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|始祖 =
|始祖 =
|出自 =
|出自 =
|氏祖 = [[始皇帝]]<br />[[弓月君]]
|氏祖 = '''称'''・[[弓月君]]<br />('''称'''・[[秦]]の[[始皇帝]]後裔)
|種別 = [[諸蕃]]
|種別 = [[諸蕃]]
|本貫 = [[豊前国]]<br />[[出雲国]]<br />[[伊予国]]<br />[[阿波国]]<br />[[吉備国]]<br />[[針間国]]<br />[[山城国|山背国]][[葛野郡]]<br />[[山城国|山背国]][[紀伊郡]]<br />[[大和国]]<br />[[河内国]][[讃良郡]]<br />[[丹波国]][[桑田郡]]<br />[[美濃国]][[加茂郡]]<br />[[相模国]][[大住郡]]
|本貫 = [[豊前国]]<br />[[出雲国]]<br />[[伊予国]]<br />[[阿波国]]<br />[[吉備国]]<br />[[針間国]]<br />[[山城国|山背国]][[葛野郡]]<br />[[山城国|山背国]][[紀伊郡]]<br />[[大和国]]<br />[[河内国]][[讃良郡]]<br />[[丹波国]][[桑田郡]]<br />[[美濃国]][[加茂郡]]<br />[[相模国]][[大住郡]]など
|人物 = [[秦河勝]]
|人物 = [[秦河勝]]
|後裔 = [[惟宗氏|惟宗朝臣]]<br />石川家([[地下家]])<br />大石家(地下家)<br />[[小畑家]](地下家)<br />[[瀬尾家]](地下家)<br />[[調子家]](地下家)<br />[[土山家]](地下家)<br />[[東儀家]](地下家)<br />平田家(地下家)<br />[[藤木]](地下家)<br />[[松室]](地下家)<br />[[三上家]](地下家)<br />東家([[社家]])<br />[[大西]](社家)<br />西大路家(社家)<br />[[荷田家]](社家)<br />[[羽倉家]](社家)<br />松尾家(社家)<br />南家(社家)<br />[[大蔵氏]]([[武家]])<br />[[川勝氏]](武家)<br />[[島津氏]](武家)<br />[[氏]](武家)<br />[[松下氏]](武家)
|後裔 = [[惟宗氏|惟宗朝臣]]<br />[[東儀]]([[地下家]])<br />[[小畑]](地下家)<br />[[瀬尾家]](地下家)<br />[[土山家]](地下家)<br />[[三上家]](地下家)<br />[[調子家]](地下家)<br />[[藤木家]](地下家)<br />[[松室家]](地下家)<br />平田家(地下家)<br />石川家(地下家)<br />大石家(地下家)<br />松尾家([[家]])<br />東家([[社家]])<br />家(社家)<br />西大路家(社家)<br />[[大西家]](社家)<br />[[羽倉家]](社家)<br />[[荷田]](社家)<br />[[川勝氏]]([[武家]])<br />[[大蔵氏]](武家)<br />[[松下氏]](武家)<br />[[島津氏]](武家)<br />[[氏]](武家)など
}}
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<!-- 出典が明記がされている文章は除去しないで下さい(ノート:弓月君での合意による)。-->
<!-- 出典が明記がされている文章は除去しないで下さい(ノート:弓月君での合意による)。-->
'''秦氏'''(はたうじはたし)は、「秦」を[[氏]]の名とする[[氏族]]。
'''秦氏'''(はたうじはたし)は、「秦」を[[氏]]の名とする[[氏族]]。[[東漢氏]]などと並び有力な[[渡来系|帰化]]氏族である<ref>新撰姓氏録</ref>

[[東漢氏]]などと並び有力な[[渡来系|帰化]]氏族である<ref>新撰姓氏録</ref>。


== 概要 ==
== 概要 ==
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== 歴史 ==
== 歴史 ==
『[[日本書紀]]』で[[応神天皇]]14年([[283年]])に[[百済]]より百二十県の人を率いて[[帰化]]したと記される[[弓月君]]<ref>『日本書紀』応神14年条</ref>を秦氏の祖とする<ref>『新撰姓氏録』左京諸蕃。なお同書では弓月君を融通王とする</ref>。平安時代初期の815年に編纂された『[[新撰姓氏録]]』によれば「秦氏は、秦の始皇帝の末裔」という意味の記載があるが<ref>『新撰姓氏録』左京諸蕃</ref>、その真実性には疑問が呈せられており{{sfn|太田(1963)}}、その出自は明らかではなく、これは秦氏自らが、権威を高めるために、王朝の名を借りたというのが定説になっている<ref>{{Cite journal|和書|author=井上満郎 |date=2018-11 |url=https://doi.org/10.15018/00001160 |title=古代史のなかの朝鮮文化 : 東アジア世界と日本 |journal=アジア太平洋研究 |ISSN=0913-8439 |publisher=成蹊大学アジア太平洋研究センター |volume=43 |pages=67-79 |doi=10.15018/00001160 |hdl=10928/1149}}</ref><ref>http://www.kibinosato-hada.com/kibinosato-hada2.com/course2.html</ref><ref>https://kotobank.jp/word/%E5%BC%93%E6%9C%88%E5%90%9B-145197</ref>。「弓月」の[[朝鮮語]]の音訓と訓読み(クンダル)が「百済」の[[和訓]]である「くだら」とほぼ同音であることから百済の系統とする説などがある<ref>笠井倭人「朝鮮語より見た秦・漢両氏の始祖名」(小林行雄博士古稀記念論文集刊行委員会編『考古学論考』平凡社、1982年)</ref>。

=== 秦王朝・チベット・羌族との関係性 ===
平安時代初期の815年に編纂された『[[新撰姓氏録]]』によれば、秦氏は[[秦|秦王朝]]の[[始皇帝]](中国で初めて天下統一を果たした人物)の末裔であるという意味の記載が存在する<ref>『新撰姓氏録』左京諸蕃</ref><ref name=":6">{{Cite web |url=https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/pdffile/toshi01.pdf |title=秦氏 |access-date=2024-09-15 |publisher=京都市 (制作 京都市歴史資料館)}}</ref>。

