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白山水力

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白山水力株式会社
種類 株式会社
本社所在地 日本 東京市麹町区丸ノ内1丁目6番地1
東京海上ビルディング
設立 1919年(大正8年)6月28日[1]
解散 1933年(昭和8年)4月11日[2]
矢作水力と合併し解散)
業種 電気
事業内容 電気供給事業
歴代社長 伊丹二郎(1919-1920年)
小林源蔵(1920-1921年)
東園基光(1922-1926年)
成瀬正忠(1926-1933年)
公称資本金 2000万円
払込資本金 1250万円
株式数 旧株:20万株(額面50円払込済)
新株:20万株(12円50銭払込)
総資産 2595万2315円(未払込資本金を除く)
収入 113万5322円
支出 73万6946円(償却費10万円を含む)
純利益 39万8375円
配当率 年率6.0%
株主数 4459人
主要株主 千代田生命保険 (3.3%)、十五銀行 (3.0%)、日本興業銀行 (2.2%)、村井保固 (1.4%)、成瀬正忠 (1.3%)
決算期 3月末・9月末(年2回)
特記事項:代表者以下は1932年9月期決算時点[3][4]
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白山水力株式会社(はくさんすいりょく かぶしきがいしゃ)は、大正から昭和初期にかけて存在した日本の電力会社である。北陸地方における電源開発の一端を担った。

白山周辺一帯を水源とする九頭竜川水系・手取川水系の開発を目的として1919年(大正8年)に発足。福井県石川県において計4か所・総出力4万6300キロワット水力発電所を建設した。福澤桃介が関係した電力会社の一つで、1933年(昭和8年)、同じく福澤系の電力会社矢作水力合併された。

会社設立

会社設立時の発起人総代福澤桃介[5]

第一次世界大戦終戦の翌年にあたる1919年(大正8年)は、大戦景気に伴う全国的な電力不足を背景に新興電力会社が次々と設立された年であった[6]。1919年発足の電力会社には、大同電力の前身である大阪送電・日本水力、同社と並び業界大手の「五大電力」に名を連ねた日本電力、白山水力の合併相手となる矢作水力などがある[6]北陸地方でも、浅野財閥によって庄川富山県)開発を目指し庄川水力電気が設立されている[7]

白山水力もこの1919年に設立された電力会社の一つである。設立は1919年6月28日[1]福井県九頭竜川水系および石川県手取川水系における電源開発を目的として設立されたもので、福澤桃介(当時名古屋電灯社長、のちに大同電力初代社長)や伊丹二郎岩崎清七成瀬正忠らの実業家[注釈 1]らが起業にあたった[10]。準備段階では「中部電力」の社名が予定されていたが、計画中の発電所が白山一帯を水源とする河川にあることにちなんで「白山水力」と命名された[10]。本店は事業地ではなく東京市麹町区永楽町1丁目1番地[注釈 2](現・東京都千代田区)に置いた[1]

設立時の資本金は1000万円(うち250万円払込)[1][10]東京海上ビルで開かれた創立総会では取締役10名と監査役5名が選ばれ、その中から伊丹二郎が代表取締役社長、成瀬正忠が専務取締役に就任した[12]。取締役には池田七郎兵衛松井文太郎など福井・石川両県の人物や福澤駒吉(桃介の長男)・下出民義(名古屋電灯副社長)らが名を連ねるほか、大阪府中川浅之助も加わっている[1]。中川は関西を代表する電力会社宇治川電気の社長であるが[13]、会社設立前の報道によるとこの宇治川電気と白山水力は、白山水力の水利権獲得を機に宇治川電気が供給先として名乗りを上げたために提携関係にあったという[14]。また監査役には大正末期に庄川水力電気小牧ダム建設に対する激しい反対運動を主導する平野増吉も含まれる[7][10]。なお会社の相談役には福澤桃介と和田豊治が推薦されている[12]

