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前漢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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前漢(ぜんかん 紀元前206年 - 8年)は中国王朝滅亡後の楚漢戦争にて項羽との争いに勝利した劉邦によって建てられた。長安を都とした。7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され、一旦は亡んだ。その後、皇族の劉秀により再興される。これを後漢と呼ぶ。

前漢の最大領域

中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と呼ぶことが多い。この場合は後漢を東漢と呼ぶ。後漢とセットにして両漢ともいう。言うまでもなく、前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しい。であるのでこの項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する

は元々は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し、その支配が前後400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものをさす言葉になった。

単位に関しては以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=498m 面積・1畝=1/100頃=6.61a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖=258.24g 容積・1斛=34.3l

歴史

[1]

建国

劉邦

戦国時代を統一した始皇帝皇帝概念・郡県制などその後の漢帝国及び中国歴代王朝の基礎となる様々な政策を打ち出した。しかしその死後、二世皇帝が即位すると宦官趙高の専横を許し、また阿房宮などの造営にかかる費用と人手を求めるために収奪が酷くなり、その不満は全国に蔓延していった。

紀元前209年、河南の人・陳勝が反乱を起こすとこれが各地に飛び火し、陳勝・呉広の乱として全国的な騒乱状態となった。陳勝自身は秦の討伐軍に破れ、敗走するところを部下に殺されるが、その跡を旧の名族である項梁が受け継ぎ、項梁の死後はその甥の項羽が反秦軍を受け継ぐ。漢の創始者・劉邦はその部下として働き、秦首都の咸陽を陥落させ、秦を滅ぼした。その後は西楚の覇王を名乗る項羽と、その項羽から漢中に封建されて漢王となった劉邦との間での争いとなる。(楚漢戦争

軍事的には当初から圧倒的に項羽が優勢であり、劉邦は項羽と戦うたびに負ける有様であった。しかし投降した兵士を虐殺するなどの悪政が目立った項羽に対し、劉邦は陣中に於いては張良の言を良く聞き、自らの根拠地である関中には旗揚げ当時からの部下である蕭何を置いて民衆の慰撫に努めさせ、関中からの物資・兵力により何度破れても再び勢力を回復することが出来た。更に将軍・韓信を派遣し、華北の広い地帯を征服することに成功する。これらにより徐々に勢力を積み上げていった劉邦は紀元前203年垓下の戦いにて項羽を打ち破り、中国全土を統一した。

劉邦は諸将の薦めにより皇帝に即位する(高祖)。高祖は蕭何・韓信らの功臣たちを諸侯王列侯に封じ、新たに長安城を造営、秦制を基にした官制の整備などを行い、国家支配の基を築いていった。しかし高祖は自らの築いた王朝が無事に子孫に受け継がれていくかを心配し、功臣の諸侯王を粛清して、それに代わって自らの親族を諸侯王に付けることで「劉氏にあらざる者は王足るべからず」という体制を固めていった。秦の郡県制に対して、郡県と諸侯国が並立する漢の体制を郡国制と呼ぶ。

呂氏の専横

紀元前195年、高祖は崩御。その跡を劉盈(恵帝)が継ぐ。恵帝自身は気弱な人物であり、政治の実権を握ったのはその母で高祖の皇后の呂后であった。呂后は高祖が生前に恵帝に代わって太子に立てようとしていた劉如意を毒殺、更にその母の戚氏残忍な方法で殺した。恵帝は母の残忍さにショックを受け、のち若くして崩御。呂后は少帝恭少帝弘を相次いで帝位に付けるが、少帝弘は実際には劉氏ではなかったとされる。

呂后は諸侯王となっていた高祖の子たちを死に追いやり、それと共に自らの親族である呂産らを要職に付け、更にこれらを王位に上らせた。「劉氏にあらざる者は・・・」が早くも崩れたのである。呂后は死の間際まで呂氏体制を確立するために奔走したが紀元前180年に死去。

呂后がいなくなると反呂氏勢力は勢いづき、朱虚侯の劉章丞相陳平太尉周勃らの主導で呂産らは権力を剥奪され、呂氏は皆殺しにされた。

文景の治

呂氏の族誅後、次代の皇帝の地位に付いたのが王であった劉恒(文帝)である。

秦滅亡から漢建国までの8年に及ぶ長い内戦状態は国力を激しく疲弊させ、一般民の多くが生業を失った。これに対して文帝は民力の回復に努める。農業を奨励し、田租をそれまでの半分の30分の1税に改め、貧窮した者には国庫を開いて援助し、肉刑を禁じ、その代わりに労働刑を課した。また自ら倹約に取り組み、自らの身の回りを質素にし、官員の数を減らした。

紀元前157年に文帝は崩御。この時に文帝は新しく陵を築かず、金銀を陪葬せず、その喪も3日で明けるように遺言した。その跡を劉啓(景帝)が継ぐ。景帝もまた基本的に文帝と同じ政治姿勢で臨み、民力の回復に努めた。その結果、食べきれない食料で倉庫は溢れ、銅銭に通した紐が腐ってしまうほどに国庫に積み上げられたと言う[2]。実際の数字からも国力の回復は明らかで、例えば曹参が領地として与えられた平陽は当初は1万6千戸であったのがこの時代には4万戸に達していた[3]。この2人の治世を讃えて文景の治と呼ぶ。

しかし国力の回復と共に、貧富の格差の拡大と諸侯王の勢力の増大とが新たな問題として浮上してきた。

農業生産が増大したことに伴い、商業活動もまた活発化し、商人の経済力も飛躍的に増大した。その財力で農民たちの土地を買い上げ、更に財を積み上げていった。物を生産しないで巨利を得る商人に対して、商業を抑え込んで農業を涵養することを提言したのが文帝期の賈誼であり、景帝期の晁錯であった。文帝の観農政策は賈誼の提言に従ったものである。(#豪族を参照のこと。)

また生産の回復は中央の勢力を増大させたが、それと同時に諸侯王の勢力も増大させた。諸侯国は中央朝廷と同じように官吏を置き、政治も財政も軍事もある程度の自治権が認められ、半独立国の様相を呈していた。これを抑圧することを提言したのが晁錯である。晁錯は諸侯王の過誤を見つけてはこれを口実に領地を没収していき、諸侯王の勢力を削りにかかった。これに対して諸侯王側も反発し、呉王劉濞が中心となって紀元前154年呉楚七国の乱を起こす。この乱は周亜夫らの活躍により半年で鎮圧される。

これ以後、諸侯王は財政権・官吏任命権などを取り上げられ、諸侯王は領地に応じた収入を受け取るだけの存在になり、封国を支配する存在ではなくなった。これにより郡国制はほぼ郡県制と変わりなくなり、漢の中央集権体制が確立された。

全盛

武帝

景帝は紀元前141年に崩御。その跡を劉徹(武帝)が継ぐ。武帝は文景の治の蓄積を元に積極的な施策に乗り出す。

内政面に於いては郷挙里選の法を始め、儒教を学んだ人物の登用を開始した。また諸侯王の締め付けを更に強化し、諸侯王が自分の領地を子弟に分け与えて列侯に封建するのを許す推恩の令を出した。これにより封国は細分化されるようになり、諸侯王の勢力はますます小さくなった。

外征面に於いて。北の強国・匈奴とは、紀元前200年に高祖が大敗を喫して以来、敵対と和平を繰り返していたが、概ね匈奴が優勢であった。これに対して武帝は紀元前134年に馬邑[4]の土豪の聶壱という者が考えた策謀を採用し、対匈奴の戦いを始めることを決定した。紀元前129年第一回目の遠征では他の将軍たちが大損害を受ける中で車騎将軍・衛青だけが数百の首を獲得した。以後、衛青は七度に渡って遠征し、その度に戦果を挙げた。更に衛青の甥の霍去病が活躍し、渾邪王が数万の衆と共に投降するという大戦果を挙げた。これらの成果により匈奴は北へと移動せざるを得なくなり、漢は新たに朔方・敦煌などの郡を設けた。

また朝鮮の衛氏朝鮮・ベトナムの南越国を征服し、朝鮮には楽浪郡を初めとする四郡をベトナムには日南郡を新たに置いて直轄領とした。また匈奴に対する対策の一環として張騫を西方に派遣し、烏孫大宛などとの関係を結んだ。この結果としていわゆるシルクロードの交易路が開け、西方の文物が漢にもたらされた。

しかし相次ぐ遠征は財政の悪化をもたらし、また文帝時代から進んでいた商人の伸長とそれによる富の偏在などもまた深刻さを増した。これら大富豪たちは後に豪族と呼ばれる存在に成長する。

武帝は経済官僚桑弘羊を登用して収入増加のために塩鉄専売制を開始、また商人に対する圧力として均輸・平準を行い、商人・商工業者に対して新たに税をかけた。これらにより没落した商人たちは貧民たちを指揮して盗賊と化して暴れ回った。

これに対して武帝は酷吏と呼ばれる法家系の官僚を使い、苛烈な姿勢で臨んだ。盗賊を発見しない・更に発見してもその数が少ない場合はその地方の官吏は全て死刑という沈命法を出した。また紀元前106年には郡の太守が盗賊と豪族と結託していることが多かったので、全国を13州に分け、州内の郡県の監察官として刺史職を新設した。

武帝も晩年になると神秘思想に凝って不老不死を望むようになり、それに伴い宮中では巫蠱(ふこ)が流行するようになる。巫蠱とは憎い相手の木の人形を作り、これを土に埋めることで相手を呪い殺そうとするものであり、これを行うことは厳に禁じられた。それを逆用し、人形を捏造することで対立相手を謀殺することが頻繁に行われた。そして紀元前91年、武帝の太子・戻太子が常より対立していた酷吏・江充による策謀により謀反の汚名を着せられ、追い詰められて長安で挙兵し、敗死した(巫蠱の乱)。後に戻太子の巫蠱の嫌疑が無実であったことを知った武帝は深く悲しみ、江充一族を皆殺しにしたが、後の祭りであった。皇太子を失った武帝は老齢も重なって気力を減退させ、周辺部への進出はこれ以降は止められた。

武帝時代は漢の絶頂期であったが、同時に様々な問題点が噴出した時代でもあった。

霍光と宣帝

巫蠱の乱の後、後継は長い間定められないままであったが、武帝は死の直前にまだ八歳の劉弗陵(昭帝)を後継と定め、幼帝の補佐として、自らの側近であった霍光桑弘羊上官桀金日磾らを付けた。

紀元前87年、武帝崩御。昭帝が即位し、一年後、金日磾が早々に死去し、霍光・上官桀と桑弘羊との主導権争いとなる。内朝を代表する霍光・上官桀と外朝を代表する桑弘羊との対立は日に日に深まり、霍光は桑弘羊を追い落とすために全国より集められた賢良・文学と呼ばれる儒学生の後押しをし、桑弘羊主導で行われた専売制・均輸・平準を廃止する建議を出した。これが『塩鉄論』である。しかし経験豊富な桑弘羊と学生では勝負にならず、ことごとく論破され、霍光の目論見は破れた。

その後、桑弘羊も霍光に対抗するために上官桀と接近。昭帝の兄である燕王劉旦と共謀し、霍光を謀殺し、昭帝を廃するクーデターを画策したが失敗。上官桀と桑弘羊の一族は皆殺しにされる[5]。霍光は一族の者を次々と要職に就けていき、長きに渡り専権を振るった。その間、霍光は武帝時代の政策を転換し、租税を免除し、匈奴と和親で望むなど儒教的な恤民政策を推し進めた。

紀元前74年、昭帝は21歳で早世。その後継者として霍光が選んだのが劉賀であったが、即位後すぐに行いが悪いとして霍光はこれを廃位した。その後に選んだのが戻太子の孫で、戻太子の死以来民間にいた劉病已(宣帝)である。即位した宣帝は霍光を尊重し、霍光の専権は変わらなかった。しかし紀元前68年に霍光が病死。宣帝は残った霍一族の権力を徐々に削り、紀元前66年に霍一族を皆殺しにし、親政を始めた。

