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|名称=猿猴橋 |
|名称=猿猴橋 |
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|画像=[[ファイル:猿猴橋01.JPG|center|300px]]欄干<br />[[ファイル:猿猴橋02.JPG|center|300px]]橋全体 |
|画像=[[ファイル:猿猴橋01.JPG|center|300px]]欄干<br />[[ファイル:猿猴橋02.JPG|center|300px]]橋全体 |
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|国= |
|国= |
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|都市=[[広島県]][[広島市]][[南区 (広島市)|南区]]<br />左岸:猿猴橋町 - 右岸:的場町一丁目<ref>{{Cite web|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0807/exh080702.html|title=命の架け橋|publisher=広島市|accessdate=2011-07-09}}</ref> |
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|都市=[[広島県]][[広島市]] |
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|水域=[[太田川]][[水系]][[猿猴川]] |
|水域=[[太田川]][[水系]][[猿猴川]] |
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| 緯度度 = 34|緯度分 = 23|緯度秒 = 41 |
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|位置情報=左岸:[[南区 (広島市)|南区]]猿猴橋町、右岸:南区京橋町<br/>{{ウィキ座標度分|34|23|41|N|132|28|29|E|}} |
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| 経度度 = 132|経度分 = 28|経度秒 = 29 |
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|長さ=62.4m |
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|最大支間長= |
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|建築家と技術者= |
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|形式=5径間連続鉄筋コンクリート桁橋 |
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|素材=上部工:[[鉄筋コンクリート|RC]]橋、下部工:[[鉄筋コンクリート構造|RC構造]] |
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|建設= |
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'''猿猴橋'''(えんこうばし)は、[[広島県]][[広島市]]の[[猿猴川]]にかかる[[橋|道路橋]]。現存する橋梁のなかでは市内最古 |
'''猿猴橋'''(えんこうばし)は、[[広島県]][[広島市]]の[[猿猴川]]にかかる[[橋|道路橋]]。公共管理の現存する橋梁のなかでは市内最古<ref name="yomiuri201000410">{{Cite web|url=http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hiroshima/feature/hiroshima1223733489918_02/news/20100410-OYT8T01056.htm|title=命救った懸け橋|publisher=読売新聞|date=2010-04-10|accessdate=2011-07-09}}</ref>。[[被爆建造物|被爆橋梁]]の一つ<ref name="hibakukyoryo">{{Cite web|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1111459501054/index.html|title=被爆橋梁リスト|publisher=広島市|accessdate=2011-07-09}}</ref>。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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橋名の由来は「猿猴川に架かる橋」からであり、[[猿猴]]とは[[河童]]の一種。 |
橋名の由来は「猿猴川に架かる橋」からであり、[[猿猴]]とは[[河童]]の一種。左岸側の猿猴橋町や[[広島電鉄]]の[[猿猴橋町駅]]はこの橋が由来である。もともと[[西国街道]]筋、戦中までは[[国道]]筋の橋だった。 |
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最初の架橋は1591年。1926年3月に[[鉄筋コンクリート]]桁橋として永久橋化。1945年8月6日[[広島市への原子爆弾投下|原爆被災]]([[爆心地]]より約1.82km)。 |
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左岸側はJR[[広島駅]]前にあたり、愛友市場・猿猴橋市場などがある。上流側に駅前通りの[[駅前大橋 (広島市)|駅前大橋]]、下流側に[[広島電鉄本線]]が通る[[荒神橋 (広島市)|荒神橋]]がある。最寄の駅は左岸側にある広電[[猿猴橋町駅]]。昔は西へ道沿いにまっすぐ進むと[[京橋 (広島市)|京橋]]にたどりついたが、駅前通り([[広島市道駅前吉島線]])改良に伴い直進できなくなっている。 |
