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タニノチカラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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タニノチカラ
欧字表記 Tanino Chikara
品種 サラブレッド
性別
毛色 栗毛
生誕 1969年4月14日
死没 1980年4月10日
(11歳没・旧12歳)
ブランブルー
タニノチェリ
母の父 ティエポロ
生国 日本の旗 日本北海道静内町
生産者 カントリー牧場
馬主 谷水雄三
調教師 島崎宏栗東
競走成績
生涯成績 24戦13勝
獲得賞金 2億1424万2600円
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タニノチカラとは天皇賞(秋)有馬記念を制した日本競走馬である。1973年1974年優駿賞最優秀5歳以上牡馬半兄皐月賞東京優駿(日本ダービー)を制した二冠馬タニノムーティエを持つ。

「最強世代」と称される1972年クラシック組であるランドプリンス(皐月賞)・ロングエース(日本ダービー)・イシノヒカル菊花賞、有馬記念)・タイテエム(天皇賞〈春〉)・ハクホオショウ安田記念)・ハマノパレード宝塚記念)・ストロングエイト(有馬記念)・ナオキ(宝塚記念)と同世代。主戦騎手田島日出雄田島裕和の父)。オープン戦では当時新人だった安田隆行河内洋が騎乗している。

※なお、当項目内での馬齢は旧表記を用いる。

戦績

3歳

兄タニノムーティエ同様安田伊佐夫を鞍上に9月の阪神競馬でデビューした。デビュー戦は3着に敗れたが2戦目を5馬身差で勝ち上がった。しかし10月末のデビュー4戦目、野菊賞で2着と敗れた際に左管骨を骨折、春のクラシック断念を余儀なくされた。さらに復帰に向けてのトレーニング中に左前手根骨を骨折、命をも危ぶまれたが治療により一命を取り留め、何とか競走馬としても復帰できることになったが、結局治療のため1年7か月にもおよぶ休養生活を余儀なくされることとなった。この休養時代に谷水信夫が交通事故死したため、息子である谷水雄三がタニノ軍団の後継者となっている。

5歳

5歳になった1973年、夏の札幌競馬で復帰し条件戦を3連勝、それぞれ4、5、4馬身差で勝利した。復帰4戦目のオホーツクハンデキャップでは4着と敗れるが、条件馬ながら重賞朝日チャレンジカップに出走した。重賞初出走、格上挑戦となったが2馬身2分の1差で勝利した。ハリウッドターフクラブ賞[1]でもメジロムサシ以下に勝利し、重賞2連勝となった。目黒記念(秋)では、第3コーナーから急激なまくりを行い、直線でベルワイドとストロングエイトにはさまれ後退するという強引な騎乗がたたりベルワイドの3着に敗れたものの、その後の秋の天皇賞では、故障を発症した単勝1番人気ハクホオショウの競走中止を尻目に、ミリオンパラらを振り切り逃げ切り、天皇賞を勝利した。

そして年末の有馬記念ではハイセイコーとの初対決となった。2番人気に支持されたタニノチカラは、あまりにもハイセイコーを意識しすぎて、桜花賞優勝馬ニットウチドリとそれを追うストロングエイトを楽に逃がしてしまい、先の秋の天皇賞では負かしたストロングエイトの前に4着と敗れ、ハイセイコーにも先着を許した。さらに、鞍上・田島日出雄はハイセイコー騎乗の増沢末夫とともに採決委員会に呼び出されることとなった。

6歳

1974年、6歳になったタニノチカラは緒戦のオープン戦を1着と勝利したあと連続して僅差の2着となかなか勝利できなかった。大阪杯でも2着となったが、ふたたび故障が判明し半年間の休養に入った。秋に復帰したタニノチカラはサファイヤステークスを3着とし、京都大賞典ではハイセイコーとの再戦だったが、2着ホウシュウエイトに4馬身差をつけて勝利、ハイセイコーは4着に敗れた。その後のオープンでも勝利し、有馬記念に出走することとなった。

このレースには、ともに引退レースになるハイセイコー、タケホープ(日本ダービー、菊花賞、天皇賞〈春〉)の対決に注目が集まった。また出走馬はほかにもベルワイドや前年の優勝馬ストロングエイトも出走していた。レースが始まると逃げたタニノチカラは、最後まで影を踏ませず2着のハイセイコーに5馬身差をつけて優勝した。タケホープはクビ差の3着に終わり、このレースを最後にこの2頭は現役を退いている。

7歳

1975年、7歳になったタニノチカラは現役を続行した。京都記念では63キログラムという酷な負担重量を背負ったが、スタートから逃げて2着に2秒以上の差をつける大差勝ちで勝利した。その後のオープンでも勝ち、これで京都大賞典以来5連勝となった。そして迎えたマイラーズカップは、前年の二冠馬キタノカチドキ高松宮杯優勝馬イットーを加え三強対決となった。中団からレースを進めたタニノチカラは直線で鋭い末脚を発揮するが、キタノカチドキとイットーに届かず3着に敗れた。レース後、屈腱炎が判明したためそのまま引退し、種牡馬となった。

