「石山本願寺」の版間の差分
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{{Otheruses|[[大阪府]][[中央区 (大阪市)|中央区]]にあった石山本願寺|その他|本願寺|[[豊臣秀吉]]が同地域に築城した大坂城|大坂城}} |
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[[Image:Ishiyamah6.jpg|200px|thumb|right|石山本願寺復興模型]] |
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{{日本の城郭概要表 |
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|img = ファイル:Ishiyamah6.jpg |
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|img_capt = 石山本願寺復興模型/大阪城天守閣所蔵 |
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|img_width =300px |
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|name = 石山本願寺 |
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|pref = 大阪府 |
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|ar_called = 石山本願寺城、大坂城 、大坂御坊、石山御坊、大坂本願寺 |
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|struct = [[平城]] |
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|tower_struct = なし |
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|builders = [[証如]] |
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|build_y = {{和暦|1533}} |
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|revamp = 不明 |
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|rulers = [[証如]]、[[顕如]] |
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|remains = なし |
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|reject_y = {{和暦|1580}} |
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|cultural asset = [[大坂城]]が特別史跡 |
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|rebuilding things = 跡地に大坂城 |
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|location = {{ウィキ座標2段度分秒|34|41|4.427|N|135|31|27.922|E|scale:80000}} |
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'''石山本願寺'''(いしやまほんがんじ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]初期から[[安土桃山時代]]にかけて、現在の[[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]大坂城にあった[[浄土真宗]]の[[寺院]]、[[城郭]]である。 |
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== 概要 == |
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[[ファイル:UemachiDaichiss.jpg|thumb|left|上町台地]] |
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{{和暦|1533}}に[[本願寺]]教団の[[本山]]となって以後発展し、戦国の一大勢力となったが、[[織田信長]]との抗争([[石山合戦]])の末、{{和暦|1580}}に[[顕如]]が明け渡し、その直後に焼亡した。 |
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寺地は[[上町台地]]の北端にある小高い丘だった。その北で[[淀川]]と旧[[大和川]]が合流しており、その付近にあった[[渡辺津]]は、淀川・大和川水系や[[瀬戸内海]]の水運の拠点で、また[[住吉]]・[[堺]]や[[和泉国]]・[[紀伊国]]と[[京都]]や[[山陽道|山陽]]方面をつなぐ陸上交通の要地でもあった。台地にそった坂に町が形成されたことから、この地は「小坂」、後に「大坂」<ref>大坂という文献上の初見は[[明応]]6年([[1497年]])11月25日、舎房建設が終了したことを知らせる[[蓮如]]の書状とされる</ref>と呼ばれたという。同寺建立以前は、[[古墳]]であったとも言われ、[[生国魂神社]]の境内であったともいわれている。同神社は太古からの神社であるため、この地が太古の[[磐座]]であったとの説もある。 |
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'''石山本願寺'''(いしやまほんがんじ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]初期から[[安土桃山時代]]にかけて、[[摂津国]][[大坂]]([[大阪市]]中央区の[[大阪城]]所在地)にあった[[浄土真宗]]の[[寺院]]である。[[1532年]]に[[本願寺教団]]の本山となって以後大いに発展して戦国の一大勢力となったが、[[織田信長]]との抗争([[石山合戦]])の末、[[1580年]]に[[顕如]]が明け渡し、その直後に焼亡した。 |
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石山本願寺は、[[堀]]、[[塀]]、[[土居]]などを設けて要害を強固にし、武装を固め防備力を増していき、次第に城郭化していたったと考えられている。「摂州第一の名城」と言われるほどになり、石山本願寺城とも呼ばれるようになった。{{-}} |
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当時の呼称は'''大坂御坊'''・'''大坂本願寺'''で、石山本願寺の呼称が普及したのは江戸時代以後である。 |
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== 沿革 == |
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=== 石山御坊時代 === |
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蓮如は{{和暦|1489}}[[法主]]を[[実如]]に譲り、自身は[[山科本願寺]]の[[山科本願寺#南殿|南殿]]に隠居した。しかし、布教活動は盛んに行われていたらしく、大坂周辺に年に何回か行き来していた。[[明応]]5年([[1496年]])9月に坊舎の建設が開始された。これが後に石山本願寺となり、これを中心に建設された[[寺内町]]が大坂の源流となったと言われている。建設は、[[堺]]の町衆、[[北陸]]、[[摂津国]]、[[河内国]]、和泉国の門徒衆の援助を得ながら、翌明応6年([[1497年]])4月に上棟があり、同年11月には総[[石垣]]の扉御門が出来、要害の寺院が完成した。蓮如は今までいくつかの坊舎を建設したが、『日本都市史研究』によると、その中でも大坂御坊がもっとも美しいものであったという記録がある、としている。 |
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[[ファイル:Syounyo.jpg|thumb|証如影像/本願寺所蔵]] |
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大坂御坊が、石山御坊とか石山御堂と呼ばれるようになったのか、理由は明確になっていないが、蓮如の[[孫]]である[[顕誓]]が{{和暦|1568}}に書いた史料によると、 |
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{{Cquote3| |
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明応第五ノ秋下旬蓮如上人(中略)一宇御建立、其始ヨリ種々ノ奇端不思議等コレアリトナン。マヅ御堂ノ礎ノ石モネカネテ地中ニアツメヲキタルガ如云々|4=反故裏書 |
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}} |
