル・ポートレート・ギャラリー]]'' |
|||
* [http://blackwatch.napoleonicmedals.org/Wellington/Wellington.htm MEDALLIONS OF THE NAPOLEONIC ERA>Wellington] {{en icon}} - ナポレオン時代のメダル集の内、ウェリントン公に関するもの |
|||
* [http://www.histoire-empire.org/articles/congres_de_vienne/acte_du_congres_de_vienne_01.htm Acte du Congrès de Vienne du 9 juin 1815] {{fr icon}} - ウィーン会議議定書。ウェリントン公の名がその全称号とともに記載 |
|||
{{start box}} |
|||
{{先代次代|[[イギリスの首相]]|1828年 - 1830年|[[ゴドリッチ子爵フレデリック・ジョン・ロビンソン|初代ゴドリッチ子爵]]|[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|第2代グレイ伯爵]]}} |
|||
{{s-off}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|貴族院院内総務|en|Leader of the House of Lords}}| years = [[1841年]] - [[1846年]]| before =[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]]| after = {{仮リンク|ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)|label=ランズダウン侯爵|en|Henry Petty-Fitzmaurice, 3rd Marquess of Lansdowne}}}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[イギリスの首相|首相]]| years = [[1834年]]| before = [[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]]| after = [[ロバート・ピール|サー・ロバート・ピール准男爵]]}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} 貴族院院内総務| years = [[1841年]] - [[1846年]]| before =[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]]| after = [[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]]}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[外務・英連邦大臣|外務大臣]]| years = [[1834年]] - [[1835年]]| before =[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]| after = [[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} 貴族院院内総務| years = [[1834年]]-[[1835年]]| before =[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]]| after = [[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]]}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[戦争・植民地大臣]]| years = [[1834年]]| before ={{仮リンク|トーマス・スプリング・ライス (初代モンティーグル・オブ・ブランドン男爵)|label=トーマス・スプリング・ライス|en|Thomas Spring Rice, 1st Baron Monteagle of Brandon}}| after = [[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|アバディーン伯爵]]}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|イギリス内務大臣|label=内務大臣|en|Home Secretary}}| years = [[1834年]]| before = {{仮リンク|ジョン・ポンソンビー (第4代ベスボロー伯爵)|label=ダンカノン子爵|en|John Ponsonby, 4th Earl of Bessborough}}| after = {{仮リンク|ヘンリー・ゴールバーン|en|Henry Goulburn}}}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} 首相| years = [[1828年]]-[[1830年]]| before = [[ゴドリッチ子爵フレデリック・ジョン・ロビンソン|ゴドリッチ子爵]]| after = [[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} 貴族院院内総務| years = [[1828年]]-[[1830年]]| before =[[ゴドリッチ子爵フレデリック・ジョン・ロビンソン|ゴドリッチ子爵]]| after = [[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|イギリス補給庁長官|label=補給庁長官|en|Master-General of the Ordnance}}| years = [[1819年]]-[[1827年]]| before ={{仮リンク|ヘンリー・フィップス (初代マルグレーブ伯爵)|label=マルグレーブ伯爵|en|Henry Phipps, 1st Earl of Mulgrave}}| after = {{仮リンク|ヘンリー・パジェット (初代アングルシー侯爵)|label=アングルシー侯爵|en|Henry Paget, 1st Marquess of Anglesey}}}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}| years = [[1807年]]-[[1809年]]| before = {{仮リンク|ウィリアム・エリオット|en|William Elliot (MP)}}| after = {{仮リンク|ロバート・デュンダス (第2代メルヴィル子爵)|label=ロバート・デュンダス|en|Robert Dundas, 2nd Viscount Melville}}}} |
|||
{{s-ppo}} |
|||
{{Succession box| title = [[保守党 (イギリス)|イギリス保守党]]党首| years = [[1828年]]-[[1834年]]| before = 新設| after = [[ロバート・ピール|サー・ロバート・ピール准男爵]]}} |
|||
{{Succession box| title = {{仮リンク|保守党貴族院院内総務|en|Leaders of the Conservative Party#Leaders in the House of Lords 1834–present}}| years = [[1828年]]-[[1846年]]| before = 新設| after =[[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|スタンリー卿(後のダービー伯爵)]]}} |
|||
{{s-dip}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[在フランスイギリス大使|在フランス大使]]| years = [[1814年]]-[[1815年]]| before = {{仮リンク|チャールズ・ウイットワース (初代ウィットワース伯爵)|label=ウィットワース・オブ・ニューポート・プラット卿|en|Charles Whitworth, 1st Earl Whitworth}}| after = {{仮リンク|チャールズ・スチュアート (初代スチュアート・ド・ローゼイ男爵)|label=サー・チャールズ・スチュアート|en|Charles Stuart, 1st Baron Stuart de Rothesay}}}} |
|||
{{s-mil}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|イギリス陸軍最高司令官|label=陸軍最高司令官|en|Commander-in-Chief of the Forces}}| years = [[1842年]]-[[1852年]]| before = {{仮リンク|ローランド・ヒル (初代ヒル子爵)|label=ヒル子爵|en|Rowland Hill, 1st Viscount Hill}}| after = {{仮リンク|ヘンリー・ハーディング (初代ハーディング子爵)|label=ハーディング子爵|en|Henry Hardinge, 1st Viscount Hardinge}}}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[グレナディアガーズ]]連隊長| years = [[1827年]]-[[1852年]]| before = [[ウィリアム・フレデリック (グロスター=エディンバラ公)|グロスター=エディンバラ公爵]]| after = [[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート公子]]}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|イギリス陸軍最高司令官|label=陸軍最高司令官|en|Commander-in-Chief of the Forces}}| years = [[1827年]]-[[1828年]]| before = [[フレデリック (ヨーク・オールバニ公)|ヨーク・オールバニ公爵]]| after = {{仮リンク|ローランド・ヒル (初代ヒル子爵)|label=ヒル卿|en|Rowland Hill, 1st Viscount Hill}}}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[プリマス]]総督| years = [[1819年]]-[[1827年]]| before = {{仮リンク|チャールズ・レノックス (第4代リッチモンド公爵)|label=リッチモンド公爵|en|Charles Lennox, 4th Duke of Richmond}}| after = {{仮リンク|ウィリアム・ハーコート (第3代ハーコート伯爵)|label=ハーコート伯爵|en|William Harcourt, 3rd Earl Harcourt}}}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|王立近衛騎馬連隊 (イギリス)|label=王立近衛騎兵連隊|en|Royal Horse Guards}}連隊長| years = [[1813年]]-[[1827年]]| before = {{仮リンク|ヒュー・パーシー (第2代ノーサンバーランド公爵)|label=ノーサンバーランド公爵|en|Hugh Percy, 2nd Duke of Northumberland}}| after = [[エルンスト・アウグスト (ハノーファー王)|カンバーランド公爵]]}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|ウェリントン公爵連隊|label=第33歩兵連隊|en|Duke of Wellington's Regiment}}連隊長| years = [[1806年]]-[[1813年]]| before = [[チャールズ・コーンウォリス|コーンウォリス侯爵]]| after = {{仮リンク|ジョン・コープ・シェルブルック|label=サー・ジョン・コープ・シェルブルック|en|John Coape Sherbrooke}}}} |
|||
{{s-aca}} |
|||
{{Succession box| title = [[オックスフォード大学]]学長| years = [[1834年]]-[[1852年]]| before = [[ウィリアム・グレンヴィル|グレンヴィル男爵]]| after = [[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|ダービー伯爵]]}} |
|||
{{s-reg|uk}} |
|||
{{succession box | title={{flagicon|UK}} [[ウェリントン公爵]]| years=初代: [[1814年]] - [[1852年]]|before = 新設|after={{仮リンク|アーサー・ウェルズリー (第2代ウェリントン公爵)|label=アーサー・ウェルズリー|en|Arthur Richard Wellesley, 2nd Duke of Wellington}}}} |
|||
{{s-reg}} |
|||
