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{{基礎情報 会社 |
{{基礎情報 会社 |
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|社名 = 株式会社大和<ref name="daiwa-annual-report-96-2012">{{Cite report |date=2012-5-30 |title= 株式会社大和 第96期有価証券報告書 |publisher= 大和 }}</ref> |
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|社名 = 株式会社大和 |
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|英文社名 = Daiwa Co., Ltd. |
|英文社名 = Daiwa Co., Ltd.<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" /> |
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|ロゴ = |
|ロゴ = |
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|画像説明 = |
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|種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |
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|市場情報 = {{上場情報|東証2部|8247}} |
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|略称 =ダイワ |
|略称 =ダイワ |
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|国籍 = {{JPN}} |
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|本社郵便番号 = 920-8561 |
|本社郵便番号 = 920-8561 |
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|本社所在地 = [[石川県]][[金沢市]][[片町 (金沢市)|片町]]二丁目2番5号 |
|本社所在地 = [[石川県]][[金沢市]][[片町 (金沢市)|片町]]二丁目2番5号<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" /> |
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|設立 = [[1943年]][[12月21日]] |
|設立 = [[1943年]]([[昭和]]18年)[[12月21日]] |
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|業種 = 6100 |
|業種 = 6100 |
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|統一金融機関コード = |
|統一金融機関コード = |
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|SWIFTコード = |
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|事業内容 = [[百貨店]] |
|事業内容 = [[百貨店]] |
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|代表者 = [[代表取締役]][[社長]]:宮 二朗 |
|代表者 = [[代表取締役]][[社長]]:宮 二朗<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" /> |
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|資本金 = 34億6270万円 |
|資本金 = 34億6270万円<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" /> |
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|発行済株式総数 = |
|発行済株式総数 = |
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|売上高 = 単体 |
|売上高 = 単体489.98億円、連結520.06億円<br />(2012年(平成24年)2月期)<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" /> |
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|経常利益 = 単体2.09億円、連結2.64億円<br />(2012年(平成24年)2月期)<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" /> |
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|営業利益 = |
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|純利益 = 単体3.46億円、連結0.91億円<br />(2012年(平成24年)2月期)<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" /> |
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|純利益 = |
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|純資産 = 単体 |
|純資産 = 単体46.40億円、連結59.12億円<br />(2012年(平成24年)2月)<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" /> |
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|総資産 = 単体 |
|総資産 = 単体418.52億円、連結468.55億円<br />(2012年(平成24年)2月)<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" /> |
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|従業員数 =単体687、連結956(2012年(平成24年)2月29日現在)<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" /> |
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|従業員数 = |
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|決算期 = 2月末 |
|決算期 = 2月末<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" /> |
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|主要株主 = [[宮太郎|宮 太郎]] 6. |
|主要株主 = [[宮太郎|宮 太郎]] 6.00%<br/>[[倉敷紡績]](株) 4.88%<br/>[[東京海上日動火災]](株) 4.75%<br/>宮 二朗 4.40%<br/>財団法人大和文化財団 3.33%<br/>(2012年(平成24年)29日現在)<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" /> |
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|主要子会社 = 本項『[[#関連企業]]』参照 |
|主要子会社 = 本項『[[#関連企業]]』参照 |
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|関係する人物 = [[ |
|関係する人物 = 井村徳三郎(創業者)、[[林屋亀次郎]](元会長)、[[井村徳二]](元社長)、[[宮太郎]](元社長) |
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|外部リンク = http://www.daiwa-dp.co.jp/ |
|外部リンク = http://www.daiwa-dp.co.jp/ |
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|特記事項 = |
|特記事項 = |
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株式会社 |
'''株式会社大和'''(だいわ、{{Lang-en-short|''Daiwa Co., Ltd.''}})は、[[石川県]][[金沢市]]に本社を置き[[北陸地方]]を地盤とする[[日本の百貨店]]である。 |
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== 沿革 == |
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=== 宮市洋品店から百貨店へ === |
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店舗は[[石川県]]と[[富山県]]に所在。[[第二次世界大戦]]前は、北陸全県で展開していたが、[[福井地震]]で被災すると福井県から撤退。その後も[[スクラップアンドビルド]]を繰り返し、地方百貨店の中に於いては優良企業と言われるも、不況による売り上げの落ち込みから逃れることはできず、[[2009年]](平成21年)、[[新潟県]]からの撤退を含めた抜本的リストラ策の発表に至り、長岡店と上越店を閉鎖。[[2010年]](平成22年)[[6月25日]]、新潟店が66年の歴史に幕を閉じ、新潟県から全面撤退した。 |
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'''井村徳三郎'''が兄が亡くなった為に帰郷して'''宮市洋品店'''を石川県金沢市片町で開業したのが始まりである<ref name="nikko-58years-1965">{{Cite book | 和書 | author = 重利俊一 | title = 日本硬質陶器58年の歩み | publisher = 日本硬質陶器(現[[ニッコー (洋食器)|ニッコー]] ) | date = 1965-10-20}}</ref>。 |
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[[金沢市]][[片町 (金沢市)|片町]]の旧本店ビルにて、商業施設「[[ラブロ片町]]」を運営している。同ビルに大和の本社も所在している。 |
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洋服、洋酒、帽子など複数の店舗に分かれて営業していた時期もあったが、[[1903年]]([[明治]]36年)に現在の[[ラブロ片町]]の場所に'''宮市洋品店'''として一つの店舗にまとめ、1906年(明治39年)に金沢市に老舗の製茶業を経営する林屋一族の林屋次三郎が合名会社林屋組を設立して洋食器などの硬質陶器の製造を行うことになった際には資本金5万円のうち1万円を出資して'''宮市洋品店'''がその一手販売権を取得する(この一手販売権は林屋組が日本硬質陶器株式会社に事業を引継いだ際に解消された)<ref name="nikko-58years-1965" />など急速に成長した。 |
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開業の経緯より、[[大丸]](現・[[大丸松坂屋百貨店]])との結びつきが強い。 |
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この頃既に宮市洋品店は個人営業ではなく、'''宮市合名会社'''として営業していた<ref name="nikko-58years-1965" />。 |
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[[2011年]](平成23年)7月15日に [[大阪証券取引所]]へ[[上場廃止]]を申請した。 |
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この洋品店を元に'''井村徳三郎'''が[[大丸|京都大丸]]と提携して[[1923年]]([[大正]]12年)10月15日に金沢市片町で'''宮市百貨店'''として開業したのが百貨店としての始まりである<ref name="daiwa-history-50-1972-9">{{Cite book | 和書 | authors = 大和五十年史刊行委員会 | title = 大和五十年のあゆみ | publisher = 大和 | date = 1972-9}}</ref>。 |
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== 沿革 == |
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* [[1923年]](大正12年)[[10月]] - 井村徳三郎が[[大丸]]と提携し、[[石川県]][[金沢市]]片町に'''宮市百貨店'''を創設(現[[ラブロ片町]])。 |
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=== 宮市大丸 === |
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* [[1930年]](昭和5年)[[8月]] - 株式会社'''宮市大丸'''を設立し、株式会社組織化。 |
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* [[1932年]](昭和7年)[[11月]] - [[富山県]][[富山市]]に富山店開設。 |
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[[1930年]](昭和5年)8月には株式会社'''宮市大丸'''を設立して株式会社化し、店舗名も改めている<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />。 |
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* [[1937年]](昭和12年)9月 - [[福井県]][[福井市]]に福井店を開設。 |
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* [[1940年]](昭和15年)12月 - [[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]の清津市に清津店を開設。 |
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'''宮市大丸'''は設立当初から北陸三県全域への営業展開を狙い、富山市や高岡市、石川県大聖寺(現在の[[加賀市]])、福井市など北陸三県の主要な各地区に出張販売を行い、富山市には出張員詰所を設置した<ref name="fukui-pref-history6-1996">{{Cite book | 和書 | author =福井県 | title = 福井県史 通史編6 近現代二 | publisher = [[福井県]] | isbn = 9784938772062 | year = 1996}}</ref>。 |
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* [[1942年]](昭和17年)11月 - 石川県金沢市に[[石川日産自動車販売]]株式会社を設立。 |
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* [[1943年]](昭和18年)[[12月]] - [[丸越]]と合併し、株式会社'''大和'''を設立。 |
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この富山の出張員詰所の売上が極めて良好だったため1931年(昭和6年)末には富山に百貨店の出店を決定し、出店のための用地買収を終えると富山支店開設事務所の看板を出すなど着々と準備を進めたが、このストレートな出店戦略が裏目に出て地元の小売商が進出阻止の期成同盟会を結成して富山県や富山市に反対の陳情を行うと共に200人以上でデモ行進を行うなどの猛烈な反対運動に見舞われることになった<ref name="fukui-pref-history6-1996" />。 |
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こうした反対運動を乗り越えて1932年(昭和7年)8月20日に富山市西町で一部営業を開始し<ref name="toyama-urban-plan-data-list-2011-3">{{Cite report |date=2011-3 |title= 富山県の都市計画(資料編) |publisher= 富山県土木部都市計画課 }}</ref>、同年11月10日に宮市大丸富山店を開店して百貨店の多店化の第一歩を踏み出した<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />。 |
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富山店は1930年(昭和5年)に[[三越]]金沢店が開業<ref name="oh-oka2009-4">{{Cite journal | 和書 | author =大岡聡 | title = 昭和戦前・戦時期の百貨店と消費社会 | journal = 成城大学経済研究所研究報告no.52 | publisher = [[成城大学]]経済研究所 | year = 2009 | month =4}}</ref>して競争が始まっていた金沢の本店を上回る売上を上げ<ref name="fukui-pref-history6-1996" /><ref name="daiwa-history-50-1972-9" />、1934年(昭和9年)12月2日に鉄筋コンクリート造り6階建<ref name="toyama-urban-plan-data-list-2011-3" />に増築して<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />中核店舗の一つとなった。 |
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金沢の本店は老舗製茶業の一族だった[[林屋亀次郎]]が[[武蔵ヶ辻]]に建設したビルに1930年(昭和5年)に三越金沢店が開業して高級品や中級品を主として営業したのに対して<ref name="oh-oka2009-4" />大丸との提携して<ref name="hokkoku-np-2007-5-25">{{Cite news | title = 再編劇の幕は開くか 北陸の百貨店、体制一新で風雲急 大和とめいてつ・エムザ | newspaper = [[北國新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2007-5-25 }}</ref>中級品以下の格安品を集めて商品の回転率を高める大衆的営業を展開して三越をわずか5年で撤退に追い込み<ref name="oh-oka2009-4" />、金沢を代表する百貨店としての地位を固めた。 |
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1936年(昭和11年)5月には以前から富山に続く百貨店の進出先として構想していた福井市への出店について、近代的な百貨店の誘致を考えていた三国町の県会議員濃畑三郎、福井銀行重役森田三郎右衛門らの協力により福井銀行が所有していた福井駅前の土地を取得できることになって出店の目処がつけた。 |
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この福井出店に際しては富山で生じたような反対運動を避けるため濃畑三郎を代表とする'''福屋'''という名称で建築申請を行うなど宮一大丸の名を出さないように考慮したが、同年7月頃には実質的には宮一大丸との噂が広まって反対の市民集会や福井市内72の小売商組合が福井県警察部長に面会して反対の陳情を行うなどその狙いは成功しなかった。 |
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しかし、「百貨店進出を阻止しうる根拠は何もない」「消費者階級にとつては新デパートの出現を賛成している」として同月18日にに許可が下り<ref name="fukui-pref-history6-1996" />、1936年(昭和11年)12月5日に'''福屋'''を開店にして事実上進出を果たし<ref name="fukui-pref-history-list-1998">{{Cite book | 和書 | author =福井県 | title = 福井県史 年表 | publisher = [[福井県]] | isbn = 9784938772086 | year = 1998}}</ref>、翌年1937年(昭和12年)9月に合併して'''宮市大丸福井店'''として正式に進出し<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />、北陸三県の県庁所在地全てを網羅する百貨店チェーンの構築を構築した。 |
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[[日中戦争]]の進展に伴う戦時統制経済下で民間向けの百貨店事業が縮小した際には地元に本拠を置いていた日本陸軍第9師団への軍需を獲得して業績の維持を図り<ref name="kawabata-2009">{{Cite journal | author =川端基夫 | title = 戦前・戦中期における百貨店の海外進出とその要因 | journal = 経営学論集 第49巻 第1号 | publisher = [[龍谷大学]] | issue = 2009}}</ref>、1940年(昭和15年)10月に第9師団の満州進駐が決まると御用商社として満州に同行する許可を取り<ref name="kawabata-2009" />、その拠点も兼ねて朝鮮と満州との国境線に近い朝鮮半島北部の港街清津にその発展を目指した現地の日本人の商人から清津駅前の土地の提供を受けて<ref name="kawabata-2009" />1940年(昭和15年)12月に'''宮市大丸清津店'''として百貨店を開業し<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />、軍需と現地の新市場開拓の両立を目指した<ref name="kawabata-2009" />。 |
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なお、宮市大丸は現在の[[日本百貨店協会]]の前身の日本百貨店商業組合に1933年(昭和8年)4月20日の創立総会のときから参画している<ref name="chugai-commercial-np-1933-4-25">{{Cite news | title = 百貨店の…商業組合の正体(上)自制案と今後の進展 | newspaper = [[中外商業新報]] | publisher = 中外商業新報社 | date = 1933-4-25 }}</ref>。 |
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=== 大和の誕生 === |
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戦時統制の進展に伴う企業統合令の発令により統合を求められたため1943年(昭和18年)12月21日に同じ金沢に本店を置く百貨店チェーンだった[[丸越]]と合併して林屋亀次郎が会長で[[井村徳二]]を社長とする資本金310万円の'''株式会社大和'''を設立し、店舗名も大和に変更された<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />。 |
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これに伴い、大和は片町の旧宮一大丸本店だった金沢本店の他に武蔵店(旧丸越本店)、新潟(旧丸越)、富山、福井、高岡(旧丸越)、清津と北陸三県に新潟県と朝鮮半島の計7店舗を持つ百貨店チェーンとなった<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />。 |
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=== 戦争の終結や地震、会長の退任による閉店 === |
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第2次世界大戦が終戦を迎えて朝鮮半島が日本の植民地でなくなったことに伴って1945年(昭和20年)9月に清津店が消滅し<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />、1948年(昭和23年)6月28日に発生した[[福井地震]]で店舗が倒壊した<ref name="kenmin-fukui-np-2008-5-28">{{Cite news | title = 6.28福井地震から60年 子どもたちへ 第1部 写真編(1)焼け野原の中心市街地 | newspaper = [[日刊県民福井]] | publisher = 中日新聞社 | date = 2008-5-28 }}</ref>ことを受けて福井店をそのまま閉店<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />、さらに林屋亀次郎会長が選挙に出馬する為に退任するのに伴って1952年(昭和27年)7月には武蔵店を閉店し<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />、武蔵店は再び丸越としてライバルの百貨店として復活することになった。 |
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この際に旧丸越の高岡店、新潟店は大和に残されたため金沢店、富山店と合せて石川県・富山県・新潟県の三県に4店舗を展開する百貨店チェーンとなった。 |
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=== 新規出店や店舗移転 === |
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1958年(昭和33年)10月18日に新潟県長岡市大手通2丁目に<ref name="nagaoka-cbd-2012-3-29">{{Cite report |date= 2012-3-29 |title=長岡市中心市街地活性化基本計画 平成24年3月29日 変更認定版 |publisher=長岡市}}</ref>新潟県では第2次世界大戦後初の百貨店となる長岡店を開業した<ref name="nigata-history-1989">{{Cite book | 和書 | title = 新潟県史別編1 | publisher = 新潟県 | year = 1989}}</ref>のを皮切りに出店を再開し、1975年(昭和50年)7月には上越市本町4丁目に上越店<ref name="joetsu-times-2009-10-15">{{Cite news | title = 上越大和が撤退へ 市民に動揺広がる | newspaper = [[上越タイムス]] | publisher = 上越タイムス社 | date = 2009-10-15 }}</ref>、1998年(平成10年)3月21日には[[小松駅]]前の西武百貨店小松店跡を買収して小松店を開店する<ref name="big-store-close-renewal-2003">{{Cite report |year=2003 |title=大型閉鎖店舗再生等対策の総合プロデュース人材育成事業 副読本 |publisher=[[経済産業省]]}}</ref>など再び多店化を進め、ピーク時には再び百貨店だけで7店舗を経営した。 |
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また、金沢市[[香林坊]]地区の再開発に参画して1986年(昭和61年)9月に本店を片町から[[香林坊アトリオ]]へ移転・増床させた<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />のを皮切りに、高岡市の[[御旅屋]]地区の再開発に参画して1994年(平成6年)3月18日<ref name="shoppingcenter-list-2011-2">{{Cite report |year=2011 |mounth=2 |title=都道府県別・政令指定都市別・市町村別SC |publisher=[[日本ショッピングセンター協会]] }}</ref>に旧店舗隣に完成した[[御旅屋セリオ]]に移転・増床<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />、富山市の[[総曲輪]]地区の再開発に参画して2007年(平成19年)9月21日に[[総曲輪フェリオ]]に富山店を移転・増床する<ref name="hokkoku-np-2007-9-25">{{Cite news | title = 4日で33万人、地元が9割 富山の「フェリオ祭り」を検証 | newspaper = [[北國新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2007-9-25 }}</ref>など石川県と富山県の既存店全てを再開発ビルに進出させたほか、1998年(平成10年)には長岡店周辺の再開発準備組合に参加する<ref name="yomiuri-np-2010-4-22">{{Cite news | title = 商店街ルネサンス まちは今「大和」撤退<上>長岡駅前変容を好機に | newspaper = [[読売新聞]] | publisher = 読売新聞社 | date = 2010-4-22 }}</ref>など再開発による既存店の更新にも積極的に取り組んでいた。 |
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こうした積極策により香林坊大和が1998年(平成10年)2月期に425億円、2011年(平成23年)2月期に242億円の売上を上げ<ref name="hokkoku-np-2011-4-24">{{Cite news | title = スリム化と改装、両にらみ 北陸の百貨店 | newspaper = [[北國新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2011-4-24 }}</ref>、富山店が総曲輪フェリオに移転した最初の1年間で200億円以上の売上を上げる<ref name="hokkoku-np-2008-9-20">{{Cite news | title = 売上高達成も正念場 富山の「総曲輪フェリオ」開業1年 金沢流出止まらず | newspaper = [[北國新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2008-9-20 }}</ref>。 |
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=== 百貨店以外の事業への進出と出資 === |
