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1800年頃の北京の人口は110万人とする説が有力であり(Chandler, Modelski等)、一概に世界一とは言い切れません
いろいろな説があるでしょう。江戸の人口が1837年に128万だったという説も有力です。
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=== 江戸の人口と識字率 ===
=== 江戸の人口と識字率 ===
[[ロドリゴ・デ・ビベロ]]によって[[1609年]]ごろに15万人と伝えられた江戸の[[人口]]は、[[18世紀]]初頭には100万人を超え、世界一ないしそれ匹敵す規模であったと推定されている。[[成人]]男性の[[識字率]]も[[幕末]]には'''70%'''を超え、同時期の[[ロンドン]](20%)、[[パリ]](10%未満)を遥かに凌ぎ、[[ロシア]]人革命家メーチニコフや、[[トロイア遺跡]]を発見した[[ドイツ]]人の[[ハインリッヒ・シュリーマン|シュリーマン]]らが、驚きを以って書いている。また、武士だけではなく農民も[[和歌]]を嗜んだと言われており、その背景には[[寺子屋]]の普及があったと考えられている。その様に世界的に見れば極めて高い水準であると言うことができる。しかし、識字率100%の武士階級の人口が多いため、識字率がかさ上げされているのも間違いなく、当時、地方での識字率は20%程度だったと推定されている(それでも、世界的に見て高水準である)<ref>高札等で所謂『御触書』を公表したり、『瓦版』や『貸本屋』等が大いに繁盛した事実から、大半の町人は文字を読む事が出来たと考えられている。</ref>。
[[ロドリゴ・デ・ビベロ]]によって[[1609年]]ごろに15万人と伝えられた江戸の[[人口]]は、[[18世紀]]初頭には100万人を超えた。[[1800年]]頃の諸都市の人口は北京90万人、ロンドン86万人、パリ54万人であり、江戸の人口、[[19世紀]]ロンドンに抜かれまで世界一であったと推定されている<ref>[http://www.metrosa.org/topix/jinko-ed.htm]</ref>。[[成人]]男性の[[識字率]]も[[幕末]]には'''70%'''を超え、同時期の[[ロンドン]](20%)、[[パリ]](10%未満)を遥かに凌ぎ、[[ロシア]]人革命家メーチニコフや、[[トロイア遺跡]]を発見した[[ドイツ]]人の[[ハインリッヒ・シュリーマン|シュリーマン]]らが、驚きを以って書いている。また、武士だけではなく農民も[[和歌]]を嗜んだと言われており、その背景には[[寺子屋]]の普及があったと考えられている。その様に世界的に見れば極めて高い水準であると言うことができる。しかし、識字率100%の武士階級の人口が多いため、識字率がかさ上げされているのも間違いなく、当時、地方での識字率は20%程度だったと推定されている(それでも、世界的に見て高水準である)<ref>高札等で所謂『御触書』を公表したり、『瓦版』や『貸本屋』等が大いに繁盛した事実から、大半の町人は文字を読む事が出来たと考えられている。</ref>。


ただ、人口に関しては、記録に残っているのは幕末に60万人近くとなった[[町人]]人口のみであり、人口100万人とは、[[幕府]]による調査が行われていない[[武家]]や[[神官]]・[[僧侶]]などの寺社方、被差別階級などの統計で除外された人口を加えた推計値である。[[武士]]の人口は、[[参勤交代]]に伴う地方からの[[単身赴任]]者など、流動的な部分が非常に多く、その推定は20万人程度から100万人程度までとかなりの幅があり、最盛期の江戸の総人口も68万人から150万人まで様々な推定値が出されている。雑記等に記される同時代人の推定も50万人から200万人まで幅がある。
ただ、人口に関しては、記録に残っているのは幕末に60万人近くとなった[[町人]]人口のみであり、人口100万人とは、[[幕府]]による調査が行われていない[[武家]]や[[神官]]・[[僧侶]]などの寺社方、被差別階級などの統計で除外された人口を加えた推計値である。[[武士]]の人口は、[[参勤交代]]に伴う地方からの[[単身赴任]]者など、流動的な部分が非常に多く、その推定は20万人程度から100万人程度までとかなりの幅があり、最盛期の江戸の総人口も68万人から150万人まで様々な推定値が出されている。雑記等に記される同時代人の推定も50万人から200万人まで幅がある。

2010年9月11日 (土) 02:01時点における版

江戸(えど) [1]は、日本の首都・東京の旧称であり、1603年から1868年まで江戸幕府が置かれていた都市である。

江戸図屏風に見る、初期の江戸
弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図

概要

江戸は、江戸時代徳川幕府が置かれた日本の政治の中心地(行政首都)として発展した。また、江戸城徳川氏将軍の居城であり、江戸は幕府の政庁が置かれる行政府の所在地であると同時に、自身も天領を支配する領主である徳川氏(徳川将軍家)の城下町でもあった。幕末になると政治的中心が京都に移り、15代将軍徳川慶喜は将軍としては江戸に一度も居住しなかった。

1868年(明治元年)に発せられた江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書により江戸は「東京」と改称され、続く天皇の東京行幸により江戸城が東京の皇居とされた。翌年には明治新政府も京都から東京に移され、日本の事実上の首都となる。また、東京への改称とともに町奉行支配地内を管轄する東京府庁が開庁された(1871年廃藩置県に伴い新・東京府に更置)。

江戸の町を大きく分けると、江戸城の南西ないし北に広がる武家の町(山の手)と、東の隅田川をはじめとする数々の河川・堀に面した庶民の町(下町)に大別される。

歴史

徳川氏以前の江戸

江戸」という地名は、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』が史料上の初見で、おおよそ平安時代後半に発生した地名であると考えられている。

地名の由来は諸説あるが、は川あるいは入江とすると、は入口を意味するから「江の入り口」に由来したと考える説が有力である。当時の江戸は、武蔵国下総国の国境である隅田川の河口の西に位置し、日比谷入江と呼ばれる入江が、後の江戸城の間近に入り込んでいた。

江戸の開発は、平安時代後期に武蔵国の秩父地方から出て河越から入間川(現荒川)沿いに平野部へと進出してきた桓武平氏を称する秩父党の一族によって始められた。11世紀秩父氏から出た江戸重継は、江戸の桜田(のちの江戸城)の高台に居館を構え、江戸の地名をとって江戸太郎を称し、江戸氏を興す。重継の子である江戸重長1180年源頼朝が挙兵した時には、当初は平家方として頼朝方の三浦氏と戦ったが、後に和解して鎌倉幕府御家人となった。弘長元年10月3日1261年)、江戸氏の一族の一人であった地頭江戸長重正嘉の飢饉による荒廃で経営ができなくなった江戸郷前島村(現在の東京駅周辺)を北条氏得宗家に寄進してその被官となり、1315年までに得宗家から円覚寺に再寄進されていることが記録として残されている。

