ホウヨウボーイ
ホウヨウボーイ | |||||||||
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欧字表記 | Hoyo Boy | ||||||||
品種 | サラブレッド | ||||||||
性別 | 牡 | ||||||||
毛色 | 栗毛 | ||||||||
生誕 | 1975年4月15日 | ||||||||
死没 |
1982年5月30日 (7歳没・旧8歳) | ||||||||
父 | ファーストファミリー | ||||||||
母 | ホウヨウクイン | ||||||||
母の父 | レアリーリーガル | ||||||||
生国 |
日本 北海道新冠郡新冠町 | ||||||||
生産者 | 豊洋牧場 | ||||||||
馬主 | 古川嘉治 | ||||||||
調教師 | 二本柳俊夫(中山→美浦南) | ||||||||
厩務員 | 菅原重次郎 | ||||||||
競走成績 | |||||||||
タイトル | 優駿賞年度代表馬(1980・1981年) | ||||||||
生涯成績 | 19戦11勝 | ||||||||
獲得賞金 | 2億7466万0000円 | ||||||||
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ホウヨウボーイ(1975年4月15日 - 1982年5月30日)は、日本中央競馬会に所属していた競走馬・種牡馬。シンザン以来、2年連続で中央競馬の年度代表馬に輝いた。
※馬齢は2000年まで使用されていた旧表記(数え年)に統一する。
生涯
誕生
1975年4月15日、北海道新冠郡新冠町の豊洋牧場で誕生。創業家の古川家は1899年に兵庫県淡路島からの入植で、場主の古川博は3代目であった。馬の生産は父の嘉平が始め、牧場の創業は1928年とかなり早かった[1]。母・ホウヨウクインは祖父が名種牡馬・ネアルコのレアリーリーガルを父に持つ牝馬で、中央で14勝したダツシングラスの孫であった。父・ファーストファミリーはアメリカでガルフストリームパークハンデキャップなど7勝した活躍馬で、古川が1973年に輸入した種牡馬。3歳上の兄・サーゲイロードはサーアイヴァーなどを輩出している世界的名種牡馬で、8歳下の弟には『ビッグレッド』の異名を持つアメリカ三冠馬・セクレタリアトがいた[2]。値も張ったが、血統面の魅力がそれを上回り、入手直前にセクレタリアトが三冠達成したために危うく別の馬主に売られそうになった馬であった。ファーストファミリーが日本で種付けを始めた年、古川は牧場期待の繁殖牝馬であったホウヨウクインに配合[3]。こうして「ロイヤルチャージャー4×3」というインブリード(いわゆる『奇跡の血量18.75%』)を持つ良血として生まれたホウヨウボーイは、豊洋牧場の当歳馬20頭の中で最も期待が持てる馬であったが、育成が佳境に入った所で購入予定の馬主が購入額(1000万円)の半減を申し出す。牧場がそれを蹴ったために破談となり売れ残ったが、千葉の分場で育成を担当していた弟の古川嘉治が自ら馬主となり、3歳になった1977年秋に中山・二本柳俊夫厩舎に入厩。
3歳
鞍上には二本柳厩舎の主戦である加藤和宏が据えられ、1977年12月に中山でデビュー。1番人気に応えて6馬身差で圧勝したが、レース後に右前脚の管骨骨折が判明。全治に6ヶ月を要することから春のクラシック出走は不可能になり、秋になってからの復帰を目指して千葉の牧場で再起を図っていたが、不運は更に続く。右脚の骨折が完治して菊花賞を目標に乗り込みを始めた矢先に今度は左前脚の管骨を骨折し、この2度の骨折で全てのクラシックを棒に振ったほか、競走馬としての再起もほとんど絶望的となった。ホウヨウボーイの休養期間中には入院していた弟の嘉治が亡くなり、落ち込んでいた古川は同馬の引退・乗馬入りを検討していたが、同馬の素質を高く買っていた二本柳は3歳時に重度の骨折で1年以上休養しながら、古馬になって有馬記念を制したタニノチカラを例に挙げてそれを押し留めた。
5歳
亡き古川のためにもと必死に復帰を目指して調教を続け、タニノチカラを超える1年9ヶ月の空白を経て、5歳となった1979年8月の函館の400万下で復帰。3馬身差の勝利で復帰を飾ると、次走の美駒特別(400万下)こそ2着であったものの、富里特別(400万下)、奥多摩特別(800万下)、清澄特別(800万下)と3連勝。順調に条件戦を勝ち上がり、オープンまでオール連対(6戦4勝、2着2回)で駆け上がった。
6歳
