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「香良洲町」の版間の差分

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{{Infobox settlement
| name = 香良洲町
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| image_caption = 空から見た香良洲町
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}}

'''香良洲町'''(からすちょう)は、[[三重県]][[津市]]の[[町丁|町名]]。[[2006年]][[1月1日]]に旧・津市など10市町村で合併するまでは、[[一志郡]]香良洲町であった。[[郵便番号]]は514-03xxで、xxの部分は香良洲町内の[[#通称地名|通称地名]]ごとに設定されている。[[2012年]][[9月30日]]現在の[[住民基本台帳]]による[[人口]]は5,139人<ref>津市総務部総務課"[http://www.info.city.tsu.mie.jp/modules/dept1009/article.php?articleid=23 人口(男女別)・世帯数、統計情報]"(2012年11月7日閲覧。)</ref>。

[[米]]や[[梨]]を栽培する[[農業]]や[[沿岸漁業]]や[[海苔]]の[[養殖]]が主体の[[水産業]]を主業とする<ref>三重県観光連盟 監修(1989):128ページ</ref>。

== 地理 ==
香良洲町全域が[[雲出川]]と[[伊勢湾]]に面した[[デルタ地帯]]である。
雲出川古川が北側を、雲出川が南側を流れ、東側は伊勢湾に面する<ref name="kk9">「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):359ページ</ref>。[[室町時代]]後期に発生した[[明応地震]]によって雲出川の本流が現流路に変わったと口伝がある<ref name="mmb84">三重県埋蔵文化財センター 編(1998):4ページ</ref>。町域は平坦で、最高点でも3.9[[メートル|m]]であり<ref name="kk8">「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):1358ページ</ref>、[[海抜ゼロメートル地帯|海抜0mを下回る地域]]も存在する<ref name="hb7">平凡社(1983):427ページ</ref>。津市街地から約10[[キロメートル|km]]であり、郊外通勤農村となっている<ref name="kk8"/>。[[集落]]や[[畑]]は[[自然堤防]]上に立地し<ref name="kk8"/>、特に集落は町の西側に比較的集中している<ref name="hb7"/>。

伊勢湾岸は[[伊勢の海県立自然公園]]に指定されており、[[潮干狩り]]や[[海水浴]]で賑わう<ref name="kk8"/>。湾岸は香良洲浦(一志浦・矢野浦とも)と呼ばれるが、[[1961年]](昭和36年)の[[防潮堤]]の建設によりかつての白砂青松の[[景観]]は失われた<ref name="hb7"/>。

北は津市雲出鋼管町、西は津市雲出伊倉津町、南は[[松阪市]]小野江町・星合町・五主町と接する。旧一志郡香良洲町は、津市と松阪市(旧一志郡[[三雲町]])と接していた<ref name="mmb97">三重県埋蔵文化財センター 編(1999):7ページ</ref>。

=== 通称地名 ===
;稲葉(いなば)
:香良洲町北東部に位置し、[[三重海軍航空隊]]が設置されていた<ref name="kk85">「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):185ページ</ref>。跡地は[[宅地]]化し、[[戦後]]の一時期は[[塩田]]として利用された<ref name="kk85"/>。梨栽培が盛んで、香良洲漁港が置かれている<ref name="kk61">「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):1361ページ</ref>。郵便番号は514-0311。
;川原(かわら)
:香良洲町北部の雲出川古川沿いにあり、「北新町」と呼ばれる三重海軍航空隊の[[将校]]住宅地から一般の住宅地となった地域を含む<ref>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):375ページ</ref>。梨や稲の栽培が行われる<ref name="kk61"/>。郵便番号は514-0326。
;小松(こまつ)
:香良洲町の中央に位置し、漁業世帯と[[兼業農家]]が多い<ref>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):503ページ</ref>。海苔養殖が行われている<ref name="kk61"/>。郵便番号は514-0312。
;桜町(さくらまち)
:香良洲町西部に位置し、桑畑や[[荒れ地]]を開拓して造られた三重海軍航空隊[[下士官]]住宅地を起源とする<ref name="kk29">「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):529ページ</ref>。津市立香海(こうかい)中学校がある<ref name="kk29"/>。郵便番号は514-0325。
;地家(じけ)
:雲出川と雲出川古川の分岐点にあり、[[第二次世界大戦]]前までは[[堤防]]沿いの[[桜並木]]は[[花見]]客で賑わった<ref>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):543ページ</ref>。香良洲西山遺跡や[[常夜灯]]がある<ref name="kk61"/>。郵便番号は514-0324。
;砂原(すなはら)
:香良洲町中心部に位置し、漁業世帯が多い<ref>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):626ページ</ref>。香良洲漁協が置かれている<ref name="kk61"/>。郵便番号は514-0321。
;高砂(たかさご)
:香良洲町南東部に位置し、香良洲公園や[[海水浴場]]がある<ref name="kk0">「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):650ページ</ref>。雲出川を利用して[[米倉]]や[[貯木場]]が発達し、[[醸造業]]も行われたが、現在は[[漁業]]や[[水産加工業]]が中心である<ref name="kk0"/>。海苔とウナギの養殖、梨の栽培が行われる<ref name="kk61"/>。郵便番号は514-0314。
;馬場(ばば)
:香良洲町南部に位置し、矢野学校(現在の津市立香良洲小学校)や[[劇場]]「香良洲座」が存在した<ref>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):883ページ</ref>。香良洲町の中心としての機能を有し、[[商店街]]や[[津市役所]]香良洲総合支所がある<ref name="kk61"/>。郵便番号は514-0323。
;浜浦(はまうら)
:香良洲町南東部に位置し、三重海軍航空隊の[[飛行場]]用地であったが、現在は宅地化され、津市立香良洲小学校が立地する<ref>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):884ページ</ref>。予科練の名残として若桜の碑や津市香良洲歴史資料館(旧・若桜福祉会館)がある<ref name="kk61"/>。郵便番号は514-0313。
;東山(ひがしやま)
:香良洲町中心部の南に位置し、漁業世帯が多い<ref>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):906ページ</ref>。海苔養殖が営まれる<ref name="kk61"/>。郵便番号は514-0322と設定されていたが、廃止された<ref>変更郵便番号"[http://www.post-code.jp/pc/html/24402.html 三重県 一志郡香良洲町の郵便番号変更・住所変更]"(2012年11月7日閲覧。)</ref>。

=== 地形・地質 ===
[[地質]]的には香良洲町全域を[[第四紀]][[沖積層]]の[[砂礫]]や[[シルト]]が覆っており、沿岸部ほど厚く[[堆積]]している<ref name="mmb97"/>。