会社設立後の1919年7月22日、逓信省より電気事業法準用事業の認定を得る[15]。この段階では電力供給事業と「電気製鉄」事業が会社の目的であった[15]。会社の「創立趣意書」によると契約済みの電力供給先に福井県の京都電灯福井支社があり、「自家工場」は敦賀に構える予定であったという[10]。京都電灯との関係は、九頭竜川の水利権出願が京都電灯と白山水力発起人で競願となった際に、京都電灯に出願を取り下げさせる条件として白山水力発起人が持つ支流真名川水利権の譲渡とともに発電所完成後の電力供給を約束したことで生じたものである[16]。準用事業認定後の8月7日付で設立登記を完了した[1]。なお3年後の1922年(大正11年)11月14日付で逓信省より今度は電気事業経営許可を得ている[17]

会社設立なった白山水力では、下記#開発の推移に記す通り電源開発を進めていくことになるが、開業前の1920年(大正9年)2月、社長が伊丹二郎から小林源蔵に交替[18][19]。小林が翌1921年(大正10年)に死去すると2月より補欠で専務の成瀬正忠が代表権を持った(代表取締役専務)[20]。次いで1922年7月、元富山県知事で県営電気事業を起こした東園基光が代表取締役社長に就任[注釈 3]した[10][22]。東園の在任期間は開業を挟んだ1926年(大正15年)4月までで[10]、その後は成瀬正忠が専務から昇格して社長を務めている[6]

開発の推移

白山水力が建設・運営していた発電所は以下の4か所で、いずれも水力発電所である。

西勝原発電所・第二発電所

西勝原第一発電所(2012年)
位置:北緯35度57分37.0秒 東経136度36分51.0秒 / 北緯35.960278度 東経136.614167度 / 35.960278; 136.614167 (西勝原第一発電所)

白山水力が最初に建設した発電所は西勝原発電所(にしかどはらはつでんしょ)という。九頭竜川から取水する水路式発電所であり[10]、所在地は福井県大野郡五箇村大字西勝原[23](現・大野市西勝原)。

西勝原発電所は1919年(大正8年)2月に水利権を取得し[24]、会社設立後の翌1920年(大正9年)4月に起工[23]1923年(大正12年)9月末に竣工し、10月30日付で送電線とともに仮使用認可を受けて11月9日より送電を開始した[25]。発電設備はボービング (Boving) 製横軸フランシス水車およびウェスティングハウス・エレクトリック製6,000キロボルトアンペア発電機[注釈 4]各4台からなる[23][26]。発電所出力は当初1万5000キロワット1927年(昭和2年)12月の増加許可後は2万キロワットである[10][27]

また本発電所建設の際に放水路と九頭竜川の間に生じた落差を活用するため、放水路発電所として西勝原第二発電所も建設された[28]1926年(大正15年)5月に水利権取得[24]、同年6月末に着工と進み[29]1927年(昭和2年)9月26日付で竣工した[30]。発電設備はボービング製カプラン水車およびブラウン・ボベリ製800キロボルトアンペア発電機各1台[26][28]。発電所出力は1927年12月の竣工当初が640キロワット[29]1929年(昭和4年)2月の増加許可後は800キロワット[31]

西勝原発電所は白山水力と矢作水力の合併後、1941年(昭和16年)10月に日本発送電へ出資された[32]。日本発送電では放水路の第二発電所と一体化され出力2万800キロワットの「西勝原第一発電所」となっている[32]。戦後1951年(昭和26年)5月以降は北陸電力に帰属する[32]。なお放水路発電所については1969年(昭和44年)に本発電所の水車発電機2台とともに廃止されており現存しない[33]

吉野谷発電所

吉野谷発電所取水用の吉野谷ダム(改修後)
位置:北緯36度18分1.0秒 東経136度38分22.3秒 / 北緯36.300278度 東経136.639528度 / 36.300278; 136.639528 (吉野谷発電所)

