「サンフランシスコ」の版間の差分
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|正式名称 = サンフランシスコ |
|正式名称 = サンフランシスコ |
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'''サンフランシスコ'''('''{{lang-en|City and County of San Francisco}}''')は、[[アメリカ合衆国]]西海岸にある、[[カリフォルニア州]]の北部に位置する[[都市]]であり、[[アメリカ西海岸]]を代表する[[グローバル都市]]である。 |
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[[アメリカ合衆国]] > [[カリフォルニア州]] > '''サンフランシスコ''' |
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'''サンフランシスコ'''('''{{lang-en|City and County of San Francisco}}''')は、[[アメリカ合衆国]]西海岸にある、[[カリフォルニア州]]の北部に位置する[[都市]]であり、[[アメリカ西海岸]]を代表する[[世界都市]]である。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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[[キリスト教]]の[[フランシスコ会]]の[[修道士]]が創設者の[[アッシジのフランチェスコ|聖フランシスコ]]を街の名に付けたのが地名の由来である。漢字では、'''桑港'''や'''旧金山'''と表記される。'''桑港'''は、「サンフランシスコ」を音訳した「桑方西斯哥」(現代中国語[[普通話]]ではSāngfāngxīsīgē(サンファンシースーコー)の発音になる)の頭文字「桑」(サン)に、[[港町]]である事を示す「港」を加えたものである。この漢字表記は、現地の[[日系]]社会でも使われるため、商店や[[日本語学校]]などの名称によく見られる。ジャパンタウン(日本人街)にある曹洞宗の寺院「日本山桑港寺(そうこうじ)」はその代表である。一方の'''旧金山'''は、[[1849年]]に起こった[[ゴールドラッシュ]]にちなんだ名称である(「新金山」は[[メルボルン]]を指す)。現地の中国系社会では、桑港と同様に「サンファン」の音を当てはめた'''三藩'''が'''旧金山'''よりも多用される傾向があり、市当局も中文での名称を'''三藩市'''としている。<ref>例:SFMTA中文ページ[http://www.sfmta.com/cms/zhome/ChineseSFMTAHome.htm Chinese SFMTA Home]</ref> |
[[キリスト教]]の[[フランシスコ会]]の[[修道士]]が創設者の[[アッシジのフランチェスコ|聖フランシスコ]]を街の名に付けたのが地名の由来である。漢字では、'''桑港'''や'''旧金山'''と表記される。'''桑港'''は、「サンフランシスコ」を音訳した「桑方西斯哥」(現代中国語[[普通話]]ではSāngfāngxīsīgē(サンファンシースーコー)の発音になる)の頭文字「桑」(サン)に、[[港町]]である事を示す「港」を加えたものである。この漢字表記は、現地の[[日系]]社会でも使われるため、商店や[[日本語学校]]などの名称によく見られる。ジャパンタウン(日本人街)にある曹洞宗の寺院「日本山桑港寺(そうこうじ)」はその代表である。一方の'''旧金山'''('''舊金山''')は、[[1849年]]に起こった[[カリフォルニア・ゴールドラッシュ]]にちなんだ名称である。当初この地に労働者としてきた華人たちはサンフランシスコを「金山」と呼んだが、後に[[オーストラリア]]・[[ビクトリア州]]など他の地域でも[[ゴールドラッシュ]]が起きるとサンフランシスコは旧金山と呼ばれるようになった(「新金山」は[[メルボルン]]を指す)。現地の中国系社会では、桑港と同様に「サンファン」の音を当てはめた'''三藩'''が'''旧金山'''よりも多用される傾向があり、市当局も中文での名称を'''三藩市'''としている。<ref>例:SFMTA中文ページ[http://www.sfmta.com/cms/zhome/ChineseSFMTAHome.htm Chinese SFMTA Home]</ref> |
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アメリカの他地域では頭文字の「SF」や「フリスコ(Frisco)」愛称・略称で呼ばれることが多い。または「サンフラン」(San-Fran)との略称で呼ばれることもある。日本では、特に(航空機での渡航の対象として)「シスコ」の略称で呼ばれることも多い。地元とベイエリア周辺では単純に愛情を込めて「the city」と呼ばれることが多い。 |
アメリカの他地域では頭文字の「SF」や「フリスコ(Frisco)」愛称・略称で呼ばれることが多い。または「サンフラン」(San-Fran)との略称で呼ばれることもある。日本では、特に(航空機での渡航の対象として)「シスコ」の略称で呼ばれることも多い。地元とベイエリア周辺では単純に愛情を込めて「the city」と呼ばれることが多い。 |
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[[ロサンゼルス]]と共にカリフォルニア経済 |
[[ロサンゼルス]]と共にカリフォルニア経済、工業の中心地として知られており、[[金融センター]]として[[アメリカ西海岸]]では随一の重要性を持っている<ref>[http://www.zyen.com/GFCI/GFCI%208.pdf The Global Financial Centres Index 8]</ref>。サンフランシスコ自体の人口は776,733人(2000年国勢調査)だが、対岸の[[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]などを含めた都市圏([[:en:United States metropolitan area|MSA]])の人口は4,123,747人にも上り、全米第12位の規模。更に南岸の[[サンノゼ]]を加えた[[サンフランシスコ・ベイエリア]]全体の人口は7,092,596人で広域都市圏([[:en:Combined Statistical Area|CSA]])として全米6番目の規模である。(いずれも2000年国勢調査)それゆえに大規模な[[ダウンタウン]]が形成されており、近代的なビルが建ち並ぶ。[[シリコンバレー]]や[[カリフォルニア大学バークレー校]]にも近く、コンピュータ系の企業も多い。 |
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サンフランシスコの気候は[[地中海性気候]]に属し、一年中気温の差があまり無く、気候的にも住みやすい都市である。急な坂や深い[[霧]]に覆われる場合が多いことでも有名である。都市部から13[[マイル]]ほど南下すると、[[サンフランシスコ国際空港]]がある。 |
サンフランシスコの気候は[[地中海性気候]]に属し、一年中気温の差があまり無く、気候的にも住みやすい都市である。急な坂や深い[[霧]]に覆われる場合が多いことでも有名である。都市部から13[[マイル]]ほど南下すると、[[サンフランシスコ国際空港]]がある。 |
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観光地としての評価も非常に高い都市であり、外国人のみならず、アメリカ人の間でも訪れたい都市の上位にランクされている。有名な観光スポットとして[[ゴールデンゲートブリッジ]](金門橋)や[[フィッシャーマンズワーフ (サンフランシスコ)|フィッシャーマンズワーフ]]、[[ツインピークス]]等が挙げられる。市内を走る伝統ある[[ケーブルカー]]も人気が高い。 |
観光地としての評価も非常に高い都市であり、外国人のみならず、アメリカ人の間でも訪れたい都市の上位にランクされている。有名な観光スポットとして[[ゴールデンゲートブリッジ]](金門橋)や[[フィッシャーマンズワーフ (サンフランシスコ)|フィッシャーマンズワーフ]]、[[ツインピークス]]等が挙げられる。市内を走る伝統ある[[ケーブルカー]]も人気が高い。 |
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[[2010年]]、アメリカの外交専門誌フォーリンポリシーにより、サンフランシスコは世界第12位の[[グローバル都市#グローバル都市インデックス|グローバル都市]]に選ばれている<ref>[http://www.foreignpolicy.com/articles/2010/08/11/the_global_cities_index_2010]</ref>。北米では、[[ニューヨーク]]、[[シカゴ]]、[[ロサンゼルス]]に次いで、第4位である。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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[[ファイル: Mission San Francisco de Asis old.jpg|thumb|left|サンフランシスコ・ド・アッシス伝道所]] |
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もともとは「[[コスタノ族]]」(沿岸の人たち)とスペイン人が名づけた[[インディアン]]部族[[オーロネ族]]の生活圏だった。サンフランシスコは現在のミッション地区にあったヤーバブエナという町が発祥である。[[1776年]]に[[サンディエゴ]]から陸路を北上してきた[[スペイン]]探検隊が、天然の良港であった[[サンフランシスコ湾]]と[[ゴールデンゲート海峡]]を「発見」し、この地に住むインディアンたちを「コスタノ族」と名付け、その湾の入口に砦を築き集落を形成した。その後、神父セラは[[カトリック教会|カトリック]]の伝道所を設けた。[[1821年]]の[[メキシコ]]独立によってその領土となり、メキシコやアジア貿易の拠点、また[[捕鯨]]基地として発展した。[[1846年]]、[[アメリカ合衆国]]はこの町をメキシコから獲得し、[[1847年]]にサンフランシスコと改称した。そして[[1848年]]、[[シエラネバダ山脈 (アメリカ合衆国)|シエラネバダ山脈]]で[[金]]鉱脈を発見、[[ゴールドラッシュ]]によって急成長し、多数のインディアン部族が土地を奪われて虐殺され、[[ヤヒ族]]などは絶滅させられてしまった。ゴールドラッシュ以前の[[1848年]]の人口は800人だったが、ゴールドラッシュの起こった[[1849年]]を境に急速に人口が増え、[[1860年]]には6万人に至った。その後港湾都市、物資の集散地として、合衆国西部の商業、行政、文化の中心地となる一方、非常に多様な人種構成と、バーバリー・コースト地区に代表される治安の悪さでも有名になった。 |
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この土地に人が居住していた最古の痕跡は、紀元前3000年に遡る<ref>{{cite web | url=http://www.sonoma.edu/asc/projects/pointreyes/overview2.pdf | title=Archaeological Research Issues For The Point Reyes National Seashore - Golden Gate National Recreation Area | accessdate=2008-06-12 | last=Stewart | first=Suzanne B. | year= 2003 | month=12 | format=PDF | publisher=Sonoma State University - Anthropological Studies Center}}</ref>。ガスパル・デ・ポルトラ率いる[[スペインによるアメリカ大陸の植民地化|スペイン人の入植者]]が1769年11月2日に到達したのが、記録されている中ではヨーロッパ人による最初の[[サンフランシスコ湾]]到達であるが、それまで、[[インディアン]]部族[[オーロネ族]]のグループがいくつかの小さな村に分かれて住んでいる状態であった<ref name="Portola">{{cite web | title= Visitors: San Francisco Historical Information | url= http://www.sfgov.org/site/visitor_index.asp?id=8091 | date= n.d. | accessdate=2008-06-10 | publisher = City and County of San Francisco}}</ref>。その7年後の1776年3月28日、スペイン人によって{{仮リンク|サンフランシスコ要塞|en|Presidio of San Francisco}}が築かれ、続いてサンフランシスコ・デ・アッシス伝道所が建設された。 |
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1821年、スペインからの[[メキシコ独立革命]]により、この地は[[メキシコ]]の一部となった。メキシコの統治の下、伝道所の制度は徐々に廃止され、その土地は民営の牧場に転換されていった。1835年、イギリス人ウィリアム・リチャードソンが現在のポーツマス・スクエアに当たる船着場近くに初めて独立の自作農場を作った<ref name="Richardson">{{cite web |
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[[1869年]]には[[大陸横断鉄道]]が開通、その拠点として重要性を持ち、同時に[[アジア]]から多くの移民が訪れた。まずは中国人、そして[[日本人]]も多く入植し、[[1891年]]に全米初の[[日本人会]]が結成された。それに伴い、多くの移民街が誕生する。 |
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| last = The Virtual Museum of the City of San Francisco | title = From the 1820s to the Gold Rush | date = 2004-07-16 | url = http://www.sfmuseum.org/hist1/early.html |
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| accessdate = 2008-06-13 | publisher = The Virtual Museum of the City of San Francisco}}</ref>。彼は、フランシスコ・デ・ハロ市長とともに街路計画を立て、ヤーバ・ブエナと名付けられたこの街にアメリカの入植者が集まってくるようになった。[[米墨戦争]]中の1846年7月7日、アメリカ軍のジョン・スロート[[代将 (アメリカ海軍)|代将]]がカリフォルニアをアメリカの領土と宣言した。翌1847年、ヤーバ・ブエナはサンフランシスコと改名され<ref>{{cite web | url = http://www.yerbabuenagardens.com/history.html | title = History of Yerba Buena Gardens | accessdate = 2008-06-13 | publisher = MJM Management Group | year = 2004}}</ref>、メキシコは[[グアダルーペ・イダルゴ条約]]で正式にこの一帯の領地をアメリカに[[メキシコ割譲地|割譲]]した。サンフランシスコは、港として、また海軍基地としても絶好の立地にあったが、当時はまだ住みにくい小さな植民地であった<ref>{{cite book | last = Wiley | first = Peter Booth | title = National trust guide- San Francisco: America’s guide for architecture and history travelers | publisher = John Wiley & Sons, Inc. | year = 2000 | location = New York | pages = 4–5 | oclc = 44313415 | isbn = 9780471191209}}</ref>。 |
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[[ファイル:SanFrancisco1851a.jpg|thumb|right|1851年のポーツマス・スクエア。]] |