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と記されている。これによると、柱礎に適した[[石]]が土中に揃っていたという不思議な状況に因んで、[[大坂]]を石山と呼称したようになったのであろうとしている。 |
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蓮如の後継者実如は、[[細川政元]]と[[畠山義豊]]との[[明応の政変]]以降の戦いに対して、細川政元から強く参戦を求められていた。{{和暦|1506}}実如は、摂津国、河内国の門徒衆の反対を押し切り、本願寺として初めて参戦した。 |
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== 概要 == |
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{{See also|享禄・天文の乱#河内国錯乱}} |
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寺地は[[上町台地]]の北端にある小高い丘だった。その北で[[淀川]]と旧[[大和川]]が合流しており、その付近にあった[[渡辺津]]は、淀川・大和川水系や[[瀬戸内海]]の水運の拠点で、また[[住吉]]・[[堺]]や[[和泉国|和泉]]・[[紀伊国|紀伊]]方面と[[京都]]や[[山陽道|山陽]]方面をつなぐ陸上交通の要地でもあった。 |
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これ以降、本願寺は武装化していき[[武士]]勢力との抗争が始まっていく。 |
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[[天文 (元号)|天文]]元年([[1532年]])6月、[[木沢長政]]が立て篭もる[[飯盛山城]]に[[畠山義堯]]、[[筒井氏]]連合軍が攻撃した。[[法王]]は実如から[[証如]]へ移り、[[細川晴元]]より増援軍の要請をうけ、証如は大坂御坊により門徒衆2万兵を率いて[[飯盛山城#飯盛城の戦い|飯盛城の戦い]]となり勝利した。さらに増強した証如軍は[[三好元長]]を[[堺]]に追いつめ自害に追いやった。この時増強された兵数は10万兵まで膨れ上がったと伝わっている。これに危機感を覚えた細川晴元は、同年8月初旬より本願寺の[[末寺]]や大坂御坊に攻撃を仕掛けてきた。更に細川晴元は[[法華一揆]]衆や[[近江国]][[守護]][[六角定頼]]に援軍を要請、同年8月23日3-4万兵で山科本願寺を包囲、[[山科本願寺#山科本願寺の戦い|山科本願寺の戦い]]となり寺内町共々焼き討ちされて滅亡してしまう。 |
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[[画像:OsakaCastle-IshiyamaHonganjiTemple-Monument.jpg|160px|thumb|right|[[大阪城]]内の推定地石碑]] |
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{{See also|享禄・天文の乱#石山本願寺への移転と和議成立}} |
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台地にそった坂に町が形成されたことから、この地は「小坂」、後に「大坂」と呼ばれたという(大坂という地名の出現は[[1498年]]とされる)。[[1496年]]([[明応]]5年)に坊舎が建てられ、[[蓮如]]が隠居所とした。商工民などが住み[[寺内町]]を形成して自治が行われたが、大坂御坊は、蓮如の隠居坊であったことから崇敬する門徒も多く、次第に拡大して本山であった[[山科本願寺]]をも圧倒する勢いを見せる。これを危惧した蓮如の後継者[[実如]]は、[[1504年]]([[永正]]元年)に大坂門徒の鎮圧に踏み切った(「大坂一乱」・また大坂門徒には[[河内国|河内]]出身者が多かった事から「[[享禄・天文の乱|河内国錯乱]]」とも)。 |
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=== 石山本願寺時代 === |
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しかし、[[1532年]]([[天文 (元号)|天文]]元年)の[[享禄・天文の乱]]で[[山科本願寺]]が焼き討ちされて滅亡すると、大坂が本山となり、次第に堂舎を整備・拡充していった。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末期には[[城郭]]に匹敵する堅固な石垣をめぐらして要塞化しており、「城」とも見られていた。 |
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この時証如は大坂にいたが、このまま寺基を移し石山本願寺時代が始まった。山科本願寺から持ち出された祖像が転々とし、ようやく翌天文2年([[1533年]])7月25日に鎮座した。{{和暦|1533}}が築城年されているのは、この鎮座の時期が理由とされている。 |
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この間も細川晴元と石山本願寺との戦いは続き、木沢長政や[[三好長慶]]らが石山本願寺攻めに加わり、石山本願寺では[[備中国]]の[[下間頼盛]]が指揮官として赴任し、[[紀伊国]]の一向門徒衆にも援軍を要請したりしていたが、天文4年([[1535年]])11月末、山科本願寺の戦いから約3年後、ようやく両者で和議が成立する。 |
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[[織田信長]]包囲網の一角として10年に及ぶ[[石山合戦]]を繰り広げた末、[[1580年]]([[天正]]8年)に門主[[顕如]]が和睦。長男の[[教如]]はこれに従わず[[下間頼龍]]らとともに籠城を続けたが、退去を命じられて紀伊鷺森に移り、その直後に堂舎・寺内町が炎上して灰燼に帰した。<!---(信長が焼き払ったとの説もある)---> |
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細川晴元らとの抗争の中で石山本願寺は[[寺領]]を拡大し、城郭の技術者を集め、周囲に堀や土塁を築き、塀、柵めぐらし城郭としての防備を固めていった。このように石山本願寺は証如時代にすでに要害堅固な城郭に至ったと考えられている。 |
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その後[[豊臣秀吉]]が跡地に[[大坂城]]を築き、城下町を建設したため、大坂本願寺の規模や構造などはほとんどわからない。 |
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[[ファイル:Kennyo.jpg|thumb|left|顕如画像/個人蔵]] |
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証如から[[顕如]]時代となり、[[西日本]]、[[北陸]]地域の[[一向宗]]徒の勢力と、富の蓄積も拡大していった。[[イエズス会]]所属[[ガスパル・ヴィレラ]]の[[永禄]]4年([[1561年]])8月の[[手紙]]によると、 |
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{{Cquote3| |
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日本の富の大部分は、この坊主の所有なり|4=ガスパル・ヴィレラの手紙 |
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と言われるほど大きな財力を誇っていた。 |
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証如は[[外交]]手腕にも長けており、[[天皇]]、[[公家]]衆へ接近を強め、[[武田信玄]]、[[北条氏康]]、[[北条氏康]]親子、そして法敵ともなっていた六角定頼の息子[[六角義賢]]、また細川晴元の[[養女]]を[[正室]]に迎い入れ、戦国大名と同盟を結んでいき基盤の安定を整えて、石山本願寺の絶頂期をむかえていた。 |
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同寺建立以前は、[[古墳]]であったとも言われ、[[生国魂神社]]の境内であったともいわれている。同神社は太古からの神社であるため、この地が太古の[[磐座]]であったとの説もある。 |
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[[ファイル:Shingen.jpg|thumb|織田信長像/神戸市立博物館蔵]] |
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=== 石山合戦と廃城 === |
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{{See also|石山合戦}} |
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しかし、その前に立ちはだかったのが[[織田信長]]である。織田信長は上洛直後の{{和暦|1568}}に石山本願寺に対して矢銭5千[[貫]]を要求した。また{{和暦|1570}}[[正月]]に石山本願寺の明け渡しを要求したと言われている。これに対して顕如は全国の門徒衆に対して、石山本願寺防衛のため武器を携え大坂に集結するように檄を飛ばした。同盟軍で[[三好三人衆]]軍が織田信長軍と戦っている最中に、ついに織田信長打倒に決起したのが同年9月12日であった。 |