白山水力2番目の発電所は吉野谷発電所である。手取川支流の尾添川から取水する水路式発電所で[10]、所在地は石川県石川郡吉野谷村大字木滑新[34](現・白山市木滑新)。

水利権取得は1913年(大正2年)10月[24][35]。会社設立翌年に着工され、不況による工事中断があったが[10]、1926年5月13日に落成、5月27日付で仮使用認可が下り、6月1日より送電を開始した[29]。尾添川の取水口には幅(頂長)48.0メートル・高さ(堤高)20.45メートルの吉野谷ダムを設置[36]。発電設備はボービング製竪軸フランシス水車およびゼネラル・エレクトリック製7500キロボルトアンペア発電機各2台からなる[26]。発電所出力は当初6250キロワットで、翌1927年より1万2500キロワットへと増強された[10]

吉野谷発電所は、矢作水力との合併ののち1942年(昭和17年)4月に日本発送電へ出資された[37]。戦後は西勝原第一発電所と同じく北陸電力に帰属する[37]

鳥越発電所

位置:北緯36度17分50秒 東経136度38分8.5秒 / 北緯36.29722度 東経136.635694度 / 36.29722; 136.635694 (鳥越発電所跡)

白山水力が最後に建設した発電所が鳥越発電所である。手取川上流部の牛首川と支流の下田原川から取水する水路式発電所で[10]、所在地は石川県能美郡鳥越村大字河原山[38](現・白山市河原山町)。

吉野谷地点と同じ1913年10月に水利権を得た地点に鳥越村仏師ケ野・尾口村鴇ヶ谷の2か所があったが[35]、実際の開発にあたっては2か所を統合した1か所の発電所へと計画変更された[29]。吉野谷発電所の竣工に続いて工事が開始され[29]1928年(昭和3年)12月14日に竣工、24日付で仮使用認可が下りた[39]。発電設備はボービング製竪軸フランシス水車2台およびブラウン・ボベリ製8000キロボルトアンペア発電機2台からなり[26]、発電所出力は1万3000キロワットであった[10]

矢作水力との合併後は吉野谷発電所と同様に1942年4月に日本発送電へ出資され、戦後は北陸電力に継承されたが[37]、手取川総合開発事業に基づく牛首川での手取川ダム建設によって再開発されることとなり[40]1978年(昭和53年)9月に廃止され現存しない[37]

送電線建設と電力販売

西勝原発電所分の送電

発電所建設にあわせて送電線の建設も進められた。最初に完成した西勝原発電所については、1923年10月の仮使用認可と同日付で西勝原・関町間の送電線も仮使用認可が下りた[25]。逓信省の資料によると、送電線名は「名古屋線」といい、西勝原発電所より途中大島開閉所(岐阜県郡上郡上保村[41]=現・郡上市)を経て関町開閉所(岐阜県武儀郡関町[42]=現・関市)へと至る、亘長72.7キロメートルの77キロボルト送電線である[43]。途中の大島開閉所には、庄川水系の合同電気平瀬発電所[注釈 5]とを結ぶ77キロボルト送電線が接続する[43]

「名古屋線」の終点・関町開閉所から先は大同電力の77キロボルト送電線に繋ぎ、愛知県内の清州開閉所まで送電[42]。さらに清州から先は東邦電力の77キロボルト線に接続して、西勝原発電所の発生電力は最終的に名古屋市西部の烏森変電所へと達する[45]。このように西勝原発電所分の供給先は東邦電力であり、発電所送電開始とともに同社への暫定供給を始め、翌1924年1月1日より発生電力全部(1万5000キロワット)の供給を開始した[25]。供給料金は1キロワットあたり年間90円で、5年契約を結んだ[5]。なお1925年(大正14年)11月、愛知県内の犬山・清州間送電線が大同電力から東邦電力に譲渡されたため、大同電力を通じて東邦電力へと電力を引き渡す地点は犬山郊外の東邦電力羽黒変電所となった[42]