また『[[日本書紀]]』応神天皇条においては[[応神天皇]]14年([[283年]])に[[百済]]を経由して百二十県の人を率いて[[帰化]]したと記される[[弓月君]]が秦氏の祖とされており<ref name=":6" /><ref>『日本書紀』応神14年条</ref><ref>『新撰姓氏録』左京諸蕃。なお同書では弓月君を融通王とする</ref><ref>『[[新撰姓氏録]]』左京[[諸蕃]]</ref>{{sfn|上田(1965)|p=71}}、「弓月」の[[朝鮮語]]の音訓と訓読み(クンダル)が「百済」の[[和訓]]である「くだら」とほぼ同音である事から百済の系統とする説も存在する<ref name=":3">笠井倭人「朝鮮語より見た秦・漢両氏の始祖名」(小林行雄博士古稀記念論文集刊行委員会編『考古学論考』平凡社、1982年)</ref>。中国の西に位置する[[天山山脈]]の麓にあった弓月国を源とした一族が建国した秦韓([[辰韓]])を創建した国王の子孫とも言われており、[[新羅]]に滅ぼされた際に弓月君が日本に帰化したという{{sfn|太田(1963)|p=4713-4716}}。またハタ(古くはハダ)という読みについては朝鮮語のパダ(海)によるとする説の他に、機織や、新羅の波旦という地名と結び付ける説が存在する<ref>{{Cite web|和書 |title=秦氏都市史 |url=https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi01.html|https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi01.html |accessdate=2021-09-01 |publisher=京都市歴史資料館情報提供システム}}</ref>。815年に古書には辰韓が中国王朝から秦韓と呼ばれていた事から、出自が間違っているという考察があり<ref>笠井倭人「朝鮮語より見た秦・漢両氏の始祖名」(『古代の日朝関係と日本書紀』吉川弘文館、2000年)</ref><ref>[佐伯:1994 369]</ref>、方位では東南東を意味する「辰」の辰韓は中国王朝からは秦韓と呼ばれた事から、秦の末裔ではないかと思われたといい、物語が誤伝された事により辰韓は発音が似た秦韓に間違えて呼ばわれていたという意見も存在する{{sfn|上田(1965)|p=140}}<ref>[[平野邦雄]]「秦氏の研究」(『史学雑誌』第70編第3・4号、1961年)</ref><ref>直木[1988: 45,53]</ref>{{sfn|上田(1965)|p=71-72}}。

しかし、秦氏の[[ハプログループ]]は[[チベット・ビルマ語派]]である「[[ハプログループO2 (Y染色体)|O2a2b1a1]]」(O-M117類、サブグループ省略)系統という研究が挙がっており、ルーツが[[チベット|チベット方面]]であり、[[シナ語派]]であるO2a1系統の[[漢民族|漢民族系]]や[[朝鮮]]にルーツが無い事がわかる<ref name=":7">{{Cite web |title=中华民族的3个超级祖先炎黄蚩尤,获得分子人类学支持_百家争鸣_大同思想网_中华文化复兴,中华德政,儒家文化,王道文化,中道思想,大同理想,道法自然,中派阵地,中间路线 |url=https://web.archive.org/web/20211229205148/http://datongsixiang.com/article.php?id=2756 |website=web.archive.org |date=2021-12-29 |access-date=2024-09-14}}</ref><ref name=":8">{{Cite web |title=探析中華民族的源流 |url=https://web.archive.org/web/20180203010431/http://geod.51.net:80/g98/20071111.htm |website=web.archive.org |date=2018-02-03 |access-date=2024-09-14}}</ref><ref name=":10">{{Cite web |title=Human Y chromosome copy number variation in the next generation sequencing era and beyond - PMC |url=https://web.archive.org/web/20240415234509/https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5418319/ |website=web.archive.org |date=2024-04-15 |access-date=2024-09-14}}</ref><ref name=":11">{{Cite journal|last=He|first=Guanglin|last2=Wang|first2=Mengge|last3=Miao|first3=Lei|last4=Chen|first4=Jing|last5=Zhao|first5=Jie|last6=Sun|first6=Qiuxia|last7=Duan|first7=Shuhan|last8=Wang|first8=Zhiyong|last9=Xu|first9=Xiaofei|date=2023-03-28|title=Multiple founding paternal lineages inferred from the newly-developed 639-plex Y-SNP panel suggested the complex admixture and migration history of Chinese people|url=https://humgenomics.biomedcentral.com/articles/10.1186/s40246-023-00476-6|journal=Human Genomics|volume=17|issue=1|pages=29|doi=10.1186/s40246-023-00476-6|issn=1479-7364|pmc=PMC10045532|pmid=36973821}}</ref>。{{要出典範囲|その観点から考察すると百済を経由し、日本へ渡来したという事になる|date=2024年10月}}。{{要出典範囲|また当時の[[秦]]はチベット近辺に位置しており、[[遺伝子学]]的には始皇帝と秦氏の一族が同遺伝子である事が確認されており、秦氏である[[秦河勝]]と秦氏である[[秦河勝]]と始皇帝のハプログループは同様にO2a2b1a1系統とされており、この観点からは[[新撰姓氏録]]の記述との整合性が生じる|date=2024年10月}}。

秦王朝と秦氏の関係は複数の見識者が提唱しており<ref name=":6" /><ref>{{Cite book|和書 |title=漢民族の源流を探る―羌族史の解明から |date=2004-06-01 |publisher=2004/6/1 |isbn=978-4915700217}}</ref><ref name="tana" /><ref name="seki" /><ref name=":4" /><ref name=":5" />、また近年、O2a2b1a1系統を通じて[[羌|羌族]]と秦の関係性に繋がる研究データも挙がっている<ref name=":7" /><ref name=":8" /><ref name=":10" /><ref name=":11" /><ref>{{Cite web |title=中国のQiang民族グループの父方の遺伝的構造は、高解像度Y染色体STRとSNPによって明らかにされました - Bibgraph(ビブグラフ){{!}} PubMedを日本語で論文検索 |url=https://bibgraph.hpcr.jp/abst/pubmed/36156385 |website=Bibgraph(ビブグラフ) |access-date=2024-09-13 |language=ja |first=Manabu |last=Osada}}</ref>。元々、秦国からは日本の[[大隅国]]等への移住者が存在していたという<ref>{{Cite web |title=出雲国にも秦氏の足跡がある|ゴールドライフオンライン |url=https://renaissance-media.jp/articles/-/1231 |website=ゴールドライフオンライン |date=2020-07-13 |access-date=2024-09-14 |language=ja}}</ref>。[[田辺尚雄]]によると、[[五胡十六国時代]]の中国において、羌族が興した[[後秦]]に由来し、羌族がチベット・ビルマ語派に属する[[チベット系民族]]であって、同言語においてハタは辺鄙の土地、ウズは第一、キは長官を意味する事から、ハタのウズキとは「地方を統治する第一の長官」を意味するとの説がある。同様にマは[[助詞]]「の」、サは都を意味することから、ウズマサは「第一の都市」を指すという<ref name="tana">田辺尚雄『日本文化史体系』「奈良文化」章</ref><ref name="seki">関[1966: 96-97]</ref>。[[歴史家|歴史学者]]である[[井上光貞]]なども秦氏が始皇帝の子孫であるという事を提唱しており、江戸時代にも[[新井白石]]が『[[古史通]]』惑門にて始皇帝が氏祖であるという秦説を提唱している<ref name=":4">{{Cite web |url=https://www.nihoncity.com/pdf/vol_100.pdf |title=古代史の散策を楽しむ |access-date=2024-09-12 |publisher=成田シティジャーナル}}</ref><ref name=":5">{{Cite web |title=日本人のルーツと秦氏の存在 |url=https://www.historyjp.com/article/402/ |website=日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究 |access-date=2024-09-13 |language=ja |last=中島尚彦}}</ref>。また『[[隋書]]』には[[華夏]](中国)と同じである'''[[秦王国]]'''なる土地が日本にあったことが紹介されている<ref>。
「{{lang|zh|又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也}}」(『[[隋書]]』「{{lang|zh-hant|卷八十一 列傳第四十六 東夷 ?國}}」)</ref>。