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1948年(昭和23年)に出版部門の[[勁草書房]]を設立し<ref name="kodansha-japanese-name-dictionary-2001">{{Cite book | 和書 | authors =上田正昭 平山郁夫 西澤潤一 三浦朱門 | title = 講談社 日本人名大辞典 | publisher = [[講談社]] | isbn = 4-06-210800-3 | date = 2001-12-06}}</ref>、1970年(昭和45年)3月に株式会社勁草書房として独立させる<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />など出版業へ進出したのを皮切りに、1954年(昭和29年)10月に株式会社大和印刷社を設立して<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />印刷業に、1967年(昭和42年)12月には株式会社大和ハウジングを設立<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />して家具販売に、1967年(昭和42年)に[[石川日産自動車販売]]株式会社を傘下に入れて<ref name="hokkoku-np-2011-6-1">{{Cite news | title = 金沢の米沢電気が石川日産取得 大和が株式売却 | newspaper = [[北國新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2011-6-1 }}</ref>自動車販売に、1970年(昭和45年)9月に[[金沢ニューグランドホテル]]を設立して<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />1972年(昭和47年)5月18日に[[シティホテル]]金沢ニューグランドホテルを開業させて<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />ホテル業にと様々な業種へ子会社などを通じて進出して多角化が進められた。 |
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新潟店に隣接する道路に1976年(昭和51年)に地下街[[西堀ローサ]]を開業させた新潟市の第三セクター「新潟地下開発」<ref name="niigata-nippo-2008-5-22">{{Cite news | title = 西堀ローサの売上が3割減少 | newspaper = [[新潟日報]] | publisher = 新潟日報社 | date = 2008-5-22 }}</ref>に三越と並んで22%出資して<ref name="asahi-np-2009-10-15">{{Cite news | title = 【百貨店】大和、新潟県から撤退へ…県内に衝撃 上越市は営業継続要請 | newspaper = [[朝日新聞]] | publisher = 朝日新聞社 | date = 10-15 }}</ref>地下食料品売り場と直結<ref name="yomiuri-np-2010-4-24">{{Cite news | title = 商店街ルネサンス まちは今「大和」撤退<下>新潟の跡地利用 | newspaper = [[読売新聞]] | publisher = 読売新聞社 | date = 2010-4-24 }}</ref>したり、1985年(昭和60年)9月に株式会社ディー・アンド・シー(100%出資子会社)を設立して<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />1986年(昭和61年)11月に<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />旧本店を専門店を中心とする「ラブロ片町」<ref name="hokkoku-np-2012-2-25">{{Cite news | title = 片町再開発が始動 基本計画策定に着手 | newspaper = [[北國新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2012-2-25 }}</ref>として開業する<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />など百貨店の店舗周辺や店舗跡の商業施設にも参加している。 |
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また、第2次世界大戦後に各地で民間放送が設立された際には百貨店を展開している石川県・富山県・新潟県の三県内に設立された放送会社の[[北陸放送]]<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />、[[新潟放送]]<ref name="daiwa-annual-report-94-2010">{{Cite report |date=2010-5-28 |title= 株式会社大和 第94期有価証券報告書 |publisher= 大和 }}</ref>、[[北日本放送]]<ref name="daiwa-annual-report-93-2009">{{Cite report |date=2009-5-28 |title= 株式会社大和 第93期有価証券報告書 |publisher= 大和 }}</ref>、[[テレビ金沢]]<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />に出資するなど営業エリア内の民間放送にも関与している。 |
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=== 店舗網の再編 === |
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[[リーマンショック]]後の2009年(平成21年)2月期の連結決算で法人化後初の営業、経常赤字に転落して最終赤字28.44億円となった'''大和'''<ref name="hokkoku-np-2009-10-15">{{Cite news | title = 新潟3店、小松店を閉鎖 大和が経営再生計画 | newspaper = [[北國新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2009-10-15 }}</ref>は、2009年(平成21年)10月15日に2010年(平成22年)2月期が4期連続最終赤字となる見通しで<ref name="yomiuri-np-2009-10-16-2">{{Cite news | title = 大和 4店閉店正式発表社長会見「ニーズ変化 手打てず」 | newspaper = [[読売新聞]] | publisher = 読売新聞社 | date = 2009-10-16 }}</ref>、売上高はピークから半減して<ref name="kitanihon-np-2009-10-16">{{Cite news | title = 「富山を主力店舗に」大和が構造改革発表、全店で470人削減 | newspaper = [[北日本新聞]] | publisher = 北日本新聞社 | date = 2009-10-16 }}</ref>合計10億円弱の<ref name="hokkoku-np-2009-10-16">{{Cite news | title = 小松店は来年6月末閉鎖 大和が再生計画発表 希望退職470人募る | newspaper = [[北國新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2009-10-16 }}</ref>営業赤字となっているだけでなくビルの老朽化も問題となっている上<ref name="kitanihon-np-2009-10-16" />、赤字幅が増大していて<ref name="yomiuri-np-2009-10-16-2" />今後も回復は見込めないとして<ref name="asahi-np-2009-10-15" />建物の原状回復費など閉店費用約45億円<ref name="yomiuri-np-2009-10-16-2" />で新潟、長岡、上越、小松店の4店を2010年(平成22年)6月までに閉鎖し<ref name="hokkoku-np-2009-10-16" />、同時に特別退職金約9億円<ref name="yomiuri-np-2009-10-16-2" />で全従業員約1320人を対象に<ref name="hokkoku-np-2009-10-16" />その35%に当たる470人の希望退職を募集し<ref name="kitanihon-np-2009-10-16" />、2009年(平成21年)2月期決算で営業黒字を確保していて建物の比較的新しく耐震性も含めハード面の投資が比較的少なくすむ香林坊、富山、高岡の3店体制へ集約して<ref name="kitanihon-np-2009-10-16" />2011年(平成23年)2月期に営業利益の黒字転換を目指す<ref name="yomiuri-np-2009-10-16-2" />大規模な事業再編計画を発表した。 |
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この発表の際には自社物件である新潟店と長岡店の土地・建物は売却し、「西堀ローサ」を運営する第三セクター・新潟地下開発への出資も将来的に引き上げて新潟県から撤退する方向で検討していると発表していた<ref name="niigata-nippo-2009-10-16">{{Cite news | title = 大和が県内撤退を正式表明 | newspaper = [[新潟日報]] | publisher = 新潟日報社 | date = 2009-10-16 }}</ref>。 |
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その発表通り2010年(平成22年)4月25日に長岡店<ref name="yomiuri-np-2010-4-22" />と上越店<ref name="joetsu-times-2010-4-26">{{Cite news | title = 大和上越店に感謝 34年の歴史に幕 | newspaper = [[上越タイムス]] | publisher = 上越タイムス社 | date = 2010-4-26 }}</ref>、同年6月25日に新潟店<ref name="sankei-np-2010-6-26">{{Cite news | title = 大和新潟店、66年の歴史に幕 新潟 | newspaper = [[産経新聞]] | publisher = 産経新聞社 | date = 2010-6-26 }}</ref>と小松店<ref name="hokkoku-np-2010-6-26">{{Cite news | title = 感謝込め12年の歴史に幕 小松市の小松大和 6千人、今年一番の人出 | newspaper = [[北國新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2010-6-26 }}</ref>を閉店した。 |
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この結果「新潟にこだわる相談役(宮太郎)の下では撤退は許されない」とされてきた<ref name="hokkoku-np-2007-5-25" />新潟県内の百貨店事業から完全に撤退することとなった。 |
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=== 関連会社の再編 === |
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2009年(平成21年)10月15日の4店閉店などの発表の際に子会社再編については今後の課題としていたが<ref name="hokkoku-np-2009-10-16" />、2011年(平成23年)5月23日に子会社で大和ハウジングが営業していた家具・インテリアショップを閉店し<ref name="hokkoku-np-2011-5-24">{{Cite news | title = 野々市の大和ハウジング閉店 セールに1万人 | newspaper = [[北國新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2011-5-24 }}</ref>、同月末31日に保有していた石川日産自動車販売の約48%の全株式を日産プリンス金沢を傘下に持つ米沢電気グループの北星産業に譲渡して自動車販売事業から撤退<ref name="hokkoku-np-2011-6-1" />と相次いで関連会社による事業の整理を行った。 |
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=== 存続店舗の改装とギフト店の縮小 === |
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存続店舗についても「百貨店の王道を歩みながら、バランスを考えていきたい」と低価格商品の導入拡大など価格戦略や商圏の見直し<ref name="yomiuri-np-2009-10-16-3">{{Cite news | title = 大和、県内2店舗は存続 | newspaper = [[読売新聞]] | publisher = 読売新聞社 | date = 2009-10-16 }}</ref>や富山店と高岡店の営業部門の統合<ref name="kitanihon-np-2009-10-16" />などの見直しを行いながら、赤字の為に抑制してきた設備投資を再開して基幹店の香林坊店と富山店で若い顧客を狙った改装を進め<ref name="hokkoku-np-2012-4-14">{{Cite news | title = 4店減収も「今期は増収」 北陸の百貨店5店 | newspaper = [[北國新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2012-4-14 }}</ref>、特に香林坊店は2011年(平成23年)9月の食料品売場改装を皮切りに2012年(平成24年)年2月1日から3月8日にかけて婦人ファッションを中心に27ブランドを導入して<ref name="hokkoku-np-2012-1-6">{{Cite news | title = 香林坊大和、過去最大の改装 3月上旬、24ブランド登場 | newspaper = [[北國新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2012-1-6 }}</ref>家庭用品や呉服売場も改装する香林坊店開店後最大規模の改装を行い<ref name="hokkoku-np-2012-1-6">{{Cite news | title = 香林坊大和、過去最大の改装 3月上旬、24ブランド登場 | newspaper = [[北國新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2012-1-6 }}</ref>、同年9月にレストラン街と子供服売場の改装を予定する<ref name="hokkoku-np-2012-4-14" />など2年間かけて全館改装を行う計画<ref name="depart-news-2011-5-25">{{Cite news | title = 大和、香林坊店を2年間で全館改装 第1期の秋は食料品 | newspaper = [[週刊デパートニューズ]] | publisher = [[ストアーズ社]] | date = 2011-5-25 }}</ref>とするなど積極的な投資で収益確保を目指している。 |
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存続した3店舗のうち高岡店は売場を縮小して<ref name="toayama-np-2011-3-11">{{Cite news | title = 御旅屋セリオ改修完了 高岡 中心市街地再生に期待 | newspaper = [[富山新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2011-3-11 }}</ref>その跡に2011年(平成23年)2月25日に高岡市子育て支援センター<ref name="kitanihon-np-2011-6-18">{{Cite news | title = 高岡・御旅屋に活気再び セリオ新施設で来客増 | newspaper = [[北日本新聞]] | publisher = 北日本新聞社 | date = 2011-6-18 }}</ref>、同年3月10日には北日本新聞カルチャーパーク高岡のほか地元有力企業5社の施設が入居する<ref name="toayama-np-2011-3-11" />など地元の政財界の支援を受けながら売場縮小と集客力の改善の両立を図り、2012年(平成24年)3月から閉店時間を1時間早めて午後6時とする<ref name="kitanihon-np-2012-2-1">{{Cite news | title = 閉店1時間早めます 3月から高岡大和 | newspaper = [[北日本新聞]] | publisher = 北日本新聞社 | date = 2012-2-1 }}</ref>などコストダウンを優先した縮小均衡路線が採られている。 |
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また2009年(平成21年)10月15日時点では香林坊店や富山店や高岡店を補てんする役割があるとして石川県・富山県内のギフトショップとサテライトショップはすべて維持されていたが<ref name="kitanihon-np-2009-10-16" />、単独で収益が上がっているサテライトショップ2店は食料品や衣類などの品ぞろえを拡充してイベントなども増やして強化する<ref name="kitanihon-np-2012-2-12">{{Cite news | title = 大和がサテライト店拡充 上市と黒部店、魚津ギフト店は2月末で閉店 | newspaper = [[北日本新聞]] | publisher = 北日本新聞社 | date = 2012-2-12 }}</ref>一方で、ギフトショップについてはネット通販の普及や交通の利便性向上などで利用者が減り採算が取れず<ref name="hokkoku-np-2012-2-2">{{Cite news | title = 輪島、羽咋の2店閉店へ 大和ギフトショップ | newspaper = [[北國新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2012-2-2 }}</ref>役割を終えた<ref name="kitanihon-np-2012-2-12" />として2011年(平成23年)年5月に野々市、12月に氷見と砺波、2012年(平成24年)年2月15日に輪島、羽咋の営業を終了してパトリア大和と小松ギフトショップの2拠点のみに集約した<ref name="kitanihon-np-2012-2-12" />。 |
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=== J・フロントリテイリングとの関係 === |
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井村徳三郎が'''宮市百貨店'''を創設する際に京都大丸と提携し、その後1930年(昭和5年)に三越金沢店が開業した際にも大丸と提携して対抗するなど創業期から繋がりを持ち<ref name="hokkoku-np-2007-5-25">{{Cite news | title = 再編劇の幕は開くか 北陸の百貨店、体制一新で風雲急 大和とめいてつ・エムザ | newspaper = [[北國新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2007-5-25 }}</ref>、2010年(平成22年)には2人の人材派遣を受けてその内の一人が取締役に就任している<ref name="hokkoku-np-2011-4-24" />ほか、商品開発や情報提供などで連携<ref name="hokkoku-np-2011-4-24" />や情報システム共有化<ref name="hokuriku-chunichi-np-2012-4-14">{{Cite news | title = 大和 構造改革から攻勢へ 香林坊店 9月に7・8階改装 | newspaper = [[北陸中日新聞]] | publisher = 中日新聞社 | date = 2012-4-14 }}</ref>や[[商品券]]の相互利用などを行う現在も強い結びつきを維持している<ref name="hokuriku-chunichi-np-2012-4-14" />。 |
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そうした提携の関係もあり、以前から大手百貨店大丸の株100万株を保有していたため、2012年(平成24年)2月29日時点でも大和はJ・フロントリテイリング140万株を保有している<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />。 |
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かつて看板に用いていたマークは、丸で囲んだ大の字である大丸旧マークの丸を梅の形に置き換えたものだった(社紋としては現在も使われ、各店舗正面入口に掲げられたプレートにあしらわれている)。 |
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=== 創業家によるオーナー経営の持続 === |
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創業者の井村徳三郎の後、宮一大丸の社長に就任して大和の初代社長も努めた井村徳二は井村徳三郎の息子であり<ref name="nikko-58years-1965" />、井村徳二の後に大和の社長を努めた宮太郎は井村姓ではないが井村徳三郎の孫で<ref name="nikko-58years-1965" />、現在の社長の宮二朗は宮太郎の息子である<ref name="daiwa-annual-report-94-2010" />ため、現在まで創業家によるオーナー色の強い<ref name="hokkoku-np-2007-5-25" />経営が続いている。 |
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=== 初代社長と初代会長の選挙選 === |
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1953年(昭和28年)4月24日投票の第3回参議院議員選挙には合併により当社が誕生した際の会長だった林屋亀次郎が[[第4次吉田内閣]]の現役大臣として再選を目指していたところに、初代社長を努めていた井村徳二が対立候補として立候補して林屋が大臣として決定を下した内灘試射場の用地接収を批判して組合を味方につけて林屋を破る激しい選挙戦を繰り広げた<ref name="labour-year-book-japan-27-1955">{{Cite book | 和書 | author = [[法政大学大原社会問題研究所]] | title = 日本労働年鑑 第27集 1955年版 | publisher = [[時事通信社]] | date = 1954-11-5}}</ref>。 |
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当時林屋が旧丸越本店の場所で後に丸越となる百貨店を武蔵<ref name="meitetsu-marukoshi-annual-report-96-2012">{{Cite report |date=2012-5-24 |title= 株式会社金沢名鉄丸越百貨店 第96期有価証券報告書 |publisher= 金沢名鉄丸越百貨店 }}</ref>として経営し、井村が大和を経営していたため、このときの争いは「武蔵」と「大和」の内灘沖会戦と呼ばれた<ref name="labour-year-book-japan-27-1955" />。 |
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=== 上場 === |
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1949年(昭和24年)7月に地元北陸地方を管轄していた[[新潟証券取引所]]上場し、1961年(昭和36年)10月からは[[大阪証券取引所]]第2部にも上場していた<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />。 |
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その後2000年(平成12年)3月に新潟証券取引所廃止が[[東京証券取引所]]に吸収された際に同取引所第2部に上場となり<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />、大阪証券取引所と2市場で上場し続けてきたが、2011年(平成23年)7月15日に [[大阪証券取引所]]へ[[上場廃止]]を申請して8月30日に上場廃止<ref name="osaka-securities-exchange-2011-7-29">{{cite web | title = 株式の上場廃止等の決定:(株)大和 | publisher = 大阪証券取引所 | date = 2011-7-29 | url = http://www.ose.or.jp/news/20309 | accessdate = 2012-6-9 }}</ref>となり、現在は東京証券取引所のみ上場している。 |
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== 年表 == |
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* 1923年(大正12年)10月15日 - 井村徳三郎が[[大丸|京都大丸]]と提携し、[[石川県]][[金沢市]]片町に'''宮市百貨店'''を創設(現[[ラブロ片町]])<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />。 |
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* 1930年(昭和5年)8月 - 株式会社'''宮市大丸'''を設立し、株式会社化<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />。 |
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* 1932年(昭和7年)11月10日 - [[富山県]][[富山市]]に富山店開設<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />。 |
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* 1936年(昭和11年)12月5日 - [[福井県]][[福井市]]に'''福屋'''を開店にして事実上進出<ref name="fukui-pref-history-list-1998" /> |
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* 1937年(昭和12年)9月 - 合併により宮市大丸福井店を開設<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />。 |
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* 1940年(昭和15年)12月 - [[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]の清津市に清津店を開設<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />。 |
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* 1943年(昭和18年)12月21日 - [[丸越]]と合併し、株式会社'''大和'''を設立<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />。 |
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** (金沢、武蔵、新潟、富山、福井、高岡、清津、計7店舗 資本金3100千円) |
** (金沢、武蔵、新潟、富山、福井、高岡、清津、計7店舗 資本金3100千円) |
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* 1945年(昭和20年)9月 - 終戦により清津店が消滅<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />。 |
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* 1948年(昭和23年) |
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** 6月28日 - [[福井地震]]により福井店が倒壊<ref name="kenmin-fukui-np-2008-5-28" />して閉鎖<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />。 |
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* [[1949年]](昭和24年)[[7月]] - [[新潟証券取引所]]上場。 |
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** - 出版部門の[[勁草書房]]を設立<ref name="kodansha-japanese-name-dictionary-2001" /> |
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* [[1952年]](昭和27年)7月 - 武蔵店を閉鎖。 |
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* 1949年(昭和24年)7月 - [[新潟証券取引所]]上場<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />。 |
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* 1952年(昭和27年)7月 - 武蔵店を閉鎖<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />。 |
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* 1958年(昭和33年)10月18日 - [[新潟県]][[長岡市]]に長岡店を開設<ref name="nagaoka-cbd-2012-3-29" />。 |
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* 1961年(昭和36年)10月 - [[大阪証券取引所]]2部上場<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />。 |
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* [[1970年]](昭和45年) |
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* 1967年(昭和42年) |
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** 3月 - [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]]に株式会社[[勁草書房]]を設立。 |
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** 12月 - 石川県野々市町(現[[野々市市]])に株式会社大和ハウジングを設立<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />。 |
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** - [[石川日産自動車販売]]株式会社を傘下に収める<ref name="hokkoku-np-2011-6-1" />(同社設立は1942年(昭和17年)11月) |
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* [[1973年]](昭和48年)3月 石川県金沢市に株式会社大和カーネーションサークルを設立。 |
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* 1970年(昭和45年) |
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** 3月 - [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]]に株式会社[[勁草書房]]を設立<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />。 |
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** 7月 - 新潟県[[上越市]]に上越店を開設。 |
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** 9月 - 石川県金沢市に株式会社[[金沢ニューグランドホテル]]を設立<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />。 |
