柳田 (秋田市)
柳田 | |
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北緯39度44分15.79秒 東経140度9分2.67秒 / 北緯39.7377194度 東経140.1507417度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 秋田県 |
市町村 | 秋田市 |
人口 | |
• 合計 | 2,062人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
010-0825 |
市外局番 | 018[2] |
ナンバープレート | 秋田 |
柳田(やなぎだ)は秋田県秋田市にある大字。郵便番号は010-0825。住居表示未実施地区。
地理
[編集]秋田市の東部に位置する。太平川中流域の主に右岸に広大な領域を持ち、南部の平野は農業地域、北部は丘陵地である。南端の字糠塚に秋田大学医学部が広面と跨って立地し[3]、周辺の字境田・字川崎に新興住宅街が形成されているが、その他は宅地化が進んでおらず、秋田県道28号秋田岩見船岡線の旧道(太平街道)に沿って古くからの集落が連なっている。東から北に向かって秋田自動車道が丘陵部を貫いており、字扇ノ沢に太平山パーキングエリアがある。
南は下北手松崎(字大沢田・字上崎)・広面(字谷内佐渡・字川崎・字糠塚・字蓮沼・字堤敷・字二階堤・字近藤沢)・手形山東町、西は手形(字大松沢)・新藤田(字治郎沢・字中山台)・添川(字地ノ内)、北は添川(字戸平川・字矢坂・字鶴木台)・山内(字増沢)、東は太平八田(字松沢・字猿田沢・字扇田・字荒巻・字香炉沢)に接する。
小字
[編集]16の小字が設置されている。
- 字家ノ沢(いえのさわ)
- 字碇(いかり)
- 字石神(いしがみ)
- 字泉山(いずみやま)
- 字扇ノ沢(おおぎのさわ)
- 字小友沢(おともざわ)
- 字川崎(かわさき)
- 字境田(さかいだ)
- 字佐渡端(さどばた)
- 字推子(すいこ)
- 字竹生(たけおい)
- 字鳥越(とりごえ)
- 字糠塚(ぬかづか)
- 字馬上田(ばじょうでん)
- 字古道(ふるみち)
- 字柳田(やなぎだ)
河川
[編集]歴史
[編集]1239年1月10日(嘉禎4年12月4日)の橘公員宛将軍家政所下文に「出羽国秋田郡内楊田」とあるのが初出資料である[4]。文治5年(1189年)の大河兼任の乱平定に対し恩賞として橘公業に与えられた所領の1つで、公業の11子である公員が父から譲り受けたことを示す[4]。
その後、室町時代後期から安東氏(秋田氏)の支配下に置かれたものと考えられている[4]。1592年9月27日(文禄元年8月22日)の「秋田家分限帳写」に「馬場広面(屋)村 994石余」とあり、これは本来馬場村と広面村が併立しているものの連記であって、うち馬場村が近世の柳田村の一部であると考えられている[5]。
江戸時代には久保田藩領であり、「正保国絵図」では本田当高275石、「享保黒印高帳」では村高576石余・当高564石余(うち本田324・本田並173・新田67)となっている[4]。「寛政村附帳」では親郷目長崎村の寄郷とされ、「秋田風土記」では511石余・61軒となっている[4]。
沿革
[編集]- 1873年(明治6年)3月 - 大区小区制の改正に伴い、秋田郡柳田村は秋田県第1大区6小区に属した[6]。
- 1884年(明治17年)頃 - 郡区町村編制法の下で、南秋田郡手形村・蛇野村・広面村・柳田村が連合。戸長役場は広面村に設置される[4]。
- 1887年(明治20年) - 組合4ヶ村の戸数は467戸、人口は2,659人[7]。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い広面村・楢山村・柳田村・蛇野村(一部を除く)が合併し、南秋田郡広山田村が発足。柳田を含む旧4ヶ村は広山田村の大字となる[7]。
- 広面村・柳田村・蛇野村は楢山村の除外を主張し、楢山村も単独立村を主張した[8]。しかし県が合併枠の変更を認めず、4村での合併となった。
- 1941年(昭和16年)4月1日 - 広山田村が秋田市へ編入されたことに伴い、秋田市の大字となる。
- 1970年(昭和45年)4月1日 - 秋田大学医学部が設置される。
- 1981年(昭和56年)4月1日 - 字鳥越の一部が分割され、広面(字近藤沢・字近藤山下・字二階堤)の各一部と合わせて手形山東町が新設される。