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2011年現在、[[京橋 (広島市)|京橋]]・[[栄橋 (広島市)|栄橋]]・[[比治山橋]]・[[荒神橋 (広島市)|荒神橋]]・[[観光橋]]と共に、現存する被爆橋梁である。 |
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== 諸元 == |
== 諸元 == |
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* 路線名 : 広島市道南1区12号線 |
* 路線名 : 広島市道南1区12号線<ref name="doukan">[http://doukan.douro.city.hiroshima.jp/MWIISapHrD/ 広島市路線網図提供システム]</ref> |
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* 橋長 : 62.4m |
* 橋長 : 62.4m<ref name="hibakukyoryo" /> |
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* 幅員 : 8.5m |
* 幅員 : 8.5m<ref name="hibakukyoryo" /> |
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* 上部工 : 5径間連続鉄筋コンクリート桁橋 |
* 上部工 : 5径間連続鉄筋コンクリート桁橋<ref name="hibakukyoryo" /> |
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* 下部工 : RC橋台2基、石張RC壁式橋脚4基 |
* 下部工 : RC橋台2基、石張RC壁式橋脚4基<ref name="hibakukyoryo" /> |
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* 基礎工 : ? |
* 基礎工 : ? |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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最初の架橋年度は不明。[[広島藩]]主が[[浅野氏]]に替わってから京橋とともに[[参勤交代]]の主要ルートとなったことから、[[江戸時代]]初期には架設されていたようである。 |
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|幅= 300px |
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| 1=Hiroshima map circa 1930.PNG |
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| 2=1930年ごろの広島市の地図。右上猿猴川と京橋川の分岐すぐの最上流の橋が猿猴橋。他の道より太く書かれていることから、当時主要幹線道路であったことがわかる。 |
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| 3=Post-attack.jpg |
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| 4=1945年被爆後の広島市。上地図と位置関係を確認。落橋していないとわかる。 |
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| 5=Hiroshima - Extend Of Fire & Limits Of Blast Damage.jpg |
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| 6=被爆による火災消失分布図。上地図と位置関係を確認。当時この付近まで火災が広がっていた。 |
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=== 初期 === |
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[[安土桃山時代]]に[[安芸国]]を支配した[[毛利輝元]]は[[広島城]]を築城し、[[1591年]]([[天正]]19年)1月8日に入城する<ref name="sensai6">[[#原爆戦災誌|原爆戦災誌]]、6頁</ref>。いくつか小集落があったがほとんど何もない海辺だったこのあたりもその際に城下町が整備され<ref name="sensai6" />、1591年現地に橋が架橋される<ref name="fudoki">{{Cite web|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/minami/gaido/fudoki/ennkou/ennkou.html|title=美奈美国風土記|publisher=広島市|accessdate=2011-07-09}}</ref>。当時は「猿郎(えんろう)」{{#tag:ref|毛利氏旧居城の[[吉田郡山城]]そばの可愛川に「河太郎(がたろう)」という妖怪がおり、これと猿猴が合わさって(猿猴+河太郎)、「猿郎」と呼ばれだしたとされている<ref name="fudoki" />。|group="†"}}の古語である「ゑんろう橋」「ヱンロウ橋」と名付けられた<ref name="fudoki" />。 |