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* 1972年(昭和47年)5月18日 石川県金沢市に金沢ニューグランドホテルを開業<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />。 |
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* [[1985年]](昭和60年) |
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* 1973年(昭和48年)3月 石川県金沢市に株式会社大和カーネーションサークルを設立<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />。 |
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* 1975年(昭和50年) |
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** 9月 - 石川県金沢市に株式会社ディー・アンド・シーを設立。 |
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** 7月 - 新潟県[[上越市]]に上越店を開設<ref name="joetsu-times-2009-10-15" />。 |
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* [[1986年]](昭和61年) |
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** 12月 - 石川県金沢市に株式会社レストランダイワを設立<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />。 |
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** 9月 - 金沢本店を[[香林坊アトリオ]]へ移転、「香林坊店」に店名を変更。 |
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* 1985年(昭和60年) |
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** 11月 - 金沢本店跡に商業施設[[ラブロ片町]]を開設。 |
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** 9月 - 石川県金沢市に株式会社大和服飾研究所を設立<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />。 |
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* [[1994年]](平成6年)3月 - 高岡店を旧店舗隣接地に開設の御旅屋セリオへ移転。 |
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** 9月 - 石川県金沢市に株式会社ディー・アンド・シーを設立<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />。 |
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* [[1998年]](平成10年)3月 - 石川県[[小松市]]の小松西武跡に小松店を開設。 |
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* 1986年(昭和61年) |
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* [[2000年]](平成12年)[[3月]] - 新潟証券取引所廃止により、[[東京証券取引所]]2部上場。 |
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** 9月 - 金沢本店を[[香林坊アトリオ]]へ移転<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />、「香林坊店」に店名を変更。 |
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** 11月 - 金沢本店跡に商業施設[[ラブロ片町]]を開設<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />。 |
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* [[2009年]](平成21年) |
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* 1994年(平成6年)3月18日 - 高岡店を旧店舗隣接地に開設の御旅屋セリオへ移転<ref name="shoppingcenter-list-2011-2" />。 |
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** 3月 - 納入業者などに、自社取扱いの商品の購入を強制していたなどとして、[[公正取引委員会]]から排除措置命令を受ける<ref>{{PDFlink|[http://www.jftc.go.jp/pressrelease/09.march/090305.pdf 株式会社大和に対する排除措置命令について]}} 公正取引委員会告示 2009年3月5日付</ref>。 |
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* 1998年(平成10年)3月21日 - 石川県[[小松市]]の小松西武跡に小松店を開設<ref name="big-store-close-renewal-2003" />。 |
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** 10月 - 社内の構造改革に伴い、[[2010年]](平成22年)中に新潟県の全店舗(新潟・長岡・上越)と小松の4店舗を閉鎖することを発表<ref>{{PDFlink|[http://www.daiwa-dp.co.jp/company/news/pdf/9412.pdf 構造改革の実施ならびに業績および配当予想の修正に関するお知らせ]}} プレスリリース 2009年10月15日付</ref>。 |
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* 2000年(平成12年)3月 - 新潟証券取引所廃止により、[[東京証券取引所]]2部上場<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />。 |
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* [[2010年]](平成22年) |
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* 2007年(平成19年)9月21日 - 富山店を[[総曲輪フェリオ]]へ移転<ref name="hokkoku-np-2007-9-25" />。 |
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** 4月25日 - 長岡店・上越店の営業終了。新潟県上越・中越地方から百貨店が姿を消す。 |
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* 2009年(平成21年) |
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** 6月25日 - 小松店・新潟店の営業終了、新潟県から完全撤退。 |
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** 3月 - 納入業者などに、自社取扱いの商品の購入を強制していたなどとして、[[公正取引委員会]]から排除措置命令を受ける<ref name="asahi-np-2009-3-5">{{Cite news | title = 納入業者に購入要請、百貨店「大和」に排除措置命令 | newspaper = [[朝日新聞]] | publisher = 朝日新聞社 | date = 2009-3-5 }}</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.jftc.go.jp/pressrelease/09.march/090305.pdf 株式会社大和に対する排除措置命令について]}} 公正取引委員会告示 2009年3月5日付</ref>。 |
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* [[2011年]](平成23年)7月15日 - [[大阪証券取引所]]へ[[上場廃止]]を申請。 |
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** 10月15日 - 社内の構造改革に伴い、[[2010年]](平成22年)中に新潟県の全店舗(新潟・長岡・上越)と小松の4店舗を閉鎖することを発表<ref name="hokkoku-np-2009-10-16" /><ref>{{PDFlink|[http://www.daiwa-dp.co.jp/company/news/pdf/9412.pdf 構造改革の実施ならびに業績および配当予想の修正に関するお知らせ]}} プレスリリース 2009年10月15日付</ref>。 |
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* 2010年(平成22年) |
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** 4月25日 - 長岡店<ref name="yomiuri-np-2010-4-22" />・上越店<ref name="joetsu-times-2010-4-26" />の営業終了。新潟県上越・中越地方から百貨店が姿を消す。 |
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** 6月25日 - 小松店<ref name="hokkoku-np-2010-6-26" />・新潟店<ref name="sankei-np-2010-6-26" />の営業終了、新潟県から完全撤退。 |
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* 2011年(平成23年)8月30日 - [[大阪証券取引所]][[上場廃止]]<ref name="osaka-securities-exchange-2011-7-29" />。 |
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== 店舗 == |
== 店舗 == |
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※ 百貨店3店舗のほかに、ギフトショップやサテライトショップが存在する。 |
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=== 店舗の一覧 === |
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{| class="wikitable" |
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!width="10%"|店舗名 |
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!width="15%"|通称<small>(位置)</small> |
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!width="20%"|所在地 |
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!width="10%"|開店日 |
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!width="45%"|概要 |
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! [[香林坊アトリオ|香林坊店]]<br /> |
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| '''{{ウィキ座標|36|33|48|N|136|39|15|E|scale:10000|香林坊大和<br />香林坊アトリオ}}''' |
|||
| [[石川県]][[金沢市]][[香林坊]]1-1-1 |
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| [[1986年]][[9月]] |
|||
| 金沢市中心部の再開発に参画して、片町から現在地に移転。 |
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|- |
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! [[総曲輪フェリオ|富山店]] |
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| '''{{ウィキ座標|36|41|22|N|137|12|47|E|scale:10000|富山大和<br />総曲輪フェリオ}}''' |
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| [[富山県]][[富山市]][[総曲輪]]3-8-6 |
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| [[1932年]][[11月]] |
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| 宮市大丸富山店として創設。[[2007年]][[9月]]に再開発ビルの「[[総曲輪フェリオ]]」のキーテナントとして入居、旧富山店の約1.6倍の店舗面積。 |
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|- |
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! 高岡店 |
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| '''{{ウィキ座標|36|44|44|N|137|0|50|E|scale:10000|高岡大和<br />御旅屋セリオ}}''' |
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| 富山県[[高岡市]]御旅屋町101 |
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| [[1937年]][[4月]] |
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| 丸越高岡店として開業。当時は末広通りと御旅屋通りが交差する十字路の一角に位置していたが、再開発で[[1994年]][[3月]][[御旅屋セリオ]]に移転、増床を行っている。 |
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|} |
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=== 香林坊大和 === |
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{|Class="wikitable" |
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{{商業施設 |
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|[[パトリア (七尾市)|パトリア大和]]||石川県七尾市御祓町1 |
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|社色 = #00997f |
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|- |
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|文字色 = #ffffff |
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|小松||石川県小松市土居原町716 |
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|名称 = 香林坊大和 |
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|} |
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|画像 = Kohrinbo ATRIO.JPG |
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|画像サイズ = 220px |
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|正式名称 = 大和香林坊店 |
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|運営母体 = |
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|施設所有者 = |
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|前身 = |
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|敷地面積 = |
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|商業施設面積 = 28,780<ref name="natina-land-developping-base-2000-6-9">{{Cite report |year=2000 |mounth=6 |title=国土審議会調査改革部会 第4回国際連携・持続的発展基盤小委員会配付資料 人口減少下での活力ある地域社会と二層の広域圏形成に資する国土基盤の現状と課題(資料編) |publisher=[[国土審議会]]調査改革部会 }}</ref> |
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|延床面積 = |
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|店舗数 = |
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|駐車場数 = |
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|商圏人口 = |
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|開業日 = 1986年(昭和61年)9月<br>(宮市百貨店:1923年(大正12年)10月15日) |
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|閉店日 = |
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|営業時間 = |
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|最寄駅 = |
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|最寄IC = |
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|所在地郵便番号 = |
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|所在地 = [[石川県]][[金沢市]][[香林坊]]1-1-1 |
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|位置 = {{Coord|36|33|48|N|136|39|15|E|region:JP_type:landmark}} |
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|外部リンク = |
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|グループ社色 = #00997f |
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|グループ文字色 = #ffffff |
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|グループ文字フォント = メイリオ |
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|グループ = '''<span style="font-size:110%;">D</span><span style="font-size:140%;">a</span><span style="font-size:110%;">IW</span><span style="font-size:140%;">a</span>''' |
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}} |
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金沢市[[香林坊]]地区の再開発に参画して1903年(明治36年)の宮市洋品店の店舗統合<ref name="nikko-58years-1965" />から始まり、1923年(大正12年)10月15日の宮市百貨店開業<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />、その後の宮市大丸や大和の時代を通じて本店としてきた片町<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />から1986年(昭和61年)9月に本店を移転し、地区名に合せて香林坊店となった。 |
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近年は近隣に香林坊109なども立地する好立地でビル内に駐車場もある新店舗への移転の効果もあってバブル崩壊後も売上を伸ばしてピークとなった1998年(平成10年)2月期に売上高425億円<ref name="hokkoku-np-2011-4-24" />を上げていた。 |
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若い顧客を狙った改装を進め<ref name="hokkoku-np-2012-4-14" />2011年(平成23年)9月の生鮮売り場を1.5倍に拡張したり総菜やスイーツなどを拡張する食料品売場改装<ref name="yomiuri-np-2011-4-15">{{Cite news | title = 香林坊大和全フロア改装「デパ地下」機能など充実へ | newspaper = [[読売新聞]] | publisher = 読売新聞社 | date = 2011-4-15 }}</ref>を皮切りに2012年(平成24年)年2月1日から3月8日にかけて婦人ファッションを中心に27ブランドを導入して<ref name="hokkoku-np-2012-1-6" />家庭用品や呉服売場も改装する香林坊店開店後最大規模の改装を行い<ref name="hokkoku-np-2012-1-6" />、同年9月にレストラン街と子供服売場の改装を予定する<ref name="hokkoku-np-2012-4-14" />など2年間かけて10億円規模を投資して<ref name="yomiuri-np-2011-4-15" />全館改装を行う計画<ref name="depart-news-2011-5-25">{{Cite news | title = 大和、香林坊店を2年間で全館改装 第1期の秋は食料品 | newspaper = [[週刊デパートニューズ]] | publisher = [[ストアーズ社]] | date = 2011-5-25 }}</ref> |
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2012年(平成24年)2月期でも売上高241.49億円<ref name="hokuriku-chunichi-np-2012-4-14" />と北陸三県最大を誇る<ref name="hokkoku-np-2011-4-24" />北陸1番店である<ref name="hokkoku-np-2009-10-18">{{Cite news | title = 来店増も2けた減収 北陸の百貨店3〜8月期 安値戦術で客単価落ち | newspaper = [[北國新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2009-10-18 }}</ref>。 |
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=== 富山大和 === |
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{{商業施設 |
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|社色 = #00997f |
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|文字色 = #ffffff |
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|名称 = 富山大和 |
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|画像 = Sogawa Ferio 1-1.jpg |
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|画像サイズ = 220px |
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|正式名称 = 大和富山店 |
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|運営母体 = |
|||
|施設所有者 = 大和 |
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|前身 = 宮市大丸富山店<br>大和富山店旧店舗 |
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|敷地面積 = 約6,800<ref name="kitanihon-np-2004-1-24">{{Cite news | title = 総曲輪南地区再開発の本組合に28日認可 来月13日にも設立総会 | newspaper = [[北日本新聞]] | publisher = 北日本新聞社 | date = 2004-1-24 }}</ref> |
|||
|商業施設面積= 25,300<ref name="hokkoku-np-2007-6-12">{{Cite news | title = 総曲輪フェリオ、9月21日開業 大和に富山初の124ブランド | newspaper = [[北國新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2007-6-12 }}</ref> |
|||
|延床面積= 44,200<ref name="toayama-np-2006-5-1">{{Cite news | title = 売り場拡大し5億円捻出 富山総曲輪再開発ビル 費用膨らみ計画変更 月内にも認可 | newspaper = [[富山新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2006-5-1 }}</ref> |
|||
|店舗数 = |
|||
|駐車場数 = |
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|商圏人口 = |
|||
|開業日 = 2007年(平成19年)9月21日<ref name="hokkoku-np-2007-9-25" /><br>(宮市大丸富山店:1932年(昭和7年)11月10日<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />) |
|||
|閉店日 = |
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|営業時間 = |
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|最寄駅 = [[富山地方鉄道]][[グランドプラザ前駅]] |
|||
|最寄IC = |
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|所在地郵便番号 = |
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|所在地 = [[富山県]][[富山市]][[総曲輪]]3丁目8番38 |
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|位置 = {{Coord|36|41|22|N|137|12|47|E|region:JP_type:landmark}} |
|||
|外部リンク = |
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|グループ社色 = #00997f |
|||
|グループ文字色 = #ffffff |
|||
|グループ文字フォント = メイリオ |
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|グループ = '''<span style="font-size:110%;">D</span><span style="font-size:140%;">a</span><span style="font-size:110%;">IW</span><span style="font-size:140%;">a</span>''' |
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}} |
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旧富山店は1932年(昭和7年)8月20日に富山市西町で一部営業を開始し<ref name="toyama-urban-plan-data-list-2011-3" />、同年11月10日に宮市大丸富山店開店として百貨店を開業した宮市大丸初の本格的な支店で<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />、開業当初から金沢の本店を上回る売上を上げて<ref name="fukui-pref-history6-1996" />1934年(昭和9年)12月2日に鉄筋コンクリート造り6階建<ref name="toyama-urban-plan-data-list-2011-3" />に増築して<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />中核店舗の一つとなっていた。 |
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2004年(平成16年)に設立された富山市総曲輪通り南地区再開発事業組合に参画して<ref name="kitanihon-np-2004-1-24">{{Cite news | title = 総曲輪南地区再開発の本組合に28日認可 来月13日にも設立総会 | newspaper = [[北日本新聞]] | publisher = 北日本新聞社 | date = 2004-1-24 }}</ref>保留床約31,600m²<ref name="toayama-np-2006-5-1">{{Cite news | title = 売り場拡大し5億円捻出 富山総曲輪再開発ビル 費用膨らみ計画変更 月内にも認可 | newspaper = [[富山新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2006-5-1 }}</ref>のうち約28,000m²を取得して<ref name="kitanihon-np-2004-1-24" />約87億円とされた保留床処分による資金<ref name="toayama-np-2006-5-1" />の大半を負担して2007年(平成19年)9月21日に開業した[[総曲輪フェリオ]]の核店舗として現在地に移転・開業した<ref name="hokkoku-np-2007-9-25" />。 |