西勝原発電所に関しては、九頭竜川の下流側に位置する大同電力西勝原発電所とを繋ぐ連絡送電線も建設された[46]。白山水力または大同電力で故障のあった場合に最大5000キロワットの電力を融通しあうという相互融通の目的で建設された送電線である[46]。元は大同電力の路線であったが、1925年6月白山水力が購入している[46]

1928年(昭和3年)末、東邦電力に対する供給契約が満期を迎えるにあたってさらに5年間の供給契約が締結されたが、この更改後は第二発電所分を加えて供給高を2万800キロワットとする代わりに料金を1キロワットあたり年間90円から70円へと漸減することとなった[47]。名古屋逓信局の資料によると、1932年末の段階では西勝原発電所分の電力1万9000キロワットが羽黒変電所にて大同電力から東邦電力へと供給される[48]。また地元大野郡勝山町(現・勝山市)の勝山電力が西勝原発電所にて白山水力から250キロワットを受電している[41]

吉野谷発電所分の送電

前述の通り手取川水系の水利権取得は1913年のこと(「手取水電」名義)であるが[35]、続いて福澤桃介ら手取水電発起人は手取川水系開発による電力を石川県金沢市ならびに関西地方へと送電するという電気事業を出願した[49]。しかし実際の吉野谷発電所建設にあたり、白山水力では1924年2月西勝原発電所分に続いて東邦電力との間に供給契約を締結した[10]。発電所完成と同時に整備された送電線は吉野谷・西勝原間送電線で[29]、逓信省の資料によると送電線名を「吉野谷線」といい、吉野谷発電所と西勝原発電所を結ぶ亘長47.5キロメートル・送電電圧77キロボルトの路線である[43]

1926年6月1日より東邦電力に対する吉野谷発電所出力全部の供給が始まった[29]。電力過剰であるとして東邦電力が値下げを求めたため西勝原分より安い1キロワットあたり年間80円での供給(5年契約)となっている[50]。名古屋逓信局の資料によると、1932年末の段階では吉野谷発電所分の電力1万1400キロワットが羽黒変電所にて大同電力から東邦電力へと供給中とあるが[48]1931年(昭和6年)6月の契約満期に際し交渉決裂して以後受電休止の状態にあった[51]

鳥越発電所分の送電

鳥越発電所を建設するにあたり、東邦電力への追加供給が見込めないため、白山水力では自社で供給先を開拓すべく福井市・金沢市・富山県伏木町などの地域の電力供給区域編入を出願した[50]。織物工業用の需要が多く、余剰電力の供給希望があったことがこの地域への侵入を図った動機という[50]。しかしその後、福井県内の地盤には侵入しないという条件で京都電灯福井支社が鳥越発電所の電力を一部引き取ることに決まった[52]

京都電灯への電力供給地点は花房開閉所(福井県大野郡阪谷村=現・大野市)で[41]、吉野谷・鳥越両発電所と西勝原発電所を結ぶ送電線の西勝原寄りに位置する[53]。京都電灯では受電用送電線として1929年(昭和4年)8月に花房開閉所と福井変電所(京都方面とを結ぶ「京福送電線」の一端)を繋ぐ77キロボルト線「大野送電線」を完成させている[54]。京都電灯への供給契約は、鳥越発電所分のうち定時電力6500キロワット(開始当初は3500キロワット)を供給するというもので、料金は1キロワットあたり年間120円である[52]

鳥越発電所分の余剰電力(1年を通じて発生するわけではない不定時電力に相当)は5500キロワットあり、定時電力とあわせて京都電灯に引き取らせていたが、1930年(昭和5年)7月より供給先をカーバイドメーカーの大北工業(下記#関連会社大北工業参照)へ転じ供給を開始した[52]。大北工業に通じる送電線は「金沢線」といい、吉野谷発電所を起点とする亘長28.2キロメートルの77キロボルト送電線である[55]。供給料金は年間で計18万円(1キロワットあたり32.7円)という安値に定められた[52]