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毛利氏の後に入封した[[福島正則]]の[[広島藩]]政時代に、猿猴の古語である「ゑんかう」「ヱンカウ」に名を改めている<ref name="fudoki" />。福島氏時代にこの付近も整備され、山沿いの山陽道([[西国街道]])を城下に引き込みこの橋は西国街道筋の橋となった<ref>{{Cite web|url=http://www.hiroshimacci.or.jp/syoutengai-zanmai/hondori.html|title=商店街PR|publisher=広島商工会議所|accessdate=2011-07-09}}</ref>。さらに福島氏により猿猴橋町が整備されていった<ref name="fudoki" />。 |
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[[元禄]]年間、西国街道は猿猴橋へと抜けるルートに変更されると、東方から[[広島城]]下中心部に向かう玄関口として最初に渡る木橋となった。藩政時代において防衛上、橋の架橋は制限されており、この橋は猿猴川に唯一架けられた西国街道筋の橋であった。江戸末期の時点でその他の橋は、西国街道筋の[[己斐橋]]・[[福島橋 (広島市)|福島橋]](現存せず)・[[天満橋 (広島市)|天満橋]]・[[本川橋]]・[[元安橋]]・京橋・[[神田橋 (京橋川)|神田橋]]、雲石街道筋の[[横川橋 (広島市)|横川橋]]ぐらいだった。 |
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広島藩主が[[浅野長晟]]に代わり、[[1635年]]([[寛永]]12年)[[武家諸法度]]により[[参勤交代]]が義務化されると、[[京橋 (広島市)|京橋]]とともに浅野氏広島藩の参勤交代ルートとなる<ref>{{Cite web|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/minami/gaido/boukenou/01/02.html|title=猿猴橋解剖学|publisher=広島市|accessdate=2011-07-09}}</ref>。[[江戸時代]]当時は防衛上、橋の架橋は制限されており、この橋は猿猴川に唯一架けられた西国街道筋の橋{{#tag:ref|当時の城下町の状況は、広島城が所蔵する『広島城下絵屏風』や『芸州広島図』で確認できる<ref>{{Cite web|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/pdf/sirouya27.pdf|format=PDF|title=しろうや! しろうや! 広島城|publisher=広島城|accessdate=2011-07-09}}</ref>。|group="†"}}となった。猿猴橋町は東から広島に入る玄関口として宿場町に発展、京橋町付近は魚屋や市場が並んだ<ref name="fudoki" />。また当時の太田川水系の治水状況から考えると、洪水により数度落橋した可能性が高いが、その記録は不明である |
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[[明治]]に入ると[[国道2号|國道四號]]筋に架かる橋として機能、[[1926年]]([[大正]]15年)3月、鉄筋コンクリート桁橋として架け替えられた。贅を尽くした美しい橋で、橋名を記した四隅の親柱の上に地球儀にのり羽ばたく大きな[[鷲]]の像が、欄干には猿猴二匹が向かい合って1つの桃を掲げている銅製の飾りがついていた。その様子は広島一と言われ、渡り初めには遠方からたくさんの人が来たと伝えられている。 |
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=== 近世 === |
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金属製の飾りはその後、[[太平洋戦争]]中の[[1941年]]([[昭和]]16年)金属回収令で取り外され、石造りの本体だけとなった。[[1945年]](昭和20年)8月6日[[広島市への原子爆弾投下|原爆被災]]。爆風方向に架かっていたため、一部欄干の破損があったものの落橋にはいたらなかった。そのため、広島市内から当時救護所に指定されていた東練兵場(現在の[[東区 (広島市)|東区]]光町・若草町一帯)への避難経路として使われた。 |
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[[明治時代]]に入って[[国道2号|國道四號]]筋の橋<ref>{{Cite web|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/kikaku/kikaku/vi/hiroshima2/answer100/answer028.htm|title=ひろしま通認定試験|publisher=広島市|accessdate=2011-07-09}}</ref>となり、戦後まで国道として利用された。 |
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[[1926年]]([[大正]]15年)2月、鉄筋コンクリート桁橋として架け替えられた<ref name="yomiuri201000410" />。贅を尽くした美しい橋で、橋名を記した四隅の親柱の上に地球儀にのり羽ばたく大きな[[鷲]]の像が、欄干には猿猴二匹が向かい合って1つの桃を掲げている銅製の飾りがついていた<ref name="yomiuri201000410" />。その様子は広島一と言われ、渡り初めには遠方からたくさんの人が来たと伝えられており、絵葉書にもなっている<ref name="yomiuri201000410" /><ref name="cityh">{{Cite web|url=https://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1115886046684/html/common/4de474f8012.html|title=名橋の過ぎ去りし時|publisher=広島市|accessdate=2011-07-09}}</ref>。金属製の飾りはその後、[[太平洋戦争]]中に[[金属類回収令]]によって[[1943年]](昭和18年)には取り外され、石造りの本体だけとなった<ref name="yomiuri201000410" />。 |