{{succession box | title=[[ファイル:Flag Portugal (1830).svg|25px]] {{仮リンク|ヴィトーリア公爵|pt|Duque da Vitória}}| years=初代: [[1812年]] - [[1852年]]|before = 新設|after={{仮リンク|アーサー・ウェルズリー (第2代ウェリントン公爵)|label=アーサー・ウェルズリー|en|Arthur Richard Wellesley, 2nd Duke of Wellington}}}} |
|||
{{succession box | title={{flagicon|ESP1785}} {{仮リンク|シウダ・ロドリゴ公爵|es|Ducado de Ciudad Rodrigo}}| years=初代: [[1812年]] - [[1852年]]|before = 新設|after={{仮リンク|アーサー・ウェルズリー (第2代ウェリントン公爵)|label=アーサー・ウェルズリー|en|Arthur Richard Wellesley, 2nd Duke of Wellington}}}} |
|||
{{succession box | title={{flagicon|NLD}} {{仮リンク|ワーテルロー公|nl|Prins van Waterloo}}| years=初代: [[1815年]] - [[1852年]]|before = 新設|after={{仮リンク|アーサー・ウェルズリー (第2代ウェリントン公爵)|label=アーサー・ウェルズリー|en|Arthur Richard Wellesley, 2nd Duke of Wellington}}}} |
|||
{{End box}} |
|||
{{イギリスの首相}} |
{{イギリスの首相}} |
||
{{ Normdaten | |
{{ Normdaten | NDL = 00715461 | CINII = DA03001881 | VIAF = 2465308 | LCCN = n/80/34909 | PND = 118806645 | SELIBR = }} |
||
{{デフォルトソート:うえるすりい ああさあ}} |
{{デフォルトソート:うえりんとん うえるすりい ああさあ}} |
||
[[Category:イギリスの首相]] |
[[Category:イギリスの首相]] |
||
[[Category:イギリスの政治家]] |
[[Category:イギリス・トーリー党の政治家]] |
||
[[Category:イギリス保守党の政治家]] |
|||
[[Category:イギリスの軍人]] |
[[Category:イギリスの軍人]] |
||
[[Category:イギリスの公爵]] |
[[Category:イギリスの公爵]] |
||
115行目: | 619行目: | ||
[[Category:バス勲章]] |
[[Category:バス勲章]] |
||
[[Category:イギリスの枢密顧問官]] |
[[Category:イギリスの枢密顧問官]] |
||
[[Category:王立協会]] |
|||
[[Category:金羊毛騎士団員]] |
|||
[[Category:ウェルズリー家|あさ]] |
[[Category:ウェルズリー家|あさ]] |
||
[[Category:ナポレオン戦争]] |
[[Category:ナポレオン戦争]] |
||
126行目: | 632行目: | ||
[[bg:Артър Уелсли]] |
[[bg:Артър Уелсли]] |
||
[[bs:Arthur Wellesley]] |
[[bs:Arthur Wellesley]] |
||
[[ca:Arthur Wellesley de Wellington]] |
[[ca:Arthur Wellesley, 1r duc de Wellington]] |
||
[[cs:Arthur Wellesley, 1. vévoda z Wellingtonu]] |
[[cs:Arthur Wellesley, 1. vévoda z Wellingtonu]] |
||
[[cy:Arthur Wellesley, Dug 1af Wellington]] |
[[cy:Arthur Wellesley, Dug 1af Wellington]] |
||
133行目: | 639行目: | ||
[[en:Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington]] |
[[en:Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington]] |
||
[[eo:Duko de Wellington]] |
[[eo:Duko de Wellington]] |
||
[[es: |
[[es:Duque de Wellington]] |
||
[[eu:Arthur Wellesley]] |
[[eu:Arthur Wellesley]] |
||
[[fi:Arthur Wellesley]] |
[[fi:Arthur Wellesley Wellington]] |
||
[[fr:Arthur Wellesley]] |
[[fr:Arthur Wellesley]] |
||
[[ga:Arthur Wellesley, an chéad Diúc Wellington]] |
[[ga:Arthur Wellesley, an chéad Diúc Wellington]] |
2013年2月17日 (日) 01:31時点における版
初代ウェリントン公爵 アーサー・ウェルズリー Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington | |
---|---|
1814年に描かれた肖像画(サー・トマス・ローレンス画) | |
生年月日 | 1769年4月29日 |
出生地 | アイルランド、ダブリン |
没年月日 | 1852年9月14日 (83歳没) |
死没地 | イギリス、イングランド、ケント州、ウェルマー |
出身校 | イートン校 |
所属政党 | トーリー党(保守党) |
称号 |
ガーター勲章勲爵士 (KG) バス勲章ナイト・グランド・クロス (GCB) ロイヤル・ゲルフ勲章ナイト・グランド・クロス (GCH) 枢密顧問官 (PC) 王立協会フェロー (FRS) 他 |
配偶者 | キャサリン・パクナム |
親族 | 初代ウェルズリー侯爵 (兄) |
サイン | |
在任期間 |
1828年1月22日 - 1830年11月16日 1834年11月14日 - 1834年12月10日 |
国王 | ジョージ4世、ウィリアム4世 |
内閣 |
第2次ウェリントン公爵内閣(兼任) 第1次ピール内閣 |
在任期間 | 1834年11月14日 - 1835年4月18日 |
内閣 | 第2次ウェリントン公爵内閣(兼任) |
在任期間 | 1834年11月14日 - 1834年12月10日 |
内閣 | リヴァプール伯爵内閣 |
在任期間 | 1819年 - 1827年 |
内閣 | ポートランド公爵内閣 |
在任期間 | 1807年 - 1809年 |
軍人としての経歴 | |
---|---|
渾名 | 鉄の公爵(Iron Duke) |
所属組織 | イギリス陸軍 |
軍歴 | 1787年 - 1852年 |
最終階級 | 元帥 |
初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー元帥(英: Field Marshal Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington, KG, GCB, GCH, PC, FRS、1769年4月29日 - 1852年9月14日)は、イギリスの軍人、政治家、貴族。
ナポレオン戦争で軍功を重ね、最終的に1815年のワーテルローの戦いでナポレオンを打ち破った軍人として知られる。軍人としての最終階級は元帥。
トーリー党(保守党)の政治家としても活躍し、ジョージ4世とウィリアム4世の治世中、二度にわたって首相を務めた(在職1828年-1830年、1834年)。ヴィクトリア朝前期にも政界の長老として活躍した。
「鉄の公爵」(Iron Duke)の異名をとる[1][2]。
概要
アイルランド貴族の初代モーニントン伯爵ギャレット・ウェズリーの三男としてアイルランド王国首都ダブリンに生まれる。イートン校に通った後、フランスの士官学校を卒業する。1787年にイギリス陸軍に入隊。1794年にはフランス革命戦争のベルギー・オランダ戦線でイギリス軍の退却作戦を支援して活躍した。これが初めての実戦経験となった。
1796年にイギリス東インド会社が支配するインドへ派遣され、同じ頃にインド総督となった兄ウェルズリー侯爵のもと、インド征服戦争の指揮を執った。1799年のマイソール王国侵攻(第四次マイソール戦争)、1803年の対マラータ同盟戦争(第二次マラータ戦争)などで戦功をあげた。
1805年にイギリスに帰国し、1806年4月にはキャサリン・パクナムと結婚、またトーリー党候補として庶民院議員選挙に出馬して当選し、政界進出を果たした。1807年にはポートランド公爵内閣にアイルランド担当大臣として入閣している。
イベリア半島において半島戦争が勃発すると、ナポレオンに反抗するスペイン・ポルトガルの民衆を支援すべく、1808年7月にイギリス軍を率いてポルトガルに上陸した。8月にヴィメイロの戦いでフランスのポルトガル遠征軍を撃破した。こののち一旦帰国するが、入れ替わりにナポレオン本隊が半島に侵攻してスペイン全土を制圧、再びポルトガルに侵攻してきた。これを受けて1809年4月にポルトガル駐留英軍の総司令官として再度半島に派遣された。5月のドウロの戦いでフランス軍をスペインに押し戻す。7月にもタラベラの戦いで勝利し、この戦功で「ウェリントン・オブ・タラベラ子爵」の爵位を与えられ、貴族に列した。1810年5月からのフランス軍のポルトガル再侵入もトレス・ヴェドラス線が功を奏し、1811年3月までにはスペインに追い返した。
同年5月からスペイン・ポルトガル国境地帯の要塞の攻略を目指し、1812年3月から4月にかけてのバダホスの戦いの勝利でそれを達成した。その戦功で「ウェリントン伯爵」に叙される。同年6月よりスペイン進行を開始。7月にサラマンカの戦いでフランス軍を撃破したことで、8月にはマドリード占領に成功した。この功績でウェリントン侯爵に叙された。しかしこの後ブルゴス攻略に失敗し、さらにフランス軍がマドリードに接近してきたため、全軍をポルトガルまで後退させた。ポルトガルで越冬した後、1813年5月からスペイン再進行を開始し、6月のビトリアの戦いでスペイン王ジョゼフ・ボナパルト率いるフランス軍を撃破した。この戦いで半島戦争のイギリス軍の優位は決定的となった。この戦功により元帥に昇進した。
ロシア遠征の失敗などを経てナポレオンが四面楚歌に陥ったのを受けて、1813年10月よりスペイン・フランス国境を越えてフランス領侵攻を開始した。1814年4月にトゥールーズを攻略したところでナポレオンの退位の報に接した。これまでの戦功を労われて「ウェリントン公爵」に叙された。同年6月にイギリスに凱旋帰国。その際国民の熱狂的な歓迎を受け、その名声を不動のものにした。同年7月にはフランス駐在イギリス公使に就任、さらに翌1815年にはウィーン会議でカスルリー子爵外相が途中帰国した後の英国の全権代理を務めた。
ついでナポレオンがエルバ島を脱出してパリに復帰すると、これを迎え撃つべくブリュッセルに急行する。1815年6月18日のワーテルローの戦いではブリュッヘル元帥率いるプロイセン軍と協力してナポレオン撃破に決定的な役割を果たし、その野望を最終的に打ち砕くに至った。ナポレオン戦争後はフランス占領軍総司令官を務め、敗戦国に寛大な占領統治を行った。占領軍の撤収が完了した後の1818年12月にイギリスに帰国した。
帰国後は主に政界で活躍する。1819年にリヴァプール伯爵内閣の補給庁長官に就任。1827年1月には軍職の陸軍総司令官にも就任した。しかし保守的なウェリントン公爵は、閣内でジョージ・カニングら自由主義的な閣僚と対立を深めていった。1827年2月にリヴァプール伯爵が首相を辞職し、カニングがその後任となったが、ウェリントン公爵はカトリック解放の方針に反発して辞職した。
カニングの急死、続くゴドリッチ子爵内閣と国王ジョージ4世の対立により、1828年に1月にはウェリントン公爵に大命降下があった。カトリック問題を棚上げすることでカニング派の入閣を取り付けて第1次ウェリントン公爵内閣の組閣に成功した。しかし自由主義的なカニング派とは意見が合わず、1828年5月から6月にかけてカニング派閣僚に集団辞職された。もともとカトリック解放に慎重な立場だったウェリントン公爵だが、頑迷ではなく、アイルランド・カトリックが当選するという情勢の変化に応じて、1829年4月にはカトリック解放法案を可決させた。しかしこれにより党内からも反発を受けて内閣の基盤は弱くなった。選挙法改正の機運が高まる中、野党の団結は進み、1830年11月にウェリントン公爵内閣は議会で敗北を喫し、総辞職を余儀なくされた。これによって半世紀ぶりのホイッグ党への政権交代が起こった。
ホイッグ政権の間も野党トーリー党(1834年頃から保守党と改名)を党首として指導したが、党の実務は同党庶民院院内総務サー・ロバート・ピール准男爵に委ねるようになった。ホイッグ党政権が推し進める選挙法改正を阻止しようとしたが、失敗している。