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[[ファイル:Kmnyogeki.jpg|thumb|left|300px|江州の門徒衆に向けた顕如の檄文/明照寺旧蔵]] |
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[[ファイル:Itamij15.jpg|thumb|left|300px|伊丹荒木軍記/伊丹市立博物館蔵]] |
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{{See also|野田城・福島城の戦い}} |
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ここから石山合戦が蜂起し、これ以降石山本願寺と織田信長の戦いは、連続した戦闘だけではなく、和睦戦術を交え途中断続し、両勢力とも同盟勢力の拡大をはかりながら11年も長きにわたり続いた。 |
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その間、織田信長は[[長島一向一揆]]、[[越前一向一揆]]では徹底的な制圧、[[一乗谷城の戦い]]、[[小谷城の戦い]]では[[朝倉氏]]、[[浅井氏]]の撲滅戦を挟みながら石山合戦を続けていた。特に[[天王寺の戦い (1576年)|第四次石山合戦]]では、[[尼崎城#尼崎城と大物城|尼崎城]]、[[大和田城]]、[[吹田城]]、[[高槻城]]、[[茨木城]]、[[山下城 (摂津国)|多田城]]、[[丸山城 (摂津国能勢郡)|能勢城]]、[[三田城]]、[[花隈城]]、[[有岡城]]ら大坂の周辺に10ヵ所の付け城を築き、[[住吉]]方面の[[沿岸]]にも[[砦]]を設け[[海上]]を警固した。本願寺もこれに対抗し更に防備を固め、本願寺周辺に[[支城]]を51ヵ所設けたと言われている。 |
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石山本願寺は、織田信長の長期の攻撃にも関わらず、武力で開城することは出来なかった。『日本城郭大系』によると「いくつかの要因があるにせよ、最大の理由として、城郭そのものが難攻不落の名城であったことを挙げねばならない」と解説している。 |
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[[ファイル:Tykumei.jpg|thumb|[[正親町天皇]]が命じた勅命講和]] |
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[[天正]]8年([[1580年]])3月5日、[[天皇]]からの調停で双方の和議が成立、同年4月9日顕如は[[鷺森別院]]に向けて退却、退去を拒んだ[[雑賀衆]]の一部とも講和、同年8月2日に石山本願寺を明け渡し[[雑賀城|雑賀]]へ向った。顕如の長男である[[教如]]が退去した直後に堂舎・寺内町が炎上して灰燼に帰した。二日一夜炎上し続けたと伝わっている。『[[多聞院日記]]』によると、 |
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{{Cquote3| |
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渡て後やくる様に用意しけるか云々|4=多聞院日記 |
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とあり、教如による意図的な[[放火]]との見方を記している。 |
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その後[[豊臣秀吉]]が跡地に[[大坂城]]を築き、城下町を建設したため、大坂本願寺の規模や構造などはほとんどわからなくなってしまった。 |
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[[ファイル:Ishiyama10.jpg|thumb|center|500px|石山合戦図 <写>/和歌山市立博物館蔵]] |
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== 寺院・城郭 == |
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[[ファイル:Ishiyamah8.jpg|thumb|石山本願寺推定地]] |
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『新修 大阪市史』によると「要害の地に占め、寺院とはいえ堀と土居に囲まれ、まさに堂々とした城郭であった」と記されており、石山本願寺は単純な寺院としてではなく、城郭的要素が強い寺院であったとしている。 |
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=== 立地 === |
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{{和暦|1927}}発行の『大阪市史』には、石山本願寺には大坂城本丸周辺と記されており、それがながらく定説となっていた。しかし{{和暦|1953}}に発行された『大坂城の研究』のによると、[[法円坂]]に造営されていたという新説を発表、翌{{和暦|1954}}同著作者によって発行された『大坂城址の文化史的研究』の論文にも更に法円坂説を補強する説が発表され、2案併記される状態となった。しかし{{和暦|1977}}に発行された『石山本願寺と法安寺』の論文では、『大坂城の研究』や『大坂城の文化史的研究』で提示された論拠を一つ一つ否定し、本丸、二の丸周辺説を強固なものとした。これを基に『日本城郭大系』では「これによって、石山本願寺の所在地をめぐる論争に一応の決着がついたかにみえる」と結論付けている。 |
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[[ファイル:Ishiyama4.jpg|thumb|left|石山合戦配陣図の本願寺部分拡大図/和歌山市立博物館蔵]] |
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石山御坊時代の坊舎が建っていた地は、[[淀川]][[河口]]の要港[[渡辺津]]に近く、景勝、要衝の地であったと思われ、『本願寺史』には、 |
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{{Cquote3| |
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宗主は山科から堺に赴く場合、淀川を船で下り、渡辺の津で上陸し、爾後乗馬で南下するのが例であったから、その途次この地に着目し、法安寺に立ち寄り、ついに坊舎の建設となったものであろう。この地は、北は淀川、東は大和川に囲まれた小高い丘陵で、景勝のちであると共に要害の地でもあり、また瀬戸内海への水上交通の要衡である|4=本願寺史 |
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}} |
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と記されている。また、蓮如の十男[[実悟]]が書いた『拾麈記』には、 |
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{{Cquote3| |
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摂津国東成郡生玉庄内大坂御坊ハ、明応第五秋九月廿四日ニ御覧始ラレテ虎狼ノスミカ也。家ノ一モナク畠ハカリナシリ所也|4=拾麈記 |
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}} |
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とある。人跡未墾の地であったという表現は誇張されたものとの指摘もあるが、『摂津石山本願寺 寺町の構成』では「仮に集落があったとしてもそれは無視しうる程度のものであり、むしろ実悟の伝えるような状況こそが初期寺内町の立地に共通する一つの特色を示しているのではないかと考える」とし、他の[[寺町]]と比較して建設前の石山御坊は人跡未墾の地であった可能性を指摘している。{{-}} |
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=== 規模 === |
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石山本願寺の規模に関しては、現在の大阪城の本丸、二の丸、三の丸あたりとか、大阪城の80%程度と曖昧な表現がされていた。しかし、規模に関しては[[史料]]から2つ[[引用]]されている。一つは『[[信長公記]]』で、 |
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{{quotation| |
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抑も大坂は凡日本一の境地也。(中略)加賀国より城作を召寄、方八町に相構|信長公記 巻十三(天正八年) |
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}} |
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と伝える「八[[町 (単位)|町]]説(約872m)」と、もう一つは『宇野主水日記』で |