宣帝の政治は基本的に霍光のものを受け継ぎ、恤民政策を進めた。全国の地方官に対してこれまでの酷吏のように締め付けるのではなく、教え諭し、その生活を改善できるように指導させた。そしてこれら循吏と呼ばれる官吏を中央官に抜擢した。その一方で宣帝は酷吏も使用し、豪族に対しては厳しい姿勢で臨んだ。

外征面においては西域に進出し、西域都護を設置する。これにより匈奴の勢力は衰え、紀元前53年には匈奴の呼韓邪単于が漢に入朝した。

これらの功績により宣帝は漢の中興の祖と讃えられる。

儒教国家への道

宣帝は紀元前49年に崩御。跡を継いだのが劉奭(元帝)である。元帝は儒教に傾倒しており、太子時代に宣帝に対してもっと儒教を尊重するようにと進言して一喝されたという経験を持つ。即位すると貢禹などの儒家官僚を使い、儒教的政策を推し進めていく。

貢禹の建議により宮廷費用の削減・人民への減税などが実施される。専売制も一時取りやめられたがすぐに元に戻された。更には貨幣を廃止して現物経済に戻すという極端な政策も立案されたが、これは実現しなかった。貢禹の跡を受けた韋玄成らにより、郊祀制の改革・郡国廟の廃止が決定され、七廟の制が話し合われることになった。(郊祀・郡国廟・七廟などに付いては#祭祀で後述)

こうして元帝に至り、儒教は完全に主導権を握るようになり、儒教的イデオロギーが政治を決定するようになった。その一方でこの時代には宦官および外戚の台頭も見られる。

宦官の弘恭石顕は宣帝より信任を受け、病気がちな元帝に代わってから更にその権力を伸ばし、中書令になり、政権を掌握した。これに対して前将軍蕭望之らが弾劾文書を出したが、逆に罪に落とされ自殺に追い込まれた。石顕は元帝の治世の間は権力を保つが成帝の即位と共に左遷され、権力を失った。

紀元前33年、元帝が崩御し劉驁(成帝)が即位する。成帝は女性を好み、また数人を共にして宮中を抜け出しては街中で遊んでいたという皇帝である。それに代わって実質的に政治を取り仕切っていたのが皇太后となった王政君の兄弟である王鳳らであった。王太后は自らの近親を次々と列侯に取り立てた。その中の一人が王莽である。

王鳳死後も王太后の一族が輔政者となったが、彼らは評判が悪く、翟方進ら儒者の官僚たちと激しく対立するようになった。一方で王莽は王氏の中で独り謙虚な態度を貫き、儒者を含め多くの支持を集め始めていた。

紀元前7年、成帝は唐突に崩御し、皇太子となっていた甥の劉欣(哀帝)が即位。これにより哀帝の祖母と母の一族が外戚として幅を利かせるようになり、王氏は遠ざけられ、輔政者となっていた王莽も一旦野に下った。しかしこれに対して王莽復帰の嘆願が相次いだ。

哀帝は意に背いた大臣を殺し、寵臣の董賢を大司馬にまで昇進させるなど強引な手法で主導権を握ろうとする一方で、吏民の私有できる田や奴婢を制限しようとしたり、官制改革に着手するなど、政治に意欲を見せる。しかし病弱であったため、紀元前1年、哀帝は若くして後継を残さないままに崩御。王太后と王莽は哀帝より皇帝の印綬を預かっていた董賢から印綬を強奪し、元帝の末子の子である劉衎(平帝)を即位させる。

政権を執った王莽は絶大な人気を背景に禅譲への道を着々と歩み始める。『周礼』に則り、聖人が政務を執る所とされる明堂を作り、また遠国からの貢物など瑞祥とされる事柄を自らの演出で行わせ、王莽こそが聖人であると周りに印象付けようとした。また自らの娘を平帝に娶わせ、皇舅となり、自ら安漢公に封ぜられ、宰衡という称号を名乗り、九錫を授けられ、臣下として最高の地位に登った。

紀元後5年、平帝が崩御(平帝が王莽のことを恨んでいると分かったため、王莽が毒殺したと言われる)すると、王莽はわずか二歳の劉嬰を後継者に選ぶ。劉嬰はまだ幼年であることから正式には帝位に就けず、自ら翌年6年に王莽は仮皇帝・摂皇帝となって劉嬰の後見となり、更に8年に王莽は正式に皇帝となり、を建て、漢は滅びた。

王莽は従前よりの方針通り、儒教を強く前面に押し出した政治を行い、土地・奴婢の売買禁止・貨幣の盛んな改鋳などを行ったが、豪族たちの強い反発を受けて、その政策は失敗に終わり、呂母の乱を切っ掛けに全国に叛乱が多発。その戦乱を劉秀が収め、漢が復興された(後漢)。

政治

劉邦が咸陽入りした際に、蕭何は秦の法律文書の庫を抑えてその全てを手に入れ、それを参考にして漢の法律を作った。この話が示すように漢の制度はほぼ秦制の踏襲である。そのため秦と漢との連続性を強調した秦漢ないし秦漢帝国の熟語は頻繁に使われる。

皇帝

[6]

皇帝号はファーストエンペラー・始皇帝に始まり、ラストエンペラー・宣統帝溥儀[7]まで続く。その間、中国に於いて皇帝が存在しなかった時代は無く、名目的には権力は全て皇帝に帰属するものと考えられていた。すなわち「皇帝」の創始は中国史に於いて極めて重大な画期であった。

皇帝とは『史記』「秦始皇本紀」に於いては三皇五帝の一人の泰皇の皇と五帝の帝を合わせたものとされており、それまでの最高位であったの上に立つ地位である。このことは郡国制に於いて王を皇帝が支配するということの論理的正当性を与えるものである。

その一方で漢代に於いては天子の称号も使われている。天子はそのまま天帝の子を示す言葉であり、王の上である皇帝からすれば一段下がる言葉のはずである。王の称号を使っていた代に於いても天子の語は使われている。

その間の差はどのようなものであったか、このことを説明する『孝経緯』(『孝経』に対する緯書。緯書に付いては#神秘思想にて後述)には「上に接しては天子と称して、爵をもって天に事え、下に接しては帝王と称して、以って臣下に号令す。」とある。つまり天に対しては天子であり、民衆・臣下に対しては皇帝なのである。

そしこの使い分けは現実の場面に於いては、国内の臣下に対してと国外の外藩に対しての称号として現れる。国内の臣下(内臣)に対しての文書には「皇帝の玉璽」が押され、国外の外藩(外臣)に対する文書には「天子の玉璽」を押している。

官制

[1]

漢の官制に於いて、共通する文字は同じ意味を表す。

令は長官を表す。郎中令あるいは県令など。丞は補佐・次官を表す。例えば丞相は皇帝を補佐し、県丞は県の副長官である。史は文書業務を担当する官のこと。尉は軍事関連の官。太尉・中尉など。

漢制に於いては官僚の等級は二千石・六百石などと表される。この数字は以前は俸禄の数字そのままであったが、漢代に於いてはあくまで等級を表すものに過ぎない。等級に含まれる主な官は以下の表の通り。このうち、八百石と五百石は前漢末期に廃止。

官秩 万石 中二千石 二千石 比二千石 千石 比千石 八百石 六百石 比六百石 五百石 四百石 比四百石 三百石 比三百石 二百石 比二百石 百石
実際の官 三公・大将軍 九卿 郡守・内史など 郡尉・中郎将など 三公の丞 太中大夫など   太史令など 博士・議郎・中郎など   県丞など 侍郎など   郎中など 県尉など  
俸禄[8] 月350斛 180 120 100 90 80   70 60   50 45 40 37 30 27 16

中央

漢の中央官制は三公の下に九卿[9]と呼ばれる諸部署が配置されている。この三公九卿はその役割に於いて大きく二つに分類される。一つは政府の中心として全国を統治するための機関であり、もう一つは国家機関というよりも皇帝とその一族の家政機関としての役割を持つものである。前者に分類されるのは以下のようなものである。

  • 丞相相国紀元前196年)→左・右丞相(紀元前194年)→丞相(紀元前178年)→大司徒(紀元前1年
    • 民政を中心とした政治の最高職であり、皇帝を助けて万機を総覧する。実際に於いては朝議を主宰し、その朝議の結果を皇帝に上奏し、認可を得て行政化する。また自らの官衙である丞相府を率いる。その員数は多いときで400近くにまでなった。
  • 御史大夫→大司空(紀元前8年)→御史大夫(紀元前5年)→大司空(紀元前1年
    • 御史大夫は丞相を助けるいわば副丞相である。御史府を率い、政策の立案を行い、それを丞相に伝える役割を負う。また属官の御史中丞は官僚の監察を行う。
  • 太尉→廃止(紀元前129年)→大司馬(紀元前119年)→大司馬将軍(紀元前119年。大司馬は将軍位に付される称号のようなもの。)→大司馬(紀元前8年。将軍位に付かない独立した官位。)→大司馬将軍(紀元前5年)→大司馬(紀元前1年。将軍位に付かない独立した官位。)
    • 太尉は軍事を司る役職である。
  • 治粟内吏→大農令(紀元前143年)→大司農(紀元前104年
    • 国家財政を司る。農業の管理、税の徴収および管理、官僚の俸給、経済政策の実施などが管轄である。
  • 廷尉→大理(紀元前144年→廷尉紀元前135年→大理紀元前1年
    • 廷尉は法の執行を司る。全国的な刑罰を行い、地方の郡県の司法官の権限を越える刑罰をも行う。
  • 典客→大行令(紀元前144年→大鴻臚(紀元前104年
  • 典属国(紀元前28年に大鴻臚に吸収合併される。)
    • 典客は諸侯および地方官らが上京した時の相手を担当し、典属国は外藩の相手を担当する。

これに対して後者(皇帝の家政機関)に分類されるものは以下のようなものである。

  • 少府
    • 少府は治粟内史が国家財政を司るのに対して帝室財政を司るものである。それに加え、機密文書・後宮などの管理も行う。後者に属する官の中でも最重要であり、その属官も多い。機密文書を取り扱う尚書尚書令尚書僕射)、宮中の医療を取り扱う太医令、食事を取り扱う太官令など。
    • 水衝都尉
      • 紀元前123年に少府より分離して設立。貨幣の発行などを司る。
  • 郎中令→光禄勲(紀元前104年
    • 郎中令は主に皇帝の身辺警護を扱い、それ以外の皇帝の身辺に関することも扱う。
  • 衛尉→中大夫令(紀元前156年)→衛尉(紀元前142年
  • 中尉→執金吾(紀元前104年
    • 衛尉は宮中警備・防衛、中尉は首都長安の警備・防衛。
  • 太僕
    • 皇帝の車馬及び軍馬等の管理。30万頭もの馬を養っていたという(『漢官儀』)。
  • 宗正→宗伯(4年
    • 皇族(宗室)および外戚に関する全てを扱う。
  • 奉常→太常(紀元前144年
    • 奉常は皇帝の祖先祭祀を全て扱う。

このように国家の統治機関と皇帝の家政機関とが並立しているのが漢制の大きな特徴である。そして家政機関の規模は統治機関の規模を上回るものであった。元帝時代に大司農(治粟内史から改称)の扱う金額が年間40億銭に対して、少府とそこから分離した水衝都尉の扱うの金額が43億銭であった。

また当時の官僚は全て一旦皇帝の郎官になってから官僚となるのが通例であった。郎官とは皇帝の側近として身辺警護などを勤める役であり、郎中令に属する。郎官は皇帝の身近に侍ることで皇帝との間に私的な繋がりを持つようになる。