1834年11月にホイッグ政権の首相メルバーン子爵が国王ウィリアム4世と対立して解任された際に国王より大命を降下され、イタリア訪問中のピールが帰国するまでの暫定政権として第2次ウェリントン公爵内閣を組閣した。12月にピールが帰国するとただちに首相職を譲り、第1次ピール内閣の外務大臣に転じた。第1次ピール内閣は早期に倒閣され、メルバーン子爵政権に戻るもウェリントン公爵は一貫してピールを支え続けた。1837年に即位したヴィクトリア女王からも厚い信任を寄せられていたが、1839年の寝室女官事件時の女王の説得には失敗した。
第2次ピール内閣には無任所大臣として入閣。1842年には軍職の陸軍総司令官職に再任され、1852年の死まで務めた。しかしシビリアン・コントロールを嫌うあまり、あらゆる軍制改革に反対して旧式の軍隊編成に固執した。これがクリミア戦争における英国将兵の死傷者数を増やしたことにつながったといわれる。
生涯
出生
1769年、アイルランド貴族初代モーニントン伯爵ギャレット・ウェズリーの三男として生まれる[3][4]。母はダンガノン子爵アーサー・ヒル=トレヴァーの娘アン[5]。
誕生日と生誕地については諸説あるが、1769年4月29日にアイルランド首都ダブリンのアッパー・メリオン・ストリート24番地に生まれたとする説が有力である[注釈 1]。
長兄にウェルズリー子爵リチャード、次兄にウィリアムがいる。また後に弟としてヘンリー、妹としてアン(後のチャールズ・カリング・スミス夫人)が生まれた。
学業
イングランド・ロンドンで初等教育を受けた後、1781年に名門パブリックスクールのイートン校に入学した。成績は並みだったが、血気盛んな学生で鳴らし、よく喧嘩した。後世にアーサーは「ワーテルローに勝利できたのはイートン校の運動場のおかげ」と評している[6]。
父モーニントン伯爵の死で学費支払いに困窮した母アンの指示でイートン校を退学し、当時オーストリア領土だったブリュッセルに移住し、1786年から乗馬学校に通うようになった[5][4]。その後、フランス・アンジェのピニロール陸軍士官学校に入学する[5]。この時にフランス語を習得する[5][4]。
初期の軍歴
18歳の時の1787年3月、陸軍第73歩兵連隊に入隊した[7][5][4]。
同年12月には第76歩兵連隊の中尉となる[5]。1788年1月には第41歩兵連隊[8]、また同年第12軽竜騎兵連隊[5][9]、1791年6月には第58歩兵連隊[5]、同年9月に大尉 (イギリス)に昇進した[10]。1792年には第18王立軽竜騎兵連隊に転属している[5][11]。
1787年11月から1793年3月にかけてはアイルランド総督のバッキンガム侯爵やウェストモーランド伯爵の副官を務めた[5]。また1790年から1795年にかけてはアイルランド議会議員にも選出され[3]、革命フランスとの開戦準備や、カトリック教徒への参政権付与などを主張する[5]。
このアイルランド滞在期に未来の妻キャサリン・パクナム(第2代ロングフォード男爵の娘)に最初の求婚をしているが、キャサリンの兄であるトムが妹にはもっと地位の高い相手を見つけられると考えて反対したため、この時には断られた[12]。
1793年4月30日には兄モーニントン伯爵リチャードから借りた金で第33歩兵連隊の少佐の階級を購入した[13] [5][注釈 2]。同年のうちに中佐に昇進した[15][5]。
フランス革命戦争での初陣
フランス革命に対する王政列強諸国の干渉を理由にフランス革命政府は1792年からフランス革命戦争を起こした。フランス革命軍はブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公率いるプロイセン・オーストリア連合軍を駆逐してオーストリア領土だったオランダやラインラントを制圧した[12]。
これに対して英国首相ウィリアム・ピットは列強諸国共同の外交交渉でフランス軍を占領地から撤退させようとしたが、フランス革命を阻止してブルボン朝復古を図りたいオーストリアと、フランス革命阻止より自国の増強を図りたいプロイセン・ロシアで足並みがそろわなかった。その隙をついてフランス革命軍は侵攻を進めていき、1793年2月にはベルギー併合を狙ってイギリスとオランダに宣戦布告してくるに至った[12]。
国王ジョージ3世の次男ヨーク公爵フレデリック率いるイギリス軍がベルギーのフランドルに派遣された。アーサーは、1794年6月から第33歩兵連隊を率いてフランドルに赴き、ヨーク公爵の軍に合流した[16]。この戦いはイギリス軍の惨敗に終わるが、混乱状態の撤退戦の中でもアーサーの第33歩兵連隊は高い規律を保ったという。9月15日にボクステルでヨーク公爵の軍がフランス革命軍に攻撃された際にも第33歩兵連隊はフランス軍に一斉射撃を浴びせ続け、フランス革命軍の前進を遅らせ、友軍の撤退を助けた[17]。
アーサーにとってはこの戦いが初めての実戦経験となった[5][18][16]。後にアーサーは「我々はオランダでの敗戦のおかげで自分たちの欠点を知り、これを教訓とすることができた」と語っている[19]。
1795年4月にイギリスへ帰国。敗戦に気落ちして軍を去る事も考えたアーサーだったが、再就職先が見つからなかったので結局軍に留まった[20]。同年5月には兄モーニントン伯爵リチャードが家名のウェズリーを旧家名ウェルズリーに戻したのに合わせて、アーサーもウェルズリー姓となった[5][21]。
インド征服戦争
1796年5月に大佐に昇進したアーサーは[22][5]、6月に第33歩兵連隊を率いてイギリス東インド会社が統治するインドに派遣された[3][18][20]。彼のインドに対する印象は悪く、兄に宛てた手紙の中で「現地人はヒンズー教徒であれ、イスラム教徒であれ、品性の欠片もなく、温かみに欠け、容赦なき残虐行為を平気で行う。その膨大な人数に物を言わせてヨーロッパ人を襲撃しては殺害する」と書いている[23]。
1798年5月からは兄モーニントン伯爵(彼は1799年にウェルズリー侯爵に叙される)がインド総督に任じられてインドに赴任してきた[3]。弟ヘンリーも兄の秘書として同行しており、ウェルズリー家兄弟3人がそろってインドの指導的地位に付いた形となる。3人は緊密に協力しあってインド統治にあたった[21]。
この頃イギリス東インド会社領インドは前途多難な状況にあった。インド南部マイソール王国国王ティプー・スルタンがフランスと同盟してイギリスを圧迫してきていた[24]。こうした状況の中、兄モーニントン伯爵は戦争によってイギリス東インド会社領を拡大することを目指した[25]。
アーサーはいたずらに領土拡大を行うことには消極的だったが[注釈 3]、兄のもとで軍人として存分に腕を振るうことになる[3]。
第4次マイソール戦争
イギリス王立海軍ホレーショ・ネルソン提督の活躍でフランス革命軍ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征は失敗におわり、フランス軍がエジプトからマイソール王国に援軍を送ってくる可能性はなくなった[27]。これを受けて兄モーニントン伯爵は1799年2月よりイギリス東インド会社軍にマイソール侵攻を開始させた(第4次マイソール戦争)[27]。
アーサー率いる第33歩兵連隊はその中心として活躍し、ティプーの立て籠るセリンガパタム要塞に対する最初の攻撃を指揮した。しかしアーサーは昼間まで待って偵察せずに夜間のうちに攻撃を敢行しようとしたことで、要塞までの道のサルタンペター林において、どこにいるか分からない敵から一方的に攻撃を食らって退却を余儀なくされた。この時の教訓で以降アーサーは昼間に十分に偵察を行うことを心がけるようになった[27]。
5月のセリンガパタム要塞への再攻撃ではデヴィッド・バードの指揮下で戦った。今度は問題なくサルタンペター林を通過して総攻撃の末にセリンガパタム要塞を陥落させ、ティプーも討ち取ることができた[28]。
マイソール統治とウォー盗賊団との戦い
戦後、要塞攻略の最大の功労者であるバード少将を差し置いて、アーサーがセリンガパタム要塞の総督に任じられ、マイソール全域の統治にあたることになった[28]。アーサーは「公正、腐敗抑止、正直、約束の実行が統治の基本」と主張し、法律の整備と秩序の維持に努め、殖産興業を図った。また現地諸侯の権威を保障しつつ、マイソール国民の雇用の創出に励んだ[26]。
一方この頃のインド南部ではマラータ族の盗賊団首領ドゥーンディア・ウォー(Dhoondiah Waugh)の略奪が激しくなっていた。ウォーはセリンガパタム要塞陥落の際にそこから脱出することに成功し、同じく要塞から脱出した他の元マイソール兵たちとともに盗賊団を作って各地で略奪を行っていた人物だった[26]。
アーサーは1799年8月にウォー盗賊団討伐に出陣した[5]。ウォーの本拠地チテルドローグを攻め落とすことに成功したものの、この時にはウォーに逃げられた。逃げのびたウォーは1800年4月までに再び盗賊団を組織したため、アーサーが再度出陣し、同年9月までにはウォー盗賊団をインド半島の先まで追い詰めて、とうとうウォーを討ち取った[26]。
第2次マラータ戦争
1799年のブリュメールのクーデターでフランス第一執政の座についていたナポレオン・ボナパルトは、1802年3月にイギリスとアミアンの和約を締結したが、この休戦中もナポレオンはインドにおけるイギリスの覇権を覆そうとマラータ同盟の支援を行った[30]。
これに対抗してインド総督である兄ウェルズリー侯爵リチャードは次なる侵攻対象をマラータ同盟に定めた。再びアーサーがその実行役となった。1803年2月にセリンガパタムを立ち、プネーまでの1000キロを2カ月で行軍した[5][31]。マラータ族に補給線を断ち切られることを警戒して牛を引き連れていったことが迅速な行軍を可能とした[31]。
8月には同盟国ニザーム王国を脅かすマラータ族のアメードヌガー要塞を攻略した[32]。
さらに9月にはマラータ族の中でも強力な王国であるナグポール王国(ラージャ2世・ボンスラー)とグワーリヤル王国(ダウラト・シンディア)と対峙した。マラータ側は5万人の兵と100基の大砲を持っており、対するイギリス軍は2歩兵連隊と1騎兵連隊の計7000人、大砲は20基しかなく圧倒的に不利な情勢であった。アーサーはこれだけ兵力差がある大軍を相手にするには側面をつくしかないと考えてカイトナ川渡河を敢行し、アサエの戦いにおいてボンスラー軍、シンディア軍ともに撃破することに成功した[33]。
11月にもアルガウムでボンスラー軍、シンディア軍と再び対峙した。マラータ軍の砲撃でセポイが散り散りにされたが、アーサーは的確な指示で彼らを再招集し、また迂回させることで予定位置に集結させ、勝利することができた[33]。
この一連の第二次マラータ戦争の勝利が鮮やかだったため、アーサーは一躍有名人となった[4]。1804年9月にはバス勲章を授与され[5][34]、「サー・アーサー・ウェルズリー」となった。
しかし1804年中のモンソン将軍のコーターでの敗戦、レイク将軍のバーラトプル攻略失敗で兄ウェルズリー侯爵の立場はなくなり、1805年に本国に召還された[35]。弟であるサー・アーサーもこれを機にインドでの職を退くことにした[3]。
帰国・政界進出
1805年9月にイギリスに帰国した[36]。
フランス第一執政ナポレオンは地中海の覇権をイギリスから奪うべくマルタ島を狙い、これに反発したイギリス政府が1803年5月にフランスに宣戦布告したことでナポレオン戦争が勃発していた[37]。アーサーも帰国して間もない1805年12月に第33歩兵連隊付き旅団長としてエルベ川に出征したが、翌1806年2月には再帰国している[38]。
4月にキャサリン・パクナムに再び求婚し、今度は受け入れられた[39]。1807年初頭には長男アーサー・ウェルズリーを儲けた[40]。
1806年4月にはライ選挙区から出馬してトーリー党所属の庶民院議員に初当選し、政界進出を果たした[41][5]。議員の職責を果たしながら軍人の職務も引き続き務めた[42]。
1807年春にはポートランド公爵内閣が発足し、サー・アーサーはそのアイルランド担当大臣として入閣した[40]。またこの時枢密顧問官にも列せられた[43]。2年ほど在職するも、ナポレオン戦争従軍のために大陸へ赴くことになった[3]。
ナポレオン戦争
半島戦争勃発
1807年にポルトガル侵攻を決意したフランス皇帝ナポレオン(1804年に皇帝即位)は、スペイン宰相マヌエル・デ・ゴドイとの間にポルトガル分割とフランス軍のスペイン領通過を認める内容のフォンテーヌブロー条約を締結してポルトガル侵攻を開始し、同年12月にはポルトガル首都リスボンを占領した[45]。さらに1808年にはスペイン王室を退位させて、ナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトをスペイン王位に就けた[40][46]。
この一連のナポレオンの横暴に反発したスペイン民衆は、1808年5月以降、次々と武装蜂起し、イベリア半島全土を舞台にした半島戦争が勃発した。7月にはピエール・デュポン将軍率いるフランス軍がバイレンの戦いでスペイン軍に敗れる事態となった[47][48]。
こうした状況を見てイギリス外務大臣ジョージ・カニングはポルトガルやスペインの蜂起を支援することを決定し、1808年7月にサー・アーサーを司令官とする9000人の王立陸軍をリスボンの北方にあるモンデゴ湾に派遣した[49]。
上陸にあたってサー・アーサーは部下たちに「ポルトガルは国王ジョージ3世陛下の盟邦であって、征服地ではない。略奪や強姦は許されない。違反者は厳罰に処す」と厳命しつつ、ポルトガル市民に対しては「我々はフランスの侵略者から諸君らを解放しにきた」と訴えた[50]。
仏軍のイベリア半島自主撤退まで
1808年8月には全軍の揚陸を完了し、ポルトガル軍とも合流して1万5000人の軍勢でもってフランス軍に占領されたリスボンへ向けて進軍を開始した[51]。これに対してフランス軍ポルトガル遠征軍司令官ジャン=アンドシュ・ジュノー将軍はアンリ・フランソワ・ラボールド将軍率いる4000人ほどの軍勢を迎撃に差し向けた。両軍は8月17日にロリカの戦いで激突したが、ライフル部隊を先行させることでラボールド軍を押し戻すことに成功した[52]。
