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福永祐一

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福永祐一
2011年阪神JF表彰式
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 滋賀県栗太郡栗東町
(現・栗東市)
生年月日 (1976-12-09) 1976年12月9日(48歳)
身長 160.0cm
体重 51.0kg
血液型 B型
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会
所属厩舎 栗東・北橋修二 (1996.3.1 - 2006.2.28)
栗東・フリー (2006.3.1 - )
初免許年 1996年
免許区分 平地・障害
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福永 祐一 (ふくなが ゆういち、1976年12月9日[1] - ) は日本中央競馬会 (JRA) 栗東所属の騎手である。は現役時代「天才」と言われた元騎手の福永洋一、妻は元フジテレビアナウンサーの松尾翠[2]

来歴

競馬学校入学時より「天才」と称された父・洋一の2世騎手ということで話題を集めていた。なお同年にデビューした騎手はJRA初の女性騎手となった牧原由貴子 (当時) ら3人の女性騎手や双子の騎手として話題となる[独自研究?]柴田大知未崎兄弟、そして後にテイエムオペラオーとのコンビで一世を風靡する[独自研究?]和田竜二などがおり競馬学校花の12期生と言われ話題を集め、落馬事故で脳挫傷の障害を負ったために引退した常石勝義らを含めて現在でも仲が良いことで有名。[独自研究?]

1996年3月2日中京競馬第2競走でマルブツブレベストに騎乗し堂々の[独自研究?]初騎乗初勝利を挙げると続く第3競走でもレイベストメントで勝利し、デビュー2連勝を飾る。この年は53勝を挙げ、JRA賞最多勝利新人騎手も獲得した。

1997年7月22日川崎競馬場 (スパーキングナイター) で行なわれた第44回エンプレス杯でシルクフェニックスに騎乗し重賞初制覇。同年11月15日キングヘイロー東京スポーツ杯3歳ステークスに勝ちJRA重賞初勝利。同馬の主戦騎手として翌年のクラシックでもコンビを組み皐月賞では2着となったが、続く東京優駿 (日本ダービー) では引っ掛かったキングヘイローを制御できずにいつもとは違う逃げの競馬となり14着に敗れた。秋初戦の神戸新聞杯からはキングヘイローの主戦は岡部幸雄で行くことが発表されたが、次走の京都新聞杯(当時の菊花賞トライアル)では岡部が当初海外に行く予定が入っていたため、再び手綱をとって2着。京都新聞杯では最後の直線で祐一の叫び声に、スペシャルウィークで馬体を併せた武豊がキングヘイローにかける気合に驚いたと言われている。[独自研究?]しかし、最後の1冠となった菊花賞で5着、次走の有馬記念で6着に敗れたのを最後にコンビを解消した。

1999年桜花賞プリモディーネに騎乗しJRAGI初勝利[1]。しかしその翌週、中京競馬場で施行された小倉大賞典 (マルカコマチに騎乗予定) の本馬場入場の際に落馬事故で肋骨骨折、左腎臓損傷の重傷を負う。秋には復帰し、朝日杯3歳ステークスを自厩舎の所属馬エイシンプレストンで制した。エイシンプレストンとのコンビでは2001年香港マイルを制し、2002年2003年クイーンエリザベス2世カップを連覇するなど国内・香港で活躍した。

2003年は祐一にとって念願の牡馬クラシック制覇を成し遂げるチャンスだった。同じ瀬戸口勉厩舎所属できさらぎ賞を含め3勝をあげていたネオユニヴァースと、2歳王者となっていたエイシンチャンプをお手馬としてかかえ最終的にはGI馬であったことからエイシンチャンプを選んだが結果としてミルコ・デムーロに託されたネオユニヴァースが二冠を達成、祐一は最大のチャンスを逃すことになった。後に本人は「ネオユニヴァースの方が強いと思っていたが、先に依頼のあったエイシンチャンプを選んだ」と語った。

