「ゾロアスター教」の版間の差分
m r2.7.3) (ロボットによる: tt:Зәрдөштлекを追加 |
|||
(16人の利用者による、間の59版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{特殊文字}} |
{{特殊文字}} |
||
{{Zoroastrianism}} |
{{Zoroastrianism}} |
||
'''ゾロアスター教'''(ゾロアスターきょう、{{Lang-fa|دین زردشت}} {{ipa|Dîn-e Zardošt}}、{{Lang-en|Zoroastrianism}}、{{Lang-de| |
'''ゾロアスター教'''(ゾロアスターきょう、{{Lang-fa|دین زردشت}} {{ipa|Dîn-e Zardošt}}、{{Lang-en|Zoroastrianism}}、{{Lang-de|die Lehre des Zoroaster/Zarathustra}})は、古代[[ペルシア]]を起源の地とする[[善悪二元論]]的な[[宗教]]である。『[[アヴェスター]]』を根本経典とする。 |
||
== 概要 == |
== 概要 == |
||
[[ファイル:Fire altars.jpg|thumb|right|250px|聖火台跡(イラン)]] |
|||
ゾロアスター教は、[[善]]と[[悪]]の[[善悪二元論|二元論]]を特徴とするが、善の勝利と優位が確定されている宗教である。一般に「世界最古の[[一神教]]」と言われることもあるが、これは正しくはない。ゾロアスター教の中では、[[アムシャ・スプンタ]]など多くの神々が登場する。開祖はザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトゥストラ)である。その根本教典より、[[アヴェスター]]の宗教であるともいえ、イラン古代の宗教的伝統の上に立って、ザラスシュトラが合理化したものと考えられる。 |
|||
ゾロアスター教の起源は古く、[[紀元前6世紀]]に[[アケメネス朝ペルシア]]が成立したときには、すでに王家と王国の中枢をなす[[ペルシア人]]のほとんどが信奉する宗教であった<ref name=yamamoto>[[#山本2004|山本(2004)]]</ref>。[[紀元前3世紀]]に成立したアルサケス朝の[[パルティア]]でも[[ヘレニズム]]の影響を強く受けつつ[[アフラ・マズダー]]への信仰は守られ、3世紀初頭に成立した、後続する[[サーサーン朝]]でも[[国教]]とされて[[王権]]支配の正当性を支える重要な柱とみなされた<ref name=yamamoto/>。ゾロアスター教は、活発なペルシア商人の交易活動によって[[中央アジア]]や[[中国]]へも伝播していった。 |
|||
[[7世紀]]後半以降の[[イスラーム]]の台頭とペルシア人の[[ムスリム]]化によってペルシアのゾロアスター教は衰退し、その活動の中心は[[インド]]に移った。[[17世紀]]以降の[[イギリス]]の[[アジア]]進出のなかで、[[イギリス東インド会社]]とインドのゾロアスター教徒とのあいだで関係が深まり、現在、きわめて少数派ながらインド社会で少なからぬ影響力を保持している<ref name=syukyo188>[[#宗教|『もう一度学びたい 世界の宗教』(2005)pp.188-193]]</ref>。 |
|||
光の象徴としての純粋な「火」を尊んだため、'''拝火教'''(はいかきょう)とも呼ばれ、また'''祆教'''(けんきょう)ともいう。他称としてはさらに、[[アフラ・マズダー]]を信仰するところから'''マズダー教'''の呼称がある。ただしアケメネス朝の宗教をゾロアスター教ではないとする立場(たとえば[[エミール・バンヴェニスト]])からすると、ゾロアスター教はマズダー教の一種である。パーシ(パールシー)教徒とも呼ばれる。 |
|||
ゾロアスター教の教義は、[[善]]と[[悪]]の[[善悪二元論|二元論]]を特徴とするが、善の勝利と優位が確定されている宗教である。一般に「世界最古の[[一神教]]」と評されることもあるが、これは正確ではなく、その教義のなかでは[[アムシャ・スプンタ]]など多くの神々が登場する。 |
|||
== 概説 == |
|||
[[File:Fire altars.jpg|thumb|right|220px|聖火台跡(イラン)]] |
|||
[[イラン高原]]北東部に生まれた[[ザラスシュトラ]]は、[[インド・イラン語派]]の信仰を、善と悪との対立を基盤に置いた[[世界観]]を有し、また、きわめて[[倫理]]的な性格をもつ[[宗教]]に改革した。 |
|||
[[ファイル:Persepolis - carved Faravahar.JPG|left|thumb|220px|[[ペルセポリス]]にのこされたプラヴァシの像]] |
|||
ゾロアスター以前の[[インド・イラン語派]]の信仰でも、すでに「三大アフラ」として叡智の神[[アフラ・マズダー]]、火の神[[ミスラ]]、水の神[[ヴァルナ (神)|ヴァルナ]]が存在していた<ref>「(アフラ・マズダーは)『リグ・ヴェーダ』では単に「アスラ(Asura)=主」として知られていたようで、ある詩句では、この二柱(火の神ミスラと水の神ヴァルナ)の下位の「主」は、次のような言葉で語りかけられている。『あなたたち二神は、アスラの超自然的力を通して空に雨を降らせる。…あなたたち二神は、アスラの超自然的力を通して、あなたたちの法を守る。リタ(=自然の法則)を通して宇宙を支配する』(「リグ・ヴェーダ」5:6,3:7)。三柱の「主」は、ともに非常に倫理的な存在で、アシャ(=イランでの自然の法則の呼び名)/リタ(=同インドでの呼び名)を擁護しつつ自らもこれに従う。これらの高度な観念は、原インド・イラン語族が早くも石器時代に発展させたものであり、彼らの子孫の宗教に深く織り込まれている」(『ゾロアスター教』メアリー・ボイス著P.14~15より)</ref>。そのため、単に[[アフラ・マズダー]]または[[ミスラ]]を信仰していることだけでは、ゾロアスター教徒とはならない。[[異教時代]]と呼ばれる過去のイラン人と区別するための判断基準は、ゾロアスター教の[[信仰告白]]である[[フラワラーネ]]にあらわれている。そこでは五つの条件が挙げられている<ref>「私は自ら、マズダーの礼拝者であり、ゾロアスターの信奉者であり、ダエーワ(好戦的で不道徳な神)を拒否し、アフラの教義を受け入れることを告白します。アムシャ・スプンタ(=「聖なる不死者」の意味。特にアフラ・マズダーが創造した六つ偉大な存在を指すことが多い)を礼拝します。善にして宝にみちたアフラ・マズダーに、すべての良きものを帰させます」(ヤスナ12:1。メアリー・ボイス著『ゾロアスター教』P.50-52参照)</ref>。すなわち |
|||
開祖は[[ザラスシュトラ]](ゾロアスター、ツァラトゥストラ)とされる。[[経典宗教]]の特徴を有し、その根本教典より「[[アヴェスター]]の宗教」ともいえる。そうしたイラン古代の宗教的伝統の上に立って、教義の合理化・体系化を図った人がザラスシュトラであるとも考えられる。 |
|||
# アフラ・マズダーを礼拝すること |
|||
# ゾロアスターの信奉者であること |
|||
# 好戦的で不道徳な神[[ダエーワ]]と敵対すること |
|||
# アフラ・マズダーが創造した偉大な六つの存在[[アムシャ・スプンタ]]を礼拝すること |
|||
# すべての善をアフラ・マズダーに帰すること |
|||
である。 |
|||
ゾロアスター教は[[光]](善)の象徴としての純粋な「[[火]]」を尊ぶため、'''拝火教'''(はいかきょう)とも呼ばれる。ゾロアスター教の全[[寺院]]には、ザラスシュトラが点火したといわれる火が絶えることなく燃え続けており、寺院内には[[偶像]]はなく、信者は炎に向かって礼拝する<ref name=syukyo188/>。中国では'''祆教'''(けんきょう)とも筆写され、[[唐]]代には「[[唐代三夷教|三夷教]]」の一つとして隆盛した。他称としてはさらに、[[アフラ・マズダー]]を信仰するところから'''マズダー教'''の呼称がある。ただし、[[アケメネス朝]]の[[宗教]]を「ゾロアスター教」とは呼べないという立場(たとえば[[エミール・バンヴェニスト]])からすると、ゾロアスター教はマズダー教の一種である。また、この宗教がペルシア起源であることから、[[インド亜大陸]]では「ペルシア」を意味する「パーシー(パースィー、パールシー)」の語を用いて、'''パーシー教'''ないし'''パールシー教'''とも称される。 |
|||
上記の五つに加えてさらに、[[アフラ・マズダー]]を、[[創造主]]ととらえたことが、従来のインド・イランの信仰と著しく異なる点である<ref>「ここでは(ゾロアスター教徒の信仰告白の中では)、アフラ・マズダーは創造主として尊ばれているが、彼が、異教時代のイラン人にとってもそうみなされていたとは考えられない。なぜなら、もし彼ら(=異教時代のイラン人)が、どれか一つの神に創造的な活動を属させるとするならば、その神は(アフラ・マズダー、ミスラ、ヴァルナの三大アフラの中で)むしろ下位のアフラで、多分遠く離れて在る「叡智の主」の命令を実行する神であったヴァルナであったろうから。これは、おそらくゾロアスターの教義の中でもきわだった特徴の一つであった」(『ゾロアスター教』メアリー・ボイス著P.52)</ref>。 |
|||
今日、世界におけるゾロアスター教の信者は約10万人と推計されている<ref name=syukyo188/>。インドやイラン、その他、欧米圏にも信者が存在するが、それぞれの地域で少数派の地位にとどまっている。 |
|||
=== 善と悪の対立 === |
|||
[[スピターマ]]の一族に属する[[ザラスシュトラ]]の思想は、バルフの小君主であったウィシュタースパ王の[[宮廷]]で受容されて発展した<ref name=yumi/>。ザラスシュトラは、アフラ・マズダーの使者であり[[預言者]]としてこの世に登場し、善悪二元論的な争いの世界であるこの[[世界]]の真理を解き明かすことを使命としている。 |
|||
=== 開祖 === |
|||
ザラスシュトラは、最初に2つの対立する霊があり、両者が相互の存在に気づいたとき、善の霊(知恵の主[[アフラ・マズダー]])が[[生命]]、[[真理]]などを選び、それに対してもう一方の対立霊([[アンラ・マンユ]])は[[死]]や虚偽を選んだと唱えた<ref name=yumi>山本(2006)</ref> 。 |
|||
{{main|ザラスシュトラ}} |
|||
[[ファイル:Zarathustra.jpg|right|thumb|120px|ザラスシュトラの肖像(3世紀)]] |
|||
世界最古の[[預言者]]といわれるザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトストラ)は、[[紀元前1600年]]頃から[[紀元前1000年]]頃にかけて生きた人といわれるが、その生涯の詳細についてはよくわかっていない。しばしば、ゾロアスター教の創始者といわれ、「ゾロアスター教」の呼称も彼の名に由来するが、その活動には今なお不明なところが多い<ref name=syukyo188/><ref name=kawase>[[#川瀬|川瀬(2002)pp.58-59]]</ref>。 |
|||
かれによれば、知恵の主アフラ・マズダーは、戦いが避けられないことを悟り、戦いの場とその担い手とするためにこの世界を創造した。その創造は[[天]]、[[水]]、[[大地]]、[[植物]]、[[動物]]、[[人間]]、[[火]]の7段階からなった。それぞれの創造物はアフラ・マズダーの7つの倫理的側面により、特別に守護された<ref name=yumi/>。それに対してアンラ・マンユは大地を砂漠に、大海を塩水にし、植物を枯らして人間や動物を殺し、火を汚すという物理的な攻撃を加えた。しかしアフラ・マズダーは世界を浄化し、動物や人間を増やすなど、不断の努力でアンラ・マンユのまき散らす衰退や邪悪を善きものに変えて行った。 |
|||
ゾロアスター教発祥の地と信じられているのが、古代バルフ(Balkh、[[ダリー語]]・[[ペルシア語]]:{{Lang|fa|بلخ}} Balkh)の地である。[[バルフ]]は現在の[[アフガニスタン]]北部に所在し、ゾロアスター教の信徒にとっては、ザラスシュトラが埋葬された地として神聖視されてきた。 |
|||
[[File:Saint Augustine of Hippo.jpg|thumb|right|150px|『[[神の国]]』を著した教父アウグスティヌス]] |
|||
創造された「この世界」を舞台とした二つの勢力の戦いが、[[歴史]]であるという把握は、キリスト教の初期の[[神学者]]である[[アウグスティヌス]]の[[歴史観]]に先行する世界史観とも言える。 |
|||
=== 儀式 === |
|||
こうして善と悪が争うが、最終的には善が勝利するとされている。世界の歴史は『創造』『混合』『分離』の三期に分かれ、今は混合の時代である。アフラ・マズダーによる創造(ブンダヒシュン)後の「創造」の時代は完璧な世界であったが、アンラ・マンユの攻撃後は「混合」(グメーズィシュン)の時代に入り、善悪が入り混じり闘争する時代になる。人間は人生においてこの戦いに否応なく参加することになり、アフラ・マズダーやアムシャ・スプンタを崇拝して悪徳を自らの中から追い出し、善が勝つように神々と共に悪に打ち勝つ努力をしなければならない。死後、楽土へ向かう「選別者の橋」でミスラの審判を受けて善行を積んできたものは楽土へ渡ることができ、一方悪を選んだものは橋から落ちて地獄に向かうことになる。そうして未来、「治癒」(フラショー・クルティ、フラシェギルド)と呼ばれる善の勝利と歴史の[[終末]]が起こり、以後の「分離」(ウィザーリシュン)の時代には悪と善は完全に分離し、アンラ・マンユと悪を選んだものたちは消滅し、世界は再び完璧なものとなり、その時代は永遠に続く。 |
|||
{{See also|ナオジョテ}} |
|||
ゾロアスター教の[[儀式]]のなかで最も重要とされるのが[[ジャシャン]]の儀式である。これは、「感謝の儀式」とも呼ばれ、物質的ないし精神的世界に[[平和]]と[[秩序]]をもたらすものと考えられている<ref name=syukyo188/>。ゾロアスター教徒は、この儀式に参加することによって生きていることの感謝の意を表し、儀式のなかでも感謝の念を捧げる<ref name=syukyo188/>。ゾロアスター教の[[祭司]]は、[[白衣]]をまとい、伝統的な[[帽子]]をかぶって、さらに、聖火を汚さぬよう白い[[マスク]]をして儀式に臨む<ref name=syukyo188/>。ここでは清浄さがあくまでも求められるのである。 |
|||
また、ゾロアスター教への[[入信]]の儀式が[[ナオジョテ]](ナヴヨテ)である。ナオジョテがおこなわるのは7歳から12歳ころまでにかけてで、儀式では、入信者は[[純潔]]と新生の象徴である白い[[糸]](クスティ)と神聖な[[肌着]](スドラ)を身につけ、教義と道徳とを守ることを誓願する<ref name=syukyo188/>。 |
|||
こうした世界観はペルシャからメソポタミアにも広がり、たとえば虜囚期のユダヤ教へも影響を与えた<ref>たとえばメアリー・ボイスによれば、アケメネス朝のキュロス王が、ユダヤ教を含む他宗教に寛容な政策をとったことで、「ユダヤ人はこの後もペルシア人に好感を持ち続け、ゾロアスター教の影響を一層受容しやすくなった」という(『ゾロアスター教』1983。P.74)。ただし、メアリー・ボイスがその著書の中で前提としている条件には、次のいくつかのことがある。ゾロアスターの出生が紀元前1500年から1200年の間であること(P.4)。ユダヤ人を前536年に解放したキュロス王がゾロアスター教の信仰を持っていたということ。また、この時点ですでに救済者の思想がゾロアスター教の中で成立していた、ということである(以上P.72-76)。だが、これらの前提条件に対しては意見が分かれるところでもある。</ref>。ユダヤ教を母体とした[[キリスト教]]もこれらを継承していると言われる。さらに、ペルシャ高原東部では大乗[[仏教]]において[[弥勒菩薩|弥勒]]信仰と結びついたり、また[[マニ教]]もゾロアスター教の思想を吸収した<ref>こうした影響に関する最新の論文としてWerner Sundermann, 2008, Zoroastrian Motifs in Non-Zoroastrian Traditions, ''Journal of the Royal Asiatic Society '' vol.18, Iss.2, pp. 155-165を参照。</ref>。[[イスラム教]]もまたマニ教と並んで、ユダヤ教やキリスト教を通じてゾロアスター教の影響も受けており、聖クルアーンにもゾロアスター教徒の名が登場する。 |
|||
=== 守護霊 === |
|||
=== アケメネス朝からサーサーン朝まで === |
|||
[[ファイル:Faravahar-Gold.svg|right|thumb|200px|ゾロアスター教の[[守護霊]]プラヴァシ]] |
|||
他宗教への影響と同様に、[[政治]]に対してゾロアスター教がどれほど影響をもっていたかも研究者により意見が分かれる。宗教と政治への影響力は互いに関連性があるため、他宗教に影響が大きいと考える研究者ほど、政治的影響も強かったと考える傾向にある。研究者によっては歴代王朝の支配下でゾロアスター教は「[[国教]]」であったと見なす場合もあるが、見解は統一されていない。 |
|||
ゾロアスター教の[[守護霊]]は、「[[フラワシ|プラヴァシ]]」と呼ばれている<ref name=syukyo188/>。プラヴァシは[[善]]をあらわし、また、この世の森羅万象に宿り、あらゆる自然現象を起こす霊的存在として、ゾロアスター教における神の神髄をあらわしていると考えられており、善のために働き、助けを求めている人を救うであろうと信じられている<ref name=syukyo188/>。 |
|||
=== 礼拝 === |
|||
ゾロアスター教の[[礼拝]]は、「火の寺院」と称される礼拝所でおこなわれる。[[寺院]]は信者以外は立入禁止となっており、信者は礼拝所に入る前、[[手]]と[[顔]]を清め、[[クスティ]]と呼ばれる祈りの儀式をおこなう[[習慣|習わし]]となっている。クスティののち[[履物]]を脱いで建物に入り聖火の前に進んで、その[[灰]]を自分の顔に塗って聖なる火に対して礼拝を捧げるのである<ref name=syukyo188/>。 |
|||
=== 葬送 === |
|||
[[ファイル:Zoroastrians' Tower of Silence.jpg|thumb|200px|[[ヤズド]](イラン)の沈黙の塔]] |
|||