続いてジュノー将軍自らがポルトガル遠征軍の総兵力の三分の二を率いて出陣してきた。両軍は8月21日にヴィメイロの戦いで衝突したが、サー・アーサーの防御的な布陣が功を奏し、フランス軍に軽歩兵の狙撃と大砲の砲撃を食らわせ、さらに縦列で進軍してきたフランス軍に対して横列のイギリス軍が前面・側面から銃撃を浴びせかけることで敗走させることに成功した[53]。
この戦いの敗北を受けてジュノー将軍は、イギリスに停戦を要求し、8月30日にはイギリス・ポルトガル駐留軍総司令官サー・ヒュー・ダルリンプル准男爵将軍との間にシントラの和平を締結した。これによりポルトガル駐留フランス軍はイギリス船に乗って海上からフランスまで撤退することになった[54][48]。しかしこの和平はイギリス国民から不評であり、サー・アーサーも徹底的にフランス軍と戦うことを希望していたために落胆したという[55]。
またこの後、イギリスのポルトガル駐留軍総司令官となったサー・ジョン・ムーア将軍とも険悪な関係になったため、サー・アーサーはひとまず帰国することになった[55]。
仏軍のポルトガル再侵攻を撃退
1808年9月にムーア率いる英軍がスペインへ進軍すると、フランス軍も同年11月にナポレオン自らの指揮のもとスペイン侵攻を再開し、12月にはマドリードを再占領した。これに対して英軍はフランス軍との決戦を避け撤退した。英軍はアメリカ独立戦争敗北の教訓で大陸奥深くでの長期戦を避け、圧倒的な制海権を活用し、攻撃しては海岸まで撤退することを基本戦法としていたからだが、ナポレオンはイギリス軍の撤退を弱気と誤認し「イギリス軍はフランス軍と戦う資格がない」と豪語した[56]。
結局ナポレオンは翌1809年1月に本国の政治情勢やオーストリアの不穏な動きからニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト将軍に後を任せてパリに帰還した。逆にサー・アーサーは1809年4月にポルトガル駐留英軍の総司令官として再度ポルトガルに派遣された[57]。サー・アーサー率いる英軍は、5月7日にオポルト南方のドウロ川渡河を敢行してスールト将軍率いるフランス軍の不意を突き、ドウロの戦いでこれを破り、スールト軍をポルトガルから撤退させた[58]。
続いてクロード・ヴィクトル=ペラン元帥率いるフランス軍2万3000人がポルトガル向けて進軍してきた。サー・アーサーは戦場をスペインに移してスペイン軍と合流のうえ、7月21日、スペインのタラベラ・デ・ラ・レイナに結集していたヴィクトル軍に攻撃をかけた。撤退するヴィクトル軍をスペイン軍に追撃させたが、ヴィクトル軍はマドリード駐留部隊と合流して反転攻勢に転じ、スペイン軍を追い返した。これを受けてサー・アーサーはタラベラに守備布陣を敷いてフランス軍を待ち受け、7月28日のタラベラの戦いで激戦の末にフランス軍を退けた[59]。
サー・アーサーはこの戦功でウェリントン・オブ・タラベラ子爵(Viscount Wellington of Talavera)、ドウロ・オブ・ウェルズリー男爵(Baron Douro of Wellesley)の爵位を与えられ、貴族に列した[60][5][61]。
タラベラ戦後、ウェリントン子爵は軍をポルトガルに戻すとともにリスボン北方に極秘裏にトレス・ヴェドラス線を建設してフランス軍来襲に備えた。この防衛線の存在は自軍にも伏せられていた[62]。
1809年10月にイギリス本国でスペンサー・パーシヴァル内閣が成立した。同内閣に外務大臣として入閣した兄ウェルズリー侯爵や半島戦争を重視する戦争・植民地大臣ポートランド公爵の後押しでウェリントン子爵のポルトガル駐留軍は3万人規模に増強された[63]。
1810年5月よりアンドレ・マッセナ元帥率いるフランス軍がポルトガル・スペイン国境のシウダ・ロドリーゴとアルメイダの要塞に攻撃をかけてきた。両要塞が夏まで持ちこたえている間、南の防衛を固めつつ、小麦の収穫を素早く終わらせた。両要塞が陥落した後、ブサコまで後退して守備の布陣をとり、9月末のブサコの戦いでフランス軍を退けた[64]。
ブサコの戦いに勝利したものの、ウェリントン子爵は軍をトレス・ヴェドラス線まで後退させた。マッセナ元帥率いるフランス軍が追撃に出てきたが、トレス・ヴェドラス線の入り組んだ塹壕や大砲用の落とし穴が広がる光景を見てマッセナ元帥は愕然とし、「奴がこの山を築いたのか」と叫んだという[65]。結局マッセナ元帥の軍は4か月ほど粘ったものの、補給状態が壊滅的となり、1811年3月にはスペインに撤退していった[66]。
スペイン・ポルトガル国境の争奪戦
つづいてウェリントン子爵はスペイン進撃のため、ポルトガル・スペイン国境付近の要塞シウダ・ロドリーゴ、バダホス、アルメイダの奪還作戦を開始した。マッセナ元帥率いるフランス軍も急ピッチで再編成を済ませ、アルメイダを包囲するブレント・スペンサー将軍率いるイギリス軍第1師団に対して攻勢に出てきた。しかし1811年5月11日のフエンテス・デ・オニョーロの戦いの激戦の末にフランス軍をサラマンカへ押し戻すことに成功した[67]。この勝利によりアルメイダ要塞を奪還したが、フランス軍の防衛部隊には無事撤退された[68]。
並行してウィリアム・ベレスフォード少将率いるイギリス・ポルトガル連合軍はバダホス要塞攻略を開始したが、スールト元帥率いるフランス軍が援軍に駆け付けてきて、両軍は5月16日にアルブエラの戦いで衝突した。ウェリントン子爵が戦場に間に合わず、また甚大な死傷者が出た激戦となったが、ベレスフォード軍がなんとか勝利し、バダホス要塞を陥落させた。ただ被害が甚大すぎて結局ポルトガルまで撤退することを余儀なくされた[68]。
1811年の冬の間、軍の増強・休息・補給の確保にあたり、シウダード・ロドリゴとバダホス攻略の準備を進めた[69]。1812年に入るとただちにシウダード・ロドリゴ攻略を目指して出陣し、1月9日には同市を占領し、オーギュスト・マルモン元帥率いるフランス軍を激戦の末に退けた[70]。
この戦いの直後の1812年2月にウェリントン伯爵(Earl of Wellington)に叙せられた[71]。
その後、バダホス再攻略を目指し、1812年3月から4月にかけてバダホスの戦いに及んだ。勝利し、バダホス占領に成功したものの、やはり激戦となり、甚大な死傷者がでた。戦死者が大量に横たわる戦場を視察したウェリントン子爵は涙を流しながら「政府が工兵隊と地雷工兵隊をもっとたくさん送っていてくれたら、勇敢な兵士たちはもっと容易く敵の防衛拠点を制圧して任務を達成していたはずだ」と述べて政府批判したという[72]。
スペイン進撃
ウェリントン伯爵は1812年6月13日より5万のイギリス・ポルトガル・スペイン連合軍を率いてアゲダ川を渡河し、スペイン進撃を開始した[73]。イギリス軍はサラマンカに入り、フランス軍はドウロ川を挟んで対陣した[73]。
7月22日、ウェリントン伯爵を守備的将軍と看做していたマルモン元帥率いるフランス軍が、イギリス軍を包囲しようと動いた結果、フランス軍の防衛が手薄になるというチャンスが生まれた。この報告を受けた時、ウェリントン伯爵は食べていたチキンを放り捨てて自ら伝令となって義弟エドワード・パクナム将軍のもとへいき、彼が指揮する第3師団に攻勢をかけさせた[73]。
こうしてはじまったサラマンカの戦いで、パクナム率いる第3師団はジャン・ギヨーム・バルテルミー・トーミエール将軍率いるフランス軍師団を半壊させ、ウェリントン伯爵も第4師団と第5師団を率いてフランス軍中央に攻勢をかけ、アントワン・ルイ・ポポンのフランス軍歩兵部隊を潰走させ、ジョン・ル・マルシャン率いるイギリス軍騎兵隊が追撃をかけてポポンの軍を壊滅させた[74]。負傷して戦線離脱したマルモン元帥に代わってフランス軍総司令官となったベルトラン・クローゼル元帥はウェリントン伯爵の攻撃の起点である丘陵を狙ったが、ウェリントン伯爵はそこに3個師団を予備役として配置しており、これを撃退することができた。ただスペイン軍がトルメス・アルバ川の防衛の任を放棄していたため、フランス軍は全滅を免れて撤退に成功した[75]
フランス軍の撤退を許したとはいえ、サラマンカの戦いはイギリスの鮮やかな勝利であった。フランス軍師団長の一人マクシミリアン・セバスチャン・フォアはウェリントン伯爵が守備戦だけでなく攻勢にも長けていた事に驚き、彼の用兵術をフリードリヒ大王のそれに例えて称賛した[75]。ウェリントン伯爵本人も後年自分の最大の大勝利の一つにこの戦いを入れている[76]。
この戦いの勝利で1812年8月12日にスペイン首都マドリードを占領することに成功した[77]。この功績でウェリントン侯爵(Marquess of Wellington)に叙せられた[78]。また9月にスペイン連合軍最高司令官に就任し、スペイン軍の指揮も正式に任された[79]。
同月、マドリードから4個師団を率いて北上してブルゴス市を包囲した。しかしブルゴスのフランス軍の守備は堅く落とすことができず、またフランス軍がマドリードへの再攻勢を計画している事を知ると、ウェリントン侯爵は何のためらいもなく、マドリードを放棄して全軍をポルトガルまで撤退させた。これが彼の最後の撤退だった[80]。この撤退は兵たちには不満が多かったものの、ポルトガルで越冬することによって兵士たちの生活環境の改善、軍再編成はしやすかった[81]。
1813年1月に第33歩兵連隊連隊長改め王立近衛騎兵連隊連隊長に任じられ、3月にはガーター勲章を授与されている[82][83][5][79]。
スペイン再進撃
ウェリントン侯爵は1813年2月にはスペインへの再遠征を計画し、5月からそれを実行に移した。ポルトガルを立つにあたってウェリントン侯爵は2度とここには戻らないと宣言した[84]。この頃、ウェリントン侯爵の手元にはイギリス・ポルトガル軍8万人とスペイン軍2万人、スペイン不正規軍5万人の兵力があった[85]。
6月13日にビトリアの戦いでスペイン王ジョゼフ・ボナパルトとその軍事顧問ジャン=バティスト・ジュールダン元帥が率いるフランス軍と対峙したが、補給面で圧倒的に有利なイギリス軍の圧勝に終わった。ジョゼフはウェリントン侯爵がフランス軍と本国の連絡線を断とうとしていることに気付き、パンプローナに向けて後退していった[86][87]。この戦いは半島戦争におけるイギリス軍の優勢を決定づけた戦いとなった[87]。イギリス軍はフランス軍が置き去りにしていった多くの戦利品を得ることができたが、その中にジュールダン元帥の指揮杖もあった。ウェリントン侯爵はこれを摂政皇太子ジョージに献上した。それに対して摂政皇太子は「フランス元帥の指揮杖をもらった代わりにイギリス元帥の指揮杖をあげよう」という洒落た返事とともにウェリントン侯爵に元帥位を与えた[88][注釈 4]。
一方ナポレオンは敗戦報告を受けて激怒し、ジュールダンを解任してスールト元帥を後任とした[90]。
ウェリントン侯爵は7月からスペイン国内に残された二つのフランス軍要塞、サン・セバスティアンとパンプローナの攻略を開始したが、スールト元帥はこの英軍の分散を利用してロンセスバーリェスとマヤ峠に攻勢をかけて英軍を追い、さらにパンプローナを包囲する英軍を襲撃してその補給物資を鹵獲しようとした。ウェリントン侯爵はスールト軍がレサカを強襲すると予想して準備していたのでこの動きには裏をかかれた形だった[91]。
だがウェリントン侯爵はすぐにパンプローナ北方に全軍を終結させて防衛体制を整えるとソラウレンの戦いで得意の守備戦に持ち込んだ。スールト元帥がサン・セバスティアン要塞救出のための行軍中に誤ってウェリントンの本陣に突っ込んだことが功を奏し、フランス軍を徹底的に叩くことに成功した。他のフランス軍もイギリス軍から補給物資を鹵獲することに失敗してフランス本国へ敗走していった。この後、8月から10月にかけてサン・セバスティアンとパンプローナをじっくりと落とした[92]。
ここにフランス軍はイベリア半島から完全に駆逐されたのだった。
ナポレオン最初の失脚から復権まで
ナポレオンを取り巻く情勢は半島戦争以外でも壊滅的になっていた。彼が万を期して1812年6月に開始したロシア侵攻は1812年末までに失敗に終わり、この情勢を見たプロイセン王国はロシアと同盟を組んでナポレオンに反旗を翻した[93][94]。オーストリア帝国もビトリアの戦いでのイギリス軍の勝利を見て、ナポレオンと距離をとるようになり、最終的には1813年8月にロシア・プロイセンと同盟してフランスに宣戦布告した[95][96]。10月のライプツィヒの戦いでフランス軍が同盟軍に敗れた結果、ライン同盟諸国の大半もナポレオンから離反するに至った[97][96]。
いよいよナポレオンに止めを刺す時が来たと判断したウェリントン侯爵は、1813年10月にスペイン・フランス国境のビダソア川を確保し、11月からフランス侵攻を開始した[98]。バイヨンヌを包囲しようとしたが、これを恐れたスールト率いるフランス軍はトゥールーズに撤退した[99][100]。ウェリントン侯爵はボルドーを占領し、さらにトゥールーズへ向けて進軍した[101]。
一方ロシア・プロイセン・オーストリア同盟軍も東からフランス侵攻を開始し、1814年3月末にはロシア皇帝アレクサンドル1世率いる同盟軍がパリに入城した[102]。同盟軍の占領下でタレーランの臨時フランス政府が樹立され、4月2日には元老院がナポレオン廃位を決定した。パリに戻れなくなり、フォンテーヌブローに留まっていたナポレオンも4月4日には退位を受け入れた[103][104]。
ウェリントン侯爵の軍は4月10日にトゥールーズを攻略した。その翌日11日にナポレオン側と同盟国側の交渉でナポレオンの無条件退位が正式に決まり、12日にはウェリントン侯爵にもその情報が伝わった[105]。この際ウェリントン侯爵は「いい時期だ」と述べて喜んだという[103]。同日のうちにウェリントン侯爵とスールト元帥も現地の停戦協定を結んだ[106]。
ウェリントン侯爵は本国からこれまでの戦功を労われ、5月3日にウェリントン公爵(Duke of Wellington)に叙せられた[107][103]。