2014年11月23日東京12Rにおいて、レッドエンブレムに騎乗し、JRA通算1700勝を達成した。

2005年春のGI戦線では武豊とともに大活躍しフェブラリーステークスメイショウボーラーで、桜花賞とNHKマイルカップラインクラフトで、優駿牝馬をシーザリオで制したほか、冬にはフサイチリシャールで朝日杯フューチュリティステークスを勝利した。またシーザリオでは同年7月3日 (現地) アメリカ合衆国ハリウッドパーク競馬場で行われたアメリカンオークス招待ステークスにも優勝し、日本生産・調教馬初のアメリカG1競走優勝という偉業を成し遂げた。また自身初のJRA年間100勝以上も達成した。

2006年エリザベス女王杯ではフサイチパンドラに騎乗。カワカミプリンセスに1位入線[注 1]を許したものの同馬は審議の結果進路妨害で12着に降着となり、フサイチパンドラが繰り上がり優勝。また同年に新設された阪神カップをフサイチリシャールで制し、初代王者となった。

2007年には、JpnI競走[注 2]の優駿牝馬でローブデコルテに騎乗し優勝。2001年から7年連続のGI級競走 (GI・JpnI) 勝利となった。9月9日には馬場入場時に騎乗していたゲットザチャンスが暴れて落馬し、その際に右腹部を蹴られ翌日の騎乗をキャンセルすることになった。10月6日に史上27人目となるJRA通算900勝を達成した。11月26日兵庫県警察宝塚警察署から一日警察署長を委嘱されたことが発表され、11月29日の「年末特別警戒隊発隊式」に出席した。

2008年も順調に勝利数を重ねた。9月27日には第4競走の2歳新馬戦で勝利し、8811戦目で父・洋一の通算勝利数 (983勝) に並んだ。 (洋一は5086戦目で983勝目をあげている) また、11月30日京都競馬場で行われた12Rでオリオンスターズに騎乗し中央競馬史上23人目 (現役10人目) となるJRA通算1000勝を達成した。また12月6日と7日に行われたワールドスーパージョッキーズシリーズ (WSJS) に、負傷した武豊騎手に代わっての出場。しかし、順調な勝利とは裏腹にこの年はGI級競走での勝利がなく、連続勝利記録は7年で途絶えた。

2009年11月28日の京都競馬第8レースでセレスダイナミックが1着となり、JRA通算1100勝を達成した。この年も、GI級競走での勝利はなかった。

2007年の優駿牝馬以来、GI級競走での勝利から遠ざかっていたが、2010年阪神ジュベナイルフィリーズで圧倒的1番人気に支持されたレーヴディソールに騎乗し勝利。およそ3年半ぶりのGI級競走[独自研究?][注 3]勝利となった。

2011年札幌記念などサマーシリーズの3レースを勝ち、サマージョッキーズシリーズを2位に15ポイント差で優勝。また、ブエナビスタの妹ジョワドヴィーヴルにて阪神ジュベナイルフィリーズを連覇。岩田康誠との熾烈なリーディングジョッキー争いを制し、初の全国リーディングジョッキーとなった。 JRA賞最多勝利騎手は (地方競馬での) 中央・地方交流競走の勝利を含めた勝利数で上回った岩田が受賞し、福永はJRA賞最高勝率騎手を受賞した。

2012年6月2日鳴尾記念トゥザグローリーで勝利、さらに翌日の安田記念ストロングリターンで勝利し2005年以来の牡馬牝馬混合GIを制覇。その勢いを持って同日に行われたユニコーンステークスストローハットで勝利し史上初の同一週3重賞勝利を達成。宝塚記念後、8月末までアメリカへ遠征する[3]。なお、札幌記念ダークシャドウに騎乗するため、8月19日に限り一時帰国した。