ゾロアスター教の葬送は、[[鳥葬]]ないし[[風葬]]であり、世界的にみて特異な[[風習]]のひとつと考えられている<ref name=syukyo188/>。この葬送は、[[遺体]]を[[棺]]などに埋納せずに[[野原]]などに放置し、[[風化]]ないし、[[鳥]]がついばむなど自然に任せるというもので、そのための[[施設]]が設けられることもある<ref name=syukyo188/>。この施設は「[[沈黙の塔]]」(ダフマ)と呼ばれ、[[屋根]]を設けず、石板の上に死者の遺体を置き、上空から鳥が降下して死体をついばむことのできる構造の建物となっている<ref name=syukyo188/>。ゾロアスター教の教義によれば、人間はその肉体もアフラ・マズダーはじめとする善神群の守護のもとにあるのだから、清浄な創造物である遺体に対して不浄がもたらされることのないよう、鳥葬ないし風葬がなされると説明されている<ref name=syukyo188/>。 |
|||
== 教義と経典 == |
|||
ゾロアスター教の聖典とされるのが『[[アヴェスター]]』である。サーサーン朝期に編纂されたと考えられる『アヴェスター』は、ザラスシュトラの言葉と彼の死後に叙述された部分とによって構成され、全部で21巻あるとされ、約4分の1が現存している<ref name=syukyo188/><ref name=kawase/>。 |
|||
ゾロアスター教の教義の最大の特色は、[[善悪二元論]]と[[終末論]]である<ref name=syukyo188/>。経典『アヴェスター』によれば、世界は至高神であるアフラ・マズダー、およびそれに率いられる善神群([[アムシャ・スプンタ]])と大魔王[[アンラ・マンユ]](アフリマン)および悪神群の両勢力が対峙し、たがいに争う場であり、[[生命]]・[[光]]と[[死]]・[[闇]]との闘争であるとされる<ref name=syukyo188/>。なお、ゾロアスター教の影響を受けた[[マニ教]]は、やはり徹底した二元論的教義を有しており、宇宙は光と闇、善と悪、[[精神]]と[[物質]]のそれぞれ2つの[[原理]]の対立にもとづいており、光・善・精神と闇・悪・肉体の2項がそれぞれ画然と分けられていた始原の[[宇宙]]への回帰と、マニ教独自の[[救済]]とを教義の核心としている<ref name=kamioka>[[#上岡|上岡(1988)pp.140-141]]</ref><ref name=kato>[[#加藤|加藤「マニ教」(2004)]]</ref>。 |
|||
=== 善悪二元論とゾロアスター教の神々 === |
|||
ザラスシュトラによれば、最初に2つの対立する[[霊]]があり、両者が相互の存在に気づいたとき、善の霊(知恵の主[[アフラ・マズダー]])が[[生命]]、[[真理]]などを選び、それに対してもう一方の対立霊([[アンラ・マンユ]])は[[死]]や虚偽を選んだ<ref name=yumi>[[#山本2006|山本(2006)]]</ref>。これにより、善悪2神の抗争の場である、この世界がかたちづくられた。 |
|||
==== アフラ・マズダーと善神群 ==== |
|||
{{main|アフラ・マズダー|アムシャ・スプンタ}} |
|||
[[ファイル:Naqsh i Rustam. Investiture d'Ardashir 1.jpg|thumb|right|220px|アフラ・マズダー(右)より王権の象徴を授受されるサーサーン朝の[[アルダシール1世]](左)のレリーフ(ナグシェ・ロスタム)]] |
|||
アフラ・マズダーは、ゾロアスター教の主神で、みずからの属性を7つのアムシャ・スプンタ(七大天使、不滅なる利益者たち)という神々として実体化させ、[[天空]]、[[水]]、[[大地]]、[[植物]]、[[動物]]、[[人]]、[[火]]の順番で創成した、世界の[[創造神|創造者]]である<ref name=syukyo188/>。 |
|||
アフラ・マズダーを補佐する善神(アムシャ・スプンタ)としては、次の7神がある。 |
|||
* [[スプンタ・マンユ]] : 「[[聖霊]]」を意味する人類の守護神で、アフラ・マズダーと同一視されることもある<ref name=syukyo188/>。 |
|||
* [[ウォフ・マナフ]] : 「善なる[[意思]]」を意味し、動物界の統治者でアフラ・マズダーのことばを人類に伝達する役割をになっている。常に人間の行為を記録しており、やがて訪れる「[[最後の審判]]」でその記録を詠みあげるとされる<ref name=syukyo188/>。 |
|||
* [[アシャ・ワヒシュタ]](アシャ) : 「宇宙を正しく秩序づける正義」に由来し、[[天体]]の運行や[[季節]]の移り変わりをつかさどる。「聖なる火」の守護神。虚偽の悪魔ドゥルジに対峙する<ref name=syukyo188/>。 |
|||
* [[アールマティ]] : 代表的な[[女神]](女性天使)。「献身」「敬虔」の名の通り、宗教的調和や[[信仰心]]の強さ、さらに信仰そのものを顕現する。大地の守護神となっており、「背教」と「推測」の悪魔タローマティと対立する<ref name=syukyo188/>。 |
|||
* [[フシャスラ・ワルヤ|クシャスラ]](フシャスラ・ワルヤ) : 「理想的な[[領土]]ないし[[統治]]」に由来し、「天の[[王権]]」を象徴する。アフラ・マズダーによる「善の[[王国]]」建設のために尽力する。[[金属]]ないし[[鉱物]]の守護神<ref name=syukyo188/>。 |
|||
* [[ハルワタート]] : 「[[完璧]]」を意味する女性の大天使。アムルタートとは密接不可分とされる。水の守護神<ref name=syukyo188/>。 |
|||
* [[アムルタート]] : 主神アフラ・マズダーの子で、名は「[[不死]]」に由る。植物の守護天使で、ハルワタートと力を合わせて地上に[[降雨]]をもたらす<ref name=syukyo188/>。 |
|||
また、善神の象徴は炎とされ、そこから火の崇拝が生まれている。 |
|||
==== アンラ・マンユと悪神群 ==== |
|||
[[ファイル:Asmodaeus.png|right|thumb|140px|『[[旧約聖書]]』に登場する悪魔[[アスモデウス]] |
|||
---- |
|||
悪神[[アエーシュマ]]の影響で成立したと考えられる。]] |
|||
善神と対峙する悪魔は、以下の通りである。 |
|||
* [[アンラ・マンユ]] : ゾロアスター教における大魔王である。虚偽、狂気、凶暴、[[病気]]など、あらゆる悪や害毒を創造する<ref name=syukyo188/>。 |
|||
* [[アエーシュマ]] : 怒りと欲望を司り、人間を悪行にいざなう。天使[[スラオシャ]]とは対立関係にある<ref name=syukyo188/><ref group="注釈">アエーシュマは、『[[旧約聖書]]』に登場する[[アスモデウス]]の前身とも考えられている。</ref>。 |
|||
* [[アジ・ダハーカ]] : 3頭3口を有し、口からは毒を吐き出す。残忍でずる賢く、地上にあっては人間の姿をして善人をそそのかす悪魔である<ref name=syukyo188/>。 |
|||
* [[ジャヒー]] : 女悪魔で[[売春婦]]の支配者。婦人に[[月経]]の苦しみをあたえたとされる<ref name=syukyo188/>。 |
|||
* [[タローマティ]] : [[アヴェスター語]]で「背教」を意味する。女性天使アールマティと対立関係にある<ref name=syukyo188/>。 |
|||
* [[ドゥルジ]] : [[疫病]]をもたらす女の悪魔。天体運行をになうアシャとは対立関係にある<ref name=syukyo188/>。 |
|||
* [[バリガー]] : 女悪魔の総称。ドゥルズーヤー、クナンサティー、ムーシュは、そのなかでも「三大バリガー」として恐怖の対象となった<ref name=syukyo188/>。 |
|||
==== その他の神々 ==== |
|||
その他の神々としては、 |
|||
* [[ウルスラグナ]] : 戦いの女神。邪悪な者や虚偽を語る者に[[罰]]をあたえ、自らを崇拝する者には[[勝利]]をあたえるという。サーサーン朝時代に特に崇拝された<ref name=syukyo188/>。 |
|||
* [[アナーヒター]] : 美しい水の女神。白くて強い[[腕]]をもつ。家畜や収穫に恵みをあたえ、[[国家]]の富強と[[子孫]]の繁栄をもたらす<ref name=syukyo188/>。 |
|||
* [[サオシュヤント]] : 「救世主」。厳密には神格をもたない。世界の終末にあらわれると信じられている<ref name=syukyo188/>。 |
|||
* [[ティシュトリヤ]] : ペルシア神話では[[雨]]と豊穣をもたらす神であったが、ゾロアスター教では下級の天使[[ヤザダ]]に降格された。[[干魃]]をもたらす悪魔アバオシャと対立<ref name=syukyo188/>。 |
|||
* [[ミスラ]] : 「契約」の神。正義の[[天秤]]をもち、死者の魂を天国に導くか地獄におとすのかを決める<ref name=syukyo188/>。 |
|||
* [[ワユ]] : 風の神。 |
|||
などがある<ref name=syukyo188/>。 |
|||
=== 終末論と三徳 === |
|||
[[ファイル:Zoroastrisme4.JPG|right|thumb|200px|多くの宗教の成立に影響をあたえたゾロアスター教]] |
|||
ゾロアスター教の歴史観では、世界は「創造(ブンダヒシュン)」「混合(グメーズィシュン)」「分離(ウィザーリシュン)」の3期に分かれ、現在は「混合の時代」とされる。アフラ・マズダーによる「創造」によって始まった「創造の時代」は完璧な世界であったが、アンラ・マンユの攻撃後は「混合の時代」に入り、善悪が入り混じって互いに闘争する時代となる。 |
|||
ゾロアスター教では、善神群と悪神たちとの闘争ののち、[[最後の審判]]で善の勢力が勝利すると考えられており、その後、新しい理想世界への転生が説かれている<ref name=syukyo188/>。そして、そのなかで人は、生涯において善思、善語、善行の3つの[[徳]](三徳)の実践を求められている。人はその実践に応じて、臨終に裁きを受けて、死後は[[天国]]か[[地獄]]のいずれかへか旅立つと信じられた<ref name=syukyo188/>。この[[来世]]観は、のちの後期ユダヤ教やキリスト教、さらには[[イスラーム]]へも引き継がれた。 |
|||
世界の終末には総審判(「最後の審判」)がなされる。そこでは、死者も生者も改めて選別され、すべての悪が滅したのちの新世界で、最後の[[救世主]]によって永遠の生命をあたえられる<ref name=syukyo188/>。こうした、最後の審判や救世主の登場などの教義もまた、数多くの宗教に引き継がれたのである。 |
|||
=== 自然崇拝的要素 === |
|||
ゾロアスター教は、古代のアーリア人が古くから信仰してきた[[自然崇拝]]の宗教を母体としていると考えられ、また、それを体系化していったのがザラスシュトラであると考えられる<ref name=iwamura131>[[#岩村|吉村(1975)pp.131-1357]]</ref>。古代アーリア人の天の神ヴァルナの信仰は、ザラスシュトラらによって道徳的意味を付与されアフラ・マズダーという宇宙創造の至高神の地位をあたえられた<ref name=iwamura131/>。ゾロアスター教においては、火のみならず、水、空気、土もまた神聖なものととらえられている<ref name=iwamura131/> |
|||
=== 聖典『アヴェスター』 === |
|||
{{main|アヴェスター}} |
|||
ゾロアスター教の[[啓典]]である『[[アヴェスター]]』は、従前からの[[口承]]や[[伝承]]をもとに[[サーサーン朝]]の時代に編纂されたものとみられている<ref name=kawase/>。 |
|||
[[ファイル:Bodleian J2 fol 175 Y 28 1.jpg|thumb|300px|right|『[[アヴェスター]]』ヤスナ28章「ガーサー」]] |
|||
『アヴェスター』は、 |
|||
# 「{{仮リンク|ヤスナ|en|Yasna}}」 : 大祭儀で読唱される神事書・祭儀書。全72章。 |
|||
# 「{{仮リンク|ウィスプ・ラト|en|Visperad}}」 : ヤスナの補遺。小祭儀書。 |
|||
# 「{{仮リンク|ヴェンディダード|en|Vendidad|label=ウィーデーウ・ダード}}」 : 除魔書。 |
|||
# 「{{仮リンク|ヤシュト|en|Yasht}}」 : 神頒歌 |
|||
# 「{{仮リンク|ホゥワルタク・アパスターク|en|Xvartak Apastāk|label=クワルタク・アパスターク}}」 : 小賛歌・小祈祷書 |
|||
# その他逸文 |
|||
のみが現存している<ref name=kawase/>。 |
|||
以上のうち「ヤスナ」72章のうち17章は「{{仮リンク|ガーサー|en|Gathas}}」と呼ばれ、ザラスシュトラ自作の[[韻文]]と信じられており、現存する啓典のうち最古期の成立である<ref name=kawase/>。 |
|||
『アヴェスター』は、アケメネス朝時代の{{仮リンク|古代ペルシア語|en|Old Persian}}とは異なる言語([[ガーサー語]], [[アヴェスター語|古代アヴェスター語]])によって、1,200枚の[[牛]]の皮に筆録されていたという<ref name=iwamura131/>。大部分がアケメネス朝滅亡の際にいったん失われ、のちのパルティアの時代とサーサーン朝の時代に補修と復元が試みられた。3世紀のサーサーン朝時代、当時の中世ペルシア語([[パフラヴィー語]])への翻訳がなされ、以後、正典として『ゼンダ・アヴェスタ』と称された<ref name=iwamura131/> |
|||
『アヴェスター』は、イスラーム時代にその約4分の3が失われたと伝えられており、教義の詳細や教団組織の全容を解明することはなかなかの難事である<ref name=kawase/>。ただし、「ガーサー」に示された「最後の審判」「天国と地獄」などの終末論的世界観が、後期ユダヤ教やキリスト教に影響をあたえたことは確かであり、さらに、死者にとって最後の[[結界]]の場である「[[チンワト橋]]」を教義のなかで設定していることは、[[仏教]]における「[[転生]]」」思想の形成プロセスを考慮するうえでも非常に示唆に富むできごとといえる<ref name=kawase/>。 |
|||
また、[[古代メソポタミア]]や[[古代エジプト]]、[[古代ギリシャ]]の信仰が失われてしまっている今日、ゾロアスター教は[[ヒンドゥー教]]とともに現存する世界最古の体系的宗教、経典宗教だということができる<ref name=iwamura131/> |
|||
== 歴史 == |
|||
[[ファイル:Fire in Yazd Zoroastrian temple.jpg|right|thumb|140px|[[ヤズド]](イラン)のゾロアスター神殿における拝火壇]] |
|||
ゾロアスター教の開祖といわれるザラスシュトラの活動やゾロアスター教の成立に関しては、今なお不明なところが少なくない<ref name=kawase>[[#川瀬|川瀬(2002)pp.58-59]]</ref>。[[イラン高原]]北東部に生まれたザラスシュトラは、従来[[インド・イラン語派]]のなかで信じられてきた信仰に、善と悪との対立を基盤に置いた[[世界観]]を提供し、また、きわめて[[倫理]]的な性格をもつ[[宗教]]に改革したといわれる。 |
|||
ザラスシュトラ以前の[[アーリア人]](インド・イラン語派)の信仰においても、すでに「三大アフラ」として叡智の神[[アフラ・マズダー]]、火の神[[ミスラ]]、水の神[[ヴァルナ (神)|ヴァルナ]]が存在していた<ref group="注釈">ゾロアスター教の至高神アフラ・マズダーは、バラモン教の経典『リグ・ヴェーダ』では単に「アスラ(Asura)=主」として記された神であり、『リグ・ヴェーダ』のある詩句では、この二柱(火の神ミスラと水の神ヴァルナ)の下位の「主」は、次のような言葉で語りかけられている。「''あなたたち二神は、アスラの超自然的力を通して空に雨を降らせる。…あなたたち二神は、アスラの超自然的力を通して、あなたたちの法を守る。リタ(=自然の法則)を通して宇宙を支配する''」(『リグ・ヴェーダ』5:6,3:7)。メアリー・ボイスによれば、アフラ・マズダー(アスラ)、ミスラ、ヴァルナの三柱の「主」は、いずれもきわめて倫理的な存在であり、「自然法則」(イランではアシャ、インドではリタ、と称する)を擁護しつつ、みずからもこれに従う。こういった高度な観念は、原インド・イラン語族が早くも[[石器時代]]に発展させたものと考えられ、その末裔の宗教に深く織り込まれていると考えられる。[[#ボイス|ボイス(1983)pp.14-15]]</ref>。そのため、単に[[アフラ・マズダー]]または[[ミスラ]]を信仰しているというだけでは、厳密にいえば、ゾロアスター教徒とはいえない。 |
|||
「[[異教時代]]」と呼ばれる過去のイラン人と区別するための判断基準は、ゾロアスター教の[[信仰告白]]である[[フラワラーネ]]にあらわれている。そこでは5つの条件が挙げられている<ref group="注釈">ヤスナに記されたフラワラーネは「''私は自ら、マズダーの礼拝者であり、ゾロアスターの信奉者であり、ダエーワを拒否し、アフラの教義を受け入れることを告白します。アムシャ・スプンタを礼拝します。善にして宝にみちたアフラ・マズダーに、すべての良きものを帰させます''」というものである。[[#ボイス|ボイス(1983)pp.50-52。原出典は『アヴェスター』「ヤスナ」12:1]]</ref>。すなわち、 |
|||
# アフラ・マズダーを礼拝すること。 |
|||
# ゾロアスターの信奉者であること。 |
|||
# 好戦的で不道徳な神[[ダエーワ]]と敵対すること。 |
|||
# アフラ・マズダーが創造した偉大な7つ(ないし6つ)の存在[[アムシャ・スプンタ]](「聖なる不死者」)を礼拝すること。 |
|||
# すべての善をアフラ・マズダーに帰すること。 |
|||
である。 |
|||
この5つに加えてさらに、[[アフラ・マズダー]]を、[[創造主]]ととらえたことが、従来のインド・イランの信仰と著しく異なる点である<ref group="注釈">メアリー・ボイスによれば、ゾロアスター教徒の信仰告白においては、アフラ・マズダーは創造主として尊ばれているが、異教時代のイラン人にとって創造主とみなされていたとは考えられない、という。何となれば、もし異教時代のイラン人が、どれか1つの神に創造的な活動を担わせようとするならば、その神は、アフラ・マズダー、ミスラ、ヴァルナの3大アフラのなかでむしろ下位のアフラで、おそらくは最も遠く離れてある「叡智の主」の命令を実行する神ヴァルナであったろうというのがボイスの見解である。さらに、このことがゾロアスターの教義のなかでもきわだった特徴のひとつであったとも指摘している。[[#ボイス|ボイス(1983)p.52]]</ref>。 |
|||
ゾロアスター教は、[[紀元前1千年紀]]の前半、イラン東部からアフガニスタンを含む[[中央アジア]]の西部で成立し、その後、アケメネス朝の時代には[[イラン高原]]にも浸透するようになっていたものと推測される<ref name=kawase/>。ゾロアスター教においては、[[世界]]は、[[光明]]をつかさどる善神のアフラ・マズダーと[[闇]]の世界を支配する悪神[[アンラ・マンユ]]の闘争の場と見なされ、[[火]]はアフラ・マズダーの象徴として特に重視された<ref name=kawase/>。 |