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{{quotation| |
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中嶋天満宮ノ会所ヲ限テ、東ノ河緑マデ七町、北ヘ五町也。但屋敷ヘ入次第ニ、長柄ノ橋マデ可被仰渡云々。先以当分ハ七町五町也。元ノ大坂寺内ヨリモ事外広シ|宇野主水日記 天正十三年五月三日条 |
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}} |
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と伝える「七町(約545m)×五町(約763m)」説である。こちらは豊臣秀吉によって寺内町が[[天満]]に移され、その広さが七町×五町で、元の石山本願寺より広かったと記されている。この両史料の広さに関する記述に大きな隔たりがある。『摂津石山本願寺 寺町町の構成』では、[[宇野主水]]とは顕如の[[祐筆]]で石山本願寺を熟知しており、他の寺町と比較しても方八町説は法外に大きい等を指摘し、「『宇野主水日記』の記載の方が信憑性が高いと思われる」とし、『日本城郭大系』でも「実際は方八町もなかったのであろう」と「七町×五町説」が有力であるとしている。 |
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[[ファイル:OsakaCastle-InuiYagura.jpg|thumb|現在の外堀(豊臣期の二の丸堀)]] |
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石山本願寺の推定地は、現在の大阪城の二の丸周辺とされている。[[ルイス・フロイス]]の報告によると、 |
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{{Cquote3| |
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右は悉旧城の壁及び塀の中に築かれた|4=ルイス・フロイス 1585年11月1日の報告 |
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}} |
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とあり、また『大坂物語』によると、 |
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{{Cquote3| |
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まことにたぐひなき名地なりとしつしおぼしめして、もとありしにやぐらをそへ、ほりをふかくほりて|4=大坂物語 |
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}} |
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とあり、[[大坂城#豊臣氏大坂城|豊臣氏大坂城]]は石山本願寺の要害を踏襲したと示している。また最近の[[発掘調査]]によると、二の丸大手門付近の地表はわずか20,30cmで地下層にあたり、[[大坂城#徳川氏大坂城|徳川氏大坂城]]の本丸については10m近くも[[盛土]]され全面改修が行われているが、二の丸はほとんど盛土も行われず豊臣氏大坂城のものを部分的に改修して再用された可能性があり、さらに遡れば、石山本願寺の外堀も何らかの形で受け継がれた可能性がある。 |
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石山本願寺の実際の規模を示す史料は現在現存してないが、石山本願寺を仮に方五町余の規模とした場合、『宇野主水日記』の条件を充たし、徳川期の二の丸、現在の外堀内側の面積にほぼ充当する。これらにより『摂津石山本願寺 寺町の構成』によると「石山本願寺を大阪城二の丸に充当することは、ありえぬ想定ではないと考える」としている。 |
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[[ファイル:Gainen.gif|thumb|寺内六町構成概念図]] |
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寺内町も大きな発展を遂げていた。天文初年頃には、清水町、北町、西町、南町屋、北町屋、新屋敷の6[[町]]を数え、{{和暦|1535}}頃には檜矢町、青屋町、{{和暦|1541}}頃には造作町、横町が加わり、最盛期には10町が寺内町となり、寺域を含め完全な領主権を確保し、[[戦国大名]]に匹敵する独立王国を築きあげることになった。しかし、これら[[町屋]]の家族数や人数がどの程度の規模を擁していたかは明確になっていない。寺内の生活は統制させ、各町にある[[番屋]]には[[高札]]が掲げられていた。 |
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=== 防備 === |
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[[籠城戦]]が本格的になり始めたころ、石山本願寺は守りを強化する為、柵や五重の逆[[茂木]]、その内側には空堀、その外部には総堀を掘り、[[櫓]]を建てそこに鉄砲隊を配置していた。『[[天文日記]]』には、 |
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{{Cquote3| |
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自夜半計至今日已尅、暴風駛雨以外也。所々屋根共吹逃、松木等吹折、寺中之櫓悉吹倒之、只五相残。言語道断之次第也|4= |
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天文日記 天文十年八月十一日条 |
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}} |
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とあり、{{和暦|1541}}には[[櫓]]の数もかなりの数があったようで、石山本願寺の城郭としての基礎も整っていた。 |
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また石山本願寺は51城に及ぶ支城を配し防御面を強化していた。高津城、丸山城、ひろ芝城、正山城、森口表城、大海城、飯満城、中間村城、鴫野城、野江城、楼ノ岸城、勝曼城、木津城、難波城、本庄城が『[[信長公記]]』や『[[陰徳太平記]]』に記載がある。また、[[三津寺]][[砦]]、穢多崎砦、[[天王寺]]砦、蘇我子城、[[高屋城の戦い#補説|新堀城]]なども51城に数える事が可能との指摘もあるが、51城の全貌については不明である。 |
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== 日常 == |
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=== 番衆 === |
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石山本願寺の防衛軍として戦闘し、また日常の警備のため上番してくる門徒を「[[番衆]]」と呼ばれていた。この制度は山科本願寺時代より制度化され、石山本願寺時代に更に充実されている。堂舎の維持管理を行う「御堂番衆」と呼ばれる者もいたが、警備は番衆が行っており石山本願寺の「大鼓番屋」([[太鼓]])と呼ばれる場所に詰めて、平時でも300兵前後が常駐していた。「太鼓」という名称から、寺内町の合図や時刻を知らせるのも彼らの任務の一つであったと考えられている。[[弓矢]]、[[鑓]]などの[[武具]]は自ら用意し、食料も自弁する「自兵粮衆」、「自飯米衆」と別称で呼ばれていた。これらは個人で用意するのでなく国元から別送されている場合もあった。番衆は、宗主から[[元旦]]に挨拶をうける事になっており、弓持衆、鑓持衆、荷持衆に分かれていた。また「加賀十人組衆」、「加賀石川郡米富」、「河原十人衆」などが記録にみえ、[[加賀国]]では[[郡]]規模で組を編成して上番していたと思われる。平時の番衆は、寺内町や近所の法安寺で喧嘩がおこった時の仲裁や、土木工事にも従事していた。 |
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[[ファイル:Scene-de-forge-edo-p1000665.jpg|thumb|刀鍛冶]] |
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[[ファイル:Tepu5.jpg|thumb|火縄銃/尼信博物館所蔵]] |
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=== 刀鍛冶集団 === |