2013年3月、松尾翠(元フジテレビアナウンサー)と結婚することを発表し、8月20日に婚姻届を提出した。10月20日菊花賞で牡馬クラシック初制覇と同時に、父・福永洋一との親子制覇を達成した。さらに10月27日天皇賞(秋)を制覇し、2週連続で八大競走を親子制覇を達成した。菊花賞と天皇賞(秋)を同一年に連覇したのは1965年栗田勝以来である。最終的には初のリーディングジョッキーとなり、父子リーディングジョッキーを達成した。この年から始まった初代MVJに選ばれた。

2014年の中京開催で19勝し、中京開催リーディングジョッキーになった。

成績

GI・JpnI競走勝利

斜字は統一GI太字は海外GIを指す)

JRA・GI 18勝(海外GI5勝、交流1勝)

騎乗成績

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗・初勝利 1996年3月2日 1回中京1日3R 4歳未勝利 マルブツブレベスト 16頭 1 1着
重賞初騎乗 1996年3月2日 1回中京1日11R 中日新聞杯 オグリワン 16頭 6 15着
重賞初勝利 1997年11月15日 5回東京5日11R 東京スポーツ杯3歳S キングヘイロー 12頭 1 1着
GI初騎乗 1996年10月20日 4回京都6日10R 秋華賞 シーズグレイス 18頭 12 6着
GI初勝利 1999年4月11日 2回阪神6日11R 桜花賞 プリモディーネ 18頭 4 1着
年度 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率 表彰
1996年 53 49 45 518 .102 .197 .284 JRA賞(最多勝利新人騎手)
1997年 62 59 56 692 .090 .175 .256
1998年 52 52 55 635 .082 .164 .250 小倉ターフ賞
1999年 43 39 31 398 .108 .206 .284
2000年 84 71 61 660 .127 .235 .327 小倉ターフ賞
2001年 81 68 69 749 .108 .199 .291
2002年 89 62 78 722 .123 .209 .317 JRA優秀騎手賞
2003年 83 78 67 696 .119 .231 .328
2004年 96 81 96 771 .125 .230 .354 JRA優秀騎手賞
小倉ターフ賞
2005年 109 70 81 811 .134 .221 .321 JRA優秀騎手賞
2006年 88 69 87 820 .107 .191 .298 JRA優秀騎手賞
2007年 82 80 67 744 .110 .218 .308
2008年 86 70 86 804 .107 .194 .301
2009年 93 82 89 825 .113 .212 .320
2010年 109 108 82 809 .135 .268 .370
2011年 133 98 84 824 .161 .280 .382 JRA賞(最高勝率騎手)
サマージョッキーズシリーズ優勝
2012年 115 101 72 741 .155 .291 .389
2013年 131 103 103 844 .155 .277 .399 JRA賞(最多勝利騎手、最多賞金獲得騎手)
MVJ
2014年 118 111 92 751 .157 .305 .427
中央 1707 1451 1401 13814 .124 .230 .332
地方 66 67 78 487 .134 .268 .423