[[縄文海進]]の頃、香良洲町域は海面下にあり、[[弥生時代]]後期には[[干潟]]であった<ref name="mmb92">三重県埋蔵文化財センター 編(1999):42ページ</ref>。これ以降に香良洲町は陸化し、[[江戸時代]]になるとシルト層の堆積が起き、現代と同じ地形が形成された<ref name="mmb92"/>。

== 歴史 ==
=== 原始から中世 ===
弥生時代の香良洲西山遺跡、[[古墳時代]]の北八反田遺跡・観音堂遺跡・高砂遺跡が見つかっている<ref name="hb7"/>。香良洲西山遺跡からは[[弥生土器]]の破片が、高砂遺跡からは[[須恵器]]や[[土師器]]の破片が出土している<ref name="kk59">「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):1359ページ</ref>。ただし、これらの出土品は磨滅しており、雲出川[[流域]]から流れ込んできたものと考えられる<ref name="mmb83">三重県埋蔵文化財センター 編(1998):13ページ</ref>。磨滅していない遺物は[[中世]]のものであり、香良洲西山遺跡には[[12世紀]]中頃に人が居住し始めたと推測される<ref name="mmb83"/>。同遺跡からは溝状の遺構も見つかり、当初は水田[[暗渠]]と考えられたが、[[農業技術]]の[[専門家]]によって否定され、[[神社]]へ奉納する特別な塩を生産する[[塩田]]跡ではないかという[[仮説]]が出されている<ref>三重県埋蔵文化財センター 編(1999):25, 28ページ</ref>。

[[鎌倉時代]]には箱木御園(はこぎみその)と呼ばれる[[伊勢神宮]]の[[御園]]であり、『神宮雑例集』によると「二宮領」、すなわち[[皇大神宮]](内宮)・[[豊受大神宮]](外宮)の両宮の所領であった<ref name="kk1">「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):861ページ</ref>。箱木御園の記録には「[[食塩|塩]]三石」の字が見え、『[[神鳳鈔]]』の傍書に香良洲町の旧称である「矢野」と記されていることから、香良洲町が箱木御園に比定される<ref name="kk1"/>。三節祭の際に、神宮へ塩を供進した<ref name="hb8"/>。[[製塩]]は[[江戸時代]]中期まで続き、塩田は[[新田]]に変わった<ref name="mmb90">三重県埋蔵文化財センター 編(1999):10ページ</ref>。

室町時代には伊勢湾を警固する港と矢野下野守の[[居城]]を擁していた<ref>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):1073ページ</ref>。[[中世]]には長野氏が支配していたが、後に[[北畠家|北畠氏]]に代わり、北畠氏の家臣である矢野下野守が城を置いていたという<ref name="kk4">「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):1074ページ</ref>。城跡は[[小字]]地家垣内と推定される<ref name="hb8">平凡社(1983):428ページ</ref>。北畠氏は矢野浦に何度も「新関」を設け、神宮は再三に渡って新関の廃止を訴えていた<ref name="kk59"/>。

=== 近世 ===
江戸時代には[[伊勢国]]一志郡矢野村として[[津藩]]の配下にあった<ref name="kk4"/>。[[文禄]]4年([[1595年]])から[[慶長]]13年([[1608年]])までは、[[津城|安濃津城]]主の富田氏が領地としていた<ref name="hb8"/>。村高は『文禄3年高調』では761石だったが、『[[天保]]郷帳』では1,667石に増加している<ref name="kk4"/>。これは江戸時代を通して行われた[[新田開発]]が寄与している<ref name="kk59"/>。村人の半数が農業に従事し、[[イネ]]・[[ムギ]]のほか、[[菜種]]・[[藍]]・[[綿]]といった[[工芸作物]]、[[ウリ]]や[[スイカ]]といった[[野菜]]も栽培していた<ref name="kk4"/>。

矢野の港は物資の集散地として発展し、雲出川を利用して[[伊賀国]]や[[大和国]]方面から[[木材]]・綿などを受け入れ、[[魚介類]]や生活物資を送っていた<ref name="kk4"/>。港湾は現在の香良洲漁港の位置ではなく、地家・馬場地区と小字川口垣内の2港あった<ref name="mmb90"/>。海路では[[江戸]]や[[津松阪港|津、松坂]]と繋がり、[[紀州藩]]は雲出川沿いの自藩領の村々から集めた[[年貢]]米を[[白子港]]へ送るための中継地として矢野村に[[納屋]]を置いていた<ref name="kk4"/>。漁業では[[イワシ]]の[[地曳網]]漁と貝類採取が中心で、伊勢神宮へ[[初穂]]の御贄(みにえ)として[[干鰯]]などを毎年納めた<ref name="kk4"/>。当時の漁業従事者は村人の3割ほどであった<ref name="kk4"/>。矢野浦は、現在はいずれも津市内となっている藤方・小森・上野・雲出・矢野の5村の[[漁場]]であり、たびたび漁場争いが繰り広げられた<ref name="hb8"/>。それ以外の村には、6分の1の御菜を納めることで入漁を認めた<ref name="hb8"/>。

村人の2割が商工業者で、[[香良洲神社]]の参詣者や「香良洲の千歳桜」の見物客で香良洲道は賑わった<ref name="kk4"/>。

=== 近代以降 ===
{{日本の町村 (廃止)
{{日本の町村 (廃止)
|紋章=[[File:Flag of Karasu Mie.JPG|100px]]
|紋章の説明=香良洲町章
|廃止日=2006年1月1日
|廃止日=2006年1月1日
|廃止理由=新設合併
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22行目: 110行目:
|経度=東経136度32分21秒
|経度=東経136度32分21秒
|緯度=北緯34度38分38.6秒
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|位置画像=[[ファイル:Map.Karasu-Town.Mie.PNG|津市の南東部、沿岸に位置する]]
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|特記事項=[[1929年]][[7月1日]]、矢野村から改称。
|}}
|}}
[[明治|明治時代]]になると矢野村は単独で村制を敷き、[[1929年]](昭和4年)には町制施行と同時に香良洲町に改称した<ref name="kk4"/>。津市という大きな都市への通勤者によるのための[[衛星都市]]として人口が増加し、村から町へ昇格した<ref>藤岡(1951):18ページ</ref>。[[1916年]](大正5年)に香良洲大橋が架橋された<ref name="kk4"/>。
[[File:Karasu,mie.jpg|thumb|空から見た香良洲町]]
'''香良洲町'''(からすちょう)は、[[三重県]][[一志郡]]にあった[[町]]。[[2006年]][[1月1日]]に旧・津市等10市町村で合併し[[津市]]となり消滅した。現在の津市香良洲町。