このような制度は当時の官僚制が近代的なそれとは違い、未だ皇帝の私的機関としての色彩を濃厚に持つことを示している。

地方

地方制度は基本的には秦の郡県制を受け継ぐが、それと同時に皇族を封建して諸侯王と為す並立制を布いた。これを郡国制と呼ぶ。諸侯王に付いては後述。

行政の最大単位は郡であり、その長は守(郡守)である。その属官には次官たる丞、軍事担当の尉がある。郡の下の単位が県であり、その長は一万戸以上の場合は令・万戸以下は長と呼ばれる。その属官は郡と同じく丞と尉である。景帝の紀元前148年に守は太守・郡尉は都尉とそれぞれ改称される。なお辺境に於いてはこれと若干異なるがそれは#兵制の項で記述する。

武帝時代末期の紀元前106年に全国を13の州に分けて、その中の監視を行う部刺史が創設された。首都周辺は皇帝直属の監察官である司隷校尉が同じ役割を果たした。当時、太守が豪族たちと結託して悪事を働くことが多かったので、その監察を任務として刺史が創設された。当初は太守の秩二千石に対して秩六百石と格の上でもはるかに低く、また一定の治所を持たず、州内を転々としていた。紀元前8年には牧と改称され、名称は牧と刺史の間で何度か変わり、時期は明確には特定できないが、刺史は監察官から州内の行政官としての権力を持つようになった。

ここまでが政府より定められた行政単位であり、その下の単位として郷・亭・里と呼ばれる組織がある。これに付いては#農村・都市を参照。

郡国制

呉楚七国の乱の際の諸侯王勢力図。黄色が直轄領、赤が諸侯国

郡県と並立する諸侯国に関して。当初の高祖時代には韓信を初めとした戦争で手柄を挙げた功臣たちを封建し、諸侯王とした。しかし高祖はこれら百戦錬磨の功臣たちと自らの皇太子(恵帝)を比べた場合、皇太子はあまりにひ弱に思えた。そこで高祖はこれら異姓の諸侯王たちを粛清して、自らの親族たちを諸侯王に付けて、自らの死後の劉氏政権の安定を図った。

しかし文帝の時代になると藩屏として期待された諸侯王たちには劉氏の本流たる中央の朝廷に対して反抗的な姿勢が目立ち、またこれらの諸侯王の権力・領土があまりにも大きくなりすぎたために中央政権の安定と言う観点からは問題が出てきた。

この頃の諸侯国は中央と同じような自らの朝廷を持ち、そこには丞相・御史大夫などの中央朝廷と同じ名前の官がいた。このうち、丞相のみは中央からの派遣であるが、その他の官は全て諸侯王の任命するところであった。であるから基本的に諸侯国の内政は諸侯王によって為されるものであり、中央もそれに口出しすることは出来なかった。諸侯国の中でも最も大きな呉国は領内に鉄と塩の産地を抱え、民衆に税をかける必要が無い程に富んでいたという。これらのことが示すように当時の諸侯国は半独立国であり、中央朝廷からすれば目の上のたんこぶであった。そこで諸侯王の権力を削る事を進言したのが文帝期の賈誼と景帝期の晁錯であり、これに対する反発から呉楚七国の乱が起こった。

乱の終結後、諸侯王の領地における行政権を取り上げて、中央が派遣する官僚に任せ、諸侯王は単に領地から上がる税を受け取るだけの存在へと変え、これにより諸侯王の力は大幅に削られた。しかしその後も中央に対して反抗的な態度に出る諸侯王が絶えなかったために、紀元前127年に諸侯王が自分の領地を子弟に分け与えて列侯に封建するのを許す「推恩の令」を出した。これは元々賈誼が考えた案に基づくと思われるが、武帝期に主父偃の献策によって実現し、この令により、諸侯王の領地は代を重ねるにつれ細分化されたため、諸侯王が中央政権を揺るがす心配は無くなった。これらの政策によりほぼ郡県制と変わりは無くなった。

採用制度

武帝以前からの官吏採用制度は任子制と呼ばれる。ある一定以上の役職にある官吏の子を採用する制度である。

その一方で諸侯王・郡守などが地方の才能・人格に優れた人材を中央に推薦する制度も併せて行われていた。これが武帝期になって郡守の義務とされ、郷挙里選制となる。その推薦する基準には賢良(才能がある)・方正(行いが正しい)・諫言(上の人間に遠慮する事無く進言できる)・文学(勉強家である)・孝廉(親に対して孝行であり、廉直である)などがあり、これによって採用された人材を賢良方正と呼ぶ。これら賢良方正は首都長安にある太学と呼ばれる学問所に集められて五経博士による教育を受けて、官僚として巣立っていく事になる。

しかしこの制度はまず初めに有力者の推薦を必要とするので、次第に推薦されるのは豪族の子弟達だけになっていき、豪族が権力を獲得するための道具に利用されるようになっていった。後漢になるとその傾向はますます強まり、宦官と豪族達との争いを引き起こすことになる。

兵制

戸籍に登録された男子は23歳から56歳の間の1年間は自分の属する郡の軍の兵士に、もう1年間は中央の衛士とならねばならない。ただし病人・不具・身長六尺二寸(143cm)以下の者は除く。

軍事の最高職は太尉である。しかし帝国すべての軍事権は皇帝に属するものであり、当初の太尉は必要に応じて改廃を繰り返す非常置の職であった。武帝の元狩四年(紀元前119年)に将軍号に冠する一種の称号として大司馬が設置される。この頃に大司馬になった者としては衛青霍去病の両者があり、その親族の霍光もまた大司馬大将軍として政権を執った。その後、宣帝の地節三年(紀元前67年)に称号ではなく実際の役職となるが、この頃になると外戚の長が大司馬になって政権を執ることが多くなり、大司馬は軍事よりも政治の職となった。

首都長安に置かれる中央軍は中尉が指揮する北軍と衛尉が指揮する南軍とがあった。北軍は長安の北部にその屯所があり、長安周辺の人々が構成員となって長安の防衛・警察に当たった。南軍は地方から衛士としてやってくる人々が構成員となって宮殿の警備に当たった。またこれに加えて皇帝の身辺警護に当たるのが郎中令によって統括される郎官たちである。長安の十二の門には城門候が置かれて警備に当たり、城門候を統括する存在として城門都尉があった。またこれらとは別に屯騎・歩兵・越騎・長水・胡騎・射声・虎賁の七校尉が統括する部隊がある。

地方軍の単位は郡単位であり、統括者は太守である。太守の下で実際に軍事に携わるのが都尉である。通常都尉は郡に一人だけであるが、軍事的に重要な辺境の郡などでは複数おかれる場合があり、これを部都尉と呼ぶ。また太守の軍事面での副官として郡長史が付く。

これらが平時体制である。遠征の際にはこれら軍兵をまとめるための将軍が置かれる。「将、軍にありては君命も受けざるところあり」と言われるように将軍は人事権や懲罰権などその軍に付いてはほぼ全権を持っていた。将軍の最高が大将軍である。大将軍はその他の将軍に対する命令権を持つ特別の将軍である。大将軍の次に位するのが車騎将軍衛将軍であり、それに加えて票騎将軍霍去病の活躍により前期の三将軍と同格とされ、この四将軍の位は三公に匹敵した。この次にくるのが左右前後の四将軍である。これに加えて任命される時に名前も同じく付けられる雑号将軍がある。また偏将軍および裨将軍があり、これは独自の軍は率いず、他の将軍の下に入って指揮するものである。

将軍は司令部として幕府を開く。最高の四将軍の幕府には将軍の副官として長史と司馬が付き、それぞれ事務と兵を司る。参謀として従事中郎が二人付き、他に書記官として掾・属・令史・御属が付く。実戦の部隊の最小単位は「屯」でありその長は屯長、屯がいくつか集まって曲になりその長は軍候、曲が集まって部になりその長は校尉、部が集まって全体の軍となる。

祭祀

[6]

#皇帝の節で説明したように、皇帝は天子でもあり、天帝によって選ばれた存在である。故に皇帝は天帝を祀らねばならない。前漢に於いて、それまで漠然としていた皇帝祭祀が固まり、封禅郊祀という形になった。

また祖先崇拝を重視する儒教の勢力が強くなったことで皇帝の祖廟の祀り方もまた定式化された。

郊祀

郊祀とは首都長安の「郊」外で行う祭「祀」の意味である。祀られる対象はで、長安の南の南郊で天を祀り、北の北郊で地を祀る。それぞれ南郊は冬至、北郊は夏至に行われる。

前漢初期、高祖によって行われていた天帝祭祀は五帝祭祀である。ここでいう五帝とは三皇五帝の五帝ではなく、元々秦に於いて、秦の旧首都であるに於いて四帝(黄帝・白帝・赤帝・青帝)を祀っていたが、高祖はそれに黒帝を足して五帝の祀りをすることに決めた。この五帝を祀る場所のことを五畤という。

武帝期、天の象徴である天帝を祀りながらそれに対応する地の象徴である后土を祀らないのはおかしいということになり、紀元前113年に汾陰[10]の沢中にて后土を祀ることを決めた。更にそれまで最高神とされていた五帝は本当の最高神である太一の補佐に過ぎないということになり、新たに漢長安城の離宮である甘泉宮にて太一を祀ることに決めた。この時以降、甘泉・汾陰・五畤の三つを一年ごとに順番に回って祀ることにされた。

しかし儒教の勢力が拡大すると共にこのような祀り方は古礼に合わないとして、成帝期の紀元前32年に丞相の匡衝らにより甘泉と汾陰で行うのを止めて、新たに長安の南(南郊。天を祀る)・北(北郊。地を祀る)にて祭祀を行うことに決めた。更に五畤も廃され、南郊と北郊のみが皇帝の祀るところと為った。その後、天災が相次いだことに対して劉向は祭祀制度を改悪したせいだと言い、一旦全てが旧に復された。その後、再度南郊と北郊に戻され、更に戻されるなど動揺が続いたが、最終的に平帝期の5年に王莽により、南郊と北郊を祀ることが決定された。

封禅

甘泉宮にて太一を祀ることを決めた直後の紀元前110年、武帝は東方に巡幸に出て、泰山にて封禅の儀を執り行った。

封禅は聖天子以外行うことが出来ないといわれている儀式であり、武帝の祖父の文帝はこの儀式を行うことを臣下から薦められたがこれを退けている。

武帝は国初以来の念願であった対匈奴戦に勝利を収め、自らこそ封禅を行うに相応しいと考え、この儀式を執り行った。この時に儒者に儀式のやり方を尋ねたが始皇帝の時と同じように儒者はこれに答えることが出来ず、結局武帝の共をしたのは霍去病の息子の霍子侯だけだった。そのためこれもまた始皇帝の時と同じくその儀式の内容は判然としない。

このような状態であるため郊祀が毎年の恒例と化していったのに比べ、封禅はその後光武帝が行ったものの特別に行われる秘密の儀式に留まり、中国歴代でもこれを行った者は数えるほどである。

廟制

高祖は自らの父である劉太公を祀るを作るに当たり、同族である全国の諸侯王にも劉太公の廟を作ることを命じた。これが以後の定式となり、各郡国にそれぞれ劉氏の廟が作られることになった。これを郡国廟と呼ぶ。本来、親の祭祀を行うことが許されるのは大宗(本家)だけ、漢の場合は皇帝の系譜、であり小宗(分家)はこれを祀れないことになっていた。ましてや臣下が皇帝の祖先を祀るなどという郡国廟は本来の礼制からは大きく外れたものであった。高祖が何故このようなことを行ったかといえば、諸侯王および天下万民の間に「我らは一つの家族である」との意識を持たせようとしたと考えられる。その後、儒教の勢力が増すと礼制から外れた郡国廟はやはり問題となり、元帝の紀元前40年韋玄成らの建議によって郡国廟は廃止された。

また同じく儒教の勢力拡大と共に問題とされたのが七廟の制である。本来の礼制に於いては天子の祖先を祀る廟は七までに決まっていた。しかし元帝の時点で九[11]になっており、このうちのどれを廃止するかで議論が起こった。この議論は紛糾を続け、最終的に平帝期に王莽によって高祖・文帝・武帝の三者は功績が大なので不変・それに加えて現皇帝の四代前まで(宣帝・元帝・成帝・哀帝)とすることに決められた。