鎌倉幕府が滅びると、江戸氏は南北朝の騒乱において初め新田義貞に従って南朝方につき、後に北朝に帰順して鎌倉公方に仕えるが、室町時代に次第に衰え、本拠地を多摩郡喜多見(現在の東京都世田谷区喜多見)に移した。また、応永27年(1420年)紀州熊野神社の御師が書き留めた「江戸の苗字書立」によれば、さらに多摩川下流の大田区蒲田・六郷・鵜の木丸子や隅田川下流域の金杉石浜牛島、江戸郷の国府方柴崎、古川沿いの飯倉、小石川沿いの小日向、渋谷川沿いの渋谷、善福寺川沿いの中野阿佐谷にも江戸氏一族が展開した。

代わって江戸の地には、関東管領上杉氏の一族扇谷上杉家の有力な武将であり家老であった太田資長(のちの太田道灌)が入り、江戸氏の居館跡に江戸城を築く。江戸城は、一説には長禄2年(1456年)に建設を始め、翌年完成したという。太田資長は文明10年(1478年)に剃髪し道灌と号し、文明18年(1486年)に謀殺されるまで江戸城を中心に南関東一円で活躍した。道灌の時代、現在の神田川並びに日本橋川の前身である平川(平河)は日比谷入江に流れ込んでおり、西に日比谷入江、東に江戸湊(但し『東京市史稿』は日比谷入江を江戸湊としている)がある江戸前島周辺は中世には、浅草品川湊と並ぶ、武蔵国の代表的な湊であった。江戸や品川は利根川(現在の古利根川中川)や荒川などの河口に近く、北関東の内陸部から水運を用いて鎌倉・小田原西国方面に出る際の中継地点となった。

道灌の死後、扇谷上杉氏の衰亡と共に、江戸城は後北条氏の支城となった。後北条氏末期には北条氏政が直接支配して太田氏千葉氏を統率していた。支城の支配域としては、東京23区の隅田川以西・以南及び墨田区川崎市多摩地区の各々一部まで含まれている。

徳川時代の江戸

一介の地方の城下町から巨大都市への大改造を実現した人物は、徳川家康であった。

1590年後北条氏小田原の役豊臣秀吉に滅ぼされると、後北条氏の旧領に封ぜられ、開拓の命を受けた徳川家康は、関東地方の中心となるべき居城を江戸に定めた。同年の旧暦8月1日八朔)、家康は駿府から居を移すが、当時の江戸城は老朽化した粗末な城であったという。家康は江戸城本城の拡張は一定程度に留める代わりに城下町の建設を進め、神田山を削り、日比谷入江を盛んに埋め立てて町を広げ、家臣と町民の家屋敷を配置した。突貫工事であったために、埋め立て当初は地面が固まっておらず、乾燥して風が吹くと、もの凄い埃が舞い上がるという有様だったと言われる。この時期の江戸城はこれまでの本丸・二ノ丸に、西丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸があり、また道三掘平川江戸前島中央部への移設、それに伴う埋め立てにより、現在の西丸下の半分以上が埋め立られている(この時期の本城といえるのはこの内、本丸・二ノ丸と家康の隠居所として造られた西丸である)。

家康が1600年関ヶ原の戦いに勝利して天下人となり、1603年征夷大将軍に任ぜられると、幕府の所在地として江戸の政治的重要性は一気に高まり、徳川家に服する諸大名の屋敷が設けられ、江戸に居住する大名の家臣・家族や、徳川氏の旗本御家人などの武士が数多く居住するようになるとともに、彼らの生活を支える商人・職人が流入し、町が急速に拡大した。

一方、江戸城とその堀が幕府から大名に課せられた普請によって整備され、江戸城は巨大な堅城に生まれ変わり、城と武家屋敷を取り巻く広大な惣構が構築された。都市開発の歴史については後の都市の章で述べる。

愛宕山から見た江戸のパノラマ』 撮影者:ベアト 1865-1866

1657年明暦の大火の後、再建事業によって市域は隅田川を超え、東へと拡大した。その人口は絶えず拡大を続け、18世紀初頭には人口が百万人を超え、大江戸八百八町といわれる世界有数(一説によると当時世界一)の大都市へと発展を遂げた。人口の増大は、江戸を東日本における大消費地とし、日本各地の農村と結ばれた大市場、経済的先進地方である上方近畿地方)と関東地方を結ぶ中継市場として、経済的な重要性も増した。当時の江戸は、『東都歳時記』、『富嶽三十六景』にみる葛飾北斎の両国(現在の墨田区)からの作品などからも見られるように、漢風に「東都」とも呼ばれる大都市となっていた。18世紀末から19世紀初めには、上方にかわる文化的な中心地ともなり、経済活動や参勤交代を通じた江戸を中心とする人の往来は江戸から地方へ、地方から江戸へ盛んな文化の伝播をもたらした。一方で、膨大な人口が農村から江戸に流入して、様々な都市問題を引き起こすことにもなった。

江戸の人口と識字率

ロドリゴ・デ・ビベロによって1609年ごろに15万人と伝えられた江戸の人口は、18世紀初頭には100万人を超えた。1800年頃の諸都市の人口は、北京90万人、ロンドン86万人、パリ54万人であり、江戸の人口は、19世紀にロンドンに抜かれるまで世界一であったと推定されている[2]成人男性の識字率幕末には70%を超え、同時期のロンドン(20%)、パリ(10%未満)を遥かに凌ぎ、ロシア人革命家メーチニコフや、トロイア遺跡を発見したドイツ人のシュリーマンらが、驚きを以って書いている。また、武士だけではなく農民も和歌を嗜んだと言われており、その背景には寺子屋の普及があったと考えられている。その様に世界的に見れば極めて高い水準であると言うことができる。しかし、識字率100%の武士階級の人口が多いため、識字率がかさ上げされているのも間違いなく、当時、地方での識字率は20%程度だったと推定されている(それでも、世界的に見て高水準である)[3]

