歩兵第32連隊
歩兵第32連隊 | |
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創設 | 1896年(明治29年) |
廃止 | 1945年(昭和20年) |
所属政体 | 日本 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
部隊編制単位 | 連隊 |
兵科 | 歩兵 |
所在地 | 秋田市 → 山形市 |
通称号/略称 | 山3475 |
愛称 |
霞城連隊 霞城部隊 |
上級単位 | 第8師団 → 第2師団 → 第8師団 → 第24師団 |
最終位置 | 沖縄県 |
戦歴 | 日露戦争 - シベリア出兵 - 満州事変 - 日中戦争 - 太平洋戦争 |
歩兵第32連隊(ほへいだいさんじゅうにれんたい、歩兵第三十二聯隊)は、大日本帝国陸軍の歩兵連隊の一つ。
沿革
[編集]1896年(明治29年)4月に編成を終え、秋田市に連隊本部を設置。1897年(明治30年)に第8師団隷下に入り、1898年(明治31年)3月24日に軍旗を拝受した。
1904年(明治37年)に始まった日露戦争に参加。戦後、秋田市から山形城(雅名は霞城)へ転営する。
1918年(大正7年)にシベリア出兵へ動員され、1922年(大正11年)に帰還した。
1925年(大正14年)5月1日、宇垣軍縮により改編され、所属替えしていた第2師団から第8師団へ戻された。
1931年(昭和6年)9月に満州事変が勃発し、1個大隊程度を派遣。 1937年(昭和12年)10月6日、満洲国駐剳となった。
1939年(昭和14年)10月、第8師団から、満洲で新設された第24師団に所属変更[1][2]。同時に、本連隊の徴募区が山形県から北海道に変更された[1]。
沖縄戦
[編集]太平洋戦争で劣勢に転じた日本軍は、米軍を迎え撃つため満洲から引き抜いた兵力を南方に転用した。歩兵第32連隊からは1944年(昭和19年)3月、1個大隊がサイパン島に派遣された。同年7月8日、連隊主力に出動命令が下り、8月1日には沖縄行きを知らされた。
翌1945年(昭和20年)、沖縄戦で日本軍が米軍に敗れ、第32軍司令官の牛島満中将が6月23日に戦死し[3][注釈 1]、第24師団長の雨宮巽中将も6月30日に戦死した[4][注釈 1]。歩兵第32連隊の上級司令部が不在となった[5]が、連隊長である北郷格郎大佐の下、数百名の残存将兵が国吉台(現在の糸満市)の洞窟陣地を堅持し、指揮系統を保って遊撃戦を展開。米軍を悩ませ続けて、8月15日の日本の降伏宣言を迎えた[5]。
8月18日、米軍機から投下されたビラに、日本のポツダム宣言受諾について記されていた[6]が、歩兵第32連隊は米軍の謀略と疑っていた[5]。8月22日、歩兵第32連隊第1大隊長の伊東孝一大尉が米軍の軍使と接触し、連隊本部の北郷連隊長に報告した[6]。8月24日、現地の米軍司令部に伊東大尉が軍使として赴き、録音された「8月15日の玉音放送」、日本本土からのニュース音声などを聞き、さらに、既に米軍に投降していた八原博通大佐(第32軍参謀[7])と会い、「米軍の謀略ではなく、真実である」と確認した[6]。8月25日、伊東大尉は北郷連隊長に確認結果を報告し、伊東大尉が武装解除の交渉を一任された[6]。
翌26日、伊東大尉は再び米軍司令部に赴き、「武装解除は8月29日」「27日から29日まで、連隊陣地周辺の約2平方キロメートルの地域での昼夜を問わず自由行動を認める」「自由行動地域の周りに米軍が歩哨を配置して、自由行動地域内への米兵の侵入を防ぐ」の3条件で合意した[6]。歩兵第32連隊は8月28日に軍旗を奉焼し、翌29日に武装解除した[6]。この時点での残存将兵は約300名であった(配属部隊を含む)[6]。
歴代連隊長
[編集]数字は西暦の年月日。
代 | 氏名 | 在任期間 | 備考 |
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1 | 岩元貞英 | 1896.9.25 - 1899.2.7 | 中佐 |
2 | 安村範雄 | 1899.2.7 - 1902.9.30 | 中佐、1900.10.大佐 |
3 | 森川武 | 1902.9.30 - | 中佐、1905.3.大佐 |
4 | 高山公通 | 1905.3.12 - | 少佐(心得) |