王政復古でフランス王位についたルイ18世が、5月30日に同盟軍とパリ条約を締結したことでフランス領土の範囲は1792年時の状態に戻ることになった[108][109][106]。またフランスとオランダの植民地の多くをイギリスが獲得した[109]。
終戦によりウェリントン公爵も6月にはイギリスに帰国したが、帰国後ただちに駐フランス・イギリス大使に任じられてパリに派遣された[110][111]。この任命はウェリントン公爵がフランス語とフランス旧体制アンシャン・レジームの機微に通じており、フランス復古王政と交渉しやすい人物と目されていたためと見られる。だがウェリントン公爵自身はこの任命を不可思議に思っていたという[112]。
1814年末にウィーン会議が開催されるとウェリントン公爵も参加した[113]。1815年2月にイギリス代表だった外相カスルリー子爵が帰国するとその代理としてウェリントン公爵がイギリス代表となった[114]。しかし会議は、ロシアがポーランド、プロイセンがザクセンの領有権を主張したことで紛糾し、「会議は踊る、されど進まず」と揶揄される状況になった[115]。ウェリントン公爵もこの状況にあきれ果てたという[116]。
その間、イギリス軍に監視されながらエルバ島の小領主をしていたナポレオンは、ルイ18世がフランスの民心を得られないのを見て今フランスに戻れば政権を取り戻せると判断した。エルバ島を脱出してゴルフ=ジュアンに上陸したナポレオンは、復古王政を反人民の封建主義体制と批判し、皇帝政府に復帰することをフランス軍やフランス人民に訴えた。ルイ18世はミシェル・ネイ元帥をナポレオン捕縛に派遣したが、ネイ元帥は途中でナポレオンに寝返った。他のフランス軍将軍たちも続々とナポレオンに従い、ナポレオンは無血でパリを奪還することに成功した[117][118]。
この報告を聞いたウィーン会議出席中の各国首脳は、反ナポレオンで再び団結し、1815年3月12日にナポレオン排除を決議した[119][120]。
ワーテルローの戦い
ウェリントン公爵はオランダ領ベルギーで同盟軍の指揮を執ることになった。ウィーンを発つ直前にロシア皇帝アレクサンドル1世より「世界をもう一度救うのは貴官だ」とのお言葉を賜っている[121]。
1815年4月4日にブリュッセルに到着したウェリントン公爵は9万5000人のイギリス・オランダ・ハノーヴァー・ブラウンシュヴァイク連合軍を指揮し、モンスから海岸にかけて布陣した[122][123][124][125]。訓練が未熟な部隊も多かったものの、ウェリントン公爵の名声や気配りはこの雑多な多国籍軍の共同作業を可能とした[126]。さらにゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル元帥率いるプロイセン・ルクセンブルク連合軍12万人ほどがアルデンヌからシャルルロワにかけて布陣していた[124][125]。一方ナポレオンがパリでかき集めた兵力は58万人ほどで、そのうち12万4000人を自らの直属の野戦軍にした[125]。
ナポレオン率いるフランス軍主力は6月11日にパリを発ち、6月14日にはシャルルロワ付近に到着した[127]。ウェリントン公爵はフランス軍がシャルルロワを攻撃すると見せかけて西側の進路をとると予想し、6月15日夕方、隷下のオラニエ公ウィレムとヒル卿に指示を出して、ヘラールツベルヘンからニーヴェルに至る地域に素早く展開できるよう準備を開始させた[128]。同日夜10時頃、フランス軍主力がシャルルロワに進軍したことを知ったウェリントン公爵は、ニーヴェルとカトル・ブラに軍を終結させるよう指示し直し、その後予定通りにリッチモンド公爵夫人主催の舞踏会に出席した[129]。
その舞踏会のさなか、フランス軍主力がカトル・ブラに進軍したとの報告を受けたウェリントン公爵は、リッチモンド公爵に対して「ナポレオンにはしてやられました。24時間進軍してこちらへ向かってきています。カトル・ブラでナポレオンを迎え撃つことはできないでしょう。恐らくここで戦うことになります」と述べて地図上でワーテルローを指さしたという[126]。
6月16日、ナポレオンはリニーの戦いでフランス軍主力をプロイセン軍と戦わせながら、ミシェル・ネイ元帥率いるフランス軍の一部を交通の要衝カトル・ブラに差し向けた。そこを占領することで西側面からもプロイセン軍に攻勢をかけようとしたのだが、カトル・ブラを守る現地イギリス軍旅団は持ちこたえ、同日夕方にはウェリントン公爵率いるイギリス軍主力がカトル・ブラに到着し、ネイ軍を撃退した[130][131]。
一方リニーの戦いに敗れたプロイセン軍は、ワーヴルまで撤退した(ただしネイ軍がカトル・ブラを占領できなかったためプロイセン軍も決定的打撃は受けずにすんだ)[132][124][130]。
プロイセン軍の撤退を知ったウェリントン公爵は「ご老体が惨敗したか」と冷やかに述べたという。ウェリントン公爵は73歳になっても前線で指揮をとろうとするブリュッヘル元帥に否定的であったという[131]。
プロイセン軍が撤退した以上、英軍がカトル・ブラに留まる意味もなく、ウェリントン公爵は6月16日から17日にかけて戦術的後退を行ったが、ナポレオン軍主力が追跡してきた。これを知ったウェリントン公爵はプロイセン軍のブリュッヘル元帥にワーテルロー付近への集結を求める伝令を送った。もしプロイセン軍が来れないようであればウェリントン公爵としてはブリュッセルも放棄して後退を続けるつもりであった[133]。だがブリュッヘル元帥からの返答はすぐにもワーテルローへ向かうというものだった[134]。これを信じたウェリントン公爵は後退を中止し、ワーテルロー付近で守備布陣を固めた[135]。
6月17日は午後2時頃から豪雨となった[133]、ナポレオンは地面の安定を待って6月18日午後1時まで本格的な攻撃をかけなかった[135][136]。この隙にブリュッヘル率いるプロイセン軍がワーテルローに接近することが可能となった。ナポレオンは「プロイセン軍は到着まで二日はかかる」と考えており、プロイセン軍を追撃しているエマニュエル・ド・グルーシー元帥の軍を呼び戻すべきとのスールト元帥の進言も却下している[137]。
6月18日午後1時半からデルロン伯爵将軍率いるフランス軍第1軍団がイギリス軍中央に攻勢をかけてきた。ピクトン中将の第5師団が迎え撃ったが、激戦となり、ピクトン中将も戦死した[137]。
ウェリントン公爵はサマセット卿少将率いる近衛騎兵旅団とサー・ウィリアム・ポンソンビー少将率いる連合騎兵旅団を応援に送ることとした。ウェリントン公爵は「紳士たちよ、王室の部隊の名誉のためだ」と叫んで彼らを鼓舞した[138]。出撃した両騎兵旅団はデルロン軍を退けたが、追撃で深追いし過ぎたため大きな打撃をこうむり、ポンソンビー少将も戦死した[138][139]。
つづいて午後4時にネイ元帥がフランス重騎兵連隊を率いてイギリス軍中央に突撃をかけてきた[140]。しかしイギリス陸軍は14世紀のクレシーの戦いの教訓で日頃から騎兵単独突撃に対して方陣を組んで突破を阻止する訓練を受けていた[141]。そのため冷静に横一列になって射撃を浴びせかけ、フランス騎兵を次々と討ち取ることができた[142]。ウェリントン公爵は、愛馬コペンハーゲンを駆ってあちこちの部隊を回り、「あと少しだ。プロイセン軍が到着すれば戦争は終わる」と兵士たちを励ました[142]。
騎兵単独突撃を断念したネイ元帥は午後6時、歩兵・騎兵・砲兵を適切に活用してラ・エー・サントを攻略、これによって英軍の守備陣形が崩されそうになった。ネイ元帥はイギリス軍を一気に突き崩すため、ナポレオンに増援を要請したが、ナポレオンは接近してきたプロイセン軍の方を警戒しており、唯一手元に残る兵力の近衛隊をロバウ伯爵率いる第6軍団支援に送った[143][135]。その結果ネイ軍の攻撃は不徹底に終わった。ウェリントン公爵は弱体化した部分の指揮を自ら執って、適切に援軍を送って補強し、危機を回避した[144]。
午後7時頃になってようやくナポレオンはラ・エー・サントに近衛隊投入を決定した。ウェリントン公爵は近衛第1連隊にこれを食い止めさせている間、第52連隊にフランス近衛隊の側面を突かせ、近衛隊を敗走に追い込んだ[145]。フランス軍最強の近衛隊の撤退でフランス軍主力に動揺が走った[145]。さらにプロイセン軍もロバウ軍を撃破して、ラ・エー・サントに押し寄せてきた[146][145]。
ウェリントン公爵はフランス軍が崩壊し始めたのを見逃さず、「始めたことは最後までやり遂げよう(In for a Penny In for a Pound)」という号令のもと全軍を前進させた[145]。
ナポレオンは手元に残されていた最後の近衛隊部隊を投入しつつ、総崩れになって敗走してくるフランス兵たちに檄を飛ばしたが、無駄な努力に終わった。結局ナポレオンも戦場を放棄してシャルルロワへ逃げていった。フランス軍の追撃はプロイセン軍が行った[147]。
こうしてワーテルローの戦いは同盟軍の勝利に終わった。だがこの戦いは同盟軍側にも甚大な数の戦死者を出していた。ウェリントン公爵軍は1万5000人、ブリュッヘル軍は7000人が戦死している(フランス軍は2万3000人)[148]。翌19日に戦死者リストを見せられたウェリントン公爵は涙を流しながら「敗戦のときの気持ちは私には分からないが、これほど多くの戦友を失って得た勝利ほど悲しいことはない」と軍医に語っている[149]。
フランス占領軍総司令官
ナポレオンはパリまで逃げ戻ったが、ナポレオンを支持する者はもうほとんどなく、フランス議会から退位を要求された。同盟軍がパリに接近してくるに及んで、ナポレオンはイギリス軍に投降した。イギリス政府の決定でナポレオンはセント・ヘレナ島に流刑となった。ルイ18世がパリに帰還し、復古王政が再開された。また第二次パリ条約が締結されてフランスは莫大な賠償金を課され、フランス領土は1790年時の領土まで削減されることになった[148]。
ウェリントン公爵はフランス占領同盟軍の総司令官に就任した[150]。ウェリントン公爵は本国の外相カスルリー子爵と協力して、復讐に燃えるロシア、プロイセン、オーストリアを抑えて寛大な占領統治を行った。ロシアが求めるイエナ橋の爆破も退けた。15万人もの占領軍は多すぎるとして縮小することも提案している。ロシア軍、プロイセン軍、オーストリア軍はフランス国民から激しい略奪を行ったが、イギリス軍はウェイリントン公爵の指揮下に規律を保ち、略奪を行わなかった[150]。
また「変節者」「裏切り者」であってもタレーランやフーシェは閣僚の地位に留まらせるようルイ18世の説得にあたった[151]。一方でルイ18世に復讐で逮捕されたミシェル・ネイ元帥の助命嘆願はしなかった。その結果ネイは銃殺刑に処された[152]
1818年秋アーヘン会議が開催され、ウェリントン公爵は外相カスルリー子爵とともにイギリス代表として出席した[153]。この会議でウェリントン公爵はベアリングス銀行からフランス政府への融資を取り付け、フランス政府の賠償金支払いの当てを作り、その結果会議は11月末までにフランス占領軍を撤収させることを決議した[153]。
こうしてウェリントン公爵も1818年12月にはイギリスへ帰国することとなった[153]。
リヴァプール伯爵内閣補給庁長官
帰国後、ただちにリヴァプール伯爵内閣の補給庁長官に就任した[154][153]。
この時代、イギリス陸軍に関する管理機構は錯綜しており、補給庁は陸軍の武器弾薬や軍用コートの補給を所管する役所だった(食料と輸送は大蔵省の管轄)[155]。1827年までという長きにわたってこの閣僚職に在職したウェリントン侯爵だったが、特筆される様な業績はなかった[155]。
1822年8月に盟友である外務大臣カスルリー子爵が自殺し、ジョージ・カニングがその後任となった。この人事はウェリントン公爵が国王ジョージ4世に推挙した結果だった[156]。カニングはトーリー党内の自由主義派であり[157]、保守的なウェリントン公爵は彼に好感を持っていなかったが、反政府派に対抗するためには彼の入閣が不可欠と考えていた[156]。
だがカニングの入閣により閣内の亀裂は深まった。とりわけウェリントン公爵と大法官エルドン伯爵の保守的な見解が、カニングやウィリアム・ハスキソンの自由主義的見解と頻繁に衝突するようになった。首相リヴァプール首相や内務大臣サー・ロバート・ピール、戦争・植民地大臣バサースト伯爵は中間的な立場を取ることが多かった[158][157]。
とりわけ対立が深刻化したのがカトリック解放問題だった。これはイングランド国教会信徒にしか公務就任が認められていない現状に対してカトリックの公務就任を認めるべきか否かという問題であった。この問題ではカニング、ハスキソンがカトリック解放を支持する一方、ピールがカトリック解放に強く反対した。ウェリントン公爵もカトリック解放反対の立場だったが、閣内分裂を恐れ、この問題ではバサースト伯爵とともに閣内融和に努めている[158]。
1827年1月に陸軍総司令官ヨーク・オールバニ公爵が薨去すると、ウェリントン公爵が補給庁長官在任のまま軍職の陸軍最高司令官を兼務した[159]。ウェリントン公爵はこの地位に付いたことを非常に喜んだという[160]。
1827年2月17日にリヴァプール伯爵が脳卒中で倒れ、これ以上首相の職務を執るのは難しい容態となった。バッキンガム=チャンドス公爵やニューカッスル公爵といったカトリック解放に慎重な貴族たちは後任の首相にウェリントン公爵を推したものの、当のウェリントン公爵は首相になる意思がなく、国王ジョージ4世から次期首相について下問された際に「私はカニングかピールに大命を与えるべきと考えますが、首相選定は陛下が果たされるべき責務です」と奉答している[161]。
カニングとピールはともに相手の内閣で閣僚になる事を拒否していたため、国王としてはどちらかを切らねばならなかった。最終的に国王はカニングに大命を与えている[162]。
