伏見広綱
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時代 | 平安時代末期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 伏見冠者藤原広綱 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 源頼朝 |
氏族 | 伏見氏 |
伏見 広綱(ふしみ ひろつな)は、平安時代末期の人物。源頼朝の右筆。伏見冠者藤原広綱と呼ばれる。
略歴
[編集]伏見氏は本姓は藤原氏で、遠江国佐野郡の豪族[1]。広綱も同郡掛河(現在の静岡県掛川市)の出身。
文筆に秀で、鎌倉に幕府を構えた源頼朝が、朝廷の事に通じている者を探していた所を安田義定の推挙を受け、寿永元年(1182年)5月12日、鎌倉に参じて頼朝の右筆となった。その直後に頼朝が源義重の娘(祥寿姫)に宛てた艶書を届ける使いをしている[2]。
寿永元年(1182年)11月10日、頼朝の愛妾亀の前を飯島(逗子市)の自邸に匿っていた事で、頼朝の妻北条政子の怒りを買い、政子の命を承けた牧宗親に邸を破壊された。広綱は亀の前を連れ、命からがら大多和五郎義久(三浦義明の子)の鐙摺(葉山町)の邸に逃れた。12日、頼朝は宗親を伴って鐙摺を訪れ、広綱に事の経緯を聞き、宗親を問いただした。宗親は言葉もなく平伏したが、頼朝は宗親の髻を切って恥辱を与えた。12月16日、広綱は政子の怒りによって遠江国に流罪となった。
この間、頼朝の右筆として半年余。流罪先の遠江は広綱の出身地である。