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開業4日間で推計約33万人を集めて地元紙に「お祭り騒ぎ」のようなにぎわいと呼ばれるほどの集客力を見せた総曲輪フェリオの中核として開業初日の金曜日に旧富山店の同じ曜日の4倍以上の2.1億円の売上を上げる<ref name="hokkoku-np-2007-9-25" />など3倍に広がった地下食品売場<ref name="hokkoku-np-2007-9-25" />、北陸最大規模の化粧品売場や124に上る富山県初登場のブランドを武器に<ref name="hokkoku-np-2007-8-21">{{Cite news | title = 熱い富山、金沢は静か 北陸の百貨店、専門店が秋の陣へ フェリオ開業、マリエ改装 | newspaper = [[北國新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2007-8-21 }}</ref>順調に地元富山の顧客を集め、旧店舗より約40億円増の年間売上200億円の目標<ref name="hokkoku-np-2007-8-21" />を超える<ref name="toayama-np-2008-9-20">{{Cite news | title = 売上高達成も正念場 富山の「総曲輪フェリオ」開業1年 金沢流出止まらず | newspaper = [[富山新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2008-9-20 }}</ref>など順調な滑り出しを見せた。 |
|||
その後リーマンショックによる景気低迷を受けて売上が急減した際も開業2年目に入ったことと重なったにもかかわらず予想以上の数字を残して営業黒字を維持していたため本店に継ぐ主力店舗として存続している<ref name="kitanihon-np-2009-10-16" />。 |
|||
2012年(平成24年)2月期でも前年比0.7%増の売上高188.44億円<ref name="hokuriku-chunichi-np-2012-4-14" />と北陸三県に5店舗ある百貨店で唯一前年比プラスとなる<ref name="hokkoku-np-2012-4-14" />など比較的堅調に売上を上げ続けている。 |
|||
旧店舗跡地は周辺を含めた再開発構想があり、2006年(平成18年)8月11日に市街地再開発準備組合の代表が富山市長に面会して中層階に図書館を入居させて富山市に60-70億円での施設の保留床取得する構想への参画を要望したが財政負担が大きく保留床の取得は困難と市長が回答したため、この際開発構想は見直しを迫られることとなった<ref name="kitanihon-np-2006-8-12">{{Cite news | title = 保留床の取得困難 大和跡地施設で森市長 | newspaper = [[北日本新聞]] | publisher = 北日本新聞社 | date = 2006-8-12 }}</ref>。 |
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その後富山第一銀行の本店を移転する構想が浮上して2008年(平成20年)9月12日に報道されたが<ref name="kitanihon-np-2008-9-12">{{Cite news | title = 旧大和跡に富山第一銀行本店移転 構想浮上、PT設置へ | newspaper = [[北日本新聞]] | publisher = 北日本新聞社 | date = 2008-9-12 }}</ref>その後話合いが進まなかったため富山市が一旦は予算計上した事業費を全額削除したこともあったが<ref name="yomiuri-np-2010-1-29">{{Cite news | title = 旧大和跡地ビルに市立図書館 コンパクトなまちづくり加速 富山市方針富山第一銀も入居検討 | newspaper = [[読売新聞]] | publisher = 読売新聞社 | date = 2010-1-29 }}</ref>、1970年(昭和45年)に建設されて老朽化が進んでいる富山市図書館を移転して入居させる構想が2010年(平成22年)1月29日に発表されるなど再び動き始め<ref name="yomiuri-np-2010-1-29" />、2011年(平成23年)8月11日までに<ref name="kitanihon-np-2011-8-12">{{Cite news | title = 4-6階に図書館、ガラス美術館は2、3階 旧富山大和再開発 | newspaper = [[北日本新聞]] | publisher = 北日本新聞社 | date = 2011-8-12 }}</ref>富山市ガラス美術館(仮称)<ref name="kitanihon-np-2011-8-12" />が1〜3階、富山市図書館が4〜6階、他に富山第一銀行などが入居する<ref name="yomiuri-np-2011-11-26">{{Cite news | title = 「もっと集客できる施設を」旧大和跡地 | newspaper = [[読売新聞]] | publisher = 読売新聞社 | date = 2011-11-26 }}</ref>地上9階地下1階建て、延べ床面積27,000m²<ref name="kitanihon-np-2011-8-12" />、総事業費178.5億円<ref name="yomiuri-np-2011-11-26" />という構想が固まって<ref name="kitanihon-np-2011-8-12" />富山市案とされたが<ref name="yomiuri-np-2011-11-26" />、11月25日に開かれた富山市の検討委員会で大学教授や商店街組合の代表らで構成された委員から「美術館、図書館だけではにぎわいは戻らない。施設の核になるようなものがもう少しあってもいい」など集客の観点から市案の修正を求める意見が相次ぎ<ref name="yomiuri-np-2011-11-26" />、変更される可能性も生じている。 |
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=== 高岡大和 === |
|||
{{商業施設 |
|||
|社色 = #00997f |
|||
|文字色 = #ffffff |
|||
|名称 = 高岡大和 |
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|画像 = Otaya Serio 1-1.jpg |
|||
|画像サイズ = 165px |
|||
|正式名称 = 大和高岡店 |
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|運営母体 = |
|||
|施設所有者 = オタヤ開発 |
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|前身 = 丸越高岡店<br>大和高岡店旧店舗 |
|||
|敷地面積 = |
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|商業施設面積 = |
|||
|延床面積 = |
|||
|店舗数 = |
|||
|駐車場数 = |
|||
|商圏人口 = |
|||
|開業日 = 1994年(平成6年)3月<br>(丸越高岡店:1937年(昭和12年)4月) |
|||
|閉店日 = |
|||
|営業時間 = |
|||
|最寄駅 = |
|||
|最寄IC = |
|||
|所在地郵便番号 = |
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|所在地 = [[富山県]][[高岡市]][[御旅屋町]]101 |
|||
|位置 = {{Coord|36|44|44|N|137|0|50|E|region:JP_type:landmark}} |
|||
|外部リンク = |
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|グループ社色 = #00997f |
|||
|グループ文字色 = #ffffff |
|||
|グループ文字フォント = メイリオ |
|||
|グループ = '''<span style="font-size:110%;">D</span><span style="font-size:140%;">a</span><span style="font-size:110%;">IW</span><span style="font-size:140%;">a</span>''' |
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}} |
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1937年(昭和12年)4月に丸越初の支店である高岡店として現店舗の隣接地に開店し<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />、1943年(昭和18年)12月21日の合併に伴って大和高岡店となった<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />末広通りと御旅屋通りが交差する十字路の一角に位置していた旧店舗を、1994年(平成6年)3月に開業した[[御旅屋セリオ]]に移転して開店した<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />。 |
|||
保留床の取得はしていないものの保留商を取得してビルを管理・運営している高岡市の第三セクターオタヤ開発に高岡市と並ぶ20%を出資している<ref name="toayama-np-2007-11-25">{{Cite news | title = 地元5社に株式譲渡 高岡のオタヤ開発 経営再建へ信用力強化 | newspaper = [[富山新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2007-11-25 }}</ref>ほか、2012年(平成24年)2月29日現在で49.25億円の敷金・保証金をオタヤ開発に差し入れて<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />保証金返還の一部猶予をする<ref name="toayama-np-2007-11-25" />など様々な形で関与している。 |
|||
2009年(平成21年)10月15日の4店閉店などの発表の際には建物も比較的新しく営業黒字を維持していたため<ref name="kitanihon-np-2009-10-16" />、 |
|||
香林坊店や富山店と比べて厳しい状況にあるが「小ぶりだが、しっかり利益を出せる店にしたい」として同じ県内にある富山店との営業部門の一部統合など棲み分けを図って存続することとなった<ref name="kitanihon-np-2009-10-16" />。 |
|||
2010年(平成22年)から売場を縮小して賃料負担軽減を目指し<ref name="kitanihon-np-2010-2-6">{{Cite news | title = 高岡大和に子育て施設 高岡市、にぎわい再生へ支援 | newspaper = [[北日本新聞]] | publisher = 北日本新聞社 | date = 2010-2-6 }}</ref>、その跡に2011年(平成23年)2月25日に高岡市子育て支援センター<ref name="kitanihon-np-2011-6-18" />、同年3月10日には北日本新聞カルチャーパーク高岡のほか地元有力企業5社の施設が入居する<ref name="toayama-np-2011-3-11" />など地元の政財界の支援を受けながら売場縮小と集客力の改善の両立を目指し<ref name="kitanihon-np-2010-2-6" />、若い女性客が増えて婦人衣料や子供服の売上が伸びて<ref name="kitanihon-np-2011-6-18" />売場減少に伴って店舗全体の売上は減少しているものの存続売場ベースでは前年比プラスになる<ref name="kitanihon-np-2011-10-15">{{Cite news | title = 大和が4店閉鎖正式発表 市場変化に対応できず | newspaper = [[北日本新聞]] | publisher = 北日本新聞社 | date = 2011-10-15 }}</ref>など地元政財界による集客支援の効果があったとして<ref name="kitanihon-np-2011-10-15" />2011年(平成23年)11月に御旅屋セリオへ移転後初となる地下食品売り場の大規模改装を行ってチーズ、ワイン、調味料などをそろえたテナントを導入しててこ入れを行った<ref name="kitanihon-np-2011-11-17">{{Cite news | title = 食品売り場大幅改装 高岡大和 | newspaper = [[北日本新聞]] | publisher = 北日本新聞社 | date = 2011-11-17 }}</ref>。 |
|||
また、この他にも御旅屋セリオの開業と共に整備されて隣接している半地下式の富山市の御旅屋メルヘン広場の中央にある噴水などを<ref name="toayama-np-2009-3-19">{{Cite news | title = イベント仕様に再生 高岡市の御旅屋メルヘン広場 噴水を撤去 | newspaper = [[富山新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2009-3-19 }}</ref>2010年(平成22年)に撤去してイベント会場などとして使い易くして集客に役立てるなど富山市が支援策を採っているほか<ref name="toayama-np-2010-2-19">{{Cite news | title = 大和高岡前のにぎわい回帰へ 隣接広場でイベント 子育てセンター移設と相乗効果 | newspaper = [[富山新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2010-2-19 }}</ref>、隣接する旧高岡店跡を整備して地元高岡市出身の漫画家、故藤子・F・不二雄さんの作品「ドラえもん」<ref name="hokuriku-chunichi-np-2011-2-3">{{Cite news | title = ドラえもん像 どこへ? 大和高岡店隣から来月撤去 | newspaper = [[北陸中日新聞]] | publisher = 中日新聞社 | date = 2011-2-3 }}</ref>のドラえもんのほか、のび太やジャイアン、スネ夫などのキャラクターをかたどった12体の銅像が並んでいた万葉の杜から銅像などを撤去して<ref name="toayama-np-2011-6-3">{{Cite news | title = ドラえもん像、JR高岡駅前へ ウイング・ウイング高岡前広場 8月にも設置完了 | newspaper = [[富山新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2011-6-3 }}</ref>2011年(平成23年)3月に顧客の要望が多い駐車場にする<ref name="hokuriku-chunichi-np-2011-2-3" />など集客力の強化に向けて周辺の整備も合せて行われた。 |
|||
(なお万葉の杜にあった銅像は撤去に伴って高岡市に寄贈され<ref name="hokuriku-chunichi-np-2011-2-3" />、ドラえもん文庫がある高岡市立中央図書館が入居している[[ウイング・ウイング高岡]]前の広場に移設された<ref name="toayama-np-2011-6-3" />。) |
|||
しかし、売場面積縮小が響いて2012年(平成24年)2月期で前年比6.3%減の売上高60.03億円<ref name="kitanihon-np-2012-4-14">{{Cite news | title = ニーズ多様化に対応 大和、新3カ年計画開始 | newspaper = [[北日本新聞]] | publisher = 北日本新聞社 | date = 2012-4-14 }}</ref>と大和の現存する百貨店3店の中で最も大きく落ち込み<ref name="hokuriku-chunichi-np-2012-4-14" />、2012年(平成24年)3月から閉店時間を1時間早めて午後6時とする<ref name="kitanihon-np-2012-2-1">{{Cite news | title = 閉店1時間早めます 3月から高岡大和 | newspaper = [[北日本新聞]] | publisher = 北日本新聞社 | date = 2012-2-1 }}</ref>など更なる経費削減による業績改善を目指している。 |
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=== サテライトショップ === |
=== サテライトショップ === |
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{|Class="wikitable" |
|||
|上市||富山県中新川郡上市町西中68 |
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|- |
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|黒部||富山県黒部市新牧野108 |
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|} |
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<gallery> |
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ファイル:Kohrinbo ATRIO.JPG|香林坊大和<br />(香林坊アトリオ) |
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ファイル:Sogawa Ferio 1-1.jpg|富山大和<br />(総曲輪フェリオ) |
|||
ファイル:Otaya Serio 1-1.jpg|高岡大和<br />(御旅屋セリオ) |
|||
ファイル:Nanao patria.JPG|パトリア大和 |
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</gallery> |
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富山店の管轄下で贈答品、食料品、地場産品、衣類等を扱う小型店舗で、文化教室の会場となるなどイベントも行われている<ref name="kitanihon-np-2012-2-12" />。 |
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=== 過去に存在した店舗 === |
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{| class="wikitable" |
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|- |
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!width="10%"|店舗名 |
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!width="20%"|所在地 |
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!width="10%"|開店日 |
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!width="10%"|閉店日 |
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!width="50%"|概要 |
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|- |
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! 金沢本店<br />(片町大和) |
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| [[石川県]][[金沢市]] |
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| [[1923年]][[10月]] |
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| [[1986年]][[9月]] |
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| 1986年9月、[[香林坊アトリオ]]へ移転。旧店舗は商業施設「[[ラブロ片町]]」として[[1986年]][[11月]]にリニューアルした。大和本社の社長室や会議室等が同ビルの7階 - 9階にあり、店舗裏にあるエレベーターでのみ入ることが可能。 |
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|- |
|||
! 武蔵店 |
|||
| [[石川県]][[金沢市]] |
|||
| |
|||
| 1952年7月 |
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| 現在の[[金沢名鉄丸越百貨店|めいてつエムザ]]の前身である百貨店の[[丸越]]の発祥にあたる。旧[[三越]]金沢店。<br />ビルのオーナーの[[林屋亀次郎]]が、閉店した三越に返済する保証金の支払いに困窮していたのを、宮市大丸が提携により支援して丸越が設立されたため、戦時統合以前から、グループ会社である。<br />この店舗は、[[1952年]][[7月]]の閉鎖を経て、丸越として分離され、[[名鉄百貨店]]および[[名古屋鉄道]]の資本参加を得て、[[金沢名鉄丸越百貨店]]となった([[2002年]]に店名を「めいてつエムザ」に変更している)。<br />ただし、丸越の分離以降、両者には資本関係は認められず、競合関係にある。 |
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! 福井店 |
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| [[福井県]][[福井市]] |
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| [[1936年]][[12月]] |
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| [[1948年]][[6月28日]] |
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| 福井財界との共同出資という名目で、福屋として開店。[[1937年]][[9月]]に合併により宮市大丸福井店に店名変更した。<br />しかし、[[福井地震]]で店舗が倒壊したために撤退した。跡地は現在、[[北陸銀行]]福井支店となっている。 |
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! 長岡店 |
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| [[新潟県]][[長岡市]]大手通2-3-1 |
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| [[1958年]][[10月]] |
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| rowspan=2|[[2010年]][[4月25日]] |
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| 長岡市の大手通に開店。[[1960年代]]には[[山下家具店]]のショールームも店内にあったが、現在は長岡市郊外に移転している。晩年は中越地方唯一の百貨店だった。一連のリストラにより閉店。 |
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! 上越店 |
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| 新潟県[[上越市]]本町4-4-8 |
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| [[1975年]][[7月]] |
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| 上越市高田地区の中心商店街に、地元商店などの共同出資により建設された有限会社イレブンビル所有の商業ビルにキーテナントとして出店。地元百貨店のいづも屋がジャスコに業態転換し閉店した後は上越地域唯一の百貨店であった。長岡店同様一連のリストラにより閉店。 |
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! 新潟店 |
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| [[新潟市]][[中央区 (新潟市)|中央区]][[古町 (新潟市)|古町]]通7番町952 |
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| [[1937年]] |
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| rowspan=2|2010年6月25日 |
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| 本館と[[1972年]]に増床した東館の二棟体制で、東館1階にはパチンコ店があり、新潟市の地下街である[[新潟市西堀地下商店街]]の連絡通路がある。<br />また、かつては、ラジオ新潟(現[[新潟放送]])の本社とスタジオが7階に入居していたが、[[1955年]][[10月1日]]に発生した[[新潟大火 (1955年)|昭和新潟大火]]により焼失したことに伴い移転した。<br />[[2006年]][[9月]]に新潟市まちなか行政サービスコーナー(愛称・なかなか古町、[[パスポート]]センター併設)が2階に開設された。この閉店で新潟県から撤退した。 |
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! [[小松大和|小松店]] |
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| 石川県[[小松市]]土居原町10-10 |
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| [[1998年]][[10月]] |
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| 1996年に撤退した[[西武百貨店]]の跡地に開業も赤字により閉店。 |
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! 清津店 |
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| [[清津市]]<br />(現在は[[朝鮮民主主義人民共和国]]) |
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| [[1940年]][[12月]] |
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| [[1945年]][[9月]] |
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| 宮市大丸清津店として開店する。売り場面積500坪ながら、売上の6割を軍需物資の納入で稼いだ。牡丹江に営業所も設けていた。<br />日本の敗戦により閉鎖となる。 |
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! 東京大和出張所 |
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| [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[銀座]]7丁目 |
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| [[1946年]][[3月]] |
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| [[三菱商事]]本社内に開設。[[1948年]][[4月]]、銀座7丁目1番の[[資生堂]]本舗向かい側に200坪の店舗開設。<br />この出張所の出版部が、[[勁草書房]]に成長する。 |
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|} |
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下記の2店舗があり20年以上営業していて2店舗とも単独で収益が上がっているため、2012年(平成24年)2月に食料品や衣類などの品ぞろえを拡充して売上拡大を目指す方針が発表された<ref name="kitanihon-np-2012-2-12" />。 |
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他、[[ポルテ金沢]]オープン当初には2階に小型店舗が存在した。 |
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==== 上市サテライトショップ ==== |
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== 大丸との関係 == |
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富山県中新川郡上市町西中68 |
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創業の経緯から大手百貨店[[大丸]]の株を100万株(時価約15億円相当)保有していた。このため、現在も[[大丸]]と[[松坂屋]]の経営統合で発足した[[J.フロント リテイリング]]の株主となっており、大丸・松坂屋とは、[[商品券]]の相互利用などでも一定の提携関係がある。 |
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==== 黒部サテライトショップ ==== |
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かつて看板に用いていたマークは、丸で囲んだ大の字である大丸旧マークの丸を梅の形に置き換えたもの(社紋としては現在も使われ、各店舗正面入口に掲げられたプレートにあしらわれている)。 |
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富山県黒部市新牧野108 |
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=== ギフトショップ === |
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==== パトリア大和 ==== |
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[[ファイル:Nanao patria.JPG|thumb|right|200px|パトリア大和の入居するビル]] |
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石川県七尾市御祓町1<ref name="nissyoku-1995-4-28">{{Cite news | title = ユニー、能登最大の食品売場「七尾店」 | newspaper = [[日本食糧新聞]] | publisher = 日本食糧新聞社 | date = 1995-4-28 }}</ref> |
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1995年(平成7年)4月29日に七尾駅前の[[パトリア (七尾市)|パトリア]]内に売場面積約1,210m²というギフトショップとしてはやや大きめの店舗として開業した<ref name="nissyoku-1995-4-28" />。 |
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==== 小松ギフトショップ ==== |
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石川県小松市土居原町716 |