引退後

兄タニノムーティエと比べ大柄な馬体だったこともあり、タニノチカラはかなりの期待を受け故郷・カントリー牧場での種牡馬生活を開始した。しかし種牡馬供用5年目の種付け中に大動脈破裂により死亡し、種牡馬としては成功を収めることができなかった。

おもな産駒

総評

骨折により長期休養の間、同年齢で「関西三強」とも呼ばれ、1972年の春クラシックを席巻したランドプリンスロングエースタイテエムや同年の菊花賞有馬記念を勝ったイシノヒカルなどは、タニノチカラが復帰した5歳夏には不振または故障による引退を余儀なくされていた。同年齢のライバルが不在となり、むしろ古馬の筆頭格として同じく出世が遅れていたストロングエイトらと共に、一歳下の世代のハイセイコータケホープなどと熱戦を繰り返した。

種牡馬としては早世により不発に終わったタニノチカラであるが、首と頭を背中の位置より低く下げた独特のフォームで25戦13勝2着5回3着4回の戦績を残し、その競走生活で掲示板[2]に載らなかったことは一度もない安定した成績を残している。逃げ・先行を主戦法とし、天皇賞(秋)・有馬記念ではどちらも逃げ切り勝ちを収めている。1番人気で走ること19回、生涯において3番人気以下で出走したことは一度もなく、7歳まで活躍した1970年代中央競馬を代表する競走馬の1頭である。

エピソード

  • 杉本清は、関西テレビ1992年に放送された『名馬物語』においてタニノチカラが取り上げられた際、自分が見た馬のなかではもっとも強かったと評している。また、1975年にデビューしたテンポイント阪神3歳ステークスを勝ったときに「これが関西の期待!テンポイントだ!」という言葉を発したのは、この年に引退を余儀なくされたタニノチカラを強く意識してのものだった。
  • 1973年の有馬記念終了後、鞍上の田島日出雄は、第4コーナーでハイセイコーを交わし、直線で先頭に立つ競走をしていれば絶対に勝てたと悔しがった。翌年は京都大賞典、有馬記念ともいずれもハイセイコーよりも前で競馬を進めたが、ハイセイコーに「来るなら来い!」という気持ちで臨めば絶対に勝てるという自信を持っていた。
  • 1973年に秋の天皇賞の実況を担当したフジテレビ盛山毅は、最後の直線半ばを過ぎたあたりでなぜかタニノチカラと言わずに、「トーヨーチカラ先頭!トーヨーチカラ勝ちました!」と間違えて実況してしまった。ちなみに同レースには「トーヨーアサヒ」(7着)は出走していたが、トーヨーチカラは出走していない。トーヨーチカラという馬は実在した[3]が、1973年当時は4歳馬であり、当時の規定では天皇賞には出走できなかった。
  • 7歳時に勝った京都記念において、関西テレビのモニターアングルは直線に入って2着争いばかり映し出していたことや、あまりにも差が開きすぎたこともあり、タニノチカラが1着でゴール板を駆け抜けたシーンはモニターアングルをめいっぱい拡大しても映し出せなかった。
  • 谷水雄三は父の跡を継いだはいいが競馬に関しては継続すべきか迷っていた。しかしタニノチカラの活躍で競馬事業の継続を決意する。拡大戦略がアダとなり一時不振を極めるが、タニノギムレットで2代続けてダービー馬のオーナーになり、ウオッカで親子2代続けてダービー2勝オーナーになり、ビッグウィークで菊花賞を制覇した。

勝鞍

  • 有馬記念
  • 天皇賞(秋)
  • 京都大賞典2回
  • 京都記念
  • 朝日チャレンジカップ

血統表

タニノチカラ血統クラリオン系 / Solario4×5=9.38%、Phalaris5×5=6.25%) (血統表の出典)

*ブランブルー
Blanc Bleu
1959 鹿毛
父の父
Klairon
1952 鹿毛
Clarion Djebel
Columba
Kalmia Kantar
Sweet Lavender
父の母
Sans Tares
1939 栗毛
Sind Solario
Mirawala
Tara Teddy
Jean Gow

タニノチエリ
1963 栗毛
*ティエポロ
Tiepolo
1955 鹿毛
Blue Peter Fairway
Fancy Free
Trevisana Niccolo Dell'Arca
Tofanella
母の母
*シーマン
Seaman
1951 栗毛
Able Seaman Admiral's Walk
Charameuse
Vermah Vermeer
Marheke F-No.12-g


脚注

  1. ^ 現・京都大賞典
  2. ^ 5着以上は競馬場内の着順掲示板に馬番が表示される。
  3. ^ 1973年の京都新聞杯ハイセイコーを2着に下し優勝している。

外部リンク