エピソード

  • 父・洋一の兄弟である伯父には競馬関係者が多い。長兄・はJRAの元騎手・元調教師、次兄・二三雄は大井競馬の元騎手・元調教師、三男・尚武は船橋競馬の元騎手である。洋一は四男。
  • 母の弟である叔父にも元・騎手の北村卓士がいる。
  • 祐一の高祖父の妹と、徳光和夫の祖父の兄が結婚しており、遠い姻戚関係にある[4]。他にはミッツ・マングローブも遠戚になる。
  • 子供の頃から栗東の福永家は武家と隣同士であり、武豊 (豊は厳密には京都市伏見区出身) や武幸四郎とはご近所さんの間柄だった。武豊は福永が生まれた日のことを覚えているという。
  • 5歳の頃、父のリハビリの密着取材を続けていた読売テレビのディレクターに、大人になったら何になりたいか聞かれて「騎手になる」と答えた。しかし同時に「お母さんは許してくれないと思う」とも語っている。
  • 現在は花の12期生の1人として語られることも多いが、その前年に競馬学校11期生の入学試験を受けている。しかし、直前に負った足の骨折で体力試験をパスできずに不合格。これにより福永は幻の11期生となったが、その後1年間近江兄弟社高等学校に通い[5]、翌年に再受験し合格したため、1歳年上の細江純子以外の同期生は福永より1歳年下である。
  • 父・洋一が騎手生活を絶たれた毎日杯で、1997年に祐一自らも落馬。落馬地点もほぼ一緒だったが、父と違い祐一は軽い打撲のみで済んだが、スポーツ新聞数誌が1面で落馬を報じた。
  • サインには「福永雄一千」と書く。これは落馬事故で腎臓を片方摘出する大怪我(1999年の小倉大賞典の本馬場入場時の落馬)を負って以来のことで、母親の強い勧めによるもの。
  • 優駿牝馬 (オークス) では2004年から4年連続連対 (3勝2着1回) という驚異的な成績を残していた。
  • 距離がマイル (1600m) の (GI) に強く、GI18勝のうち11勝を占める。
  • 小倉で行われる2歳オープン戦・フェニックス賞にも強く、2001年から2007年までで6勝2着1回という成績を残し2003年から2007年まで5連勝を記録していた(これは武豊の若駒ステークス5連勝、河内洋万葉ステークス5連勝に並ぶ同一特別競走の最多連勝タイ記録である)
  • 2007年の天皇賞・秋ではカンパニーに騎乗したが最後の直線でコスモバルクが左右によれたことにより不利を受けたとされ、地方競馬所属で同馬の騎手である五十嵐冬樹に対し「コスモバルクは毎回、毎回やっている。五十嵐さんはG1に乗る騎手じゃない。(ローカルの)福島にでも行っていればいい。勘弁してくれ。」と発言したと報道され一部で物議を醸したが、本人はこの発言を否定している。逆に翌2008年の日本ダービーで、福永はモンテクリスエスに騎乗し1コーナーでかなりの斜行をしている。被害馬は同レース3着のブラックシェルであったが、騎乗していた武豊騎手は「1コーナーをスムーズにいければあるいは…」という談話を残している。
  • テレビゲームマニアで、幼少の頃は信長の野望シリーズ三國志シリーズ (どちらもコーエー) に熱中していた他、「イメージトレーニングのため」と称して『ジーワンジョッキー』シリーズ (コーエー) をプレイすることが多いという。『ジーワンジョッキー』ではゲーム中に自分自身が実名で登場するため、自分の名前ではなくエディット機能を使用して父・洋一の名前でプレイしている。[6]
  • 2011年8月15日に盛岡競馬場で行われた日本版シャーガーカップ (騎手対抗戦) TEAM JRA VS TEAM岩手では、TEAMJRAのキャプテンを務めた。第一戦、第二戦共に2着の成績で個人優勝及びチーム優勝に貢献した。
  • 騎乗依頼仲介者井尻雅大 (研究ニュース) 。バレットは坪田幸子 (有限会社グリップのスタッフ) である。

北橋・瀬戸口との関係

現在は実力のある騎手はフリー (どこの厩舎にも所属しない騎手) の立場であることが多いが、祐一は2006年2月に北橋修二が定年引退を迎えるまで北橋厩舎の所属騎手であった。厩舎所属の場合は固定給が支払われ生活がある程度保障される一方、他厩舎から有力馬の騎乗依頼を受けても所属厩舎の出走馬に優先して騎乗しなければならない場合があり不利な面も多いとされる。また、厩舎のスタッフの一員として、馬の世話や厩舎の作業など雑用もこなさなければならない。

祐一がデビュー後所属し師事した北橋は、祐一が幼い頃から世話になり親しんでいた間柄であり、厩舎所属後の公私を弁えた関係など現在の祐一を語る上で欠かせない人物である。

北橋とともに関係が深い調教師は、北橋と同郷(鹿児島県出身)の瀬戸口勉である。瀬戸口厩舎では祐一を主戦とし、祐一がデビューしたての頃からずっと起用し続けていた。GIもサニングデール・エイシンチャンプ・ラインクラフトで制覇している。