|||
=== 教義の成立 === |
|||
[[スピターマ]]の一族に属するザラスシュトラの思想は、バルフ(現アフガニスタン)の小君主ウィシュタースパ王の[[宮廷]]で受容されて発展した<ref name=yumi/>。ザラスシュトラは、アフラ・マズダーの使者であり、[[神]]の啓示を伝える[[預言者]]としてこの世に登場し、善悪二神の争いの場であるこの世界の[[真理]]を解き明かすことを[[使命]]としていることを主張した。上述のようにザラスシュトラは、最初に2つの対立する霊があり、両者がたがいの存在に気づいたとき、善の霊[[アフラ・マズダー]]は[[生命]]と[[真理]]を選び、対立霊[[アンラ・マンユ]]は[[死]]や虚偽を選んだと説いた<ref name=yumi/>。 |
|||
[[ファイル:Saint Augustine of Hippo.jpg|thumb|right|140px|『[[神の国]]』を著した教父アウグスティヌス]] |
|||
かれによれば、知恵の主アフラ・マズダーは、戦いが避けられないことを悟り、戦いの場とその担い手とするためにこの世界を創造した。その創造は天、水、大地、植物、動物、人間、火の7段階からなった。それぞれの被造物はアフラ・マズダーの7つの倫理的側面により、特別に守護された<ref name=yumi/>。それに対してアンラ・マンユは大地を[[砂漠]]に、大海を[[塩水]]にし、植物を枯らして人間や動物を殺し、火を汚すという物理的な攻撃を加えた。しかしアフラ・マズダーは世界を浄化し、動物や人間を増やすなど、不断の努力でアンラ・マンユのまき散らす衰亡・邪悪・汚染などの害悪を、善きものに変えていった。このように、ザラスシュトラは、[[歴史]]とは創造された「この世界」を舞台とした2つの勢力の戦いであるという理解を示しており、このような歴史把握は、初期[[キリスト教]]の[[神学者]]である[[アウグスティヌス]]の唱えた「[[神の国]]論」に先がけた歴史観といえる。 |
|||
善悪の抗争では最終的には善が勝利すると信じられる。上述のように、ゾロアスター教によれば歴史は「創造」「混合」「分離」の3期に分かれ、現在は「混合の時代」である。創造神アフラ・マズダーの「創造」によって始まった時代(「創造の時代」)は完璧な世界だったが、悪神たちの攻撃後「混合の時代」に入り、善悪が入り混じって互いに闘争する時代となる。ここにあっては、すべての人間は人生においてこの戦いに否応なく参加することになり、アフラ・マズダーやアムシャ・スプンタを崇拝して[[悪徳]]を自らの中から追い出し、善が勝つように神々とともに悪に打ち克つ努力をしなければならない。死後、楽土へ向かう「チンワト橋(選別者の橋)」でミスラの審判を受けて善行を積んできたものは楽土(天国)へ渡ることができ、一方、悪を選んだものは橋から落ちて地獄に向かう。そして将来的には「治癒」(フラショー・クルティ、フラシェギルド)と呼ばれる善の勝利と歴史の終末が起こり、それ以後の「分離の時代」には悪と善は完全に分離し、アンラ・マンユと悪を選んだ者たちは消滅し、世界は再び完璧で理想的なものとなって、「分離の時代」は永遠に続くと考えられた。 |
|||
こうした世界観は、ペルシャから[[メソポタミア]]にも広がり、たとえば[[バビロン捕囚]]期の[[ユダヤ教]]へも影響を与えた<ref group="注釈">メアリー・ボイスによれば、アケメネス朝のキュロス王が、ユダヤ教を含む他宗教に寛容な政策をとったことで、「ユダヤ人はこの後もペルシア人に好感を持ち続け、ゾロアスター教の影響を一層受容しやすくなった」という。[[#ボイス|ボイス(1983)p.74]]。ただし、ボイスがその著書の中で前提としている条件としては、次のいくつかのことがある。ゾロアスターの出生が紀元前1500年から1200年の間であること、ユダヤ人を[[紀元前536年]]に解放したキュロス王がゾロアスター教の信仰を有していたということ。また、この時点ですでに救済者の思想がゾロアスター教の中で成立していた、ということである。[[#ボイス|ボイス(1983)p.4およびpp.72-76]]。ただし、こうしたボイスの掲げる前提条件は、見解の相違するところでもある。</ref>。ユダヤ教を母体とした[[キリスト教]]もこれらを継承しているといわれる。さらに、ペルシャ高原東部では[[大乗仏教]]の伝播にともない[[弥勒菩薩]]への信仰と結びつき、マニ教もまたゾロアスター教の影響を強く受けた<ref group="注釈">こうした影響に関する最新の論文としてWerner Sundermann, 2008, Zoroastrian Motifs in Non-Zoroastrian Traditions, ''Journal of the Royal Asiatic Society '' vol.18, Iss.2, pp. 155-165を参照。</ref>。[[イスラーム]]もまたマニ教と並んで、ユダヤ教やキリスト教を通じてゾロアスター教の影響も受けており、イスラームの啓典『[[クルアーン]]』(コーラン)にもゾロアスター教徒の名が登場する。 |
|||
=== ゾロアスター教の発展と展開 === |
|||
他宗教への影響と同様に、同時代の[[政治]]に対してゾロアスター教の影響がどれほどであったかについても、研究者によって意見が分かれている。古代にあっては一般に、政治と宗教はたがいに密接な関連性を有していたため、他宗教に対する影響が大きいと考える研究者ほど、その政治的影響も強かったと考える傾向にある。歴代王朝の下にあってゾロアスター教は常に「[[国教]]」のような役割をになったと考える研究者もいるが、見解は統一されていない。 |
|||
==== アケメネス朝 ==== |
==== アケメネス朝 ==== |
||
[[ファイル:Darius I the Great's inscription.jpg|thumb||right|220px|[[ダレイオス1世]]による[[ベヒストゥン碑文]] |
|||
[[アケメネス]]朝[[ペルシア]](紀元前550~330年)の歴代の[[大王]]たちが、ザラスシュトラの教え(ゾロアスター教)に帰依していたとする根拠には以下のものがある。 |
|||
---- |
|||
*アケメネス朝第3代の王[[ダレイオス1世]]は多くの[[碑文]]を残したが、自ら「アフラ・マズダーの恵みによって、王となりえた」と記している<ref name=yumi/><ref>「ダリウスがゾロアスター教徒であったことには証拠がある。[[ペルセポリス]]の宮殿には有翼の[[フラワシ]]、あるいはアフラ・マズダーの[[シンボル]]が浮き彫りされている。ペルセポリスの遺跡には、火の寺院であったと伝えられる建築物もある。さらに、ダリウスの治世に造刻された碑文には、王の統治がアフラ・マズダーの恩寵によるものだと述べられている」(P・R・ハーツ『ゾロアスター教』P.59)</ref>。[[File:Darius I the Great's inscription.jpg|thumb||right|220px|[[ダレイオス1世]]による[[ベヒストゥン碑文]]<br/>自らの即位の経緯と正当性を主張する文章とレリーフが刻まれている]] |
|||
自らの即位の経緯と正当性を主張する文章とレリーフが刻まれている。]] |
|||
*「聖なる火」の祭壇の[[遺跡]]が多数存在する。 |
|||
[[アケメネス朝]][[ペルシア]]([[紀元前550年]]-[[紀元前330年]])の歴代の[[大王]]たちが、ザラスシュトラの教え(ゾロアスター教)に帰依していたとする根拠には以下のものがある。 |
|||
*アケメネス朝第3代の王[[ダレイオス1世]]は多くの[[碑文]]を残したが、自ら「アフラ・マズダーの恵みによって、王となりえた」と記し、神権授受を意味する告知がなされている<ref name=kawase/><ref name=yumi/><ref name=h59>。[[#ハーツ|P・R.ハーツ(2004)p.59]]</ref>。 |
|||
*[[ペルセポリス]]のダレイオスの宮殿には有翼のプラヴァシの姿やアフラ・マズダーの[[シンボル]]を刻んだ浮彫彫刻([[レリーフ]])が施されている<ref name=kawase/><ref name=h59/>。 |
|||
*「聖なる火」の祭壇の[[遺跡]]が多数存在する<ref name=kawase/>。 |
|||
これらの根拠に対して、以下のような反論も提出されている。 |
これらの根拠に対して、以下のような反論も提出されている。 |
||
*[[レリーフ]]は、ダレイオス1世が「マズダー教徒」であった証拠にはなるが、「ゾロアスター教徒」であった証拠とはならない。<ref>ゾロアスター教徒の信仰告白の一節に「マズダー教徒でありゾロアスター教徒である私は」という言い回しがある |
*多くの[[レリーフ]]は、ダレイオス1世が「マズダー教徒」であった証拠にはなるが、「ゾロアスター教徒」であった証拠とはならない。すなわち、アケメネス朝時代の遺構や遺物はアフラ・マズダー信仰を示唆するものでしかない<ref name=kawase/><ref group="注釈">ゾロアスター教徒の信仰告白の一節に「マズダー教徒でありゾロアスター教徒である私は」という言い回しがある。[[#ボイス|ボイス(1983)p.52]]。アフラ・マズダーはザラスシュトラの活動以前からインド・イランのアーリア人のあいだで信仰されていた神なので、マズダーを信じるだけではゾロアスター教徒とは断定できない。また、P・R.ハーツは、著書『ゾロアスター教』のなかで、ダレイオス1世がゾロアスター教徒であったと指摘しているが、訳者の奥西俊介は「訳者あとがき」のなかで、現在のゾロアスター教徒がプラヴァシ像とし、自分たちの守護霊としている有翼円盤人物像も、多くの研究者がアフラ・マズダーの像だとしており、この像はアケメネス朝ペルシアの遺跡で多く確認されるとはいうものの、それだけでは、アケメネス朝の事実上の開祖ダレイオス1世がマズダー信者であったことは確かであったとしても、ゾロアスター教徒であったかどうかは明白ではない、と反論している。[[#ハーツ|P・R.ハーツ(2004)pp.171-172]]</ref>。 |
||
*火の祭壇は、 |
*火の祭壇は、ザラスシュトラ以前から[[アーリア人]]の宗教で用いられている<ref group="注釈">メアリー・ボイスは、ザラスシュトラ以前よりイラン人祭司は神々にむけて礼拝式を捧げたが、火と水に対しきまった供物を捧げる儀礼そのものは変わらなかったのではないかとしている。[[#ボイス|ボイス(1983)p.18]]</ref>。 |
||
さらに、 |
|||
* アケメネス朝の古代ペルシア語の碑文にはザラスシュトラの名が一度も現れない<ref>[[#ハーツ|P・R.ハーツ、奥西訳(2004)「訳者あとがき」pp.171-172]]</ref> |
|||
このようなことから、ゾロアスター教がアケメネス朝ペルシアの「国教」であると断定することには慎重でなくてはならない。ただ、初代の王である[[大キュロス|キュロス大王]]が「ユダヤ人のバビロン捕囚からの解放者」と見なされるように、アケメネス朝ペルシアは、[[異民族]]の宗教に対して寛容な姿勢を示した。したがって、仮にゾロアスター教がアケメネス朝の「国教」であったとしても「支配者の宗教」という意味に限定される。アケメネス朝では、帝国に帰属する多様な諸民族のそれぞれの宗教に対しては一定の[[自由]]が保障されており、アケメネス朝支配下の[[ユダヤ人]]は独自の「[[シンクレティズム]]」的宗教思想を育むことが可能であったと考えられるのである<ref group="注釈">シンクレティズムは、「宗教混淆」「混淆宗教」「[[習合]]」と翻訳される[[概念]]である。「シンクレティズム」の単語のまま用いることも多い。</ref>。 |
|||
また、ゾロアスター教の影響が「限定的」であった根拠として次のようなものもある。 |
|||
なお、同時代の[[ギリシャ]]の歴史家[[ヘロドトス]]は、「ペルシア人はこどもに真実を言うように教える」「ペルシア人は[[偶像]]をはじめ、[[神殿]]や[[祭壇]]を建てるという風習をもたない」と記している<ref name=yumi/>。しかし、[[古代メソポタミア]]における[[イシュタル]]信仰がペルシアにも影響して[[アナーヒター]]信仰へと同一視されるようになったのも、アケメネス朝の時代である。アケメネス朝期には、アナーヒターの偶像を置いた神殿が築かれる一方、それまで[[竈]]の火を日々の儀式に使い、祭礼では野外に集まっていたペルシャ人も、メソポタミアの偶像と神殿をともなう信仰に対抗して、火を燃やす常設の祭壇を設けた特別な建物を造るようになった。やがて、こうした火や建物が神聖視されるのである。 |
|||
*「アケメネス朝の古代ペルシァ語の[[碑文]]にはザラスシュトラの名前は一度も現れない」<ref>P・R・ハーツ著、奥西俊介訳『ゾロアスター教』P.171-172(P・R・ハーツの書いた本文ではなく、訳者の奥西俊介の「訳者あとがき」で、訳者が著者に対して反論している一節)</ref> |
|||
いずれにせよ、初代の王である[[大キュロス|キュロス大王]]が「[[ユダヤ人]]の[[バビロン捕囚]]に対する解放者」と見なされるように、アケメネス朝ペルシアは、異民族の宗教に対して寛容であった。したがって、仮にゾロアスター教がアケメネス朝ペルシア帝国の「国教」であったとしても「支配者の宗教」という意味に限定されると考えられる。帝国に帰属する様々な民族の諸宗教に対しては一定の自由が保障されており、アケメネス朝支配下において[[ユダヤ人]]は独自の「[[シンクレティズム]]」<ref>「宗教混淆」、「混淆宗教」、「[[習合]]」と翻訳される[[概念]]であるが、「シンクレティズム」という単語のまま用いることが多い。</ref>的宗教思想を育むことが可能であった。なお、同時代の[[ギリシャ]]の歴史家[[ヘロドトス]]は「ペルシア人はこどもに真実を言うように教える」、「ペルシア人は[[偶像]]をはじめ、[[神殿]]や[[祭壇]]を建てるという風習をもたない」と記している<ref name=yumi/>。しかしこの時期に[[イシュタール]]信仰がペルシャにも影響し[[アナーヒター]]信仰へと同一視されるようになる。アナーヒタ―の偶像を置いた神殿が築かれる一方、それまで竈の火を日々の儀式に使い祭礼では野外に集まっていたペルシャ人も偶像と神殿に対抗して、火を燃やす常設の祭壇をおさめた特別な家を作るようになったが、やがてこうした火や建物が神聖視されるに至る。[[File:Naqsh i Rustam. Investiture d'Ardashir 1.jpg|thumb|right|220px|アフラ・マズダー(右)より王権の象徴を授受されるサーサーン朝の[[アルダシール1世]](左)のレリーフ(ナグシェ・ロスタム)]][[File:Bodleian J2 fol 175 Y 28 1.jpg|thumb|220px|right|『[[アヴェスター]]』ヤスナ28章「ガーサー」]] |
|||
==== セレウコス朝 ==== |
==== セレウコス朝 ==== |
||
[[アレクサンドロス3世 |
[[マケドニア王国]]の[[アレクサンドロス3世]](アレクサンドロス大王)の東方大遠征によってアケメネス朝は滅び、アレクサンドロスの[[ディアドコイ]](後継者)[[セレウコス1世]]によるギリシャ人王朝が[[シリア]]からメソポタミア、ペルシアにかけて成立した。これが[[セレウコス朝]]([[紀元前312年]]-[[紀元前63年]])である。これにより、当時、[[パレスティナ]]からメソポタミア、イランにかけて「'''[[ヘレニズム]]'''」の影響がおよんだ。[[ギリシア]]文化は[[インド]]にまでおよび、逆にインド文化も[[地中海]][[世界]]に流れ込んだ。このような文化的シンクレティズムの時代に[[ユダヤ教]]は新しい神学理論を生み出した。後の[[グノーシス主義]]や洗礼教団の起源となる「救済者」([[メシア]])の教理が流布されたのである。そこから、[[ミトラ教|ミトラス教]](ミトラ教)や後期ユダヤ教、キリスト教につながる一神教の原型がかたちづくられた。ゾロアスター教そのものは、元来は寺院や偶像崇拝を認めなかったが、[[ギリシア文明]]や[[インド文明]]の影響で受容するように変化した<ref name=yama>[[#山下|山下(2007)]]</ref>。 |
||
==== パルティア王国 ==== |
==== パルティア王国 ==== |
||
[[セレウコス朝 |
[[紀元前3世紀]]、セレウコス朝シリアは大きく後退し、[[アルサケス朝]]によって[[イラン高原]]北東部にペルシア人帝国である[[パルティア王国]]が建国された([[紀元前247年]]-[[226年|紀元後226年]])。アルサケス朝パルティアにおいてゾロアスター教の公式教義がほぼ確定したと考えられており、『アヴェスター』が聖典として文書化され、これは、古来の伝統を記録する思潮と連動していた。ただし、この時期の宗教が「ゾロアスター教」と称しうるものであったかについては、なおも見解が分かれる。パルティアは[[史料]]が乏しいため、隣国の[[アルメニア王国]]の[[史料]]で推測すると、パルティアでは「[[契約]]」の神[[ミスラ]](上述)が重視されたと考えられ、パルティア王国の宗教はゾロアスター教というよりは「ミスラ教」と称すべきものに変質した可能性がある<ref group="注釈">青木健は、古代アーリア人の神格としては存在していなかった<アラマズド=アフラ・マズダー>が「すべての父」と称されて尊崇の対象となっている点ではアルメニアの宗教はゾロアスター教のようにもみえると前置きしながらも、しかし、ヤシュトの段階でやっと復権した<ヴァハグン=ウルスラグナ>や<ミフル=ミスラ>が非常に重要な地位を占め、宗主国ローマの[[ローマ皇帝|皇帝]]をミスラ神になぞらえている点は重要であると指摘している。青木は、これを重視するならば、アルメニア的ゾロアスター教≒パルティア的ゾロアスター教の主神はむしろミスラであり、ひいては「ゾロアスター教」という呼称そのものが不正確で、厳密にはミスラ教と称すべき信仰であったと論じている。[[#青木|青木(2008)pp.91-92]]</ref><ref group="注釈">青木健はまた、概説書などではアケメネス朝ペルシアからアルサケス朝パルティアの歴代王朝の統治下で、ゾロアスター教がいわば「国教」の地位を占めたと説かれるが、実際には、古代アーリア人の諸宗教とゾロアスター教の境界は曖昧であり、そのどちらとも受け取れるような諸宗教が人びとに幅広く受容されていたとしか言えないことを指摘している。[[#青木|青木(2008)pp.104-105]]</ref>。 |
||
==== サーサーン朝 ==== |
==== サーサーン朝 ==== |
||
[[ファイル:Tour nagsh-e-rostam iran.jpg|thumb|160px|right|[[ナグシェ・ロスタム]](イラン)に所在する「{{仮リンク|ゾロアスターのカアバ|en|Ka'ba-i Zartosht}}」と称される[[遺構]] |
