コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

清瀬英次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
きよせ えいじろう
清瀬 英次郎
生年月日 (1902-12-14) 1902年12月14日
没年月日 1941年
出生地 日本の旗 日本 宮城県仙台市
職業 映画監督脚本家
ジャンル サイレント映画時代劇)、トーキー現代劇
活動期間 1923年 - 1941年
主な作品
隠密七生記
丸髷と文學
光われ等と共に
テンプレートを表示

清瀬 英次郎(きよせ えいじろう、1902年(明治35年)12月14日 - 1941年(昭和16年))は、日本の映画監督脚本家である[1][2][3]

来歴

[編集]

1902年(明治35年)12月14日宮城県仙台市立町(現在の同県同市青葉区立町)に生まれる[2]。本籍は山形県東置賜郡和田村(現在の同県同郡高畠町和田地区)にあった[2]。仙台市立立町尋常小学校(旧制尋常小学校、現在の仙台市立立町小学校)、宮城県立仙台第二中学校(旧制中学校、現在の宮城県仙台第二高等学校)を卒業、旧制専門学校青山学院英文科(現在の青山学院大学)に入学する[2]

同学在学中に当時、松竹蒲田撮影所脚本部に在籍していた伊藤大輔の指導を受けつつ、脚本執筆の手伝いをはじめる[2]。伊藤は、1923年(大正12年)には松竹キネマを退社し帝国キネマ演芸に移籍するが、清瀬は変わらず師事、池田義臣監督の『船頭小唄』(松竹蒲田、1923年)、若山治監督の『足跡』(帝国キネマ、1924年)、松本英一監督の『復讐鬼』(同左)は伊藤が脚本を書いたとされているが、実際には清瀬が書いたものだという[2][4]。1925年(大正14年)、青山学院を卒業と同時に伊藤の許を離れ、日活大将軍撮影所時代劇部の脚本部に入社する[2]辻吉郎監督の『逝く春は悲し』『炬火を翳して』等の脚本を書き、3か月で助監督部に異動、池田富保作品に就く[1][2]。1926年(大正15年)の後半には、伊藤も同撮影所に入社してきている[4]

1927年(昭和2年)には監督に昇進、谷崎十郎を主演に『紀雲乱舞』(のちの『紅雪乱舞』)を撮り始めるが、谷崎の降板で一旦製作を中断している[5]。仕切りなおして、『半九郎捕物帳 剣』で監督デビューとなり、同年5月6日に公開された[1][2]。同年10月1日に公開された池田富保の大作映画『建国史 尊王攘夷』では、再度チーフ助監督を務め「監督補」とクレジットされた[1][2]。同作のセカンド助監督は渡辺邦男、サードは益田晴夫であった[2]。『紀雲乱舞』は、タイトルを『紅雪乱舞』、主演を葛木香一に改めて製作再開、1928年(昭和3年)3月25日に公開された[5]

当時、山中貞雄は清瀬の監督作『銀の蝙蝠』(1928年)を気に入り、1929年(昭和4年)夏、徴兵された折には清瀬の動向をつねに気にしており、「除隊の暁はきっと清瀬英次郎監督位になって見せる」と言っていたという[6]

1934年(昭和9年)には、開業したばかりの日活多摩川撮影所に異動、トーキーの現代劇を撮る[1][2]。1938年(昭和12年)7月13日に公開された『アパート交響曲』をもってしばし同撮影所を離れる。同年、著名な作家らがペン部隊を組織して大陸に向かうと、清瀬も海軍に従軍願いを申請[7]。同年、小説家の土師清二中村武羅夫甲賀三郎湊邦三野村愛正小山寛二、劇作家の長谷川伸関口次郎菊田一夫北条秀司、映画監督の衣笠貞之助、音楽家の中川栄三、写真家の小石清、童話作家の天野雉彦とともに「南支従軍」に参加した[8]。帰国後は撮影所に復帰、『花の舞曲』を監督して1939年(昭和14年)5月11日に公開された[1]。同年8月3日に公開された『光われ等と共に』は、傷痍軍人をテーマにしたもので、発表当時、『キネマ旬報』誌上で激賞された[1][2]

1941年(昭和16年)1月30日、石川達三の小説を原作に千葉泰樹が脚本を書き、清瀬が監督した『母系家族』が公開されたが、この作品を最後に、正確な時期・原因は不明であるが、清瀬は死去した[2]。満38歳没。

人物・エピソード

[編集]