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百貨店店舗小松店の閉店閉店の翌々日2010年(平成22年)6月27日に同店の贈答品需要などを引継ぐことを目指してJR小松駅前のホテル1階に開店したギフトショップである<ref name="hokkoku-np-2010-6-25" />。 |
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開店から1か月で前年の小松店の中元利用実績8,000人の約20%に当たる約1,500人が利用するなど順調な滑り出しを見せた<ref name="hokkoku-np-2010-7-25">{{Cite news | title = 1カ月で中元利用1500人 大和、小松のギフト店堅調 | newspaper = [[北國新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2010-7-25 }}</ref>。 |
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=== ラブロ片町 === |
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[[ファイル:LABBRO Katamachi.jpg|thumb|right|100px|ラブロ片町]] |
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{{main|ラブロ片町}} |
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1986年(昭和61年)9月に大和の本店が香林坊アトリオ内に移転したことに伴い、旧本店の活用策として11月に開業した商業施設である<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />。 |
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運営は100%出資子会社のディー・アンド・シー<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />。 |
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== 過去に存在した店舗 == |
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=== 新潟大和 === |
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{{商業施設 |
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|社色 = #00997f |
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|文字色 = #ffffff |
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|名称 = 新潟大和 |
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|画像 = Niigata Conflagration 1955 BSN.jpg |
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|画像説明 = 新潟大火の直後に民放連が発刊したパンフレットの表紙。タイトル文字「新潟は」の右側にある建物がラジオ新潟のあった大和新潟店 |
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|画像サイズ = 220px |
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|正式名称 = 大和新潟店 |
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|運営母体 = |
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|施設所有者 = 本館:大和<ref name="yomiuri-np-2010-4-24" /><br>新潟プラザビル:堀川事業・タカツ商事<ref name="niigata-nippo-2011-2-4">{{Cite news | title = 大和新潟店跡地、売却せず再開発へ | newspaper = [[新潟日報]] | publisher = 新潟日報社 | date = 2011-2-4 }}</ref> |
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|前身 = 萬代百貨店<br>丸越新潟店 |
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|敷地面積 = |
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|商業施設面積 = 20,696<ref name="hokuriku-independent-2010-3">{{Cite book | 和書 | title = 北陸地域づくり叢書2 北陸地域の自立に向けて | publisher = 北陸建設弘済会 北陸地域づくり研究所 | date = 2010-3}}</ref> |
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|延床面積 = |
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|店舗数 = |
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|駐車場数 = |
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|商圏人口 = |
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|開業日 = 1937年(昭和12年)9月29日<ref name="hokuriku-independent-2010-3" /> |
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|閉店日 = 2010年(平成22年)6月25日<ref name="sankei-np-2010-6-26" /> |
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|営業時間 = |
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|最寄駅 = |
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|最寄IC = |
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|所在地郵便番号 = |
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|所在地 = [[新潟県]][[新潟市]][[中央区 (新潟市)|中央区]]古町通7番町 |
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|地図国コード = JP |
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|外部リンク = |
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|グループ社色 = #00997f |
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|グループ文字色 = #ffffff |
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|グループ文字フォント = メイリオ |
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|グループ = '''<span style="font-size:110%;">D</span><span style="font-size:140%;">a</span><span style="font-size:110%;">IW</span><span style="font-size:140%;">a</span>''' |
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}} |
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新潟県新潟市にあった百貨店。 |
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地元新潟の片山三男が[[群馬県]][[行田市|行田]]の足袋商本山政一と紙問屋の藤井忠太郎店跡に店舗を建設し<ref name="hokuriku-independent-2010-3" />、1937年(昭和12年)9月29日<ref name="hokuriku-independent-2010-3" />に'''萬代百貨店'''として<ref name="hokuriku-independent-2010-3" />新潟市の中心市街地古町地区<ref name="yomiuri-np-2009-10-16">{{Cite news | title = 大和 完全撤退を発表来年6月までに 希望退職者募る方針 | newspaper = [[読売新聞]] | publisher = 読売新聞社 | date = 2009-10-16 }}</ref>の一角に開業した<ref name="hokuriku-independent-2010-3" />。 |
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初日から空前の人出となるなど集客では順調な滑り出しを見せたが、ライバルの小林百貨店が初年度から5.5万円の利益を上げたのに対し<ref name="hokuriku-independent-2010-3" />、'''萬代百貨店'''はノウハウ不足で半年後の決算で大赤字となったため<ref name="yomiuri-np-2010-6-20">{{Cite news | title = 商店街ルネサンス さよなら大和<上>市民の夢舞台66年で幕 | newspaper = [[読売新聞]] | publisher = 読売新聞社 | date = 2010-6-20 }}</ref>、1938年(昭和13年)に'''宮市大丸'''と系列の'''丸越'''から経営陣が派遣されてその傘下に入り<ref name="yomiuri-np-2010-6-20" />、1939年(昭和14年)に金沢市の丸越と合併して'''丸越新潟店'''になり<ref name="yomiuri-np-2010-6-20" />、1943年(昭和18年)12月に合併で大和が誕生したのに伴い、'''大和新潟店'''となった<ref name="yomiuri-np-2010-6-20" />。 |
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[[第二次世界大戦]]後の一時期は商品が不足していたこともあって1階を消防車の駐車場に貸して2・3階のみで営業し<ref name="yomiuri-np-2010-6-20" />、1950年(昭和25年)頃でも[[アメリカ合衆国]]から輸入した中古衣料が跳ぶように売れるような状況であった<ref name="yomiuri-np-2010-6-20" />。 |
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その後品揃えが元に戻って通常の百貨店営業に戻っていき、ラジオ新潟(現新潟放送)の本社とスタジオが開業初期は7階に入居していたが<ref name="bsn-40-1992-10">{{Cite book | 和書 | authors =新潟放送四十年史編纂委員会・編 | title = 新潟放送四十年のあゆみ | publisher = 新潟放送 | date = 1992-10}}</ref>、1955年(昭和30年)10月1日未明に新潟市中心部を襲った[[新潟大火 (1955年)|昭和新潟大火]]で店は全焼してしまった<ref name="yomiuri-np-2010-6-21">{{Cite news | title = 商店街ルネサンス さよなら大和<中>1955年の大火転じて躍進 | newspaper = [[読売新聞]] | publisher = 読売新聞社 | date = 2010-6-21 }}</ref>ことに伴い移転した<ref name="bsn-40-1992-10" />。 |
|||
ところがこの大火からわずか10日間で1階部分のみとはいえ営業再開に漕ぎ着けたことが市民から高く評価されて再開後はライバルの小林百貨店を売上高で凌駕するようになった<ref name="yomiuri-np-2010-6-21" />。 |
|||
その後1964年(昭和39年)の新潟地震の際にも建物の被害がなかったこともあって翌日からパンや瓶詰などの食品を販売するなど災害のたびに迅速に対応を行った<ref name="yomiuri-np-2010-6-21" />。 |
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1960年(昭和35年)7月には[[新潟市]]本町通に新潟丸大が開店し<ref name="niigata-cbd-2011-3-31">{{Cite report |date=2011-3-31 |title=新潟市中心市街地活性化基本計画 平成19年11月30日 |publisher=新潟市}}</ref>1964年(昭和39年)[[7月]]に百貨店法による営業を認可を受けて正式に百貨店となり<ref name="nigata-history-1989" />、1970年(昭和45年)にイチムラの新潟店(後の新潟ウィズ)も開店した<ref name="niigata-nippo-2010-6-22">{{Cite news | title = 「新潟ウィズ」取り壊しへ | newspaper = [[新潟日報]] | publisher = 新潟日報社 | date = 2010-6-22 }}</ref>ことから当社長岡店のライバル百貨店2社と2都市で近接して競い合う3つ巴の状況となると共に、当店のある古町地区は百貨店4店が立ち並ぶ繁華街となった。 |
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新潟を代表する繁華街を代表する百貨店として第1回新潟県美術展覧会や地元美術家の個展開催などを通じて地域の文化の中心としての役割も果たしていた<ref name="yomiuri-np-2010-6-22">{{Cite news | title = 商店街ルネサンス さよなら大和<下>文化発信地に惜別の歌声 | newspaper = [[読売新聞]] | publisher = 読売新聞社 | date = 2010-6-22 }}</ref>。 |
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しかし、1973年(昭和48年)11月に万代シティにダイエー新潟店開業(売場面積19,262m²)すると<ref name="niigata-nippo-2005-9-29">{{Cite news | title = ダイエー新潟店、11月末閉鎖 | newspaper = [[新潟日報]] | publisher = 新潟日報社 | date = 2005-9-29 }}</ref>、1979年(昭和54年)に全国のダイエー店舗で売上1位になる<ref name="niigata-nippo-2005-9-29" />ほどの顧客を集め、1991年(平成3年)2月期には売上高約191億円上げて<ref name="niigata-nippo-2005-9-29" />1992年(平成4年)2月期に売上高約207億円を記録した当店<ref name="yomiuri-np-2010-6-22" />に匹敵するレベルに達するなど、古町地区や当店にとって強力なライバルが登場し、さらに1984年(昭和59年)4月1日に万代に新潟伊勢丹開業(売場面積22,800m²)<ref name="hokuriku-independent-2010-3" />が開業して万代地区の商業機能が一段と強化されると共に、2009年(平成21年)3月期に同店が売上高約350億円<ref name="asahi-np-2009-10-15" />で当店の2009年(平成21年)2月期の74億円<ref name="yomiuri-np-2010-6-22" />や小林百貨店の後身の新潟三越の2009年(平成21年)3月期の売上高約169億円<ref name="asahi-np-2009-10-15" />を大きく引き離して地域一番店になるほどの販売力を見せるなど百貨店間の競合や古町地区の「地盤沈下」<ref name="yomiuri-np-2009-10-16" />が生じていった。 |
|||
そこへ追い討ちを掛けるように2000年(平成12年)の大規模小売店舗法の改正に伴う規制緩和が行われたため<ref name="asahi-np-2010-4-23">{{Cite news | title = まち見つめて【大和撤退】(中)個性化迫られる商店街 | newspaper = [[朝日新聞]] | publisher = 朝日新聞社 | date = 2010-4-23 }}</ref>、 |
|||
2000年(平成12年)2月8日のアピタ新潟亀田店(売場面積37,462m²)の開店を皮切りに、2002年(平成14年)6月19日のアークランドサカモトを核店舗としたアークプラザ新潟(売場面積35,634m²)、9月30日のコメリを核店舗とした河渡ショッピングセンター(売場面積24,046m²)、2003年(平成15年)2月8日のアピタ新潟西店(売場面積29,436m²)、2007年(平成19年)10月26日のイオン新潟南ショッピングセンター(売場面積41,699m²)<ref name="hokuriku-independent-2010-3" />郊外への広大な無料駐車場を備えた大型店進出が相次ぎ<ref name="asahi-np-2010-4-23" />、古町の歩行者は2000年(平成12年)から8年間で7割以下に減って年間売上額も1994年(平成6年)ごろの約1430億円をピークに2007年(平成19年)には約860億円に落ち込み<ref name="asahi-np-2010-4-23" />、1985年(昭和60年)に開業して<ref name="niigata-nippo-2010-6-22" />ファッションや飲食関連のテナントが集積し人気を集めていた新潟ウィズも[[ヴィレッジヴァンガード]]や[[ビームス]]などの有力テナントの撤退<ref name="nikkei-2009-2-7">{{Cite news | title = 新潟市の古町、空洞化進む 地下街や専門店ビル、退店目立つ | newspaper = [[日本経済新聞]] | publisher = 日本経済新聞社 | date = 2009-2-7 }}</ref>が2008年(平成20年)秋から撤退が続いて<ref name="niigata-nippo-2010-10-1">{{Cite news | title = 新潟ウィズが26年の歴史に幕 | newspaper = [[新潟日報]] | publisher = 新潟日報社 | date = 2010-10-1 }}</ref>2009年(平成21年)2月時点で約半分が空き店舗となり<ref name="nikkei-2009-2-7" />、2009年(平成21年)6月時点で店につながる地下商店街「西堀ローサ」の全46区画のうち半分が空き店舗になる<ref name="asahi-np-2009-10-15" />など古町地区の「地盤沈下」<ref name="yomiuri-np-2009-10-16" />は一層進んだ影響や先述した伊勢丹や三越との競合<ref name="yomiuri-np-2009-10-16" />に敗れて近年は新潟市内の百貨店で3番手に落ち込むなどしたため1996年(平成8年)ごろから赤字が続き<ref name="asahi-np-2010-4-23" />、2006年(平成18年)9月から2階に新潟市まちなか行政サービスコーナー(愛称・なかなか古町、パスポートセンター併設)を開設をするなど新潟市も支援を行ったものの、改善の見込みがないとして<ref name="asahi-np-2010-4-23" />2010年(平成22年)6月25日に閉店した<ref name="sankei-np-2010-6-26" />。 |
|||
店舗跡の利用については、商店街有志で作る有限会社「古町まちづくりカンパニー」が新潟プラザビル部分を借りて地下食品街などの運営を継続する案もあったが、電源や非常階段などが本館と一体で分離して運営するのに2億円超の規模の改修が必要で土地・建物の権利関係も複雑だった<ref name="yomiuri-np-2010-4-24" />上、新潟市長を本部長となっている「まちなか再生本部会合」が「あくまでも緊急措置であり、大和跡地に本来どのような機能がふさわしいのか議論が十分になされていない」としてこの案に否定的だった<ref name="asahi-np-2010-4-22">{{Cite news | title = まち見つめて【大和撤退】(上)「どん底」から再起模索 | newspaper = [[朝日新聞]] | publisher = 朝日新聞社 | date = 2010-4-22 }}</ref>ため、この案は実現せず、2010年(平成22年)8月から2011年(平成23年)3月まで新潟商工会議所が借りて<ref name="yomiuri-np-2010-6-22" />ふれ愛古町<ref name="niigata-nippo-2011-12-16">{{Cite news | title = 旧大和前の歩行者、前年比15%減 減少に歯止めかからず | newspaper = [[新潟日報]] | publisher = 新潟日報社 | date = 2011-12-16 }}</ref>としてイベント会場などに活用し<ref name="yomiuri-np-2010-6-22" />、その後2011年(平成23年)9月23日に山下家具店が1〜3階にヤマシタ新潟古町店を開店して<ref name="niigata-nippo-2011-9-23">{{Cite news | title = 山下家具の新店舗が大和跡に開店 | newspaper = [[新潟日報]] | publisher = 新潟日報社 | date = 2011-9-23 }}</ref>一時的に利用して営業している<ref name="mainichi-np-2012-3-16" />。 |
|||
閉店発表当初店舗跡の大和の保有分は売却する方針を打ち出していた<ref name="yomiuri-np-2009-10-16" />が、土地・建物は、第四銀行の融資の担保となっていて「融資を返さないと担保ははずれない。その上でないと原則売却できない」<ref name="asahi-np-2010-4-21">{{Cite news | title = 百貨店の「大和」、資金繰りが急激に悪化…銀行の姿勢も厳しく | newspaper = [[朝日新聞]] | publisher = 朝日新聞社 | date = 2010-4-21 }}</ref>など売却に障害も多かったため方針転換し、2011年(平成23年)2月4日に自社で所有する店舗跡と隣接する堀川事業・タカツ商事が所有する新潟プラザビルと共同で再開発することで合意したと発表され<ref name="niigata-nippo-2011-2-4" />、2012年(平成24年)3月15日に<ref name="mainichi-np-2012-3-16">{{Cite news | title = 大和新潟店跡地協:再開発準備組合設立へ 基本構想、大筋で合意 | newspaper = [[毎日新聞]] | publisher = 毎日新聞社 | date = 2012-3-16 }}</ref>周辺の地権者11人を含む「古町通7番町D地区再開発推進協議会」<ref name="asahi-np-2011-6-26">{{Cite news | title = 大和新潟店 撤退から1年 | newspaper = [[朝日新聞]] | publisher = 朝日新聞社 | date = 2011-6-26 }}</ref>でスーパーマーケットなどの入る商業施設とマンション・介護施設の複合ビルを建設する再開発の基本構想で合意が成立して再開発準備組合設立に動き始めている<ref name="mainichi-np-2012-3-16" />が、再開発後のビルへの百貨店大和の再出店は競合があることや自社の体力の面から否定的である<ref name="nikkei-2011-10-15">{{Cite news | title = 大和、新潟再出店を断念へ 社長「競合店あり余力ない」 | newspaper = [[日本経済新聞]] | publisher = 日本経済新聞社 | date = 2011-10-15 }}</ref>。 |
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当店に隣接する「西堀ローサ」空き店舗は閉店約2か月前の2010年(平成22年)4月23日に23区画で一斉に新装開店し解消した<ref name="yomiuri-np-2010-4-24" />が、当店閉店の影響の方が大きく、閉店して2週間後の周辺歩行者通行量は店舗前で23.8%、柾谷小路をはさんで隣の古町6で25.9%減少するなど古町9地点の調査で約20%も減少し<ref name="niigata-nippo-2010-7-18">{{Cite news | title = 歩行者通行量2割減、新潟古町 | newspaper = [[新潟日報]] | publisher = 新潟日報社 | date = 2010-7-18 }}</ref>、閉店翌年の2011年(平成23年)10月に行われた調査では前年比15%減とさらに落ち込むなど古町の集客力の衰えが進んでいる<ref name="niigata-nippo-2011-12-16" />。 |
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=== 長岡大和 === |
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{{商業施設 |
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|社色 = #00997f |
|||
|文字色 = #ffffff |
|||
|名称 = 長岡大和 |
|||
|画像 = |
|||
|画像サイズ = |
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|正式名称 = 大和長岡店<ref name="nagaoka-cbd-2012-3-29" /> |
|||
|運営母体 = |
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|施設所有者 = 大和 |
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|前身 = |
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|敷地面積 = |
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|商業施設面積 = 4,640<ref name="nagaoka-cbd-2012-3-29" /> |
|||
|延床面積 = |
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|店舗数 = |
|||
|駐車場数 = |
|||
|商圏人口 = |
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|開業日 = 1958年(昭和33年)10月18日<ref name="nagaoka-cbd-2012-3-29" /> |
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|閉店日 = 2010年(平成22年)4月25日<ref name="yomiuri-np-2010-4-22" /> |
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|営業時間 = |
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|所在地 = [[新潟県]][[長岡市]]大手通2丁目3-1 |
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|グループ文字フォント = メイリオ |
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|グループ = '''<span style="font-size:110%;">D</span><span style="font-size:140%;">a</span><span style="font-size:110%;">IW</span><span style="font-size:140%;">a</span>''' |
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}} |
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1958年(昭和33年)10月18日に<ref name="nagaoka-cbd-2012-3-29" />新潟県では第2次世界大戦後初の百貨店として開業した店舗である<ref name="nigata-history-1989" />。 |
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当店開業より前の1954年(昭和29年)4月25日にイチムラ洋品店が大手通に移転してイチムラ百貨店として開業していたが<ref name="nagaoka100-2006-3">{{Cite book | 和書 | author =長岡市政100年のあゆみ編集委員会編 | title = 長岡市政100年のあゆみ | publisher = 長岡市 | year = 2006 | month = 3}}</ref>、百貨店審議会で百貨店法による営業を認可を受けて法律上も百貨店となったのが1963年(昭和38年)6月15日のため<ref name="nigata-history-1989" />、新潟県史では第2次世界大戦後初の百貨店<ref name="nigata-history-1989" />となっている。 |
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1960年(昭和35年)12月15日<ref name="nigata-history-1989" />には当地区周辺の中小規模専門店が集まって協同組合方式で<ref name="niigata-nippo-2007-4-19">{{Cite news | title = 長岡の丸専が20日で営業終了 | newspaper = [[新潟日報]] | publisher = 新潟日報社 | date = 2007-4-19 }}</ref>の[[寄合百貨店]]'''丸専デパート'''を開店し、1962年(昭和37年)12月には新潟県長岡市大手通2丁目に新店舗を建設して百貨店が開業した丸大<ref name="nagaoka100-2006-3" />がイチムラ百貨店と同時に百貨店審議会で百貨店法による営業を認可を受けて法律上も百貨店となり<ref name="nigata-history-1989" />、これら近隣に軒を連ねたライバルの百貨店と共に人気の大型店として[[長岡駅]]前の[[新潟県道36号長岡停車場線|大手通り]]に軒を連ねて賑わいの中心になっていた<ref name="niigata-nippo-2007-4-19" />。 |
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その後1971年(昭和46年)に長崎屋長岡駅前店も開店する<ref name="sano-2009">{{Cite report |year=2009 |title= 平成21年度国土政策関係研究支援事業 研究成果報告書 持続可能な『生活圏域』の設定に向けた臨界点の導出 |publisher= [[立教大学]]観光学部助教 佐野浩祥 }}</ref>など当店の位置する大手通は長岡市を代表する繁華街であり続けていたが、[[上越新幹線]]の開通に合わせて1980年(昭和55年)7月12日に長岡駅ビル専門店街セゾン・ド・長岡が開業し、同年9月27日には大手通とは反対側の東口に[[ダイエー]]が進出し<ref name="nigata-bigstore-2004">{{Cite report |year=2004 |title=新潟県内 大規模小売店舗(店舗面積1000㎡超)一覧 平成16年 |publisher=新潟県}}</ref>、地場資本の丸大が1988年(昭和63年)11月25日に当店の近隣にあった本店を[[イトーヨーカドー]]丸大として長岡駅西口前に事実上移転<ref name="nigata-bigstore-2004" />したことで長岡駅周辺に大型店が集まった商業集積が誕生し、大手通が長岡駅から遠い印象を与える結果となって客足が減少し始めた。 |