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戦後、欄干は一部直されたが、傷跡は今も確認できる。[[1956年]](昭和31年)、駅前大橋完成に伴い主要幹線からは外れ交通量が減り、地元住民の生活道路として使用されている。また現在、親柱・欄干を架設当時のデザインに復元する運動を地元住民が中心となり起している。 |
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[[1945年]](昭和20年)8月6日[[広島市への原子爆弾投下]]により被爆。[[爆心地]]より約1.82km<ref name="hibakukyoryo" />に位置した。爆風方向に架かっていたため、一部欄干の破損があったものの落橋にはいたらなかった<ref>[[#原爆戦災誌|原爆戦災誌]]、251頁</ref>。そのため、広島市内から当時救護所に指定されていた東練兵場(右地図参照)への避難経路として使われた<ref name="yomiuri201000410" /><ref name="cityh" />。この際、たもとに警官が立ち市中心部に入ることを禁じていた<ref>[[#原爆戦災誌|原爆戦災誌]]、1025頁</ref>。戦後、欄干は一部直されたが、その際に[[原爆死没者慰霊碑]]にも用いられた[[庵治石]]が採用されている<ref>{{Cite web|date=1999-05-18|url=http://www.chugoku-np.co.jp/setouti/seto/5/970518.htm|title=復興の礎/被爆の街に庵治の技|publisher=中国新聞|accessdate=2011-07-09}}</ref>。 |
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== 水道橋 == |
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猿猴橋上流側には昔、[[水道橋]]が存在し、長い間市内最古の水道橋として使用されてきた。[[1897年]]([[明治]]30年)竣工、[[1934年]](昭和9年)架替。1945年被爆(爆心地から約1.81km)。その後直されて使用されてきたが、[[2005年]]([[平成]]17年)9月[[平成17年台風第14号|台風14号]]による洪水で一部[[橋脚]]が洗掘により沈下してしまい使用停止。[[2007年]](平成19年)に全撤去された。現在、橋脚の石積の一部がモニュメントとして残っている。 |
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[[1949年]](昭和24年)8月8日の夜には、下流側の[[荒神橋 (広島市)|荒神橋]]を挟む猿猴川河岸緑地において水上音楽会が開催されている<ref name="cityh" />。 |
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=== 現在 === |
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[[1956年]](昭和31年)[[駅前大橋 (広島市)|駅前大橋]]完成に伴い主要幹線からは外れ交通量が減り、地元住民の生活道路として使用されている<ref name="yomiuri201000410" />。 |
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現在、被爆橋梁という歴史的に意義のある橋ということから、広島市は管理する全2818橋の中でも優先的に維持管理を行っている<ref>{{Cite web|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1239706449871/files/zisshikeikaku.pdf|format=PDF|title=広島市橋梁維持管理実施計画|publisher=広島市|accessdate=2011-07-09}}</ref>。 |
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2000年代に入り、地元住民を中心に親柱・欄干を大正期の架設当時のデザインに復元する運動を起している。これに広島市側も協力しており<ref>{{Cite web|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1205739785265/index.html|title=達成状況一覧表|publisher=広島市|accessdate=2011-07-09}}</ref>、[[2008年]]6月には親柱上の鷲像の小型模型が発見され<ref>{{Cite web|date=2008-06-17|url=http://web.archive.org/web/20080621014309/http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200806170266.html|title=猿猴橋親柱復元へ貴重な資料|publisher=中国新聞|accessdate=2011-07-09}}</ref>、同年11月には[[広島市立大学]]の協力を得て復元模型が完成した<ref>{{Cite web|date=2008-11-22|url=http://web.archive.org/web/20081201071835/http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200811220023.html|title=薫る大正 猿猴橋の復元模型|publisher=中国新聞|accessdate=2011-07-09}}</ref>。[[2009年]]3月、正式に「猿猴橋復元の会」を結成し復元費用の募金活動を行っている<ref name="yomiuri201000410" />。 |