|||
パルティアを倒した[[サーサーン朝]](紀元後226~651年)は宗教政策を一変させ、ゾロアスター教を正式に「[[国教]]」と定め、儀礼や教義を統一させた。その時、[[異端]]とされた資料は全て破棄された。他宗教も公式に禁止された。ゾロアスター教の国教化に重要な役割を果たした[[カルティール]]は[[マニ教]]を[[異端]]とし、[[教祖]][[マニ (預言者)|マニ]]を[[処刑]]した。『アヴェスター』の文書化は[[サーサーン朝]]成立後、半世紀以上経過した[[3世紀]]半ばに完成する。しかし、この時代には使用される[[言語]]が「中世ペルシア語」に変質しており、「古代ペルシア語」で記述されている『アヴェスター』の「ガーサー」部分は解読困難になっていた。 |
|||
---- |
|||
建物自体の用途は不明だが、下部の壁面にカルティールによって書かれた長大な[[パフラヴィー語]](中世ペルシア語)の碑文がある。]] |
|||
パルティアを倒した[[サーサーン朝]]([[226年]]-[[651年]])は従来の宗教政策を一変させ、ゾロアスター教を正式に「[[国教]]」と定め、儀礼や教義を統一させた。その時、[[異端]]とされた[[資料]]は全て破棄された。他宗教も公式に禁止された。サーサーン朝は、その支配の正統性をアケメネス朝の後継者という地位とゾロアスター教に求めた。そして非イラン的な異邦人の王朝アルサケス朝を倒して伝統的信仰を復興したのだと主張した。実際にはパルティア時代の大貴族の多くがサーサーン朝時代にも大きな力を持ち続け、サーサーン朝の政治機構や文化、社会は多くの点でパルティア王国を継承したものであったが、このアケメネス朝-サーサーン朝を正統とする歴史観は後世のイラン世界にも大きな影響を残った。 |
|||
サーサーン朝の建国者[[アルダシール1世]]に仕えた祭司長[[タンサール]]の元でゾロアスター教は体系化され、正典と統一的な教会組織が形成されたといわれている。サーサーン朝期においては、諸王が発行する[[貨幣]]の裏面に拝火壇が刻印されるようになり、ゾロアスター教が世俗支配のうえでも重要な役割をになうようになったものと推測される<ref name=kawase/>。 |
|||
=== イスラム帝国とゾロアスター教の衰退 === |
|||
{{See|イスラーム教徒による宗教的迫害}} |
|||
サーサーン朝は[[ホスロー1世]]の時代に絶頂を迎えるが、王朝創始後4世紀にして、[[ムハンマド]]による[[イスラム教]]の開教を迎える。[[アラブ民族|アラブ族]]の[[民族宗教]]として始まったイスラム教は、しかし瞬く間に周縁諸地域に布教され、[[イスラム帝国]]の成立と拡大によって世界宗教の偉容を備える。サーサーン朝はイスラム帝国の前に滅亡する。 |
|||
[[3世紀]]前葉に活躍した第2代[[シャープール1世]]は衰退期に入った[[ローマ帝国]]としばしば闘争し、サーサーン朝優位のもとで王権を盤石なものにしていった。シャープール1世以降3代の王のもとで権勢をふるった祭司長[[カルティール]](キルディール)は、ゾロアスター教の国教化に重要な役割を果たし、諸州に多くの聖火をともしたが、同時に新興の[[マニ教]]を[[異端]]として退け、シャープール在世時代には重用された[[教祖]]の[[マニ (預言者)|マニ]]を[[処刑]]するとともに[[仏教]]、ユダヤ教、キリスト教を弾圧した<ref name=kawase/>。『アヴェスター』の文書化は[[サーサーン朝]]成立後、半世紀以上経過した3世紀半ばに完成している。ただし、サーサーン朝の諸王は、みずからの信仰を「マズダー信仰」ないし「よき信仰(ベフ・ディン)」と称し、少なくとも王碑文においてはザラスシュトラ(ゾロアスター)の名は記されない<ref name=kawase/>。 |
|||
アラブ族はペルシアを軍事的に征服したが、古くから文明を発展させてきたペルシアは、イスラム帝国を内部から文化的に征服したと捉えられる一面がある。イスラム帝国のもと、ペルシアの文化は再度開花した。 |
|||
この時代、東方に対しては[[隊商]]などペルシア商人の活発な活動によって[[中央アジア]]や[[中国]]へのゾロアスター教の伝播がなされ、いっぽう西方に対してはローマなどをはじめとする[[地中海]]世界との交流や抗争によって教義などの面でたがいの影響を受けたと考えられる。 |
|||
[[イスラム帝国]]の[[歴史学者]]や知識人は、帝国の領土に含まれる土地の宗教や文化慣習を詳細な記録に残した。中世の[[メソポタミア]]やイランにおけるゾロアスター教、[[マニ教]]、[[ミトラ教|ミトラス教]]などに関する情報は、イスラムの知識人たちの記録によるところが多い。 |
|||
なお、この時代には使用される[[言語]]は「中世ペルシア語」に変質しており、「{{仮リンク|古代ペルシア語|en|Old Persian}}」で記述されている『アヴェスター』の「ガーサー」部分は当時すでに解読困難になっていたと考えられる。 |
|||
しかし、『デーンカルド』(宗教総覧)などの[[パフラヴィー語]](中世ペルシア語)文献が伝えるゾロアスター教の姿は、『[[アヴェスター]]』の語るゾロアスターの教えとは整合しない部分が多数あり、また、少数派となりながらも、[[21世紀]]の今日まで生き延びているゾロアスター教信徒たちの「伝承の教え」と比較しても、食い違いが生じる。 |
|||
=== イランのイスラーム化とその影響 === |
|||
サーサーン朝の国教となる以前のゾロアスター教は[[世界宗教]]であった。それは近隣の諸地域の文化に大きな影響を与え、信徒もまた広大な範囲に広がっていた。しかし、国教化と共に、そしてイスラム帝国の勃興と共に、ゾロアスター教は偏狭な面を備える宗教となって行き、その故地であるイランがイスラム化してからは、世界宗教として成熟したイスラム教に取って代わられた。 |
|||
{{See also|イスラーム教徒のペルシア征服}} |
|||
サーサーン朝は[[ホスロー1世]]の時代に絶頂を迎えるが、建国後約400年にして、[[アラビア半島]]の[[メッカ]]の商人[[ムハンマド]]による[[イスラーム]]の開教を迎える。[[アラブ民族|アラブ族]]の[[民族宗教]]として始まったイスラム教は、しかし瞬く間に周縁諸地域に布教され、[[イスラム帝国]]の成立と拡大によって[[世界宗教]]の偉容を備える。サーサーン朝はイスラム帝国の前に滅亡した。アラブ族はペルシアを軍事的に征服したが、古くから文明を発展させてきたペルシアは官僚や学者としてこれを支え、むしろイスラム帝国を内部から文化的に征服したとも評される。イスラム帝国のもと、ペルシアの文化は再度開花した。 |
|||
==== イランにおけるゾロアスター教の衰退 ==== |
|||
イスラム教徒の統治下でイランのゾロアスター教徒は[[ズィンミー]]とされ、厳しい迫害を受けた。[[ジズヤ]]の支払いは経済的圧迫となっただけでなく、精神的にも多大な屈辱をゾロアスター教徒に与えた。[[信教の自由|信仰の保持]]は認められたもののムスリムへの布教は死罪とされ、事実上不可能となった。このこともゾロアスター教が世界宗教から血縁に基づく民族・部族宗教へ衰退する要因となった。さらに寺院の修復や新築には特別の許可を必要とし、その他にも数々のムスリムとの差別待遇が存在した。表立った[[強制改宗]]は稀だったが、多くのゾロアスター教徒は差別と迫害を逃れるためにムスリムへの改宗を余儀なくされた。 |
|||
イスラム帝国の[[歴史学者]]や[[知識人]]は、帝国の領域に含まれる土地の宗教や文化慣習を詳細な記録に残した。中世のメソポタミアやイランにおけるゾロアスター教、マニ教、[[ミトラ教|ミトラス教]]などに関する情報は、[[ムスリム]](イスラーム教徒)知識人たちの記録によるところが大きい。しかし、『デーンカルド』(宗教総覧)などの[[パフラヴィー語]](中世ペルシア語)文献が伝えるゾロアスター教の姿は、『アヴェスター』の語るザラスシュトラの教えとは整合しない部分が多数あり、また、少数派となりながらも[[21世紀]]の今日まで生き延びているゾロアスター教信徒たちの「伝承の教え」と比較しても、齟齬が生じている。 |
|||
サーサーン朝の国教となる以前のゾロアスター教は普遍的な世界宗教の性格を有した。それは近隣諸地域の文化に大きな影響を与え、信徒もまた広大な範囲に広がっていた。しかし、国教化とともに、そしてイスラム帝国の勃興ととともに、ゾロアスター教は偏狭な一面を備える宗教とみなされるようになり、その故地であるイランがイスラーム化してからは、新しい世界宗教として台頭したイスラームにとって代わられた。 |
|||
[[10世紀]]、一部の信者は宗教上の自由を求めてインド西海岸に移住し、現地でパールスィー(ペルシア人の意)と呼ばれる集団となって千年後まで続く共同体を築いた。かれらは元来[[農業]]を営んでいたが、移住を機に[[商工業]]に進出するとともに、土地の風習を採り入れてインド化していった<ref name=yama/>。 |
|||
[[ファイル:BombayTempleOfSilenceEngraving.jpg|150px|thumb|[[ムンバイ]](インド)に建設された沈黙の塔]] |
|||
近代に至り、イランの世俗化の流れの中でジズヤも廃止され漸くムスリムと法的に対等の権利を得るようになったが、[[イラン革命|イランイスラーム革命]]により再び隷属的地位におかれることとなった。 |
|||
イスラーム教徒の支配下でイランのゾロアスター教徒は[[ズィンミー]]とされ、厳しい迫害を受けた。[[ジズヤ]]の支払いは経済的圧迫となっただけでなく、精神的にも多大な屈辱を受けた。[[信教の自由|信仰の保持]]は認められたもののムスリムへの布教は[[死罪]]とされ、事実上不可能となった。このこともゾロアスター教が世界宗教から[[血縁]]にもとづく[[民族宗教]]へと転落する要因となった。さらに寺院の修復や新築には特別の許可を必要とし、その他にも数々のムスリムとの差別待遇が存在した。表立った[[強制改宗]]は稀だったが、多くのゾロアスター教徒は差別と迫害を逃れるためにムスリムへの改宗を余儀なくされたのである。 |
|||
[[近代]]に至り、イラン社会も世俗化の流れの中でジズヤが廃止され、ようやくムスリムとは法的に対等の権利を得るようになった。 |
|||
イランにおいては、ゾロアスター教の聖地に少数の共同体が存続し、21世紀の今日まで細々と教えの伝統を継承している。とはいえ、かつての世界宗教としてのゾロアスター教の姿はイスラームによる厳しい迫害を潜り抜けた今日の宗教共同体には見ることができず、ゾロアスター教は信徒資格を血縁に求める民族・部族宗教へと、逆に後退し衰退してしまった。現在、ゾロアスター教では、信徒を親に持たない者の入信を受け入れていない。 |
|||
==== ゾロアスター教徒のインド移住 ==== |
|||
サーサーン朝の滅亡を機にイランのゾロアスター教徒のなかには[[インド]]西海岸の[[グジャラート州|グジャラート地方]]に退避する集団があった。[[伝承]]では、4つあるいは5つの船に乗ってグジャラート州南部の[[サンジャーン]]にたどり着き、現地を支配していたヒンドゥー教徒の王ジャーディ・ラーナーの保護を得て、周辺地域に定住することになったといわれる<ref name=aoki224>[[#青木|青木(2008)p.224]]</ref>。神官団はサンジャーン定住5年にして、使者を陸路[[イラン高原]]の[[ホラーサーン]]に派遣し、同地の[[アータシュ・バフラーム級聖火]]をサンジャーンに移転させたといわれている<ref name=aoki224/>。 |
|||
インドに移住したゾロアスター教徒は、現地でパールシー(「ペルシア人」の意)と呼ばれる集団となって信仰を守り、以後、1000年後まで続く宗教共同体を築いた。かれらはイランでは多く[[農業]]を営んでいたといわれるが、移住を契機に[[商工業]]に進出するとともに、土地の[[風習]]を採り入れてインド化していった<ref name=yama/>。 |
|||
== |
== 今日のゾロアスター教 == |
||
=== 信者の分布 === |
|||
[[ファイル:Ateshkadeh yazd.jpg|thumb|200px|ヤズドのゾロアスター教寺院]] |
|||
[[ファイル:Ateshga general view, Tbilisi (Photo A. Muhranoff, 2011).jpg|right|thumb|230px|[[トビリシ]]([[グルジア|グルジア共和国]])のゾロアスター寺院]] |
|||
[[ファイル:Zoroastrians' Tower of Silence.jpg|thumb|200px|ヤズドの沈黙の塔]] |
|||
近代以前からゾロアスター教が信仰されていた地域は、以下の通りである。 |
|||
ゾロアスター教は、現在のイランにも小規模であるが信徒の共同体が残存し、現代[[ペルシア語]]で「'''ゾロアスターの教え''','''ディーネ・ザルドゥシュト'''('''{{Lang|fa|دین زردشت}}''')」と呼ばれている。 |
|||
#[[イラン]]:かつてゾロアスター教を[[国教]]とした[[サーサーン朝]][[ペルシア帝国]]の中心地。[[ヤズド]]を中心に信徒数3万ないし6万人<ref name=aoki248>[[#青木|青木(2008)p.248]]</ref>。 |
|||
#[[インド]]:10世紀ごろにイランを脱出したゾロアスター教徒が[[グジャラート州]]に移住。ペルシア人を意味する[[パールシー]](教徒)と呼ばれた。現在はパールシーの経済活動の中心地であるボンベイ([[ムンバイ]])を主たる拠点として、信徒数7万5千人<ref name=aoki248/>。 |
|||
#[[パキスタン]]:[[イギリス領インド帝国|英領インド]]が[[インド|インド共和国]]と[[パキスタン]]に分離して[[国家|独立国]]となった際、2,500人から6,000人のパールシーがパキスタンの領域に住んでおり、パキスタン国民となった。中心地は[[カラチ]]である<ref name=aoki248/>。 |
|||
#[[アゼルバイジャン]]・[[グルジア]]・[[イラク]]:若干名 |
|||
近代以降、多くのパールシー教徒が[[英語圏]]の各地に、イラン本国のゾロアスター教徒が[[ドイツ]]に[[移民]]として移住したことにより、信者の分布地域は拡大していった<ref name=aoki248/>。 |
|||
イラン中央部の[[ヤズド]]、南東部の[[ケルマーン州|ケルマン]]地区を中心に数万人の信者が存在している。ヤズドでは人口(30万人)の約1割がゾロアスター教徒だとされる。 |
|||
#[[イギリス]]:約5,000人<ref name=aoki248/>。 |
|||
#[[北アメリカ大陸|北米大陸]]([[アメリカ合衆国]]・[[カナダ]]):約10,000人<ref name=aoki248/>。 |
|||
#[[オーストラリア]]:約2,500人<ref name=aoki248/>。 |
|||
#[[シンガポール]]・[[香港]]・[[日本]]・[[ドイツ]]:若干名<ref name=aoki248/>。 |
|||
=== イラン === |
|||
ヤズド近郊にはゾロアスター教徒の村がいくつかあり、拝火寺院は信者以外にも開放され、1500年前から燃え続けているという「聖火」を見ることができる。 |
|||
[[ファイル:Ateshkadeh yazd.jpg|thumb|230px|ヤズドのゾロアスター教寺院]] |
|||
イランのゾロアスター教は、イスラム化の進展によって少数派に転落したが、今日でも小規模ではあるものの信徒の共同体が残存し、現代[[ペルシア語]]で「'''ゾロアスターの教え''','''ディーネ・ザルドゥシュト'''('''{{Lang|fa|دین زردشت}}''')」と呼ばれている。イラン中央部の[[ヤズド]]、南東部の[[ケルマーン州|ケルマン]]地区を中心に数万人の信者が存在している。ヤズドでは人口(30万人)の約1割がゾロアスター教徒だとされる。ヤズド近郊にはゾロアスター教徒の村がいくつかあり、拝火寺院は信者以外にも開放され、1500年前から燃え続けているという「[[三大聖火|聖火]]」を見ることができる。 |
|||
ダフメ(daχmah いわゆる「[[沈黙の塔]]」)による[[鳥葬]]は、1930年代に[[パフラヴィー朝]]の[[レザー・シャー]]により禁止され、以後はイスラム教等と同様に土葬となった。現在では活用されておらず、観光施設として残されるにとどまる。 |
ダフメ(daχmah いわゆる「[[沈黙の塔]]」)による[[鳥葬]]は、1930年代に[[パフラヴィー朝]]の[[レザー・シャー]]により禁止され、以後はイスラム教等と同様に土葬となった。現在では活用されておらず、観光施設として残されるにとどまる。 |
||
近代化の進展により、ムスリムと同等の法的権利を獲得したゾロアスター教徒であったが、[[イラン革命|イランイスラーム革命]]により再び隷属的地位におかれることとなった。 |
|||
== インドのゾロアスター教 == |
|||
{{See|パールシー}} |
|||
イランにおいては、ゾロアスター教の聖地に少数の共同体が存続し、21世紀の今日まで細々と教えの伝統を継承している。とはいえ、かつての世界宗教としてのゾロアスター教の姿はイスラームによる厳しい迫害を潜り抜けた今日の宗教共同体には見ることができず、ゾロアスター教は信徒資格を血縁に求める民族・部族宗教へと、逆に後退し衰退してしまった。現在、ゾロアスター教では、信徒を親に持たない者の入信を受け入れていない。 |
|||
== 世界各地のゾロアスター教 == |
|||
=== パキスタン === |
|||
パキスタン(人口1億3000万人)のゾロアスター教徒は5000人で、主に[[カラチ]]一帯に居住しており、イランからの信者流入により教徒数は増加傾向にある。 |
|||
=== |
=== インドとパキスタン === |
||
{{main|パールシー}} |
|||
日本へのゾロアスター教伝来は未確証であり、ゾロアスター教の信仰・教団・寺院が存在した事実を示すものも発見されていないが、ゾロアスター教は唐時代に中国へ来ており、また日本には[[吐火羅]]や[[舎衛]]などのペルシア人が来朝していることから、なんらかの形での伝来が考えられている。[[イラン]]学者[[伊藤義教]]によれば、来朝ペルシア人の比定研究などをふまえて、[[新義真言宗]]の作法や[[お水取り]]の時に行われる達陀の行法は、ゾロアスター教の影響を受けているのではないかとする説を提出している<ref>伊藤義教『ペルシア文化渡来考』 岩波書店</ref>。 |
|||
[[ファイル:Parsi-navjote-sitting.jpg|right|thumb|140px|インドにおけるパールシー入信の[[ナオジョテ]]の儀式<ref group="注釈">19世紀から続く神官一族ジャーマースプ・アーサー家の第6代カイ・ホスロウによる入信式。[[#青木|青木(2008)p.253]]</ref>]] |
|||
