立木兼善
立木 兼善(たちき かねよし、天保5年8月〈1834年〉 - 明治42年〈1909年〉12月24日)は、日本の政治家。旧姓杉浦、林。正四位。
経歴
[編集]淡路国津名郡谷村(現・兵庫県淡路市仮屋谷)の村医者の子・杉浦七郎として生まれる(のち林立玄 林徹之丞 立木徹之丞と改名)[1][2][3]。徳島藩士族。洲本にあった徳島(蜂須賀)藩筆頭家老稲田家の学問所益習館で学び、天誅組の変などに関わるなど勤王の志士として頭角を現す[1][4]。
明治2年(1869年)明治政府に出仕し、若松県知事、若松県権知事、福島県権知事となる[5]。明治3年(1870年)岩倉具視の内命により庚午事変調停のため、岩鼻県権知事小室彰と共に徳島に滞在するが、不調に終わり帰京する。明治4年(1871年)2月20日、中野騒動鎮圧後の中野県に権知事として赴任し、長野町に善光寺取締所を設置。県庁の長野移転を政府に上申し、同年6月22日、太政官布告を受け、7月25日に移転。同年長野県権令となる。明治6年(1873年)、筑前竹槍一揆鎮圧後の福岡県令に異動。明治8年(1875年)、四等判事に任じられ、東京上等裁判所に勤務し、翌年横浜裁判所長となり、農民騒動真土事件などを扱う[2]。西南戦争に従軍。明治12年(1879年)に免官し[6]、民権派の法律事務所「北洲社」を経営、真土事件で農民側を勝訴にしたことで農民らの信頼篤く、「吾国勇名ノ国士」と期待され農民側の代言人を務めた[7]。
明治18年(1885年)東京府御用掛を経て、兇徒聚衆事件のあった小笠原の出張所所長となり、明治19年(1886)に小笠原島庁の初代島司に就任[6]。島では、国外退去を拒否して移送されてきた金玉均の監視などを行なった[1]。のち元老院議官、貴族院議員を歴任し、退官後は、石上神宮や松尾神社の宮司を務めた[3]。
栄典
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 淡路が生んだ偉人 立木兼善と岡田鴨里淡路サンシャインホール、
- ^ a b 手塚豊「明治十八年・小笠原島兇徒聚衆事件裁判考」『法學研究 : 法律・政治・社会』第61巻第8号、慶應義塾大学法学研究会、1988年8月、1-43頁、ISSN 0389-0538、NAID 120005867319。
- ^ a b 立木兼善 徳島幕末維新期 人名事典、徳島県立文書館
- ^ 淡路の歴史的人物「岡田鴨里と立木兼善」を紹介 市役所でパネル展 産経ニュース、2016.6.10
- ^ 淡路島に残る中野県関係資料 大滝敦士(中野市立博物館)
- ^ a b レファレンス事例詳細 中央-2007-38/5386レファレンス協同データベース、国立国会図書館
- ^ 第二編 明治前期 第二章 自由民権運動 デジタル神奈川県史 通史編4 神奈川県立公文書館
- ^ 『官報』第2094号「叙任及辞令」1890年6月24日。
- ^ 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
参考文献
[編集]- 『長野県史 通史編7巻 近代1』
- 徳島幕末維新期人名事典 徳島県立文書館