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ところが、[[カリフォルニア・ゴールドラッシュ]]によって、金を求めて多くの人が押し寄せた。[[サワードウ|サワードウ・ブレッド]]を携えた人夫<ref>サワードウ・ブレッドは、19世紀の西部の開拓者、鉱夫たちの必需品だった。現在ではサンフランシスコのシンボル的存在になっており、今でも市民の必需品である。{{Cite journal | last = Tamony | first = Peter | title = Sourdough and French Bread | journal = Western Folklore | volume = 32 | issue = 4 | pages = 265–270 | publisher = Western States Folklore Society | year = 1973 |month = 12 | accessdate = 2008-06-08 | doi = 10.2307/1498306}}</ref>がこの街に集まり、人口は1848年の1000人から1849年には2万5000人へと増加し<ref name="1949pop">{{cite book | last = Richards | first = Rand | title = Historic San Francisco: A Concise History and Guide | publisher = Heritage House | year = 1992 | isbn = 1-879367-00-9 | oclc = 214330849}}</ref>、競合する[[ベニシア (カリフォルニア州)|ベニシア]]を超えるようになった<ref>{{cite web | title = San Francisco's First Brick Building | publisher = The Virtual Museum of the City of San Francisco | date = 2004-07-16 | url = http://www.sfmuseum.org/hist1/brick.html | accessdate = 2008-06-13}}</ref>。莫大な富を手に入れられるという望みは大きく、船で到着した者は金鉱へと駆け出し、港にはたくさんの船のマストがはためいた<ref name="buriedships">{{cite news | last = Harris | first = Ron | title = Crews Unearth Shipwreck on San Francisco Condo Project | publisher = Associated Press | date = 2005-11-14 | url = http://www.constructionequipmentguide.com/story.asp?story=6287&headline=Crews | accessdate = 2006-09-04}}</ref>。[[1850年協定]]によってカリフォルニアは州の資格を得、アメリカ軍はサンフランシスコ湾を防衛するため[[ゴールデンゲート海峡]]の砦[[フォート・ポイント]]と、[[アルカトラズ島]]の砦を築いた。1859年のカムストック鉱脈をはじめとする銀の発見も、急速な人口増大を更に後押しした<ref>{{Cite book | last = Wiley | first = Peter Booth | title = National trust guide- San Francisco: America’s guide for architecture and history travelers | publisher = John Wiley & Sons, Inc. | year = 2000 | location = New York | pages = 31–33 | oclc = 44313415 | isbn = 9780471191209}}</ref>。鉱山の一旗組の中には無法者も多く、[[バーバリコースト]]地区は、犯罪、売春、ギャンブルの巣窟として悪名をとった<ref>{{cite book | last = Wiley | first = Peter Booth | title = National trust guide- San Francisco: America’s guide for architecture and history travelers | publisher = John Wiley & Sons, Inc. | year = 2000 | location = New York | pages = 237–238 | oclc = 44313415 | isbn = 9780471191209}}</ref>。 |
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ゴールドラッシュで成功した多くの企業家が、その財を元手に事業を展開した。1852年には[[ウェルズ・ファーゴ]]が設立され、1864年には[[カリフォルニア銀行]]が設立された。[[サンフランシスコ港]]の発展により、街は交易の中心地となった。[[リーヴァイ・ストラウス]]は衣類の事業を、[[ドミンゴ・ギラーデリー]]はチョコレート製造業を始めた。様々な移民労働者の存在により、街には多様な文化が入り交じり、例えば中国人の鉄道労働者によってチャイナタウンが生まれた。1873年に[[ケーブルカー]]が敷かれ、クレイ・ストリートの急な坂を上るようになった。ビクトリア様式の家々が立ち並ぶようになり、広い公園の必要が叫ばれるようになって、[[ゴールデンゲートパーク]]の計画につながった。学校、教会、劇場、その他様々な施設が建てられた。サンフランシスコ要塞は、太平洋岸におけるアメリカの最も重要な軍事施設となった<ref>{{cite web | title = Under Three Flags | work = Golden Gate National Recreation Area Brochures | publisher = US Department of the Interior | year = 2004 | month = 11 | url = http://www.nps.gov/goga/planyourvisit/upload/3flags_7-03.pdf | format = PDF | doi = | accessdate = 2008-06-13}}</ref>。20世紀を迎える時点で、サンフランシスコは、その華やかさ、豪華なホテル、[[ノブヒル (サンフランシスコ)|ノブヒル]]地区のけばけばしい邸宅、そして芸術の繁栄で知られるようになった<ref>{{Cite book | last = Wiley | first = Peter Booth | title = National trust guide- San Francisco: America’s guide for architecture and history travelers | publisher = John Wiley & Sons, Inc. | year = 2000 | location = New York | pages = 44–55 | oclc = 44313415 | isbn = 9780471191209}}</ref>。 |
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[[ファイル:San francisco fire 1906.jpg|left|thumb|center|450px|1906年の[[サンフランシスコ地震]]とそれによる火災。]] |
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1906年4月18日午前5時12分、[[サンフランシスコ地震]]がサンフランシスコ市内及びカリフォルニア北部を襲った。建物は倒壊し、破裂したガス管が引火して火災が発生し、数日間にわたって街中を焼き尽くした。水道管は使えなくなっていたので、サンフランシスコ要塞の砲兵隊は建物をダイナマイトで破壊することで防火帯を作り、火を封じ込めようとした<ref name="Funston">{{cite web | title = Presidio of San Francisco: Firefighting and Dynamiting | work = Golden Gate National Recreation Area | publisher = US Department of the Interior | date = 2003-12-24 | url = http://www.nps.gov/archive/prsf/history/1906eq/firedyn.htm | accessdate = 2008-06-13}}</ref>。街の4分の3以上が灰燼に帰し、ダウンタウンの中心部はほとんど焼けてしまった<ref name="Montagne">{{cite news | last = Montagne | first = Renée | title = Remembering the 1906 San Francisco Earthquake | work = People & Places | publisher = National Public Radio | date = 2006-04-11 | url = http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=5334411 | accessdate = 2008-06-13}}</ref>。当時の記録によれば、498人が命を落としたとされるが、現代の推計では死者は数千人に上るだろうと考えられている<ref>{{cite web | title = Casualties and Damage after the 1906 earthquake | work = Earthquake Hazards Program - Northern California | publisher = US Geological Survey | date = 2008-01-25 | url = http://earthquake.usgs.gov/regional/nca/1906/18april/casualties.php | accessdate = 2008-06-13}}</ref>。市の人口40万人のうち半数以上が住む家を失った<ref>{{cite web |
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| title = Presidio of San Francisco:1906 Earthquake and Fire | work = Golden Gate National Recreation Area | publisher = US Department of the Interior | date =2004-08-25 | url = http://www.nps.gov/archive/prsf/history/1906eq/index.htm | accessdate = 2008-06-13}}</ref>。避難者は、しばらくの間、ゴールデンゲートパークや、要塞や、海岸などに設けられた間に合わせのテント村で生活した。また、サンフランシスコの東のイーストベイまで移住した人も多い。 |
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[[ファイル:PalaceofFineArts1915.jpg|thumb|left|1915年[[サンフランシスコ万国博覧会]]のパレス・オブ・ファイン・アーツ。]] |
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その後、復興が急ピッチで進んだ。街路を一から設計しなおすよう求める声もあったが、サンフランシスコ市民は、スピードを優先した<ref name="NatTrust1">{{Cite book | last = Wiley | first = Peter Booth | title = National trust guide- San Francisco: America’s guide for architecture and history travelers | publisher = John Wiley & Sons, Inc. | year = 2000 | location = New York | pages = 56–62 | oclc = 44313415 | isbn = 9780471191209}}</ref>。アマデオ・ジアニーニが創設したバンク・オブ・イタリー(後の[[バンク・オブ・アメリカ]])は、生計の手段を奪われた人々に貸出しを行った。ノブヒル地区の倒壊した邸宅は、豪華ホテルとなった。{{仮リンク|サンフランシスコ市庁舎|en|San Francisco City Hall}}は、見事な[[ボザール様式]]で再建され、1915年の[[サンフランシスコ万国博覧会]]でその再生が祝われた<ref>{{Cite book | last = Wiley | first = Peter Booth | title = National trust guide- San Francisco: America’s guide for architecture and history travelers | publisher = John Wiley & Sons, Inc. | year = 2000 | location = New York | oclc = 44313415 | isbn = 9780471191209 | pages = 9}}</ref>。 |
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その後、サンフランシスコは、[[金融センター]]としての地位を強固なものにしていった。1929年の[[ウォール街大暴落 (1929年)|ウォール街大暴落]]の時でさえ、サンフランシスコの銀行は一つも破綻しなかった<ref>{{Cite web | title = San Francisco Gold Rush Banking - 1849 | publisher = The Virtual Museum of the City of San Francisco | date = 2004-06-24 | url = http://www.sfmuseum.net/hist9/banking.html | accessdate = 2008-06-13}}</ref>。[[世界恐慌]]の最中も、サンフランシスコでは[[サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ]](1936年完成)と[[ゴールデンゲートブリッジ]](1937年完成)という2大プロジェクトが同時に進行していた。なお、同じころ、軍事施設だった[[アルカトラズ島]]が連邦刑務所となり、[[アル・カポネ]]、[[マシンガン・ケリー]]、「バードマン」と呼ばれた[[ロバート・フランクリン・ストラウド]]などがここに収容された。さらに、1939年から1940年にかけては2度目の[[国際博覧会]]となる[[ゴールデンゲート国際博覧会]]が開かれ、その会場として湾内に人工島[[トレジャー島]]が造成された。 |
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第2次世界大戦中、[[サンフランシスコ海軍造船所|ハンターズ・ポイント海軍造船所]]は軍事活動のハブとなり、[[フォート・メイソン]]が太平洋戦域に出発する兵士の乗船場となった<ref name="WWII">{{Cite web | title = Port of Embarkation Essay—World War II in the San Francisco Bay Area | work = A National Register of Historic Places Travel Itinerary: | publisher = US Department of the Interior | date = 2007-08-28 | url = http://www.nps.gov/history/nr/travel/wwIIbayarea/embarkation.htm | accessdate = 2008-06-13}}</ref>。雇用の爆発的な増大により、特に南部からの[[アフリカ系アメリカ人]]が職を求めて集まってきた。戦後、港に帰ってきた復員兵や、それまでに集まっていた労働者の多くが、そのままサンフランシスコに留まった。1945年、[[国際連合憲章]]がこの地で起草され、署名されたほか、[[太平洋戦争]]を正式に終結させる[[サンフランシスコ平和条約]]が締結された。 |
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[[ファイル:USS San Francisco (CA-38) enters San Francisco Bay, December 1942.jpg|thumb|right|ゴールデンゲートブリッジの下を通る重巡洋艦[[サンフランシスコ (重巡洋艦)|サンフランシスコ]]。第2次世界大戦中の1942年。]] |
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1950年代・1960年代の都市開発プロジェクトにより、市西部の取り壊しと再開発が進み、新しい高速道路の建設が始まった。もっとも、間もなく市民の反対運動が起こり、建設は間もなく停止に追い込まれた<ref>{{Cite news | last = Fang | first = Eric | title = Urban Renewal Revisited: A Design Critique | work = SPUR Newsletter | publisher = San Francisco Planning and Urban Research Association | year = 1999 | month = 02 | url = http://www.spur.org/publications/library/article/urbanrenewalrevisited02011999 | accessdate = 2009-08-03}}</ref>。1972年、[[トランスアメリカ・ピラミッド]]ビルが完成した<ref>{{Cite web | title = Pyramid Facts and Figures | work = Company Profile | publisher = Transamerica Insurance and Investment Group | url = http://www.transamerica.com/company_profile/about_the_pyramid/pyramid_facts_and_figures.asp | accessdate = 2008-06-13}}</ref>。1980年代にはサンフランシスコの「マンハッタン化」が進み、ダウンタウンに多数の高層ビルが立ち並ぶようになり<ref name="NatTrust2">{{Cite book | last = Wiley | first = Peter Booth | title = National trust guide- San Francisco: America’s guide for architecture and history travelers | publisher = John Wiley & Sons, Inc. | year = 2000 | location = New York | pages = 95–96 | oclc = 44313415 | isbn = 9780471191209}}</ref>。港湾機能が次第に[[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]港に移転していくに伴って、市の製造業人口は減少を始め、代わって市の経済における重要性を増したのが観光である。