源資俊
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時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 寿永元年(1182年)[1] |
死没 | 仁治2年(1241年)2月3日[2] |
官位 | 従三位 |
主君 | 後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇 |
氏族 | 村上源氏顕房流 |
父母 | 父:源家俊、母:河内守源光遠の女 |
妻 | 不明 |
子 | 教俊 |
源 資俊(みなもと の すけとし)は、鎌倉時代の公卿。宮内卿源家俊の息男。非参議従三位。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に基づいて記述する。
- 建久2年(1191年)1月5日、叙爵。
- 元久3年(1206年)[3]1月13日、侍従に任ぜられる。
- 建永2年(1207年)[4]4月10日、従五位上に昇叙。
- 承元4年(1207年)1月14日、備前介に任ぜられる。同年6月17日、復任。
- 建保2年(1214年)3月28日、淡路守に任ぜられる。
- 建保4年(1216年)1月5日、正五位下に昇叙。同月13日、美作守に任ぜられる。
- 承久元年(1219年)8月4日、越中守に任ぜられる。同年12月13日、左少将に任ぜられる。
- 承久3年(1221年)1月5日、従四位下に昇叙。
- 嘉禄元年(1225年)12月22日、左少将に還任。
- 嘉禄3年(1227年)1月5日、従四位上に昇叙。
- 寛喜2年(1230年)1月22日、正四位下に昇叙。
- 嘉禎4年(1238年)1月22日、左中将に任ぜられる。
- 仁治元年(1240年)10月24日、左中将を辞す[5]。同年12月18日、従三位に叙される。
- 仁治2年(1241年)12月、出家[6]。
系譜
[編集]- 父:源家俊(?-1209)
- 母:河内守源光遠の女
- 妻:不詳
- 男子:源教俊