これによりピールをはじめとしたカトリック解放反対派閣僚たちは閣僚職を辞した。カニングはせめてウェリントン公爵だけでも内閣に残留させようと説得を続けたが、ウェリントン公爵は「カトリック問題を慎重に取り扱うというリヴァプール内閣の方針を貴官が踏襲するならば留まってもいいが、貴官にその意思はないことは明白である。党を分裂させる恐れのある内閣には参加できない」と述べて入閣を拒否し、補給庁長官職と陸軍総司令官職を辞した[163][160]。
首相就任までの経緯
トーリー党守旧派から協力を拒否されたカニングはホイッグ党のランズダウン侯爵派と連立を組んで組閣した。これによりトーリー党、ホイッグ党双方が党分裂状態になった[164]。
しかしカニングは首相就任4カ月にして病死。国王ジョージ4世はこの時にはウェリントン公爵を召集することなく、ゴドリッチ子爵に大命を与えている[163]。ウェリントン公爵はゴドリッチ子爵内閣にも入閣しなかったが、軍職の陸軍総司令官職への復帰は了承している[160]。
国王はカトリック解放やホイッグ党から閣僚を入れ過ぎることに反対する立場だったので、内閣のお目付役としてトーリー党守旧派のジョン・チャールズ・ヘリスを蔵相として入閣させていた[165]。そのためゴドリッチ子爵内閣はすぐにも閣内不一致となった。国王とゴドリッチ子爵の対立も深まり、1828年1月8日には内閣総辞職に追い込まれた[166]。
国王は1月9日にウェリントン公爵を召集して大命降下した。ウェリントン公爵は即答せず、各方面との組閣交渉の時間を頂いて退下した[167]。
ウェリントン公爵はまずカニング内閣に参加していたホイッグ党ランズダウン侯爵派に入閣を要請したが、彼らはウェリントン公爵の反カトリック解放の立場に反発して入閣を拒否した。つづいてハスキソン率いるカニング派(トーリー党内自由主義派・カトリック解放派)に協力を要請したが、彼らはカトリック解放問題を棚上げにするということで入閣を了承した。これによって組閣の見通しが立った[167]。
第1次ウェリントン公爵内閣
1828年1月20日に大命を拝受し、22日に第1次ウェリントン公爵内閣を成立させた[167]。この際に陸軍総司令官職は辞した[168]。
ウェリントン公爵の内閣にはハスキソン、パーマストン子爵、メルバーン子爵など多くのカニング派閣僚が参加していたが、彼らは5月から6月にかけて腐敗選挙区削減問題で内務大臣ピールと対立を深め、一斉に辞職してしまった[167]。このためにウェリントン公爵内閣は早々に政権基盤が不安定になった。
一方野党ホイッグ党はランズダウン侯爵派と再統一して、カトリック問題などで与党に対する攻勢を強めてきた。また1828年7月にはアイルランド独立を目指すアイルランド・カトリックのダニエル・オコンネルが庶民院議員に当選するも国教徒でないことを理由に議場に入る事を認められず、カトリック解放の機運が高まった[169]。
ウェリントン公爵は頑迷なカトリック解放反対派というわけではなく、この頃にはカトリックへの譲歩も考えるようになっていた。ピールや国王を説得のうえ、1829年3月にカトリック解放法案を議会に提出、4月に可決させた。これによって17世紀以来議会から締め出されていたカトリックに庶民院議員の道が開けた。だがカトリック解放に反対するウルトラ・トーリーが事実上トーリー党から離反してしまい、ウェリントン公爵の政治基盤は強化されるどころか弱体化した[169]。
またカトリック問題が落ち着いたのも束の間で、今度は選挙法改正の機運が高まっていき、ホイッグ党若手議員のリーダーであるジョン・ラッセル卿が腐敗選挙区廃止と大都市の議席増を内容とする選挙法改正法案を議会に提出してきた。なんとか同法案を否決に追い込んだものの、これによって逆にホイッグ党の反政府団結力は強くなった[169]。
1830年6月26日にジョージ4世が崩御し、その弟であるウィリアム4世が新国王に即位したこともホイッグ党にとって有利な材料となった。ジョージ4世はホイッグ党やホイッグ党党首グレイ伯爵のことを嫌っていたが、ウィリアム4世はグレイ伯爵と交友があり、ホイッグ党に対しても比較的好意的だったのである[170]。
当時のイギリスの慣例で新国王の即位に伴って解散総選挙が行われたが、トーリー党が250議席、野党(ホイッグ、カニング派、ウルトラ・トーリー)が196議席、無所属・所属不明が212議席という結果になった。一応多数派を得たトーリー党だったが、野党の団結は進み、11月2日にウェリントン公爵が「選挙法改正は行わない」と議会で明言したことにより、政府打倒の機運は最高潮に達した。この空気に呑まれてもともと選挙法改正に反対していたウルトラ・トーリーまでもが倒閣に協力した[171]。
その結果、11月15日には政府提出の王室費に関する法案に反対するホイッグ党の動議が233対204で可決される事態となり、ウェリントン公爵は総辞職を余儀なくされた。ここに半世紀にわたったトーリー党政権は倒れ、グレイ伯爵を首班とするホイッグ党政権が誕生するに至った[172]。
野党党首として
以降ウェリントン公爵は1834年まで野党としてのトーリー党を指導した。ただこの頃からトーリー党の実務をロバート・ピールに委ねるようになった[173]。
グレイ伯爵政権は選挙法改正を目指したが、ウェリントン公爵率いるトーリー党はこれを阻止することに全力をあげた。1831年の解散総選挙のホイッグ党の大勝で選挙法改正の大勢を覆しがたくなっても、貴族院で法案を修正して骨抜きにすることは諦めなかった[174]。
1832年5月、選挙法改正法案の審議の際に政府が敗北したことでグレイ伯爵が総辞職を表明し、ウィリアム4世はウェリントン公爵に大命を降下しようとした[175]。だが選挙法改正反対論者が首相に就任することへの世論の反発は激しく、裕福な中産階級が中心となって納税拒否や銀行預金一斉引き出しといった形で抵抗運動が起こった。恐慌に発展することを恐れたイングランド銀行理事がウェリントン公爵に組閣を断念するよう説得に現れるほどの事態となった。結局ウェリントン公爵は組閣を断念し、グレイ伯爵が再組閣することになった[176]。
この一件以来、ウェリントン公爵は「二度と首相はやらない」と公言するようになった[177]。ただ自由主義的なピールは党内に敵が多かったので、トーリー党の政権奪還・ピールの首相就任まではウェリントン公爵が党首を務め続けるしかなかった。またウェリントン公爵自身もしばしば政治への意欲を取り戻して、貴族院からトーリー党を指導してピールを掣肘した[177]。
ウィリアム4世が選挙法改正法案に賛成する貴族院議員を新たに作るというホイッグ党の要求をしぶしぶ受け入れるにいたって、ウェリントン公爵ら貴族院トーリー党も抵抗を諦めた。1832年6月、第1次選挙法改正が達成された[178]。
ホイッグ党はこの選挙法改正をはじめとして政治改革を多数行ったものの、それによって党内の亀裂は徐々に深まっていき、1834年5月にはスタンリー卿(後のダービー伯爵)らが閣僚職を辞し、ホイッグ党からも離党する事態となった[179]。求心力低下を抑えがたくなったグレイ伯爵は7月に辞職し、後任の首相としてメルバーン子爵をウィリアム4世に推挙した。ウィリアム4世はグレイ伯爵の助言通りメルバーン子爵に大命を与えたものの、人事案をめぐって不満を持ち、11月にはメルバーン子爵を首相から罷免した[180]。
第2次ウェリントン公爵内閣とピールへのバトンタッチ
この後、ウィリアム4世は保守党(1834年前後からトーリー党は保守党という名称を使用するようになる)党首ウェリントン公爵に大命を降下した。ウェリントン公爵は首相にはならないと公言していたから保守党庶民院院内総務ロバート・ピールに大命を与えるべきことを上奏した[173]。
ただこの時ピールはイタリア旅行中であったため、彼が帰国するまでの暫定として首相を務めることは了解し、第2次ウェリントン公爵内閣を発足させた[173]。
この暫定政権の間にウェリントン公爵は国王ウィリアム4世や保守党幹部たちにピールを売り込み、ピールが首相・保守党党首としてスムーズにスタートを切れるよう尽力した[173]。
12月にピールが帰国するとただちに首相職を辞し、首相・保守党党首の座をピールに譲った。そして第1次ピール内閣に外務大臣・貴族院院内総務として入閣した。だが、野党であるホイッグ党、急進派、オコンネル派(アイルランド議員)の連携が深まり、ピール内閣は1835年4月には総辞職に追い込まれ、ホイッグ党のメルバーン子爵が政権に返り咲いた[173]。
ヴィクトリア女王の即位と寝室女官事件
1837年6月20日にウィリアム4世が崩御し、その姪である18歳のヴィクトリアが女王に即位した[181]。同日開かれたヴィクトリア女王最初の枢密院会議にウェリントン公爵も出席したが、彼はその時の光景を「彼女はその肉体で自らの椅子を満たし、その精神で部屋全体を満たしていた」と表している[182]。
女王は首相メルバーン子爵を偏愛したが、メルバーン子爵は保守党の攻撃、急進派の離反などで求心力を落としていき、1839年5月7日には女王に辞表を提出した。この際にメルバーン子爵は保守党貴族院院内総務であるウェリントン公爵を後任の首相に推挙している[183]。
女王はその助言に従って5月8日にウェリントン公爵を召集したが、ウェリントン公爵は「70過ぎの自分には首相の大任は務まりません。庶民院への影響力もありません」と拝辞し、代わりにロバート・ピールに大命を与えるべきことを上奏した[184][185]。またこの際女王はウェリントン公爵に「今後もメルバーン卿に諮問してよいか」と下問している。野党党首が宮廷で個人的に君主の相談役になるなど前代未聞のことであったが、ウェリントン公爵は女王の気持ちも察してこれを了承した[184]。
だが同日午後に召集されたピールは大命を拝受しつつもメルバーン子爵が女王の相談役になることには反対し、女王の不興を買った。さらにその翌日にピールは寝室女官をはじめとした女官(ホイッグ党の議員たちの妻が多数を占める)の一部を保守党の議員の妻に入れ替える宮廷女官人事案を女王に提出した。女王は女官の人事は女王の私的人事と称してこれに強く反対した。ピールと女王の間で激しい闘争が発生した[186]。
ウェリントン公爵はなんとか二人の仲を取り持とうと尽力したものの、二人はお互い引く様子を見せなかった。結局ウェリントン公爵はピールに大命を拝辞することを勧め、ピールはメルバーン子爵が引き続き首相を務めることに同意するに至った[187]。ウェリントン公爵はメルバーン子爵になるべく協力することを約束することになった[188]
この事件は寝室女官事件と呼ばれる。
晩年
寝室女官事件によりもうしばらく政権を担当することになったメルバーン子爵だったが、1841年の解散総選挙でホイッグ党が保守党に敗れた結果、1841年8月に召集された新議会で敗北し、総辞職に追い込まれた[189]。
こうして1841年9月には第2次ピール内閣が発足することとなった。同内閣にウェリントン公爵は無任所大臣として入閣している[190]。彼はピールを支持し続けた。保守党が穀物法廃止をめぐって分裂した際にも彼はピールを支持している[191]。
一方陸軍においては1842年には再び陸軍総司令官に就任し[192]、こちらは死去する1852年まで務めた[190]。ただこの頃にはウェリントン公爵はだいぶ老衰しており、耳も遠くなっていたという。子孫である第7代ウェリントン公爵によれば「陸軍総司令部への出勤は一苦労だった。馬から降りる姿は痛ましい以外の何物でもなかった。やっとデスクに付くと小言と居眠りだけで一日を過ごした」という状態だったといい、「晩年に陸軍総司令官の職務を引き受けたことは彼の人生の最大の誤りだった」と評している[193]。
この頃陸軍について正規兵の不足などが問題視されていたが、ウェリントン公爵はあらゆる軍制改革に慎重だった。それによって軍隊の統帥権を陸軍大臣に奪われ、軍隊が議会のものになってしまうことを恐れていたためである[194]。
その結果、イギリス陸軍は旧態然としたまま残ってしまった。インド人や中国人、ビルマ人、アフガン人の相手をするには十分だったとしても、ヨーロッパの軍隊の中では劣弱であることはクリミア戦争で証明される形となった[195]。
死去
1852年9月14日にケントのウェルマーの城で死去。83年の生涯だった。葬儀は11月18日にセント・ポール大聖堂で行われた[196] [197]。
死の11日ほど前に友人に「戦争するということと生きていくことは同じことだ。それは知らないことを知ろうと努めること、つまり丘の向こうにあるものを知ろうとすることだからだ」という言葉を残した[198]。
人物
後退して補給線を短くして防備を固め、守備戦で敵を撃退することが多かった将軍であり、「偉大な将軍の資質は、後退が必要な時にその事実を認めて実行する勇気があることだ」と語った[66]。
ウェリントン公爵はナポレオンと違い、自らの戦勝や功績を大げさに語ることがなかった。ワーテルローの戦いの勝因も「ナポレオンが戦術らしい戦術を使わなかった。フランス軍が従来通り縦隊で進軍してきて従来通り撃退されただけ。それでも苦しい戦いだった。あと少しで負けるところだった」と謙虚な説明をしていた[199]。年老いたウェリントン公爵がハイド・パークを歩行中、身体を支えてくれた通りすがりの人にお礼を述べた際、その通行人は「この世で最も偉大な人物に手を差し伸べられる日が来るとは思いませんでしたよ」と述べたが、それに対してウェリントン公爵は「馬鹿げたことを言いなさんな」と答えたという[200]。
常にイギリス紳士たる自覚を持ち、敗者に対しても寛容であった[201]。その精神はインドの征服地や敗戦国フランスに対しても発揮された。ウェリントン公爵は「戦争が終結したら全ての敵意を忘れねばならない。敵を許さなければ戦争は永遠に続く。大英帝国の政策が些細な悪感情に影響されることがあってはならない」と語っている[202]。
しばしば略奪を働く隷下の兵士たちを「酒を飲むために応募した人間の屑」と呼ぶことがあった[203]。一方彼らの勇敢さはウェリントン公爵も認めるところであり、「粗暴だが勇敢で任務に忠実な兵士たちは、軍事的教養以外にも大事なものを持っている紳士たちに指揮されることによって戦場で大きな力を発揮する」と主張していた[204]。