郊外の発展が著しく、白人人口が市内を去り、アジア系・ラテンアメリカ系移民が流入した<ref>{{Cite web | last = Willis | first = James | coauthors = Habib, Jerry, Brittan, Jeremy | title = San Francisco Planning Department Census Data Analysis | publisher = San Francisco State University | date = 2004-04-19 | url = http://bss.sfsu.edu/pamuk/SFDemographics.ppt#1 | format = PPT | accessdate = 2008-06-13}}</ref><ref>{{Cite news | last = Minton | first = Torri | title = Race Through Time | work = San Francisco Chronicle | page = SC-4 | publisher = Hearst Communications | date = 1998-09-20 | url = http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?file=/chronicle/archive/1998/09/20/SC72759.DTL | accessdate = 2008-06-13}}</ref>。また、戦後、サンフランシスコはアメリカの[[カウンターカルチャー]]の舞台でもあった。1950年代、[[ビート・ジェネレーション]]の作家たちによって[[サンフランシスコ・ルネッサンス]]が提唱され、[[ノースビーチ (サンフランシスコ)|ノースビーチ]]地区がその中心地となった<ref>{{cite book | last = Wiley | first = Peter Booth | title = National trust guide- San Francisco: America’s guide for architecture and history travelers | publisher = John Wiley & Sons, Inc. | year = 2000 | location = New York | pages = 240–242 | oclc = 44313415 | isbn = 9780471191209}}</ref>。1960年代には、[[ヒッピー]]が[[ヘイト・アシュベリー]]地区に集まり、1967年の[[サマー・オブ・ラブ]]でその頂点を迎えた<ref>{{Cite web | url = http://www.pbs.org/wgbh/amex/love/filmmore/fd.html | title = American Experience: Summer of Love: Film Description | accessdate = 2008-06-17 | date = 2007-03-14 | work = Website for American Experience documentary on the Summer of Love | publisher = PBS}}</ref>。1970年代には、サンフランシスコは性的少数者([[LGBT]])の権利運動の中心地となり、[[カストロ通り]]は[[ゲイ・タウン]]として著名になった。活動家の[[ハーヴェイ・ミルク]]がサンフランシスコ市会議員に当選したが、1978年、[[ジョージ・マスコーニ]]市長とともに暗殺された<ref>{{Cite web | url = http://web.archive.org/web/20070612230434/http://www.frommers.com/destinations/sanfrancisco/0029033660.html | title = San Francisco History: The 1970s and 1980s: Gay Rights | accessdate = 2008-06-17 | work = Destinations: San Francisco | publisher = Frommers.com}}</ref>。 |
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1989年には[[ロマ・プリータ地震]]が、サンフランシスコを含むベイ・エリアを襲った。マリナ地区やSoMa(サウス・オブ・マーケット)地区では建物の倒壊が激しく、エンバカデロ・フリーウェイ(州道480号)や、セントラル・フリーウェイの多くの部分が崩落した。なお、こうした高速道路の破壊を機に、市は歴史的な街並みの再建へ転じることになった。 |
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1990年代後半の[[インターネット・バブル]](ドットコム・バブル)の中、[[ベンチャー企業]]が経済の原動力となった。多くの起業家やコンピューター・アプリケーション企業がこの街に集まり、続いてマーケティングや営業の専門職が住むようになって、一時期は荒廃していた地区で[[ジェントリフィケーション]]が進んだ。2001年、バブルが崩壊すると、これらの企業の多くが倒産し、その従業員も街を去った。とはいえ、その後も、ハイテク産業と起業家精神は、サンフランシスコの経済を支える屋台骨であり続けている<ref>{{cite web | url = http://www.sfeconomicstrategy.org/site/uploadedfiles/moed/economic_strat/ExecutiveSummary_EconomicPerformanceReview.pdf | title = City and County of San Francisco: An Overview of San Francisco’s Recent Economic Performance | accessdate = 2008-06-19 | author = Ted Egan | date = 2006-04-03 | format = PDF | work = Report prepared for Mayor’s Office of Economic and Workforce Development | publisher = ICF Consulting}}</ref>。 |
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== 自然 == |
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=== 地勢 === |
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[[ファイル:San Francisco Landsat7 Lg.jpg|right|upright|thumb|サンフランシスコ半島の衛星写真。]] |
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サンフランシスコは、[[アメリカ西海岸]]、[[サンフランシスコ半島]]の先端に位置し、半島の周囲をめぐる[[太平洋]]と[[サンフランシスコ湾]]の広い海域も市の領域に含まれる。 [[アルカトラズ島]]、[[トレジャー島]]、{{仮リンク|イェルバ・ブエナ島|en|Yerba Buena Island}}、{{仮リンク|アラメダ (カリフォルニア)|en|Alameda, California|label=アラメダ島}}の一部、レッドロック島、エンジェル島といった島々も市に属する。また、太平洋の43km沖合にある無人島のファラロン諸島も、同様に市に属する。本土部分はおおまかに7マイル(11.3キロメートル)四方の正方形をなしているとよく表現される。ただし、水域を含む総面積は232mi² (600km²) である。 |
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[[ファイル:Lombardst.jpeg|thumb|upright|left|ロシアン・ヒルから、ロンバード・ストリートの曲がりくねった坂道を下ってくる車。]] |
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サンフランシスコは、丘が多いことで有名である。市内には50以上の丘がある<ref name=peak_experience>{{Cite news | last = Graham | first = Tom | title = Peak Experience | work = San Francisco Chronicle | page = PK-23 | publisher = Hearst Communications | date = 2004-11-07 | url = http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?file=/chronicle/archive/2004/11/07/PKGJ99K7KD1.DTL | accessdate = 2008-06-13}}</ref>。{{仮リンク|ノブ・ヒル|en|Nob Hill, San Francisco}}、{{仮リンク|パシフィック・ハイツ|en|Pacific Heights, San Francisco}}、{{仮リンク|ロシアン・ヒル|en|Russian Hill, San Francisco}}など、丘の名前からとられた町名もある。市の地理的中央部(ダウンタウンから見て南東方面)には、高い丘が連なっており、この辺りは人口密度が低い。[[ツインピークス]]は、市の中でも高い場所に二つ並ぶ丘であり、展望場所として人気がある。標高が最も高い丘は{{仮リンク|マウント・デビッドソン|en|Mount Davidson, San Francisco, California}}で、282メートル(925フィート)であるが、1934年、頂上に高さ31メートル(103フィート)の十字架が建てられた<ref>{{Cite news | first=Henry K. | last = Lee | title = Mount Davidson Cross Called Landmark by Panel | url = http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/1997/01/16/MN71385.DTL | publisher = San Francisco Chronicle | date = 1997-01-16 | accessdate = 2008-06-17}}</ref>。この付近には、赤と白に塗られたラジオ・テレビ電波塔の[[スートロ・タワー]]がそびえ立っている。 |
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[[サンアンドレアス断層]]と{{仮リンク|ヘイワード断層|en|Hayward Fault}}という二つの[[断層]]が、市域の近くを走っており、これが、多くの[[地震]]を引き起こすこととなっている。1906年と1989年の大地震を引き起こしたのは、いずれもサンアンドレアス断層のずれが原因であった。小規模の地震は、日常的に起こっている。大地震の脅威にどう対処するかが、市のインフラ整備の上でも重要な要素となっている。市はこれまで度々建物の耐震基準を引き上げており、古い建物については補強工事を、新規の建設については高い耐震技術水準を求めている<ref>{{Cite news | first = Charles | last = Smith | title = What San Francisco didn't learn from the '06 quake | url = http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2006/04/15/HOGQ9I7P2T1.DTL | publisher = San Francisco Chronicle | date = 2006-04-15 | accessdate = 2008-06-30}}</ref>。しかし、今でも耐震性の弱い中小の建物が何千棟も残っている<ref>{{Cite news | first = Robert | last = Selna | title = S.F. leaders ignore weak buildings' quake risk | url = http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?file=/c/a/2008/06/29/MNDD110U2E.DTL | page = A-1 | publisher=San Francisco Chronicle | date = 2008-06-29 | accessdate = 2008-06-30}}</ref>。 |
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サンフランシスコの陸地は、埋立てによって広がっている。マリナ地区、ハンターズ・ポイント地区のそれぞれ全部、また{{仮リンク|エンバーカデロ|en|Embarcadero (San Francisco)}}地区の大部分は、埋立地にある。トレジャー島は、湾内から浚渫した土砂や、ベイ・ブリッジ建設中にイェルバ・ブエナ島のトンネルを掘削した際の土砂で作られた人工島である。これらの土地は地震に対してもろく、[[液状化現象]]によって建物等に甚大な被害が及ぶことは、1989年の[[ロマ・プリータ地震]]の時、マリナ地区で見られたとおりである<ref>{{Cite web | title = Liquefaction Damage in the Marina District during the 1989 Loma Prieta earthquake | publisher = California Geological Survey | url = http://www.conservation.ca.gov/cgs/information/outreach/Documents/Marina%20Poster%2011x17rw2b.pdf | format = PDF | accessdate = 2008-06-17}}</ref>。 |
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=== 気候 === |
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[[ファイル:San francisco in fog with rays.jpg|upright|thumb|サンフランシスコの霧は夏の風物詩である。]] |
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サンフランシスコの気候は、[[地中海性気候]]であり、[[ケッペンの気候区分]]では'''Csb'''に当たる。冬は温暖で降水量が多く、夏は気温が低く、乾燥している<ref>{{Cite web |url=http://ggweather.com/sf/narrative.html |title=Climate of San Francisco: Narrative Description |publisher=Golden Gate Weather Services |accessdate=2006-09-05}}</ref>。三方を海水面に囲まれているため、太平洋の冷たい[[カリフォルニア海流]]の影響により、季節による温度変化が少ない穏やかな気候である。気温が24°Cを超えるのは、年平均わずか29日である<ref name="Weatherbase">{{Cite web | url = http://www.weatherbase.com/weather/weather.php3?s=149427&refer= | title = Weatherbase: Historical Weather for San Francisco, California. Summary of weather data. | publisher = weatherbase.com |accessdate=2010-08-18}}</ref>。アメリカの主要都市の中では夏の気温が最も低い<ref>{{Cite web|url= http://www.currentresults.com/Weather-Extremes/US/coldest-cities-summer.php |title= Coolest US Cities in Summer |publisher=Current Results Nexus |author= Liz Osborn |accessdate=2010-08-20 }}</ref>。5月から10月までは乾燥しており、平均最高気温は月によって18°C から21°C 、平均最低気温は月によって11°C から13°Cである。一方,11月から4月までは雨が多く、平均最高気温は月によって14°Cから18°C、平均最低気温は月によって8°Cから11°Cである。雨の日は年平均67日、年平均降水量は518mmである<ref name="Weatherbase"/>。雪が降ることは極めて稀で、記録の残る1852年以来、わずか10回しかない<ref>{{Cite web |url=http://ggweather.com/sf/snow.html |title=Climate of San Francisco: Snowfall |publisher= Golden Gate Weather Services |accessdate=2006-12-03}}</ref>。 |
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[[アメリカ国立気象局]]による記録史上の最高気温は、1988年7月17日及び2000年6月14日の39°C、最低気温は1932年12月11日の零下3°Cである<ref>{{Cite web | url = http://www.wrcc.dri.edu/cgi-bin/cliGCStT.pl?ca7772 | title = San Fran Mission Dolore, California (047772) Period of Record General Climate Summary - Temperature |
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| work = Western Regional Climate Center | publisher = Desert Research Institute | year = 2010 | accessdate = 2010-07-25}}</ref>。 |
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カリフォルニア内陸の渓谷地帯で、暖められた空気が上昇して気圧が低くなるため、[[北太平洋高気圧]]からの風がゴールデンゲート海峡を通って内陸に向かい流れ込む。これによって、サンフランシスコ特有の夏期の霧が発生する<ref>{{Cite web | last = Gilliam | first = Harold | author = Harold Gilliam | publisher= Bay Nature |title = Cutting Through the Fog: Demystifying the Summer Spectacle | year = 2002 | month = 07 | url = http://baynature.org/articles/jul-sep-2002/cutting-through-the-fog |accessdate=2010-08-19}}</ref>。ただし、市の中央部に連なる高い丘が海風をさえぎるため、市東部では霧は少なく、晴れの日が多く、降水量も西部より少ない。 |