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== 周辺 == |
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[[ファイル:Hiroshima Sta South Exit Area.jpg|right|thumb|300px|1988年の広島駅南周辺。{{国土航空写真}}分岐から上が猿猴川であり、分岐から3つ目の橋が猿猴橋。上流側に水道橋が見える。]] |
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左岸側はJR[[広島駅]]前にあたり、愛友市場・猿猴橋市場などがある。上流側に駅前通りの[[駅前大橋 (広島市)|駅前大橋]]、下流側に[[広島電鉄本線]]が通る[[荒神橋 (広島市)|荒神橋]]がある。昔は西へ道沿いにまっすぐ進むと[[京橋 (広島市)|京橋]]にたどりついたが、駅前通り([[広島市道駅前吉島線]])改良に伴い直進できなくなっている。 |
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また、左岸側は市の「広島駅南口Bブロック第一種市街地再開発事業」により開発が予定されている。 |
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猿猴橋から[[平和橋 (広島市)|平和橋]]までの猿猴川右岸側は、「猿猿猴川アートプロムナード」として[[佐々木葉二]]のデザインで整備されている<ref>{{Cite web|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1120530516888/index.html|title=ひろしま2045:平和と創造のまち 対象事業一覧|publisher=広島市|accessdate=2011-07-09}}</ref>。 |
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;猿猴橋水道橋 |
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猿猴橋上流側には昔、[[水道橋]]が存在し、長い間市内最古の水道橋として使用されてきた。 |
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[[1897年]]([[明治]]30年)竣工。市内最古の浄水場である[[牛田浄水場]]建設の際に作られた水道橋であり、元々は[[日清戦争]]の際に[[兵站]]拠点となっていた[[宇品]]へ上水を送る「広島軍用水道」の水道管だった。1945年8月被爆(爆心地から約1.8km)、同年9月の[[枕崎台風]]と2度の大きな災害にも落橋を免れている<ref name="hiroshimapeacemedia">{{Cite web|date=2009-04-30|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20090430163041552_ja|title=被爆水管橋一部を展示 軍都の記憶 刻印に残す|publisher=中国新聞|accessdate=2011-07-09}}</ref>。 |
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その後直されて使用されてきたが、[[2005年]]([[平成]]17年)9月[[平成17年台風第14号|台風14号]]による洪水で一部[[橋脚]]が洗掘により沈下してしまい使用停止。[[2007年]](平成19年)に全撤去された<ref name="yomiuri201000410" />。現在、橋脚の石積の一部が当地にモニュメントとして残っている。水道管および橋脚の一部は[[牛田浄水場]]内の水道資料館に展示されている<ref name="hiroshimapeacemedia" />。 |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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;注釈 |
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<references group="†" /> |
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;出典 |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考資料 == |
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* {{Cite book|和書 |
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|author =四国五郎 |
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|year =1975 |
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|title =広島百橋 |
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|publisher = 春陽社出版 |
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|ref = |
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}} |
|||
* {{Cite book|和書 |
|||
|author =被爆建造物調査研究会 |
|||
|year =1996 |
|||
|title =被爆50周年 ヒロシマの被爆建造物は語る-未来への記録 |
|||
|publisher = 広島平和記念資料館 |
|||
|ref = |
|||
}} |
|||
* {{Cite book|和書 |
|||
|author = 広島市 |