ただウェリントン公爵の隷下の指揮官たちは軍事教育をほとんど受けておらず、ウェリントンも彼らの能力をあまり高く評価していなかった[205]。そのためワーテルローの戦いにおいても、彼が旅団・大隊レベルにまで直に命令を発していた[206]。
戦場ではあまり派手な軍服は着たがらず、全体的に控えめな格好をしていることが多かった[207]。
ナポレオン戦争後の後半生は政界での活動が多かったが、ウェリントン公爵自身は軍務の方を愛しており、政治家や民間人と付き合うのは好きではなかったという[208]。
筆まめな人物であり、膨大な量の書簡を残している。書簡を本として編纂し出版したこともある。また議会演説集も出版している[209]。
その他
- 足首の上までの長さのブーツを愛用していた。これは彼のトレードマークの一つとなり、ウェリントン・ブーツという言葉が広まった[210]。
- 鷲鼻からノージーとあだ名されていた[210]。この特徴的な顔のおかげで、(写真が登場する以前の時代の人物としては珍しいことだが)人々からよく顔を認知されていたという[209]。
- ウェリントン公爵の部下の兵士にトマス・アトキンスという勇敢な兵士がおり、彼に感銘を受けていたウェリントン公爵は国務大臣を務めていた頃、陸軍法規に兵士代表として「トマス・アトキンス」の名前を記載した。これがきっかけとなり、イギリス兵のことを「トマス・アトキンス(トミー・アトキンス)」、もしくは「トミー」と呼ぶ習慣が生まれた[210]。
- 1971年から1990年までイングランド銀行が発行していた「シリーズD」の5ポンド紙幣の裏面に肖像が使用されていた[211][212]。
栄典
イギリス
爵位
すべて連合王国貴族。
勲位・名誉職など
- バス勲章ナイト・コンパニオン - 1804年9月1日[34][213](1815年1月2日、バス勲章の制度改正[215]に伴い同ナイト・グランド・クロス[216][213])
- イギリス枢密顧問官 - 1807年4月8日[43][213]
- アイルランド枢密顧問官 - 1807年4月21日[213]
- ガーター勲章 騎士 - 1813年3月4日[83][213][214]
- 半島戦争の従軍記章(Army Gold Medal)
- ハンプシャー州統監および主席治安判事 - 1820年12月19日[213]〜1852年[214]
- ジョージ4世の戴冠式におけるイングランド大司馬 - 1821年7月19日[213][214]
- ロンドン塔管理長官・タワーハムレッツ統監 - 1826年12月29日[213]〜1852年[214]
- ドーヴァー城管理長官・五港長官 - 1829年1月20日[213]〜1852年[214]
- ウィリアム4世の戴冠式におけるイングランド大司馬 - 1831年9月8日[213][214]
- オックスフォード大学 総長 - 1834年1月29日[213]〜1852年[214]
- ヴィクトリア女王の戴冠式におけるイングランド大司馬 - 1838年6月28日[213][214]
- 土木技術者協会 名誉会員
- 王立協会 フェロー - 1847年11月25日[217]
外国
爵位
勲章
- ポルトガル: 塔および剣勲章 大十字騎士 - 1811年10月18日[213][214]
- スペイン: 聖フェルナンド桂冠十字章 大十字騎士 - 1812年4月11日[213][214]
- スペイン: 金羊毛勲章 騎士 - 1812年8月7日[213][214]
- オーストリア: マリア・テレジア軍事勲章 大十字騎士 - 1814年2月5日[213][214]
- スウェーデン: 剣勲章 大十字騎士 - 1814年2月5日[213][214]
- ロシア: 聖ゲオルギー勲章 大十字騎士 - 1814年3月4日[213][214]
- プロイセン: 黒鷲勲章 大十字騎士 - 1814年3月4日[213][214]
- オランダ: ヴィレム軍事勲章 大十字騎士 - 1815年4月30日[213][214]
- デンマーク: 象勲章 騎士 - 1815年7月[213][214]
- ザクセン: Hausorden der Rautenkrone 騎士 - 1815年7月27日[213][214]
- バーデン: Hausorden der Treue 騎士 - 1815年7月[213][214]
- サルデーニャ: 聖アヌンツィアータ勲章 騎士 1815年7月[214]
- フランス: 聖霊勲章 騎士 - 1815年11月27日[213][214]
- ハノーファー: ロイヤル・ゲルフ勲章 大十字騎士 - 1816年3月[213][214]
- スペイン: 聖ヘルメネギルド勲章 大十字騎士 - 1817年[213][214]
- 両シチリア: 聖ジェナーロ勲章 騎士 - 1817年7月16日[213][214]
- 両シチリア: 聖フェルディナンドおよび功労勲章 騎士 - 1817年7月16日[213][214]
ウェリントン公爵を演じた人物
- ジュリアン・グローバー:『ヴィクトリア女王 世紀の愛』(2009年、イギリス映画)[218]
- カエタノ・マルティネス・デ・イルホ:『宮廷画家ゴヤは見た』(2006年、スペイン、アメリカ映画)[218]
- ヒュー・フレイザー:『炎の英雄 シャープ』(1993年-1997年、ITV制作のテレビドラマ)[219][注釈 5]
- ローレンス・オリヴィエ:『レディ・カロライン』(1972年、アメリカ映画)[218]
- クリストファー・プラマー:『ワーテルロー』(1970年、イタリア、ソ連映画)[218]
- ジョン・ネヴィル:『勇将ジェラールの冒険』(1970年、イギリス映画)[218]
- トリン・サッチャー:『奇跡』(1959年、アメリカ映画)[218]
- ヴァルデマール・ライトゲープ:『ロスチャイルド一家』(1940年、ナチス・ドイツ映画)[218]
- ジェームス・デール:『ヴィクトリア女王』(1937年、イギリス映画)[218]
- ジョージ・アーリス:『風雲の欧羅巴』(1934年、イギリス映画)[218]
脚注
注釈
- ^ 母アンによればアーサーの生誕日は1769年5月1日というが、看護婦によれば1769年3月6日ダンガノン城の生まれだという。ダブリンの聖ピーター教会のレジストリによれば4月30日にアーサーがそこで洗礼を受けたという。『Exshaw's Gentleman's Magazine』1769年5月号は4月29日にモーニントン伯爵に子が生まれたとしている。1769年5月2日から4日の『Dublin Gazette』は数日前にダブリンのアッパー・メリオン・ストリートでイベントがあったとしている。以上を総合的に判断してアーサーは1769年4月29日にダブリンのアッパー・メリオン・ストリート24番地にあったモーニントン伯爵家別邸で生まれたとする説が有力になっている[5]。
- ^ 当時イギリス陸軍の階級は中佐階級までは買い取ることができた。中佐以降は基本的に年功序列である[14]。
- ^ この頃アーサーは「イギリスの支配地域が広がればそれだけ危険が増える。その国の公務員、あるいは略奪を働いてきた者たちの職を奪うことになり、それらの者たちを敵に回すばかりか、領土が広がるほど各所の防衛も手薄になっていく」と語っている[26]。
- ^ この時のウェリントンの年齢は44歳であり、これは王室出身者を除いて史上最年少での元帥就任だった[89]。
- ^ ヒュー・フレイザーが演じるのはウェリントン卿となった第3話Sharpe's Company以降で、それより前はデビッド・トゥルートンが演じている。
出典
- ^ ストローソン(1998) p.26
- ^ トレヴェリアン(1975) p.74
- ^ a b c d e f g h 世界伝記大事典(1980)世界編2巻 p.148
- ^ a b c d e 柘植(1995) p.17
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y Lloyd, Ernest Marsh (1899). Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 60. London: Smith, Elder & Co. p. 170. 2013年1月9日閲覧 . In
- ^ ストローソン(1998) p.34
- ^ "No. 12836". The London Gazette (英語). 6 March 1787. 2013年1月27日閲覧。
- ^ "No. 12958". The London Gazette (英語). 22 January 1788. 2013年1月27日閲覧。
- ^ "No. 13121". The London Gazette (英語). 8 August 1789. 2013年1月27日閲覧。
- ^ "No. 13347". The London Gazette (英語). 27 September 1791. 2013年1月27日閲覧。
- ^ "No. 13488". The London Gazette (英語). 25 December 1792. 2013年1月27日閲覧。
- ^ a b c ストローソン(1998) p.36
- ^ "No. 13542". The London Gazette (英語). 29 June 1793. 2013年1月27日閲覧。
- ^ バーソープ(2001) p.3
- ^ "No. 13596". The London Gazette (英語). 23 November 1793. 2013年1月27日閲覧。
- ^ a b ストローソン(1998) p.47
- ^ ストローソン(1998) p.48
- ^ a b 柘植(1995) p.18
- ^ ストローソン(1998) p.47-48
- ^ a b ストローソン(1998) p.49
- ^ a b ストローソン(1998) p.72
- ^ "No. 13892". The London Gazette (英語). 14 May 1796. 2013年1月27日閲覧。
- ^ ストローソン(1998) p.69
- ^ 浜渦(1999) p.71
- ^ 浜渦(1999) p.70
- ^ a b c d ストローソン(1998) p.95
- ^ a b c ストローソン(1998) p.84
- ^ a b ストローソン(1998) p.85
- ^ "No. 15478". The London Gazette (英語). 8 May 1802. 2013年1月27日閲覧。
- ^ ストローソン(1998) p.112
- ^ a b ストローソン(1998) p.113
- ^ ストローソン(1998) p.113-114
- ^ a b ストローソン(1998) p.118
- ^ a b "No. 15732". The London Gazette (英語). 28 August 1804. 2013年1月27日閲覧。
- ^ 浜渦(1999) p.74
- ^ ストローソン(1998) p.121
- ^ ストローソン(1998) p.109-110
- ^ ストローソン(1998) p.129/136
- ^ ストローソン(1998) p.129
- ^ a b c ストローソン(1998) p.144
- ^ "No. 15908". The London Gazette (英語). 8 April 1806. 2013年1月27日閲覧。
- ^ ストローソン(1998) p.143
- ^ a b "No. 16018". The London Gazette (英語). 11 April 1807. 2013年1月27日閲覧。
- ^ "No. 16142". The London Gazette (英語). 3 May 1808. 2013年1月27日閲覧。
- ^ 松村(2006) p.143
- ^ 松村(2006) p.144
- ^ ストローソン(1998) p.152
- ^ a b 松村(2005) p.146
- ^ ストローソン(1998) p.153-155
- ^ ストローソン(1998) p.155-156
- ^ ストローソン(1998) p.155
- ^ ストローソン(1998) p.156-157
- ^ ストローソン(1998) p.158
- ^ ストローソン(1998) p.159
- ^ a b ストローソン(1998) p.160
- ^ 松村(2006) p.146-147
- ^ ストローソン(1998) p.166/168
- ^ ストローソン(1998) p.173-174
- ^ ストローソン(1998) p.175-176
- ^ "No. 16291". The London Gazette (英語). 22 August 1809. 2013年1月27日閲覧。
- ^ ストローソン(1998) p.176
- ^ ストローソン(1998) p.180/183
- ^ ストローソン(1998) p.180
- ^ ストローソン(1998) p.182-183
- ^ ストローソン(1998) p.183
- ^ a b ストローソン(1998) p.184
- ^ ストローソン(1998) p.186
- ^ a b ストローソン(1998) p.187
- ^ ストローソン(1998) p.188
- ^ ストローソン(1998) p.196
- ^ "No. 16576". The London Gazette (英語). 18 February 1812. 2013年1月27日閲覧。
- ^ ストローソン(1998) p.197
- ^ a b c ストローソン(1998) p.206
- ^ ストローソン(1998) p.208
- ^ a b ストローソン(1998) p.209
- ^ ストローソン(1998) p.207