[[佐伯好郎]]は[[景教]]([[キリスト教]]の[[ネストリウス派]])徒の[[ユダヤ人]]が祖であるとする説([[日ユ同祖論#秦氏|日ユ同祖論]])を提唱しているが<ref>佐伯好郎「太秦(禹豆麻佐)を論ず」(『地理歴史』百号、1908年)</ref>、前述の通り、ハプログループO2a2b1a1系統のルーツはチベット方面であり、O2a2b1a1はユダヤのルーツとされている[[イスラエル]]を通過しておらず、ハプログループ「[[ハプログループK (Y染色体)|IJK]]」を経由しているため、イスラエル等のヨーロッパ方面にルーツを持つ遺伝子とは異なる。そのため、この点については矛盾が生じる。


=== 日本における活躍 ===
=== 日本における活躍 ===
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[[河内国]][[讃良郡]]にも「太秦」の地名が存在する(上述した寝屋川市の町丁)。河内国太秦には弥生中期頃の[[高地性集落]](太秦遺跡)が確認されており、付近の古墳群からは5世紀から6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土している(太秦古墳群)。秦氏が現在の[[淀川]]の治水工事として[[茨田堤]]を築堤する際に協力したとされ、現在の熱田神社(大阪府寝屋川市)が[[広隆寺]]に記録が残る[[河内秦寺]](廃寺)の跡だったとした調査結果がある{{要出典|date=2010年3月}}。
[[河内国]][[讃良郡]]にも「太秦」の地名が存在する(上述した寝屋川市の町丁)。河内国太秦には弥生中期頃の[[高地性集落]](太秦遺跡)が確認されており、付近の古墳群からは5世紀から6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土している(太秦古墳群)。秦氏が現在の[[淀川]]の治水工事として[[茨田堤]]を築堤する際に協力したとされ、現在の熱田神社(大阪府寝屋川市)が[[広隆寺]]に記録が残る[[河内秦寺]](廃寺)の跡だったとした調査結果がある{{要出典|date=2010年3月}}。


[[雄略天皇]]の時代には[[秦酒公]](さけのきみ)が秦氏の[[伴造]]として各地の秦部・秦人の統率者となり、公の[[カバネ|姓]]を与えられた{{sfn|太田,丹羽(1974)|p=1016}}。[[欽明天皇]]の時代には[[紀伊郡]][[深草]]里の[[秦大津父]](おおつち)が伴造となって、[[大蔵掾]](おおくらのふびと)に任ぜられた。[[推古天皇]]30年には当時の中心的人物であり、[[聖徳太子]]の側近として活躍した[[秦河勝]]が[[広隆寺]]を建立。[[斉明天皇|皇極天皇]]の時代には[[聖徳太子|上宮王家]]が所有する深草[[屯倉]]を秦氏が管理経営していたという。また、これ以降秦氏の氏人は造姓を称したが、一部は後世まで公姓を称した{{sfn|太田,丹羽(1974)|p=1017}}。
[[雄略天皇]]の時代には[[秦酒公]](さけのきみ)が秦氏の伴造として各地の秦部・秦人の統率者となり、公の[[カバネ|姓]]を与えられた{{sfn|太田,丹羽(1974)|p=1016}}。[[欽明天皇]]の時代には[[紀伊郡]][[深草]]里の[[秦大津父]](おおつち)が[[伴造]]となって、[[大蔵掾]](おおくらのふびと)に任ぜられた。[[推古天皇]]30年には当時の中心的人物であた[[秦河勝]]が[[広隆寺]]を建立。[[斉明天皇|皇極天皇]]の時代には[[聖徳太子|上宮王家]]が所有する深草[[屯倉]]を秦氏が管理経営していたという。また、これ以降秦氏の氏人は造姓を称したが、一部は後世まで公姓を称した{{sfn|太田,丹羽(1974)|p=1017}}。


秦大津父は夢の中で狼を助け、それにより伴造となったが、この夢は、間接的に、狼=神が欽明天皇の即位を望んでいた(欽明の天皇即位の正統性を強調している)こと、欽明天皇の即位に秦氏の影があったことを表してると考えられる{{sfn|『秦氏とその民』}}。
秦大津父は夢の中で狼を助け、それにより伴造となったが、この夢は、間接的に、狼=神が欽明天皇の即位を望んでいた(欽明の天皇即位の正統性を強調している)こと、欽明天皇の即位に秦氏の影があったことを表してると考えられる{{sfn|『秦氏とその民』}}。
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[[天智天皇]]は秦氏による山背国([[山城国]])への開拓(遷都)を進めていたが未開のままとなる。[[天応 (日本)|天応]]元年の[[桓武天皇]]即位により再び開拓がなされ、[[延暦]]3年(784年)に[[長岡京]]を造営する。延暦13年(794年)には[[和気清麻呂]]・[[藤原小黒麻呂]]([[藤原北家|北家]])らの提言もあり、[[平安京]]への遷都となった。
[[天智天皇]]は秦氏による山背国([[山城国]])への開拓(遷都)を進めていたが未開のままとなる。[[天応 (日本)|天応]]元年の[[桓武天皇]]即位により再び開拓がなされ、[[延暦]]3年(784年)に[[長岡京]]を造営する。延暦13年(794年)には[[和気清麻呂]]・[[藤原小黒麻呂]]([[藤原北家|北家]])らの提言もあり、[[平安京]]への遷都となった。