5 | 山本延身 | 1905.6.17 - | |
6 | 森川武 | 1906.3.28 - | |
7 | 岡沢慶三郎 | 1908.12.21 - 1912.12.10 | 中佐、大佐昇進 |
8 | 柴豊彦 | 1912.12.10 - 1916.8.18 | |
9 | 大川盛行 | 1916.8.18 - | |
10 | 山田留太郎 | 1920.8.10 - 1922.8.15[8] | |
11 | 宮地太郎 | 1922.8.15 - 1924.12.15[9] | |
12 | 倉茂三蔵 | 1924.12.15 - | |
13 | 堀之内直 | 1927.3.5 - | |
14 | 佐藤正三郎 | 1930.8.1 - | |
15 | 田中清一 | 1932.10.27 - | |
16 | 阿部規秀 | 1935.8.1[10] - | |
17 | 山本源右衛門 | 1937.8.2 - | |
18 | 野地嘉平 | 1938.7.15 - | |
19 | 川村脩 | 1941.2.10 - | |
20 | 泉可畏翁 | 1942.4.1 - | |
末 | 北郷格郎 | 1944.3.1 - |
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 笹 2015, 位置No. 262-343, 第一章 若き戦術家-ノモンハン事件の教訓
- ^ 秦 2005, pp. 384–394, 第2部 陸海軍主要職務の歴任者一覧-III 陸軍-10.部隊/歩兵連隊
- ^ 秦 2005, p. 27, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-牛島満
- ^ 秦 2005, p. 9, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-雨宮巽
- ^ a b c 田中 1976, pp. 282–289, 余録
- ^ a b c d e f g 防衛庁防衛研修所戦史部 1968, pp. 607–609, 第十三章 首里戦線の破綻と南部への撤退 - 九 終戦までの状況 - 歩兵第三十二聯隊の健闘
- ^ 秦 2005, p. 160, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-八原博通
- ^ 『官報』第3013号(大正11年8月16日
- ^ 『官報』第3696号(大正13年12月16日)
- ^ 『官報』第2575号(昭和10年8月2日)
参考文献
[編集]- 『日本陸軍連隊総覧 歩兵編(別冊歴史読本)』新人物往来社、1990年。
- 近藤侃一『最後の連隊』第二書房,1962年
- 笹幸恵『沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の戦い(Amazon Kindle版 Version1.0)』学研パブリッシング、2015年。
- 田中宏巳『帰らぬ空挺部隊 - 沖縄の空にかける墓標』原書房、1976年。
- 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 原 剛『明治期国土防衛史』錦正社、2002年。
- 秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2)東京大学出版会、2005年。
- 防衛庁防衛研修所戦史部『沖縄方面陸軍作戦』朝雲出版社〈戦史叢書〉、1968年。
関連項目
[編集]- 大日本帝国陸軍連隊一覧
- 金鍾碩:沖縄戦で第2大隊(志村大隊)小隊長。
- 外間守善:沖縄戦で在学中に現地招集、第2大隊配属。
- 丸谷才一:1945年から半年間招集されていた。
- 石原莞爾
- 山形の塔
- 福島泰蔵:同連隊第10中隊長として従軍し黒溝台会戦で戦死。日露開戦以前に弘前歩兵第31連隊第1大隊第2中隊長として八甲田山雪中行軍を成功させた人物として知られている。
外部リンク
[編集]- “沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場~山形県・歩兵第32連隊~”. NHK 戦争証言アーカイブス. 日本放送協会 (2008年4月30日). 2016年9月7日閲覧。