ただ、人口に関しては、記録に残っているのは幕末に60万人近くとなった町人人口のみであり、人口100万人とは、幕府による調査が行われていない武家神官僧侶などの寺社方、被差別階級などの統計で除外された人口を加えた推計値である。武士の人口は、参勤交代に伴う地方からの単身赴任者など、流動的な部分が非常に多く、その推定は20万人程度から100万人程度までとかなりの幅があり、最盛期の江戸の総人口も68万人から150万人まで様々な推定値が出されている。雑記等に記される同時代人の推定も50万人から200万人まで幅がある。

  • 町奉行支配下の町方・寺社方町人人口

江戸の人口の最古の記録は、『正宝事録』の註釈として記された元禄6年(1693年)6月17日の35万3588人であり、徳川綱吉が浮説雑説を唱えた者を探すために行われたものであるが、実際に人口調査の体裁が整えられたのは、徳川吉宗によって子午改(6年毎)の全国人口調査が開始された享保6年(1721年)以降であり、大岡越前守から有馬兵頭頭へ提出した書類の形式で伝えられている。徳川吉宗は享保8年(1723年)9月から享保9年(1724年)4月の間の9263人の急激な人口減少、享保10年(1725年)4月から6月の間の1万0394人の急激な人口増加に気付き、季節的な人口変動の理由を調べさせた結果、冬の火災の多さから特に子女は近隣実家等へ疎開する、春以降火災からの復興再建や土蔵の建築が増えて労働転入者も増える、などといった実態が判明している。

以下公文書の他、複数の史料に記録として残っている江戸府内の町人の人口を男女別構成とともにまとめる。江戸の範囲は随時変わっており、寺社門前地が正式に御所内に組み込まれたのは1745年以降であり、朱引・墨引という呼称ができたのは1818年以降である。また安政元年以降は新吉原・品川・三軒地糸割符猿屋町会所を含む。明治2年(1869年)4月に施行された江戸市街調査によると江戸は町地269万6000坪(8.913 km2, 15.8%)、寺社地266万1747坪 (8.799 km2, 15.6%)、武家地1169万2591坪(38.653 km2, 68.6%)より構成されていたが、この内武家地の人口は江戸時代を通じて調査より除外された。公文書の形式で残っているもの(重宝録、享保撰要類集、町奉行支配惣町人人数高之改、天保撰要類集、市中取締類集)以外は信頼度が低い。出典のうち『江戸会雑誌』や勝海舟の『吹塵録』、『江戸旧事考』、『統計学雑誌』などは明治時代中ごろにまとめられた二次的史料であり、元となる江戸時代の史料が現在では不明となっている。斜体で示した数字は (1) 他の年月に酷似した数字が登場しており、共に誤記が疑われるケース (2) 元の史料の人口に対して寺社方人口や新吉原などの計外人口を独自に加算したと推測されるケースのいずれかであり、信頼性が低い。