6歳になった1980年は2月の香取特別(1200万下)は2着であったものの、3月のオープン馬相手のブラッドストーンステークス(1200万下)を勝利。勢いに乗って中2週で日経賞に挑戦し、2番人気を得てヨシノスキー以下に完勝。重賞初挑戦で初制覇という快挙を成し遂げたが、その後も二本柳はホウヨウボーイに無理をさせず、春を休養に当て、天皇賞・秋を目指して復活の地・函館で調整することになった。一度準オープンに降級したが、8月の大沼ステークス(1200万下)を快勝して再びオープン馬に復帰、この時の3着は後の菊花賞馬となるノースガストであった。オープン馬になったホウヨウボーイは10月の東京のオープン2着を叩いて、11月の天皇賞(秋)で遂にGI級レース及び八大競走に挑戦。初のGI級レース出走ながらホウヨウボーイは東京優駿馬・カツラノハイセイコに次ぐ2番人気に推されたが、カツラノハイセイコと互いに牽制しあっているうちに、伏兵の牝馬・プリテイキャストの大逃げを許して7着と初めて掲示板を外した。ホウヨウボーイは秋の天皇賞でプリテイキャストに敗れるまで連対率100%であり、それまで3回負けていたが、何れも1着馬は牝馬であった。続く有馬記念では前走の凡走が嫌われて4番人気に支持され、カツラノハイセイコも3番人気と低評価であった。1番人気と2番人気は天皇賞で彼らに先着したメジロファントムとカネミノブであった。天皇賞で大逃走劇を演じたプリテイキャストはファン投票21位でファン投票選出にはならず、推薦馬での出走で7番人気であった。レースはそのプリテイキャストが逃げ、サクラシンゲキがそれに続く形でレースを先導した。ホウヨウボーイの加藤とカツラノハイセイコの河内洋は同じ失敗を繰り返さないとばかりに、ペースを計りながら好位から抜け出すタイミングを待った。先に抜け出したホウヨウボーイは外から迫るカツラノハイセイコの追い込みをハナ差で交わして優勝し、天皇賞惨敗の雪辱を果たした。この有馬記念の勝利が決め手となり、6歳にして初めて年度代表馬になった。
7歳
7歳になった1981年は天皇賞・春を目指し、1月のアメリカジョッキークラブカップから始動。有馬記念と同じ2500mを1番人気で軽く逃げて快勝し、3月の中山記念2着の後に骨瘤を発症。春を棒に振ることになったが、結果的に関西へ遠征することなく生涯を終えた。秋は復帰戦のオールカマーこそ5着という不本意な結果に終わり、ジャパンカップの創設で1ヶ月繰り上がりとなった第84回天皇賞ではオールカマーの結果から2番人気と評価を下げる。無冠の帝王といわれたモンテプリンスは5番人気、1番人気はその年の宝塚記念を勝っていたカツアールであった。パドックでは周回順で牝馬の次にならない様に調教師が主催者に申し入れ、5着に敗れた前走のオールカマーの勝ち馬でもある同枠の牝馬・ハセシノブを避けるべく、8枠16番のオーバーレインボーの後ろを歩かせている。レースはモンテプリンスが2、3番手に付け、ホウヨウボーイがモンテプリンスを見るようにレースを進めた。直線はこの2頭が抜け出し、モンテプリンスの吉永正人、ホウヨウボーイの加藤が馬体を合わせた壮絶な叩き合いが続いた。そして2頭が鼻づらを合わした所がゴールであり、どちらともいえない体勢であったが、写真判定の結果はホウヨウボーイがハナ差で先着してGI級レース2勝目を飾った。加藤は天皇賞を前に逝去した担当厩務員の菅原重次郎が最後のひと押しを助けてくれたと述懐した。1ヶ月後の第1回ジャパンカップには日本の総大将として外国馬を迎え撃ったが、レースではスタート時にゲートに顔をぶつける。この時に歯が3本折れて口内出血を起こしていたのが災いして、アメリカの弱冠18歳キャッシュ・アスムッセンが操るメアジードーツの6着に敗れた。日本馬はゴールドスペンサーの5着が最高で、ホウヨウボーイとほぼ同力量のモンテプリンスが8着という結果からすると、まだこの時期の日本馬は世界レベルから程遠かったといえる。ホウヨウボーイは次走の有馬記念で引退することが発表された。世界レベル届かなかったとはいえ、日本最強馬であることは疑いようのなかったホウヨウボーイは1番人気に推されたが、同厩のアンバーシャダイの前に2馬身半差の2着に敗れた。それでも、ホウヨウボーイは天皇賞の優勝が評価されて、2年連続で年度代表馬となった。2018年現在、年度代表馬に2年連続で輝いたのは同馬の他には、シンザン、シンボリルドルフ、シンボリクリスエス、ディープインパクト、ウオッカ、キタサンブラックの6頭のみである。
引退後