元号と暦

史上初の元号は武帝期の紀元前113年に銅鼎が発見された事からこの年を元鼎4年としたのが始まりとされる。武帝は遡って自らの治世の最初から元号を付けている。この制度は中国では中華人民共和国により廃止されるまで続き、朝鮮・日本など周辺各国でも採用された。

またそれまでの10月を正月としていた顓頊暦に代わって立春を正月とする太初暦を採用した。

経済

貨幣制度

漢の五銖銭

[12]

当時の貨幣単位は銭と金である。銭はそのまま銭一枚のことで、金は金1斤のことであり、大体1万銭に相当する。

敦煌漢簡居延漢簡の中の文書からある程度当時の物価が推測できる。それによれば、

  • 絹一匹(27.65m)=450-477銭
  • アワ1石(30kgほど)=105-130
  • キビ=150
  • 大麦=110
  • 麦=120
  • 肉1斤(258.24g)=4-7

とある[13]。しかし時期がずれた文書ではアワ1石が3000銭になっているものもあり、当時の相場の変動がかなり激しかったことが分かる。また地域差も激しかったと思われる。

戦国時代に於いては各国がバラバラに貨幣を発行していたが、始皇帝はこれを銅銭の半両銭(約8g)に統一し、国家だけがこれを鋳造できるとした。漢でもこれを受け継いだが、高祖は民間での貨幣の鋳造を認めたため、実際には半両の銅を使わずに半両銭として流通する悪銭が増えた。

その後、貨幣鋳造の禁止と許可が繰り返され、政府は貨幣の私鋳の防止を試みて三銖・八銖などの銭を発行するが私鋳は止まなかった。そして武帝の紀元前113年に上林三官という部署に新たな五銖銭(約3.5g)を独占的に鋳造させることにした。この五銖銭は偽造が難しく、これ以後私鋳は大幅に減り、五銖銭以外の銭は全て回収され、五銖銭に鋳造された。五銖銭はその後も流通を続け、後漢・魏晋南北朝時代に於いても引き継がれ、開元通宝が作られる621年まで続いた。

この五銖銭の発行を契機として、それまで急速に発展してきた貨幣経済は衰退に向かう。

税制

[12]

税の徴収は人頭税・土地税・財産税の3種類に分かれ、更に労働税として兵役と徭役がある。人頭税には16歳から56歳までの男女に付き年間120銭=1算を収める口算と7歳から14歳までの男女に付き20銭を収める口賦がある。財産税は咨算と呼ばれ、財産1万銭に付き年間1算を収める。口算と咨算を合わせて算賦と呼ばれる。また商人は口算を2倍を収めねばならない。農業に対する税は収穫高の30分の1を収めることになっていたが、この税額は極めて薄く、時にこの税は廃止されたこともあるので国家財政の主要な部分は占めていなかったようである。

労働税は年間に決まった期間を労働あるいは周辺防衛に費やす事を義務付けられいたが、300銭を収める事で労働を逃れる事が出来た。この銭の事を更賦と呼ぶ。

武帝期になると相次ぐ遠征費用を捻出するために算銭(は糸偏に昏)と言う税を加えた。これはそれまでの咨算の額を引き上げて、商人には財産2千銭に付き1算(一般民衆の5倍)を手工業者には4千銭に付き1算(一般民衆の2.5倍)を課すものである。またそれとは別に個人が持つ車と船に対する税・算車令と算船令を出し、更に口賦の額を3銭引き上げて23銭とした。

この増税は主に商人が対象であり、#豪族で述べる抑商政策の一環でもある。またこの令には罰則があり、財産を偽って報告した者は財産を没収の上に国境警備へと強制的に回されると言う非常に厳しいものである。この増税策により相当な額が国庫に流れ込み、武帝の政策を支えたが、その一方で破産した商人達は地方の窮迫農民と手を組んで盗賊行為を働くようになり、武帝末期の社会不安の主要素となっている。

農業

[14]

成帝期に書かれた農書氾勝之書』には当時生産されていた農産物として、キビムギイネヒエダイズカラムシアサウリヒサゴイモクワなどを挙げている。

当時の農業技術はどのようなものであっただろうか。戦国時代から鉄制農具と耕が普及し始め、大幅な生産力の向上をもたらした。しかし漢代に於いてはいまだ地方によっては普及していないところも多かったと考えられ、地域による生産力の格差はかなり激しかったと思われる。この時代には苗床が作られず、二毛作もまだ存在しない。

『漢書』には武帝末期の趙過という人が考えた代田法という農法があることを記述している。その具体的な内容に付いては記述が曖昧でどう解釈するかに議論があるが、二頭のウシと三人の人間によって行われるものであったという。しかし民間でウシを二頭持っている者は少なかったのであまり好まれなかった。そこでウシを使わない方法も考案されたという。また『氾勝之書』には区田法という農法が記されている。

牧畜は、一般農民でもブタニワトリイヌなどを飼うことはごく普通に行われており、家畜小屋が併設されていた遺跡も多数発掘されている。ウマウシの生産はこれとは別に豪族たちの手によって大規模な牧場で行われ、特に遠征が相次いだ武帝期にはウマの生産は奨励されたためにこれで財産を築いたものも多かった。

手工業

[14]

商業と同じく戦国から秦漢は手工業の発展時期でもある。手工業者は商人と同じく差別された存在であったが、それを物ともしない強い経済力を誇っていた。

この時代に於いては前述したとおり、一般民の間ではまだ自給自足の風が強く手工業で賄われるのは一般民では作り得ない特別な道具(例えば鉄制農具など)かあるいは王侯貴族たちが使うための品に限られる。

王侯貴族たちが使うための品は主に官営の工場である尚方・考工室・東園匠・織室などが作り、これは全て少府の管轄するところである。尚方では宮中にて使うための武器・装飾品・銅器などが作られ、考工室ではより実用的な武器・漆器・銅器などが作られた。東園匠では貴人の埋葬に使うための明器(埋葬者が死後に使うために置かれる実物を模した土器)などが作られ、織室では儀礼用の織物が作られた。また大司農では農民に支給する鉄制農具が作られた。

民営の手工業として最も大きな物は塩と鉄で専売制実施と共に禁じられはしたが、密売が絶えなかった。これに関しては#専売制で後述。それ以外にも絹織物などは手工業として成立していたと考えられる。

専売制

[14]

武帝期の紀元前119年に始まった塩鉄専売制は国家財政の非常に重要な位置を占めており、武帝末期には既に必要不可欠の物となっていた。塩も鉄も製造には厳重な監視が付いており、その産物は全て国家が買い取り、密造は厳罰に処せられた。塩製造を管理する官吏を塩官と呼び、鉄の方は鉄官と呼ぶ。しかし政府の目をかいくぐって密造を続ける者も多く、それらは官製の物に比べればはるかに安価であったので民衆からも喜ばれた。

武帝死後に「民衆と利益を争うのは儒の倫理に反する」として専売制の廃止が話し合われた事があった。この議論の模様は後に『塩鉄論』という書物に纏められるが、この実態は内朝の代表である霍光が外朝の代表である桑弘羊を追い落とすために画策した物であった。桑弘羊はこれに反論して退けるが、この事は儒教の勢力がそれほどに強くなった事を示してもいる。その後、桑弘羊は別件で殺されるが、霍光政権下でも廃止される事はなかった。

その後の11代元帝期になると儒教の信奉者である元帝の意向により、一時期廃止された。しかし財政が立ち行かなくなることが明らかであり、すぐに戻された。

社会

漢代に於いては皇帝・豪族・小農民の三者が社会の主な構成要素である。このうち、皇帝と小農民の関係が最も重要であり、皇帝および政府はこれら小農民一人一人を個別に支配しようとしていた。これを個別人身的支配と呼ぶ。

[15]

農村・都市

[16]

当時の農民の1戸の家族の平均的な人数は5人で、竪穴式住居に一家同居する者が多かった。一家が所有する耕作地は大体100畝(660a)でここから年間150から200石(4.6tから6.2t)ほどの収穫があった。戸内の者は戸主を筆頭として戸籍に登録され、これを基として課税や徴兵が行われた。

現在見つかっている漢代の竪穴式住居跡は5、6人が同居するのが精一杯の広さであり、次男・三男がいた場合にはいずれは分家する他は無いのであるが、分家するほどの財産を一般農民が持つはずも無く、財産は一人だけが受け継ぐのが基本であった。無一文の者たちは国家の官田を耕したり、遊侠になったり、豪族たちの仮作人(小作人)・用心棒になったり、悪い者は奴婢に身を落としたと考えられる。ただしそのような末路が見えている訳であるから最初から子供を一人以上作らない、できたとしても間引きされたという場合も多かったと考えられる。

概ね100戸が纏まって里(100とは必ずしも限らない)となり、その里がいくつか集まった集落は大きさや重要度によって上から県・郷・亭と呼ばれるようになる。[17]

漢以前の戦国時代に於いては集落は基本的に城塞都市であり、これをと呼ぶ。邑は元々は氏族が一纏まりになって生活するものであり、そこからは異姓の者たちは排除された。しかし漢代にはこれが変化して、異姓の者でも受け入れられるようになっていた。集落の周辺は城壁が囲っており、更に内部も里ごとに土塀(閭)で区切られていた。閭には一つ門(閭門)が設けられており、夜間に閭門を抜けることは禁じられていた。農民は朝になると城門を抜けて集落の外に出て、耕作に従事し、日が暮れるとまた門を抜けて集落の中に戻ってくるというサイクルを繰り返す。戦国までは城壁の中にしか居住していなかったが、漢代になると貧しい者は城壁の外に家を構え、より遠くにある田畑まで行く生活をしていた。

集落の中心には(しゃ)があり、祭礼が行われた。有力者は父老と呼ばれ、纏め役となる。父老の中から県三老・郷三老が選ばれ、それぞれ県・郷の纏め役となった。また大きな集落の中心には市があり、交易が行われ、集落の者が集まる場となった。この市は自然発生的なものではなく、政府により管理されるものである。そのため罪人の処刑も市で行われる。

首都長安

[18]

漢の長安城は現在の西安市から北西に5kmほど離れた渭水の南岸にあり、渭水の対岸には秦の咸陽城があった。高祖は初めはの都であった洛陽に都を構えるつもりであったが、婁敬張良の進言により長安を都とし、その後蕭何によって広壮な宮殿が造られた。1956年より遺跡の発掘が進められている。

漢の長安はの長安とは違い、方形ではなく歪な形をしていた。それぞれ城壁は東は5940m・西は4550m・南は6250m・北は5950mある。東西南北に3つずつの計12の門があり、これも夜間には閉じられる。主な建築物として、

  1. 長楽宮
    • 都の東南部にあり、これは基は秦咸陽の離宮であった。高祖はここに住んだが、その後は皇后の住居となった。
  2. 未央宮
    • 西南部にあり、蕭何により建造され、恵帝以後の皇帝の住居となった。
  3. 北宮
    • その名の通り北部にあり、廃された皇后などが住んだ。
  4. 桂宮
    • これも北部にあり、武帝の時に作られた。

また丞相府・御史府などの三公九卿府があったが具体的な位置は不明。北西部には東市と西市があった。

当時の長安城内の人口を宇都宮清吉は10万9421人と推定している[19]

爵制

[20]

漢の爵制は秦の物を受け継いでおり、最低の一位・公士から最高の二十位・列侯[21]までの全部で20段階あり、列侯の上に諸侯王があり、更にその上に皇帝がある。

爵位を持っているものはそれと引き換えに免罪特権があり、これを求めて金銭による売買が行われた。

  1. 公士
  2. 上造
  3. 簪裊
  4. 不更
  5. 大夫
  6. 官大夫
  7. 公大夫
  8. 公乗
  9. 五大夫
  10. 左庶長
  11. 右庶長
  12. 左更
  13. 中更
  14. 右更
  15. 少上造
  16. 大上造
  17. 駟車庶長
  18. 大庶長
  19. 関内侯
  20. 列侯