年月 西暦 町方並寺社門前 町方支配場 寺社門前地 出典
総数 総数 総数
元禄6年 1693 353,588 正宝事録
享保3年12月 1718 534,633 389,918 144,715 享保通鑑
享保6年11月 1721 501,394 323,285 178,109 重宝録, 吹塵録(丑年改)
享保7年3月 1722 526,211 225,700 300,511 吹塵録
享保7年4月 483,355 312,884 170,471 重宝録
享保7年9月 476,236 307,277 168,959 重宝録
享保8年4月 1723 459,842 290,279 169,563 重宝録
享保8年5月 526,317 300,510 225,807 吹塵録, 半日閑話, 千草の花, 江戸会雑誌
享保8年9月 473,840 304,686 169,154 重宝録
享保9年4月 1724 464,577 299,072 165,505 重宝録
享保9年7月 537,531 吹塵録
享保9年9月 469,343 301,018 168,325 重宝録
享保10年4月 1725 462,102 301,125 160,977 重宝録
享保10年6月 472,496 301,920 170,576 重宝録
享保10年9月 537,531 322,423 215,108 吹塵録, 江戸会雑誌
享保11年 1726 471,988 吹塵録(午年改), 江戸会雑誌
享保16年4月 1731 525,700 300,510 225,190 吹塵録, 世説海談, 松の寿, 江戸会雑誌
享保17年11月 1732 533,518 吹塵録(子年改), 江戸会雑誌
享保18年9月 1733 536,380 340,277 196,103 475,521 303,958 171,563 60,859 36,319 24,540 享保撰要類集
享保19年4月 1734 533,763 338,112 195,651 473,114 301,851 171,263 60,649 36,261 24,388 享保撰要類集
享保19年9月 528,776 335,279 193,497 468,840 299,530 169,310 59,936 35,749 24,187 享保撰要類集
享保20年4月 1735 525,700 316,700 209,000 半日閑話
享保20年9月 530,648 336,629 194,019 470,359 300,633 169,726 60,289 35,996 24,293 享保撰要類集
元文元年4月 1736 527,047 333,998 193,049 466,867 298,012 168,855 60,180 35,986 24,194 享保撰要類集
元文元年9月 527,974 467,588 60,386 36,108 24,278 享保撰要類集
元文2年 1737 526,212 300,512 225,700 吹塵録
元文3年 1738 453,594 吹塵録(午年改), 江戸会雑誌
元文3年4月 528,117 333,238 194,879 469,601 298,445 171,156 58,516 34,793 23,723 町奉行支配惣町人人数高之改
元文3年9月 526,813 332,019 194,794 468,446 297,223 171,223 58,367 34,796 23,571 町奉行支配惣町人人数高之改
寛保2年 1742 591,809 江戸旧事考
寛保2年9月 501,346 316,357 184,989 446,278 283,647 162,631 55,068 32,710 22,358 町奉行支配惣町人人数高之改
寛保3年 1743 515,122 300,013 215,109 吹塵録, 乙巳雑記上, 人別石高
寛保3年4月 501,166 316,373 184,793 448,453 285,270 163,183 52,713 31,103 21,610 町奉行支配惣町人人数高之改
延享元年 1744 460,164 吹塵録(子年改), 江戸会雑誌
526,612 225,700 300,912 護花園随筆
延享2年9月 1745 515,667 325,187 190,480 460,369 292,452 167,917 55,298 32,735 22,563 寛延奇談
延享3年 1746 515,122 310,013 205,109 松の寿
延享3年4月 504,277 317,730 186,547 446,642 283,587 163,055 57,635 34,143 23,492 寛延奇談
544,279 吹塵録, 江戸会雑誌
延享4年4月 1747 512,913 322,493 190,420 454,226 288,027 166,199 58,687 34,466 24,221 享保撰要類集
延享4年9月 513,327 322,752 190,575 453,592 287,505 166,087 59,735 35,247 24,488 享保撰要類集
寛延3年12月 1750 509,708 吹塵録(午年改), 江戸会雑誌
宝暦6年 1756 505,858 吹塵録(子年改), 江戸会雑誌
宝暦12年 1762 501,880 吹塵録(午年改), 江戸会雑誌
明和5年 1768 508,467 吹塵録(子年改), 江戸会雑誌
安永3年 1774 482,747 吹塵録(午年改), 江戸会雑誌
安永9年 1780 489,787 吹塵録(子年改), 江戸会雑誌
天明3年 1783 564,747 人別石高
天明6年 1786 457,083 吹塵録(午年改), 江戸会雑誌
寛政3年 1791 535,710 吹塵録, 半日閑話, 乙巳雑記上, 江戸会雑誌
寛政4年 1792 481,669 吹塵録(子年改), 江戸会雑誌
寛政10年5月 1798 492,449 283,163 209,286 吹塵録(午年改), 一話一言, 江戸会雑誌
享和3年正月 1803 607,100 400,918 205,119 江戸会雑誌
文化元年 1804 492,053 吹塵録(子年改), 江戸会雑誌
文化7年 1810 497,085 吹塵録(午年改), 江戸会雑誌
文化12年 1815 574,261 江戸旧事考
文化13年 1816 501,061 吹塵録(子年改), 江戸会雑誌
文政5年 1822 520,793 吹塵録(午年改), 江戸会雑誌
文政11年 1828 527,293 吹塵録(子年改), 江戸会雑誌
天保3年5月 1832 545,623 297,536 248,087 474,674 260,149 214,525 70,949 37,387 33,562 椎のみ筆, 吹塵録, 江戸会雑誌
天保5年 1834 522,754 吹塵録(午年改), 江戸会雑誌
天保11年4月 (5月) 1840 551,369 296,414 254,955 天保撰要類集
天保12年4月 (5月) 1841 563,689 306,451 257,238 天保撰要類集, 吹塵録, 江戸会雑誌
天保13年4月 1842 551,063 295,518 255,545 477,349 257,130 220,219 73,714 38,388 35,326 天保撰要類集
天保14年 1843 562,257 江戸旧事考
天保14年7月 553,257 292,352 260,905 479,103 253,820 225,283 74,154 38,532 35,622 天保撰要類集
天保14年9月 547,434 288,732 258,702 474,739 251,045 223,694 72,695 37,687 35,008 天保撰要類集(9月届出)
547,952 289,032 258,920 477,076 252,327 224,749 70,876 36,705 34,171 天保撰要類集(11月26日届出)
弘化元年4月 1844 559,497 290,861 268,636 491,905 255,793 236,112 67,592 35,068 32,524 天保撰要類集
弘化元年9月 558,761 292,320 266,441 484,472 253,997 230,475 74,289 38,323 35,966 天保撰要類集
弘化2年5月 1845 557,698 293,391 264,307 吹塵録, 松の寿, 蠧余一得三集
嘉永2年9月 1849 564,943 291,666 273,277 藤岡屋日記
嘉永3年4月 1850 559,115 288,362 270,753 藤岡屋日記
嘉永6年4月 1853 574,927 295,453 279,474 492,271 253,180 239,091 82,656 42,273 40,383 市中取締類集
嘉永6年9月 575,091 295,275 279,816 492,317 252,847 239,470 82,774 42,428 40,346 市中取締類集
安政元年4月 1854 573,619 294,028 279,591 統計学雑誌(306号)
安政元年9月 570,898 292,413 278,485 統計学雑誌(306号)
安政2年4月 1855 573,619 294,028 279,591 統計学雑誌(306号)
安政2年9月 564,544 288,402 276,142 統計学雑誌(306号)
万延元年4月 1860 557,373 282,924 274,449 統計学雑誌(306号)
万延元年9月 562,505 287,644 274,861 統計学雑誌(306号)
慶応3年4月 1867 539,618 272,715 266,903 統計学雑誌(306号)
慶応3年9月 538,463 269,902 268,561 457,066 228,959 228,107 81,397 40,943 40,454 統計学雑誌(306号), 内外新報(21号)
大田南畝 「寛政十年戊午江戸人別」 『一話一言』 巻26 (1820年); 山下重民 「江戸市街統計一班」 『江戸会雑誌』 1冊(2号) pp. 18–26(1889年); 勝海舟 「江戸人口小記」「正徳ヨリ弘化迄江戸町数人口戸数」 『吹塵録』(1890年); 小宮山綏介 「府内の人口」 『江戸旧事考』 2巻 pp. 19–23(1891年); 『日本財政経済史料』 9巻 pp. 1210–1243(1922年); 柚木重三堀江保蔵 「本邦人口表」 『経済史研究』 7号 pp. 188–210(1930年); 幸田成友 「江戸の町人の人口」 『社会経済学会誌』 8巻(1号) pp. 1–23(1938年); 鷹見安二郎 [江戸の人口の研究」 『全国都市問題会議』 第7回1(本邦都市発達の動向と其の諸問題上) pp. 59–83(1940年); 高橋梵仙 『日本人口史之研究』 三友社(1941年); 関山直太郎 『近世日本の人口構造』 吉川弘文館1958年); 南和男『幕末江戸社会の研究』 吉川弘文館(1978年)より作成。史料によって若干異なる場合は一方のみを記した。享保3年12月、享保7年3月、享保8年5月、享保9年7月、享保10年9月、享保16年4月、享保17年11月の数字を仮に町方並寺社門前の人口として扱ったが、公文書では少なくとも享保10年6月までは町方支配場の人口のみしか集計しておらず、そもそもこれらのほとんどにアナグラム的な数字の誤記が見受けられる。また『吹塵録』の「江戸人口小記」は町方並寺社門前の人口として子午年改の人口をまとめているが、『重宝録』では享保6年11月の人口を町奉行支配場のみの町人人口として記載しており、享保11年、元文3年、延享元年の数字も町奉行支配場町人人口として扱った。)

寛政10年5月(1798年)と天保11年5月(1840年)に関しては三郡(豊島郡荏原郡葛飾郡)に占める江戸の人口が知られている。

年月 西暦 内訳 総数 豊島郡内 荏原郡内 葛飾郡内 出典
寛政10年5月 1798 総数 492,449 425,124 18,679 48,646 一言一話
283,163 245,766 10,334 27,063
209,286 179,358 8,345 21,583
天保11年5月 1840 総数 551,369 459,435 19,958 71,976 天保撰要類集
296,414 248,125 10,436 37,853
254,955 211,310 9,522 34,123