経営不振から合併へ

矢作水力第2代社長福澤駒吉

白山水力が開発した九頭竜川・手取川両水系は急勾配河川であるとともに豪雪地にあり融雪で冬季の減水が少ないという水力発電に適した特徴を備える[5]。そのため白山水力では水力発電所の建設費が比較的廉価に抑えられ、売電料金が安くても採算性があった[5]。経営面では、西勝原発電所の完成を挟んだ1924年3月期決算から年率8パーセントの配当を開始し、半期後の9月期決算から年率10パーセントへの増配を果たす[56]。吉野谷発電所完成直前の1926年4月には増資を決議し[29]、6月末時点の株主に対し持株1株につき新株1株を割り当てるという形で資本金を2000万円とする倍額増資を行った[56]

ところが不況を反映して各所で電力過剰の傾向が強まると、主要供給先の東邦電力から売電価格の値下げを求められて収入が減少、配当率維持は不可能となった[52]。年率10パーセント配当は1930年3月期決算で終了し次期からは年率8パーセントへと減配[4]。さらに吉野谷発電所分の供給契約更改に失敗した1931年9月期決算からは年率6パーセントへの減配を余儀なくされ、経営不振に陥った[57]。吉野谷発電所分の契約更改交渉が不調に終わった後、交渉相手の東邦電力との間で、料金値下げをめぐって対立を続けるよりはこの際両社を合併することで懸案を解決するべきとの意見が出て1931年7月から正式な合併交渉が始まったが[51]、この合併が成立することはなかった。

その後大株主日本興業銀行(興銀)の仲介により、興銀が債権者であった矢作水力との合併交渉が始まった[58]。この矢作水力は白山水力よりも3か月早い1919年3月の設立で、白山水力と同じく創業者は福澤桃介である[6]。当時は桃介の長男福澤駒吉が社長を務めており、元来は矢作川水系の開発を目的に起業された電力会社であったが、1931年に天竜川電力を合併して天竜川開発に乗り出しつつあった[6]。供給面では東邦電力をはじめとする他の電力会社に対し売電する一方で、愛知県下の名古屋市西三河地方に電力供給区域を持ち日清紡績などの工場需要家を自社で有する点が特色[59]。加えて1931年より余剰電力の受け皿とすべく名古屋港埋立地へのアンモニア合成工場建設[注釈 6]を進めていた[60]

1932年(昭和7年)10月、白山水力と矢作水力の間で合併に関する合意が成立した[58]。合併条件は、(1) 解散する白山水力の株主に対し持株4株につき3株の割合で矢作水力の株式を交付する、(2) 白山水力に別途25万円の解散手当を交付する、というものである[58]。合併直前の白山水力には額面50円払込済の旧株と12円50銭払込の新株という2種の株式が各20万株あったが[4]、この合併によって矢作水力では1500万円を増資し50円払込済株式と12円50銭払込株式を各15万株発行することになる[61]。同年11月18日、両社の株主総会にて合併が決議される[58][61]。4対3の合併比率は業績差を勘案し決定されたものだが[62]、それでも矢作水力に損であるという批判が矢作側の株主総会で出たという[58]

1933年(昭和8年)1月31日に逓信省より合併認可があり、2月28日付で契約に基づき合併実施に至った[61]4月11日には矢作水力にて合併報告総会が開かれて合併手続きが完了し[63]、同日をもって白山水力は解散した[2]。合併に伴い白山水力社長の成瀬正忠は矢作水力副社長に転じている[6]。また供給先がなくなっていた吉野谷発電所分の電力は天竜川泰阜発電所完成までの需要増の補填として矢作水力で消化されることとなり[58]、大同電力・東邦電力に託送する形で再び名古屋方面に送電されるようになった[62]