|||
|title = 広島原爆戦災誌 |
|||
|origdate = 1971 |
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|url = http://a-bombdb.pcf.city.hiroshima.jp/pdbj/bookdownload/sensai0.pdf |
|||
|format=PDF |
|||
|accessdate = 2011-05-01 |
|||
|edition = 改良版 |
|||
|date = 2005 |
|||
|ref = 原爆戦災誌 |
|||
}} |
|||
* {{Cite journal|和書 |
|||
|author=松尾雅嗣 |
|||
|coauthors =谷整二 |
|||
|year=2007年 |
|||
|title=広島原爆投下時の一時避難場所としての川と橋 |
|||
|journal=広島平和科学 |
|||
|volume=29 |
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|issue= |
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|pages=1頁-25頁 |
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|publisher=広島大学 |
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|url=http://home.hiroshima-u.ac.jp/heiwa/JNL/29/1matsuo.pdf |
|||
|format=PDF |
|||
|accessdate=2011-06-05 |
|||
}} |
|||
* [http://www.tobunken-archives.jp/DigitalArchives/search/?lang=&m=1&t=0&pager.offset=0&len=20&orderBy=recordId&order=ASC&title=&keyword=%E7%8C%BF%E7%8C%B4%E6%A9%8B&submit=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&x=0&y=0&area1=0&area2=0&area3=0&area4=0&theme1=0&theme2=0 戦前の絵葉書アーカイブ] - 東北芸術工科大学。相生橋の絵葉書が数枚ある。 |
|||
* [http://www.nhk.or.jp/hiroshima/hibakumap/spot/BR-0004.html ヒロシマをさがそう] - NHK広島 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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51行目: | 137行目: | ||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
* [http://www. |
* [http://www.kankou.pref.hiroshima.jp/hiroshima/spot/0910.html 猿猴橋] - 広島県 |
||
* [http://www.city.hiroshima.jp/www/contents/0000000000000/1111459501054/index.html 被爆橋梁リスト] - 同 |
|||
* {{PDFlink|[http://a-bombdb2.pcf.city.hiroshima.jp/PDB/PDF/sensai2.pdf 広島原爆戦災誌 第二巻第二編]}} - 同 |
|||
* [http://www.cgr.mlit.go.jp/dobokuisan/ichiran/hiroshima.htm#17 広島県の近代土木遺産一覧] - 国交省・中国地方整備局 |
|||
* [http://www.nhk.or.jp/hiroshima/hibakumap/spot/BR-0004.html ヒロシマをさがそう] - NHK広島 |
|||
* [http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200806170266.html 猿猴橋親柱復元へ貴重な資料] - 2008年6月17日付中国新聞 |
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{{広島県の被爆橋梁}} |
{{広島県の被爆橋梁}} |
2011年7月10日 (日) 23:16時点における版
猿猴橋 | |
---|---|
欄干 橋全体 | |
基本情報 | |
所在地 |
広島県広島市南区 左岸:猿猴橋町 - 右岸:的場町一丁目[1] |
交差物件 | 太田川水系猿猴川 |
座標 | 北緯34度23分41秒 東経132度28分29秒 / 北緯34.39472度 東経132.47472度 |
関連項目 | |
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式 |
猿猴橋(えんこうばし)は、広島県広島市の猿猴川にかかる道路橋。公共管理の現存する橋梁のなかでは市内最古[2]。被爆橋梁の一つ[3]。
概要
橋名の由来は「猿猴川に架かる橋」からであり、猿猴とは河童の一種。左岸側の猿猴橋町や広島電鉄の猿猴橋町駅はこの橋が由来である。もともと西国街道筋、戦中までは国道筋の橋だった。
最初の架橋は1591年。1926年3月に鉄筋コンクリート桁橋として永久橋化。1945年8月6日原爆被災(爆心地より約1.82km)。
2011年現在、京橋・栄橋・比治山橋・荒神橋・観光橋と共に、現存する被爆橋梁である。
諸元
- 路線名 : 広島市道南1区12号線[4]
- 橋長 : 62.4m[3]
- 幅員 : 8.5m[3]
- 上部工 : 5径間連続鉄筋コンクリート桁橋[3]
- 下部工 : RC橋台2基、石張RC壁式橋脚4基[3]
- 基礎工 : ?