江戸末期には出世地別の統計や地方に籍を置く出稼人の人口もまとめられている。

年月 西暦 町方並寺社門前町人人口 出稼人 出稼人加

算総人口

出典
総数 当地出生 他所出生 不明 総数
天保3年5月 1832 545,623 414,774 130,849 0 椎のみ筆、天保撰要類集
天保12年4月 1841 563,689 413,103 150,586 0 天保撰要類集
天保14年 1843 562,257 34,191 596,448 江戸旧事考
天保14年7月 553,257 388,185 165,072 0 34,201 25,848 8,353 587,458 天保撰要類集
天保14年9月 547,952 386,040 161,881 31 29,475 22,374 7,101 577,427 天保撰要類集
天保14年9月 547,434 378,885 168,549 0 29,476 22,437 7,039 576,910 天保撰要類集
弘化元年4月 1844 559,497 401,121 158,321 55 24,092 19,142 4,950 583,589 天保撰要類集
弘化元年9月 558,761 401,363 157,333 65 21,650 17,044 4,606 580,411 天保撰要類集
嘉永2年9月 1849 564,943 11,594 9,701 1,893 562,657 藤岡屋日記
嘉永3年4月 1850 559,115 414,686 144,231 198 10,434 8,679 1,755 569,549 藤岡屋日記
嘉永6年4月 1853 574,927 9,265 7,686 1,579 584,192 市中取締類集
嘉永6年9月 575,091 430,871 143,919 301 9,075 7,534 1,541 584,166 市中取締類集
安政元年4月 1854 573,619 432,022 141,264 333 8,515 7,026 1,489 582,134 統計学雑誌(306号)
安政元年9月 570,898 429,917 140,637 344 8,306 6,869 1,437 579,204 統計学雑誌(306号)
安政2年4月 1855 573,619 432,022 141,264 333 8,515 7,026 1,489 582,134 統計学雑誌(306号)
安政2年9月 564,544 426,774 137,431 339 7,979 6,609 1,370 572,523 統計学雑誌(306号)
万延元年4月 1860 557,373 428,367 128,584 422 6,393 5,113 1,280 563,766 統計学雑誌(306号)
万延元年9月 562,505 425,169 137,004 332 8,021 6,636 1,385 570,526 統計学雑誌(306号)
慶応3年4月 1867 539,618 421,711 117,407 500 4,692 3,642 1,050 544,310 統計学雑誌(306号)
慶応3年9月 538,463 421,023 116,926 514 4,616 3,597 1,019 543,079 統計学雑誌(306号)

公文書で出稼人を加えた町人人口が最大(58万7458人)となったのは天保14年7月(1843年)であり、出稼人を除いた町人人口が最大(57万5901人)となったのは嘉永6年9月(1853年)のことである。但し『江戸旧事考』は出稼人を加えた町人人口が最大となった天保14年の人口を59万6448人とし(内訳等の数字は公文書の天保14年7月のものと似ている)、出稼人を除いた町人人口が最大になった数字として100年前の寛保二年(1742年)の59万1809人を挙げている(『江戸旧事考』の数字は多くの場合計外人口を加算しているものと思われる)。また『江戸会雑誌』は享和3年正月(1803年)の数字として60万7100人を挙げている(但し男性の人口を誤って10万人多く記載していると思われる)。江戸は地方から下向者が多く、江戸時代中期には男性が女性の倍近くいたが、末期には男女差がかなり解消された。

このほか大田南畝の『半日閑話』、岩瀬京山の『蜘蛛の糸』、『乙巳雑記上』などは、天明6年10月20八日(1786年)または天明7年5月25日以降(1787年)に江戸の町人の人口が100万人を超える128万5300人であったと伝えている。また天保8年(1837年)の人口として128万4815人という数字も伝わっている。共に災害の直後の非常時であったため、これらが武家人口を含めた真の江戸の人口であるとする解釈があるが、(1) 男女比が逆転している (2) 50年隔てた両年の人口や後述の計外人口の構成が酷似しているなど信頼性が低い。

年月 西暦 総数 出典
天明6年10月28日 1786 1,285,300 587,800 690,500 半日閑話(数字は原文ママ)
1,285,300 587,800 697,100 乙巳雑記上(数字は原文ママ)
天明7年5月 1787 1,285,300 587,800 697,500 蜘蛛の糸
天保8年 1837 1,284,815 587,810 697,005 出典不明(三田村鳶魚?)
天保8年10月 1,287,800 589,800 688,000 浮世の有様(数字は原文ママ)
  • 新吉原、神官・僧侶の人口

新吉原は1657年の明暦の大火の際に江戸郊外に作られた居住地区であったが、安政元年よりも前は町奉行の支配下に入っておらず、江戸御府内人口の統計から除外されてきた。また神官・僧侶は特殊階級とみなされ、人口の統計から除外されている。以下複数の雑記に記録されている計外人口を列挙するが、時代を超えて数字が酷似していることから、数点の元史料をもとに数字が伝えられ、誤記により変化した考えられる。 寺社方人口として一番控えめな数字を採用すると約4万人程度となる。また新吉原の人口は約1万人程度である。

年月 西暦 新吉原 寺社方 出典
出家

(沙門)

山伏

(修験者)

禰宜

(社人, 神主)

比丘尼 大神楽荒

神仏神子

盲人

(座頭)

享保6年 1721 37,095 6,075 9,006 享保通鑑
享保7年3月 1722 36,096 6,015 903 1,000 吹塵録
享保8年5月 1723 8,163 26,097 7,075 903 7,030 半日閑話
8,161 26,097 6,075 1,910 享保通鑑
8,161 36,095 6,075 903 1,010 千草の花
享保9年5月 1723 7,125 36,025 6,075 9,003 1,010 柳烟雑記
享保9年7月 8,679 20,390 4,275 903 6,723 5,836 吹塵録
享保16年 1731 11,960 26,005 3,075 900 吹塵録
8,960 26,000 3,075 900 世説海談
享保20年4月 1735 8,960 26,005 3,075 900 半日閑話
元文2年 1737 30,695 675 903 1,010 吹塵録
寛保3年 1743 8,679 36,695 4,277 6,723 5,831 1,289 吹塵録
8,679 36,695 4,277 5,843 6,722 5,831 1,284 享和雑記
8,679 36,695 4,277 5,843 6,723 5,837 1,283 乙巳雑記上
12,584 36,695 4,274 5,821 6,721 5,831 1,284 延享世話
延享元年 1744 8,062 護花園随筆
天明6年10月 1786 14,500 53,439 7,230 3,580 3,840 乙巳雑記上
天明6年10月28日 14,500 52,430 7,230 3,580 3,840 半日閑話
天明7年5月 1787 14,500 52,430 7,230 3,580 3,840 蜘蛛の糸
寛政3年 1791 8,940 26,090 3,081 900 半日閑話, 甲子夜話, 乙巳雑記上
享和3年正月 1803 8,896 江戸会雑誌
天保8年10月 1837 15,700 54,805 7,230 3,580 3,844 浮世の有様
  • 寺社門前町支配下の農民、町人の人口