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そこに1989年(平成元年)10月27日に中心市街地から[[信濃川]]を渡った向こう側の郊外に開店した[[ジャスコ]]<ref name="nigata-bigstore-2004" />など郊外型店舗の進出により広い駐車場を求めて顧客が流出し<ref name="asahi-np-2010-4-23" />、1980年(昭和55年)に14.7万人あった中心市街地の人通りが2003年(平成15年)に5.1万人に減少した<ref name="asahi-np-2010-4-23" />影響が重なって大手通の集客力は急速に陰りを見せ、1995年(平成7年)に長崎屋長岡駅前店<ref name="niigata-nippo-2000-7-1">{{Cite news | title = プライス丸大 8月末閉店 | newspaper = [[新潟日報]] | publisher = 新潟日報社 | date = 2000-7-1 }}</ref>、1997年(平成9年)2月にダックシティイチムラが閉店し<ref name="nagaoka-cbd-2012-3-29" />、1998年(平成10年)にテナントの撤退が相次いだため娯楽主体に転換して丸専デパートが物販を縮小し<ref name="nikkei-1998-7-22">{{Cite news | title = テナント撤退続き娯楽主体に転換、丸専 | newspaper = [[日本経済新聞]] | publisher = 日本経済新聞社 | date = 1998-7-22 }}</ref>、丸大が旧本店をディスカウント店に転換していた[[ザ・プライス]]丸大長岡店も2000年(平成12年)8月に閉店する<ref name="niigata-nippo-2000-7-1" />など当店以外の大型店が全て消滅してしまった。 |
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こうした衰退に歯止めを掛けようと長岡市は丸大長岡店跡に2001年(平成13年)に「ながおか市民センター」が開館した<ref name="nagaoka-cbd-2012-3-29" />のを皮切りに、2003年(平成15年)にダックシティイチムラ跡に「まちなか・考房」と「長岡戦災資料館」、2004年(平成16年)には同じダックシティイチムラ跡の別の部分に「長岡市役所大手通分室」と相次いで市の公共施設を入居させて地区の集客の下支えを行ったほか、1998年(平成10年)に1.2haを対象とした「大手通表町地区市街地再開発準備組合」を大和も参画して発足させて再開発構想が進められた<ref name="yomiuri-np-2010-4-22" />。 |
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しかし、2005年(平成17年)に大和が「新たな投資は難しい」としたためこの再開発構想は頓挫して<ref name="yomiuri-np-2010-4-22" />店舗は老朽化したままとなっていた上<ref name="kitanihon-np-2009-10-16" />、赤字幅が増大していて<ref name="yomiuri-np-2009-10-16-2" />今後も回復は見込めないとして<ref name="asahi-np-2009-10-15" />2010年(平成22年)4月25日に閉店となった<ref name="yomiuri-np-2010-4-22" />。 |
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なお、店舗跡の土地・建物の売却は大和側が長岡市に持ちかけたものの、事業目的を決めずに購入できないとして保留とされ、閉店後の賑わい維持のために長岡市が店舗跡を借りて地元の大手通商店街振興組合がショーウィンドーや長岡の地場産品を販売するアンテナショップを1階で開くこととなった<ref name="yomiuri-np-2010-4-22" />。 |
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また、2009年(平成21年)11月30日に長岡市が店舗跡周辺への風俗店などの進出を防止するために用途を細かく制限できる「地区計画」の策定を行って用途制限強化を行う方針を表明して再開発計画への悪影響を防止しようとしている<ref name="niigata-nippo-2009-11-30">{{Cite news | title = 大和長岡店跡地の用途制限強化 | newspaper = [[新潟日報]] | publisher = 新潟日報社 | date = 2009-11-30 }}</ref>。 |
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=== 上越大和 === |
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{{商業施設 |
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|社色 = #00997f |
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|文字色 = #ffffff |
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|名称 = 上越大和 |
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|画像 = |
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|画像サイズ = |
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|正式名称 = 大和上越店 |
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|運営母体 = |
|||
|施設所有者 = イレブンビル |
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|前身 = |
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|敷地面積 = |
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|商業施設面積 = |
|||
|延床面積 = |
|||
|店舗数 = |
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|駐車場数 = |
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|商圏人口 = |
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|開業日 = 1975年(昭和50年)7月<ref name="joetsu-times-2009-10-15" /> |
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|閉店日 = 2010年(平成22年)4月25日<ref name="joetsu-times-2010-4-26" /> |
|||
|営業時間 = |
|||
|最寄駅 = |
|||
|最寄IC = |
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|所在地郵便番号 = |
|||
|所在地 = [[新潟県]][[上越市]]本町4丁目4-8 |
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|地図国コード = JP |
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|外部リンク = |
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|グループ社色 = #00997f |
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|グループ文字色 = #ffffff |
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|グループ文字フォント = メイリオ |
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|グループ = '''<span style="font-size:110%;">D</span><span style="font-size:140%;">a</span><span style="font-size:110%;">IW</span><span style="font-size:140%;">a</span>''' |
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}} |
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1975年(昭和50年)7月に<ref name="joetsu-times-2009-10-15" />上越地方を代表する商店街となって高田の銀座と呼ばれた<ref name="oka-2008-10">{{Cite book | 和書 | author =岡観妙 | title = 懐かしのわが街上越―岡観妙写真集 | publisher = 新潟日報事業社 | year = 2008 | month = 10}}</ref>本町に地元の商店主11人が作った<ref name="asahi-np-2009-10-15" />地上6階・地下1階の<ref name="yomiuri-np-2010-4-23">{{Cite news | title = 商店街ルネサンス まちは今「大和」撤退<中>新ビル建設上越の核に | newspaper = [[読売新聞]] | publisher = 読売新聞社 | date = 2010-4-23 }}</ref>イレブンビルの核店舗として開店<ref name="joetsu-times-2009-10-15" /> |
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1985年(昭和60年)2月に[[いづも屋百貨店]]が閉店した<ref name="joetsu-h15-report-1">{{Cite report |year=2003 |title= 平成15年度調査報告書 第1部 町家を活かしたまちづくりによる地域活性化戦略 |publisher=上越市創造行政研究所}}</ref>後は地域唯一の百貨店として営業し<ref name="joetsu-times-2009-10-15" />、催事場やアートサロンでは数多くの展覧会やイベント開催などを通じて地域の文化の中心としても機能していた<ref name="joetsu-times-2010-4-26" />。 |
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しかし店舗を開設した本町商店街とその周辺の高田の旧市街地は道路が狭く、駐車場が少ないために昭和40年代からモータリゼーションが進んだことへの対応が遅れていた上<ref name="aoki-2009-3">{{Cite journal | author =青木敏隆 | title = 国土経済論叢 市町村合併と都市構造の課題(その4) | journal = 経済調査研究レビュー 2009年3月 | publisher = [[経済調査会]]経済調査研究所 | issue = 2009-3}}</ref>、1971年(昭和46年)4月29日に高田市と直江津市は対等の立場で合併した経緯から、旧高田市の中心市街地と旧直江津市の中心市街地の中間である春日山駅東の木田地区にに市役所が建設されて当店開店の翌年1976年(昭和51年)4月10日に完成して当店の近隣の本町3丁目に在った市役所が移転した<ref name="aoki-2009-3" />のを皮切りに文化会館、総合体育館が建設されて上越市における行政・文化の中心が移動する<ref name="aoki-2009-3" />など店舗周辺の空洞化が進み、1985年(昭和60年)にいづも屋百貨店の後継店舗イヅモヤジャスコが郊外の土橋に開業した<ref name="joetsu-h15-report-1" />のを皮切りに、1994年(平成6年)4月に[[上越ウイングマーケットセンター]]<ref name="aoki-2009-3" />、1996年(平成8年)3月に富岡にジャスコ上越店が開業する<ref name="aoki-2009-3" />など大型商業施設の郊外化が進み、本町商店街が半径1キロ前後の住民を対象に2009年(平成21年)末から2010年(平成22年)1月にかけて実施したアンケートで商店街を主な買い物先にする人は8%、スーパーとショッピングモールが68%となり<ref name="asahi-np-2010-4-23" />、上越市で最もにぎわうのはジャスコ上越店を中心とする地区といわれ<ref name="asahi-np-2010-4-23" />、本町商店街の歩行者数が1995年(平成7年)の65%減となる<ref name="asahi-np-2010-4-23" />ほど店舗周辺の集客力が低下してしまった。 |
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こうした本町の衰退を受け、2002年(平成14年)2月に近くにあった長崎屋高田店が撤退し、その店舗跡へのテナント招致が上手く行かずにそのビルの所有権が差押えを経て競売になり、保有していた会社が破綻する<ref name="joetsu-times-2007-7-13">{{Cite news | title = 高田共同ビル破産へ 負債は10億円を超す | newspaper = [[上越タイムス]] | publisher = 上越タイムス社 | date = 2007-7-13 }}</ref>ほど大幅な売上減、客数の減少が生じて空き店舗も増加する状況となる<ref name="aoki-2009-3" />など店舗周辺の商業環境の悪化もあって、2009年(平成21年)2月期に売上高が前期比で約3.77億円減の約26.67億円と当時7店中最大の減少率となるなど<ref name="joetsu-times-2009-10-15" />落ち込みが目立った為、2010年(平成22年)4月25日に閉店した<ref name="joetsu-times-2010-4-26" /> |
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閉店後は近隣のホテルのランチ客が約30%も減るなど旧店舗周辺の人通りが減少して空洞化が進んだが<ref name="nikkei-2011-3-12">{{Cite news | title = 大和跡地、平屋商業施設で再開発へ-上越市、身の丈計画選ぶ | newspaper = [[日本経済新聞]] | publisher = 日本経済新聞社 | date = 2011-3-12 }}</ref>、一方では上越市が空き店舗対策として改装費の半額(上限100万円)を補助する制度や上越市が家主に値下げを働きかけて10年前より家賃は約30%〜40%下がったことなどが効果を上げて2010年(平成22年)3〜5月に本町3〜5丁目に大和関連以外の8店を含む17店出店する<ref name="asahi-np-2010-4-22" />など空洞化とは逆の動きも見られている。 |
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閉店後店舗の入っていたイレブンビルを解体して2階程度の低層の商業施設を新築する方向でイレブンビル幹部らでつくるワーキンググループは2009年(平成21年)12月以降に国や市の支援を受けて検討していた<ref name="yomiuri-np-2010-4-23" />が、2011年(平成23年)3月には国から2.35億円、市から1億円の補助金を見込んで解体費込みの総事業費6.22億円で市民が気軽に集える交流スペースや広場のある平屋建ての商業施設を2012年(平成24年)秋の開業を目指して建設する計画を固めた<ref name="nikkei-2011-3-12" />。 |
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しかし、この施設の核テナントとして複数の百貨店に小規模店舗の誘致を働き掛けたが前向きな回答は得られず<ref name="niigata-nippo-2011-4-26">{{Cite news | title = 大和上越跡地、テナント誘致難航 | newspaper = [[新潟日報]] | publisher = 新潟日報社 | date = 2011-4-26 }}</ref>、具体的な出店計画は浮上していない<ref name="nikkei-2011-3-12" />。 |
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=== 武蔵店 === |
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{{main|金沢名鉄丸越百貨店|丸越}} |
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1930年(昭和5年)に開業した[[三越]]金沢店が1935年(昭和10年)に閉店した<ref name="oh-oka2009-4" />際にビルのオーナーの[[林屋亀次郎]]<ref name="oh-oka2009-4" />が、三越に返済する保証金の支払いに困窮していたのを宮市大丸が提携により支援して同店跡を利用して同年9月に丸越として開業し<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />、合併により大和となった際に武蔵店となった。 |
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分離前の1952年(昭和27年)5月10日にラジオ放送開始した北陸文化放送(現在の[[北陸放送]])の最初の本社・演奏所があった<ref name="mro-25-1977-5">{{Cite book | 和書 | authors =北陸放送 編 | title = 地域とともに四半世紀 北陸放送二十五年史 | publisher = 北陸放送 | date = 1977-5}}</ref>ことでもしられている。 |
|||
1952年(昭和27年)7月に大和の武蔵店としては閉店して<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />、事実上分離される形で再び林屋亀次郎が経営する丸越として復活した格好となった<ref name="labour-year-book-japan-27-1955" />。 |
|||
その後[[丸越]]は[[伊藤忠商事]]や[[名鉄グループ]]による資本参加を経て現在の[[金沢名鉄丸越百貨店|めいてつエムザ]]2002年(平成14年)に現店名に変更)となっている<ref name="meitetsu-marukoshi-annual-report-96-2012" />が、1973年(昭和48年)10月1日に金沢スカイビル内移転している<ref name="meitetsu100-1994">{{Cite book | 和書 | title = 名古屋鉄道百年史 | publisher = [[名古屋鉄道]] | year = 1994}}</ref>ため現在の店舗は武蔵店の場所とは異なっている。 |
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戦時統合以前から丸越(初代)はグループ会社であった<ref name="yomiuri-np-2010-6-20" />が、丸越の分離以降、両者には資本関係は認められず、競合関係にある。 |
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なお、当店の跡地はその後1981年(昭和56年)10月にダイエー金沢店が出店したが2005年(平成17年)10月に閉店している<ref name="hokkoku-np-2007-2-19">{{Cite news | title = ダイエー跡にマンション 日本レイトが開発構想 所有者と最終調整 低層階は商業テナント | newspaper = [[北國新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2007-2-19 }}</ref>。 |
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=== 小松大和 === |
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{{商業施設 |
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|社色 = #00997f |
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|文字色 = #ffffff |
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|名称 = 小松大和<ref name="hokkoku-np-2010-6-25">{{Cite news | title = 32億円争奪、過熱せず 小松大和、25日閉店 香林坊店弱気、エムザ様子見 | newspaper = [[北國新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2010-6-25 }}</ref> |
|||
|画像 = Komatsu Daiwa.jpg |
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|画像サイズ = 220px |
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|正式名称 = 大和小松店 |
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|施設管理者 = 大和<ref name="big-store-close-renewal-2003">{{Cite report |year=2003 |title=大型閉鎖店舗再生等対策の総合プロデュース人材育成事業 副読本 |publisher=[[経済産業省]]}}</ref> |
|||
|前身 = [[西友|西友ストア]]<ref name="yomiuri-np-2009-10-15">{{Cite news | title = 小松大和 閉店を検討売り上げ低迷、きょうにも計画発表 | newspaper = [[読売新聞]] | publisher = 読売新聞社 | date = 2009-10-15 }}</ref>小松店<ref name="big-store-close-renewal-2003" /><br>[[西武百貨店]]小松店<ref name="big-store-close-renewal-2003" /> |
|||
|敷地面積 = 2,809.72<ref name="big-store-close-renewal-2003" /> |
|||
|商業施設面積 = |
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|延床面積 = 25,873.39<ref name="big-store-close-renewal-2003" /> |
|||
|店舗数 = |
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|駐車場数 = |
|||
|商圏人口 = |
|||
|開業日 = 1998年(平成10年)[[3月21日]]<ref name="big-store-close-renewal-2003" /> |
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|閉店日 = 2010年(平成22年)6月25日<ref name="hokkoku-np-2010-6-25" /> |
|||
|営業時間 = 10:00〜19:00 |
|||
|最寄駅 = [[小松駅]]<ref name="big-store-close-renewal-2003" /> |
|||
|最寄IC = [[小松インターチェンジ|小松IC]] |
|||
|所在地郵便番号 = 923-8608 |
|||
|所在地 = [[石川県]][[小松市]]土居原町10-10 |
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|地図国コード = JP |
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|外部リンク = |
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|グループ社色 = #00997f |
|||
|グループ文字色 = #ffffff |
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|グループ文字フォント = メイリオ |
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|グループ = '''<span style="font-size:110%;">D</span><span style="font-size:140%;">a</span><span style="font-size:110%;">IW</span><span style="font-size:140%;">a</span>''' |
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}} |
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{{main|小松大和}} |
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1996年(平成8年)12月に閉店した西武百貨店小松店跡を買収して1998年(平成10年)3月21日に[[小松駅]]前に開店<ref name="big-store-close-renewal-2003" />。 |
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西武百貨店が閉店に追い込まれた要因として駐車場が60台と少なかったことが上げられていたため、当店の開店に合せて小松市が外郭団体の財団法人小松市開発公社に隣接地312台収容の立体駐車場を整備させて駐車場不足を解消したり、周辺の連続立体交差化工事などにより周辺環境も合せて整備するなど支援体制がとられた。 |
|||
しかし、ピーク時に約50億円あった売上が2009年(平成21年)2月期には前期比11.8%減<ref name="yomiuri-np-2009-10-15" />の約32億円<ref name="hokkoku-np-2010-6-25" />、2009年(平成21年)3〜8月期には前年同期比10.0%減の約15.87億円と落ち込み<ref name="hokkoku-np-2009-10-18">{{Cite news | title = 来店増も2けた減収 北陸の百貨店3〜8月期 安値戦術で客単価落ち | newspaper = [[北國新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2009-10-18 }}</ref>、小松、新潟、長岡、上越の4店合計10億円弱の赤字<ref name="hokkoku-np-2009-10-16">{{Cite news | title = 小松店は来年6月末閉鎖 大和が再生計画発表 希望退職470人募る | newspaper = [[北國新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2009-10-16 }}</ref>が続き改善の見込みがない<ref name="yomiuri-np-2009-10-16-2" />として2010年(平成22年)6月25日に閉店した<ref name="hokkoku-np-2010-6-25" />。 |
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当店の贈答品需要を引継ぐため閉店の翌々日27日に当社がJR小松駅前のホテル1階に小型ギフト店を開設した<ref name="hokkoku-np-2010-6-25" />。 |
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=== 福井店 === |
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{{商業施設 |
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|社色 = #00997f |
|||
|文字色 = #ffffff |
|||
|名称 = 福井大和 |
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|画像 = Fukui Earthquake 1948 - damaged building.jpg |
|||
|画像説明 = 地震直後の大和福井店 |
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|画像サイズ = 220px |
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|正式名称 = 大和福井店 |
|||
|運営母体 = |
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|施設所有者 = |
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|前身 = 福屋<br>宮市大丸福井店 |
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|敷地面積 = |
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|商業施設面積 = |
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|延床面積 = |
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|店舗数 = |
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|駐車場数 = |
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|商圏人口 = |
|||
|開業日 = 1936年(昭和11年)12月5日<ref name="fukui-pref-history-list-1998" /> |
|||
|閉店日 = 1948年(昭和23年)6月28日<ref name="kenmin-fukui-np-2008-5-28" /> |
|||
|営業時間 = |
|||
|最寄駅 = |
|||
|最寄IC = |
|||
|所在地郵便番号 = |
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|所在地 = [[福井県]][[福井市]] |
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|地図国コード = JP |
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|外部リンク = |
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|グループ社色 = #00997f |
|||
|グループ文字色 = #ffffff |
|||
|グループ文字フォント = メイリオ |
|||
|グループ = '''<span style="font-size:110%;">D</span><span style="font-size:140%;">a</span><span style="font-size:110%;">IW</span><span style="font-size:140%;">a</span>''' |
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}} |
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創立初期から宮市大丸は福井市などで出張販売を展開しており、富山に続く出店先として福井市を考えていた<ref name="fukui-pref-history6-1996" />。 |
