カツラノハイセイコ
カツラノハイセイコ | |
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2000年4月8日 阪神競馬場功労馬特別展示 | |
品種 | サラブレッド |
性別 | 牡 |
毛色 | 黒鹿毛 |
生誕 | 1976年5月13日 |
死没 | 2009年10月8日(33歳没) |
父 | ハイセイコー |
母 | コウイチスタア |
母の父 | ジャヴリン |
生国 | 日本(北海道浦河町) |
生産者 | 鮫川三千男 |
馬主 | 桂土地(株) |
調教師 | 庄野穂積(栗東) |
競走成績 | |
生涯成績 | 23戦8勝 |
獲得賞金 | 3億1216万200円 |
カツラノハイセイコ(1976年5月13日 - 2009年10月8日)は日本中央競馬会に所属していた競走馬・種牡馬。ハイセイコーの初年度産駒の一頭で、父が現役時代に勝てなかった日本ダービー・天皇賞(春)を優勝。
馬名の「カツラノ」とは馬主の「桂土地株式会社」の冠名で、「ハイセイコー」でないのは「競走馬名は9文字以内」という制限のためである。
現役時にあわせ馬齢は旧表記とする。
戦績
誕生
母・コウイチスタアは競走馬時代を12戦1勝で終えた。鮫川三千男牧場の仔分けでその母系は小岩井農場の基礎輸入牝馬の1頭であるフロリースカップに遡り、その娘のスターリングモアは1929年に鮫川の祖父が当歳で買い取って帝室御賞典を含む10勝を挙げた。このスターリングモアの子孫にはヤシマドオター・リキエイカンなどがいる。母の父・ジャブリンは1957年にアイルランドで産まれた名血で、1965年より日本でも供用された。コウイチスタアも当然繁殖馬として期待されたが、4年間も不受胎が続いていたためか、あわや「繁殖牝馬失格」のレッテルを貼られる寸前の馬であった。鮫川は元々タケホープを配合させようと考えていたが、コウイチスタアがあまり馬格のない馬であったため、体が大きくスピードのありそうな種牡馬ということで、中距離が得意で540kgに達する[1]巨漢馬であったハイセイコーを交配。結果的に生まれたカツラノハイセイコは最盛期でも450kg台と牡馬としては小柄の部類で、鮫川の思惑とは異なることとなったが[2][3]、初年度のハイセイコー産駒の中ではまだ評価されていたほうであった。
3 - 4歳
1978年(旧3歳)9月1日の札幌で作田誠二を背にデビューしたが、勝ち馬から10馬身以上の大差を開かれて4着。京都での4戦目からは鞍上を福永洋一にバトンタッチし、1番人気に推されたダート1200mの未勝利戦で初勝利を挙げる。その後は掲示板こそ外さなかったものの、芝の特別戦2鞍ともに2着・3着と惜敗で終えた。1979年(旧4歳)になると突如覚醒。正月の京都から始動して呉竹賞(400万下)・ジュニアカップ(800万下)・4歳ステークスを軽々と3連勝し、一躍クラシックの有力候補となった。呉竹賞までは福永が騎乗していたが、ジュニアC以降は福永の兄弟子である松本善登が騎乗。その後は東上して初重賞のスプリングステークスでは1番人気に推され、ここで重賞3連勝を達成するリキアイオーの逃げは捕らえられなかったものの首差の2着。敗れたものの皐月賞への期待を膨らませたが、調整のために滞在していた美浦トレセンの水道水を嫌って飲まなかった影響か直前で熱発してしまい、どうにか間に合って当日は5番人気であった。レースでは道中は後方に置かれたが、直線では持ち前の根性で追い上げてビンゴガルーの2着となった。父子制覇の夢は幻に終わったが、皐月賞後は東京競馬場へ移動。東京の水は良く飲んだこともあって馬体も回復の兆候を見せ、東京コースに慣れさせるためにNHK杯へ出走。メジロアサマ産駒のメジロエスパーダに次ぐ2番人気に推されたが、早仕掛けで末脚をなくしてテルテンリュウの3着に終わる。日本ダービーでは同世代の実力が均衡するなか、父が勝てなかったダービーを勝たせたいというファン心理も手伝って僅差の1番人気に支持される。レースでは道中はインコースの10番手あたりでじっくりと進め、4コーナーで先頭に立つと、直線は割るように伸びて逃げ込みを図ったリキアイオーを交わしにかかった。内がハイセイコ、中央がリキアイオー、外がテルテンリュウという位置取りで3頭の叩き合いとなったが、直線で抜け出しを図ろうとしたテルテンリュウが内にささり、リキアイオーは脚が上がって脱落。