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{{Infobox Weather |
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|collapsed = |
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|metric_first=Yes<!--メートル法を先に--> |
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|single_line=Yes |
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|location = サンフランシスコ(ダウンタウン) |
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|Jan_Hi_°F = 58.1 |
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|Feb_Hi_°F = 61.4 |
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|Mar_Hi_°F = 62.5 |
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|Apr_Hi_°F = 64.5 |
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|May_Hi_°F = 65.4 |
|||
|Jun_Hi_°F = 67.7 |
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|Jul_Hi_°F = 68.2 |
|||
|Aug_Hi_°F = 69.2 |
|||
|Sep_Hi_°F = 71.3 |
|||
|Oct_Hi_°F = 70.4 |
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|Nov_Hi_°F = 64.1 |
|||
|Dec_Hi_°F = 58.6 |
|||
|Year_Hi_°F = 65.1 |
|||
|Jan_Lo_°F = 46.4 |
|||
|Feb_Lo_°F = 48.5 |
|||
|Mar_Lo_°F = 49.2 |
|||
|Apr_Lo_°F = 50.1 |
|||
|May_Lo_°F = 51.4 |
|||
|Jun_Lo_°F = 53.2 |
|||
|Jul_Lo_°F = 54.4 |
|||
|Aug_Lo_°F = 55.6 |
|||
|Sep_Lo_°F = 56.1 |
|||
|Oct_Lo_°F = 54.6 |
|||
|Nov_Lo_°F = 50.8 |
|||
|Dec_Lo_°F = 46.7 |
|||
|Year_Lo_°F = 51.4 |
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|Jan_Rain_inch = 4.72 |
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|Feb_Rain_inch = 4.15 |
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|Mar_Rain_inch = 3.40 |
|||
|Apr_Rain_inch = 1.25 |
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|May_Rain_inch = 0.54 |
|||
|Jun_Rain_inch = 0.13 |
|||
|Jul_Rain_inch = 0.04 |
|||
|Aug_Rain_inch = 0.09 |
|||
|Sep_Rain_inch = 0.28 |
|||
|Oct_Rain_inch = 1.19 |
|||
|Nov_Rain_inch = 3.31 |
|||
|Dec_Rain_inch = 3.18 |
|||
|Year_Rain_inch = 22.28 |
|||
|Unit_Rain_days= 0.01 in |
|||
|Jan_Rain_days = 11.4 |
|||
|Feb_Rain_days = 10.8 |
|||
|Mar_Rain_days = 11.2 |
|||
|Apr_Rain_days = 6.2 |
|||
|May_Rain_days = 3.3 |
|||
|Jun_Rain_days = 1.4 |
|||
|Jul_Rain_days = 0.4 |
|||
|Aug_Rain_days = 0.9 |
|||
|Sep_Rain_days = 2.1 |
|||
|Oct_Rain_days = 4.1 |
|||
|Nov_Rain_days = 8.7 |
|||
|Dec_Rain_days = 9.6 |
|||
|source = NOAA <ref name= NCDC >{{cite web | url = http://cdo.ncdc.noaa.gov/climatenormals/clim20/ca/047772.pdf | title = Climatography of the United States No. 20 (1971–2000) | format=PDF | year=2004 | publisher= National Oceanic and Atmospheric Administration | accessdate=2010-05-31}}</ref> |
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| accessdate = 2010-05-31 |
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}} |
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== 街並み == |
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[[ファイル:GoldenGateBridge-001.jpg|thumb|200px|[[ゴールデンゲートブリッジ]]]] |
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[[ファイル:San_Francisco_1_crop.jpg|center|thumb|800px|[[ツイン・ピークス]]からのサンフランシスコ中心部の眺望。]] |
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しかし、[[1906年]][[4月18日]]に[[マグニチュード]]7.6の[[サンフランシスコ地震|サンフランシスコ大地震]]が市街地を襲った。3日間にわたる火災が発生し、ダウンタウン全域と住宅地域のほとんどが壊滅した。復興の旗印として「[[フェニックス]]」を掲げ、新たな都市開発に取り組んでその後急速に復旧した。[[1914年]]には[[パナマ運河]]の開通により、拠点性を増大させ、都市飛躍の一歩となった。対岸の[[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]とを結ぶ主要橋梁の建設に乗り出し、[[1937年]]には市のシンボルでもある'''[[ゴールデンゲートブリッジ]]'''(金門橋)が完成、今日では7本の橋がベイエリア各地を結び、また[[バート (鉄道)|BART]]の[[海底トンネル]]である[[:en:Transbay_Tube|Transbay_Tube]]も都市連結の役割を果たしている。 |
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=== 市街 === |
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[[ファイル:SF Chinatown CA.jpg|thumb|right|upright|サンフランシスコの[[チャイナタウン]]。北アメリカの中で最も歴史が古く、規模もかなり大きい。]] |
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サンフランシスコの古くからの中心地は、市北東部の、[[マーケット・ストリート (サンフランシスコ)|マーケット・ストリート]]より北側の地域である。ここには[[フィナンシャル・ディストリクト (サンフランシスコ)|フィナンシャル・ディストリクト]]があり、その近くには、ショッピング・スポットやホテルの集まった[[ユニオン・スクエア (サンフランシスコ)|ユニオン・スクエア]]もある。かつて金持ちの邸宅地だった[[ノブ・ヒル]]と、海沿いの[[フィッシャーマンズワーフ (サンフランシスコ)|フィッシャーマンズワーフ]]とを結ぶ急な坂には、[[ケーブルカー]]が走っている。フィッシャマンズワーフは、ダンジネスクラブ(アメリカイチョウガニ)を使った料理などで有名な観光エリアである。同じく市北東部には、曲がりくねった[[ロンバード・ストリート]]の坂道で知られる[[ロシアン・ヒル]]、サンフランシスコの[[リトル・イタリー]]である[[ノースビーチ (サンフランシスコ)|ノースビーチ]]、[[コイト・タワー]]のある[[テレグラフ・ヒル]]といった地区がある。またその近くには1860年代にできたサンフランシスコの[[チャイナタウン]]もある。 |
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[[ミッション・ディストリクト]]は、19世紀、「カリフォルニオ」と呼ばれるラテンアメリカ系市民や、[[ドイツ]]、[[アイルランド]]、[[イタリア]]、[[スカンディナヴィア]]からの移民労働者が住む街であった。1910年代、中央アメリカ系移民がこの街に住みつき、1950年代には[[メキシコ]]からの移民が取って代わった<ref>{{cite web | url = http://www.qualityoflife-themovie.com/website/mission.html | title = Quality of Life (film website) | work = Mission District History | author = Morgan, Benjamin (Director) | year = 2007 | accessdate = 2010-07-25}}</ref>。近年は、ヴァレンシア通りを中心に[[ジェントリフィケーション]]が急速に進んでいる。1960年代の[[ヒッピー]]文化を育てた[[ヘイト・アシュベリー]]地区は、高級なブティックが立ち並ぶ街へと変貌し<ref>{{cite news | title = The Haight | work = SFGate San Francisco Neighborhood Guide | publisher = Sfgate.com | url = http://www.sfgate.com/neighborhoods/sf/haight/ | accessdate = 2009-08-03}}</ref>、チェーン店の開業に当たっては論争も起きた<ref>{{cite news | first = Katherine | last = Bishop | title = Haight-Ashbury Journal; Love and Hate Linger In Ex-Hippie District | url = http://www.nytimes.com/1988/10/13/us/haight-ashbury-journal-love-and-hate-linger-in-ex-hippie-district.html?sec=&spon= | publisher = New York Times | date = 1988-10-13 | accessdate = 2009-08-03}}</ref>。一方では[[ボヘミアニズム|ボヘミアン]]な雰囲気も残っている。[[カストロ通り]]付近(昔はユーレカ・バレーと呼ばれていた地域)は[[ゲイ]]カルチャーの中心地である<ref>{{cite news | title = The Castro | work = SFGate San Francisco Neighborhood Guide | publisher = Sfgate.com | url = http://www.sfgate.com/neighborhoods/sf/castro/ | accessdate = 2009-08-03}}</ref>。 |
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[[第二次世界大戦]]時、サンフランシスコは造船業の中心地となり、カリフォルニア州北部の中心都市として重要な地位を占め、大発展を遂げた。しかし同時に日本軍の空襲や上陸を避けるために対空砲やシェルターの整備が進められるとともに、[[日系人の強制収容]]が行われるという悲劇にも見舞われた。 |
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ポスト・ストリート沿いには、[[ジャパンタウン]](日本人街)がある。[[第2次世界大戦]]の時には、ここに住む[[日系アメリカ人]]たちも[[日系人の強制収容|強制収容]]された。そのころ、その近くの[[ウェスタン・アディション]]地区にはたくさんの[[アフリカ系アメリカ人]]が流れ込んできた。[[アラモ・スクエア]]の近くには「ペインテッド・レディー(化粧をした婦人たち)」と呼ばれるビクトリア様式の建物が並び、[[パシフィック・ハイツ]]には1906年[[サンフランシスコ地震]]の後に富裕層が邸宅を構えるようになった。その更に北、[[マリナ・ディストリクト]]は、若いビジネスマンたちが住む活気のある街である<ref>{{cite news | title = The Marina | work = SFGate San Francisco Neighborhood Guide | publisher = SFgate.com | url = http://www.sfgate.com/traveler/guide/sf/neighborhoods/marina.shtml | accessdate = 2008-06-27}}</ref>。 |
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[[1951年]]には、サンフランシスコで、[[サンフランシスコ講和条約|連合国と日本との講和条約]]が結ばれた。[[1960年代]]頃から主要産業であった製造業に陰りが見え始めるが、代わりに登場した[[サンノゼ]]一帯の[[シリコンバレー]]の発展により、[[情報技術|IT]]関連企業を輩出、地位を回復し、大規模な近代的ビルの建設がすすんで活況を呈して今日に至る。また、[[50年代]]には[[ビート・ジェネレーション]]、[[60年代]]には[[ヒッピー]]の集う地であり、[[70年代]]に入り[[同性愛者]]([[性的少数者]])の[[市民権]]獲得のための運動がいち早くおこるなど、新しい価値観を生みだす拠点ともなっている。[[1989年]]には大地震に再び見舞われ、大きな被害を受けたものの、現在サンフランシスコは全米の大都市の中でも治安に優れ、優れた計画都市としても知られ、常に住みたい都市のトップクラスにエントリーしている。 |
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[[ゴールデンゲートパーク]]の北に位置し、西は太平洋まで広がる広大な地域が[[リッチモンド・ディストリクト]]であり、その中には「ニュー・チャイナタウン」と呼ばれる場所もあるが、その他のアジアや[[ロシア]]系移民もたくさん住んでいる。ゴールデンゲートパークの南には、アジア系住民が多く住む[[サンセット・ディストリクト]]が広がる<ref>{{cite news | last = Chow | first = Andrew | title = Dismal APA Turnout at First Redistricting Meetings | publisher = Asian Week | date = 2002-03-22}}</ref>。リッチモンドとサンセットの両地区は、中流階級の居住地である。西側を「アウター・リッチモンド」と「アウター・サンセット」、東側を「インナー・リッチモンド」と「インナー・サンセット」と呼ぶこともある。一方、市南東部のベイビュー・ハンターズポイント地区は最貧地区で、高い犯罪率が問題となっている。ここには都市[[再開発]]の計画があるが、賛否をめぐり議論の的となっている。 |
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坂の多い土地柄を背景に、[[1873年]]には[[ケーブルカー]]が営業を開始し、今日でも市民の重要な足となっていると共に、観光客を惹き付ける魅力の一つにもなっている。 |
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SoMa(サウス・オブ・マーケット)地区は、再開発によって古い工業の街から生まれ変わり、1990年代後半の[[インターネットバブル]]を経て超高層ビルが立ち並ぶようになった。サウスビーチ地区も発展しており、更に続いてミッション・ベイ地区も [[カリフォルニア大学サンフランシスコ校]]の第2キャンパス設置を中心に再開発が進んでいる。ミッション・ベイの南東にあるポトレロ・ヒルからは、サンフランシスコのダウンタウンを見渡すことができる。 |
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== 地理 == |
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[[ファイル:San Francisco Landsat7 Lg.jpg|thumb|100px|サンフランシスコ及び北部[[サンマテオ郡 (カリフォルニア州)|サンマテオ郡]]、[[アメリカ航空宇宙局|NASA]] [[w:Landsat 7|Landsat]]撮影]] |