漢代に於いては皇帝の即位や皇太子の元服などの慶事に際して一般民に対しても一律に爵位の授与が行われており、前漢・後漢合わせて200を超えた回数が行われている。このことは年齢が高くなればそれだけ爵位が高くなるということに繋がる。漢が行った爵位の授与は当時崩壊しつつあった「歯位の秩序」、つまりは年長のものが偉いという秩序を「(年齢に応じて高くなる)爵位の秩序」によって再構成し、村落の共同体としての機能を国家が肩代わりし、民衆一人一人に対して漢政府が支配力を及ぼそうとする目的があったとされる。

このうち、七位の公大夫までは民衆でも得ることが出来、九位から上は官吏でなければ得ることは出来ない。官吏は民衆の秩序からは飛び出た存在であり、郷挙里選によって官位を得た豪族が民衆の支配者となれたのもここに一因があると考えられる。

豪族

[22]

前漢に於ける豪族は後代に比べればまだその勢力は小さい。しかしその存在は大きな社会問題となっていた。

一般農民の住む家は5人が住むのがせいぜいであったが、豪族は2階立て・3階建ての豪邸に数世代の家族が同居していた。また回りを威圧し、盗賊を防ぐために常日頃からゴロツキを用心棒として雇い、家に住ませていた。そして所有する土地に小作人や奴婢を使役して耕作させ、ここから挙がる収益で更に財産を積み重ねていった。小作人はその収穫の1/2から2/3を地主に収め、残りで細々と生活していくことになる。これら豪族は里の父老となっている場合も多く、里の住民たちに命令を下していた。更に選挙で一族の者を官吏と為し、更に強い支配力を郷里に対して発揮した。

豪族たちがそのような財産を積み上げたのは戦国時代から貨幣経済が活発化し、それに乗って行った商業が基になっていた。文景の治の時代の平和により、商人たちは富を蓄え、それに伴い富の偏重・農民が商人に転職する事が増えた事による農村人口の減少・中小農民の窮迫など数々の社会問題が表面化してきた。これらの商人は経済力を元に窮迫した農民達から土地を買い取り、農民達を小作農として囲い込み、地方に強い力を持って豪族化して行った。

これらの勢力を抑えるために前漢では度々抑商政策を取っており、#税制で述べた税制上での差別や#身分制に置ける差別政策を行ったが、あまり効果は無かった。晁錯は抑商政策の一環として穀物で税を納めた者に爵位を与えると言う政策を提案した。それまでの税は銭で収めることになっていたが、農民達の収入は当然穀物であり、徴税期に一斉に農民が穀物を売りに走る事で商人に足元を見られて買い叩かれていたのである。この策により商人が積極的に穀物を買い求めて、農民に金銭が多く入り、窮迫する事を防ごうとしたのである。最高では18位の高位まで得ることが出来たので、この政策は効果を上げた。

抑商政策で最も特筆すべきは武帝期の均輸・平準法である。これらの政策は武帝の元で経済的手腕を振るった桑弘羊が実施した物である。均輸法は全国の物価を調査して安い所の物資を買い、高い所で売り払う事で国家収入と共に物価の地域格差をなくす事を図る物である。平準法は安い時期に物資を買い込んで国庫に積んでおき、それが高騰した時に売り出して国家収入と共に物価安定を図る物である。この政策には物価の安定と共に商人が物資の取引に介在することで商人に利益を与える事を防ぐ目的がある。この政策はかなりの効果を上げ、相当額が国庫に流れ込んだ。

この武帝の抑商政策と五銖銭の発行とを契機として、以後中国の貨幣経済は衰退に向かう。それに伴い豪族たちは武帝期から後漢にかけて自らの持つ所有地の中でほぼ完全な自給自足体制を作り上げた。この中には奴婢や小作人を囲い込み、周辺の郷里との関係を深めて共同体を形成していく。

遊侠

[23]

前述したとおり、皇帝・豪族・小農民が漢の社会の主要な構成員であるが、それに加えていわばこれの埒外に存在したのが遊侠である。

遊侠は小農民の次男・三男、罪を犯して郷里にいられなくなった者、など社会から排除された境遇のものたちが集まり、勢力を築いていった。それを取りまとめた者が『史記』『漢書』の遊侠列伝に収められている朱家劇孟といった人物たちであり、その勢力は豪族どころか中央政府すら無視し得ないものになっていた。

例えば呉楚七国の乱の際に政府側の総大将であった周亜夫は劇孟に対して「もう諸侯たちが貴方を味方につけていると思ったが、そうではなかった。これで東には心配する者がいない。」と述べている。国を二分するほどの大乱に於いて影響力を発揮できるほどの勢力があったということである。

増淵龍夫は遊侠の持つ任侠精神は前漢に於いては遊侠に留まらず、全ての人間関係に敷衍されており、皇帝と官僚の関係もまたこの任侠精神に基づくものだと述べている。この時代の時代精神に任侠が深く関わっていたことは間違いないであろう。『史記』『漢書』にある「遊侠列伝」と『後漢書』にある「方術列伝」「逸民列伝」はそれぞれ前漢と後漢の時代精神の違いを如実に表していると言える。

身分制度

[12]

法の上での差別を受けていたのは奴婢と罪人であり、これに対して一般民は庶人ないし良人(良民)と呼ばれる。

奴は男奴隷・婢は女奴隷のことで、借金により身を売らざるを得なかったものなどが直接買主に売られるか、あるいは市場にてウシやウマと同じく檻に入れられて売買された。主な購入層は豪族であり、「耕はまさに奴に問うべし。織はまさに婢に訪うべし」という言葉があるように豪族の土地を耕作したり、手工業に携わるなどをしていた。また政府によって管理される官奴婢もあり、こちらは罪を犯した官吏とその家族・戦争捕虜などがその主な供給源で、国有地(官田)の耕作や土木工事などに使役されていた。奴婢は主人の財産として看做され、戸籍にも登録されず、奴婢の子供もまた奴婢とされた。

奴婢や罪人は法の上で明確に差別された存在であるが、それとは別に庶人階級の中で蔑視されていたのが商人・手工業者・医者などといった職業である。

文化

史書(『後漢書』)によれば、後漢代の西暦105年蔡倫が樹皮やアサのぼろからを作り、和帝に献上したとされている。この記述より、従前は紙の発明者は蔡倫だとされたこともあった。しかし、現在では、前漢代の遺跡から紙の原型とされるものが多数見つかっている。こんにち、世界最古の紙は中国甘粛省の放馬灘(ほうばたん)から出土したものだといわれており、この紙には前漢時代の地図が書かれ、年代的には紀元前150年頃のものと推定されている。

思想

漢代の思想史を大まかに言えば、前漢初期に黄老思想刑名思想が主導権を取り、董仲舒の建言を期に儒教が勢力を伸ばし始め、元帝の時に完全な主導権を握り、王莽から光武帝の時代にかけて儒教国家と呼ぶべき体制が出来上がったと言える。

儒教

[24]

始皇帝の焚書と項羽の咸陽焼き討ちにより儒教の経書は一旦そのほとんどが失われた。漢初に口述筆記による復元が行われ、さらにその後に壁の中に隠しておいたものが発見されるなどして経書が復元される。

このうちある物は当時の書体である隷書体で書かれており、別のものは隷書体以前の書体で書かれていた。このことから前者を今文・後者を古文という。同じものを元にしているのであるから内容も基本的に同じであるが、微妙な差異があり、どちらがより正しく聖人の教えを伝えているかが論争になった。更に当時の経学は経書一つを専門的に学ぶものであり、そのためどの経書に学ぶかでこれも学派が様々に分かれることになった。一例を挙げれば『尚書』(『書経』)においては伏勝が壁に埋め込んで焚書の難を逃れたという『今文尚書』と景帝時代に孔子の旧宅の壁の中から発見されたという『古文尚書』がある。

このうち、『春秋公羊伝』を学ぶ公羊学派の立場から儒教の新しい地平を開いたといえるのが董仲舒である。董仲舒は武帝に対して天人相関説災異説を唱え、儒教の教義を皇帝支配という漢の支配形態を正当付けるように再編した。董仲舒は武帝に対して儒家を官僚として登用すること・五経博士の設置などを建言した。[25]

五経博士とは五経である『詩経』・『書経』・『礼経』・『易経』・『春秋公羊伝』それぞれを専門に学ぶ博士のことで、のち宣帝の時に増員されて十二となっている。

しかしこのようにテキストがばらばらな状態であることは非常に不便である。そこで成帝期の劉向劉歆親子により、テキストの整理が行われ、これらは一本化されることになった。現在伝わる経書はこの時に整理されたものを基にしているものが多い。

また劉向・劉歆親子は古文派であり、この時代に新しく発見された古文である『春秋左氏伝』・『周礼』が持て囃されるようになる。のち、『周礼』は王莽の政権樹立の際に論理的根拠として使われ、『左氏伝』は魏晋以降、三伝の中の中心的位置を占めることになる。

また前漢末期には緯書が流行を見せることになる。これに関しては#神秘思想で後述。

道家

[24]

前述したとおり、漢初に思想界で主導権を握ったのは黄老の道と呼ばれる思想である。黄は黄帝・老は老子のことで、道家の分派の一つである。信奉者として挙げられるのが高祖の功臣の一人曹参である。曹参はの丞相を努めていた際に蓋公なる人物がこの黄老の道を良く体得していたのでこの言葉を聞いて斉を治めたという。その後、曹参は蕭何の跡を受けて中央の丞相となったが、蕭何の方針を遵守し、国を良く治めた。

これ以外にも景帝の母・竇太后は黄老の道を信奉していたと言い、当時の支配階層の間で黄老が主流であったことが分かる。『史記』「楽毅列伝」には曹参に至るまでの黄老の道の学統が記されており、河上丈人という人物がその初めにある。この河上丈人という人物が何者なのか、実在の人物なのかなどは全く分からない。また黄老の道がどこから始まり、どのような発展の道を辿り、漢代に於いてなぜそれほどに普及したか、これもほとんど分からない。その後は老荘など道家の他の派と合流し、その姿を消したらしい。

神秘思想

[26]

前漢は儒教の伸張が目立つ時代であるが、同時に神秘思想もまた伸張していた。

例えば武帝の傾倒した神仙思想や当時流行した巫蠱など。そして神秘思想の中でも高度に理論化され、後世にも強い影響を与えたものとして陰陽五行説天人相関説災異説がある。

陰陽五行説はこの世の全ての事象は木火土金水の五行に分類され(例えば方角は木→東・火→南・土→中央・金→西・水→北となる。)、それが循環することでこの世が成り立っているという考えである。天人相関説・災異説は万物の総覧者たると人間は連関しあっておりもし人間が誤った行いをした場合、例えば時の皇帝が暴政を行うと、天はこれに対して天災を起こすという考えである。

五行に基づいて漢はどれに当てはまるかが前漢を通じて何度か話し合われており、紀元前104年に一旦漢は土徳の王朝であるとされた。秦は水徳の王朝であるとされており、その秦を克した[27]ので土徳とされたのである。しかし哀帝期に漢は火徳の王朝であるとの主張が哀帝期に劉向・劉歆親子によって為された。劉歆によれば周は木徳であり、そこから生まれた漢は火徳であるとする[28]。これが王莽によって是認され、以後漢は火徳の王朝とされた。後漢末に起きた黄巾の乱や漢から禅譲を受けたの最初の元号が黄初であることは黄色が火徳の次に来る土徳[29]の色だからである。

天人相関説・災異説は董仲舒が唱えたものであり、この時代の儒教は多分にこういった神秘思想を含むものであった。董仲舒以降になるとこの神秘性は更に強くなり、未来までもこれにより予言できるとされた。これを讖緯という。