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番衆のすべてが、武器、武具、食料を自弁していたわけではない。出身地から[[銭]]が送金され、石山本願寺で購入する場合もあった。寺内町はそのような需要にも応える事が出来たと思われている。[[堀城|中嶋]]周辺には[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に刀剣生産地があり、[[室町時代]]初期には[[天王寺]]周辺に移り住み、年ごとに[[四天王寺]]に[[公事銭]]を納入していた事が記されている。これら刀鍛冶集団は石山本願寺とも結びつきが強いと推定されている。また、石山本願寺の東部にある河内国北部にも[[刀鍛冶]]集団がいた。最も顕著だったのは、堺とその周辺にある刀鍛冶集団が特に結びつきが強いと思われている。これらは現存するものも多く、小ぶりながらも入念に鍛えられ「摩利支尊天」と彫物のある作品もある。技術的には「大和物」、「山城物」とそん色ないと言われている。しかし、これら石山本願寺に刀や槍を供給した刀鍛冶集団も石山本願寺滅亡と共に離散し、新刀を伝える伝統を確立することはできなかった。 |
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=== 鉄砲 === |
|||
石山本願寺は[[鉄砲]]を兵器として数多く使用したが、文献上の初見は[[天文 (元号)|天文]]20年([[1551年]])12月6日の事で、証如の側近が[[雁]]を鉄砲で撃ち落とし証如に献上し、本願寺の北殿で雁汁がふるまわれたと『私心記』に見える。この下りは狩りの道具として使用されたが、本願寺はこの時代より鉄砲を所持しており、堺や[[雑賀衆]]を通じて容易に調達できる事が推察されている。 |
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=== 大坂並 === |
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[[ファイル:Koshoji Betsuin2.jpg|thumb|興正寺別院/富田林寺内町の中央部にあたる]] |
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[[ファイル:大ケ塚御坊顕証寺山門01.JPG|thumb|顕証寺山門/大ケ塚寺内町にある]] |
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[[ファイル:Former Kohama Shuku.jpg|thumb|小浜寺内町の復元模型(江戸時代)/宝塚市立小浜宿資料館蔵]] |
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==== 石山合戦前 ==== |
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石山本願寺は石山本願寺周辺にあった寺内町のみが支えていたわけではなく、摂津国、河内国、和泉国の寺内町も石山本願寺を支え、支えられていた。このような寺内町ネットワークの事を『寺内町と城下町』などでは「大坂並」体制と呼んでいる。その一つが[[富田林寺内町]]である。富田林寺内町では近年発掘調査が行われ、町の周辺部で18世紀の[[遺構]]しか発見できなかったことから、戦国時代の寺内町は一回り小さかった可能性が指摘されている。その小さかった富田林寺内町は、河内国の[[守護]][[畠山氏]]の[[家臣]][[安見宗房]]の禁制によって特権が与えられた。 |
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{{Cquote3| |
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'''定む 富田林道場''' |
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:一、諸公事免許の事 |
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:一、徳政行うべからざる事 |
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:一、諸商人座公事の事 |
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:一、国質、所質ならびに付沙汰の事 |
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:一、寺中の儀、いずれも大坂並たるべき事 |
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右の条々、堅く定め置きかれおわんぬ。もし、この旨に背き、違犯の輩においては、たちまち厳科に処せらるベきものなり。よって下知くだんのごとし。 |
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:永禄三年三月日 美作守|4=安見宗房の禁制 (京都大学所蔵杉山家文章) |
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}} |
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とある。この禁制に記されている富田林[[道場]]とは後の[[興正寺別院]]の事で、永禄三年とは{{和暦|1562}}の[[誤記]]、美作守は安見宗房の事を指している。第一条にある「諸公事」とは守護が賊課する[[税]]、第三条にある「座公事」とは[[商人]]に対する[[営業税]]のようなもので、それぞれ徴収を[[免除]]している。第ニ条にある「[[徳政]]」とは[[債権]][[債務]]を無効にするが、都心部では[[債権者]]が多い為、徳政が発令されると経済的打撃を受けることになり、徳政から除外するための保障を与えている。第四条にある「[[国質]]」、「[[所質]]」、「[[付沙汰]]」とは債権を回収するシステムの事で、これらを使い度々[[武士]]が[[暴力]]的に債権の取り立てがおこなわれた。そうなると[[市場]]が混乱し商人が寄り付かなくなるため、このような質取り行為を禁止している。このような特権はそれぞれの地域の武家権力から獲得していた。禁制を獲得するのに多額の[[礼金]]が必要であった為、数は少なく大規模な寺社門前町しか特権を得ることは出来なかった。しかし、富田林寺内町は規模が小さかったのに禁制を獲得している。これは第五条にある「大坂並」で、石山本願寺の寺内町と同じ待遇を富田林寺内町にも認めるというなり充実した特権を獲得できた。 |
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富田林寺内町以外に[[史料]]で確認できる「大坂並」と呼ばれる寺内町として、大伴([[富田林市]])、[[大ケ塚寺内町]](富田林市)、塚口([[尼崎市]])、[[教行寺 (西宮市)|名塩]]([[西宮市]])、[[毫摂寺 (宝塚市)|小浜]]([[宝塚市]])、[[教行寺 (高槻市)|富田]]([[高槻市]])、[[順興寺|枚方]]([[枚方市]])、[[敬応寺|招提]](枚方市)、[[顕証寺 (八尾市)|久宝寺]]([[八尾市]])、[[願泉寺 (貝塚市)|貝塚]]([[貝塚市]])などがある。これらは現在の大阪府下に石山本願寺を中心とする「衛星寺内町」郡が展開され、これらの大半が富田林寺内町と同程度の特権を獲得していた。戦国時代には[[大阪平野]]に寺内町ネットワークが張り巡らされ、[[政治]]、[[軍事]]、[[経済]]、[[宗教]]が一体となった社会体制であった。 |
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==== 石山合戦後 ==== |
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石山本願寺は、織田信長との戦い石山合戦となった時に[[長島一向一揆]]衆や[[雑賀衆]]などが応援として駆けつけていたが、大坂並と呼ばれた寺内町で、実際に石山本願寺方として兵力を出した事が確認できるのは、[[恵光寺 (八尾市)|萱振]](八尾市)、貝塚(貝塚市)のみである。それ以外の大坂並と呼ばれた寺内町、特に富田林寺内町では、{{-}} |
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{{quotation| |
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今度、下間丹後所行をもって、大坂の動き不慮の体、かつは天下に対して不儀、かつは門下の法度に背くの条、かたがたもって是非なき次第なり。しかるに、当寺内の事、下間にくみせざるのよし、忠節神妙に候。寺内の儀、いささかも別条あるべからず候。なお、蜂屋、佐久間申すべきの状くだんのこどし。 |
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:元亀元 九月 日 |
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:: 信長 |
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:富田林寺内中 |
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|織田信長の朱印状 (京都大学所蔵杉山家文章) |
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}} |
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とある。野田城・福島城の戦いの直後に出された[[朱印状]]で、内容は、石山本願寺顕如の[[側近]]であった[[下間頼総]]のせいで戦闘となったが、富田林は石山本願寺に味方しないのは神妙で、その安全は保証し「寺内の儀、いささかも別条あるべからず」とあることから特権はそのまま継続された。また{{和暦|1572}}には新たな禁制を与えている。富田林寺内町と織田信長は同盟関係にあった。すべての大坂並と呼ばれた寺内町が石山本願寺に加担したわけではなかった。 |
