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牧宗親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
牧 宗親
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕 不明
死没 建久6年(1195年)以降
別名 三郎?[1]
官位 大舎人允?[2]武者所?[3]
幕府 鎌倉幕府 御家人
主君 頼盛頼朝
氏族 藤原氏[4]駿河牧氏
兄弟 宗親牧の方?[3]
三郎?、大岡時親?[2]、正親?、牧の方?[2]
特記
事項
父を藤原宗兼とする説がある[注 1]
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牧 宗親(まき むねちか)は、平安時代から鎌倉時代武士北条時政の後妻・牧の方の親族(父あるいは兄弟)[6]

愚管抄』では大舎人允宗親を牧の方の父、大岡判官時親を牧の方の兄とする[7]牧三郎宗親武者所宗親牧武者所を牧の方の兄弟とするのは『吾妻鏡』による[3]。『愚管抄』における続柄と『吾妻鏡』における続柄を折衷して大舎人允宗親と牧武者所宗親(牧三郎宗親)を同一人物とする説がある[6]一方で、大舎人允宗親と牧武者所宗親(牧三郎宗親)を別人と解釈し、後者を『吾妻鏡』において牧武者所宗親と入れ替わりに現れる牧の方の兄弟の大岡備前守時親と同一人物とする説がある(『吾妻鏡』では牧武者所宗親(牧三郎宗親)と大岡備前守時親の続柄に言及はない)[8]。また牧三郎を宗親とするのは『吾妻鏡』の錯誤で、三郎を宗親の子で時親の兄とする説もある[9]

人物

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愚管抄』では駿河国駿河郡大岡牧(現静岡県沼津市周辺)の人で、牧氏は同地を寄進して平家一門である平頼盛に仕えていたとあり、「武者ニモアラズ、カヽル物ノ中ニカヽル果報ノ出クル」と記されている。牧氏を開発領主とする大岡牧は後白河法皇本家、頼盛が領家となり、一時は平家没官領に含まれたものの程なく頼盛に還付され、頼盛没後は八条院領となったようである。また同地の地頭は牧の方の婿となっていた北条時政が務めた[6][7][10]

吾妻鏡』によると寿永元年(1182年11月10日源頼朝の妻で時政の娘の北条政子の命で、牧三郎宗親が頼朝の愛妾・亀の前が匿われていた伏見広綱邸を破壊した。2日後、頼朝より亀の前が避難していた大多和義久邸に召喚された宗親は陳謝したものの、「御台所の指示に従うことは当然だが、頼朝へ内々に相談もせずに狼藉を働いたことは不埒である」としてを切られる恥辱を受けたため逃亡した。その2日後、宗親への所業に対する抗議として時政が伊豆国へ一時籠居してしまっている[6][11]

その後も武者所宗親(牧武者所)に、時政・牧の方の側近としての活動や[6]御家人としての活動が見られ、鎌倉勝長寿院建久6年(1195年)の東大寺大仏殿の落慶供養に随兵として列参している[12][13][注 2]建久3年(1192年)には自宅が火災に遭い、を火中から取り戻すために左の髭を焼いてしまう災難に遭っている[15]

脚注

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注釈

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  1. ^ 尊卑分脈藤原北家隆家流の宗兼の子で、平頼盛の生母池禅尼の兄弟(同母かは不明)に諸陵助宗親が見える[5]
  2. ^ 勝長寿院落慶供養では随兵として参列するほか、北条時政代官としての活動も見られる[14]

出典

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参考文献

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  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第四編』 8巻、東京大学出版会、1970年。ISBN 9784130901581 
  • 藤原定家明月記』 1巻、国書刊行会、1991年。ISBN 9784336023025 
  • 杉橋隆夫「牧の方の出身と政治的位置─池禅尼と頼朝と─」『古代・中世の政治と文化』、思文閣出版、1994年。ISBN 4784208186 
  • 「静岡県の地名」編集委員会 編「大岡庄」『日本歴史地名大系』 22巻《静岡県の地名》、平凡社、2000年。ISBN 4582490220 
  • 上田正昭; 西澤潤一; 平山郁夫 ほか 編「牧宗親」『日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 9784062108003 
  • 野口実「伊豆北条氏の周辺―時政を評価するための覚書―」『研究紀要』第20号、京都女子大学宗教・文化研究所、2007年。 
  • 早川純三郎 編『吾妻鏡〈吉川本〉』 1巻、国書刊行会、2008年。ISBN 9784642041966 
  • 早川純三郎 編『吾妻鏡〈吉川本〉』 2巻、国書刊行会、2008b。ISBN 9784642041973 

関連作品

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