年表

備考

電灯電力供給区域

白山水力は、西勝原発電所が位置する福井県大野郡五箇村と、それに隣接する阪谷村下穴馬村の計3村(いずれも現・大野市)を電灯・電力供給区域に設定していた[66]。このうち五箇村・下穴馬村の配電線工事は1924年(大正13年)3月に完成している[67]。供給は小規模であり、1931年時点では電灯数201灯(事業者用を除く)に過ぎない[68]

関連会社大北工業

白山水力が出資していた会社に大北工業株式会社がある。同社は1929年(昭和4年)10月13日石川県金沢市に資本金30万円で設立[64]。鳥越発電所の余剰電力を活用して炭化カルシウム(カーバイド)を製造するべく起業された会社で、白山水力と大阪財界が出資している[65]。カーバイド工場は町の誘致により金沢郊外の石川郡野々市町(現・野々市市)に建設[69]。白山水力では工場まで送電線を新設して翌1930年7月より送電を開始した[52]。操業開始後、1932年(昭和7年)からはカーバイドに加えフェロアロイの一種フェロシリコンの製造も始めた[65]

白山水力と矢作水力の合併後も矢作水力が大北工業の株式を保有したままであったが、1939年(昭和14年)9月矢作水力子会社の昭和曹達が株式を譲り受けた[65]1944年(昭和19年)には昭和曹達が東亞合成化学工業(現・東亞合成)に合併したため同社系列となる[65]。戦後1960年(昭和35年)からは、同業でフェロシリコンを製造する東化工株式会社(現・日本重化学工業)の傘下に入るが[65]1965年(昭和40年)12月に工場を閉鎖した[69]。会社自体も翌1966年(昭和41年)3月東化工に合併されている[70]

脚注

注釈

  1. ^ 伊丹二郎・岩崎清七は福澤桃介のアメリカ留学時代の友人[8]。また成瀬正忠の兄正恭が同様の友人[8]。成瀬正忠は1905年慶應義塾卒で、前・嵐山電車軌道専務[9]
  2. ^ 1929年4月に麹町区麹町区丸ノ内1丁目6番地1と変更[11]
  3. ^ 直前まで濃飛電気社長に在任[21]。同社も福澤桃介系の電力会社である。
  4. ^ 電源周波数は60ヘルツで、これは白山水力の全発電所で共通する[26]
  5. ^ 岐阜県大野郡白川村所在、1926年11月大白川電力が建設[44]
  6. ^ 1933年12月子会社矢作工業の工場として操業開始[60]東亞合成名古屋工場の前身の一つにあたる。

出典

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  4. ^ a b c 『株式年鑑』昭和8年度623頁。NDLJP:1075593/328
  5. ^ a b c d 『実業の世界』第22巻第2号
  6. ^ a b c d e f 『人的事業大系』電力篇149-159頁。NDLJP:1458891/97
  7. ^ a b 『北陸地方電気事業百年史』141-146頁
  8. ^ a b 『福澤桃介翁伝』77-91頁
  9. ^ 『人事興信録』第5版な15-16頁。NDLJP:1704046/694
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『北陸地方電気事業百年史』152-154頁
  11. ^ 「商業登記 白山水力株式会社変更」『官報』876号、1929年11月29日付。NDLJP:2957343/20
  12. ^ a b c 「白山水力株式会社第1回報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
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  18. ^ 「白山水力社長更迭」『東京朝日新聞』1920年2月12日付朝刊
  19. ^ a b 「白山水力株式会社第2回報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
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  21. ^ 「濃飛電気株式会社第3回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
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参考文献

企業史

  • 京都電灯(編)『京都電灯株式会社五十年史』京都電灯、1939年。 
  • 大同電力社史編纂事務所(編)『大同電力株式会社沿革史』大同電力社史編纂事務所、1941年。 
  • 東亞合成化学工業株式会社社史編集室(編)『社史 東亞合成化学工業株式会社』東亞合成化学工業、1966年。 
  • 北陸地方電気事業百年史編纂委員会(編)『北陸地方電気事業百年史』北陸電力、1998年。 
  • 中村宏(編)『東邦電力技術史』東邦電力、1942年。NDLJP:1059583 
  • 矢作水力(編)『矢作水力株式会社十年史』矢作水力、1929年。NDLJP:1031632 