京都の映画界では嵐山が好んでロケ地に選ばれたが、ことに渡月橋は幕末物が流行した時代には、三条大橋に見立てて通行を遮断して撮影が行われることが多々あった。しかし日曜・祭日ともなると、この界隈は交通整理の巡査が出るほど人出も多く、たいていの監督はこうした日の嵐山ロケは組まなかったが、清瀬だけは、日曜祭日に限って嵐山のロケをすることで有名だった。

清瀬は池田富保の門下で、新人ながら佳作を生んで期待された監督で、稲垣浩によると、「ことばつきは秋田弁だが、なかなかのダンディーで、流行の背広服にベルベットの帽子をかぶって高い俯瞰台のうえから気合のこもった声をかけ、『もう一回、もう一回』の連続であったから、見物人はみるみるうちに黒山となった。進行係は人よけに大童、俳優たちも監督に怒鳴られながら演技をするから、見物も思わぬ土産話ができるとばかり、喜んで見入っていた」という。

この時代は週刊誌もテレビもラジオもなく、人通りの多い中での撮影は大いに宣伝となり、撮影現場を見たたいていの人たちはその映画を観に行ったという。清瀬監督の嵐山ロケはそうした狙いがあったかどうかは分からないが、各撮影所では「どえらい監督が出てきおった」と評判だったという[9]

清瀬の死は突然であり、岸松雄によると当時、「長い間清瀬と交際関係のあった日活京都撮影所の女優・鈴木京子[10][11]が、その後を追って亡くなった」とする噂があったという[2]

作品の現状

[編集]

2012年(平成24年)11月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターは、清瀬の脚本作・監督作のうち、『日活行進曲 曽我兄弟』(1929年)、『貝殻一平 第一篇』(1930年)、『赤垣源蔵と堀部安兵衛』(1933年)、『海の護り』(1939年)の4作の上映用プリントを所蔵している[3][12]大阪芸術大学は数分の短縮版『木曽路の鴉』(1932年)の上映用プリントを復元・所蔵しており、1997年(平成9年)に第10回東京国際映画祭で上映された[13][14]。日活は、清瀬の遺作『母系家族』の上映用プリントを所有しており、2003年(平成15年)8月6日、ラピュタ阿佐ヶ谷で上映されている[15]マツダ映画社、あるいはデジタル・ミームの所蔵作品リストには清瀬の作品は存在しない[16][17]

フィルモグラフィ

[編集]

特筆以外はすべて「監督のみ」である[1]

1920年代

[編集]

1930年代

[編集]

1940年代

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h 清瀬英次郎日本映画データベース、2012年11月9日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s キネマ旬報[1976]、p.144-145.
  3. ^ a b 清瀬英次郎東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月9日閲覧。
  4. ^ a b 伊藤大輔 - 日本映画データベース、2012年11月9日閲覧。
  5. ^ a b 紅雪乱舞日活、2012年11月9日閲覧。
  6. ^ 加藤、p.106.
  7. ^ 作家、映画監督ら十五人が海軍に従軍『東京朝日新聞』(昭和13年10月5日)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p663 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  8. ^ 神谷忠孝南方徴用作家」『北海道大学人文科学論集』第20号、北海道大学教養部人文科学論集編集委員会、1984年、5-31頁、ISSN 03856038NAID 120000947090 
  9. ^ 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社)
  10. ^ 鈴木京子 - 日本映画データベース、2012年11月9日閲覧。
  11. ^ 鈴木京子、日本映画情報システム、文化庁、2012年11月9日閲覧。
  12. ^ 日本映画の発見I:無声映画時代、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月9日閲覧。
  13. ^ 玩具映画プロジェクト大阪芸術大学、2012年11月9日閲覧。
  14. ^ 第10回東京国際映画祭東京国際映画祭、2012年11月9日閲覧。
  15. ^ 戦後復活し開花した日活映画ラピュタ阿佐ヶ谷、2012年11月9日閲覧。
  16. ^ 主な所蔵リストマツダ映画社、2012年11月9日閲覧。
  17. ^ フィルムリストデジタル・ミーム、2012年11月9日閲覧。
  18. ^ 逝く春は悲し、日活、2012年11月9日閲覧。
  19. ^ 孔雀姫、日活、2012年11月9日閲覧。
  20. ^ 隠密七生記 完結篇、日活、2012年11月9日閲覧。
  21. ^ 男才兵衛一生旅、日活、2012年11月9日閲覧。

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]