引退後は1982年1月10日に中山で引退式が執り行われ、日高軽種馬農協門別種馬場で種牡馬入りする。ホウヨウボーイは同じレースに牝馬が出走しているとパドックから「馬っ気」を出し、極度に興奮に達してしまう悪癖があった。当然レースに集中できず、引退までの8敗のうち、6戦は牝馬に先着を許していた。若い時はパドックで水を浴びて興奮を冷ます、あるいは主催者側も配慮してパドックの周回時や本馬場入場時に牝馬を目の前にしないようにする光景も見られていた。そのため種牡馬としてもかなりの期待をされ、初年度から60頭の繁殖牝馬に恵まれ、48頭の産駒を得た。ところが東京優駿と同じ日の5月30日にストレス性の胃破裂で急死。僅か1世代の産駒の中から道営記念を勝ったベストボーイ[4]、4歳時にゴールドジュニアを勝ち、東海ダービー3着があるドントップ[5]、中央3勝のヘイアンユウボーイ[6]らを輩出。高い繁殖能力を見せていただけにその死は惜しまれたが、種付け料は70万円と当時としても比較的安価な設定であった。配合された牝馬がそれほど質が高くないものが多かったため、父の跡を継ぐような産駒は出なかった。また繁殖牝馬になった産駒は僅か7頭で、うち1頭はアラブ種であるため、現在はホウヨウボーイの血は完全に絶えた。
戦績
以下の内容は、netkeiba.comの情報[7]に基づく。
競走日 | 競馬場 | 競走名 | 格 | 距離(馬場) | 頭
数 |
枠
番 |
馬
番 |
オッズ
(人気) |
着順 | タイム | 騎手 | 斤量
[kg] |
1着馬(2着馬) |
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1977.12.04 | 中山 | 3歳新馬 | 芝1200m(良) | 18 | 6 | 11 | 3.2(1人) | 1着 | 1:12.3 | 加藤和宏 | 52 | (ロイヤルマウンテン) | |
1979.08.24 | 函館 | 4歳以上400万下 | 芝1700m(良) | 10 | 5 | 5 | 3.2(1人) | 1着 | 1:43.8 | 加藤和宏 | 56 | (ハジメクール) | |
1979.10.06 | 中山 | 美駒特別 | 芝1600m(重) | 13 | 4 | 5 | 2.0(1人) | 2着 | 1:36.9 | 加藤和宏 | 56 | シンセイギク | |
1979.10.20 | 中山 | 富里特別 | 芝1600m(重) | 11 | 2 | 2 | 1.7(1人) | 1着 | 1:37.1 | 加藤和宏 | 56 | (コクサイスマイル) | |
1979.11.18 | 東京 | 奥多摩特別 | 芝2000m(不) | 9 | 3 | 3 | 2.7(1人) | 1着 | 2:06.1 | 加藤和宏 | 56 | (ヤシャオー) | |
1979.12.09 | 中山 | 清澄特別 | 芝2000m(良) | 15 | 7 | 13 | 2.3(1人) | 1着 | 2:04.1 | 加藤和宏 | 56 | (マークリフブキ) | |
1980.02.23 | 中山 | 香取特別 | 芝2200m(良) | 14 | 1 | 1 | 3.9(1人) | 2着 | 2:15.9 | 加藤和宏 | 57 | ボストンメリー | |
1980.03.15 | 中山 | ブラッドストーンS | 芝2000m(稍) | 15 | 8 | 15 | 1.9(1人) | 1着 | 2:05.1 | 加藤和宏 | 56 | (イシノタイカン) | |
1980.03.30 | 中山 | 日経賞 | 芝2500m(不) | 10 | 7 | 8 | 4.3(2人) | 1着 | 2:41.9 | 加藤和宏 | 54 | (ヨシノスキー) | |
1980.08.24 | 函館 | 大沼S | 芝2000m(不) | 14 | 4 | 6 | 1.9(1人) | 1着 | 2:04.7 | 加藤和宏 | 55 | (モンテリボー) | |
1980.10.25 | 東京 | 4歳以上 | 芝1800m(不) | 5 | 3 | 3 | 2.7(1人) | 2着 | 1:53.9 | 加藤和宏 | 56 | スイートネイティブ | |
1980.11.23 | 東京 | 天皇賞 | 芝3200m(重) | 11 | 7 | 8 | 6.1(2人) | 7着 | 3:30.4 | 加藤和宏 | 58 | プリテイキャスト | |
1980.12.21 | 中山 | 有馬記念 | 芝2500m(良) | 12 | 3 | 3 | 10.2(4人) | 1着 | 2:33.7 | 加藤和宏 | 56 | (カツラノハイセイコ) | |