[[1942年]](昭和17年)[[8月1日]]、一般に「[[海軍飛行予科練習生|予科練]]」と呼ばれた三重海軍航空隊が稲葉に置かれた<ref name="kk85"/>。予科練の建物群は[[村野藤吾]]が[[設計]]を行った<ref>平井ほか(2009):745ページ</ref>。三重海軍航空隊は香良洲町の[[面積]]の3分の1を占める広大な敷地を有し<ref>平井ほか(2009):746ページ</ref>、建設に際しては香良洲町沖の海底砂を入れて約2mほど嵩(かさ)を増したという<ref>三重県埋蔵文化財センター 編(1999):28ページ</ref>。[[1946年]](昭和21年)から兵舎が[[三重師範学校]](後に[[三重大学]][[学芸学部]]香良洲分校となり上浜キャンパスに統合)に転用され、[[1947年]](昭和22年)には香良洲町立香海中学校(現在の津市立香海中学校)が開校した<ref name="kk85"/>。香海中学校は、[[1962年]](昭和37年)に桜町へ移転した<ref name="kk85"/>。
== 地理 ==
町全域が[[雲出川]]と[[伊勢湾]]に面した[[デルタ地帯]]である。


[[戦後]]は[[教育]]や[[福祉]]も発展し、[[1977年]](昭和52年)には中央公民館が建設された<ref name="kk60">「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):1360ページ</ref>。香良洲町役場(現在の[[津市役所]]香良洲総合支所)は[[1969年]](昭和44年)に新築移転した<ref name="kk60"/>。[[1989年]](平成元年)[[6月28日]]、[[岐阜県]][[加茂郡 (岐阜県)|加茂郡]][[東白川村]]と姉妹都市提携を結んだ。[[1997年]](平成9年)に、香良洲町内初の本格的な遺跡発掘作業が香良洲西山遺跡で行われた<ref>三重県埋蔵文化財センター 編(1999):1, 25ページ</ref>。
=== 自然 ===
* 河川:雲出川


2006年(平成18年)1月1日、津市など9市町村と合併し、新しい津市の一部となり、[[町村制]]施行以来の単独行政に幕を下ろした。最後の町長は鈴木一司が務めた。[[2012年]](平成24年)[[4月17日]]、三重海軍航空隊をはじめとして[[戦争]]と[[平和]]について展示する、津市香良洲歴史資料館が改修工事を終えて再開館した<ref>{{cite web |title=津市ホームページ - 生涯学習課-津市香良洲歴史資料館|publisher=津市教育委員会事務局生涯学習課|url=http://www.info.city.tsu.mie.jp/modules/dept1170/article.php?articleid=161|archiveurl=http://megalodon.jp/2012-1108-0012-45/www.info.city.tsu.mie.jp/modules/dept1170/article.php?articleid=161|archivedate=2012-11-07|accessdate=2012-11-08}}</ref>。
=== 隣接していた自治体 ===
* [[津市]]
* [[松阪市]]


== 歴史 ==
=== 沿革 ===
=== 沿革 ===
* [[1929年]](昭和4年)[[7月1日]] 町制施行、さら改称し矢野村から'''香良洲町'''となる。
* [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] -施行により、一志郡矢野村となる。大字は編成せず
* [[2006]]平成18年)[[1月1日]] 旧・津市等10市村で合併[[津市]]となった
* 1929年(昭和4年)[[7月1日]] - 制を施行、同時に改称一志郡香良洲町となる。大字は編成せず
* 2006年(平成18年)1月1日 - 平成の大合併により、津市香良洲町となる。


== 特産品 ==
=== 人口の変遷 ===
<!--
* [[ナシ|梨]]
グラフの作成 r01.png=20戸(20世帯)、g01.png=20人で換算しています(r50=1,000戸(1,000世帯)、g50=1,000人)
-->
'''総数 [戸数または世帯数: [[画像:r10.png]] 、人口: [[画像:g10.png]] ]'''
{| class="wikitable"
|-
| [[1668年]]([[寛文]]8年)<ref name="hb8"/>
|| [[画像:r10.png]] 201戸<br />[[画像:g50.png]][[画像:g10.png]][[画像:g01.png]][[画像:g01.png]] 1,225人
|-
| [[1748年]] - [[1750年]]([[寛延]]年間)<ref name="kk4"/>
|| [[画像:r10.png]][[画像:r05.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]] 372戸<br />[[画像:g50.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g01.png]][[画像:g01.png]][[画像:g01.png]] 1,663人
|-
| [[1872年]]([[明治5年]])<ref name="hb8"/>
|| [[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r01.png]] 432戸<br />[[画像:g100.png]][[画像:g10.png]][[画像:g01.png]][[画像:g01.png]][[画像:g01.png]] 2,279人
|-
| [[1940年]](昭和15年)<ref name="kk9"/>
|| [[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r05.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]] 760世帯<br />
[[画像:g100.png]][[画像:g100.png]][[画像:g05.png]] 4,111人
|-
| [[1968年]](昭和43年)<ref name="kk9"/>
|| [[画像:r50.png]][[画像:r10.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]] 1,258世帯<br />
[[画像:g100.png]][[画像:g100.png]][[画像:g50.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g05.png]][[画像:g01.png]] 5,521人
|-
| [[2012年]](平成24年)<ref>津市総務部総務課"[http://www.info.city.tsu.mie.jp/modules/dept1009/article.php?articleid=23 人口(男女別)・世帯数、統計情報]"(2012年11月7日閲覧。)</ref>
|| [[画像:r50.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r05.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]] 1,993世帯<br />
[[画像:g100.png]][[画像:g100.png]][[画像:g50.png]][[画像:g05.png]][[画像:g01.png]] 5,139人
|}


== 行政 ==
=== 町名の由来 ===
矢野村が町制を施行するにあたって、香良洲神社にちなんで改名した<ref>桂樹社グループ 編(1984):177ページ</ref>。「香良洲」の名の由来には以下のような説がある。
* 町長:鈴木一司
#大伴文守が[[征夷大将軍]]として[[東北地方]]を平定する途上で[[台風]]に遭い、土地の[[役人]]の娘である'''香良媛'''が[[舞楽]]で大伴を慰め、大伴は[[鏑矢]]を立てて香良媛との再会を約束した<ref name="kki7">香良洲町教育委員会 編(1993):17ページ</ref>。以後、その地を「矢野香良洲」と呼ぶようになったとされる(矢野村の名の由来でもある)<ref name="kki7"/>。
#海を航行する船が[[岩石]]を避け、順風を願ってこの地を渡ったことから'''辛洲'''(からす)となった<ref name="kki7"/>。
#[[鳥類]]の'''[[カラス]]'''の住まう地であることにちなむ<ref name="kki7"/>。
#イネを刈り取って'''枯らす'''(乾かす)ことから<ref name="kki8">香良洲町教育委員会 編(1993):18ページ</ref>。
#香良洲神社の[[祭神]]・[[稚日女尊|稚日女命]]にちなむ<ref name="kki8"/>。または[[伊勢市]]倭町の常明寺境内で'''加利屋須岐'''を祀ること、または香良洲神社境内の小香良洲社で'''可良須女命'''を祀ることから<ref name="kki8"/>。