御府内の範囲は時代によって異なり、特に寺社門前町の取り扱いについては幕府役人の間でも問い合わせがあった。実際朱印内であってもかなりの農地が武家屋敷とともに存在した。そのため町奉行支配下の町人人口として計上されている寺社門前地の人口には、農地に点在する農民、一部町人の人口が含まれていないとする解釈がある。鷹見安二郎(1940年)によると住宅密集地区外に点在する民家は文政年間で約9500戸程度と見積もられ、約4万3500人程度である。

  • 被差別階級の人口
年月 西暦 合計 弾左衛門車善七

松右衛門手下

当日寄非人 出典
元禄5年 1692 5,366 4,329 1,037 日本財政経済史料(6巻)
享保2年2月 1717 8,004 6,854 1,150 江戸会誌(2冊10号)
元禄7年 1722 5,373 未開放部落の研究
享保7年4月 7,842 江戸会誌(2冊10号)
延享元年10月 1744 11,563 江戸会誌(2冊10号)
延享2年3月 1745 10,148 7,091 3,057 江戸会誌(2冊10号)
寛延3年12月 1750 7,442 6,836 606 江戸会誌(2冊10号)
明和8年9月 1771 10,118 4,766 5,352 江戸会誌(2冊10号)
安永6年6月 1777 6,222 4,209 1,813 江戸会誌(2冊10号)
天明6年10月 1786 10,760 3,785 6,975 江戸会誌(2冊10号)
天保5年3月 1834 11,800 5,709 6,091 江戸会誌(2冊10号)
天保6年9月 1835 12,500 5,587 6,913 江戸会誌(2冊10号)
天保8年2月 1837 13,266 5,505 7,761 江戸会誌(2冊10号)
天保12年 1841 5,632 法政理論(1巻2号)
天保13年1月 1842 6,430 旧幕引継書
嘉永3年 1850 10,008 5,157 4,851 江戸会誌(2冊10号)
慶応元年 1865 10,293 5,460 4,833 江戸会誌(2冊10号)
  • 武士及び使用人の人口

武家屋敷に使用人として住む町人の人口は、幕府の管理下になかったため、江戸の人口統計から除外されている。また軍事機密保持なども理由に、武士階級全体の人口がそもそも統計として残っていない。いくつかの雑記は江戸在中の武士の人口として2億人を超える荒唐無稽な数値(享保17年4月(1732年): 2億3698万7950人(『月堂見聞集』)、享保20年(1735年):2億3608万5950人(『半日閑話』)、寛政3年(1743年)及び文化12年(1815年):2億3658万0390人(『甲子夜話』))を記載しているが、唯一『土屋筆記』は御屋敷方の人口として70万0973人(年次不明)という比較的現実的な人口を伝えている。また『柳烟雑記』は享保9年5月(1723年)の武家人口として、大名264人、旗本5205人、御目見以下1万7004人、与力・同心並びに六尺・下男3万0909人、その他487人と伝えている。

小宮山綏介1891年)は、『柳烟雑記』の統計を元に諸藩の在府者と家族の人口を12万1100人、旗本御家人と家族の人口を8万3403人、その家来・従事者5万8936人、合計約26万人程度と推定している。また天保14年の調査に対しては、合計約30万人程度と推定している。一方鷹見安二郎(1940年)は明治初年の華族・士族人口や石高の統計などをもとに、諸藩の在府者と家族の人口を約36万人、幕府配下の武家と家族の人口を約26万人、合計約62万人と推定している。関山直太郎(1958年)は、旗本御家人と家族約11万5千人、その家来・従属者約10万人、諸藩の在府者と家族約18万人、幕府直属の足軽・奉公人等約10万人、合計約50万人と推定している。過去の人口推定値として海外でしばしば引用されるTertius Chandler(1987年)は、町奉行支配下の町人人口の3/8程度を武士人口とし、18万8千人(1701年)から約21万5千人(1854年)と見積もっている。

江戸から東京へ

1868年戊辰戦争が起こり、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れると、軍の大軍が江戸に迫り、江戸は戦火に晒される危険に陥った。幕臣勝海舟は早期停戦を唱えて薩長軍を率いる西郷隆盛と交渉、最後の将軍徳川慶喜は江戸城の無血開城し降伏、交戦派と官軍の間の上野戦争を例外として、江戸は戦火を免れた(江戸無血開城)。

同年、江戸は東京と改名され、翌1869年には東京城(江戸城)に行幸した明治天皇が入って「皇城」とされて、かつての将軍の居住する都市・江戸は、天皇の行在する都市・東京となった(東京奠都)。東京の町並が東京市東京都へと変遷しつつ拡大してゆく過程で、かつての江戸は都心となり、その中核としての役割を果たしている。

以下明治初年の朱印内(後の東京市15区よりやや狭い範囲に相当)の人口を示す。明治以降は全身分の人口を含む。備考欄の東京府全域(現在の東京23区にほぼ相当)の本籍、現住人口は『日本帝国静態人口統計』による。

年月 西暦 本籍人口 現住人口 出典 調査範囲・備考
総数 総数
明治2年1月1日 1869 674,447 府藩県石高人口表 東京

(当時の東京府は旧朱印地内にほぼ相当)

明治2年3月16日 503,703 260,936 242,767 東京市史稿 朱印内市街地五十番区

(武家地・寺社地を除く)

明治5年1月29日 1872 494,146 249,310 244,836 壬申戸籍本籍人口 朱印内六大区 (拡大後の東京府全域の本籍、

現住人口はそれぞれ77万9361人、85万9345人)

明治5年 507,015 578,290 299,006 244,836 東京府志料 朱印内六大区
明治6年1月1日 1873 513,305 256,888 256,417 595,905 310,050 285,855 日本地誌提要 朱印内六大区 (東京府全域の本籍、

現住人口はそれぞれ81万3504人、88万7322人)

明治7年1月1日 1874 593,673 東京府統計表 朱印内六大区 (東京府全域の本籍、

現住人口はそれぞれ83万0935人、93万2458人)