1981.01.18 | 中山 | AJCC | 芝2500m(良) | 10 | 7 | 7 | 2.8(1人) | 1着 | 2:37.5 | 加藤和宏 | 57 | (サーペンプリンス) | |
1981.03.08 | 中山 | 中山記念 | 芝1800m(良) | 10 | 5 | 5 | 2.1(1人) | 2着 | 1:50.8 | 加藤和宏 | 58 | キタノリキオー | |
1981.09.20 | 中山 | オールカマー | 芝2000m(重) | 9 | 7 | 7 | 2.0(1人) | 5着 | 2:04.8 | 加藤和宏 | 59 | ハセシノブ | |
1981.10.25 | 東京 | 天皇賞 | 芝3200m(良) | 16 | 1 | 2 | 10.3(2人) | 1着 | 3:18.9 | 加藤和宏 | 58 | (モンテプリンス) | |
1981.11.22 | 東京 | ジャパンカップ | 芝2400m(良) | 15 | 2 | 2 | 7.1(3人) | 6着 | 2:26.1 | 加藤和宏 | 57 | メアジードーツ | |
1981.12.20 | 中山 | 有馬記念 | 芝2500m(良) | 16 | 7 | 13 | 3.8(1人) | 2着 | 2:35.9 | 加藤和宏 | 56 | アンバーシャダイ |
主な産駒
エピソード
漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の主人公両津勘吉は現役最強馬としてホウヨウボーイの名前をあげていた(27巻)。なお、掲載時(1981年50号)に有馬記念と中山大障害の予想をしていたが、アンバーシャダイが勝利したため、有馬記念の予想が外れたことになる。
血統表
ホウヨウボーイの血統 | (血統表の出典)[§ 1] | |||
父系 | ロイヤルチャージャー系 |
[§ 2] | ||
父 *ファーストファミリー First Family 1962 栗毛 |
父の父 First Landing1956 鹿毛 |
Turn-to | Royal Charger | |
Source Sucree | ||||
Hildene | Bubbling Over | |||
Fancy Racket | ||||
父の母 Somethingroyal1952 鹿毛 |
Princequillo | Prince Rose | ||
Cosquilla | ||||
Imperatrice | Caruso | |||
Cinquepace | ||||
母 ホウヨウクイン 1969 鹿毛 |
*レアリーリーガル Really Regal 1962 栃栗毛 |
Royal Charger | Nearco | |
Sun Princess | ||||
Fresh Air | Fair Trial | |||
Refreshed | ||||
母の母 豊隼1962 芦毛 |
*フェリオール Ferriol |
Fastnet | ||
Aisse | ||||
ダツシングラス | ダツシング | |||
第弐フラツシングラス | ||||
母系(F-No.) | フラストレート系(FN:1-b) | [§ 3] | ||
5代内の近親交配 | Royal Charger 4×3、Pharos 5・5(母系内) | [§ 4] | ||
出典 |
出典・脚注
- ^ 江面弘也「名馬を読む2」三賢社、2019年8月30日、ISBN 4908655146、p123
- ^ 「名馬を読む2」、p123
- ^ 「名馬を読む2」、p123
- ^ “ベストボーイ”. JBISサーチ. 2020年8月17日閲覧。
- ^ “ドントップ”. JBISサーチ. 2020年8月17日閲覧。
- ^ “ヘイアンユウボーイ”. JBISサーチ. 2020年8月17日閲覧。
- ^ “ホウヨウボーイの競走成績 | 競走馬データ”. netkeiba.com. 2020年1月17日閲覧。
- ^ a b c “血統情報:5代血統表|ホウヨウボーイ”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2015年9月5日閲覧。
- ^ 小林皓正(編)『サラブレッド血統マップ'93』コスモヒルズ、1993年、54-55頁。
- ^ 『優駿』1981年12月号、日本中央競馬会、74頁