讖とは自然現象が何らかのメッセージを残すことであり、例えば昭帝時代に葉っぱの虫食い跡が文字になっており「公孫病已立」と読めたという。これは後に宣帝(病已は宣帝の諱)が皇帝になることを示していたとされた。緯とは経書に対しての緯書のことである。聖人の教えを書き記した経書であるが、経書はその大綱を示したものであり、現実の事柄に付いては緯書に記されているとされた。経はたていと・緯はよこいとのことで、たていととよこいとが揃って初めて布が出来上がるように緯書があってこそ聖人の教えが理解できるとされた。しかしその実態は漢代の人による偽作であると考えられる。なおこの讖緯のことを記した書物全てをひっくるめて緯書と呼ぶ場合もある。

前漢末にはこの緯書が大流行し、緯書を学ばないものは学界で相手にされないような状態になった。この状況を最大限に利用したのが王莽である。例えばある者が井戸をさらった所、その中から石が出てきてそこには「安漢公莽に告ぐ、皇帝と為れ。」と書かれていたと王莽に報告され、これを受けて仮皇帝と為った。もちろんこの石自体が王莽の仕込んだことであると思われる。前述した漢を火徳の王朝としたことも王莽が自身をの子孫であると吹聴していたことに繋がっている[30]

これらの神秘思想は前漢が滅び、後漢が建ってからはますます広まっていく。

仏教

仏教は、前漢末の紀元前後に西域より伝来した。大乗仏教に属する系統で、後漢以後、中国各地で受容された。

文学

歴史

[12]

歴史の分野で真っ先に取り上げるべきは何と言っても司馬遷の『史記』である。二十四史の第一であり、後世の歴史家に与えた影響も非常に大きい。『史記』は最初は司馬遷の個人の著書として書かれた物であるから、後の欽定史書と違い自由に司馬遷の思想が表われており、歴史書としてだけではなく、文学作品としても高い評価がある。

『史記』以外では陸賈『楚漢春秋』、劉向『戦国策』『新序』『説苑』などが挙げられる。

漢詩

[31]

前漢代には漢詩(例えば杜甫李白のような)はまだ確立した存在ではなく、その基となる二つの流れが存在していた。

一つは『詩経』を源流とする歌謡の流れである。歌謡という言葉が示すように『詩経』に収められている詩は元々は音楽や舞踏と共に演奏されるものであった。この流れを受けて、武帝は楽府(がくふ)という部署を作り、李延年をその主管とし、民間の歌謡および西域からもたらされた音楽を収集し、新しい音楽の流れを作り出した。このような物を楽府体(がふたい)と呼ぶ[32]。楽府はその詩の種類によって7・8種類の楽器を使う。管楽器では(大型の笙。zh:竽)・弦楽器では(大型の琴。zh:瑟)・箜篌ハープに似た楽器。zh:箜篌)・琵琶などである。楽府体の大きな特徴は五言詩であること、また賦に比べて表現の上では質素であり、民間の歌謡を淵源としていることから民衆の素朴な感情が出ていることなどである。これの代表としては李延年の「歌詩」が挙げられる。

もう一つは『楚辞』を源流とするの流れである。戦国から前漢初期には楚辞風の七言詩である「楚声の歌」と呼ばれる詩が盛んに謡われた。例えば高祖の「大風の歌」、項羽の「垓下の歌」などである。それが武帝期の司馬相如に至り大成され、賦が成立する。賦の特徴としてはまず『楚辞』を引き継いで七言であること、そしてある事柄に付いて描写に描写を重ね美しい言葉と対句で埋め尽くされたある種過剰なまでの表現である。司馬相如以外としては賈誼や武帝が挙げられる。司馬相如の代表作として「上林賦」が挙げられる。

芸術

前漢は既に2千年も前のことであり、その間に幾多の戦乱が起き、漢代の美術品は地上世界にはほとんど残らなかった。現在残る漢代の美術品はほとんどが地下世界、墳墓の中や窯跡など土の中に埋まっていたものである。このような物を土中古という。

墳墓

[33]

漢代では埋葬された死者は死後に於いてもそのまま墓中で生活を続けると考えられていた。始皇帝の兵馬俑も始皇帝が死後の世界で使うための兵士だった。これと同じように漢代の墳墓からは死者が使うための食器・家具などが大量に出てくる。王侯の墳墓などは実物そのものを入れる場合もあったが、それであると費用が莫大になってしまうために実際の物を模した土器を代わりに入れた。これを明器という。明器は非常にバリエーションに富み、食器・家具・家屋、ニワトリ・イヌなどの動物・身の回りの世話をするための奴隷・更には楽師や芸人といったものまであり、当時の生活の様子を物語ってくれる。もちろん本物の青銅器・陶磁器・漆器も大量に出土している。そのほかの副葬品として竹簡木簡類が見つかることがあり、漢代の貴重な一次史料となっている。

漢代の出土物として特筆すべきは、一つは馬王堆漢墓にて見つかった生けるがごとき女性の死体である。この女性は長沙国の丞相をしていた利蒼という人の妻で、発見されたときには頭髪も皮膚もきちんと残っていた。しかも皮膚には弾力が残されており、指で押すと元に戻ったという。

もう一つは劉勝の墓・満城漢墓などで発見されている金縷玉衣である。の板数千枚を金の糸で縫い上げ、これをもって死体を蓋っている。地位によって銀縷・銅縷の三段階があり、絹糸で縫う絲縷もある。玉には腐敗から死体を守る効果があると信じられていた。『西京雑記』にはこの金縷玉衣に付いて書かれていたのだが、莫大な費用がかかる金縷玉衣は実際に見つかるまでは誇張されたものであると思われていた[34]

絵画

[35]

墳墓の壁には壁画が描かれていることが多く、神話や歴史故事・戦争あるいは被葬者の人生などその題材は多岐にわたる。また壁の装飾に彫刻を施している場合も多いが、立体性はほとんど無く、これは彫刻というよりも絵画の類と見るべきものである。このような物を画像石と呼ぶ。宮殿の装飾などには非常に大規模な彫刻が施されたとの記録があるが、現存していない。

壁画以外に特筆すべきは馬王堆漢墓より発見された『彩絵帛画』である。上部は天上世界であり右の太陽の中に日烏が月の中にヒキガエル羿の妻の嫦娥が変化した姿)がいる。太陽と月の間には女媧がいる。中央部は現世であり被葬者の利蒼の妻が次女を引き連れている。下部は地底世界であり大地を支える巨人や亀などが描かれている。

陶磁器

[36]

この時代の陶磁器は基本的に戦国からの様式を引き継ぐものであり、古代美術の終点が漢であると考えられている。この後の三国時代魏晋南北朝時代には新たな波が生まれるが、その端緒もこの時代に見られる。

戦国では灰釉が主流で鉛釉もあったが、出土例は極めて少ない。それが漢代になると急速に普及し、緑釉(酸化銅)・褐釉(酸化鉄)の二種類が盛んに使われる(ギャラリーの酒器が緑釉)。これらは低温度(800度ほど)で焼かれ、強度的にはあまり強くなく、主な用途は明器であったらしい。ただし出土していないだけかもしれないが。当時の上層は日常的な食器としては主に漆器を祭祀用に青銅器を使い、下層は灰釉の陶器を主に使っていたようである。所がこの鉛釉は漢代だけの流行で、次の魏になると急速に衰退した。

この時代の陶磁器は基本的に青銅器の代用品であり、形もまた青銅器を模したものが多かった。しかしそういった伝統に縛られない華南の窯ではそれまでには見られない双耳壷などが登場しており、また南のベトナムではわずかながら青磁が出土している。

服飾

[37]

漢服ZH:中国服饰なども参照。

漢代に於いて周代より続く深衣は男性はあまり着なくなった。深衣とは十二単のように袍という衣を何枚も重ねて着るものである。しかし活動的な漢帝国にはこれは似合わず、重ね着せずに袍が一枚・下着が一枚というのが一般的になった。

身分の高い男性は「長袍」と呼ばれる膝くらいまである上着と「褲」という袴と「禅」という下着(上下が繋がっている)を着る。長袍はすその形で曲裾と直裾に分かれる。元は曲裾が正式な礼服であり、直裾は公式の場では着てはいけなかった。しかし次第に曲裾は廃れていき、直裾が主流となった。禅は外にいるときは下着であるが、家にいるときは禅のみですごすこともあったらしい。全体的に布を多く使っており、ゆったりとあまりきつくは締め付けないように作られている。そして大事なのが冠である。冠には非常に細かい形式があり、その形によって役職や地位などが分かるようにされていた。足に履く物は、祭祀の際に履く「舃」・出仕する際に履く「履」・家で履く「屨」・外出の際に履く「屐」がある。舃や履など大事なものは絹、屨はで編まれた。屐は木で作られており、歯が二枚ある下駄のような形をしている。また佩綬(腰に下げる飾り紐)が重んじられ、玉や真珠で飾られた。恋愛の告白には佩綬を送ることがよく行われていたようである。

労働者たちは労働しやすいように短い袍と長い褲を着て、労働の時には足のすそを上に巻き上げる。士大夫は冠であるが、庶民の男性は頭巾をかぶる(士大夫も私生活では頭巾をかぶる)。靴は履かず素足が基本である。

一方、女性は前代から変わらず深衣が一般的であった。上下一体型の袿衣・禅衣と腰までの長さの「襦」・スカートである「裙」を組み合わせる場合とがある。髪形には非常に趣向が凝らされ、その髪飾りも鼈甲や玉や金などを使われた美しいものであった。

ギャラリー

コモンズの漢代の美術のカテゴリも参照。

国際関係

[43]

高祖時代に南越国衛氏朝鮮の君主をそれぞれ皇帝に属する王として冊封した。これがいわゆる冊封体制の始まりとされている。皇帝に直接仕える臣下を内臣と呼ぶのに対して、南越や朝鮮の君主たちを外臣と呼び、その国を外藩と呼ぶ。

武帝時代初期の漢の国際関係

北方

楚漢戦争期、匈奴では冒頓単于が立ち、東胡を滅亡させ、月氏を西に追いやり、烏孫などを支配下に置いて北アジアに覇を唱えた。更に韓王信が封じられていたに大軍を持って侵入した。韓王信は匈奴に寝返り、怒った高祖は自ら親征するが冒頓の策に嵌り、平城にて七日間にわたって包囲され、匈奴と和平して何とか帰ってくることが出来た。

この時に結ばれた盟約が「漢と匈奴は兄弟[44]となる」「漢の公主を匈奴の閼氏(皇后)とする」「漢から毎年贈り物を匈奴に贈る。」と匈奴側に圧倒的に有利なものであった。

その後、呂后時代に冒頓から呂后に対して無礼な親書が送られてきたために匈奴攻撃が計画されたが、沙汰止みとなった。文帝時代には老上単于軍臣単于らによって何度か攻撃が行われ、そのたびに和平を結びなおすということが行われており、平城以来の力関係は明らかに匈奴の優勢であった。

新たに即位した武帝はこの状態に不満を持ち、張騫の西方への派遣を行うなど匈奴攻撃の準備を整えていた。そして紀元前134年に馬邑[4]の土豪の聶壱という者が考えた策謀を採用し、対匈奴戦争を開始した。聶壱の策というのは軍臣単于に対して「叛乱を起こして馬邑を占領し、匈奴に献上する」という偽りの手紙を送り、軍臣を誘き出して討とうというものである。この作戦は軍臣により察知されて失敗に終わり、聶壱は誅殺された。これ以後、紀元前119年まで計8回の遠征が行われる。

1回(紀元前129年)から6回(紀元前123年)までの主役となったのが衛青である。第1回の遠征に於いて衛青・李広など4人の将軍がそれぞれ1万騎を率いて各方面から匈奴に攻め込んだが他の将軍は全て破れ、衛星のみが匈奴の首級数百を得た。これを皮切りに第3回(紀元前127年)ではオルドスを再び奪い、第4回(紀元前124年)では匈奴の右賢王(匈奴の右翼・西側の長)を敗走させ、大将軍に登った。

