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池田義信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
池田義臣から転送)
いけだ よしのぶ
池田 義信
池田 義信
本名 池田 義臣 (いけだ よしおみ)
別名義 池田 義臣 (いけだ ぎしん)
生年月日 (1892-03-10) 1892年3月10日
没年月日 (1973-09-01) 1973年9月1日(81歳没)
出生地 日本の旗 日本 長野県長野市
職業 映画監督脚本家
ジャンル サイレント映画
活動期間 1921年 - 1936年
配偶者 栗島すみ子
著名な家族 池田義一 (長男)
主な作品
生さぬ仲
船頭小唄
いろはにほへど
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池田 義信(いけだ よしのぶ、1892年3月10日 - 1973年9月1日)は、日本の映画監督脚本家である[1][2]。本名・旧名池田 義臣(いけだ よしおみ、いけだ ぎしん)[1]映画製作者連合会事務局長、映画倫理規程管理委員会(旧映倫)副委員長を歴任[2]

人物・来歴

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1892年(明治25年)3月10日長野県上水内郡三輪村(現長野市)に生まれる[2]

長野郵便局(現在の長野中央郵便局)勤務を経て、1920年(大正9年)、松竹蒲田撮影所に入社、新派系の演出家賀古残夢野村芳亭に師事する[1][2]。翌1921年(大正10年)には、田中欽之が監督した『親なき娘』の脚本を書く[1]。同年10月21日に公開された、柳川春葉原作、伊藤大輔脚本、栗島すみ子主演の映画『生さぬ仲』で監督に昇進している[1][2]

1923年(大正12年)、女優の栗島すみ子と結婚する[3]。同年9月1日に起きた関東大震災で松竹蒲田撮影所は稼動不能になり、松竹下加茂撮影所に移転する[1]。翌1924年(大正13年)2月には、すでに蒲田が復興し、池田は『スヰート・ホーム』を発表している[1]

1932年(昭和7年)8月19日に公開された、栗島すみ子主演の『情人』で、初めてトーキーを手がけるが、以降もサイレント映画、劇伴の入ったサイレント映画であるサウンド版も手がけている[1]。1936年(昭和11年)、新しく建設された松竹大船撮影所に移り、トーキー『結婚の条件』を撮り、同年12月19日に公開された田中絹代主演のトーキー『わが母の書』を最後に、映画監督を引退した[1]。1937年(昭和12年)、妻の栗島すみ子もまた引退している[3]

1945年(昭和20年)12月1日に発足した「映画製作者連合会」(のちの日本映画連合会、現在の日本映画製作者連盟)の初代事務局長に就任する。1951年(昭和26年)、「映画倫理規程管理委員会」(旧映倫)の副委員長を兼任した。

1973年(昭和48年)9月1日、死去した[2]。満81歳没。妻の栗島が死去したのは1987年(昭和62年)8月16日であった[3]。長男は日本テレビ放送網ディレクターの池田義一

2012年(平成24年)6月現在、池田の監督作のうち、現存し、東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵される上映用プリントは、『不如婦』(『ほとヽぎす』、1922年)、および『小唄集 第二篇 ストトン』(『ストトン節』、1924年)の2作のみである[4]

フィルモグラフィ

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特筆以外は「監督」のみである[1]トーキー、あるいはサウンド版と特筆されていないものはすべてサイレント映画である[1]。特筆以外はすべて松竹蒲田撮影所作品である[1]

1921年
1922年
1923年
1924年
1925年
1926年
1927年
1928年
1929年
1930年
1931年
1932年
1933年
1934年
1935年
1936年

ビブリオグラフィ

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  • 『映画倫理規程についての座談会』、長江道太郎小林勝らとの座談会、『映画評論』第6巻10号所収、新映画、1949年10月
  • 『アメリカにおける映画倫理規程の管理』、『映画評論』第8巻1号所収、新映画、1951年1月
  • 『アメリカ土産 - 脚本を大切にしたい』、『シナリオ』第7巻2号所収、シナリオ作家協会、1951年1月
  • 『四つの島から飛び出せ』、曾我正史川喜多長政との鼎談、『キネマ旬報』第10号所収、キネマ旬報社、1951年3月
  • 『映画宣伝倫理について』、『新聞と広告』第6巻4号所収、日本電報通信社、1951年4月
  • 『映画PRの種々相』、『パブリックリレーションズ』第2巻9号所収、日本証券投資協会、1951年9月
  • 『佃君を憶う - 佃血秋氏追悼』、『シナリオ』第5巻7号所収、シナリオ作家協会、1951年9月 - 佃血秋の追悼文
  • 『産業体制の確立と輸出振興 - 映画産業白書によせて』、『映画新報』第21号所収、映画新報社、1951年10月1日
  • 『映画倫理規程の意義』、『映写技術リポート』第7号所収、日本映画機械工業会出版部、1951年11月
  • 『映画倫理規定と大衆 - わたしの社会教育』、『社会教育』第7巻5号所収、全日本社会教育連合会、1952年5月
  • 『映画界占領政策を省りみて』、『キネマ旬報』第41号所収、キネマ旬報社、1952年7月
  • 『東南アジア映画界の展望』、『キネマ旬報』第83号所収、キネマ旬報社、1954年
  • 『映倫は何をしているか - 映画の倫理』、『視聴覚教育』第10巻9号所収、日本視聴覚教育協会、1956年7月
  • 『映画の波紋をめぐり』、『社会教育』第11巻9号所収、全日本社会教育連合会、1956年9月
  • 『教育と映画』、『学校経営』第2巻8号所収、第一法規、1957年8月
  • 『映画産業躍進の実態 - 戦後日本映画産業の足跡をかえりみて』、『シナリオ』第15巻9号所収、シナリオ作家協会、1959年9月
  • 『新映倫規定とそのいきさつ - 映画のおよぼす影響と世論』、『社会教育』第14巻12号所収、全日本社会教育連合会、1959年12月

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 池田義信日本映画データベース、2012年6月18日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 池田義信、デジタル版 日本人名大辞典+Plus, コトバンク、2012年6月18日閲覧。
  3. ^ a b c デジタル版 日本人名大辞典+Plus『栗島すみ子』 - コトバンク、2012年6月18日閲覧。
  4. ^ a b c 池田義信東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年6月18日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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