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カリフォルニア州の北部に位置し、北緯38度、西経122度5分にある。気候は温暖で、夏に降雨が少なく、区分ではCs(地中海性気候)に分類される。市街地は[[サンフランシスコ湾]]口の南岸にあたり、[[サンフランシスコ半島]]の先端に位置する。東の対岸に[[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]や[[バークレー (カリフォルニア州)|バークレー]]、サンフランシスコ湾奥の南岸に[[サンノゼ]]がある。平野部は少なく、急峻な丘陵地や窪地が多く、いわば小樽や尾道のような、後背地が狭い古い港町の都市成立様式である。都市圏人口は約700万人だが、他の都市圏のように土地が豊富でないため、爆発的な人口増加はあまり見られない。100km北東方に州都の[[サクラメント (カリフォルニア州)|サクラメント]]がある。 |
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=== 公園 === |
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[[アメリカ合衆国統計局]]によると、この都市と郡は総面積600.7[[平方メートル|km²]](231.9 [[平方マイル|mi²]])である。このうち120.9 km²(46.7 mi²)が陸地で479.7 km²(185.2 mi²)が水地域である。総面積の79.86%が水地域となる。 |
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[[ゴールデンゲートパーク国立レクリエーション地域]]は、年間1300万人もが訪れ、アメリカの[[アメリカ合衆国国立公園|国立公園]]の中でも訪問者が多い公園である。サンフランシスコ市内にあるいくつかの公園と、ほとんどのビーチがこの国立レクリエーション地域に属する。[[オーシャン・ビーチ]]は太平洋に面し、[[サーフィン]]がさかんである。[[ベーカー・ビーチ]]は、ゴールデンゲート海峡の西の入江にあり、昔の要塞である[[プレシディオ (サンフランシスコ)|プレシディオ]]の一部に当たる。プレシディオの中には、クリッシー・フィールドという公園もある。ここは、以前は[[飛行場]]であったが、自然の姿であった[[塩沼]]を復元している。国立レクリエーション地域の中には、そのほかフォート・ファンストン、ランズ・エンド、フォート・メイソン、[[アルカトラズ島]]もある。これとは別に、[[アメリカ合衆国国立公園局]]が管理する公園として[[サンフランシスコ国立海洋歴史公園]]がある。 |
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[[ファイル:SF Conservatory of Flowers 2.jpg|thumb|right|200px|[[ゴールデンゲートパーク]]の温室植物園。]] |
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この都市の地理的な中心地は、アルバラド(Alvarado)と23番ストリートの間のグランドビュー・アベニュー(Grandview Avenue)の東側である。 |
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また、サンフランシスコ市レクリエーション・公園局が管理する市立公園は、200を超える<ref>{{cite web | url = http://sf-recpark.org/index.aspx?page=56 | title = Facility Listings | accessdate = 2010-07-25 | work = San Francisco Recreation and Parks Department | publisher = City and County of San Francisco}}</ref>。その中でも最大で、かつ有名なのが、[[ゴールデンゲートパーク]]である<ref>{{cite web | url = http://www.tpl.org/content_documents/ccpe_Most_Visited_Parks.pdf | format = PDF | title = The Most Visited City Parks | accessdate = 2008-06-17 | date = 2007-10-11 | work = Center for City Park Excellence | publisher = The Trust for Public Land}}</ref>。市の中央部から、西に向かい太平洋まで帯状に広がっている。昔は自然の草木や砂丘に覆われていたが、1860年代に公園としての整備が始まり、何千種もの植物が移植された。温室植物園、[[ジャパニーズ・ティー・ガーデン]]、サンフランシスコ植物園などの多くの園内施設がある。淡水湖のマーセド湖の近くには、250種以上の動物(多くが絶滅危惧種)がいる市立の[[サンフランシスコ動物園]]がある<ref>{{cite web | title = What to See at the Zoo | publisher = San Francisco Zoo | url = http://www.sfzoo.org/openrosters/ViewOrgPageLink.asp?LinkKey=15015&orgkey=1821 | accessdate = 2008-06-14}}</ref>。 |
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一方、カリフォルニア州公園・レクリエーション局の運営する州立公園は、キャンドルスティック・ポイント州立レクリエーション地域だけである<ref>{{cite web | title = Candlestick Point SRA | publisher = California State Parks Department | url = http://parks.ca.gov/default.asp?page_id=519 | accessdate = 2009-01-27}}</ref>。 |
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1月の最低気温の平均は46°F(8°C)で、最高気温の平均は58°F(14°C)。8月の最低気温の平均は56°F(13°C)で、最高気温の平均は72°F(22°C)。平均56.6cmの降水量を記録している。 |
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沖合を流れる寒流の影響で[[霧]]に覆われることも多く、夏でも肌寒いことが多い。 |
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== 人口動勢 == |
== 人口動勢 == |
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=== 空路 === |
=== 空路 === |
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* [[サンフランシスコ国際空港]] |
* [[サンフランシスコ国際空港]] |
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[[ユナイテッド航空]]や[[アメリカン航空]]、[[デルタ航空]]や[[アラスカ航空]]などの国内線が多数発着するほか、[[日本航空インターナショナル|日本航空]]や[[チャイナエアライン]]、[[ブリティッシュ・エアウェイズ]]や[[メキシカーナ航空]]をはじめとする国際線も多く発着している。また、対岸の[[オークランド国際空港 (カリフォルニア州)|オークランド国際空港]]もサンフランシスコ地域の主要空港の1つとして使用されている。 |
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=== 道路 === |
=== 道路 === |
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== 教育、文化及びスポーツ == |
== 教育、文化及びスポーツ == |
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[[シリコンバレー]]を中心としたITブームや、最近の[[インターネットバブル]]によりサンフランシスコの生活水準は向上し、世界中から大卒クラスの若いホワイトカラー層が集まってきている<ref>{{cite news | last = Schwarzer | first = Michelle | title = San Francisco by the Numbers: Planning After the 2000 Census | work = SPUR Newsletter | publisher = San Francisco Planning and Urban Research Association | year = 2001 | url = http://www.spur.org/documents/010701_article_03.shtm | archiveurl=http://web.archive.org/web/20050211032911/http://spur.org/documents/010701_article_03.shtm | archivedate = 2005-02-11 | accessdate = 2010-07-25}}</ref>。サウスビーチ地区からミッション・ベイ地区にかけて、[[エンバーカデロ]]の再開発が進んだ。それにつれて、[[ブルーカラー]]層、中・低所得者層が住んでいた地区の多くでも、[[ジェントリフィケーション]]が進行した。不動産価格と世帯所得はいずれもアメリカ国内トップクラスへ跳ね上がった<ref>{{cite web | last = Sadovi | first = Maura Webber | title = San Francisco's Home Prices Remain Among the Highest in U.S. | work = Real Estate Journal | publisher = The Wall Street Journal | date = 2006-04-12 | url = http://www.realestatejournal.com/columnists/livingthere/20060412-livingthere.html | accessdate = 2008-06-14}}</ref><ref name="MedianIncome">{{cite web | title = Median Family Income (In 2003 Inflation-adjusted Dollars) | work = American Community Survey | publisher = US Census Bureau | date = 2007-08-22 | url = http://www.census.gov/acs/www/Products/Ranking/2003/R14T160.htm | accessdate = 2008-06-14}}</ref><ref>{{cite web | last = Hawn | first = Carleen | title = It may not feel like it, but your shot at the good life is getting better. Here's why | work = San Francisco magazine | publisher = Modern Luxury | year = 2007 | url = http://www.sanfran.com/archives/view_story/1068/ | archiveurl = http://web.archive.org/web/20070224105246/http://www.sanfran.com/archives/view_story/1068/ | archivedate = 2007-02-24 | accessdate = 2008-06-14}}</ref>。大型のレストラン、小売店、エンターテインメント施設が誕生した。生活費の高騰により、中・低所得者層は街中を去ってベイ・エリアの郊外や、[[カリフォルニアセントラルヴァレー]]へ移り住んでいった<ref name="MiddleClass">{{cite news | last = Hendricks | first = Tyche | title = Rich City Poor City: Middle-class neighborhoods are disappearing from the nation's cities, leaving only high- and low-income districts, new study says. | work = San Francisco Chronicle | page = A-1 | publisher = Hearst Communications | date = 2006-06-22 | url = http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?file=/c/a/2006/06/22/MNG6HJIDMM1.DTL | accessdate = 2008-06-14}}</ref>。 |
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多様な文化が融合していることで知られ、自由な空気に包まれている印象がある。[[1950年代]]には[[ビートニク]]、[[1960年代]]には[[ヒッピー]]が流行し、世を席捲した。 |
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[[ファイル:Fillmore-sidewalk-1.jpg|thumb|left|パシフィックハイツのフィルモア・ストリートには、ブティックが並ぶ。]] |
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フィナンシャル・ディストリクトやユニオン・スクエア周辺のような商業・ショッピングの中心地は、世界的に知られているが、同時にそれを取り巻く多用途(商業・居住混在)地域も、文化的な多様性があり、中心部から気軽に歩いて足を延ばせることから、サンフランシスコの特色となっている。そのため、サンフランシスコに対しては、「最も歩きやすい街」という評価もある<ref>{{Cite news | first = James | last = Temple | title = S.F. a step ahead as most 'walkable' U.S. city | url = http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2008/07/16/MN3J11Q3N8.DTL | page = A-1 | publisher = San Francisco Chronicle | date = 2008-07-17 | accessdate = 2008-07-18}}</ref><ref>{{Cite web | url = http://www.walkscore.com/rankings/San_Francisco | title = WalkScore #1 San Francisco | accessdate = 2008-07-18 | publisher = Walkscore.com}}</ref>。これらの多用途地区には、ビジネス、レストラン、コンサート会場などがあり、多くの市民や観光客が利用している。カウ・ホロー地区のユニオン・ストリートや、ノウ・バレー地区の24番ストリートのように、ブティック、カフェ、ナイトスポットが混じる街もある。こうした街づくりは、SoMa(サウスオブマーケット)地区におけるビジネスと住民サービスが並行する再開発などにも影響を及ぼしている<ref name="FogDev">{{Cite news | last = Wach | first = Bonnie | title = Fog City rises from the funk. | work = USA Today | publisher = Gannett Company, Inc. | date = 2003-10-03 | url = http://www.usatoday.com/travel/destinations/cityguides/sanfrancisco/worthdoing.htm | accessdate = 2006-09-04}}</ref>。 |
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[[ファイル:Castro Rainbow Flag.jpg|thumb|upright|right|[[LGBT]]運動のシンボルである[[レインボーフラッグ]]は、サンフランシスコで生まれた。[[カストロ通り]]にはこうした旗が多く掲げられている。]] サンフランシスコは、誕生以来、今日に至るまで、アジアやラテンアメリカの移民を多く受け入れ、国際色あふれる街となっている。市民の39%が海外生まれで<ref name="SFEconomicStrategy">{{Cite web | last = Egan | first = Ted | title = An Overview of San Francisco's Recent Economic Performance - Executive Summary | publisher = ICF Consulting | date = 2006-04-03 | url = http://www.sfgov.org/site/uploadedfiles/moed/economic_strat/ExecutiveSummary_EconomicPerformanceReview.pdf | format = PDF | accessdate = 2008-06-14}}</ref>、こうした市民の需要に応える会社や施設が集まった地区も多い。中でも、1970年代から急増した中国系移民は、古くからチャイナタウンを中心に栄えてきたコミュニティを活性化し、毎年行われる[[旧正月]]の祭りは、中国国外で最大のものに成長した<ref>{{cite news | last = Lam | first = Eric | title = San Francisco Chinese New Year Parade Embroiled in Controversy | publisher = The Epoch Times | date = 2005-12-22 | url = http://en.epochtimes.com/news/5-12-22/36073.html | accessdate = 2008-06-14}}</ref>。 |