7回(紀元前121年)の遠征は衛青の甥・霍去病が主役になった。第7回では春・夏の二回遠征を行い、匈奴の渾邪王は数万の捕虜と共に漢に投降した。更に続く第8回(紀元前119年)では衛青は伊稚斜単于の軍を大破し、霍去病も匈奴の王・兵士数万を捕虜とする大戦果を挙げ、2人共に大司馬とされた。

この結果、匈奴は本拠を北へと移さざるを得なくなり、漢は新領土に武威・酒泉・敦煌・張掖の河西四郡を設置した。以後、匈奴は二十年近く漢の近くには姿を現さなくなった。その後、漢が西域に勢力を伸ばすと再び匈奴は漢と敵対する。西域を漢に支配されるということは交易の利権を奪われることであり、匈奴にとって死活問題であった。

これに対して武帝は紀元前103年から再び軍事行動を開始する。ここから紀元前90年に至るまで李広利将軍を主として数度の遠征が行われたが全て失敗に終わる。李陵が奮戦しながら罪に落とされ、司馬遷宮刑されたのもこのころである。最終的に李広利は匈奴に降伏し、武帝は「輪台の詔」を出して遠征により民衆が苦しんだことを自ら批判した。

一連の戦争により漢の疲弊も激しかったが、匈奴の疲弊もまた激しかった。この頃になると単于の権威が衰え、漢と交戦・和平どちらを取るかで内部争いが起きるようになった。更に宣帝に至り、西域都護が設置されて西域を完全に押さえられるようになると匈奴の劣勢は明らかになり、併せて内部抗争も激しくなって一時は同時に単于が五人立つという異常事態となった。

そして紀元前58年に匈奴に呼韓邪単于が立つが、同時に呼韓邪の兄が自立して郅支単于となり、匈奴は東西に分裂した。これに困った呼韓邪は紀元前51年に自ら漢に入朝し、宣帝は呼韓邪に「匈奴単于璽」を授けて呼韓邪を漢の外臣とした。更に元帝の紀元前36年には烏孫を攻撃した郅支単于を攻めてこれを討ち取ってその首を長安に晒した。以後、前漢の終わりまで北方は安定した時期を迎えた。

西域

紀元前139年に武帝は張騫ソグド地方にいた大月氏に派遣して匈奴の挟撃策を説くがこれは受け入れられなかった。しかしこの張騫の大旅行により、それまで判然としていなかった西域の情勢が判る様になり、これ以降は漢の視野に西域経営が入ってくることになる。

張騫以後は大宛(フェルガナ)・大月氏・安息(パルティア)・身毒(インド)などの西域諸国との交易が始まり、西方からブドウザクロウマゴヤシなどが輸入されて、漢からは絹織物が輸出された。交易にはいわゆるシルクロードが利用された。

武帝は西域諸国の中でも匈奴に属していた楼蘭・姑師を服属させるために紀元前108年に遠征軍を出し、更にその後も2回に渡って姑師へ遠征している。また大宛の汗血馬(血の汗を流すと言われる種類の馬。すばらしく速いとされる)を得るために李広利将軍を遠征させて、苦戦の末に大宛を服属させている。

西域都護を創設した頃になると匈奴が分裂した事もあり、ほぼ西域の平定事業は完成した。その後は前漢の最後まで安定期が続いたが、王莽の異民族対策が失敗したことでこの地方はしばらく漢から遠のくことになる。

ベトナム・南西部

始皇帝ベトナムに遠征軍を送ってここを直轄領としたが、秦滅亡後にはこの地に漢人趙佗が自立して南越国を建てた。劉邦の時代には南越王に冊封して懐柔していたが、その後何度か反乱を起こしていた。

これに対して武帝は紀元前111年に南越の内紛に乗じて遠征軍を送り、南越を滅ぼして直轄領にした。これ以降10世紀の呉朝成立までの長い期間、ベトナムは中国の支配下におかれることになる。

南西部には夜郎自大の言葉で有名な夜郎貴州省)や(てん、の字はさんずいに真、雲南省)などを初めとした群小国が多数あり、この地の民族に漢の官吏が殺された事を契機としてこの地方の民族を解体して直轄支配に置いた。しかし夜郎と滇には王号を与えて外藩とした。

朝鮮

朝鮮に関しては前述した通りに衛氏朝鮮を滅ぼして、紀元前108年に朝鮮半島北部に四郡を置いた。

四郡は高句麗の興起するにつれて保持することが難しくなり、玄菟郡が高句麗に滅ぼされたのを最後に中国による朝鮮半島北部の直轄支配は終わる。

日本列島は楽浪郡や三韓を通じてこの時代から中国との交流があり、稲作、製鉄、文字など、様々な技術文化が日本にもたらされた。

前漢の皇帝

系図
  1. 高祖(劉邦、在位紀元前206年 - 紀元前195年
  2. 恵帝(劉盈、在位紀元前195年 - 紀元前188年)高祖の子
  3. 少帝恭(劉恭、在位紀元前188年 - 紀元前184年)恵帝の子
  4. 少帝弘(劉弘、在位紀元前184年 - 紀元前180年)恵帝の子、少帝恭の弟
  5. 文帝(劉恒、廟号は太宗、在位紀元前180年 - 紀元前157年)高祖の子、少帝弘の叔父
  6. 景帝(劉啓、在位紀元前157年 - 紀元前141年)文帝の子
  7. 武帝(劉徹、廟号は世宗、在位紀元前141年 - 紀元前87年)景帝の子
  8. 昭帝(劉弗陵、在位紀元前87年 - 紀元前74年)武帝の子
    • 廃帝賀(劉賀、霍光によって擁立されたが、すぐに廃される。)
  9. 宣帝(劉詢、廟号は中宗、在位紀元前74年 - 49年)武帝の曾孫
  10. 元帝(劉、廟号は高宗、在位紀元前49年 - 紀元前33年)宣帝の子
  11. 成帝(劉、廟号は統宗、在位紀元前33年 - 紀元前7年)元帝の子
  12. 哀帝(劉欣、在位紀元前7年 - 紀元前1年)元帝の孫、成帝の甥
  13. 平帝(劉、廟号は元宗、在位紀元前1年 - 5年)元帝の孫、哀帝の従兄弟
  14. 孺子嬰(劉嬰、在位5年 - 8年)宣帝の玄孫

高祖の本来の廟号諡号は「太祖高皇帝」だが、通常は高祖と呼ばれる。また、後漢を含め、大半の皇帝の諡号は頭に「孝」がつく(例:文帝の諡号は「孝文皇帝」)が、日本では殆どの場合省略して表記されている。

前漢の元号

  1. 建元紀元前140年-紀元前135年
  2. 元光紀元前134年-紀元前129年
  3. 元朔紀元前128年-紀元前123年
  4. 元狩紀元前122年-紀元前117年
  5. 元鼎紀元前116年-紀元前111年
  6. 元封紀元前110年-紀元前105年
  7. 太初紀元前104年-紀元前101年
  8. 天漢紀元前100年-紀元前97年
  9. 太始紀元前96年-紀元前93年
  10. 征和紀元前92年-紀元前89年
  11. 後元紀元前88年-紀元前87年
  12. 始元紀元前86年-紀元前81年
  13. 元鳳紀元前80年-紀元前75年
  14. 元平紀元前74年
  15. 本始紀元前73年-紀元前70年
  16. 地節紀元前69年-紀元前66年
  17. 元康紀元前65年-紀元前62年
  18. 神爵紀元前61年-紀元前58年
  19. 五鳳紀元前57年-紀元前54年
  20. 甘露紀元前53年-紀元前50年
  21. 黄龍紀元前49年
  22. 初元紀元前48年-紀元前44年
  23. 永光紀元前43年-紀元前39年
  24. 建昭紀元前38年-紀元前34年
  25. 竟寧紀元前33年
  26. 建始紀元前32年-紀元前29年
  27. 河平紀元前28年-紀元前25年
  28. 陽朔紀元前24年-紀元前21年
  29. 鴻嘉紀元前20年-紀元前17年
  30. 永始紀元前16年-紀元前13年
  31. 元延紀元前12年-紀元前9年
  32. 綏和紀元前8年-紀元前7年
  33. 建平紀元前6年-紀元前3年
  34. 元寿紀元前2年-紀元前1年
  35. 元始1年-5年
  36. 居摂6年-8年
  37. 初始8年

年表

皇帝 元号 国内 国外
紀元前210年 始皇帝 始皇帝 三十七年 始皇帝、崩御。二世皇帝即位。  
前209年 二世皇帝 二世皇帝 元年 陳勝・呉広の乱勃発。陳勝・呉広の乱勃発。劉邦、故郷の沛で反乱軍に参加。  
前207年 秦王子嬰 三年 劉邦、秦都・咸陽を攻略。秦滅亡  
前206年 高祖 高祖 元年 劉邦、項羽より漢中に封ぜられ、漢王となる。劉邦、関中を攻略。  
前205年 二年 項羽、義帝を殺害。  
前202年 五年 垓下の戦い。項羽戦死。劉邦、皇帝に即位高祖)。  
前201年 六年   [匈奴]高祖の親征軍、匈奴の冒頓単于軍に大敗。
前196年 十一年 彭越英布ら功臣が粛清される。 [ベトナム]趙佗南越王に封じる。[朝鮮]衛満衛氏朝鮮を建てる。
前195年 十二年 高祖、崩御。恵帝即位。呂后体制始まる  
前188年 恵帝 恵帝 七年 恵帝崩御  
前180年 少帝弘 少帝弘 四年 呂后、死去。周勃らにより呂氏族誅。文帝即位  
前174年 文帝 文帝前 六年   [匈奴]冒頓、死去。老上単于立つ。
前168年 十二年 田租を減じ、更に翌年より全廃。  
前160年 文帝後 三年   [匈奴]老上が死に、軍臣単于立つ。
前157年 六年 文帝、崩御景帝即位  
前156年 景帝 景帝前 元年 田租を復活させ、収穫の1/30とする。  
前154年 三年 呉楚七国の乱勃発。  
前141年 景帝後 三年 景帝、崩御武帝即位  
前140年 武帝 建元 元年 張騫が西域に出発  
前137年 三年   [ベトナム]趙佗が死去。孫の胡が跡を継ぐ
前136年 五年 五経博士を置く  
前133年 元光 二年 馬邑の役。対匈奴戦争の始まり  
前129年 六年 第一回対匈奴遠征  
前128年 元朔 元年 第二回対匈奴遠征  
前127年 二年 第三回対匈奴遠征。衛青の活躍によりオルドスを奪う  
前126年 三年 張騫の帰還 [匈奴]軍臣死去。後継を巡って内紛がおき、伊稚斜単于が立つ。
前124年 五年 第四回対匈奴遠征。衛青、大将軍となる  
前123年 六年 第五・六回対匈奴遠征・衛青と霍去病が出撃。痛み分けに終わる  
前121年 元狩 二年 第七回対匈奴遠征。霍去病が匈奴の渾邪王を降す。  
前119年 四年 第八回対匈奴遠征。塩鉄専売制の開始・五銖銭の制定 [匈奴]本拠を北に移す
前115年 元鼎 二年 均輸法施行。  
前114年 三年   [匈奴]伊稚斜が死ぬ。
前113年 四年 五銖銭の製造が国家の独占となる。  
前112年 五年 南越に出兵。  
前111年 六年   [ベトナム]南越滅亡。漢の郡が置かれる。
前110年 元封 元年 武帝、封禅を行う。平準法施行。 東越国滅亡。[雲南]夜郎が漢の外藩となる。
前108年 三年   [朝鮮]衛氏朝鮮滅亡。楽浪郡以下朝鮮四郡が置かれる。
前106年 五年 刺史の設置。  
前104年 太初 元年 李広利将軍の大宛出兵が失敗に終わる。  
前102年 三年 再び、大宛を攻めて汗血馬を得て帰還する。  
前99年 天漢 二年 李広利を将軍として匈奴を攻撃する。李陵が降伏。司馬遷宮刑を受ける。  
前96年 太始 元年 史記』の完成。  
前91年 征和 二年 巫蠱の乱戻太子死去。  
前90年 三年 李広利、匈奴に降伏。  
前87年 後元 二年 武帝、崩御。昭帝即位  
前81年 昭帝 始元 六年 塩鉄会議が開催される。  
前80年 元鳳 元年 上官桀桑弘羊ら誅殺され、霍光専権時代が始まる。  
前74年 元平 元年 昭帝崩御昌邑王の即位と廃位を経て、宣帝即位  
前73年 宣帝 本始 元年    
前68年 地節 二年 霍光、死去。  
前66年 四年 霍氏、族誅され宣帝の親政始まる。  
前60年 神爵 二年 西域都護の設置。  
前51年 甘露 三年 石渠閣会議が開催される。 [匈奴]呼韓邪単于、漢に入朝
前49年 黄龍 元年 宣帝、崩御。元帝即位  
前48年 元帝 初元 元年    
前40年 永光 四年 郡国廟の廃止。  
前33年 竟寧 元年 元帝、崩御。成帝即位  
前32年 成帝 建始 元年 郊祀制を始める  
前8年 綏和 元年 王莽大司馬になる。  
前7年 二年 成帝、崩御。哀帝即位  
前6年 哀帝 建平 元年 王莽、下野する。  
前1年 元寿 二年 哀帝、崩御。平帝即位。王莽、再び大司馬となる。  
後1年 平帝 元始 元年 王莽、安漢公となり、政権を執る。  
後5年 五年 平帝、崩御。王莽、孺子嬰を皇太子とし、自ら仮皇帝となる。  
後8年 孺子嬰 初始 元年 王莽、皇帝となる。前漢滅亡  

