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大岡時親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大岡 時親
時代 鎌倉時代前期
生誕 不明
死没 元久2年(1205年)以降
別名 四郎、大岡判官[1]
官位 検非違使尉[2]備前守[3]
幕府 鎌倉幕府 御家人
主君 頼家実朝
氏族 藤原氏[4]駿河牧氏
父母 大舎人允宗親[1]
兄弟 牧三郎?、時親、牧正親、牧の方[1]
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大岡 時親(おおおか ときちか)は、鎌倉時代前期の武士北条時政の後妻・牧の方の兄。

人物

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愚管抄』には大岡判官時親、『吾妻鏡』には大岡判官時親大岡備前守時親とある[2]。『愚管抄』によると父の名は大舎人允宗親で、『吾妻鏡』に牧の方の兄弟と見える武者所宗親(牧三郎宗親、牧武者所)と同名である[5]。『愚管抄』における続柄と『吾妻鏡』における続柄を折衷して大舎人允宗親と武者所宗親を同一人物とする説がある[6]一方で、大舎人允宗親と武者所宗親を別人と解釈し、後者を『吾妻鏡』において武者所宗親と入れ替わりに現れる大岡備前守時親と同一人物とする説もある(『吾妻鏡』では武者所宗親と大岡備前守時親の続柄に言及はない)[7]。また牧三郎を宗親とするのは『吾妻鏡』の錯誤で、三郎を宗親の子で時親の兄とする説もある[8]

『愚管抄』には五位尉になったとある。『吾妻鏡』によると時親は妹婿でもある時政の側近として活動し、建仁3年(1203年)に時政の指示で比企能員の変における比企氏方戦死者の実検を担当している。同年、比叡山延暦寺堂衆学侶が対立して争乱となった際、朝廷が派遣した鎮定軍の将として横川方面に出陣する[9]元久2年(1205年3月臨時除目備前守に任官[4]。同年、畠山重忠の乱の際には牧の方の使者として外甥の北条義時を説得して畠山氏討伐側に引き込んだが、戦後の牧氏事件で義時らによって時政が失脚すると、時親もそれを追う形で出家した[2]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c 『愚管抄』.
  2. ^ a b c 『大日本史料 第四編』 1970b, pp. 609.
  3. ^ 『吾妻鏡』.
  4. ^ a b 『大日本史料 第四編』 1970b, pp. 468–469.
  5. ^ 『大日本史料 第四編』 1969, pp. 891.
  6. ^ 『日本人名大辞典』 2001.
  7. ^ 野口 2007, p. 105.
  8. ^ 近藤成一『執権 北条義時』三笠書房 知的生きかた文庫、2021年、p29
  9. ^ 『大日本史料 第四編』 1970a, pp. 935–938.

参考文献

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  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第四編』 3巻、東京大学出版会、1969年。ISBN 9784130901536 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第四編』 7巻、東京大学出版会、1970a。ISBN 9784130901574 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第四編』 8巻、東京大学出版会、1970b。ISBN 9784130901581 
  • 永井路子『源頼朝の世界』中央公論社、1979年。 
  • 「静岡県の地名」編集委員会 編「大岡庄」『日本歴史地名大系』 22巻《静岡県の地名》、平凡社、2000年。ISBN 4582490220 
  • 上田正昭; 西澤潤一; 平山郁夫 ほか 編「牧宗親」『日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 9784062108003 
  • 野口実「伊豆北条氏の周辺―時政を評価するための覚書―」『研究紀要』第20号、京都女子大学宗教・文化研究所、2007年。