== 経済 ==
== 姉妹都市・友好都市 ==
=== 漁業 ===
* [[岐阜県]][[加茂郡 (岐阜県)|加茂郡]][[東白川村]]
[[1903年]](明治36年)に香良洲漁業組合を結成し、海産物製造組合も発足するなど、漁業は盛んであり、津市沖から[[度会郡]]北浜村村松(現在の伊勢市村松町)沖に至る広大な[[漁業権]]を確保していた<ref name="kk4"/>。また[[行商]]も行われた<ref name="kk4"/>。
** [[1989年]](平成元年)[[6月28日]]姉妹都市提携


[[1975年]](昭和50年)の漁家数は385戸で、農家数を上回っていた<ref name="kk9"/>。[[カレイ]]・[[サバ]]・[[ヒラメ]]・[[マアジ]]・[[貝類]]の漁獲が多く、[[イカナゴ]]・[[エビ]]・[[カタクチイワシ]]の漁獲高は[[1965年]](昭和40年)を頂点として減少している<ref name="kk9"/>。[[大正]]期までは地曳網が中心であったが、[[動力船]]導入が進むと底曳網漁が盛んになった<ref>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983)359, 1074ページ</ref>。地曳網は[[1927年]](昭和2年)頃になくなり、[[1938年]](昭和8年)には当時の漁業組合理事長が主導して[[海苔]]の養殖を始めた<ref name="kk61"/>。
== 教育 ==

; 中学校
[[沿岸漁業]]と[[養殖業]]に特色がある<ref name="kk8"/>。[[ウナギ]]の[[養殖]]も行われる<ref name="kk0"/>。水産加工業では、[[煮干]]や[[干貝]]を生産する<ref name="hb7"/>。漁獲物は主に[[関西]]方面へ出荷される<ref name="mmb84"/>。
* 香良洲町立香海中学校

; 小学校
=== 農業 ===
* 香良洲町立香良洲小学校
農業では、砂地を生かした[[梨]]栽培や[[蔬菜]][[園芸農業]]が盛んである<ref name="kk8"/>。梨栽培は1903年(明治36年)頃に導入され、以後普及した<ref name="kk4"/>。[[戦前]]には[[養蚕]]が盛んで養蚕実行組合が存在した<ref name="kk4"/>。低湿なため、水田には砂土を入れて土地を高くしている<ref name="mmb84"/>。

特産の香良洲梨の[[品種]]は幸水である<ref>ワークス 編(1997):39ページ</ref>。三重県内で第3位の梨生産地を形成する<ref name="kj6">山上(2008):86ページ</ref>。「香良洲梨部会」が生産農家によって結成され、2008年(平成20年)現在で40名が加入し、約18[[ヘクタール|ha]]の梨園を営む<ref name="kj6"/>。

香良洲梨は[[1975年]](昭和50年)に川原地区でチオファネート耐性ナシ黒星病菌の出現によって壊滅的な被害を受けている<ref name="jjp">石崎ほか(1977):497ページ</ref>。一方、同じ香良洲町内でも馬場地区では被害を免れた<ref name="jjp"/>。こうした課題は乗り越えたものの、農家の高齢化が進み産地の維持が厳しくなってきたことから、[[2005年]](平成17年)に「かがやきプロジェクト」が発足、後継者問題や販路拡大などについて検討している<ref name="kj6"/>。そこで後継者候補として、香良洲小学校の児童らに収穫体験や香良洲梨の歴史や生産方法などの学習を提供している<ref name="kj6"/>。香良洲小の体験学習により、小学生が香良洲梨を[[PR]]する看板を町内に設置して知名度向上が図られ、農家と児童の交流も行われるようになった<ref>山上(2008):87ページ</ref>。[[2007年]](平成19年)には梨栽培から退いた梨部会員から梨園3[[アール (単位)|a]]を借り受けて「香良洲小学校体験学習園」とした<ref name="kj8">山上(2008):88ページ</ref>。こうした一連の取り組みは[[テレビ]]や[[新聞]]で報じられ、香良洲梨の認知度が高まった<ref name="kj8"/>。

== 災害 ==
香良洲町では多くの[[災害]]を経験し、特に四方を[[水]]に囲まれているため、[[水害]]に何度も遭っている<ref name="kk60"/>。記録に残るだけでも、[[享保]]7年8月([[グレゴリオ暦]]:[[1722年]]9月)の雲出川大洪水、[[宝暦]]2年([[1752年]])の[[洪水]][[高潮]]、[[天明]]4年4月(グレゴリオ暦:[[1784年]]5月)の[[飢饉]]、天明6年([[1786年]])の[[火災]]・[[干害]]・洪水、[[寛政]]2年8月(グレゴリオ暦:[[1790年]]9月)の大洪水、[[明治3年]][[9月18日 (旧暦)|9月18日]](グレゴリオ暦:[[1870年]][[10月12日]])の大洪水、[[1953年]](昭和28年)[[9月25日]]の[[昭和28年台風第13号|台風13号]]による冠水、[[1959年]](昭和34年)[[9月26日]]の[[伊勢湾台風]]による浸水が挙げられる<ref name="kk60"/>。特に昭和期の2回の台風被害を契機として、防潮堤が建設されることになった<ref name="kk60"/>。

== 小・中学校の学区 ==
[[公立学校|市立]]の[[小学校|小]]・[[中学校]]に通学する場合、香良洲町全域が、香良洲小学校・香海中学校の[[学区]]となる<ref name="gk">津市教育委員会事務局"[http://www.info.city.tsu.mie.jp/uploads/photos/16613.pdf 津市学区一覧表]"(2012年9月2日閲覧。)</ref>。香良洲小学校・香海中学校はどちらも香良洲町にあり<ref>津市教育委員会事務局教育研究支援課"[http://www.info.city.tsu.mie.jp/modules/dept1168/article.php?articleid=16 市立幼稚園・小中学校一覧]"(2012年9月8日閲覧。)</ref>、香良洲町のみを学区とする<ref name="gk"/>。平成の大合併で津市になるまでは、小中ともに香良洲町立であった。


== 交通 ==
== 交通 ==
=== 路線バス ===
=== 路線バス ===
* [[三重交通]][[三重交通中勢営業所|中勢営業所]]
* [[三重交通]][[三重交通中勢営業所|中勢営業所]]
** サティ、[[津駅]]、[[久居駅]]行き
** 21系統 [[久居駅]]東口
** 21・32系統 香良洲公園
** 32系統 イオン津
** 32系統 [[津駅]]

