源家賢
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時代 | 平安時代中期 - 後期 |
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生誕 | 永承3年(1048年) |
死没 | 嘉保2年(1095年)8月 |
改名 | 師信→家賢 |
官位 | 正二位、権中納言 |
主君 | 後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇→堀河天皇 |
氏族 | 醍醐源氏高明流 |
父母 | 父:源資綱、母:源道方の娘 |
兄弟 | 家賢、道良、明家、時家、覚俊、御匣殿 |
妻 | 不詳 |
子 | 家俊、重賢、広賢、成覚 |
源 家賢(みなもと の いえかた)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。醍醐源氏高明流、中納言・源資綱の長男。官位は正二位・権中納言。
経歴
[編集]康平3年(1060年)従五位下に叙爵。康平4年(1061年)越中権守を務め、康平6年(1063年)右衛門佐に任ぜられる。康平8年(1065年)従五位上に叙せられた。
治暦3年(1067年)右近衛少将に任ぜられる。治暦5年(1069年)正五位下・美作介に叙任、続いて従四位下に叙せられる。延久2年12月(1071年1月)に従四位上、延久4年12月(1073年2月)正四位下に昇叙し、延久6年(1074年)備中介を兼ね、右近衛中将に転じた。承保2年(1075年)従三位・右兵衛督に叙任されて公卿に列す。
承保4年(1077年)正三位に昇叙。承暦3年(1079年)左兵衛督に転じ、承暦4年(1080年)参議に任ぜられた。備中権守を経て、応徳3年(1086年)権中納言に進む。寛治2年(1088年)の朝覲行幸にて白河上皇の院別当として従二位に叙せられ、寛治3年(1089年)右衛門督に転じ、正二位に進む。同年、石清水八幡宮へ奉幣が行われた際には奉幣使を務めた。
寛治5年(1091年)左衛門督、寛治8年(1094年)には宮内卿を兼任するが、嘉保2年(1095年)8月、48歳で薨去した。
官歴
[編集]※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 康平3年(1060年)3月4日:従五位下に叙す(皇太后宮臨時御給)。
- 康平4年(1061年)12月:越中権守に任ず。
- 康平6年(1063年)11月:右衛門佐に任ず。
- 康平8年(1065年)正月5日:従五位上に叙す(佐労)。
- 治暦3年(1067年)2月:右近衛少将に遷る。
- 治暦5年(1069年)
- 正月27日:正五位下に叙し、美作介を兼ぬ。
- 8月16日:従四位下に叙す(行幸閑院院司賞)。
- 延久2年12月28日(1071年1月31日):従四位上に叙す(供養圓明寺日。陽明門院院司賞)。
- 延久4年12月29日(1073年2月8日):正四位下に叙す(御即位院御給)。
- 延久6年(1074年)/承保元年
- 正月28日:備中介を兼ぬ。
- 12月26日(1075年1月15日):右近衛中将に遷る。
- 承保2年(1075年)正月28日:右兵衛督に任じ、従三位に叙す(父資綱卿譲)。
- 承保4年(1077年)正月11日:正三位に叙す(行幸陽明門院。院于時遷御東三條第)。
- 承暦3年(1079年)11月7日:左兵衛督に遷る。
- 承暦4年(1080年)8月14日:参議に任ず。左兵衛督如元。
- 永保4年(1084年)正月19日:備中権守を兼ぬ。
- 応徳3年(1086年)
- 10月10日:著座。
- 11月20日:権中納言に任ず。
- 寛治2年(1088年)正月19日:従二位に叙す(行幸院別當賞)。
- 寛治3年(1089年)
- 正月28日:右衛門督に遷る。
- 4月24日:奉幣使に補す(石清水八幡宮奉幣)[1]。
- 時期不詳:正二位に叙す。
- 寛治5年(1091年)正月:左衛門督に転ず。
- 寛治8年(1094年)正月:宮内卿を兼ぬ。
- 嘉保2年(1095年)
- 4月15日:賀茂社行幸に奉仕す。
- 7月20日:左衛門督を辞せんことを請う。
- 8月:薨去。
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年