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1950年代における[[ビート・ジェネレーション]]と言われる作家・芸術家らの流入、1960年代のハイト・アシュベリーにおける[[サマー・オブ・ラブ]]でピークに達した社会変動を経て、サンフランシスコはリベラル派の牙城となった。[[民主党 (アメリカ)|民主党]]及び[[アメリカ緑の党]]が市政を握っている。1988年以来、大統領選挙や上院議員選挙で[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の得票率は20%未満である<ref>{{Cite web | last = Leip | first = Dave | title = Dave Leip's Atlas of U.S. Presidential Elections | publisher = Dave Leip | date = 2008-06-04 | url = http://www.uselectionatlas.org/ | accessdate = 2008-06-14}}</ref>。例えば、2006年、サンフランシスコの監理委員会(郡行政執行機関)は「ヘルシー・サンフランシスコ」プログラムを制定し、健康保険のない市民への医療に補助金を支給することを決めた<ref>{{Cite web | url = http://www.kff.org/uninsured/upload/7760.pdf | format = PDF | title = Key Facts: Healthy San Francisco | accessdate = 2008-03-14 | year = 2008 | publisher = Kaiser Commission on Medicaid and the Uninsured}}</ref>。 |
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また、ゲイ人口が多く、その政治的・文化的な影響力も大きい。世界のゲイの人々にとっては最も人気のある観光地であり、世界最大・最古の[[ゲイ・パレード]]である「サンフランシスコ・プライド」が開かれる。 |
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現在では、中心部の[[カストロ (サンフランシスコ)|カストロ・ストリート]]を中心とした世界最大の[[ゲイ・タウン|ゲイコミュニティ]]がある街としても知られ、毎年6月には「プライド」と称した[[ゲイ・パレード|パレード]]やイベントが開催される。 |
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=== 大学 === |
=== 大学 === |
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== ジャパンタウン == |
== ジャパンタウン == |
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Japantown(日本町, Little Osaka, J town)サンフランシスコの Western Addition にある6平方ブロックの地域。日本や[[大韓民国|韓国]]、[[中華]]の[[レストラン]]、[[スーパーマーケット]]、[[ショッピングモール]]、[[ホテル]]、[[銀行]]、[[紀伊國屋書店]]の支店など多数の店がある。Post Street が大通りで、中心には[[1968年]]開設の Japan Center(3つの日系ショッピングセンターと Peace Pagoda がある)がある。[[パゴダ]]は[[大阪]]の人々によって寄贈された。 |
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[[ファイル:Posted Japanese American Exclusion Order.jpg|thumb|200px|right|日系人をサンフランシスコから追い出す旨の公報(1942年4月1日)]] |
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Japantown, (日本町, Little Osaka, J town)サンフランシスコの Western Addition にある6平方ブロックの地域。日本や[[大韓民国|韓国]]、[[中華]]の[[レストラン]]、[[スーパーマーケット]]、[[ショッピングモール]]、[[ホテル]]、[[銀行]]、[[紀伊國屋書店]]の支店など多数の店がある。Post Street が大通りで、中心には[[1968年]]開設の Japan Center(3つの日系ショッピングセンターと Peace Pagoda がある)がある。[[パゴダ]]は[[大阪]]の人々によって寄贈された。 |
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[[image:Posted Japanese American Exclusion Order.jpg|thumb|200px|right|日系人をサンフランシスコから追い出す旨の公報(1942年4月1日)]] |
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[[カリフォルニア州]]最大の日本町で、唯一の[[第二次世界大戦]]前からある日本町。日本の[[真珠湾攻撃]]後、[[アメリカ合衆国の政治|アメリカ政府]]は[[日系アメリカ人]]を[[強制収容所]]に収容した([[日系人の強制収容]])。その後[[軍需産業]]を探しに来た[[アフリカ系アメリカ人]]が居住した。戦後一部の日本人は戻り地域の再復興を行った、[[1960年代]]から[[1980年代]]の大規模な再開発の時期に、多くのアフリカ系アメリカ人は今日の居住地、西部 Filmore District、東部 Tenderloin、南部 Hunters Point に移動した。同時に多くの日系アメリカ人は戻り、新日本移民の移住、[[日本政府]]、企業による投資が行われた。 |
[[カリフォルニア州]]最大の日本町で、唯一の[[第二次世界大戦]]前からある日本町。日本の[[真珠湾攻撃]]後、[[アメリカ合衆国の政治|アメリカ政府]]は[[日系アメリカ人]]を[[強制収容所]]に収容した([[日系人の強制収容]])。その後[[軍需産業]]を探しに来た[[アフリカ系アメリカ人]]が居住した。戦後一部の日本人は戻り地域の再復興を行った、[[1960年代]]から[[1980年代]]の大規模な再開発の時期に、多くのアフリカ系アメリカ人は今日の居住地、西部 Filmore District、東部 Tenderloin、南部 Hunters Point に移動した。同時に多くの日系アメリカ人は戻り、新日本移民の移住、[[日本政府]]、企業による投資が行われた。 |
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;[[サンフランシスコの空の下]] |
;[[サンフランシスコの空の下]] |
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:両親を失った5人の兄弟の物語。 |
:両親を失った5人の兄弟の物語。 |
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;[[セックス・アンド・ザ・シティ]] |
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:物語の舞台はニューヨーク・マンハッタンだが、主人公のキャリーがニューヨークからサンフランシスコまで列車で旅をするエピソードがあり、その中で「ゴールデンゲートブックストア」という架空の書店も登場する。またシーズン4の最終エピソードでは恋人のミスタービッグがサンフランシスコ北のナパに引っ越すという設定になっている。 |
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;[[名探偵モンク]] |
;[[名探偵モンク]] |
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:[[神経症]]の元警官が犯罪コンサルタントとして活躍するミステリー。 |
:[[神経症]]の元警官が犯罪コンサルタントとして活躍するミステリー。 |
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;「[[スタートレック]]」シリーズ(テレビシリーズ、映画版シリーズともに) |
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:各シリーズの劇中では、22世紀後半(の2161年)以降、[[惑星連邦]]の首都とされており、連邦最高評議会、[[宇宙艦隊]]司令本部、宇宙艦隊士官アカデミーなどが設置されている。なお、5番目のテレビシリーズである『[[スタートレック:エンタープライズ]]』の舞台となる22世紀中期(の2150年代)の時点では、惑星連邦・宇宙艦隊の前身である[[地球連合]]の宇宙艦隊司令本部などが設置されているという設定になっている。 |
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== その他 == |
== その他 == |
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* '''合衆国皇帝にしてメキシコの庇護者ノートン1世'''を名乗った男、[[ジョシュア・ノートン]]が住んでいた都市。 |
* '''合衆国皇帝にしてメキシコの庇護者ノートン1世'''を名乗った男、[[ジョシュア・ノートン]]が住んでいた都市。 |
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* 日米親善の功績を認められた[[浅野七之助]]を記念して、[[5月16日]]を'''浅野七之助デー'''と定めた。 |
* 日米親善の功績を認められた[[浅野七之助]]を記念して、[[5月16日]]を'''浅野七之助デー'''と定めた。 |
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=== 関連項目 === |
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== 関連項目 == |
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* [[ギャヴィン・ニューソン]] - 市長。 |
* [[ギャヴィン・ニューソン]] - 市長。 |
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* [[日本人街]] |
* [[日本人街]] |
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2010年10月14日 (木) 10:55時点における版
サンフランシスコ City and County of San Francisco | |||
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愛称 : The City by the Bay, Fog City | |||
位置 | |||
座標 : 北緯37度46分0秒 西経122度26分0秒 / 北緯37.76667度 西経122.43333度 | |||
行政 | |||
国 | アメリカ合衆国 | ||
州 | カリフォルニア州 | ||
市 | サンフランシスコ | ||
市長 | ギャビン・ニューサム | ||
地理 | |||
面積 | |||
市域 | 122 km2 (47 mi2) | ||
陸上 | 121.0 km2 (46.7 mi2) | ||
水面 | 479.7 km2 (185.2 mi2) | ||
都市圏 | 8,869.3 km2 (3,424.4 mi2) | ||
標高 | 16 m (52 ft) | ||
人口 | |||
人口 | (2006年現在) | ||
市域 | 798,680人 | ||
人口密度 | 6,115人/km2(15,837人/mi2) | ||
市街地 | 3,385,000人 | ||
都市圏 | 7,168,176人 | ||
その他 | |||
等時帯 | 太平洋標準時 (UTC-8) | ||
夏時間 | 太平洋夏時間 (UTC-7) | ||
公式ウェブサイト : http://www.sfgov.org/ |
サンフランシスコ(英語: City and County of San Francisco)は、アメリカ合衆国西海岸にある、カリフォルニア州の北部に位置する都市であり、アメリカ西海岸を代表するグローバル都市である。
概要
キリスト教のフランシスコ会の修道士が創設者の聖フランシスコを街の名に付けたのが地名の由来である。漢字では、桑港や旧金山と表記される。桑港は、「サンフランシスコ」を音訳した「桑方西斯哥」(現代中国語普通話ではSāngfāngxīsīgē(サンファンシースーコー)の発音になる)の頭文字「桑」(サン)に、港町である事を示す「港」を加えたものである。この漢字表記は、現地の日系社会でも使われるため、商店や日本語学校などの名称によく見られる。ジャパンタウン(日本人街)にある曹洞宗の寺院「日本山桑港寺(そうこうじ)」はその代表である。一方の旧金山(舊金山)は、1849年に起こったカリフォルニア・ゴールドラッシュにちなんだ名称である。当初この地に労働者としてきた華人たちはサンフランシスコを「金山」と呼んだが、後にオーストラリア・ビクトリア州など他の地域でもゴールドラッシュが起きるとサンフランシスコは旧金山と呼ばれるようになった(「新金山」はメルボルンを指す)。現地の中国系社会では、桑港と同様に「サンファン」の音を当てはめた三藩が旧金山よりも多用される傾向があり、市当局も中文での名称を三藩市としている。[1]
アメリカの他地域では頭文字の「SF」や「フリスコ(Frisco)」愛称・略称で呼ばれることが多い。または「サンフラン」(San-Fran)との略称で呼ばれることもある。日本では、特に(航空機での渡航の対象として)「シスコ」の略称で呼ばれることも多い。地元とベイエリア周辺では単純に愛情を込めて「the city」と呼ばれることが多い。
ロサンゼルスと共にカリフォルニア経済、工業の中心地として知られており、金融センターとしてアメリカ西海岸では随一の重要性を持っている[2]。サンフランシスコ自体の人口は776,733人(2000年国勢調査)だが、対岸のオークランドなどを含めた都市圏(MSA)の人口は4,123,747人にも上り、全米第12位の規模。更に南岸のサンノゼを加えたサンフランシスコ・ベイエリア全体の人口は7,092,596人で広域都市圏(CSA)として全米6番目の規模である。(いずれも2000年国勢調査)それゆえに大規模なダウンタウンが形成されており、近代的なビルが建ち並ぶ。シリコンバレーやカリフォルニア大学バークレー校にも近く、コンピュータ系の企業も多い。
サンフランシスコの気候は地中海性気候に属し、一年中気温の差があまり無く、気候的にも住みやすい都市である。急な坂や深い霧に覆われる場合が多いことでも有名である。都市部から13マイルほど南下すると、サンフランシスコ国際空港がある。
観光地としての評価も非常に高い都市であり、外国人のみならず、アメリカ人の間でも訪れたい都市の上位にランクされている。有名な観光スポットとしてゴールデンゲートブリッジ(金門橋)やフィッシャーマンズワーフ、ツインピークス等が挙げられる。市内を走る伝統あるケーブルカーも人気が高い。
2010年、アメリカの外交専門誌フォーリンポリシーにより、サンフランシスコは世界第12位のグローバル都市に選ばれている[3]。北米では、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスに次いで、第4位である。
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メイスン通り
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ロンバード・ストリート
(ロシア坂)
歴史
この土地に人が居住していた最古の痕跡は、紀元前3000年に遡る[4]。ガスパル・デ・ポルトラ率いるスペイン人の入植者が1769年11月2日に到達したのが、記録されている中ではヨーロッパ人による最初のサンフランシスコ湾到達であるが、それまで、インディアン部族オーロネ族のグループがいくつかの小さな村に分かれて住んでいる状態であった[5]。その7年後の1776年3月28日、スペイン人によってサンフランシスコ要塞が築かれ、続いてサンフランシスコ・デ・アッシス伝道所が建設された。
1821年、スペインからのメキシコ独立革命により、この地はメキシコの一部となった。メキシコの統治の下、伝道所の制度は徐々に廃止され、その土地は民営の牧場に転換されていった。1835年、イギリス人ウィリアム・リチャードソンが現在のポーツマス・スクエアに当たる船着場近くに初めて独立の自作農場を作った[6]。彼は、フランシスコ・デ・ハロ市長とともに街路計画を立て、ヤーバ・ブエナと名付けられたこの街にアメリカの入植者が集まってくるようになった。米墨戦争中の1846年7月7日、アメリカ軍のジョン・スロート代将がカリフォルニアをアメリカの領土と宣言した。翌1847年、ヤーバ・ブエナはサンフランシスコと改名され[7]、メキシコはグアダルーペ・イダルゴ条約で正式にこの一帯の領地をアメリカに割譲した。サンフランシスコは、港として、また海軍基地としても絶好の立地にあったが、当時はまだ住みにくい小さな植民地であった[8]。
ところが、カリフォルニア・ゴールドラッシュによって、金を求めて多くの人が押し寄せた。サワードウ・ブレッドを携えた人夫[9]がこの街に集まり、人口は1848年の1000人から1849年には2万5000人へと増加し[10]、競合するベニシアを超えるようになった[11]。莫大な富を手に入れられるという望みは大きく、船で到着した者は金鉱へと駆け出し、港にはたくさんの船のマストがはためいた[12]。1850年協定によってカリフォルニアは州の資格を得、アメリカ軍はサンフランシスコ湾を防衛するためゴールデンゲート海峡の砦フォート・ポイントと、アルカトラズ島の砦を築いた。1859年のカムストック鉱脈をはじめとする銀の発見も、急速な人口増大を更に後押しした[13]。鉱山の一旗組の中には無法者も多く、バーバリコースト地区は、犯罪、売春、ギャンブルの巣窟として悪名をとった[14]。
ゴールドラッシュで成功した多くの企業家が、その財を元手に事業を展開した。1852年にはウェルズ・ファーゴが設立され、1864年にはカリフォルニア銀行が設立された。サンフランシスコ港の発展により、街は交易の中心地となった。リーヴァイ・ストラウスは衣類の事業を、ドミンゴ・ギラーデリーはチョコレート製造業を始めた。様々な移民労働者の存在により、街には多様な文化が入り交じり、例えば中国人の鉄道労働者によってチャイナタウンが生まれた。1873年にケーブルカーが敷かれ、クレイ・ストリートの急な坂を上るようになった。ビクトリア様式の家々が立ち並ぶようになり、広い公園の必要が叫ばれるようになって、ゴールデンゲートパークの計画につながった。学校、教会、劇場、その他様々な施設が建てられた。サンフランシスコ要塞は、太平洋岸におけるアメリカの最も重要な軍事施設となった[15]。20世紀を迎える時点で、サンフランシスコは、その華やかさ、豪華なホテル、ノブヒル地区のけばけばしい邸宅、そして芸術の繁栄で知られるようになった[16]。