- ^ ストローソン(1998) p.210
- ^ "No. 16635". The London Gazette (英語). 15 August 1812. 2013年1月27日閲覧。
- ^ a b ストローソン(1998) p.225
- ^ ストローソン(1998) p.216-217
- ^ ストローソン(1998) p.216/229
- ^ "No. 16692". The London Gazette (英語). 12 January 1813. 2013年1月27日閲覧。
- ^ a b "No. 16708". The London Gazette (英語). 2 March 1813. 2013年1月27日閲覧。
- ^ ストローソン(1998) p.230
- ^ ストローソン(1998) p.228
- ^ ストローソン(1998) p.231-232
- ^ a b 松村(2006) p.182
- ^ ストローソン(1998) p.233
- ^ バーソープ(2001) p.4
- ^ ストローソン(1998) p.234
- ^ ストローソン(1998) p.240
- ^ ストローソン(1998) p.242
- ^ ストローソン(1998) p.226
- ^ 本池(1993) p.169-170
- ^ ストローソン(1998) p.238
- ^ a b 本池(1993) p.175-176 引用エラー: 無効な
<ref>
タグ; name "本池(1993)175-176"が異なる内容で複数回定義されています - ^ ストローソン(1998) p.239-240
- ^ ストローソン(1998) p.243-244
- ^ ストローソン(1998) p.243
- ^ 松村(2006) p.191-192
- ^ 松村(2006) p.192
- ^ 本池(1993) p.182-190
- ^ a b c ストローソン(1998) p.245
- ^ 本池(1993) p.191-192
- ^ 松村(2006) p.193-194
- ^ a b 松村(2006) p.194
- ^ "No. 16894". The London Gazette (英語). 3 May 1814. 2013年1月27日閲覧。
- ^ ストローソン(1998) p.252
- ^ a b 本池(1993) p.194
- ^ "No. 16915". The London Gazette (英語). 9 July 1814. 2013年1月27日閲覧。
- ^ ストローソン(1998) p.249
- ^ ストローソン(1998) p.250
- ^ 世界伝記大事典(1980)世界編2巻 p.149
- ^ ストローソン(1998) p.253-254
- ^ ストローソン(1998) p.252-253
- ^ 柘植(1995) p.23-24
- ^ 柘植(1995) p.199-202
- ^ 本池(1993) p.195-202
- ^ ストローソン(1998) p.266
- ^ 本池(1993) p.204
- ^ ストローソン(1998) p.268
- ^ ストローソン(1998) p.269
- ^ 柘植(1995) p.26
- ^ a b c 本池(1993) p.215
- ^ a b c 松村(2006) p.196
- ^ a b ストローソン(1998) p.272
- ^ 松村(2006) p.197
- ^ ストローソン(1998) p.274
- ^ ストローソン(1998) p.274-275
- ^ a b 松村(2006) p.198
- ^ a b 柘植(1995) p.28
- ^ ストローソン(1998) p.276
- ^ a b 柘植(1995) p.29
- ^ 柘植(1995) p.30
- ^ a b c 松村(2006) p.199
- ^ ストローソン(1998) p.282
- ^ a b ストローソン(1998) p.282-283
- ^ a b ストローソン(1998) p.284
- ^ 柘植(1995) p.35
- ^ ストローソン(1998) p.277/285
- ^ 松村(2006) p.199-200
- ^ a b ストローソン(1998) p.285
- ^ ストローソン(1998) p.286
- ^ ストローソン(1998) p.277/286
- ^ a b c d ストローソン(1998) p.287
- ^ 松村(2006) p.200
- ^ ストローソン(1998) p.287-288
- ^ a b 松村(2006) p.201
- ^ ストローソン(1998) p.288
- ^ a b ストローソン(1998) p.306
- ^ ストローソン(1998) p.310
- ^ ストローソン(1998) p.307-308
- ^ a b c d ストローソン(1998) p.311
- ^ "No. 17434". The London Gazette (英語). 26 December 1818. 2013年1月27日閲覧。
- ^ a b ストローソン(1998) p.312
- ^ a b ストローソン(1998) p.321
- ^ a b トレヴェリアン(1975) p.120
- ^ a b 君塚(1999) p.50
- ^ "No. 18327". The London Gazette (英語). 23 January 1827. 2013年1月27日閲覧。
- ^ a b c ストローソン(1998) p.327
- ^ 君塚(1999) p.50-51
- ^ 君塚(1999) p.51
- ^ a b 君塚(1999) p.52
- ^ 君塚(1999) p.52-53
- ^ 君塚(1999) p.53-54
- ^ 君塚(1999) p.55
- ^ a b c d 君塚(1999) p.56
- ^ ストローソン(1998) p.328
- ^ a b c 君塚(1999) p.57
- ^ 君塚(1999) p.57-58
- ^ 君塚(1999) p.58
- ^ 君塚(1999) p.58-59
- ^ a b c d e 君塚(1999) p.63
- ^ 横越(1960) p.122
- ^ 横越(1960) p.124
- ^ 横越(1960) p.149-150
- ^ a b ブレイク(1979) p.46
- ^ 横越(1960) p.124-125
- ^ 君塚(1999) p.62
- ^ 君塚(1999) p.62-63
- ^ 君塚(1999) p.65
- ^ ワイントラウブ(1993) 上巻 p.158
- ^ 君塚(1999) p.68
- ^ a b 君塚(1999) p.69
- ^ ワイントラウブ(1993) 上巻 p.194
- ^ 君塚(1999) p.69-70
- ^ 君塚(1999) p.71
- ^ 君塚(1999) p.72
- ^ 君塚(1999) p.74
- ^ a b ストローソン(1998) p.334
- ^ ストローソン(1998) p.339
- ^ "No. 20130". The London Gazette (英語). 16 August 1842. 2013年1月27日閲覧。
- ^ ストローソン(1998) p.334-335
- ^ ストローソン(1998) p.342
- ^ ストローソン(1998) p.341
- ^ "No. 21381". The London Gazette (英語). 16 November 1852. 2013年1月27日閲覧。
- ^ ストローソン(1998) p.343-344
- ^ ストローソン(1998) p.343
- ^ ストローソン(1998) p.288-289
- ^ ストローソン(1998) p.314
- ^ 柘植(1995) p.42
- ^ ストローソン(1998) p.119
- ^ トレヴェリアン(1975) p.79
- ^ ストローソン(1998) p.197-198
- ^ バーソープ(2001) p.6
- ^ バーソープ(2001) p.8
- ^ バーソープ(2001) p.47
- ^ 世界伝記大事典(1980)世界編2巻 p.149-150
- ^ a b 世界伝記大事典(1980)世界編2巻 p.150
- ^ a b c 朝倉・三浦(1996) p.133
- ^ 柘植(1995) p.24
- ^ “Withdrawn Banknotes Reference Guide: £5 Series D (Pictoral Series)” (英語). Bank of England. 2013年1月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap Doyle, James William Edmund [in 英語], ed. (1886). "WELLINGTON.". The Official Baronage of England: Showing the Succession, Dignities, and Offices of Every Peer from 1066 to 1885 (英語). Vol. 3. London: Longmans. pp. 615–620. 2013年2月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq Cokayne, George Edward [in 英語], ed. (1898). "WELLINGTON.". The Complete Peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain, and the United Kingdom Extant, Extinct, or Dormant (英語). Vol. 8 (1 ed.). London: George Bell & Sons. pp. 80–83. 2013年2月10日閲覧。
- ^ "No. 16972". The London Gazette (英語). 4 January 1815. 2013年2月14日閲覧。
- ^ "No. 16972". The London Gazette (英語). 4 January 1815. 2013年2月14日閲覧。
- ^ "Wellesley; Arthur (1769 - 1852); 1st Duke of Wellington". Record (英語). The Royal Society. 2013年2月14日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i IMDb
- ^ SharpeFilm.com
参考文献
- 朝倉治彦、三浦一郎『世界人物逸話大事典』角川書店、1996年(平成8年)。ISBN 978-4040319001。
- 君塚直隆『イギリス二大政党制への道 後継首相の決定と「長老政治家」』有斐閣、1999年(平成11年)。ISBN 978-4641049697。
- ジョン・ストローソン『公爵(ウエリントン)と皇帝(ナポレオン)』新潮社、1998年(平成10年)。ISBN 978-4105371012。
- 柘植久慶『名将たちの決断』中央公論社〈中公文庫〉、1995年(平成7年)。ISBN 978-4122024694。
- G.M.トレヴェリアン 著、大野真弓 訳『イギリス史 3』みすず書房、1975年(昭和50年)。ISBN 978-4622020370。
- マイケル・バーソープ 著、堀和子 訳『ウェリントンの将軍たち ナポレオン戦争の覇者』新紀元社、2001年(平成13年)。ISBN 978-4105371012。
- 浜渦哲雄『大英帝国インド総督列伝 イギリスはいかにインドを統治したか』中央公論新社、1999年(平成11年)。ISBN 978-4120029370。
- ブレイク男爵 著、早川崇 訳『英国保守党史 ピールからチャーチルまで』労働法令協会、1979年(昭和54年)。ASIN B000J73JSE。
- 松村劭『ナポレオン戦争全史』原書房、2006年(平成18年)。ISBN 978-4562039531。
- 本池立『ナポレオン 革命と戦争』世界書院、1993年(平成5年)。ISBN 978-4792721114。
- 横越英一『近代政党史研究』勁草書房、1960年(昭和35年)。ASIN B000JAPE20。
- スタンリー・ワイントラウブ 著、平岡緑 訳『ヴィクトリア女王〈上〉』中央公論新社、2007年(平成19年)。ISBN 978-4120022340。
- 『世界伝記大事典〈世界編 2〉ウイーオ』ほるぷ出版、1980年(昭和55年)。ASIN B000J7XCOU。
関連項目
外部リンク
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Sir Arthur Wellesley
- "初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
- Arthur Wellesley 1st Duke of Wellington ダウニング街10番地
- Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington (1769-1852) - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
- MEDALLIONS OF THE NAPOLEONIC ERA>Wellington - ナポレオン時代のメダル集の内、ウェリントン公に関するもの
- Acte du Congrès de Vienne du 9 juin 1815 - ウィーン会議議定書。ウェリントン公の名がその全称号とともに記載