== 出自 ==
『[[新撰姓氏録]]』によれば、[[応神天皇|応神]]14年([[283年]])に[[百済]]から日本に帰化した氏族であり、[[秦]]の[[始皇帝]]の末裔とも記述されている[[弓月君]](融通王)が中心的人物とされる<ref>『[[新撰姓氏録]]』左京[[諸蕃]]</ref>{{sfn|上田(1965)|p=71}}。
* [[新羅]]系渡来氏族。[[聖徳太子]]に仕えた[[秦河勝]]は[[朝鮮の仏教#三国時代の初期仏教|新羅仏教]]系統を信奉していた{{要出典|date=2022年2月}}が、これは[[蘇我氏]]と[[漢氏]]が百済仏教を信奉していたのと対照的である。また、方位では東南東を意味する“辰”の辰韓は中国王朝からは秦韓と呼ばれたことから秦の末裔ではないかと思われたこと。徐福は実際に海外にはたどり着けなかったものの、物語が誤伝され辰韓は発音が似た秦韓に間違えて呼ばわれていたという{{sfn|上田(1965)|p=140}}([[平野邦雄]]・[[直木孝次郎]]・[[上田正昭]])<ref>[[平野邦雄]]「秦氏の研究」(『史学雑誌』第70編第3・4号、1961年)</ref><ref>直木[1988: 45,53]</ref>{{sfn|上田(1965)|p=71-72}}。
*百済系渡来氏族。「弓月」の[[朝鮮語]]の音訓が、百済の[[和訓]]である「くだら」と同音・同義であることから、「弓月君」=「百済君」と解釈できる。また『日本書紀』における弓月君が百済の120県の人民を率いて帰化したとの所伝もこの説を補強する。また、ハタ(古くはハダ)という読みについては朝鮮語のパダ(海)によるとする説のほか、機織や、新羅の波旦という地名と結び付ける説<ref>{{Cite web|和書|title=秦氏都市史|url=https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi01.html|https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi01.html|accessdate=2021-09-01|publisher=京都市歴史資料館情報提供システム}}</ref>。[[佐伯有清]]によると[[秦]]の[[始皇帝]]の苗字は[[秦]]氏ではなく、[[新羅]]系渡来氏族が渡来したが『[[新撰姓氏録]]』が書かれた815年、古書には辰韓が中国王朝から秦韓と呼ばれていたことから弓月君は[[秦]]の[[始皇帝]]の末裔と思われ出自が間違っている。([[笠井倭人]]・[[佐伯有清]])<ref>笠井倭人「朝鮮語より見た秦・漢両氏の始祖名」(『古代の日朝関係と日本書紀』吉川弘文館、2000年)</ref><ref>[佐伯:1994 369]</ref>。
* 中国の西に位置する[[天山山脈]]の麓にあった弓月国を源とした一族が建国した秦韓([[辰韓]])を創建した国王の子孫。[[新羅]]の台頭によりその国が滅亡した際に、王であった弓月君が日本に帰化した([[太田亮]]){{sfn|太田(1963)|p=4713-4716}}。
* [[五胡十六国時代]]の中国で[[羌]]族が興した[[後秦]]に由来する。また、羌族が[[チベット・ビルマ語派]]に属する[[チベット系民族]]であって、同言語においてハタは辺鄙の土地、ウズは第一、キは長官を意味することから、ハタのウズキとは「地方を統治する第一の長官」を意味するとの説がある。同様に、マは[[助詞]]「の」、サは都を意味することから、ウズマサは「第一の都市」を指す([[田辺尚雄]])<ref name="tana">田辺尚雄『日本文化史体系』「奈良文化」章</ref><ref name="seki">関[1966: 96-97]</ref>。
* 『[[隋書]]』には、風俗が[[華夏]](中国)と同じである'''[[秦王国]]'''なる土地が日本にあったことが紹介されている<ref>。
「{{lang|zh|又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也}}」(『[[隋書]]』「{{lang|zh-hant|卷八十一 列傳第四十六 東夷 ?國}}」)</ref>。

[[景教]]([[キリスト教]]の[[ネストリウス派]])徒の[[ユダヤ人]]が祖であるとする説([[日ユ同祖論#秦氏|日ユ同祖論]])が[[佐伯好郎]]によって提唱された<ref>佐伯好郎「太秦(禹豆麻佐)を論ず」(『地理歴史』百号、1908年)</ref>。ただし、後に佐伯は「日本にユダヤ資本を呼び込むために上記の説を考えた」と述べ、弟子の[[服部之総]]を仰天させている<ref> 服部之総『原敬百歳』(中央公論社、1955年)25頁</ref>。


== 秦氏の系統(一覧) ==
== 秦氏の系統(一覧) ==
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**「大日本古文書」所収の[[宝亀]]5年([[774年]])3月12日付の勘案状によれば、備前国[[邑久郡]]積梨郷には'''秦造国足'''や'''秦部国人'''がいたことが記されている。
**「大日本古文書」所収の[[宝亀]]5年([[774年]])3月12日付の勘案状によれば、備前国[[邑久郡]]積梨郷には'''秦造国足'''や'''秦部国人'''がいたことが記されている。
**平城宮跡出土木簡によれば、年代は不明であるものの、備前国邑久郡旧井郷に'''秦勝小国'''がいたことが記録されている。
**平城宮跡出土木簡によれば、年代は不明であるものの、備前国邑久郡旧井郷に'''秦勝小国'''がいたことが記録されている。
**平城宮跡出土木簡によれば、年代は不明であるものの、備前国邑久郡八浜郷の戸主・(闕氏)麻呂の戸口に'''大辟部乎猪'''がおり、「大辟部(オホサケベ)」という氏から秦氏の[[部民]]であったと考えられる。
**平城宮跡出土木簡によれば、年代は不明であるものの、備前国邑久郡八浜郷の戸主・(闕氏)麻呂の戸口に'''大辟部乎猪'''がおり、「大辟部(オホサケベ)」という氏から秦氏の[[部民]]であったと考えられている。
**平城宮跡出土木簡によれば、年代は不明であるものの、備前国[[上道郡]]沙石郷御立里に'''秦勝千足'''や'''秦部得丸'''が、同郡幡多郷に'''秦人(闕名)'''、'''秦人部得足'''、'''秦老人'''、'''秦忍山'''が、同郡掲勢里に'''秦部犬養'''、'''秦部得万呂'''がいたことが記録されている。
**平城宮跡出土木簡によれば、年代は不明であるものの、備前国[[上道郡]]沙石郷御立里に'''秦勝千足'''や'''秦部得丸'''が、同郡幡多郷に'''秦人(闕名)'''、'''秦人部得足'''、'''秦老人'''、'''秦忍山'''が、同郡掲勢里に'''秦部犬養'''、'''秦部得万呂'''がいたことが記録されている。
**平城宮跡出土木簡によれば、年代は不明であるものの、備前国御野郡に'''秦(闕名)'''がいたことが記録されている。
**平城宮跡出土木簡によれば、年代は不明であるものの、備前国御野郡に'''秦(闕名)'''がいたことが記録されている。
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== 秦人と秦人部、秦部 ==
== 秦人と秦人部、秦部 ==
秦氏には秦人、秦人部、秦部という[[部民]]が存在したが、その分類方法は以下の通りであったとされる<ref name="#1"/>。
秦氏には秦人、秦人部、秦部という[[部民]]が存在したが、その分類方法は以下の通りであったとされる<ref name="#1"/>。