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== 寺院跡へのアクセス == |
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[[ファイル:Ishiyamah4.jpg|thumb|蓮如上人袈裟がけの松/現在の大阪城二の丸に位置する]] |
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[[ファイル:Ishiyama6.jpg|thumb|石山合戦絵伝 第一幅/成宗寺蔵]] |
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*電車でのアクセス |
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**[[大阪市営地下鉄]] [[大阪市営地下鉄谷町線|谷町線]] [[谷町四丁目駅]] |
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**徒歩約15分 |
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*車でのアクセス |
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**[[阪神高速道路]] [[阪神高速13号東大阪線|東大阪線]] [[法円坂出入口]] |
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**大阪城有料駐車場有り |
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== 注釈 == |
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== 参考文献 == |
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*創史社『日本城郭大系』第12巻 大阪・兵庫、新人物往来社、1981年3月、148-151頁。 |
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*新修大阪市史編纂委員会『新修 大阪市史』第2巻、1988年3月、617-645頁。 |
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*伊藤殻「摂津石山本願寺 寺町町の構成」『建築史学』第3号、1984年4月、2-25頁。 |
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*仁木宏「寺内町と城下町」『大坂・近畿の城と町』、和泉書院、2007年5月、41-61頁。 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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{{Commons|Category:Ishiyama Hongan-ji}} |
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* [[日本の寺院一覧]] |
* [[日本の寺院一覧]] |
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* [[ |
* [[日本の城一覧]] |
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* [[本願寺]] |
* [[本願寺の歴史]] |
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* [[一向一揆]] |
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* [[鉄砲伝来]] |
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* [[織田政権]] |
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* [[高屋城の戦い]] |
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* [[天王寺の戦い (1576年)]] |
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* [[有岡城の戦い]] |
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* [[紀州征伐]] |
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* [[僧兵]] |
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* [[根来衆]] |
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* [[榎並城]] |
* [[榎並城]] |
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* [[鷺森別院]] |
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* [[大坂城]] |
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* [[大和田城]] |
* [[大和田城]] |
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== 外部リンク == |
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{{Commons|Category:Ishiyama Hongan-ji}} |
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*[http://www.city.osaka.lg.jp/joto/page/0000000752.html 石山本願寺墓地跡/大阪市公式ホームページ] |
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*[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%9F%B3%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA/ 石山本願寺/Yahoo!百科事典] |
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*[http://www.pref.osaka.jp/koho/sugata/ayumi.html 大阪のあゆみ/大阪府公式ホームページ] |
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*[http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%C0%D0%BB%B3%CB%DC%B4%EA%BB%FB 石山本願寺(浄土真宗)/Web版尼崎地域史事典『apedia』] |
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*[http://www.osakacastle.net/history/haran/index.htm 大阪城歴史絵巻/大阪城天守閣公式ホームページ] |
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*[http://www.mus-his.city.osaka.jp/ 大阪歴史博物館公式ホームページ] |
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*[http://minamimido.jp/minami-mido/history.html 難波別院の沿革/南御堂の公式ホームページ] |
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*[http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.68494285860311&lon=135.5238690025549&z=18&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=34.68689475916121&hlon=135.52592357466062&layout=&ei=utf-8&p= 石山本願寺推定地周辺地図/Yahoo!地図情報 ] |
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2010年10月20日 (水) 19:24時点における版
石山本願寺 (大阪府) | |
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石山本願寺復興模型/大阪城天守閣所蔵 | |
別名 | 石山本願寺城、大坂城 、大坂御坊、石山御坊、大坂本願寺 |
城郭構造 | 平城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 証如 |
築城年 | 1533年(天文2年) |
主な改修者 | 不明 |
主な城主 | 証如、顕如 |
廃城年 | 1580年(天正8年) |
遺構 | なし |
指定文化財 | 大坂城が特別史跡 |
再建造物 | 跡地に大坂城 |
