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佐藤正三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

佐藤 正三郎(さとう しょうざぶろう、1886年明治19年)10月24日[1][2] - 1978年昭和53年)4月9日[1][注 1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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徳島県出身[1][2][3]。佐藤辰三郎の三男として生まれる[1]。1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業[1][2][4]。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第43連隊付となる[1][4]歩兵第62連隊付、陸軍戸山学校教官などを経て、1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)を卒業した[1][2][3]

1917年(大正6年)8月、歩兵大尉に昇進し中支那派遣隊司令部付となる[1]参謀本部員(支那課)、陸軍省軍務局課員(軍事課)、歩兵第3連隊付(イギリス出張)、イギリス駐在を務め、1922年(大正11年)8月、歩兵少佐に進級[1]。軍務局課員(軍事課)、参謀本部付(李王付)[3]を務め、1926年(大正15年)8月、歩兵中佐に昇進[1]。1927年(昭和2年)5月から1928年(昭和3年)4月まで、李王に随行して欧州に出張した[1]。1929年(昭和4年)12月、近衛歩兵第2連隊付に転じ、1930年(昭和5年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵第32連隊長に就任[1][3]

1932年(昭和7年)10月、第3師団参謀長に転じ、1935年(昭和10年)8月、陸軍少将に進級し歩兵第1旅団長となる[1][2][3]二・二六事件により、1936年(昭和11年)3月に待命となり、同年7月、予備役に編入された[1][2][3]日中戦争勃発により、1937年(昭和12年)9月に召集され歩兵第101旅団長に発令され出征した[1][2][3]第二次上海事変武漢作戦、南昌作戦、贛湘作戦などに参戦した[2]。1940年(昭和15年)2月、留守第1師団司令部付に転じ、同年8月、予備役陸軍中将に進むと同時に召集解除となった[1][2][3]

その後、北樺太石油常務を務めた[1]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『日本陸軍将官辞典』349頁では4月10日。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『日本陸海軍総合事典』第2版、71頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『日本陸軍将官辞典』349頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』244頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』238、244頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」138頁。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。