法蔵寺 (岡崎市)
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法蔵寺 | |
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本堂 | |
所在地 | 愛知県岡崎市本宿町寺山1 |
位置 | 北緯34度53分19.51秒 東経137度15分41.92秒 / 北緯34.8887528度 東経137.2616444度座標: 北緯34度53分19.51秒 東経137度15分41.92秒 / 北緯34.8887528度 東経137.2616444度 |
山号 | 二村山 |
宗派 | 浄土宗西山深草派 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 伝・大宝元年(701年) |
開基 | 伝・行基 |
正式名 | 大神光二村山法蔵寺 |
札所等 |
三河十二本寺 三河三十三観音12番 三河新四国八十八ヶ所霊場35番 三河七福神(恵比寿) |
文化財 | 銅鐸(県文化財)ほか |
法人番号 | 8180305000298 |
法蔵寺(ほうぞうじ)は、愛知県岡崎市本宿町にある浄土宗西山深草派の寺院。山号は二村山(にそんざん)。本尊は阿弥陀如来。所在地は、愛知県岡崎市本宿町寺山1。
歴史
[編集]かつては、二村山出生寺と称し、法相宗の古刹であった。飛鳥時代、行基は観音菩薩像を安置し出生寺を創建した。平安時代、空海の来訪により真言宗となる。南北朝時代、竜芸上人により浄土宗に改宗し、二村山法蔵寺と改称した。その後、徳川家の始祖・松平親氏が伽藍を建立して、松平家の菩提寺とした。徳川家康(幼名・竹千代)が、時の住持・教翁上人に就いて、読書きを習ったという(硯箱・硯石・手本・机などが残っている[1])。江戸時代、深草派三河三檀林のひとつとなる[2]。
年表
[編集]- 寺伝によれば大宝元年(701年) 行基によって法相宗の二村山出生寺として創建されたとされる。
- 至徳2年(1385年) 教空龍芸により浄土宗の法蔵寺に改められた。
- 嘉吉元年(1441年) 松平親氏により伽藍建立。
- 天文16年(1547年) 徳川家康が伯父である住職の教翁に師事。
- 永禄3年(1560年) 家康より守護不入の特権が与えられた。
- 寛永19年(1642年) 徳川家光より朱印地82石を授かる。
- 文政9年(1826年) シーボルトが参拝。
- 明治元年(1868年) 住職の孫空義天が近藤勇の首を祀る。
境内
[編集]文化財
[編集]愛知県指定有形文化財
[編集]岡崎市指定文化財
[編集]- 絹本著色善導大師像[5]
- 絹本著色山越阿弥陀如来像[5]
- 絹本著色二十五菩薩来迎図[5]
- 絹本著色渡唐天神像[5]
- 木造聖観音菩薩立像[5]
- 利剣名号御下帷子[5](徳川家康が三方ヶ原の戦いで着用)
- 破魔弓[5](徳川家康愛用の弓)
- 青磁花瓶[5]
- 梵鐘[5]
- 松平蔵人佐元康制札[5]
岡崎市指定天然記念物
[編集]その他
[編集]- 松平家霊廟
- 夏目吉信墓
- 鳥居忠広(鳥井四郎左エ門)墓
- 鈴木久三郎墓
- 伝近藤勇の首塚 - 三条大橋に晒されていた首を斎藤一が奪取し、三条大橋側の誓願寺にいた孫空義天に供養を依頼し、義天の異動に伴って当寺に埋葬されたとされる。当初は世間の目もあったので、石碑は土で埋められ、無縁仏の様にしていた。
- 御草紙掛けの松 - 現在の松は2006年(平成18年)3月18日に植えられた4代目である。しかしながら、周囲の石柵は文化12年(1815年)に寄進された物である。
札所
[編集]- 三河新四国八十八ヶ所霊場第35番
- 三河三十三観音第12番
ギャラリー
[編集]交通手段
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 黒田芳嗣「六角堂:六道輪廻から放たれ浄土に向かう」『そう:東三河&西遠・西三河・南信応援誌』第53号、春夏秋冬叢書、2017年、40-43頁。
外部リンク
[編集]- 三河三十三観音札所>法蔵寺 - ウェイバックマシン(2001年9月11日アーカイブ分)