明治8年1月1日 1875 (東京府全域の本籍、現住人口はそれぞれ85万5270人、98万6091人)
明治9年1月1日 1876 716,728 370,056 346,672 東京府統計表 朱印内六大区 (東京府全域の本籍、

現住人口はそれぞれ87万3646人、102万7517人)

都市

江戸の範囲

江戸の墨引き(≒明治期の朱引き)の範囲を引き継いだ明治期の東京市街(1888年)。江戸城の東、現在の丸の内東京駅付近を中心とする半径4kmほどの円状を為す。

江戸の地名で呼ばれる地域は、江戸御府内ともいったが、その範囲は時期により、幕府部局により異なっていた。一般に江戸御府内は町奉行の支配範囲と理解された。その支配地は拡大していった。寛文2年(1662)に街道筋の代官支配の町や300町が編入され、正徳3年(1713)には町屋が成立した場所259町が編入された。さらに、延享2年(1745)には寺社門前地440カ所、境内227町が町奉行支配に移管された。この町奉行の支配範囲とは別に御府内の範囲とされた御構場の範囲、寺社奉行が勧化を許す範囲、塗り高札場の掲示範囲、旗本・御家人が御府外に出るときの範囲などが決められた。これらの御府内の異同を是正するため、文政元年(1818)に絵図面に朱線を引き、御府内の範囲を確定した。これにより御府内の朱引内(しゅびきうち)とも称するようになった。[4] 元々は平安時代に存在した荏原郡桜田郷(江戸城の西南)の一部であったが、やがて豊島郡江戸郷と呼ばれるようになっていた。

江戸時代初期における江戸の範囲は、現在の東京都千代田区とその周辺であり、江戸城の外堀はこれを取り囲むよう建造された。明暦の大火以後、その市街地は拡大。通称「八百八町」と呼ばれるようになる。1818年、朱引の制定によって、江戸の市域は初めて正式に定められることになった[5]。今日「大江戸」としてイメージされるのは、一般にこの範囲である[6]

江戸の市街地の拡大 (内藤昌 「江戸―その築城と都市計画―」 月刊文化財 175号(1978年))
年号 西暦 総面積 武家地 町人地 寺社地 その他
正保年中 1647年頃 43.95 km2 34.06 km2
(77.4%)
4.29 km2
(9.8%)
4.50 km2
(10.3%)
1.10 km2
(2.5%)
寛文10~13年 1670~1673年 63.42 km2 43.66 km2
(68.9%)
6.75 km2
(10.6%)
7.90 km2
(12.4%)
5.1 km2
(8.1%)
享保10年 1725年 69.93 km2 46.47 km2
(66.4%)
8.72 km2
(12.5%)
10.74 km2
(15.4%)
4.00 km2
(5.7%)
慶応元年 1865年 79.8 km2 50.7 km2
(63,5%)
14.2 km2
(17.8%)
10.1 km2
(12.7%)
4.8 km2
(6.0%)
明治2年 1869年 56.36 km2 38.65 km2
(68.6%)
8.92 km2
(15.8%)
8.80 km2
(15.6%)

以下に江戸に含まれる主な歴史的地名をあげる。

元々、徳川家康自身が駿府に本拠を置き出世した大名であったので、駿河系の地名が、江戸には多く移植されている(例:秋葉原 駿河の隣国、遠江秋葉神社に由来)。

実際には、既に触れたように江戸の地は平安時代末期から関東南部の要衝であった。確かに徳川氏の記録が伝えるように、後北条氏時代の江戸城は最重要な支城とまではみなされず城は15世紀の粗末なつくりのまま残されていたが、関八州の首府となりうる基礎はすでに存在していた。

しかし、江戸が都市として発展するためには、日比谷入江の東、隅田川河口の西にあたる江戸前島と呼ばれる砂州を除けば、城下町をつくるために十分な平地が存在しないことが大きな障害となる。そこで徳川氏は、まず江戸城の大手門から隅田川まで道三堀を穿ち、そこから出た土で日比谷入江の埋め立てを開始した。道三堀は墨田川河口から江戸城の傍まで、城の建造に必要な木材や石材を搬入するために活用され、道三堀の左右に舟町が形成された。また、元からあった平地である今の常盤橋門外から日本橋の北に最初の町人地が設定された(この時と時期を同じくして平川の日比谷入江から江戸前島を貫通する流路変更が行われたと思われる)。これが江戸本町、今の日本銀行本店や三越本店がある一帯である。さらに元からあった周辺集落である南の、北の浅草や西の赤坂、牛込、麹町にも町屋が発展した。この頃の江戸の姿を伝える地図としては『別本慶長江戸図』が知られている。

江戸中心部の主要な門と橋、寺社。青部分は江戸を敵から守る堀と神田川、隅田川。

江戸は「の」の字形に設計された[7]ことが一般の城下町と比べて特異であるといわれる。 つまり、江戸城の本城は大手門から和田倉門、馬場先門、桜田門の内側にある本丸、二の丸、西の丸などの内郭に将軍、次期将軍となる将軍の世子、先代の将軍である大御所が住む御殿が造られ、その西にあたる半蔵門内の吹上に将軍の親族である御三家の屋敷が置かれた。内城の堀の外は東の大手門下から和田倉門外に譜代大名の屋敷、南の桜田門の外に外様大名の屋敷と定められ、西の半蔵門外から一ツ橋門、神田橋門外に至る台地に旗本御家人が住まわされ、さらに武家屋敷地や大名屋敷地の東、常盤橋・呉服橋・鍛冶橋・数寄屋橋から隅田川、江戸湾に至るまでの日比谷埋立地方面に町人地が広げられた。これを地図で見るとちょうど大手門から数寄屋橋に至るまでの「の」の字の堀の内外に渦巻き上に将軍・親藩・譜代・外様大名・旗本御家人・町人が配置されている形になる。巻き貝が殻を大きくするように、渦巻き型に柔軟に拡大できる構造を取ったことが、江戸の拡大を手助けした。

家康の死後、二代将軍徳川秀忠は、江戸の北東の守りを確保するため、小石川門の西から南に流れていた平川をまっすぐ東に通す改修を行った。今の水道橋から万世橋(秋葉原)の間は本郷から駿河台まで伸びる神田台地があったためこれを掘り割って人口の谷を造って通し、そこから西は元から神田台地から隅田川に流れていた中川の流路を転用し、浅草橋を通って隅田川に流れるようにした。これが江戸城の北の外堀である神田川である。この工事によって平川下流であった一ツ橋、神田橋、日本橋を経て隅田川に至る川筋は神田川(平川)から切り離され、江戸城の堀となった。この堀が再び神田川に接続され、神田川支流の日本橋川となるのは明治時代のことである。