現在、インドはゾロアスター教信者の数の最も多い国となっている。今日では同じ西海岸の[[マハーラーシュトラ州]]の[[ムンバイ|ムンバイ]](旧称ボンベイ)にゾロアスター教の中心地があり、開祖ザラスシュトラが点火したと伝えられる炎が消えることなく燃え続けている。ゾロアスター教は、インドでは、[[ペルシャ人]]を意味する「パールシー」と呼ばれ、パールシー同士だけで婚姻し、周囲とは異なるパールシー共同体を形成している<ref name=iwamura131/>。数としては少ないが商業や[[貿易]]、知的職業に就く人が多く、非常に裕福な層に属する人や政治的な影響力をもった人々の割合が多い<ref name=iwamura131/>。インド国内で少数派ながら富裕層が多く社会的に活躍する人が多い点は、[[シク教]]徒と類似しており、インドの二大財閥のひとつ[[タタ・グループ]]は、パールシーの[[財閥]]である。パールシーは同じ教徒同士の堅固な結合と相互扶助もあって、彼らの社会には生活において貧窮する者がいないといわれる<ref name=iwamura131/>。 |
|||
寺院は[[マハラシュトラ州]]のムンバイと[[プネー]]にいくつかあり、ゾロアスター教徒のコミュニティを作っている。寺院にはゾロアスター教徒のみが入る事が出来、異教徒の立ち入りは禁じられている。神聖な炎は全ての寺院にあり、ペルシャから運ばれた炎から分けられたものである。寺院内には偶像はなく、炎に礼拝する。インド国内のゾロアスター教徒のほとんどはムンバイとプネーに在住している。また[[グジャラート州]]の[[アフマダーバード]]や[[スーラト]]にも寺院があり、周辺に住む信者により運営されている。 |
|||
いっぽう、パキスタン(人口1億3,000万人)のゾロアスター教徒は5,000人で、主に[[カラチ]]一帯に居住しており、イランからの信者流入により教徒数は増加傾向にある。 |
|||
また[[1970年代]]に、作家[[松本清張]]が『[[火の路]]』([[文藝春秋]])で、[[飛鳥時代]]の日本にゾロアスター教が伝わっていた、という物語を描き話題となった。松本の説によれば、[[斉明天皇]]はその信者であり、[[マギ]]の秘術を使ったために『[[日本書紀]]』で神秘的な存在として描かれたのだとも、[[飛鳥]]の[[酒船石遺跡|酒船石]]は神酒([[ハオマ]])を製造する為のものであったともいう。 |
|||
=== 中国 === |
=== 中国 === |
||
{{main|唐代三夷教}} |
|||
中国への伝来は、[[5世紀]]頃のこととされる。当時、東西に分裂していた華北の[[北周]]や[[北斉]]で広まっていたという。[[唐]]代には祆教と呼ばれ、都の[[長安]]や[[洛陽]]、[[敦煌市|敦煌]]や[[涼州]]などに寺や祠が設けられ、ゾロアスター教徒であったペルシア人やイラン系の西域人([[ソグド人]]など)が、薩保や薩宝という官職を設けて管理していた。 |
|||
中国への伝来したのは、[[5世紀]]から[[6世紀]]にかけての頃とされている。[[交易]]活動のために多数の[[イラン人]]が[[トルキスタン]]から現在の[[甘粛省]]を経て中国へわたり、そのことにより、当時、東西に分裂していた[[華北]]の[[北周]]や[[北斉]]に広まったという<ref name=iwamura>[[#岩村|岩村(1975)pp.171-174]]</ref>。信者は相当数いたものと思われ、[[唐]]代には「'''祆教'''(けんきょう)」と称された<ref name=iwamura/>。教団が存在し、その取締り役として「薩宝(さっぽう)」「薩甫(さっぽ)」ないし「薩保(さほ)」がいたというが、その意味の詳細は不明である<ref name=iwamura/>。[[隋]]や唐の時代になると、ペルシア人やイラン系の西域出身者([[ソグド人]]など)が薩宝(薩甫、薩保)は1つの[[官職]]と認められて官位が授けられ、ゾロアスター教寺院や礼拝所(祆祠)の管理を任された<ref name=iwamura/>。首都の長安や[[洛陽]]、あるいは[[敦煌市|敦煌]]や[[涼州]]などといった[[都市]]に[[寺院]]や[[祠]]が設けられ、長安には5カ所、洛陽には3カ所の祆祠(けんし)があったといわれている。しかし、ゾロアスター教徒は中国においてはほとんど伝道活動をおこなわなかったといわれる<ref name=yamamoto/>。 |
|||
[[景教]]([[ネストリウス派]][[キリスト教]])・[[マニ教]]と総称して[[三夷教]]、その寺を[[三夷寺]]と呼び、[[国際都市]]であった長安を中心に盛んであった。 |
|||
唐の[[武宗 (唐)|武宗]]の廃仏([[会昌の廃仏]])の |
唐においては、[[景教]]([[ネストリウス派]][[キリスト教]])・[[マニ教]]とあわせて[[三夷教]]、その寺を三夷寺と呼び、国際都市長安を中心に多くの信者を有したが、[[武宗 (唐)|武宗]]の廃仏([[会昌の廃仏]])のときに、仏教とともに三夷教も弾圧を受け、以後は衰退していった。 |
||
また |
また、西北部に居住する[[トルコ族]]の国[[回鶻|ウイグル]](回鶻、現在の[[新疆ウイグル自治区]])では、マニ教とともにゾロアスター教も広く信仰されたが、[[11世紀]]から[[13世紀]]にかけての西域はイスラーム化が進行した。 |
||
唐代から元代にかけて対外貿易港だった[[福建省]][[泉州市]]の郊外には波斯荘という村があり、現在でもペルシ |
中国における祆教の信者は、多くの場合ペルシア人や西域出身者であったが、当初は隊商の[[商人]]が多数を占め、のちにはサーサーン朝からの[[亡命者]]などが加わったものと思われる<ref name=iwamura/>。祆教は、[[14世紀]]ころまで[[開封]]や[[鎮江]]などに残っていたと記録されているが、その後の消息はつかめていない<ref name=iwamura/>。なお、唐代から[[元 (王朝)|元]]代にかけて対外貿易港だった[[福建省]][[泉州市]]の郊外には波斯荘という村があり、現在でもペルシア人の末裔が暮らしているという。彼らは現在、[[漢族]]に同化し、言語・形質面ではこれと変わらないがイスラームを奉じており、[[回族]]として認定されている。彼らの宗教儀式のなかはゾロアスター教の名残がみられるともいわれている。 |
||
[[19世紀]]後半から[[20世紀]]前半にかけて |
[[19世紀]]後半から[[20世紀]]前半にかけては[[上海]]や[[広州]]などにインド亜大陸から渡来したパールシーの商人が、[[租界]]を中心に独自のコミュニティを築いていた。現在でも[[香港]]には「白頭教徒」と呼ばれる数百人のパールシーが定住し、[[コーズウェイベイ]](銅鑼灣)の商業ビル(善楽施大厦)の一角に拝火寺院が、[[ハッピーバレー]](跑馬地)に専用墓地が存在する。[[マカオ]]には現在パールシーは居住していないが、東洋望山に「白頭墳場」と呼ばれる[[墓地]]があり、香港が貿易拠点として発展する以前はパールシー商人が居留していたものと考えられる。 |
||
=== |
=== 日本 === |
||
古代日本へのゾロアスター教伝来は未確証であり、ゾロアスター教の信仰・教団・寺院が存在した事実を示すものも発見されていないが、ゾロアスター教は唐時代に中国へ来ており、また日本には[[吐火羅]]や[[舎衛]]などのペルシア人が来朝していることから、なんらかの形での伝来が考えられている。[[イラン]]学者[[伊藤義教]]によれば、来朝ペルシア人の比定研究などをふまえて、[[新義真言宗]]の作法や[[お水取り]]の時に行われる達陀の行法は、ゾロアスター教の影響を受けているのではないかとする説を提出している<ref name=itoh>[[#伊藤|伊藤(1980)]]</ref>。 |
|||
19世紀以降、インドからのパールシーの移住に伴い、北米には18,000-25,000人の南アジア・イラン系の信者、オーストラリア(主にシドニー)には35,00人の信者が在住している。 |
|||
近代の日本では、[[戦前]]から[[パールシー|インド・ゾロアスター教徒]]により、[[神戸]]在住の[[貿易商]]として定住がはじまり、その子孫の人々は現在でも神戸および[[東京]]で健在である。在日も3世代目ないし4世代目となり、日本生まれの日本育ちとしてすっかり[[日本文化]]にとけ込んでいるが、国籍は[[インド]]を維持し、祭祀の際などには[[ムンバイ]]に帰ってゾロアスター教の儀礼に参加している<ref>[[#青木|青木(2008)pp.253-254]]</ref>。 |
|||
== 逸話 == |
|||
*日本では[[東芝]]が過去に使用した[[電球]]や[[真空管]]などのブランド名([[ゼネラル・エレクトリック]]のライセンスによる)「マツダ」の綴り Mazda は、アフラ・マズダーに由来する |
|||
=== 欧米 === |
|||
*日本の自動車メーカーの[[マツダ]]は創業者の姓(松田)を冠していると共に、その綴り Mazda はゾロアスター教の主神アフラ・マズダーに由来する。 |
|||
19世紀以降、インドからのパールシーの移住に伴い、北米には18,000-25,000人の南アジア・イラン系の信者、オーストラリア(主に[[シドニー]])には3,500人の信者が在住している。 |
|||
*[[フリードリヒ・ニーチェ]]の著作「[[ツァラトゥストラはこう語った]]」のツァラトゥストラとは、ザラスシュトラをドイツ語読みしたものである。[[リヒャルト・シュトラウス]]作曲の同名の交響詩についても同様である。 |
|||
== パールシー出身の著名人 == |
== パールシー出身の著名人 == |
||
131行目: | 270行目: | ||
* [[フレディ・マーキュリー]]([[ザンジバル]]生まれのイギリスの[[歌手]]) |
* [[フレディ・マーキュリー]]([[ザンジバル]]生まれのイギリスの[[歌手]]) |
||
* [[ズービン・メータ]]([[インド]]人の[[指揮者]]) |
* [[ズービン・メータ]]([[インド]]人の[[指揮者]]) |
||
* [[ジャムシェトジー・タタ]] |
* [[ジャムシェトジー・タタ]]([[タタ・グループ]]の創始者) |
||
* [[ラタン・タタ]] |
* [[ラタン・タタ]]([[タタ・グループ]]の会長) |
||
== 逸話 == |
|||
*日本では[[東芝]]が過去に使用した[[電球]]や[[真空管]]などのブランド名([[ゼネラル・エレクトリック]]のライセンスによる)「マツダ」の綴り Mazda は、アフラ・マズダーに由来する |
|||
*日本の自動車メーカーの[[マツダ]]は創業者の姓(松田)を冠していると共に、その綴り Mazda はゾロアスター教の主神アフラ・マズダーに由来する。 |
|||
*[[フリードリヒ・ニーチェ]]の著作「[[ツァラトゥストラはこう語った]]」のツァラトゥストラとは、ザラスシュトラをドイツ語読みしたものである。[[リヒャルト・シュトラウス]]作曲の同名の交響詩についても同様である。 |
|||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
{{ |
{{脚注ヘルプ}} |
||
=== 注釈 === |
|||
{{Reflist|group=注釈}} |
|||
=== 参照 === |
|||
<div class="references-small">{{Reflist|2}}</div> |
|||
== 出典 == |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[岩村忍]]|chapter=|editor=|year=1975|month=1|title=世界の歴史5 西域とイスラム|series=中公文庫|publisher=中央公論社|isbn=|ref=岩村}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[伊藤義教]]|translator=|year=1980|month=3|title=ペルシア文化渡来考|publisher=[[岩波新書]]|series=|asin=B000J89KPO|ref=伊藤}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=メアリー・ボイス|translator=[[山本由美子 (歴史学者)|山本由美子]]|year=1983|month=9|title=ゾロアスター教|publisher=[[筑摩書房]]|series=|asin=B000J7AZR2|ref=ボイス}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[上岡弘二]]|chapter=マニ教|editor=[[平凡社]](編)|year=1988|month=3|title=[[世界大百科事典]]27 マク-ムン|series=|publisher=平凡社|isbn=4-582-02200-6|ref=上岡}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[川瀬豊子]]|chapter=第1章 古代オリエント世界|editor=[[永田雄三]](編)|title=西アジア史II イラン・トルコ|year=2002|month=8|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4-634-41390-0|ref=川瀬}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=P・R.ハーツ|translator=[[奥西峻介]]|year=2004|month=11|title=ゾロアスター教|publisher=[[青土社]]|series=シリーズ世界の宗教|isbn=4791760913|ref=ハーツ}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=|chapter=|editor=[[渡辺和子 (宗教学者)|渡辺和子]](監修)|title=もう一度学びたい 世界の宗教|year=2005|month=10|publisher=[[西東社]]|isbn=4-7916-1293-0|宗教}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[加藤武 (宗教哲学者)|加藤武]]|chapter=マニ教|editor=[[小学館]](編)|year=2004|month=2|title=日本大百科全書|publisher=小学館|series=スーパーニッポニカProfessional Win版|isbn=4099067459|ref=加藤}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=山本由美子|chapter=ゾロアスター教|editor=小学館(編)|year=2004|month=2|title=日本大百科全書|publisher=小学館|series=スーパーニッポニカProfessional Win版|isbn=4099067459|ref=山本2004}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=山本由美子|editor=合志太士(編)|title=週刊朝日百科 シルクロード紀行18 ペルセポリス」|chapter=ゾロアスター教|year=2006|month=2|publisher=[[朝日新聞社]]|asin=B006WWXAT8|ref=山本2006}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[山下博司]]|editor=山下博司・岡光信子(共著)|title=インドを知る事典|chapter=第II章 インドの歴史と宗教|year=2007|month=9|publisher=[[東京堂出版]]|isbn=978-4-490-10722-7}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[青木健 (宗教学者)|青木健]]|year=2008|month=3|title=ゾロアスター教|publisher=[[講談社]]|series=講談社選書メチエ|isbn=4062584085|ref=青木}} |
|||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
*『[[ヴェーダ]] [[アヴェスター]]』 伊藤義教訳 <世界古典文学全集3>筑摩書房 原典の抄訳版 |
*『[[ヴェーダ]] [[アヴェスター]]』 伊藤義教訳 <世界古典文学全集3>筑摩書房 原典の抄訳版 |
||
**伊藤義教訳『原典訳アヴェスター』ちくま学芸文庫、2012年、ISBN 4480094601、上記の『ヴェーダ・アヴェスター』から「アヴェスター」部分を抜粋 |
|||
* [[伊藤義教]] 『[[ザラスシュトラ|ゾロアスター]]研究』 [[岩波書店]]、1979年。 |
|||
* 伊藤義教 『[[ザラスシュトラ|ゾロアスター]]研究』 [[岩波書店]]、1979年。 |
|||
* {{Cite book|和書|author=伊藤義教|translator=|year=2001|month=4|title=ペルシア文化渡来考|publisher=[[筑摩書房]]|series=[[ちくま学芸文庫]]|isbn=4480086366|ref=}} |
|||
*伊藤義教 『ゾロアスター教論集』 [[平河出版社]] ISBN 4892033154 |
*伊藤義教 『ゾロアスター教論集』 [[平河出版社]] ISBN 4892033154 |
||
*伊藤義教 『ペルシア文化渡来考』 岩波書店、1980年、[[ちくま学芸文庫]] 2001年 |
|||
*『ゾロアスター教論考』 [[エミール・バンヴェニスト]]&ゲラルド・ニョリ |
*『ゾロアスター教論考』 [[エミール・バンヴェニスト]]&ゲラルド・ニョリ |
||
*: 前田耕作編・監訳、[[東洋文庫 (平凡社)|平凡社東洋文庫]]、1996年 ISBN 4582806090 |
*: 前田耕作編・監訳、[[東洋文庫 (平凡社)|平凡社東洋文庫]]、1996年 ISBN 4582806090 |
||
* [[前田耕作]] 『宗祖ゾロアスター』 [[ちくま新書]]/新版[[ちくま学芸文庫]] ISBN 448008777X |
* [[前田耕作]] 『宗祖ゾロアスター』 [[ちくま新書]]/新版[[ちくま学芸文庫]] ISBN 448008777X |
||
* P.R.ハーツ、奥西峻介訳 『ゾロアスター教』 [[青土社]]、2004年 ISBN 4791760913 |
|||
* 青木健 『ゾロアスター教の興亡』[http://www.tousuishobou.com 刀水書房] ISBN 4887083572 |
* 青木健 『ゾロアスター教の興亡』[http://www.tousuishobou.com 刀水書房] ISBN 4887083572 |
||
* 青木健 『ゾロアスター教史』 <刀水歴史全書79>[[刀水書房]] ISBN 4887083742 |
* 青木健 『ゾロアスター教史』 <刀水歴史全書79>[[刀水書房]] ISBN 4887083742 |
