渡部義通
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渡部 義通 わたなべ よしみち | |
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生年月日 | 1901年7月15日 |
出生地 | 福島県 |
没年月日 | 1982年6月28日(80歳没) |
出身校 | 明治大学中退 |
所属政党 | 日本共産党 |
配偶者 | 三井禮子 |
選挙区 | 埼玉1区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1949年1月 - 1952年8月 |
渡部 義通(わたなべ よしみち、1901年(明治34年)7月15日 - 1982年(昭和57年)6月28日[1])は、日本の政治家、日本共産党衆議院議員(1期)。歴史学者。
来歴・人物
[編集]福島県出身。1921年(大正10年)明治大学に入学し、七日会(早大建設者同盟に連絡する学生団体)を結成する[2]。明大中退後、1927年(昭和2年)、日本共産党に入党。翌年、三・一五事件で検挙され、これを契機に日本古代史研究をはじめた。1946年(昭和21年)、民主主義科学者協会幹事長に就任。唯物論的立場から「日本母系時代の研究」、「日本原始社会史」、「日本古代社会」、「古事記講話」などを著した。戦前に早川二郎らとの間で交わされた古代史論争は、主にアジア的生産様式論争及び奴隷制論争として展開されたが、特に奴隷制論争に関しては論争を主導した。
1949年(昭和24年)1月23日執行の第24回衆議院議員総選挙に埼玉県第1区から立候補し、30,311票を得て当選する[3]。同年から1951年(昭和26年)まで大塚久雄、平野義太郎と『社会構成史体系』の編集にあたる[4]。衆議院議員を1期務め、1952年(昭和27年)の第25回衆議院議員総選挙は不出馬。
1964年(昭和39年)、党内民主主義を要請して、日本共産党から除名された[5]。
家族
[編集]参考文献
[編集]- 渡部義通述・ヒアリンググループ編『思想と学問の自伝』河出書房新社、1974年
- 渡部義任『忘憂清楽 渡部義通追想集』1985年。
- 春成秀爾「「日本遠古之文化」と渡部義通 - 山内清男」『考古学者はどう生きたか:考古学と社会』学生社、2003年、91-120頁。ISBN 4311300514。
- 井上章一『日本に古代はあったのか』角川学芸出版、2008年。
- 大村裕「心に残る先学の人生記録 ―読書日記から― 第1回 渡部義通ほか『思想と学問の自伝』(河出書房新社 1974年)」『アルカ通信』第171号、考古学研究所(株)アルカ、2017年、1頁。(“心に残る先学の人生記録 ―読書日記から― 第1回 渡部義通ほか『思想と学問の自伝』(河出書房新社 1974年)”. 考古学研究所(株)アルカ. 2019年3月25日閲覧。)
- 明治大学百年史編纂委員会 『明治大学百年史』 第三巻 通史編Ⅰ、学校法人明治大学、1992年
脚注
[編集]- ^ 衆議院・参議院編『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』1990年、p.723
- ^ 『明治大学百年史』 第三巻 通史編Ⅰ、785-787頁
- ^ 『第24回衆議院議員総選挙一覧』衆議院、1949年、pp.200-205.
- ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、371頁。ISBN 4-00-022512-X。
- ^ 中央統制監査委員会「渡部義通等10名の処分について(1964.11.9)」『前衛』第230号、1965年、60-63頁。NAID 40002189397
- ^ 『戦後期左翼人士群像』増山太助、つげ書房新社、2000、p139、143
- ^ 大村裕 2017