祐一は騎手生活を振り返る時、常々2人への尊敬と感謝の念を口にしている。しかし2006年2月に北橋が、瀬戸口も2007年2月に調教師を引退。頼りにしていた "2人の師匠" が相次いで競馬サークルから去り、同年の京王杯スプリングカップ (勝ち馬・エイシンドーバー) で同年初の重賞勝利を飾った際「サポートをしてくれる厩舎が解散になった途端勝てなくなったんでね、もうどうしようかなと思っていたんですけど (笑) うまく勝ててよかったです。もうちょっとジョッキー続けられそうです。」と語っている。

評価

JRA所属の騎手藤田伸二は福永の騎乗について、「おそらく体が硬い」とした上で、そのことが原因で騎乗時に「馬と体の間にムダな隙間が生じてバランスが非常に悪くなっている」と指摘している[7]。藤田によると騎乗技術に長けた騎手は前傾姿勢をとって上半身を馬に近い位置に保ちながら騎乗することができるが、福永は体重が後ろにかかって懐が大きく開き、膝でバランスをとろうとして「膝がガックンガックン動いてしまう」ことのある騎乗フォームである[8]。さらに福永には「勝ちにこだわった騎乗」もできておらず、「強い馬に乗せてもらっているから勝っている」に過ぎない騎手であると評している[9]。また藤田は福永の、自身も安全に配慮した騎乗が十分にできずしばしばJRAによる制裁の対象となっているにもかかわらず若手の騎手に対しては安全に配慮した騎乗ができていないと調整ルームで「威圧」する姿勢を批判している[10]

田原成貴はJRA所属の騎手であった当時出版した著書(『馬上の風に吹かれて 競馬場の風来坊2』)において、福永は武豊横山典弘と比較すると、騎手としての素質をさほど持ち合わせていないと評している[11]。田原は福永の具体的な問題点として、「一生懸命、上半身を柔らかくしようとしているけど、下半身が固いから、努力だけで終わってる」と指摘している[11]

テレビ・ラジオ

雑誌

  • 週刊プレイボーイ「競馬の神髄」 (2代目執筆者) →「福永祐一のリーディング一直線」 (いずれも連載終了)

写真集

脚注・出典

参考文献

  • 田原成貴『馬上の風に吹かれて 競馬場の風来坊2』マガジン・マガジン、1997年。ISBN 978-4-914967-15-4 
  • 藤田伸二『騎手の一分 競馬界の真実』講談社〈講談社現代新書2210〉、2013年。ISBN 978-4-06-288210-1 

注釈

  1. ^ ゴールに馬体の先端 (脚部は含まない) が到達 (ゴール) すること。
  2. ^ この年から、国際グレードが付与されていない重賞競走がG~の表記からJpn~の表記に変更されている。
  3. ^ GI競走という表現にはJpnI競走も含まれている[独自研究?]が、2010年より全ての重賞が国際競走となったのでJpnI競走の勝利は2007年の優駿牝馬が最初で最後である。

出典

  1. ^ a b 祐言実行”. netkeiba.com. 2015年6月19日閲覧。
  2. ^ 福永 フジテレビ松尾アナと結婚「式は年内の予定」 スポーツニッポン 2013年8月25日閲覧
  3. ^ 福永祐一騎手がアメリカへ海外渡航 JRA公式サイト 2012年6月27日 2012年8月21日閲覧
  4. ^ ファミリーヒストリー|2013/01/21(月)放送”. TVでた蔵. ワイヤーアクション. 2015年1月4日閲覧。
  5. ^ 輝く同窓生たち・活躍中の同窓生たち”. 近江兄弟社学園 同窓会. 2015年1月4日閲覧。
  6. ^ 東京中日スポーツ・2008年10月2日付 18面
  7. ^ 藤田 2013, p. 75.
  8. ^ 藤田 2013, pp. 75–76.
  9. ^ 藤田 2013, p. 76.
  10. ^ 藤田 2013, pp. 41–42.
  11. ^ a b 田原 1997, p. 181.

関連項目

外部リンク