||
* 青木健 『ゾロアスター教』 [[講談社]]選書メチエ ISBN 4062584085 |
|||
* [[岡田明憲]] 『ゾロアスター教 神々への賛歌』 平河出版社 ISBN 4892030538 |
* [[岡田明憲]] 『ゾロアスター教 神々への賛歌』 平河出版社 ISBN 4892030538 |
||
* 岡田明憲 『ゾロアスター教の悪魔払い』 平河出版社 ISBN 4892030821 |
* 岡田明憲 『ゾロアスター教の悪魔払い』 平河出版社 ISBN 4892030821 |
||
158行目: | 319行目: | ||
* [[ミルチア・エリアーデ]] 『世界宗教史 第13章 ザラスシュトラとイラン宗教』 |
* [[ミルチア・エリアーデ]] 『世界宗教史 第13章 ザラスシュトラとイラン宗教』 |
||
*: [[筑摩書房]]・第1巻 ISBN 4480085645/ちくま学芸文庫・第2巻、ISBN 4480085629 |
*: [[筑摩書房]]・第1巻 ISBN 4480085645/ちくま学芸文庫・第2巻、ISBN 4480085629 |
||
*{{Cite book|和書|author=山下博司|editor=山下博司・岡光信子(共著)|title=インドを知る事典|chapter=第Ⅱ章_インドの歴史と宗教|year=2007|publisher=東京堂出版|id=ISBN 978-4-490-10722-7}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=山本由美子|editor=合志太士(編)|title=週刊朝日百科 シルクロード紀行18 ペルセポリス」|chapter=ゾロアスター教|year=2006|publisher=朝日新聞社}} |
|||
* 堀尾幸司 『キリスト殺しの真相』文芸社 |
* 堀尾幸司 『キリスト殺しの真相』文芸社 |
||
* [[妹尾河童]] 『河童が覗いたインド』[[新潮文庫]] ISBN 410131103X |
* [[妹尾河童]] 『河童が覗いたインド』[[新潮文庫]] ISBN 410131103X |
||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
* [[ナオジョテ]] |
|||
* [[アムルタート]] - アムシャ・スプンタの1人。 |
* [[アムルタート]] - アムシャ・スプンタの1人。 |
||
* [[ハルワタート]] - 同上。 |
* [[ハルワタート]] - 同上。 |
||
173行目: | 333行目: | ||
* [http://www.persiandna.com/links.htm PersianDNA-世界各地のゾロアスター教コミュニティへのリンク集] |
* [http://www.persiandna.com/links.htm PersianDNA-世界各地のゾロアスター教コミュニティへのリンク集] |
||
* [http://www.l.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/thesis.cgi?mode=2&id=202 中世インドのイスラーム的ゾロアスター教 -アーザル・カイヴァーン学派の思想とサーサーン王朝時代ゾロアスター教からの連続性-] |
* [http://www.l.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/thesis.cgi?mode=2&id=202 中世インドのイスラーム的ゾロアスター教 -アーザル・カイヴァーン学派の思想とサーサーン王朝時代ゾロアスター教からの連続性-] |
||
* [http:// |
* [http://mazdayasnajapan.web.fc2.com/index.html マズダ・ヤスナの会] |
||
* [http://hdl.handle.net/2261/1977 ゾロアスター教書籍パフラヴィー語文献『デーンカルド』第3巻訳注・その2] |
* [http://hdl.handle.net/2261/1977 ゾロアスター教書籍パフラヴィー語文献『デーンカルド』第3巻訳注・その2] |
||
{{ |
{{デフォルトソート:そろあすたあきよう}} |
||
[[Category:ゾロアスター教|*]] |
[[Category:ゾロアスター教|*]] |
||
[[Category:イランの宗教]] |
|||
[[af:Zoroastrisme]] |
[[af:Zoroastrisme]] |
||
189行目: | 350行目: | ||
[[be-x-old:Зараастрызм]] |
[[be-x-old:Зараастрызм]] |
||
[[bg:Зороастризъм]] |
[[bg:Зороастризъм]] |
||
[[bo:ཛོ་ར་སིའི་ཆོས་ལུགས།]] |
|||
[[bo:ཛོ་ར་སིའི་ཆོས་ལུགས།]] |
|||
[[br:Zoroastregezh]] |
[[br:Zoroastregezh]] |
||
[[bs:Zoroastrizam]] |
[[bs:Zoroastrizam]] |
||
246行目: | 407行目: | ||
[[no:Zoroastrisme]] |
[[no:Zoroastrisme]] |
||
[[oc:Zoroastrisme]] |
[[oc:Zoroastrisme]] |
||
[[pa:ਪਾਰਸੀ ਧਰਮ]] |
|||
[[pl:Zaratusztrianizm]] |
[[pl:Zaratusztrianizm]] |
||
[[pnb:پارسی]] |
[[pnb:پارسی]] |
||
265行目: | 427行目: | ||
[[ta:சரத்துஸ்திர சமயம்]] |
[[ta:சரத்துஸ்திர சமயம்]] |
||
[[te:జొరాస్ట్రియన్ మతము]] |
[[te:జొరాస్ట్రియన్ మతము]] |
||
[[tg:Дини зардуштӣ]] |
|||
[[th:ศาสนาโซโรอัสเตอร์]] |
[[th:ศาสนาโซโรอัสเตอร์]] |
||
[[tl: |
[[tl:Zoroastrianismo]] |
||
[[tr:Zerdüştlük]] |
[[tr:Zerdüştlük]] |
||
[[tt:Зәрдөштлек]] |
|||
[[uk:Зороастризм]] |
[[uk:Зороастризм]] |
||
[[ur:زرتشتیت]] |
[[ur:زرتشتیت]] |
2013年2月23日 (土) 11:23時点における版
ゾロアスター教(ゾロアスターきょう、ペルシア語: دین زردشت /Dîn-e Zardošt/、英語: Zoroastrianism、ドイツ語: die Lehre des Zoroaster/Zarathustra)は、古代ペルシアを起源の地とする善悪二元論的な宗教である。『アヴェスター』を根本経典とする。
概要
ゾロアスター教の起源は古く、紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシアが成立したときには、すでに王家と王国の中枢をなすペルシア人のほとんどが信奉する宗教であった[1]。紀元前3世紀に成立したアルサケス朝のパルティアでもヘレニズムの影響を強く受けつつアフラ・マズダーへの信仰は守られ、3世紀初頭に成立した、後続するサーサーン朝でも国教とされて王権支配の正当性を支える重要な柱とみなされた[1]。ゾロアスター教は、活発なペルシア商人の交易活動によって中央アジアや中国へも伝播していった。
7世紀後半以降のイスラームの台頭とペルシア人のムスリム化によってペルシアのゾロアスター教は衰退し、その活動の中心はインドに移った。17世紀以降のイギリスのアジア進出のなかで、イギリス東インド会社とインドのゾロアスター教徒とのあいだで関係が深まり、現在、きわめて少数派ながらインド社会で少なからぬ影響力を保持している[2]。
ゾロアスター教の教義は、善と悪の二元論を特徴とするが、善の勝利と優位が確定されている宗教である。一般に「世界最古の一神教」と評されることもあるが、これは正確ではなく、その教義のなかではアムシャ・スプンタなど多くの神々が登場する。
開祖はザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトゥストラ)とされる。経典宗教の特徴を有し、その根本教典より「アヴェスターの宗教」ともいえる。そうしたイラン古代の宗教的伝統の上に立って、教義の合理化・体系化を図った人がザラスシュトラであるとも考えられる。
ゾロアスター教は光(善)の象徴としての純粋な「火」を尊ぶため、拝火教(はいかきょう)とも呼ばれる。ゾロアスター教の全寺院には、ザラスシュトラが点火したといわれる火が絶えることなく燃え続けており、寺院内には偶像はなく、信者は炎に向かって礼拝する[2]。中国では祆教(けんきょう)とも筆写され、唐代には「三夷教」の一つとして隆盛した。他称としてはさらに、アフラ・マズダーを信仰するところからマズダー教の呼称がある。ただし、アケメネス朝の宗教を「ゾロアスター教」とは呼べないという立場(たとえばエミール・バンヴェニスト)からすると、ゾロアスター教はマズダー教の一種である。また、この宗教がペルシア起源であることから、インド亜大陸では「ペルシア」を意味する「パーシー(パースィー、パールシー)」の語を用いて、パーシー教ないしパールシー教とも称される。
今日、世界におけるゾロアスター教の信者は約10万人と推計されている[2]。インドやイラン、その他、欧米圏にも信者が存在するが、それぞれの地域で少数派の地位にとどまっている。
開祖
世界最古の預言者といわれるザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトストラ)は、紀元前1600年頃から紀元前1000年頃にかけて生きた人といわれるが、その生涯の詳細についてはよくわかっていない。しばしば、ゾロアスター教の創始者といわれ、「ゾロアスター教」の呼称も彼の名に由来するが、その活動には今なお不明なところが多い[2][3]。
ゾロアスター教発祥の地と信じられているのが、古代バルフ(Balkh、ダリー語・ペルシア語:بلخ Balkh)の地である。バルフは現在のアフガニスタン北部に所在し、ゾロアスター教の信徒にとっては、ザラスシュトラが埋葬された地として神聖視されてきた。
儀式
ゾロアスター教の儀式のなかで最も重要とされるのがジャシャンの儀式である。これは、「感謝の儀式」とも呼ばれ、物質的ないし精神的世界に平和と秩序をもたらすものと考えられている[2]。ゾロアスター教徒は、この儀式に参加することによって生きていることの感謝の意を表し、儀式のなかでも感謝の念を捧げる[2]。ゾロアスター教の祭司は、白衣をまとい、伝統的な帽子をかぶって、さらに、聖火を汚さぬよう白いマスクをして儀式に臨む[2]。ここでは清浄さがあくまでも求められるのである。
また、ゾロアスター教への入信の儀式がナオジョテ(ナヴヨテ)である。ナオジョテがおこなわるのは7歳から12歳ころまでにかけてで、儀式では、入信者は純潔と新生の象徴である白い糸(クスティ)と神聖な肌着(スドラ)を身につけ、教義と道徳とを守ることを誓願する[2]。
守護霊
ゾロアスター教の守護霊は、「プラヴァシ」と呼ばれている[2]。プラヴァシは善をあらわし、また、この世の森羅万象に宿り、あらゆる自然現象を起こす霊的存在として、ゾロアスター教における神の神髄をあらわしていると考えられており、善のために働き、助けを求めている人を救うであろうと信じられている[2]。
礼拝
ゾロアスター教の礼拝は、「火の寺院」と称される礼拝所でおこなわれる。寺院は信者以外は立入禁止となっており、信者は礼拝所に入る前、手と顔を清め、クスティと呼ばれる祈りの儀式をおこなう習わしとなっている。クスティののち履物を脱いで建物に入り聖火の前に進んで、その灰を自分の顔に塗って聖なる火に対して礼拝を捧げるのである[2]。
葬送
ゾロアスター教の葬送は、鳥葬ないし風葬であり、世界的にみて特異な風習のひとつと考えられている[2]。この葬送は、遺体を棺などに埋納せずに野原などに放置し、風化ないし、鳥がついばむなど自然に任せるというもので、そのための施設が設けられることもある[2]。この施設は「沈黙の塔」(ダフマ)と呼ばれ、屋根を設けず、石板の上に死者の遺体を置き、上空から鳥が降下して死体をついばむことのできる構造の建物となっている[2]。ゾロアスター教の教義によれば、人間はその肉体もアフラ・マズダーはじめとする善神群の守護のもとにあるのだから、清浄な創造物である遺体に対して不浄がもたらされることのないよう、鳥葬ないし風葬がなされると説明されている[2]。
教義と経典
ゾロアスター教の聖典とされるのが『アヴェスター』である。サーサーン朝期に編纂されたと考えられる『アヴェスター』は、ザラスシュトラの言葉と彼の死後に叙述された部分とによって構成され、全部で21巻あるとされ、約4分の1が現存している[2][3]。
ゾロアスター教の教義の最大の特色は、善悪二元論と終末論である[2]。経典『アヴェスター』によれば、世界は至高神であるアフラ・マズダー、およびそれに率いられる善神群(アムシャ・スプンタ)と大魔王アンラ・マンユ(アフリマン)および悪神群の両勢力が対峙し、たがいに争う場であり、生命・光と死・闇との闘争であるとされる[2]。なお、ゾロアスター教の影響を受けたマニ教は、やはり徹底した二元論的教義を有しており、宇宙は光と闇、善と悪、精神と物質のそれぞれ2つの原理の対立にもとづいており、光・善・精神と闇・悪・肉体の2項がそれぞれ画然と分けられていた始原の宇宙への回帰と、マニ教独自の救済とを教義の核心としている[4][5]。
善悪二元論とゾロアスター教の神々
ザラスシュトラによれば、最初に2つの対立する霊があり、両者が相互の存在に気づいたとき、善の霊(知恵の主アフラ・マズダー)が生命、真理などを選び、それに対してもう一方の対立霊(アンラ・マンユ)は死や虚偽を選んだ[6]。これにより、善悪2神の抗争の場である、この世界がかたちづくられた。
アフラ・マズダーと善神群
アフラ・マズダーは、ゾロアスター教の主神で、みずからの属性を7つのアムシャ・スプンタ(七大天使、不滅なる利益者たち)という神々として実体化させ、天空、水、大地、植物、動物、人、火の順番で創成した、世界の創造者である[2]。
アフラ・マズダーを補佐する善神(アムシャ・スプンタ)としては、次の7神がある。
- スプンタ・マンユ : 「聖霊」を意味する人類の守護神で、アフラ・マズダーと同一視されることもある[2]。
- ウォフ・マナフ : 「善なる意思」を意味し、動物界の統治者でアフラ・マズダーのことばを人類に伝達する役割をになっている。常に人間の行為を記録しており、やがて訪れる「最後の審判」でその記録を詠みあげるとされる[2]。
- アシャ・ワヒシュタ(アシャ) : 「宇宙を正しく秩序づける正義」に由来し、天体の運行や季節の移り変わりをつかさどる。「聖なる火」の守護神。虚偽の悪魔ドゥルジに対峙する[2]。
- アールマティ : 代表的な女神(女性天使)。「献身」「敬虔」の名の通り、宗教的調和や信仰心の強さ、さらに信仰そのものを顕現する。大地の守護神となっており、「背教」と「推測」の悪魔タローマティと対立する[2]。
- クシャスラ(フシャスラ・ワルヤ) : 「理想的な領土ないし統治」に由来し、「天の王権」を象徴する。アフラ・マズダーによる「善の王国」建設のために尽力する。金属ないし鉱物の守護神[2]。
- ハルワタート : 「完璧」を意味する女性の大天使。アムルタートとは密接不可分とされる。水の守護神[2]。
- アムルタート : 主神アフラ・マズダーの子で、名は「不死」に由る。植物の守護天使で、ハルワタートと力を合わせて地上に降雨をもたらす[2]。
また、善神の象徴は炎とされ、そこから火の崇拝が生まれている。
アンラ・マンユと悪神群
善神と対峙する悪魔は、以下の通りである。
- アンラ・マンユ : ゾロアスター教における大魔王である。虚偽、狂気、凶暴、病気など、あらゆる悪や害毒を創造する[2]。
- アエーシュマ : 怒りと欲望を司り、人間を悪行にいざなう。天使スラオシャとは対立関係にある[2][注釈 1]。
- アジ・ダハーカ : 3頭3口を有し、口からは毒を吐き出す。残忍でずる賢く、地上にあっては人間の姿をして善人をそそのかす悪魔である[2]。
- ジャヒー : 女悪魔で売春婦の支配者。婦人に月経の苦しみをあたえたとされる[2]。
- タローマティ : アヴェスター語で「背教」を意味する。女性天使アールマティと対立関係にある[2]。
- ドゥルジ : 疫病をもたらす女の悪魔。天体運行をになうアシャとは対立関係にある[2]。
- バリガー : 女悪魔の総称。ドゥルズーヤー、クナンサティー、ムーシュは、そのなかでも「三大バリガー」として恐怖の対象となった[2]。
その他の神々
その他の神々としては、
- ウルスラグナ : 戦いの女神。邪悪な者や虚偽を語る者に罰をあたえ、自らを崇拝する者には勝利をあたえるという。サーサーン朝時代に特に崇拝された[2]。
- アナーヒター : 美しい水の女神。白くて強い腕をもつ。家畜や収穫に恵みをあたえ、国家の富強と子孫の繁栄をもたらす[2]。
- サオシュヤント : 「救世主」。厳密には神格をもたない。世界の終末にあらわれると信じられている[2]。
- ティシュトリヤ : ペルシア神話では雨と豊穣をもたらす神であったが、ゾロアスター教では下級の天使ヤザダに降格された。干魃をもたらす悪魔アバオシャと対立[2]。
- ミスラ : 「契約」の神。正義の天秤をもち、死者の魂を天国に導くか地獄におとすのかを決める[2]。
- ワユ : 風の神。
などがある[2]。
終末論と三徳
ゾロアスター教の歴史観では、世界は「創造(ブンダヒシュン)」「混合(グメーズィシュン)」「分離(ウィザーリシュン)」の3期に分かれ、現在は「混合の時代」とされる。アフラ・マズダーによる「創造」によって始まった「創造の時代」は完璧な世界であったが、アンラ・マンユの攻撃後は「混合の時代」に入り、善悪が入り混じって互いに闘争する時代となる。
ゾロアスター教では、善神群と悪神たちとの闘争ののち、最後の審判で善の勢力が勝利すると考えられており、その後、新しい理想世界への転生が説かれている[2]。そして、そのなかで人は、生涯において善思、善語、善行の3つの徳(三徳)の実践を求められている。人はその実践に応じて、臨終に裁きを受けて、死後は天国か地獄のいずれかへか旅立つと信じられた[2]。この来世観は、のちの後期ユダヤ教やキリスト教、さらにはイスラームへも引き継がれた。
世界の終末には総審判(「最後の審判」)がなされる。そこでは、死者も生者も改めて選別され、すべての悪が滅したのちの新世界で、最後の救世主によって永遠の生命をあたえられる[2]。こうした、最後の審判や救世主の登場などの教義もまた、数多くの宗教に引き継がれたのである。
自然崇拝的要素
ゾロアスター教は、古代のアーリア人が古くから信仰してきた自然崇拝の宗教を母体としていると考えられ、また、それを体系化していったのがザラスシュトラであると考えられる[7]。古代アーリア人の天の神ヴァルナの信仰は、ザラスシュトラらによって道徳的意味を付与されアフラ・マズダーという宇宙創造の至高神の地位をあたえられた[7]。ゾロアスター教においては、火のみならず、水、空気、土もまた神聖なものととらえられている[7]
