毛利喬
毛利 喬(もうり たかし、明治21年(1888年) 10月11日 - 昭和32年(1957年) 1月2日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。歩兵第137連隊長時代の部下からは、寡黙沈着、包容力があり、部下に対しても慈愛心があり、戦場における名統率者であったと称賛された。
生誕 |
1888年10月11日 和歌山県 |
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死没 | 1957年1月2日 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1910年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
勲章 | 勲二等瑞宝賞 |
経歴
[編集]父は紀州徳川藩家臣 毛利太郎左衛門家 毛利貞次郎。妻は彦根藩主 井伊家の家臣 三宅庄左衛門家 三宅太郎三女 末(スエ)。
- 1901年(明治41年)5月31日 陸軍幼年学校卒業。同日仕官候補生として第4師団歩兵第37連隊入隊。12月1日 陸軍士官学校入学
- 1910年(明治43年)5月28日 陸軍士官学校第22期卒業
- 1910年(明治43年)12月26日 陸軍歩兵少尉 第4師団歩兵第37連隊附
- 1913年(大正2年)12月9日 陸軍歩兵中尉
- 1920年(大正9年)4月9日 陸軍歩兵大尉
- 1920年(大正9年)5月26日 第4師団歩兵第37連隊中隊長
- 1921年(大正10年)4月20日 第4師団歩兵第37連隊大隊副官
- 1922年(大正11年)8月15日 堺連隊区司令部部員
- 1923年(大正12年)4月23日 堺連隊区副官
- 1924年(大正13年)3月15日 第4師団司令部附
- 1927年(昭和2年)5月24日 陸軍歩兵少佐 第3師団歩兵第18連隊附
- 1928年(昭和3年)1月14日 豊橋連隊区司令部員
- 1930年(昭和5年)8月1日 第3師団歩兵第18連隊大隊長
- 1932年(昭和7年)8月8日 陸軍歩兵中佐 第3師団歩兵第6連隊附
- 1932年(昭和7年)9月3日 第3師団軍法会議判士
- 1934年(昭和9年)4月1日 第3師団歩兵第6連隊附
- 1934年(昭和9年)12月13日 第3師団副官
- 1936年(昭和11年)8月1日 陸軍歩兵大佐 第3師団司令部附
- 1937年(昭和12年)11月1日 富山連隊区司令官
- 1939年(昭和14年)1月31日 第104師団歩兵第137連隊長
- 1939年(昭和14年)10月2日 陸軍少将 第7師団歩兵第14旅団長(歩兵第14旅団は歩兵第27連隊、歩兵第28連隊の2個歩兵連隊を管轄)
- 1940年(昭和15年) 10月17日 第7師団第7歩兵団長(第7歩兵団は歩兵第26連隊、歩兵第27連隊、歩兵第28連隊の3個歩兵連隊を管轄)
- 1941年(昭和16年) 3月1日 第7師団司令部附
- 1941年(昭和16年) 8月1日 第7師団兵務部長
- 1942年(昭和17年) 8月1日 南方軍総司令部附
- 1942年(昭和17年) 9月5日 第16独立守備隊編成
- 1942年(昭和17年) 9月10日 第25軍 第16独立守備隊長
- 1943年(昭和18年) 10月1日 第46師団兵務部長
- 1943年(昭和18年) 10月29日 留守第6師団兵務部長
- 1944年(昭和19年) 6月5日 第6師団軍法会議判士
- 1945年(昭和20年) 4月1日 熊本師管区兵務部長
- 1945年(昭和20年) 4月30日 侍命被仰附
- 1945年(昭和20年) 5月1日 予備役被仰附
1939年(昭和14年)夏、毛利部隊(第104師団歩兵第137連隊)が広東省潮州に入城した際、『韓山は韓退之(韓愈)の遺跡だから破壊するな』と、韓江対岸の韓山麓から抵抗する中国軍に対し、戦闘の不利を忍んで砲撃を禁じた事により、『白鸚鵡賦』と記された韓愈の筆による碑は守られた。
1939年(昭和14年)10月20日、毛利喬、竹原三郎両少将 門司港に帰還。翌21日 下関港を出発、22日 釜山港上陸。25日 第二次ノモンハン事件後の国境防衛隊として第7師団はハンダガイ地区に屯営。
1940年(昭和50年)1月9日、ハンダガイ地区国境防衛を歩兵第13旅団と交代し、歩兵第14旅団はチチハルに駐留。9月24日 内地帰還の為ハンダガイを出発、10月7日 小樽港上陸、10月9日 第7師団 旭川に帰還。10月17日 第7歩兵団司令部編成完結、歩兵第14旅団は第7歩兵団となる。同日 第7歩兵団長。
1941年(昭和16年)3月1日 第7師団司令部附。8月1日 兵務部長。
1942年(昭和17年)8月1日 南方軍総司令部附。8月3日 旭川を出発、同日台北着。8月12日 台北を出発、同日西貢着。8月14日 西貢を出発、同日 昭南島着。9月5日 第16独立守備隊編成下令、9月10日 第25軍第16独立守備隊長。10月2日 昭南島を出発、同日東南アジア有数の大油田があるパレンバン(スマトラ島)着。10月14日 パレンバンを出発、同日ラハト着。10月31日編成完了、翌年1943年(昭和18年)4月30日にかけて南部スマトラ島警備。5月1日から10月にかけて南部スマトラ島防衛。10月1日 第46師団 兵務部長。10月21日 パレンバンを出発し、10月27日熊本に帰還。
1943年(昭和18年)10月29日 留守第6師団 兵務部長。
終戦の3カ月前に現役軍人を退き、1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。
1957年(昭和32年)に68歳で生涯を終える。
栄典
[編集]位階
- 1911年(明治44年)3月10日 - 正八位[2]
- 1914年(大正3年)2月10日 - 従七位[3]
- 1919年(大正8年)3月20日 - 正七位[4]
- 1924年(大正13年)5月15日 - 従六位[5]
- 1929年(昭和4年)7月1日 - 正六位
- 1934年(昭和9年)7月16日 - 従五位
- 1939年(昭和14年)8月1日 - 正五位
- 1944年(昭和19年)8月15日 - 従四位
- 1945年(昭和20年) 5月18日 - 正四位
勲章
- 1926年 (大正15年) 7月26日 - 勲六等瑞宝賞
- 1930年 (昭和5年) 7月8日 - 勲五等瑞宝賞
- 1935年 (昭和10年) 8月12日 - 勲四等瑞宝賞
- 1936年 (昭和11年) 7月10日 - 勲三等旭日中綬章
- 1940年 (昭和15年) 4月29日 - 勲二等瑞宝賞
出典
[編集]外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12120941200、第101号 昭和20年5月1日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120941200
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12120941300、第102号 昭和20年5月3日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120941300
「陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正9年9月1日調」
「陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正12年9月1日調」
「陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正15年9月1日調」
「陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和2年9月1日調」
「陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和4年9月1日調」
「陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和6年9月1日調」
「陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和7年9月1日調」
「陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和9年9月1日調」
「陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和10年9月1日調」
「陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和11年9月1日調」
「偕行 (176);2月号 韓愈の碑と毛利部隊」 https://dl.ndl.go.jp/pid/11435287/1/5
大上治明『ハイビスカスの詩:戦記 上巻』(サクラ経営研究所、昭和54年) https://dl.ndl.go.jp/pid/12284352/1/169