逓信省資料

  • 逓信省電気局(編)『電気事業要覧』 第22回、電気協会、1930年。NDLJP:1077038 
  • 逓信省電気局(編)『電気事業要覧』 第24回、電気協会、1933年。NDLJP:1077197 
  • 名古屋逓信局(編)『管内電気事業要覧』 第13回、電気協会東海支部、1933年。NDLJP:1145287 
  • 『発電水力地点要覧』逓信省電気局、1918年。NDLJP:975734 
  • 『許可水力地点要覧』逓信省電気局、1931年。NDLJP:1187651 

その他書籍

  • 犬伏節輔(編)『西勝原発電事業誌』大同電力、1926年。NDLJP:1018467 
  • 大阪屋商店調査部(編)『株式年鑑』
    • 『株式年鑑』 昭和2年度、大阪屋商店調査部、1927年。NDLJP:1075317 
    • 『株式年鑑』 昭和8年度、大同書院、1933年。NDLJP:1075593 
  • 大西理平(編)『福澤桃介翁伝』福澤桃介翁伝編纂所、1939年。 
  • 人事興信所(編)『人事興信録』 第5版、人事興信所、1918年。NDLJP:1704046 
  • 電気経済研究所(編)『日本電気交通経済年史』 第1輯(昭和8年前半期)、電気経済研究所、1933年。 
  • 電気之友社(編)『電気年鑑』
    • 『電気年鑑』 昭和2年、電気之友社、1927年。NDLJP:1139309 
    • 『電気年鑑』 昭和3年、電気之友社、1928年。NDLJP:1139346 
    • 『電気年鑑』 昭和5年、電気之友社、1930年。NDLJP:1139432 
  • 日本動力協会『日本の発電所』 中部日本篇、工業調査協会、1937年。NDLJP:1257061 
  • 野々市町史編纂専門委員会(編)『野々市町史』 通史編、野々市町、2006年。 
  • 松下伝吉『人的事業大系』 電力篇、中外産業調査会、1939年。NDLJP:1458891 
  • 『日本企業要覧』 1970年版、食糧経済新聞社、1970年。 

記事

  • 「前途囑望の白山水力」『実業の世界』第22巻第2号、実業之世界社、1925年2月、120-121頁。 
  • HI生「白山水力株式会社」『インヴェストメント』第5巻第1号、インヴェストメント社、1927年1月、77-80頁。 
  • 経済雑誌ダイヤモンド
    • 「会社時報 供給契約改定と白山水力」『ダイヤモンド』第17巻第19号、ダイヤモンド社、1929年6月21日、37-38頁。 
    • 「会社時報 白山水力の前途」『ダイヤモンド』第18巻第22号、ダイヤモンド社、1930年7月21日、37-38頁。 
    • 「会社時報 最悪期の白山水力」『ダイヤモンド』第20巻第12号、ダイヤモンド社、1932年4月11日、53-54頁。 
    • 「会社報告 矢作水力の硝酸硫安計画進捗す」『ダイヤモンド』第20巻第37号、ダイヤモンド社、1932年12月11日、43-45頁。 
  • 谷内勝美「手取川総合開発の概要」『工業用水』第163号、日本工業用水協会、1972年4月、17-24頁。 
  • 吉田正紀・中西和美・高岡直和「西勝原第一発電所主機全面改修工事に伴う土木設備改修工事の概要」『電力土木』第286号、電力土木技術協会、2000年3月、29-31頁。 
  • 沢田稔・寺田康人・林栄一「吉野谷発電所ダムゲートレス化工事の概要」『電力土木』第286号、電力土木技術協会、2000年3月、32-34頁。