聖典『アヴェスター』
ゾロアスター教の啓典である『アヴェスター』は、従前からの口承や伝承をもとにサーサーン朝の時代に編纂されたものとみられている[3]。
『アヴェスター』は、
- 「ヤスナ」 : 大祭儀で読唱される神事書・祭儀書。全72章。
- 「ウィスプ・ラト」 : ヤスナの補遺。小祭儀書。
- 「ウィーデーウ・ダード」 : 除魔書。
- 「ヤシュト」 : 神頒歌
- 「クワルタク・アパスターク」 : 小賛歌・小祈祷書
- その他逸文
のみが現存している[3]。
以上のうち「ヤスナ」72章のうち17章は「ガーサー」と呼ばれ、ザラスシュトラ自作の韻文と信じられており、現存する啓典のうち最古期の成立である[3]。
『アヴェスター』は、アケメネス朝時代の古代ペルシア語とは異なる言語(ガーサー語, 古代アヴェスター語)によって、1,200枚の牛の皮に筆録されていたという[7]。大部分がアケメネス朝滅亡の際にいったん失われ、のちのパルティアの時代とサーサーン朝の時代に補修と復元が試みられた。3世紀のサーサーン朝時代、当時の中世ペルシア語(パフラヴィー語)への翻訳がなされ、以後、正典として『ゼンダ・アヴェスタ』と称された[7]
『アヴェスター』は、イスラーム時代にその約4分の3が失われたと伝えられており、教義の詳細や教団組織の全容を解明することはなかなかの難事である[3]。ただし、「ガーサー」に示された「最後の審判」「天国と地獄」などの終末論的世界観が、後期ユダヤ教やキリスト教に影響をあたえたことは確かであり、さらに、死者にとって最後の結界の場である「チンワト橋」を教義のなかで設定していることは、仏教における「転生」」思想の形成プロセスを考慮するうえでも非常に示唆に富むできごとといえる[3]。
また、古代メソポタミアや古代エジプト、古代ギリシャの信仰が失われてしまっている今日、ゾロアスター教はヒンドゥー教とともに現存する世界最古の体系的宗教、経典宗教だということができる[7]
歴史
ゾロアスター教の開祖といわれるザラスシュトラの活動やゾロアスター教の成立に関しては、今なお不明なところが少なくない[3]。イラン高原北東部に生まれたザラスシュトラは、従来インド・イラン語派のなかで信じられてきた信仰に、善と悪との対立を基盤に置いた世界観を提供し、また、きわめて倫理的な性格をもつ宗教に改革したといわれる。
ザラスシュトラ以前のアーリア人(インド・イラン語派)の信仰においても、すでに「三大アフラ」として叡智の神アフラ・マズダー、火の神ミスラ、水の神ヴァルナが存在していた[注釈 2]。そのため、単にアフラ・マズダーまたはミスラを信仰しているというだけでは、厳密にいえば、ゾロアスター教徒とはいえない。
「異教時代」と呼ばれる過去のイラン人と区別するための判断基準は、ゾロアスター教の信仰告白であるフラワラーネにあらわれている。そこでは5つの条件が挙げられている[注釈 3]。すなわち、
- アフラ・マズダーを礼拝すること。
- ゾロアスターの信奉者であること。
- 好戦的で不道徳な神ダエーワと敵対すること。
- アフラ・マズダーが創造した偉大な7つ(ないし6つ)の存在アムシャ・スプンタ(「聖なる不死者」)を礼拝すること。
- すべての善をアフラ・マズダーに帰すること。
である。
この5つに加えてさらに、アフラ・マズダーを、創造主ととらえたことが、従来のインド・イランの信仰と著しく異なる点である[注釈 4]。
ゾロアスター教は、紀元前1千年紀の前半、イラン東部からアフガニスタンを含む中央アジアの西部で成立し、その後、アケメネス朝の時代にはイラン高原にも浸透するようになっていたものと推測される[3]。ゾロアスター教においては、世界は、光明をつかさどる善神のアフラ・マズダーと闇の世界を支配する悪神アンラ・マンユの闘争の場と見なされ、火はアフラ・マズダーの象徴として特に重視された[3]。
教義の成立
スピターマの一族に属するザラスシュトラの思想は、バルフ(現アフガニスタン)の小君主ウィシュタースパ王の宮廷で受容されて発展した[6]。ザラスシュトラは、アフラ・マズダーの使者であり、神の啓示を伝える預言者としてこの世に登場し、善悪二神の争いの場であるこの世界の真理を解き明かすことを使命としていることを主張した。上述のようにザラスシュトラは、最初に2つの対立する霊があり、両者がたがいの存在に気づいたとき、善の霊アフラ・マズダーは生命と真理を選び、対立霊アンラ・マンユは死や虚偽を選んだと説いた[6]。
かれによれば、知恵の主アフラ・マズダーは、戦いが避けられないことを悟り、戦いの場とその担い手とするためにこの世界を創造した。その創造は天、水、大地、植物、動物、人間、火の7段階からなった。それぞれの被造物はアフラ・マズダーの7つの倫理的側面により、特別に守護された[6]。それに対してアンラ・マンユは大地を砂漠に、大海を塩水にし、植物を枯らして人間や動物を殺し、火を汚すという物理的な攻撃を加えた。しかしアフラ・マズダーは世界を浄化し、動物や人間を増やすなど、不断の努力でアンラ・マンユのまき散らす衰亡・邪悪・汚染などの害悪を、善きものに変えていった。このように、ザラスシュトラは、歴史とは創造された「この世界」を舞台とした2つの勢力の戦いであるという理解を示しており、このような歴史把握は、初期キリスト教の神学者であるアウグスティヌスの唱えた「神の国論」に先がけた歴史観といえる。
善悪の抗争では最終的には善が勝利すると信じられる。上述のように、ゾロアスター教によれば歴史は「創造」「混合」「分離」の3期に分かれ、現在は「混合の時代」である。創造神アフラ・マズダーの「創造」によって始まった時代(「創造の時代」)は完璧な世界だったが、悪神たちの攻撃後「混合の時代」に入り、善悪が入り混じって互いに闘争する時代となる。ここにあっては、すべての人間は人生においてこの戦いに否応なく参加することになり、アフラ・マズダーやアムシャ・スプンタを崇拝して悪徳を自らの中から追い出し、善が勝つように神々とともに悪に打ち克つ努力をしなければならない。死後、楽土へ向かう「チンワト橋(選別者の橋)」でミスラの審判を受けて善行を積んできたものは楽土(天国)へ渡ることができ、一方、悪を選んだものは橋から落ちて地獄に向かう。そして将来的には「治癒」(フラショー・クルティ、フラシェギルド)と呼ばれる善の勝利と歴史の終末が起こり、それ以後の「分離の時代」には悪と善は完全に分離し、アンラ・マンユと悪を選んだ者たちは消滅し、世界は再び完璧で理想的なものとなって、「分離の時代」は永遠に続くと考えられた。
こうした世界観は、ペルシャからメソポタミアにも広がり、たとえばバビロン捕囚期のユダヤ教へも影響を与えた[注釈 5]。ユダヤ教を母体としたキリスト教もこれらを継承しているといわれる。さらに、ペルシャ高原東部では大乗仏教の伝播にともない弥勒菩薩への信仰と結びつき、マニ教もまたゾロアスター教の影響を強く受けた[注釈 6]。イスラームもまたマニ教と並んで、ユダヤ教やキリスト教を通じてゾロアスター教の影響も受けており、イスラームの啓典『クルアーン』(コーラン)にもゾロアスター教徒の名が登場する。
ゾロアスター教の発展と展開
他宗教への影響と同様に、同時代の政治に対してゾロアスター教の影響がどれほどであったかについても、研究者によって意見が分かれている。古代にあっては一般に、政治と宗教はたがいに密接な関連性を有していたため、他宗教に対する影響が大きいと考える研究者ほど、その政治的影響も強かったと考える傾向にある。歴代王朝の下にあってゾロアスター教は常に「国教」のような役割をになったと考える研究者もいるが、見解は統一されていない。
アケメネス朝
アケメネス朝ペルシア(紀元前550年-紀元前330年)の歴代の大王たちが、ザラスシュトラの教え(ゾロアスター教)に帰依していたとする根拠には以下のものがある。
- アケメネス朝第3代の王ダレイオス1世は多くの碑文を残したが、自ら「アフラ・マズダーの恵みによって、王となりえた」と記し、神権授受を意味する告知がなされている[3][6][8]。
- ペルセポリスのダレイオスの宮殿には有翼のプラヴァシの姿やアフラ・マズダーのシンボルを刻んだ浮彫彫刻(レリーフ)が施されている[3][8]。
- 「聖なる火」の祭壇の遺跡が多数存在する[3]。
これらの根拠に対して、以下のような反論も提出されている。
- 多くのレリーフは、ダレイオス1世が「マズダー教徒」であった証拠にはなるが、「ゾロアスター教徒」であった証拠とはならない。すなわち、アケメネス朝時代の遺構や遺物はアフラ・マズダー信仰を示唆するものでしかない[3][注釈 7]。
- 火の祭壇は、ザラスシュトラ以前からアーリア人の宗教で用いられている[注釈 8]。
さらに、
- アケメネス朝の古代ペルシア語の碑文にはザラスシュトラの名が一度も現れない[9]
このようなことから、ゾロアスター教がアケメネス朝ペルシアの「国教」であると断定することには慎重でなくてはならない。ただ、初代の王であるキュロス大王が「ユダヤ人のバビロン捕囚からの解放者」と見なされるように、アケメネス朝ペルシアは、異民族の宗教に対して寛容な姿勢を示した。したがって、仮にゾロアスター教がアケメネス朝の「国教」であったとしても「支配者の宗教」という意味に限定される。アケメネス朝では、帝国に帰属する多様な諸民族のそれぞれの宗教に対しては一定の自由が保障されており、アケメネス朝支配下のユダヤ人は独自の「シンクレティズム」的宗教思想を育むことが可能であったと考えられるのである[注釈 9]。
なお、同時代のギリシャの歴史家ヘロドトスは、「ペルシア人はこどもに真実を言うように教える」「ペルシア人は偶像をはじめ、神殿や祭壇を建てるという風習をもたない」と記している[6]。しかし、古代メソポタミアにおけるイシュタル信仰がペルシアにも影響してアナーヒター信仰へと同一視されるようになったのも、アケメネス朝の時代である。アケメネス朝期には、アナーヒターの偶像を置いた神殿が築かれる一方、それまで竈の火を日々の儀式に使い、祭礼では野外に集まっていたペルシャ人も、メソポタミアの偶像と神殿をともなう信仰に対抗して、火を燃やす常設の祭壇を設けた特別な建物を造るようになった。やがて、こうした火や建物が神聖視されるのである。
セレウコス朝
マケドニア王国のアレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)の東方大遠征によってアケメネス朝は滅び、アレクサンドロスのディアドコイ(後継者)セレウコス1世によるギリシャ人王朝がシリアからメソポタミア、ペルシアにかけて成立した。これがセレウコス朝(紀元前312年-紀元前63年)である。これにより、当時、パレスティナからメソポタミア、イランにかけて「ヘレニズム」の影響がおよんだ。ギリシア文化はインドにまでおよび、逆にインド文化も地中海世界に流れ込んだ。このような文化的シンクレティズムの時代にユダヤ教は新しい神学理論を生み出した。後のグノーシス主義や洗礼教団の起源となる「救済者」(メシア)の教理が流布されたのである。そこから、ミトラス教(ミトラ教)や後期ユダヤ教、キリスト教につながる一神教の原型がかたちづくられた。ゾロアスター教そのものは、元来は寺院や偶像崇拝を認めなかったが、ギリシア文明やインド文明の影響で受容するように変化した[10]。
パルティア王国
紀元前3世紀、セレウコス朝シリアは大きく後退し、アルサケス朝によってイラン高原北東部にペルシア人帝国であるパルティア王国が建国された(紀元前247年-紀元後226年)。アルサケス朝パルティアにおいてゾロアスター教の公式教義がほぼ確定したと考えられており、『アヴェスター』が聖典として文書化され、これは、古来の伝統を記録する思潮と連動していた。ただし、この時期の宗教が「ゾロアスター教」と称しうるものであったかについては、なおも見解が分かれる。パルティアは史料が乏しいため、隣国のアルメニア王国の史料で推測すると、パルティアでは「契約」の神ミスラ(上述)が重視されたと考えられ、パルティア王国の宗教はゾロアスター教というよりは「ミスラ教」と称すべきものに変質した可能性がある[注釈 10][注釈 11]。
サーサーン朝
パルティアを倒したサーサーン朝(226年-651年)は従来の宗教政策を一変させ、ゾロアスター教を正式に「国教」と定め、儀礼や教義を統一させた。その時、異端とされた資料は全て破棄された。他宗教も公式に禁止された。サーサーン朝は、その支配の正統性をアケメネス朝の後継者という地位とゾロアスター教に求めた。そして非イラン的な異邦人の王朝アルサケス朝を倒して伝統的信仰を復興したのだと主張した。実際にはパルティア時代の大貴族の多くがサーサーン朝時代にも大きな力を持ち続け、サーサーン朝の政治機構や文化、社会は多くの点でパルティア王国を継承したものであったが、このアケメネス朝-サーサーン朝を正統とする歴史観は後世のイラン世界にも大きな影響を残った。
サーサーン朝の建国者アルダシール1世に仕えた祭司長タンサールの元でゾロアスター教は体系化され、正典と統一的な教会組織が形成されたといわれている。サーサーン朝期においては、諸王が発行する貨幣の裏面に拝火壇が刻印されるようになり、ゾロアスター教が世俗支配のうえでも重要な役割をになうようになったものと推測される[3]。
3世紀前葉に活躍した第2代シャープール1世は衰退期に入ったローマ帝国としばしば闘争し、サーサーン朝優位のもとで王権を盤石なものにしていった。シャープール1世以降3代の王のもとで権勢をふるった祭司長カルティール(キルディール)は、ゾロアスター教の国教化に重要な役割を果たし、諸州に多くの聖火をともしたが、同時に新興のマニ教を異端として退け、シャープール在世時代には重用された教祖のマニを処刑するとともに仏教、ユダヤ教、キリスト教を弾圧した[3]。『アヴェスター』の文書化はサーサーン朝成立後、半世紀以上経過した3世紀半ばに完成している。ただし、サーサーン朝の諸王は、みずからの信仰を「マズダー信仰」ないし「よき信仰(ベフ・ディン)」と称し、少なくとも王碑文においてはザラスシュトラ(ゾロアスター)の名は記されない[3]。
この時代、東方に対しては隊商などペルシア商人の活発な活動によって中央アジアや中国へのゾロアスター教の伝播がなされ、いっぽう西方に対してはローマなどをはじめとする地中海世界との交流や抗争によって教義などの面でたがいの影響を受けたと考えられる。
なお、この時代には使用される言語は「中世ペルシア語」に変質しており、「古代ペルシア語」で記述されている『アヴェスター』の「ガーサー」部分は当時すでに解読困難になっていたと考えられる。
イランのイスラーム化とその影響
サーサーン朝はホスロー1世の時代に絶頂を迎えるが、建国後約400年にして、アラビア半島のメッカの商人ムハンマドによるイスラームの開教を迎える。アラブ族の民族宗教として始まったイスラム教は、しかし瞬く間に周縁諸地域に布教され、イスラム帝国の成立と拡大によって世界宗教の偉容を備える。サーサーン朝はイスラム帝国の前に滅亡した。アラブ族はペルシアを軍事的に征服したが、古くから文明を発展させてきたペルシアは官僚や学者としてこれを支え、むしろイスラム帝国を内部から文化的に征服したとも評される。イスラム帝国のもと、ペルシアの文化は再度開花した。
イランにおけるゾロアスター教の衰退
イスラム帝国の歴史学者や知識人は、帝国の領域に含まれる土地の宗教や文化慣習を詳細な記録に残した。中世のメソポタミアやイランにおけるゾロアスター教、マニ教、ミトラス教などに関する情報は、ムスリム(イスラーム教徒)知識人たちの記録によるところが大きい。しかし、『デーンカルド』(宗教総覧)などのパフラヴィー語(中世ペルシア語)文献が伝えるゾロアスター教の姿は、『アヴェスター』の語るザラスシュトラの教えとは整合しない部分が多数あり、また、少数派となりながらも21世紀の今日まで生き延びているゾロアスター教信徒たちの「伝承の教え」と比較しても、齟齬が生じている。
サーサーン朝の国教となる以前のゾロアスター教は普遍的な世界宗教の性格を有した。それは近隣諸地域の文化に大きな影響を与え、信徒もまた広大な範囲に広がっていた。しかし、国教化とともに、そしてイスラム帝国の勃興ととともに、ゾロアスター教は偏狭な一面を備える宗教とみなされるようになり、その故地であるイランがイスラーム化してからは、新しい世界宗教として台頭したイスラームにとって代わられた。
イスラーム教徒の支配下でイランのゾロアスター教徒はズィンミーとされ、厳しい迫害を受けた。ジズヤの支払いは経済的圧迫となっただけでなく、精神的にも多大な屈辱を受けた。信仰の保持は認められたもののムスリムへの布教は死罪とされ、事実上不可能となった。このこともゾロアスター教が世界宗教から血縁にもとづく民族宗教へと転落する要因となった。さらに寺院の修復や新築には特別の許可を必要とし、その他にも数々のムスリムとの差別待遇が存在した。表立った強制改宗は稀だったが、多くのゾロアスター教徒は差別と迫害を逃れるためにムスリムへの改宗を余儀なくされたのである。
近代に至り、イラン社会も世俗化の流れの中でジズヤが廃止され、ようやくムスリムとは法的に対等の権利を得るようになった。
ゾロアスター教徒のインド移住
サーサーン朝の滅亡を機にイランのゾロアスター教徒のなかにはインド西海岸のグジャラート地方に退避する集団があった。伝承では、4つあるいは5つの船に乗ってグジャラート州南部のサンジャーンにたどり着き、現地を支配していたヒンドゥー教徒の王ジャーディ・ラーナーの保護を得て、周辺地域に定住することになったといわれる[11]。神官団はサンジャーン定住5年にして、使者を陸路イラン高原のホラーサーンに派遣し、同地のアータシュ・バフラーム級聖火をサンジャーンに移転させたといわれている[11]。
インドに移住したゾロアスター教徒は、現地でパールシー(「ペルシア人」の意)と呼ばれる集団となって信仰を守り、以後、1000年後まで続く宗教共同体を築いた。かれらはイランでは多く農業を営んでいたといわれるが、移住を契機に商工業に進出するとともに、土地の風習を採り入れてインド化していった[10]。
今日のゾロアスター教
信者の分布
近代以前からゾロアスター教が信仰されていた地域は、以下の通りである。
- イラン:かつてゾロアスター教を国教としたサーサーン朝ペルシア帝国の中心地。ヤズドを中心に信徒数3万ないし6万人[12]。
- インド:10世紀ごろにイランを脱出したゾロアスター教徒がグジャラート州に移住。ペルシア人を意味するパールシー(教徒)と呼ばれた。現在はパールシーの経済活動の中心地であるボンベイ(ムンバイ)を主たる拠点として、信徒数7万5千人[12]。
- パキスタン:英領インドがインド共和国とパキスタンに分離して独立国となった際、2,500人から6,000人のパールシーがパキスタンの領域に住んでおり、パキスタン国民となった。中心地はカラチである[12]。
- アゼルバイジャン・グルジア・イラク:若干名
近代以降、多くのパールシー教徒が英語圏の各地に、イラン本国のゾロアスター教徒がドイツに移民として移住したことにより、信者の分布地域は拡大していった[12]。
イラン
イランのゾロアスター教は、イスラム化の進展によって少数派に転落したが、今日でも小規模ではあるものの信徒の共同体が残存し、現代ペルシア語で「ゾロアスターの教え,ディーネ・ザルドゥシュト(دین زردشت)」と呼ばれている。イラン中央部のヤズド、南東部のケルマン地区を中心に数万人の信者が存在している。ヤズドでは人口(30万人)の約1割がゾロアスター教徒だとされる。ヤズド近郊にはゾロアスター教徒の村がいくつかあり、拝火寺院は信者以外にも開放され、1500年前から燃え続けているという「聖火」を見ることができる。