1906年4月18日午前5時12分、サンフランシスコ地震がサンフランシスコ市内及びカリフォルニア北部を襲った。建物は倒壊し、破裂したガス管が引火して火災が発生し、数日間にわたって街中を焼き尽くした。水道管は使えなくなっていたので、サンフランシスコ要塞の砲兵隊は建物をダイナマイトで破壊することで防火帯を作り、火を封じ込めようとした[17]。街の4分の3以上が灰燼に帰し、ダウンタウンの中心部はほとんど焼けてしまった[18]。当時の記録によれば、498人が命を落としたとされるが、現代の推計では死者は数千人に上るだろうと考えられている[19]。市の人口40万人のうち半数以上が住む家を失った[20]。避難者は、しばらくの間、ゴールデンゲートパークや、要塞や、海岸などに設けられた間に合わせのテント村で生活した。また、サンフランシスコの東のイーストベイまで移住した人も多い。
その後、復興が急ピッチで進んだ。街路を一から設計しなおすよう求める声もあったが、サンフランシスコ市民は、スピードを優先した[21]。アマデオ・ジアニーニが創設したバンク・オブ・イタリー(後のバンク・オブ・アメリカ)は、生計の手段を奪われた人々に貸出しを行った。ノブヒル地区の倒壊した邸宅は、豪華ホテルとなった。サンフランシスコ市庁舎は、見事なボザール様式で再建され、1915年のサンフランシスコ万国博覧会でその再生が祝われた[22]。
その後、サンフランシスコは、金融センターとしての地位を強固なものにしていった。1929年のウォール街大暴落の時でさえ、サンフランシスコの銀行は一つも破綻しなかった[23]。世界恐慌の最中も、サンフランシスコではサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ(1936年完成)とゴールデンゲートブリッジ(1937年完成)という2大プロジェクトが同時に進行していた。なお、同じころ、軍事施設だったアルカトラズ島が連邦刑務所となり、アル・カポネ、マシンガン・ケリー、「バードマン」と呼ばれたロバート・フランクリン・ストラウドなどがここに収容された。さらに、1939年から1940年にかけては2度目の国際博覧会となるゴールデンゲート国際博覧会が開かれ、その会場として湾内に人工島トレジャー島が造成された。
第2次世界大戦中、ハンターズ・ポイント海軍造船所は軍事活動のハブとなり、フォート・メイソンが太平洋戦域に出発する兵士の乗船場となった[24]。雇用の爆発的な増大により、特に南部からのアフリカ系アメリカ人が職を求めて集まってきた。戦後、港に帰ってきた復員兵や、それまでに集まっていた労働者の多くが、そのままサンフランシスコに留まった。1945年、国際連合憲章がこの地で起草され、署名されたほか、太平洋戦争を正式に終結させるサンフランシスコ平和条約が締結された。
1950年代・1960年代の都市開発プロジェクトにより、市西部の取り壊しと再開発が進み、新しい高速道路の建設が始まった。もっとも、間もなく市民の反対運動が起こり、建設は間もなく停止に追い込まれた[25]。1972年、トランスアメリカ・ピラミッドビルが完成した[26]。1980年代にはサンフランシスコの「マンハッタン化」が進み、ダウンタウンに多数の高層ビルが立ち並ぶようになり[27]。港湾機能が次第にオークランド港に移転していくに伴って、市の製造業人口は減少を始め、代わって市の経済における重要性を増したのが観光である。郊外の発展が著しく、白人人口が市内を去り、アジア系・ラテンアメリカ系移民が流入した[28][29]。また、戦後、サンフランシスコはアメリカのカウンターカルチャーの舞台でもあった。1950年代、ビート・ジェネレーションの作家たちによってサンフランシスコ・ルネッサンスが提唱され、ノースビーチ地区がその中心地となった[30]。1960年代には、ヒッピーがヘイト・アシュベリー地区に集まり、1967年のサマー・オブ・ラブでその頂点を迎えた[31]。1970年代には、サンフランシスコは性的少数者(LGBT)の権利運動の中心地となり、カストロ通りはゲイ・タウンとして著名になった。活動家のハーヴェイ・ミルクがサンフランシスコ市会議員に当選したが、1978年、ジョージ・マスコーニ市長とともに暗殺された[32]。
1989年にはロマ・プリータ地震が、サンフランシスコを含むベイ・エリアを襲った。マリナ地区やSoMa(サウス・オブ・マーケット)地区では建物の倒壊が激しく、エンバカデロ・フリーウェイ(州道480号)や、セントラル・フリーウェイの多くの部分が崩落した。なお、こうした高速道路の破壊を機に、市は歴史的な街並みの再建へ転じることになった。
1990年代後半のインターネット・バブル(ドットコム・バブル)の中、ベンチャー企業が経済の原動力となった。多くの起業家やコンピューター・アプリケーション企業がこの街に集まり、続いてマーケティングや営業の専門職が住むようになって、一時期は荒廃していた地区でジェントリフィケーションが進んだ。2001年、バブルが崩壊すると、これらの企業の多くが倒産し、その従業員も街を去った。とはいえ、その後も、ハイテク産業と起業家精神は、サンフランシスコの経済を支える屋台骨であり続けている[33]。
自然
地勢
サンフランシスコは、アメリカ西海岸、サンフランシスコ半島の先端に位置し、半島の周囲をめぐる太平洋とサンフランシスコ湾の広い海域も市の領域に含まれる。 アルカトラズ島、トレジャー島、イェルバ・ブエナ島、アラメダ島の一部、レッドロック島、エンジェル島といった島々も市に属する。また、太平洋の43km沖合にある無人島のファラロン諸島も、同様に市に属する。本土部分はおおまかに7マイル(11.3キロメートル)四方の正方形をなしているとよく表現される。ただし、水域を含む総面積は232mi² (600km²) である。
サンフランシスコは、丘が多いことで有名である。市内には50以上の丘がある[34]。ノブ・ヒル、パシフィック・ハイツ、ロシアン・ヒルなど、丘の名前からとられた町名もある。市の地理的中央部(ダウンタウンから見て南東方面)には、高い丘が連なっており、この辺りは人口密度が低い。ツインピークスは、市の中でも高い場所に二つ並ぶ丘であり、展望場所として人気がある。標高が最も高い丘はマウント・デビッドソンで、282メートル(925フィート)であるが、1934年、頂上に高さ31メートル(103フィート)の十字架が建てられた[35]。この付近には、赤と白に塗られたラジオ・テレビ電波塔のスートロ・タワーがそびえ立っている。
サンアンドレアス断層とヘイワード断層という二つの断層が、市域の近くを走っており、これが、多くの地震を引き起こすこととなっている。1906年と1989年の大地震を引き起こしたのは、いずれもサンアンドレアス断層のずれが原因であった。小規模の地震は、日常的に起こっている。大地震の脅威にどう対処するかが、市のインフラ整備の上でも重要な要素となっている。市はこれまで度々建物の耐震基準を引き上げており、古い建物については補強工事を、新規の建設については高い耐震技術水準を求めている[36]。しかし、今でも耐震性の弱い中小の建物が何千棟も残っている[37]。
サンフランシスコの陸地は、埋立てによって広がっている。マリナ地区、ハンターズ・ポイント地区のそれぞれ全部、またエンバーカデロ地区の大部分は、埋立地にある。トレジャー島は、湾内から浚渫した土砂や、ベイ・ブリッジ建設中にイェルバ・ブエナ島のトンネルを掘削した際の土砂で作られた人工島である。これらの土地は地震に対してもろく、液状化現象によって建物等に甚大な被害が及ぶことは、1989年のロマ・プリータ地震の時、マリナ地区で見られたとおりである[38]。
気候
サンフランシスコの気候は、地中海性気候であり、ケッペンの気候区分ではCsbに当たる。冬は温暖で降水量が多く、夏は気温が低く、乾燥している[39]。三方を海水面に囲まれているため、太平洋の冷たいカリフォルニア海流の影響により、季節による温度変化が少ない穏やかな気候である。気温が24°Cを超えるのは、年平均わずか29日である[40]。アメリカの主要都市の中では夏の気温が最も低い[41]。5月から10月までは乾燥しており、平均最高気温は月によって18°C から21°C 、平均最低気温は月によって11°C から13°Cである。一方,11月から4月までは雨が多く、平均最高気温は月によって14°Cから18°C、平均最低気温は月によって8°Cから11°Cである。雨の日は年平均67日、年平均降水量は518mmである[40]。雪が降ることは極めて稀で、記録の残る1852年以来、わずか10回しかない[42]。
アメリカ国立気象局による記録史上の最高気温は、1988年7月17日及び2000年6月14日の39°C、最低気温は1932年12月11日の零下3°Cである[43]。
カリフォルニア内陸の渓谷地帯で、暖められた空気が上昇して気圧が低くなるため、北太平洋高気圧からの風がゴールデンゲート海峡を通って内陸に向かい流れ込む。これによって、サンフランシスコ特有の夏期の霧が発生する[44]。ただし、市の中央部に連なる高い丘が海風をさえぎるため、市東部では霧は少なく、晴れの日が多く、降水量も西部より少ない。
サンフランシスコ(ダウンタウン)の気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
平均最高気温 °C (°F) | 14.5 (58.1) |
16.3 (61.4) |
16.9 (62.5) |
18.1 (64.5) |
18.6 (65.4) |
19.8 (67.7) |
20.1 (68.2) |
20.7 (69.2) |
21.8 (71.3) |
21.3 (70.4) |
17.8 (64.1) |
14.8 (58.6) |
18.4 (65.1) |
平均最低気温 °C (°F) | 8 (46.4) |
9.2 (48.5) |
9.6 (49.2) |
10.1 (50.1) |
10.8 (51.4) |
11.8 (53.2) |
12.4 (54.4) |
13.1 (55.6) |
13.4 (56.1) |
12.6 (54.6) |
10.4 (50.8) |
8.2 (46.7) |
10.8 (51.4) |
雨量 mm (inch) | 119.9 (4.72) |
105.4 (4.15) |
86.4 (3.40) |
31.8 (1.25) |
13.7 (0.54) |
3.3 (0.13) |
1 (0.04) |
2.3 (0.09) |
7.1 (0.28) |
30.2 (1.19) |
84.1 (3.31) |
80.8 (3.18) |
565.9 (22.28) |
平均降雨日数 | 11.4 | 10.8 | 11.2 | 6.2 | 3.3 | 1.4 | 0.4 | 0.9 | 2.1 | 4.1 | 8.7 | 9.6 | 70.1 |
出典:NOAA [45] 2010-05-31 |
街並み
市街
サンフランシスコの古くからの中心地は、市北東部の、マーケット・ストリートより北側の地域である。ここにはフィナンシャル・ディストリクトがあり、その近くには、ショッピング・スポットやホテルの集まったユニオン・スクエアもある。かつて金持ちの邸宅地だったノブ・ヒルと、海沿いのフィッシャーマンズワーフとを結ぶ急な坂には、ケーブルカーが走っている。フィッシャマンズワーフは、ダンジネスクラブ(アメリカイチョウガニ)を使った料理などで有名な観光エリアである。同じく市北東部には、曲がりくねったロンバード・ストリートの坂道で知られるロシアン・ヒル、サンフランシスコのリトル・イタリーであるノースビーチ、コイト・タワーのあるテレグラフ・ヒルといった地区がある。またその近くには1860年代にできたサンフランシスコのチャイナタウンもある。
ミッション・ディストリクトは、19世紀、「カリフォルニオ」と呼ばれるラテンアメリカ系市民や、ドイツ、アイルランド、イタリア、スカンディナヴィアからの移民労働者が住む街であった。1910年代、中央アメリカ系移民がこの街に住みつき、1950年代にはメキシコからの移民が取って代わった[46]。近年は、ヴァレンシア通りを中心にジェントリフィケーションが急速に進んでいる。1960年代のヒッピー文化を育てたヘイト・アシュベリー地区は、高級なブティックが立ち並ぶ街へと変貌し[47]、チェーン店の開業に当たっては論争も起きた[48]。一方ではボヘミアンな雰囲気も残っている。カストロ通り付近(昔はユーレカ・バレーと呼ばれていた地域)はゲイカルチャーの中心地である[49]。
ポスト・ストリート沿いには、ジャパンタウン(日本人街)がある。第2次世界大戦の時には、ここに住む日系アメリカ人たちも強制収容された。そのころ、その近くのウェスタン・アディション地区にはたくさんのアフリカ系アメリカ人が流れ込んできた。アラモ・スクエアの近くには「ペインテッド・レディー(化粧をした婦人たち)」と呼ばれるビクトリア様式の建物が並び、パシフィック・ハイツには1906年サンフランシスコ地震の後に富裕層が邸宅を構えるようになった。その更に北、マリナ・ディストリクトは、若いビジネスマンたちが住む活気のある街である[50]。
ゴールデンゲートパークの北に位置し、西は太平洋まで広がる広大な地域がリッチモンド・ディストリクトであり、その中には「ニュー・チャイナタウン」と呼ばれる場所もあるが、その他のアジアやロシア系移民もたくさん住んでいる。ゴールデンゲートパークの南には、アジア系住民が多く住むサンセット・ディストリクトが広がる[51]。リッチモンドとサンセットの両地区は、中流階級の居住地である。西側を「アウター・リッチモンド」と「アウター・サンセット」、東側を「インナー・リッチモンド」と「インナー・サンセット」と呼ぶこともある。一方、市南東部のベイビュー・ハンターズポイント地区は最貧地区で、高い犯罪率が問題となっている。ここには都市再開発の計画があるが、賛否をめぐり議論の的となっている。
SoMa(サウス・オブ・マーケット)地区は、再開発によって古い工業の街から生まれ変わり、1990年代後半のインターネットバブルを経て超高層ビルが立ち並ぶようになった。サウスビーチ地区も発展しており、更に続いてミッション・ベイ地区も カリフォルニア大学サンフランシスコ校の第2キャンパス設置を中心に再開発が進んでいる。ミッション・ベイの南東にあるポトレロ・ヒルからは、サンフランシスコのダウンタウンを見渡すことができる。
公園
ゴールデンゲートパーク国立レクリエーション地域は、年間1300万人もが訪れ、アメリカの国立公園の中でも訪問者が多い公園である。サンフランシスコ市内にあるいくつかの公園と、ほとんどのビーチがこの国立レクリエーション地域に属する。オーシャン・ビーチは太平洋に面し、サーフィンがさかんである。ベーカー・ビーチは、ゴールデンゲート海峡の西の入江にあり、昔の要塞であるプレシディオの一部に当たる。プレシディオの中には、クリッシー・フィールドという公園もある。ここは、以前は飛行場であったが、自然の姿であった塩沼を復元している。国立レクリエーション地域の中には、そのほかフォート・ファンストン、ランズ・エンド、フォート・メイソン、アルカトラズ島もある。これとは別に、アメリカ合衆国国立公園局が管理する公園としてサンフランシスコ国立海洋歴史公園がある。
また、サンフランシスコ市レクリエーション・公園局が管理する市立公園は、200を超える[52]。その中でも最大で、かつ有名なのが、ゴールデンゲートパークである[53]。市の中央部から、西に向かい太平洋まで帯状に広がっている。昔は自然の草木や砂丘に覆われていたが、1860年代に公園としての整備が始まり、何千種もの植物が移植された。温室植物園、ジャパニーズ・ティー・ガーデン、サンフランシスコ植物園などの多くの園内施設がある。淡水湖のマーセド湖の近くには、250種以上の動物(多くが絶滅危惧種)がいる市立のサンフランシスコ動物園がある[54]。
一方、カリフォルニア州公園・レクリエーション局の運営する州立公園は、キャンドルスティック・ポイント州立レクリエーション地域だけである[55]。
人口動勢
2000年現在の国勢調査2で、この都市は人口776,733人、329,700世帯及び145,068家族が暮らしている。人口密度は合衆国内で2番目の密集都市(および5番目の密集郡)である、6,423.2/km²(16,634.4/mi²)[2]。2,865.6/km²(7,421.2/mi²)の平均的な密度に346,527軒の住宅が建っている。この都市の人種的な構成は白人49.66%、黒人7.79%、インディアン0.45%、アジア30.84%、太平洋諸島系0.49%、その他の人種6.48%、混血4.28%である。人口の14.10%はヒスパニックまたはラテン系である。
民族構成は中華系19.6%、アイルランド系8.8%、ドイツ系7.7%、及びWASP6.1%である。サンフランシスコはアメリカ合衆国内で最大の中華系人口でありハワイ州以外で最大のアジア系人口を持っている。リッチモンド内のGeary ブルーバードは栄えたロシア系コミュニティーの本拠地となっている。
329,700世帯のうち、16.6%が18歳未満の子供と一緒に生活しており、31.6%は夫婦で生活している。8.9%は未婚の女性が世帯主であり、56.0%は結婚していない。38.6%は1人以上の独身の居住者が住んでおり、9.8%は65歳以上で独身である。1世帯の平均人数は2.30人であり、結婚している家庭の場合は3.22人である。
住民は14.5%が18歳未満の未成年、18歳以上24歳以下が9.1%、25歳以上44歳以下が40.5%、45歳以上64歳以下が22.3%、および65歳以上が13.7%にわたっている。中央値年齢は36歳である。女性100人ごとに対して男性は103.4人である。18歳以上の女性100人ごとに対して男性は103.1人である。
世帯ごとの平均的な収入は55,221米ドルであり、家族ごとの平均的な収入は63,545米ドルである。男性は46,260米ドルに対して女性は40,049米ドルの平均的な収入がある。一人当たりの収入は34,556米ドルである。人口の11.3%及び世帯の7.8% は貧困線以下である。全人口のうち18歳未満の13.5%及び65歳以上の10.5%は貧困線以下の生活を送っている。
インディアン部族
サンフランシスコの沿岸部から山間部、モントレーには、スペイン人が「コスタノ族」と名付けたインディアン部族の「オーロネ族」が、葦を編んで家屋やカヌーを作り、漁猟や狩猟採集を営んで生活していた。しかし、19世紀に押し寄せた白人による土地収奪によって衰退し、20世紀初頭には「絶滅した」として、保留地(Reservation)など、アメリカ連邦政府との連邦規定に準ずるすべての権利を剥奪された。
サンフランシスコ・ベイエリアには、このオーロネ族の「ムウェクマ・バンド」の部族員約400人が暮らしているが、彼らも「絶滅した」ことになっているので保留地を領有出来ない。彼らの伝統的な墓地と貝の土塁は「遺跡」扱いされて1980年代に破壊され、部族の猛抗議を無視してショッピング・センター「ベイ・ストリート・モール」が建てられた。この「遺跡」から奪われたオーロネ族の先祖数万人分の遺骨は、カリフォルニア大学バークレー校で展示されている。