更に3代将軍徳川家光はこれまで手薄で残されてきた城の西部外郭を固めることにし、溜池や神田川に注ぎ込む小川の谷筋を利用して溜池から赤坂、四ッ谷、市ヶ谷を経て牛込に至り、神田川に接する外堀を造らせた。全国の外様大名を大動員して行われた外堀工事は1636年に竣工し、ここに御成門から浅草橋門に至る江戸城の「の」の字の外側の部分が完成した。

城下町において武家地、町人地とならぶ要素は寺社地であるが、江戸では寺社の配置に風水の思想が重視されたという。そもそも江戸城が徳川氏の城に選ばれた理由の一因には、江戸の地が当初は北の玄武麹町台地、東の青龍平川、南の朱雀日比谷入江、西の白虎東海道、江戸の拡大後は、玄武に本郷台地、青龍に大川(隅田川)、朱雀に江戸湾、白虎に甲州街道四神相応に則っている点とされる[8]。関東の独立を掲げた武将で、代表的な怨霊でもある平将門を祭る神田明神は、大手門前(現在の首塚周辺)から、江戸城の鬼門にあたる駿河台へと移され、江戸惣鎮守として奉られた。また、江戸城の建設にともなって城内にあった山王権現(現在の日枝神社)は裏鬼門である赤坂へと移される。更に、家康の帰依していた天台宗の僧天海が江戸城の鬼門にあたる上野忍岡を拝領、京都の鬼門封じである比叡山に倣って堂塔を建設し、1625年寛永寺を開山した。寛永寺の山号は東叡山、すなわち東の比叡山を意味しており、寺号は延暦寺と同じように建立時の年号から取られている。

江戸は海辺を埋め立てて作られた町のため、井戸を掘っても真水を十分に得ることができず、水の確保が問題となる。そこで、赤坂に元からあった溜池が活用されると共に、井の頭池を水源とする神田上水が造られた。やがて江戸の人口が増えて来るとこれだけでは供給し切れなくなり、水不足が深刻になって来た。このために造られた水道1653年完成の玉川上水である。水道は江戸っ子の自慢の物の一つで、「水道の水を産湯に使い」などと言う言葉がよく使われる。

1640年には江戸城の工事が最終的に完成し、江戸の都市建設はひとつの終着点に達した。しかし、1657年明暦の大火が起こると江戸の町は大部分が焼亡し、江戸城天守も炎上してしまった。幕府はこれ以降、火事をできるだけ妨げられるよう都市計画を変更することになった。これまで吹上にあった御三家の屋敷が半蔵門外の紀尾井町に移されるなど大名屋敷の配置換えが行われ、類焼を防ぐための火除地として十分な広さの空き地や庭園が設けられた。

大名屋敷が再建され、参勤交代のために多くの武士が滞在するようになると、彼らの生活を支えるため江戸の町は急速に復興するが、もはや外堀内の江戸の町は狭すぎる状態だった。こうして江戸の町の拡大が始まり、隅田川の対岸、深川・永代島まで都市化が進んでいった。南・西・北にも都市化の波は及び、外延部の上野浅草が盛り場として発展、さらに外側には新吉原遊郭が置かれていた。

神社仏閣

神社

寺院

江戸近郊

江戸の生活と文化

娯楽

『目黒新富士』(名所江戸百景より。歌川広重:江戸後期)視界の開けた場所から望む富士に江戸の住人は親しみ、浮世絵富士講をはじめ多くの文化の対象となった。これは目黒に二つあった富士塚のうちの一方、新富士(現存せず)と富士山を描いたもの。
市村座での『青砥稿花紅彩画(白浪五人男)』より稲瀬川勢揃いの場(歌川豊国:1862年(文久2年))。江戸時代の町人文化を代表する歌舞伎。本作の時代には作者河竹黙阿弥が活躍し、江戸歌舞伎が隆盛を極めた。

服装

諺・故事成語

(火事のときは周りの家を倒して広がるのを防いだ。木造建築なので火が移りやすいため。)

  • 江戸の敵を長崎で討つ
  • 江戸っ子は宵越しの銭は持たぬ
  • 江戸っ子は5月の鯉の吹き流し
  • 江戸っ子の梨を食うよう
  • 江戸っ子の初もの食い
  • 江戸っ子の産れ損なひ金を貯め

                                      

江戸を題材にした作品

小説

随筆

映画・テレビドラマ

その他多数あり。

小江戸

川・堀の水路網と蔵は江戸を象徴する町並の特徴であり、蔵造りの町並が残された川越市栃木市佐原市などの関東地方の河港都市は、江戸に似た構造という点や江戸と交流が深かったという点から「小江戸」と呼ばれている。

脚注

  1. ^ 外国語では、Edo、Yedo、Yeddo、Yendo、Jedoなど諸表記あり
  2. ^ [1]
  3. ^ 高札等で所謂『御触書』を公表したり、『瓦版』や『貸本屋』等が大いに繁盛した事実から、大半の町人は文字を読む事が出来たと考えられている。
  4. ^ 竹内誠・古泉弘・池上裕子・加藤貴・藤野敦『東京都の歴史』山川出版 2003年 168-170頁
  5. ^ 江戸の範囲 (レファレンスの杜) 『東京都公文書館 研究紀要』(第4号)、p45-48、平成14年3月
  6. ^ 江戸の市街地の広がりと「大江戸」 (シリーズ・レファレンスの杜) 『東京都公文書館だより』 第6号、p6、東京都公文書館発行、平成17年3月
  7. ^ 内藤昌氏説
  8. ^ 柳営秘鑑
  9. ^ 江戸食文化紀行

外部リンク

関連項目

関連書籍

  • 谷畑美帆 『江戸八百八町に骨が舞う』人骨から解く病気と社会 吉川弘文館 (2006年)ISBN 4642056130
  • 鈴木理生 『江戸の橋』 三省堂 ISBN 4-385-36261-0
  • 矢田挿雲 『江戸から東京へ』 全9巻、中公文庫、新版1999年
  • 江戸名所図会』 全8巻、ちくま学芸文庫 1997年、2009年復刊
  • 川田寿 『江戸名所図会を読む』 正続 東京堂出版 1990. 95年
  • スーパームックCG日本史シリーズ/CG再現 3江戸の暮らし(07/9) 5江戸の風景(08/1) 7江戸の遊び(08/4) 9大奥と江戸の女たち(08/9/25) 17大江戸事件帳(09/4) 双葉社