ダフメ(daχmah いわゆる「沈黙の塔」)による鳥葬は、1930年代にパフラヴィー朝のレザー・シャーにより禁止され、以後はイスラム教等と同様に土葬となった。現在では活用されておらず、観光施設として残されるにとどまる。
近代化の進展により、ムスリムと同等の法的権利を獲得したゾロアスター教徒であったが、イランイスラーム革命により再び隷属的地位におかれることとなった。
イランにおいては、ゾロアスター教の聖地に少数の共同体が存続し、21世紀の今日まで細々と教えの伝統を継承している。とはいえ、かつての世界宗教としてのゾロアスター教の姿はイスラームによる厳しい迫害を潜り抜けた今日の宗教共同体には見ることができず、ゾロアスター教は信徒資格を血縁に求める民族・部族宗教へと、逆に後退し衰退してしまった。現在、ゾロアスター教では、信徒を親に持たない者の入信を受け入れていない。
インドとパキスタン
現在、インドはゾロアスター教信者の数の最も多い国となっている。今日では同じ西海岸のマハーラーシュトラ州のムンバイ(旧称ボンベイ)にゾロアスター教の中心地があり、開祖ザラスシュトラが点火したと伝えられる炎が消えることなく燃え続けている。ゾロアスター教は、インドでは、ペルシャ人を意味する「パールシー」と呼ばれ、パールシー同士だけで婚姻し、周囲とは異なるパールシー共同体を形成している[7]。数としては少ないが商業や貿易、知的職業に就く人が多く、非常に裕福な層に属する人や政治的な影響力をもった人々の割合が多い[7]。インド国内で少数派ながら富裕層が多く社会的に活躍する人が多い点は、シク教徒と類似しており、インドの二大財閥のひとつタタ・グループは、パールシーの財閥である。パールシーは同じ教徒同士の堅固な結合と相互扶助もあって、彼らの社会には生活において貧窮する者がいないといわれる[7]。
寺院はマハラシュトラ州のムンバイとプネーにいくつかあり、ゾロアスター教徒のコミュニティを作っている。寺院にはゾロアスター教徒のみが入る事が出来、異教徒の立ち入りは禁じられている。神聖な炎は全ての寺院にあり、ペルシャから運ばれた炎から分けられたものである。寺院内には偶像はなく、炎に礼拝する。インド国内のゾロアスター教徒のほとんどはムンバイとプネーに在住している。またグジャラート州のアフマダーバードやスーラトにも寺院があり、周辺に住む信者により運営されている。
いっぽう、パキスタン(人口1億3,000万人)のゾロアスター教徒は5,000人で、主にカラチ一帯に居住しており、イランからの信者流入により教徒数は増加傾向にある。
中国
中国への伝来したのは、5世紀から6世紀にかけての頃とされている。交易活動のために多数のイラン人がトルキスタンから現在の甘粛省を経て中国へわたり、そのことにより、当時、東西に分裂していた華北の北周や北斉に広まったという[13]。信者は相当数いたものと思われ、唐代には「祆教(けんきょう)」と称された[13]。教団が存在し、その取締り役として「薩宝(さっぽう)」「薩甫(さっぽ)」ないし「薩保(さほ)」がいたというが、その意味の詳細は不明である[13]。隋や唐の時代になると、ペルシア人やイラン系の西域出身者(ソグド人など)が薩宝(薩甫、薩保)は1つの官職と認められて官位が授けられ、ゾロアスター教寺院や礼拝所(祆祠)の管理を任された[13]。首都の長安や洛陽、あるいは敦煌や涼州などといった都市に寺院や祠が設けられ、長安には5カ所、洛陽には3カ所の祆祠(けんし)があったといわれている。しかし、ゾロアスター教徒は中国においてはほとんど伝道活動をおこなわなかったといわれる[1]。
唐においては、景教(ネストリウス派キリスト教)・マニ教とあわせて三夷教、その寺を三夷寺と呼び、国際都市長安を中心に多くの信者を有したが、武宗の廃仏(会昌の廃仏)のときに、仏教とともに三夷教も弾圧を受け、以後は衰退していった。
また、西北部に居住するトルコ族の国ウイグル(回鶻、現在の新疆ウイグル自治区)では、マニ教とともにゾロアスター教も広く信仰されたが、11世紀から13世紀にかけての西域はイスラーム化が進行した。
中国における祆教の信者は、多くの場合ペルシア人や西域出身者であったが、当初は隊商の商人が多数を占め、のちにはサーサーン朝からの亡命者などが加わったものと思われる[13]。祆教は、14世紀ころまで開封や鎮江などに残っていたと記録されているが、その後の消息はつかめていない[13]。なお、唐代から元代にかけて対外貿易港だった福建省泉州市の郊外には波斯荘という村があり、現在でもペルシア人の末裔が暮らしているという。彼らは現在、漢族に同化し、言語・形質面ではこれと変わらないがイスラームを奉じており、回族として認定されている。彼らの宗教儀式のなかはゾロアスター教の名残がみられるともいわれている。
19世紀後半から20世紀前半にかけては上海や広州などにインド亜大陸から渡来したパールシーの商人が、租界を中心に独自のコミュニティを築いていた。現在でも香港には「白頭教徒」と呼ばれる数百人のパールシーが定住し、コーズウェイベイ(銅鑼灣)の商業ビル(善楽施大厦)の一角に拝火寺院が、ハッピーバレー(跑馬地)に専用墓地が存在する。マカオには現在パールシーは居住していないが、東洋望山に「白頭墳場」と呼ばれる墓地があり、香港が貿易拠点として発展する以前はパールシー商人が居留していたものと考えられる。
日本
古代日本へのゾロアスター教伝来は未確証であり、ゾロアスター教の信仰・教団・寺院が存在した事実を示すものも発見されていないが、ゾロアスター教は唐時代に中国へ来ており、また日本には吐火羅や舎衛などのペルシア人が来朝していることから、なんらかの形での伝来が考えられている。イラン学者伊藤義教によれば、来朝ペルシア人の比定研究などをふまえて、新義真言宗の作法やお水取りの時に行われる達陀の行法は、ゾロアスター教の影響を受けているのではないかとする説を提出している[14]。
近代の日本では、戦前からインド・ゾロアスター教徒により、神戸在住の貿易商として定住がはじまり、その子孫の人々は現在でも神戸および東京で健在である。在日も3世代目ないし4世代目となり、日本生まれの日本育ちとしてすっかり日本文化にとけ込んでいるが、国籍はインドを維持し、祭祀の際などにはムンバイに帰ってゾロアスター教の儀礼に参加している[15]。
欧米
19世紀以降、インドからのパールシーの移住に伴い、北米には18,000-25,000人の南アジア・イラン系の信者、オーストラリア(主にシドニー)には3,500人の信者が在住している。
パールシー出身の著名人
- カイホスルー・シャプルジ・ソラブジ(イギリスの作曲家)
- フレディ・マーキュリー(ザンジバル生まれのイギリスの歌手)
- ズービン・メータ(インド人の指揮者)
- ジャムシェトジー・タタ(タタ・グループの創始者)
- ラタン・タタ(タタ・グループの会長)
逸話
- 日本では東芝が過去に使用した電球や真空管などのブランド名(ゼネラル・エレクトリックのライセンスによる)「マツダ」の綴り Mazda は、アフラ・マズダーに由来する
- 日本の自動車メーカーのマツダは創業者の姓(松田)を冠していると共に、その綴り Mazda はゾロアスター教の主神アフラ・マズダーに由来する。
- フリードリヒ・ニーチェの著作「ツァラトゥストラはこう語った」のツァラトゥストラとは、ザラスシュトラをドイツ語読みしたものである。リヒャルト・シュトラウス作曲の同名の交響詩についても同様である。
脚注
注釈
- ^ アエーシュマは、『旧約聖書』に登場するアスモデウスの前身とも考えられている。
- ^ ゾロアスター教の至高神アフラ・マズダーは、バラモン教の経典『リグ・ヴェーダ』では単に「アスラ(Asura)=主」として記された神であり、『リグ・ヴェーダ』のある詩句では、この二柱(火の神ミスラと水の神ヴァルナ)の下位の「主」は、次のような言葉で語りかけられている。「あなたたち二神は、アスラの超自然的力を通して空に雨を降らせる。…あなたたち二神は、アスラの超自然的力を通して、あなたたちの法を守る。リタ(=自然の法則)を通して宇宙を支配する」(『リグ・ヴェーダ』5:6,3:7)。メアリー・ボイスによれば、アフラ・マズダー(アスラ)、ミスラ、ヴァルナの三柱の「主」は、いずれもきわめて倫理的な存在であり、「自然法則」(イランではアシャ、インドではリタ、と称する)を擁護しつつ、みずからもこれに従う。こういった高度な観念は、原インド・イラン語族が早くも石器時代に発展させたものと考えられ、その末裔の宗教に深く織り込まれていると考えられる。ボイス(1983)pp.14-15
- ^ ヤスナに記されたフラワラーネは「私は自ら、マズダーの礼拝者であり、ゾロアスターの信奉者であり、ダエーワを拒否し、アフラの教義を受け入れることを告白します。アムシャ・スプンタを礼拝します。善にして宝にみちたアフラ・マズダーに、すべての良きものを帰させます」というものである。ボイス(1983)pp.50-52。原出典は『アヴェスター』「ヤスナ」12:1
- ^ メアリー・ボイスによれば、ゾロアスター教徒の信仰告白においては、アフラ・マズダーは創造主として尊ばれているが、異教時代のイラン人にとって創造主とみなされていたとは考えられない、という。何となれば、もし異教時代のイラン人が、どれか1つの神に創造的な活動を担わせようとするならば、その神は、アフラ・マズダー、ミスラ、ヴァルナの3大アフラのなかでむしろ下位のアフラで、おそらくは最も遠く離れてある「叡智の主」の命令を実行する神ヴァルナであったろうというのがボイスの見解である。さらに、このことがゾロアスターの教義のなかでもきわだった特徴のひとつであったとも指摘している。ボイス(1983)p.52
- ^ メアリー・ボイスによれば、アケメネス朝のキュロス王が、ユダヤ教を含む他宗教に寛容な政策をとったことで、「ユダヤ人はこの後もペルシア人に好感を持ち続け、ゾロアスター教の影響を一層受容しやすくなった」という。ボイス(1983)p.74。ただし、ボイスがその著書の中で前提としている条件としては、次のいくつかのことがある。ゾロアスターの出生が紀元前1500年から1200年の間であること、ユダヤ人を紀元前536年に解放したキュロス王がゾロアスター教の信仰を有していたということ。また、この時点ですでに救済者の思想がゾロアスター教の中で成立していた、ということである。ボイス(1983)p.4およびpp.72-76。ただし、こうしたボイスの掲げる前提条件は、見解の相違するところでもある。
- ^ こうした影響に関する最新の論文としてWerner Sundermann, 2008, Zoroastrian Motifs in Non-Zoroastrian Traditions, Journal of the Royal Asiatic Society vol.18, Iss.2, pp. 155-165を参照。
- ^ ゾロアスター教徒の信仰告白の一節に「マズダー教徒でありゾロアスター教徒である私は」という言い回しがある。ボイス(1983)p.52。アフラ・マズダーはザラスシュトラの活動以前からインド・イランのアーリア人のあいだで信仰されていた神なので、マズダーを信じるだけではゾロアスター教徒とは断定できない。また、P・R.ハーツは、著書『ゾロアスター教』のなかで、ダレイオス1世がゾロアスター教徒であったと指摘しているが、訳者の奥西俊介は「訳者あとがき」のなかで、現在のゾロアスター教徒がプラヴァシ像とし、自分たちの守護霊としている有翼円盤人物像も、多くの研究者がアフラ・マズダーの像だとしており、この像はアケメネス朝ペルシアの遺跡で多く確認されるとはいうものの、それだけでは、アケメネス朝の事実上の開祖ダレイオス1世がマズダー信者であったことは確かであったとしても、ゾロアスター教徒であったかどうかは明白ではない、と反論している。P・R.ハーツ(2004)pp.171-172
- ^ メアリー・ボイスは、ザラスシュトラ以前よりイラン人祭司は神々にむけて礼拝式を捧げたが、火と水に対しきまった供物を捧げる儀礼そのものは変わらなかったのではないかとしている。ボイス(1983)p.18
- ^ シンクレティズムは、「宗教混淆」「混淆宗教」「習合」と翻訳される概念である。「シンクレティズム」の単語のまま用いることも多い。
- ^ 青木健は、古代アーリア人の神格としては存在していなかった<アラマズド=アフラ・マズダー>が「すべての父」と称されて尊崇の対象となっている点ではアルメニアの宗教はゾロアスター教のようにもみえると前置きしながらも、しかし、ヤシュトの段階でやっと復権した<ヴァハグン=ウルスラグナ>や<ミフル=ミスラ>が非常に重要な地位を占め、宗主国ローマの皇帝をミスラ神になぞらえている点は重要であると指摘している。青木は、これを重視するならば、アルメニア的ゾロアスター教≒パルティア的ゾロアスター教の主神はむしろミスラであり、ひいては「ゾロアスター教」という呼称そのものが不正確で、厳密にはミスラ教と称すべき信仰であったと論じている。青木(2008)pp.91-92
- ^ 青木健はまた、概説書などではアケメネス朝ペルシアからアルサケス朝パルティアの歴代王朝の統治下で、ゾロアスター教がいわば「国教」の地位を占めたと説かれるが、実際には、古代アーリア人の諸宗教とゾロアスター教の境界は曖昧であり、そのどちらとも受け取れるような諸宗教が人びとに幅広く受容されていたとしか言えないことを指摘している。青木(2008)pp.104-105
- ^ 19世紀から続く神官一族ジャーマースプ・アーサー家の第6代カイ・ホスロウによる入信式。青木(2008)p.253
参照
- ^ a b c 山本(2004)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap 『もう一度学びたい 世界の宗教』(2005)pp.188-193
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 川瀬(2002)pp.58-59
- ^ 上岡(1988)pp.140-141
- ^ 加藤「マニ教」(2004)
- ^ a b c d e f 山本(2006)
- ^ a b c d e f g h i 吉村(1975)pp.131-1357
- ^ a b 。P・R.ハーツ(2004)p.59
- ^ P・R.ハーツ、奥西訳(2004)「訳者あとがき」pp.171-172
- ^ a b 山下(2007)
- ^ a b 青木(2008)p.224
- ^ a b c d e f g h 青木(2008)p.248
- ^ a b c d e f 岩村(1975)pp.171-174
- ^ 伊藤(1980)
- ^ 青木(2008)pp.253-254
出典
- 岩村忍『世界の歴史5 西域とイスラム』中央公論社〈中公文庫〉、1975年1月。
- 伊藤義教『ペルシア文化渡来考』岩波新書、1980年3月。ASIN B000J89KPO。
- メアリー・ボイス 著、山本由美子 訳『ゾロアスター教』筑摩書房、1983年9月。ASIN B000J7AZR2。
- 上岡弘二 著「マニ教」、平凡社(編) 編『世界大百科事典27 マク-ムン』平凡社、1988年3月。ISBN 4-582-02200-6。
- 川瀬豊子 著「第1章 古代オリエント世界」、永田雄三(編) 編『西アジア史II イラン・トルコ』山川出版社、2002年8月。ISBN 978-4-634-41390-0。
- P・R.ハーツ 著、奥西峻介 訳『ゾロアスター教』青土社〈シリーズ世界の宗教〉、2004年11月。ISBN 4791760913。
- 渡辺和子(監修) 編『もう一度学びたい 世界の宗教』西東社、2005年10月。ISBN 4-7916-1293-0。
- 加藤武 著「マニ教」、小学館(編) 編『日本大百科全書』小学館〈スーパーニッポニカProfessional Win版〉、2004年2月。ISBN 4099067459。
- 山本由美子 著「ゾロアスター教」、小学館(編) 編『日本大百科全書』小学館〈スーパーニッポニカProfessional Win版〉、2004年2月。ISBN 4099067459。
- 山本由美子 著「ゾロアスター教」、合志太士(編) 編『週刊朝日百科 シルクロード紀行18 ペルセポリス」』朝日新聞社、2006年2月。ASIN B006WWXAT8。
- 山下博司 著「第II章 インドの歴史と宗教」、山下博司・岡光信子(共著) 編『インドを知る事典』東京堂出版、2007年9月。ISBN 978-4-490-10722-7。
- 青木健『ゾロアスター教』講談社〈講談社選書メチエ〉、2008年3月。ISBN 4062584085。
参考文献
- 『ヴェーダ アヴェスター』 伊藤義教訳 <世界古典文学全集3>筑摩書房 原典の抄訳版
- 伊藤義教訳『原典訳アヴェスター』ちくま学芸文庫、2012年、ISBN 4480094601、上記の『ヴェーダ・アヴェスター』から「アヴェスター」部分を抜粋
- 伊藤義教 『ゾロアスター研究』 岩波書店、1979年。
- 伊藤義教『ペルシア文化渡来考』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2001年4月。ISBN 4480086366。
- 伊藤義教 『ゾロアスター教論集』 平河出版社 ISBN 4892033154
- 『ゾロアスター教論考』 エミール・バンヴェニスト&ゲラルド・ニョリ
- 前田耕作編・監訳、平凡社東洋文庫、1996年 ISBN 4582806090
- 前田耕作 『宗祖ゾロアスター』 ちくま新書/新版ちくま学芸文庫 ISBN 448008777X
- 青木健 『ゾロアスター教の興亡』刀水書房 ISBN 4887083572
- 青木健 『ゾロアスター教史』 <刀水歴史全書79>刀水書房 ISBN 4887083742
- 岡田明憲 『ゾロアスター教 神々への賛歌』 平河出版社 ISBN 4892030538
- 岡田明憲 『ゾロアスター教の悪魔払い』 平河出版社 ISBN 4892030821
- 岡田明憲 『ゾロアスターの神秘思想』 講談社現代新書
- メアリー・ボイス/山本由美子訳 『ゾロアスター教』 筑摩書房、1983年/新版・講談社学術文庫、2010年2月 ISBN 406291980X
- 山本由美子 『マニ教とゾロアスター教 世界史リブレット』 山川出版社、1998年 ISBN 4634340402-ブックレット版
- ミシェル・タルデュー/大貫隆・中野千恵美訳 『マニ教』 <文庫クセジュ>白水社、2002年 ISBN 4560058482
- 山本由美子 「パルティアとゾロアスター教」、『ヘレニズムと仏教 NHKスペシャル 文明の道2』 (日本放送出版協会、2003年)に所収。
- ミルチア・エリアーデ 『世界宗教史 第13章 ザラスシュトラとイラン宗教』
- 筑摩書房・第1巻 ISBN 4480085645/ちくま学芸文庫・第2巻、ISBN 4480085629
- 堀尾幸司 『キリスト殺しの真相』文芸社
- 妹尾河童 『河童が覗いたインド』新潮文庫 ISBN 410131103X
関連項目
- ナオジョテ
- アムルタート - アムシャ・スプンタの1人。
- ハルワタート - 同上。
- ツァラトゥストラはこう語った - ツァラトゥストラは、ザラスシュトラのドイツ語読み。
- エメラルドドラゴン - 作中名称の大半はゾロアスター教が由来。