* 秦人 - [[弓月君]]と共に朝鮮からやってきて、既に養蚕機織技術などを身につけていた渡来人集団
* 秦人 - [[弓月君]]と共に朝鮮からやってきて、既に養蚕機織技術などを身につけていた渡来人集団
* 秦人部 - 秦人の後に秦氏の傘下に降った倭人
* 秦人部 - 秦人の後に秦氏の傘下に降った倭人
* 秦部 - 秦人部の中でも、元々畿内や西国の豪族に支配されていたものの、[[国造制]]や[[屯倉|ミヤケ制]]の進展によって秦氏に管轄されるようになった集団
* 秦部 - 秦人部の中でも、元々畿内や西国の豪族に支配されていたものの、[[国造制]]や[[屯倉|ミヤケ制]]の進展によって秦氏に管轄されるようになった集団
彼らを在地で管理したのが[[勝氏|勝姓]]や秦氏であった。

そして、彼らを在地で管理したのが[[勝氏|勝姓]]や秦氏であった。


構図としては、まずミツキを作る秦人、農作をする秦人部や秦部がおり、在地の勝姓が彼らを統率していたとされる。そして、勝姓は在地の秦氏によって管理され、在地の秦氏は都までミツキを送り、中央の豪族であった秦氏がクラに納めていたと考えられる<ref name="#1"/>。
構図としては、まずミツキを作る秦人、農作をする秦人部や秦部がおり、在地の勝姓が彼らを統率していたとされる。そして、勝姓は在地の秦氏によって管理され、在地の秦氏は都までミツキを送り、中央の豪族であった秦氏がクラに納めていたと考えられる<ref name="#1"/>。
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* [[敢国神社]]
* [[敢国神社]]
* [[金刀比羅宮|旗宮]]
* [[金刀比羅宮|旗宮]]

; [[寺院]]
; [[寺院]]
* [[広隆寺]]
* [[広隆寺]]
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== 秦氏に関する人物 ==
== 秦氏に関する人物 ==
* [[始皇帝]]
* [[弓月君]]
* [[弓月君]]
* [[馬超]] - [[三国志]]・[[三国志演義]]の[[劉備]]に仕えた[[蜀漢|蜀]]の[[五虎大将軍]]の一人で、[[秦]]の血筋である[[羌族]]<ref name=":11" /><ref name="tana" /><ref name="seki" />の子孫。
* [[太公望]]<ref>{{Cite web |title=【09-002】紂王は暴君だったのか、また、太公望は釣をしていたのか {{!}} SciencePortal China |url=https://spc.jst.go.jp/experiences/impressions/impr_09002.html |website=spc.jst.go.jp |access-date=2024-09-13}}</ref><ref>{{Cite web |title=チャン族の歴史の跡 -- pekinshuho |url=http://japanese.beijingreview.com.cn/zt/qiangwenhua/txt/2008-07/10/content_132626.htm |website=japanese.beijingreview.com.cn |access-date=2024-09-13}}</ref> - [[周]]の[[軍師]]で、[[秦]]の血筋である[[羌族]]。
* [[秦酒公]] - 秦氏の再編に貢献。廷臣として朝廷に仕えた。
* [[秦酒公]] - 秦氏の再編に貢献。廷臣として朝廷に仕えた。
* [[秦大津父]] - [[欽明天皇]]に仕えた。大蔵の司。
* [[秦大津父]] - [[欽明天皇]]に仕えた。大蔵の司。
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* [[秦公春]]
* [[秦公春]]
* [[秦助正]]
* [[秦助正]]

; [[平城京]]跡出土の[[木簡]]に記述されている秦氏
; [[平城京]]跡出土の[[木簡]]に記述されている秦氏
* [[秦老人]] - [[備前国]]。
* [[秦老人]] - [[備前国]]。
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* [[秦部(犬)養]] - 備前国。
* [[秦部(犬)養]] - 備前国。
* [[秦部得万呂]] - 備前国。
* [[秦部得万呂]] - 備前国。

'''[[正倉院文書]]に記述されている秦氏'''<ref>{{Cite web|和書|url=http://somoda.media.osaka-cu.ac.jp/|title=正倉院文書データベース|accessdate=2019年12月10日|publisher=正倉院文書データベース作成委員会}}</ref>
'''[[正倉院文書]]に記述されている秦氏'''<ref>{{Cite web|和書|url=http://somoda.media.osaka-cu.ac.jp/|title=正倉院文書データベース|accessdate=2019年12月10日|publisher=正倉院文書データベース作成委員会}}</ref>
* 秦秋庭(秦常秋庭)
* 秦秋庭(秦常秋庭)
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* 秦東人(秦前東人 - 「少初位上 秦前東人」)
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* 秦家主(秦部家主 - 「大初位下 秦部家主<ref name=":0" /><ref name=":1" />」) - 秦家主(はたのやかぬし)は、746年([[天平]]18年)から771年([[宝亀]]2年)まで、[[造東大寺司]][[写経所]]で活動したことが[[正倉院文書]]から確認されている。また、2011年から4年をかけて行われた校倉造りの宝庫「正倉」の屋根修理工事の際、正倉内に積んであった空の古櫃(こき:宝物を納めていた古い木製の箱)168合を一時移動させる必要があった。このとき「八月廿一日借用紙四枚 給秦家主」という墨書が新たに見つかっている(古櫃第二十号のふたの裏)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/shosoin/71/20191107-OYT8T50029/|title=宝物は語る(3)大量の墨書新発見……古櫃(こき)|accessdate=2019年12月10日|publisher=讀賣新聞}}</ref>。
* 秦家主(秦部家主 - 「大初位下 秦部家主<ref name=":0" /><ref name=":1" />」) - 秦家主(はたのやかぬし)は、746年([[天平]]18年)から771年([[宝亀]]2年)まで、[[造東大寺司]][[写経所]]で活動したことが[[正倉院文書]]から確認されている。また、2011年から4年をかけて行われた校倉造りの宝庫「正倉」の屋根修理工事の際、正倉内に積んであった空の古櫃(こき:宝物を納めていた古い木製の箱)168合を一時移動させる必要があった。このとき「八月廿一日借用紙四枚 給秦家主」という墨書が新たに見つかっている(古櫃第二十号のふたの裏)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/shosoin/71/20191107-OYT8T50029/|title=宝物は語る(3)大量の墨書新発見……古櫃(こき)|accessdate=2019年12月10日|publisher=讀賣新聞}}</ref>。