関連項目

研究および参考文献

この節は『中国史研究入門』・『中国歴史研究入門』・『戦後日本の中国史論争』を基にして記述し、20世紀・21世紀の日本の中国史学界に於いて出された漢代の研究の中で各分野に於いて最重要と考えられる物を紹介していく。この節で紹介されるものはごく一部であるので、より深い研究を知りたい者は前3書あるいは『史学雑誌』「回顧と展望」などを参照のこと。

注記。前漢・後漢および新代をひっくるめて漢代と呼ぶが、漢代の研究といった場合は漢代全体の流れの研究か前漢に関する研究がほとんどで、後漢史の研究といったものはかなり少数派の状態であった。であるのでこの節では漢代全体の流れの研究および前漢に関する研究を紹介し、後漢の項目で後漢史限定の研究を紹介することとする。

以下の文章では研究について記すので断定口調で記されている場合でも必ずしも歴史的事実とは限らない。通常の字体の部分は各論者の説であり、""でくくられている部分は説を理解する前提としての歴史的事実の説明である。

日本語訳・書誌情報などに付いては記事があるものはリンク先をそれ以外は#参考文献で一括して紹介する。

総論

漢代とはどのような時代であったか。この問いに答えるための論考として、戦後から1970年代にかけての日本の中国史学界では主に社会経済史の観点から中国史時代区分論争の中心論点の一つとして活発な議論が行われた。

日本に於ける中国史時代区分論争は経済発展段階説古代中世近世近代に分ける四区分法を使い、主に漢代までを古代・魏晋南北朝からまでを中世とする京都学派と唐代までを古代・宋からを中世とする東京学派の二つに分かれている。

まず1949年1950年西嶋定生は高祖の配下集団に見られる中涓・舎人・卒・客といった言葉に着目し、これを家内奴隷的・擬制家族的な存在であるとし、高祖集団を戦闘集団ではなく生活集団であるとした。そしてこの高祖集団の有り様は当時の豪族一般に通ずるものであり、この形態こそが当時の社会経済の主な部分を担っており、漢帝国と皇帝という関係もまたこの形態を取っているとした。西嶋はこれが奴隷制が中国的な展開をしたものであり、漢帝国を奴隷制国家としたのである。[45]

これに対して様々な方面から批判が寄せられたが、その中で最も重要なものが増渕竜夫によるものである。増渕は西嶋の高祖集団に対する理解は正しいとする。しかしそれを即座に敷衍し、奴隷制といういわば外形からのアプローチのみで理解することが正しいことであろうかとの疑念を出した。"春秋時代以前に於いては集落()は同一氏族が一緒になって生活する場であり、その中での成員の変動というのはほとんど無かった。しかし戦国時代以降は集落の中から外へ外から中への移動が激しくなっていた。"その中で血縁という絆を持たない者同士が新しく築いた絆が戦国四君などに見られるような任侠精神である。この任侠精神は当時の遊侠などに限定されたものではなく、西嶋が言ったような家内奴隷的集団を内側から支える役割をなしたものであるとする。[46]

またこれに加えて浜口重国により、当時の社会に於いて豪族は生産の主たる位置を占めておらず、生産の主たる位置は圧倒的多数である自作小農民であるという指摘が行われた[47]。これらの批判を受けて西嶋は旧説を撤回し、皇帝と小農民との関係性を主眼に置いた新たな論考を発表した。これが個別人身的支配である。西嶋は漢の二十等爵制爵制を参照)を分析し、この爵制の目的が当時崩壊しつつあった民間集落の秩序を旧来の歯位の秩序を新たな爵制により補填することにより、集落の秩序形成を国家が肩代わりすることで民衆一人一人個別の人身に対して支配を及ぼそうとする狙いがあったとした[48]

西嶋新説に対して増渕は、その着眼点の非凡さには敬意を表するものの、西嶋新説の皇帝・国家側から一方的に民衆に対して支配力を及ぼす形は結局のところ西嶋が否定した東洋的専制主義アジア的停滞と変わる所がないのではないかという指摘を行い、西嶋の論を「動きの取れない構造論」と批判した。そして西嶋が個別人身的支配の外の存在とした豪族とその支配下にある民とが形成する共同体こそが個別人身的支配を現実的に実現する媒介の役割をなす存在であるとした[49]

この二つのいわば「上・外」からの力と「下・内」からの力という二つの考えはその後の貴族制理解にも矢野主税川勝義雄の対立という形で顕れた。1970年代にはこの二つを統合する試みとして好並隆司による「二重構造説」[50]多田狷介による「アジア的共同体説」[51]などが登場するが、明確な結論は出されないままであった。

その後1980年代からの中国史学界ではそれぞれが多種多様な研究視点を抱くようになり、かつてのようにある論点において激しい論戦が繰り広げられるということは少なくなった。

史料

漢代研究の基本資料はまず『史記』・『漢書』の両正史である。これに関してはリンク先を参照のこと。

それ以外に漢代の通史としては後漢・荀悦による『漢紀』があるが、これは『漢書』の本紀・列伝を材料にして『左伝』風の文章に纏めたものなので資料的価値は低い。日本語訳は無い。

他に楚漢戦争期の歴史を取り扱ったものとして高祖に仕えた儒者陸賈による『楚漢春秋』がある。『史記』はこの時代についてはこれを基としている。全九編と『漢書』にはあるが、現在は散逸。洪頤煊などにより『史記』などに引用された文章を集めたものが纏められている。日本語訳は無い。

分野別。

政治制度に関して。後漢・蔡邕『独断』(福井重雄による日本語訳有り)、清・孫星衍『漢官七種』(応劭『漢官儀』など、漢制度に関する七の書を集めたもの。中華書局とパリ大学により刊行されているが、日本語訳は無し。)など。

社会・地理・地方史に関して。南北朝から唐代?の著者不明『三輔黄図』(前漢長安に関する社会地理情報)、西晋代の常璩華陽国志』(地方に関して三国時代から晋代までの記述。中には古代蜀王国時代の記述なども存在する)。

農業に関して。前漢・氾勝之『氾勝之書』(散逸。逸文を纏めたものがあるが、日本語訳は無し)

書誌情報


脚注

  1. ^ a b この節は西嶋『秦漢帝国』と太田『中国史1』を参照。
  2. ^ 『史記』「平準書」
  3. ^ 『史記』「高祖功臣侯者年表」
  4. ^ a b 山西省朔県
  5. ^ 昭帝の皇后となっていた上官桀の娘だけは難を逃れた。
  6. ^ a b この節は西嶋『秦漢帝国』を参照。
  7. ^ 正確にはその後袁世凱も一時期皇帝を名乗ったことがある。
  8. ^ 『漢書』「百官表」顔師古
  9. ^ 十二とする場合も多い。
  10. ^ 山西省万栄県の北方
  11. ^ 劉太公・高祖・文帝・景帝・武帝・昭帝・宣帝・戻太子・悼皇考(戻太子の子・宣帝の父)
  12. ^ a b c d この節は太田『中国史1』を参照。
  13. ^ 池田2003
  14. ^ a b c この節は太田『中国史1』・西嶋『中国経済史研究』を参照。
  15. ^ この節に関しては太田『中国史1』・五井『漢代の豪族社会と国家』を参照。
  16. ^ この節は太田『中国史1』・五井『漢代の豪族社会と国家』を参照。
  17. ^ 郷・亭・里の関係に付いては論争がある。本文の考えは宮崎市定1957。それ以外にも説があるがここでは記さない。
  18. ^ この節は佐藤『長安』を参照。
  19. ^ 宇都宮1951
  20. ^ この節は西嶋『中国古代帝国の形成と構造-二十等爵制の研究』を参照。
  21. ^ 元は徹侯であったが、劉徹(武帝)を避諱して列侯となった。徹(列)とは皇帝との間に何も挟まないとの意味である。
  22. ^ この節は太田『中国史1』・五井『漢代の豪族社会と国家』を参照。
  23. ^ この節は増渕『中国古代の社会と国家-秦漢帝国成立過程の社会史的研究-』を参照。
  24. ^ a b この節は太田『中国史1』・狩野『両漢学術考』・武内『中国思想史』を参照。
  25. ^ 1970年代まではこれにより儒教が国教化されたとしていたが、現在の日本の学界ではそれは否定され、儒教の国教化の時期は少なくとも元帝期に降るというのが定説である。具体的な国教化の時期に付いては元帝期(福井重雄1967)、王莽期(西嶋1970)、後漢光武帝期(板野長八)など
  26. ^ この節は西嶋『秦漢帝国』・安井『緯書と中国の神秘思想』を参照。
  27. ^ 土克水。水の流れを土で出来た堤防が押し留めるように土は水に克つ。
  28. ^ 木生火。木を燃やすと火が生まれる
  29. ^ 火生土。火が燃えた後には灰が出来る。
  30. ^ 漢を火徳とすると遡ってが火徳となる。
  31. ^ この節は太田『中国史1』・劉イ『秦漢 雄偉なる文明(図説中国文明史4)』・宇野『漢詩の歴史』を参照。
  32. ^ 後代にこの楽府体を真似て作った漢詩群があり、これと区別する場合には古楽府と呼ぶ
  33. ^ この節は太田『中国史1』・サリバン『中国美術史』・小杉『中国美術史』を参照。
  34. ^ なおギャラリーの写真は南越王墓から発見された絲鏤玉衣。
  35. ^ この節はサリバン『中国美術史』・小杉『中国美術史』を参照。
  36. ^ この節は矢部『中国陶磁の八千年』を参照。
  37. ^ この節は華梅『中国服装史』を参照。
  38. ^ 河北省満城漢墓より出土。河北省博物館所蔵。高さ48cm・重さ15.78kg
  39. ^ 馬王堆漢墓より出土
  40. ^ 徐州西漢楚王陵墓より出土。
  41. ^ 山東省嘉祥県武氏祠画像石(左石室第四石)拓本。京都国立博物館所蔵。後漢。
  42. ^ 馬王堆漢墓より出土
  43. ^ この節は西嶋『秦漢帝国』・太田『中国史1』・沢田『匈奴』を参照。
  44. ^ どちらが兄でどちらが弟かは分からない
  45. ^ 西嶋1949a・1949b・1950
  46. ^ 増渕1951・1960
  47. ^ 浜口1953
  48. ^ 西嶋1961
  49. ^ 増渕1962
  50. ^ 好並1971
  51. ^ 多田1971

外部リンク

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