=== 道路 ===
=== 道路 ===
;[[一般国道]]
[[一般国道]]と[[主要地方道]]はない。
;[[三重県道]]([[都道府県道|一般県道]])
:該当なし
* [[三重県道575号香良洲公園島貫線|575号香良洲公園島貫線]](香良洲橋)
;[[三重県道]]
* [[三重県道698号津三雲線|698号津三雲線]](香良洲大橋)
* [[主要地方道]]
* [[三重県道754号津香良洲線|754号津香良洲線]](津香良洲大橋)
:該当なし
* [[都道府県道|一般県道]]
** [[三重県道575号香良洲公園島貫線|575号香良洲公園島貫線]](香良洲橋)
** [[三重県道698号津三雲線|698号津三雲線]](香良洲大橋)
** [[三重県道754号津香良洲線|754号津香良洲線]](津香良洲大橋)


== 施設 ==
== 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 ==
{|
|-
| valign=top|
* 津市役所香良洲総合支所
* 津市立香良洲保育園
* 津市立香良洲幼稚園
* 津市立香良洲小学校
* 津市立香海中学校
* [[津南警察署]]香良洲駐在所
* [[津市消防本部]]中消防署香良洲分遣所
| valign=top|
* [[百五銀行]]香良洲支店
* [[一志東部農業協同組合]]香良洲支店
* 香良洲漁業協同協同組合
* 津市商工会香良洲支所
* 香良洲郵便局
* サンデルタ香良洲
** [[津市図書館]]きらめき図書館
| valign=top|
* 津市香良洲体育館
* 津市香良洲グラウンド
* 香良洲海水浴場
* 香良洲公園
* 香良洲公園
* [[マリンフーズ]][[株式会社]]三重工場
* 若桜福祉会館
* [[フタバ食品]]株式会社関西工場
* 夜がらす
* 三重鋼業株式会社本社・香良洲製作所
* 神社かんこ踊り
|}
* ふれあいのかおり

== 史跡 ==
* [[香良洲神社]]
* 西方寺 - 小字地家垣内にある、[[真宗高田派]][[専修寺]]の末寺<ref name="hb8"/>。[[本尊]]は[[阿弥陀如来]]立像で、[[天台宗]]念仏寺として建立された後、[[天上]]18年([[1590年]])に真宗[[寺院]]となった<ref name="hb8"/>。
* 浄現寺 - 小字小松垣内にある、真宗高田派専修寺の末寺<ref name="hb8"/>。西方寺同様、元は天台宗であったが、[[永正]]8年([[1511年]])に真宗に改宗した<ref name="hb8"/>。

== 脚注 ==
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
* 石崎寛・三原隼人・久能均・河野満(1977)"チオファネート耐性ナシ黒星病菌の出現について"日本植物病理学会報.'''43'''(4):497-498.
* 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『[[角川日本地名大辞典]] 24三重県』[[角川書店]]、昭和58年6月8日、1643p.
* 香良洲町教育委員会 編『香良洲町史』香良洲町教育委員会、平成5年3月31日、1019p.
* 桂樹社グループ 編『文化誌日本 三重県』[[講談社]]、昭和59年6月27日、396p.
* 平井直樹・石田潤一郎・笠原一人(2009)"村野藤吾設計の三重海軍航空隊施設群について"[[日本建築学会]]近畿支部研究報告集. 計画系.'''49''':745-748.
* [[藤岡謙二郎]](1951)"近畿地方の町"人文地理([[人文地理学会]]).'''3'''(3):12-27,98.
* 三重県観光連盟 監修『ふるさとの散歩道 (三重県)』[[国土地理協会]]、平成元年9月第4版、426p.
* 三重県埋蔵文化財センター 編『雲出川改修香良洲地区 香良洲西山遺跡発掘調査概報』三重県埋蔵文化財センター、1998年3月、13p.
* 三重県埋蔵文化財センター 編『雲出川改修香良洲地区事業に伴う 香良洲西山遺跡発掘調査報告 一志郡香良洲町』三重県埋蔵文化財センター、1999年3月26日、42p.
* 山上尚史(2008)"果樹でグリーン・ツーリズムを進める No.22 香良洲(からす)梨部会が取り組む地元小学生のナシ体験学習"果実日本(日本園芸農業協同組合連合会).'''63'''(5):86-88.
* ワークス 編『ふるさとの文化遺産 郷土資料事典 24 三重県』[[人文社]]、1997年10月1日、235p.
* 『三重県の地名』日本歴史地名大系24、[[平凡社]]、1983年5月20日、1081p.


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[香良洲駅]]
* [[三重県の廃止市町村一覧]]
* [[三重県の廃止市町村一覧]]
* [[三重水産専門学校 (旧制)]]
* [[三重県第4区]]
* [[紀伊半島南東沖地震]]

== 外部リンク ==
* [http://www.info.city.tsu.mie.jp/modules/dept1144/article.php?articleid=6 津市役所香良洲総合支所]
* [http://www.res-edu.ed.jp/karasu/ 津市立香良洲小学校]
* [http://www.res-edu.ed.jp/koukai/ 津市立香海中学校]


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[[Category:三重県の市町村 (廃止)]]
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[[Category:津市の歴史|旧からすちよう]]
[[Category:津市の地名]]
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[[Category:雲出川水系]]



2012年11月18日 (日) 11:35時点における版

日本 > 三重県 > 津市 > 香良洲町
香良洲町
空から見た香良洲町
空から見た香良洲町
香良洲町の位置(日本内)
香良洲町
香良洲町
香良洲町の位置
北緯34度38分38.6秒 東経136度32分20.9秒 / 北緯34.644056度 東経136.539139度 / 34.644056; 136.539139
日本の旗 日本
都道府県 三重県
津市
面積
 • 合計 3.90 km2
標高
4 m
人口
 • 合計 5,139人
 • 密度 1,300人/km2
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
514-03xx
市外局番 059
ナンバープレート 三重
※座標・標高は津市役所香良洲総合支所付近

香良洲町(からすちょう)は、三重県津市町名2006年1月1日に旧・津市など10市町村で合併するまでは、一志郡香良洲町であった。郵便番号は514-03xxで、xxの部分は香良洲町内の通称地名ごとに設定されている。2012年9月30日現在の住民基本台帳による人口は5,139人[1]

を栽培する農業沿岸漁業海苔養殖が主体の水産業を主業とする[2]

地理

香良洲町全域が雲出川伊勢湾に面したデルタ地帯である。 雲出川古川が北側を、雲出川が南側を流れ、東側は伊勢湾に面する[3]室町時代後期に発生した明応地震によって雲出川の本流が現流路に変わったと口伝がある[4]。町域は平坦で、最高点でも3.9mであり[5]海抜0mを下回る地域も存在する[6]。津市街地から約10kmであり、郊外通勤農村となっている[5]集落自然堤防上に立地し[5]、特に集落は町の西側に比較的集中している[6]