'''[[前賢故実]]'''に記述されている秦氏
'''[[前賢故実]]'''に記述されている秦氏
* [[秦酒公]](はた の さけのきみ)-【巻第一】
* [[秦酒公]](はた の さけのきみ)-【巻第一】
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末裔・枝氏は60ほどあるとされる<ref name="to"/>。
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* 秦首、秦公、秦人、秦子、秦冠、秦姓<ref>関晃[1966: 103]</ref>。
* 秦首、秦公、秦人、秦子、秦冠、秦姓<ref>関晃[1966: 103]</ref>。
* [[石川氏]]、[[瀬尾氏]]、[[土山氏]]、[[東儀家]]等の地下家。
* [[勝氏]]、[[忌寸|忌寸氏]]、[[部|部氏]]<ref>[http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/genbunronshu/26-2/p003_040.pdf 伊藤信博「桓武期の政策に関する一分析(1)」](『言語文化論集』26巻2号、2005年) 8頁</ref>。
* [[勝氏]]、[[忌寸|忌寸氏]]、[[部|部氏]]<ref>[http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/genbunronshu/26-2/p003_040.pdf 伊藤信博「桓武期の政策に関する一分析(1)」](『言語文化論集』26巻2号、2005年) 8頁</ref>。
* [[朴市秦造田来津|朴市秦氏(えちはた)]] - [[近江国]]愛知(えち)郡。
* [[朴市秦造田来津|朴市秦氏(えちはた)]] - [[近江国]]愛知(えち)郡。
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* [[川勝氏]]<ref>『[[寛政重修諸家譜]](第18)新訂』 続群書類従完成会、1981年、150頁</ref><ref>『[[川勝家文書]]』 [[東京大学]]出版会、[[日本史籍協会]]叢書57、1984年、437 - 438頁</ref>
* [[川勝氏]]<ref>『[[寛政重修諸家譜]](第18)新訂』 続群書類従完成会、1981年、150頁</ref><ref>『[[川勝家文書]]』 [[東京大学]]出版会、[[日本史籍協会]]叢書57、1984年、437 - 438頁</ref>
* [[赤松氏]]{{sfn|太田|1963|p=36}}
* [[赤松氏]]{{sfn|太田|1963|p=36}}
* [[東儀家]]
* [[松下氏]] - 松下氏自体は[[宇多源氏]]([[近江源氏]])[[六角氏]]の末裔を自称。[[庶家]]に[[花井氏]]がある。
* [[松下氏]] - 松下氏自体は[[宇多源氏]]([[近江源氏]])[[六角氏]]の末裔を自称。[[庶家]]に[[花井氏]]がある。
* [[松尾氏]] - 秦氏の末裔。秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは[[賀茂氏]]の創建した[[賀茂神社]]とならび、山背国でももっとも創建年代の古い[[神社]]となっている。秦氏の末裔はこれらの[[社家]]となった。
* [[松尾氏]] - 秦氏の末裔。秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは[[賀茂氏]]の創建した[[賀茂神社]]とならび、山背国でももっとも創建年代の古い[[神社]]となっている。秦氏の末裔はこれらの[[社家]]となった。
* 田中氏- 秦氏の末裔と言われており。[[平野]] の豪農である。
* 田中氏- 秦氏の末裔と言われており。筑平野の豪農である。


== 末裔を称する人物 ==
== 末裔を称する人物 ==
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* [[笠井倭人]]「朝鮮語より見た秦・漢両氏の始祖名」『古代の日朝関係と日本書紀』[[吉川弘文館]]、2000年
* [[笠井倭人]]「朝鮮語より見た秦・漢両氏の始祖名」『古代の日朝関係と日本書紀』[[吉川弘文館]]、2000年
* [[大江篤]]『日本古代の神と霊』臨川書店、2007年
* [[大江篤]]『日本古代の神と霊』臨川書店、2007年



== 脚注 ==
== 脚注 ==

2024年11月26日 (火) 11:21時点における版

秦氏

氏神とする木嶋坐天照御魂神社
京都府京都市
氏姓 秦公
秦造
忌寸
氏祖 弓月君
始皇帝後裔)
種別 諸蕃
本貫 豊前国
出雲国
伊予国
阿波国
吉備国
針間国
山背国葛野郡
山背国紀伊郡
大和国
河内国讃良郡
丹波国桑田郡
美濃国加茂郡
相模国大住郡など
著名な人物 秦河勝
後裔 惟宗朝臣
東儀家地下家
小畑家(地下家)
瀬尾家(地下家)
土山家(地下家)
三上家(地下家)
調子家(地下家)
藤木家(地下家)
松室家(地下家)
平田家(地下家)
石川家(地下家)
大石家(地下家)
松尾家(社家
東家(社家
南家(社家)
西大路家(社家)
大西家(社家)
羽倉家(社家)
荷田家(社家)
川勝氏武家
大蔵氏(武家)
松下氏(武家)
島津氏(武家)
宗氏(武家)など
凡例 / Category:氏

秦氏(はたうじ・はたし)は、「秦」をの名とする氏族東漢氏などと並び有力な帰化氏族である[1]

概要

秦氏一族は稲荷神社などを創祀したことでも知られており、蚕や絹などによる織物、土木技術、砂鉄や銅等の採鉱及び精錬、薬草なども広めた。

天武天皇14年(685年)の八色の姓では忌寸の姓を賜与されるが、忌寸のほかに公・宿禰などを称する家系があった。

平安遷都に際しては、葛野郡の秦氏の財力・技術力が重要だったとされる。平安時代には多くが惟宗氏を称するようになったが、秦氏を名乗る家系(楽家の東儀家など)も多く残った。東家、南家などは松尾大社の社家に、荷田家、西大路家、大西家、森家などは伏見稲荷大社の社家となった。なお、中世になり社家を継いだ羽倉家については、南北朝の混乱時に荷田氏を仮冒したことが疑われている[2]

歴史

日本書紀』で応神天皇14年(283年)に百済より百二十県の人を率いて帰化したと記される弓月君[3]を秦氏の祖とする[4]。平安時代初期の815年に編纂された『新撰姓氏録』によれば「秦氏は、秦の始皇帝の末裔」という意味の記載があるが[5]、その真実性には疑問が呈せられており[6]、その出自は明らかではなく、これは秦氏自らが、権威を高めるために、王朝の名を借りたというのが定説になっている[7][8][9]。「弓月」の朝鮮語の音訓と訓読み(クンダル)が「百済」の和訓である「くだら」とほぼ同音であることから百済の系統とする説などがある[10]

日本における活躍

葛城襲津彦の支援によって日本へ渡ると、葛城氏の本拠地である葛城に住んだ[11]大和国以外には山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)、摂津国豊嶋郡、針間国(現在の兵庫県)、阿波国伊予国等に土着した。

秦氏は高度な技術を持った集団とされており、木工業建築養蚕機織等の技術を発揮し、国に貢献して栄えた[12][13]丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)では湿地帯の開拓などを行った。

秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦とされており、山背国においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与した。山背国愛宕郡(現在の京都市左京区北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる[14]。秦氏は松尾大社伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国では創建が最古の神社となっており、秦氏の末裔はこれらの社家となったとの説もある。

河内国讃良郡にも「太秦」の地名が存在する(上述した寝屋川市の町丁)。河内国太秦には弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、付近の古墳群からは5世紀から6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土している(太秦古墳群)。秦氏が現在の淀川の治水工事として茨田堤を築堤する際に協力したとされ、現在の熱田神社(大阪府寝屋川市)が広隆寺に記録が残る河内秦寺(廃寺)の跡だったとした調査結果がある[要出典]

