コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

桐ノ花光之助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
桐ノ花から転送)

桐ノ花 光之助(きりのはな みつのすけ、明治30年(1897年1月2日 - 平成5年(1993年8月24日[1])は、大正時代の大相撲力士春日山部屋立浪部屋所属。本名は冨永 惣治。最高位は西十両2枚目。

経歴

[編集]

千葉県天羽郡湊町(現・富津市)出身[2]高等小学校卒業後、14歳の時家出同然で上京[3]。畳屋で働いた後、春日山部屋へ入門し、緑嶌友之助の内弟子となる[3]。明治45年(1912年)5月場所「湊浪」の四股名で初土俵を踏む[4]。大正3年(1914年)1月、序ノ口に上がり、初めて番付に載った[4]。翌大正4年(1915年)5月に師匠緑嶌が引退し、立浪部屋として正式に独立したのに伴い移籍した。大正7年(1918年)1月、三段目で「桐ノ花」に改名[5]。大正9年(1920年)1月新十両。立浪部屋初の関取となった。十両に3場所連続いた後、大正10年(1921年)5月幕下に落ち、大正11年(1922年)5月東十両6枚目で復帰した。翌大正12年(1923年)1月には最高位となる西十両2枚目まで進んだ。この場所前に三河島事件が起こり、桐ノ花は十両力士代表として団体交渉に当たった。同年9月1日関東大震災により両国国技館が焼損、開催が不可能となった。そのため、協会は翌大正13年(1924年)1月場所を名古屋で開催すると発表。これに対して桐ノ花は猛反対、同場所を欠場し、帰京、東十両3枚目に名前を残したまま入幕目前で廃業。事実上の破門となった[6]

廃業後は東京で酒屋を開き、その後は郷里の上総湊で余生を過ごし、平成5年(1993年)に96歳で死去した。96歳235日は元力士の最長寿記録である。

妹は出羽海部屋の女中頭で、出羽ヶ嶽文治郎の妻であった。

成績

[編集]
  • 番付在位場所数:21場所
  • 十両在位:7場所
  • 十両成績:18勝18敗2分
  • 各段優勝:幕下優勝1回

場所別成績

[編集]
桐ノ花 光之助
春場所 夏場所
1912年
(明治45年)
(前相撲) (前相撲)
1913年
(大正2年)
(前相撲) (前相撲)
1914年
(大正3年)
東序ノ口20枚目
 
東序二段73枚目
 
1915年
(大正4年)
東序二段21枚目
 
西三段目63枚目
 
1916年
(大正5年)
東三段目32枚目
 
西三段目17枚目
 
1917年
(大正6年)
西三段目6枚目
 
東三段目28枚目
 
1918年
(大正7年)
東三段目9枚目
 
西幕下40枚目
 
1919年
(大正8年)
西幕下7枚目
3–2 
東幕下4枚目
4–1 
1920年
(大正9年)
東十両12枚目
4–1 
東十両5枚目
1–4 
1921年
(大正10年)
西十両12枚目
2–3 
西幕下8枚目
3–2 
1922年
(大正11年)
西幕下3枚目
優勝
5–0
東十両6枚目
3–1
1分
 
1923年
(大正12年)
西十両2枚目
5–4
1分
 
東十両3枚目
3–5 
1924年
(大正13年)
東十両3枚目
引退
0–0–0
x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)
  • 幕下以下の地位は小島貞二コレクションの番付実物画像による。

改名

[編集]

湊浪→桐ノ花(1918年1月場所-)

脚注

[編集]
  1. ^ 三宅充 「大相撲なんでも七傑事典」220頁(講談社+α文庫)
  2. ^ 『VANVAN相撲界』1988年11月号 79頁
  3. ^ a b 『VANVAN相撲界』1988年11月号 80頁
  4. ^ a b 『VANVAN相撲界』1988年11月号 81頁
  5. ^ 『VANVAN相撲界』1988年11月号 83頁
  6. ^ 『VANVAN相撲界』1988年11月号 85頁

参考文献

[編集]
  • 『VANVAN相撲界』1988年11月号 石井代蔵『豪傑伝』

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]