李謙 (元)
李 謙(り けん、1232年 - 1310年)は、モンゴル帝国(大元ウルス)に仕えた漢人官僚の一人。字は受益。鄆州東阿県の出身。東平四傑の一人に数えられる。
概要
[編集]李謙の祖父李元は医者として著名な人物で、父の李唐もこれを助け、ともに仕官を望まなかったという。李謙は幼いころから学問に励み、長ずると徐世隆・孟祺・閻復らとともに東平四傑として知られるようになった。李謙は四傑の中でも主席であり、漢人世侯の厳実が支配する東平府の教授となった[1]。
その後、翰林学士の王磐が李謙の名声を聞いて召し出し、応奉翰林文字の地位を得てモンゴル帝国第5代皇帝クビライの朝廷に仕えるようになった。1278年(至元15年)にはクビライが上都に移るのに扈従し、この時銀壺・藤枕を下賜されている。1281年(至元18年)より直学士となり、皇太子チンキムに仕えるようになった。チンキムが父クビライに先立って早世すると、その息子テムルに仕えるようになり、侍読学士の地位に転じた。しかし、1289年(至元26年)には足の病を理由に職を辞した[2]。
1294年(至元31年)にクビライが亡くなりテムルが成宗オルジェイトゥ・カアンとして即位すると、李謙は上都に召し出された。成宗は李謙を労わった上で、病が癒えたら国政に参画するよう述べて学士としたが、やはり李謙の病は癒えず元貞年間中に家に戻った。1302年(大徳6年)には再び翰林承旨の地位を授けられたが、既に71歳であることを理由に職を辞すも、1305年(大徳9年)にも召し出されている。1308年(至大元年)、カイシャン(武宗クルク・カアン)が即位してその弟アユルバルワダが皇太子となると、太子少傅とされようとしたが、これも固辞している[3]。
1311年(至大4年)、アユルバルワダが即位すると再び召し出され、病を押して参上し、九事について上したという。集賢大学士・栄禄大夫の地位を授けられたがやはりこれを辞退し、銀150両、金織幣及帛各3匹を下賜されて家に戻った後、79歳にして死去した[4]。
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻160列伝47李謙伝,「李謙字受益、鄆之東阿人。祖元、以医著名。父唐佐、性恬退、不喜仕進。謙幼有成人風、始就学、日記数千言、為賦有声、与徐世隆・孟祺・閻復齊名、而謙為首。為東平府教授、生徒四集、累官万戸府経歴、復教授東平。先時、教授無俸、郡斂儒戸銀百両備束脩、謙辞曰『家幸非甚貧者、豈可聚貨以自殖乎』」
- ^ 『元史』巻160列伝47李謙伝,「翰林学士王磐以謙名聞、召為応奉翰林文字、一時制誥、多出其手。至元十五年、陞待制、扈駕至上都、賜以銀壺・藤枕。十八年、陞直学士、為太子左諭徳、侍裕宗於東宮。陳十事曰正心、曰睦親、曰崇儉、曰幾諫、曰戢兵、曰親賢、曰尚文、曰定律、曰正名、曰革弊。裕宗崩、世祖又命傅成宗於潜邸、所至以謙自隨。転侍読学士。世祖深加器重、嘗賜坐便殿、飲群臣酒、世祖曰『聞卿不飲、然能為朕強飲乎』。因賜蒲萄酒一鍾、曰『此極醉人、恐汝不勝』。即令三近侍扶掖使出。二十六年、以足疾辞帰」
- ^ 『元史』巻160列伝47李謙伝,「三十一年、成宗即位、駅召至上都。既見、労曰『朕知卿有疾、然京師去家不遠、且多良医、能愈疾。卿当与謀国政、餘不以労卿也』。陞学士。元貞初、引疾還家。大徳六年、召為翰林承旨、以年七十一、乞致仕。九年、又召。至大元年、給半俸。仁宗為皇太子、徵為太子少傅、謙皆力辞」
- ^ 『元史』巻160列伝47李謙伝,「仁宗即位、召十六人、謙居其首。乃力疾見帝于行在、疏言九事、其略曰『正心術以正百官、崇孝治以先天下、選賢能以居輔相之位、広視聴以通上下之情、恤貧乏以重邦家之本、課農桑以豊衣食之源、興学校以広人材之路、頒律令使民不犯、練士卒居安慮危。至於振肅紀綱・糾察内外、台憲之官尤当選素著清望・深明治體・不事苛細者為之』。帝嘉納焉。遷集賢大学士・栄禄大夫、致仕、加賜銀一百五十両、金織幣及帛各三匹。帰、卒于家、年七十九。謙文章醇厚有古風、不尚浮巧、学者宗之、号野齋先生。子偘、官至大名路総管」