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そうした構想を受け、地元福井県でもかねてから近代的な百貨店の誘致を考えていた三国町の県会議員濃畑三郎、福井銀行重役森田三郎右衛門らが宮市大丸に対して福井進出を促し、森田が重役をしていた福井銀行所有の土地を百貨店建設用地として提供し、富山進出の際に発生した地元小売商の反対運動を避けるため、濃畑三郎の名義で「福屋」という名称で建築申請を行うなど宮市大丸の名前が出ないようにしていたが、1936年(昭和11年)7月頃には事実上宮市大丸であるとの噂が広まり、同月12日には反対の市民集会、15日に福井市内72の小売商組合が福井県警察部長に面会して反対の陳情を行ったが、「百貨店進出を阻止しうる根拠は何もない」「消費者階級にとつては新デパートの出現を賛成している」として18日に濃畑三郎の名義の「福屋」に許可が下りた<ref name="fukui-pref-history6-1996" />。 |
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以降も反対運動は続いたが<ref name="fukui-pref-history6-1996" />、そのまま1936年(昭和11年)12月5日に開店にした<ref name="fukui-pref-history-list-1998" />。 |
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地場資本の[[だるま屋百貨店]]の建物が木造の二階建てであったのに対して<ref name="fukui-pref-history6-1996" />、福屋はその南側に白い御影石を用いた鉄筋コンクリート造の建物<ref name="kenmin-fukui-np-2008-5-28" />としてその近代性と商品の充実振りをアピールして対抗しようとした<ref name="fukui-pref-history6-1996" />。 |
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1937年(昭和12年)[[9月]]に合併により宮市大丸福井店に店名変更し、その後合併で大和が誕生した際に大和福井店となった<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />。 |
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しかし、1948年(昭和23年)6月28日午後5時13分(当時はサマータイムの期間中だったため現在の言い方では同4時13分)ごろに発生した[[福井地震]]で店舗が倒壊した<ref name="kenmin-fukui-np-2008-5-28" />ためにそのまま閉店して撤退した<ref name="daiwa-annual-report-96-2012" />。 |
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跡地は米国の進駐軍が地震後に使用し<ref name="kenmin-fukui-np-2008-5-28" />、現在、[[北陸銀行]]福井支店となっている。 |
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=== 清津店 === |
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1940年(昭和15年)12月に<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]の清津市の清津駅前に売場面積約500坪<ref name="kawabata-2009" />の'''宮市大丸清津店'''として百貨店を開業<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />。 |
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[[日中戦争]]の進展に伴う戦時統制経済下で民間向けの百貨店事業が縮小した際には地元金沢に本拠を置いていた日本陸軍第9師団への軍需を獲得して業績の維持を図っていたが<ref name="kawabata-2009" />、1940年(昭和15年)10月に第9師団の満州進駐が決まったため御用商社として満州に同行する許可を取り<ref name="kawabata-2009" />、その拠点も兼ねて朝鮮と満州との国境線に近い朝鮮半島北部の港街清津に開設した店舗であった<ref name="kawabata-2009" />。 |
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清津の発展を目指した現地の日本人の商人から清津駅前の土地の提供を受けて出店し、軍需と清津周辺の新市場開拓の両立を目指した<ref name="kawabata-2009" /><ref name="daiwa-history-50-1972-9" />。 |
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この店舗を拠点にその出先として[[満州]]の牡丹江に営業所を設置して慰問所、映画館、食堂を運営して第9師団以外の日本陸軍にも販路を広げ、牡丹江での大規模な農場や朝鮮半島での缶詰工場や陶器・煉瓦工場にまで手を広げて需要に対応しようとした<ref name="kawabata-2009" />。 |
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しかし、1945年(昭和20年)9月に第2次世界大戦が終戦となって日本がこれらの地域の支配権を失ったことに伴い清津店とそれに付随する農場・工場などの営業権は消滅することになった<ref name="daiwa-history-50-1972-9" />。 |
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=== 東京大和出張所 === |
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[[三菱商事]]本社内に開設。1948年(昭和23年)4月、銀座7丁目1番の[[資生堂]]本舗向かい側に200坪の店舗開設。 |
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この出張所に開設された出版部が、後に[[勁草書房]]として独立している。 |
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=== ギフトショップ === |
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かつては主要店舗を補完する存在として石川県や富山県内に多数展開されていたが、ネット通販の普及や交通の利便性向上などによる利用者減少で赤字となっていたため2011年(平成23年)5月から2012年(平成24年)2月にかけて[[輪島市]]、[[羽咋市]]、[[野々市市]]、[[氷見市]]、[[砺波市]]にあった5店舗が閉店している<ref name="hokkoku-np-2012-2-2" />。 |
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また、金沢駅前の再開発ビルポルテ金沢の2階1,357m²に1994年(平成6年)にギフトショップを出店したが、同ビルの3階フロアが開業当初から進まないなど集客力に欠けていたため、1999年(平成11年)に閉店して撤退した<ref name="hokkoku-np-2006-10-19">{{Cite news | title = 駅前テナント「満員御礼」ポルテ金沢、店舗埋まる 新幹線、フォーラス効果が波及 | newspaper = [[北國新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2006-10-19 }}</ref>。 |
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=== 大和ハウジング === |
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子会社の大和ハウジングが<ref name="hokkoku-np-2011-5-24" />石川県野々市市横宮町で<ref name="hokuriku-chunichi-np-2012-9-27">{{Cite news | author = 基村祐一 | title = 東京ストアー3店 バローに事業譲渡 不採算店整理 収益改善へ | newspaper = [[北陸中日新聞]] | publisher = 中日新聞社 | date = 2012-9-27 }}</ref>社名と同名の店舗で営業していた家具や雑貨などを扱っていたインテリアショップであったが、事業再編の一環として2011年(平成23年)5月23日に閉店した<ref name="hokkoku-np-2011-5-24" />。 |
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閉店約半月後の同年6月8日に土地と建物をバローに売却する基本合意契約が締結され<ref name="hokkoku-np-2011-6-9">{{Cite news | title = 大和ハウジング跡地にバロー出店へ 来夏に | newspaper = [[北國新聞]] | publisher = 北國新聞社 | date = 2011-6-9 }}</ref>、2012年(平成24年)9月27日に食品スーパーの[[バロー (チェーンストア) |バロー]]野々市店が開店した<ref name="hokuriku-chunichi-np-2012-9-27" />。 |
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== 関連企業 == |
== 関連企業 == |
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== 大和が出資している主な企業 == |
== 大和が出資している主な企業 == |
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* [[北陸放送]] - 北陸放送設立当時は大和武蔵店内に[[演奏所]]を設置していた。 |
* [[北陸放送]] - 北陸放送設立当時は大和武蔵店内に[[演奏所]]を設置していた。 |
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* [[新潟放送]] - ラジオ新潟設立当時は大和新潟店内に[[演奏所]]を設置していた。 |
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* [[北日本放送]] |
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* [[北菱電興]] - 保有株式数第2位の株主であり、宮太郎が代表権を持たない会長を兼務している。 |
* [[北菱電興]] - 保有株式数第2位の株主であり、宮太郎が代表権を持たない会長を兼務している。 |
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== 脚注 == |
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== 関連項目 == |
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* [[井村徳二]]:初代社長で宮一大丸創業者の息子 |
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* [[林屋亀次郎]]:初代会長で前身の一つ丸越の創業者 |
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* [[丸越]]:前身の一つ |
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== 外部リンク == |
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[[Category:東証二部上場企業]] |
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2012年11月27日 (火) 23:31時点における版
種類 | 株式会社 |
---|---|
市場情報 | |
略称 | ダイワ |
本社所在地 |
日本 〒920-8561 石川県金沢市片町二丁目2番5号[1] |
設立 | 1943年(昭和18年)12月21日 |
業種 | 小売業 |
法人番号 | 6220001003957 |
事業内容 | 百貨店 |
代表者 | 代表取締役社長:宮 二朗[1] |
資本金 | 34億6270万円[1] |
売上高 |
単体489.98億円、連結520.06億円 (2012年(平成24年)2月期)[1] |
経常利益 |
単体2.09億円、連結2.64億円 (2012年(平成24年)2月期)[1] |
純利益 |
単体3.46億円、連結0.91億円 (2012年(平成24年)2月期)[1] |
純資産 |
単体46.40億円、連結59.12億円 (2012年(平成24年)2月)[1] |
総資産 |
単体418.52億円、連結468.55億円 (2012年(平成24年)2月)[1] |
従業員数 | 単体687、連結956(2012年(平成24年)2月29日現在)[1] |
決算期 | 2月末[1] |
主要株主 |
宮 太郎 6.00% 倉敷紡績(株) 4.88% 東京海上日動火災(株) 4.75% 宮 二朗 4.40% 財団法人大和文化財団 3.33% (2012年(平成24年)29日現在)[1] |
主要子会社 | 本項『#関連企業』参照 |
関係する人物 | 井村徳三郎(創業者)、林屋亀次郎(元会長)、井村徳二(元社長)、宮太郎(元社長) |
外部リンク | http://www.daiwa-dp.co.jp/ |
株式会社大和(だいわ、英: Daiwa Co., Ltd.)は、石川県金沢市に本社を置き北陸地方を地盤とする日本の百貨店である。
沿革
宮市洋品店から百貨店へ
井村徳三郎が兄が亡くなった為に帰郷して宮市洋品店を石川県金沢市片町で開業したのが始まりである[2]。
洋服、洋酒、帽子など複数の店舗に分かれて営業していた時期もあったが、1903年(明治36年)に現在のラブロ片町の場所に宮市洋品店として一つの店舗にまとめ、1906年(明治39年)に金沢市に老舗の製茶業を経営する林屋一族の林屋次三郎が合名会社林屋組を設立して洋食器などの硬質陶器の製造を行うことになった際には資本金5万円のうち1万円を出資して宮市洋品店がその一手販売権を取得する(この一手販売権は林屋組が日本硬質陶器株式会社に事業を引継いだ際に解消された)[2]など急速に成長した。
この頃既に宮市洋品店は個人営業ではなく、宮市合名会社として営業していた[2]。
この洋品店を元に井村徳三郎が京都大丸と提携して1923年(大正12年)10月15日に金沢市片町で宮市百貨店として開業したのが百貨店としての始まりである[3]。
宮市大丸
1930年(昭和5年)8月には株式会社宮市大丸を設立して株式会社化し、店舗名も改めている[3]。
宮市大丸は設立当初から北陸三県全域への営業展開を狙い、富山市や高岡市、石川県大聖寺(現在の加賀市)、福井市など北陸三県の主要な各地区に出張販売を行い、富山市には出張員詰所を設置した[4]。
この富山の出張員詰所の売上が極めて良好だったため1931年(昭和6年)末には富山に百貨店の出店を決定し、出店のための用地買収を終えると富山支店開設事務所の看板を出すなど着々と準備を進めたが、このストレートな出店戦略が裏目に出て地元の小売商が進出阻止の期成同盟会を結成して富山県や富山市に反対の陳情を行うと共に200人以上でデモ行進を行うなどの猛烈な反対運動に見舞われることになった[4]。
こうした反対運動を乗り越えて1932年(昭和7年)8月20日に富山市西町で一部営業を開始し[5]、同年11月10日に宮市大丸富山店を開店して百貨店の多店化の第一歩を踏み出した[3]。
富山店は1930年(昭和5年)に三越金沢店が開業[6]して競争が始まっていた金沢の本店を上回る売上を上げ[4][3]、1934年(昭和9年)12月2日に鉄筋コンクリート造り6階建[5]に増築して[3]中核店舗の一つとなった。
金沢の本店は老舗製茶業の一族だった林屋亀次郎が武蔵ヶ辻に建設したビルに1930年(昭和5年)に三越金沢店が開業して高級品や中級品を主として営業したのに対して[6]大丸との提携して[7]中級品以下の格安品を集めて商品の回転率を高める大衆的営業を展開して三越をわずか5年で撤退に追い込み[6]、金沢を代表する百貨店としての地位を固めた。
1936年(昭和11年)5月には以前から富山に続く百貨店の進出先として構想していた福井市への出店について、近代的な百貨店の誘致を考えていた三国町の県会議員濃畑三郎、福井銀行重役森田三郎右衛門らの協力により福井銀行が所有していた福井駅前の土地を取得できることになって出店の目処がつけた。
この福井出店に際しては富山で生じたような反対運動を避けるため濃畑三郎を代表とする福屋という名称で建築申請を行うなど宮一大丸の名を出さないように考慮したが、同年7月頃には実質的には宮一大丸との噂が広まって反対の市民集会や福井市内72の小売商組合が福井県警察部長に面会して反対の陳情を行うなどその狙いは成功しなかった。
しかし、「百貨店進出を阻止しうる根拠は何もない」「消費者階級にとつては新デパートの出現を賛成している」として同月18日にに許可が下り[4]、1936年(昭和11年)12月5日に福屋を開店にして事実上進出を果たし[8]、翌年1937年(昭和12年)9月に合併して宮市大丸福井店として正式に進出し[3]、北陸三県の県庁所在地全てを網羅する百貨店チェーンの構築を構築した。
日中戦争の進展に伴う戦時統制経済下で民間向けの百貨店事業が縮小した際には地元に本拠を置いていた日本陸軍第9師団への軍需を獲得して業績の維持を図り[9]、1940年(昭和15年)10月に第9師団の満州進駐が決まると御用商社として満州に同行する許可を取り[9]、その拠点も兼ねて朝鮮と満州との国境線に近い朝鮮半島北部の港街清津にその発展を目指した現地の日本人の商人から清津駅前の土地の提供を受けて[9]1940年(昭和15年)12月に宮市大丸清津店として百貨店を開業し[3]、軍需と現地の新市場開拓の両立を目指した[9]。
なお、宮市大丸は現在の日本百貨店協会の前身の日本百貨店商業組合に1933年(昭和8年)4月20日の創立総会のときから参画している[10]。
大和の誕生
戦時統制の進展に伴う企業統合令の発令により統合を求められたため1943年(昭和18年)12月21日に同じ金沢に本店を置く百貨店チェーンだった丸越と合併して林屋亀次郎が会長で井村徳二を社長とする資本金310万円の株式会社大和を設立し、店舗名も大和に変更された[3]。
これに伴い、大和は片町の旧宮一大丸本店だった金沢本店の他に武蔵店(旧丸越本店)、新潟(旧丸越)、富山、福井、高岡(旧丸越)、清津と北陸三県に新潟県と朝鮮半島の計7店舗を持つ百貨店チェーンとなった[3]。
戦争の終結や地震、会長の退任による閉店
第2次世界大戦が終戦を迎えて朝鮮半島が日本の植民地でなくなったことに伴って1945年(昭和20年)9月に清津店が消滅し[3]、1948年(昭和23年)6月28日に発生した福井地震で店舗が倒壊した[11]ことを受けて福井店をそのまま閉店[3]、さらに林屋亀次郎会長が選挙に出馬する為に退任するのに伴って1952年(昭和27年)7月には武蔵店を閉店し[3]、武蔵店は再び丸越としてライバルの百貨店として復活することになった。
この際に旧丸越の高岡店、新潟店は大和に残されたため金沢店、富山店と合せて石川県・富山県・新潟県の三県に4店舗を展開する百貨店チェーンとなった。
新規出店や店舗移転
1958年(昭和33年)10月18日に新潟県長岡市大手通2丁目に[12]新潟県では第2次世界大戦後初の百貨店となる長岡店を開業した[13]のを皮切りに出店を再開し、1975年(昭和50年)7月には上越市本町4丁目に上越店[14]、1998年(平成10年)3月21日には小松駅前の西武百貨店小松店跡を買収して小松店を開店する[15]など再び多店化を進め、ピーク時には再び百貨店だけで7店舗を経営した。
また、金沢市香林坊地区の再開発に参画して1986年(昭和61年)9月に本店を片町から香林坊アトリオへ移転・増床させた[1]のを皮切りに、高岡市の御旅屋地区の再開発に参画して1994年(平成6年)3月18日[16]に旧店舗隣に完成した御旅屋セリオに移転・増床[1]、富山市の総曲輪地区の再開発に参画して2007年(平成19年)9月21日に総曲輪フェリオに富山店を移転・増床する[17]など石川県と富山県の既存店全てを再開発ビルに進出させたほか、1998年(平成10年)には長岡店周辺の再開発準備組合に参加する[18]など再開発による既存店の更新にも積極的に取り組んでいた。
こうした積極策により香林坊大和が1998年(平成10年)2月期に425億円、2011年(平成23年)2月期に242億円の売上を上げ[19]、富山店が総曲輪フェリオに移転した最初の1年間で200億円以上の売上を上げる[20]。
百貨店以外の事業への進出と出資
1948年(昭和23年)に出版部門の勁草書房を設立し[21]、1970年(昭和45年)3月に株式会社勁草書房として独立させる[1]など出版業へ進出したのを皮切りに、1954年(昭和29年)10月に株式会社大和印刷社を設立して[1]印刷業に、1967年(昭和42年)12月には株式会社大和ハウジングを設立[1]して家具販売に、1967年(昭和42年)に石川日産自動車販売株式会社を傘下に入れて[22]自動車販売に、1970年(昭和45年)9月に金沢ニューグランドホテルを設立して[1]1972年(昭和47年)5月18日にシティホテル金沢ニューグランドホテルを開業させて[3]ホテル業にと様々な業種へ子会社などを通じて進出して多角化が進められた。
新潟店に隣接する道路に1976年(昭和51年)に地下街西堀ローサを開業させた新潟市の第三セクター「新潟地下開発」[23]に三越と並んで22%出資して[24]地下食料品売り場と直結[25]したり、1985年(昭和60年)9月に株式会社ディー・アンド・シー(100%出資子会社)を設立して[1]1986年(昭和61年)11月に[1]旧本店を専門店を中心とする「ラブロ片町」[26]として開業する[1]など百貨店の店舗周辺や店舗跡の商業施設にも参加している。
また、第2次世界大戦後に各地で民間放送が設立された際には百貨店を展開している石川県・富山県・新潟県の三県内に設立された放送会社の北陸放送[1]、新潟放送[27]、北日本放送[28]、テレビ金沢[1]に出資するなど営業エリア内の民間放送にも関与している。
店舗網の再編
リーマンショック後の2009年(平成21年)2月期の連結決算で法人化後初の営業、経常赤字に転落して最終赤字28.44億円となった大和[29]は、2009年(平成21年)10月15日に2010年(平成22年)2月期が4期連続最終赤字となる見通しで[30]、売上高はピークから半減して[31]合計10億円弱の[32]営業赤字となっているだけでなくビルの老朽化も問題となっている上[31]、赤字幅が増大していて[30]今後も回復は見込めないとして[24]建物の原状回復費など閉店費用約45億円[30]で新潟、長岡、上越、小松店の4店を2010年(平成22年)6月までに閉鎖し[32]、同時に特別退職金約9億円[30]で全従業員約1320人を対象に[32]その35%に当たる470人の希望退職を募集し[31]、2009年(平成21年)2月期決算で営業黒字を確保していて建物の比較的新しく耐震性も含めハード面の投資が比較的少なくすむ香林坊、富山、高岡の3店体制へ集約して[31]2011年(平成23年)2月期に営業利益の黒字転換を目指す[30]大規模な事業再編計画を発表した。
この発表の際には自社物件である新潟店と長岡店の土地・建物は売却し、「西堀ローサ」を運営する第三セクター・新潟地下開発への出資も将来的に引き上げて新潟県から撤退する方向で検討していると発表していた[33]。
その発表通り2010年(平成22年)4月25日に長岡店[18]と上越店[34]、同年6月25日に新潟店[35]と小松店[36]を閉店した。
この結果「新潟にこだわる相談役(宮太郎)の下では撤退は許されない」とされてきた[7]新潟県内の百貨店事業から完全に撤退することとなった。
関連会社の再編
2009年(平成21年)10月15日の4店閉店などの発表の際に子会社再編については今後の課題としていたが[32]、2011年(平成23年)5月23日に子会社で大和ハウジングが営業していた家具・インテリアショップを閉店し[37]、同月末31日に保有していた石川日産自動車販売の約48%の全株式を日産プリンス金沢を傘下に持つ米沢電気グループの北星産業に譲渡して自動車販売事業から撤退[22]と相次いで関連会社による事業の整理を行った。
存続店舗の改装とギフト店の縮小
存続店舗についても「百貨店の王道を歩みながら、バランスを考えていきたい」と低価格商品の導入拡大など価格戦略や商圏の見直し[38]や富山店と高岡店の営業部門の統合[31]などの見直しを行いながら、赤字の為に抑制してきた設備投資を再開して基幹店の香林坊店と富山店で若い顧客を狙った改装を進め[39]、特に香林坊店は2011年(平成23年)9月の食料品売場改装を皮切りに2012年(平成24年)年2月1日から3月8日にかけて婦人ファッションを中心に27ブランドを導入して[40]家庭用品や呉服売場も改装する香林坊店開店後最大規模の改装を行い[40]、同年9月にレストラン街と子供服売場の改装を予定する[39]など2年間かけて全館改装を行う計画[41]とするなど積極的な投資で収益確保を目指している。
存続した3店舗のうち高岡店は売場を縮小して[42]その跡に2011年(平成23年)2月25日に高岡市子育て支援センター[43]、同年3月10日には北日本新聞カルチャーパーク高岡のほか地元有力企業5社の施設が入居する[42]など地元の政財界の支援を受けながら売場縮小と集客力の改善の両立を図り、2012年(平成24年)3月から閉店時間を1時間早めて午後6時とする[44]などコストダウンを優先した縮小均衡路線が採られている。
また2009年(平成21年)10月15日時点では香林坊店や富山店や高岡店を補てんする役割があるとして石川県・富山県内のギフトショップとサテライトショップはすべて維持されていたが[31]、単独で収益が上がっているサテライトショップ2店は食料品や衣類などの品ぞろえを拡充してイベントなども増やして強化する[45]一方で、ギフトショップについてはネット通販の普及や交通の利便性向上などで利用者が減り採算が取れず[46]役割を終えた[45]として2011年(平成23年)年5月に野々市、12月に氷見と砺波、2012年(平成24年)年2月15日に輪島、羽咋の営業を終了してパトリア大和と小松ギフトショップの2拠点のみに集約した[45]。
J・フロントリテイリングとの関係
井村徳三郎が宮市百貨店を創設する際に京都大丸と提携し、その後1930年(昭和5年)に三越金沢店が開業した際にも大丸と提携して対抗するなど創業期から繋がりを持ち[7]、2010年(平成22年)には2人の人材派遣を受けてその内の一人が取締役に就任している[19]ほか、商品開発や情報提供などで連携[19]や情報システム共有化[47]や商品券の相互利用などを行う現在も強い結びつきを維持している[47]。
そうした提携の関係もあり、以前から大手百貨店大丸の株100万株を保有していたため、2012年(平成24年)2月29日時点でも大和はJ・フロントリテイリング140万株を保有している[1]。
かつて看板に用いていたマークは、丸で囲んだ大の字である大丸旧マークの丸を梅の形に置き換えたものだった(社紋としては現在も使われ、各店舗正面入口に掲げられたプレートにあしらわれている)。
創業家によるオーナー経営の持続
創業者の井村徳三郎の後、宮一大丸の社長に就任して大和の初代社長も努めた井村徳二は井村徳三郎の息子であり[2]、井村徳二の後に大和の社長を努めた宮太郎は井村姓ではないが井村徳三郎の孫で[2]、現在の社長の宮二朗は宮太郎の息子である[27]ため、現在まで創業家によるオーナー色の強い[7]経営が続いている。
初代社長と初代会長の選挙選
1953年(昭和28年)4月24日投票の第3回参議院議員選挙には合併により当社が誕生した際の会長だった林屋亀次郎が第4次吉田内閣の現役大臣として再選を目指していたところに、初代社長を努めていた井村徳二が対立候補として立候補して林屋が大臣として決定を下した内灘試射場の用地接収を批判して組合を味方につけて林屋を破る激しい選挙戦を繰り広げた[48]。
当時林屋が旧丸越本店の場所で後に丸越となる百貨店を武蔵[49]として経営し、井村が大和を経営していたため、このときの争いは「武蔵」と「大和」の内灘沖会戦と呼ばれた[48]。
上場
1949年(昭和24年)7月に地元北陸地方を管轄していた新潟証券取引所上場し、1961年(昭和36年)10月からは大阪証券取引所第2部にも上場していた[1]。
その後2000年(平成12年)3月に新潟証券取引所廃止が東京証券取引所に吸収された際に同取引所第2部に上場となり[1]、大阪証券取引所と2市場で上場し続けてきたが、2011年(平成23年)7月15日に 大阪証券取引所へ上場廃止を申請して8月30日に上場廃止[50]となり、現在は東京証券取引所のみ上場している。
年表
- 1923年(大正12年)10月15日 - 井村徳三郎が京都大丸と提携し、石川県金沢市片町に宮市百貨店を創設(現ラブロ片町)[3]。
- 1930年(昭和5年)8月 - 株式会社宮市大丸を設立し、株式会社化[3]。
- 1932年(昭和7年)11月10日 - 富山県富山市に富山店開設[3]。
- 1936年(昭和11年)12月5日 - 福井県福井市に福屋を開店にして事実上進出[8]
- 1937年(昭和12年)9月 - 合併により宮市大丸福井店を開設[3]。
- 1940年(昭和15年)12月 - 朝鮮の清津市に清津店を開設[3]。
- 1943年(昭和18年)12月21日 - 丸越と合併し、株式会社大和を設立[3]。
- (金沢、武蔵、新潟、富山、福井、高岡、清津、計7店舗 資本金3100千円)
- 1945年(昭和20年)9月 - 終戦により清津店が消滅[1]。
- 1948年(昭和23年)
- 1949年(昭和24年)7月 - 新潟証券取引所上場[1]。
- 1952年(昭和27年)7月 - 武蔵店を閉鎖[1]。
- 1958年(昭和33年)10月18日 - 新潟県長岡市に長岡店を開設[12]。
- 1961年(昭和36年)10月 - 大阪証券取引所2部上場[1]。
- 1967年(昭和42年)
- 1970年(昭和45年)
- 1972年(昭和47年)5月18日 石川県金沢市に金沢ニューグランドホテルを開業[3]。
- 1973年(昭和48年)3月 石川県金沢市に株式会社大和カーネーションサークルを設立[1]。
- 1975年(昭和50年)
- 1985年(昭和60年)
- 1986年(昭和61年)
- 1994年(平成6年)3月18日 - 高岡店を旧店舗隣接地に開設の御旅屋セリオへ移転[16]。
- 1998年(平成10年)3月21日 - 石川県小松市の小松西武跡に小松店を開設[15]。
- 2000年(平成12年)3月 - 新潟証券取引所廃止により、東京証券取引所2部上場[1]。
- 2007年(平成19年)9月21日 - 富山店を総曲輪フェリオへ移転[17]。
- 2009年(平成21年)
- 2010年(平成22年)
- 2011年(平成23年)8月30日 - 大阪証券取引所上場廃止[50]。
店舗
香林坊大和
香林坊大和 | |
---|---|
店舗概要 | |
所在地 | 石川県金沢市香林坊1-1-1 |
座標 | 北緯36度33分48秒 東経136度39分15秒 / 北緯36.56333度 東経136.65417度 |
開業日 |
1986年(昭和61年)9月 (宮市百貨店:1923年(大正12年)10月15日) |
正式名称 | 大和香林坊店 |
商業施設面積 | 28,780[54] m² |
DaIWa |
金沢市香林坊地区の再開発に参画して1903年(明治36年)の宮市洋品店の店舗統合[2]から始まり、1923年(大正12年)10月15日の宮市百貨店開業[3]、その後の宮市大丸や大和の時代を通じて本店としてきた片町[3]から1986年(昭和61年)9月に本店を移転し、地区名に合せて香林坊店となった。
近年は近隣に香林坊109なども立地する好立地でビル内に駐車場もある新店舗への移転の効果もあってバブル崩壊後も売上を伸ばしてピークとなった1998年(平成10年)2月期に売上高425億円[19]を上げていた。
若い顧客を狙った改装を進め[39]2011年(平成23年)9月の生鮮売り場を1.5倍に拡張したり総菜やスイーツなどを拡張する食料品売場改装[55]を皮切りに2012年(平成24年)年2月1日から3月8日にかけて婦人ファッションを中心に27ブランドを導入して[40]家庭用品や呉服売場も改装する香林坊店開店後最大規模の改装を行い[40]、同年9月にレストラン街と子供服売場の改装を予定する[39]など2年間かけて10億円規模を投資して[55]全館改装を行う計画[41]
2012年(平成24年)2月期でも売上高241.49億円[47]と北陸三県最大を誇る[19]北陸1番店である[56]。
富山大和
富山大和 | |
---|---|
店舗概要 | |
所在地 | 富山県富山市総曲輪3丁目8番38 |
座標 | 北緯36度41分22秒 東経137度12分47秒 / 北緯36.68944度 東経137.21306度 |
開業日 |
2007年(平成19年)9月21日[17] (宮市大丸富山店:1932年(昭和7年)11月10日[3]) |
正式名称 | 大和富山店 |
施設所有者 | 大和 |
敷地面積 | 約6,800[57] m² |
延床面積 | 44,200[59] m² |
商業施設面積 | 25,300[58] m² |
前身 |
宮市大丸富山店 大和富山店旧店舗 |