その煽りを受けて、嶋田功騎乗のリンドプルバンは抜け出す進路が塞がれた。残り100mでテルテンリュウを振り切るが、体勢を立て直したリンドプルバンが猛追。ハイセイコはそれをハナ差でねじ伏せて、父がタケホープにさらわれたダービー制覇の夢を叶えた。リンドプルバンは嶋田を背に4歳中距離特別を勝ってダービーに臨んでいたが、奇しくもタケホープと同じであった。写真判定の際には1、2着の結果が出るのに約10分ほどを要した(斜行に対しての審議の実施の有無については不明)が、鞍上の松本は当時45歳・騎手生活25年目にして初のクラシック制覇となった。かつてはシンザンで有馬記念を制した松本ではあるが、この頃は調教師試験を毎年受験しており、この時点では現役最年長の騎手であり最高齢でのダービー制覇となった[4]。父内国産馬の勝利は1959年のコマツヒカリ以来20年ぶりで、勝ち時計の2分27秒3は当時のダービーレコードであった。ダービー後は夏の間に熱発や鼻骨骨折に見舞われたこともあり、万全の状態で秋を迎えられなかった。何とか体調を戻して中京で行われた京都新聞杯に出走したが、ファインドラゴンの10着と敗れた。更にレース後には脚部不安や馬には珍しいとされる肺炎を罹ったため、菊花賞を断念して長期休養に入った。
5歳
1980年(旧5歳)は肺癌で倒れた松本に代わって河内洋が手綱を取り、9月7日に阪神で行われたサファイヤステークスから復帰した。8頭中6番人気ながらニチドウアラシの2着に入って復活をアピールし、京都大賞典ではシルクスキーの3着に入る。その後は天皇賞(秋)を見据えて東上し、1番人気に推された目黒記念(秋)では前走対戦したシルクスキーやカネミノブなどを退けて勝利。馬体はダービーの頃よりも20kg増え、充実の秋を迎えたとファンに見なされ、続く本番の天皇賞(秋)では1番人気に支持される。当日は2番手追走もプリテイキャストの大逃げに幻惑し、後続馬にもズブズブ差されて6着に敗れた。次走の有馬記念ではファン投票こそ堂々の1位であったが、天皇賞の後遺症からメジロファントム・カネミノブに続く3番人気で出走。直線で早めに先頭に立つが、肝心のところで外によれてしまい、ホウヨウボーイに完全に差し切られながら根性で差し返そうとしてハナ差届かず。ホウヨウボーイの2着に敗れた。
6歳
1981年(旧6歳)は3月8日のマイラーズカップから始動。前年のダービー馬であるオペックホースとの珍しい「マイル重賞でのダービー馬対決[5]」に注目が集まったが、レース当日は3番人気であった。直線で最後方からウエスタンジョージ以下をごぼう抜きにし、4着に終わったオペックホースとのダービー馬対決を制した。続く大阪杯では1番人気に推されたものの、59kgの斤量と不良馬場で動きも悪くサンシードール[6]の6着に敗れる。次走の天皇賞(春)では直前に飼い葉量が落ちて完調とまではいかず、さらに体調を崩したという情報まで流れる始末であったが、モンテプリンス・ホウヨウボーイなど有力な関東馬が西下しなかったため、リンドプルバンに次ぐ2番人気に支持された。ダービー以来の440kg台に落ちたハイセイコは道中を中団馬群でしっかり脚を溜め、淀の坂を下りてペースが上がってもじっと我慢。4コーナーを回った瞬間に素早く動き、直線で馬群の真ん中を割って先頭に躍り出る。そこへ奇しくも父と同じ大井出身のカツアールが外から襲い掛かり、勢いはカツアールが有利かと思われたが、ハイセイコは驚異の粘りを見せて先頭を譲らず。カツアールに何度もぶつけられながらも、持ち前の根性で200m近い叩き合いを制し、ついに一度も抜かれることもなくクビ差振り切って勝利した。父が敗れた舞台で再び勝利して見せたハイセイコは続く宝塚記念ではファン投票1位、当日も1番人気に支持された。レースでは先に抜け出したカツアールの雪辱を許したが、絶望的な位置から突っ込んで2着を確保。その後は第1回ジャパンカップを目指したが、深管骨瘤を悪化させてそのまま引退。11月22日に京都で引退式が行われたが、ハイセイコ引退から約1か月後の12月14日、ダービー勝利時の鞍上であった松本が48歳という若さで亡くなっている。
引退後