雄略天皇の時代には秦酒公(さけのきみ)が秦氏の伴造として各地の秦部・秦人の統率者となり、公のを与えられた[15]欽明天皇の時代には紀伊郡深草里の秦大津父(おおつち)が伴造となって、大蔵掾(おおくらのふびと)に任ぜられた。推古天皇30年には当時の中心的人物であった秦河勝広隆寺を建立。皇極天皇の時代には上宮王家が所有する深草屯倉を秦氏が管理経営していたという。また、これ以降秦氏の氏人は造姓を称したが、一部は後世まで公姓を称した[16]

秦大津父は夢の中で狼を助け、それにより伴造となったが、この夢は、間接的に、狼=神が欽明天皇の即位を望んでいた(欽明の天皇即位の正統性を強調している)こと、欽明天皇の即位に秦氏の影があったことを表してると考えられる[17]

「深草秦氏」と「葛野秦氏」は、ほぼ同時期の6世紀に葛城から移住しており、まず肥沃な深草を拠点とした秦大津父が秦氏の族長となり、葛野の開発によって葛野秦氏が台頭し、族長の座が秦河勝の手に移ったと考えられる[17]。そして、秦氏の族長は、『日本書紀』に「秦大津父が欽明天皇に『秦伴造』に任命された」という記事があるように、王権によって決められており、秦河勝や太秦公の姓を賜った秦島麻呂も同じであった[17]

秦氏は上宮王家と親密であったが、それはあくまで職務上のことであり、私的に臣従していたわけではなく、非政治的な一族であった。そのため、上宮王家が滅んだ後も秦氏が没落することはなく、蘇我氏と結びついて天武天皇に直接批判された東漢氏とは対照的である[17]

天智天皇は秦氏による山背国(山城国)への開拓(遷都)を進めていたが未開のままとなる。天応元年の桓武天皇即位により再び開拓がなされ、延暦3年(784年)に長岡京を造営する。延暦13年(794年)には和気清麻呂藤原小黒麻呂北家)らの提言もあり、平安京への遷都となった。

出自

新撰姓氏録』によれば、応神14年(283年)に百済から日本に帰化した氏族であり、始皇帝の末裔とも記述されている弓月君(融通王)が中心的人物とされる[18][19]

  • 新羅系渡来氏族。聖徳太子に仕えた秦河勝新羅仏教系統を信奉していた[要出典]が、これは蘇我氏漢氏が百済仏教を信奉していたのと対照的である。また、方位では東南東を意味する“辰”の辰韓は中国王朝からは秦韓と呼ばれたことから秦の末裔ではないかと思われたこと。徐福は実際に海外にはたどり着けなかったものの、物語が誤伝され辰韓は発音が似た秦韓に間違えて呼ばわれていたという[20]平野邦雄直木孝次郎上田正昭[21][22][23]
  • 百済系渡来氏族。「弓月」の朝鮮語の音訓が、百済の和訓である「くだら」と同音・同義であることから、「弓月君」=「百済君」と解釈できる。また『日本書紀』における弓月君が百済の120県の人民を率いて帰化したとの所伝もこの説を補強する。また、ハタ(古くはハダ)という読みについては朝鮮語のパダ(海)によるとする説のほか、機織や、新羅の波旦という地名と結び付ける説[24]佐伯有清によると始皇帝の苗字は氏ではなく、新羅系渡来氏族が渡来したが『新撰姓氏録』が書かれた815年、古書には辰韓が中国王朝から秦韓と呼ばれていたことから弓月君は始皇帝の末裔と思われ出自が間違っている。(笠井倭人佐伯有清[25][26]
  • 中国の西に位置する天山山脈の麓にあった弓月国を源とした一族が建国した秦韓(辰韓)を創建した国王の子孫。新羅の台頭によりその国が滅亡した際に、王であった弓月君が日本に帰化した(太田亮[27]
  • 五胡十六国時代の中国で族が興した後秦に由来する。また、羌族がチベット・ビルマ語派に属するチベット系民族であって、同言語においてハタは辺鄙の土地、ウズは第一、キは長官を意味することから、ハタのウズキとは「地方を統治する第一の長官」を意味するとの説がある。同様に、マは助詞「の」、サは都を意味することから、ウズマサは「第一の都市」を指す(田辺尚雄[28][29]
  • 隋書』には、風俗が華夏(中国)と同じである秦王国なる土地が日本にあったことが紹介されている[30]

景教キリスト教ネストリウス派)徒のユダヤ人が祖であるとする説(日ユ同祖論)が佐伯好郎によって提唱された[31]。ただし、後に佐伯は「日本にユダヤ資本を呼び込むために上記の説を考えた」と述べ、弟子の服部之総を仰天させている[32]

秦氏の系統(一覧)

