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源資綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源資綱
時代 平安時代中期 - 後期
生誕 寛仁4年(1020年
死没 永保2年正月2日1082年2月2日
官位 正二位中納言
主君 後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇後三条天皇白河天皇
氏族 醍醐源氏高明流
父母 父:源顕基、母:藤原実成の次女
兄弟 資綱、俊長、俊相
源道方の娘
家賢道良明家時家、覚俊、御匣殿
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源 資綱(みなもと の すけつな)は、平安時代中期から後期にかけての公卿歌人醍醐源氏高明流、権中納言源顕基の長男。官位正二位中納言

経歴

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長元4年(1031年従五位下叙爵し、同年従五位上に進む。長元5年(1032年侍従に任ぜられ、長元6年(1033年右近衛少将を務める。

長元7年(1034年備中守を兼ねる。長元9年(1036年従四位下長久2年(1041年)従四位上に叙せられる。長久3年(1042年正四位下美作介に叙任。長久4年(1043年)には右近衛中将に転じ、寛徳2年(1046年春宮権亮に任ぜられ、尊仁親王(後の後三条天皇)に仕える。右京大夫蔵人頭播磨権介を経て、永承6年(1051年参議に任ぜられ公卿に列した。永承7年(1052年伊予権守を兼任。

永承8年(1053年皇太后宮権大夫禎子内親王)を兼ね、天喜5年(1057年従三位備前権守に叙任。康平5年(1062年)には周防権守に転じ、治暦3年(1067年右兵衛督となる。

治暦4年(1068年後三条天皇の即位に伴って正三位権中納言に叙任される。治暦5年(1069年従二位延久2年(1070年)正二位に昇叙され、承暦4年(1080年)中納言に至った。永保2年(1082年)の正月1日に出家し、翌日に薨去。享年63。

歌人としても活躍し、『後拾遺和歌集』には絵式部との贈答歌が残る。

官歴

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※以下、『公卿補任』の記載に従う。

  • 長元4年(1031年
    • 正月5日:従五位下に叙す(氏)。
    • 11月16日:従五位上に叙す(朔旦。章子内親王御給)。
  • 長元5年(1032年)2月8日:侍従に任ず。
  • 長元6年(1033年)正月29日:右近衛少将に任ず。
  • 長元7年(1034年)正月29日:備中守を兼ぬ。
  • 長元9年(1036年
    • 正月5日:正五位下に叙す。
    • 2月27日:従四位下に叙す(民部卿道方譲之)。
  • 長久2年(1041年)正月7日:従四位上に叙す(少将労)。
  • 長久3年(1042年)10月23日:美作介を兼ね、正四位下に叙す(能信卿譲。造宮賞)。
  • 長久4年(1043年)9月19日:右近衛中将に転ず。
  • 寛徳2年(1045年)4月26日:春宮権亮を兼ぬ。
  • 永承元年(1046年)9月23日:右京大夫を兼ぬ。
  • 永承2年(1047年
    • 8月11日:蔵人頭に補す。
    • 9月:服解す。
    • 11月:復任す。
  • 永承3年(1048年)正月28日:播磨権介を兼ぬ。
  • 永承6年(1051年)11月6日:参議に任ず。大夫如元。
  • 永承7年(1052年)2月26日:伊予権守を兼ぬ。
  • 永承8年(1053年)11月28日:皇太后宮権大夫を兼ぬ。
  • 天喜5年(1057年
    • 正月5日:従三位に叙す。
    • 2月20日:備前権守を兼ぬ。
  • 康平5年(1062年)11月28日:周防権守を兼ぬ。
  • 治暦3年(1067年)2月6日:右兵衛督を兼ぬ。大夫を止む。
  • 治暦4年(1068年
    • 4月16日:太皇太后宮権大夫に転ず。
    • 7月19日:正三位に叙す(御即位臨時)。
    • 9月13日:御禊御後次第司長官に補す。
    • 12月29日:権中納言に任ず。
  • 治暦5年(1069年
    • 2月17日:大夫を止む。
    • 8月16日:従二位に叙す(行幸同院院司賞)。
  • 延久2年(1070年)12月26日:正二位に叙す(供養圓明寺行幸賞)。
  • 延久6年(1074年)6月29日:中宮大夫を兼ぬ。
  • 承暦3年(1079年)11月:大夫を止む。
  • 承暦4年(1080年)8月14日:中納言に転ず。
  • 永保2年(1082年
    • 正月1日:出家す。
    • 正月2日:薨ず。享年63。

系譜

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脚注

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  1. ^ 本名は師信