字域の変遷
[編集]以下は住居表示実施に伴う変更。
実施前 | 実施年月日 | 実施後 |
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柳田字家ノ沢 | (残存)柳田字家ノ沢 | |
柳田字碇 | (残存)柳田字碇 | |
柳田字石神 | (残存)柳田字石神 | |
柳田字泉山 | (残存)柳田字泉山 | |
柳田字扇ノ沢 | (残存)柳田字扇ノ沢 | |
柳田字小友沢 | (残存)柳田字小友沢 | |
柳田字川崎 | (残存)柳田字川崎 | |
柳田字境田 | (残存)柳田字境田 | |
柳田字佐渡端 | (残存)柳田字佐渡端 | |
柳田字推子 | (残存)柳田字推子 | |
柳田字竹生 | (残存)柳田字竹生 | |
柳田字鳥越 | 昭和56年4月1日 | 手形山東町(一部) てがたやまひがしまち |
(残存)柳田字鳥越 | ||
柳田字糠塚 | (残存)柳田字糠塚 | |
柳田字馬上田 | (残存)柳田字馬上田 | |
柳田字古道 | (残存)柳田字古道 | |
柳田字柳田 | (残存)柳田字柳田 |
世帯数と人口
[編集]2016年(平成28年)10月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
小字 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
柳田字碇 柳田字境田 |
273世帯 | 642人 |
柳田字石神 柳田字泉山 |
23世帯 | 162人 |
柳田字川崎 | 213世帯 | 594人 |
柳田字佐渡端 | 42世帯 | 124人 |
柳田字竹生 柳田字柳田 |
61世帯 | 266人 |
柳田字鳥越 | 47世帯 | 91人 |
柳田字糠塚 | 77世帯 | 118人 |
柳田字馬上田 | 21世帯 | 65人 |
計 | 757世帯 | 2,062人 |
交通
[編集]鉄道
[編集]地区内に鉄道は通っていない。最寄り駅は中通七丁目にあるJR東日本奥羽本線・羽越本線・秋田新幹線の秋田駅。
バス
[編集]- 秋田中央交通
- 《駅東線》 - 大学病院前 - 境田下丁 - 境田公園(上りのみ) - 境田上丁
- 《太平線》 - 柳田入口 - 柳田下丁 - 柳田中丁 - 柳田神社前 - 柳田上丁 - 石神 - 清和病院前 -
道路
[編集]- 秋田自動車道
- 秋田県道28号秋田岩見船岡線
- 太平街道(旧道)
- 秋田中央広域農道
- 東北自然歩道
施設
[編集]字家ノ沢
[編集]字碇
[編集]字石神
[編集]- 若宮八幡神社
- 御岳神社
- 医療法人清風会清和病院
字泉山
[編集]字扇ノ沢
[編集]- 秋田自動車道太平山パーキングエリア
- 秋田森林管理署秋田貯木場
字小友沢
[編集]字川崎
[編集]字境田
[編集]字佐渡端
[編集]字推子
[編集]字竹生
[編集]- 神上神明社
- デイサービスセンターふきのとう
- 秋田育明会竹生寮
- 秋田育明会柳田新生寮
字鳥越
[編集]- 老人保健施設悠久荘
字糠塚
[編集]字馬上田
[編集]- 柳田公民館
字古道
[編集]字柳田
[編集]参考文献
[編集]- 「角川日本地名大辞典 5 秋田県」1980年
- 「秋田市史 第四巻 近現代I 通史編」秋田市編、2004年
- 秋田市 地名小辞典
脚注
[編集]- ^ a b “秋田市年齢別・地区別人口(平成28年10月1日現在:平成27年国勢調査からの推計値)”. 秋田市 (2017年2月1日). 2017年7月7日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年5月29日閲覧。
- ^ 医学部は所在地を「本道一丁目1番1号」と称しているが、正式な地名ではない。医学部設立直後に薬理学教授の中井健五(後の医学部長)が考案した俗称で、論語の一節「君子は本を務む。本立ちて道生ず」、あるいは漢方医学で内科を意味する「本道」が由来だという。秋田魁新報電子版 秋田市裏ガイド2018(5)医学部創設の精神、今に 2018年4月19日閲覧。
- ^ a b c d e f 「角川日本地名大辞典 5 秋田県」p.661。
- ^ 「角川日本地名辞典 5 秋田県」p.547。
- ^ 「秋田市史 第四巻」p.18。
- ^ a b 「角川日本地名大辞典 5 秋田県」p.571。
- ^ 「秋田市史 第四巻」p.288。