歴史
初期
安土桃山時代に安芸国を支配した毛利輝元は広島城を築城し、1591年(天正19年)1月8日に入城する[5]。いくつか小集落があったがほとんど何もない海辺だったこのあたりもその際に城下町が整備され[5]、1591年現地に橋が架橋される[6]。当時は「猿郎(えんろう)」[† 1]の古語である「ゑんろう橋」「ヱンロウ橋」と名付けられた[6]。
毛利氏の後に入封した福島正則の広島藩政時代に、猿猴の古語である「ゑんかう」「ヱンカウ」に名を改めている[6]。福島氏時代にこの付近も整備され、山沿いの山陽道(西国街道)を城下に引き込みこの橋は西国街道筋の橋となった[7]。さらに福島氏により猿猴橋町が整備されていった[6]。
広島藩主が浅野長晟に代わり、1635年(寛永12年)武家諸法度により参勤交代が義務化されると、京橋とともに浅野氏広島藩の参勤交代ルートとなる[8]。江戸時代当時は防衛上、橋の架橋は制限されており、この橋は猿猴川に唯一架けられた西国街道筋の橋[† 2]となった。猿猴橋町は東から広島に入る玄関口として宿場町に発展、京橋町付近は魚屋や市場が並んだ[6]。また当時の太田川水系の治水状況から考えると、洪水により数度落橋した可能性が高いが、その記録は不明である
近世
明治時代に入って國道四號筋の橋[10]となり、戦後まで国道として利用された。
1926年(大正15年)2月、鉄筋コンクリート桁橋として架け替えられた[2]。贅を尽くした美しい橋で、橋名を記した四隅の親柱の上に地球儀にのり羽ばたく大きな鷲の像が、欄干には猿猴二匹が向かい合って1つの桃を掲げている銅製の飾りがついていた[2]。その様子は広島一と言われ、渡り初めには遠方からたくさんの人が来たと伝えられており、絵葉書にもなっている[2][11]。金属製の飾りはその後、太平洋戦争中に金属類回収令によって1943年(昭和18年)には取り外され、石造りの本体だけとなった[2]。
1945年(昭和20年)8月6日広島市への原子爆弾投下により被爆。爆心地より約1.82km[3]に位置した。爆風方向に架かっていたため、一部欄干の破損があったものの落橋にはいたらなかった[12]。そのため、広島市内から当時救護所に指定されていた東練兵場(右地図参照)への避難経路として使われた[2][11]。この際、たもとに警官が立ち市中心部に入ることを禁じていた[13]。戦後、欄干は一部直されたが、その際に原爆死没者慰霊碑にも用いられた庵治石が採用されている[14]。
1949年(昭和24年)8月8日の夜には、下流側の荒神橋を挟む猿猴川河岸緑地において水上音楽会が開催されている[11]。
現在
1956年(昭和31年)駅前大橋完成に伴い主要幹線からは外れ交通量が減り、地元住民の生活道路として使用されている[2]。
現在、被爆橋梁という歴史的に意義のある橋ということから、広島市は管理する全2818橋の中でも優先的に維持管理を行っている[15]。
2000年代に入り、地元住民を中心に親柱・欄干を大正期の架設当時のデザインに復元する運動を起している。これに広島市側も協力しており[16]、2008年6月には親柱上の鷲像の小型模型が発見され[17]、同年11月には広島市立大学の協力を得て復元模型が完成した[18]。2009年3月、正式に「猿猴橋復元の会」を結成し復元費用の募金活動を行っている[2]。
周辺
左岸側はJR広島駅前にあたり、愛友市場・猿猴橋市場などがある。上流側に駅前通りの駅前大橋、下流側に広島電鉄本線が通る荒神橋がある。昔は西へ道沿いにまっすぐ進むと京橋にたどりついたが、駅前通り(広島市道駅前吉島線)改良に伴い直進できなくなっている。
また、左岸側は市の「広島駅南口Bブロック第一種市街地再開発事業」により開発が予定されている。
猿猴橋から平和橋までの猿猴川右岸側は、「猿猿猴川アートプロムナード」として佐々木葉二のデザインで整備されている[19]。