  • 豊前秦氏 - 正倉院文書によると豊前国の戸籍には加自久也里、塔里(共に上三毛郡=現在の築上郡)、丁里(仲津郡=現在の福岡県行橋市・京都郡みやこ町付近)[33]の秦部[34][35]や氏名が横溢している。
  • 葛野秦氏 - 拠点は山城国葛野郡太秦。長岡京、平安京の遷都にも深く携わったとされる。弓月君一族の秦酒公秦河勝、秦忌寸足長(長岡京造営長官)、太秦公忌寸宅守など。
  • 深草秦氏 - 拠点は山城国紀伊郡深草上宮王家が所有する深草屯倉を管理経営したとされる。大蔵の財政官人を務めた秦大津父(おおつち)、秦伊侶具伏見稲荷大社の建立)など。
  • 播磨秦氏 - 拠点は播磨国赤穂郡平城宮出土木簡に書き残されている。風姿花伝によると秦河勝はこの地域に移住したとされる。秦河勝を氏神として祭った神社として大避神社が兵庫県内に多数鎮座している。また、河勝の伝承以外にも、実際に赤穂郡周辺に秦氏がいたことが史料より確認されている[36][37][38]
    • 平城宮跡出土木簡には、年代は不明であるものの、ある木簡には、表に「播磨国赤穂郡大原」、裏に「五保秦酒虫赤米五斗」と、ある木簡には「赤穂郡大原郷 秦造吉備人丁二斗 秦造小奈戸三丁斗」と、ある木簡には「赤穂郡大原郷 戸主秦造吉備人」と記されている。
    • 延暦12年(793年)4月19日付の「播磨国坂越神戸両郷解」には、天平勝宝5年(753年)頃に赤穂の地に秦大炬という人物がいたことが記録されている。
    • 『石崎直矢所蔵文書』・『東大寺牒案』には、延暦12年(793年)の5月14日に「擬大領外従八位上・秦造(闕名)と擬少領無位・秦造雄鯖という人物がいたことが記録されている。
    • 日本三代実録貞観6年(864年)8月17日条には播磨国赤穂郡大領外正七位下・秦造内麻呂が外従五位下になったとある。
    • 平安遺文」の11世紀後半(延久3年(1071年)から承暦3年(1079年)にかけて)の東寺文書中に、赤穂郡大領または播磨国大掾であった秦為辰開発領主として開墾したとある。
    • 長和4年(1015年)11月の播磨国符に記された赤穂郡有年荘文書には、寄人41人による連名があり、その中には秦姓の人物が12人[注釈 1]いる。
    • 有年牟礼・山田遺跡からは、「秦」と漢字が刻まれた平安時代の須恵器が出土している。
    • 播磨国揖保郡少宅郷には、戸主・呉部首種麻呂の戸口として秦田村君有礒の名前が見える。
    • 同じく少宅郷には少宅秦君氏がおり、『播磨国風土記』によれば、小宅の秦君の娘と川原若狭の祖父が結婚し住んだ家を小宅と名付けたのが地名の由来であるという。
  • 美作・備前秦氏 - 上記の播磨国西部の秦氏と関連する形で、美作国備前国にも秦氏がいたことが知られている。
    • 『続日本紀』文武天皇2年(698年)4月壬辰条には、侏儒であった備前国人・秦大兄が香登臣の姓を賜っており、備前市香登本の大内神社や大酒殿趾は秦氏が先祖を祀った神社であるとされる。
    • 「大日本古文書」所収の宝亀5年(774年)3月12日付の勘案状によれば、備前国邑久郡積梨郷には秦造国足秦部国人がいたことが記されている。
    • 平城宮跡出土木簡によれば、年代は不明であるものの、備前国邑久郡旧井郷に秦勝小国がいたことが記録されている。
    • 平城宮跡出土木簡によれば、年代は不明であるものの、備前国邑久郡八浜郷の戸主・(闕氏)麻呂の戸口に大辟部乎猪がおり、「大辟部(オホサケベ)」という氏から秦氏の部民であったと考えられている。
    • 平城宮跡出土木簡によれば、年代は不明であるものの、備前国上道郡沙石郷御立里に秦勝千足秦部得丸が、同郡幡多郷に秦人(闕名)秦人部得足秦老人秦忍山が、同郡掲勢里に秦部犬養秦部得万呂がいたことが記録されている。
    • 平城宮跡出土木簡によれば、年代は不明であるものの、備前国御野郡に秦(闕名)がいたことが記録されている。
    • 岡山県長船町にある湯次神社の湯次神は弓月君であるとされる。
    • 高木大亮軒宝永6年(1709年)に記した『和気絹』によれば、岡山市半田山は秦氏の人間が松を植えたために秦山と呼ばれるようになったという[39]
    • 前賢故実』などによれば、美作国久米郡には秦豊永がおり、恭しく忠実な性格で、両親に孝行を尽した。両親が亡くなった後、常に親の墳墓を守り、供養を続けた。豊永の事が朝廷に伝わり、貞観7年(865年)11月に朝廷は豊永に位を授け、その労役を免除、門閭に表彰の印を掲げ、世間で知れ渡るようにしたという。豊永は三保村大字錦織の錦織神社に祀られている。
    • 美作国久米郡出身である法然の母親は秦君清刀自であるとされる。
  • 近江依知秦氏 - 近江国愛智郡など琵琶湖周辺が拠点。楽師なども多く輩出。太秦嶋麿、楽家として栄えた東儀、林、岡、薗家など。現在の宮内庁楽部にもその子孫が在籍する。
  • 若狭秦氏 - 若狭国は現在の福井県。塩や海産物を朝廷に多く献上した地。
  • 越前秦氏 - 坂井、丹生、足羽の越前北部を基盤とした。
  • 東国秦氏 - 駿河国甲斐国相模国秦野など東日本の秦氏をまとめた名称。(東海秦氏と記述されている場合もある。)
  • 信濃秦氏 - 信濃国の国司などを務め、更級郡を拠点としたとされる[注釈 2]

(主なものを掲載。年代や書物などにより名称が異なる場合がある。

秦人と秦人部、秦部

秦氏には秦人、秦人部、秦部という部民が存在したが、その分類方法は以下の通りであったとされる[11]

  • 秦人 - 弓月君と共に朝鮮からやってきて、既に養蚕機織技術などを身につけていた渡来人集団
  • 秦人部 - 秦人の後に秦氏の傘下に降った倭人
  • 秦部 - 秦人部の中でも、元々畿内や西国の豪族に支配されていたものの、国造制ミヤケ制の進展によって秦氏に管轄されるようになった集団

彼らを在地で管理したのが勝姓や秦氏であった。

構図としては、まずミツキを作る秦人、農作をする秦人部や秦部がおり、在地の勝姓が彼らを統率していたとされる。そして、勝姓は在地の秦氏によって管理され、在地の秦氏は都までミツキを送り、中央の豪族であった秦氏がクラに納めていたと考えられる[11]

秦氏が創建に関係した主な神社・寺院

神社
寺院

秦氏に関する人物

平城京跡出土の木簡に記述されている秦氏

正倉院文書に記述されている秦氏[44]

  • 秦秋庭(秦常秋庭)
  • 秦乳主(秦忌寸乳主)
  • 秦東人(秦前東人 - 「少初位上 秦前東人」)
  • 秦家主(秦部家主 - 「大初位下 秦部家主[34][35]」) - 秦家主(はたのやかぬし)は、746年(天平18年)から771年(宝亀2年)まで、造東大寺司写経所で活動したことが正倉院文書から確認されている。また、2011年から4年をかけて行われた校倉造りの宝庫「正倉」の屋根修理工事の際、正倉内に積んであった空の古櫃(こき:宝物を納めていた古い木製の箱)168合を一時移動させる必要があった。このとき「八月廿一日借用紙四枚 給秦家主」という墨書が新たに見つかっている(古櫃第二十号のふたの裏)[45]

前賢故実に記述されている秦氏

  • 秦酒公(はた の さけのきみ)-【巻第一】
  • 秦河勝(はた の かわかつ)-【巻第一】
  • 秦部総成女[34][35](はたべ の ふさなりのむすめ)-【巻第四】
  • 秦豊永(はた の とよなが)-【巻第四】
  • 秦武文(はだ の たけぶん)-【巻第九】

末裔とされる氏族

末裔・枝氏は60ほどあるとされる[46]

末裔を称する人物

参考文献

脚注

注釈

  1. ^ 秦得吉、秦安成、秦用成、秦時正、秦本弘、秦吉連、秦清本、秦元時、秦豊近、秦種謙
  2. ^ 上皇方に味方した(保元の乱または平治の乱)ために敗れ、土佐国に落ち延びた後に長宗我部家となったとされる。(但し、長宗我部家関連以外で信濃秦氏について言及した書物はない。)

出典

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  5. ^ 『新撰姓氏録』左京諸蕃
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関連項目

外部リンク