2006年9月21日に、彼らはアメリカ連邦政府から認定に関して「好意的な対応」をされており、連邦登録と「復活」への期待が高まっている。
1958年以降、保留地の解消方針に沿った「インディアン移住計画」がアメリカ連邦政府によって施行され、オーロネ族以外の多数のインディアンが周辺から流入した。現在、彼らの互助組織として「アメリカインディアンの友好の家協会(Friendship House Association of American Indian Inc)」が設置されている。
1960年代に起こったインディアンたちの権利回復要求運動「レッド・パワー運動(Red Power movement)」は、同州でも高まりを見せ、1969年には、サンフランシスコ湾に浮かぶアルカトラズ島で、アルカトラズ島占拠事件が決行された。この1969年は、コロンブスの上陸を祝う「コロンブス・デー」の記念祝祭に対し、「インディアンを弔う日」として、サンフランシスコのインディアンたちが黒い腕章をつけ、ティピーを建てて抗議を行った最初の年となった。
1995年には、ディズニーのアニメ映画「ポカホンタス」の公開に抗議して、全米のインディアンたちによる大規模なデモ行進が行われた。
交通
サンフランシスコは半島に突き出た丘陵地帯という地形から、アメリカ国内ではニューヨークに次いで公共交通機関への依存度が高い大都市である。また、市内人口がそこまで多くはなく、事業所もサンフランシスコの中心部だけではなくベイエリア全体に分散していることから、地下鉄はBARTやMuniのマーケットストリート区間を除いて発達せず、路面電車やトロリーバスの比重が高い。
空路
ユナイテッド航空やアメリカン航空、デルタ航空やアラスカ航空などの国内線が多数発着するほか、日本航空やチャイナエアライン、ブリティッシュ・エアウェイズやメキシカーナ航空をはじめとする国際線も多く発着している。また、対岸のオークランド国際空港もサンフランシスコ地域の主要空港の1つとして使用されている。
道路
サンフランシスコは水路に遮られているために、通過する道路は少ない。主要な高速道路としては、ベイブリッジのサンフランシスコ側を基点としてベイブリッジを渡り東に伸びる州間高速道路80号線(I-80)、サンフランシスコ中心街から南に延びるインターステート280号線、中心街から南部と北部に延びる国道101号線がある。
市内は坂が多い上に半島であるため土地もないため、駐車場料金が非常に高い。そのため、後述のBARTやカルトレインなどの郊外の駅の多くに駐車場が併設されていて、これを使ったパークアンドライドが盛んである。
都市公共交通
- カルトレイン サンフランシスコ - サンノゼ・ギルロイ
- BART ミルブレー・サンフランシスコ国際空港 - サンフランシスコ - オークランド、バークレー、フリーモント
- サンフランシスコ市営鉄道(Muni) サンフランシスコ市内の路面電車、ケーブルカー、バスを運行
長距離鉄道路線
サンフランシスコ湾をはさんだ対岸のオークランドからアムトラックの列車が発着している。
- カリフォルニア・ゼファー オークランド~デンバー~シカゴ
- コースト・スターライト ロサンゼルス~オークランド~ポートランド~シアトル
- その他 サクラメントやサンホーキンバレーへの列車の発着がある
教育、文化及びスポーツ
シリコンバレーを中心としたITブームや、最近のインターネットバブルによりサンフランシスコの生活水準は向上し、世界中から大卒クラスの若いホワイトカラー層が集まってきている[56]。サウスビーチ地区からミッション・ベイ地区にかけて、エンバーカデロの再開発が進んだ。それにつれて、ブルーカラー層、中・低所得者層が住んでいた地区の多くでも、ジェントリフィケーションが進行した。不動産価格と世帯所得はいずれもアメリカ国内トップクラスへ跳ね上がった[57][58][59]。大型のレストラン、小売店、エンターテインメント施設が誕生した。生活費の高騰により、中・低所得者層は街中を去ってベイ・エリアの郊外や、カリフォルニアセントラルヴァレーへ移り住んでいった[60]。
フィナンシャル・ディストリクトやユニオン・スクエア周辺のような商業・ショッピングの中心地は、世界的に知られているが、同時にそれを取り巻く多用途(商業・居住混在)地域も、文化的な多様性があり、中心部から気軽に歩いて足を延ばせることから、サンフランシスコの特色となっている。そのため、サンフランシスコに対しては、「最も歩きやすい街」という評価もある[61][62]。これらの多用途地区には、ビジネス、レストラン、コンサート会場などがあり、多くの市民や観光客が利用している。カウ・ホロー地区のユニオン・ストリートや、ノウ・バレー地区の24番ストリートのように、ブティック、カフェ、ナイトスポットが混じる街もある。こうした街づくりは、SoMa(サウスオブマーケット)地区におけるビジネスと住民サービスが並行する再開発などにも影響を及ぼしている[63]。
サンフランシスコは、誕生以来、今日に至るまで、アジアやラテンアメリカの移民を多く受け入れ、国際色あふれる街となっている。市民の39%が海外生まれで[64]、こうした市民の需要に応える会社や施設が集まった地区も多い。中でも、1970年代から急増した中国系移民は、古くからチャイナタウンを中心に栄えてきたコミュニティを活性化し、毎年行われる旧正月の祭りは、中国国外で最大のものに成長した[65]。
1950年代におけるビート・ジェネレーションと言われる作家・芸術家らの流入、1960年代のハイト・アシュベリーにおけるサマー・オブ・ラブでピークに達した社会変動を経て、サンフランシスコはリベラル派の牙城となった。民主党及びアメリカ緑の党が市政を握っている。1988年以来、大統領選挙や上院議員選挙で共和党の得票率は20%未満である[66]。例えば、2006年、サンフランシスコの監理委員会(郡行政執行機関)は「ヘルシー・サンフランシスコ」プログラムを制定し、健康保険のない市民への医療に補助金を支給することを決めた[67]。
また、ゲイ人口が多く、その政治的・文化的な影響力も大きい。世界のゲイの人々にとっては最も人気のある観光地であり、世界最大・最古のゲイ・パレードである「サンフランシスコ・プライド」が開かれる。
大学
- サンフランシスコ大学(University of San Francisco、私立大学、通称「USF」)
- サンフランシスコ州立大学(San Francisco State University, 通称「SFSU」)
- カリフォルニア大学サンフランシスコ校(University of California, San Francisco, 通称「UCSF」)
- シティカレッジオブサンフランシスコ(City College of San Francisco、二年制短大、通称「CCSF」「シティカレ」)
- アカデミーオブアートユニバーシティ(The Academy of Art University、総合芸術大学)
- カリフォルニアカリナリーアカデミー(The California Culinary Academy、調理専門学校)
- ゴールデンゲート大学(Golden Gate University、私立大学 通称「GGU」)
美術館とパフォーミング・アーツ
- サンフランシスコ近代美術館(San Francisco Museum of Modern Art, 通称「SFMoMA」)
- アジア美術館(Asian Art Museum of San Francisco)
- デ・ヤング美術館(De Young Museum)
- パレスオブファインアート(Palace of Fine Arts)
- サンフランシスコ・オペラ(San Francisco Opera)
- サンフランシスコ交響楽団(San Francisco Symphony)
- ロックの殿堂, サンフランシスコ
スポーツ
- アメリカンフットボール(NFL)チームのサンフランシスコ・フォーティナイナーズの本拠地
- メジャーリーグ(MLB)の野球チーム、サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地
- バスケットボール(NBA)のゴールデンステート・ウォリアーズは対岸のオークランドにスタジアムを構えるがサンフランシスコの地元チームである。
友好姉妹都市
サンフランシスコはSister Cities International, Inc. (SCI)によって指定された、15の姉妹都市を有している。
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市歌
元はポピュラーソングや映画主題歌であった2曲が制定されている。
- I Left My Heart in San Francisco(霧のサンフランシスコ)
- 1954年にダグラス・クロス(Douglass A. Cross)が作詞、ジョージ・コリー(George Cory)が作曲した。サンフランシスコへの懐旧の想いを歌ったバラードであるが、作られた当時はヒットしなかった。その後1962年、歌手のトニー・ベネットがサンフランシスコに巡業した際、専属ピアニストのラルフ・シャロンの勧めで歌ったところ非常な好評を博した。そこでレコーディングすると300万枚を越える大ヒット曲になり、この曲を収めたベネットの同名アルバムは同年のグラミー賞を受賞した。諸外国でもヒットし、サンフランシスコのイメージアップに大きく貢献した名歌で、1969年10月6日、サンフランシスコ市歌に制定された。
- San Francisco, open your Golden Gate
- 1906年のサンフランシスコ大地震を題材に1936年に製作されたメトロ・ゴールドウィン・メイヤー社の大作映画『桑港(サンフランシスコ)』(W・S・ヴァン・ダイク監督、クラーク・ゲーブル主演)の主題歌として、 ガス・カーン(Gus Kahn)が作詞、ウォルター・ユールマン(Walter Jurmann)とブロニスロウ・ケイパー(Bronislaw Kaper)が作曲した軽快な曲で、劇中で女性歌手役のジャネット・マクドナルドによって歌われ、当時非常に流行した。懐メロ的なナンバーとして長く親しまれ、1984年5月15日に、サンフランシスコ市歌に制定された。
ジャパンタウン
Japantown(日本町, Little Osaka, J town)サンフランシスコの Western Addition にある6平方ブロックの地域。日本や韓国、中華のレストラン、スーパーマーケット、ショッピングモール、ホテル、銀行、紀伊國屋書店の支店など多数の店がある。Post Street が大通りで、中心には1968年開設の Japan Center(3つの日系ショッピングセンターと Peace Pagoda がある)がある。パゴダは大阪の人々によって寄贈された。
カリフォルニア州最大の日本町で、唯一の第二次世界大戦前からある日本町。日本の真珠湾攻撃後、アメリカ政府は日系アメリカ人を強制収容所に収容した(日系人の強制収容)。その後軍需産業を探しに来たアフリカ系アメリカ人が居住した。戦後一部の日本人は戻り地域の再復興を行った、1960年代から1980年代の大規模な再開発の時期に、多くのアフリカ系アメリカ人は今日の居住地、西部 Filmore District、東部 Tenderloin、南部 Hunters Point に移動した。同時に多くの日系アメリカ人は戻り、新日本移民の移住、日本政府、企業による投資が行われた。
同市出身のアーティスト
- サンタナ
- ビル・グレアム
- スティーヴ・ミラー・バンド
- グレイトフル・デッド
- クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス
- ジャーニー
- ジェファーソン・エアプレイン/ジェファーソン・スターシップ/スターシップ:(但し、結成されたのはサンフランシスコだがメンバーで同市出身はジェファーソン・エアプレインでヴォーカルとリズムギターを担当していたポール・カントナーだけである)。特にスターシップは、1980年代に『シスコはロックシティ』(“We built this city”)というヒット曲を生んでいることで有名。曲中に「サンフランシスコはゴージャスな快晴、ゴールデン・ゲート・ブリッジは車が大渋滞しています」というDJの声が入る。
- ドナート・カブレラ(指揮者)
- ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース
- タワー・オブ・パワー
同市を舞台とした作品
映画
- 鳥 (1963)
- ヒッチコックによるホラー映画。市内ユニオンスクエアのペットショップが冒頭に登場。メインとなる舞台はサンフランシスコ北にあるソノマカウンティのボデガベイで、現在もその家は残されている。
- 卒業 (1967)
- ダスティン・ホフマン主演。UCバークレー、ベイブリッジ、サンフランシスコ動物園などが舞台として登場。
- ブリット (1968)
- スティーブ・マックイーン主演。ポリスアクション。マックイーン自らスタントに挑んだ、市街地の坂道を爆走する激しいカーチェイスは圧巻。
- ダーティ・ハリーシリーズ (1971 - 1988)
- クリント・イーストウッド主演。ポリスアクション。
- タワーリング・インフェルノ (1974)
- スティーブ・マックイーン、ポール・ニューマン主演。舞台となる高層ビルが市内ファイナンシャルディストリクトにあるという設定。主な撮影はLAで行われたが、旧バンクオブアメリカビルやハイアットリージェンシーホテル、エンバカデロなどが登場。
- ふりむけば愛 (1978)
- 山口百恵、三浦友和主演。ゴールデンゲートブリッジや、市街地のケーブルカーが登場する。
- アルカトラズからの脱出 (1979)
- クリント・イーストウッド主演。実話を基に制作されたものである。舞台は、サンフランシスコ湾に浮かぶアルカトラズ連邦刑務所である。そこは、脱出困難な刑務所と謳われていた。そこにフランク・モリスという囚人が収容されるが、彼が他の囚人たちの情報を元に計画的な脱獄を試みるストーリーである。なお、当時の刑務所に実在した囚人の一部は、名前を変えられている。
- スタートレックIV 故郷への長い道 (1986)
- ウィリアム・シャトナー主演。宇宙船エンタープライズのクルー達は、23世紀の地球を救うために1986年のサンフランシスコへのタイム・トラベルを決行する。作中では、約150の惑星が加盟する惑星連邦の連邦評議会がサンフランシスコに置かれている設定である。
- 天使にラブ・ソングを… (1992)
- ウーピー・ゴールドバーグ主演。チャーチストリートのセントポール教会が舞台。第2作ではノースビーチのセントピーターアンドポールチャーチに舞台が変更されている。
- 愛という名の疑惑 (1992)
- リチャード・ギア、キム・ベイシンガー、ユマ・サーマン主演。ラブ・サスペンス。ゴールデンゲートブリッジの袂の灯台(実在しない架空の施設)が、クライマックスの舞台となっている。
- インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア (1993)
- トム・クルーズ、ブラッド・ピット出演。吸血鬼だと名乗る男が、記者に語ったミステリー。ゴールデンゲートブリッジやフェリービルディングなどが登場。原作・脚本を手がけたアン・ライスはサンフランシスコ州立大学出身。
- ミセス・ダウト (1993)
- ロビン・ウィリアムズ主演。舞台となった一軒家 (2640 Steiner St.) は現在観光名所となっている。
- スウィート・ノベンバー (2001)
- キアヌ・リーヴス、シャーリーズ・セロン主演。広告代理店に務める男性と、偶然出会った女性とのラブロマンス。主人公の住むアパートはポトレロヒルにある。ラストシーンはミッションドロレスパークの鉄橋。
- プリティ・プリンセス (2001)
- アン・ハサウェイ主演。主人公の住むアパートはソーマエリアにある。主人公の通う高校はパシフィックハイツにあるHamlin School。
- SAYURI (2005)
- チャン・ツィイー主演。物語の舞台は架空の日本の街(京都・祇園のイメージ)だが、ゴールデンゲートパーク内の日本庭園や、サンフランシスコ南のサラトガにある箱根ガーデン等で撮影が行われた。
- ゾディアック (2007)
- ジェイク・ギレンホール主演。1960年代にサンフランシスコ、ナパ、バレイホなどベイエリア広域で実際に起きた連続殺人事件を題材にしている。サンフランシスコ・クロニクル本社、プレシディオ、ゴールデンゲートブリッジなど。
ドラマ
- 私立探偵ハリー
- サンフランシスコを舞台としたミステリードラマ。詳しくは私立探偵ハリーの項目を参照。
- 刑事ナッシュ・ブリッジス
- サンフランシスコ市警を舞台としたポリスアクションドラマ。コメディ要素も強い。詳しくは刑事ナッシュ・ブリッジスの項目を参照。
- ダーマ&グレッグ
- サンフランシスコの地下鉄(ミュニと思われる)で出会った上流階級出身の弁護士、グレッグとヒッピーの両親の元に生まれた自由奔放な女性、ダーマの夫婦二人織り成すコメディー。サンフランシスコ市内の映像が方々に映り、かなりディフォルメされているものの、ベイエリアのヒッピー文化、多様性を見て取れる。
- フルハウス
- サンフランシスコ市内のヴィクトリア様式の1軒の家に住む父と3人姉妹とその親類にまつわるドタバタコメディー。以前NHKで何度も放送され、人気であった。一家の大黒柱、ダニエル・アーネスト・タナー は、サンフランシスコにあるケーブルテレビのキャスターという設定。このショーからの出身者に、オルセン姉妹などがいる。
- サンフランシスコの空の下
- 両親を失った5人の兄弟の物語。
- セックス・アンド・ザ・シティ
- 物語の舞台はニューヨーク・マンハッタンだが、主人公のキャリーがニューヨークからサンフランシスコまで列車で旅をするエピソードがあり、その中で「ゴールデンゲートブックストア」という架空の書店も登場する。またシーズン4の最終エピソードでは恋人のミスタービッグがサンフランシスコ北のナパに引っ越すという設定になっている。
- 名探偵モンク
- 神経症の元警官が犯罪コンサルタントとして活躍するミステリー。
- 「スタートレック」シリーズ(テレビシリーズ、映画版シリーズともに)
- 各シリーズの劇中では、22世紀後半(の2161年)以降、惑星連邦の首都とされており、連邦最高評議会、宇宙艦隊司令本部、宇宙艦隊士官アカデミーなどが設置されている。なお、5番目のテレビシリーズである『スタートレック:エンタープライズ』の舞台となる22世紀中期(の2150年代)の時点では、惑星連邦・宇宙艦隊の前身である地球連合の宇宙艦隊司令本部などが設置されているという設定になっている。
その他
- ファイナンシャルディストリクトに第12地区連邦準備銀行がおかれている。
- 合衆国皇帝にしてメキシコの庇護者ノートン1世を名乗った男、ジョシュア・ノートンが住んでいた都市。
- 日米親善の功績を認められた浅野七之助を記念して、5月16日を浅野七之助デーと定めた。
関連項目
脚注
- ^ 例:SFMTA中文ページChinese SFMTA Home
- ^ The Global Financial Centres Index 8
- ^ [1]
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外部リンク
- 公式
- 日本政府
- 観光
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