引退後は日本中央競馬会に種牡馬として1億2000万円で買い取られ、青森県上北郡七戸町の日本軽種馬協会七戸種馬場にて種牡馬生活に入った。繁殖牝馬の質が低く、順風満帆で恵まれた環境ではなかったが奮闘し、テツノセンゴクオー・カネユタカオーなど複数の地方活躍馬を送り出す。中央ではユウミロクがオークスでメジロラモーヌの2着に入り、古馬時代にはカブトヤマ記念も制覇。ユウミロクは母としての活躍の方が目立っており、ユウセンショウ・ゴーカイ・ユウフヨウホウという重賞勝ち馬三兄弟を送り出した。2000年にJRAが実施した20世紀の名馬大投票では62位に選ばれた。種牡馬引退後は栃木県那須塩原市の那須種馬場で余生を過ごしていたが、2009年10月8日に老衰のため死去[7]。
おもな産駒
年度別競走成績
- 1978年(6戦1勝)
- 1979年(8戦4勝) - 優駿賞最優秀4歳牡馬
- 1着 - 東京優駿(日本ダービー)、2着 - 皐月賞、スプリングステークス、3着 - NHK杯
- 1980年(5戦1勝)
- 1981年(4戦2勝)
血統表
カツラノハイセイコの血統 | (血統表の出典)[§ 1] | |||
父系 | ロックフェラ系 |
[§ 2] | ||
父 ハイセイコー 1970 鹿毛 |
父の父 *チャイナロックChina Rock 1953 栃栗毛 |
Rockefella | Hyperion | |
Rockfel | ||||
May Wong | Rustom Pasha | |||
Wezzan | ||||
父の母 ハイユウ1961 黒鹿毛 |
*カリム Karim |
Nearco | ||
Skylarking | ||||
*ダルモーガン Dalmogan |
Beau Son | |||
Reticent | ||||
母 コウイチスタア 1968 黒鹿毛 |
*ジャヴリン Javelin 1957 黒鹿毛 |
Tulyar | Tehran | |
Neocracy | ||||
Sun Chariot | Hyperion | |||
Clarence | ||||
母の母 ミタケ1960 鹿毛 |
タカクラヤマ | *セフト | ||
峰城 | ||||
第三スターリングモアノ一 | トビサクラ | |||
第三スターリングモア | ||||
母系(F-No.) | フロリースカップ系(FN:3-l) | [§ 3] | ||
5代内の近親交配 | Hyperion 4×4、Nearco 4×5 | [§ 4] | ||
出典 |
脚注
- ^ 1974年有馬記念時点
- ^ カツラノハイセイコに限らずハイセイコーの初年度産駒(55頭)は父に似ない小柄な馬が多く誕生していた。
- ^ のちに「父親(ハイセイコー)と似ていない馬はよく走る」(大川慶次郎談)と言われるようになるが、産駒デビュー前であり当時の競馬関係者にはそのような認識はなかった。
- ^ その後、増沢末夫が1986年の日本ダービーでダイナガリバーに騎乗して優勝し、最年長記録を更新している。
- ^ 1600m重賞でのダービー馬対決は2009年安田記念(ウオッカvsディープスカイ)まで実現しなかった。
- ^ 鞍上の栗田伸一はこれが重賞初制覇となった。
- ^ “カツラノハイセイコ号が死亡”. JRA (2009年10月8日). 2009年10月8日閲覧。
- ^ a b c “血統情報:5代血統表|カツラノハイセイコ”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2015年8月13日閲覧。
- ^ 小林皓正(編)『サラブレッド血統マップ'93』コスモヒルズ、1993年、22-23頁。
- ^ “スペシャルウィークが社台スタリオンステーションを退厩”. 競走馬のふるさと案内所. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2015年8月13日閲覧。
参考文献
- 吉村昭「第46回日本ダービー 馬券を買う」 『優駿 1979年7月号』 日本中央競馬会、1979年
- 福田喜久男「カツラノハイセイコのふるさと スターリングモアと鮫川三千男牧場」 『優駿 1979年8月号』 日本中央競馬会、1979年
外部リンク
- 競走馬成績と情報 netkeiba、JBISサーチ
- カツラノハイセイコ - 競走馬のふるさと案内所