- 猿猴橋水道橋
猿猴橋上流側には昔、水道橋が存在し、長い間市内最古の水道橋として使用されてきた。
1897年(明治30年)竣工。市内最古の浄水場である牛田浄水場建設の際に作られた水道橋であり、元々は日清戦争の際に兵站拠点となっていた宇品へ上水を送る「広島軍用水道」の水道管だった。1945年8月被爆(爆心地から約1.8km)、同年9月の枕崎台風と2度の大きな災害にも落橋を免れている[20]。
その後直されて使用されてきたが、2005年(平成17年)9月台風14号による洪水で一部橋脚が洗掘により沈下してしまい使用停止。2007年(平成19年)に全撤去された[2]。現在、橋脚の石積の一部が当地にモニュメントとして残っている。水道管および橋脚の一部は牛田浄水場内の水道資料館に展示されている[20]。
脚注
- 注釈
- ^ 毛利氏旧居城の吉田郡山城そばの可愛川に「河太郎(がたろう)」という妖怪がおり、これと猿猴が合わさって(猿猴+河太郎)、「猿郎」と呼ばれだしたとされている[6]。
- ^ 当時の城下町の状況は、広島城が所蔵する『広島城下絵屏風』や『芸州広島図』で確認できる[9]。
- 出典
- ^ “命の架け橋”. 広島市. 2011年7月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “命救った懸け橋”. 読売新聞 (2010年4月10日). 2011年7月9日閲覧。
- ^ a b c d e f “被爆橋梁リスト”. 広島市. 2011年7月9日閲覧。
- ^ 広島市路線網図提供システム
- ^ a b 原爆戦災誌、6頁
- ^ a b c d e f “美奈美国風土記”. 広島市. 2011年7月9日閲覧。
- ^ “商店街PR”. 広島商工会議所. 2011年7月9日閲覧。
- ^ “猿猴橋解剖学”. 広島市. 2011年7月9日閲覧。
- ^ “しろうや! しろうや! 広島城” (PDF). 広島城. 2011年7月9日閲覧。
- ^ “ひろしま通認定試験”. 広島市. 2011年7月9日閲覧。
- ^ a b c “名橋の過ぎ去りし時”. 広島市. 2011年7月9日閲覧。
- ^ 原爆戦災誌、251頁
- ^ 原爆戦災誌、1025頁
- ^ “復興の礎/被爆の街に庵治の技”. 中国新聞 (1999年5月18日). 2011年7月9日閲覧。
- ^ “広島市橋梁維持管理実施計画” (PDF). 広島市. 2011年7月9日閲覧。
- ^ “達成状況一覧表”. 広島市. 2011年7月9日閲覧。
- ^ “猿猴橋親柱復元へ貴重な資料”. 中国新聞 (2008年6月17日). 2011年7月9日閲覧。
- ^ “薫る大正 猿猴橋の復元模型”. 中国新聞 (2008年11月22日). 2011年7月9日閲覧。
- ^ “ひろしま2045:平和と創造のまち 対象事業一覧”. 広島市. 2011年7月9日閲覧。
- ^ a b “被爆水管橋一部を展示 軍都の記憶 刻印に残す”. 中国新聞 (2009年4月30日). 2011年7月9日閲覧。
参考資料
- 四国五郎『広島百橋』春陽社出版、1975年。
- 被爆建造物調査研究会『被爆50周年 ヒロシマの被爆建造物は語る-未来への記録』広島平和記念資料館、1996年。
- 広島市『広島原爆戦災誌』(PDF)(改良版)、2005年(原著1971年) 。2011年5月1日閲覧。
- 松尾雅嗣、谷整二「広島原爆投下時の一時避難場所としての川と橋」(PDF)『広島平和科学』第29巻、広島大学、 エラー: 日付が正しく記入されていません。、1頁-25頁、2011年6月5日閲覧。
- 戦前の絵葉書アーカイブ - 東北芸術工科大学。相生橋の絵葉書が数枚ある。
- ヒロシマをさがそう - NHK広島
関連項目
外部リンク
- 猿猴橋 - 広島県