位置 | 北緯34度41分4.427秒 東経135度31分27.922秒 / 北緯34.68456306度 東経135.52442278度 |
石山本願寺(いしやまほんがんじ)は、戦国時代初期から安土桃山時代にかけて、現在の大阪市中央区大坂城にあった浄土真宗の寺院、城郭である。
概要
1533年(天文2年)に本願寺教団の本山となって以後発展し、戦国の一大勢力となったが、織田信長との抗争(石山合戦)の末、1580年(天正8年)に顕如が明け渡し、その直後に焼亡した。
寺地は上町台地の北端にある小高い丘だった。その北で淀川と旧大和川が合流しており、その付近にあった渡辺津は、淀川・大和川水系や瀬戸内海の水運の拠点で、また住吉・堺や和泉国・紀伊国と京都や山陽方面をつなぐ陸上交通の要地でもあった。台地にそった坂に町が形成されたことから、この地は「小坂」、後に「大坂」[1]と呼ばれたという。同寺建立以前は、古墳であったとも言われ、生国魂神社の境内であったともいわれている。同神社は太古からの神社であるため、この地が太古の磐座であったとの説もある。
石山本願寺は、堀、塀、土居などを設けて要害を強固にし、武装を固め防備力を増していき、次第に城郭化していたったと考えられている。「摂州第一の名城」と言われるほどになり、石山本願寺城とも呼ばれるようになった。
沿革
石山御坊時代
蓮如は1489年(延徳元年)法主を実如に譲り、自身は山科本願寺の南殿に隠居した。しかし、布教活動は盛んに行われていたらしく、大坂周辺に年に何回か行き来していた。明応5年(1496年)9月に坊舎の建設が開始された。これが後に石山本願寺となり、これを中心に建設された寺内町が大坂の源流となったと言われている。建設は、堺の町衆、北陸、摂津国、河内国、和泉国の門徒衆の援助を得ながら、翌明応6年(1497年)4月に上棟があり、同年11月には総石垣の扉御門が出来、要害の寺院が完成した。蓮如は今までいくつかの坊舎を建設したが、『日本都市史研究』によると、その中でも大坂御坊がもっとも美しいものであったという記録がある、としている。
大坂御坊が、石山御坊とか石山御堂と呼ばれるようになったのか、理由は明確になっていないが、蓮如の孫である顕誓が1568年(永禄11年)に書いた史料によると、
「 |
明応第五ノ秋下旬蓮如上人(中略)一宇御建立、其始ヨリ種々ノ奇端不思議等コレアリトナン。マヅ御堂ノ礎ノ石モネカネテ地中ニアツメヲキタルガ如云々 | 」 |
—反故裏書 |
と記されている。これによると、柱礎に適した石が土中に揃っていたという不思議な状況に因んで、大坂を石山と呼称したようになったのであろうとしている。
蓮如の後継者実如は、細川政元と畠山義豊との明応の政変以降の戦いに対して、細川政元から強く参戦を求められていた。1506年(永正3年)実如は、摂津国、河内国の門徒衆の反対を押し切り、本願寺として初めて参戦した。
これ以降、本願寺は武装化していき武士勢力との抗争が始まっていく。
天文元年(1532年)6月、木沢長政が立て篭もる飯盛山城に畠山義堯、筒井氏連合軍が攻撃した。法王は実如から証如へ移り、細川晴元より増援軍の要請をうけ、証如は大坂御坊により門徒衆2万兵を率いて飯盛城の戦いとなり勝利した。さらに増強した証如軍は三好元長を堺に追いつめ自害に追いやった。この時増強された兵数は10万兵まで膨れ上がったと伝わっている。これに危機感を覚えた細川晴元は、同年8月初旬より本願寺の末寺や大坂御坊に攻撃を仕掛けてきた。更に細川晴元は法華一揆衆や近江国守護六角定頼に援軍を要請、同年8月23日3-4万兵で山科本願寺を包囲、山科本願寺の戦いとなり寺内町共々焼き討ちされて滅亡してしまう。
石山本願寺時代
この時証如は大坂にいたが、このまま寺基を移し石山本願寺時代が始まった。山科本願寺から持ち出された祖像が転々とし、ようやく翌天文2年(1533年)7月25日に鎮座した。1533年(天文2年)が築城年されているのは、この鎮座の時期が理由とされている。
この間も細川晴元と石山本願寺との戦いは続き、木沢長政や三好長慶らが石山本願寺攻めに加わり、石山本願寺では備中国の下間頼盛が指揮官として赴任し、紀伊国の一向門徒衆にも援軍を要請したりしていたが、天文4年(1535年)11月末、山科本願寺の戦いから約3年後、ようやく両者で和議が成立する。
細川晴元らとの抗争の中で石山本願寺は寺領を拡大し、城郭の技術者を集め、周囲に堀や土塁を築き、塀、柵めぐらし城郭としての防備を固めていった。このように石山本願寺は証如時代にすでに要害堅固な城郭に至ったと考えられている。
証如から顕如時代となり、西日本、北陸地域の一向宗徒の勢力と、富の蓄積も拡大していった。イエズス会所属ガスパル・ヴィレラの永禄4年(1561年)8月の手紙によると、
「 |
日本の富の大部分は、この坊主の所有なり | 」 |
—ガスパル・ヴィレラの手紙 |
と言われるほど大きな財力を誇っていた。
証如は外交手腕にも長けており、天皇、公家衆へ接近を強め、武田信玄、北条氏康、北条氏康親子、そして法敵ともなっていた六角定頼の息子六角義賢、また細川晴元の養女を正室に迎い入れ、戦国大名と同盟を結んでいき基盤の安定を整えて、石山本願寺の絶頂期をむかえていた。
石山合戦と廃城
しかし、その前に立ちはだかったのが織田信長である。織田信長は上洛直後の1568年(永禄11年)に石山本願寺に対して矢銭5千貫を要求した。また1570年(元亀元年)正月に石山本願寺の明け渡しを要求したと言われている。これに対して顕如は全国の門徒衆に対して、石山本願寺防衛のため武器を携え大坂に集結するように檄を飛ばした。同盟軍で三好三人衆軍が織田信長軍と戦っている最中に、ついに織田信長打倒に決起したのが同年9月12日であった。
ここから石山合戦が蜂起し、これ以降石山本願寺と織田信長の戦いは、連続した戦闘だけではなく、和睦戦術を交え途中断続し、両勢力とも同盟勢力の拡大をはかりながら11年も長きにわたり続いた。
その間、織田信長は長島一向一揆、越前一向一揆では徹底的な制圧、一乗谷城の戦い、小谷城の戦いでは朝倉氏、浅井氏の撲滅戦を挟みながら石山合戦を続けていた。特に第四次石山合戦では、尼崎城、大和田城、吹田城、高槻城、茨木城、多田城、能勢城、三田城、花隈城、有岡城ら大坂の周辺に10ヵ所の付け城を築き、住吉方面の沿岸にも砦を設け海上を警固した。本願寺もこれに対抗し更に防備を固め、本願寺周辺に支城を51ヵ所設けたと言われている。
石山本願寺は、織田信長の長期の攻撃にも関わらず、武力で開城することは出来なかった。『日本城郭大系』によると「いくつかの要因があるにせよ、最大の理由として、城郭そのものが難攻不落の名城であったことを挙げねばならない」と解説している。
天正8年(1580年)3月5日、天皇からの調停で双方の和議が成立、同年4月9日顕如は鷺森別院に向けて退却、退去を拒んだ雑賀衆の一部とも講和、同年8月2日に石山本願寺を明け渡し雑賀へ向った。顕如の長男である教如が退去した直後に堂舎・寺内町が炎上して灰燼に帰した。二日一夜炎上し続けたと伝わっている。『多聞院日記』によると、
「 |
渡て後やくる様に用意しけるか云々 | 」 |
—多聞院日記 |
とあり、教如による意図的な放火との見方を記している。
その後豊臣秀吉が跡地に大坂城を築き、城下町を建設したため、大坂本願寺の規模や構造などはほとんどわからなくなってしまった。
寺院・城郭
『新修 大阪市史』によると「要害の地に占め、寺院とはいえ堀と土居に囲まれ、まさに堂々とした城郭であった」と記されており、石山本願寺は単純な寺院としてではなく、城郭的要素が強い寺院であったとしている。
立地
1927年(昭和2年)発行の『大阪市史』には、石山本願寺には大坂城本丸周辺と記されており、それがながらく定説となっていた。しかし1953年(昭和28年)に発行された『大坂城の研究』のによると、法円坂に造営されていたという新説を発表、翌1954年(昭和29年)同著作者によって発行された『大坂城址の文化史的研究』の論文にも更に法円坂説を補強する説が発表され、2案併記される状態となった。しかし1977年(昭和52年)に発行された『石山本願寺と法安寺』の論文では、『大坂城の研究』や『大坂城の文化史的研究』で提示された論拠を一つ一つ否定し、本丸、二の丸周辺説を強固なものとした。これを基に『日本城郭大系』では「これによって、石山本願寺の所在地をめぐる論争に一応の決着がついたかにみえる」と結論付けている。
石山御坊時代の坊舎が建っていた地は、淀川河口の要港渡辺津に近く、景勝、要衝の地であったと思われ、『本願寺史』には、
「 |
宗主は山科から堺に赴く場合、淀川を船で下り、渡辺の津で上陸し、爾後乗馬で南下するのが例であったから、その途次この地に着目し、法安寺に立ち寄り、ついに坊舎の建設となったものであろう。この地は、北は淀川、東は大和川に囲まれた小高い丘陵で、景勝のちであると共に要害の地でもあり、また瀬戸内海への水上交通の要衡である | 」 |
—本願寺史 |
と記されている。また、蓮如の十男実悟が書いた『拾麈記』には、
「 |
摂津国東成郡生玉庄内大坂御坊ハ、明応第五秋九月廿四日ニ御覧始ラレテ虎狼ノスミカ也。家ノ一モナク畠ハカリナシリ所也 | 」 |
—拾麈記 |
とある。人跡未墾の地であったという表現は誇張されたものとの指摘もあるが、『摂津石山本願寺 寺町の構成』では「仮に集落があったとしてもそれは無視しうる程度のものであり、むしろ実悟の伝えるような状況こそが初期寺内町の立地に共通する一つの特色を示しているのではないかと考える」とし、他の寺町と比較して建設前の石山御坊は人跡未墾の地であった可能性を指摘している。
規模
石山本願寺の規模に関しては、現在の大阪城の本丸、二の丸、三の丸あたりとか、大阪城の80%程度と曖昧な表現がされていた。しかし、規模に関しては史料から2つ引用されている。一つは『信長公記』で、
抑も大坂は凡日本一の境地也。(中略)加賀国より城作を召寄、方八町に相構 — 信長公記 巻十三(天正八年)
と伝える「八町説(約872m)」と、もう一つは『宇野主水日記』で
中嶋天満宮ノ会所ヲ限テ、東ノ河緑マデ七町、北ヘ五町也。但屋敷ヘ入次第ニ、長柄ノ橋マデ可被仰渡云々。先以当分ハ七町五町也。元ノ大坂寺内ヨリモ事外広シ — 宇野主水日記 天正十三年五月三日条