伊勢湾岸は伊勢の海県立自然公園に指定されており、潮干狩り海水浴で賑わう[5]。湾岸は香良洲浦(一志浦・矢野浦とも)と呼ばれるが、1961年(昭和36年)の防潮堤の建設によりかつての白砂青松の景観は失われた[6]

北は津市雲出鋼管町、西は津市雲出伊倉津町、南は松阪市小野江町・星合町・五主町と接する。旧一志郡香良洲町は、津市と松阪市(旧一志郡三雲町)と接していた[7]

通称地名

稲葉(いなば)
香良洲町北東部に位置し、三重海軍航空隊が設置されていた[8]。跡地は宅地化し、戦後の一時期は塩田として利用された[8]。梨栽培が盛んで、香良洲漁港が置かれている[9]。郵便番号は514-0311。
川原(かわら)
香良洲町北部の雲出川古川沿いにあり、「北新町」と呼ばれる三重海軍航空隊の将校住宅地から一般の住宅地となった地域を含む[10]。梨や稲の栽培が行われる[9]。郵便番号は514-0326。
小松(こまつ)
香良洲町の中央に位置し、漁業世帯と兼業農家が多い[11]。海苔養殖が行われている[9]。郵便番号は514-0312。
桜町(さくらまち)
香良洲町西部に位置し、桑畑や荒れ地を開拓して造られた三重海軍航空隊下士官住宅地を起源とする[12]。津市立香海(こうかい)中学校がある[12]。郵便番号は514-0325。
地家(じけ)
雲出川と雲出川古川の分岐点にあり、第二次世界大戦前までは堤防沿いの桜並木花見客で賑わった[13]。香良洲西山遺跡や常夜灯がある[9]。郵便番号は514-0324。
砂原(すなはら)
香良洲町中心部に位置し、漁業世帯が多い[14]。香良洲漁協が置かれている[9]。郵便番号は514-0321。
高砂(たかさご)
香良洲町南東部に位置し、香良洲公園や海水浴場がある[15]。雲出川を利用して米倉貯木場が発達し、醸造業も行われたが、現在は漁業水産加工業が中心である[15]。海苔とウナギの養殖、梨の栽培が行われる[9]。郵便番号は514-0314。
馬場(ばば)
香良洲町南部に位置し、矢野学校(現在の津市立香良洲小学校)や劇場「香良洲座」が存在した[16]。香良洲町の中心としての機能を有し、商店街津市役所香良洲総合支所がある[9]。郵便番号は514-0323。
浜浦(はまうら)
香良洲町南東部に位置し、三重海軍航空隊の飛行場用地であったが、現在は宅地化され、津市立香良洲小学校が立地する[17]。予科練の名残として若桜の碑や津市香良洲歴史資料館(旧・若桜福祉会館)がある[9]。郵便番号は514-0313。
東山(ひがしやま)
香良洲町中心部の南に位置し、漁業世帯が多い[18]。海苔養殖が営まれる[9]。郵便番号は514-0322と設定されていたが、廃止された[19]

地形・地質

地質的には香良洲町全域を第四紀沖積層砂礫シルトが覆っており、沿岸部ほど厚く堆積している[7]

縄文海進の頃、香良洲町域は海面下にあり、弥生時代後期には干潟であった[20]。これ以降に香良洲町は陸化し、江戸時代になるとシルト層の堆積が起き、現代と同じ地形が形成された[20]

歴史

原始から中世

弥生時代の香良洲西山遺跡、古墳時代の北八反田遺跡・観音堂遺跡・高砂遺跡が見つかっている[6]。香良洲西山遺跡からは弥生土器の破片が、高砂遺跡からは須恵器土師器の破片が出土している[21]。ただし、これらの出土品は磨滅しており、雲出川流域から流れ込んできたものと考えられる[22]。磨滅していない遺物は中世のものであり、香良洲西山遺跡には12世紀中頃に人が居住し始めたと推測される[22]。同遺跡からは溝状の遺構も見つかり、当初は水田暗渠と考えられたが、農業技術専門家によって否定され、神社へ奉納する特別な塩を生産する塩田跡ではないかという仮説が出されている[23]

鎌倉時代には箱木御園(はこぎみその)と呼ばれる伊勢神宮御園であり、『神宮雑例集』によると「二宮領」、すなわち皇大神宮(内宮)・豊受大神宮(外宮)の両宮の所領であった[24]。箱木御園の記録には「三石」の字が見え、『神鳳鈔』の傍書に香良洲町の旧称である「矢野」と記されていることから、香良洲町が箱木御園に比定される[24]。三節祭の際に、神宮へ塩を供進した[25]製塩江戸時代中期まで続き、塩田は新田に変わった[26]

室町時代には伊勢湾を警固する港と矢野下野守の居城を擁していた[27]中世には長野氏が支配していたが、後に北畠氏に代わり、北畠氏の家臣である矢野下野守が城を置いていたという[28]。城跡は小字地家垣内と推定される[25]。北畠氏は矢野浦に何度も「新関」を設け、神宮は再三に渡って新関の廃止を訴えていた[21]

近世

江戸時代には伊勢国一志郡矢野村として津藩の配下にあった[28]文禄4年(1595年)から慶長13年(1608年)までは、安濃津城主の富田氏が領地としていた[25]。村高は『文禄3年高調』では761石だったが、『天保郷帳』では1,667石に増加している[28]。これは江戸時代を通して行われた新田開発が寄与している[21]。村人の半数が農業に従事し、イネムギのほか、菜種綿といった工芸作物ウリスイカといった野菜も栽培していた[28]

矢野の港は物資の集散地として発展し、雲出川を利用して伊賀国大和国方面から木材・綿などを受け入れ、魚介類や生活物資を送っていた[28]。港湾は現在の香良洲漁港の位置ではなく、地家・馬場地区と小字川口垣内の2港あった[26]。海路では江戸津、松坂と繋がり、紀州藩は雲出川沿いの自藩領の村々から集めた年貢米を白子港へ送るための中継地として矢野村に納屋を置いていた[28]。漁業ではイワシ地曳網漁と貝類採取が中心で、伊勢神宮へ初穂の御贄(みにえ)として干鰯などを毎年納めた[28]。当時の漁業従事者は村人の3割ほどであった[28]。矢野浦は、現在はいずれも津市内となっている藤方・小森・上野・雲出・矢野の5村の漁場であり、たびたび漁場争いが繰り広げられた[25]。それ以外の村には、6分の1の御菜を納めることで入漁を認めた[25]