最寄駅 | 富山地方鉄道グランドプラザ前駅 |
DaIWa |
旧富山店は1932年(昭和7年)8月20日に富山市西町で一部営業を開始し[5]、同年11月10日に宮市大丸富山店開店として百貨店を開業した宮市大丸初の本格的な支店で[3]、開業当初から金沢の本店を上回る売上を上げて[4]1934年(昭和9年)12月2日に鉄筋コンクリート造り6階建[5]に増築して[3]中核店舗の一つとなっていた。
2004年(平成16年)に設立された富山市総曲輪通り南地区再開発事業組合に参画して[57]保留床約31,600m²[59]のうち約28,000m²を取得して[57]約87億円とされた保留床処分による資金[59]の大半を負担して2007年(平成19年)9月21日に開業した総曲輪フェリオの核店舗として現在地に移転・開業した[17]。
開業4日間で推計約33万人を集めて地元紙に「お祭り騒ぎ」のようなにぎわいと呼ばれるほどの集客力を見せた総曲輪フェリオの中核として開業初日の金曜日に旧富山店の同じ曜日の4倍以上の2.1億円の売上を上げる[17]など3倍に広がった地下食品売場[17]、北陸最大規模の化粧品売場や124に上る富山県初登場のブランドを武器に[60]順調に地元富山の顧客を集め、旧店舗より約40億円増の年間売上200億円の目標[60]を超える[61]など順調な滑り出しを見せた。
その後リーマンショックによる景気低迷を受けて売上が急減した際も開業2年目に入ったことと重なったにもかかわらず予想以上の数字を残して営業黒字を維持していたため本店に継ぐ主力店舗として存続している[31]。
2012年(平成24年)2月期でも前年比0.7%増の売上高188.44億円[47]と北陸三県に5店舗ある百貨店で唯一前年比プラスとなる[39]など比較的堅調に売上を上げ続けている。
旧店舗跡地は周辺を含めた再開発構想があり、2006年(平成18年)8月11日に市街地再開発準備組合の代表が富山市長に面会して中層階に図書館を入居させて富山市に60-70億円での施設の保留床取得する構想への参画を要望したが財政負担が大きく保留床の取得は困難と市長が回答したため、この際開発構想は見直しを迫られることとなった[62]。
その後富山第一銀行の本店を移転する構想が浮上して2008年(平成20年)9月12日に報道されたが[63]その後話合いが進まなかったため富山市が一旦は予算計上した事業費を全額削除したこともあったが[64]、1970年(昭和45年)に建設されて老朽化が進んでいる富山市図書館を移転して入居させる構想が2010年(平成22年)1月29日に発表されるなど再び動き始め[64]、2011年(平成23年)8月11日までに[65]富山市ガラス美術館(仮称)[65]が1〜3階、富山市図書館が4〜6階、他に富山第一銀行などが入居する[66]地上9階地下1階建て、延べ床面積27,000m²[65]、総事業費178.5億円[66]という構想が固まって[65]富山市案とされたが[66]、11月25日に開かれた富山市の検討委員会で大学教授や商店街組合の代表らで構成された委員から「美術館、図書館だけではにぎわいは戻らない。施設の核になるようなものがもう少しあってもいい」など集客の観点から市案の修正を求める意見が相次ぎ[66]、変更される可能性も生じている。
高岡大和
高岡大和 | |
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店舗概要 | |
所在地 | 富山県高岡市御旅屋町101 |
座標 | 北緯36度44分44秒 東経137度0分50秒 / 北緯36.74556度 東経137.01389度 |
開業日 |
1994年(平成6年)3月 (丸越高岡店:1937年(昭和12年)4月) |
正式名称 | 大和高岡店 |
施設所有者 | オタヤ開発 |
前身 |
丸越高岡店 大和高岡店旧店舗 |
DaIWa |
1937年(昭和12年)4月に丸越初の支店である高岡店として現店舗の隣接地に開店し[3]、1943年(昭和18年)12月21日の合併に伴って大和高岡店となった[3]末広通りと御旅屋通りが交差する十字路の一角に位置していた旧店舗を、1994年(平成6年)3月に開業した御旅屋セリオに移転して開店した[1]。
保留床の取得はしていないものの保留商を取得してビルを管理・運営している高岡市の第三セクターオタヤ開発に高岡市と並ぶ20%を出資している[67]ほか、2012年(平成24年)2月29日現在で49.25億円の敷金・保証金をオタヤ開発に差し入れて[1]保証金返還の一部猶予をする[67]など様々な形で関与している。
2009年(平成21年)10月15日の4店閉店などの発表の際には建物も比較的新しく営業黒字を維持していたため[31]、
香林坊店や富山店と比べて厳しい状況にあるが「小ぶりだが、しっかり利益を出せる店にしたい」として同じ県内にある富山店との営業部門の一部統合など棲み分けを図って存続することとなった[31]。
2010年(平成22年)から売場を縮小して賃料負担軽減を目指し[68]、その跡に2011年(平成23年)2月25日に高岡市子育て支援センター[43]、同年3月10日には北日本新聞カルチャーパーク高岡のほか地元有力企業5社の施設が入居する[42]など地元の政財界の支援を受けながら売場縮小と集客力の改善の両立を目指し[68]、若い女性客が増えて婦人衣料や子供服の売上が伸びて[43]売場減少に伴って店舗全体の売上は減少しているものの存続売場ベースでは前年比プラスになる[69]など地元政財界による集客支援の効果があったとして[69]2011年(平成23年)11月に御旅屋セリオへ移転後初となる地下食品売り場の大規模改装を行ってチーズ、ワイン、調味料などをそろえたテナントを導入しててこ入れを行った[70]。
また、この他にも御旅屋セリオの開業と共に整備されて隣接している半地下式の富山市の御旅屋メルヘン広場の中央にある噴水などを[71]2010年(平成22年)に撤去してイベント会場などとして使い易くして集客に役立てるなど富山市が支援策を採っているほか[72]、隣接する旧高岡店跡を整備して地元高岡市出身の漫画家、故藤子・F・不二雄さんの作品「ドラえもん」[73]のドラえもんのほか、のび太やジャイアン、スネ夫などのキャラクターをかたどった12体の銅像が並んでいた万葉の杜から銅像などを撤去して[74]2011年(平成23年)3月に顧客の要望が多い駐車場にする[73]など集客力の強化に向けて周辺の整備も合せて行われた。 (なお万葉の杜にあった銅像は撤去に伴って高岡市に寄贈され[73]、ドラえもん文庫がある高岡市立中央図書館が入居しているウイング・ウイング高岡前の広場に移設された[74]。)
しかし、売場面積縮小が響いて2012年(平成24年)2月期で前年比6.3%減の売上高60.03億円[75]と大和の現存する百貨店3店の中で最も大きく落ち込み[47]、2012年(平成24年)3月から閉店時間を1時間早めて午後6時とする[44]など更なる経費削減による業績改善を目指している。
サテライトショップ
富山店の管轄下で贈答品、食料品、地場産品、衣類等を扱う小型店舗で、文化教室の会場となるなどイベントも行われている[45]。
下記の2店舗があり20年以上営業していて2店舗とも単独で収益が上がっているため、2012年(平成24年)2月に食料品や衣類などの品ぞろえを拡充して売上拡大を目指す方針が発表された[45]。
上市サテライトショップ
富山県中新川郡上市町西中68
黒部サテライトショップ
富山県黒部市新牧野108
ギフトショップ
パトリア大和
石川県七尾市御祓町1[76]
1995年(平成7年)4月29日に七尾駅前のパトリア内に売場面積約1,210m²というギフトショップとしてはやや大きめの店舗として開業した[76]。
小松ギフトショップ
石川県小松市土居原町716
百貨店店舗小松店の閉店閉店の翌々日2010年(平成22年)6月27日に同店の贈答品需要などを引継ぐことを目指してJR小松駅前のホテル1階に開店したギフトショップである[77]。
開店から1か月で前年の小松店の中元利用実績8,000人の約20%に当たる約1,500人が利用するなど順調な滑り出しを見せた[78]。
ラブロ片町
1986年(昭和61年)9月に大和の本店が香林坊アトリオ内に移転したことに伴い、旧本店の活用策として11月に開業した商業施設である[1]。
運営は100%出資子会社のディー・アンド・シー[1]。
過去に存在した店舗
新潟大和
新潟大和 | |
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新潟大火の直後に民放連が発刊したパンフレットの表紙。タイトル文字「新潟は」の右側にある建物がラジオ新潟のあった大和新潟店 | |
店舗概要 | |
所在地 | 新潟県新潟市中央区古町通7番町 |
開業日 | 1937年(昭和12年)9月29日[79] |
閉業日 | 2010年(平成22年)6月25日[35] |
正式名称 | 大和新潟店 |
施設所有者 |
本館:大和[25] 新潟プラザビル:堀川事業・タカツ商事[80] |
商業施設面積 | 20,696[79] m² |
前身 |
萬代百貨店 丸越新潟店 |
DaIWa |
新潟県新潟市にあった百貨店。
地元新潟の片山三男が群馬県行田の足袋商本山政一と紙問屋の藤井忠太郎店跡に店舗を建設し[79]、1937年(昭和12年)9月29日[79]に萬代百貨店として[79]新潟市の中心市街地古町地区[81]の一角に開業した[79]。
初日から空前の人出となるなど集客では順調な滑り出しを見せたが、ライバルの小林百貨店が初年度から5.5万円の利益を上げたのに対し[79]、萬代百貨店はノウハウ不足で半年後の決算で大赤字となったため[82]、1938年(昭和13年)に宮市大丸と系列の丸越から経営陣が派遣されてその傘下に入り[82]、1939年(昭和14年)に金沢市の丸越と合併して丸越新潟店になり[82]、1943年(昭和18年)12月に合併で大和が誕生したのに伴い、大和新潟店となった[82]。
第二次世界大戦後の一時期は商品が不足していたこともあって1階を消防車の駐車場に貸して2・3階のみで営業し[82]、1950年(昭和25年)頃でもアメリカ合衆国から輸入した中古衣料が跳ぶように売れるような状況であった[82]。
その後品揃えが元に戻って通常の百貨店営業に戻っていき、ラジオ新潟(現新潟放送)の本社とスタジオが開業初期は7階に入居していたが[83]、1955年(昭和30年)10月1日未明に新潟市中心部を襲った昭和新潟大火で店は全焼してしまった[84]ことに伴い移転した[83]。
ところがこの大火からわずか10日間で1階部分のみとはいえ営業再開に漕ぎ着けたことが市民から高く評価されて再開後はライバルの小林百貨店を売上高で凌駕するようになった[84]。
その後1964年(昭和39年)の新潟地震の際にも建物の被害がなかったこともあって翌日からパンや瓶詰などの食品を販売するなど災害のたびに迅速に対応を行った[84]。
1960年(昭和35年)7月には新潟市本町通に新潟丸大が開店し[85]1964年(昭和39年)7月に百貨店法による営業を認可を受けて正式に百貨店となり[13]、1970年(昭和45年)にイチムラの新潟店(後の新潟ウィズ)も開店した[86]ことから当社長岡店のライバル百貨店2社と2都市で近接して競い合う3つ巴の状況となると共に、当店のある古町地区は百貨店4店が立ち並ぶ繁華街となった。
新潟を代表する繁華街を代表する百貨店として第1回新潟県美術展覧会や地元美術家の個展開催などを通じて地域の文化の中心としての役割も果たしていた[87]。
しかし、1973年(昭和48年)11月に万代シティにダイエー新潟店開業(売場面積19,262m²)すると[88]、1979年(昭和54年)に全国のダイエー店舗で売上1位になる[88]ほどの顧客を集め、1991年(平成3年)2月期には売上高約191億円上げて[88]1992年(平成4年)2月期に売上高約207億円を記録した当店[87]に匹敵するレベルに達するなど、古町地区や当店にとって強力なライバルが登場し、さらに1984年(昭和59年)4月1日に万代に新潟伊勢丹開業(売場面積22,800m²)[79]が開業して万代地区の商業機能が一段と強化されると共に、2009年(平成21年)3月期に同店が売上高約350億円[24]で当店の2009年(平成21年)2月期の74億円[87]や小林百貨店の後身の新潟三越の2009年(平成21年)3月期の売上高約169億円[24]を大きく引き離して地域一番店になるほどの販売力を見せるなど百貨店間の競合や古町地区の「地盤沈下」[81]が生じていった。
そこへ追い討ちを掛けるように2000年(平成12年)の大規模小売店舗法の改正に伴う規制緩和が行われたため[89]、
2000年(平成12年)2月8日のアピタ新潟亀田店(売場面積37,462m²)の開店を皮切りに、2002年(平成14年)6月19日のアークランドサカモトを核店舗としたアークプラザ新潟(売場面積35,634m²)、9月30日のコメリを核店舗とした河渡ショッピングセンター(売場面積24,046m²)、2003年(平成15年)2月8日のアピタ新潟西店(売場面積29,436m²)、2007年(平成19年)10月26日のイオン新潟南ショッピングセンター(売場面積41,699m²)[79]郊外への広大な無料駐車場を備えた大型店進出が相次ぎ[89]、古町の歩行者は2000年(平成12年)から8年間で7割以下に減って年間売上額も1994年(平成6年)ごろの約1430億円をピークに2007年(平成19年)には約860億円に落ち込み[89]、1985年(昭和60年)に開業して[86]ファッションや飲食関連のテナントが集積し人気を集めていた新潟ウィズもヴィレッジヴァンガードやビームスなどの有力テナントの撤退[90]が2008年(平成20年)秋から撤退が続いて[91]2009年(平成21年)2月時点で約半分が空き店舗となり[90]、2009年(平成21年)6月時点で店につながる地下商店街「西堀ローサ」の全46区画のうち半分が空き店舗になる[24]など古町地区の「地盤沈下」[81]は一層進んだ影響や先述した伊勢丹や三越との競合[81]に敗れて近年は新潟市内の百貨店で3番手に落ち込むなどしたため1996年(平成8年)ごろから赤字が続き[89]、2006年(平成18年)9月から2階に新潟市まちなか行政サービスコーナー(愛称・なかなか古町、パスポートセンター併設)を開設をするなど新潟市も支援を行ったものの、改善の見込みがないとして[89]2010年(平成22年)6月25日に閉店した[35]。
店舗跡の利用については、商店街有志で作る有限会社「古町まちづくりカンパニー」が新潟プラザビル部分を借りて地下食品街などの運営を継続する案もあったが、電源や非常階段などが本館と一体で分離して運営するのに2億円超の規模の改修が必要で土地・建物の権利関係も複雑だった[25]上、新潟市長を本部長となっている「まちなか再生本部会合」が「あくまでも緊急措置であり、大和跡地に本来どのような機能がふさわしいのか議論が十分になされていない」としてこの案に否定的だった[92]ため、この案は実現せず、2010年(平成22年)8月から2011年(平成23年)3月まで新潟商工会議所が借りて[87]ふれ愛古町[93]としてイベント会場などに活用し[87]、その後2011年(平成23年)9月23日に山下家具店が1〜3階にヤマシタ新潟古町店を開店して[94]一時的に利用して営業している[95]。
閉店発表当初店舗跡の大和の保有分は売却する方針を打ち出していた[81]が、土地・建物は、第四銀行の融資の担保となっていて「融資を返さないと担保ははずれない。その上でないと原則売却できない」[96]など売却に障害も多かったため方針転換し、2011年(平成23年)2月4日に自社で所有する店舗跡と隣接する堀川事業・タカツ商事が所有する新潟プラザビルと共同で再開発することで合意したと発表され[80]、2012年(平成24年)3月15日に[95]周辺の地権者11人を含む「古町通7番町D地区再開発推進協議会」[97]でスーパーマーケットなどの入る商業施設とマンション・介護施設の複合ビルを建設する再開発の基本構想で合意が成立して再開発準備組合設立に動き始めている[95]が、再開発後のビルへの百貨店大和の再出店は競合があることや自社の体力の面から否定的である[98]。
当店に隣接する「西堀ローサ」空き店舗は閉店約2か月前の2010年(平成22年)4月23日に23区画で一斉に新装開店し解消した[25]が、当店閉店の影響の方が大きく、閉店して2週間後の周辺歩行者通行量は店舗前で23.8%、柾谷小路をはさんで隣の古町6で25.9%減少するなど古町9地点の調査で約20%も減少し[99]、閉店翌年の2011年(平成23年)10月に行われた調査では前年比15%減とさらに落ち込むなど古町の集客力の衰えが進んでいる[93]。
長岡大和
長岡大和 | |
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店舗概要 | |
所在地 | 新潟県長岡市大手通2丁目3-1 |
開業日 | 1958年(昭和33年)10月18日[12] |
閉業日 | 2010年(平成22年)4月25日[18] |
正式名称 | 大和長岡店[12] |
施設所有者 | 大和 |
商業施設面積 | 4,640[12] m² |
DaIWa |
1958年(昭和33年)10月18日に[12]新潟県では第2次世界大戦後初の百貨店として開業した店舗である[13]。
当店開業より前の1954年(昭和29年)4月25日にイチムラ洋品店が大手通に移転してイチムラ百貨店として開業していたが[100]、百貨店審議会で百貨店法による営業を認可を受けて法律上も百貨店となったのが1963年(昭和38年)6月15日のため[13]、新潟県史では第2次世界大戦後初の百貨店[13]となっている。
1960年(昭和35年)12月15日[13]には当地区周辺の中小規模専門店が集まって協同組合方式で[101]の寄合百貨店丸専デパートを開店し、1962年(昭和37年)12月には新潟県長岡市大手通2丁目に新店舗を建設して百貨店が開業した丸大[100]がイチムラ百貨店と同時に百貨店審議会で百貨店法による営業を認可を受けて法律上も百貨店となり[13]、これら近隣に軒を連ねたライバルの百貨店と共に人気の大型店として長岡駅前の大手通りに軒を連ねて賑わいの中心になっていた[101]。
その後1971年(昭和46年)に長崎屋長岡駅前店も開店する[102]など当店の位置する大手通は長岡市を代表する繁華街であり続けていたが、上越新幹線の開通に合わせて1980年(昭和55年)7月12日に長岡駅ビル専門店街セゾン・ド・長岡が開業し、同年9月27日には大手通とは反対側の東口にダイエーが進出し[103]、地場資本の丸大が1988年(昭和63年)11月25日に当店の近隣にあった本店をイトーヨーカドー丸大として長岡駅西口前に事実上移転[103]したことで長岡駅周辺に大型店が集まった商業集積が誕生し、大手通が長岡駅から遠い印象を与える結果となって客足が減少し始めた。
そこに1989年(平成元年)10月27日に中心市街地から信濃川を渡った向こう側の郊外に開店したジャスコ[103]など郊外型店舗の進出により広い駐車場を求めて顧客が流出し[89]、1980年(昭和55年)に14.7万人あった中心市街地の人通りが2003年(平成15年)に5.1万人に減少した[89]影響が重なって大手通の集客力は急速に陰りを見せ、1995年(平成7年)に長崎屋長岡駅前店[104]、1997年(平成9年)2月にダックシティイチムラが閉店し[12]、1998年(平成10年)にテナントの撤退が相次いだため娯楽主体に転換して丸専デパートが物販を縮小し[105]、丸大が旧本店をディスカウント店に転換していたザ・プライス丸大長岡店も2000年(平成12年)8月に閉店する[104]など当店以外の大型店が全て消滅してしまった。
こうした衰退に歯止めを掛けようと長岡市は丸大長岡店跡に2001年(平成13年)に「ながおか市民センター」が開館した[12]のを皮切りに、2003年(平成15年)にダックシティイチムラ跡に「まちなか・考房」と「長岡戦災資料館」、2004年(平成16年)には同じダックシティイチムラ跡の別の部分に「長岡市役所大手通分室」と相次いで市の公共施設を入居させて地区の集客の下支えを行ったほか、1998年(平成10年)に1.2haを対象とした「大手通表町地区市街地再開発準備組合」を大和も参画して発足させて再開発構想が進められた[18]。
しかし、2005年(平成17年)に大和が「新たな投資は難しい」としたためこの再開発構想は頓挫して[18]店舗は老朽化したままとなっていた上[31]、赤字幅が増大していて[30]今後も回復は見込めないとして[24]2010年(平成22年)4月25日に閉店となった[18]。
なお、店舗跡の土地・建物の売却は大和側が長岡市に持ちかけたものの、事業目的を決めずに購入できないとして保留とされ、閉店後の賑わい維持のために長岡市が店舗跡を借りて地元の大手通商店街振興組合がショーウィンドーや長岡の地場産品を販売するアンテナショップを1階で開くこととなった[18]。
また、2009年(平成21年)11月30日に長岡市が店舗跡周辺への風俗店などの進出を防止するために用途を細かく制限できる「地区計画」の策定を行って用途制限強化を行う方針を表明して再開発計画への悪影響を防止しようとしている[106]。
上越大和
上越大和 | |
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店舗概要 | |
所在地 | 新潟県上越市本町4丁目4-8 |
開業日 | 1975年(昭和50年)7月[14] |
閉業日 | 2010年(平成22年)4月25日[34] |
正式名称 | 大和上越店 |
施設所有者 | イレブンビル |
DaIWa |
1975年(昭和50年)7月に[14]上越地方を代表する商店街となって高田の銀座と呼ばれた[107]本町に地元の商店主11人が作った[24]地上6階・地下1階の[108]イレブンビルの核店舗として開店[14]
1985年(昭和60年)2月にいづも屋百貨店が閉店した[109]後は地域唯一の百貨店として営業し[14]、催事場やアートサロンでは数多くの展覧会やイベント開催などを通じて地域の文化の中心としても機能していた[34]。
しかし店舗を開設した本町商店街とその周辺の高田の旧市街地は道路が狭く、駐車場が少ないために昭和40年代からモータリゼーションが進んだことへの対応が遅れていた上[110]、1971年(昭和46年)4月29日に高田市と直江津市は対等の立場で合併した経緯から、旧高田市の中心市街地と旧直江津市の中心市街地の中間である春日山駅東の木田地区にに市役所が建設されて当店開店の翌年1976年(昭和51年)4月10日に完成して当店の近隣の本町3丁目に在った市役所が移転した[110]のを皮切りに文化会館、総合体育館が建設されて上越市における行政・文化の中心が移動する[110]など店舗周辺の空洞化が進み、1985年(昭和60年)にいづも屋百貨店の後継店舗イヅモヤジャスコが郊外の土橋に開業した[109]のを皮切りに、1994年(平成6年)4月に上越ウイングマーケットセンター[110]、1996年(平成8年)3月に富岡にジャスコ上越店が開業する[110]など大型商業施設の郊外化が進み、本町商店街が半径1キロ前後の住民を対象に2009年(平成21年)末から2010年(平成22年)1月にかけて実施したアンケートで商店街を主な買い物先にする人は8%、スーパーとショッピングモールが68%となり[89]、上越市で最もにぎわうのはジャスコ上越店を中心とする地区といわれ[89]、本町商店街の歩行者数が1995年(平成7年)の65%減となる[89]ほど店舗周辺の集客力が低下してしまった。
こうした本町の衰退を受け、2002年(平成14年)2月に近くにあった長崎屋高田店が撤退し、その店舗跡へのテナント招致が上手く行かずにそのビルの所有権が差押えを経て競売になり、保有していた会社が破綻する[111]ほど大幅な売上減、客数の減少が生じて空き店舗も増加する状況となる[110]など店舗周辺の商業環境の悪化もあって、2009年(平成21年)2月期に売上高が前期比で約3.77億円減の約26.67億円と当時7店中最大の減少率となるなど[14]落ち込みが目立った為、2010年(平成22年)4月25日に閉店した[34]
閉店後は近隣のホテルのランチ客が約30%も減るなど旧店舗周辺の人通りが減少して空洞化が進んだが[112]、一方では上越市が空き店舗対策として改装費の半額(上限100万円)を補助する制度や上越市が家主に値下げを働きかけて10年前より家賃は約30%〜40%下がったことなどが効果を上げて2010年(平成22年)3〜5月に本町3〜5丁目に大和関連以外の8店を含む17店出店する[92]など空洞化とは逆の動きも見られている。
閉店後店舗の入っていたイレブンビルを解体して2階程度の低層の商業施設を新築する方向でイレブンビル幹部らでつくるワーキンググループは2009年(平成21年)12月以降に国や市の支援を受けて検討していた[108]が、2011年(平成23年)3月には国から2.35億円、市から1億円の補助金を見込んで解体費込みの総事業費6.22億円で市民が気軽に集える交流スペースや広場のある平屋建ての商業施設を2012年(平成24年)秋の開業を目指して建設する計画を固めた[112]。
しかし、この施設の核テナントとして複数の百貨店に小規模店舗の誘致を働き掛けたが前向きな回答は得られず[113]、具体的な出店計画は浮上していない[112]。
武蔵店
1930年(昭和5年)に開業した三越金沢店が1935年(昭和10年)に閉店した[6]際にビルのオーナーの林屋亀次郎[6]が、三越に返済する保証金の支払いに困窮していたのを宮市大丸が提携により支援して同店跡を利用して同年9月に丸越として開業し[3]、合併により大和となった際に武蔵店となった。
分離前の1952年(昭和27年)5月10日にラジオ放送開始した北陸文化放送(現在の北陸放送)の最初の本社・演奏所があった[114]ことでもしられている。
1952年(昭和27年)7月に大和の武蔵店としては閉店して[1]、事実上分離される形で再び林屋亀次郎が経営する丸越として復活した格好となった[48]。
その後丸越は伊藤忠商事や名鉄グループによる資本参加を経て現在のめいてつエムザ2002年(平成14年)に現店名に変更)となっている[49]が、1973年(昭和48年)10月1日に金沢スカイビル内移転している[115]ため現在の店舗は武蔵店の場所とは異なっている。
戦時統合以前から丸越(初代)はグループ会社であった[82]が、丸越の分離以降、両者には資本関係は認められず、競合関係にある。
なお、当店の跡地はその後1981年(昭和56年)10月にダイエー金沢店が出店したが2005年(平成17年)10月に閉店している[116]。
小松大和
小松大和[77] | |
---|---|
店舗概要 | |
所在地 |
〒923-8608 石川県小松市土居原町10-10 |
開業日 | 1998年(平成10年)3月21日[15] |
閉業日 | 2010年(平成22年)6月25日[77] |
正式名称 | 大和小松店 |
施設管理者 | 大和[15] |
敷地面積 | 2,809.72[15] m² |
延床面積 | 25,873.39[15] m² |
営業時間 | 10:00〜19:00 |
前身 |
西友ストア[117]小松店[15] 西武百貨店小松店[15] |
最寄駅 | 小松駅[15] |
最寄IC | 小松IC |
DaIWa |
1996年(平成8年)12月に閉店した西武百貨店小松店跡を買収して1998年(平成10年)3月21日に小松駅前に開店[15]。
西武百貨店が閉店に追い込まれた要因として駐車場が60台と少なかったことが上げられていたため、当店の開店に合せて小松市が外郭団体の財団法人小松市開発公社に隣接地312台収容の立体駐車場を整備させて駐車場不足を解消したり、周辺の連続立体交差化工事などにより周辺環境も合せて整備するなど支援体制がとられた。
しかし、ピーク時に約50億円あった売上が2009年(平成21年)2月期には前期比11.8%減[117]の約32億円[77]、2009年(平成21年)3〜8月期には前年同期比10.0%減の約15.87億円と落ち込み[56]、小松、新潟、長岡、上越の4店合計10億円弱の赤字[32]が続き改善の見込みがない[30]として2010年(平成22年)6月25日に閉店した[77]。
当店の贈答品需要を引継ぐため閉店の翌々日27日に当社がJR小松駅前のホテル1階に小型ギフト店を開設した[77]。
福井店
福井大和 | |
---|---|
地震直後の大和福井店 | |
店舗概要 | |
所在地 | 福井県福井市 |
開業日 | 1936年(昭和11年)12月5日[8] |
閉業日 | 1948年(昭和23年)6月28日[11] |
正式名称 | 大和福井店 |
前身 |
福屋 宮市大丸福井店 |
DaIWa |
創立初期から宮市大丸は福井市などで出張販売を展開しており、富山に続く出店先として福井市を考えていた[4]。
そうした構想を受け、地元福井県でもかねてから近代的な百貨店の誘致を考えていた三国町の県会議員濃畑三郎、福井銀行重役森田三郎右衛門らが宮市大丸に対して福井進出を促し、森田が重役をしていた福井銀行所有の土地を百貨店建設用地として提供し、富山進出の際に発生した地元小売商の反対運動を避けるため、濃畑三郎の名義で「福屋」という名称で建築申請を行うなど宮市大丸の名前が出ないようにしていたが、1936年(昭和11年)7月頃には事実上宮市大丸であるとの噂が広まり、同月12日には反対の市民集会、15日に福井市内72の小売商組合が福井県警察部長に面会して反対の陳情を行ったが、「百貨店進出を阻止しうる根拠は何もない」「消費者階級にとつては新デパートの出現を賛成している」として18日に濃畑三郎の名義の「福屋」に許可が下りた[4]。
以降も反対運動は続いたが[4]、そのまま1936年(昭和11年)12月5日に開店にした[8]。
地場資本のだるま屋百貨店の建物が木造の二階建てであったのに対して[4]、福屋はその南側に白い御影石を用いた鉄筋コンクリート造の建物[11]としてその近代性と商品の充実振りをアピールして対抗しようとした[4]。
1937年(昭和12年)9月に合併により宮市大丸福井店に店名変更し、その後合併で大和が誕生した際に大和福井店となった[3]。
しかし、1948年(昭和23年)6月28日午後5時13分(当時はサマータイムの期間中だったため現在の言い方では同4時13分)ごろに発生した福井地震で店舗が倒壊した[11]ためにそのまま閉店して撤退した[1]。
跡地は米国の進駐軍が地震後に使用し[11]、現在、北陸銀行福井支店となっている。
清津店
1940年(昭和15年)12月に[3]朝鮮の清津市の清津駅前に売場面積約500坪[9]の宮市大丸清津店として百貨店を開業[3]。
日中戦争の進展に伴う戦時統制経済下で民間向けの百貨店事業が縮小した際には地元金沢に本拠を置いていた日本陸軍第9師団への軍需を獲得して業績の維持を図っていたが[9]、1940年(昭和15年)10月に第9師団の満州進駐が決まったため御用商社として満州に同行する許可を取り[9]、その拠点も兼ねて朝鮮と満州との国境線に近い朝鮮半島北部の港街清津に開設した店舗であった[9]。
清津の発展を目指した現地の日本人の商人から清津駅前の土地の提供を受けて出店し、軍需と清津周辺の新市場開拓の両立を目指した[9][3]。
この店舗を拠点にその出先として満州の牡丹江に営業所を設置して慰問所、映画館、食堂を運営して第9師団以外の日本陸軍にも販路を広げ、牡丹江での大規模な農場や朝鮮半島での缶詰工場や陶器・煉瓦工場にまで手を広げて需要に対応しようとした[9]。
しかし、1945年(昭和20年)9月に第2次世界大戦が終戦となって日本がこれらの地域の支配権を失ったことに伴い清津店とそれに付随する農場・工場などの営業権は消滅することになった[3]。
東京大和出張所
三菱商事本社内に開設。1948年(昭和23年)4月、銀座7丁目1番の資生堂本舗向かい側に200坪の店舗開設。
この出張所に開設された出版部が、後に勁草書房として独立している。
ギフトショップ
かつては主要店舗を補完する存在として石川県や富山県内に多数展開されていたが、ネット通販の普及や交通の利便性向上などによる利用者減少で赤字となっていたため2011年(平成23年)5月から2012年(平成24年)2月にかけて輪島市、羽咋市、野々市市、氷見市、砺波市にあった5店舗が閉店している[46]。
また、金沢駅前の再開発ビルポルテ金沢の2階1,357m²に1994年(平成6年)にギフトショップを出店したが、同ビルの3階フロアが開業当初から進まないなど集客力に欠けていたため、1999年(平成11年)に閉店して撤退した[118]。
大和ハウジング
子会社の大和ハウジングが[37]石川県野々市市横宮町で[119]社名と同名の店舗で営業していた家具や雑貨などを扱っていたインテリアショップであったが、事業再編の一環として2011年(平成23年)5月23日に閉店した[37]。
閉店約半月後の同年6月8日に土地と建物をバローに売却する基本合意契約が締結され[120]、2012年(平成24年)9月27日に食品スーパーのバロー野々市店が開店した[119]。
関連企業
- 金沢ニューグランドホテル(ホテル業)
- レストランダイワ(飲食業)
- 大和印刷社(印刷業)
- 勁草書房(出版業)
- 大和カーネーションサークル(友の会運営)
- ディー・アンド・シー(専門店管理運営)
- 大和服飾研究所(婦人服縫製業)
大和が出資している主な企業
- 北陸放送 - 北陸放送設立当時は大和武蔵店内に演奏所を設置していた。
- 新潟放送 - ラジオ新潟設立当時は大和新潟店内に演奏所を設置していた。
- 北日本放送
- 北菱電興 - 保有株式数第2位の株主であり、宮太郎が代表権を持たない会長を兼務している。
脚注
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:|date=
の日付が不正です。 (説明) - ^ a b c d e 大岡聡「昭和戦前・戦時期の百貨店と消費社会」『成城大学経済研究所研究報告no.52』、成城大学経済研究所、2009年4月。
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: 不明な引数|mounth=
は無視されます。 (説明) - ^ a b c d e f “4日で33万人、地元が9割 富山の「フェリオ祭り」を検証”. 北國新聞 (北國新聞社). (2007年9月25日)
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