と伝える「七町(約545m)×五町(約763m)」説である。こちらは豊臣秀吉によって寺内町が天満に移され、その広さが七町×五町で、元の石山本願寺より広かったと記されている。この両史料の広さに関する記述に大きな隔たりがある。『摂津石山本願寺 寺町町の構成』では、宇野主水とは顕如の祐筆で石山本願寺を熟知しており、他の寺町と比較しても方八町説は法外に大きい等を指摘し、「『宇野主水日記』の記載の方が信憑性が高いと思われる」とし、『日本城郭大系』でも「実際は方八町もなかったのであろう」と「七町×五町説」が有力であるとしている。
石山本願寺の推定地は、現在の大阪城の二の丸周辺とされている。ルイス・フロイスの報告によると、
「 |
右は悉旧城の壁及び塀の中に築かれた | 」 |
—ルイス・フロイス 1585年11月1日の報告 |
とあり、また『大坂物語』によると、
「 |
まことにたぐひなき名地なりとしつしおぼしめして、もとありしにやぐらをそへ、ほりをふかくほりて | 」 |
—大坂物語 |
とあり、豊臣氏大坂城は石山本願寺の要害を踏襲したと示している。また最近の発掘調査によると、二の丸大手門付近の地表はわずか20,30cmで地下層にあたり、徳川氏大坂城の本丸については10m近くも盛土され全面改修が行われているが、二の丸はほとんど盛土も行われず豊臣氏大坂城のものを部分的に改修して再用された可能性があり、さらに遡れば、石山本願寺の外堀も何らかの形で受け継がれた可能性がある。
石山本願寺の実際の規模を示す史料は現在現存してないが、石山本願寺を仮に方五町余の規模とした場合、『宇野主水日記』の条件を充たし、徳川期の二の丸、現在の外堀内側の面積にほぼ充当する。これらにより『摂津石山本願寺 寺町の構成』によると「石山本願寺を大阪城二の丸に充当することは、ありえぬ想定ではないと考える」としている。
寺内町も大きな発展を遂げていた。天文初年頃には、清水町、北町、西町、南町屋、北町屋、新屋敷の6町を数え、1535年(天文4年)頃には檜矢町、青屋町、1541年(天文10年)頃には造作町、横町が加わり、最盛期には10町が寺内町となり、寺域を含め完全な領主権を確保し、戦国大名に匹敵する独立王国を築きあげることになった。しかし、これら町屋の家族数や人数がどの程度の規模を擁していたかは明確になっていない。寺内の生活は統制させ、各町にある番屋には高札が掲げられていた。
防備
籠城戦が本格的になり始めたころ、石山本願寺は守りを強化する為、柵や五重の逆茂木、その内側には空堀、その外部には総堀を掘り、櫓を建てそこに鉄砲隊を配置していた。『天文日記』には、
「 |
自夜半計至今日已尅、暴風駛雨以外也。所々屋根共吹逃、松木等吹折、寺中之櫓悉吹倒之、只五相残。言語道断之次第也 | 」 |
—天文日記 天文十年八月十一日条 |
とあり、1541年(天文10年)には櫓の数もかなりの数があったようで、石山本願寺の城郭としての基礎も整っていた。
また石山本願寺は51城に及ぶ支城を配し防御面を強化していた。高津城、丸山城、ひろ芝城、正山城、森口表城、大海城、飯満城、中間村城、鴫野城、野江城、楼ノ岸城、勝曼城、木津城、難波城、本庄城が『信長公記』や『陰徳太平記』に記載がある。また、三津寺砦、穢多崎砦、天王寺砦、蘇我子城、新堀城なども51城に数える事が可能との指摘もあるが、51城の全貌については不明である。
日常
番衆
石山本願寺の防衛軍として戦闘し、また日常の警備のため上番してくる門徒を「番衆」と呼ばれていた。この制度は山科本願寺時代より制度化され、石山本願寺時代に更に充実されている。堂舎の維持管理を行う「御堂番衆」と呼ばれる者もいたが、警備は番衆が行っており石山本願寺の「大鼓番屋」(太鼓)と呼ばれる場所に詰めて、平時でも300兵前後が常駐していた。「太鼓」という名称から、寺内町の合図や時刻を知らせるのも彼らの任務の一つであったと考えられている。弓矢、鑓などの武具は自ら用意し、食料も自弁する「自兵粮衆」、「自飯米衆」と別称で呼ばれていた。これらは個人で用意するのでなく国元から別送されている場合もあった。番衆は、宗主から元旦に挨拶をうける事になっており、弓持衆、鑓持衆、荷持衆に分かれていた。また「加賀十人組衆」、「加賀石川郡米富」、「河原十人衆」などが記録にみえ、加賀国では郡規模で組を編成して上番していたと思われる。平時の番衆は、寺内町や近所の法安寺で喧嘩がおこった時の仲裁や、土木工事にも従事していた。
刀鍛冶集団
番衆のすべてが、武器、武具、食料を自弁していたわけではない。出身地から銭が送金され、石山本願寺で購入する場合もあった。寺内町はそのような需要にも応える事が出来たと思われている。中嶋周辺には南北朝時代に刀剣生産地があり、室町時代初期には天王寺周辺に移り住み、年ごとに四天王寺に公事銭を納入していた事が記されている。これら刀鍛冶集団は石山本願寺とも結びつきが強いと推定されている。また、石山本願寺の東部にある河内国北部にも刀鍛冶集団がいた。最も顕著だったのは、堺とその周辺にある刀鍛冶集団が特に結びつきが強いと思われている。これらは現存するものも多く、小ぶりながらも入念に鍛えられ「摩利支尊天」と彫物のある作品もある。技術的には「大和物」、「山城物」とそん色ないと言われている。しかし、これら石山本願寺に刀や槍を供給した刀鍛冶集団も石山本願寺滅亡と共に離散し、新刀を伝える伝統を確立することはできなかった。
鉄砲
石山本願寺は鉄砲を兵器として数多く使用したが、文献上の初見は天文20年(1551年)12月6日の事で、証如の側近が雁を鉄砲で撃ち落とし証如に献上し、本願寺の北殿で雁汁がふるまわれたと『私心記』に見える。この下りは狩りの道具として使用されたが、本願寺はこの時代より鉄砲を所持しており、堺や雑賀衆を通じて容易に調達できる事が推察されている。
大坂並
石山合戦前
石山本願寺は石山本願寺周辺にあった寺内町のみが支えていたわけではなく、摂津国、河内国、和泉国の寺内町も石山本願寺を支え、支えられていた。このような寺内町ネットワークの事を『寺内町と城下町』などでは「大坂並」体制と呼んでいる。その一つが富田林寺内町である。富田林寺内町では近年発掘調査が行われ、町の周辺部で18世紀の遺構しか発見できなかったことから、戦国時代の寺内町は一回り小さかった可能性が指摘されている。その小さかった富田林寺内町は、河内国の守護畠山氏の家臣安見宗房の禁制によって特権が与えられた。
「 | 定む 富田林道場
右の条々、堅く定め置きかれおわんぬ。もし、この旨に背き、違犯の輩においては、たちまち厳科に処せらるベきものなり。よって下知くだんのごとし。
| 」 |
—安見宗房の禁制 (京都大学所蔵杉山家文章) |
とある。この禁制に記されている富田林道場とは後の興正寺別院の事で、永禄三年とは1562年(永禄5年)の誤記、美作守は安見宗房の事を指している。第一条にある「諸公事」とは守護が賊課する税、第三条にある「座公事」とは商人に対する営業税のようなもので、それぞれ徴収を免除している。第ニ条にある「徳政」とは債権債務を無効にするが、都心部では債権者が多い為、徳政が発令されると経済的打撃を受けることになり、徳政から除外するための保障を与えている。第四条にある「国質」、「所質」、「付沙汰」とは債権を回収するシステムの事で、これらを使い度々武士が暴力的に債権の取り立てがおこなわれた。そうなると市場が混乱し商人が寄り付かなくなるため、このような質取り行為を禁止している。このような特権はそれぞれの地域の武家権力から獲得していた。禁制を獲得するのに多額の礼金が必要であった為、数は少なく大規模な寺社門前町しか特権を得ることは出来なかった。しかし、富田林寺内町は規模が小さかったのに禁制を獲得している。これは第五条にある「大坂並」で、石山本願寺の寺内町と同じ待遇を富田林寺内町にも認めるというなり充実した特権を獲得できた。
富田林寺内町以外に史料で確認できる「大坂並」と呼ばれる寺内町として、大伴(富田林市)、大ケ塚寺内町(富田林市)、塚口(尼崎市)、名塩(西宮市)、小浜(宝塚市)、富田(高槻市)、枚方(枚方市)、招提(枚方市)、久宝寺(八尾市)、貝塚(貝塚市)などがある。これらは現在の大阪府下に石山本願寺を中心とする「衛星寺内町」郡が展開され、これらの大半が富田林寺内町と同程度の特権を獲得していた。戦国時代には大阪平野に寺内町ネットワークが張り巡らされ、政治、軍事、経済、宗教が一体となった社会体制であった。
石山合戦後
石山本願寺は、織田信長との戦い石山合戦となった時に長島一向一揆衆や雑賀衆などが応援として駆けつけていたが、大坂並と呼ばれた寺内町で、実際に石山本願寺方として兵力を出した事が確認できるのは、萱振(八尾市)、貝塚(貝塚市)のみである。それ以外の大坂並と呼ばれた寺内町、特に富田林寺内町では、
今度、下間丹後所行をもって、大坂の動き不慮の体、かつは天下に対して不儀、かつは門下の法度に背くの条、かたがたもって是非なき次第なり。しかるに、当寺内の事、下間にくみせざるのよし、忠節神妙に候。寺内の儀、いささかも別条あるべからず候。なお、蜂屋、佐久間申すべきの状くだんのこどし。
- 元亀元 九月 日
- 信長
- 富田林寺内中
— 織田信長の朱印状 (京都大学所蔵杉山家文章)
とある。野田城・福島城の戦いの直後に出された朱印状で、内容は、石山本願寺顕如の側近であった下間頼総のせいで戦闘となったが、富田林は石山本願寺に味方しないのは神妙で、その安全は保証し「寺内の儀、いささかも別条あるべからず」とあることから特権はそのまま継続された。また1572年(元亀3年)には新たな禁制を与えている。富田林寺内町と織田信長は同盟関係にあった。すべての大坂並と呼ばれた寺内町が石山本願寺に加担したわけではなかった。
寺院跡へのアクセス
注釈
参考文献
- 創史社『日本城郭大系』第12巻 大阪・兵庫、新人物往来社、1981年3月、148-151頁。
- 新修大阪市史編纂委員会『新修 大阪市史』第2巻、1988年3月、617-645頁。
- 伊藤殻「摂津石山本願寺 寺町町の構成」『建築史学』第3号、1984年4月、2-25頁。
- 仁木宏「寺内町と城下町」『大坂・近畿の城と町』、和泉書院、2007年5月、41-61頁。