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毛利太郎左衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

毛利太郎左衛門 (生年不明 - 1654)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての奉行。

徳川家康徳川頼宣家臣。紀伊毛利家始祖、志摩守

来歴

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慶長七年(1602年) 7月11日、石見銀山が最も銀を産出していた時期に、徳川家康に石見銀山での職務で召し抱えられる。[1]

その後、年月日は不明だが常陸国行きを仰せ付かった後、元和元年(1615年) 徳川頼宜の家臣となる。[1][2]

元和五年(1619年) 徳川頼宜が紀州入国の際お供し、御腰物奉行御祐筆衆として紀州徳川藩家臣となる。[1][3][4]

元和八年(1623年) 隠居し、子の毛利太郎右衛門が家督を相続。[1]

承応三年(1654年) 5月13日 病死。[1]

子孫

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紀州徳川藩家臣

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  • 毛利太郎右衛門(子、太郎右衛門淸里、天和二年(1682年) 病死)
  • 毛利千五郎(孫)[5]
  • 毛利四郎左衛門
  • 毛利嘉一郎 (右膳淸栄、文化七年(1810年) 西濱御殿勤番、天保四年(1833年)4月病死) [6]
  • 毛利信楠淸宜(嘉一郎の子)
  • 毛利貞二郎(毛利喬の父)

大日本帝国陸軍

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脚注

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  1. ^ a b c d e 南紀徳川史 第6冊 南紀徳川史巻之五十六 名臣傳第十七 四〇二ページ
  2. ^ 南紀徳川史 第9冊 南紀徳川史巻之八十一 禄制第一 元和五年御切米帳簿  三一三ページ
  3. ^ 南紀徳川史 第8冊 南紀徳川史巻之七十 職制第一 職籍一  四四ページ
  4. ^ 御入国之節姓名記 従駿河 御入國之節姓名記之 19ページ
  5. ^ 南紀徳川史 第9冊 南紀徳川史巻之八十三 禄制第三 元和御切米帳終身録下 元和八戌より  四二一ページ
  6. ^ 南紀徳川史 第8冊 南紀徳川史巻之七十二 職制第三 職籍三 文化七年 御家中官禄人名帳 二二二ページ