村人の2割が商工業者で、香良洲神社の参詣者や「香良洲の千歳桜」の見物客で香良洲道は賑わった[28]

近代以降

香良洲町
香良洲町章
廃止日 2006年1月1日
廃止理由 新設合併
津市、久居市河芸町芸濃町美里村安濃町香良洲町一志町白山町美杉村津市
現在の自治体 津市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 東海地方近畿地方
都道府県 三重県
一志郡
市町村コード 24402-3
面積 3.90 km2.
総人口 5,237
(2004年10月1日)
隣接自治体 津市松阪市
町の木 クロマツ
町の花 の花
香良洲町役場
所在地 514-0392
三重県一志郡香良洲町1878
外部リンク 香良洲町(Internet Archive)
特記事項 1929年7月1日、矢野村から改称。
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明治時代になると矢野村は単独で村制を敷き、1929年(昭和4年)には町制施行と同時に香良洲町に改称した[28]。津市という大きな都市への通勤者によるのための衛星都市として人口が増加し、村から町へ昇格した[29]1916年(大正5年)に香良洲大橋が架橋された[28]

1942年(昭和17年)8月1日、一般に「予科練」と呼ばれた三重海軍航空隊が稲葉に置かれた[8]。予科練の建物群は村野藤吾設計を行った[30]。三重海軍航空隊は香良洲町の面積の3分の1を占める広大な敷地を有し[31]、建設に際しては香良洲町沖の海底砂を入れて約2mほど嵩(かさ)を増したという[32]1946年(昭和21年)から兵舎が三重師範学校(後に三重大学学芸学部香良洲分校となり上浜キャンパスに統合)に転用され、1947年(昭和22年)には香良洲町立香海中学校(現在の津市立香海中学校)が開校した[8]。香海中学校は、1962年(昭和37年)に桜町へ移転した[8]

戦後教育福祉も発展し、1977年(昭和52年)には中央公民館が建設された[33]。香良洲町役場(現在の津市役所香良洲総合支所)は1969年(昭和44年)に新築移転した[33]1989年(平成元年)6月28日岐阜県加茂郡東白川村と姉妹都市提携を結んだ。1997年(平成9年)に、香良洲町内初の本格的な遺跡発掘作業が香良洲西山遺跡で行われた[34]

2006年(平成18年)1月1日、津市など9市町村と合併し、新しい津市の一部となり、町村制施行以来の単独行政に幕を下ろした。最後の町長は鈴木一司が務めた。2012年(平成24年)4月17日、三重海軍航空隊をはじめとして戦争平和について展示する、津市香良洲歴史資料館が改修工事を終えて再開館した[35]

沿革

  • 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、一志郡矢野村となる。大字は編成せず。
  • 1929年(昭和4年)7月1日 - 町制を施行、同時に改称し一志郡香良洲町となる。大字は編成せず。
  • 2006年(平成18年)1月1日 - 平成の大合併により、津市香良洲町となる。

人口の変遷

総数 [戸数または世帯数: 、人口: ]

1668年寛文8年)[25] 201戸
1,225人
1748年 - 1750年寛延年間)[28] 372戸
1,663人
1872年明治5年[25] 432戸
2,279人
1940年(昭和15年)[3] 760世帯

4,111人

1968年(昭和43年)[3] 1,258世帯

5,521人

2012年(平成24年)[36] 1,993世帯

5,139人

町名の由来

矢野村が町制を施行するにあたって、香良洲神社にちなんで改名した[37]。「香良洲」の名の由来には以下のような説がある。

  1. 大伴文守が征夷大将軍として東北地方を平定する途上で台風に遭い、土地の役人の娘である香良媛舞楽で大伴を慰め、大伴は鏑矢を立てて香良媛との再会を約束した[38]。以後、その地を「矢野香良洲」と呼ぶようになったとされる(矢野村の名の由来でもある)[38]
  2. 海を航行する船が岩石を避け、順風を願ってこの地を渡ったことから辛洲(からす)となった[38]
  3. 鳥類カラスの住まう地であることにちなむ[38]
  4. イネを刈り取って枯らす(乾かす)ことから[39]
  5. 香良洲神社の祭神稚日女命にちなむ[39]。または伊勢市倭町の常明寺境内で加利屋須岐を祀ること、または香良洲神社境内の小香良洲社で可良須女命を祀ることから[39]

経済

漁業

1903年(明治36年)に香良洲漁業組合を結成し、海産物製造組合も発足するなど、漁業は盛んであり、津市沖から度会郡北浜村村松(現在の伊勢市村松町)沖に至る広大な漁業権を確保していた[28]。また行商も行われた[28]

1975年(昭和50年)の漁家数は385戸で、農家数を上回っていた[3]カレイサバヒラメマアジ貝類の漁獲が多く、イカナゴエビカタクチイワシの漁獲高は1965年(昭和40年)を頂点として減少している[3]大正期までは地曳網が中心であったが、動力船導入が進むと底曳網漁が盛んになった[40]。地曳網は1927年(昭和2年)頃になくなり、1938年(昭和8年)には当時の漁業組合理事長が主導して海苔の養殖を始めた[9]

沿岸漁業養殖業に特色がある[5]ウナギ養殖も行われる[15]。水産加工業では、煮干干貝を生産する[6]。漁獲物は主に関西方面へ出荷される[4]

農業

農業では、砂地を生かした栽培や蔬菜園芸農業が盛んである[5]。梨栽培は1903年(明治36年)頃に導入され、以後普及した[28]戦前には養蚕が盛んで養蚕実行組合が存在した[28]。低湿なため、水田には砂土を入れて土地を高くしている[4]

特産の香良洲梨の品種は幸水である[41]。三重県内で第3位の梨生産地を形成する[42]。「香良洲梨部会」が生産農家によって結成され、2008年(平成20年)現在で40名が加入し、約18haの梨園を営む[42]

香良洲梨は1975年(昭和50年)に川原地区でチオファネート耐性ナシ黒星病菌の出現によって壊滅的な被害を受けている[43]。一方、同じ香良洲町内でも馬場地区では被害を免れた[43]。こうした課題は乗り越えたものの、農家の高齢化が進み産地の維持が厳しくなってきたことから、2005年(平成17年)に「かがやきプロジェクト」が発足、後継者問題や販路拡大などについて検討している[42]。そこで後継者候補として、香良洲小学校の児童らに収穫体験や香良洲梨の歴史や生産方法などの学習を提供している[42]。香良洲小の体験学習により、小学生が香良洲梨をPRする看板を町内に設置して知名度向上が図られ、農家と児童の交流も行われるようになった[44]2007年(平成19年)には梨栽培から退いた梨部会員から梨園3aを借り受けて「香良洲小学校体験学習園」とした[45]。こうした一連の取り組みはテレビ新聞で報じられ、香良洲梨の認知度が高まった[45]

災害

香良洲町では多くの災害を経験し、特に四方をに囲まれているため、水害に何度も遭っている[33]。記録に残るだけでも、享保7年8月(グレゴリオ暦1722年9月)の雲出川大洪水、宝暦2年(1752年)の洪水高潮天明4年4月(グレゴリオ暦:1784年5月)の飢饉、天明6年(1786年)の火災干害・洪水、寛政2年8月(グレゴリオ暦:1790年9月)の大洪水、明治3年9月18日(グレゴリオ暦:1870年10月12日)の大洪水、1953年(昭和28年)9月25日台風13号による冠水、1959年(昭和34年)9月26日伊勢湾台風による浸水が挙げられる[33]。特に昭和期の2回の台風被害を契機として、防潮堤が建設されることになった[33]

小・中学校の学区

市立中学校に通学する場合、香良洲町全域が、香良洲小学校・香海中学校の学区となる[46]。香良洲小学校・香海中学校はどちらも香良洲町にあり[47]、香良洲町のみを学区とする[46]。平成の大合併で津市になるまでは、小中ともに香良洲町立であった。

交通

路線バス

道路

一般国道主要地方道はない。

三重県道一般県道

施設

  • 津市役所香良洲総合支所
  • 津市立香良洲保育園
  • 津市立香良洲幼稚園
  • 津市立香良洲小学校
  • 津市立香海中学校
  • 津南警察署香良洲駐在所
  • 津市消防本部中消防署香良洲分遣所
  • 津市香良洲体育館
  • 津市香良洲グラウンド
  • 香良洲海水浴場
  • 香良洲公園
  • マリンフーズ株式会社三重工場
  • フタバ食品株式会社関西工場
  • 三重鋼業株式会社本社・香良洲製作所

史跡

脚注

  1. ^ 津市総務部総務課"人口(男女別)・世帯数、統計情報"(2012年11月7日閲覧。)
  2. ^ 三重県観光連盟 監修(1989):128ページ
  3. ^ a b c d e 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):359ページ
  4. ^ a b c 三重県埋蔵文化財センター 編(1998):4ページ
  5. ^ a b c d e f 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):1358ページ
  6. ^ a b c d e 平凡社(1983):427ページ
  7. ^ a b 三重県埋蔵文化財センター 編(1999):7ページ
  8. ^ a b c d e 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):185ページ
  9. ^ a b c d e f g h i j 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):1361ページ
  10. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):375ページ
  11. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):503ページ
  12. ^ a b 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):529ページ
  13. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):543ページ
  14. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):626ページ
  15. ^ a b c 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):650ページ
  16. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):883ページ
  17. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):884ページ
  18. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):906ページ
  19. ^ 変更郵便番号"三重県 一志郡香良洲町の郵便番号変更・住所変更"(2012年11月7日閲覧。)
  20. ^ a b 三重県埋蔵文化財センター 編(1999):42ページ
  21. ^ a b c 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):1359ページ
  22. ^ a b 三重県埋蔵文化財センター 編(1998):13ページ
  23. ^ 三重県埋蔵文化財センター 編(1999):25, 28ページ
  24. ^ a b 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):861ページ
  25. ^ a b c d e f g h i j k 平凡社(1983):428ページ
  26. ^ a b 三重県埋蔵文化財センター 編(1999):10ページ
  27. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):1073ページ
  28. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):1074ページ
  29. ^ 藤岡(1951):18ページ
  30. ^ 平井ほか(2009):745ページ
  31. ^ 平井ほか(2009):746ページ
  32. ^ 三重県埋蔵文化財センター 編(1999):28ページ
  33. ^ a b c d e 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):1360ページ
  34. ^ 三重県埋蔵文化財センター 編(1999):1, 25ページ
  35. ^ 津市ホームページ - 生涯学習課-津市香良洲歴史資料館”. 津市教育委員会事務局生涯学習課. 2012年11月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年11月8日閲覧。
  36. ^ 津市総務部総務課"人口(男女別)・世帯数、統計情報"(2012年11月7日閲覧。)
  37. ^ 桂樹社グループ 編(1984):177ページ
  38. ^ a b c d 香良洲町教育委員会 編(1993):17ページ
  39. ^ a b c 香良洲町教育委員会 編(1993):18ページ
  40. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983)359, 1074ページ
  41. ^ ワークス 編(1997):39ページ
  42. ^ a b c d 山上(2008):86ページ
  43. ^ a b 石崎ほか(1977):497ページ
  44. ^ 山上(2008):87ページ
  45. ^ a b 山上(2008):88ページ
  46. ^ a b 津市教育委員会事務局"津市学区一覧表"(2012年9月2日閲覧。)
  47. ^ 津市教育委員会事務局教育研究支援課"市立幼稚園・小中学校一覧"(2012年9月8日閲覧。)

参考文献

  • 石崎寛・三原隼人・久能均・河野満(1977)"チオファネート耐性ナシ黒星病菌の出現について"日本植物病理学会報.43(4):497-498.
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 24三重県』角川書店、昭和58年6月8日、1643p.
  • 香良洲町教育委員会 編『香良洲町史』香良洲町教育委員会、平成5年3月31日、1019p.
  • 桂樹社グループ 編『文化誌日本 三重県』講談社、昭和59年6月27日、396p.
  • 平井直樹・石田潤一郎・笠原一人(2009)"村野藤吾設計の三重海軍航空隊施設群について"日本建築学会近畿支部研究報告集. 計画系.49:745-748.
  • 藤岡謙二郎(1951)"近畿地方の町"人文地理(人文地理学会).3(3):12-27,98.
  • 三重県観光連盟 監修『ふるさとの散歩道 (三重県)』国土地理協会、平成元年9月第4版、426p.
  • 三重県埋蔵文化財センター 編『雲出川改修香良洲地区 香良洲西山遺跡発掘調査概報』三重県埋蔵文化財センター、1998年3月、13p.
  • 三重県埋蔵文化財センター 編『雲出川改修香良洲地区事業に伴う 香良洲西山遺跡発掘調査報告 一志郡香良洲町』三重県埋蔵文化財センター、1999年3月26日、42p.
  • 山上尚史(2008)"果樹でグリーン・ツーリズムを進める No.22 香良洲(からす)梨部会が取り組む地元小学生のナシ体験学習"果実日本(日本園芸農業協同組合連合会).63(5):86-88.
  • ワークス 編『ふるさとの文化遺産 郷土資料事典 24 三重県』人文社、1997年10月1日、235p.
  • 『三重県の地名』日本歴史地名大系24、平凡社、1983年5月20日、1081p.

関連項目

外部リンク